第6章 不変資本と可変資本

労働過程のさまざまな諸要因は、生産物価値の形成にさまざまな関与を行なう。

労働者は、彼の労働の一定の内容、目的、および技術的性格がどのようなものであれ、一定量の労働をつけ加えることによって、労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは、消耗された生産諸手段の価値を、生産物価値の構成諸部分として、たとえば綿花と紡錘との価値を糸価値の中に、ふたたび見いだす。したがって、生産諸手段の価値は、それが生産物に移転することによって維持される。この移転は、生産諸手段の生産物への転化のあいだに、労働過程中に、行なわれる。それは労働によって媒介されている。では、どのように行なわれるのか?

労働者は同じ時間内に二重に労働するのではない。すなわち、一つには彼の労働によって綿花にある価値をつけ加えるために、もう一つには綿花の旧価値を維持するために・・あるいは同じことであるが、彼が加工する綿花の価値と彼が労働するのに用いる紡錘の価値とを、生産物すなわち糸に移転するために・・労働するのではない。むしろ、単に新価値をつけ加えることによって、労働者は旧価値を維持するのである。しかし、労働対象に対する新価値のつけ加えと生産物における旧価値の維持とは、労働者が同じ時間内に一度しか労働しないのにその同じ時間内に生みだす二つのまったく相異なる諸結果なのであるから、結果のこの二面性は、明らかに彼の労働そのものの二面性からのみ説明できる。同じ時点において、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を維持または移転しなければならない。

それぞれの労働者は、どのようにして労働時間を、したがって価値を、つけ加えるのか? それはつねに彼特有の生産的労働様式の形態でのみ行なわれる。紡績工は紡ぐことによってのみ、織物工は織ることによってのみ、鍛冶工は鍛造することによってのみ労働時間をつけ加える。しかし、彼らが労働一般、したがって新価値をつけ加える際の目的に即した形態によって、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することによって、生産諸手段である綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄敷(カナシキ)は、一生産物の、新たな一使用価値の、形成諸要素となる(20)。生産諸手段の使用価値のもとの形態は消えうせるが、しかし使用価値の新たな一形態で出現するためにのみ消えうせる。ところが、価値形成過程の考察の際に明らかになったように、一使用価値が新たな一使用価値の生産のため、その目的に即して消耗される限りでは、消耗された使用価値の生産のために必要な労働時間は、新たな使用価値の生産のために必要な労働時間の一部分をなすのであり、したがってそれは、消耗された生産手段から新生産物に移転される労働時間なのである。したがって労働者が消耗された生産諸手段の価値を維持するのは、すなわちそれらの価値を価値構成部分として生産物に移転するのは、労働一般をつけ加えることによってではなく、この付加的労働の特殊な有用的性格によって、それの特有な生産的形態によってである。このような目的に即した生産活動としては、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することとしては、労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹きこんで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となるのである。

(20) 「労働者は、消滅した創造物の代わりに新たな創造物を与える」(『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、一八二一年、一三ページ)。

労働者の特有な生産的労働がもし紡ぐことでないなら、彼は綿花を糸には転化しないであろうし、したがって綿花と紡錘との価値を糸に移転しもしないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になるとしても、彼はあい変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。したがって労働者が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働または指物労働である限りにおいてではなく、それが抽象的社会的な労働一般である限りにおいてであり、また彼が一定の大きさの価値をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容を持つからではなく、それが一定の時間続けられるからである。したがって紡績工の労働は、その抽象的一般的属性においては、すなわち人間労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的な、特殊な、有用な属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する。そこから、同じ時点における労働の結果の二面性が生じる。

労働の単なる量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産諸手段の旧価値が生産物において維持される。労働の二面的性格の結果として生じる同じ労働のこの二面的作用は、さまざまな現象において手に取るように示される。

何らかの発明によって、紡績工が以前は三六時間で紡ぐことができたのと同じだけの綿花を六時間で紡ぐことができるようになったと仮定しよう。合目的的で有用で生産的な活動としては、彼の労働はその力を六倍にした。その生産物は六倍の糸であり、六ポンドではなく、三六ポンドの糸である。しかし、三六ポンドの綿花は、今や、以前に六ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間を吸収するにすぎない。六ポンドの綿花には、旧方法をもってするのにくらべて六分の一の新たな労働がつけ加えられ、したがって今では、以前の価値の六分の一がつけ加えられるだけである。他方、今や、六倍の綿花の価値が、生産物すなわち三六ポンドの糸のうちに存在する。六紡績時間のうちに、六倍の原料の価値が維持され、生産物に移転される。もっとも同じ原料に六分の一の新価値がつけ加えられるのであるが。このことは、同じ不可分の過程中に価値を維持すると言う労働の属性が、価値を創造すると言う労働の属性といかに本質的に相違するものであるかを示す。紡績作業中に同じ量の綿花に費やされる必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、しかし、同じ労働時間内に紡がれる綿花のポンドが多ければ多いほど、生産物において維持される旧価値はそれだけ大きい。

その反対に、紡績労働の生産性が不変のままであり、したがって紡績工は、一ポンドの綿花を糸に転化するためにあい変わらず前と同じだけの労働時間を必要とすると仮定しよう。しかし、綿花そのものの交換価値が変動し、一ポンドの綿花の価格が六倍に騰貴するか、または六分の一に下落するとしよう。どちらの場合にも、紡績工は引き続き同じ量の綿花に同じ労働時間、したがって同じ価値をつけ加え、どちらの場合にも、彼は同じ時間内に同じ量の糸を生産する。それにもかかわらず、紡績工が綿花から糸すなわち生産物に移転する価値は、一方の場合には以前の六倍であり、他方の場合には六分の一である。労働諸手段が高価になったり廉価になったりしても労働過程においてつねに同じように役に立つ場合にも、右と同じである。

紡績過程の技術的諸条件が不変のままであり、またその生産諸手段についても何ら価値変動が生じないならば、紡績工は、前と変わらぬ価値を持つ同じ量の原料と機械設備を、同じ労働時間でこれまでどおり消費する。この場合には、彼が生産物において維持する価値は、彼がつけ加える新価値に正比例する。彼は、二週間で一週間の二倍の労働、したがって二倍の価値をつけ加え、それと同時に二倍の価値を持つ二倍の原料を消耗し、また二倍の価値を持つ二倍の機械設備を摩滅させ、したがって二週間の生産物に、一週間の生産物の二倍の価値を維持する。前と変わらぬ与えられた生産諸条件のもとでは、労働者はより多くの価値を維持するのは、彼がより多くの価値をつけ加えるからではなく、前と変わらぬ、そして彼自身の労働に左右されない諸条件のもとで価値をつけ加えるからである。

もちろん、相対的な意味では、労働者はつねに新価値をつけ加えるのと同じ比率で旧価値を維持すると言うことができる。たとえ綿花が一シリングから二シリングに騰貴するか、または六ペンスに下落するかしても、労働者が一時間の生産物において維持する綿花価値は、その価値がいかに変動しようとも、つねに二時間の生産物において維持する価値の半分でしかない。さらに、彼自身の労働の生産性が変動し、それが上昇するかまたは低下するならば、彼はたとえば一労働時間に以前よりもより多くの、またはより少ない綿花を紡ぎ、それに対応して、より多くの、またはより少ない綿花価値を一労働時間の生産物において維持するであろう。それにもかかわらず、労働者は二労働時間では一労働時間の二倍の価値を維持するであろう。

価値は、価値章標における単なる象徴的な表現を別にすれば、一つの使用価値、一つの物の中にのみ存在する。(人間そのものも、労働力の単なる定在として考察すれば一つの自然対象であり、たとえ生きた自己意識を持った物であるとしても、一つの物なのであって、労働そのものはこの労働力の物的発揮である。)それゆえ、使用価値がなくなれば、価値もまたなくなる。生産諸手段は、それの使用価値と同時にその価値を失いはしない。なぜなら、生産諸手段が労働過程を通してその使用価値の最初の姿態を失うのは、実のところ、生産物において別なある使用価値の姿態を獲得するためでしかないからである。しかし、価値にとっては何らかの使用価値のうちに存在するということがいかに重要であるとしても、商品の変態が示すように、どのような使用価値のうちに存在するかということはどうでもよいことである。以上のことから結論されるのは、労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、生産手段がその独立の使用価値と共に、その交換価値をも失う限りだということである。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す。しかし、労働過程の対象的諸要因は、この点について、それぞれ異なった事情にある。

機関を熱する石炭は、車軸に塗る油などとも同様に、跡形もなく消滅する。染料その他の補助材料は消滅するが、しかし生産物の属性のうちに現われる。原料は生産物の実体を形成するが、しかしその形態を変える。すなわち原料と補助材料は、それらが使用価値として労働過程に入りこんだ時の自立した姿態を失う。本来の労働諸手段の場合は、違っている。用具、機械、工場の建物、容器などは、それらが最初の姿態を保持し、きのうとまったく同じ形態であすもふたたび労働過程に入りこむ限りにおいてのみ、労働過程で役に立つ。それらは、その存命中に、すなわち労働過程中に、生産物に対立してその自立した姿態を保持するように、その死後にもやはりそうする。機械、道具、作業用建物などの遺骸は、それらの助けでつくられた諸生産物とはあい変わらず別個に存在する。今、このような一労働手段が役だっている全期間、すなわちそれが仕事場に入りこんだ日からそれが廃物置き場に追放される日までを考察すると、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費しつくされ、したがってそれの交換価値は完全に生産物に移行したのである。ある紡績機械がたとえば一〇年で寿命が尽きたとすれば、それの総価値は、この一〇年間の労働過程のあいだに一〇年間の生産物に移行したのである。したがって、一労働手段の存命期間は、それを用いてたえず新たにくり返される多数または小数の労働過程を含んでいる。そして労働手段の場合も事態は人間と同じである。どの人間も毎日二四時間だけ死んでいく。しかし、どの人間を見ても、彼がすでに何日死んでいるかは正確にはわからない。それでも、このことは、生命保険会社が人間の平均寿命から、きわめて確実な、その上はるかに重要なことであるが、きわめてもうけの多い結論を引き出すことをさまたげはしない。労働手段についてもそうである。ある労働手段、たとえばある種類の機械が平均してどれだけ長持ちするかは経験から知られている。それの使用価値が、労働過程において六日しか持ちこたえないと仮定しよう。そうすれば、この機械は平均して一労働日にその使用価値の六分の一を失い、したがってその価値の六分の一を日々の生産物に引き渡す。すべての労働諸手段の摩滅、したがってたとえば労働諸手段の日々の使用価値の喪失と、それに対応する日々の生産物へのそれらの価値の引き渡しは、こういうやり方で計算される。

このようにして、生産手段は、それが労働過程においてそれ自身の使用価値の破壊によって失う価値以上の価値を生産物に引き渡すことは決してないということが、はっきりわかる。もし生産手段が失うべき価値を持っていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それは何の価値も生産物に引き渡さないであろう。それは、交換価値の形成者として役立つことがなく、使用価値の形成者として役立つであろう。したがって、人間の関与なしに天然に現存するすべての生産諸手段の場合、大地、風、水、鉱脈内の鉄、原生林の木材等の場合がこれである。

ここでわれわれは、もう一つの興味ある現象に出会う。ある機械がたとえば一〇〇〇ポンド・スターリングの価値を持ち、一〇〇〇日で摩滅するとしよう。この場合には、機械の価値の一〇〇〇分の一が、日々、機械そのものからそれの日々の生産物に移行する。生命力がしだいに失われるけれども、機械総体は労働過程において不断に作用し続ける。したがって、労働過程の一要因である生産手段は、労働過程へは全体として入りこむが、価値増殖過程へは部分的に入りこむだけだということがわかる。ここでは、労働過程と価値増殖過程との区別は、同じ生産手段が同じ生産過程において、労働過程の要素としては全体として計算に入り、価値形成の要素としては一部分ずつ計算に入るにすぎないということによって、それらの過程の対象的諸要因に反映する(21)。

(21) ここでは、労働諸手段すなわち機械、建物等の修理のことは問題にならない。修理される機械は、労働手段としてではなく労働材料として機能する。それを用いて労働が行なわれるのではなく、その使用価値を補修するためにそれ自身が加工されるのである。われわれの目的にとっては、このような修理労働は、その労働手段の生産に必要な労働の中につねに含められていると考えることができる。本文で問題となっているのは、どんな医者でも治療することができない、徐々に死を招く摩滅であり、「時々修復することができず、たとえばナイフで言えば、結局刃物師が、これはもはや新しい刃にとぎ直す値うちもないという状態にいたらせるような種類の損耗である」。本文でのべたように、たとえば機械は、どの個々の労働過程にも全体として入りこむが、同時的に行なわれる価値増殖過程には一部分ずつ入りこむだけである。次のような概念混同は、このことから判断することができる。「リカード氏は、靴下製造機を製造する機械工の労働の一部分」が、たとえば一足の靴下の価値の中に含まれていると言う。「とはいえ、各一足の靴下を生産した総労働は・・・・機械工の労働全部を含むのであって、その一部分だけを含むのではない。と言うのは、たしかに一台の機械は何足もの靴下をつくるのであるが、しかしそのどの一足も、その機械のどれかの部分が欠けてはつくることができなかったであろうから」(『経済学におけるある種の用語論争に関する諸考察。特に価値および需要供給に関連して』、ロンドン、一八二一年、五四ページ)。なみはずれて自己満足の強い「“知ったかぶり屋 wiseacre ”」であるこの著者の混乱と、したがって彼の論難とは、リカードも、彼の前後のどんな経済学者も、労働の二側面を厳密に区別せず、それゆえ価値形成におけるそれらの側面の相異なる役割などなおさら分析しなかったという限りでのみ、もっともである。

他方、その反対に、ある生産手段は、部分的に労働過程に入りこむだけであるにもかかわらず、価値増殖過程には全体として入りこむことがありえる。綿花を紡いで糸にする際に、毎日一一五ポンドにつき一五ポンドが屑になって糸にはならず、“裂断屑 devil's dust ”にしかならないと仮定しよう。それでも、この一五ポンドの屑が標準的であり、綿花の平均加工と不可分のものであれば、糸の要素を何ら形成しないこの一五ポンドの綿花の価値は、糸の実体を形成する一〇〇ポンドの綿花の価値とまったく同様に、糸価値の中に入りこむ。一五ポンドの綿花の使用価値が、一〇〇ポンドの糸をつくるためには、一五ポンドの綿花の使用価値が塵(チリ)にならざるをえない。したがってこの綿花の消滅は、糸の一つの生産条件である。そうであるからこそ、この綿花はその価値を糸に引き渡すのである。こうしたことは労働過程のすべての排泄物について当てはまる・・少なくともこれらの排泄物がふたたび新たな生産諸手段を形成せず、したがって新たな独立した使用諸価値を形成しない限りにおいてのことであるが。そのようにして、マンチェスターの大機械制作工場では、巨大な機械によってかんな屑のように削り取られた山のような鉄屑が見られるのであって、これらの鉄屑は、夕方になると大きな車で工場から製鉄所に移され、後日ふたたび鉄塊として製鉄所から工場に戻されるのである。

生産諸手段は、それらが労働過程中にそれらのもとの使用価値の姿態で存在した価値を失う限りにおいてのみ、生産物の新たな姿態に価値を移転する。生産諸手段が労働過程でこうむることがありえる価値喪失の最大限は、明らかに、それらが労働過程に入る時に持っていた最初の価値の大きさによって、すなわちそれら自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。それゆえ生産諸手段は、それらが役立つ労働過程とはかかわりなく持っている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは決してできない。ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であろうと、それに一五〇ポンド・スターリングたとえば五〇〇労働日を費やすならば、それが、役だって形成される総生産物に対して、一五〇ポンド・スターリング以上のものをつけ加えることは決してない。それの価値は、それが生産手段としてそこに入りこむ労働過程によってではなく、それが生産物としてそこから出てくる労働過程によって規定されている。労働過程においては、それは、使用価値としてのみ、有用な属性を持つ物としてのみ役立つのであり、したがって、もしそれがこの過程に入る前に価値を持っていないとしたら、それは生産物に何らの価値も引き渡しはしないであろう(22)。

(22) この点から、まぬけなJ・B・セーの愚かさが把握される・・すなわち彼は剰余価値(利子、利潤、地代)を、生産諸手段すなわち大地、用具、革などがそれらの使用価値によって労働過程で「“生産的に役立つこと services productifs ”」から導き出そうとするのである。如才ない弁護論的思いつきを書き物にすることをなかなかやめないヴィルヘルム・ロッシャー氏は、次のように叫ぶ・・「J・B・セーが『概論』第一巻第四章で、搾油所によってすべての費用の控除後に生みだされた価値は、実のところ、搾油所そのものをつくりだした労働とは本質的に異なる新しいあるものである、とのべているのはきわめて正しい」(『国民経済学原理』、第三版、一八五八年、八二ページ注)。きわめて正しい! 搾油所によって生みだされた「油」は、搾油所の建設に費やされる労働とはきわめて異なったものである。そしてロッシャー氏は、「価値」とは、「油」が価値を持つのだから「油」のような代物だと解しているのであるが、しかし石油は、相対的には「きわめて多く」ではないとはいえ「自然の中に」存在するのであって、この点について、おそらく彼の別な言葉は指摘しているのであろう。「それ」(自然!)「は、交換価値をほとんどまったく生みださない」〔同前、七九ページ〕と。ロッシャー氏の自然と交換価値との関係は、愚かな未婚の娘と、「とても小さいもの」でしかなかった赤ん坊との関係と同じようなものである。この同じ「学者」(“良心的な学者 savant serieux ”)は、上述の際になお次のように言う・・「リカード学派は、資本をも『貯蓄された労働』として、労働という概念のもとに包括するのが常である。これは不器用(!)である。というのは(!)、何しろ(!)実に(!)資本所有者は(!)、それの(何の?)単なる(?!)産出(?)および(??)維持よりも多くのこと(!)をしたのだから。すなわち、まさに(?!?)自分の享受を抑制したのであり、それに対して彼は、たとえば(!!!)利子を要求するのである」(同前〔八二ページ〕)。単なる「要求」から、何しろ、実に、まさに、「価値」を展開する経済学のこの「解剖学的生理学的方法」の何と「器用」なことか!

生産的労働が生産諸手段を新たな一生産物の形成諸要素に転化することによって、生産諸手段の価値に一つの輪廻が生じる。生産諸手段の価値は、消耗された肉体から、新たな姿態に形づくられた肉体へ移行する。しかしこの輪廻は、いわば現実的労働の背後で起こる。労働者は、もとの価値を維持することなしには新たな労働をつけ加えることはできず、したがって新たな価値を創造することはできない。というのは、彼はつねに一定の有用的形態で労働をつけ加えなければならないのであり、しかも諸生産物を新たな一生産物の生産諸手段にし、そうすることによってそれらの生産物の価値を新たなその生産物に移転することなくしては、有用的形態で労働をつけ加えることはできないからである。したがって、価値をつけ加えることによって価値を維持するということは、自己を発現している労働力すなわち生きた労働の天性というべきものである。この天性は、労働者には何の費用もかからないが、資本家には現存資本価値の維持という多大の利益をもたらす天性なのである(22a)。景気がよい限りは、資本家は金もうけに没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物には気がつかない。労働過程の暴力的中断すなわち恐慌は、彼にこのことを痛切に感じさせる(23)。

(22a) 「農業上のあらゆる用具のうちで、人間の労働・・・・こそは、農場経営者が彼の資本の回収のために最も頼りにしているものである。あとの二つ・・役蓄および・・・・荷車、犂、鋤など・・は、人間の労働の一定量がなければまったく役に立たない」(エドマンド・バーク『食糧不足に関する意見と実情、もと一七九五年一一月にW・ピット閣下にささげられたもの』、ロンドン、一八〇〇年版、一〇ページ〔永井義雄訳『穀物不足に関する思索と詳論』、『世界大思想全集』社会・宗教・科学思想篇、第一一巻、河出書房新社、二五一ページ〕)。

(23) 一八六二年一一月二六日付の『タイムズ』紙上で、八〇〇人の労働者を使用し、毎週一五〇梱(コリ)の東インド綿花または約一三〇梱のアメリカ綿花を消費する紡績工場の持ち主である一工場主が、彼の工場の年々の操業中断費のことを読者に嘆き訴えている。彼はそれを六〇〇〇ポンド・スターリングと見積っている。この失費の中には、地代、租税、保険料や、一年契約の労働者、支配人、簿記係、技師などの給料のような、今の場合われわれとは関係のない多くの費目がある。それから彼は、工場を時々暖め、蒸気機関を時おり運転するための石炭代を一五〇ポンド・スターリングと計算し、そのほかに時おりの労働によって機械設備を「いつでも動かせる状態」に保っておく労働者の賃金をも計算する。最後に、機械設備の損傷を一二〇〇ポンド・スターリングと計算する。なぜなら、「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめるからといってその作用を停止しはしない」からである。彼は、この一二〇〇ポンド・スターリングという額は、機械設備がすでにひどく消耗しきった状態にあるがゆえに、非常に少なく見積られていると断言している。

一般に生産諸手段において消耗されるのはそれらの使用価値であり、この使用価値の消費によって労働は生産物を形成する。生産諸手段の価値は、実際には、消費されず(24)、したがってまた再生産されえない。それらの価値は維持されるのであるが、しかし、労働過程において価値そのものにある操作が加えられるから維持されるのではなく、もともと自己のうちに価値を存在させている使用価値が、たしかに消滅するからこそ、とはいっても消滅して他の使用価値になるにすぎないからこそ、維持されるのである。それゆえ、生産諸手段の価値は生産物の価値の中に再現するのであるが、しかし厳密に言えば、それは再生産されるのではない。生産されるのは、新たな使用価値であり、その中で旧交換価値が再現するのである(25)。

(24) 「生産的消費・・・・そこでは、商品の消費は生産過程の一部分である。・・・・この場合には価値の消費は起こらない」(S・P・ニューマン『経済学要綱』、二九六ページ)。

(25) おそらく二〇版は重ねた北アメリカのある概説書には、次のように書かれている・・「どのような形態で資本が再現するかということは重要ではない」と。その価値が生産物に再現するありとあらゆる生産成分をだらだらと数え上げたあげく、最後に次のように言う・・「人間の生存および安楽のために必要なさまざまな種類の食料、衣料、住宅もやはり変化させられる。それらは時々消費され、それらの価値は、人間の心身に授けられる新たな活力の中に再現し、ふたたび生産の仕事に用いられる新たな資本を形成する」(F・ウェイランド『経済学要綱』、三一、三二ページ)。他のすべての奇妙な点は別としても、たとえば更新された活力の中に再現するのは、パンの価格ではなく、血液を形成するパンの実体である。これに反して、この活力の価値として再現するものは、生活諸手段ではなく生活諸手段の価値である。同一の生活諸手段は、それらが半分の費用しかかからない場合にも、まったく同じだけの筋肉や骨格などを、要するに同一の活力を生産するが、しかし同じ価値を持つ活力を生産するのではない。「価値」の「活力」へのこの置き換えと、パリサイ人的なあいまいさの全体とは、前貸しされた価値の単なる再現から剰余価値をひねり出そうとする、いずれにしてもむだな試みを隠し持っているのである。

労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合は、事情が違う。労働は、その合目的的な形態によって生産諸手段の価値を生産物に移転し維持するあいだに、その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新価値を形成する。労働者が彼自身の労働力の価値との等価物を生産した点、たとえば六時間の労働によって三シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断すると仮定しよう。この価値は、生産物価値のうち、生産諸手段の価値に帰せられる構成部分を超える超過分を形成する。この価値は、この過程の内部で生じた唯一の本来の価値であり、生産物価値のうちこの過程そのものによって生産されている唯一の部分である。たしかにこの価値は、資本家によって労働力の購買に際して前貸しされ、労働者自身によって生活諸手段に支出された貨幣を補填するものでしかない。支出された三シリングとの関係で見ると、三シリングの新価値は再生産としてのみ現われる。しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている。

けれども、すでにのべたように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価物が再生産され、労働対象につけ加えられる点を超えて続行される。この等価物のために十分である六時間ではなく、この過程はたとえば一二時間続けられる。したがって、労働力の発現により、それ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される。この剰余価値は、生産物価値のうち、消耗された生産物形成者・・すなわち生産諸手段および労働力・・の価値を超える超過分をなす。

われわれは、労働過程のさまざまな諸要因が生産物価値の形成において演じるさまざまな価値を叙述することによって、実際には、資本それ自身の価値増殖過程における、資本のさまざまな構成諸部分の機能を特徴づけた。生産物の総価値のうち、それの形成諸要素の価値総額を超える超過分は、価値増殖した資本が最初に前貸しされた資本価値を超える超過分である。一方における生産諸手段と他方における労働力とは、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて、労働過程の諸要因に転化する際にとったさまざまな存在諸形態にすぎない。

したがって、資本のうち、生産諸手段すなわち原料、補助材料、および労働手段に転換される部分は、生産過程でその価値の大きさを変えない。したがって私は、これを不変資本部分、または単純に不変資本と名づける。

これに反して、資本のうち、労働力に転化される部分は、生産過程でその価値を変じる。この部分は、それ自身の等価物と、これを超えるある超過分である剰余価値とを再生産するのであり、この剰余価値はそれ自身変動しえるのであって、より大きいこともより小さいこともありえる。資本のこの部分は、一つの不変量からたえず一つの可変量に転化する。したがって私は、これを可変資本部分、または単純に可変資本と名づける。労働過程の立場からは客体的要因および主体的要因として、生産諸手段および労働力として、区別される同じ資本構成諸部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本および可変資本として区別される。

不変資本という概念は、それの構成諸部分の価値革命を決して排除するものではない。一ポンドの綿花が、きょうは六ペンスに値するが、綿花収穫の不作の結果、あすは一シリングに騰貴すると仮定しよう。引き続き加工されるべきもとの綿花は六ペンスの価値で買われたが、今や生産物に一シリングの価値部分をつけ加える。そして、すでに紡がれた、おそらくもう糸として市場に流通しているであろう綿花もやはり、生産物にその最初の価値の二倍をつけ加える。けれども、これらの価値変動が、紡績過程そのものにおける綿花の価値増殖とはかかわりがないということは明らかである。もとの綿花がまだ労働過程にまったく入りこんでいないならば、それは今や六ペンスでではなく一シリングで転売されうるであろう。それとは逆に、労働過程に入りこんでいる場合には、それが今しがた通過した労働過程の数が少なければ少ないほど、それだけこの結果が確実となる。それゆえ、このような価値革命に際しては、加工されることのもっとも少ない形態にある原料に投機すること、したがって、織物よりはむしろ糸に、また糸よりはむしろ綿花そのものに投機することが、投機の法則なのである。この場合には、価値変化は、綿花を生産する過程において生じるのであって、綿花が生産手段として、したがって不変資本として機能する過程において生じるのではない。一商品の価値は、たしかにその中に含まれている労働の量によって規定されているのであるが、しかしこの量そのものは社会的に規定されている。その商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば・・そして、たとえば同じ量の綿花でも、不作の時は豊作の時よりもより多くの量の労働を表わす・・、もとの商品への反作用が生じるのであって、その商品はいつでもその類の個別的見本として通用するにすぎないのであり(26)、その価値は、つねに社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な、労働によってはかられる。

(26) 「同じ種類のすべての生産物は、本来、一つの総量をなすにすぎず、その価格は、一般的に、かつ特殊な諸事情にはかかわりなく、規定される」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九三ページ)。

原料の価値と同じように、すでに生産過程で役だっている労働諸手段、すなわち機械設備などの価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがありえる。たとえば新たな発明の結果、同じ種類の機械設備が労働のより少ない支出でもって再生産されるならば、もとの機械設備は大かれ少なかれ減価し、したがってまた、それに比例してより少ない価値を生産物に移転する。しかし、この場合もまた、価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外部で生じる。この過程内では、その機械は、それがこの過程とはかかわりなく持っている価値よりも多くの価値を引き渡すことは決してない。

生産諸手段の価値における変動は、たとえ生産諸手段がすでに過程に入ったのちに反作用的に生じたものであっても、不変資本としてのそれらの性格を変えないのであるが、それとまったく同様に、不変資本と可変資本との比率における変動も、それらの資本の機能上の区別には少しも影響しない。たとえば、労働過程の技術的諸条件が改革され、その結果、以前は一〇人の労働者がより価値の少ない一〇個の道具を用いて比較的小量の原料を加工していた所で、今や、一人の労働者が一台の高価な機械を用いて一〇〇倍の原料を加工するとしよう。この場合には、不変資本すなわち充用された生産諸手段の価値総量は大いに増大し、労働力に前貸しされた資本の可変部分は大いに減少するであろう。けれども、この変動は、不変資本と可変資本との大きさの割合、すなわち全体の資本が不変的構成部分と可変的構成部分とに分割される比率を変化させるだけであって、不変と可変との区別には影響しない。


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