
摂津一蔵城。別名山下城とも龍尾城とも言う。「細川両家記」等では一蔵城と記述されている。これは現在でいう一庫のことである。また「摂陽軍談」には塩川氏が甘露寺を破壊して山下城を築いたと記述されている。現在R173の知明湖入口第一トンネルの右側に見える松林山(通称城山)と言われている山がその跡であると言われている。典型的な戦国山城の特徴を持つ城で、その歴史は多田源氏の祖源満仲の女婿塩川刑部烝仲義が多田の新田城の控えの城として築城したのが始まりである。なお私見では在るが山下城というのは、一蔵城の在る城山の麓の城下を「山下」と呼んでいたのがいつのまにか逆に城の名前になったと考えられ妥当ではないと思われる。
塩川氏は代々伯耆守を称したがこの満義が始めのようである。また塩川氏の嫡統は太郎左衛門尉と名乗ったようでもある。塩川氏については良質な資料が少なく「多田雪霜談」「高代寺日記」等があるが、光秀の「明智軍記」以上に史実性に疑問が多くその記述をそのまま信じる事はできない。
鎌倉時代以降、塩川氏は多田院御家人筆頭として多田庄及び能勢郡一帯に勢力を持っていたようである。現在まで残されている諸資料にその名が散見される。
天文十年九月、中央の政局の縺れに巻き込まれた形で塩川伯耆守政年が一蔵城に篭城した。政年は細川高国の女婿であり、先年細川氏に反旗を翻した三好範長(長慶)、三好政長、丹波の波多野秀忠らが細川家と縁戚の塩川氏を攻めたためだ。政年は縁戚の伊丹親興、三宅国村らに助勢を頼んだ。この両者はさらに河内の有力者木沢長政に援軍を依頼した。木沢軍が来着し、塩川後詰軍が伊丹城に集結すると一蔵城を包囲していた三好連合軍は一戦もせずに包囲を解除した。
天文十八年には政局の混迷から三好長慶と袂を分かち細川晴元の後援を行っていた政長と晴元が共に塩川氏の一蔵城を頼ってきた。その在城は一月ほどの事だったようである。一蔵城を出た晴元と政長だったが、同年中に政長が戦死してしまい長慶が畿内で優位を保つようになる。
天文二十二年、三好長慶は丹波八上城に波多野氏を攻めていたが、その包囲陣から離脱し反旗を翻して芥川城に篭った芥川孫十郎の征伐を先にするため芥川城を囲んだ。反長慶派の塩川国満は芥川孫十郎を救援するために池田まで進出するが芥川城は陥落してしまう。以後長慶は芥川城を居城とするようになり、摂津国人衆は長慶の勢力下に置かれる事となった。
長慶没後は松永久秀や三好三人衆が畿内を制圧していたが将軍義輝の暗殺後、内部分裂を起こし集合離散を繰り返し勢力分布は目まぐるしく変化し、混迷の度合いを更に深めた。
永禄十一年、将軍候補足利義昭を擁した織田信長が上京し、京を勢力下に置いた後さらに進んで畿内の三好衆の諸城を落としていった。また将軍義栄が病死した事も在り畿内の諸氏は義昭を擁する信長に靡いていった。摂津もその例に漏れず伊丹城主伊丹親興はすかさず信長に好を通じ、摂津の三好方諸城を攻略した。信長はそれを賞し親興に兵庫頭を与え三万石を給した。塩川国満も信長上京時に早々に帰順し二万石の旧領を安堵された。その後伊丹親興、池田勝正、和田惟政をして摂津守護に摂津を任せ、摂津は三守護時代となる。国満は元亀元年には三好方の野田、福島砦の攻撃に参加している。その後三守護は没落し摂津は荒木村重の支配する所となり国満は村重の娘婿となった。そして村重の下、毛利の本願寺救援を阻止するため一蔵城を守る事となる。しかし天正五年、国満に従うべき多田御家人衆にも本願寺に通じる者があり国満はそれらと幾度か争った。また織田七兵衛(津田信澄)がその援軍として遣わされ川辺、能勢、有馬諸郡の寺社を焼いた。
天正六年には村重は秀吉と共に播磨に出陣したが国満(実際は長満か?以下同じ)は明智光秀に従い丹波攻略に参加している。同年十月、荒木村重が信長に反旗を翻した際、国満も始めは村重に従っていたものの高山、中山等の降伏を見て村重に利無しと見て信長に帰順した。同年十二月には既に有岡城包囲に加わり古池田に陣を布いた。のち加茂岸に陣を布き有岡包囲の北備えの一端を担った。
また有岡包囲の最中の天正七年三月、信長は塩川領多田にて鷹狩を行いその途次付近の農家に寄り、国満の名君ぶりを聞いたため後、森蘭丸と中西権兵衛尉を龍尾城に遣わし賞したという話が残っている。同年五月には再び光秀に従い丹波攻めに参加しており、また三木の別所攻めにも参加している。村重が有岡を脱出した直後の同年十月、国満は村重に代わり信長から能勢郡の石清水八幡宮の善法寺領の代官に命じられている。
一般にはナカナカ気づかれていないことであるが、塩川氏の娘は信忠の下に嫁いでいる。尤も塩川家の格(織田家に臣従した摂津国人で摂津守護荒木村重寄騎)からみて側室ではなかったかと思われる。信忠に他に妻がいたことは伝わっていないから(信忠の正室として迎えられるはずであった武田信玄の娘・松姫は信忠に嫁ぐこともなく、織田・武田の友好関係は崩壊した)、この塩川長満の娘が秀信の生母(=徳寿院)ではないかと思われるのである。更にその娘と言うのはよく「国満の娘」と誤解されているが「長満の娘」であると思われる。三法師が天正八年生まれという事から逆算すると国満の娘とするのは年齢的に難しいのではないかと思える。尤も晩年の子と考えればありえないという話では無いが。この三法師の母は「鈴」というのであろうか。近江坂本の聖衆来迎寺に『織田秀信公の母「鈴」の墓』と言うものが存在する。この「鈴」=徳寿院というのはほぼ間違いが無いと思われる。何故坂本の聖衆来迎寺にその墓があるのかは不明であるが。この寺には近江宇佐山城に篭り朝倉・浅井軍の攻撃を受け戦死した森可成の墓もあり、その寺門は明智光秀の築いた坂本城の城門の遺構である。塩川家は信忠と縁戚だったせいでもあろうか、本能寺の変に際しては秀吉に従い山崎の合戦に参戦した。しかし何故か記録に残されているものが少ない。同じ摂津衆として高山右近や中川清秀は勿論、阿部二右衛門なども記録されていることを見ると故意に消されてる可能性もある。がともかく、塩川家はそれ以後も秀吉に従い旗下の将として翌年の紀州霧坂遠征にも従っている。
また塩川氏は隣領の能勢氏とは代々折り合いが悪く天正八年九月には塩川長満が能勢頼道を誘殺している。これは三法師の誕生と関係するのであろうか。「織田家嫡統でありわが塩川家の孫にもあたる三法師が誕生した。その祝の席を設ける」と言って呼び出しその席で織田家臣従を勧めたが断られたので殺害した・・・などとも考えられる。頼道謀殺に際して能勢家は次弟頼次が家督を継ぎ、塩川家と合戦をして打ち破る。しかしこの後決定的にその仲は険悪化していく。
天正十二年には塩川、能勢両領地の農民同士の諍いで双方に死傷者が多数でた。そのため双方それぞれの領主に訴えたため、地黄城の能勢頼次と西峯城を守備していた国満の養子塩川国良との間で一触即発の状態になった。しかし国良は総領の国満に指示を仰ぎ、国満は秀吉に訴えたため秀吉が両者の仲介をして事態を収拾した。天正十四年四月、国満の元に九州征伐の軍役の触れが回って来た。そのため自らが筆頭となっている多田院御家人衆にも軍役の督促を行った。しかしそれに従わないものもいた為、国満は秀吉に訴えその返答を以って秀吉の命令である事を強調した。その結果その過半は国満に従うこととなった。しかしまだ従軍しないものがあるため、不服従の御家人達の背後にある能勢氏をまず攻略することとした。同月能勢氏との間に大規模な戦闘が起こったが秀吉の命で停戦することになる。六月、能勢頼次は大坂城で秀吉に謁見し本領を安堵されるとともに九州征伐の先鋒を命じられたため同月出陣した。そして十月。国満は積年の能勢氏との騒擾に決着を着けるべく主君不在で手薄の能勢領に侵攻し主城地黄城、田尻城等を落とした。能勢氏家臣は離散し、不服従だった多田院御家人衆も国満に降伏した。九州にて事件を聞いた頼次は早速帰城を申し出て大坂に戻り、十二月十日秀吉に訴えた。秀吉は国満の行為を不届きとし片桐且元、池田輝政、堀尾吉晴をして一蔵城の攻略を命じた。十二月十四日塩川征伐軍は一蔵城を包囲し国満に上意による討伐である事を告げた。国満は上意であれば仕方なしとして開城して自刃し、果てた。これにより塩川氏は没落してしまった。またこの際城に居た姫達は城の背後を流れる一庫大路次川に身を投げたといい、その場所を姫ヶ淵と呼んでいる。しかし現在は一庫ダムが完成したため、往時の面影は無くなっている。
ただ、能勢頼次は天正八年の塩川家との対立後、流石に天下統一の最右翼で実際に京畿を掌握している織田家に逆らう(実際には織田家を背景にしている塩川家と争う)愚を自覚し、隣領丹波を治めるようになった明智光秀のとりなしで織田家に臣従するようになり、以後明智の指揮下に置かれると言う。そのため「本能寺の変」に際しても明智光秀に味方したため明智敗亡後に逃走、まず丹波、後に備前に隠れ住んでいたという。そして宇喜多家に、後に大和大納言豊臣秀長に仕え、大和大納言家断絶後は徳川家康に従い関ケ原の戦いで軍功があり旧領能勢を与えられた、と言う。ということは本能寺以降、関ケ原以前(1582〜1600)は能勢氏は能勢に居なかったということになる。また天正年代後半には能勢は島津家の京洛滞在料として当てられていたと思われる史料も残っていて能勢氏の不在を裏付ける傍証になっている。この天正十四年・塩川能勢合戦の話は「多田雪霜談」の語る話なので信憑性に欠けるキライはある。以上から考えてみるに、
一.居ない相手と戦をすることは出来ない、という自明の理
一.秀吉が完全に制圧していた近畿圏内の中枢・摂津での塩川氏の独断軍事行動はあまりに不審
と言う事よりこの「合戦〜塩川滅亡」の記述は虚構の疑いが濃厚である。
また「高代寺日記」等によると国満は天正四年に死亡、長満が天正十四年に死亡、その後御家騒動がありそれによって塩川家は取り潰しになったという話になっている。こちらの話のほうが信憑性が高いのではないかと思われる。