第3節 価値形態または交換価値

商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。

商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。

だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。

もっとも単純な価値関係は、明らかに、どんな種類であろうと種類を異にするただ一つの商品に対する一商品の価値関係である。だから、二つの商品の価値関係は、一つの商品にとってのもっとも単純な価値表現を与える。

 

A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品はy量の商品Bに値する。
(20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値する)

 

1 価値表現の両極・・相対的価値形態と等価形態

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちに潜んでいる。だから、この価値形態の分析には真の困難がある。

ここでは、種類を異にする二つの商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着とは、明らかに、二つの異なった役割を演じている。リンネルはその価値を上着で表現し、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的役割を演じ、第二の商品は受動的役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表されている。すなわち、この商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価として機能する。すなわち、等価形態にある。

相対的価値形態と等価形態とは、たがいに依存しあい、たがいに制約しあう、不可分の契機であるが、同時に、たがいに排除しあう、あるいは対立しあう、両極端、すなわち同一価値表現の両極である。この両極は、つねに、この価値表現によってたがいに関係させられる別々の商品に配分される。私は、たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネル というのは、決して価値表現ではない。この等式が語るのはむしろ逆に、二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネル、すなわち一定量の使用対象であるリンネル、以外の何物でもないということである。したがって、リンネルの価値は、ただ相対的に、すなわち他の商品でしか、表現されえない。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、何かある他の商品がリンネルに相対して等価形態にあることを前提する。他面、等価の役をつとめるこの他の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。この商品は自分の価値を表現するのではない。この商品は、他の商品の価値表現に材料を提供するだけである。

たしかに、20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値する、という表現は、1着の上着=20エレのリンネル または、一着の上着は二〇エレのリンネルに値する、という逆の関係を含んでいる。しかし、そうは言っても、上着の価値を相対的に表現するためには、私はやはりこの等式を逆にしなければならず、そしてそうするやいなや、上着ではなくリンネルが等価物となる。したがって、同じ商品は同じ価値表現においては同時に両方の形態で現れることはできない。この両形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。

そこで、ある一つの商品が相対的価値形態にあるか、それと対立する等価形態にあるかは、もっぱら、価値表現におけるその商品のそのつどの位置・・すなわち、その商品は、自分の価値を表現される商品なのか、それとも、それで価値が表現される商品なのか・・にかかっている。

 

2 相対的価値形態

a 相対的価値形態の内実

ある一つの商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この価値関係を、さしあたりその量的関係からまったく独立に、考察しなければならない。人は、たいてい、これと正反対のことを行っており、価値関係のうちに、二種類の商品の一定量同士が等しいとされる割合だけを見ている。その場合、見落とされているのは、異種の物の大きさは、それらが同じ単位に還元されてはじめて、量的に比較されうるものとなるということである。それらは、同じ単位の諸表現としてのみ、同名の、したがって通約可能な大きさなのである(17)。

(17) S・ペイリーのように、価値形態の分析にたずさわった少数の経済学者たちが何の成果もあげることができなかったのは、一つには、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、実際的なブルジョアからの生(ナマ)の影響のもとに、はじめからもっぱら量的規定性だけに注目しているからである。「量の支配が・・・・価値をなす」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、一八三七年、一一ページ)。著者はS・ペイリー。

20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、=20着の上着 であろうと、=x着の上着 であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと少ない上着に値しようと、このような割合はどれも、リンネルと上着とは、価値の大きさとしては、同じ単位の諸表現であり、同じ性質の物であるということを、つねに含んでいる。リンネル=上着 が等式の基礎である。

しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換されうるものとしての上着に関係するからである。たとえば、酪酸は、蟻酸プロピルとは異なる物体である。しかし、両者は、同じ化学的実体・・炭素(C)、水素(H)、および酸素(O)から成りたち、しかも同じ比率の組成、すなわちC4H8O2 で成りたっている。今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し、第二に、酪酸もまたC4H8O2 から成りたっていることがのべられるであろう。すなわち、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、その化学的実体が、その物体形態から区別されて、表現されるであろう。

われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。個々では、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。

たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。異種の諸商品の等価表現だけが・・異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって・・価値形成労働の特有な性格を表すのである(17a)。

(17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後、価値の性質を見ぬいた最初の経済学者の一人であるあの有名なフランクリンは、次のようにのべている。「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」(『B・フランクリン著作集』、スパークス編、ボストン、一八三六年、第二巻、二六七ページ〔『紙幣の性質と必要についてのささやかな研究』〕)。フランクリンは、あらゆるものの価値を「労働によって」評価することによって、彼が、交換される諸労働の相違を捨象していること、したがってそれらの労働を等しい人間労働に還元していること、を自分では意識していない。にもかかわらず、彼は自分ではわかっていないことを語っている。つまり、彼は、はじめにまず「ある一つの労働」について語り、次に、「別の労働」について語り、最後に、あらゆる物の価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」について語っているのである。

もっとも、リンネルの価値を構成している労働の特有な性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。リンネル価値を人間労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時に、リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。課題はすでに解決されている。

リンネルの価値関係の中で、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、すなわち同じ性質の物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。だから、上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめるその現物形態で価値を表す物として、通用する。ところで、上着は、すなわち上着商品の身体は、たしかに単なる一使用価値である。上着が価値を表現していないのは、リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは、ただ次のことを示すだけである。すなわち、上着はリンネルに対する価値関係の内部ではその外部でよりも多くの意味をもつということである。ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。

上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間労働力が実際に支出された。したがって、上着の中には人間労働が堆積されている。この側面からすれば、上着は「価値の担い手」である。もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目からすけて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして王位に対する態度をとることは、同時にAにとって王位がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのものが国王の交替のたびに替わるということなしには、できないように。

こうして、上着がリンネルの等価となる価値関係の中では、上着形態が価値形態として通用する。したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、リンネルは、上着とは感性的に異なるものであるが、価値としては、リンネルは「上着に等しいもの」であり、したがって、上着のように見える。このようにして、リンネルは、その現物形態とは異なる価値形態を受け取る。リンネルの価値存在が上着との同一性に現れるのは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊との同一性に現れるのと同じである。

上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける。労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいものとして通用する限り、したがって価値である限り、上着はリンネルと同じ労働から成りたっていると言う。リンネルの高尚な価値対象性は糊でごわごわしたリンネルの身体とは異なっているということを言うために、リンネルは、価値が上着に見え、したがって、リンネル自身も価値物としては上着と瓜二つであるという。ついでに言えば、商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている。たとえば、ドイツ語の "Wertsein" 〔値する〕は、ロマンス語系の動詞、 valere,valer,valoir 〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」〕にくらべて、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表すには不適切である。“パリはたしかにミサに値する! Paris vaut bien messe! ”

したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる(18)。商品Aが価値体としての、人間労働の物質化としての、商品Bに関係することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。

(18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。

 

b 相対的価値形態の量的規定性

その価値が表現されるべき商品は、どれも、与えられた量のある使用対象・・一五シェッフェルの小麦、一〇〇ポンドのコーヒーなど・・である。この与えられた商品量は、一定量の人間労働を含んでいる。したがって、価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着という商品種類は、単に価値体一般として、リンネルに質的に等置されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば二〇エレのリンネルに対して、一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。

「20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、一着の上着には二〇エレのリンネルにひそんでいるのとまったく同じ量の価値実体がひそんでいること、すなわち、両方の商品量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせることである。ところが、二〇エレのリンネルまたは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに、変動する。そこで、このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ちいって研究しなければならない。

T リンネルの価値は変動するが(19)、上着価値は不変のままである場合。たとえば、亜麻のとれる耕地〔Boden〕がますますやせた結果、リンネルの生産に必要な労働が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。今や一着の上着は二〇エレのリンネルの半分の労働時間を含むにすぎないから、20エレのリンネル=1着の上着 の代わりに、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。これに対して、たとえば織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分に減少すれば、リンネル価値は半分に低下する。それに応じて、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。したがって、商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表現される商品Aの価値は、商品Bの価値が不変のままでも、商品Aの価値に正比例して、上昇または低下する。

(19) 「価値〔Wert〕」という表現は、ここでは、すでに以前にも時おりあちこちでそうだったように、量的に規定された価値すなわち価値の大きさの意味で用いられている。

U リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値が変動する場合。こうした事情のもとで、たとえば羊毛の刈りとりが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になれば、20エレのリンネル=1着 の上着の代わりに、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となるであろう。これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。だから、商品Aの価値が不変のままでも、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に逆比例して、低下または上昇する。

TおよびUのもとでのさまざまの場合を比較してみると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかる。実際、20エレのリンネル=1着の上着 は、(1)リンネルの価値が二倍になっても、上着の価値が半分に減少しても、20エレのリンネル=2着の上着 という等式になり、また、(2)リンネルの価値が半分に低下しても、上着の価値が二倍に上昇しても、20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのである。

V リンネルおよび上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動することもある。この場合には、これらの商品の価値がどんなに変動しようと、あい変わらず、20エレのリンネル=1着の上着 である。これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値が不変のままであった第三の商品と比較すれば、すぐにわかる。すべての商品の価値が、同時に、同じ比率で、上昇または低下すれば、それらの商品の相対的価値は不変のままであろう。これらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間内に、今や一般的に、以前よりも多量かまたは少量の商品量が供給されるということから見てとれるであろう。

W リンネルおよび上着の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがってこれらの商品の価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動するか、あるいは反対の方向に変動するなどなどのことがありえる。この種のありとあらゆる組あわせが一商品の相対的価値に与える影響は、T、U、およびVの場合を応用すれば、簡単にわかる。

こうして、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にもあますところなしにも反映されはしない。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも、変動しうる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありえる。そして、最後に、一商品の価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とが同時に変動しても、この変動が一致する必要は少しもない(20)。

(20) 第2版への注。価値の大きさとその相対的表現とのこうした不一致は、俗流経済学によっていつもながらの鋭敏さで利用されてきた。たとえば、次のとおり。「Aと交換されるBが騰貴するために・・そのあいだにAに支出される労働は減少していないのに・・Aが低落するということをひとたび認めれば、諸君の一般的価値原理は崩壊する。・・・・もしも、Aの価値がBに対して相対的に上昇するので、Bの価値がAに対して相対的に低下するということが承認されるならば、リカードが、一商品の価値はそれに体現された労働の量によってつねに規定されるという、彼の大命題の基礎にすえた根拠が崩れさる。なぜなら、もしもAの費用におけるある変動が、Aと交換されるBとの関係におけるAそれ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に必要とされる労働量には何の変動も生じなかったのにBの価値をもAの価値に対して相対的に変化させるならば、その場合には、一つの物品に支出される労働量がその価値を規制するということを断言する学説が崩壊するだけでなく、一つの物品の生産費がその価値を規制するという学説も崩壊するからである」(J・ブロードハースト『経済学』、ロンドン、一八四二年、一一、一四ページ)。

ブロードハースト氏は、同じように、次のように言うこともできよう。どうか一つ、10/20、10/50、10/100等々という比をよく見たまえ。10という数は不変のままなのに、その比率上の大きさ、すなわち、20、50、100という分母に対するその相対的な大きさは、たえず減少している。だから、一つの整数、たとえば、10の大きさは、それに含まれる1という単位の数によって「規制」されているという大原理は崩壊する、と。

 

3 等価形態

われわれは次のことを見てきた。・・一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表現することによって、商品Bそのものに、一つの固有な価値形態、等価という形態をおしつける、ということである。リンネル商品は、自身の価値存在を外に現すのであるが、それは上着がその身体形態とは異なる価値形態をとることなしに、リンネル商品に等しいとされることによってである。したがって、リンネルは、実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって表現する。一商品の等価形態は、したがって、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態なのである。

ある一種類の商品、たとえば上着が、別の種類の商品、たとえばリンネルのために等価として役立ち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという特徴的な属性を受け取るとしても、それによって、上着とリンネルとが交換されうる比率が与えられるわけでは決してない。この比率は、リンネルの価値の大きさが与えられているのだから、上着の価値の大きさによって決まる。上着が等価として表現されリンネルが相対的価値として表現されていようとも、あるいは逆に、リンネルが等価として表現され上着が相対的価値として表現されていようとも、上着の価値の大きさは、依然として、上着の生産に必要な労働時間によって、したがって、上着の価値形態とはかかわりなく、規定されている。しかし、上着という商品種類が価値表現において等価の位置を占めるやいなや、この商品種類の価値の大きさは、価値の大きさとしての何らの表現も受け取らない。この商品種類は、価値等式においては、むしろただある物の一定量の役として現れるにすぎない。

たとえば、四〇エレのリンネルは「値する」・・何にか? 二着の上着に、である。ここでは、上着という商品種類は等価の役割を演じており、上着という使用価値はリンネルに対しては価値体として通用するから、一定の価値量としてのリンネルを表現するためには、やはり一定量の上着があれば十分なのである。だから、二着の上着は、四〇エレのリンネルの価値の大きさを表現することはできるが、それ自身の価値の大きさ、上着の価値の大きさを表現することは決してできない。価値等式における等価は、つねに、ただ、一つの物の・・一使用価値の・・単なる量という形態をとるにすぎないというこの事実の皮相な理解は、ベイリーを・・彼の多くの先行者や後続者と同じように・・迷わせて、価値表現のうちにただ量的な関係のみを見るにいたらせた。だが、一商品の等価形態には、むしろ、何の量的な価値規定も含まれないのである。

等価形態の考察に際して目につく第一の特質は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。

商品の現物形態が価値形態になるのである。だが、注意せよ。この“入れ替わり Quidproquo ”が一商品B(上着、または小麦、または鉄など)にとって生じるのは、ただ、任意の他の一商品A(リンネルなど)が商品Bと取り結ぶ価値関係の内部だけのことであり、ただこの関係の内部だけのことである。どんな商品も等価としての自分自身に関係することはできず、したがってまたそれ自身の自然的外皮をそれ自身の価値の表現にすることはできないから、どんな商品も、他の商品を等価としてそれに関係させざるをえないのである。

このことをわかりやすくするのは、商品体としての・・すなわち使用価値としての・・商品体に適用される尺度の例であろう。棒砂糖は、物体であるから、重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってくる。鉄の物体形態は、それ自体としてみれば、棒砂糖の物体形態と同じように、重さの現象形態ではない。にもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するためには、われわれはそれを鉄との重量関係におく。この関係の中では、鉄は、重さ以外の何ものも表さない一物体として通用する。だから、鉄の諸分量は、砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体に対しては単なる重さの姿態、重さの現象形態を表す。鉄がこの役割を演じるのは、ただ、その重量が見いだされるべき砂糖または他の何らかの物体が鉄と取り結ぶこの関係の内部においてだけである。もしも両方の物に重さがなければ、両者はこの関係に入ることができず、したがって、一方が他方の重さの表現に役立つこともできないであろう。両方の物を天秤(テンビン)の皿に乗せれば、両者が重さとしては同じ物であり、したがって、一定の比率において同じ重量の物であるということが、実際にわかる。鉄体が重量尺度としては棒砂糖に対してただ重さだけを代表するように、われわれの価値表現においては上着体がリンネルに対してただ価値だけを代表するのである。

しかし、類似はここまでである。鉄は、棒砂糖の重量表現においては、両方の物体に共通な自然属性であるそれらの重さを代表するのに対して・・上着は、リンネルの価値表現においては、両方の物の超自然的属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的なもの、を代表している。

一商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体およびこの身体の諸属性と完全に区別されるものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのであるが、そのことによって、この表現が一つの社会的関係を秘めていることを、この表現そのものが暗示している。等価形態については逆である。等価形態とは、まさに、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの物として価値を表現し、したがって、生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。たしかに、このことが通用するのは、ただ、リンネル商品が等価としての上着商品に関係させられている価値関係の内部でのことにすぎない(21)。しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物との関係から生じるのではなく、むしろこのような関係の中で確認されるだけのものであるから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか寒さをふせぐとかいうその属性と同じように、生まれながらにもっているかのように見えるのである。そこから、等価形態の謎〔Raetselhafte〕が生じるのであるが、この謎が経済学者のブルジョア的な粗雑な目を見はらせるのは、やっと、等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現れる時である。その時、彼は、金銀の神秘的性格を〔den mystischen Charakter〕説明しさろうとして、金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて、かつては商品等価の役割を演じたことのあるこれらいっさいの下賎な商品の目録を棒読みしては、そのたびに満足の喜びを新たにする。すでに、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現が等価形態の謎〔das Raetsel〕を解く鍵を与えていることなど、彼は感づきもしないのである。

(21) およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、他の人々が彼に対して臣下としての態度をとるからにほかならない。ところが、彼らは、彼が王であるから、自分たちは臣下なのだと思うのである。

等価として役立つ商品の身体は、つねに、抽象的人間労働の体現として通用し、しかもつねに、一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働が抽象的人間労働の表現になるのである。たとえば、上着が抽象的人間労働の単なる実現として通用するならば、実際に上着に実現される裁縫労働は抽象的人間労働の単なる実現形態として通用する。リンネルの価値表現においては、裁縫労働の有用性は、それが衣服をつくり、したがってまた風さいをあげるということにあるのではなくて、それが価値であること、したがって、リンネル価値に対象化された労働とまったく違いのない労働の凝固体であること、が見てとれるような一身体をつくることにある。このような一つの価値鏡をつくるためには、裁縫労働そのものは、人間労働であるというその抽象的属性以外の何物も反映してはならない。

裁縫労働の形態でも織布労働の形態でも、人間労働力が支出される。したがって、どちらも人間労働という一般的属性をもっており、またそれゆえ、特定の場合、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察すればいい。こうしたことはすべて、何も神秘的なことではない。ところが、商品の価値表現においては、事態がねじ曲げられる。たとえば、織布労働が織布労働としてのその具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布労働に対して裁縫労働が、すなわちリンネルの等価を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。

したがって、具体的労働がその反対物、抽象的人間労働の現象形態になるということが、等価形態の第二の特質である。

しかし、裁縫労働というこの具体的労働が、無差別な人間労働の単なる表現として通用することによって、それは、他の労働、すなわちリンネルに含まれている労働との同等性の形態をとるのであり、したがってまた、それは他のあらゆる商品生産労働と同じように、私的労働でありながら、しかも直接に社会的な形態にある労働なのである。だからこそ、その労働は、他の商品と直接に交換されうる一生産物で自分自身を表すのである。したがって、私的労働がその反対物の形態、直接に社会的な形態にある労働になるということが、等価形態の第三の特質である。

最後に展開された等価形態の二つの特質は、価値形態を、きわめて多くの思考形態、社会形態および現物形態と共にはじめて分析したあの偉大な探究者にまでわれわれがさかのぼる時、さらにいっそう理解しやすいものとなる。その人は、アリストテレスである。

アリストテレスは、まず第一に、商品の貨幣形態は、単純な価値形態の、すなわち、何か任意の他の一商品による一商品の価値の表現の、いっそう発展した姿態にすぎないことを、はっきりとのべている。というのは、彼はこう言っているからである。
     「5台の寝台=1軒の家」
ということは、
     「5台の寝台=これこれの額の貨幣」
というのと「区別されない」と。

彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係は、それはそれでまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とすること、そして、これらの感性的に異なる諸物は、このような本質の同等性なしには、通約されうる量として、相互に関係しえないであろうということを、見ぬいている。彼は言う。「交換は同等性なしにはありえないが、同等性は通約可能性なしにはありえない」。しかし、彼はここでにわかに立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかし、種類を異にする諸物が、通約されうることは」、すなわち、質的に等しいということは、「本当は、不可能なことである」。こうした等置は、諸物の真の性質にとって疎遠なものでしかありえず、したがって、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。

したがって、アリストテレスは、彼のそれ以上の分析がどこで挫折したかを、すなわち、価値概念の欠如のためであることを、みずから語っているのである。寝台の価値表現において家が寝台のために表している等しいもの、すなわち共通な実体は、何か? そのようなものは「本当は存在しない」とアリストテレスは言う。なぜか? 家が寝台に対して一つの同等物を表すのは、家がこの両方のもの、寝台と家との中にある現実に同等なものを表す限りにおいてである。そして、これこそ・・人間労働なのである。

しかし、商品価値の形態にはすべての労働が等しい人間労働として、したがって同等と認められるものとして、表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかった。なぜなら、ギリシア社会は奴隷労働を基礎としており、したがって、人間およびその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。価値表現の秘密、すなわち、人間労働一般であるがゆえの、またその限りでの、すべての労働の同等性および同等と置かれることは、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見にまで定着するようになる時、はじめて、解明することができる。しかし、それは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が支配的な社会的関係である社会において、はじめて可能である。アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見している点に、輝いている。ただ彼は、彼が生きていた社会の歴史的制約にさまたげられて、この同等性関係が、いったい「本当は」何であるかを、見いだすことができなかったのである。

 

4 単純な価値形態の全体

一商品の単純な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。もっとも、このことを心えておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。

われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現が商品価値の性質から生じるのであり、逆に、価値および価値の大きさが交換価値としてのそれらの表現様式から生じるのではない。ところが、この逆の考え方が、重商主義者たち、およびその近代的な蒸しかえし屋であるフェリエ、ガニルなど(22)の妄想であると共に、彼らとは正反対の論者である近代自由貿易外交員、たとえばバスティアとその一派の妄想でもある。重商主義者たちは、価値表現の質的な側面に、したがって貨幣をその完成姿態とする等価形態に重きをおき、これに対して、自分の商品をどんな価格ででもたたき売らなければならない近代自由貿易行商人たちは、相対的価値形態の量的側面に重きをおく。その結果、彼らにとっては、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には存在せず、したがって、ただ日々の物価表のうちにのみ存在する。スコットランド人マクラウドは、ロンバード街〔ロンドンの金融街〕の混乱をきわめた諸表現をできる限り学問的に飾り立てるという彼の職能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちとの見事な総合をなしている。

(22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(“関税副検査官 sous-inspecteur des douanes ”)『商業との関係から見た政府について』、パリ、一八〇五年、および、シャルル・ガニル『経済学の諸体系について』、第二版、パリ、一八二一年。

商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。

労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として、表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。それゆえ、こうなる・・商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。

単純な価値形態、すなわち、一連の変態をへてはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。

ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aを、それ自身とは異なる何らかの個々の商品種類に対する交換関係におくだけであり、商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表すものではない。一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態が対応する。こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現の中では、リンネルというこの個々の商品種類との関係で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。

けれども、個別的な価値形態は、おのずから、それよりも完全な一形態に移行する。たしかに、個別的な価値形態の媒介によって、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。しかし、この第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦などかどうかということは、まったくどうでもよいことである。したがって、商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる(22a)。商品Aの可能な価値表現の数は、商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。だから、商品Aの個別的価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化する。

(22a) 第2版への注。たとえば、ホメロスにあっては、一つの物の価値が一連のさまざまな物で表現される〔ホメロス『イリアス』、第七書、第四七二−四七五行。呉茂一訳、岩波文庫、中、三九ページ〕。

 

B 全体的な、または展開された価値形態

z量の商品A=u量の商品B または =v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =等々
(20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =40ポンドのコーヒー または =1クォーターの小麦 または =2オンスの金 または =1/2トンの鉄 または =等々)

 

1 展開された相対的価値形態

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、今や商品世界の無数の他の要素で表現されている。他の商品体はどれもリンネルの鏡となる(23)。こうして、この価値そのものが、はじめて真に、区別のない人間労働の凝固体として現れる。というのは、この価値を形成する労働は、他のどの人間労働とも・・それがどのような現物形態をとっていようとも、したがってまた、それが上着、または小麦、または鉄、または金などのどれに対象化されていようとも・・等しい妥当性をもつ労働として、今やはっきりと、表されているからである。だから、今や、リンネルはその価値形態によって、もはや単にある個々の他の商品種類に対してだけでなく、商品世界に対して社会的関係に立っている。商品としては、リンネルはこの商品世界の一市民である。それと同時に、商品価値の諸表現の無限の列のうちには、商品価値はそれが現れる使用価値の特殊な形態には無関心であるということが示されている。

(23) そのために、リンネルの価値を上着で表す時には、リンネルの上着価値と言い、穀物で表す時には、リンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれも、使用価値である上着、穀物などに現れるのはリンネルの価値である、ということを意味している。「どの商品の価値も、その商品の交換関係を示すものであるから、われわれは、その価値を、その商品が比較される商品が何であるかに従って、・・・・穀物価値とか布価値とか呼ぶことができる。したがって、無数の異なった種類の、現存する商品と同じ数の種類の、価値があり、そのすべては、等しく実質的であり、等しく名目的である」(『価値の性質、尺度、および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちの諸著作に関係して。意見の形成・・・・に関する試論の著者の著』、ロンドン、一八二五年、三九ページ〔ベイリー『リカアド価値論の批判』、鈴木鴻一郎訳、『世界古典文庫』、日本評論社、五四ページ〕)。当時イギリスで大さわぎを引きおこしたこの匿名の書の著者、S・ベイリーは、このように、同じ商品価値の種々雑多な相対的諸表現を指摘することによって、価値のどんな概念規定をも否定しさったものと思いこんでいる。ともあれ、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード理論の痛いところを探りあてたことは、リカード学派が、たとえば『ウェストミンスター・レヴュー』において、彼を攻撃した際に示した腹だちぶりが証明した。

20エレのリンネル=1着の上着 という第一の形態においては、これらの二つの商品が一定の量的比率において交換されうるものだということは、偶然的な事実でありえる。これに対して、第二の形態においては、偶然的な現象とは本質的に区別され、それを規定する一つの背景が、ただちにすけて見えてくる。リンネルの価値は、上着、またはコーヒー、または鉄など、きわめてさまざまな所有者のものである無数の異なった商品で表されていても、同じ大きさであることに変わりはない。二人の個別的商品所有者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値の大きさを規制するのではなく、逆に、商品の価値の大きさが商品の交換比率を規制するということが明白になる。

 

2 特別な等価形態

上着、茶、小麦、鉄などという商品は、リンネルの価値表現においては、どれでも等価として、したがって、価値体として、通用する。これらの各商品の特定の現物形態は、今や、他の多くの特別な等価形態とならんで一つの特別な等価形態である。同じように、さまざまな商品体に含まれる多様な特定の具体的有用労働種類は、今や、ちょうどその数だけの、人間労働一般の特別な具現形態または現象形態として通用する。

 

3 全体的な、または展開された価値形態の欠陥

第一に、商品の相対的価値表現は未完成である。なぜなら、その表示の列が決して完結しないからである。一つの価値等式が他の価値等式とつくる連鎖は、新しい価値表現の材料を提供する新種の商品が登場するたびに、それによってたえず引き続き延長されうるものである。第二に、この連鎖は、ばらばらな、さまざまな種類の価値表現の雑多な寄木細工をなしている。最後に・・当然そうならざるをえないのだが・・どの商品の相対的価値もこの展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも異なる価値表現の無限の一系列である。・・展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。ここでは、各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特別な等価形態とならぶ一つの特別な等価形態であるから、およそ存在しているのは、ただ、たがいに排除しあう制限された諸等価形態にすぎない。同じように、どの特別な商品等価物にも含まれている特定の具体的有用労働種類も、ただ、人間労働の特別な、したがって、完成することのない現象形態にすぎない。たしかに、人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、あの特別な現象諸形態の総範囲のうちにもってはいる。しかし、その場合でも、人間労働は、統一的現象形態をもっていない。

けれども、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現の、すなわち第一の形態の諸等式の総計からなっているものにほかならない。たとえば、
     20エレのリンネル=1着の上着
     20エレのリンネル=10ポンドの茶
などのように。

ところが、これらの等式はどれも、逆の関係ではまた次のような同じ等式を含んでいる。すなわち、
     1着の上着=20エレのリンネル
     10ポンドの茶=20エレのリンネル
などである。

実際、もしある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがって、リンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に、他の多くの商品所有者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがって、彼らのさまざまな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで、表現しなければならない。・・こうして、20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =等々 という列を逆にすれば、すなわちこの列に事実上すでに含まれている逆の関係を表現すれば、次の形態が得られる。

 

C 一般的価値形態

1着の上着     =20エレのリンネル
10ポンドの茶    =20エレのリンネル
40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル
1クォーターの小麦 =20エレのリンネル
2オンスの金     =20エレのリンネル
1/2トンの鉄    =20エレのリンネル
x量の商品A     =20エレのリンネル
等々の商品     =20エレのリンネル

 

1 価値形態の変化した性格

商品は、それぞれの価値を、今や(1)簡単に表している、なぜなら、ただ一つの商品で表しているからであり、かつ(2)統一的に表している、なぜなら、同じ商品で表しているからである。諸商品の価値形態は、簡単かつ共同的であり、したがって一般的である。

形態TおよびUは、どちらも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値または商品体とは区別されたものとして表現したにすぎなかった。
 第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄 などのような価値等式を示した。上着価値はリンネルに等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というように表現されるが、リンネルに等しいもの、および鉄に等しいものという上着および茶のこの価値表現は、リンネルと鉄が異なっているように、異なっている。この形態が実際に現れるのは、明らかに、ただ、労働生産物が偶然的な時おり行われる交換によって商品に転化されるそもそもの始まりにおいてだけである。

第二の形態は、第一の形態よりも完全に、一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別する。というのは、たとえば上着の価値は、今や、ありとあらゆる形態で、すなわち、リンネルに等しいもの、鉄に等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまり、上着に等しいものでないだけで他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対するからである。他面、ここでは、諸商品の共通な価値表現は、すべて、直接に排除されている。というのは、それぞれの商品の価値表現において、今や他のあらゆる商品は、ただ等価の形態でのみ現れるからである。展開された価値形態が、はじめて実際に現れるのは、ある労働生産物、たとえば家畜が、もはや例外的にではなくすでに習慣的に、他のさまざまな商品と交換される時である。

新しく得られた形態は、商品世界の諸価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、それらの商品のリンネルとの同等性によって表す。リンネルに等しいものとして、どの商品の価値も、今や、その商品自身の使用価値から区別されているだけでなく、およそ使用価値というものから区別されており、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして、表現されている。だから、この形態がはじめて現実的に諸商品をたがいに価値として関係させ、言いかえれば、諸商品をたがいに交換価値として現象させるのである。

前の二つの形態は、商品の価値を、種類を異にするただ一つの商品によってであれ、その商品とは異なる一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分自身に一つの価値形態を与えることは、いわば個々の商品の私事であり、個々の商品は他の諸商品の関与なしにそれをなしとげる。他の諸商品は、その商品に対して、等価物という単に受動的な役割を演じる。これに対して、一般的価値形態は、商品世界の共同事業としてのみ成立する。一商品が一般的価値表現を獲得するのは、同時に他のすべての商品がそれらの価値を同じ等価で表現するからにほかならず、そして、新しく登場するどの商品種類もこれにならわなければならないのである。これによって、諸商品の価値対象性は・・それがこれらの物の単に「社会的な定在」であるがゆえに・・諸商品の全面的な社会的関連によってのみ表現されうること、したがって、諸商品の価値形態は社会的に通用する形態でなければならないこと、が現れてくる。

リンネルに等しいものという形態で、今やすべての商品が質的に等しいもの、すなわち価値一般として現れるだけでなく、同時に、量的に比較されうる価値の大きさとしても現れる。すべての商品がそれらの価値の大きさをリンネルという一つの同じ材料に映すので、これらの価値の大きさはたがいに反映しあう。たとえば、10ポンドの茶=20エレのリンネル そして、40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル。したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー である。あるいは、一ポンドのコーヒーには、一ポンドの茶にくらべて、1/4だけの価値実体、労働、しか含まれていない。

商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品であるリンネルに、一般的等価という性格を押しつける。リンネル自身の現物形態がこの商品世界の共通な価値姿態であり、したがって、リンネルは、他のすべての商品と直接に交換されうるものである。リンネルの物体形態が、いっさいの人間労働の目に見える化身、一般的社会的蛹化(ヨウカ)、として通用する。リンネルを生産する織布労働という私的労働が、同時に、一般的社会的形態で、他のすべての労働との同等性の形態で存在する。一般的価値形態を構成する無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に、順々に等置し、そうすることによって、織布労働を人間労働一般の一般的現象形態にする。こうして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象される労働として消極的に表されているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現れてくる。この労働は、いっさいの現実的労働が人間労働というそれらに共通な性格に、人間労働力の支出に、還元されたものである。

労働生産物を区別のない人間労働の単なる凝固体として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般的価値形態は、商品世界の内部では労働の一般的人間的性格が労働の特有な社会的性格をなしているということを明らかにしている。

 

2 相対的価値形態と等価価値との発展関係

相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。しかし・・しかもこれは十分注意すべきことであるが・・等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり結果であるにすぎない。

一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個々の等価にする。相対的価値の展開された形態、すなわち他のすべての商品による一商品の価値の表現は、それらの商品にさまざまな種類の特別な等価という形態を刻印する。最後に、ある一つの特別な商品種類が一般的等価形態を受けとるが、それは、他のすべての商品が、その商品種類を、それらの商品の統一的一般的価値形態の材料にするからである。

しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その両極である相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。

第一の形態・・20エレのリンネル=1着の上着・・は、すでにこの対立を含んでいるが、それを固定化させてはいない。同じ等式が前から読まれるか後から読まれるかにしたがって、リンネルと上着という二つの商品極のどれもが、等しく、ある時は相対的価値形態にあり、ある時は等価形態にある。両極の対立を固持するのは、ここではまだ骨が折れる。

形態Uにおいては、つねにただ一つずつの商品種類がその相対的価値を全体的に展開しうるにすぎない。言いかえれば、他のすべての商品がその商品種類に対して等価形態にあるからこそ、またその限りでのみ、その商品種類自身が展開された相対的価値形態をもつ。ここではもはや、価値等式・・たとえば、20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =1クォーターの小麦 など・・の両辺を置きかえることは、この等式の全性格を変えてそれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。

後の形態、すなわち形態Vが、ついに商品世界に一般的社会的な相対的価値形態を与えるが、それは、ただ一つの例外をのぞいて、商品世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またその限りでのことである。だから、リンネルという一つの商品が、他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態にないからであり、またその限りでのことである(24)。

(24) 事実、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的商品形態であり、ちょうど、一方の磁極の陽性が他方の磁極の陰性と不可分であるように、非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、決してわからない。そこから、すべての商品に同時に直接的交換可能性の刻印を押すことができるかのような妄想を生じうるが、それはちょうど、すべてのカトリック教徒を教皇にすることができるというのと同じ程度の妄想である。商品生産に人間的自由と個人的独立との“究極”を見る小市民にとっては、この形態に結びついたもろもろの不つごう、ことに諸商品の非直接的交換可能性からまぬがれていることは、もちろん非常に望ましいことである。この俗物的ユートピアを描いたものがプルードンの社会主義であり、それは、私が別のところ〔『哲学の貧困』、『全集』第4巻〕で示したように、決して独創の功績などをもつものではなく、むしろ彼よりずっと昔にグレイ、ブレイ、そのほかの人々によってはるかによく展開された。このことは、このような知恵がこんにちでもある種の仲間うちで「“科学”」の名のもとにまかり通ることをさまたげない。プルードン学派ほど「“科学”」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。というのも、
     「概念の欠けているところへ
      うまく言葉がやってくる」
からである。

逆に、一般的等価の役をつとめる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除されている。もしリンネルが、すなわち一般的等価形態にある何らかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するなら、それは自分自身のために等価として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル という、価値も価値の大きさも表現しない同義反復が得られるであろう。一般的等価の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Vを逆さにしなければならない。一般的等価は、他の商品と共通な相対的価値形態をもっておらず、その価値は、他のすべての商品体の無限の列によって相対的に表現される。こうして、今や、展開された相対的価値形態または形態Uが、等価物商品の特有な相対的価値形態として現れる。

 

3 一般的価値形態から貨幣形態への移行

一般的等価形態は、価値一般の一つの形態である。したがって、どの商品もこの形態をとることができる。他方、一商品が一般的等価形態(形態V)にあるのは、ただ、その商品が他のすべての商品によって等価として排除されるからであり、またその限りでのことである。そして、この排除が一つの特別な商品種類に最終的に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態が客観的固定性と一般的社会的妥当性とを獲得したのである。

さて、その現物形態に等価形態が社会的に癒着する特別な商品種類は、貨幣商品となる・・すなわち、貨幣として機能する。商品世界の内部で一般的等価の役割を演じることが、その商品種類の特有な社会的機能となり、したがって、その社会的独占となる。この特権的地位を歴史的に勝ちとったのは、形態Vではリンネルの特別な諸等価の役をつとめ、形態Vでは自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現する諸商品のうちの特定の商品である。すなわち、金である。こうして形態Vにおいて、商品リンネルの代わりに商品金を置けば、次の形態が得られる。

 

D 貨幣形態

     20エレのリンネル  =2オンスの金
     1着の上着       =2オンスの金
     10ポンドの茶     =2オンスの金
     40ポンドのコーヒー  =2オンスの金
     1クォーターの小麦  =2オンスの金
     1/2トンの鉄     =2オンスの金
     x量の商品A      =2オンスの金

形態Tから形態Uへの、形態Uから形態Vへの移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きる。これに対して、形態Wは、今やリンネルの代わりに金が一般的等価形態をとるということのほかには、形態Vと区別されるところがない。形態Wにおける金は、あい変わらず、形態Vにおいてリンネルがそうであったもの・・一般的等価である。進歩は、ただ、直接的一般的交換可能性の形態または一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着しているということだけである。

金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。他のすべての商品と等しく、金もまた、個別的な交換行為における個々の等価としてであれ、他の商品等価物とならぶ特別な等価としてであれ、等価として機能した。しだいに、金は、広い範囲か狭い範囲かの違いはあっても、一般的等価として機能するようになった。金が商品世界の価値表現におけるこの地位の独占を勝ちとるやいなや、それは貨幣商品となり、そして、それがすでに貨幣商品となったその瞬間から、はじめて形態Wは形態Vから区別される。言いかえれば、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのである。

すでに貨幣商品として機能している商品たとえば金による、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。だから、リンネルの「価格形態」は、
     20エレのリンネル=2オンスの金
であり、あるいは、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、
     20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。

貨幣形態の概念把握における困難は、一般的等価形態、したがって一般的価値形態一般、形態Vに限定される。形態Vは、もとにさかのぼれば形態U、すなわち展開された価値形態に帰着し、そして、この形態Uの構成要素は形態T、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B である。だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽である。


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