§ 第2編 貨幣の資本への転化

☆  第4章 貨幣の資本への転化

★   第1節 資本の一般的定式

 商品流通は資本の出発点である。商品生産、および発達した商品流通〔*1〕・・商業は、資本が成立する歴史的前提をなす。世界商業および世界市場は、一六世紀に資本の近代的生活史を開く。
〔*1 第2版では、「商品生産、商品流通、および発達した商品流通」となっている。第1版では、さらにその前に、「したがって」がある。〕
 商品流通の素材的内容、すなわちさまざまな使用価値の交換を度外視して、この過程が生みだす経済的諸形態だけを考察するならば、われわれは、この過程の最後の産物として、貨幣を見いだす。商品流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である。
 歴史的には、資本は、どこでも最初はまず貨幣の形態で、貨幣財産すなわち商人資本および高利貸資本として、土地所有に相対する(1)。けれども、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史が、日々、われわれの目の前でくり広げられている。新たな資本は、いずれも、まずもって、今なお貨幣・・一定の諸過程をへてみずからを資本に転化すべき貨幣・・として、舞台に、すなわち商品市場、労働市場、または貨幣市場という市場に登場する。
(1) 人格的な隷属・支配関係〔Knechtschafts- und Herrschaftsverhaeltnissen〕に基づく土地所有の権力と、非人格的な貨幣の権力との対立は、次の二つのフランスの諺にはっきり言い表されている。「“領主のいない土地はない Nulle terre sans seigneur. ”」。「“金(カネ)に主人はない L'argent n'a pas de maitre. ”」。

 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたり、それらの流通形態の相違によってのみ区別される。
 商品流通の直接的形態は、W・G・W、商品の貨幣への転化および貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態のほかにわれわれは第二の、独特で区別された、形態G・W・G、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。この後のほうの流通を描いて運動する貨幣が、資本に転化し、資本に生成するのであって、その性質規定から見てすでに資本である。
 流通G・W・Gをもっとくわしく見よう。それは、単純な商品流通と同じく、二つの対立する局面を通る。第一の局面であるG・W、購買では、貨幣が商品に転化される。第二の局面であるW・G、販売では、商品が貨幣に再転化される。そして、この両局面の統一は、貨幣を商品と交換しその同じ商品をふたたび貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。あるいは、購買と販売という形式上の区別を問わないなら、貨幣で商品を買いその商品で貨幣を買う(2)という総運動である。この全過程が消えうせて生じるその結果は、貨幣と貨幣との交換、G・Gである。私が一〇〇ポンド・スターリングで二〇〇〇ポンドの綿花を買い、その二〇〇〇ポンドの綿花をふたたび一一〇ポンド・スターリングで売るならば、結局、私は一〇〇ポンド・スターリングを一一〇ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と、交換したことになる。
(2) 「人は、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』〔所収『重農主義学派』、デール編、第二部〕、五四三ページ)。

 そこで、まったく明らかなことであるが、もしまわり道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、すなわち、たとえば一〇〇ポンド・スターリングを一〇〇ポンド・スターリングと交換しようとするのであれば、流通過程G・W・Gはばかげた無内容なものであろう。それにくらべれば、自分の一〇〇ポンド・スターリングを、流通の危険にさらさずに握りしめている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、はるかに簡単で確実であろう。他方では、商人が一〇〇ポンド・スターリングで買った綿花を今度は一一〇ポンド・スターリングで売ろうと、またはそれを一〇〇ポンド・スターリングで、また場合によっては五〇ポンド・スターリングでさえも売りとばさざるをえなくなろうと、いずれにしても彼の貨幣は、単純な商品流通での運動、たとえば、穀物を売りそれで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手の中での運動とは、まったく種類の異なる、一つの固有で独自な運動を描いたのである。したがって、まず、循環G・W・GおよびW・G・Wとの形態上の区別の特徴を明らかにすることが重要である。この特徴を明らかにすれば、同時に、これらの形態上の区別の背後に隠れている内容上の区別も明らかになるであろう。
 まず、両方の形態に共通なものを見よう。
 どちらの循環も、同じ二つの相対立する局面、すなわちW・G、販売と、G・W、購買とに分れる。この両局面のどちらにおいても、商品と貨幣という同じ二つの物的要素が相対しており、買い手と売り手という二人の同じ経済的扮装をした人物が相対している。両方の循環は、どちらも同じ対立する二局面の統一である。そして、どちらの場合にも、この統一は三人の契約当事者の登場によって媒介されていて、そのうちの一人は売るだけであり、もう一人は買うだけであるが、第三の人は交互に買ったり売ったりする。
 けれども、両方の循環W・G・WとG・W・Gとをもともと区別するのは、同じ対立する二つの流通局面の順序が逆なことである。単純な商品流通は、販売で始まって購買で終わり、資本としての貨幣の流通は、購買で始まって販売で終わる。前の場合には商品が、後の場合には貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全経過を媒介する。
 流通W・G・Wでは、貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に転化される。したがって、貨幣は最終的に支出される。これに反して、逆の形態G・W・Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を受け取るためである。商品の購買に際して彼が貨幣を流通に投げいれるのは、その同じ商品の販売によって貨幣をふたたび流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手ばなすのは、ふたたびそれを手に入れようという、ずるい下心があってのことにほかならない。したがって、貨幣は前貸しされるにすぎない(3)。
(3) 「ある物をふたたび売るために買う場合には、そのために用いられた金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それを売るためにではなく買う場合には、その金額は支出されたと言ってよい」(ジェームズ・スチュアート『著作集』、彼の息子、サー・ジェームズ・スチュアート将軍編、ロンドン、一八〇五年、第一巻、二七四ページ〔中野正訳『経済学原理』、岩波文庫、(二)、七一ページ〕)。

 形態W・G・Wでは、同じ貨幣片が二度その場所を変える。売り手は、買い手から貨幣を受け取って、もう一人の別の売り手にそれを支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を引き渡すことで終る。形態G・W・Gでは逆である。この場合に二度場所を変えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。買い手は、売り手から商品を受け取って、それをもう一人の別の買い手に引き渡す。単純な商品流通では、同じ貨幣片の二度の場所変換がその貨幣片をある人の手から別の人の手に最終的に移すのであるが、この場合には同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。
 出発点への貨幣の還流は、商品が買われた時よりも高価に売られるかどうかということにはかかわりがない。この事情は、還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。還流という現象そのものは、買われた商品がふたたび売られ、こうして循環G・W・Gが完全に描かれるならば、ただちに発生する。したがって、これは、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通とのあいだの、感性的に認められうる区別である。
 循環W・G・Wは、ある商品の販売が貨幣をもたらし、その貨幣を別の商品の購買がまた持ちされば、それでただちに完全に終わってしまう。もし、それにもかかわらず出発点への貨幣の還流が生じるのなら、それはもっぱら全行程の更新または反復によるのである。私が一クォーターの穀物を三ポンド・スターリングで売り、この三ポンド・スターリングで衣服を買うならば、この三ポンド・スターリングは、私にとっては最終的に支出される。私はその三ポンド・スターリングとはもはや何のかかわりあいもない。それは衣服商人のものである。そこでもし、私がさらにもう一クォーターの穀物を売るならば、貨幣は私のもとに還流するのであるが、しかしそれは、第一の取り引きの結果としてでなく、ただそのような取り引きの反復の結果としてである。私が第二の取り引きを終えて新たに買うならば、貨幣はまた私から離れていく。したがって、流通W・G・Wでは、貨幣の支出はその還流とは何のかかわりあいもない。これに反して、G・W・Gでは、貨幣の還流が貨幣の支出の仕方そのものによって条件づけられている。この還流がないならば、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないか・・なぜなら、過程の第二の局面、すなわち購買を補って完結させる販売、が欠けているから・・である。
 循環W・G・Wは、ある一つの商品の極から出発して、別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。したがって、消費、欲求の充足、一言で言えば使用価値が、この循環の究極目的である。これに反して、循環G・W・Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環を推進する動機とそれを規定する目的とは、交換価値そのものである。
 単純な商品流通においては、両極が同じ経済的形態をもつ。それらはどちらも商品である。それらはまた、同じ大きさの価値をもつ商品である。しかしそれらは、質的に異なる使用価値、たとえば穀物と衣服である。ここでは、生産物交換、すなわち社会的労働がそれでみずからを表すさまざまな素材の変換が、運動の内容をなす。流通G・W・Gにおいては、それとは異なる。この流通は一見したところ無内容に見える。なぜなら、同義反復的であるからである。両極は同じ経済的形態をもつ。それらはどちらも貨幣であり、したがって質的に異なる使用価値ではない。というのは、貨幣は諸商品の転化した姿態にほかならず、この姿態において諸商品の特別な使用価値は消えうせているからである。まず一〇〇ポンド・スターリングを綿花と交換し、ついで、その同じ綿花をふたたび一〇〇ポンド・スターリングと交換すること、すなわちまわり道をして貨幣を貨幣と、同じ物を同じ物と交換することは、ばかばかしくもあれば無目的でもある操作のように見える(4)。総じて、ある貨幣額が別の貨幣額から区別されうるのは、その大きさの違いだけによるのである。したがって、過程G・W・Gは、その両極が共に貨幣であるから、両極の質的な区別によってではなく、もっぱら両極の量的な相違によって、その内容が与えられる。最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が、最後に流通から引きあげられる。一〇〇ポンド・スターリングで買われた綿花が、たとえば一〇〇プラス一〇〇ポンド・スターリング、すなわち一一〇ポンド・スターリングでふたたび売られる。したがって、この過程の完全な形態は、G・W・G’であり、このG’は、G+ΔG すなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラスある増加分、に等しい。この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値〔Mehrwert〕(surplus value)と名づける。したがって、最初に前貸しされた価値は、流通の中で自己を維持するだけでなく、流通の中で自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加える、すなわち自己を増殖する。そして、この運動が、それを資本に転化させるのである。
(4) 「人は貨幣を貨幣とは交換しない」とメルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに呼びかける(前出、四八六ページ)。「商業」および「投機」を“職責上”論じているある著作には次のように書かれている。「すべて商業は、種類の異なる諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生じる。一ポンドのパンを一ポンドのパンと交換したとしても何の利益もないであろう。・・・・それゆえ商業は、貨幣と貨幣の交換でしかない賭博(トバク)と対照すると有益である。(Th・コーベト『諸個人の富の原因および様式の研究。または、商業および投機の諸原理の説明』、ロンドン、一八四一年、五ページ)。G・G、すなわち貨幣を貨幣と交換することは、商業資本の特徴的な流通形態であるのみならず、すべての資本のそれでもあることがコーベトにはわかっていないけれども、少なくとも彼は、商業の一種である投機のこの流通形態が賭博と共通であることは認めている。だが、そこへマカロックがやってきて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業とのあいだの区別は消えてなくなる、ということを見いだす。「ある個人が生産物を、ふたたび売るために買うという取り引きは、すべて事実上、一つの投機である」(マカロック『商業および通商航海に関する実務・理論・歴史の事典』、ロンドン、一八四七年、一〇〇九ページ)。アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、これよりもはるかに素朴に言う。「商業は一つの賭博であり」(この文句はロックから借用したもの)「乞食(コジキ)からは人は何ももうけることはできない。もし人が、ずっと長いあいだにすべての人から何もかも巻きあげてしまっているならば、あらためて賭博を始めるためには、穏便に話しあって、もうけの大部分をふたたび返してやらなければならないであろう」(ピント『流通および信用に関する論究』、アムステルダム、一七七一年、二三一ページ)。

 W・G・Wにおいて、両極のWとW、たとえば穀物と衣服とが、量的に異なった大きさの価値であるということも、たしかにありえる。農民が自分の穀物をその価値よりも高く売ったり衣服をその価値よりも安く売ったりすることはありえる。また彼のほうが、衣服商人にだまされることもありえる。けれども、このような価値の不一致は、この流通形態そのものにとってはまったく偶然であるにすぎない。その両極、たとえば穀物と衣服とがたとえ等価物であっても、この流通形態が過程G・W・Gのように無意味になってしまうことは決してない。両極が等価値だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。
 買うための販売の反復または更新は、この過程そのものと同じく、この過程の外にある究極目的、消費に、すなわち特定の諸欲求の充足に、その限度と目標とを見いだす。これに反して、販売のための購買では、始まりも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、そしてすでにこのことによって、その運動は無限である。たしかに、Gが G+ΔG になり、一〇〇ポンド・スターリングが一〇〇プラス一〇ポンド・スターリングになってはいる。しかし、単に質的に考察すれば、一一〇ポンド・スターリングは一〇〇ポンド・スターリングと同じもの、すなわち貨幣である。また量的に考察しても、一一〇ポンド・スターリングは、一〇〇ポンド・スターリングと同じようにある限定された価値額である。もし一一〇ポンド・スターリングが貨幣として支出されるのなら、それは自分の役割を捨てることになるであろう。それは資本であることをやめるであろう。もし流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に石化して、最後の審判の日まで蓄え続けられてもびた一文も増えはしない。ひとたび価値の増殖なるものが問題となれば、増殖の欲求は、一一〇ポンド・スターリングの場合も一〇〇ポンド・スターリングの場合と同じである。と言うのは、両者共に交換価値の限定された表現であり、したがって両者共に、大きさの増大によって富自体に近づくという同じ使命をもつからである。たしかに、最初に前貸しされた価値である一〇〇ポンド・スターリングは、流通においてその価値につけ加えられる一〇ポンド・スターリングの剰余価値から一瞬のあいだ区別されはするが、しかしこの区別はすぐまた消えてなくなる。過程の終わりには、一方の側に一〇〇ポンド・スターリングというもとの価値が、そして他方の側には一〇ポンド・スターリングという剰余価値が出てくる、というわけではない。出てくるのは、一一〇ポンド・スターリングという一つの価値であって、それは、最初の一〇〇ポンド・スターリングと同じく、まったく価値増殖過程を開始するのに適した形態にある。運動の終りには、貨幣がふたたび運動の始まりとして出てくる(5)。したがって、販売のための購買が行われる各個の循環の終りは、おのずから新たな循環の始まりをなす。単純な商品流通・・購買のための販売・・は、流通の外にある究極目的、すなわち使用価値の取得、欲求の充足、のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である1Bというのは、価値の増殖は、このたえず更新される運動の内部にのみ存在するからである。したがって、資本の運動には際限がない(6)。
(5) 「資本は・・・・原資本と・・・・資本の増加分である利得とにわかれる。もっとも、実践そのものがこの利得をすぐにまた資本につけ加えて、資本と共に流動させるのであるが」(F・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、所収、『独仏年誌』、アーノルト・ルーゲ、カール・マルクス共編、パリ、一八四四年、99ページ〔『全集』、第1巻、555ページ〕)。
(6) アリストテレスは貨殖術に家政術を対立させる。彼は家政術から出発する。それが生計術である限りでは、それは、生活に必要な財貨と家または国家にとって有用な財貨とを調達することに局限される。「真の富(ο αληθιυοζ πλουτοζ)はそのような使用価値から成りたつ。というのは、この種の所有物で快適な生活に十分たりるほどの量は、無限ではないからである。しかし、生計術にはもう一つ別の種類があって、それは特別に、かつ正当に、貨殖術と呼ばれており、これによると富と所有物の限界はないように思われる。商品取引」(「“ヘー・カペーリケー η καπηλικη ”」は言葉どおりには小売商業を意味しており、アリストテレスがこの形態を取りあげるのは、そこでは使用価値が決定的役割を演じているからである)「は本来、貨殖術には属さない。というのは、商品取引では、交換は、ただ彼ら自身」(買い手と売り手)「にとって、必要なものについてのみ行われるからである」。彼はさらに次のように説明する。それゆえ商品取引の最初の形態は物々交換であったのであるが、しかしそれが拡大されるにつれて必然的に貨幣が生じてきた。貨幣の発明と共に、物々交換は必然的に“カペーリケー”に、すなわち商品取引に、発展せざるをえなかった。そして、この商品取引は、その最初の傾向とは矛盾して、貨殖術すなわち金もうけ術になった。今や貨殖術は次のことによって家政術から区別される。「貨殖術にとっては、流通が富の源泉である(ποιητικη` χρηματων ... δια χρηματων μεταβοληζ)。そして、貨殖術は貨幣を問題にするものであると思われている。というのは、貨幣はこの種の交換の始まりであり終わりであるからである(το γαρ νομισμα στοιχειον και περαζ τηζ αλλαγηζ εστιν)。それゆえ、貨殖術が追求する富にもまた限界はない。すなわち、ただ目的のための手段を追求するだけの術は、目的そのものが手段に限界をもうけるので、限界がないということはないが、これに対して、その目標が手段としてではなく最終の究極目的として意義をもつ術はすべて、その目標にたえずますます近づこうとするがゆえに、その追求には限界がない。それと同様に、この貨殖術にとってもその目標に限界はないのであって、その目標は絶対的な致富である。家政術は、貨殖術と異なり、ある限界をもっている。・・・・前者は貨幣そのものとは異なるものを目的とするが、後者は貨幣の増殖を目的とする。・・・・たがいに重なりあう面をもつこれら二つの形態を混同したために、ある人々は貨幣を無限に保持し増殖することが家政術の最終目標であると考えるにいたっている」(アリストテレス『政治学』、ベッカー編、第一巻、第八章および第九章の各所〔山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、岩波書店、二二〜二六ページ。同訳、岩波文庫、五〇〜五五ページ〕)。

 この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の人格、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通〔G・W・G〕の客観的内容・・価値の増殖・・は彼の主観的目的である。そして、ただ抽象的富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の推進的動機である限り、彼は資本家として、または人格化された・・意志と意識とを与えられた・・資本として、機能するのである。したがって、使用価値は決して資本家の直接的目的として取りあつかわれるべきではない(7)。個々の利得もまたそう取りあつかわれるべきではなく、利得することの休みのない運動のみが資本家の直接的目的として取りあつかわれるべきである(8)。この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値の追求(9)は、資本家と貨幣蓄蔵者とに共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は狂気のさたの資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者である。価値の休みのない増殖・・貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすること(10)によってこのことを追求するのであるが、より賢明な資本家は、貨幣をたえずくり返し流通にゆだねることによってこのことを達成する(10a)。
(7) 「商品」(ここでは使用価値という意味でのそれ)「は、取り引きを行う資本家の究極目的ではない。・・・・彼の究極目的は貨幣である」(Th.チャーマズ『経済学について』、第二版、グラスゴー、一八三二年、一六五、一六六ページ)。
(8) 「商人は、すでに得た利得を軽視しはしないにしても、彼の目はつねに将来の利得に向けられている」(A・ジェノヴェーシ『市民経済学講義』、一七六五年、クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第八巻〔ミラノ、一八〇三年〕、一三九ページ)。
(9) 「利得を求める押えがたい熱情、“黄金の忌まわしい欲 auri sacra fames ”が、つねに資本家を誘導する」(マカロック『経済学原理』、ロンドン、一八三〇年、一七九ページ)。もちろん、この洞察は、同じマカロックおよびその仲間たちが理論的な当惑におちいった時、たとえば過剰生産を論じる際に、彼らがこの同じ資本家を善良な市民・・すなわち使用価値だけを問題にし、しかも長靴、帽子、卵、キャラコその他のきわめてありふれた種類の使用価値に対して、真の人狼的な渇望をさえ発揮する善良な市民・・に転化することをさまたげるものではない。
(10) “救う Σωζειν ”という言葉は、財宝の蓄蔵を表すギリシア語特有の表現の一つである。同様に〔英語の〕"to save" という言葉にも、救うという意味と同時に蓄えるという意味がある。
(10a) 「物は、前進する際にはもたない無限なものを、循環する際にはもつ」(ガリアーニ〔『貨幣について』、前出叢書、一五六ページ〕)。

 商品の価値が単純な流通においてとる自立した形態・・貨幣形態・・は、商品交換を媒介するのみであって、運動の最終の結果においては消えうせる。これに反して、流通G・W・Gにおいては、商品と貨幣とは共に、価値そのものの異なる存在様式として、・・すなわち貨幣は価値の一般的な存在様式として、商品は価値の特別ないわばただ仮装しただけの存在様式として・・機能するにすぎない(11)。価値は、この運動の中で失われることなく、たえず一つの形態から別の形態へ移っていき、こうして一つの自動的な主体に転化する。自己を増殖しつつある価値がその生活の循環の中でかわるがわるとる特別な現象諸形態を固定させてみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である(12)。しかし、実際には、価値はここでは過程の主体になるのであって、この過程の中で貨幣と商品とにたえず形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自己自身から剰余価値としての自己を突きだして、自己自身を増殖するのである。というのは、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。価値は、それが価値であるがゆえに価値を生むという、神秘的な〔okkult〕資質を受け取った。それは、生きた子を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。
(11) 「資本を作るものは、素材ではなくて、この素材の価値である」(J・B・セー『経済学概論』、第三版、パリ、一八一七年、第二巻、四二九ページ)。
(12) 「生産的目的のために用いられる通貨(!)は資本である」(マクラウド『銀行業の理論と実際』、ロンドン、一八五五年、第一巻、第一章、五五ページ)。「資本は商品である」(ジェームズ・ミル『経済学要綱』、ロンドン、一八二一年、七四ページ〔渡辺輝雄訳、『古典経済学叢書』、春秋社、八六ページ〕)。

 価値は、貨幣形態および商品形態をとり、またある時はこれを脱ぎすてながら、しかもこの変換の中で自己を維持し拡大するのであるが、このような過程の支配的主体として、価値は何よりもまず、それによって価値の自己自身との同一性が確認されるような一つの自立した形態を必要とする。そして、このような形態を、価値はただ貨幣という形でのみもつ。したがって、貨幣はあらゆる価値増殖過程の出発点と終点とをなす。それは一〇〇ポンド・スターリングであったが、今では一一〇ポンド・スターリングである、等々。しかし、貨幣そのものは、ここでは価値の一つの形態として通用するだけである。というのは、価値は二つの形態をもつからである。商品形態をとることなしには、貨幣が資本になることはない。したがって、貨幣はこの場合には、蓄蔵貨幣形成の場合のように商品に対して敵対的に登場することはない。資本家の知っているように、すべての商品は、いかにみすぼらしく見えようとも、またいかにいやな臭いがしようとも、神かけてまぎれもなく貨幣であり、内面的に割礼を受けたユダヤ人であり、しかもその上、貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡的手段である。
 単純な流通においては、商品の価値は、その使用価値に相対してせいぜい貨幣という自立した形態を受け取るにすぎないが、この場合はその価値が突然に、過程を進みつつある、みずから運動しつつある実体として現れるのであって、この実体にとっては、商品および貨幣は二つの単なる形態にすぎない。しかもそれだけではない。価値は今や、商品関係を表すかわりに、いわば自己自身に対する私的な関係に入りこむ。それは、原価値としての自己を、剰余価値としての自己から区別し、父なる神としての自己を、子なる神としての自己自身から区別するのであるが、父も子も共に同じ年齢であり、しかも、実はただ一個の人格でしかない。というのは、前貸しされた一〇〇ポンド・スターリングは、一〇ポンド・スターリングの剰余価値によってのみ資本になるのであって、それが資本になるやいなや、すなわち子が生まれそして子によって父が生まれるやいなや、両者の区別はふたたび消えうせ、両者は一者、一一〇ポンド・スターリングであるからである。
 したがって、価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になり、そしてこのようなものとして資本になる。価値は、流通から出てきてふたたび流通に入りこみ、流通の中で自己を維持しかつ幾倍にもし、増大して流通から戻ってくるのであり、そしてこの同じ循環をたえずくり返し新たに始めるのである(13)。G・G’、貨幣を生む貨幣・・money which begets money ・・これが、資本の最初の代弁者である重商主義者たちの語った資本の記述である。
(13) 「資本・・・・永久的な、自分を幾倍にもする価値」(シスモンディ『新経済学原理』、第一巻、八九ページ〔菅間正朔訳『経済学新原理』、上、『世界古典文庫』、日本評論社、一〇四ページ〕。

 売るために買うこと、すなわちもっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G・W・G’は、たしかに、資本の一種である商人資本だけに固有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、貨幣・・自己を商品に転化し商品の販売によって自己をより多くの貨幣に再転化する貨幣である。購買と販売との合間に流通部面の外部で行われるであろう諸行為は、この運動の形態をいささかも変えはしない。最後に、利子生み資本においては、流通G・W・G’は、短縮されて、媒介なしのそれの結果として、いわば簡潔体で、G・G’、すなわちより多くの貨幣に等しい貨幣、自己自身よりも大きい価値として、現れる。
 したがって事実上、G・W・G’は、直接に流通部面に現れる資本の一般的定式である。


★   第2節 一般的定式の諸矛盾
 
 貨幣が蛹(サナギ)の状態を脱して資本に成長する際の流通形態は、商品、価値、貨幣、および流通そのものの性質について以前に展開されたいっさいの法則に矛盾する。この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの相対立する過程である販売および購買の順序の転倒である。では、このような純粋に形式上の区別が、どのようにして、これらの過程の性質を魔法のように変えてしまうのであろうか?
 それだけではない。この転倒は、たがいに取り引きしあう三人の取り引き仲間のうちの一人にとって存在するだけである。私は、単純な商品所有者としては商品をBに売り、次に商品をAから買うのであるが、資本家としては、商品をAから買い、今度はそれをBに売る。取り引き仲間のAとBとにとってはこのような区別は存在しない。彼らはただ商品の買い手または売り手として登場するだけである。私自身も、そのつど単純な貨幣所有者または商品所有者として、買い手または売り手として、彼らに相対するのであり、しかも私は、どちらの順序においても、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方の人にはただ貨幣として、他方の人にはただ商品として、相対するだけである。どちらの人にも資本または資本家として、すなわち、貨幣もしくは商品以上の何らかのもの、あるいは貨幣もしくは商品の作用以外の作用をなしうるもの、の代表者として、相対するのではない。私にとっては、Aからの購買とBへの販売とは、一つの順序をなしている。しかし、これら二つの行為の関連は、ただ私にとって存在するだけである。Bとの私の取り引きはAがかかわり知るところではないし、またAとの私の取り引きはBがかかわり知るところでもない。もし私が彼らにむかって、順序を転倒することによって特別な功績を打ち立てるのだなどと説明しようとすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものをまちがえているのだということ、全取り引きは購買で始まって販売で終わったのではなく、その逆に、販売で始まって購買で終わったのだということを、証明するであろう。実際のところ、私の第一の行為である購買はAの立場からは販売であり、私の第二の行為である販売はBの立場からは購買であった。それだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体が余計なものであり、ごまかしであったのだと言明するであろう。Aはその商品を直接にBに売り、Bはそれを直接にAから買うであろう。そうすれば、全取り引きは普通の商品流通の一つの一方的行為に縮まって、Aの立場からは単なる販売、Bの立場からは単なる購買になる。したがってわれわれは、順序を転倒することによっては単純な商品流通の部面を越えでたことにはならないのであって、むしろわれわれは、単純な商品流通が、その性質上、この流通に入りこむ価値の増殖、したがって、剰余価値の形成を許すかどうかを、見きわめなければならない。
 流通過程が単なる商品交換として現れるような形態にある場合をとってみよう。二人の商品所有者がたがいに商品を買いあって、相互の貨幣請求額の差額を支払日に決済するという場合は、つねにそうである。貨幣はこの場合には、商品の価値をその価格で表現するために計算貨幣として役立つのであって、商品そのものに物として相対してはいない。使用価値が問題となる限りでは、明らかに両方の交換者が得をすることができる。両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を譲渡して、自分が使用するために必要な商品を手に入れる。しかも、このような利益だけが唯一の利益ではないであろう。ワインを売って穀物を買うAは、おそらく、穀物栽培者Bが同じ労働時間内に生産しうるよりも多くのワインを生産しえるであろうし、また穀物栽培者Bは、同じ労働時間内にブドウ栽培者Aが生産しうるよりも多くの穀物を生産するであろう。したがって、この二人のそれぞれが、交換によらないで、自分自身でワインや穀物を生産しなければならない場合にくらべれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を手に入れ、Bはより多くのワインを手に入れる。したがって、使用価値に関しては、「交換は両方の側が得をする取り引きである(14)」と言える。交換価値についてはそうではない。
・ 「ワインは多くもっているが穀物はもっていない男が,穀物は多くもっているがワインはもっていない男と取り引きして、彼らのあいだで五〇の価値ある小麦が五〇の価値あるワインと交換されるとしよう。この交換は、前者にとっても後者にとっても、交換価値の増加ではない。と言うのは、彼らのそれぞれが、すでに交換以前に、彼がこの操作によって手に入れた価値と等しい価値をもっていたのであるから(15)」。
 貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだに入りこみ、購買と販売という行為が感性的に分裂しても、事態には何の変わりもない(16)。商品の価値は、商品が流通に入りこむ前に、その価格で表されているのであり、したがって流通の前提であって、結果ではない(17)。
(14) 「交換は、契約当事者の両方がそれでつねに(!)得をする不思議な取り引きである」(デスチュト・ド・トラシ『意志および意志作用論』、パリ、一八二六年、六八ページ)。同じ著書は、『経済学概論』としても刊行された。
(15) メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、五四四ページ。
(16) 「これらの両方の価値のうちの一方が貨幣であるか、あるいは両方とも普通の商品であるかということは、それ自体まったくどうでもいいことである」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、同前、五四三ページ)。
(17) 「契約当事者たちが価値を決定するのではない。価値は約定以前に確定されているのである」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇六ページ)。

 抽象的に考察すると、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を度外視すると、単純な商品流通においては、ある使用価値が別の使用価値と取りかえられるということをのぞけば、商品の変態、商品の単なる形態変換のほかには何も起こらない。同じ価値、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所有者の手の中に、最初には彼の商品の姿態で、次にはこの商品が転化される貨幣の姿態で、最後にはこの貨幣が再転化される商品の姿態で、とどまっている。この形態変換は、価値の大きさの変化を少しも含まない。ところで、商品の価値そのものがこの過程でこうむる変換は、その貨幣形態の変換に限られている。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として、存在する。この形態変換は、ちょうど五ポンド銀行券をソヴリン金貨、半ソヴリン金貨、およびシリング銀貨と両替する場合と同じように、それ自体として価値の大きさの変化を含んではいない。したがって、商品の流通は、それが単に商品の価値の形態変換のみをもたらすにすぎない限り、この現象が純粋に起こる場合に、等価物同士の交換をもたらす。それゆえ、価値が何であるかをほとんど感づいていない俗流経済学でさえも、それがそれなりのやり方で現象を純粋に考察しようとする時にはいつでも、需要と供給が一致するということ、すなわちそれらの作用は総じてなくなるということを想定するのである。したがって、使用価値に関しては交換者の両方が得をすることがありえるとしても、交換価値で両方が得をすることはありえない。この場合にはむしろ、「平等のあるところに得はない(18)」と言われる。なるほど商品は、その価値から背離した価格で売られることもありえるが、しかしその背離は、商品交換の法則の侵害として現れる(19)。商品交換は、その純粋な姿態においては、等価物同士の交換であり、したがって価値を増やす手段ではない(20)。
(18)  "Dove e egualita, non e lucro." ガリアーニ『貨幣について』、クストーディ編〔前出叢書〕、近代篇、第四巻、二四四ページ。
(19) 「交換は、何らかの外的事情が価格を下げるか上げるかする場合には、両当事者の一方にとって不利になる。その場合には平等は侵害される。だがこの侵害は、右の原因によって引き起こされるのであって、交換によって引き起こされるのではない」(ル・トローヌ、前出、九〇四ページ)。
(20) 「交換はその性質上、平等の上に築かれる、すなわち二つの等しい価値のあいだに成立する契約である。したがってそれは致富の手段ではない。と言うのは、人は受け取るのと同じだけを与えるからである」(ル・トローヌ、前出、九〇三、九〇四ページ)。

 したがって、商品流通を剰余価値の源泉として叙述しようとする試みの背後には、たいてい一つの“見当違い”、使用価値と交換価値との取りちがえが、隠れている。たとえばコンディヤックの場合は次のようにである。
・ 「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換される、ということは誤りである。その逆である。二人の契約当事者はどちらも、つねにより大きい価値と引きかえにより小さい価値を与える。・・・・もし実際に、つねに等しい価値同士が交換されるのであれば、どの契約当事者にとっても利得は生じないであろう。だが、両方とも利得を得ているか、または少なくとも得るはずである。なぜか? 諸物の価値は、われわれの欲求に対するそれらの物の関係の中にしかない。ある人にとってより多くのものは、別の人にとってはよりわずかのものであり、またその逆に・・・・自分たちの消費に欠くことのできない物を売りに出すということは前提にならない。・・・・われわれは、自分に必要なものを手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多くのものと引きかえによりわずかなものを与えようとする。・・・・交換された諸物のおのおのが価値において同じ量の貨幣に等しい時にはいつでも、交換では等しい価値と引きかえに等しい価値が与えられる、と判断するのは当然であった。・・・・だが、なおもう一つ別の考慮が払われなければならない。問題は、われわれはどちらも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということである(21)」。

 これでわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけでなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行われている社会を、生産者が自分の生活維持諸手段を自分で生産し自分の欲求を超える超過分、余剰分だけを流通に投じるような状態と、すりかえているのである(22)。けれども、コンディヤックの議論はしばしば現代の経済学者たちにあってもくり返されているのであって、ことに、商品交換の発達した姿態である商業を、剰余価値を生産するものとして叙述しようとする場合がそうである。たとえば、次のように言う・・
・ 「商業は、生産物に価値をつけ加える。と言うのは、同じ生産物でも、生産者の手の中にあるよりも消費者の手の中にあるほうがより多くの価値をもつからである。それゆえ、商業は、文字どおり(strictly)生産行為と見なされなければならない(23)」と。
 しかし、人は商品に二重に・・一度はその使用価値に、もう一度はその価値に・・支払いはしない。しかも、たとえ商品の使用価値が売り手によりも買い手にとって有用であるとしても、その貨幣形態は、買い手よりも売り手にとって有用である。でなければ、彼はそれを売ったりするであろうか? したがって、同じように、こういうこともできるであろう・・買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictry)一つの「生産行為」を行うのだ、と。
(21) コンディヤック『商業と政府』(一七七六年)。所収、デールおよびモリナリ編『経済学論集』、パリ、一八四七年、二六七、二九一ページ。
(22) したがって、ル・トローヌがその友コンディヤックに次のように答えているのはまったく正しい・・「発達した社会には余分なものは何もない」〔前出、九〇七ページ〕と。同時に彼は次のような皮肉でコンディヤックをからかっている・・「もし、両方の交換者が同じだけよりわずかのものと引きかえに同じだけ多くのものを受け取るのならば、彼らは両方とも同じだけのものを受け取るのである」〔前出、九〇四ページ〕。コンディヤックは、交換価値の性質には少しも感づいていないからこそ、彼は、教授ヴィルヘルム・ロッシャー氏その人の子供じみた概念に対するおにあいの保証人なのである。ロッシャーの『国民経済学原理』、第三版、一八五八年、を見よ。
(23) S・P・ニューマン『経済学要論』、アンドウヴァーおよびニューヨーク、一八三五年、一七五ページ。

 もし交換価値の等しい商品同士が、または交換価値の等しい商品と貨幣とが、したがって等価物同士が交換されるならば、明らかにだれも、自分が流通に投じるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。その場合には剰余価値の形成は行われない。ところが、商品の流通過程がその純粋な形態において前提とするのは、等価物同士の交換である。けれども、現実には何ごとも純粋に運びはしない。だからわれわれは、非等価物のあいだの交換を想定してみよう。
 どの場合でも、商品市場では商品所有者が商品所有者に相対するだけであり、これらの人々がたがいに及ぼしあう力は彼らの商品の力でしかない。諸商品の素材的相違は、交換の素材的動機であって、商品所有者たちをたがいに相手に依存させあう。と言うのは、彼らのうちのだれ一人として自分の手の中に自分自身の欲求の対象をもっておらず、それぞれがその手の中に他人の欲求の対象をもっているからである。諸商品の使用価値のこのような素材的相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つの区別が、すなわち諸商品の現物形態と諸商品の転化した形態とのあいだの、商品と貨幣とのあいだの区別が、あるだけである。すなわち、商品所有者たちは、売り手すなわち商品所有者として、および買い手すなわち貨幣所有者として、区別されるだけである。
 今、何らかの説明のつかない特権によって、売り手が商品をその価値以上に売ること、その価値が一〇〇なのに一一〇で、したがって一〇%の名目的な価格引き上げをして売ることが許されると仮定しよう。したがって売り手は一〇の剰余価値を徴収する。しかし彼は、売り手であった後では買い手になる。今や第三の商品所有者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を一〇%高く売る特権を享受する。先の男は、売り手としては一〇だけ得をしたが、買い手としては一〇だけ損をする(24)。全体としては、事実上、すべての商品所有者が自分たちの商品をたがいにその価値よりも一〇%高く売りあうということであり、それは、あたかも彼らが商品をその価値どおりに売ったのとまったく同じ、ということになる。諸商品のこのような全般的な名目的価格引き上げは、ちょうど、商品価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。諸商品の貨幣名すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は不変のままであろう。
(24) 「生産物の名目的価値の増大によっては・・・・売り手たちは富裕にはならない。・・・・と言うのは、彼らが売り手としてもうけるだけのものを、彼らは買い手の資格で支出するからである」(〔J・グレイ〕『諸国民の富の根本原理』、ロンドン、一七九七年、六六ページ)。

 逆にわれわれは、商品をその価値以下で買うことが買い手の特権だと想定してみよう。この場合には、買い手がふたたび売り手になるということを思いだす必要は少しもない。彼は、買い手になる前に売り手であった。彼は、買い手として一〇%もうける前に、すでに売り手として一〇%の損をしていたのである(25)。すべてはやはりもとのままである。
(25) 「もし二四リーヴルの価値のある一定量の生産物を一八リーヴルで売ることをよぎなくされるならば、この同じ貨幣額を購買のために使う場合に、同様にして二四リーヴルで得られるのと同じだけのものを一八リーヴルで手に入れるであろう」(ル・トローヌ、前出、八九七ページ)。

 剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、それゆえ、売り手たちが商品をその価値以上に売るということによっても、また、買い手たちが商品をその価値以下で買うということによっても、説明されえないのである(26)。
(26) 「したがって、どの売り手もいつも自分の商品の価格を引き上げることができるためには、自分もいつも他の売り手の商品により高く支払わざるをえない。そして、同じ理由によって、どの消費者もいつもより安く買いいれることができるためには、自分の売る商品の価格をも同様に引き下げざるをえない」(メルシェ・ド・ラ・リヴィエール、前出、五五五ページ)。

 無縁な諸関連をこっそり持ちこんで、たとえばトランズ大佐と共に次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。
・ 「有効需要は、直接的交換によってであれ間接的交換によってであれ、諸商品と引きかえに、諸商品の生産に費やされるものよりも大きい、資本の全成分のある部分に支払いをする、という消費者の能力と性向(!)のうちにある(27)」。
 流通においては、生産者と消費者とは、売り手と買い手として相対するだけである。生産者にとっての剰余価値は消費者が商品に価値以上に支払うことから生じる、と主張することは、商品所有者は売り手として高すぎる価格で売る特権を持っている、という単純な命題を仮装させるだけのことでしかない。売り手は商品をみずから生産したのであるか、それとも商品の生産者を代表しているかであるが、同様に買い手もまた、彼の貨幣で表わされている商品をみずから生産したのであるか、それともその商品の生産者を代表しているかである。したがって、相対するのは、生産者と生産者である。彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。商品所有者は、生産者という名では商品をその価値以上に売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払う、ということによっては、われわれは一歩も前進させられはしない(28)。
(27) R・トランズ『富の生産に関する一論』、ロンドン、一八二一年、三四九ページ。
(28) 「利潤は消費者によって支払われるという考えは、たしかにきわめて不合理である。消費者とはだれなのか?」(G・ラムジー『富の分配に関する一論』、エディンバラ、一八三六年、一八三ページ)。

 したがって、剰余価値が名目的な価格引き上げから生じるとか、商品を高すぎる価格で売る売り手の特権から生じるとかいう幻想を一貫して主張しようとする人々は、売ることなしに買うだけの、したがってまた生産することなしに消費するだけの、一階級を想定するのである。このような階級の存在は、われわれのこれまでに到達した立場、すなわち単純な流通の立場からは、まだ説明のできないものである。しかし、先まわりしてみることにしよう。このような階級がたえず買うために用いる貨幣は、交換なしに、無償で、任意の法的および暴力的権原に基づいて、商品所有者たちそのものからたえずこの階級のもとに流れて行かなければならない。この階級に商品を価値以上に売るということは、無償で手放した貨幣の一部分をだましてふたたび取りもどすことにほかならない(29)。たとえば、小アジアの諸都市は、年々の貨幣貢租を古代ローマに支払った。この貨幣でもってローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。小アジア人たちは、商業という方法で征服者たちから貢租の一部分をずる賢く取りもどすことによって、ローマ人たちをだました。だが、それにもかかわらず、だまされた者はやはり小アジア人たちであった。彼らの商品は、あい変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われた。このようなことは、決して致富または剰余価値形成の方法ではない。
(29) 「ある人に需要が不足している時、だれか他の人に支払ってやり、それで自分の財をその人に買い取ってもらえとマルサス氏はすすめるのであろうか?」と、憤慨したリカード学派の一人はマルサスに質問している。マルサスは、彼の弟子の坊主チャーマズと同じように、単なる買い手または消費者の階級を経済的に賛美しているのである。『近時マルサス氏の主張する需要の性質および消費の必要に関する諸原理の研究』、ロンドン、一八二一年、五五ページを見よ。

 そこで、われわれは、売り手が買い手であり、買い手が売り手であるような商品交換の制限内にとどまることにしよう。われわれの窮境は、ことによると、われわれが登場人物を人格化されたカテゴリーとしてのみとらえて個人としてとらえていなかったことから起ってきているのかもしれない。
 商品所有者Aはきわめてずるくて彼の仲間のBまたはCをだますかもしれないが、BまたはCのほうはどんなに望んでも仕返しができないものとしよう。Aは四〇ポンド・スターリングの価値のあるワインをBに売って、それと引きかえに五〇ポンド・スターリングの価値のある穀物を手に入れるとしよう。Aは自分の四〇ポンド・スターリングを五〇ポンド・スターリングに転化させ、よりわずかの貨幣をより多くの貨幣にし、自分の商品を資本に転化させた。もっとくわしく見よう。交換が行なわれる前には、Aの手には四〇ポンド・スターリング分のワインがあり、Bの手には五〇ポンド・スターリング分の穀物があって、総価値は九〇ポンド・スターリングであった。交換の行なわれたあとでも、総価値は同じ九〇ポンド・スターリングである。流通している価値は一原子も増加しはしなかったが、AとBとへのその配分が変わった。一方で不足価値であるものが他方では剰余価値として現れ、一方でマイナスとして現われるものが他方ではプラスとして現われる。これと同じ変化は、Aが交換という形態に身を隠さずにBから直接一〇ポンド・スターリングを盗んだとしても、生じたであろう。流通している価値の総額は、明らかに、その配分におけるどのような変化によっても増加されえないのであって、それはちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の一ファージング銅貨〔=1/4ペニー〕を一ギニー金貨〔=21シリング〕と引きかえに売るとしても、一国の貴金属の総量を増やすことにはならないのと同じことである。一国の資本家階級の総体は自分で自分からだまし取ることはできない(30)。
(30) デスチュト・ド・トラシは、フランス学士院会員であったにもかかわらず・・いや、おそらくそうであったからこそ・・これとは反対の意見であった。彼は次のように言う・・産業資本家たちは、「すべてのものを、その生産に費やしたよりも高く売る」ことによって、彼らの利潤をあげる。「では、彼らはだれに売るのか? まず、たがいに、である」と(『意志および意志作用論』、二三九ページ)。

 したがって、どんなにぬらりくらり言いぬけてみたところで、結果はやはり同じである。等価物同士が交換されても剰余価値は生じないし、非等価物同士が交換されてもやはり剰余価値は生じない(31)。流通または商品交換は何の価値も創造しない(32)。
(31) 「二つの等しい価値のあいだで行なわれる交換は、社会に現存する価値の総量を増やしも減らしもしない。二つの等しくない価値同士の交換も・・・・やはり社会の価値の総額を少しも変化させない。といっても、その交換は、一方の財産から取り上げるものを他方の財産につけ加えるのではあるが」(J・B・セー『経済学概論』、第二巻、四四三、四四四ページ〔増井訳『経済学』、下巻、『岩波経済学古典叢書』、六一七〜六一八ページ〕)。セーは、これらの命題の帰結がどうなるかにはもちろんおかまいなしに、これを重農主義者たちからほとんど遂語的に借用している。その当時は世に忘れられていた重農主義者の諸著作を自分自身の「価値」の増加のために彼が利用したやり方は、次の例によってわかるであろう。すなわち、セー氏の「最も有名な」命題、「人は生産物でもってのみ生産物を買う」(同前、第二巻、四三八ページ)は、重農主義者たちの原文では「生産物は生産物でもってのみ支払われる」となっている(ルトローヌ、前出、八九九ページ)。
(32) 「交換は生産物にまったく何らの価値も与えない」(F・ウェイランド『経済学要論』、ボストン、一八四三年、一六八ページ)。

 こうしたことから、資本の根本形態、すなわち資本が近代社会の経済組織を規定する際にとる形態をわれわれが分析するに当たって、なぜ、資本の通俗的な、いわば大洪水以前の姿態である商業資本および高利貸資本を、さしあたりまったく考慮しないでおくかが、わかるであろう。
 本来の商業資本においては、形態G・W・G’、より高く買うために買う、が最も純粋に現われている。他面では、商業資本の全運動は、流通部面の内部で行なわれる。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能であるから、等価物同士が交換される限り、商業資本は成り立ちえないように思われるのであり(33)、したがって、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに商人が寄生的に割りこみ、これらの商品生産者の両方からだまし取るということから、商業資本を導き出すほかないように思われる。フランクリンが「戦争は略奪であり、商業は詐欺である(34)」と言っているのは、この意味においてである。商業資本の価値増殖を商品生産者に対する単なる詐欺によって説明すべきでないとすれば、そのためには一連の長い中間項が必要なのであるが、商品流通とその単純な諸契機とが唯一の前提となっている今の場合には、それらの中間項はまだまったく欠けている。
(33) 「不変な等価物の支配のもとでは商業は不可能であろう」(G・オプダイク『経済学に関する一論』、ニューヨーク、一八五一年、六六〜六九ページ)。「真実価値と交換価値との区別の基礎になっているのは次の事実である・・すなわち、ある物の価値は、商業の際にその物と引き換えに与えられるいわゆる等価物とは異なるということ、すなわちこの等価物は決して等価物ではないということ、である」(F・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、95、96ページ〔『全集』、第1巻、552ページ〕)。
(34) ベンジャミン・フランクリン『著作集』、第二巻、スパークス編、『国民の富に関する検討されるべき諸見解』所収〔三七六ページ〕。

 商業資本に当てはまることは、高利貸資本にはいっそうよく当てはまる。商業資本においては、その両極、すなわち市場に投じられた貨幣と市場から引き上げられる増加した貨幣とは、少なくとも購買と販売とによって、流通の運動によって、媒介されている。高利貸資本においては、形態G・W・G’が、無媒介の両極G・G’に、より多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の性質と矛盾しておりしたがってまた商品交換の立場からは説明しえない形態に、短縮されている。それゆえ、アリストテレスも次のように言う・・
・ 「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属する。後者は必要で賞賛に値するが、前者は流通を基礎としていて非難されてしかるべきものである(というのは、それは自然に基づくものではなく、相互の詐欺に基づくものだからである)。したがって、高利貸しが憎まれるのはまったく当然のことである。なぜなら、ここでは貨幣そのものが利得の源泉であって、それが考案された目的のために用いられるのではないからである。というのも、貨幣は商品交換のために生まれたものであるが、利子は貨幣をより多くの貨幣にするものだから。その名称」(τοκοζ 利子、生まれたもの)「もここから出ている。というのは、生まれたものは生んだものに似ているからである。しかし利子は、貨幣から生まれた貨幣であり、こうして利子は、すべての営利部門のうちで最も反自然的なものである(35)」。
(35) アリストテレス『政治学』、第一巻、第一〇章〔一七ページ。山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、岩波書店、二八〜二九ページ。同訳、岩波文庫、五七ページ〕。

 われわれの研究が進むにつれて、商業資本と同じく利子生み資本もまた、派生的形態として見いだされるであろう。それと同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な根本形態よりも先に現われるのかを見るであろう。
 すでに明らかにしたように、剰余価値は流通からは生じえないのであり、したがって、それが形成される場合には、流通そのものの中では目に見えない何ごとかが、流通の背後で起っているに相違ない(36)。しかし剰余価値は、流通から以外にほかのどこから生じうるであろうか? 流通は、商品所有者たちのいっさいの相互関係〔第3・4版では、「商品関係」〕の総和である。この流通の外部では、商品所有者はもはや自分自身の商品と関係するだけである。このかかわりは、彼の商品の価値について言えば、一定の社会的諸法則によってはかられた彼自身の労働のある量をその商品が含んでいるということにつきる。この労働量は、彼の商品の価値の大きさに表現される。そして、価値の大きさは計算貨幣で表わされるのであるから、この労働量は、たとえば一〇ポンド・スターリングという価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値プラスその商品自身の価値を超える超過分に表わされはしない。それは、一〇であると同時に一一である価格に、すなわち、それ自身よりも大きい価値に、表わされはしない。商品所有者は、彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自己を増殖する価値を形成することはできない。彼は、新たな労働によって現存する価値に新たな価値をつけ加えることによって、たとえば革で長靴をつくることによって、商品の価値を高めることはできる。同じ素材が今や、より大きい労働量を含んでいるから、より多くの価値を持つ。したがって、長靴は革よりも多くの価値を持つが、しかし革の価値は元のままである。革は自己を増殖しはしなかったし、長靴製造中に剰余価値を生みだしはしなかった。したがって、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所有者たちと接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能である。
(36) 「市場の通常の状態のもとでは、利潤は交換によっては得られない。利潤は、もしそれがこの取り引きに先立って存在していなかったとすれば、その後にも存在しえないであろう」(ラムジー『富の分配に関する一論』、一八四ページ)。

 したがって、資本は、流通から発生するわけにはいかないし、同じく、流通から発生しないわけにもいかない。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に、流通の中で発生してはならないのである。
 こうして、二重の結果が生じた。
 貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則に基づいて展開されるべきであり、したがって等価物同士の交換が出発点をなす(37)。今の所まだ資本家の幼虫として現存するにすぎないわれわれの貨幣所得者は、商品をその価値どおりに買い、その価値どおりに売り、しかもなお過程の終りには、彼が投げいれたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面の中で行なわれなければならず、しかも流通部面の中で行なわれてはならない。これが問題の条件である。“ここがロドスだ、ここで跳べ!”〔*〕
(37) これまでの説明から、読者は、ここで言われているのは、資本の形成は商品価格が商品価値に等しい場合でも可能でなければならないという意味でしかないことを、理解されるであろう。資本の形成は、商品価格の商品価値からの背離によっては説明されえない。価格が価値から現実に背離している場合には、まず、その価格を価値に還元しなければならない。すなわち、この背離状態を偶然的なものとして度外視し、資本形成の諸現象を純粋に商品交換を基礎にして考察し、この考察に際しては撹乱的で本来の経過には無縁な付随的事情によって混乱させられないようにしなければならない。なお、知ってのとおり、この還元は単なる科学的手続きにすぎないものではない。市場価格のたえざる動揺、その高騰と低落とは、補正しあい、たがいに相殺しあって、その内的基準としての平均価格にみずからを還元する。この基準は、たとえば、比較的長い時期にわたるすべての企業において、商人または工業家の導きの星となる。すなわち、彼は、比較的長い期間を全体として見れば、諸商品が現実にはその平均価格よりも安くも高くもなくその平均価格で売られるということを知っている。したがって、利害関係を離れて〔interesseloses〕考えることにいやしくも彼が関心〔Interesse〕を持つなら、彼は資本形成の問題を次のように設定しなければならないであろう・・諸価格が平均価格によって、すなわち究極においては商品の価値によって規制される場合に、資本はどのようにして発生しうるのか?と。私がここで「究極においては」と言うのは、平均価格は、A・スミス、リカードなどが信じているように商品の価値の大きさと直接に一致するものではないからである。

〔* ここがロドスだ、ここで跳べ!(Hic Rhodus,hic salta!)・・イソップの寓話からとったもので、その話では、ひとりのほら吹きが自分はロドス島でとても大きく跳んだことがあると言い張った。そこで、彼はこう言い返された。ここがロドスだ、ここで跳べ!と。・・ディーツ版注解〕


★   第3節 労働力の購買と販売

 資本に転化すべき貨幣の価値の変化は、この貨幣そのものの上には起こりえない。というのは、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、それが買いまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、他方では、貨幣は、それ自身の形態にとどまっている場合には、同じ不変な大きさの価値をもつ化石に凝固するからである(38)。それと同様に、第二の流通行為である商品の再販売からもこの変化は生じえない。というのは、この行為は、商品を現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。したがって、この変化は、第一の行為G・Wで買われる商品のうちに起らなければならないが、しかし、その商品の価値の上に、ではない。というのは、等価物同士が交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるからである。したがって、この変化は、その商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生じうるのみである。一商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、流通部面の内部で、すなわち市場において、一商品・・それの使用価値そのものが価値の源泉であるという固有の性質を持っている一商品を、したがってそれの現実的消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造である一商品を、発見する幸運にめぐまれなければならないであろう。そして、貨幣所得者は、市場でこのような独特な商品を・・労働能力または労働力を、見いだすのである。
(38) 「貨幣の形態においては・・・・資本は何らの利潤も生まない」(リカード『経済学原理』、二六七ページ〔堀経夫訳、『リカード全集』I、雄松堂書店、二六八ページ〕)。

 われわれが労働力または労働能力というのは、人間の肉体、生きた人格性のうちに存在していて、彼が何らかの種類の使用価値を生産するそのたびごとに運動させる、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。
 けれども、貨幣所有者が商品としての労働力を市場で見いだすためには、さまざまな条件が満たされていなければならない。商品交換は、それ自体、商品交換自身の性質から生じる依存関係以外には、いかなる依存関係も含んではいない。この前提のもとでは、商品としての労働力は、ただ、労働力がそれ自身の所有者によって、すなわちそれが自分の労働力である人によって、商品として売りに出されるかまたは売られる限りにおいてのみ、またそのゆえにのみ、市場に現われうる。労働力の所有者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって自分の労働能力、自分の人格の自由な所有者でなければならない(39)。労働力の所有者と貨幣所有者とは、市場で出会ってたがいに対等な商品所有者として関係を結ぶのであって、彼らが区別されるのは、一方が買い手で他方が売り手であるという点だけであり、したがって両方とも法律上では平等な人格である。この関係が続いていくためには、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということが必要である。というのは、もし彼が労働力をひとまとめにして全部一度に売り払うならば、彼は自分自身を売るのであって、自由人から奴隷に、商品所有者から商品に、転化するからである。人格としての彼は、自分の労働力を、いつも自分の所有物、したがってまた自分自身の商品として取りあつかわなければならない。そして、彼がそうすることができるのは、ただ、彼がいつでも一時的にだけ、一定の期間だけに限って、自分の労働力を買い手の処分にまかせ、したがって労働力を譲渡してもそれに対する自分の所有権は放棄しないという限りでのことである(40)。
(39) 古典古代に関するもろもろの百科全書には次のようなばかげたことが書かれている。すなわち、古典古代世界でも、「自由な労働者と信用制度とが欠けていたことをのぞけば」資本は十分に発展していた、と。モムゼン氏もまた、その『ローマ史』〔全三巻、第二版、ベルリン、一八五六〜一八五七年〕の中で何度も“見当違い”を犯している。
(40) そのために、さまざまな立法が労働契約の期間の最大限を確定しているのである。自由な労働が行なわれている諸国民のもとでは、すべての法典が契約解除の予告条件を規定している。別の国々、ことにメキシコでは(アメリカ南北戦争以前はメキシコから切り離された諸准州においても、またクーザの変革までは事実上ドナウ諸州においても)、奴隷制が“債務奴隷制 Peonage ”という形態のもとに隠蔽されている。労働で返済されるはずの、代々引きつがれていく前借金によって、個々の労働者だけでなくその家族もまた、実際に他人およびその家族の所有物になる。フアレス〔メキシコの大統領〕は債務奴隷制を廃止した。いわゆる皇帝マクシミリアンは勅令によってこの制度を復活されたが、この勅令はワシントンの下院において、適切にも、メキシコに奴隷制を復活させる勅令だとして弾劾された。「私は、私の特殊な肉体的および精神的な技能と活動可能性との・・・・使用を、時間を限って他人に譲渡することができる。なぜなら、この時間の制限に従って、技能と活動可能性とは、私の総体性と普遍性とに対する外面的な関係を与えられるからである。そうではなくてもしも私が、労働を通じて具体的な私の全時間と私の生産物の全体とを譲渡するならば、私は、それらのものの実体的なもの、私の普遍的な活動と現実性、私の人格性を、他人の所有とすることになるであろう」(ヘーゲル『法の哲学』、ベルリン、一八四〇年、一〇四ページ、第六七節〔藤野・赤沢訳、『世界の名著』35、中央公論社、二六七ページ〕)。

 貨幣所有者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的条件は、労働力の所有者が、自分の労働の対象化された商品を売ることができないで、自分の生きた肉体のうちにのみ存在する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならない、ということである。
 だれでも、自分の労働力と異なる商品を売ろうとすれば、もちろん、生産諸手段、たとえば原料、労働用具などを所有していなければならない。彼は革がなくては長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活諸手段も必要である。だれでも、未来派の音楽家でさえも、未来の生産物によっては、したがってまたその生産がまだ完了していない使用価値によっては、生きていくことはできない。しかも人間は、地上に現われた最初の日と同じように、今なお毎日、彼が生産する以前にも、その途中でも消費しなければならない。もし生産物が商品として生産されるならば、それらは生産された後に売られなければならないのであって、生産者の欲求は販売後に初めて満たされうる。生産時間の上にさらに販売のために必要な時間がつけ加わる。
 したがって、貨幣を資本に転化させるためには、貨幣所有者は商品市場で自由な労働者を見いださなければならない。ここで、自由な、というのは、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分するという意味で自由な、他面では、売るべき他の商品を持っておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいの物から解き離されて自由であるという意味で自由な、この二重の意味でのそれである。
 なぜ、この自由な労働者が流通部面で貨幣所有者に相対するのかという問題は、労働市場を商品市場の特殊な一部門として見いだす貨幣所有者には関心のないことである。そして、この問題はさしあたりはわれわれにとっても関心事ではない。貨幣所有者が実践的に事実にしがみつくのと同じように、われわれは理論的に事実にしがみつく。けれども、一つのことは明らかである。自然は、一方の側に貨幣または商品の所有者を、他方の側に単なる自分の労働力の所有者を、生みだしはしない。この関係は自然史的関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的関係でもない。それは明らかに、それ自身、先行の歴史的発展の結果であり、幾多の経済的変革の産物、すなわち社会的生産の全一連の古い諸構成体の没落の産物である。
 さきに考察した経済的諸カテゴリーもまた、自己の歴史的な痕跡をおびている。商品としての生産物の定在のうちには、一定の歴史的諸条件が包みこまれている。商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的な生活維持手段として生産されてはならない。もしわれわれが、さらに進んで、すべての生産物か、またはその多数だけでも、商品の形態をとるのはどのような事情のもとにおいてであるかを探究していたら、それは、まったく独特な生産様式、資本主義的生産様式の基礎上でのみ起こるということが見いだされたであろう。けれども、このような研究は商品の研究の範囲外のことであった。生産物量の圧倒的大部分が直接に自家需要に向けられていて商品に転化していなくても、したがって社会的生産過程がその全体的な広さと深さの点でまだまだ交換価値に支配されているというにはほど遠くても、商品生産および商品流通は生じえる。商品としての生産物の出現は、社会内分業が十分に発展して、直接的交換取り引きにおいて初めて始まる使用価値と交換価値との分離がすでに完成されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的にはなはだしく異なる経済的社会諸構成体に共通のものである。
 他方、貨幣を考察するならば、貨幣は商品交換の一定の発展程度を前提する。貨幣の特殊な諸形態・・単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣・・は、いずれかの機能の作用範囲の違いと相対的優越とに応じて、社会的生産過程のきわめて異なる諸段階を示している。にもかかわらず、経験によれば、これらのすべての形態が形成されるためには、商品流通の比較的わずかな発達で十分である。資本については事情は異なる。資本の歴史的な存在諸条件は、商品流通および貨幣流通と共に定在するものでは決してない。資本は、生産諸手段および生活諸手段の所有者が、みずからの労働力の売り手としての自由な労働者を市場で見いだす場合にのみ成立するのであり、そして、この歴史的条件は一つの世界史を包括する。したがって、資本は、最初から社会的生産過程の一時代を告示す
る(41)。
(41) したがって、資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとっては彼に属する商品という形態を受け取り、したがって彼の労働が賃労働という形態を受け取る、ということである。他面では、この瞬間からはじめて、労働生産物の商品形態が普遍化される。

 今や、労働力というこの特徴的な商品を、もっとくわしく考察しなければならない。
他のすべての商品と同じく、労働力も一つの価値を持っている(42)。この価値はどのようにして規定されるのか?
(42) 「ある人の価値または値うちは、他のすべての物の場合と同じように、彼の価格である。すなわち、彼の力の使用に対して支払われるだけのものである」(Th・ホッブズ『リヴァイアサン』、所収、モウルズワース編『著作集』、ロンドン、一八三九〜一八四四年、第三巻、七六ページ〔水田洋訳、岩波文庫、(一)、一四七〜一四八ページ〕)。

 労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じく、この独特な物品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。労働力そのものは、それが価値である限り、それに対象化された社会的平均労働の一定量を表わすのみである。労働力は、生きた個人の素質として存在するのみである。したがって、労働力の生産はこの生きた個人の生存を前提する。この個人の生存が与えられていれば、労働力の生産とは、この個人自身の再生産または維持のことである。自分を維持するために、生きた個人は、一定量の生活諸手段を必要とする。したがって、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活諸手段の生産に必要な労働時間に帰着する。すなわち、労働力の価値は、労働力の所有者の維持に必要な生活諸手段の価値である。けれども、労働力はその発揮によってのみ自己を実現し、労働の中でのみ確認される。しかし、労働力の確認である労働によって、人間の筋肉、神経、脳髄などの一定量が支出されるのであって、それはふたたび補充されなければならない。この支出の増加は収入の増加を条件とする(43)。労働力の所有者は、きょうの労働を終えたならば、あすもまた、力と健康との同じ条件のもとで同じ過程をくり返すことができなければならない。したがって、生活諸手段の総量は、労働する個人を労働する個人として、その正常な生活状態で維持するのにたりるものでなければならない。食物、衣服、暖房、住居などのような自然的欲求そのものは、一国の気候その他の自然の特徴に応じて異なる。他面では、いわゆる必需欲求の範囲は、その充足の仕方と同様に、それ自身一つの歴史的産物であり、したがって、多くは一国の文化段階に依存するのであり、とりわけまた、本質的には、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような慣習と生活要求とを持って形成されたか、に依存するのである(44)。したがって、労働力の価値規定は、他の商品の場合とは対照的に、歴史的かつ慣習的な一要素を含んでいる。といっても、一定の国、一定の時代については、必要生活諸手段の平均範囲は与えられている。
(43) それゆえ、農耕奴隷の先頭に立つ管理者である古ローマの“ヴィリクス villicus ”〔奴隷主から農場経営と労働監督を委託された奴隷〕は、「奴隷よりも仕事が楽だというので奴隷よりもわずかな量」を受け取った(Th・モムゼン『ローマ史』、〔第一巻、第二版、ベルリン〕一八五六年、八一〇ページ)。
(44) W・Th・ソーントン『過剰人口とその救済策』、ロンドン、一八四六年、参照。〔第1版と第2版では「W・Th・ソーントンは、その著・・・・において、これについての興味ある証拠をあげている」となっている。〕

 労働力の所有者は死をまねがれない。したがって、貨幣の資本への継続的転化が前提するように、市場における彼の出現が継続的現象であるべきだとすれば、労働力の売り手は、「生殖によって、どの生きている個体も自己を永久化するのと同じように(45)」自己を永久化しなければならない。心身消耗と死亡とによって市場から奪い取られた労働力は、少なくとも同数の新たな労働力によってたえず補充されなければならない。したがって、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供たちの生活諸手段を含むのであり、こうしてこの特徴的な商品所有者の“種族”が商品市場で自己を永久化するのである(46)。
(45) ペティ。
(46) 「その」(労働の)「自然価格とは・・・・労働者を維持するために、および、市場での労働供給を減少させないように保証できるだけの家族を彼が養うことを可能にするために、一国の気候および慣習に応じて必要な程度の、生活必需品および便利品の量のことである」(R・トランズ『穀物貿易に関する一論』、ロンドン、一八一五年、六二ページ)。ここでは、労働という言葉が労働力の代わりに誤り用いられている。

 一般的人間的な性質を、それが特定の労働部門における技能と訓練とに到達し、発達した独特な労働力になるように変化させるためには、特定の養成または教育が必要であり、それにはまたそれで、大なり小なりの額の商品等価物が費用としてかかる。労働力の性格がより複雑なものであるかないかの程度に応じて、その養成費も異なってくる。したがって、この修業費は、普通の労働力についてはほんのわずかでしかないけれども、労働力の生産のために支出される価値の枠の中に入っていく。
 労働力の価値は、ある一定額の生活諸手段の価値に帰着する。したがって、労働力の価値はまた、この生活諸手段の価値、すなわちこの生活諸手段の生産に必要な労働時間の大きさと共に変動する。
 生活諸手段の一部分、たとえば食物、燃料などは、日々新たに消費されてなくなるので日々新たに補填されなければならない。他の生活諸手段、たとえば衣服、家具などは、比較的長期間にわたって消費され、したがって比較的長期間をおいて補填されればよい。ある種類の商品は日ごとに、他の種類の商品は週ごと、四半期ごと、等々に買われるか支払われるかしなければならない。しかし、これらの支出の総額が、たとえば一年のあいだにどのように配分されようとも、それは日々、平均的収入によってまかなわれなければならない。かりに、労働力の生産に日々必要な諸商品の総量をAとし、週ごとに必要な諸商品の総量をBとし、四半期ごとに必要な諸商品の総量をC、等々ならば、これらの商品の日々の平均は、(365A+52B+4C+等々)/365 であろう。もし一平均日に必要なこの商品総量のうちに六時間の社会的労働が潜んでいるのならば、労働力のうちには毎日、半日分の社会的平均労働が対象化されていることになる。すなわち、労働力の日々の生産のためには半労働日が必要である。労働力の日々の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち日々再生産される労働力の価値を形成する。もしまた、半日分の社会的平均労働が三シリングまたは一ターレルという金量で表わされるのなら、一ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。もし労働力の所有者が労働力を日々一ターレルで売りに出すなら、労働力の販売価格は労働力の価値に等しくなる。そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所有者は、この価値を支払うのである。
 労働力の価値の最後の限界または最低限界をなすものは、日々その供給を受けなければ労働力の担い手である人間がその生活過程を更新しえないようなある商品総量の価値、すなわち、肉体的に必要不可欠な生活諸手段の価値である。もし労働力の価格がこの最低限にまで下がるならば、それは労働力の価値以下への低下である。というのは、その場合には労働力は、ただ萎縮した形態でしか維持され発揮されえないからである。しかし、あらゆる商品の価値は、その商品を標準的な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。
 事柄の性質から出てくるこのような労働力の価値規定を粗野だとして、たとえばロッシと共に次のように嘆くのは、きわめて安っぽい感傷である。すなわち・・
・ 「労働能力(puissance de travail)を、生産過程中にある労働の維持諸手段を考慮にいれずに把握することは、一つの幻想(etre de raison)を把握するに等しい。労働という人、労働能力という人は、同時に労働者と生活維持諸手段とのことを、労働者と労賃とのことを言っているのである(47)」と。
 労働能力と言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力と言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。周知のように、消化過程にとっては、丈夫な胃袋よりも多くのものが必要である。労働能力という人は、労働能力の維持に必要な生活諸手段を考慮しないわけではない。それどころか、その生活諸手段の価値が労働能力の価値で表現されているのである。労働能力が売れないならば、それは労働者にとって何の役にも立たないのであり、彼は、自分の労働能力がその生産のために一定量の生活維持諸手段を必要としたこと、そしてその再生産のためにたえずくり返し新たにそれらを必要とすることを、むしろ冷酷な自然的必然事として感じるのである。その時労働者は、シスモンディと共に、「労働能力は・・・・もしそれが売れなければ、無である(48)」ことを発見する。
(47) ロッシ『経済学講義』、ブリュッセル、一八四三年、三七〇、三七一ページ。
(48) シスモンディ『新経済学原理』、第一巻、一一三ページ〔菅間正朔訳『経済学新原理』、上、『世界古典文庫』、日本評論社、一二一ページ〕。

 労働力というこの特徴的な商品の性質には、買い手と売り手のあいだに契約が結ばれても労働力の使用価値はまだ現実に買い手の手に移行していない、ということが当然にともなってくる。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、それが流通に入る前に規定されていた・・というのは、労働力の生産のために一定量の社会的労働が支出されたからである・・が、労働力の使用価値は、その後で行なわれる力の発揮の中で初めて存立する。したがって、力の譲渡〔Vera¨uszerung〕と、力の現実の発揮〔Aeuszerung〕すなわち力の使用価値としての定在とは、時間的に離れている。そして、このような商品、すなわち販売による使用価値の形式的譲渡と買い手へのそれの現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣は、たいてい支払手段として機能する。資本主義的生産様式の行なわれている国はどこでも、労働力は、売買契約で確定された期限のあいだ機能し終えた後で、たとえば各週末に、はじめて支払いを受ける。したがって、労働者はどこでも、資本家に労働力の使用価値を前貸しする。労働者は、労働力の価格の支払いを受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用貸しするのである。この信用貸しということが決して空虚な妄想でないことは、資本家が破産すると信用貸しされた賃金の喪失が時おり生じることによってだけでなく(50)、もっと後まで残る一連の影響によっても示されている(51)。しかし、貨幣が購買手段として機能するか、それとも支払手段として機能するかということは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。労働力の価格は、家賃と同じように、後になって初めて実現されるけれども、契約によって確定されている。労働力は後になってはじめて支払われるけれども、すでに売られている。とはいえ、関係を純粋につかむためには、さしあたり、労働力の所有者はいつでもそれを売ればすぐに契約で決まっている価格を受け取る、と前提するのが便宜である。
(49) 「すべて労働は、終了した後で支払われる」(『近ごろマルサス氏の主張する需要の性質・・・・に関する諸原理の研究』、一〇四ページ)。「商業信用は、生産の第一の創造者である労働者が、彼の節約によって、彼の労働の報酬を一週間、二週間、一ヶ月、四半期等々の末まで待てるようになった時に、始まったに違いない」(Ch・ガニル『経済学の諸体系について』、第二版、パリ、一八二一年、第二巻、一五〇ページ)。
(50) 「労働者は自分の勤勉を貸し出す」が、しかし・・とシュトルヒはぬけ目なくつけ加える・・彼は「自分の賃金を失うこと」のほかには「何の危険もおかしはしない。・・・・労働者は物質的なものは何も提供しない」(シュトルヒ『経済学講義』、サンクト・ペテルブルク、一八一五年、第二巻、三六、三七ページ)。
(51) 一例。ロンドンには二種類の製パン業者がいる。一つは、パンをその価値どおりに売る「“正常価格売り業者 full priced ”」と、もう一つは、その価値以下で売る「“安売り業者 undersellers ”」とである。この後者の部類は製パン業者の総数の3/4以上を占めている(『製パン職人によって申し立てられた苦情』に関する政府委員H・S・トリマンヒアの『報告書』、ロンドン、一八六二年、XXXIIページ)。この“安売り業者”の売っているパンは、ほとんど例外なく、ミョウバン、石鹸、真珠灰、石灰、ダービシャー石粉その他類似の、美味で栄養のある衛生的な成分を混入することによって、不純物にされている。(右に引用した青書を見よ。また、「パンの不純物混和に関する一八五五年の委員会」の報告、およびハッスル博士の『摘発された不純物混和』、第二版、ロンドン、一八六一年、を見よ)。サー・ジョン・ゴードンは一八五五年の委員会で次のように説明した・・「これらの不純物混和の結果、毎日二ポンドのパンで暮らしている貧民は、今では、彼の健康に対する有害な影響は別としても、栄養物の四分の一も実際には受け取っていない」と。「労働者階級の大部分」が、この不純物混和についてよく知っていながら、しかもなおミョウバン、石鹸などのおまけまで受け取るのかという理由として、トリマンヒアは次のようにのべている(全出、XLVIIIページ)・・彼らにとっては「その製パン業者または“小売店”が勝手によこすパンを受け取るのはやむをえないことである」。彼らは一労働週間が終わってはじめて支払を受けるのであるから、彼らもまた「彼らの家族がその一週間に消費したパンの代価を週末になってはじめて支払う」ことができる、と。そして、トリマンヒアは証言を引用しながら次のようにつけ加えている・・「このような混ぜ物でできたパンが、特にこの種の客のためにつくられるということは、周知のことである。」と。("It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner.")「イングランドの多くの農業地方では」(だがスコットランドの農業地方ではなおさら)「労賃は二週間ごとに、また一ヶ月ごとにさえ、支払われる。このように支払間隔が長いために農業労働者は商品を掛けで買わなければならない。・・・・彼は、より高い価格を支払わなければならず、事実上、彼に掛売りする小売店にしばりつけられている。こうして、たとえば賃金の月払いが行なわれているウィルトシャーのホーニングシャムでは、よそでなら一ストーンあたり一シリング10ペンスで買える小麦粉が、農業労働者には二シリング四ペンスかかる」(『公衆衛生』に関する『枢密院医務官』の『第六次報告書』、一八六四年、二六四ページ)。「ペイズリーとキルマーノック」(西スコットランド)の「キャラコ捺染工たちは、一八五三年にストライキによって、月払いから二週間払いへの支払期限の短縮をよぎなくさせた」(『工場監督官報告書。一八五三年一〇月三一日』、三四ページ)。イギリスの多くの炭坑所有者の方法は、労働者が資本家に与える信用のいっそういんぎんな展開とみなすことができる。この方法によれば、労働者は月末になってはじめて支払いを受け、そのあいだの期間は資本家から前貸しを受けるのであるが、前貸しはしばしば商品で行なわれ、この商品に対して労働者はその市場価格以上に支払わなければならない(“現物支給制度 Trucksystem ”)。「自分たちの労働者に月に一回支払い、その中間の各週の週末に現金を前貸しするというのが、炭坑主たちの普通のやり方である。この前貸金は店」(すなわち、“トミーショップ tommy-shop ”、言いかえれば炭坑主自身が持っている小売店)「で与えられる。労働者はそれを一方では受け取り他方では支払うのである」(『児童労働調査委員会。第三次報告書』、ロンドン、一八六四年、三八ページ、第192号)。

 われわれは、今では、労働力というこの特徴的な商品の所有者に対して貨幣所有者から支払われる価値がどのように規定されるかを知っている。この貨幣所有者自身が交換で受け取る使用価値は、労働力の現実の使用、すなわちその消費過程においてはじめて現われる。貨幣所有者は、原料その他のようなこの過程に必要なすべての物を商品市場で買い、それらに価格どおりに支払う。労働力の消費過程は、同時に、商品の生産過程であり剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じく、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。したがって、われわれも、貨幣所有者および労働力所有者と一緒に、表面で行なわれていてだれの目にもつくこの騒々しい流通部面を立ち去って、この二人の後について、生産という秘められた場所に、“無用の者立ちいるべからず No admittance except on business ”と入口に提示してあるその場所に、入っていこう。ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけでなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもまた、明らかになるであろう。貨殖の秘密がついに暴露されるに違いない。
 労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。自由! というのは、一商品たとえば労働力の買い手と売り手は、彼らの自由意志によって規定されているだけだからである。彼らは、自由で法律上対等な人格として契約する。契約は、そこにおいて彼らの意志が一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。平等!というのは、彼らは商品所有者としてのみたがいに関係しあい、等価物と等価物を交換するからである。所有!というのは、だれもみな、自分の物を自由に処分するだけだからである。ベンサム!というのは、両当事者のどちらにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係の中に置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。そして、このようにだれもが自分自身のことだけを考えて、だれもが他人のことは考えないからこそ、すべての人が、事物の予定調和にしたがって、またはまったくぬけ目のない摂理のおかげで、彼らの相互の利得、共同の利益、全体の利益という事業を成しとげるだけである。
 この単純流通または商品交換の部面から、俗流自由貿易論者は、資本および賃労働の社会についての見解、概念、および自己の判断の基準を引き出してくるのであるが、この部面を立ちさるに当たって、わが“登場人物たち”の顔つきは、すでにいくぶん変わっているように見える。先の貨幣所有者は資本家として先に立ち、労働力所有者は彼の労働者としてその後についていく。前者は、意味ありげにほくそえみながら、仕事一途に。後者は、まるで自分の皮を売ってしまってもう革になめされるよりほかには何の望みもない人のように、おずおずといやいやながら。


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