第7章 剰余価値率
第1節 労働力の搾取度
前貸資本Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まずもって、生産物の価値のうち、それの生産諸要素の価値総額を超える超過分として現われる。
資本Cは、生産諸手段に支出される一つの貨幣額cと、労働力に支出される一つの貨幣額vとの二つの部分に分解する。cは不変資本に転化される価値部分を、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。したがって、最初はC=c+vであり、たとえば 前貸資本500ポンド・スターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v) である。生産過程の終わりには商品が現われてくるが、その価値は(c+v)+mであって、このmは剰余価値である。たとえば (410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v))+90ポンド・スターリング(m) である。最初の資本CはC’に、五〇〇ポンド・スターリングから五九〇ポンド・スターリングに転化した。両者の差額は、m、すなわち九〇ポンド・スターリングの剰余価値である。生産諸要素の価値は前貸資本の価値に等しいのであるから、生産物価値のうち、それの生産諸要素の価値を超える超過分は、前貸資本の増殖分に等しい、または生産された剰余価値に等しいと言うことは、実際には、同義反復である。
けれども、この同義反復はよりくわしい規定を必要とする。生産物価値と比較されるものは、生産物の形成に際して消費された生産諸要素の価値である。しかし、前述したように、充用された不変資本のうち労働諸手段から成り立つ部分は、その価値の一部分のみを生産物に引き渡すのであるが、他方、残りの部分はそのもとの存在形態で存続する。この後者は価値形成においては何の役割も演じないのであるから、ここではこの部分は度外視しなければならない。これを計算にいれても何の変わりもないであろう。かりに、c=410ポンド・スターリングは、三一二ポンド・スターリングの原料、四四ポンド・スターリングの補助材料、および過程で摩滅する五四ポンド・スターリングの機械設備から成り立っているが、現実に充用された機械設備の価値は一〇五四ポンド・スターリングであると仮定しよう。生産物価値の産出のために前貸しされたものとして、われわれが計算に入れるのは、機械設備がそれの機能によって失う、したがってそれが生産物に引き渡す五四ポンド・スターリングの価値のみである。もしわれわれが、蒸気機関などとしてもとの形態のまま存続する一〇〇〇ポンド・スターリングを算入するとすれば、われわれは、これを両方の側に、すなわち前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないのであり(26a)、こうしてそれぞれ一五〇〇ポンド・スターリングと一五九〇ポンド・スターリングとなるであろう。差額すなわち剰余価値は、あい変わらず九〇ポンド・スターリングであろう。それゆえ、価値生産のために前貸しされた不変資本と言う時、われわれは、文脈からみて反対の結果が出てくるとわかるのでない限り、生産において消耗された生産諸手段の価値という意味にのみ解する。
(26a) 「もしわれわれが充用された固定資本の価値を前貸資本の一部分として計算するならば、われわれは、その年の終わりにはそのような資本の残存価値を年収入の一部分として計算しなければならない」(マルサス『経済学原理』、第二版、ロンドン、一八三六年、二六九ページ〔吉田秀夫訳、下巻、岩波文庫、八九ページ〕)。
このことを前提にして C=c+v という定式に戻ると、この定式は、C’=(c+v)+m に転化し、またまさにこのことによって、CはC’に転化する。既述のように、不変資本の価値は生産物において再現するにすぎない。したがって、過程において現実に新たに生みだされた価値生産物は、過程から得られた生産物価値とは異なるのであって、したがって、一見そう見えるように、(c+v)+m すなわち {410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)}+90〔ポンド・スターリング〕(m) ではなく、v+m すなわち {90ポンド・スターリング(v)+90ポンド・スターリング(m)} なのであり、五九〇ポンド・スターリングではなく、一八〇ポンド・スターリングなのである。cすなわち不変資本がゼロであるならば、言いかえれば、資本家が生産された生産諸手段を何一つ充用せずに、天然に現存する諸素材と労働力を充用しさえすればよい産業諸部門があるならば、何らの不変価値部分も生産物に引き渡されえないであろう。生産物価値のうちのこの要素・・われわれの例では四一〇ポンド・スターリング・・は欠落するであろうが、しかし九〇ポンド・スターリングの剰余価値を含む一八〇ポンド・スターリングの価値生産物は、あたかもcが最大の価値額を表わす場合とまったく同じ大きさにとどまるであろう。したがって C=(0+v)=v であり、そしてC’、すなわち増殖した資本=v+m であり、C’−Cはあい変わらず=mであろう。それに反して、M=0であれば、言いかえれば、労働力・・それの価値が可変資本として前貸しされる労働力が等価物を生産しただけであるならば、C=c+vであり、そして C’(生産物価値)=(c+v)+0 であり、したがって、C=C’であろう。前貸資本は価値増殖をしなかったことになるであろう。
すでにわれわれが実際に知っているように、剰余価値は、vすなわち労働力に転換された資本部分に生じる価値変化の結果であるにすぎず、したがって v+m=v+Δv(vプラスvの増加分) である。しかし、現実の価値変化および価値変化の割合は、前貸総資本の可変的構成部分が増大する結果、前貸総資本もまた増大するということによってあいまいにされる。前貸総資本は五〇〇であったのが五九〇になる。したがって、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうち不変的資本価値が再現するにすぎない部分を完全に度外視すること、すなわち、不変資本c=0とすること、その上で、不変量と可変量の演算をするのに、加減のいずれかによってのみ不変量が可変量に結びつけられる場合の数学上の一法則を適用することが、必要である。
もう一つの困難は、可変資本の最初の形態から生じる。たとえば上述の例では、C’=410ポンド・スターリングの不変資本+90ポンド・スターリングの可変資本+90ポンド・スターリングの剰余価値 である。しかし、九〇ポンド・スターリングは一つの与えられた、したがって不変の大きさであり、したがってこれを可変の大きさとして扱うことは不合理であるように見える。しかし、九〇ポンド・スターリング(v)すなわち九〇ポンド・スターリングの可変資本は、ここでは、実際に、この価値が通過する過程を表わす象徴であるにすぎない。労働力の購入に前貸しされた資本部分は、一定量の対象化された労働であり、したがって、購買された労働力の価値と同様に不変の大きさの価値である。しかし、生産過程そのものにおいては、前貸しされた九〇ポンド・スターリングに代わって自己を発現する労働力が、死んだ労働に代わって生きた労働が、静止している大きさに代わって流動している大きさが、不変の大きさに代わって可変の大きさが、登場する。その結果は、vの再生産プラスvの増加分である。資本主義的生産の立場からは、この全経過は、労働力に転換された、最初は不変な価値の自己運動である。この過程とその結果は、この不変な価値によって生じるものだとされる。それゆえ、九〇ポンド・スターリングの可変資本すなわち自己増殖する価値という定式が矛盾に満ちたものに見えるとしても、それはただ資本主義的生産に内在する矛盾の一つを表現するにすぎない。
不変資本をゼロに等しいとすることは、一見すると奇異に感じられる。けれども、これは人々が日常生活でたえず行なっていることである。たとえば、ある人が綿工業から得られるイギリスの利得を計算しようとすれば、彼は、何よりもまず合衆国、インド、エジプトなどに支払われた綿花価格を差し引く。すなわち、彼は生産物のうちに再現するにすぎない資本価値をゼロとするのである。
もちろん、剰余価値の割合については、直接に剰余価値を生みだし、剰余価値によって価値変化を表わす資本部分に対する割合だけでなく、前貸総資本に対する割合も、大きな経済的意義を持っている。それゆえ、われわれはこの割合を第3部でくわしく扱う〔第3巻、第1編、第2章「利潤率」、参照〕。資本の一部分を、労働力にこれを転換することによって増殖するためには、資本の他の部分が生産諸手段に転化されなければならない。可変資本が機能するためには、不変資本が、労働過程の一定の技術的性格に応じて、それ相応の比率で前貸しされなければならない。とはいえ、ある化学的過程のために蒸留器(レトルト)その他の容器が必要であるという事情は、分析の際に蒸留器そのものを捨象するということをさまたげるものではない。価値創造および価値変化がそれ自体として、すなわち純粋に考察される限りにおいては、生産諸手段すなわち不変資本のこの素材的諸姿態は、流動的な、価値形成的な力が固定されるべき素材を提供するだけである。それゆえ、この素材の性質は、それが綿花であろうと鉄であろうとどうでもよい。この素材の価値もまたどうでもよい。この素材は、生産過程中に支出されるべき労働量を吸収しうるに足る量で現存しさえすればよい。この量が与えられれば、それの価値が上がろうと下がろうと、または大地や海洋のように無価値であろうと、価値創造および価値変化の過程は、そうしたことによっては影響されない(27)。
(27) 第2版への注。ルクレティウスの言う「“無からは何物も創造されえない nil posse creari de nihilo ”」ということは自明のことである。無からは何も生じない。「価値創造」は、労働力の労働への転換である。また、労働力自体は、何よりもまず、人間的有機体に転換された自然素材である。
というわけで、われわれは、さしあたり不変資本部分をゼロに等しいとする。したがって、前貸資本はc+vからvに、生産物価値(c+v)+mは価値生産物(v+m)に、なる。価値生産物=180ポンド・スターリング が与えられ、その中に生産過程の全継続期間中に流動する労働が表わされているとすれば、剰余価値=90ポンド・スターリング を得るためには、可変資本の価値=90ポンド・スターリング を差し引かなければならない。90ポンド・スターリング=m という数は、ここでは生産された剰余価値の絶対的な大きさを表現する。しかし、その比率的な大きさ、したがって可変資本価値が価値増殖した場合は、明らかに可変資本に対する剰余価値の割合によって規定され、またはm/vで表現される。すなわち、上述の例では 90/90=100% である。可変資本のこの比率的増殖または剰余価値の比率的大きさを、私は剰余価値率と名づける(28)。
(28) これは、イギリス人が「“利潤率 rate of profits ”」「“利子率 rate of interest ”」などというのと同じ言い方である。第3部からは、剰余価値の法則を知れば利潤率を把握しやすいということがわかるであろう〔第3巻、第1編、第2章「利潤率」、参照〕。逆の道をたどったのでは、“どちらも”把握されない。
すでに見たように、労働者は、労働過程のある期間中は彼の労働力の価値、すなわち彼の必要生活諸手段の価値を生産するにすぎない。労働者は、社会的分業に基づく状態において生産するのであるから、彼の生活諸手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品、たとえば糸の状態で、彼の生活諸手段の価値・・または彼が生活諸手段を購買するのに用いる貨幣・・に等しい価値を生産するのである。彼の労働日のうち、彼がこのために使用する部分は、彼の平均的な日々の生活諸手段の価値に応じて、したがってその生活諸手段の生産に必要な平均的な日々の労働時間に応じて、より大きいこともより小さいこともある。彼の日々の生活諸手段の価値が、平均して、対象化された六労働時間を表わすならば、労働者は、この価値を生産するためには、平均して、日々六時間労働しなければならない。彼が資本家のためにではなく、自分自身のために独立して労働するのだとしても、その他の事情が変わらない限り、彼の労働力の価値を生産し、それによって彼自身の維持または永続的な再生産のために必要な生活諸手段を獲得するためには、彼は、あい変わらず平均して、一日のうちの同じ可除部分だけ労働しなければならないであろう。しかし、労働日のうち労働者が労働力の日価値たとえば三シリングを生産する部分においては、彼は、ただ資本家によってすでに支払われた(28a)労働力の価値の等価物を生産するだけなのだから、したがって新たに創造された価値によって前貸可変資本価値を補填するだけなのだから、価値のこの生産は単なる再生産として現われる。したがって私は、労働日のうち、この再生産が行なわれる部分を必要労働時間と名づけ、この時間中に支出される労働を必要労働と名づける(29)。それは労働者にとって必要である。なぜなら、彼の労働の社会的形態にはかかわりなく必要だからである。それは資本とその世界にとって必要である。なぜなら、労働者の永続的な定在は資本とその世界との基礎だからである。
(28a) {第3版への注。著者はここではありふれた経済的用語を用いている。現実には、資本家が労働者にではなく、労働者が資本家に「前貸しする」ということが、本書137ページ〔第4章、第3節、第19パラグラフ。『全集』188原ページ〕で証明されているのを想起されたい・・F・エンゲルス}
(29) われわれは、これまで本書では、「必要労働時間」という言葉を、一商品の生産に対し一般に社会的に必要な労働時間という意味で用いてきた。今後は、われわれは、この言葉を、独特な商品である労働力の生産に必要な労働時間という意味にも用いる。同じ“術語”を異なる意味に用いるのは不便ではあるが、どんな科学においても完全には避けられない。たとえば高等数学と初等数学とを比較されたい。
労働者が必要労働の限界を超えて苦役する労働過程の第二の期間は、たしかに労働者に労働を費やさせる、すなわち労働力を支出させるのであるが、しかし彼のためには何らの価値も形成しない。それは、無から何かを創り出すという魅力をいっぱいたたえながら資本家を魅惑する剰余価値を形成する。私は、労働日のこの部分を剰余労働時間と名づけ、この期間中に支出される労働を剰余労働(surplus labour)と名づける。価値一般の認識にとっては、それを労働時間の単なる凝固として、単なる対象化された労働として把握することが決定的であるように、剰余価値の認識にとっては、それを剰余労働時間の単なる凝固として、単なる対象化された剰余労働として把握することが決定的である。この剰余労働が、直接的生産者すなわち労働者からしぼり取られる形態だけが、もろもろの経済的社会構成体を区別するのであり、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から区別するのである(30)。
(30) 真にゴットシェット的な独創性をもってヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー氏は、次のような発見をする。すなわち、剰余価値または剰余生産物の形成、およびこれと結びついている蓄積は、こんにちでは資本家の「節約」のおかげなのであり、資本家はその代償として「たとえば利子を要求する」のであるが、これに反して、「最も低い文化段階では・・・・弱者が強者によって節約を強制される」(『国民経済学原理』、八二、七八ページ)と。節約されるのは労働か? それとも現存しない超過生産物か? ロッシャーのような男とその一味を強制して、現存する剰余価値の取得を正当化する資本家の多少とももっともらしい理由を、剰余価値の発生の根拠だとこじつけさせるものは、現実的な無知のほかに、価値および剰余価値の良心的な分析とおそらく危険で反警察的な結論とに対する弁護論的な恐怖である。
可変資本の価値は、この資本によって購買された労働力の価値に等しいのであるから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定するが、剰余価値のほうは労働日の超過部分によって規定されるのであるから、次のような結論が生じる・・剰余価値の可変資本に対する比は剰余労働の必要労働に対する比と等しい。すなわち、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働 である。両方の比率は、同じ関係をあい異なる形態で表現するのであって、一方は対象化された労働の形態で、他方は流動的な労働の形態で、表現する。
したがって、剰余価値率は、資本による労働の、または資本家による労働者の、搾取度の正確な表現である(30a)。(30a) 第2版への注。剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現であるけれども、搾取の絶対的な大きさの表現では決してない。たとえば、必要労働が五時間で剰余労働が五時間であれば、搾取度は一〇〇%である。ここでは搾取の大きさは五時間ではかられる。これに対して、必要労働が六時間で剰余労働が六時間であれば、一〇〇%という搾取度は不変のままであるが、他方、搾取の大きさは五時間から六時間に二〇%だけ増大する。
われわれの仮定によれば、生産物の価値=(410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v))+90(m) であり、前貸資本=500ポンド・スターリング であった。剰余価値は九〇で前貸資本は五〇〇であるから、通常の計算方法にしたがって剰余価値率(人はこれを利潤率と混同する)は一八%と算出されるであろうし、この比例数の低さはケアリ氏その他の調和論者を感動させるかもしれない。しかし、実際には、剰余価値率はm/Cすなわちm/(c+v)ではなく、m/vであり、したがって、90/500ではなく、90/90=100%であって、外観上の搾取度の五倍以上である。さて、この場合、われわれは、労働日の絶対的な大きさを知らず、また労働過程の期間(日、週など)も知らず、最後に九〇ポンド・スターリングの可変資本が同時に運動させる労働者の数をも知らないにもかかわらず、剰余価値率m/v は、これを剰余労働/必要労働 に転換できるのであるから、労働日の二つの構成部分の相互の比率を正確にわれわれに示す。それは一〇〇%である。すなわち、労働者は、一日のうちの半分は自分のために、残りの半分は資本家のために労働したのである。
したがって、剰余価値率の計算方法は、要約すれば次のようになる。生産物価値全体をとり、そこに再現するにすぎない不変資本価値をゼロに等しいとする。後に残る価値額は、商品の形成過程で現実に生みだされた唯一の価値生産物である。剰余価値が与えられているならば、可変資本を見いだすために、われわれは、剰余価値をこの価値生産物から差し引く。可変資本が与えられていて、剰余価値を求める場合には、逆に可変資本を差し引く。両者が与えられているならば、最後の演算をし、可変資本に対する剰余価値の割合m/v を計算しさえすればよい。
方法はこのように単純ではあるが、その根底に横たわっている、読者に不慣れな見方について、いくつかの例をあげて慣れさせるのが適当であると思われる。
まず、一万錘のミュール紡錘をもち、アメリカ綿花から三二番手の糸を紡いで、紡錘一錘あたり毎週一ポンドの糸を生産する紡績工場の例をとろう。屑は六%である。したがって、毎週一万〇六〇〇ポンドの綿花が加工されて、一万ポンドの糸と六〇〇ポンドの屑になる。一八七一年四月では、この綿花は一ポンドあたり七3/4ペンスかかり、したがって、一万〇六〇〇ポンドでは約三四二ポンド・スターリングかかる。一万錘の紡錘は、前紡機と蒸気機関とを含めて一錘あたり一ポンド・スターリング、したがって一万ポンド・スターリングかかる。その摩滅は〔年に〕10%=1000ポンド・スターリングであり、毎週では二〇ポンド・スターリングである。工場建築物の賃借料は三〇〇ポンド・スターリング、週あたりで六ポンド・スターリングである。石炭(一時間一馬力あたり四ポンド、一〇〇馬力(図示馬力)でもって週あたり六〇時間、建物の暖房を含む)は週あたり一一トン〔一トンは二二四〇ポンド〕で、一トン八シリング六ペンスずつで、週あたり約四1/2ポンド・スターリングかかるし、ガスは週あたり一ポンド・スターリング、油は週あたり四1/2ポンド・スターリング、したがってすべての補助材料は週あたり一〇ポンド・スターリングかかる。したがって、不変的価値部分は週あたり三七八ポンド・スターリングである。労賃は、週あたり五二ポンド・スターリングである。糸価格は、一ポンドあたり一二1/4ペンスであり、1万ポンド=510ポンド・スターリング であるから、したがって剰余価値は510−430=80ポンド・スターリング である。われわれは、三七八ポンド・スターリングの不変的価値部分をゼロとする。というのは、それは、毎週の価値形成には関与しないからである。残るのは、132=52(V)+80(m)ポンド・スターリング という毎週の価値生産物である。したがって、剰余価値率=80/52=一五三11/13%である。一〇時間の平均労働日では、必要労働=三31/33時間、剰余労働=六2/33時間 である(31)。
(31) 第2版への注。第1版であげた一八六〇年についての一紡績工場の例は、事実に関する若干の誤りを含んでいた。本文であげたまったく正確なデータは、マンチェスターの一工場主によって私に提供されたものである。・・注意すべきことは、イギリスでは旧馬力はシリンダーの直径に従って計算されたが、新馬力は、インディケーターが示す実馬力によって数えられるということである。
ジェイコブは、一八一五年について、小麦価格は一クォーターあたり八〇シリング、一エーカーあたり二二ブッシェルの平均収穫、その結果一エーカーが一一ポンド・スターリングをもたらすと仮定して、上のような計算をあげている。〔『サミュエル。ウィットブレドへの手紙。イギリス農業が必要とする保護に関する諸考察の続編』、ロンドン、一八一五年、三三ページ〕。この計算は、種々の項目が前もって補整されているのできわめて不完全ではあるが、われわれの目的にとっては十分なものである。
一エーカーあたりの価値生産
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・ 種子(小麦) 1ポンド・スターリング9シリング
・ 肥料 2ポンド・スターリング10シリング
・ 労賃 3ポンド・スターリング10シリング
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・ 計 7ポンド・スターリング9シリング
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・ 十分の一税、地方税、国税 1ポンド・スターリング1シリング
・ 地代 1ポンド・スターリング8シリング
・ 借地農業者の利潤と利子 1ポンド・スターリング2シリング
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・ 計 3ポンド・スターリング11シリング
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生産物の価格はその価値に等しいとつねに前提すれば、剰余価値は、ここでは、利潤、利子、十分の一税などの種々の項目に配分されている。これらの項目はわれわれにとってはどうでもよい。われわれはそれらを合計し、三ポンド・スターリング一一シリングの剰余価値を得る。種子と肥料に支出された三ポンド・スターリング一九シリングは、不変資本部分としてゼロに等しいとする。三ポンド・スターリング一〇シリングの前貸可変資本が残り、それに代わって 3ポンド・スターリング10シリング+3ポンド・スターリング11シリング の新価値が生産されている。したがって、m/v=3ポンド・スターリング11シリング/3ポンド・スターリング10シリング となり、一〇〇%以上である。労働者は、自分の労働日の半分以上を、剰余価値の生産のために費やし、この剰余価値をさまざまな人々がさまざまな口実で分配しあうのである(31a)。
(31a) ここにあげた計算は、例証として通用するだけである。というのは、価格=価値 ということが想定されているからである。第3部でのべるように、この等置は、平均価格についてさえもこう単純な仕方では行なわれない〔第3巻、第1編、第1章や、同第2編、第9章、参照〕。