§ 資本論 経済学批判

§ 第1巻 第1部 資本の生産過程

 

  忘れがたきわが友
  勇敢、誠実、高潔なプロレタリアート前衛戦士
 ヴィルヘルム・ヴォルフ
   一八〇九年六月二一日、タルナウに生まれ
   一八六四年五月九日、亡命のうちにマンチェスターに死す
  にささぐ

 

第1版序文

 私がここに第1巻を公刊するこの著作は、一八五九年に刊行された私の著書『経済学批判』の続きである。初めに出したものと続編とのあいだの長い休止は、私の仕事をくり返し中断させた長年にわたる病気のためである。

 あの以前の著書の内容は、この巻の第1章〔第2版以降の第1編にあたる〕に要約されている。そうしたのは、関連をつけ完全にするためだけではない。叙述が改善されている。以前はただ暗示されただけの多くの点が、ここでは、事情が何とか許す限り、さらに進んで展開されている。また逆に、旧著ではくわしく展開されたことが、ここではただ暗示されるにとどまっている。価値理論および貨幣理論の歴史に関する部分は、今度はもちろん全部なくなっている。けれども、旧著の読者は、第1章の注の中にあの理論の歴史のための新たな諸資料が示されているのを見いだすであろう。

 何ごともはじめは難しい〔ドイツの諺〕ということは、どの科学にも当てはまる。だから、第1章、ことに商品の分析を収める節〔本書の第1章に当たる〕の理解は、最も困難であろう。さらに立ちいって価値実体と価値の大きさとの分析に関して言うなら、私はそれをできる限り平易にした(1)。価値形態・・その完成した姿態が貨幣形態である・・は、きわめて内容にとぼしく、単純である。にもかかわらず、人間精神は二〇〇〇年以上も前から、これを解明しようとして果たさなかったのであるが、他方、これよりはるかに内容豊富で複雑な諸形態の分析には、少なくともだいたいは成功した。なぜか? 発育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。その上、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も役に立たない。抽象力が両者に取ってかわらなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が、経済の細胞形態である。素養のない者にとっては、この形態の分析はただいたずらに細かい詮索をやっているように見える。この場合には実際細かい詮索が肝要なのであるが、それはまさに、顕微鏡でそのような詮索が肝要であるのと同じことである。

(1) シュルツェ−デーリッチを反駁したF・ラサールの著書の中の、彼がこれらの題目に関する私の展開の「精神的核心」を与えると称している部分でさえ、重大な誤解を含んでいるだけに、なおのことこのように平易にすることが必要だと思われた。ついでに言えばF・ラサールは、彼の経済学的諸労作の一般的な理論的諸命題全体、たとえば資本の歴史的性格に関する、生産諸関係と生産様式との関連等々に関する、諸命題を、ほとんど逐語的に、私がつくり出した術語にいたるまで、私の諸著からしかも出所を示さずに借用しているのであるが、このようなやり方はおそらく宣伝上の考慮からなされたのであろう。もちろん私の言うのは、彼の細部の議論や応用についてではないのであって、それらは私とは無関係である。

 したがって、価値形態に関する部分を別とすれば、本書を難解だと言って非難することはできないであろう。もちろん私は、新たなものを学ぼうとし、したがってまた自分自身で考えようとする読者を想定している。

 物理学者は、自然過程を、それが最も典型的な形態で、またそれが撹乱的な影響によってかき乱されることが最も少なく現れるところで、観察するか、あるいはそれが可能な場合には、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行う。私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所はこんにちまでのところイギリスである。これこそ、イギリスが私の理論的展開の主要な例証として役立つ理由である。しかしもしドイツの読者が、イギリスの工業労働者や農業労働者の状態についてパリサイ人のように眉をひそめるか、あるいは、ドイツでは事態はまだそんなに悪くなっていないということで楽天的に安心したりするならば、私は彼にこう呼びかけなければならない、“おまえのことを言っているのだぞ! De te fabula narratur! ”と。

 資本主義的生産の自然諸法則から生ずる社会的な敵対の発展程度の高低が、それ自体として問題になるのではない。問題なのは、これらの諸法則そのものであり、鉄の必然性をもって作用し、自己を貫徹するこれらの傾向である。産業のより発展した国は、発展の遅れた国に対して、ほかならぬその国自身の未来の姿を示している。

 しかしこの点はしばらくおくとしよう。ドイツで資本主義的生産が完全に市民権を得ているところ、たとえば本来の工場では、イギリスよりもはるかに状態は悪い。というのは、これに対抗する工場法が欠けているからである。その他のすべての部門では、他の西ヨーロッパ大陸全部と同じように、資本主義的生産の発展ばかりでなく、その発展の欠如もまた、われわれを苦しめている。近代的な窮境とならんで、一連の伝来的な窮境がわれわれを締めつけているが、これらの窮境は、古風で時代遅れの生産諸様式が、時勢に合わない社会的政治的諸関係という付随物をともなって、存続していることから生じている。われわれは、生きているものに悩まされているだけでなく、死んだ者にも悩まされている。“死者が生者をとらえる! Le mort saisit le vif! ”

 イギリスの社会統計にくらべると、ドイツやその他の西ヨーロッパ大陸のそれは貧弱である。それでもなお、その社会統計は、その背後にメドゥーサの頭のあることを感づかせるには十分なほど、ヴェールを少しまくり上げている。もしわれわれの政府や議会が、イギリスにおけるように、経済事情に関する定期的な調査委員会を設置し、これらの委員会が、真実の探究のためにイギリスにおけると同じ絶対権限を与えられ、この目的のために、イギリスの工場監督官や、「“公衆衛生 Public Health ”」に関する医事報告者や、女性および児童の搾取に関する、また住宅状態や栄養状態に関する調査委員たちと同じ様な、専門知識があり公平で容赦しない人々を見つけ出すことができるならば、われわれは自分自身の状態にぞっとするであろう。ペルセウスは怪物を追跡するために隠れ帽子を用いた。われわれは、怪物の存在を否認してしまうためにこの帽子で目も耳も隠してしまうのである。

 人はこのことについて自分をあざむいてはならない。一八世紀のアメリカ独立戦争がヨーロッパの中間階級〔ブルジョアジー〕にたいして出動準備の鐘を打ち鳴らしたように、一九世紀のアメリカの内乱はヨーロッパの労働者階級に対して出動準備の鐘を打ち鳴らした。イギリスでは変革過程が手に取るように明らかである。この過程は、一定の高さに達すれば、大陸にはね返ってくるに違いない。この変革過程は、大陸では、労働者階級自身の発展程度に応じて、より残忍な形で、あるいはよりおだやかな形で、行われるであろう。したがってこんにちの支配階級は、より高尚な動機は別として、まさに彼ら自身の利害関係によって、労働者階級の発達をさまたげている、法律により処理可能ないっさいの諸障害を取りのぞくことを命じられている。そのために私は、ことにイギリスの工場立法の歴史、内容、成果に対して、本巻の中であのようにくわしい叙述のページをさいたのである。一国民は他の国民から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえある社会が、その社会の運動の自然法則への手がかりをつかんだとしても・・そして近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である・・その社会は、自然的な発展諸段階を跳びこえることも、それらを法令で取りのぞくことも、できない。しかし、その社会は、生みの苦しみを短くし、やわらげることはできる。

 起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここで諸人格が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。

 この著書の第2巻は資本の流通過程(第2部)と総過程の諸態容(第3部)とを取りあつかい、最後の第3巻(第4部)は理論の歴史を取りあつかうであろう。

 科学的批判にもとづくいっさいの意見を歓迎する。私がかつて一度も譲歩したことのないいわゆる世論なるものの偏見に対しては、あの偉大なフィレンツェ人〔ダンテ〕の標語が、つねに変わることなく私に当てはまる。

 “汝の道を進め、そして人々をして語るにまかせよ! Segui il tuo corso,e lascia dir le genti! ”〔ダンテ、『神曲』、「浄化」編、第五曲からの言い換えの引用〕

   ロンドン、一八六七年七月二五日

                        カール・マルクス

 


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