奥能登縦貫バス路線の歴史
このたび、のと鉄道能登線の廃止により、
穴水〜珠洲間、60km以上に及ぶ長大な直通バスが誕生したわけですが、
この区間に直通バスが走ったのは、勿論はじめてのことではありません。
長い長い歴史がありました。
若干凡長な通史となりますが、
最後まで目を通していただければ幸いです。
・ 黎明期
・ 穴水〜飯田間 直通バスの運行
・ 丸中汽船の野望
・ 国鉄バス奥能登線
・ 栄光と落日
・ 北陸鉄道グループへの移管
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▼黎明期
穴水〜飯田間のバス路線で、最もいちはやく開業した区間は、
穴水〜曽山峠〜鵜川〜宇出津間(のちの奥能登本線→鵜川線)で、
大正6年、「北国自動車株式会社」の手によるものでした。
大正8年になると、飯田の小野氏が宇出津〜十八束〜松波〜飯田間の事業免許を取得、
翌大正9年7月に、飯田を本拠地とする「鳳珠自動車」に免許が譲渡され、
同社の手によって運行を開始しました。
こうして穴水〜宇出津は北国、宇出津〜飯田は鳳珠の手により一応バス路線はつながりましたが、
当時はまだ移動といえば徒歩が当然の時代であり、バス賃を惜しむ人が多かったことに加え、
ちょうど沿線は漁村地域であり、各自が持つ小舟を近隣への移動に利用したこともあって、
バス利用者は思うように伸びなかったといいます。
また、バスといっても現在のような大型車体ではなく、
定員6,7人程度の幌型で、しかも国産ではなく、
アメリカからの輸入車が一般的でした。
システムもまた牧歌的なもので、
社名を染め抜いた旗を切符売り場券待合所の軒先に出しておくと、
バスは停車してくれるという仕組みだったといいます。
待合所は商店などに管理を委託されており、
利用者は切符を買うついでに店主と談笑していると、
旗を確認したバスが庭へ入ってくるので、おもむろに乗車する、
という、何とものんびりした光景が見られたそうです。
いかにも奥能登らしいエピソードのように思われますが、
黎明期の乗合自動車は、これが当たり前だったようです。
▼穴水〜飯田間 直通バスの運行
大正10年に至って、この地のバス事業の先駆者であった北国自動車が、
七尾に本社を置く「巴自動車株式会社」に乗合自動車の全事業を譲渡します。
利用者数が思うに任せず、苦しい経営を強いられたのでしょう。
新たに七尾から奥能登へ参入してきた巴自動車には、
地元から穴水〜飯田間直通バス運行の要望が高まり、
巴もこれに呼応。大正13年、路線を一挙に飯田まで延長し、
いよいよ穴水〜飯田間の直通運転開始に漕ぎ着けました。
宇出津〜飯田間は鳳珠自動車と運行区間が重複しますが、
競争にはならず、平穏にバスを輻輳させていたようです。
ところが、やはり大正時代はバス賃も高く、
多くの利用者を得るまでには至らなかったのでしょう。
昭和2年、「巴自動車」は奥能登の路線を宇出津の「古川自動車商会」に譲渡、
奥能登から撤退し、七尾へと退きました。
この路線移管にあたり、古川自動車は前事業者の商号を継承し、
「トモエ自動車商会」と名を改めています。
最近、京都府の「京都交通」が、府北部の路線網を
日本交通が新設した子会社「新京都交通」へ移管し、
同時に「新京都交通」は「京都交通」へと名を改めるという出来事がありましたが、
これは「巴自動車株式会社」と「トモエ自動車商会」の関係に酷似しています。
▼丸中汽船の野望
こうして、穴水〜飯田間を運行することになった「トモエ自動車商会」ですが、
ちょうど同じ頃、この地にもうひとつ、新たな旋風が吹きこみます。
七尾湾内で七尾〜宇出津〜小木〜飯田間の航路を経営していた
「丸中汽船」が自動車部を新たに設立し、能登中島〜穴水〜宇出津〜蛸島間という路線を、
鉄道七尾線に接続する形で開設、昭和2年11月に運行を開始したのです。
完全なる競合路線の開業でした。
海の船舶と陸のバスにより、
総合的交通網をもたらそうという丸中汽船の壮大な夢の一歩でしたが、
既存の路線を乗っ取るかのように参入していく強引なやり方に、
トモエ自動車や鳳珠自動車といった在来事業者は猛然と反発。
全面的な乗客争奪戦争へと突入します。
客引きや手荷物の運搬、社名入り手ぬぐいのサービスなども行われ、
ときには乗客と手荷物が別々の会社のバスになるなどといった全くの混乱状態を呈し、
警察が乗客の割り振りをしたという出来事も伝えられています。
運賃も値下げのイタチごっこで暴落しました。
「丸中汽船」はこの他にも「輪島合同自動車」と競合する能登中島〜穴水〜輪島間、
「門前自動車」及び「エビス自動車」と競合する穴水〜門前間も相次いで開業させています。
いずれの競合事業者も、トモエ同様、この進出を許さず、各地で同じような抗争の火花が飛びました。
現代の高速バス競争とそっくり同じ構図が、
かつては路線バスでも繰り広げられていたわけで、
全く歴史はくりかえすものだと考えさせられるばかりです。
ライバルの存在はサービスの向上につながり、
利用者にとってはありがたいことです。
が、行き過ぎた競争は会社の命をむしばみます。
採算性を全く無視した低額運賃に、双方ともしだいに疲弊、
加えて、乗客増による加重積載のために、バスの故障や損傷が続きました。
このような事態をかんがみ、トモエ自動車商会と、
宇出津〜飯田間を運行し紛争に巻き込まれていた「鳳珠自動車」では、
対策協議を重ね、その結果として、奥能登の将来を考慮し、
問題となっている穴水〜飯田間のバス事業を鉄道省へ譲渡することが決定します。
これが地域発展のための最善の一手であるとの結論が出たわけです。
こうして、穴水〜飯田間の路線が鉄道省へと譲渡され、
昭和10年9月、省営バス穴水〜能登飯田間の開業となります。
奥能登本線の誕生でした。
・・・歴史には“@f”がつきものであり、また禁じ手でもあります。
が、もしも丸中汽船の参入が円満な交渉のもとに行われ、
奥能登の交通網が海の船舶と陸の路線バスによって丸中の手に扼されていたなら。
鉄道省(→国鉄→JRバス)の奥能登誘致は無かったかも知れませんし、
のちの戦時統合にも影響したかも知れません。
丸中の交通網統一の野心もまた、奥能登の発展を祈ってのことだったのでしょう。
もしも丸中の夢が良い形で実現していれば、奥能登の交通網はどうなっていたでしょうか。
▼国鉄バス奥能登線
昭和10年9月、奥能登の地にはじめて登場した省営バスは、
車両、施設ともに最新の設備を用意し、人々を驚かせました。
もはや小規模事業者による交通事業は時代遅れに映ったといいます。
開業の一ヶ月後には、丸中汽船のバス営業休止が発表されました。
一方、主たる路線を譲渡し、再び宇出津ローカルを担うことになった「トモエ自動車商会」は、
昭和11年に入って「鳳珠自動車」「町野自動車」の2社と合併し、
改めて「トモエ自動車株式会社」として発足、後に「柴野自動車商会」から輪島〜町野間を譲渡され、
宇出津〜輪島間の直通バスを運行することになりました。
これが現在の町野線です。
02年3月まで続いた、穴水〜飯田間の海岸沿いを鉄道省→国鉄→JR、
それ以外の、主に外浦一帯の地域を北陸鉄道グループ、というエリア分担の原型が、
ここにおぼろげながら見えはじめてきます。
ところが、同じく昭和11年、何を思ったか丸中汽船がバス運行を再開、
同年6月には、再びバス合戦が始まり、またしても激烈を呈しました。
この期に及んで再びの宣戦布告とは、少しく理解しがたいものがありますが、
おめおめと引き下がるわけにはいかぬ志と野心が、丸中を動かしたのでしょう。
しかし、巨大な累積赤字をかかえた丸中は満足に身動きできないまま、
昭和14年、ついに七尾へと撤退しました。
その後、丸中汽船は昭和16年の「七尾交通株式会社」設立に参加、
同社も昭和18年の戦時統合により、「北陸鉄道」への合併の日を迎えます。
この戦時統合では、かつて奥能登でしのぎを削りあった「トモエ自動車」も、
同様に北鉄へと合併しており、なんとも皮肉なことといえます。
一者独占による平穏を得た省営バスは、
大東亜戦争勃発後の昭和17年5月に小木〜松波間を買収し、
宇出津〜小木町経由〜松波〜飯田の直通路線(小木線)を開業します。
小木線は本線(十八束経由)のバイパスといえる経路であり、
またその後に開通することとなる鉄道能登線の先行的路線でしたが、
沿線の人口は山廻りの十八束経由より多く、結局鉄道が開業した後も生き残り、
国鉄→JR→奥能登観光と運行事業者は変わりながらも連綿とバスは走り続け、
ついに鉄道が廃止の日を迎えるまで、それは途切れることがありませんでした。
戦争の終結後、省営バスは国鉄バスへと名を変え、
奥能登本線、小木線のほか、「太田原線」「小屋線」「神和住線」「河内線」などを運行、
住民の熱望を受け、公営企業であるという関係もあってか、
山奥の隅々にまで路線網を張り巡らせ、人々から大いに親しまれました。
▼栄光と落日
戦後は道路の整備が整ったこともあってか、
これまで奥能登の主な交通機関であった汽船に代わり、
かなり陸上交通の利用が増してきます。
鉄道能登線開業への気運が高まったのも、
その動きがあってのことでした。
昭和30年(55年)には、
金沢〜能登飯田間直通の夜間急行「のと」を開業。
当時としては異例の夜行で、所要7時間という長丁場でしたが、
リクライニングの最新式の車両が用意され、住民に喜ばれたそうです。
鉄道能登線が昭和39年(64年)に全通してからも運行を続けましたが、
国鉄としては鉄道の利用を促したかったのか、利用が衰退したのか、
昭和49年(74年)に運行を終えています。
この頃はちょうど能登半島が最後の秘境、陸の孤島として、
能登半島に全国から大勢の観光客が集まりつつある
「第1次能登ブーム」のさなかであり、昭和36年(61年)には、
宇出津を拠点に定期観光「おくのと号」が珠洲経由で輪島まで開業、
奥能登線自体も、観光客の利用が著しく高まりつつありました。
ところが、一方で一般利用は年々漸減していきます。
言わずもがなですが、マイカーの増大や人口流出によるものです。
しかも国鉄バスは、かなり福祉的な意味合いにより、
採算を度外視したローカル支線を多く抱えており、
大元の鉄道事業の赤字増大に歯止めがかからなくなった70年代に至って、
いよいよ路線の縮小、減便、ついには廃止といった動きが見えはじめます。
その後、70年代の終わり頃から80年代初頭にかけて、
石川さゆりの歌曲が火付け役となった「第2次能登ブーム」が巻き起こりますが、
これによる観光利用の増大も、膨大な累積赤字をかかえた国鉄には焼け石に水で、
国鉄は日本国有鉄道改革法のもとに、87年3月いっぱいで分割・民営化され、
国鉄バス奥能登線は、JRバス奥能登線に生まれかわります。
新生「JRバス奥能登線」は、
すでに不採算支線を大幅にカットしての再出発ではありましたが、
奥能登の過疎化、少子化、マイカー増大には、もはや成すすべが無かったのでしょう。
末端区間の短縮や、定期観光の廃止、本線でも小型車が投入されるなど、
日に日に往時の姿を翳らせていきます。
それは、88年のJR能登線廃止に伴い開業した、
のと鉄道能登線の姿の二重写しでもありました。
のと鉄道七尾線の穴水〜輪島間が廃止された翌年の02年3月、
ついにJRバスは奥能登の全路線を廃止し、
昭和10年以来走り続けてきたこの地を去ることになります。
乗客争奪合戦に幕を引くために誘致されてから、
67年という年月が経っていました。
▼北陸鉄道グループへの移管
JRバス奥能登線の廃止にあたっては、
その運行を肩代わりする北鉄との間で協議が繰り返されました。
わけても、運行区間と本数については慎重に論議され、
結果、のと鉄道能登線と重複する区間については廃止ないし大幅な減便を行い、
効率化をはかるとともに、のと鉄道の利用促進につなげるという結論が出ました。
のと鉄道も輪島への路線の廃止により赤字幅がわずかに減少したとはいえ、
能登線の赤字も莫大なものになっており、バス運行の上でも鉄道との競合を回避し、
相乗的な効果を期待した方が奥能登の将来のためにも得策であるという意味がありました。
すなわち鵜川〜宇出津間、松波〜珠洲間を原則として廃止するというもので、
長大にして歴史ある穴水〜飯田(〜木ノ浦)間の奥能登本線は、
鵜川線(穴水〜上曽山〜鵜川朝夕便のみ宇出津)、宇出津松波線(宇出津〜十八束〜松波朝夕便のみ鵜飼)、
および木ノ浦線(能登飯田〜本蛸島〜狼煙〜木ノ浦)という3つに分割され、
途切れ途切れにぶつ切りされてしまうことになりました。
とはいえ、生活に必要最低限のバス路線は、
02年4月以降も能登中央バスと奥能登観光開発(いずれも北陸鉄道グループ)の手に継承され、
営々と続いてきた灯火はからくも守られました。
▼未来へ
それからわずか3年。
分断されていた奥能登本線が、
思いがけずも、再びつながる日が訪れようとは、
誰が予想したことでしょうか。
それとも、こんなに早くつながる日が来るとは、
思いもしなかったと云うのが正しいのでしょうか。
嬉しくも、それが意味するものを思えば、
喜んでいてばかりもいられないものがあります。
しかし、失われたものを想ってばかりいては、
この新たなバス路線があまりにも不憫です。
いまはとりあえず、生まれてきたこの命を愛しみたいものです。
2代目奥能登線の末永い活躍と、
奥能登の発展を願い、ここで筆を納めようと思います。
参考文献…
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