第2節 商品に表される労働の二重性

最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現れた。後には、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである(12)。この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ちいって説明しておこう。

(12) カール・マルクス『経済学批判』、12、13ページ、〔『全集』、第13巻、22、23原ページ〕、そのほか各所。

二つの商品、たとえば一着の上着と一〇エレのリンネルをとってみよう。前者は後者の二倍の価値を持っており、だからもし 10エレのリンネル=W ならば 1着の上着=2W であるとしよう。

上着は、一つの特殊な欲求を満たす一つの使用価値である。それを生産するためには、一定の種類の生産的活動が必要である。この活動は、その目的、作業法、対象、手段、および結果によって規定されている。その有用性がこのようにその生産物の使用価値に・・またはその生産物が使用価値であるということに・・表される労働を、われわれは簡単に有用労働と呼ぶ。この観点のもとでは、労働はつねにその有用効果との関連で考察される。 上着とリンネルとが質的に異なる使用価値であるのと同じように、それらの定在〔Dasein〕を媒介する労働も質的に異なるもの・・裁縫労働と職布労働である。もしもこれらのが質的に異なる使用価値ではなく、したがって質的に異なる有用労働の生産物でないなら、それらはおよそ商品として相対することができないであろう。上着が上着と交換されることはなく、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはない。 さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体・・社会的分業・・が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。もっとも、逆に、商品生産は社会的分業の存在条件ではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物は商品になっていない。あるいは、もっと手近な例をあげれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されているのではない。自立した、たがいに従属していない、私的労働の生産物だけが、たがいに商品として相対するのである。 したがって、われわれは次のことを見てきた・・どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。 ところで、上着にとっては、それが裁縫師自身によって着られるか、それとも裁縫師の顧客によって着られるかは、どうでもよいことである。どちらの場合でも、上着は使用価値として作用する。同じように、上着とそれを生産する労働との関係は、裁縫労働が、特殊な職業となり、社会的分業の自立した一分岐となることによっては、それ自体として変わることはない。人間は、衣服を着る必要にせまられたところでは、だれかある人が裁縫師になる前に、すでに何千年にわたって裁縫労働を行ってきた。しかし、上着やリンネルのような天然自然には存在しない素材的富のあらゆる要素の現存は、特殊な自然素材を人間の特殊な欲求に適合させるある一つの特有な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である。

使用価値である上着、リンネルなど、簡単に商品体は、二つの要素の、すなわち自然素材と労働との、結合物である。上着、リンネルなどに含まれているすべての異なった有用労働の総和を取りされば、人間の関与なしに天然に存在する物質的基体がつねに残る。人間は、彼の生産において、自然そのものがやる通りにふるまうことができるだけである。すなわち、素材の形態を変えることができるだけである(13)。それだけではない。形態を変えるこの労働そのものにおいても、人間はたえず自然力に支えられている。したがって、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが言っているように、労働は素材的富の父であり、大地〔Erde〕はその母である。

(13) 「宇宙のすべての現象は、人間の手によって生み出されようと物理学の一般的諸法則によって生み出されようと、事実上の創造ではなく、単に素材の変形であるにすぎない。結合と分離が、再生産という観念の分析に際して人間精神が繰りだし見いだす唯一の要素である・・価値」(使用価値のことである。もっともヴェッリは、重農主義学派に対するこの論争において、自分がどちらの種類の価値について語っているのか、自分でもよくわかっていない。)「および富の再生産についても、事情は同じであり、大地、空気、および水が畑で穀物に変えられたり、あるいはまた、何かある昆虫の分泌物が人間の手によって絹に変えられたり、あるいは、いくつかの金属片が組みたてられて時打ち時計が作られる場合がそれである。」(ピエートロ・ヴェッリ『経済学に関する諸考察』・・初版は一七七一年・・クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第一五巻〔ミラノ、一八〇四年〕、二一、二二ページ)。

 そこで、今度は、使用対象である限りでの商品から、商品−価値に移ろう。 われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。もっとも、これは量的な区別にすぎず、この区別はさしあたりまだわれわれの問題ではない。そこで、われわれは、一着の上着の価値が一〇エレのリンネルの価値の二倍であれば、二〇エレのリンネルは一着の上着と同じ価値の大きさをもつということを思いだそう。価値としては、上着とリンネルとは同じ実体をもつ物であり、同一性質の労働の客観的表現である。ところが、裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる労働である。けれども、ある社会状態においては、同じ人間が裁縫労働と織布労働とをかわるがわる行い、したがって、この二つの異なる労働様式は同じ個人の労働の諸変形にすぎず、まだ異なる諸個人の特殊な固定的な職能にはなっていないことがある。それは、ちょうど、わが裁縫師がきょう仕立てる上着とあす仕立てるズボンとが同じ個人的労働の変化を前提するにすぎないのとまったく同じである。さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義社会においては、労働需要の方向が変化するにつれて、それに応じて、一定部分の人間労働が、ある時は裁縫労働の形態で、ある時は織布労働の形態で、かわるがわる供給されている。労働のこの形態変換は、摩擦なしに行われるわけではあるまいが、ともかく行われざるをえない。生産活動の特定性、したがって労働の有用な性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間労働力の支出であるということである。裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産的活動であるにもかかわらず、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間労働である。それらは、人間の労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。たしかに、人間の労働力そのものは、それがあれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、人間労働自体を、人間労働〔第1版とフランス語版では、人間労働力、となっている〕一般の支出を、表している。ところで、ブルジョア社会では、将軍なり銀行家なりは大きな役割を演じ、これに対して人間自体はごくみすぼらしい役割を演じているが(14)、この場合の人間労働もその通りである。それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。たしかに、<単純な平均労働>そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。より複雑な労働は、単純労働の<強められたもの>、またはむしろ<何倍かされたもの>としてのみ通用し、そのために、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいことになる。この還元がたえず行われていることは、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれないが、その<価値>は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身、一定量の単純労働を表すにすぎない(15)。さまざまな種類の労働がその度量単位である単純労働に還元されるさまざまな比率は、生産者たちの背後で一つの社会的過程によって確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられるかのように見える。簡単にするために、以下ではどんな種類の労働力をも直接に単純な労働力とみなすが、それは、還元の労を省くためにほかならない。

(14) ヘーゲル『法の哲学』、ベルリン、一八四〇年、二五〇ページ、第一九〇節〔藤野渉・赤沢正敏訳、『世界の名著』35、中央公論社、四二三〜四二四ページ〕、参照。

(15) 読者が注意しなければならないのは、ここでは、労働者がたとえば一労働日〔一日の労働時間〕について受け取る賃金または価値のことを言っているのではなく、彼の一労働日が対象化されている商品価値のことを言っているということである。労賃というカテゴリーは、われわれの叙述のこの段階ではまだまったく存在しない。 したがって、価値である上着およびリンネルにおいては、それらの使用価値の区別が捨象されているように、これらの価値に表されている労働においては、裁縫および織布労働というそれらの有用的形態の区別が捨象されている。使用価値である上着およびリンネルが目的を規定された生産的活動と布および糸との結合したものであり、これに対して価値である上着およびリンネルは単なる同種の労働凝固体であるように、これらの価値に含まれている労働は、布および糸に対するその生産的なふるまいによってではなく、ただ人間労働力の支出としてのみ通用する。裁縫労働と織布労働とが使用価値である上着およびリンネルの形成要素であるのは、まさにこれらの労働の異なる質によってである。裁縫労働と織布労働とが上着価値およびリンネル価値の実体であるのは、ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質をもっている限りでのことである。

だが、上着もリンネルも単に価値そのものであるだけではなく、一定の大きさをもつ価値であり、われわれの想定では、一着の上着は一〇エレの二倍の価値がある。これらの価値の大きさのこの相違はどこから生じるのか? それは、リンネルが上着の半分の労働しか含んでおらず、したがって、上着を生産するにはリンネルを生産する時間の二倍にわたって労働力が支出されなければならない、ということから生じる。 したがって、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつのだが、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元されたのち、ただ量的にのみ意義をもつ。前の場合には、労働のどのようにしてと、何をするかが問題となり、後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表すから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。 たとえば、一着の上着の生産に必要とされるすべての有用労働の生産力が不変のままにとどまるならば、上着の価値の大きさは、上着自身の量が増えるにつれて増大する。一着の上着がx労働日を表すなら、二着の上着は2x労働日を表す、等々。しかし、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増加するか、あるいは半分に減少するものと仮定しよう。前の場合には、一着の上着は以前の二着の上着と同じ価値をもち、後の場合には、二着の上着が以前の一着と同じ価値しかもたない。もっとも、どちらの場合でも、一着の上着はあい変わらず一着の上着として役立ち、それに含まれている有用労働もあい変わらず同じ質のものである。ただ、その生産に支出された労働量が変わったのである。 より大きい量の使用価値は、それ自体としては、より大きい素材的富をなす。二着の上着は、一着の上着より大きい素材的富をなす。二着の上着があれば、二人に着せることができるが、一着の上着では一人にしか着せられない、等々。といっても、素材的富の量の増大に対応して、同時にその価値の大きさが低下することもありえる。このような対立的運動は、労働の二面的性格から生じる。生産力は、もちろんつねに、有用な具体的労働の生産力であり、実際、ただ、与えられた時間内における目的にしたがった生産活動の作用度だけを規定する。だから、有用労働は、その生産力の上昇または低下に正比例して、より豊かな生産物源泉ともなれば、より貧しい生産物源泉ともなる。これに対して、生産力の変動は、それ自体としては、価値に表される労働にはまったく影響しない。生産力は、労働の具体的な有用な形態に属するから、労働の具体的な有用な形態が捨象されるやいなや、生産力は、当然、もはや労働に影響を与えることはできなくなる。だから、生産力がどんなに変動しても、同じ労働は、同じ時間内には、つねに同じ価値の大きさを生み出す。ところが、同じ労働は同じ時間内に、異なった量の使用価値を・・生産力が上がれば、より大きい量を、生産力が下がれば、より小さい量を・・提供する。したがって、労働の多産性を増大させ、したがって、労働によって提供される使用価値の総量を増大させるような生産力の変動は、もしもそれがこの使用価値総量の生産に必要な労働時間の総計を短縮させるならば、この増大した使用価値総量の価値の大きさを減少させる。反対の場合には逆になる。

すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する(16)。

(16) 第2版への注。「労働だけが、すべての商品の価値がそれによって、あらゆる時代を通して、評価され、比較されうる究極の、真の尺度であること」を証明するために、A・スミスは、次のように言う。「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって等しい価値をもっていなければならない。労働者は、彼の健康、体力、および活動の正常状態のもとで、また彼の熟練と技能が通常の程度であれば、自分の安楽、自分の自由、および自分の幸福の同一部分をつねに犠牲にしなければならない」(『諸国民の富』、第一篇、第五章〔一〇四〜一〇五ページ。大内・松川訳、岩波文庫、(一)、一五五〜一五六ページ〕)。一方A・スミスは、この場合(どこでもと言うわけではないが)、商品の生産に支出される労働の量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同しており、したがって、等量の労働はつねに等しい価値をもつということを証明しようとしている。他面では、彼は、商品価値に表される限りでの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用するということにうすうす感づいているが、この支出を、ふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえていない。いずれにせよ、彼は近代的賃金労働者を眼前においているのである。・・注9に引用したA・スミスの匿名の先行者は、はるかに適切にのべている。「ある人は、この使用対象の生産に一週間を費やした。・・・・そして、それと交換に彼にある他の対象を与える人は、自分が何にちょうど等しい労働と時間とを費やすかを計算するよりほかには、何が実際に等価であるかを正しく評価する方法をもちえない。このことが事実上意味しているのは、ある人が一定の時間にある対象に費やした労働と、別の人が同じ時間に別の対象に費やした労働との交換である」(『貨幣の利子一般、および特に公債の利子に関する若干の考察』、三九ページ)。・・{第4版への注。英語には、労働のこうした二つの異なる面を表す二つの異なる言葉をもっているという利点がある。使用価値を作り質的に規定されている労働は "work" と呼ばれて "labour" に対置され、価値を作り量的にのみはかられる労働は "labour" と呼ばれて "work" に対置される。英語版、14ページの注を見よ。・・F・エンゲルス}


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