
第4節 商品の物神的性格とその秘密
商品は、一見、自明な、平凡な物らしく見える。商品の分析は、商品が形而上学的な小理屈と神学的な小言に満ちた非常にやっかいなしろ物であるということを明らかにする。商品が使用価値である限り、その諸属性によって人間の諸欲求を満たすという観点から見ても、あるいは、人間労働の生産物としてはじめてこれらの諸属性を受け取るという観点から見ても、商品には神秘的なものは何もない。人間がその活動によって自然素材の諸形態を人間にとって有用な仕方で変えるということは、感性的に明らかなことである。たとえば、木材でテーブルがつくられれば、木材の形態は変えられる。にもかかわらず、テーブルはあい変わらず木材であり、ありふれた感性的なものである。ところが、テーブルが商品として登場するやいなや、それは感性的でありながら超感性的なものに転化する。それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する(25)。
(25) 世界の残りの部分がすべて静止しているように見えた時に、中国〔China、「陶器」と同文字〕とテーブルが踊りだした・・“ほかのものたちを励ますために pour encourager les autres ”・・ということが思い出される。
したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。どんな状態のもとでも、人間は・・発展段階の相違によって一様ではないが・・生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。
(26) 第2版への注。古代のゲルマン人のあいだでは、一モルゲンの土地〔Land〕の大きさは一日の労働によってはかられ、そこから、一モルゲンは、 Tagwerk (あるいは Tagwanne )〔一日の仕事〕(jurnale または jurnalis,terra jurnalis,jornalis または diurnalis)、Mannwerk〔男一人の仕事〕、Mannskraft〔男一人の力〕、Mannsmaad〔男一人の草刈り〕、Mannshauet〔男一人の刈り取り〕などと呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィッヒ・フォン・マウラー『歴史への序論、マルク・農地等々・・・の制度について』、ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下を見よ。
では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎のような性格は、どこから来るのか? 明らかに、この形態そのものからである。人間労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の測定は、労働生産物の価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。
したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。この“入れ替わり”によって、労働生産物は商品に、すなわち感性的でありながら超感性的な物、または社会的な物に、なる。たとえば、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的刺激としては現れないで、目の外部にある物の対象的形態として現れる。しかし、視覚の場合には、外的対象である一つの物から、目というもう一つの物に、現実に光が投げられる。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに対して、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対に何のかかわりもない。ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係にほかならない。だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立した姿態のように見える。商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、したがって、商品生産と不可分なものである。
商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでに示したように、商品を生産する労働に固有な社会的性格から生じる。
そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象がたがいに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。生産者たちは彼らの労働生産物の交換を通してはじめて社会的接触に入るから、彼らの私的諸労働の特有な社会的性格もまたこの交換の内部ではじめて現れる。あるいは、私的諸労働は、交換によって労働生産物が、そしてまた労働生産物を媒介として生産者たちが、結ばれる諸関係を通して、事実上はじめて、社会的総労働の諸分肢として自己を発現する。だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関係は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。
労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換され売るものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求を満たす。たがいに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成りたちえない。私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換において現れる諸形態でのみ反映する。・・すなわち、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、種類を異にする労働の同等性という社会的性格を、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映するのである。
したがって、人間が彼らの労働生産物を価値としてたがいに関係させるのは、これらの物が彼らにとって一様な人間労働の単なる物的外皮として通用するからではない。逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値としてたがいに等置しあうことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間労働としてたがいに等置するのである。彼はそれを知ってはいないけれども、それを行う(27)。だから、価値の額(ヒタイ)にそれが何であるかが書かれているわけではない。むしろ、価値が、どの労働生産物をも一種の社会的象形文字に転化するのである。後になって、人間は、この象形文字の意味を解読して彼ら自身の社会的産物・・というのは、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物だからである・・の秘密の真相を知ろうとする。労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的表現にすぎないという後代の科学的発見は、人類の発達史において一時代を画するものではあるが、労働の社会的性格の対象的外観を決して払いのけはしない。商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして現れるのであり、ちょうど、空気がその諸元素に科学的に分解されても、空気形態は一つの物理的物体形態として存続するのと同じである。
(27) 第2版への注。だから、ガリアーニが、価値は二人の人のあいだの関係である・・"La Ricchezza e una ragione tra due persone"・・、と言う時、彼は、物的外皮のもとにおおい隠された関係、とつけ加えるべきであったろう(ガリアーニ『貨幣について』、クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第三巻、ミラノ、一八〇三年、二二一ページ)。
生産物の交換者たちがさしあたり実際に関心をもつのは、自分の生産物と引き換えにどれだけの他人の生産物が手に入るか、すなわち、どのような割合で生産物が交換されるかという問題である。この割合が一定の慣習的な固定性にまで成熟すると、この割合はあたかも労働生産物の性質から生じるかのように見える。たとえば、一トンの鉄と二オンスの金とが等しい価値のものであるのは、ちょうど、一ポンドの金と一ポンドの鉄とが、それらの物理的化学的諸属性の相違にもかかわらず、等しい重さのものであるのと同じように見えるのである。労働生産物の価値性格は、事実上、価値の大きさとしての諸生産物の発現によってはじめて固まる。価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、および行為にはかかわりなく、たえず変動する。交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、この運動によって制御される。たがいに独立〔unabhaengig〕に営まれながら、しかも社会的分業の自然発生的な諸分肢としてたがいに全面的に依存している〔abhaengig〕私的諸労働が社会的に均斉のとれた基準にたえず還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的でつねに動揺している交換比率を通して、それらの生産のために社会的に必要な労働時間が・・たとえば、だれかの頭の上に家が崩れおちる時の重力の法則のように・・規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹するからである(28)、という科学的洞察が経験そのものから生じるためには、その前に、完全に発展した商品生産が必要である。だから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的運動のもとに隠されている秘密である。この秘密の発見は、労働生産物の価値の大きさが単に偶然的に規定されるだけであるという外観を取りのぞくが、この規定の物的形態を取りのぞきはしない。
(28) 「周期的な革命によってのみ自己を貫徹しうる法則を、われわれは何と考えるべきであろうか? それこそ、まさに、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則なのである」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、所収、アーノルド・ルーゲおよびカール・マルクス編『独仏年誌』、パリ、一八四四年〔『全集』、第1巻、559ページ〕)。
人間の生活の諸形態についての省察、したがってまたそれらの科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどる。この分析は“後から”始まり、したがって発展過程の完成した諸結果から始まる。労働生産物に商品の刻印を押す、したがって商品流通に前提されている、諸形態は、人々が、これらの形態の歴史的性格についてではなく・・これらの形態は人々にはむしろすでに不変のものと考えられている・・これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形態の固定性をおびている。こうして、価値の大きさの規定に導いたのは商品価格の分析にほかならなかったし、諸商品の価値性格の確定に導いたのは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかった。ところが、商品世界のまさにこの完成形態・・貨幣形態・・こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、物的におおい隠すのである。もし私が、上着、長靴などが抽象的人間労働の一般的化身としてのリンネルに関係すると言えば、この表現がばかげていることはすぐに目につく。ところが、上着、長靴などの生産者たちが、これらの商品を、一般的等価としてのリンネルに・・または金銀に、としても事態に変わりはない・・関係させるならば、社会的総労働に対する彼らの私的諸労働の関係は彼らにとってまさにこのばかげた形態で現れるのである。
この種の諸形態こそが、まさにブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしている。それらは、商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産諸関係についての、社会的に認められた、つまり客観的な思考諸形態なのである。したがって、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げこむやいなやただちに消えうせる。
経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう。生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。祈祷やこれに類することは、ここでは問題にしない。なぜなら、わがロビンソンは、それに喜びを見いだし、この種の活動をくつろぎと見なしているからである。彼の生産的機能はさまざまに異なってはいるけれども、彼は、それらの機能が同じロビンソンのあい異なる活動形態にほかならず、したがって、人間労働のあい異なる様式にほかならないことを知っている。彼は、必要そのものにせまられて、彼の時間を彼のさまざまな機能のあいだに正確に配分しなければならない。彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる。経験がそれを彼に教える。そして、わがロビンソンは、時計と帳簿とインクとペンとを難破船から救いだしているので、立派なイギリス人らしく、やがて自分自身のことを帳簿につけ始める。彼の財産目録には、彼が所有する諸使用対象と、それらの生産に必要とされるさまざまな作業と、最後に、これらのさまざまな生産物の一定量のために彼が平均的に費やす労働時間との一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、M・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることなしに理解できたほどである。にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのである。
(29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は、原始的な漁師と猟師にも、ただちに商品所有者として、魚と獣とを、それらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換をとり行わせている。そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている。『オーエン氏の平行四辺形』が、ブルジョア社会形態以外に彼が知っていた唯一の社会形態だったようである」(カール・マルクス『経済学批判』、38、39ページ〔『全集』、第13巻、45ページ〕)。
そこで次に、ロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を移そう。ここでは、独立した男の代わりに、だれもが依存しあっているのがみられる・・農奴と領主と、臣下と君主と、俗人と聖職者とが。人格的依存が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づけている。しかし、まさに人格的依存関係が与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは異なる幻想的姿態をとる必要はない。それらは、夫役や貢納として社会的機構の中に入っていく。労働の現物形態が、商品生産の基礎上でのように労働の一般性ではなく労働の特殊性が、ここでは、労働の直接的に社会的な形態である。夫役労働も、商品を生産する労働と同じように、時間によってはかられるが、どの農奴も、彼が領主のために支出するのは彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。坊主どもに納めるべき十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。だから、ここで人々が相対しているさいに身につけている仮面がどのように判断されようとも、彼らの労働における人格と人格との社会的諸関係は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現れ、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的諸関係に変装されてはいない。
共同的な、すなわち直接的に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の入口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はない(30)。自家用のために、穀物、家畜、糸、リンネル、衣類などを生産する農民家族の素朴な家父長的な勤労が、もっと手近な一例をなす。これらのさまざまな物は、家族に対して、その家族労働のさまざまな生産物として相対するが、それら自身がたがいに商品として相対することはない。これらの生産物を生み出すさまざまな労働、農耕労働、牧畜労働、紡績労働、織布労働、裁縫労働などは、その現物形態のままで、社会的機能をなしている。なぜなら、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だからである。男女の別、年齢の相違、および季節の推移につれて変わる労働の自然的諸条件が、家族のあいだでの労働の配分と個々の家族成員の労働時間とを規制する。しかし、ここでは、継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから、労働そのものの社会的規定として現れる。なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の諸器官としてのみ作用するからである。
(30) 第2版への注。「自然発生的な共有の形態は、特にスラヴ的な、しかももっぱらロシア的な形態であると言うのは、近ごろ広まっている笑うべき偏見である。それは、われわれがローマ人、ゲルマン人、ケルト人のあいだで指摘できる原初形態であるが、これについては、さまざまな見本をそなえた立派な見本台帳が、今なお、一部は遺制としてであるけれども、インド人のあいだに見いだされる。アジア的な、ことにインド的な共有諸形態のいっそう厳密な研究は、自然発生的な共有のさまざまな形態からどのようにしてその崩壊のさまざまな形態が出てくるかを示すであろう。こうして、たとえば、ローマ的およびゲルマン的私有のさまざまな原型が、インド的共有のさまざまな形態から導出されるのである」(カール・マルクス『経済学批判』、10ページ〔『全集』、第13巻、19ページ〕)。
最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現されるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼自身の生産物であり、したがってまた、直接的に彼にとっての使用対象であった。この連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。この部分は依然として社会的なものである。しかし、もう一つの部分は、、生活手段として、連合体の成員によって消費される。この部分は、だから、彼らのあいだで分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産組織体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生産手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう。そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるだろう。労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求に対するさまざまな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働に対する生産者たちの個人的関与の尺度として役立ち、したがってまた、共同生産物のうち個人的に消費されうる部分に対する生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働および労働生産物に対してもつ社会的諸関係は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭である。
〔*1〕商品生産者たちの一般的社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがってまた価値として取りあつかい、この物的形態において彼らの私的諸労働を同等な人間労働としてたがいに関係させることにあるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的人間を礼拝するキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント、理神論などとしてのキリスト教が最もふさわしい宗教形態である。古アジア的、古代的〔*2〕などなどの生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた商品生産者としての人間の現存は、一つの副次的な役割を・・といっても、共同体が崩壊の段階にはいっていけばいくほど、ますます重要な役割を・・演じている。本来の商業民族は、エピクロスの言う神々のように、あるいはポーランド社会の気孔の中のユダヤ人のように、古代世界の空所にのみ存在する。あの古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもはるかに簡単明瞭ではあるが、それらは、他の個々人との自然的な種族関係のへそのおからまだ切り離されていない個々人の未成熟にもとづいているか、さもなければ、直接的な支配隷属関係〔*3〕にもとづいている。それらの生産有機体は、労働の生産諸力の発展段階の低さによって、またそれに照応して局限された、物質的生活生産過程の内部における人間の諸関係、したがって人間相互の諸関係と人間と自然との諸関係によって、制約されている。この現実の被局限性が古代の自然宗教や民族宗教に観念的に反映している。現実世界の宗教的な反射は、一般に、実際の日常生活の諸関係が、人間に対して、人間相互の、また人間と自然との、すいて見えるほど合理的な諸関係を日常的に表すようになる時、はじめて消えうせる。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる時、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎすてる。けれども、そのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難に満ちた発展史の自然発生的産物である一連の物質的存在諸条件が、必要とされる。
〔*1 フランス語版では、この前に、「宗教の世界は現実の世界の反映にほかならない」の一句をいれ、その後も多少言葉づかいが変えられている。〕
〔*2 フランス語版では、「古代一般の」となっている。〕
〔*3 フランス語版では「専制主義および奴隷制の諸条件」となっている。〕ところで、たしかに経済学は、不完全にではあるけれども(31)、価値と価値の大きさを分析して、この形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、では、なぜこの内容があの形態をとるのか、したがって、なぜ労働が価値に、またその継続時間による労働の測定が労働生産物の価値の大きさに表されるのか?という問題を提起したことさえもなかった(32)。諸定式・・すなわち生産過程が人間を支配していて、人間がまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものであるということが、その額(ヒタイ)に書かれている諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものがそうであるのと同じくらいに自明な自然的必然性であると見なされるのである。それだから、経済学が社会的生産有機体の前ブルジョア的形態を取りあつかうやり方は、教父たちが前キリスト教的諸宗教を取りあつかうやり方と同じなのである(33)。
(31) リカードの価値の大きさの分析・・しかもこれは最良の分析である・・の不十分さは、本書の第3部および第4部からわかるだろう。しかし、価値一般について言えば、古典派経済学は、価値に表される労働と、生産物の使用価値に表される限りでの労働とを、どこにおいても、明文によっては、また明瞭な意識をもっては、区別していない。もちろん、実際には区別を行っている。なぜなら、古典派経済学は、労働を、ある時は量的に、ある時は質的に、考察しているからである。しかし、古典派経済学は、諸労働の単なる量的区別がそれらの質的統一性または同等性を、したがってまたそれらの抽象的人間労働への還元を前提するということに思いつかなかったのである。たとえば、リカードは、デスチュト・ド・トラシが次のように言う時、これに賛意を表明している。「われわれの肉体的および精神的諸能力だけがわれわれの本源的富であることはたしかであるから、それらの能力の使用、すなわち、何らかの種類の労働は、われわれの本源的財宝である。われわれが富と呼ぶいっさいの物をつくり出すのは、つねにこの能力の使用である・・・・。さらにまた、それらの物はすべてそれらをつくり出した労働だけを表していること、そして、もしそれらの物が一つの価値をもつとすれば、あるいはむしろ二つの区別される価値すらもつとしても、それらの物はそのような価値を、ただ、それらを生み出す労働のそれ」(価値)「から引きだすことができるだけである、ということもたしかである」(〔デスチュト・ド・トラシ『イデオロギー要論』、第四および第五部、パリ、一八二六年、三五、三六ページ〕リカード『経済学原理』、第三版、ロンドン、一八二一年、三三四ページ〔堀経夫訳、『リカード全集』T、雄松堂書店、三二八ページ〕)。われわれは、リカードが彼自身のより深い意味をデスチュトに押しつけているということだけを示唆するにとどめる。実際、デスチュトは、たしかに一面では、富を形成するすべての物は「それをつくり出した労働を代表している」と言っている。しかし、他面では、これらの物はそれらの「二つのあい異なる価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っているのである。こうして彼は、一商品(ここでは労働)の価値をまず前提し、それによってあとから他の諸商品の価値を規定するという俗流経済学の浅薄さにおちいっている。リカードは、使用価値にも交換価値にも労働が(労働の価値が、ではなく)表示されているというふうにデスチュトを読んでいる。ところが、リカード自身は、二重に表示される労働の二面的性格をほとんど区別していないから、「価値と富、両者を区別する諸属性」という章〔第二〇章〕の全体で、J・B・セーごときの愚論との格闘に苦労しなければならないのである。それゆえまた、とどのつまりリカードは、デスチュトが価値源泉としての労働については彼自身と一致しているのに、他面、価値概念についてはセーと一致しているということに、すっかりあきれ果てているのである。
(32) 古典派経済学の根本的欠陥の一つは、それが、商品の分析、ことに商品価値の分析から、価値をまさに交換価値にする価値の形態を見つけだすことに成功しなかったことである。A・スミスやリカードのようなその最良の代表者においてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいものとして、あるいは商品そのものの性質にとって外的なものとして、取りあつかっている。その原因は、価値の大きさの分析にすっかり注意を奪われていたというだけではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態であり、ブルジョア的生産様式はこの形態によって一つの特別な種類の社会的生産として、したがってまた同時に歴史的なものとして、性格づけられている。だから、人がこの生産様式を社会的生産の永遠の自然的形態と見誤るならば、人は必然的に、価値形態の特殊性を、したがって商品形態の、すすんでは貨幣形態、資本形態等々の特殊性を見落とすことになるのである。だから、労働時間による価値の大きさの測定についてはまったく一致している経済学者たちのあいだに、貨幣、すなわち一般的等価の完成した姿態、については、きわめて種々雑多なまったく矛盾した諸見解が見られるのである。このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはや間に合わない銀行業の取りあつかいに際してはっきりと現れてくる。それゆえ、反対に、価値のうちに社会的な形態だけを見る、あるいはむしろ実体のない社会的形態の外観だけを見る復活した重商主義(ガニルなど)が生じた。・・ここできっぱりと断わっておくが、私が古典派経済学と言うのは、ブルジョア的生産諸関係の内的関係を探求するW・ペティ以来のすべての経済学をさし、これに対して俗流経済学と言うのは、外見上の関係の中だけをうろつきまわり、いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によってとうの昔に与えられた材料をたえずあらためて反芻(ハンスウ)し、それ以外には、自分たち自身の最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている。
(33) 「経済学者たちは奇妙なやり方をする。彼らにとってはただ二種類の制度があるだけだ。人為的制度と自然的制度と。封建制の制度は人為的制度であり、ブルジョアジーの制度は自然的制度である。彼らはこの点では、同じく二つの種類の宗教を区別する神学者たちに似ている。彼らのものでないどの宗教も人間のつくりものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示なのである。・・そういうわけで、かつてはとにかく歴史があったが、もうそれは存在しないのだ」(カール・マルクス『哲学の貧困。プルードン氏の「貧困の哲学」に対する返答』一八四七年、113ページ〔『全集』第4巻、143〜144ページ〕)。ここで実にこっけいなのはバスティア氏で、彼は、古代のギリシア人やローマ人はただ略奪だけで生活していたと思いこんでいる。しかし、何世紀にもわたって略奪で生活していくからには、そこには略奪されるべきものがたえず存在しなければならない。言いかえれば、略奪の対象が引き続き再生産されていなければならない。とすれば、ギリシア人やローマ人も一つの生産過程を、したがって一つの経済をもっていて、それが彼らの世界の物質的基礎をなしていたことは、ブルジョア経済がこんにちの世界の物質的基礎をなしていることとまったく同じであるように思われるのである。それともバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式は略奪体制の上に立っているとでも考えているのだろうか? そうだとすると、彼はあぶない地盤の上にいることになる。アリストテレスのような大思想家でさえ奴隷労働の評価で誤ったのに、バスティアのようなちっぽけな経済学者がどうして賃労働の評価をまともにやれるはずがあろうか?・・この機会に、私の著書『経済学批判』(一八五九年)が出た時に、アメリカのあるドイツ語新聞から私に加えられた異論を簡単にしりぞけておこう。この新聞によれば、私の見解、すなわち、一定の生産様式といつでもこれに照応している生産諸関係、要するに、「社会の経済的構造は、法的かつ政治的上部構造がその上に立ち、一定の社会的意識形態がそれに照応するところの実在的土台である」ということ、「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的、および精神的生活過程一般を制約する」という私の見解・・およそこうした見解は、物質的利害が支配的であるこんにちの世界についてはたしかに正しいが、カトリックが支配的であった中世についてや、政治が支配的であったアテネおよびローマについては、正しくない、と。まず第一に奇妙なのは、中世と古典古代世界についてのこの世間周知の決まり文句をまだ知らないでいる人があるものと前提して、喜んでいる人がいるということである。中世がカトリックによって、古典古代世界が政治によって、生活していくことができなかったことだけは、はっきりしている。それどころか、その暮しを立てた仕方・様式こそ、なぜ、古典古代では政治が、中世ではカトリックが主役を演じたかを説明するのである。さらには、たとえばローマ共和政の歴史をほとんど知らなくても、土地所有〔Grundeigentum〕の歴史がその裏面史をなしていることくらいはわかる。他面では、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士道がどのような経済的形態とも同じように調和すると妄想した誤りのために、ひどい目にあっているのである。
商品世界にまつわりついている物神崇拝に、あるいは社会的労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とりわけ、交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示している。交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式であるから、たとえば為替相場と同じように、それが自然素材を含むことはありえないのである。
商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的な最も未発展な形態であるから・・だからこそ、商品形態は、こんにちほど支配的な、したがって特徴的な様式でではないにしても、早くから登場するのだが・・その物神的性格はまだ比較的にたやすく見ぬけるように見える。もっと具体的な形態の場合には、簡単であるという外観さえ消えうせる。重金主義の幻想はどこから来るのか? 重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも奇妙な社会的属性をおびた自然物という形態で、表示するのだということを見てとることができなかった。また、お高くとまって重金主義を冷笑している近代の経済学は、それが資本を取りあつかうやいなや、その物神崇拝は手に取るように明らかになるではないか? 地代は大地〔Erde〕から生じるのであって、社会から生じるのではないという重農主義的幻想が消えてから、どれだけたったであろうか?
しかし、先まわりしないために、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例で満足することにしよう。諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう。われわれの使用価値は人間の関心を引くかもしれない。それは物としてのわれわれには属さない。そうではなくて、われわれに物的に属しているものは、われわれの価値である。商品物としてのわれわれ自身の付きあいがそのことを証明している。われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たちをたがいに関係させあうのだ、と。では、経済学者が、この商品の心をどのように伝えるかを聞いてみよう。
「価値」(交換価値)「は物の属性であり、富」(使用価値)「は人間の属性である。価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない(34)」。「富」(使用価値)「は人間の属性であり、価値は商品の属性である。人間や社会は富んでいる。真珠やダイヤモンドには価値がある。・・・・真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値をもつ(35)」。
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense,necessarily implies exchanges, riches do not." (『経済学におけるある種の用語論争の考察。とくに価値および需要供給に関して』、ロンドン、一八二一年、一六ページ。)
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S・ベイリー『価値の性質、尺度、および諸原因に関する批判的論究』、一六五ページ以下〔鈴木訳『リカアド価値論の批判』、日本評論社、一五一ページ〕)。
これまでまだどの化学者も、真珠やダイヤモンドの中に交換価値を発見してはいない。ところが、批判の鋭さを特に自負するこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物の使用価値はそれらの物的属性にはかかわりがないが、これに対して、それらの価値は物としてのそれらに属するということを見いだすのである。ここで彼らの見解を確証するのは、物の使用価値は人間にとって交換なしに、したがって物と人間との直接的関係において実現されるが、反対に物の価値はただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的過程においてのみ、実現されるという奇妙な事情である。ここで、あの善良なドッグベリーを思いださない人があろうか。彼は夜番のシーコウルに教えて語る。
「男ぶりのいいのは運の賜物だが、読み書きは自然に備わるものだ」(36)。
(36) 『考察』の著者やS・ベイリーは、リカードが交換価値を単に相対的なものから絶対的なものに転化させたと言って、リカードを責めている。逆である。彼は、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、その外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる表現としてのそれらの相対性に、還元したのである。リカード学派のベイリーに対する反論が粗雑であり、適切でなかったとすれば、そのわけは、彼らがリカード自身のうちに、価値と価値形態または交換価値との内的関係について何の解明も見いださなかったからにほかならない。