§ 第3編 絶対的剰余価値の生産

☆  第5章 労働過程と価値増殖過程

★   第1節 労働過程

 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手はそうすることによって、“現実に actu ”自己を発現する労働力、労働者となるのであり、彼はそれ以前には“潜在的に potentia ”そうであったにすぎない。彼の労働を商品に表示するためには、彼は何よりもまず、その労働を使用価値に、何らかの種類の欲求の充足に役立つ物に、表示しなくてはならない。したがって、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある特定の物品である。使用価値または財貨の生産は、資本家のために資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えはしない。したがって、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態からも独立に考察されなければならない。
 労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しえる形態で取得するために、自分の身体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させるとともに、同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、自分自身の自然のうちに眠っている潜在諸力を発展させ、その諸力の働きを自分自身の統御に服させる。われわれはここでは、労働の最初の動物的、本能的な諸形態を問題としない。労働者が自分自身の労働力の売り手として商品市場に現われるような状態にとっては、人間の労働がその最初の本能的形態をまだ脱していなかった状態は、太古の背景に遠ざけられている。われわれが想定するのは人間にのみ属している形態の労働である。クモは織布者の作業に似た作業を行なうし、ミツバチはそのロウの小室の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかし、最も拙劣な建築師でも最も優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室をロウで築く以前に自分の頭の中でそれを築いているということである。労働過程の終わりには、そのはじめに労働者の想像の中にすでに現存していた、したがって観念的に現存していた結果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的・・彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意志をそれに従属させなければならない彼の目的・・を実現する。そして、この従属は決して一時的な行為ではない。労働の全期間にわたって、労働する諸期間の緊張のほかに、合目的的な意志が必要とされ、それは注意力として現われ、しかもこの意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる。
 労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である。
 大地〔Erde〕(経済の面からは水もまたその中に含まれる)・・人間に対して本源的に食糧、既成の生活諸手段を与える大地(1)・・は、人間の関与なしに人間の労働の一般的対象として存在する。労働が大地総体との直接的結びつきから引き離すにすぎないいっさいの物は、天然に存在する労働諸対象である。たとえば、生活要素である水から引き離されてとらえられる魚、原生林で伐採される木材、鉱脈から割り採られる鉱石がそうである。これとは反対に、労働対象がそれ自体すでにそれ以前の労働によっていわば濾過(ロカ)されているならば、われわれはそれを原料と名づける。たとえば、これから先行されるすでに割り採られた鉱石がそうである。原料はすべて労働対象であるが、どの労働対象も原料であるとは限らない。労働対象は、それがすでに労働によって媒介された変化をこうむっている場合にのみ原料である。
(1) 「大地の天然の産物は量が少なく人間にはまったく依存しないものであって、それは、いわば勤勉と富裕との道に向かわせるために青年にわずかな金額が与えられるのと同じやり方で、自然によって与えられているように見える」(ジェームズ・スチュアート『経済学原理』、ダブリン版、一七七〇年、第一巻、一一六ページ〔中野正訳、岩波文庫、(一)、二三五ページ〕)。

 労働手段とは、労働者が自分と労働対象とのあいだに持ちこんで、この対象に対する彼の能動活動の導体として彼のために役立つ物または諸物の複合体である。彼は、それらの諸物を彼の目的に応じて、他の諸物に働きかける力の手段として作用させるために、それらの物の機械的・物理的・化学的諸属性を利用する(2)。労働者が直接わが物にする対象は・・既成の生活諸手段、たとえば果実の採取においては、彼自身の肉体的諸器官のみが労働手段として役立つが、このような場合は別として・・労働対象ではなく、労働手段である。こうして、自然的なものそれ自体が、彼の能動活動の器官、すなわち聖書の言葉にもかかわらず、彼が自分自身の肉体的諸器官につけ加えて彼の自然の姿を引き伸ばす一器官になる。大地は、彼の本源的な食料倉庫であるのと同様に、彼の労働諸手段の本源的な武器庫である。それはたとえば、彼に投げたり、こすったり、重しにしたり、切ったりなどするための石を供給する。大地そのものが一つの労働手段であるといっても、それが農業において労働手段として役立つためには、さらに一連のほかの労働手段とすでに比較的高度に発展をとげた労働力とを前提する(3)。およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでに加工された労働諸手段を必要とする。最古の人間の洞穴の中に、われわれは石の道具や石の武器を見いだす。人類史のはじめにおいては、加工された石、木、骨、貝殻とならんで、馴らされた、したがってそれ自身すでに労働によって変化させられ飼育された動物が、労働諸手段として主要な役割を演じる(4)。労働諸手段の使用と創造は、萌芽的にはすでにある種の動物にそなわっているけれども、特有な人間労働過程を特徴づけるものであり、したがってフランクリンは、人間を a tool-making animal すなわち道具をつくる動物と定義している。滅亡した動物種属の身体組織を認識するのに遺骨の構造が持つのと同じ重要性を、労働諸手段の遺物は滅亡した経済的社会構成体の判定に対して持っている。何がつくられるかではなく、どのようにして、どのような労働手段をもってつくられるかが、経済的諸時代を区別する(5)。労働諸手段は、人間労働力の発達の測定器であるばかりでなく、労働がそこにおいて行なわれる社会的諸関係の指標でもある。労働諸手段そのものの中では、その総体を生産の筋骨系統と名づけることのできる機械的労働諸手段のほうが、労働対象の容器としてのみ役立ち、その総体がまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことができるような労働諸手段、たとえば管(クダ)、桶、篭、壷などよりも、ある社会的生産時代のはるかに決定的な特徴を示す。容器としての労働手段は、化学工業においてはじめて重要な役割を演じる(5a)。
(2) 「理性は強力であるとともに、狡知に富んでいる。一般に狡知とは、諸客体をそれら自身の性質に応じて相互に作用させ、たがいに働き疲れさせることにより、みずからは直接この過程に入りこむことなく、しかも自分の目的のみを達成する媒介的活動のことである」(ヘーゲル『エンチクロペディー』、第一部、『論理学』、ベルリン、一八四〇年、三八二ページ〔松村訳『小論理学』、岩波文庫、下、二〇四ページ〕)。
(3) 他の点ではみじめな著作『経済学の理論』、パリ、一八一五年、において、ガニルは、重農主義者に反対して、本来の農業の前提をなす多くの労働諸過程をつぎつぎに数えあげている。
(4) 『富の形成および分配に関する諸考察』(一七六六年)において、チュルゴは、文化の初期における馴らされた動物の重要性を見事に展開している〔津田内匠訳『チュルゴ経済学著作集』、岩波書店、九五ページ。永田清訳『チュルゴオ 富に関する省察』、岩波文庫、六九〜七一ページ)。
(5) すべての商品のうちで、本来の奢侈品は、さまざまな生産時代の技術学的比較にとって最も意義のないものである。
(5a) 第2版への注。これまでの歴史記述は、物質的生産の発展を、したがってすべての社会的生活の基礎を、したがってまたすべての現実の歴史の基礎を、ほとんど知らないのであるが、人は少なくとも先史時代を、いわゆる歴史的研究でなく、自然科学的な研究に基づき、道具および武器の材料にしたがって、石器時代、青銅器時代、および鉄器時代に区分している。

 より広い意味で、労働過程の手段に数えられるものには、労働の対象への労働の働きかけを媒介し、したがってあれこれの仕方で活動の導体として役立つ諸物のほか、およそこの過程が行なわれるために必要なすべての対象的諸条件がある。それらは直接にこの過程に入りこみはしないが、それらなしにはその過程はまったく進行できないか、不完全にしか進行できない。この種の一般的労働手段はやはり大地そのものである、というのは、大地は労働者には“立つ場所 locus standi ”を、彼の過程には作用場面(field of employment)を与えるからである。労働によってすでに媒介されたこの種の労働諸手段は、たとえば作業用建物、運河、道路などである。
 したがって労働過程においては、人間の活動は、当初から企図された労働対象の変化を労働手段によって生じさせる。過程は生産物においては消失する。過程の生産物は、使用価値であり形態変化によって人間の欲求に適合させられた自然素材である。労働はその対象と結合した。労働は対象化されており、対象は加工されている。労働者の側においては不静止の形態で現われたものが、生産物の側においては今や静止した属性として存在〔Sein〕の形態で現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれた物である。
 全過程を、その結果である生産物の立場から考察すれば、労働手段と労働対象の両者は生産手段(6)として、労働そのものは生産的労働(7)として現われる。
(6) たとえば、まだとらえられていない魚を漁獲のための生産手段と呼ぶことは逆説であるように見える。しかし、魚がいない水中で魚をとらえる術はまだこれまで発明されていない。
(7) 生産的労働のこの規定は、単純な労働過程の立場から生じるのであって、資本主義的生産過程にとっては決して十分なものではない。

 ある一つの使用価値が労働過程から生産物として出てくる時、それ以前の労働諸過程の諸生産物である他の諸使用価値が生産諸手段としてこの労働過程に入りこむ。後者の労働の生産物であるその同じ使用価値が、前者の労働の生産手段を形成する。したがって、生産物は労働過程の結果であるだけでなく、同時にまたその条件でもある。
 採鉱、狩猟、漁獲など(農耕は処女地そのものを最初に開墾する場合にのみ)のような労働対象を天然に見いだす採取産業を別にして、すべての産業部門は原料すなわちすでに労働によって濾過された労働対象、それ自身すでに労働生産物である対象を取りあつかう。たとえば、農業における種子がそうである。自然の産物とみなされがちな動物や植物も、おそらく前年の労働の生産物であるだけでなく、現在の形態をとっているそれらのものは、幾多の世代を通して、人間の制御のもとで人間労働を介して続けられてきた変形の産物である。しかし、特に労働諸手段に関して言えば、その大多数が、最も浅薄な観察眼にさえも過去の労働の痕跡を示している。
 原料は、ある生産物の主要実体を形成することも、また補助材料としてのみ生産物の形成に入りこむこともありえる。補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草が馬車馬によって消費されるように労働手段によって消費されることもあり、また、塩素が未漂白のリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料につけ加えられ、それに素材的変化を生じさせることもあり、また、たとえば仕事の場の照明および暖房に用いられる材料のように労働の遂行そのものを助けることもある。主要材料と補助材料との区別は、本来の化学工業においては、充用された原料のいずれもが生産物の実体として再現されないのであいまいになる(8)。
(8) シュトルヒは、本来の原料を "materiere" と呼び、"materiaux" と呼ぶ補助材料から区別している。シェルビュリエは、補助材料を "matieres instrumentales" と呼んでいる。〔シュトルヒ『経済学講義』、第一巻、サンクト・ペテルブルク、一八一五年、二二八ページ。シェルビュリエ『富か貧困か。社会的富の現在の分配の原因と結果との説明』、パリ、一八四一年、一四ページ〕。

 物はそれぞれいろいろな属性を持ち、したがってさまざまな用途に供されえるから、同じ生産物がきわめて異なった労働過程の原料となりえる。たとえば、穀物は、製粉業者、デンプン製造業者、酒造業者、牧畜業者などにとっての原料である。それは種子としては、それ自身の生産の原料となる。同様に、石炭は生産物として鉱山業から出てきて、生産手段として鉱山業に入りこむ。
 同じ生産物が、同じ労働過程において、労働手段としても、原料としても、役立つことがありえる。たとえば、家畜の肥育の場合がそうであって、ここでは家畜すなわち加工原料が、同時に肥料製造の手段である。
 消費のための完成形態で存在する一生産物が、たとえばブドウがワインの原料となるように、新たに他の一生産物の原料になることがありえる。あるいは、労働がその生産物を、それがふたたび原料としてしか使えない形態で手放す。この状態にある原料、たとえ場面か、縫い糸、織り糸などは、半製品と呼ばれるが、段階製品と呼ぶほうがよいであろう。元の原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、さまざまな過程からなる全段階を通過せねばならないかもしれず、これらの過程においてこの原料は、そこで完成した生活手段または完成した労働手段として押す最後の労働過程にいたるまで、たえず変化した姿態でたえず新たに原料として機能するのである。
 要するに、ある使用価値が原料として現われるか、労働手段として現われるか、生産物として現われるかは、もっぱらそれが労働過程で果たす一定の機能に、それが労働過程において占める位置に依存するのであって、この位置が変わるにつれて上記の諸規定が変わるのである。
 したがって、諸生産物は、それらが生産諸手段として新たな労働過程に入りこむことによって生産物という性格を失う。それらはもはや、生きた労働の対象的要因として機能するだけである。紡績工は、紡錘を紡ぐ手段としてのみ取りあつかい、亜麻を紡ぐ対象としてのみ取りあつかう。もちろん人は、紡績材料と紡錘がなくては紡ぐことはできない。それゆえ、これらの生産物が現存していることは、紡績の開始に際して、前提されている。しかし、この過程そのものにおいては、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、それはちょうど、パンが農民、製粉業者、製パン業者などの過去の諸労働の生産物であることが栄養行為の場合にどうでもよいのと同じである。逆の場合。もし労働過程において生産諸手段が過去の労働の諸生産物としての性格を表わすならば、そのことは、それらの生産諸手段の欠陥によって明らかにされる。切れないナイフ、切れてばかりいる糸などは、刃物工Aや紡績工Eをまざまざと思い起こされる。優秀な生産物では、その生産物の使用諸属性の、過去の労働による媒介は消えうせている。
 労働過程で用いられない機械は無用である。その上、機械は自然の物質代謝の破壊力に侵される。鉄はさび、木は朽ちる。織られもせず編まれもしない糸は、廃物の綿花である。生きた労働は、これらの物をとらえて、死からよみがえらせ、単なる可能的な使用価値から、現実的で有効な使用価値に転化させなければならない。これらの物は労働の火になめられ、労働の肉体として同化され、それらの概念および使命にふさわしい諸機能を営むまでに、この過程の中で精気を吹きこまれながら、たしかに消費されてなくなりもするが、しかしそれらは、生活手段として個人的消費に入りこむかまたは生産諸手段として新たな労働過程に入りこむかすることのできる新たな諸使用価値の、新たな諸生産物の、形成要素として、合目的的に消費しつくされる。
 したがって、現存する諸生産物が労働過程の諸結果であるだけでなくその存在諸条件でもあるならば、他方、それらの生産物の労働過程への投入、したがって生きた労働との接触は、これら過去の労働の諸生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。
 労働は、それの素材的諸要素、それの対象およびそれの手段を消費し、それらを食いつくすのであり、したがって消費過程である。この生産的消費が個人的消費と区別される点は、後者は諸生産物を生きた個人の生活諸手段として消費し、前者はそれらを労働の生活諸手段、すなわち生きた個人の自己を発現する労働力の生活諸手段として消費する、ということである。したがって、個人的消費の生産物は消費者そのものであり、生産的消費の結果は消費者とは区別される一生産物である。
 労働は、それの手段およびそれの対象そのものがすでに諸生産物である限りは、諸生産物を創造するために諸生産物を消費する。すなわち、諸生産物の生産諸手段として、諸生産物を消耗する。しかし、労働過程が本源的には人間の関与なしに現存する大地と人間とのあいだでのみ行なわれるように、労働過程においては、天然に現存していて、自然素材と人間の労働との結合を何ら示していないような生産諸手段もまた、今なお用いられている。
 われわれがその単純で抽象的な諸要素において叙述してきたような労働過程は、諸使用価値を生産するための合目的的活動であり、人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、したがってこの生活のどんな形態からも独立しており、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものである。それゆえ、われわれは、労働者を他の労働者たちとの関係において叙述する必要がなかった。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然とその素材があれば、それで十分であった。小麦を味わってみてもだれがそれを栽培したのかわからないのと同様、この過程を見ても、どのような条件のもとでそれが行なわれるのか、奴隷監督の残忍なムチのもとでか、資本家の心配げなまなざしのもとでなのか、それともキンキナトゥスが数ユゲルム〔1ユルゲム=約25アール〕の耕作において行なうのか、石で野獣を倒す未開人が行なうのか(9)、はわからない。
(9) この極めて高度な論理的理由から、トランズ大佐は実に何と未開人のこの石のうちに発見する・・資本の起源を。「未開人がその追跡する野獣めがけて投げつける最初の石のうちに、手の届かない果実を落とすために彼が手に握る最初の棒〔Stock〕のうちに、われわれは他の物品を獲得する目的で行なうある物品の取得を見るのであり、こうして発見するのである・・資本の起源を」(R・トランズ『富の生産に関する一論』、七〇、七一ページ)。なぜ英語の stock が資本と同義語であるかという点についても、おそらく、あの最初の棒〔Stock〕から説明することができるであろう。

 われわれはわが“将来の”資本家のもとに戻ろう。われわれが彼のもとを去ったのは、彼が商品市場において労働過程に必要なすべての要因、すなわち対象的諸要因または生産諸手段と、人的要因または労働力とを買ったのちのことであった。彼はぬけ目ないくろうとの目を持って、紡績業、製靴業などの彼の特殊な事業にふさわしい生産諸手段と労働力を選んだ。したがって、わが資本家は自分の買った商品、労働力の消費にとりかかる。すなわち、彼は労働力の担い手である労働者に、それの労働によって生産諸手段を消費させる。労働過程の一般的性質は、労働者が労働過程を自分自身のためではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変化しはしない。しかし、長靴をつくったり、糸を紡いだりする一定の仕方もまた、資本家の介入によっては、さしあたり、変化しえない。資本家は、さしあたり、市場で見いだすままの労働力を、したがってまた資本家がまだ一人もいなかった時代に発生したままのその労働を、受け入れなくてはならない。労働が資本のもとに従属することによって生じる生産様式そのものの転化は、もっとのちになってからはじめて生じうるのであり、したがってもっとあとになって初めて考察されるべきである。
 ところで労働過程は、それが資本家による労働力の消費過程として行なわれる場合には、二つの固有な現象を示す。
 労働者は、自分の労働の所属する資本家の管理のもとで労働する。資本家は、労働が秩序正しく進行し、生産諸手段が合目的的に使用され、したがって原料が少しもむだづかいされず、労働用具が大切にされるように、すなわち作業中のそれの使用によってよぎなくされる限りでしか労働用具が傷つけられないように、見張りをする。
 さらに第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者の所有物ではない。資本家は、たとえば労働力の日価値を支払う。したがって、労働力の使用は、他のどの商品・・たとえば一日のあいだ賃借りした馬・・の使用とも同様に、その一日のあいだ資本家に属している。商品の使用は商品の買い手に所属し、そして、労働力の所有者は、自分の労働を与えることによって、実際には自分が売った使用価値を与えるだけである。彼が資本家の作業場に入った瞬間から、彼の労働量の使用価値は、したがってそれの使用すなわち労働は、資本家に所属したのである。資本家は、労働力の購買によって、労働そのものを、生きた酵素として同じく彼に所属する死んだ生産物形成諸要素に合体させたのである。彼の立場からは、労働過程は彼が買った商品である労働力の消費にすぎないが、しかし彼はこの労働力に生産諸手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができる。労働過程は、資本家が買った諸物のあいだの、彼に所属している諸物のあいだの一過程である。したがって、この過程の生産物は、彼のワイン地下貯蔵室における発酵過程の生産物とまったく同様に、彼に所属する(10) 。
(10) 「諸生産物は、それらが資本に転化される前に取得されている。この転化は、その取得から生産物を解き放しはしない」(シェルビュリエ『富か貧困か』、パリ版、一八四一年、五四ページ)。「プロレタリアは、彼の労働を一定量の生活諸手段(approvisionnement)と引き換えに売ることによって生産物に対するどんな分け前をも完全に放棄する。諸生産物の取得は以前と同じままである・・それは前述の約定によっては少しも変更されない。生産物は、諸原料と“給養品 Approvisionnement ”とを提供した資本家に、もっぱら所属する。これは取得法則の厳密な帰結である。ただし、この法則の根本原理は、それとは反対に、自己の諸生産物に対する各労働者の排他的な所有権であった」(同前、五八ページ)。ジェームズ・ミルは『経済学要綱』七〇、七一ページ〔渡辺輝雄訳、春秋社、八三ページ〕で次のように言っている・・「労働者が労賃を受け取って労働する場合には、資本家は資本」(ここでは生産諸手段を意味する)「の所有者であるだけでなく、労働の所有者でもある。もし労賃として支払われるものを、普通そうされているように、資本の概念に含めるなら、資本と切り離して労働について語るのは不合理である。資本という語は、この意味では、資本と労働との両方を含んでいる」。


★   第2節 価値増殖過程

 生産物・・資本家の所有物・・は、ある使用価値、糸、長靴などである。しかし、たとえば長靴がある意味では社会進歩の基礎をなしており、またわが資本家が断固とした進歩主義者であるとしても、彼は長靴を長靴そのもののために製造しはしない。商品生産においては、使用価値は、決して“それ自身のために人が愛する”物ではない。ここでは一般に使用価値は、それらがただ交換価値の物質的土台、その担い手であるがゆえに、またその限りでのみ、生産されるのである。そしてわが資本家には二つのことが問題である。第一に、彼は、交換価値を持つ使用価値、販売予定の物品、商品を、生産しようとする。そして第二に、彼は、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち彼が商品市場において彼の貴重な貨幣を前貸しして得た生産諸手段と労働力との価値総額よりも、大きい価値を持つ商品を生産しようとする。彼は、使用価値だけでなく商品を、使用価値だけでなく価値を、しかも価値だけでなく剰余価値をも、生産しようとする。
 ここでは商品生産が問題なのであるから、事実上、われわれはこれまでのところ明らかに過程の一側面を考察したにすぎない。商品そのものが使用価値と価値との統一であるのと同様に、商品の生産過程は労働過程と価値形成過程との統一でなければならない。
 そこで、今度はわれわれは、生産過程を価値形成過程として考察することにしよう。
 上述のように、それぞれの商品の価値は、その使用価値に物質化されている労働の量によって、その生産のために社会的に必要な労働時間によって、規定されている。このことは、労働過程の結果としてわが資本家の手に入った生産物についても当てはまる。したがって、まずもって、この生産物に対象化されている労働が計算されなければならない。
 この生産物が、たとえば、糸であるとしよう。
 糸の製造のためには、まず第一に、その原料、たとえば一〇ポンドの綿花が必要であった。綿花の価値がどれだけであるかを、今から研究するにはおよばない。というのは、資本家はそれを市場において、その価値、たとえば一〇シリングで買ったのだから。綿花の価格のうちには、その生産のために必要な労働が、すでに一般的社会的労働として示されている。さらに、われわれは、綿花の加工中に消費しつくされた紡錘量・・充用された他のすべての労働手段をこれが代表するものとする・・が、二シリングの価値を持つと仮定しよう。一二シリングの金量が二四労働時間または二労働日の生産物であるとすれば、さしあたり、この糸には二労働日が対象化されていることになる。
 綿花がその形態を変化させ、消耗された紡錘量がまったく消えうせているという事情に、惑わされてはならない。40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1錘分の紡錘の価値 であるならば、すなわちこの等式の両辺を生産するために同じ労働時間が必要であるならば、一般的価値法則に従って、たとえば一〇ポンドの糸は一〇ポンドの綿花および1/4錘の紡錘との等価物である。この場合には、同じ労働時間が、一方では使用価値・糸において、他方では使用価値・綿花および紡錘において、みずからを表わしている。したがって、価値は、それが糸、紡錘、綿花のいずれにおいて現われているかについては、無関心である。紡錘と綿花とが、静かに相ならんで横たわっているのではなく、紡績過程で結合し、この結合がそれらの使用形態を変化させ、それらを糸に転化するということは、紡錘および綿花の価値には少しも影響しないのであって、そのことは、ちょうど紡錘および綿花が単純交換によって糸という等価物と引き換えられる場合と同様である。
 綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料としている糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがって糸のうちに含まれている。紡錘量の生産に必要な労働時間についても、事情は同じである(11)。この紡錘量の摩滅または消費なしには綿花は紡がれえないからである。
(11) 「商品に直接に充用された労働のみではなく、この労働を助ける器具、道具、および建物に費やされた労働もまたその商品の価値に影響する」(リカード『経済学および課税の原理』、一六ページ〔堀経夫訳、『リカード全集』 I、二六ページ〕)。

 したがって、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察される限りでは、綿花そのものと消耗された紡錘量を生産するために、最後に綿花および紡錘で糸をつくるために、通過させられなければならないところの、さまざまな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている労働諸過程は、同じ一つの労働過程のさまざまなあいついで現われる諸局面とみなされうる。糸に含まれている労働はすべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は以前にすぎ去っており、過去完了であるが、これに対して、最終過程である紡績に直接に費やされた労働は比較的現在に近く、現在完了である、ということはまったくどうでもよい事情である。一見の家を建築するのに一定量の労働、たとえば三〇労働日の労働が必要であるとすれば、三〇日目の労働日が最初の労働日よりも二九日遅く生産に入りこんだということは、その家に合体された労働時間の総量を少しも変えるものではない。そのため、労働材料および労働手段に含まれている労働時間は、あたかもちょうど、紡績の形態で最後につけ加えられた労働よりも前に、もっぱら紡績過程の比較的以前の一段階で支出されたかのように、みなされうる。
 したがって、一二シリングの価格で表現される生産諸手段の価値、綿花および紡錘の価値は、糸価値すなわち生産物の価値の構成部分をなしている。
 ただ二つの条件だけは満たされなければならない。第一に、綿花と紡錘とは現実に、ある使用価値の生産に役だっていなければならない。われわれの場合には、これらの物からでき上がっていなければならない。価値にとっては、どのような使用価値が価値を担うかはどうでもよいが、しかしどうしても何らかの使用価値が価値を担っていなければならない。第二に、与えられた社会的生産諸条件のもとで必要な労働時間だけが費やされたということが前提とされる。したがって、もし一ポンドの糸を紡ぐために一ポンドの綿花だけが必要であるならば、一ポンドの糸の形成においては、一ポンドの綿花だけが消費されるようにしなければならない。紡錘についても事情は同じである。もし資本家が、気まぐれに、鉄の紡錘の代わりに金の紡錘を用いるとしても、糸価値においては、社会的に必要な労働時間だけが、すなわち鉄の紡錘の生産に必要な労働時間だけが計算に入る。
 今や、われわれには、生産諸手段すなわち綿花および紡錘が、糸価値のうちのどの部分を形成するかがわかっている。それは、一二シリング、すなわち二労働日の物質化に等しい。したがって、今度は、紡績工の労働そのものが綿花につけ加える価値部分が問題である。
 われわれは、この労働を、今や、労働過程中にある場合とはまったく別の観点から考察しなければならない。労働過程中においては、綿花を糸に転化させるという目的にそった活動が問題であった。他のすべての事情が変わらないものと前提すれば、労働が目的にそったものであればあるほど、それだけ糸のできはよい。紡績工の労働は、特有なものとして、他の生産的諸労働とは相違するものであった。そして、この相違は、紡績の特殊な目的、その特殊な作業様式、その生産諸手段の特殊な性質、その生産物の特殊な使用価値において、主体的にも客体的にも現われていた。綿花と紡錘とは紡績労働の生活手段として役立ちはするが、それらを持って施条砲をつくることはできない。これとは反対に、紡績工の労働が価値形成的すなわち価値源泉である限りでは、それは砲身穿孔工の労働、または・・ここでわれわれの身近にある例では・・糸の生産諸手段に実現されている綿花栽培者および紡績製造工の労働とまったく相違しない。ただこの同一性によってのみ、綿花栽培、紡錘製造、および紡績は、糸価値という同じ総価値の、単に量的にのみ相違する諸部分を形成しえるのである。ここではもはや、労働の質、性状、および内容が問題ではなく、今やその量が問題となるだけである。これはただ単に計算されればよい。われわれは、紡績労働が単純労働、社会的平均労働であると仮定しよう。これと反対の仮定をしても事態は少しも変わらないということは、のちにわかるであろう。
 労働過程の中で、労働はたえず不静止の形態から存在(ザイン)の形態に、運動の形態から対象性の形態に転換する。一時間の終わりには、紡績運動はある量の糸に表わされており、したがって一定量の労働すなわち一労働時間が綿花に対象化されている。われわれは、〔紡績労働とは言わずに・・英語版〕労働時間、すなわち一時間のあいだの紡績工の生命力の支出、という。なぜそう言うかと言えば、紡績労働は、ここでは、それが紡績という特別な労働である限りではなく、労働力の支出である限りでのみ、意義を持つからである。
 今や、決定的に重要なのは、この過程の継続中に、すなわち綿花の糸への転化の継続中に、社会的に必要な労働時間だけが消費されるということである。標準的な、すなわち平均的な社会的生産諸条件のもとでは、aポンドの綿花が一労働時間中にbポンドの糸に転化されなければならないなら、12×aポンドの綿花を12×bポンドの糸に転化する労働日だけが、一二時間の労働日として意義を持つ。というのは、社会的に必要な労働時間だけが価値を形成するものとして計算に入るからである。
 労働そのものと同様に、ここでは、原料および生産物もまた、本来の労働過程の立場から見た場合とはまったく別な光景を示す。ここでは、原料は一定量の労働の吸収者としてのみ意義を持つ。この吸収によって、それは実際に糸に転化する。なぜなら、労働力が紡績活動の形態で支出され、原料につけ加えられたからである。しかし、その生産物である糸は、今ではもはや、綿花によって吸収された労働の測定器にすぎない。一時間に12/3ポンドの綿花が紡ぎつくされるとすれば、すなわち12/3ポンドの糸に転化されるとすれば、一〇ポンドの糸は吸収された六労働時間をさし示す。一定の、経験的に確定される量の生産物は、今や、一定量の労働、一定量の凝固した労働時間を表わすだけである。それらは、社会的労働の一時間、二時間、一日分などの物質化でしかない。
 労働がまさに紡績労働であり、その材料が綿花であり、そしてその生産物が糸であるということは、労働対象そのものがすでに生産物であり、したがって原料であるということと同様に、ここでは、どうでもよいことになる。労働者が紡績工場ではなくて炭坑で働くならば、労働対象である石炭は天然に存在しているであろう。それにもかかわらず、炭層から割りとられた一定量の、たとえば一ツェントナーの石炭は、一定量の吸収された労働を表わすであろう。
 労働力の販売のところでは、労働力の日価値は三シリングであり、この三シリングには六労働時間が体現されており、したがってそれだけの労働量が労働者の日々の生活諸手段の平均額を生産するために必要であると想定された。そこで、わが紡績工が一労働時間中に一2/3ポンドの綿花を一2/3ポンドの糸に転化するなら(12)、六時間では一〇ポンドの綿花を一〇ポンドの糸に転化する。したがって、紡績過程の継続中に綿花は六労働時間を吸収する。この労働時間は三シリングの金量に表わされる。したがって、綿花は紡績そのものによって三シリングの価値をつけ加えられる。
(12) ここでの数字はまったく任意のものである。

 今や、われわれは、生産物である一〇ポンドの糸の総価値を調べてみよう。そこには二1/2労働日が対象化されている。二日の労働は綿花と紡錘量とに含まれ、1/2日の労働は紡績過程中に吸収されている。同じ労働時間は一五シリングの金量で表わされる。したがって、一〇ポンドの糸の価値に相当する価格は一五シリングとなり、一ポンドの糸の価格は一シリング六ペンスとなる。
 わが資本家は愕然(ガクゼン)とする。生産物の価値は、前貸しされた資本の価値と同じなのである。前貸しされた価値は増殖せず、何らの剰余価値も生まなかったのであり、したがって貨幣は資本に転化しなかった。一〇ポンドの糸の価格は一五シリングである。しかも、一五シリングが商品市場でこの生産物の形成諸要素に、または同じことだが、労働過程の諸要因に、支出された。すなわち、一〇シリングは綿花に、二シリングは消耗された紡錘量に、そして三シリングが労働力に。糸の価値がふくれあがったとしても何の役にも立たない。というのは、その糸の価値はもともと綿花、紡錘、および労働力に配分されていた諸価値の合計でしかなく、そして既存の諸価値にこのような加算がなされただけで決して剰余価値は発生しえないからである(13)。これらの諸価値は今やすべて一個の物に集中されているが、しかしそれらは一五シリングの貨幣額が三つの商品購買によって分割される前には、やはりこの貨幣額に集中されていたのである。
(13) これが、あらゆる非農業労働の不生産性に関する重農主義者の学説の基礎をなす根本命題であり、そして、それは経済学者たち・・専門の・・にとってくつがえすことのできないものである。「あるただ一つの物に多くの他の物の価値を」(たとえばリンネルにリンネル織布者の生活維持費を)「つけ加えるというこのやり方、したがっていわば多くの諸価値をあるただ一つの価値の上に重層的に積み上げるというこのやり方は、この価値をそれだけ増大させる。・・・・加算という言葉は、手工業製品の価格が形成されるやり方をきわめてよく言い表わしている。この価格は、消費されて加算された多くの諸価値の総額にほかならない。とは言え、加算することは掛け算する事ではない」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、五九九ページ)。
 この結果は、それ自体としては奇異なものではない。一ポンドの糸の価値は一シリング六ペンスであり、したがってわが資本家は一〇ポンドの糸に対しては商品市場で一五シリングを支払わなければならないであろう。彼が自分の住宅を市場で建売りで買おうと、それを自分で建てさせようと、いずれの措置も、家の獲得に投じられた貨幣を増加させはしないであろう。
 俗流経済学に精通している資本家はおそらくこう言うであろう・・自分は自分の貨幣をより多くの貨幣にする意図を持って前貸ししたのである、と。とは言え、地獄への道は善意でしきつめられているのであって、彼は同じように、生産しないで金もうけをする意図を持つこともできたのである(14)。彼はこうするぞと言って脅す。二度とだまし打ちは食わないぞ。これからは自分で商品を製造する代わりに、市場でできあいの商品を買おう、と。しかし、もし彼の仲間の資本家たちがみな同じことをするならば、彼はどこの市場で商品を見いだすのであろうか? それに、彼は貨幣を食うことはできない。彼はこう説教し始める。自分の節欲を考えてもらいたい。自分は自分の一五シリングをむだ使いすることもできたのだ。そうはしないで、自分はそれを生産的に消費し、それによって糸をつくったのだ、と。しかし、その報酬として、彼は悔恨の代わりにまさに糸を持っている。彼は決して貨幣蓄蔵者の役割に逆戻りしてはならないのであって、禁欲の教えがどんな結果になるかは、貨幣蓄蔵者がわれわれに示してくれた。その上、何もないところでは皇帝(カイザー)もその権利を失っている。彼の禁欲の功績がどうであろうとも、過程から出てくる生産物の価値はそこに投入された諸商品価値の総額に等しいだけなのであるから、彼の禁欲に特別にむくいるための何物もそこにはない。したがって、彼は徳は徳の報酬であるということで甘んじるほかはない。そうはしないで、彼はしつこくなってくる。糸は、自分には無用である。自分はそれを売るために生産したのである、と。それならば彼はそれを売ればよいのだし、さもなければもっと簡単に、これからは彼自身の必要な物だけを生産すればよい。これは、すでに、彼のおかかえ医者マカロックが過剰生産という流行病に対する特効薬として、彼に書き与えた処方箋である。彼はなお執拗にも反抗してこう言う。労働者は自分自身の手足で何もないところに労働生産物を創造し、商品を生産することができようか?自分が労働者に材料を与えたのであって、労働者は、それによってのみ、またそれのうちにのみ、彼の労働を体現することができるのではないか?ところで、社会の圧倒的部分はそのような貧乏人からなっているのであるから、自分は自分の生産諸手段すなわち自分の綿花と自分の紡錘とによって、社会に対し、また自分が生活諸手段を供給した労働者そのものにもはかりしれないほど役に立っ2スではないか?それなのに、自分が役に立ったことを勘定にいれてはならないのか?と。しかし、労働者はそのお返しに彼の役に立つため、綿花と紡錘とを糸に転化したではないか? その上、ここで問題なのは役に立つことではない(15)。役に立つとは、商品のそれであれ、労働のそれであれ、ある使用価値の有用な働き以外の何物でもない(16)。しかし、ここで肝心なのは交換価値である。彼は労働者に三シリングの価値を支払った。労働者は彼に、綿花につけ加えられた三シリングの価値で正確な等価物を返した。価値に対して価値を返したのである。つい今まであれほど資本の尊大さを発揮していたわが友は、突然、彼自身の使用する一労働者の謙虚な態度をとる。自分はみずから労働したではないか?紡績工に対する監視、監督の労働を行なったではないか?この自分の労働もまた価値を形成するではないか?と。彼自身の使用する“監督”と支配人は肩をすくめる。しかし、そうこうするうちに、彼は、もう、快活な笑いと共に、もとの顔つきに帰ってしまった。彼は長たらしい繰り言でわれわれをへきえきさせたのである。彼はそのためにはびた一文も出しはしない。彼はこの種のつまらない言い抜けやそらぞらしいごまかしはこれを、そのために特に雇ってある経済学の教授たちに任せる。彼自身は実際家なのであって、たしかに、事業の外で言うことは必ずしもよく考えているわけではないが、事業のうちでする事はいつでも承知しているのである。
(14) こうしてたとえば、一八四四〜一八四七年に、資本家は、資本の〔一〕部分を生産的な事業から引き上げて、鉄道株の投機でそれを失った。また、アメリカの南北戦争の時代には、資本家は、リヴァプールの綿花取引所で投機をするために、工場を閉鎖し、工場労働者を街頭へ投げ出した。
(15) 「自慢したり、飾ったり、めかしたりするがよい。・・・・だが、だれであろうと」(与えるよりも)「より多くのものまたはより善きものを取る者はみな、高利貸しであって、それは、盗んだり奪い取ったりする場合と同様に、その隣人に奉仕〔Dienst〕ではなくて、害をなすことである。人が奉仕や善行と呼ぶものが、すべて隣人に対する奉仕や善行であるわけではない。というのは、姦夫姦婦でもたがいに大きな奉仕と喜びを与えあうのだから。盗賊騎士も、放火謀殺者に対して、それが追いはぎをし、国土と人民とを攻撃するのを助けてやるという、大きな強奪奉仕をする。教皇派の人々も、われわれに対して、全員を溺死させ焼き殺し惨殺し獄中で朽ち果てさせるのではなくて、若干の者については助命して、追放するかまたはその所有物を奪うだけだという、大きな奉仕をする。悪魔でさえ、自分のしもべに対しては、大きな計りしれない奉仕をする。・・・・要するに、世界は大きな優れた、日々の奉仕と善行に満ち満ちているのである」(マルティン・ルター『牧師諸氏に、高利に反対するように説く』、ヴィッテンベルク、一五四〇年〔八〜九ページ〕)。
(16) 私は、この点について『経済学批判』、特にその14ページで次のようにのべた〔『全集』、第13巻、23ページ〕。「人は、『役立つ』(service)というカテゴリーが、J・B・セーやF・バスティアのようなたぐいの経済学者たちにどのように『役立つ』べきかを、理解するであろう」と。

 もっとくわしく見ることにしよう。労働力の日価値は三シリングであった。なぜなら、労働力そのものに半労働日が対象化されているから、すなわち労働力の生産に日々必要な生活諸手段は半労働日を要するからである。しかし、労働力の中に潜んでいる過去の労働と、労働が遂行することのできる生きた労働とは、すなわち労働力の日々の維持費と労働力の日々の支出とは、二つのまったく異なる大きさである。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値を形成する。労働者を二四時間のあいだ生かしておくために半労働日が必要だということは、労働者がまる一日労働することを決してさまたげはしない。したがって、労働力の価値と、労働過程における労働力の価値増殖とは、二つの異なる大きさである。この価値の差は、資本家が労働力を買った時に念頭においていたものであった。糸または長靴をつくるという労働力の有用的属性は、価値を形成するには労働が有用的形態で支出されなければならないという理由からいって一つの“不可欠な条件 conditio sine pua non ”であったにすぎない。しかし、決定的なものは、価値の源泉であり、しかもそれ自身が持っているよりも多くの価値の源泉であるという、この商品の独特な使用価値であった。これこそは、資本家がこの商品から期待する独特な役立ち方なのである。そして、その場合、彼は商品交換の永遠の諸法則に従って行動する。事実、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同様に、それの交換価値を実現してそれの使用価値を譲渡する。彼は、後者を手放すことなしには、前者を受け取ることはできない。労働力の使用価値すなわち労働そのものがその売り手に属さないのは、売られた油の使用価値が油商人に属さないのとまったく同様である。貨幣所有者は労働力の日価値を支払った。したがって、一日のあいだの労働力の使用、一日にわたる労働は、彼に属する。労働力はまる一日作用し労働することができるにもかかわらず、労働力の日々の維持は半労働日しか要しないという事情、したがって、労働力の一日のあいだの使用が創造する価値がそれ自身の日価値の二倍の大きさであるという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、決して売り手に対する不当行為ではないのである。
 わが資本家には、彼に笑いをもたらすこのことはあらかじめわかっていたのである。したがって、労働者は、作業場において、六時間だけでなく、一二時間の労働過程のために必要な生産諸手段を見いだす。一〇ポンドの綿花が六労働時間を吸収して一〇ポンドの糸に転化したとすれば、二〇ポンドの綿花は一二労働時間を吸収して二〇ポンドの糸に転化するであろう。われわれはこの延長された労働過程の生産物を考察してみよう。二〇ポンドの糸には、今や五労働日が対象化されている。四労働日は消費された綿花および紡錘の量に対象化され、一労働日は紡績過程のあいだに綿花によって吸収されている。ところが、五労働日の金表現〔フランス語版、ロシア語版では、「貨幣表現」〕は三〇シリング、言いかえれば一ポンド・スターリング一〇シリングである。したがってこれが二〇ポンドの糸の価格である。一ポンドの糸はあい変わらず一シリング六ペンスの値である。しかし、この過程に投入された諸商品の価値総額は二七シリングであった。糸の価値は三〇シリングである。生産物の価値は、その生産のために前貸しされた価値よりも1/9だけ増大した。こうして二七シリングは三〇シリングに転化した。それは三シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化した。
 問題のすべての条件が解決されており、商品交換の法則は少しも損なわれてはいない。等価物同士が交換された。資本家は買い手として、それぞれの商品、すなわち綿花、紡錘量、労働力にその価値どおりに支払った。それから、彼は、商品の他の買い手がだれでも行なうことを、行なった。彼はそれらの商品の使用価値を消費したのである。労働力の消費過程は、同時に商品の生産過程であって、三〇シリングの価値を持つ二〇ポンドの糸という生産物を生みだした。資本家は市場に立ち戻ってきて、前には商品を買ったのであるが、今度は商品を売る。彼は一ポンドの糸をその価値よりびた一文も高くも低くもない一シリング六ペンスで売る。それでも、彼は、彼がはじめに流通に投げいれたよりも、三シリングだけ多くを流通から引き出す。この全経過すなわち彼の貨幣の資本への転化は、流通部面において行なわれるのであり、しかも流通部面において行なわれるのではない。流通の媒介によって行なわれる、というのは、商品市場における労働力の購買によって条件づけられているからである。流通において行なわれるのではない、というのは、流通は生産部面において起こる価値増殖過程を準備するだけだからである。こうして、“ありえる限りの最善の世界では、すべてが最善に仕組まれている tout pour le mieux dans le meilleur des mondes possibles ”のである。
 資本家は、新たな一生産物の素材形成者として、または労働過程の諸要因として、役立つ諸商品に貨幣を転化することによって、すなわち諸商品の死んだ対象性に生きた労働力を合体することによって、価値を、対象化された過去の死んだ労働を、資本に、自己を増殖する価値に、恋にもだえる身のように「働き」始める、命を吹きこまれた怪物に、転化させる。
 さて、価値形成過程と価値増殖過程とを比較してみると、価値増殖過程はある一定の点を超えて延長された価値形成過程にほかならない。もし後者が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填されるまで継続されるだけなら、それは単純な価値形成過程である。もしも価値形成過程がこの点を超えて継続されるならば、それは価値増殖過程となる。
 さらに、価値形成過程を労働過程と比較してみると、後者の本質は使用価値を生産する有用労働にある。ここでは、運動は、質的に、その特殊なやり方において、目的および内容の観点から、考察される。その同じ労働過程が、価値形成過程においてはその量的側面からのみ表われる。問題になるのは、今ではまさに、労働がその作業のために要する時間、すなわち労働力が有用的に支出される継続時間だけである。ここでは、労働過程に入りこむ諸商品もまた、目的にそって作用する労働力のための、機能的に規定された素材的諸要因としてはもはや意義を持たない。それらは、今ではもはや、一定量の対象化された労働として計算に入るだけである。生産諸手段に含まれていようと労働力によってつけ加えられようと、今ではもはや、労働はその時間尺度に従って計算に入るだけである。それは、何時間分、何日分などとなる。
 けれども、労働は、使用価値の生産に費やされた時間が社会的に必要である限りでのみ計算に入る。このことは次のさまざまなことを含んでいる。労働力は標準的諸条件のもとで機能しなければならない。もし紡績機械が紡績業にとって社会的に支配的な労働手段であるならば、労働者の手に紡ぎ車が与えられてはならない。労働者は標準的な品質の綿花の代わりに、切れてばかりいる屑綿を受け取ってはならない。このどちらの場合にも、彼は一ポンドの糸の生産に社会的に必要な労働時間よりも多くの時間を費やすであろうが、この余分な時間は価値または貨幣を形成しないであろう。けれども、対象的な労働諸要因が標準的性格のものであるかどうかは、労働者にではなく資本家に依存する。もう一つの条件は労働力そのものの標準的性格である。労働力が使用される部門においてそれは一般的な平均程度の熟練、技能および敏速さを持っていなければならない。しかし、わが資本家は労働市場で標準的な品質の労働力を買った。この力は、普通の平均程度の緊張でもって、社会的に通例の強度で支出されなければならない。資本家はこのことについて、細心に監視するのであるが、それと同じ細心さで、労働しないで時間が浪費されないように監視する。彼は労働力を一定期間にわたって買ったのである。彼は自分のものをなくさないように気をつける。彼は盗まれたくないのである。最後に・・この点については、この御仁は独自の“刑法典 code penal ”を持っている・・原料および労働諸手段が、目的に反して消費されてはならない。なぜなら、浪費された材料または労働手段は、対象化された労働の余分に支出された量を表わしており、したがって計算に入らず、価値形成の生産物には入りこまないからである(17)。
(17) これは、奴隷制に基づく生産を高度なものにする事情の一つである。労働者は、ここでは、古典古代人の適切な表現に従えば、“ものを言う道具”としてのみ、“なかばものを言う道具”としての動物および“ものを言わない道具”としての死んだ労働用具から区別されうる。しかし、労働者自身は、動物と労働道具に、自分はそれらと同類なのではなく、人間なのだということを思い知らせる。彼は、それらを虐待し、損壊しながら“喜ぶ con amore ”ことによって、それらと自分との区別についての自尊心を得るのである。それゆえ、この生産様式においては、最も粗雑で最も鈍重な、だがまさにそのどうしようもない無骨さのゆえに壊れにくい労働用具のみを使用することが、経済原則として通用する。したがって、南北戦争の勃発まではメキシコ湾沿岸の奴隷制諸州において、古代中国的構造の犂(スキ)が見られた。この犂はイノシシやモグラのように耕地を堀りはするが、畦をつくったり耕地をすき返したりはしないものであった。J・E・ケアンズ『奴隷力』、ロンドン、一八六二年、四六ページ以下、参照。オムステドは、彼の『沿岸奴隷制諸州』〔ニューヨーク、一八五六年、四六〜四七ページ〕において、とりわけ、次のようにのべている・・「私は、ここで、われわれのところでは、分別のある人間なら、自分が賃金を支払っている労働者をそれでもって苦しめることはないであろうような諸道具を見せられた。それらの道具の非常な重さと無骨さは、私の見解では、われわれのところで普通用いられている道具を使うよりも、少なくとも一〇%は労働を困難にするに違いない。けれども、私が確信するところでは、それらの道具が奴隷によって不注意で粗野なやり方で使用されているように思われるので、もっと軽いかもっと不細工でない道具を奴隷に当てがっても、よい結果を得ることは不可能であろうし、またわれわれがいつもわが労働者たちに当てがってしかも相当な利得をあげているような道具は、ヴァージニアのトウモロコシ畑では・・その土はわれわれのところの土よりも軽くて石が少ないにもかかわらず・・一日も持たないであろう。それにまた、農場においてはなぜこれほど一般的に馬の代わりにラバが用いられているのかという私の質問にたいして、第一の、そして明らかに最も決定的な理由としてあげられたことは、馬は黒人たちからたえず強制的に受けなくてはならないような取りあつかいには耐えられないということであった。馬は黒人たちによってすぐにびっこにされたり、ぶたれてかたわにされたりするが、ラバは棍棒でぶたれたり、時には一、二回餌をあてがわれなくても、辛抱して体をいためることもない。ラバは、放っておかれたり、働かされすぎたりした時にも、風邪をひいたり、病気になったりはしない。しかし、私が書き物をしているこの部屋の窓のところまで行きさえすれば、ほとんどいつでも、北部の農業者ならだれでも即座に家畜係を解雇するような、家畜の取りあつかいが見られるのである」。

 こうしてわかるように、以前に商品の分析から得られた、使用価値を創造する限りでの労働と、価値を創造する限りでの同じ労働とのあいだの区別は、今や、生産過程の異なる二側面の区別として表われた。
 労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である・・労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程、商品生産の資本主義的形態である。
 前にのべたように、資本家によって取得される労働が単純な社会的平均労働であるか、それとも、より複雑な労働、より高い特別な比重を持つ労働であるかは、価値増殖過程にとってはまったくどうでもよいことである。社会的平均労働にくらべてより高度な、より複雑な労働として意義をもつ労働は、単純な労働力とくらべて、より高い養成費がかかり、その生産により多くの労働時間を要し、したがってより高い価値を持つ労働力の発揮である。もし労働力の価値がより高いならば、それゆえにこそこの労働力はより高度な労働においてみずからを発揮し、それゆえに同じ時間内で比較的高い価値に対象化される。けれども、紡績労働と宝石細工労働とのあいだの等級上の区別がどうであろうとも、宝石細工労働者が彼自身の労働力の価値を補填するにすぎない労働部分は、彼が剰余価値を創造する追加的労働部分と質的には決して区別されない。あい変わらず剰余価値は、ただ労働の量的な超過によってのみ、同じ労働過程の、すなわち一方の場合には糸生産の過程の、他方の場合には宝石生産の過程の、時間的延長によってのみ生じてくるのである(18)。
(18) 高度な労働と単純な労働、「“熟練 skilled ”」と「“非熟練労働 unskilled labour ”」とのあいだの区別は、一部分は単なる幻想に基づくか、または少なくとも、実在することをとうにやめてしまって今や伝統的慣行において残存しているにすぎない区別に基づいており、また一部分は、労働者階級のある階層がよりいっそう孤立無援な状態にあり、そのため、これらの階層が自分たちの労働力の価値を闘いとる力を他の階層よりも弱めている、ということに基づいている。この区別にあっては、偶然的な事情が大きな役割を演じるのであって、同じ労働種類が地位を替える場合があるほどである。たとえば、資本主義的生産の発展したすべての国におけるように、労働者階級の体質が弱められ、より消耗させられているところでは概して、多くの筋力を必要とする粗野な労働が、はるかに精妙な労働と地位を替えて高度な労働に逆転し、精妙な労働が単純労働の低級に転落するのである。たとえば、イングランドでは、レンガ積み工の労働はダマスク織り織物工の労働よりはるかに高い等級を占めている。他面、ファスチャン綿布剪裁工の労働は、多くの肉体的緊張を要し、その上非常に非衛生的であるにもかかわらず、「単純」労働となっている。ともかく、いわゆる「“熟練労働”」が国民の労働の中で量的に大きな範囲を占めているものと思いこんではならない。ラングは、イングランド(およびウェールズ)では、一一〇〇万人以上の生存が単純労働に基づいていると見積っている。彼の著述当時の人口一八〇〇万人〔フランス語第1版では一七〇〇万人〕から、貴族の一〇〇万人と、受救貧民、浮浪者、犯罪者、売春婦などの一五〇万人〔第1版から3版までとフランス語版では一〇〇万人〕とを差し引くと、小金利生活者、官吏、著述家、芸術家、学校教師などを含む四六五万人の中間階級が残る。この四六五万人を取り出すために、彼は、銀行家などのほかに、すべての比較的高給な「工場労働者」を中間階級の勤労部分にいれている! レンガ積み工も「高級な労働者」からもれてはいない。こうして、彼のもとには前述の一一〇〇万人が残るのである。(S・ラング『国民的困窮』、ロンドン、一八四四年)。「食物を得るために普通の労働のほかには何も与えるものを持っていない大きな階級が人民の大多数である」(ジェームズ・ミル執筆「植民地」の項目、『大英百科辞典補遺』、一八三一年)。

 他方では、どの価値形成過程においても、より高度な労働は、つねに、社会的平均労働に還元されなければならない。たとえば、一日のより高度な労働はx日の単純労働に還元されなければならない(19)。したがって、資本によって使用される労働者は単純な社会的平均労働を行なうと仮定することによって、余計な操作がはぶかれ、分析が単純化される。
(19) 「価値の尺度としての労働についてのべられる場合には、それは必然的にある特定の種類の労働を意味する。・・・・他の種類の諸労働がその労働に対して持つ比率は容易にたしかめられる」(〔J・キャザノウヴ〕『経済学概論』、ロンドン、一八三二年、二二、二三ページ)。


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