吉武正樹のちょっとした「主体への語りかけ」へようこそ


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英語教育の小中連携の話をしました。(2009年11月6日)


吉武正樹のちょっとした「主体への語りかけ」

「主体への語りかけ」は、柄谷行人さんの「探究I」という本で読んだことに由来しています。要約すると、自分達は誰かに向かって物を話したり書いたりしているつもりでいるが、実際は話すことによって自分が聞いているのであり、また物を書くことと同時に自分でそれを読んでいる。相手に伝えることが不確実である中、結局他者に語りかけたつもりが実は自分自身、つまり主体に語りかけているのである。僕もなんだかんだいってこのホームページで書いたりしてることは誰かに向かって書いてるつもりでいながら、結局は自分に向かって物をいってるにすぎないのだと思ったから。初日に書いた「他者に伝えたい言葉であればもっと場所と手段を選ばなければいけません。でもそれを承知しつつ、自分に対してでもいい、どこかで話す自分を許すそんな場がほしかったのです。」というのはそういう背景があっての言葉だったのです。

注意@ここに掲載している文章は吉武正樹の許可無くして無断に引用・転用することを禁じます。A内容を変更・削除・加筆することがあります。Bインターネットというサイバースペースは無法地帯です。基準も何もありません。つまり書かれているものの質に関する保証がほとんどの場合何もないのです。このページに僕が書くこともそのような基準のないテキストとしてサイバースペースに存在します。本を読んだ感想を書いても、理解が間違っていることもあるし、理論を説明したつもりでも全くの嘘っぱちである可能性も残ります。僕の立場としては、ここに書いていることはあくまでも「主体への語りかけ」であり、内容に関する基準を「他者」に保証できるものではないと考えています。もしここに書かれていることを吉武正樹以外の方が読まれる際は、これを「真実」や「説得」とみなさず、様々な解釈に対し開かれているテキストと考えていただきたい。そしてこのモノローグと貴方との交わりの中で「対話」が始まれば、そう願っています。

→ ご意見・ご感想・ご連絡などは、 にてどうぞ。


2009年10月19日(月) 10:54AM

色々書くことがあると言いながら、結局忙しすぎて余裕が持てず。今も決して時間があるわけではないが、そうした時間をすべて事務的な仕事やそういうものだけで埋めていては、息苦しくて死んでしまいそう。ということで、強行して書く時間を設けた。

金曜日に読書会に参加。前回2年ぶりに出席したが、今回は体力的には限界に近かったのだが、がんばって電車に飛び乗り、連続の参加となった。この調子で参加したい。

今回の課題図書は橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書)。先月の出張中に一気に読んでしまって以来開く時間もなかったので、うまく頭がまとまるかどうかわからなかったが、とりあえずレポートを聞きながら考えてみようと思って読書会に臨んだ。結果僕の感覚としては、以下のような意見になった。

ウィトゲンシュタインの前期では、非常に大雑把な言い方になるが、言語を「道具」的に捉えている。これについては別の方から、「言語」ではなく「論理」というご指摘があったが、それでもその論理は「言語で書くことができる」というのがウィトゲンシュタインの主張だと思うので、論理は僕が考えるところの「言語」の側についていると思う。ここでは、記述される対象としての世界は「実在」したものであり、言語はそれを「写実」する道具となる。だから、世界は一冊の本の中にすっぽりと入るこむことになる。

しかし、後期のウィトゲンシュタインはある意味それをひっくり返す。世界は実在しているのではなく、世界は言語ゲームという営みによって編まれた行為である、という風に。ここでは言語は記述の道具ではなく、営みすなわち行為である。読書会であげた例はちょっと論理が飛躍していてわかりづらくなってしまったが、言語のルールについて考えるといいと思う。

前期では、ルールとは文法であった。世界にはルールがあり、それを言語で書き記すことができる、となる。つまり、英語という言語の使用から抽出された「英文法」のようなものである。しかし、後期ではルールとはそういう風に書き記される対象としての抽象化した文法ではない。人々はまさにルールを知っている、そしてそれにしたがって振舞うことができる、でもそのルールは無意識のルールであって、英文法のように抽出された抽象的ルールではない。

英文法と人々の言語の使用のどちらが言語として本質か。それは後者である。文法は生き生きとした言語の使用の後に残った燃えカスであり、言語の在り方としてはその使い方を知っていることが大事なのである。例えば、数字の5の意味(ルール)を教えるにはどうするか。「それは4の後、6の前だよ」という文法を教えても無意味である。そうではなく、5つ以上のリンゴを前に「1,2,3,4,5」、手のひらを前に「1,2,3,4,5」と実際に数えて見せて、これが「5」だよと教えてあげなければならない。つまり、「使い方」のルールを教える必要があるのである。

このように後期ウィトゲンシュタインの言語ゲームのポイントは、人々は自分より先行して存在するある言語共同体に産み落とされ、そのルール(言語の使い方)を無意識に身につける。そしてそのように振舞うことで意味ある世界を生きている。「それ」が世界であり、世界のあり方なのである、ということである。読書会では先ほどの方が「後期の方が『論理』ではなく『言語』になる」とおっしゃったが、確かにそうともいえるが、前期と後期に見られる「言語観」の違いを考えている僕にとって、前期は論理で後期は言語という言い方は説明にならない。僕の関心からすれば、それは「前期は言語=論理=世界を記述する道具」として説明し、「後期は言語=振る舞い=世界のあり方そのもの」と言わねばならない。

後期のポイントは前期の延長上にある論理実証主義と後期の延長にあるエスノグラフィーやエスノメソドロジー、言語行為論等をレビューする必要があるのだが、今日はそんな時間がないので、以下の例のみ挙げておく。

ここでも幾度か書いたが、この前期と後期のルール観の違いは、読書会でも登場したアラン・チューリングのチューリング・テストと、それに噛み付いた言語行為論のオースティンの弟子にあたるジョン・サールによる「中国語の部屋」の議論が参考になる。チューリングは人工知能やコンピューターの論理を発展させた人であり、工学が追いつく前にそういうことを考えていた方である。人々が人工知能に対して、「コンピューターが人間のように考えることなんてできるはずないじゃないか!」という言い方をすることをアンフェアだとチューリングは思う。ならば、例えば「女性らしく振舞うルール」をコンピューターに教え込み、それがコンピューターと知らない人が質問をして、「本当の女性である」とだませたら、それはコンピューターが女性の考え方を「理解した」と言ってもいいのではないか、という基準を提案した。この空想実験がチューリングテストである。

それの30年ほどあと、サールはこの議論に噛み付いた。そのときの議論が「中国語の部屋」と呼ばれている。中国語を全く知らないアメリカ人が個室に座らせられるとする。そこにある小さな窓から中国語でかかれた質問が渡され、アメリカ人はそこにあるあらゆる辞書を使って、中国語で質問に答えなければならない。例えば「五+六=?」という質問がきたとして、辞書に「If 五+六=? is written, then write "十一".」みたいなことが書いてある。なるほど、と思い、アメリカ人は「十一」という字を真似て書いて提出する。もちろん答えは正解である。しかし、このアメリカ人は中国語を「理解」していたのか。もちろん答えは否である。サールはこの空想実験を通して、チューリングが言っているのはこれと同じであり、これは「理解」ではない、と言っているのである。

サール曰く、ポイントはこうなる。チューリングの場合、ルールは統語論でしかない。こう問われたらこう答えよという、問いと答えをどうつなぐかというルールを覚えることを「理解」と 呼んでいる。しかし、サールは理解は統語論ではなく、「意味論」であると主張する。つまり、問いと答えをどうつなぐかという統語論を知っていても理解ではなく、必要なのはそのルールの「意味」は何か、をわかっていることである、と。これは数字の5の例と同じことである。つまり、5が4や6とどう関係しているかを覚えさせてもだめで、それが生きる世界でどんな意味を持ち、どう使われているかを知らなければそれは「理解」ではないのである。

このように前期・後期を理解した場合、今必要なのは後期の思想ということになる。だから橋爪さんはこの著を書いた。

人々は世界をあまりにも「実在」的に捉えてしまい、そして言語を「道具」として捉えてしまっていて、まさか「言葉」が「世界」を生み出しているのだ、とは思っていない。そういう人が多すぎる。アメリカが実在し、イスラムが実在し、『文明の衝突』が言うようにその二つが衝突する、そうなのではない。アメリカとイスラムという二項対立自体が、私たちがアメリカやイスラムを「どう語るか」という言語ゲームによって生み出されているのである。ブッシュ前大統領の「世界はアメリカにつくか、テロリストにつくか」という語りがアメリカとテロリストを二つに分けるのであり、マスコミがイスラムにおけるテロリストの活動を強調することによって「イスラム=テロリスト」というイメージを作り上げる。このように言語の使い方が世界を編み出しているのが真の世界の在り方なのである。だからサイードはハンティントンに噛み付いたのである。

私たちがアメリカvsイスラムとか正義vsテロリストという二項対立を「実在」論的に語る限り、アメリカとイスラムは別物でしかありえず、相互理解することは難しい。現在の世界はそのような仕方で「硬直状態」にある。言語ゲームの思想は、そういう世界像は言語ゲームによって編まれた意味であって、実在ではないと教えてくれる。だからまず相手を理解するためには相手の言語ゲームの中に入れという。「考えるな、見よ」と言うのだ。方法論としてはエスノグラフィーが教えるところであり、他者のルールを理解するのは、外から自分の色眼鏡を通してみたって理解できず、そうではなく実際にその中に入ってそれぞれの行動がどのような意味を成しているをその文脈で見なければならないのである。そうすれば、なぜイスラムがイスラムでありテロリストと異なるのか、また、テロリストがどのようにテロリストとなるのかなど、その意味世界が理解できる。そしてそれは「こちら」の世界の共通性、つまりウィトゲンシュタインが言うところの「家族的類似」を発見する行為でもある。

橋爪さんが今この著を記したのは、こうした思想的・社会的閉塞を開くためであり、そのためには世界をいったん言語ゲームとして見る必要があり、そうすることで相互理解の道が開けると考えたためであろう。やはり橋爪さんは社会学者なのである。

他にもコメントしたいことがあったが、推敲したり加筆したりする時間はない。本日は3・4限、そして晩1限である。がんばろう。

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2009年9月8日(火) 2:47PM

昨日予告したトピックの一つの国際交流。研究室ブログにUPしたので、そこから転用する。

日付が変わってしまいました。昨日は、韓国は釜山教育大学校から2名の先生と十数名の学生さんが、交流事業でわが大学にお見えになりました。国際交流委員会の副委員長をさせられている僕も最初の式と歓迎会に参加しました。

歓迎会は終始和やかなムードで進みました。受け入れ側であるうちの学生らも、この日のために韓国のモー娘。に当たるグループの曲の踊りを披露してました。上手でしたよ。

会のしめの言葉を副委員長として言うように言われていましたので、こんな話をしました。思い起こして表現など変わりますが再現します。

「今日は長旅でお疲れのところと思います。一つお聞きしたのですが、みなさんが今日船で日本にいらっしゃるとき、国境ははっきりと見えましたか?(みんな素直に「いいえ」といった表情や話し声が) そうなんです。普段地図の上を見ていると国境ってしっかり引いてあるわけですが、実際の海上や地上には線は引いてありませんね。

ではどこにあるんでしょう? それはここ(心臓を指さす)、より正確にはここ(頭を指さす)にあるんです。つまり、国境って実在するものではなく、人間が勝手に頭の中で作った想像物(創造物)なんです。そしてこの線は二国間の関係が緊迫すると太い線になり、良好だと細くて乗り越えやすい線になります。そんな人の「感情」の起伏によって変化するような想像物なんです。

現在の日韓は割と友好関係にあると思いますが、もしかしたらこの先緊迫する事態が起こるとも限りません。しかし、まず、その太い国境が頭の中に引かれた想像の線でしかない、ということを覚えておきましょう。

そしてもう一つ重要なこと。今日日本の学生さんも韓国の学生さんも初めての交流にとても不安だったと思います。それはお互いの顔を知らなかったからです。今日みなさんがお互いに会うまでは、日本人にとっての韓国人とは顔の見えないとても抽象的な存在でしかなく、同様に、韓国人にとっての日本人もそうです。

国際交流で大切なことは、政治的な緊迫があったとしても、このような交流を通して実際にお互いに向き合うということです。そして、相手のことを抽象的な誰かとして捉えるのではなく、具体的な顔をもった人たちとして捉えられるようになることが大切なんです。自分にとっての韓国人が自分が出会った金さんだとか、自分にとっての日本人って私の友達の鈴木さんだ、というように。」

そんな感じの話をしました。僕個人もアメリカ留学中、よく韓国人の友達と飲みに行ったりしていましたが、僕にとっての韓国人はやはり彼らなんです。そして、たとえ日韓関係が悪化するような事態が起こったとしても、僕にとっての韓国人が彼らである限り、僕は韓国の人たちをひとくくりに敵視するようなことはしません。国境というのは人間が頭の中で勝手に想像して引っ張った線であり、韓国人というのはのっぺらぼうのあつまりなんかではなく、僕の友達であり、その周りにいる人たちなのだから。

あ、そうだ。本当は最初は韓国語でやるつもりでしたが、忘れていました・・・。「アンニョンハシムニッカ。チョヌン 吉武正樹 ラゴハミダ。」みたいな・・・。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログより)

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2009年9月7日(月) 11:52AM

週末は東京出張。大学に行けといわれて出た会議だったが、個人的にはとても勉強となっていい機会となった。その後、たまたま同日に開催されていた過去2回参加したことがある読書会に参加させてもらい、ここでも様々な刺激をいただいた。フッサールの『経験と判断』の真ん中あたりを読んだのだが、よくわからなかった一方、でも自分が考えていたことを覆すような論が展開してあり、フッサールの考えだけにとても興味がわいた。「わかった」というより「わかりたい」という欲望に点火したということだ。今日は韓国の姉妹校から3泊4日の予定でこられるので、国際交流委員の僕はいくつかの行事に参加することとなり、それもよい体験となりそうだ。読みといえば、佐伯啓思著『自由と民主主義をもうやめる』を読み、リベラリズム的な読み物が多かった僕としては佐伯氏のようなバランス感覚がある保守の議論にも興味を持った。また、出張がきまってから数日はフッサールを読んでいたが、移動時間で座れないときに手軽に持って読める本を持ち合わせていなかったので、たまたま見て買った平田オリザ・蓮行著『コミュニケーション力を引き出す―演劇ワークショップのすすめ―』もなかなか面白かった。最近は時間がなく、知的インプットはもっぱら通勤電車と歩いているときに限られているが、読みたい本は列を成して待っているので、もっともっと「そういうための」時間を教員にも作ってもらいたい。アウトプットだけではその質は劣化していくので。

以上ことをちょこちょこ書いていきたいとは思っているが、今は時間がないので後日。

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2009年9月1日(火) 2:10PM

時間がない。体力も落ちている。締め切りは多い。出張も入った。これじゃだめだ。

毎回書いているような気もするが、マスコミの「持ち上げ」効果が鼻につくことが多く、またこれから待っているであろう「おとしめ」効果が憂鬱な選挙後のここ2日。第4の権力なんて笑ってしまうほど、「茶番」のような報道だ。

第一「民主の勝利」と「自民の敗北」をドラマ化しすぎである。そういえば、選挙報道を見ていて気づいたのだが、開票開始から1時間から1時間半は「速報性」が中心となった構成であった。先をこぞって開票結果や確定を出し、できるだけ多くの情報を広い範囲から集め、提供することにどの局も躍起である。それが落ち着いて、見ているほうもだんだんだれてくると、次第にインタビューなどが入ってくる。そこでは「万歳」という喚起の瞬間、沈んだ表情、上の空の表情、涙、支持者への握手といった、ドラマティックな瞬間がカメラを通して見せられる。そして、ちらほら見所の選挙区が絞られてくると、そこでの戦いの背景にある「過去」が一つのストーリーとしてまとめられ、現在の状況を意味づける。ライブ感に更なる色づけをするのである。これからはこうした裏話や喜怒哀楽の物語が数多く出てくると思われる。

また、報道の時に発せられる言葉に「報道」ではなく「茶番」の雰囲気が感じられる。小沢さんに対し、「小沢さんが裏でかなりの力を発揮したと言われていますが、どうでしょう?」といった発問をする。体裁としては純粋に「事実」を聞きたいという質問なのだろう。しかし、それが「小沢さん=影で仕切っている」という一つの物語を前提にしているという点では、それが事実であろうとそうでなかろうと、見ている人々の意識には鮮明にこのイメージが形作られることになる。何を発問するか、それ自体がある一定の関心に規定されている限り、そういう物語性はさけられないのかもしれないが、報道番組としてはあまりにも「ベタ」である。

言葉といえば、よく自民の牙城を崩す」とか「○○退治」とか「○○王国」とか、何かと「比喩的」な表現が行きかっている事態にお気づきだろうか。映画の中のストーリーにはヒーロー役や悪役が必要であるように、また、戦いという舞台が必要なように、「選挙」が複数の戦いのドラマが展開されているネタなのである。報道が「自民の牙城を崩した」といったとき、自民はこれまでそうした壊れもしない城を実際に築いていたわけではなく、それはイメージであり比喩でしかないのだが、そういう風に報道することで、自民は「本当」に地元で「牙城」を守ってきたんだ、というお話が受け入れられることになる。「○○退治」と言えば、ヒーローは退治する方であるに決まっているし、ならば退治される方は悪役に回されるものである。民主に「追い風」とか自民に「逆風」とかいう表現もそうだが、実際に「風」が吹いているわけではないのはもちろんだ。世論を「風」とたとえ、政党や候補者をある一定の方向に進もうとしている船やランナーのようなものとして捉えているわけである。伝えるほうとしては都合がいい比喩であるし、聞いている方にもわかりやすい。

以上の話は認知言語学で言われているメタファー(比喩)の話である。G.レイコフが言っているように、私たちの認知はそうした比喩的なものであり、それは言語に現れているのである。そういう意味では普遍的な現象であり、中立的な分析である。と同時に、そういう事実があると仮定できるのであれば、それをうまく利用すればそうした比喩の用い方はイデオロギーの煽動にもなる。そして、わかりやすい報道を意識するメディアとわかりやすい報道を求める聴衆が共犯となり、それは見えにくいものとなることがあるのだ。

後数日は選挙にまつわる「お話」が提供され続ける。ニュースや報道番組に議員が呼ばれ発言する。ある人たちは持ち上げられ、政治とは関係ないことが話題とされ、格好のネタとされる。これから民主党が歩むであろう道を考えると非常に険しい道であることに変わりはない。しばらくはこうした「ふわふわ」としてネタは豊富にあるが、それが尽きたころに具体的な問題を2,3ピックアップして、あぁだこうだと議論し、最後にはやっぱり民主ではだめだとか、自民も民主も同じだな、とか、日本の政治は誰がやってもだめなんだ、という「政治不信」自体が格好のネタになっていく。その中でヒーロー役に抜擢された人を中心に新たなお話を編み出され、人びとはそちらの方になびいていく。今回の大勝のことはころっと忘れて。それは舛添氏かもしれないし、橋下知事かもしれないし、石原慎太郎氏かもしれないし、ひょっとしたら島田伸助氏、北野たけし氏かもしれない。

結局は「つまらない」報道になるのが怖いのだ、マスコミは。常に視聴者のご機嫌を伺い、新ネタや刺激的な話を紡ぎ続ける。しかし、「つまらない」と「中身が濃い」は同じことなのか。「中身が濃い」と「面白い」は矛盾してしまうのか。それを選ぶのはマスコミではなく、国民の方である。

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2009年8月31日(月) 2:34AM

有権者の皆さんは選挙行きました?結果は十分予測可能なものだったでしょう。だからこそ、その先が気になる今回の選挙でした。つまり、♪俺が見たいのはその後のストーリー(「こんな夜はI miss you」浜省)。

だってそうでしょう。オバマさんもそうですが、「変化」や「チェンジ」とか「どげんかせんといかん」とか、そういうキャッチフレーズが先に来る場合、私たちはつい「どう」変えるかを考えることを忘れてしまうんです。本当はそこが問われなければならないのに。「今がダメ→だから変えなきゃ」というのはあまりにも考える上で考慮している時間のスパンが短すぎるし、見方としてとても「気分的」なものです。それは「こうあるべきだ!」という積極的な言葉ではなく、「こうあるべきではない!」という「敵の存在」があってこそのレトリックなのであり、その意味では「敵」と共犯関係にあるのです。あたかも人の病気がなくなったらお医者さんが困り、交通事故がなくなったら自動車保険が困り、コンピューターウイルスがなくなったらアンチウイルスを作っている人が困るように・・・。だから、本来選挙は「変えます!」だけではだめなんです。それは西に進むか、東に進むかという方向性を示したにすぎず、その先に何があるかこそを問わないといけないんです。

マニフェストというのがありますね。あれはとても「分かりやすい」ようにまとめてあります。でも政治はそんなに分かりやすいものではなく、むしろマニフェストは「わかりやすさ」合戦となり、国民に「自分の頭で考えるな!」と言っていることにもなりかねません。また、大学などには「評価」を厳しく求めているくせに、一度掲げたマニフェストは「評価」されません。

(脱線しますけど、皆さんはご存じないかもしれませんが、大学では今「評価」に縛られています。自分で「こんなことやります!」という方針をあげ、それが達成されたかを審査されるんです。当たり前といえばそうかもしれませんが、言ったことはやんなきゃならないし、でも大したこと言わないでおけば済む話でもなく、評価のための仕事が多すぎて大学は今がんじがらめになっているんですよ。つまり、大学をよくするための評価が大学自体のパフォーマンスを下げるんです。研究や授業の準備や勉強をしているはずの時間が「会議」になったり「書類書き」になったり「冊子作り」になったり・・・。なので、ちょいとイヤミっぽく言いますけど、政治家はいいですねぇ〜、マニフェストを「評価」されないで〜。)

なんやかんやで、まぁ、民主党が第一党となり、これから与党としてがんばるんだろうと思うわけですが、何しろ「変えます!」で当選した人が多いので、その人が何ができるか、というのはほとんど問われないんです。選挙中、「がんばります!」だけで済まされてきている。当選した人を見ていても、若すぎて目を当てられない・・・。別に「若い=無力」ではないんだけど、自分も大学ではまだまだ若い部類に入るからわかるのですが、「若い」ということはつまりは「人生経験」も相対的に少ないわけで、だから新しいところでがんばろうとすると、まずはそこのやり方や決まりや風習などを「一」から学ばなければならないわけですよ。「一」からですよ。そして石の上にも三年というように、3年ぐらいたってようやく「わかって」くるんです。それまでは新入社員と同様「お試し期間」や「研修期間」と同じなんです。つまり、これから数年は多くの新人議員さんや若手の議員さんの勉強期間にあてられるということなんですね。

政治家っていうのは専門職です。誰でもやれるような職業では本来ない。頭が切れ、全体を見渡すことができ、バランス感覚があり、熱いハートを持ちながらもクールな判断と分析ができ、何よりも言葉を巧みに使って理路整然と論じることができることが求められます。「こんな私でもやれることがある!」という職業では本来ありません。でも今政治を目指そうとする人、声をかけられる人、人寄せパンダ役の人を見ていると、「別にあなたでなくても・・・」という人が多い。だから本当は「私じゃ勤まりません!」とか「それは『私』しかできないことではありません」と断らなければならないんです。

私たちは別に政治家にならなくても、意見を言うことはできます。言いたいこと、政策として実現したことがあれば、それを「託せる」人を選ぶとか、代表者にそれを伝えるべきです。極端な話、誰だって「これをすべきだ」というべき論は振りかざすことができますし、それを自分が政界でやろうとすれば、何百万人の議員が必要となるでしょう。そもそもそういうことができないから私たちは「社会契約」のような理念に基づき、自分の代わりにルーづくりをしてくれそうな信頼できる人に委託するわけです。選挙とはそもそもその「委託」のためのプロセスであり、自分が選んでもらえることや夢を実現するといったプロセスではないんです。政治家の持つメッセンジャー(体現者)という側面ばかりが目立ってしまい、一種の自己実現の役割を担ってしまっていますが、本来ならば上に書いたような「能力」の方が求められるのです。

僕は別に世襲を進めているわけでは毛頭ないし、素人が政界に飛び込むことが悪いと言っているわけではない。そうではなく、「能力がある人」がやるべきだということです。能力があるなら二世でも三世でもかまわないし(しかし偏りすぎてはまずい)、政治未経験者でも「できる」人ならいいし、芸能人でも著名人でも適格者ならいいわけです。政治はそういう人が集まったドリームチームのような集団がやるべきことであり、事実、日本中で選ばれた数百名の人々であるべきです。

昨日も書いたように、民主主義が機能するためには国民一人一人が自分の頭を使って考え、ベストだと思われる選択をすることが前提となっています。逆に言うと、それができなければ単なる「人気ランキング」と変わらない。ドイツのナチスは決して暴力で権力を得たのではない。彼らはちゃんと制度にのっとり、民衆の支持を得て、第一党になったんです。ポピュリズムにはそういう怖さがあります。前回の衆議院選挙では自民党が大勝し、今回では民主党が大勝する。この数年にそんな世界の天と地がひっくり返るようなでっかい出来事がありましたか?ないでしょ?つまり、私たちの「気分」が変わったのです。でも政治は気分じゃ任せられない。もっと自分たちでしっかり「考え」なきゃだめです。

民主党には頑張ってほしいと思います。しかし、自民党のある議員が選挙中に指摘していたように、「駒不足」は否めないし、皮肉にも誰であっても「スーパースター」になれうるだけの魔術が存在したことも事実です。教育期間もかかります。マニフェストにはとても「美しい」話が多いのですが、彼らの約束を実現するには霞が関を動かす手腕が必要です。彼らは政策のプロ集団ですし、選挙ではなく試験に受かっている分、頭は悪くありません。集団意識も高いですし、彼らには彼らの守りたい利権もあるでしょう。そういう彼らを理詰めに説得し、必要な時には叱責し、しかし敵を作るわけではなくこちらのペースに丸めこむだけの言葉の力が必要です。それができる人が何人いるのか。いささか心もとない。

民主党にとっては今日はおそらく記念すべき日だったでしょうが、本当の意味では、今日は前途多難な航海への出発の日です。国民もそういう政権を選んだのだから、これを機に自分が民主党を操る気持ちで責任もって政治に参加してほしいものです。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室より)

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2009年8月29日(土)  3:00AM

ここに一冊の本がある。『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』(海鳥社)。著者は小山田咲子さん。異国アルゼンチンを旅行中、同乗していた車が事故。24歳でこの世を去っている。ここ2年参加しそびれていた読書会でこの本が取り扱われ、それがこの本を手にするきっかけとなった。

僕の第一印象というか、この本に対する感覚は「本」ではない。むしろ、「人」と面している気になってしまう。まるで、同じ年ぐらいの学生を前にしているように。この人からこぼれてくる言葉ははつらつとし、時に激しく、時に繊細で、彼女を取り巻く世界を見事に言葉で表現してみせている。とうとう僕は最後までこの本に線を引くことはおろか、ページの端っこを折り曲げることもできなかった。何も書かないページがないくらいに本に線を引きまくり、折り曲げていないページよりも多くページの端を折り曲げる僕がである。やはり、僕にとってこの本は「人」のような本なのだ。

本書はいわゆるブログ日記である。「ブログ日記」という言い方だが、これまで普通に私たちが行っていた(かもしれない)日記というイメージでとらえるならば、それは大きな勘違いとなる。「日記」という言葉が示すように、日記とは、その「日」の出来事を「記す」ものである。形式としては、「○月○日、〜をした」という記述が並ぶ。それが日記である。しかし、大袈裟にいえば、日記とブログ日記の共通点はこの形式的な定義のみである。普通の日記を書く人の「感覚」とブログを書く人の「感覚」には決定的なズレがある。

日記とは普通誰かに読まれることを想定していない。しかし、ブログの場合、むしろ誰かに読まれるであろう、という想定がある。まずはこの出発点が違う。しかも、ブログの場合は少し複雑で、普通は「不特定」の誰かに、もしくは「誰か」は想定されているがそれはあくまでも大枠の対象にすぎず、一人一人が固有の顔をもった誰かではない。しかし、だからといって、ブログが完全な匿名な誰かに対して書かれるとは限らない。人によっては、また日によっては、特定の誰かが読んでいるであろうという他者の視点を計算したうえで、匿名性を装った形で「その人」に書かれていることもある。逆に、特定の誰かに書いているようで、でも本当の対象はその人とは別の「特定の誰か」である、ということもある。ブログを書く人の「書く」というコミュニケーションは、このように「匿名性」と「固有性」の挟間で他者の視線を織り込みながら展開する、独特のコミュニケーションなのである。であるから、ブログとは単に「日記」をウェブ上に書いているのではなく、ウェブという独特のコミュニケーション空間そのものが人々のコミュニケーション形式を形作り、彼(女)らの書くという表現におけるリアリティを決定づけている。

事態をさらに難しくさせるのは、ブログ日記といっても千差万別で、ほかの人から見れば全く書く意味がないような些細な事実を羅列しているものもあれば、悪口を担保に特定の人々と群れるために展開しているものもある。と思えば、非常に即出版可能な口調でまとめられたそれ自体が一つの作品のような完成度のものもある。ブログは「匿名性」と「固有性」という連続体のほかにも、「気分−思考」や「つながり−排除」というような、それを書く人の構えや目的にも多様性があるのである。それらすべてを飲み込み、許容する巨大な仮想空間がウェブというコミュニケーション空間の特徴である。

もう一つあげておくべき特徴は、ブログは「書きなおし」が可能である、ということだ。日記は誰にも読まれないという想定の下、今の自分とは別の「自分」という他者に」向けて一発勝負で書いている。日記を書くにあたり普通下書きはしないし、話にオチをつけなければいけないという制約もないし、書いたものを推敲を重ねて作品のようなまとまりを求めるものでもない。しかし、ブログはタイプして書きこむのが普通なので書いたものを切り貼りしたり、自由自在に挿入・削除することが可能である。誰かに読まれることが想定されているという意味では、ブログにはストーリーが求められたり、オチがあったり、必要によってはメモ書きが必要となる。鉛筆でコリコリと書くというのではなく、画面に向かってひたすらタイプするというコミュニケーション行為もブログ日記の特質を決定づける一要因といえよう。

ブログというコミュニケーション形式がひとつのお話として書かれることを求める形式であるとすれば、ブログ日記の評価は分かれる可能性が高い。それを「日記」と見るなら、それは生き生きとしたその人の声やぬくもりが残る、その人の化身であるように思える。しかし、それを「作品」として読んでしまうならば、そのほとんどは「つまらない」未完の作品のものが多いということになるだろう。

では小山田咲子という人はどのようなリアリティを持ってブログを書いていたのであろうか。ちょっと想像してみた。僕にとっては、彼女はあたかも新たな表現手段を得たように、生き生きとウェブ空間の中を泳ぎまわっているように思える。ある時には取り留めもないことを記し、またある時は特定の他者が読んでいるだろうという想定のもと書いているようにも読める。その一方で、非常に普遍的なメッセージをそれをたまたま読んでくれるであろう人に向けて「発信」している。そしてそこに書き込まれることの多くは、やはりタイプするというスタイルによってストーリーが与えられ、プロットが存在するように書かれている。その意味ではこれは従来の「日記」とは全くことなる作品集ということになる。僕にとっての本書の良さは、何よりもまず、「日記」としてのブログでみせる彼女の「感性」がそこにあると同時に、作品としての魅力も詰まっている、という「日記」と「作品」の両方の「いいとこどり」であることにある。確かに「作品」として見たとき、それは「荒挽き」かもしれない。でもかえって、荒挽きであるために作品にみられるかもしれない「うそくささ」や「うさんくささ」が見られない。だからこそ僕はこの本を「学生」と話をしている気分で読み、彼(女)らだけが持っている輝きをそこに見出したのだと思う。

小山田さんは自分が自己という「内側」に閉じ込められているという自覚をした上で、内部に閉じこもるのでなく、自己という「内側」にいながら「外=世界」に向けて言葉を一生懸命投げかけている人だと思う。彼女には「結局のところ世界はこんなもんだ」という(僕も陥りがちな)独我論的な断定が少ない。それは、自分が自己の中に閉じこもっているという意味で、世界とは断絶された存在であるという意識があるからではないか。だから彼女は世界を語るとき「想像力」という言葉を多用し、それを媒介に「世界=外部」へと触手を伸ばそうとがんばっている。「えいやっ!」と言って、世界へ足を踏み出そうとしている。「見る前に飛べ(Leap, before you look.)」という表現があるが、彼女にはそんな勇気があるように思える。彼女はカメラが好きだったが、それはとても象徴的な行為だ。カメラには必ずそれを通して覗く人がいる。それはカメラを使っている本人であり、そこから覗いて見える景色は「世界そのもの」では決してなく、常に、自分が向けた視線によって切り取られた、手あかのついた外部である。

とはいっても、読書会に出るまで知らなかったのだが、彼女が自分の「外の世界」と接続しようとするとき、その接続の仕方は必ずしも器用なものとは言えなかったようだ。運動神経が良かったにも関わらず、他の人が決してしないような動きをする。「自己−身体−世界」と並べたとき、「身体」は自己と世界を結ぶ媒介または境界線であると言える。それは世界の一部でありつつ、自己の一部でもある。彼女の場合、もしかしたら自分の身体でさえも世界の一部に属する「他者」であったことを知っていたのではないか、と思ってしまう。普通の人が身体は自己のものだとするところも、その身体と自己の間にも実は断絶があるということ、その接続の恣意性を無意識ながらに知っていたのではないだろうか。彼女にとって身体とはすでに記号化していたのである。

「意識」の問題にしろ、「身体」の問題にしろ、そう考えてみると、小山田咲子という人は若き「現象学者」ではなかったか。彼女はフッサールであり、メルロ=ポンティだったのではないか。そして、彼女の生き生きとした文章、文体、感性は彼女の現象学者としての素質がもたらした結果だったのではないか。僕はそのように想像せざるをえない。

先日僕の研究室ブログにandymoriという3人グループのミュージシャンに触れた。彼らはまだインディーズであるが、現在人気急上昇らしい。これも読書会に行って知ったことであるが、小山田さんのかわいがっていた弟さんがVo&Guということだ。本書の中で彼のことが時折登場することや、彼が歌っているときの顔に咲子さんの面影を見てしまうこともあり、彼らが奏でるような音楽を普通聞かない僕もつい聞き入ってしまう。これは僕の先入観のためなのか。それとも彼らに咲子さんの文を読むときのような魅力があるからだろうか。僕にとってこの本が「学生」のような存在である限り、僕は彼らの音楽自体も同じように冷静に聴けないのかもしれない。

この本を見ていると寂しさと胸のきしみを覚える。それは才能が惜しいという意味ではなく、自分の学生が天に召され、引き裂かれてしまったような感覚に近い。この本はいつになってもそのような感覚を僕に抱かせる本であり続けるだろう。だからこそ、一人でも多くの学生に本書を読んでもらいたいし、小山田咲子さんに会ってもらいたいと思っている。

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2009年 8月28日(金) 11:01AM

授業や研究で言語やコミュニケーションについて話すことが多いので、「ことば」について考えることが多い。「ことば」とは何か。恐らく世間一般では、相互理解を「助ける」もの、コミュニケーションをするための「手段」のように捉えられている。これは「相互理解」が「目的」として定まっているときに「ことば」がそのように現れているに過ぎないのであって、「ことば」そのものではない。包丁を野菜を切るために使わず、殺人という目的に使えば「凶器」と呼ばれるように、それが何かという答え「道具」の性質に求めようとすれば、それはその使用の「目的」次第ということになるのである。

「ことば」は相互理解のために用いるという考えには保留が必要である。

再び、「ことば」とは何か。確かにことばを使うのは自分の伝えたいことを伝えたい、相手のことをわかりたいという欲望に支えられていることは確かである。しかし、それは「相互理解」が可能であることを保障しない。むしろ、厳格な意味での「相互理解」が不可能であるためにこそ人はことばを用いる、というのが正しいのではないだろうか。決して埋まらない溝がことばを求め、しかしながらその溝はことばでは埋まらないということ。人はついこの「コミュニケーションの不可能性」という本質を見落としてしまう。

したがって、相手に自分の言いたいことをわからないとき、つい語気を強めてしまったり、怒ってしまったりし、「理解力がない」と相手を責める。また、相手の言うことがこちらに伝わらないとき、つい「説明が悪い」と相手を非難する。そのような気持ちも理解できる。しかし、コミュニケーションの不可能性という原理にもとづけば、その人はものごとの半分、しかもそれは「自分は無実であり、相手が悪い」という部分のみを見ているに過ぎない、ということがわかる。言いたいことが伝わらないとき、それは相手の理解力不足だけではなく「自分の説明が悪い」可能性もあるし、相手の言いたいことがわからないのは相手の説明が悪いだけでなく「自分の理解」も足りないということである。そもそも完璧な相互理解が不可能である限り、相手ばかりをせめても仕方がない。

コミュニケーションが不可能ではあるが、いや、不可能だからこそ、人は「ことば」を重ねなければならない。相手のことを100%理解できないからこそ、そして相手に自分が言いたいことを100%伝えることができないからこそ、辛抱強く、丁寧に、慎重に、そしてときに大胆に、ことばを紡ぎ続けなければならないのである。

自分の責任を放棄して、相手の「不備」ばかりを責めるのは、ことばの力を信じず、溝ばかりを深く、そして広くするだけである。もちろん、「怒る」こと、「不満を述べること」もコミュニケーションである。それが「相互理解」に向かうこともあり、それらがそのまま「=悪」ということにはならない。しかし、どれだけ私たちがことばを大切にし、その力を信じ、丹念にことばを作り出していくのかが、この不可能なコミュニケーションを持続可能なものにしていくのだとういことは、心の片隅においておくべきであろう。

価値観が多様化した現在、言ってみればみんな「他者」であることが暴露された。ということは、たとえ家族でさえも、夫婦でさえも、実は「他者」であり、完全に互いを理解することなどできないということがわかってしまった。それは、他者と自分と間の溝は昔以上に広がったということである。そんな現代だからこそ、「ことば」を大切にしなければならない。それはロゴス中心主義とか理性中心主義とかそういうことではない。ことばが人間に与えられた能力であるとすれば、私たちはそのことばの力を信じて、口をぱっくりとあけたその深い溝を飛び越える勇気を持たねばならない、ということである。雛から大人になったばかりの鳥たちが自分の翼の力を信じ、思い切って巣から飛び出し、大空めがけて羽ばたいていこうとするときのように。

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2009年8月 21日(金) 12:04PM

教員免許状更新講習がようやく終わったが、肩こりと頭痛がもうちょい残っており、まだ反動に苦しんでいる。

朝から選挙カーが走っている。あれは効果があるのだろうか。かえって静かにしてくれていた方が好感度はアップしそうな気がするのだが。

選挙といえば考えることが二つある。

一つ目は「自民党のKM票への期待」についてである。「小選挙区は私に、でも比例はKM党へよろしく!」というメッセージは明らかに政教分離に反していると思うのだが。

大目に見てそういう政党があることはよしとしよう(そのあたりも怪しいが)。まず、なぜ政教分離があるかというと、それは民主主義の基盤となる個人の自己考察能力、つまり一人一人が「主体的」に政策を吟味し、それを個人の意見として表明するような思考力を奪ってしまうからである(と宮台氏が言っていたのを聴いてなるほどと思った)。つまり、宗教の教祖様が「こうせよ!」といえば、それが絶対的に「正しい」選択となるわけであり、個人の意見はどうであろうとみんながいっせいにそちらの方向に動くである。自民党が「比例はKM党へ!」というのは、「世間で言われているような民主が有利で自民は危ないなんてこと、信じなさんな。ごたごた考えずに、あなたたちの教祖様がおっしゃるとおりにしてね」といっていることなのである(そしてもちろんその教祖様は自民党との利害関係において命令を発するのである)。それは「頭を使うな」というメッセージなのだ。そういうことを言っていいんだろうか?

次に教員免許状更新教習を終えての感想にもなるのだが、教員に研修させるより前に、国会議員と役人の方々に初任研や10年後との研修として、中小企業のボランティアやインターンをしていただく方が、国の行く末を考えるにあたって、より効果があるのではないか、と考えている。

教員の場合、今回の講習を受けるための費用は基本的に実費である。規定の単位を集めるのに3−4万ほどかかるという。その上に交通費等もかさむ。何かを学ぶ時間があり、そういう機会が与えられること自体を「だめ」だとは思わない。僕自身(後日書くつもりだが)先生方に出会い、何かをお伝えしたり、こちらが学ぶような機会が増えることはむしろいいことだとも思っている。しかし、それにかかる負担はもちろん、そういう講習を受けている間にやれたであろう部活や生徒指導、そして何よりも教材作りのためのインプットという時間が奪われるというデメリットを超えるだけのメリットがそこにあるのか。

教育は生ものだ。人を相手にしている限り、自分なりのセオリーやアプローチはあっても、正解はない。その都度、相手にあった正解を手探りで探っていかねばならない。しかし、少なくとも教育現場に立つ私たちの目の前には当事者たちがいるのである。政治家や役人の人たちも、教員と同じように、国民のため、さらには世界のために汗水たらして仕事に邁進していることだろう。しかし、彼らの仕事場には教育現場にいるような「当事者」が必ずしもいるとは限らない。むしろ、デスクワークや会議室での仕事、もしくはあちらさんがおいでになるというパターンが多いであろう。

だからこそ、研修や講習の必要性に優先順位をつけるとしたら、教員を現場から引き剥がして講習を受けさせるよりも、政策に携わる人たち(特に二世・三世議員さん)が日ごろ接点があまりないであろう普通の一般市民の仕事を1週間ほど体験するの方が断然リストの順位の上にくるのである。小料理屋の仕込みを手伝ったり、魚屋さんの仕入れに同行したり、タクシー運転手に同行してみたり、職人さんの指導の下職業体験するのだ。ちなみに、教員は10年研などでそのような現場体験などをやっている。

僕は別に怒ってとかではなく、純粋にそうすれば少しはよい国になるんじゃないかな、って思っている。そしてそれは全然無理で不合理な要求ではないと思っている。教員に言うのなら、自分たちもできるでしょう。ただ、自分たちに不都合な政策を作らないだけで。

小泉さんがいうように、何かどでかいことが起きなければ政権交代はおこるのであろう。だからこそだ。自民党としては特定の宗教をバックにしている組織票に期待し、「頭を使うな」と国民に言う作戦よりも、「これまで愚作の連続でごめんなさい。すべて悪いのは私どもです。これからは庶民の皆様のことをもっと知るべく、国会議員や役人を続けるための更新講習制度を導入し、一から勉強させていただきたいと思います。どうか、自民にもう一度がんばらせてください!!!」となんてことを述べて実行することの方がいい作戦ではないだろうか。自民党がみんな頭を丸めて、ポスターもそうして、選挙に臨めば、ひょっとしたら自民が勝つなんてこともあるかも。もちろん、民主党が導入すれば鬼に金棒でしょう。

割とそういうの、「あり」でしょ?

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2009年8月6日(木) 23:38PM

明日の教員免許状更新講習の準備の大詰め。ようやくハンドアウトが完成。21ページ。不安だが、気持ちを伝えるように話そう。

先日、高校留学を迷っている方にアドバイスをする投稿をしたら、ご本人が質問を削除され、僕の回答も消えてしまった。その方はお母さんから「死ぬも同然」と反対されたということだった。せっかく書いたのでここに収録しておく。

あなたの気持ちも分かりますし、僕も人の親ですからお母さんの言うことも分かります。僕は大学に入って9か月、そして院で6年ほど留学しているのですが、少しだけ(?)人生を長く生きた経験からコメントしてみようと思います。

ひとつ確認したいのですが、丸3年間高校留学したいのですか。それとも日本の高校に通いつつ、交換留学のような形で1年とか行ってみたいとうことですか。もし後者ならさほど心配せず、思い切って1年ぐらいもまれてくるのはよい経験です。(ならば以下は少し軽めに読んでください。)

ただ、拝見してみると「英語力をつけたい」から高校生のうちに3年間留学したい、と読めました。そうだとすれば、ちょっとだけお母さんの方に分があります。というのも、留学は語学留学でなければ、「英語力をつけに行く」のではなく、持っている英語力を駆使して「(英語以外の)何かを学ぶ」ことだからです。

ちょっとだけ想像してみてください。あなたが日本の高校に進学するとします。そこでは数学で代数学(algebraと言います)や幾何学(geometryと言います)を学ぶでしょう。社会では政治(politics)や行政(administration)の仕組みを学ぶでしょう。生物学(biology)では消化器官(digestive organs)について学ぶでしょう。留学とはそれをそのままそっくり英語で習うことです。つまり、英語「を」学ぶのではなく、英語「を使って」数学や社会や生物を習うのです。何かを「英語で」学ぶには、それ相応の語彙力と英語力がなければ難しいでしょう。それは「夢」の裏側に付きまとう、避けられない「現実」です。

僕は留学が良い経験にならないとは思いません。むしろ、とってもよい経験になると思います。また、「高校留学=死にに行くようなもの」とも思いません。本人の努力次第で生き延びることは可能でしょう。しかし、100人中100人が成功するようなものでないのが留学。早ければ早いほどそうです。留学は夢だけでは語れず、しっかりそこで起こるであろう「現実」を見、それに耐えうるだけの備えも必要なのです。

もし「英語力」がつけたいのであれば、大学からの留学でも十分間に合いますし、むしろその方が日本の高校で身につけた基礎力を駆使して、そしてそれまでに高い目標意識をもったあなたが身につけた(であろう)英語力を駆使して、高校留学よりももっともっとよい経験ができるでしょう。持っている武器が良ければそれだけ強い敵が倒せるようになるゲームように、持っている語彙力や英語力が高く、知的レベルが高ければ高いだけ、物事の吸収率も比べ物にならないほど高まるものです。丸腰やしょぼい武器で戦場には出れないのと同じです。

ですので、まずは今の自分の英語力で日本の授業についていけるのと同じように英語での高校の授業についていけそうかを想像してみてください。次に、自分の覚悟を問うてみてください。お母さんが言うように、「死ぬ」気で行く覚悟があるのか。現地の高校生が授業をそれなりに聞いて、それなりにこなし、放課後はENJOYしている間、自分は何事も聞き洩らさないように必死に耳を傾け、確実に課題をこなし、放課後や夜もネイティブの学生に追いつけるようにしっかりと復習をする生活を送って、3年間ならその期間を「気合」と「努力」で乗り切るだけ、腹をくくって臨むつもりなのか。それらに対し、自信を持ってYESとお答えになるのなら、ご両親の説得をがんばってみて、高校留学を実現する意義はあるでしょう。

もし、自信もってYESと言えないのであれば、少しだけ長丁場で考えてみることを個人的にはお勧めしたいと思います。それは留学をあきらめなさいということではありません。文字どおり、ちょっと延期するのです。しっかりと日本の高校で学力を身につけ、その間あなたが高校留学をしたいと思っていた気合をもって日本にいながら自力で英語力をしっかりと身につけ、晴れて大学留学を挑戦してみてはいかがですか(4年いければ1年得しますね!?)。

もちろん、大学留学も甘くはなく、上記のような困難は常に付きまといます。でも留学を成功させることができるか否かは「あなた」次第です(高校であってもそう)。「理想」を大切にし、「現実」をしっかりと見つめ、求められる以上の努力ができれば、留学って日本では決して得ることができない素晴らしい体験をもたらしてくれるでしょう。

今の夢はあきらめず、ちょっぴり現実を見て、そして自分に覚悟を問うて、答えを出してみてください。あと、ご両親とは冷静にしっかりと話をしてくださいね。お母さんは心配しているんです。それは「反対」しているのではなく、あなたを「愛している」ということなんですからね。

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2009年8月4日(金) 10:31PM

10行ほど書いたところで誤って消去。書きなおし。。。

現在教員免許更新講習の準備に追われている。多様なニーズがありすぎて、なかなかそれらをすべてくみ取ることはできない。それでももともと計画していたものを、事前アンケートの結果を見ながら、できるだけ反映させようと試行錯誤しながら準備をしている。本当はこんなところにカキコしている暇などないのだが、どうしても触れておかねばならない最近の話題があり、忘れる前に書いておこうと、忙しい準備の手を休めている。

何かというと、昨日から始まった裁判員制度のことである。裁判員制度が導入されたことにより、俄然裁判は身近になった。これまで裁判はどこか遠い世界で起こっており、専門家が勝手にやってくれるようなプロの世界の話であった(もしくはそれを模写したテレビドラマの世界)。裁判員制度はそうした果てしないところにあった裁判をぐぐっと私たちの日常に近づけ、自分の所属する共同体で起こった事件を他人事として捉えるのではなく、「私たち」の問題として真剣に考えるようになったということは、裁判員制度の貢献であろう。人は自分が契約を結んだ社会に「参加」しなければならないのです。

物事の「真実」を決める手続きさえも、権威的なものが上から決めるのではなく、民に開かれ、合意の上でその「真実」を構築していくという方向性は、社会が近代化し、そこに住む人々が市民となった今では当然の流れのようにも感じられる。しかし、いったん決まったものは仕方がないということなのか、そのデメリットについて語られることはあまりなくなったように思う。

個人的には新制度の貢献を認めつつも、それに払う代償について考えた場合、どうしても万々歳という気にはなれない、というのが正直なところである。

昨日のニュースでもあったが、やはり「素人」が裁判の過程に入るということは、検察側と弁護側というプレゼンの側に回る人たちは「素人」目線に降りてくる。すると、プレゼンの内容はできるだけ分かりやすいものへと噛み砕かれることになる。いっけん、わかりやすいこの説明こそが裁判を民に開く効果となっているのだが、僕にはそういいことばかりには思えない。

まず、わかりやすさのためには多く絵や図が用いられるようになる。事実、そのための画面が裁判員や裁判所内に設置されたそうだ。人間の知覚というのは、本来は「五感」というように視覚だけでなく、聴覚、嗅覚、味覚、そして触覚によって個人の中で「構成」されるものである。非常に見かけが悪いケーキでも、甘いにおいを漂わせ、一口食べてみると美味なケーキならば、それはやはり「おいしいケーキ」として構築されるのであり、また、おいしいリンゴでも触ってみて発泡スチロールのような肌触りならばそれは「偽物」として構築されるわけだ。あくまでも視覚は五感のうちの一つにすぎない。(ちなみに、昔「究極の選択」というのが流行って、(1)ウンコ味のカレーと(2)カレー味のウンコという選択があったが(お下劣ですみません)、この選択が九曲になるのも「嗅覚」や「味覚」が働いているからであり、それらの機能が働かなければそれは究極の選択になり得ず、おそらくは(1)が妥当な答えとなるだろう。)

もちろん裁判で他の四つの感覚が用いられることはないだろうが、物事の知覚が「絵」や「図」という刺激(情報)に特化された場合、私たちは過剰に視覚に依拠してしまうことになる。つまり、「見たこと」=「ひとつの刺激」でしかないのに、=「真実」となるのである。それを僕の恩師はVisuacentrismと呼んでいた。しかし、こう言う「目」に訴えかける情報は往々にして人を欺くことがあることを忘れてはならない。私たちが見ているものは必ずしも「外界」から飛び込んでくる「写真」ではない。そこには必ず解釈や選択という過程が介入している。たとえば、これまで別に興味もなかった女優さんがいて、その人がとてもかわいらしく写るドラマを見ていたら、その女優さんが今度はかわいく見えるのである。これは「かわいい女優さん」→「『かわいい女優さん』を認識」という順番で起こっているのではなく、「『かわいい女優さん』という認識」→「かわいい女優さん」という順番で知覚が起こっていることを物語っている。つまり、私たちは「見たいもの」と「見たいように」見るということがあるのである。先入観というのもそういうことだ。

つまり、証拠としてビジュアライズされた「情報」はかなり気を付けないといけない、ということだ。こういう視覚に訴えるメッセージは「この絵や図の視覚メッセージをこういう風に解釈せよ」という「メタメッセージ」とともにプレゼンされる。私たちが気をつけて、批判的・分析的にそれらの情報を租借していかないと、私たちは単にそのメタメッセージのままにそれを「見らされる」のである。「あちらを向いているお嬢さん」にも「老婆」にも見える絵を「ここにあちらを向いているお嬢さんがいますね」というメタメッセージとともに提示される瞬間、その絵は「老婆」ではなく「あちらを向いているお嬢さん」に「なって」しまうのである!そういうことが今後法廷では必要以上の力を発揮し、検察側と弁護側のメタメッセージ合戦となるのである。

分かりやすいプレゼンにはほかにもデメリットがある。たとえば、お話がシンプルに語られるということである。複雑な話は「わかりにくい」。だから複雑な話だったとしても、「まぁぶっちゃけて言えば、こういうことでっさ」と「わかりやすく」シンプルなお話として語ってくれる方が、「ほほぉ、そうなんだ」と飲み込んでもらえるわけである。「わかりやすい」説明を求めている人の前に、「わかりやすい話」と「複雑な話」を並べた場合、それは内容がわかった上でどちらが正しいかという吟味されるわけではなく、「わかりやすい話」と「わからない話」というように比較され、「わからない話」は「わからない」がために選択される可能性がなくなるのである。つまり、「わかりやすさ」合戦の趣が強くなると、「わかりやすい」話の方が全戦全勝するようにできているのである。

しかし、考えてわかるとおり、裁判の対処となっている事件はほとんどの場合そんな単純なストーリーではない。二つにも三つにも話はねじれ、しかも第三者、第四者・・・とさまざまな人の思惑が絡み、かつ愛憎のように表と裏が一緒になったような人間の感情が二重にも三重にもまとわりついているのが「事件」である。「俺、お前嫌い。だから刺す。そしたら死んだ。」というようなリニアな論理ではいい当てられないような関係性がそこには展開している。それが人間が人間に対して起こす事件なのである。

つまり、そもそも事件とは「わかりにくい」話なのだ。それをわかりやすくまとめようとするところに危険性がある。その省略の過程でかなりの情報量がそぎ落とされ、「真実」から遠く離れたところで「わかりやすいお話」が紡がれてしまうからである。

なぜこれまでは裁判が専門家によって営まれてきたのか。それは裁判という場が専門的に見なければわからないような複雑なことが絡み合っている場所故である。そこは言葉の世界である。複雑なお話どうしが重なりあう中で、「真実」が言葉によって構築されていくのである。「言葉」とは「真実」ではない。「言葉」が「真実」を編み出すのである。だから裁判では専門用語で「真実」が編み出されるのである。難しい概念は確かに分かりにくい。しかしそれは、その筋の人では「そう言わなきゃ何と言う!?」というぐらいにそれ以上短縮できず、それでいてポイントを逃さず的確に物事を指し示す、まさにそのための言葉なのである。だから、難しく分かりにくい概念だからこそ「真実」が照らし出されるのである。

それが分かりやすくなったらどうなるのか。おそらく、人々が持っている語彙の中で一番近いものをあてがい、でもそういう妥協の言葉によってポイントは的確ではない、そういう言葉を羅列する。さらに、こちらの側に賛同してもらうために、センセーショナルな言葉、つまりロゴスではなくパソスに訴える言葉を好んで使うのである。頭ではなく感情に訴えるのである。そういうプレゼンは分かりやすいし受け入れやすい。しかし、おそらく「真実」からは遠く離れていってしまうだろう。「愛」という言葉を使わず、「好き」という言葉だけでどうして「愛」を言い当てることができようか。できるのは、「好きー!!!!」と感情に訴えるか、「好き好き好き」と同じ言葉を長々と並べることぐらいであろう。

すべての神々しい審級を排除し、自分たちの手で物事を決めていこうという流れにはプラスはある。しかし、それはポピュリズムという世俗的な世論をも作り出してしまう。「自分たちの手」で本当に何でもやろうとするならば、まず私たちは賢くならねばならない。つまり、民度をあげずして人々の手に物事の決定権をゆだねることは、子供に日本刀を渡すに等しい。あなたはそれやりますか。

裁判員制度を導入するのが先か、それとも民度を挙げるが先かという議論は、鶏が先か卵が先かという議論にも似ているようである。しかし、もし裁判員制度を導入し、責任をまずは課し、失敗しながら民度をあげていきましょうというアプローチを取るならば、それ相応の努力をし、民度を確実に育てるようにしていかねば、「日本刀」によって血を流す人はあとを絶たず、おっかない社会になるであろう。

裁判という場はその意味で「神聖」な場でなくてはならないのかもしれない。神が審判を下すように、専門家という「権威」が「真実」を下すのである。裁判がそもそもそういう場であったとしたら、民への開き方というのは、裁判員という「素人」を神聖な場に送り出すのではなく、傍聴席を増やすこと、裁判の内容をもっと人々が知りたいと思うように思わせて足を運ばせることではないか、と思う。つまり、難しい話は難しいままにしておき、それを「理解」しようとする民を増やすという形で民に開くのである。

しかし、制度が始まった以上は僕個人の手ではどうすることもできない。ならば被害が広がらないようにソフトランディングするようなメッセージを発していかねばならないだろう。だから、僕ができることは何かというと、民に対し「わかりやすい話をベタに信じず、自分の頭でしっかり咀嚼せよ!」といい、プレゼンの内容を相対化することであろう。これは裁判員となった時にだけ求められる態度ではなく、宮台氏いわく「底が抜けたポストモダン社会」(つまり何が真実かが決定できないほど価値が多様化した社会)に共通して求められる市民の構えである。そして、それが民度なのである。

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2009年7月29日 4:48PM

歌手の川村カオリさんが亡くなった。ZOOって歌が好きだったが、ほとんどその他の事は知らなかった。でも数週間前、あるテレビ番組を見て、彼女の生き様や一人娘の存在について知り、人事とは思えなくなった。それからさほど時間がたたないうちにこの世を去られたことに戸惑っている。特に同じ年代の僕にとって、彼女の死は自分の死について、そしてその反対に自分の生について強く意識させられる。

そんな中ネット、中1の子が川村さんの死をきっかけに「死」の意味について考えている投稿に出会った。その子は親もやがて死に、自分も死ぬということ、それらに苦しみを感じ、恐らくは恐ろしいと思っているようであった。先々週僕も個人的にお世話になっていた先生がお亡くなりになったこともあり、今回の川村さんのご逝去も含め、僕自身考えることが色々とあったので、中学1年生にどんな言葉がかけれるのだろうかと考え、こんな投稿をしてみた。難しすぎたかな。

川村さんのことには僕もショックを受けています。検索中あなたのご質問に出会い、お話したいことがあって、登録を済ませ、はじめてコメントを書いています。ちょっと長くなりますが、よかったらきいてください。

人が死ぬということは「自然」なことです。ただそれを日常生活の中では「隠そう」としたり、できるだけ先に「延期」しようとしたりしているだけです。そういう態度も自然なことですが、それ以上に人が死ぬこと(生きているものが死ぬこと)は自然なことです。

人は死ぬのが怖いと思う。自分が無になるのが怖いと思う。だから宗教があります。死んだら生まれ変わるとか自分が生まれ変わりであるという考え(転生輪廻)も宗教的なお話です。「宗教」というのは(今は評判が悪いですが)、そのようなある話を用意することで、安心させるという機能があります。

ではそのお話は「本当」なのか。死んだらなくなるのか、それとも生まれ変わるのか。それは確かめようがない問いなんです。宗教はお話を用意するだけであり、多くの宗教があるということは多くのお話があるということであり、どれが「本当」のお話かと問うこと自体無意味なんです。

科学的に見れば、意識はなくなるというのが正解でしょう。でも、人に死を怖がらせるのは実はこの科学的な答えの方です。むしろ、強い宗教信仰を持っている人の方が、気丈にふるまい、安心してお亡くなりになることも多々あります。だから、死んでしまった「先」の真実は考えない方がよいのです。

人が「生きる」ということがリアリティを持つには、人が「死ぬ」ということがあるからです。死なないなら生きている「意味」は見いだせないし、「生きる」って言葉自体が無意味になるでしょう。だから、私たちにできることは自分の死や自分の愛する人たちの死を見つめることで、そこから逆算して自分の「生」の意味について、今生きていることの意味についてよく考えることです。死は悲しい。でも「死ぬ」から「生きている喜び」があるんです。生きていることの意味をよく考えるということは、「死ぬ怖さ」の裏側、いやその表側にある「生きていることの喜び」をその瞬間瞬間にありがたく思うことです。

もうひとつできること。それは亡くなった方を自分なりの仕方できちんと弔(とむら)ってあげることです。「あの人が死んだように自分も・・・」と思うのは自然です。でも、「自分も・・・」と思う前に、「あの人が死んだ」ときその「あの人」がどういう人で、どういう人生を歩み、それがどのようにありがたかったか、自分にどんなことを教えてくれたのか(反面教師という意味も含めて)、そして「ありがとう」、「安らかにおやすみください」という言葉をかけてあげるのです。その人のことを覚えてあげられるのは、その人本人ではなく、その周りにいた人たちやその人のことを知っている人たちだけだから。一人一人の心にずっとともり続けるろうそくのようにその人の火を消さずにともし続けるんです。

死ぬのは怖い。僕も怖い。でもその怖さは自分に執着しすぎるともっと怖くなります。自分が自分の家族のためにここにいるんだ、友達のためにいるんだ、仕事仲間のためにいるんだ、とやがて思えるようになってきます。それは中学の時ではまだ分からないかもれいません。でも自分がいい人間になって、愛され、いい仲間が増え、親を含めその方々の死に一人一人出会っていくとき、それがどんどん自分への執着への氷を溶かしてくれます。

川村カオリさんの残してくれた言葉を聞き返してみると、そんな人と人のつながりの網の目の中に自分がいて、自分がその人たちから「生かされていた」と思ってらっしゃったことが伝わってきます。そして、彼女がその人たちのために生きようと思っていることも。科学的には自分の意識はなくなってしまうかもしれないけど、その人たちの心の中に今度は自分が生き続けるのです。

ご両親が生きていらっしゃるからこそ、今、ご両親を大切にしてあげてください。おそらくご両親はあなたのことを生きるエネルギーにしてくれてます。僕が隣の部屋で寝ている娘が何事もなく生きてくれることを望み、その子のために自分もできるだけ長く一緒にいたいと思うように。自分が死んでもこの子がしっかり生きていってくれることを望んでいるように。物事には順番があるのだから、この子が生き続け、僕が先にこの世を去らなければならないと思うように。そのようにあなたのご両親があなたからエネルギーをもらい、死ぬことと生きることの意味をあなたと同じように問い続けているように、両親の存在が今こうしてあなたに「死ぬ」ことについて見つめさせ、そのことを通じてあなたに生きるエネルギーをくれると思います。

水谷修さんが言うように、がんばらなくていいんだよ、あなたがいてくれてありがとう、って思えるようになるといいですね。

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2009年7月17日(金) 9:22AM

東国原知事が衆議院選挙への出馬を断念した。6月30日の語りかけでそれを予言したというつもりはない。しかし、結果を見ればもっともの結果だったといえよう。

形としては、自民党が東国原知事の要求を読めなかったためという格好となっている。自民にとっては要求が高すぎる(マニフェストと総裁の二点)という「もっともな」理由であるし、東知事としては要求が呑まれなかったためという理由が付く。しかし、あまりにも白々しい演技であり、見ていて目を覆いたくなるほどである。

先日も記したように、東知事が言うような「人気=世論」というとう式は成立しない。人気はあくまでも人気あるという「感度」の問題でしかない。つまり、彼の「好感度」 が高いというに過ぎない。一方「世論」というのは感度という反応だけでなく、一度その人の言葉をじっくり咀嚼し、考え、その上で出した合理的な判断がその人を支持するという形をとったものの集合である。この東知事の「勘違い」は、「人気=世論」でなかったという事実のために「逆風」となって自分に跳ね返ってきて、結局は衆議院選挙に出馬することを断念しなければならなくなった、という事態に帰結したのである。一人の人間が国政へ参加しようと意思を表明し、党に条件を出すこと自体を否定するつもりはないし、それはその人の信念の問題である。ただ、それが「人気」ではなく「世論」に迎えられず、「人気」の針が振れなかったというだけである。

自民党も自民党である。東知事を担ぐということ自体が彼の「人気」にあやかりたいという下心がみえみえだった。あまりにも下品なやり方であった。と同時に、やはり彼らも「人気」と「世論」を混同しているのかもしれない。古賀誠氏の説明では、自民で出るという話が逆風となったが、他の党だったらよかっただろう、という言葉がそれを物語っている。 しかし、恐らく、民主ならその「下品さ」ゆえにまたしらけられただろう。そんなやり方で民主の風の強度を増そうというの・・・、というように。もちろん、 古賀氏の発言には、東知事の顔を立てようとする意図や、彼の人気に裏打ちされた国政への適正を傷つけない形で自らが彼に白羽の矢を立てたことを正当化しようとする意図があると いう側面もあろう。いずれにせよ、「勘違い」であり、かつ、「しらけた芝居」だった、というコメントであった。

結局、東国原知事と自民党の両者に「世論」の読み違いがあったということだ。そうした読みの甘さというか誤りに文字通りの「世論」の方がまったをかけたという形である。小泉「劇場」ではバカを見させられたが、少しは賢くなった俺らを甘く見るなよ、と。東知事の場合は彼の地元との繋がりが「知事」を任せるだけの後押しとなったが、国政には本当の実力と経験が必要である。途中で俺らのことをほっぽり出してのこのこ国政に行くような器じゃないよ、まだ。総裁なんて何言ってるの!?という反発が逆風となったのである。自民も自民だ。お前ら巨人か!、と(巨人ファンはそんなこと言わないだろうけど ;だから自民には「得策」に思えるのだろう)。

一言付け加えておくと、僕個人は自民から民主の流れは歴史的な不可抗力がかかっていると思っている。これまでは民主への流れが地元の保守層によって自民のほうにつなぎとめられていたのであるが、その延長にあった小泉劇場の新自由主義に顛末が格差拡大であったり弱肉強食であったという経験をしたり、今の硬直状態への不満も募り、民主への流れが解き放たれようとしているのである。今回の選挙で仮に民主党政権ができたとしても、次にまた自民に戻るということも十分ありうる。しかし、二つの政治イデオロギーを行ったり来たりしながら、私たちも何がどう違うのかを肌で感 じ、「民主の流れをベースにしかし共同体をどう確保するのか」という新たな問いについて考え始めるようになると思う。それは村民が市民になるときの痛みであり、市民になったとき村民のときに保障されていたあの「感覚」をどう失わずに済むか、という問題なのだ。

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2009年7月14日(火) 6:03PM

昨日の授業のコメントを研究室ブログより転用します。

4限は総合演習。今回はマクドナルドのCMの分析をしました。本当はマクドナルド化の後にやれればよかったのですが、DVDが手元になかったので週がずれました。まずはコミュ学的に確認すべきは、CMは表現という意味で「何かを意味しているもの」として「意味される」ということ。ちょっと回りくどい言い方ですが、それは機械的コミュ観を逃れるため少し正確な言い方をしたのです。機械的だと、CMが意味しているところを受け手が受け取るというキャッチボールになりますが、CMは必ずしもその意味を自分で決めることはできません。常に受け手の関与があってその意味するところが決まります。さらに言うと、その受け手の意味は人によって異なる。つまり、CM自体がself-fulfillingなメッセージを持っているという考えには気をつけなければならないのです。

次に、CMの効果はどこから生まれるかということ。CMが広告、つまり商品を買ってもらえるように作られたメッセージとして機能するためには、作り手とCMの受け手にある種の共犯関係がなければなりません。普通CMは作り手が言いたいことを言い、それを受け手が受容するという構図で受け止められます。しかし、今の時代うちの商品はこんなによいので買うべきです!という上から目線からは製品が作りにくい。それは消費者ベースのコミュニケーションモデルが一般化しているためです。商品と貨幣の交換というコミュニケーションにおいても、商品の価値はそのものの使用価値で図られるわけはありません。そのニーズがどのくらいあり、それがどのくらい手に入りやすいか、といった点から価値が決められます。つまり、常に消費者のニーズが先にあり、そこからドライブされる形でCMは作られるのです。消費者の欲望に点火するように、スイッチを入れるように、CMを作る。だからCMを分析するというのは作り手のメッセージを分析するというよりも、受け手側の価値観を分析することなのです。

ということで、CMを見てみると、まず出てきたのは(1)「超越性」ですね。いつでも、どこでも、誰でもマクドナルドが受け入れられているという前提です。つまり、場所を超越し、時代・時間を超越し、世代を超越し、人種を超越し、そして生物種をも超越する、そういった外へ外へと向かう遠心的な力をマクドナルドは持っているというように描かれています。次に(2)イメージ作戦。ノスタルジック、スタイリッシュ、ファミリー、ユーモアというあらゆるイメージに訴えます。ここには製品そのものの内容があるかないかは別です。「おいしいよ」とか「赤ちゃんも好きだよ」ぐらいに内容があれば、それにいろんなイメージを重ねて演出すればいい。それは内容がないのが内容となるようなCMと言えます。そして(3)人生の特別なmomentや日常の一コマをマクドナルドは演出する、ということ。いつもそばにいるという、恒常性を前面に出したイメージが描かれています。さらに(4)マクドナルドは新たに人が集まる場となる、ということ。現代は家族、社会、文化、そういうものがだんだん崩壊し、人間関係が疎遠になっている時代ですが、マクドナルドはそういう時代に合って新しく人が集まる場として機能するというイメージが描かれています。そして(5)マクドナルドにはReal Valueがあるという主張。Valueというのは一つのキータームであるのですが、一番代表的だったのは一つのボールから始まった物々交換がバリューセットに行きついた時、そこには付加価値が生じていて、最終的に元のボールがポテトとの交換で手に戻ってきたという話です。

これらの背景を考えると、大統領演説のあたりで確認したアメリカのイデオロギーとの重なりが見えてきます。アメリカはその歴史的背景からして、「自由」を開拓するという使命を与えられた国として自らを表象しています。フロンティア精神が示すように基本的に障壁を克服し、外へ外へと向かうベクトルに宿命づけられています。資本主義というのはその延長上に存在します。資本主義というのはニーズがあるところに値段がつきますが、国内のニーズが飽和状態になると新たなマーケットを探して外へと市場を拡大しなければなりません。国内の人が一家に一台車を持ったら、今度は一人に一台持たせるだけではなく、まだ車を持っていない地域を探しだし、そこに徹底的に売り込むのです。そこには倫理は関係ありません。あるのは需要と供給をベースにした商品の交換運動のみです。

マクドナルド化の特徴は徹底的な合理化です。それは障壁を乗り越え、どんどんと外へと飛び得ていく運動を支えるものです。つまり、マクドナルドのCMで見られた超越性という特徴は、このような資本主義やマクドナルド化する社会の原動力となっています。もちろん、これがすべてアメリカ化というわけにはいきません。何度も述べているとおり、アメリカは近代化の極端な実験場所という意味合いがあるため、資本主義自体はアメリカ化というよりも近代化によって生じてきた経済システムなのですから。ただ、なぜアメリカを中心にそれが動いてきたかというのはアメリカ化と近代化が重なっていたという証拠だともいえるのです。

授業はここまででしたが、みなさんはマクドナルドやマクドナルド化する社会をどう評価しますか。もちろん個人の価値観によって評価は変わると思います。しかし、「人によって意見が違う」では社会的な批評は成立しません。私たちは何を根拠に、また何を基準に社会を批判することができるのでしょうか。

僕個人は近代化というのは人間の移動が激しくなり、社会の流動性が高くなった今、必然のプロセスだと思っています。ということは、人間の自由を保障するために生じた国民国家という国家システムや資本主義という経済システムは避けられないという立場をとるということです。この点は皆さんはどうでしょうか。

もし上のような立場を取った場合、「まずい」のは国民国家や資本主義が暴走し、自由を保障するためのシステムが反対に人間の自由を脅かすという状態です。これを修正し、以下に国民国家や資本主義の暴走に歯止めをかけるかというのが重要な現代の課題となります。マクドナルド化はその「暴走」の一面であり、だとすれば、「暴走」としてのマクドナルド化に歯止めを止めるということが批判の根拠であり、基準になります。僕はそう考えています。したがって、人間の自由はよい、それを保障する国民国家や資本主義も認める、しかしそれが暴走することで人間の自由を脅かす事態が生じればそれを批判するというスタンスですね。だとすれば、マクドナルドの価値があまりにも拡大していく事態には批判の余地があるということになります。そのあたりはレポートの課題にもなりそうなので、このあたりでやめておきましょう。

いずれにせよ、世界の隅々までマクドナルドが浸透し、みんながマクドナルドのとりこになり、そういう社会がいいのか、まずい点はないのか、考えてみましょう。別に悪だというつもりはありませんが、自分の好みはちょっとさておいて、社会問題として考え、そして自分問題と対峙させてみましょう。

(吉武正樹の英コミュ研究室より:2009年7月13日分)

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2009年7月2日(木) 5:13PM

昨日、トム・ハンクス主演『天使と悪魔』の映画を見に行った。これは『ダヴィンチ・コード』の次の作品となるが、それ独自の映画として問題なく楽しめた。

テーマは科学と宗教の対立と調和である。人間の歴史の長いスパンで見ると、宗教という神聖なものが科学という新しい世界観に脱神聖化させられている過程を人類は経験しているといってよい。科学的言説が圧倒的な強さを持つと、これまでの神聖なものや神的なもの、また科学では証明できないことなどは、「うそ」もしくは「遅れている」と認識されてしまう。しかし、私たちは科学を徹底させることで本当に「啓蒙」(enlighten)されるのか。

面白いのは、科学が進んでも、最後には科学では説明できない何かが残る、ということである。科学は神を殺すが、実は神は死なない。科学が「神」なることによって「神」が生き残るのである。別の言い方もできる。「神」の「神聖」への懐疑が多くの人々に広まり、世界の真実への合意が得にくくなり、個人が個人の真実を生きていると感じるまでに個人化が進んでいる今日、私たちは人間の手で依拠できる「神」を必要とするようになった。つまり、みんなで決めたものを真実と見なそうと。それは民主主義の基礎であるが、気をつけなければならないのは、民主主義がポピュリズムに煽動されるようになると、そのとき人は自分を全能な存在と勘違いしてしまう。つまり、神という神聖なものにひざまずくような慎ましさを忘れ、人間、 正確には「大衆」が「神」となってしまうのである。

なぜ神がいるのか。それは私たちが何かそういう神聖なものに「恐れ」を抱くからであり、そういう「恐れ」を人間が忘れてしまうとしたら、恐らくは「神」は人間に苦難を与えることになるだろう。そして、自らを「神」であるかのように思ってしまう大衆は自らを滅亡に導くことになるだろう。今世界が暗い世の中になっているとすれば、それは私たちの世界から神聖さや神的なものを崇める心が消えていっているからなのであろう。

もう一つ。この意味では科学と宗教は対立するものではない。調和こそが必要である。しかし、それは可能なのか。映画の製作者はYESと言うかもしれない。それがアメリカだ。一方で常に「神」を中心とした認識論があり、しかし「科学」にどこの誰よりも信頼を持っている。意地悪な言い方をすれば、アメリカこそが宗教と科学を調和しているのだ!と言っている、と考えることもできる。と同時に、そう言うことによって、本当は「だってよ・・・」って最後に付け加えて、そういうアメリカを皮肉っているのかもしれない。だから、トム・ハンクス演じる学者が「教会」の話をしているとき、敬虔なカソリックの人が「君たちは(本当の)教会を持っていないじゃないか」と切り捨てたのだ。となると、恐らくは後者の解釈を取るべきなのかもしれない。

何れにせよ、なかなか深いテーマを扱った面白い映画であった。妙にグロい描写は不必要かなと思ったけど。素材の味を消してしまう濃い味のソースのようだった。

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2009年7月1日(水) 1:32AM

DAY2 (DAY1は29日更新分を参照)

二日目は僕が司会のセッションから始まる。医療における通訳の役割とはまさに異文化コミュニケーションの最前線であり、しかも、もっともコミュの倫理が問われるところであることを感じた。これはとても重要な領域である。次の発表はOUの後輩にあたるTAKU君の発表。Kramerian的で面白い。博論のできが楽しみである。発表についてはいただいたコメントを参考にしつつ、徐々に勉強していけばいいと思う。Good Luck!!!

Brian Spitzberg先生のランチ講演

スピッツバーグ先生とは14年ぶりぐらいの再会であった。僕が修士の学生だったとき、彼が中心となっていた「コミュニケーション能力研究」をテーマにしていて、あまりできがよくなかった僕は無謀にも先生に「何かわからないことがあったらメールででも質問していいですか?」とお願いしたのだ。先生は快諾してくださり、実際いくつか質問を送ったのであるが授業の合間を見てすぐに返信をいただいたのである。論文自体は必ずしも成功したとはいえなかったが、スピッツバーグ先生にはとても感謝しているし、僕の中でとても「いい人」なのである。空き時間に10分ほどお話させてもらい、その後ランチ講演を拝聴した。

スピッツバーグ先生は最近コミュのダークサイドを研究されているようだ。僕はこれは非常によい現象だと思う。マクドナルド化の中に「合理性が持つ不合理性」というものがあるが、私たちがどんなに「よい」と信じてきたものにも見方を変えれば常にネガティブな側面が付きまとう。「いじめ」を例にとると、「いじめ」自体は悪である。しかし、「いじめ」からその人が何か学んだり、そのつらい体験がその人の職業を決定付けていたり、という形でいじめは引き受けられる。そうかと思えば、我が子にはそういう思いをさせまいと、「いじめ」に繋がる要素を事細かに摘み、ある種の無菌状態でその子を育てたとすれば、これもある意味その子が現実で生きる力には悪い影響が出る可能性も否定できない。この種の議論は「いじめ」そのものを肯定するように思われるのではというリスクが常に伴うが、いっていること、つまり、良いものには悪い面が付きまとい、悪い面には良い面が付きまとうというのは、私たちの周りでは常に起こっていることなのである。

この話を聞いているとき、僕は異文化における西vs東の議論を思い出した。異文化では西洋の価値観に対して、アフリカ的価値観やアジア的価値観を対峙するフレームが存在する。僕が信頼を寄せている三池賢孝 氏(@ハワイ大学ヒロ校のファカルティ)はアジア中心主義を提唱する中心人物である。このような二項対立的な議論に対しては、残念ながら割りと風当たりが激しい。特に、先日書いたCSの枠組みからこうした議論は文化本質主義に陥る危険性があるということで人気がない。僕はこれが「西vs東」とかそういう地理的なイメージと結びつけて捉えてしまうためにおきてしまう誤解だと思っている。それらは東と呼ぼうと西と呼ぼうと、ある意味物事の裏表を指しているに過ぎない、と思っているからだ。ブーバーのI and thouしかり、yin(陰) and yang(陽)しかり。

だから、スピッツバーグ先生の話を聞いたとき、西洋的パラダイムの内部からその絶対性を崩すようなフレームワークが生じ、地殻変動が起こっている事態をうれしく思ったのだ。異文化だと地理的なイメージがゆえに歪曲されてしまうことが、「物事」一般の表裏というような語り口だと語られることで、うまくそういう内包された二重性に気づくのにはよい戦略のように感じている。これらにはあくまでも連続性があるのであり、もっともっと採用されるべき方向性であると思う。

もう一つ。先ほどの「いじめ」の例にも関係するのだが、なぜこのような二面性が常に存在するのか。それは人間が意味を実存的に志向する存在だからである。「悲劇」は社会的な意味で「悲劇」ではあるが、その「悲劇」を受けた人にとってはその悲劇をどう処理するか、その人の立場からの意味づけの問題が常に存在する。ある者はそれをトラウマ化させてしまい、あらゆるものごとの意味づけの根拠としてしまうかもしれない。また、ある者はそれを受け入れた形で、その意味を問い続けるかもしれない。「悲劇」は「悲劇だから」ゆえに「悲劇」なのではなく、その人の「受け止め方」によって「悲劇」に仕立てられているのであり、その意味付けが変われば「悲劇」にも別の意味づけが可能なのである。そしてそれは常に自分の生き方の問題と不可分であり、その意味で常に実存的なのである。本当はこういう風に人間にとっての「意味」という意味で語られなければ、これらの方向性を本当にコミュニケーション学として仕立てることはできないと思う。そういうところはアメリカよりも、むしろ「ヨーロッパ」や「東」の方が得意なのかも。

今後が楽しみである。

■岡部朗一先生を囲んで

個人的にはとても感慨深いセッションであった。僕が岡部先生にあったのは大学2年の頃。先輩からちょうど『異文化コミュニケーション』の本を紹介してもらい、「俺がやりたいのはこれかも!」と思い、感動したのを覚えている。その著者の一人が西南のギャロット杯のチーフジャッジでいらっしゃる!?それは行かねば!そしてレセプションの乾杯の後一目散に先生のところに行き、自己紹介した。かれこれ20年弱前のことである。

ちょうど修士で留学していたころ、岡部先生はフルブライトでミネソタ大学に。僕が一番最初の学期に書いた期末論文を送ってコメントをいただいたのを記憶しているが、何しろ右も左もわからないままに書いた、あんなわけがわからないものをよく岡部先生のような大先生に送ったものだといまさらながら恥ずかしく思う。若気の至りとはこのことだ。とはいえ、先生は丁寧にコメントをつけた手紙を送ってくださり、感動したことを覚えている。また、アメリカの学会でお会いした時は朝食にお誘いいただいたり、昼食や夕食にみんなで出かけるときに声をかけていただいたりしてもらった。その時にお会いした方は今でも僕の大切な先輩方である。これもすでに15年ほど昔の話。

こうした岡部先生から受けたご好意一つひとつが今の僕の血となり骨となっている。セッションでの質問の時に述べたが、まさに岡部先生は僕の日本のコミュニケーション学の父であったのである。

僕が受かったのは異文化コミュニケーションウォッチャーとしてのプロファイルも持たれる岡部先生がどのように異文化コミュニケーション研究を捉えてらっしゃるのかであった。僕が大変影響を受けたあの二冊が実はもともと異文化のテキストではなく、出版社の意向で異文化の本にさせられたという事実はちょっと驚きであった。こうした小ネタの後(こういうのがとてもお上手である)、先生は異文化をパースペクティブと捉えているということをおっしゃった。僕はこれは示唆に富む指摘だと思う。今異文化が直面しているアイデンティティの危機は「異文化」を実体的に扱うことに起因していると僕は考えている。文化はあくまでも意味作用として生じた帰結であり、同時に意味作用に影響を与えるシステムである。だとすればそれは実体というより一つの現象なのであり、それを実体化する限り、文化は何を文化として捉えるかに関してジレンマに陥ってしまう。それは対人コミュニケーションに影響を与える一変数でしかないのか。だとすれば、それはあくまでも対人コミュの研究であり、異文化コミュの研究ではないのではないか。それとも、文化は人々が住んでいる領域であり、私は日本文化に住んでいるとか、そういうものなのか。ならば境界線に生きている人は何者なのか。また文化の中に下位の文化があり、その下の下位の文化があり・・・と進んでいくと結局は個人=文化になってしまうのではないか。しかしそれはもう文化と呼ぶ意義をなくしているのではないか。

だから文化とはパースペクティブなのだ。人々が「文化」という語彙を持ち、それにリアリティを感じている限り、私たちは「文化」を対象化することができる。しかし、その文化とは実態ではなく、そこに私たちが文化を見出しているから「文化」があるのである。だから、文化を否定する必要はない。しかし、私たちの感じている文化へのリアリティにまつわる様々な問題や洞察から私たちは何かを学ぶことができる。そういう意味では立派な一つの学問足り得るとも言える。

このように、これからの異文化コミュ研究というのは、文化の実体論を免れつつ、しかし現実感覚にある「文化」という確信は大切にしたうえで、地に足をつけた研究をしていく必要があると思う。

さすがは岡部先生、見抜いていらっしゃる。

DAY1の吉見先生の講演の続き

吉見俊哉氏の講演は国際英語や英語支配に興味がある僕にとって、とてもインスパイアリングなものであった(おっと、支配されてる?)。吉見先生の発表の中に(後でお話したときにはあまり重視しているフレームではないとおっしゃっていたが)、アメリカにズムを考える上での三つの視座の一つに、文化的、軍事的、政治経済的次元の重層的な結びつきというものがあった。つまり、これらの時限が絡み合ってアメリカにズムを形作っているということである。僕はここに「言語的」次元があるように思える。

吉見先生は、自分はマテリアルなものに興味があるので(さすがマルクス主義?)、言語はどちらかというと逃げているんだよねとおっしゃっていた。なるほど。こういうのは人によって守備範囲がある。僕の関心はむしろ言語の方にあるので、どれだけこの三つの次元との重なりがあるのか考えてみたくなった。

まず、言語とは目に見えず、知らないうちに人の内面から支配をするのに最も有効な次元である。人はよく言語を道具と呼ぶが、道具なら「はい、これ」と見せることができるはずである。しかし、言語の物質性は音声という空気の振動か文字として書かれた鉛の痕跡でしかない。それは燃えカスのようなものであり、そこには「言語」はない。つまり、言語とは道具ではないのだ。もちろん、それは「道具的」ではある。それは道具という特徴が合目的的なものであるためであり、道具が道具足りうる前に何か目的があり、その目的を起点として後付けされる限りにおいて、人は言語を「道具的」と呼ぶことができる。この違いをまずは押さえておく必要がある。

では、言語とは第一義的に何か。それは私たちの目の前に広がる物理的世界に意味を付与し、「世界」を立ち上げるための媒介システムである。世界があって、名をつけるのではない。名をつけるためには名をつける対象が必要なのであり、しかし、物理的世界はどっからどこまでを何と呼ぶべきかというのは恣意的でしかない。ある言語ではハサミのことをGagaとGigiという二つがGuguというボルトのようなものでつながれているものと認識するかもしれない。その場合、僕らがハサミと普通呼んでいるものはその言語圏では存在し得ず、常に三つの別個のものがくっついているものとして認識されるのである。つまり、(ハサミ)が最初にあって「ハサミ」と名付けるのではない。僕らが切るものとして使うことができるそのものに名前をつける「意味」があると感じ、ならばそれを「ハサミ」と名付けようとし、その言語を学ぶ人は三つに切り取ることも可能だったが「ハサミ」という言葉を子どもの頃から学んだことにより、その物体を「ハサミ」として意味付けする。逆にその「ある言語」とやらではこの同じ物体をハサミとして認識せず、Gaga, Gigi, Guguの三つが重なっているものとして呼ぶ何らかの意味が存在する。たとえば、それは親二人と最初の子供が持つべきお守りであり、年に一回のお祭りのときに組み合わせるものかもしれない。だから一つの単語で済ますのにはあまり「意味」がなく、それぞれが名前を持っていなければ意味がないのである。だから、人が言語を身につけるというのは、新しい道具を手にすることではなく、人の物の見方を内側からつかさどるようなものなのである。それは人の認識に秩序を与えるものであり、見方を変えれば人の見方をコントロールするものでもある。

近代における三つのアメリカニズム時代のお話の中で、吉見先生は三つの時期を指摘された。(1)幕末・維新期、(2)大正・昭和モダン期、(3)占領期以降、の三つだ。これを見て、言語のことを考えたとき、ぴーーーんと来た。大谷泰照氏のフレームワークによると、日本による英語受容も「親英」と「反英」のペアからなる三つの時期を繰り返しているということだったが、まさに日本における英語受容こそここにあげられたアメリカニズムと結びついていたのではないか。

大谷氏のフレームと比較してみよう。まず、最初の親英は明治元年ごろから鹿鳴館落成の明治中ごろとされる。それから反英となり、次の親英は明治40年ごろから昭和に入るぐらいの中学外国語時数が6−7−7となったり、ハロルド・パーマーが文部省英語教育研究所所長に就任したころである。それから反英に向かった後、再び戦後から親英となる。ここでは1958年に中学外国語の実数が週最低3時間と減らされた時期から反英となるが、1991年ごろのバブル崩壊あたりから4回目の親英が始まったとされている。

もちろん、これらが必ずしも吉見先生のアメリカニズムの時代の三区分と一致しているわけではない。が緩やかな関連は見てとれるであろう。また、なぜ人々が英語を好きになったり、嫌いになったりと、振れ幅がこんなにも大きいのも吉見先生が指摘している日本人の「親米」意識を背景にしているように思える。「愛憎」というように、愛と憎しみは一つのコインの裏表のような面があり、「反英」といってもそれは「親米」の日本人がアメリカに裏切られたり、失望したりと、「親米」ゆえの揺れ戻しではなかったか。

これを一つの論と展開するには、緻密な調査研究が必要となろうが、吉見先生の『親米と反米』の本の内容(と基調講演でのお話)と国際英語・英語支配の枠組みとが結びついているのを直観した、とてもエキサイティングな時間であった。

ちなみに、僕は高校の時に演劇をやっており、非常に共感を覚えた。さらに、吉見さんが一緒にされていた如月小春さんという方だが、僕が高校のときに一番最初に取り組んだ劇の台本がその如月さんが書いたものであった。吉見先生と自分を同列に並べるつもりは毛頭ないが、思ったよりも近いところに存在する方なんだってことを肌で感じた気がした。

■おわりに

僕は今、日本コミュニケーション学会にしか所属していない。他にもいくつか入っていたが、時間がなかったり、お金が高くついたりで、今はこの一つだけとなっている。今、ちょっとコミュ以外の学会に繰り出してみようと思っている。それは自分の幅を広げるためであり、勉強するためである。学会に出るといろんな刺激が得られる。こういう刺激を年に一回ではなく、数回、しかも多方面からいただくとなれば、成長の糧になると思う。今年から少し積極的にほかの学会にも参加してみよう。問題は暇と金だが。。。

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2009年6月30日(火) 4:25PM

なかなか忙しくてゆっくり新聞を読んだりニュースも見れず、社会についていってない状況にありますが、先週でしたか、東国原知事が自民党からの打診に対して「総裁」を条件にしたということがニュースになっていたのが気になっていました。僕はこれは「ネタ」と思っていたのです。それくらいの覚悟で来て欲しいし(どうせ無理だろうから)、そんな「人気」で誰に声をかけるとかかけないとか、そういうのもうやめにしません?みたいなことだと思っていました。でも結構マジなんですね。

たまたま今日
ユーチューブで河上和雄氏が知事に苦言を呈しているところを見たんですが、知事にとってこれはマイナスでした(と僕は思います)。「自分の敵を切り捨てる語り口」というのはまさに先ほど2限の授業で触れ、個人HPで触れたことですが、河上氏の指摘に聞く耳を持たなかったことがその器の小ささをあらわしていたと思います。いや、むしろ、ポピュリズムの恐ろしさや、テレビでの「人気」を「世論の支持」とイコールで結ぼうとする考えは、やはり彼はテレビの中で作られた人間なんだということを露呈していたのではないでしょうか。

僕は彼が県民のためを思い、がんばっていることを認めます。しかし、自分の実力や能力を夢やビジョンだけで判断してはいけません。自分の実力や能力は自分ができないことや欠けていることを査定して初めてフェアに語れるものです。そういう自分に関する知的マップを持ってはじめて、さまざまな課題に対し、バランスを見ながら、落としどころを見つけ、政治力でリードすることができるのだと思います。

政治をする人には「あぁ、あなたの言うことは最もですねぇ。なるほど!」と片方でいい、それを自分の今の立場とつき合わせて考えることができ、その上で自分の立場をきちんと確認、必要ならば修正できるような度量が必要であると思います。河上氏のあの程度の(恐らく普通の感覚の大人なら誰でも口にするかもしれない)指摘に「おかしい!」と首をかしげるようであれば、まだまだ国政はまかせられませんよ。

よく知られた話ではありますが、合気道の達人だった塩田剛三氏が弟子に一番強い合気道の技を尋ねられ、自分を殺しに来た相手と友達になることだと言われたそうです。そんなエピソードを思い出しました。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログより)

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2009年6月29日(月) 9:37PM

この週末は新潟で開催された日本コミュニケーション学会年次大会に参加。最近は自分の研究発表をする時間がなく、代わりに学会内に設けられているコミュニケーション教育研究会の活動として参加することが多い。簡単ではあるが、今回の学会で参加したセッション等のコメントをしておこうと思う。

DAY1

■コミュニケーション教育研究会特別セッション(司会者&討論者として)

今年は研究会の特別セッションとして開催された「初年次教育とコミュニケーション教育の接点を探る」に司会者及び討論者として参加。日々の業務が忙しく、ほとんど初年次教育の勉強をせず、こちら側、つまりコミュニケーション学側からの論点をいくつか考えるぐらいしかできずに、本番に臨む。発言者の川島啓二先生(@国研)から初年次教育についての話を40分程度でうかがう。とてもわかりやすくかつユーモアあふれるトークであった。引き続き討論となり、立教大学の松本茂さんと僕が討論者として加わる。討論の司会は初めての経験であり、話を聞きつつ、どこをポイントとして拾い、どの方向へどのように持っていくかを常に考えておかねばならず、とても大変。常に、二歩先を進みながら話を聞き、自分の発言を考えるわけだ。川島先生も松本さんもとてもお話が上手で、ポイントも的確にまとめてくださるので、その間にいろいろと考える時間と余裕はあったので、なんとか場が持った。フロアの方にはどう映ったのかわからないが、自分としてはとてもよい勉強をさせてもらった。

初年次教育とは大学一年生に行う教育であるが、特に高校から大学に入る際にそのギャップを埋めるために行われる教育のことである。よくレメディアル教育、つまり補習教育が焦点にあたるが、実際にはそれだけではなく情報メディア教育やスチューデント・スキルなど幅広い。これにコミュニケーション学からアプローチし、初年次教育をコンテンツとしてコミュニケーション教育について考えていくわけである。一般的には初年次教育におけるコミュニケーション教育と言うと、プレゼンテーション・スキルや思ったことをうまく言えるという意味でのコミュニケーション能力のことと考えられている。しかし、コミュニケーション学を意味の生成に関する学問と考えると、初年次教育におけるあらゆる側面にコミュニケーションが絡んでいることがわかる。たとえば、情報メディア教育におけるメディアリテラシーもどのようにメディアにおける情報を理解するのかという問題に関係しており、そこには必ず解釈や意味、またそれを考えるための批判的考察やメタ的視点が必要になる。これはまさにコミュニケーション教育の一環と言える。

今回の討論で焦点にあてたことは以下の通り。まず、初年次教育が持つ母性的な役割の強さについて。確かに、自分が思うどおりにならない社会や環境を父性としてとらえれば、それに適応するために世話をするのは母性的な役割ということになるのかもしれない。しかし、母性的なサポートでどれだけ父性的な社会環境へ適応するための能力を養うことが可能なのか。特に日本の場合、父性がうまく機能しないまま母子関係の延長として家や社会が捉えられる傾向にあるし(だから社会を均質的に見、社会に属さないとみなされるものは社会の「外部」に見なされる)、また、携帯電話等の普及により若者のコミュニケーションは近くにいる他者より遠くにいる知り合いとのコミュニケーションが優先され、そこではますますコミュニケーションから他者性が失われている。だとすれば、知っている者通しのなれあいのコミュニケーション環境とその中にうずもれている自我に対し、切れ目を入れる父性をどこかで経験することが求められるはずである。

もちろん、だからといって社会の荒波に放り込めばいい、というある意味での「理想論」を掲げるつもりはない。それが機能せず、すぐに不適応を起こしてしまうから初年次教育が大事なのであって、ならば、比較的抵抗なく「他者」に対峙できるようなきっかけや環境を演出するか、ということがカギとなるであろう。立教大学での試みはある意味参考になるものであった。スキル以前にまずは「ここに入ってきてよかった」というのは、それがコミュニケーション学的にいえば一つの意味付けであるかぎり「幻想」であるに過ぎないのだが、そのような肯定的なアイデンティティを埋め込まれることが彼らは不安を取り除くためのきっかけを得ることになる。そしてセッティングされた留学やインターンシップや講演会などさまざまな機会へと足を運ぶいざないとなる。内容的には「体験型」や「グループワーク」が中心となっているが、このように「他者」と過ごす機会を与え、しかもスモールグループという顔が見える範囲での他者とのつながりを体験することは、次へのステップへ足を踏み出すためのきっかけになる。このような演出はある意味精神分析における患者とカウンセラーの関係にあり、カウンセラーが他者の代替物となり、患者が見せるカウンセラーへの転移をうまく利用して、社会というより大きな他者にいざなう、という意味合いがあるように思える。また、活動の中に振り返りなどを入れることにより、コミュニケーションに必要な「メタ」の視点、つまり鳥瞰的・俯瞰的視点を取り入れ、自分の体験の意味付けの過程を可視化しつつ、それがどのように形成されているか内省する機会が与えられることになる。このような処方は今後の初年次教育の在り方における一つの道筋を表しているように思う。ただし、こういう環境整備型のやり方は参加するものと参加しないものの間の格差を生み出す可能性もあり、さらなる工夫が求められると思われる。

初年次教育について書かれてあるものをコミュニケーション学的に見てみると、教育がビジネスモデルで捉えられるという大きな背景が見てとれる。これは文科省が大学間の競争をあおっているという基本姿勢を反映したものでもあるのだが、大学が生き残るためには「出口」が非常に重要となる。つまり、どれだけ安定した就職率を保持するか、である。たとえいくら教育の内容がよかったとしても、出口で躓けば意味がない、という考えがそこにはあり、そこに失敗すると自然に大学の「ニーズ」は減る。しかし考えても見てほしい。出口を広くしようとしても、市場における門戸はそんなに広いわけではない。だとすれば、度の大学も出口を広くしようとすれば、その限られたパイの奪い合いは避けられず、つまりは大学間の競争にならざるを得ない。もしわが大学が教員採用試験合格100%!なんて奇跡が仮に起こったとしたら、それは私たちの大学の学生が優秀な成績を取ったということには変わりないが、それは同時に他大学の採用試験合格率の犠牲の上に成り立っている数字なのである。

もし私たちが出口に大学の生き残りの希望を見出すとすれば、大学生活4年間の「意味」は自ずとその設定された「出口」から逆算された形で意味付けされる。つまり、どの出口を選ぶのかを早く決め、何年生までに何をするかを決定し、具体的目標におけるステップを決め、あとは出口に向かってひたすらまっすぐ走り続けるのである。そこでは学びは直線的であるかのように捉えられている。しかし、川島先生もおっしゃったように、その前提こそあやしいものである。内田樹さんの言葉の焼き直しでしかないのだが、学び=直線的という考えが成立するには、「私たちは学ぶ前にすでに学ぶべきことが何かを知っている」という前提が必要である。しかし、学ぶことってはじめからわかっているとは限らない。たとえば、もしかしたら物理を専攻している学生が英語の授業で先生が話していたワシントンDCの旅行の話が取っても面白く、僕もそこに行ってみたい!と思って実際に旅行し、するとそこで政治学に目覚め、過去の大統領のスピーチを片っ端から読み始め・・・・という連鎖の中で、その物理学専攻の彼は英語力と政治学の両方を学んだ、そういうことがあっていいのが学びである。また、森博嗣の『スカイ・クロラ』が面白かったので彼の本を何か買おうと思って本屋に行ったら、その隣においてあった森巣博の『無境界家族』を間違って買ってしまい、そしたらこれがとってもおもしろく、森巣博と姜尚中の対談本である『ナショナリズムの克服』を買い、これが面白くて姜さんとテッサ・モーリス=スズキとの対談集『デモクラシーの冒険』を買い(ちなみに森巣とモーリス=スズキは夫婦である)本を買い、これが面白くて・・・と読書の連鎖から何かを学ぶことだって大いにありうるのである。むしろそういう脱線こそが学びの本質であるのではないか。出口を先に決め、それに向かって知識を得ていくやり方、それはまさに自動車学校で免許を取るようなものである。しかし、私たちは自動車学校の先生のことを講師とは呼んでも教師とは呼ばないのが常である。

まだまだ考え足りないことが多いし、内容としては浅いのであるが、おおよそそんなことを話し(もしくは考え)、討論を終えたのである。今回の初年次教育との接点を探るというやり方は「初年次教育」がコンテンツとしてあり、その具体的コンテンツへコミュニケーション学が絡んでいくことで結果的に「コミュニケーション+教育」のあり方が模索できる、というメリットがある。このやり方は非常に面白い。今後幾度かそんな感じで進めていくのも面白いかもしれない。しかし、毎年4人を中心にやっていくのは少々つらいところもあり、少し会員のようなものを募り、レトリック研究会みたいに一年ごとに中心となる人を回して企画していくのもいいのかも。

■吉見俊哉氏の基調講演

自分の「勘違い」した態度を恥じた。吉見俊哉氏はカルチャル・スタディーズ(CS)の第一人者といっても過言ではない。そんな吉見氏の著作を僕はほとんど真面目に読んでこなかった。CSは異文化コミュ研究で90年後半ぐらいから旋風を巻き起こし、そこからクリティカルな研究が台頭してきた。その流れ自体はよいことと思いつつ、批判ばかりで鼻につくようなものもあり、どうしてもCS自体に対してその可能性よりも限界のようなものばかりが目についていた。したがって、僕のCSの勉強といえば、入門書をちょこちょこっと読む程度のものであり、そのくらいの理解であったといってもよいだろう。そんな僕はカルチャル・スタディーズのことをカルスタ、ポストコロニアルスタディのことをポスコロ、つまり、「カルスタ・ポスコロ」と軽視したような態度を持って呼んできた。「ようやくカルスタ・ポスコロも飽きられてきたね」とか言って。

でもそんな僕は間違いだった。吉見氏の『ポスト戦後社会』(岩波新書)や『親米と反米』を読んでみると、そこには緻密な洞察と論理構成、そしてその背後にある膨大な資料と勉強が見てとれる。吉見氏の問題意識もとても共感できた。僕はそんな仕事をきちんと見ることもなく、「カルスタ・ポスコロ」なんて呼んでいたわけだ。恥ずかしい。心改めます。

しかし、一つだけ言っておくと、CS的な研究にも質の良いものと悪いものはあると思われる。「悪い」ものはないか。なぜ僕はCSにアレルギーを持ったのか。それは研究そのものの中身に関してというより、その「語り口」のためであったように思う。なによりもまず、僕が大体拒否反応を示す研究にはその背後に研究者の「怒り」が透けて見える。「怒る」ということは「怒りの対象」があるということであり、すべて「vs敵」という媒介を通して「意味づけられる」ことになる。すると研究というよりも、どこか「先に結論ありき」のような片寄りを感じてしまうのである。言語行為論的に言うと、吉見氏の著作は発語行為(locutionary act)としての話される内容が先にあるように感じることができる一方、「鼻につく」CSの研究は「怒り」を解消しようとする発語内行為(illocutionary act)が先行するように感じてしまうということになろう。ここまで言うと言いすぎかもしれないが、そういう「批判」している自分に酔っている。どうしても、正義の味方としての自分へのナルシシズムをそこに感じてしまうのだ。

だからCSやるなら吉見先生のような「中身」重視のCSをやってほしいと思う。

講演の内容についてのコメント、および二日目の話は後日更新予定。 (→DAY2に書きました)

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2009年6月13日(土) 0:52AM

Discoveryチャンネルが面白い。英語の耳の練習で見ていたのだが、なかなか勉強になる番組が多い。今日、『エコ未来都市:高層ビルの効率化』という番組を見た。基本的にアメリカのチャンネルなので、舞台はアメリカ。で、あのアメリカでも今はエコの研究や環境の問題にかなり熱心に取り組んでいるという印象をもった。

番組名が示すとおり、ヒートアイランド現象や温暖化、クリーンエネルギーの必要性といった課題を受けて、取り組まれている4つの研究を紹介し、それぞれのいい点や悪い点を大学教授(第一人者的な方?)が考慮しながら、一つ自分が研究を採用するとすればどれを選ぶか、といった構成だった。

簡単に言うと、(1)エアジェルという熱を外に通しにくい素材の開発(29%のCO2削減率)、(2)日中の太陽の光を集め、部屋の電気の代わりに使う技術(4%の削減;しかしこれは学校で採用したら子供たちの心が落ち着いたという副次的効果があるらしい)、(3)屋根に植物を植えることで放熱を抑える(4%の削減)、(4)ナノ・ソーラー・テクノロジーを使った、塗るだけで放熱を抑えるシートの開発(51%の削減)、といった研究であった。どれも面白い。

もちろん、これらの開発の裏にはかさむエネルギーコストと化石エネルギーへの依存を少しでも解消すべきという、エネルギー問題という動機があることは間違いない。しかし、「白い猫でも黒い猫でも鼠を捕る猫はいい猫」(ケ小平)というように、そういう裏の動機があろうと、資本主義の限界の一つの大きな兆候である環境問題に取り組むことはこれからの進むべき方向であることには間違いない。

国のかさむ借金は自分たちの子どもたちからの借金であるのと同じように、環境問題に取り組むことは自分たちではなく自分たちの子どもたちにどんな環境を作ってやるかという問題なのである。それは私たち当事者に対する「現在の問題」である以上に、自分の子供やまだ見ぬ世代に対する「未来の問題」なのだ。

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2009年6月5日 7:08PM

数週間前のことになる。BSを見ていたら、ニューヨークの流行を取り扱う番組を目にした。いつの放送かわからないので、今も流行ってるのか、どのくらい流行ってるのか、そういうことはわからないけど、とにかく内容としては「6つの単語で短い詩のようなものを作る」といった言葉遊びについてであった。日本で言えば、5文字と7文字の組み合わせで作る、俳句、川柳、短歌、そのようなものであろう。

途中からなのですべての文脈がわからないのだが、母と娘の関係がうまくいっていないとき、母が少しでもきっかけになればと思い、娘に買って渡した本がこの6語を使っての言葉遊びの本で、少しずつこれらを作って互いを表現し、それを通して話をすることで、少しずつ母娘の会話を取り戻した、という話であった。

「自由に自己表現しなさい」ということほど難しいことはない。むしろ、話をするときに「型」という縛りがあるからこそ、私たちは何らかの表現のきっかけをつかむのである。それは手垢の付いた型かもしれない。しかし、人間は手垢の付いた型を打ち破っていくことで「自由」な表現を手にし、また、そうすることができるだけの想像力・創造力を持っている。

外国語学習における文法もしかり。文の型を押さえずして、自由に話すことは不可能である。型があってこそ、それを元に生み出す瞬間にこそ「自由」は宿っている。だから「ぺらぺら」にしゃべりたい、つまり、「自由」に外国語でしゃべりたいならある程度の型=文法は必要なのである。それを規則として教えられるのか、自分で規則を体験しながら発見していくのか、どちらが好みかは学習スタイル(learning styles)の違いである。また、授業が文法が目的化してしまうことによる反動もあるかもしれない。しかし、文法を学ぶこと自体を「悪」とし、そこから離れることがあたかも「ホンモノの外国語学習」であるかのような売り文句を使っている会社は似非である。

よくネットで目にする宣伝に、「英語を勉強したいなら勉強するな!」というのがある。言語道断である。「勉強をしたくない」ことを担保に客を集めるやり方は、人々の持っているコンプレックスにつけこんでいるという意味で、新興宗教のそれとさほど違わない。そもそも、勉強をしたくない人が英語を身につけられるわけがない。英語のように違った意味システムを持つ言語システムになれようと思えば、どっぷりそれに浸って勉強していかねば身に付かないのである。「シャワーのように英語を浴びる」ことの必要性をそういう広告はうたっているが、それは否定しない。しかし、物理的な音声を聞くだけではそれは雑音と同じである。それを「意味」として聞くように意識を集中させることが不可欠なのである。

ちょっと話がそれたが、「型」があるから自由であり、型を見につけるにはそれなりの献身・専念が必要なのは、何事でも同じである。何事にもそんなにうまい話はない。

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2009年5月26日 10:52PM

読売新聞のHPを見ていたら、Y大学など4大学で学生が不満を漏らすダメ教師をなくすために、教職員と学生が「あっとおどろく大学教師NG集!」というものを作成したというニュースがあった。

 

何がNGになっているかというと、「イケメン学生をひいきする」。なるほど、それはいけませぬ。

 

殴り書きで板書が読めない」。なぬ?そいつはちょっと一言言わせていただきたい。確かに読めない字で書くことはよいことではないかもしれない。しかし、そこに小学生のころからしみついた、先生がポイントはすべて分かりやすく黒板にまとめてくれて、学ぶ側はそれを一字一句丁寧にうつせばよい、という受動的な学習態度の延長が見てとれる。しかし、学生諸君に言おう。大学ではそんな「わかりよい授業」はやりません。多様な学生を目の前にして、同じような学習を保障できるはずがない。ある人は授業中のAという箇所で「はっ」とし、ある人はBという箇所を面白いと思う。それが多様な人たちが同じ講義を受けたときの自然な反応である。つまり、大学では何を学ぶかは学習者に対し開かれているということである。ならば、ノートの取り方も多様であるはずなのである。どこが授業のポイントかはもちろん話し手はある程度意識している。しかし、同時に受け手側が重要だと思うことを主体的に感知して、自分なりのまとめ方でノートに写し取ること、これが大学での学びのスタイルなのである。手とり足とりノートのまとめ方まで提示する暇もないし、する必要もない。僕の場合は言いたいことが先に出るので書く方が追い付かず、確かに読みづらい文字になることも多い。したがって、最近は努力はしているつもりである。しかし、授業評価に「黒板の文字は見やすいか」など書いてあれば「見やすくかけ!」と言うに等しく、おのずとそこの平均はがくんと下がるのである。いっそのこと何も書かずに「該当なし」にしましょうか?まぁ、そんな一方的な要求はしないので、学生諸君も板書に頼りすぎぬように。

 

次。「どうせわからないだろうと見下す」。あらまぁ、案外おこちゃまなのね(この言い方がまずいのか?)。僕自身はそんなトーンで話した覚えはないのであてはらまないと思っているが(それはわからないけど)、だからといって何なのだ?大学教師が言うことだ、そうすらすらわかっては困る。ならば、「どうせわからないだろう」と言われることはむしろ真実を述べているのに等しい。ならば、そう言われた、もしくはそんな態度を取られたとすれば、己の無知を恥じなさい。もしくは、自分の知的マップに欠けたその箇所を埋めるために、一層の努力をしなさい。それこそが大学の学びなのである。繰り返すが、手とり足とり教えるのが大学ではない。

 

次は何だ?「学生を無視し、猛スピードでしゃべりまくる」。なるほど。納得できる部分もなくはない。しかし、そんなんでダメ教師の烙印を押しつける君たちは何を学びたいのか。90分で10のことを学ぶより、同じ時間で20のことを学ぶ方がよいのではないか。そんなに詰め込まれたって困るというだろうが、そのために家での学習や独学があるのである。一単位はちゃんと家庭学習の時間こみで一単位と定められているのである。家で予習もせず、ノートも見返さず、授業だけで「学んだ」と言うのなら迷わず「不可」をさしあげましょう。あ、もちろん、そんなのアカハラだとケチをつけられては困るのでやみくもに不可など付けないし、僕はつけるのにかなり戸惑いを感じる方ではあるが、単位には家庭での学習こみであるという真実だけは理解して臨んでいただきたい。ということで、考え方としては「遅くしゃべる方が学生の程度が低いとなめている」と思ってほしい。幼児に対しておこちゃま言葉で接するように。

 

次に行こう。「飲食や私語、化粧を注意しない」。ごもっとも。でもその前にそんなことしないでおくれ。もちろん、こう言う人はクラスメートがやっていることを想定しているのだろうが、ならば自分でも注意してみたらどうだろうか。小学生の頃とかは「ちゃんと聞こうよ!」とか「食べたらだめなんだよ!」ってよく互いに注意してませんでしたか。面倒なことは権力に任せるという構図が見え隠れする。私たちは取り締まるための警察ではありません。しかし、教師がそれを止める責任があることは認めてのことである。

 

次は「遅刻し、時間が来ても終わらない」。まぁ、遅刻はいけませんわな。時間が来ても終わらないと皆さんの都合もありますからな。まぁもっともなことではあるが、終わりに関してはもっと学べて「お得」とぐらい思ってくれる方もいてほしいものだ。教える側もある意味自分の時間を削ってやってるのだから。ちなみに、教師が遅れてきたらその間は自習していてもよいのだがあなたはどうだろう?

 

家族の自慢ばかりする」。正直これはよく意味がわからないのだが、自慢とはどういうこと?私の奥さんの手料理はおいしいとか、娘が言葉を教えたとか?そういう脱線はいらないってこと?OK。ならば脱線はしないでおこう。

 

授業の準備をしない」。まぁね。確かにそれは責任の放棄であろう。しかし、一方で、授業のすべてを準備できるとは限らない。授業は生ものであるから、その場でスパークする方に知的価値があることがある。すべてを準備し、それを提供するのであれば、それはインターネットに更新して読んでもらうことと変わりない。人がわざわざ金を払って劇場に足を運ぶように、授業もライブであるという側面も覚えておいてほしい。もちろん、それは一面であって「準備はすべき」であるということは賛成する。ただし、そういうなら予習・復習も授業の準備なのだが現状はいかに?

 

最後に、「欠席学生を罵倒する」。まぁ、罵倒はよくない。話せばわかるのだから。ただ、欠席を権利と思うことはよしてほしい。サービス提供者(教師)vs顧客(学生)という構図で考えるなら、これは確かに権利の遂行である。しかし、教育はビジネスの契約とは違う。私たち教師には目の前にいる学び手に何かを学んでもらう責任があり、学び手の方はそれに答える義務がある。したがって、欠席はむしろ義務の放棄であると考えられる。だからといって僕は15回すべてでなければ学び手の義務が果たせないとは思わない。一回休んででもやらねばならぬことというのも人生には数多くあるだろう。一回の義務を放棄し、もう一方の学びを手に入れたのなら、それは自己責任で休むべきであろう。仮にそれがしょうもない理由に見えて、(よくないかもしれないが)教師に罵倒されたとすれば、それは半分は教師の責任、しかし、もう半分はあなたが休んだことによる責任の放棄の自己責任の一部であることも承知しておいていただきたい。

 

4大学で作ったというこの項目(例の一部かもしれないが)を見てみると、どうも教育をサービス業と考え、教師を「教えてあげる側」、学生を「学ぶ権利があるもの」という前提があるように思える。教師は顧客のニーズにこたえるべく、できるだけ顧客のレベルに自分を下げ、わかりやすくゆっくりはっきりと話し、板書も丁寧で読みやすく、ベストな環境を整え、自分が学ぶものはこれだという答えが最初から存在している、と思っている。残念ながらそれは違う。確かに私たちは学生に学んでもらう責任はある。しかしそれは学ぶ側の権利ではなく、学ぶ側の責任を伴っており、その両輪がある偶然で駆動し始めたとき学びはスタートするのである。つまり、それを学生の権利と考えること自体、知の水準を下げることに等しい。だって、学生が求めているそのような教師が教える授業からは学ぶ量も少なく、わかりやすいものしか分からない頭になり、手とり足とりしてもらなわないと学ぼうとせず、授業の中で話されることが知のすべてだと思い、そんな条件の中で学ぶことなんてたかがしているからである。

 

おそらく4大学で作ったと言われるこのビデオは、大学側もそれなりの使命感をもって取り組んだだろうし、学生も学ぶ意欲に満ちた学生が取り組んだものと思う。その点においては敬意を払う。しかしだ。教師にばかりNGを突き付けるという態度に根本的な「学び」の取り違えがある。ビジネスモデルの教育ではそれが可能なのだが、教育がビジネスではない以上、教師に付きつけているNGを反転させればそのままNGな学生になるのである。むしろ問題はそちらにある、ということも言えるぐらいだ。

 

ということで、NGな学生を考えてみた。

 

・イケメン教師・美人教師をひいきする

・板書が読めないと文句をたれ、聞きとる責任を放棄する

・「どうせわからないだろうと見下す」と言って自分の無知を教師のせいにする

・ゆっくり話させて学習量を減らそうとする

・飲食や私語、化粧をし、周りの人もそれを他人事のように教師に管理を押し付ける

・教師が来ないと学びを始めず、時間を過ぎるとそれ以上学びたくなくなる

・授業に関係ないことは学びと思わず、自分は学ぶ準備をしてこない

・授業の筋書きはあらかじめすべて書けると信じている

・欠席を受講者の権利だと思っている

 

ちょっとおちょくりすぎたか?すまない。

 

まぁ、すべてを学び手のせいにはしないし、教える側の我々も責任もって教えなければならないことには変わりないので、師と学び手がスパークするようなそういう関係を築くところから始めようではないか。それこそが作成すべきビデオのテーマではないかと考える。

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2009年5月11日(月) 2:28PM

今日()はまとめてスピーチの原稿審査をやってしまった。

いろいろとコメントすべきことはある。 思いつくまま言っておくと、まず、トピックや内容が幼稚なものが多い。英語で書いているから気付かないけど、日本語に直したら中学生でもやれるスピーチだったりする。例えば、「Aは問題だ。だからBをすべきだ。」という単純なロジックが見られました。Aに「寝坊」を入れ、Bに「早起き」を入れてみれば、そのロジックの穴が見えるでしょう。もっともなことを言ってるんだけど、問題の核心を捉え損ねているんですね、このロジックは。つまり、We all know that we should get up early, but our challenge is to think about why we cannot get up early even though we know we should. ♪わかっちゃ〜いるけどやめられない〜ってわけですよ。この場合、「なぜ(=原因)」を徹底的に追及することが重要です。そしてそれを解決すべく徹底的に練られた解決法ですね。これをしっかりやるだけでも全然ちがいますよ。

次に、トリビア的スピーチの浅さが目立ちます。確かにスピーチには驚きや最新の知識が必要です。しかし、スピーチの大前提として、そこに自分の「思考」が入っていなければならないのですよ。「みんなこれしってる?俺知ってる。ね、ね、びっくりしたでしょ。これやってみてね。」っていうロジックには正直思考は必要ありません。これは情報の横流しであって、自分はただのパッサーであり、それなら誰でもいいんですよね、あなたでなくても。スピーチの醍醐味は思考を聴衆にぶつけてみて、そこの反応や変化を楽しむことです。知ったかぶりだけではだめ。

ほかには、重要なトピックを取り上げているんだけど、解決になるといきなりトーンダウンしてしまうものがありましたね。たとえば、社会的大問題を取り扱っているのに、解決法が一人一人の地道な努力に訴えかけて終わっているもの。まぁ、ちりも積もれば山となるわけですが、7分程度のその一回のスピーチで世界を変えれるなんておごってなんかいちゃぁいけやぁせんよ、あんたぁ。「ゴミの不法投棄が問題になっています(社会レベルの問題)。だから、みんな一日一つずつゴミを拾いましょう(個人レベルの問題)。1億人の人が一日に1個ゴミを拾えば、一年間に365億個のゴミがなくなります(個人レベルの持続による社会レベルの問題の解決への期待)。」ていうのは正論ですが、まず無理です。

この個人レベルと社会レベルの解決はいい「あんばい」が重要です。以上のように社会問題を個人の問題だけに還元してしまっては解決は難しい。そこに足りないのは社会レベルでの解決、つまり、社会として、または集団として何をどうやって解決できるのかというようにマスレベルでの解決を提示することが必要です。ただ、重要なのは、マスレベル解決だけでは抽象的すぎるので、そのマスレベルの解決法に個人がどうかかわれるかという視点から考えてみることは意味があります。ですので、あり体に聞こえますが、一方だけではだめ、社会レベルの解決を綿密に提示しながら、そこでの個人のアクションにまで降りてくること、これがひとつの典型的なやり方ですね。みんなこれでは面白くないので、そのあたりは個性を出してもいいとは思います。

もう一つ書いておくと、英語を話すときの「力み」具合に気をつけよう。英語スピーチの大会に出ると分かりますが、なぜか日本人が英語のスピーチをしようとすると、妙に「キモくなる」ことがあるんです。妙に英語っぽく言おうとしている「痛さ」とその割には全然「いけてない」という感じなんですよ。そういうステージはありますが、そういう方は良質のインプットが不足しています。そしてそれを真似てみようとする努力が足りません。日本語と英語の発音の仕方はモードがまったく違います。だから、英語をうまく話すときの身体性は日本語の時に必要とされるそれを違うモードを採用して話す必要があります。英語を話すぞ!と意気込んでいるんだけど、身体の動きがぎこちないんですよね。また、流暢にしゃべろうと思ってすらすら言ってるんだけど、一つ一つの音があいまいになってしまい、やっぱり「キモ」くなったり、まったく聞き取れない「流暢な英語」になってしまうんです。この場合は、ちゃんと英語の一つ一つの音が身体にしみついていないのに、先に進みすぎて、すらすら読もうとして原型をとどめきれないんですね。ナウシカでいると、まだ体が固まっていない巨神兵が動こうともがくが、体はどろどろと溶けている、あんなイメージですね。基礎が固まってないまま「流暢」にやろうとすると、形ができていない発音がどろどろと「型崩れ」を起こしてしまうんです。

いつもジャッジしてて思いますが、スピーチがしっかり書けてると発音やリズムがダメ、発音やリズムはうまいが内容が全然幼稚、そんなパターンが多いですね。みなさん、日本語に慣れ親しんだ大学生がスピーチをするんです。しっかりと英語を勉強し、かつ大学生らしい内容のものを書き、それなりに英語的な構成の仕方や思考パターンを使ってみる、すべてを徹底させる努力してみてください。すると1位なんて簡単ですよ、たぶん。

ちなみに、こんな風に書くと、英語支配を口にする僕は矛盾してるとお思いかもしれません。それは違いますよ。英語で立派なスピーチを書き、英語らしく、そして立派にプレゼンできることは、英語を称賛することではありません。新しい思考モードと身体モードの両方を自分の幅や視野を広げるために身につけることなんです、それは。野球出来る人がテニスもできるようになるという感じです。それは野球を忘れることではないんです。難しいのは、英語モードの思考やプレゼンモードは、割と近代的な世界で求められるコミュニケーションでもあるんですよ。以心伝心やパソスに訴える(感情や情緒に訴える)コミュのいいところもありますが、それは割と共同体ベースのコミュスタイルであり、他者性がそこに意識される場合にはどうしても説得的なそれになってしまいます。いってしまえば、みなさんは共同体ベースのコミュもでき、近代的なコミュもできる、そんな訓練をしているということなんですよ。田舎人でありながら、都会人でも入れる感覚です。時代は前者から後者に移っていますが、その中で両方に精通し、できるということ、それが最終的なスピーチのお勉強・訓練の目的です。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログより:2009年5月6日)

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2009年4月24日(金) 5:22PM

くさなぎ君が逮捕された。別にファンというわけではないが、なぜか想像以上にショックを受けた。

マスコミ的には格好のネタだ。いっせいに彼を「容疑者」呼ばわりし、淡々と逮捕の事実を報道する。テレビは人を持ち上げて落とすという性質があると思うが、くさなぎ君の場合は(すでに上に持ち上げられていたため)勝手に上から落っこちてくれたので、「事実報道」らしく聞こえる。報道番組の場合、こういうニュースは冒頭に持ってくると品格に欠けるし、後に持ってくると「まだか、まだか」と視聴者を長い時間テレビにひきつけておくことができる。そういう計算があるのかもしれない。また、さきほど釈放のニュースが出ていたが、Y新聞はいきなり「さん」付けに変わっていた。さっきまでは「容疑者」扱いだったのに。同情も多い彼を敵に回すよりも「さん」付けで呼ぶほうが好意的に受け入れられるということか。真意は別にして、そんな思惑が透けて見えるようで、あらゆる報道が「べったり」している感じ。

昨日の朝事件を知ってから、今日もずーっと気になっている。心が痛い感じがする。なぜそんなに気になるのだろうか。ちょっと考えてみたくなるようなテーマである。 

印象としては、この事件を通して僕は彼に人の持つ「弱さ」を見ているのであろう。張りつめた緊張の糸が切れ、彼の中にある規範が崩れたときのあり様が、誰もが経験するかもしれない、明日は自分かもしれない、そういう普遍性を持っているように映るのである。それぞれが自分の心をのぞいてみると、この「明日はわが身」 的な感覚は僕だけでなくみんなが少なからず持っているのではないか。それに気づいているか、それとも気づいていないかのどちらか、なのではないか。

僕は別に彼の「罪」を軽視しているつもりはない。お酒が入っていたから。。。というのは情状酌量の理由にはなるだろうが、そうなる前にそれだけ飲んだのは本人であるし、迷惑をこうむった人もいるのであれば、それはそれで罪とな ろう。ちょうど『論争 若者論』(文春新書)を昨日読み終わったところで、重松清氏などが「犯人を英雄にするな」というのが(アキバ事件の文脈で)書いてあり、僕の中でくさなぎ君の行為を正当化するなという戒めとなった。ただ彼の行為を「けしからんやつだ!」と上から目線で頭ごなしに批判する気になれないのが、僕のリアルな感覚なのである。 これをどう考えるか。

他者の行為を理解し、それに評価を下す際、私たちは客観的に「理解」し「評価」することはできない。それは常に「自分との関係」を通して色づけされた「理解」であり「評価」なのである。社会的役割から逃れてあるとき自分も「たがが外れてしまうのではないか」と思う人にはそれを批判に捉えがたいところがある一方、「私はそんなことはしない」と思っている人はその人の 正義感と自信を担保にして相手を「最低の人間」と言い放つことができる。僕には酒を飲んで全裸になる癖はないと思うが、前者のように感じてしまうために、僕の場合どうしても批判的な距離を保ちにくい ようだ。

直感的に、僕は彼にはたがをはずしてしまうトリガーがあったのではないかと思う。自暴自棄になったり、怒ったり、どうでもいいと思うような、アポロ的な秩序を壊すディオニュソス的な何かが心の中でうごめいていたのではないか、と。ちょうどネットを見ていたら「当日は 頭にくることがあってああいうことをした」という供述があったと書いてあったが、その直感も案外遠くないのであろう。恐らくついつい爆発してしまうかもしれないマグマのようなものが 僕自身にもあること、またそれは人間だったら誰しもあるかもしれないことを直感しているのであろう。

そういう「怒り」のような破壊力は時に歴史を作り、変革をもたらす。しかし、文脈が変わればそういうものを行使してしまうことは「子ども」である証拠でもある。うごめくマグマをいつ爆発させ、どこまでそうするのか、その按配が体にしみこんでいるものが大人なのである。だから、くさなぎ君はその按配が体得されていなかった「子ども」であったか、そのマグマが彼の防波堤を打ち砕くほど威力のあるものであったかなのであろう。同情が多いのも、社会に子どもが多くなったせいかもしれない。

そういえば、重松氏が「犯人を英雄にするな」と述べた先の本に、「どこにあるのかわからなくても、あなたの中には<事件を起こすかどうかの一線>があり、あなたはその内側に立っている。それを信じてほしい。誇ってほしい。」(p. 190)という同氏による記述があった。「おやじ的視点から説教たれる」イメージがある氏ならではのメッセージだが、くさなぎ君の事件を重ねたとき、その言葉は僕にとってとても説得力のある言葉 になりつつある。キレていないとき、私たちは常に「堪忍袋の尾」の内側にいる。その袋の容量をどんどん膨らませ、尾の位置をどんどん外に広げていく。どんなに寛容な人でも「尾」のない人はいない。その「尾」の存在を認めた上で、私たちは「一線を越えない」ように精進するしかないのである。

たしかに、「がまんしろ!」とも聞こえないではない以上の言葉はときに構造や環境が抱える問題を不問にするメッセージにもなりうる。つまり、環境が人々を怒らせておいて「我慢しろ」とだけいって「環境自体にメスを入れない」メッセージに。しかし、私たちはそれほど盲目的でもないだろう。構造や環境に問題があることを認識しつつ、「同時に」我慢することの重要性を訴えることもできるはずである。

だから、爆発してしまったくさなぎ君に対し取るべき態度は、一方的に「内側」の立場から同情だけするのだけでもなく、逆に「外側」の立場から「けしからん」とはき捨てるのでもない。 そうではなくて、「内側」に半歩足を踏み入れ、その人の内的体験を理解しつつも「それでもやっぱりそれはいけないよ」と行為を諌め、同時にもう半歩を「外側」におき、倫理的逸脱を起こした背景も受け止めることなのかもしれない。いい換えれば、ディオニュソス的なベクトルとアポロ的なベクトルの本質を理解し、そのうちに身をおけること、それが大人なのだろう。

追記 今Y新聞を見てみたら「さん」付けが「容疑者」に戻ってた。上司か読者からのクレームが付いたか。また、他のニュースによると、くさなぎ事件で報道番組の視聴率が上がったらしい。

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2009年4月21日(火) 4:54PM

英語力アップには英語モードもしくは英語の感覚になじむことが不可欠である。左斜線を車で走るのに慣れていると、右斜線で運転するときそのモードがなければうまく運転できない。これは理屈ではなく体が覚えるものなのである。英語を使えるとは日本語システムとは異なった言語システムを「自分使用」のために体になじませることなのである。普通この話をするときには文法・統語的規則の面から話すのだが、今日はリズムの面・発音の面から書いておこう。今日のルームで感じたことである。

3限(〜4限半ばまで)はたまりんさんの英語指導。今日はアル・ゴアのスピーチでした。

教訓として得たのは、(1)英語を聞くときはリズムが重要で、文字通りの区切り方で文を聞いていては弱い音などを聞き漏らすということ、そして、(2)弱い音は聞き取らねばならないけれどその音に固執してしまっていては全体の意味を取り違えてしまう危険性があるということでした。

最初の点ですが、have begun to recognizeは4語ですが、読みのリズムとしては、havbe guntoo recognize(太字がアクセント)という3つのまとまりに聞こえます。音のリズムに乗れないまま英語を聞いていると、begunの/bi/が/hav/の方により近いため、/bi/を聞き漏らしてしまうのですね。となると、結果的にhave gone to recognizeに聞こえてしまう。波乗りと同じで(僕はサーファーではありませんが)、英語のリズムに乗って英語を聞くことが英語モードを体得するということの重要な一部です。

そして、弱い音に固執しすぎないというのは、occursという音の/o/は確かに「お」なのか「あ」なのかはあいまいです。しかし、それは英語の音を聞くのにさほど重要ではないのであって、それを「お」か「あ」かと迷っていると、「おこー?」「あこーず?」なんてことになって、意味のまとまりとしてoccursが聞けなくなる。弱い音は聞かねばならないが、重要なのはアクセントがあるところの音で、それを中心に弱い音も拾って意味として理解するようにしましょう。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログより)

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2009年4月14日(火) 2:20AM

今日読み始めた『坊ちゃん』がなかなか面白く、つい仕事を忘れ、読みふけってしまった。もちろん、本当に「忘れ」たのではなく、「怠けた」にすぎないが。以前『日本語が亡びるとき』を読んだ時に、漱石を読むとかなんとか書いた覚えがあるが、それを果たした格好である。しかし、あくまでも義務として読んだのではなく、読もうと思って読んだことだけは明記しておこう。

『坊ちゃん』は痛快である。「誅戮」ってのがいい。後ろに江藤淳が書いているが、江戸的な美徳や倫理からの近代批判でありつつ、それらが近代に敗れてしまうという洞察がそこにはある。このバランスは彼のイギリスでの経験が大きいのだろう。そういえば僕自身も英語と付き合い、英語の負の側面にも出会ったが、英語を否定するのではなく受け入れている。茂木健一郎さんだったか、『坊ちゃん』において漱石が自分を投影していたのは坊ちゃんではなく赤シャツの方であると言っていた。彼にとって坊ちゃんvs赤シャツは対立の構図をとっているが、その対立そのものがおそらく漱石の中に展開されているのであろう。この構図はよくわかる。おそらく部類としては僕も赤シャツなのだ。表面だけ近代になってもてはやされた価値観を飾り、それで浮世をうまく渡っている自分。そんな僕にとって坊ちゃんはフィクションとしての自分なのである。つまり、そうでありたい自分。だから「痛快」なのだ。 

おっと、こんなことを書きたいのではなかった。それだけだったらとっとと寝ている。2:30AMを回ったが、今日は書いておきたい問題があった。それはここでも書いたことがあるカルデロンさん一家の件である(詳細はニュースを参照)。 

新聞は中立的な報道ができるわけではなく、カルデロンさん一家の扱いにはどこか「vs権力」を掲げた「正義」ぶった匂いがぷんぷんするのは否定できない。たまたま自分の主張がその論調と不一致でないがために鼻につかないのは確かである。しかし、この件を報じる新聞・マスコミの正義っつらに問題があることは付しておく。

その上で、やはり僕はこの一件が気になって仕方がない。それはカルデロンさん一家の運命が自分にも起こり得たかもしれない、たまたま自分が日本という国家制度のもとに産み落とされただけでそれは偶然にすぎないということを、この事件はリアルに教えてくれるからである。大澤真幸氏の言葉を借りれば、「偶有性」ということになる。

ネットを見ると、「そういう親にたまたま産み落とされたことを運が悪かったと思うしかない」とか「日本国籍がなく、不法侵入なのだから、全員がフィリピンに帰って当たり前だ!」という言葉を見ると(敢えて僕らしくないことばを使うが)「同じ日本人として恥ずかしい」と思う(し、残されたのり子さんの気持ちを察すると涙が出そうになる)。これらの人は自らがたまたまラッキーであったことを担保に、そうでなかった「不運」な人たちを排除する。法的決定を下した人も同様である。彼らはみな「それが自分だったかもしれない」「自分の家族だったかもしれない」ということを勘定に入れることができない人種なのである。

「偶有性」をリアルに感じるには、自分が当の立場になるか、それと似たような体験をしなければならない。自分たちが「日本国家に守られている」ことはたまたまであり、かつ、それは恒常的なものではない、ということは少しでも頭を使ってみればわかる。日本の隅から隅で戦争が起き、身に危険が迫ってきたら、人は安全な国に逃げ出したいと思うだろう。しかし、たまたま「安全な国」の国民ではない「あなた」は「運が悪かった」と片付けられる。明日突然今持っている金が単なる紙になったり、紙に記されたインクのしみ(通帳)になったり、そんなことが起これば困るのはそのシステムの上にあぐらをかいている人である。苦しんでいた人たちでないとこの「不合理」は分かりにくい。(だからフリーターの人が人生をリセットするための戦争を望むという論理が心に響いてしまうのである。)

確かに、以上の言葉は偶有性に甘えている人にとっては正論にしか聞こえまい。しかし、(内田さんの例を借用するが、)今殺されようとしている人がのどにナイフを突き付けられた状態で「人を殺す自由」を訴えるぐらいの一貫性が受け入れられないとき、やはり排他的な言動は原理にはなりえない(むろん、そういう人がいたらやっかいになるが)。原理になりえないこの発想は「ならばそのようなことを言う人々を同じような目にあわせてやろう」という感情に火をつけ、アメリカのイラク侵攻と同じように、事態を泥沼化させる恐れがある。『坊ちゃん』でもそうだが、そこには「勝者」はいない。こうした事態にいるのは「敗者」のみであり、痛み分けの形でしか心をなだめることができない。

もちろん、政治的にいえばカルデロン一家をひいきすれば「不法侵入者」を取り締まれなくなるという論法には説得力はある(ちなみに日本は難民受け入れには正式にサインしている国である)。しかし、少なくともカルデロン一家のお二人は非常に勤勉で、職場の人々に愛されていたと聞く。つまり、「たまたま日本人ではなかった」という偶有性を「日本社会のルールを尊重し、その一員になるべく貢献する」とうやり方を持って超え出ようとしていたのである。勘違いしている人も多いが、これこそが「愛国心」である。

愛すべき「国」は政治システムに過ぎない。その政治システムに民族の血を通わせ、あたかも有機体のようなイメージをもつとき、それは「愛国心」ではない。それは「愛『おらが村』心」という前近代的な感情移入でしかない。国家を愛するというのは、国民国家がそれにコミットした(社会契約した)人々を守るという形で人工的に立ち上げられた機構を成立させるための条件である。そこに求められるのは「郷土」を愛す行為ではなく、社会的コミットメントのことなのである。だから、(新聞がお涙ちょうだい的に書くような論法も問題であることは理解したうえで、)僕は制度として(正しい意味での)「愛国者」(それはカルデロン一家を含む)を守る国民国家を徹底させることが必要であると考えている。

ショックなことに、昨日のり子さんのご両親はフィリピンに返されたそうである。えらそうなことを書き連ねた僕は何もできなかったし、しなかった。「蕨(わらび)市」に「強制送還」されそうな人あれば行って一緒に声をあげ…といった「そういう人間に私はなりたい」が、何一つしなかった。その結果一家は昨日離れ離れになった。僕は何もできなかったという点において、この件に対し有責である。それは倫理の原型であると内田さんは教えている。何か、何かしなければ、そういう思いを持つだけでなく、もっとコミットが必要なんじゃないか、俺。

この1時間、うまく考えはまとまっていないまま書き綴ってきた。言葉も論理も荒削りすぎて、世に出すには恥ずかしい気がする。それでも朝まで待つのではなく、今書かなければ…と思い、未熟な文のままとにかく声を上げたかったのである。

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2009年3月25日 1:05AM (加筆:10:55AM) 

今日も夜仕事しなきゃならないが、興奮さめやまず、今日は仕事はせず、『現象学の理念』の残りを読んでしまうだけにして、後はWBCの余韻に浸ろう。 

いやぁ、WBC、すごい試合になった。勝ってうれしいが、勝っても負けても、野球として非常に質の高いよい試合だったことがなによりもすばらしい。メディアに登場する日本人や韓国人は互いの健闘をたたえあっているが、それはメディアによって美談として枠にはめられた構成だとしても、そのような賞賛に値する試合だった。面白いもので、前回はイチローが相手に「日本には30年くらい手が出ない」と言わせるぐらいたたきたいとかそんなことを言って、韓国人選手たちのハートに火をつけた。その発言がイチローがいうところの今までの中で最も屈辱的な日へとつながった。今回は日本ラウンドでマウンドに韓国国旗が立てられたことが日本選手を奮い立たせた。「意地」って面白い。そして、人間ってすごいね。 

今日は野球そのものより、一歩引いて、些細なことを連ねてみよう。 

さて、まずは試合開始に向けた国歌斉唱。選手たちはみんな口をつぐみ、目を閉じたり、上を見上げたり、それぞれ心の中で歌を聴いているようだった。国歌は歌うものではなく、聴くものになったのだ。それと、やはりガムを噛みながら国歌を聴いているプレーヤーが多い。ガムを噛むなとは言わないので、「侍」と呼ぶのはやめましょう。

観客席には多くのアメリカ人の顔が見える(もちろん、見かけではアメリカ人って判断できないわけだが、コンテクストから勝手に推測して)。彼(女)らにはひいきのチームがあるかもしれないが、純粋に野球を楽しみに来たのだろう。もし日本でWBCが行われ、ベネズエラvsメキシコとかいう決勝戦になっていたら、どれだけの日本人野球ファンが球場に足を運ぶだろうか。仮に一方のチームがアメリカであれば、アメリカびいきで観客動員はかなりアップするとは思うが。 

試合内容でいうと、この決勝戦はイチローの劇的なヒットがこれまで十数日続いてきたWBCの全試合の意味付けを決定づけたと言っていい。彼があそこで打たなかったら、たとえ最終的に日本が勝利していたとしても、その意味付けは全く違ったものになっていただろう。結果オーライではあるが、個人的にはイチローに向けた世間の辛辣な批判はうんざりしていた。批判しているあなたは何者?イチローではないが、ジローかサブロー気分?何しろ、今日では文句を連ねる人が多すぎる(という口調が下手をすれば「文句」になるのだが)。期待の裏返しと言えば「美談」に聞こえるし、こういった辛辣さが今日起こったドラマをさらにドラマチックにしたてるのではあるが、何から何まで自分を感情に入れない「文句」の口調はちょっとうんざり。ブーイングという行為も、大勢で一個人を責める行為であるという意味で、思う以上に卑劣な行為と言える。一対一のときに、相手のことを心をもった一個人としてみたときに、目の前でなじることができるのか。少しでもためらうだけの心を持っている人ならば、ブーイングという行為は相手をモノとしてしか見ていない行為ということになろう。他人のミスには文句ばかりいい、自分が同じ立場なら自己弁護し、そういう批判が瀰漫している現代社会は決して住みよい社会とは言い難い。今回はそれが結果的にほどよいスパイスとなったが、そういった態度自体は改めるべきであろう。 

気になったのは韓国の監督。非常に紳士的に日本の健闘をたたえ、その上でゲームの質を評価していた。しかし、同時に、抑えの林投手がイチローと勝負をしたことに対し、監督がベンチのサインはボール玉で勝負(つまり敬遠になってもいいとういこと)だったことを明かしたことで、彼の言動は敗因をそのピッチャーのサイン無視に帰する、もしくは林の失投を責めるという発語内行為を発動させてしまう。この投手(東京ヤクルトの守護神)を選抜したのは監督であり、マウンドに送り、続投させたのも監督の判断である。真の上司であれば、それが監督が望んだことであれそうでなかれ、生じた結果の責任は上司その人が取る。その意味で、北京オリンピックで結果を残せなかった星野監督は責任ある「上司」であった。(「文句を言う人々」から文句を言われ続け、)文句を自分の責任として引き受けた氏は世間の評判と反比例し、立派であった。もし、世間が責任をイチローと勝負した投手個人に差し向けるようなことになれば、つまり、もし彼が「戦犯」もしくは「非国民」としてつるしあげされるようであれば、韓国も日本のように戦時中のメンタリティを引きずっていることになるであろう。韓国国民も日本人と同レベルなのか、それとも大人の対応を示すのか。韓国で彼が辛辣な批判の的にならなければよいのだが。 

(加筆)今朝ネットで朝鮮日報の記事を見たら、監督の発言の意図が綴ってあった。記事によると、韓国チームの監督の発言は責任転嫁を意図したものではなく、むしろ、彼は選手はよくやったと検討をたたえた、林投手を励ましたと書いてある。選手や韓国の人たちがいかにこの監督に信頼を寄せているのかが伺える。したがって、その意味では彼は「責任ある上司」ということになろう。一方の林投手は「サインミス」を認めたうえで、「イチローと勝負してみたいという気持ちもあった」ということを認めている。ここに林投手を非難する人がつけいる余地が出てくる。したがって、監督や林投手の真意がどうであれ、それをどう解釈するかは開かれている限りにおいて、やはり、韓国の人々の対応に興味がある。

もう一つ。僕は日本を応援している。それは自分にとってのチームとの「距離間」からである。それは物理的というより心理的距離間のことなのだが、たとえば僕自身は現在生まれ故郷とは違う県に住んでいるが、国内の都道府県対抗の試合であれば佐賀県チームを自然に応援する。同じように、それを何と呼ぼうが、心理的距離の近さゆえに僕は日本チームを応援する。しかし、選手たちやニュースキャスターらが言うような「日本のため」、「日本国民のため」という言葉からはやや距離を置いている。というのも、「日本」とか「国民国家」というのは政治体制にすぎないからである。つまり、つい自然に出てくるような「日本国民のために」という言動は実に「政治的」な発言なのである。問題なのは、国民国家とはだれかを守るための政治体制という意味で、そこには必ず排除が付きまとうため、ある国民国家を支持する発言はそれが自明のものと考えられてしまうと同時にその排除を発動させてしまうからである。僕は自分のことを愛国者と思う。しかしそれは政治的な意味ではなく、近代に入って意識された個人の「自由」を保障するための政治システムを成立させるための「敢えて」する「没入」という意味である。だから、埼玉県蕨市のノリコさん一家の国外退去の例をとっても、彼女たち一家3人が日本国民でないから退去という論法は支持しない。このオーダーをするお偉いさんは自分が「たまたま」国家に守られているという事実、そしてもしかしたら自分が、そしてその人の家族全員が退去を命じられていたかもしれないという偶有性に対する想像力が欠けている。僕が言うところの愛国心では、むしろ、日本国にコミットしてくれるという意味でノリコさん一家のような家族は国民国家としては積極的に受け入れるべきなのである。だから「日本国民」ということば自体はいいとして、その使い方には気をつけなければならないと思う。

ちなみに、「ニホン」と「ニッポン」が使い分けられるとき、あえて採用される「ニッポン」と言葉の響きには上記で警戒した妙な「気合」が込められている。小さい「つ」が入った促音と「ぽ」という破裂音が彼らが言うところの「日本人魂」を鼓舞するのであろう。人が普通「ニホン」というところを「ニッポン」と呼ぶときには、それに込められた気概は差し引きしておこう。

なにはともあれ、個人的にはとても興奮する試合であった。韓国チームと優勝を争ったことは誇りであり、これから互いに勝ったり負けたりしながら切磋琢磨し、互いが野球の強さを追究できればと思う。本当は今日今一度ESPNでこの試合がどのような扱いをされるのかを見てみたいのだが、今日は3:00AMからなので見るにはちょっと遅すぎる。残念だが、ネットでいくつか記事をチェックして寝よう。

長めの追伸 

「寝る」といいつつ、明日、もとい今日の卒業式の後の祝賀会でどんな言葉を指導学生の二人に送ろうかと考えながら、テレビをつけたままにしておく。チャンネルを変えると負傷して帰国した村田のドキュメントがあった。一児の父である僕にとって村田が重なって見える。

引き続き、原監督のドキュメントを見る。そして、「侍JAPAN」というネーミングが「原JAPAN」と呼ばれるだけの域に自分が達していないという謙虚さから原監督自身がネーミングを依頼し、NPBコミッショナーによってつけられた名前であったということを初めて知る。そして、その名前が「闘う集団」として非常に的を得た名前であることを実感したそうだ。確かにガムを噛むのは侍と言えない。しかし、彼らは必「死」にゲームを「闘って」いる。ガムを噛みながら国家を聴いている選手、ガムを噛みながら試合をしている選手。彼らには責任はないが、侍と呼ぶのはどうか、と僕は書いた。しかし、スタイルはどうであれ、彼らは必「死」の思い、つまり、ある意味で「死」をかけるつもりで「闘っている」のである。そういう姿勢としては「侍」という言葉はよく似合う。「ガム」と「侍」が合わないという主張、または「作法」の大切さに対する主張を曲げるつもりはないが、彼らの闘う姿勢にいちゃもんをつける資格は僕にはない。

そんな必死な彼らだから、選手たちは高校野球球児のように生き生きとし、目をきらきらさせていたのである。僕は彼らの目を見ていなかったのだろう。人と面するときに「目」というのはコミュニケーションにおけるもっとも意味が凝縮された箇所であるのに。反省。10回にあのヒットを放ったときもクールだったイチローの、試合終了の後にグランドにかけよるときのあの子供のような表情を見たとき、とてもすがすがしい気持ちになった。そうなのだ。あの目も野球という「たかが」ゲームを必「死」になって真剣に闘っている者だけができる目だったのだ。

追伸2 関係ないが、今日出張からの帰りの電車で隣に座っていたおばあさんに話しかけられた。ちょうどフッサールの『現象学の理念』を読んでいたのだが、「すみません、私ついつい気になったら聴いてしまうんですが、その本にある『現象学』って何ですか」、と。できるだけ平易な言葉で説明したが、五割ぐらいしか分かってもらえなかったかも。おもしろかったのは、そこからそのおばあちゃん(76)が裁判員制度で候補者として選ばれ、断ったという体験談を聞けたこと。ちょっと身近に感じてしまった。こんな風に思わぬところから会話が始まるって素敵だね。携帯画面ばかり見詰めてたしゃをガードしている方々も、時折そのガードを下してみては?

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2009年3月24日(火) 2:15AM

「侍JAPAN」がよくがんばった。実況中継アナウンサーの叫び声や「野球の神様が…」という表現にちょっぴりうんざりだが。

実は今日、日本のニュースとアメリカのニュースがどのようにこの試合を伝えるか、その違いを見比べることをひそかな楽しみにしていた。ケーブルテレビが我が家に入り、僕のちょっとした楽しみは夜中にあるESPNというアメリカのスポーツニュース番組を英語で見ることである。「英語で」というのがスポーツニュースを見ることを正当化しているように聞こえるが、それは図星である。しかし、本当にこういう早口の英語を聞くことが僕に取って英語モードを頭の中にキープするための練習ということに相違ない。とういことで、まぁ一石二鳥ということにしておこう。

日本のニュースは見ての通りのお祭り騒ぎ。「歴史的瞬間」であったり、明日の試合が「世紀の一戦」だったり。試合の報道の構成としては、「松坂の被弾(不安感)→同点(盛り上がり)→松坂の不安定からの失点(不安感)→劇的な逆転(興奮状態)→杉内の好リリーフ(杉内の「松坂と同級生なので何としても。。。」というコメントつき)→田中の好投(これはいける!という期待感増)→2点を返される(暗雲モード)→馬原の踏ん張り(2点差という僅差による期待と不安が混在した興奮)→ジーターのエラーによる追加点→イチローの技ありのヒット(ここで川崎の「イチローさんを信じてました」のコメント)→さらなる追加点→ダルビッシュ投入(クライマックスを迎える)→最後の三振」。これを一つひとつ味わうかのように丁寧に見ていった後で、原監督や松坂のコメントや川崎のラッキーボーイ的な存在感などが挿入される。 

ちなみに、実況中継アナウンサーの仕方も興味ぶかい。彼は興奮MAX状態で見ている人の感情を揺さぶる。それは戦争を煽っていたラジオの声と同じである。彼は確かに「実況」を「中継」している。つまり、事実を記述しているという発語行為を行っている。しかし、よくよく見てみると彼はこれから起こるであろう出来事を予測し、見ている人による出来事の意味解釈の範囲をそれに絞り、それが「当たる・外れる」ということでドラマをつくるという「色付け」を行っているようだ。たとえば、最後のダルビッシュの一球。この一球が投げられる際、私たちはそれが「最後の一球となる」ことを知らない。確かにそれは最後の一球になるかもしれないが、もしかしたらファールとなり、同じ2−2というカウントのまま次の一球が放られるかもしれない。2アウトでランナー3塁という演出つきで、実況中継はカウント2−2であることを興奮した声で強調する。それはあたかも次の一球に何かが起こるということを期待させるように。事実、それは三振となり、ダルビッシュのガッツポーズという映像とともに、人々を勝利に酔わせるための演出となるのである。

もう一点面白いと思えるのは、日本での日本対アメリカ戦の振り返りは「内輪」の視点に閉じられているということである。そこに登場するのは日本(=我々)vs野球の本家アメリカ(=他者)という視点である。もちろん、「野球の本家アメリカ」という表象の仕方はアメリカが思っている以上に日本では「大味」となっている。つまり、そこにはアメリカの野球に対する引け目とあこがれが入り混じり、その「アメリカ」に勝つことの重要性が最大化されているのである。また、明日の韓国戦の報じられ方も同様で、「野球の本家アメリカ」が「日本の宿敵韓国」に変わっただけである。このような「私」による「本家」や「宿敵」との戦いというように、それぞれの試合が「日本目線」で語られるのであり、それは事実報道というより、上記のように、明日の試合を前にしてどのような「構え」でそれを見るか、その意味を固定化しているのである。つまり、「私たち日本人」はその試合を「最後の一試合」として「死んでもいい覚悟」で、つまり「侍」であるかのように見よと。チームだけでなく、我々も「侍」化せよ、と。こうして、前回も書いたように、私たちはやはり戦時中までのメンタリティのまま、「決闘」や「戦争」としての野球を観戦しているのである。

さて一方のアメリカのESPNの報道であるが、それは驚くほど冷めたものであった。もちろん、アメリカが勝利していれば祝福モードで報道されていただろうが、おそらく日本のそれほどないであろう。負けたとなれば一層その扱いは粗末なものである。なにしろ、現在のアメリカの関心事といえば、NCAA(大学)のバスケの優勝を決めるトーナメント(男女とも)とNBA(プロバスケット)のプレーオフ争いだからである。他にもMLベースボールの春キャンプなどもあり、順位としては、WBCはその次ならいい方である。

具体的に今日の報道を見ると、WBCの敗戦の扱いは60分番組のうち、4分程度といったところか。最初の2分は結果報告の構成、しばらく他のスポーツ報道があった後にあったもう2分は日韓戦の分析。つまり、そこには「私=アメリカ」の視点からみた「おまけのような日韓戦」ではなく、それをアメリカが戦うのではないにもかかわらず、野球というゲームがどのようになるのかに着目し、試合を楽しんでいるのである。アメリカ人を持ち上げるつもりはないが、ついそこに「野球というゲームを愛し、楽しんでいる」姿を見てとってもおかしくない、そう思えるのである。

正直、僕は昨日アメリカが勝つと予想したアナリストが登場し、もう少し悔しがりながら試合を丁寧に分析するのではないか、と思っていた。だから、その分析内容を楽しみにしていたのである。しかし、実際に割かれた時間はほんのわずかという事態に少なからず驚いた。どうも、アメリカのスポーツ界における野球の地位はそれほどまでに相対化され、「国技」というような力の入ったものでなくなったようである。おそらく、彼らはバスケのドリームチームの勝利・敗戦の方により一喜一憂するのではないか。ジェイムズやコービーが活躍するシーンの方に人々は「わくわく」し、「威信」をかけて臨むのではないか。

アメリカにおける野球とはむしろ古き良きアメリカを引き継いだロマン的なスポーツであり、人々はそれを楽しんむものである。もちろん、多くのアメリカ人が失望しただろう。しかし、負けは負け。それだけのことなのである。私たちはつい、アメリカにおける野球は日本における柔道の位置を占めているかのように思ってしまうが、実はアメリカにおける野球は日本における柔道というよりも、相撲に近いのかもしれない。だからモンゴル勢が躍進し、その他の外国人力士が大関の地位を狙っていたとしても、残念だと思いつつも、屈辱とは感じない、そのようなものではないかと思うのである。

野球にこだわっているのはアメリカではない。むしろ日本の方だ。こだわっているから勝利に酔いしれ、負けると悲劇として悲しみを分かち合うのである。明日も日本に勝ってもらいたいとは思う。しかし、勝っても負けても野球を楽しむことは忘れないでいよう。日韓で決勝戦を戦えることを幸福と思いながら。

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2009年3月20日(金) 1:37PM

祝日なのに会議。とほほ。明日は土曜日。でも会議。とほほ。

WBCをみてると力が入る。これまでのオリンピックや前回のWBCに比べ、負けているときに精神論に訴えるような中継や声は減ったように思える。いい傾向だ。ああいう言葉を聞くたびに、未だに忠臣蔵スピリッツや神風スピリッツが延命しているのだなぁと感じたものだ。

野球の本質には関係ないかもしれないが(人によっては十分あるかもしれないが)、試合中にガムを噛んでいる選手が増えたように思える。アメリカではよくあるが、日本では未だに人前でガムを噛むことはあまり行儀のよい素行とは見なされていない。しかし、噛んではならないという絶対的な理由はない。また、集中力を高めるというプラスの面もある。だから、一生懸命やっている選手に「行儀が悪いからガムを噛むな!」とはいいにくい。

でもやっぱり、「侍」はガムは噛まないでしょ。そう考えると、そもそも「侍JAPAN」という名前に上記のスピリッツが実は残ってたのか、と思えてしまう。大歓迎はしないが、選手はガムを噛みたいなら噛んでもいいので、とにかく「侍JAPAN」というネーミングは変えた方がいいのかもしれない。呼びなれたときに申し訳ないけど。

ふとした疑問:芸能人の離婚報道や死亡記事が「エンターテイメント」にカテゴリー分けされるのはどうなのだろう。かわいそうに、「芸能」に生きる人は「ネタ」としか見なされていないんだね。

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2009年3月4日(水) 7:24PM

私的な用事と事務の用事で一日がつぶれていく。学問的なものに触れる時間は電車の中と徒歩中、そして私用で待合室で待つときなど。そりゃ勉強できんわ。

さて、2月25日に無事にF市教育センターの研究発表会の指導助言が終わる。後から考えるとあれもいわなければならなかったとか、ああいえばよかったとか、色々考えるところがあるが、時間の制限もあるし、致し方ない。一応、寝不足で準備しただけのことは話してきた。

今回で3年目が終わったことになるが、今回の研究題目は『人とのかかわりを楽しむ英語活動の研究―構成的グループエンカウンターの要素を取り入れた活動を通して―』というものであった。このタイトルが示すとおり、F市では英語活動を「英語教育」と捉えるのではなく、(文科省の狙いに沿って)コミュニケーション活動と捉えている。人と関わることが大事であり、(英語という縛りがあるが)英語を話してみよう、相手のことを知ってみよう、というようなものに重点を置いている。

      研究の理論的な背景

このテーマはこれまでの二年間を通してみたとき、一つの流れの上に設定されている。

それを説明するには、この研究の理論的な基盤となっているコミュニケーション能力観と、そこから見出される英語活動の二つの方向性について説明しておかなければならない。コミュニケーション論においてはコミュニケーション能力を考えるにあたり、三つの側面を備えたものと考える。一つは動機、もうひとつは知識、そして最後の一つは技術である。その内実は文化によって異なったりもするし、これが個人の資質として想定されるものなのか文脈に依存するものなのか、それとも関係によって変わるものなのかなどは意見が分かれるところではある。しかし、基本構造としてこれらの3つは少なくとも考えなければならないとされる。

英語活動においてはやはり「動機」が重要であると思われる。「〜したい」という学びの欲望が一番の根底にあると考えたとき、「動機」と残りの二つをそれぞれ結んだ二つの線に英語活動の二つの方向性が見出せる。一つは「動機*知識」の方向、つまり「知りたい」という方向である。一般的には、「相手の文化や他の文化を知りたい」という形をとるが、つまり、自己中心的な世界の外に別様の世界があることを認め、それについて知りたいという衝動が関与するという意味で、これを(1)文化相対主義的な態度の方向性といっておこう(もちろん、相対主義自体に思想的な脆弱性があることは承知しているが、ここではより初歩の段階において相対主義が持つ効果に期待している)。二つ目の流れは「動機」と「技術」を結んだベクトル上に見出せる。それは「相手と話してみたい」という欲望の形をとる。つまり、ここでも自分の世界に閉じこもるのではなく、他者に心開き、繋がってみたいという「コミュニケーション行為」への希求がある。これを(2)コミュニケーション行為の方向性といっておこう。

以上の二つの方向性を考えた場合、これまでの二年の研究はこれらそれぞれを目指したものといえる。一昨年は「動機」を高め、楽しくコミュニケーション活動できる方向性を追及したものであったし、昨年は他の文化に対するさまざまなトリビアを用意し、「文化を知るって面白いなぁ、もっと知りたいな」と思わせる時間を設け、英語活動に仕組んできた。前者を方向性(2)とすれば、後者は方向性(1)に関係していることは分かるであろう。あ

これまでの二年間の成果自体にはここでは触れないが、その成果の裏には同時に課題もあった。まず、去年のトリビアの研究では「異文化」とは何かという問いが残されたように思う。確かに、「異文化」を「自文化」に対峙させることによって、自文化の中心性は相対化される。そのときの「異文化」とは往々にして西洋であり、よくて韓国や中国という私たちの視野にいるがちょっと遠く感じる文化である。しかし、異文化はそのように常に「外」にいるものなのか。身の回りに異文化はないのか。例えば、外国人労働者の方々が背負っている文化はどうなのか。同様のことは実は個人間にも言える。「私たち日本人」といっても、実際は多様であり、考えてみれば隣の人でさえ、厳密に言えば異なった価値観や行動様式を持っているのである。だとすれば、蕨市の「フィリピン人」家族の例のように、十分日本になじんだ人でさえ、そのオリジンがフィリピンであり、しかも「違法」であったという理由で異人化され、排除されているこの事態をどう考えるのか。このように、「自文化−異文化」という二項対立は非常になじみやすいものではあるが、気をつけて考えていかなければ、ある種の暴力を常に振るう可能性を秘めているのだ。つまり、「異質性」が外にあるのではなく、「内」を純化するために「外」に異質性を求めるのである。

また、文化と一言にいっても、さまざまなレベルがあることも忘れてはなるまい。一番目につきやすいのは、物質的なものや行動様式である(文字通り「目」に見えるので)。アメリカでは車を駐車する際、日本のようにわざわざバックで入れるのではなく、普通はみんな頭から突っ込む。だから留めやすいように、線が斜めに入っているところも多い。それを知らないと「へぇ〜」の度合いはUPするだろう。しかし、このような表層的な文化の知識をいくら積み重ねたところで、文化の理解の深みは増さないであろう。文化の深遠に向かうには、私たちは表層的な行動の違いからそれを引き起こすような価値観に目を向けなくてはならない。そしてその差異を理解すると同時に、共通性を忘れてはならない。つまり、文化の普遍性も考えておかなければならないのである。

一方、コミュニケーション行為の方向性の研究も確かに成果はあったが、「誰」とコミュニケーションをするのかという、コミュニケーションの質に関して問題があったと思われる。上記の問題もあって、英語活動において「異文化」の代表者となって現れているのはALTという外国人指導助手である。「同文化である日本人の私たちvs異文化の代表者としてのALT」という構図がここにあり、コミュニケーションしたい!という動機は異質に見えるALTという一点に集約されている。それは同時に、「私たち同じ日本人」同士のコミュニケーション活動における「似た者同士」のコミュニケーションが展開されることが多かった。つまり、同じ日本人であれば、友達でないクラスメートは「面白み」に欠ける、「つまらない」他者なのである。

私たちはこのような課題を残して今年度の研究に入った。研究とは今やられていることをやっても面白くない。研究は常に一歩か二歩先を歩むようなものでなくてはならない。その意味で、私たちが選んだのは、それぞれの方向性をクリアーし、かつ、これらをつなげるような研究の道であった。つまり、「異文化」の「異質性」についてこだわり、コミュニケーションの相手の質を問い、かつ文化的な側面とコミュニケーションの側面を同時に満たすような研究である。そのような背景をして着目してきた概念が「人とのかかわり」であり、そのヒントとなったのが構成的グループエンカウンターだったのである。

      研究の時代的な背景

上記にあげたように、今私たちのコミュニケーションは、異質性を「私たち」の外に見出し、「私たち」自身は同質・均質である、と考えている。さらに、同質な自分たちにとどまり、異質性に向き合わないで群れている傾向も強まっている。

(このあたりは「主体への語りかけ」2008年7月30日(水)の話に重なるのでそちらを参照してください)

やはりここでもキーは「人とのかかわり」なのである。

      研究の課題

今回の研究では色々な成果が見られた。子どもたちの表情、コメント、行動を見ていても、積極的に他者に関わろうという姿が見られたし、ハードルも下がったように見られる。そうした成果を認めた上で、あえて課題をあげておこう。

一つ目としては、今回の研究が見方によっては道徳に近く感じられ、英語活動というところからは多少距離ができてしまったことである。

今回の研究にとって目的は英語活動にあり、エンカウンターはあくまでも手段である。しかし、一端教室で英語活動をしようとしたら、もちろん、英語活動が手段となって、コミュニケーションの行為がその目的となる。かつ、その目的だったコミュニケーションは手段として、互いを知って異質な者と共同体を立ち上げる、という目的によって定義される。この流れはある意味必然的なものではある。しかし、今回足りなかったのは、ここで終わってしまった、つまり、他者とコミュニケーションし、仲良くなろう、みたいなところで終わったがために、「道徳」の授業のようになり、英語活動は?と感じる余地を残すことになったのである。

これを改善するには、やはり、目的と手段を今一度反転させて、英語活動を目的、エンカウンターを手段とを入れ替えて活動自体を考えることである。つまり、英語活動に必要なことは、方向性(1)に則して言えば、「身の回りや世界には多様性があるんだ!」という気づきとそれに対する寛容を意識させるような活動にすること、そして(2)に則すると、異言語を使って他者とコミュニケーション取れたという実感、達成感、喜びを味あわせることである。英語活動が言語を使ったコミュニケーションであるのならば、こういった人間にとっての言語の役割を意識した活動を仕込む必要が出てくるのである。

課題の二つ目としては、小学校の英語活動と中学校の英語コミュニケーション活動の繋がりである。今回の研究チームは小学校4名、中学校1名というバランスもあって、どうしても小学校の英語活動に研究の比重があったように思われる。しかし難しいのは小中の接続である。

「楽しさ」と「英語」と並列させた場合、小学校は「楽しさ」>「英語」という比重になるのに対し、中学校では「英語」>「楽しさ」ということになる。つまり、中学では英語の修得という側面が重要になり、その過程で「楽しさ」が犠牲になることが多々あるということである。小学校で「楽しく」英語活動を行ってきた子どもたちにとって、中学校での英語の勉強は本格的な「勉強」として映るだろう。だからこそ、中学校では細心の注意を払わなければその反動は計り知れないものになるであろう。また、小学校のほうもただ楽しいだけの活動をしてても、それがコミュニケーションの質や子どもの知的発達に合わせたレベルの活動にしなければ、中学との差異はますます埋められないものになる。このスムーズなトランジションはそれだけでも一つの研究のテーマになる重要なものであろう。

三つ目として、「英語活動」の根拠自体が問われていると思う。

先に述べた二つの方向性を見てみると、「なぜ英語でなければならないのか」という問いに対して、満足する答えは出すことは不可能であろう。例えば、方向性(1)に沿って考えれば、明らかに方向としては文化の多様性を志向しており、そうであるなら、英語という言語に一元化することは言語の多様性に反するものである。いくら英語の国際性を訴えたところで、それはうそではないにしろ、軍事力や経済力といったイギリス・アメリカという覇権を背景にしている限り、極めて政治的な選択なのである(日本ではそれがあたかも「国際人!」みたいな感じで語られるのだが)。また、コミュニケーション行為といってもその中において言語は一つの重要な要素ではあるが、言語力だけが必ずしもコミュニケーション能力ではない。つまり、いくら二つの方向性を徹底化したところで、「英語でなくてもよいのではないか」という根本的なジレンマにぶつかるような構造にあるのである。

小学校で英語活動をすること、中学校で英語教育をすることは、悪いことではない。しかし、英語だけに特化して外国語活動をしたり、外国語教育をすることは、かなり気をつけていかないと、これまでも指摘してきたような文化理解やコミュニケーション行為の歪みへと子どもたちを導きかねないのである。したがって、以上の問題群というのは、こうした根本のジレンマから生じている、非常に重要な問いといえよう。これからの英語活動や英語教育にとって避けられない問題なのである。

      研究のお土産として

こういう研究発表で「これだけは覚えていって」とか「授業の参考にしてください!」というポイントのことを「お土産」という表現をする。今回の研究はエンカウンターの要素を取り入れるというものであったが、必ずしもそれは「グループエンカウンターをしなさい」ということではない。これまでの議論で述べてきたポイントを押さえておけば、そのことは理解していただけるものと思われる。重要なのは、私たちが、英語活動において、「楽しさ」の質と「文化理解」の質をよりよいものにするための視点を提供しているということである。

だから、本研究発表をごらんになった方々には、以下のような問いを是非自分が授業を組むときに発して欲しいと思っている。

内容面、すなわち方向性(1)として、自分が扱おうと思っている「文化」とは何のことか?そこに偏り、ステレオタイプ、表面的な理解の恐れはないか。身の回りに異文化はないのか。ALTを活用する際、その文化特定性の危険性をいかに緩和し、どう文化の普遍性の問題につなげていくか。

活動面、すなわち方向性(2)として、活動では「誰」とコミュニケーションするのか。それは前回の活動とは違った人と交わるような活動だろうか。その中でALTとのコミュニケーションをどう仕組むか、その限界をどうカバーするか、ALTを活用した誘いは上記の文化特定性と文化の普遍性とどう繋がっているか。子どもたちは身の回りの友達を含む「他者」に対峙しようとしているか。それが苦手な子どもにどのようにきっかけを与えるか。

このような問いをお土産として持ち帰っていただきたいと思う。大切なのは答えではない。本質的な問いの方である。

      さいごに

僕が小学校の英語活動に携わるようになって3年半がたつ。その中で取り組みの変遷も見てきたと思う。先生方の話からしても、最初は先生方も英語教育という視点から英語活動に入っていく傾向があったようだ。確かに、トレーニングも受けていないのに、いきなりやれといわれたら、やはり自分の受けてきた英語教育を参考に、英語を教えるだろう。これは対処法として最もなことだ。こういうシステム上の問題もあって、子どもたちは徹底的に専門でない人や教えていることに自信がないまま教えている人から英語を「学び」、機械的に練習させられ、英語嫌いが中学校に入る前から生じるということにも手を貸した。それによって生き生きとした先生も子どももいるだろうが、そうでない人も多く、その意味では、先生方も子どもたちも政策の犠牲者となった。

僕が小学校英語に携わるようになった3年半前というのは、ちょうど「それではだめだ!」という自己反省の時期だったように思う。誰もが「スキルはだめだ!」ということを武器に、これまでの取り組みを徹底的に批判し、変革を図っていった。その努力と方向転換があって今もある。この反省を促すように、文科省自体も英語活動は「コミュニケーション能力の素地を養う」ものであって、英語教育ではない、と声をそろえるようになってきたし、中教審の外国語専門部会も@のスキルではなくAの国際コミュニケーションを狙っていますと断言した。

しかし、そろそろ「スキル」自体は悪ではない、ということもそろそろ認めなければならないだろう。スキルでない英語活動だってスキルまったくなしでは言語活動なんてできないのだから。要は、内省の時期は終焉を迎えたのである。つまり、小学校での英語活動、そしてそのよさを生かした(或いは「殺さない」)中学校での英語教育の「質」と「具体性」が問われる時期に入ったのである。

ゲームが楽しいだけではだめ、英語というスキルの苦しみを和らげる鎮痛剤としてのゲームではだめなのだ。ALTに頼るだけでもだめで、いかにHRTがかかわり、よき学習者としてのモデルとなるのかを考えなくてはならない。また、ALTや英語圏ばかりの文化がスポットライトを当たるようなものでもだめで、広い視野と多文化社会における自己のあり方を見つめるものに近づけていかねばならない。こうした「質」を高めるための小学校での英語活動と中学校での英語狂句の在り方が今からは求められるのである。

その意味でも、今回の研究は一歩先を行く、野心的なものであったと思っている。さまざまな批判もあったし、問題点も分かってきた。しかし、「研究」とか「一歩先」を行くというのはそういうものだ。波風立たない研究は研究ではない。研究とはその定義からして、議論されるものなのである。その意味でこれからも私たちの研究は一歩も二歩も先を見越したものとなり、そのようにしていかねばならないと思う。

今年で終わりの研修の先生方、どうもお疲れ様でした。そして、もう一年の先生、新しい先生、来年もがんばりましょう。

(見直す時間がないので誤字脱字御免)

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2009年2月12日(木) 4:44PM

体調が悪い。でも指導学生の修士論文が終わり、審査が通ってハッピー。でも体調が悪い。でも会議が早めに終わってハッピー。今日は早めに帰ろう。

遅くなったが、先週、小学校の英語活動を拝見する。小中の先生方を前に、英語教育専門でない僕がアドバイザーとして物申すのはいつも恐縮するのだが、コミュニケーション学の立場からしかいえないこともある。特に英語活動は「英語教育」という位置づけではない分、その余地が大きい。

僕はF市教育センターの研修の共同研究者として先生方と共に研究をしているのだが、今回授業を拝見したK市の実践を見ると、かなり異なっている。F市は「英語を教える」というフレームワークで行ったことの反省から「コミュニケーション活動」としての英語活動を展開している一方、K市は「英語を教える」フレームワークにもとづいている。これは賛否両論があろうが、少なくとも文科省が目指しているのは前者であり、個人的にもするのであれば(という条件付だが)前者と考えている。

まず、「英語を教える」フレームワークを採用する場合、つまり、英語教育として小学校英語活動を行う場合、先生は「英語教師」として自らを表象し、その機能を果たすことが求められる。つまり、「小学生=英語を知らない人」「先生=英語を知っている人」という関係になる。もちろん、現在の小学校の先生の中で自分が英語を「教えることができる」と考えられている人は稀有である(無論、そう考えているが怪しい人やそう考えていないが能力がある人はいるだろう)。訓練も受けず、専門でもないのに、英語の教師として振る舞い、実際に教えなければならず、そして児童の英語力を伸ばさなければならないとしたら、極めて多忙な小学校の先生方にとっては負担が大きすぎる。したがって、英語教育を行うのであれば、まずは制度として、小学校に「英語教師」を置かねばなるまい。

次に、小学校から英語教育を教える意義という本質的な問題がある。今日小学校に英語教育を求める声は往々にして英語神話によるところが大きい。国際理解や視野を広げる必要性は否定できない。しかしそれは「なぜ英語でないといけないか」といった場合、納得できる答えを提供できない。なぜならば、文化の多様性は「英語」のうちに収まりきれず、本当に国際理解や幅広い視野を目指すのであれば、それは文化的多様性=言語的多様性を含むものではならない からである。

「とりあえずは英語」という考えもあろう。しかし、全員が英語をする意義は何なのか。「とりあえずは韓国語」の人がいてもいいのではないか。制度として無理なら、そういう制度を作る可能性は考慮せず、英語を推し進めるほうに巨額な予算をつぎ込み、制度化するのはなぜか。

「英語は国際共通語だから」と言う人もいる。確かに、それは一つの解釈としては成立する。しかし、世界人口の多く見積もっても3分の1に満たない人しか話さないという事実を前に、別の解釈、つまり「英語は国際共通語ではない」という解釈も成立する。なぜ前者が正しく、後者は誤りと見なされているのか。英語を話せれば10億人と話せるという宣伝文句があったが、なぜ「多くの人と英語を介して話せること」が「少なくても現地の言葉を解して話せること」より優れているのはなぜなのか。全員が同じ言語を集中して話せるようになることは、その言語でコミュニケートできない人とは接点が見出せない。集団の中に多様性があるということは、オレはあの人たち専門で、あんたはあの人たち専門ね、という形で、接点をバラ けさせることでもある。ネットワークとはそういうものだ。一人が多く繋がらなくても、多くの接点を集団が持っていることが、しなやかに集団が生き延びるための必要条件なのである。

政策にしても、外国語学習にしても、英語ブームにしても「先に英語ありき」であり、その必要性をあらわす理由は「後付け」であることが多い。その「後付け」された常識的な理由を一度括弧にいれ、なぜそれが常識化しているのか、本当にそれは本質か、そう考えてみる必要があろう。

では、英語活動をコミュニケーション活動として捉えるとどうか。まず確認すべきはそれは「英語教育」ではないので、英語力がついたかどうかは見取らないということ。つまり、成績には考慮しないということである。例えば、英語活動の際、 "What do you want to eat?" という問いに対し、 "I want to eat an apple." と答えられなかったとする。「英語教育」の視点から見ると、ターゲットセンテンスが want to do であれば、それに答えられなかった人は「習得していない」ということになる。一方、「英語活動」の視点では、コミュニケーションを積極的にしようということを狙いとするため、たとえ「正しく」答えられなかったとしても、 "I want (an) apple." "(An) apple, please." "Well, (an) apple!" と元気よく言えればOKなのである。

もちろん、ここにもイデオロギーがある。まずは、積極的な自己開示がベターであるという価値観がある。これは近代が徹底される今日において、避けられない部分もある。つまり、価値観がこれだけ多様になった現在、自己開示をしないと何を考えているか分からないからである。確かに。しかし、日本における「遠慮」や「察し」を基にしたコミュニケーションというものもある。つまり、10言いたいうちの7ぐらいに遠慮し、その遠慮した分を相手の察しという行為によって埋め合わせるという相互補完的なコミュニケーションである。このコミュニケーション・スタイルの重要な点は「受信側」の「感受性」に重きが置かれているということである。その人は相手が言っていない声まで聞き取らねばならないが、そういう感受性はKYという言葉を待たずとも、人間関係においてまたは個人の資質として評価されても良い部分である。何も分かりやすい説明を説明側がやらなければならないというわけではない。それは「楽」なコミュニケーションだが、ある意味では相手を賢くはしないコミュニケーションでもある。英語活動で積極的に自己開示を求めることは、自己開示しないことの良い面をどう考えるかと連動しているのである。

また、それは「英語」でなくても良かったという点はここでも残りうる。どうも多くの人は「外国語を学ぶと賢くなる」「言語力があがる」と思っているようである。確かにある意味では賢くなるが、それは「言語力」ではない。言語力とは言葉でしっかりと考えることの力であり、ファーストフードでその言葉を使って機能できることとは違う。一つの言語しか話せないが、自分の母語を徹底することで人は十分に賢く、言語力が磨けるのである。英語力とかフランス語力(って言わないのはなぜでしょう)はそうした意味での「言語力」の上に基礎付けられるものであり、その意味で母語でしっかり考える訓練こそ重要なのである(そういうと「日本人はまず日本語を」というような「ナショナリスティク」な言説に回収されることがあるので、それは気をつけなければならない)。 母語を使って世界を細やかに感受し、表現できない人に、外国語で同じことができるわけないのだ。

正直僕は「コミュニケーション活動としての英語活動」にも両手を挙げての賛成ではない。というのも、子どもを賢くし、かつ広い視野を持つようにするのに「英語」はその一部として利用は可能であろうが、日本語でも十分できるし、言語活動をしなくてもできるからである。やはり、ここでも「先に英語ありき」なのである。

したがって、僕が英語活動に積極的に関与しているのは僕がその賛同者だからではない。システムとして導入されるなら、悪い結果にならないように政策をランディングさせなければならないし、先生方も困っているし、何よりも子どもたちに本質的な教育を与えるために何かできることがあるかもしれない、と思うからである。

ここだけでは書ききれないが、ちょっとした空きの時間を利用し、今日はここに僕の立場を一つ書いておくのである。雑文御免。

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2009年2月7日(土) 5:19PM

インフルエンザから復帰したものの、早速忙しくなり、寝不足が続いている。インフルエンザ前も寝不足で、風邪も引いていたし、それだけ体力的にも弱ってたのだろう。そういえば、雪が積もったのもそのときだ。久しぶりの積もる程度の雪である。ということで寒かったが、はしゃぐ娘と庭で遊ぶ。雪が降らないときの寒さは雪が降ることによって和らぐように感じる。だから「犬も喜び庭かけまわる」のである。僕はきっと猫というより犬に近い動物なのだろう。左は我が家の雪だるまです。

ここに書いておきたいこともいくつかあるが、なかなか時間的な余裕がない。今日は土曜。仕事で出勤。もちろん、出勤簿に印鑑を押すわけでない。つまり事実上のただ働きである。教職・研究職には表でカウントできる仕事と、それを支える裏での投資の仕事がある(恐らくどの仕事ももそういう側面はあるが、教職・研究職の場合はそれがMUSTの職種である。ある程度真剣にやるなら)。90分の授業のために2〜3時間ほどの準備が必要であったり、論文を書き続けるためにはそのための日ごろからの知的インプットは不可欠である。だから、睡眠を削り授業の準備をし、論文の指導をし、電車の中や歩きながら本を読んでいるのである。

ところが、この裏での投資の仕事の内容が授業の準備や研究のための勉強ではなく、事務的な仕事や評価のための仕事に取って代わられているというのが現在の大学を取り巻く環境である。世の中では大学の先生はのんびりしていると見られているようだし、そういう人もいれば、そういう瞬間もある。しかし、この事実は強調しすぎてもしすぎないほど、声高々にアナウンスしておきたい実態である。

今僕は留学のための手引きの編集を一つ、教材支援室の周知のためのパンフの編集を一つ担当している。これらは直接的・間接的であれ、学生の教育に還元されるものである。その意味で、無駄な仕事とは思わない。だから、心を込めたメッセージを考え、できるだけ参考になるような情報を盛り込むよう努力した(昨日ようやく前者が終わり、今から後者に取り掛かる)。しかし、授業と研究に比べると…僕でなくともできる仕事でなのである。

仕事とはそういうものではある。しかし、そうとも言っていられないのは、これが結局「大学の評価」のための仕事になっているからである。大学の評価はエビデンス・ベーストで行われるため、あれこれと資料やデータを添付しなければならない。その「証拠」が必要なのである。だから、口約束したことを「ほら、ほんまにやりました」というためにせっせと年内にその作業を終わらせるようにし、これだけがんばりましたよと業績や担当の仕事をアピールし(点数化)、データが足りない委員会からのデータ集めのためのアンケートに答え、「評価」のためにエビデンス作りをしているのである。

そもそも評価とは大学が大学でありえるための質を確保し、さらに発展するために行うものである。しかし、今はそうした評価をするための仕事が増え、教育実践や研究実践を可能にするための影の仕事の時間を奪い、気力と体力を奪っているのである。

なぜそういうことをするのか。それは私たちを「管理」したいからである。何のために?「怠けないように」である。これは積極的な管理ではない。物事を統括的に行うためには、ある程度のマネージメントは不可欠である。僕はそれに異を唱えるつもりはない。それを「積極的な管理」として正当化するとすれば、今起こっているのは怠けるものが出ないように、つまり、ネガティブな要因(要員)を減らすための管理である。それを「消極的な管理」と言おう。この「消極的な管理」の問題は何かというと、これはすでに怠けている人には有効である一方、怠けていない人々にとってはそれが「徹底化された管理」になってしまうということである。言い換えれば、ボトムアップしようと思ったら、アップが天井に頭をぶつけてしまったような状態である。結果として、その「徹底」は、集団が担っている使命を果たすことを困難にするほどの徹底という形をとる。つまり、効率性の管理による非効率化、業績の評価による業績の低下、そういう自己否定を生み出すのである。

気づくと、いつの間にか「語」っていた。。。そんなつもりはなかったのだが。それだけ充実した忙しさではなく、イライラの募る忙しさに悩んでいるのだろう。困った。

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2009年1月26日(月) 7:50PM

6限は英コミュ論の補講で異文化適応を考えました。Rさんの修士論文で重要な箇所になりうるところを扱いました。まず、異文化適応とはその現象自体の最前線で起こっているのはピュアにコミュニケーション、つまり相互作用です。そこでは互いが互いに影響しあし、互いが変化し、互いが自己や社会や文化や言語を再生産し続けています。しかし、おかしいことに、異文化適応ということを考える際、私たちはどうしても一方をホスト、もう一方を客という役割を想定してしまうものです。だから、「郷に入れば郷に従え」(In Rome, do as the Romans do.)がもつイデオロギー的側面が起動してしまいます。

例えば、「ホスト」が現北朝鮮体制や昔でいうナチズムの体制であり、人はそこで「生き残り」しなければならないなら、それは異文化適応なのでしょうか。そこの問題点は、「ホスト」側が変化することを勘定に入れていないということ、つまり、変わるのは「客」=「弱者」のみで「ホスト」=「強者」は変化する可能性を逃れていると考えてしまっていることです。

また、異文化適応が単なる生き残りでないことは明らかで、例えば異文化で自分たちのコミュニティを作り、そこで日本語で話し、日本食を食べ、インターネットで日本のものばかりを読んでいる場合、それは異文化適応でしょうか。その人はサバイブしている、しかし、そこにインタラクションはないのです。

ならば、異文化適応というのはサバイバル以上の何かであり、相互作用がなければ成立しないことになります。その相互作用の過程において、一方をホストと固定化することで、私たちはそこで生じがちな権力関係というものを批判するすべをなくしてしまうのです。

ホスト−客を隔てている境界線、それは往々にして「国境」のイメージなのですが、そうした境界線はそこに「在る」のではありません。それは自分たちが無意識に引いている線なのです。つまり、それは「在る」のではなく、「意味」として自分たちが勝手に引いているだけなのです。

ということで、もし自分が「ホスト」の場合、そのとき常に自分が相互作用の中でどう変わるかという部分を勘定に入れないといけませんし、逆に自分が「客」の場合、単に「ホスト」に従うだけではなく、相手が変わる可能性、もしくは相手を変える可能性、必要であれば相手を批判する可能性も勘定にいれておかなければなりません。

確かに異文化適応は「郷に入れば郷に従え」的な部分はあります。しかし、それがピュアのコミュニケーションから成立しているという単純な事実から出発した場合、気をつけなければそれが権力関係を容認する温床になってしまうことには気をつけましょう。「ホスト」−「客」という境界は事後的に引かれた一つの意味としての線でしかないのですから。

本当はもっと体系立てて考えを纏めるべきところですが、今日は2,3,4,5,6のれんちゃんでおなかぺこぺこ、気分もヘロヘロなので雑文でお許しを。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室より)

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2009年1月22日(木) 12:33PM

本日は2限にスピコミュの授業。2002年の秋葉広島市長の平和宣言(英語版)を読みました。非常にパワフルなスピーチですね。特に、描かれている危機感や描いている理想からどんどんかけ離れていっている現実とのギャップがいっそう聞き手にスピーチのリアリティを与えています。現状のひどさがスピーチを輝かせるというのは皮肉ではありますが、そのような中から生まれたスピーチだからこそ現状を変えていく力も生まれてきます。そして、理想が現実に近づいてきたとき、「輝いていた」スピーチは現在のその輝きが次第に消え、今度はその歴史的意味という過去による意味づけから輝き続けることになります。スピーチはあたかも自らがいけにえであるかのように、自らを社会に投じ、社会に変革をもたらし、その中で過去の遺産となって消えていき、しかし記憶の中に残るのです。

collective memory of humankindとあるように、歴史は語りつなげばならない。歴史は見ようとしなければ見えない、そういうものです。コミュニケーションによって明るみに出すことによって、記憶の連鎖が生まれ、過去は現在へと持ち越される。現在に取り付かれた人はその連鎖に入らず、社会にとっては無意味なものとして消えていく。歴史に参加しないものは歴史に残らない。

ちょうどキャンベラ研修のブログに10月にWar memorialを訪れたときのことを書きましたので、ここに転用しておきます。

(以上、吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログ)

僕は10月にキャンベラに行ってきましたが、半日時間があいたのでWar Memorialに行ってきました。前に英語科のFさんがここに行った時のことのスピーチをして、それを自分の目で確かめに行きました。

日本にいると戦争って1941年12月8日に日本が真珠湾攻撃を仕掛けたところからが「はじまり」って感じで語られていますが、War Memorialに行ってまず驚いたのは、それは事実に対してと自分の無恥に対して二重に驚いたんだけど、日本は真珠湾攻撃以前からパプアニューギニアなんかでオーストラリアと交戦してたんだよね。考えてもみれば、満州事変は10年前の1931年という時期にすでにあってる。だから、1941年から血なまぐさい戦いが始まったんではなくて、日本はもっと前から手を染めていたというシンプルな事実をこういう形で再認識しました。

そこでは日本人がいかに捕虜を過酷に働かせ、むごいことをしたのかも書かれてありました。一方、オーストラリアは日本人捕虜を人間としてちゃんと扱ったということも。オーストラリア側の自己顕示を差し引いたとしても、これはある程度本当なんだろう。「人権」って西洋的な概念ではあるし、政治的に用いられてしまうという脆弱性もあるけれど、やはり重要な概念ですね。

もう一つ。僕はアメリカのニューメキシコ州に2年ほどいたのですが、そこは原爆の父オッペンハイマー氏がいた原爆の研究所があるところでもあったんです。ということもあり、Atomic Bomb Museumなんてものもあったわけ。そこに行ったことがあるんだけど、ここも日本との温度差がありましたね。アメリカからしたら原爆って「戦争を終わらせ、何十万ものアメリカ人兵士を救ったもの」という風な話で彩られている観があるんです。スミソニアンで原爆展が中止に追い込まれたことでもわかるように、原爆ってある意味アメリカにとってはナイーブなんです。死んだかもしれない我々の民と実際に原爆で亡くなった何十万もの民を等価交換するために、あまり根拠がないまま何十万人もの人を救ったということになっているんですね。それが揺るぐと自分たちが行ったが直視しなくて済んだものに直視せざるを得なくなるんですから。

オーストラリアはそういう意味ではアメリカと違って、ちゃんと原爆を人類の普遍的問題として捉えていました。きちんと原爆のコーナーもありました。日本で原爆を語るにあたり注意しなければならないのは、原爆の悲劇を訴えること自体は重要なのだけど、「日本=被害者」という意味ばかりが強調されると、「日本=加害者」という意味が「無意味化」されてしまいそうになること。日本はその両方でもあるわけです。後者の意味は、アメリカが原爆を直視しなかったように、日本人が直視せず、曖昧にしてきたままだったので、「事実はどうだったか」、「どうしていけばいいか」といった現実レベルの話ができないまでに記憶から葬り去られてしまった面があることをぬぐえません。

僕らは(あえて皆さんに含めさせてもらいました)僕らより大人の人たちが無視し続けてきた問題を直視し、もつれた糸を一つ一つ解いていかなきゃならない。いくら韓国人や中国人の友達がいても、過去が許されるわけではない。南京大虐殺はなかった、いやいや30万人も殺された、いやいやそれは多すぎでしょう、という事実レベルの話がもはや難しい今、僕らは事実レベル以上に人として信頼を再び築いていなきゃならない。

10月、キャンベラのWar Memorialを訪れて、僕はそんなことを思いました。僕にとっては本当にあっという間の2時間でした。時間があればぜひ訪れてください。

(以上、第4回キャンベラ研修ブログより)

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2009年1月17日(土) 7:22PM

最近はいくつか学生に関することで、多方面の方に「ごめんなさい」と謝ったり、代わりに弁解することが多い。学生本人にとっては自分のミスが引き起こした結末がその人が見える範囲だけでしか見えないことだろう。しかし、物事にはその裏があって、どこかで自分のしたことではないことなのにミスした人の代わりにぺこぺこと頭を下げている人がいることを決して忘れてはいけない。遅刻、書類のミス、提出などの期限切れなど、それらは単にミスしたとか遅れたという事実だけすむ話ではないのである。

頭を下げることは惜しまないつもりである。けれども、ミスした本人はその裏でおこっている自分のミスの余波に気づかねば負の連鎖は途絶えない。そこに求められるのは想像力であり、目の前の「現実」が何によって構成しているのかという「見えない」プロセスを見る力である。

僕は単純に叱る立場にはない。というのも、今日の自分の仕事振りがいかに厳密さに欠けているのかと自己反省しているが当の僕だからである。目の前の仕事に振り回されるがゆえに、その外に目が向けられないのは実は自分でもある。僕こそが締切を忘れ、これをしていたらあれを忘れ、ばたばたまで仕事していたら一方の仕事に遅れ、休んでいるときには文字通り休んでしまい、相当他の方々に見えないところでご迷惑をおかけし、僕が余分な仕事をしているように余分な仕事を増やしてしまい、「ごめんなさい」と頭を下げさせてしまっているのである。

なんというおろかな私。

最近は夜更かしまでが指導学生に移るということを実感しているが、こういうことも発端は実は自分だったりする。だからまずは僕が謝ります。みなさん、ごめんなさい。そして学生のみんなは自分の現実の向こう側を想像してください。

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログより)

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2009年1月13日(火) 2:01AM

今日は朝から病院。連休明けということでかなり混んでいる。お年寄りの方も多く、席を空けてあげなきゃかなと注意を払いながらドア付近のいすに腰掛ける。おじいさんが靴がないとおっしゃるので、「どんな靴ですか」とたずねるか、と聞くと、「ズック」とおっしゃる。「ズック。。。。」。そのときその意味がピンとこず、「えーっと、ズック。。。」と当の探す対象も分からず探していると、「あったあった、すみません」と。いすに戻って考えると、そういえば他界したおばあちゃんが「ズック」と言ってたことを思い出す。知っていたが僕の意識から外れてしまった言葉だった。ちなみに、ズックとYahoo!の辞書で調べると、オランダ語のzoekからきてるんだと。日本に入ってきたときの呼び方に関係してるんだろう。言葉には歴史があるものだ。

しばらくすると、親子連れが入ってきた。2歳ぐらいの女の子が土間のところにあるいすを指して母親に聞いた。「ここ座ってもいい?」。この席は僕がお年寄りの方に席をゆずった際に、僕がずれて座った席であり、譲った席が空いたので僕はまた元の席近くに戻っていた。お母さんは「そこはだめよ。そこは靴を履く人が座るところよ」。がーん。そうか、そうだったのか。席を譲ってあげて、常識の範囲だがまぁいいことをしたつもりの自分が、実は他の人が靴をはくためにその席を使えなかったかもしれないのだ。幸いそのような方は僕がその席にいた間は通らなかったが、いや、解釈とは深い。

今度のルームで読むことになっている『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』を読み終える。内田樹さんがブログで言及しておられ、これは読まねばと思ってルームで読む本と決めたのである。これは面白い!

「どの時代にも、引きつがれて<読まれるべき言葉>がある。そして、それを読み継ぐのが文化なのである。」(p. 302)。

文化や言葉は次の世代に引き継がれるからこそ生き延びるのは分かる。しかし、では自分が文学や書き言葉を読み継ぐことをしてきたか。恥ずかしながら答えは否である。

僕は国語が苦手だった。小学校のとき40点を取ってそれを親に見せず、見つかってこっぴどく怒られた記憶があるが、手を抜いたつもりはなかった(その後高校のときに物理で50点満中4点を取ったのは勉強不足もあります)。高校のときも現代文の問題がとけない。古文・漢文もコツが分からないし、点数も取れない。練習問題をやって国語の先生に個人的に見てもらうぐらいはがんばってみたが、センター試験も国語の点数が平均いかず、第一志望と第二志望をあきらめた(まぁそれが今の自分の方向性を決定付けているので後悔はないが)。今でこそモノを書くことが自分の重要な仕事の一部ではあるが、僕にとって「書く」という行為には、常に<恥>の感情が付きまとっている。

僕は英語の道に進んだ。別に国語から逃げたいという反動ではない。結果として、多くのものを学んだ。日本語の本を色々と読みあさるようになったのは、英語を経由したおかげでもある。英語支配について考えるようになり、しかし、日本語への回帰を訴えることはしなかった。というのは、「日本語」であろうと「英語」であろうと、「ことば」で考えることが重要である限り、そこに国家は本質としては関係ないと思っているからである。また、日本語と英語の両方を読むことで自分が成長させてもらったからである。そういう意味では僕は「世界の図書館」に出入りし、<普遍語>で読み書きする「二重言語話者」である。僕は日本語の大切さを、「ナショナリズム」から切り離した形で「ことば」一般として訴えるが、それは「英語」という異言語についても同様だった。やや左翼的なポジションから言語を見ていたことになる。

しかし、僕のこうした左に偏ったポジショニングは「右からの回避」ではなく、もしかしたら、「右へのコミットメントからの回避」ではなかったか。僕がことばにコミットするということは、僕の母語がいわゆる日本語と呼ばれているものである限りにおいて、一義的には日本語を介したものであるはずだ。僕は左に旋回することによって、その日本語のプールにある言葉、そしてその言葉で書かれた文学という「叡智」から遠ざかってきたのだ。それでいて「ことば」そのものへとコミットしたつもりであったのである。さらに、英語という普遍語との出会いにより、幅だけは広がり、その利点がゆえに、日本語へのコミットメントからの回避に直面することを回避していたのである。

言葉について考えるものにとって、もはや僕は文学を避けて通れない。コミュニケーション学といっても、そこに音声中心主義が前提されているとすれば、やはりそれは文学的なものが苦手な自己保身でしかない。

いやはや、反省しきりである。漱石さん、また、これまでの偉大な書き手の方々。すみません。素人同然ではありますが、これから心あらためてお世話になります。

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2009年1月11日(日) 2:01AM

ちなみに、テープっていいよね。皆さんはCDやMD世代かもしれないけど、僕らの世代はテープだった。音のクラリティを求めると、やはりデジタルの音に指向しちゃうけど、持っていたテープを引っ張り出して聞いてみると、何かアナログの良さが初めて分かった気がする。考えてみれば、ライブで音を聞くことってそもそもアナログな体験なんだよね。それをより本物そっくりにリアリティを求めて音を詰めたのがデジタル音源。これも逆説的なことだけど、デジタルでリアルさを再現しようとすればするほど、アナログから乖離していく。つまり、リアルさから離れていくのだ。

 

これってたまりんさんの卒論と同じ構造だね。携帯電話は直接的なコミュと思っている。より純粋な媒介にし、コミュを純粋にしようと他者性を排除することで、人はコミュが直接になると思ってる。しかし、この前書いたように、それは違うんだな。コミュニケーションのリアルさとは、遠くにいる知っている人とつながることではなく、身の回りにいる他者とつながることの方なんだ。つまり、携帯でもっと直接的にコミュしよう!としている人は、むしろ本来のコミュらしさをそぎ落としていることなんだよ。

 

挙句の果ては、当たり前に存在する他者とコミュニケーションできないという逆説にたどりつく。他者性を排除したコミュニケーション空間は非常に排他的であり、次に排除されるのはあなたかもしれないのだよ。『花より男子』のF4のターゲットになるのは次は君かも知れない!って世界。

 

バーチャルはあくまでもバーチャル。そこで再現されるリアルさは本当のリアルさと対極にあるものってことに気付かなければならないね。体験って一回性にその本質があるんだ。だから、そのはかない体験を「リアル」と称してデジタル化してCDなりDVDに詰め込むってことは、一回性を永遠にせしめることで、それはほとんど自殺行為なんだろうね。

 

といいながら、耳にイヤホンをつけて聞くときのデジタルサウンドの迫力はほとんど麻薬のようなもの。取りつかれるとはまるような力が備わっている。むずかしいけど、僕たちはそういう二つのリアルの中を生きねばならず、そこに引き裂かれることが今の生き方なのかも。少なくとも、バーチャルなリアルさによってリアルを否定するのは「胡蝶の夢」かな。

 

(吉武正樹の英語コミュニケーション研究室ブログより)

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2009年1月5日(月) 11:54AM

あけましておめでとうございます。このHPを立ち上げてから早9年が経過しました。10年目突入です。負担にすることなく、しかし、何か書き留めておきたいことを自由に載せる、今後ともそんなHPにしていこうかと思います。昨年は12月に研究室ブログを立ち上げまして、授業でのこととそれ以外のことの棲み分けをすることにいたしました。読書と授業と指導とはかっちりと絡み合っていて、一つの車にある車輪のそれぞれのようなものです。正確に分けることなどできないのですが、基本ブログで日々の授業や指導で感じたこと考えたことを、学生らのためにそして自分自身のためにまとめ、その中から、またはその外で考えたことなどをここに載せていきます。ペースはぐっと落ちましたが(忙しくなりまして。。。)、今後ともtake it bochi bochiでやっていこうと思います。本年もよろしくお願いいたします。


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