第3節 シーニアの「最後の一時間」
一八三六年のある日、その経済学と名文とをもって聞こえた、いわばイギリス経済学者の中のクラウレンであるナッソー・W・シーニアは、オックスフォードからマンチェスターに呼び出された。これは、オックスフォードで経済学を教える代わりに、マンチェスターで経済学を学ぶためであった。工場主たちは、近ごろ公布された工場法〔一八三三年の工場法〕と、それを乗り越えてさらに進もうとしている一〇時間労働運動とに対抗する、懸賞試合の闘士として彼を選んだのである。彼らは、いつもながらの実際的な明敏さで、この教授先生には「“そうとう手をかけた仕上げが必要だ wanted a good deal of finishing ”」と前から認めていた。だからこそ彼をマンチェスターに呼び寄せたのである。他方、教授先生のほうは、マンチェスターで工場主たちから受けた講義を、『綿業におよぼす影響から見た工場法についての書簡』、ロンドン、一八三七年というパンフレットに書きあげた。この中では、とりわけ次のようなお説教を読むことができる・・
「現行法のもとでは、一八才未満の者を雇用する工場は・・・・一日に一一時間半以上、すなわちはじめの五日間は一二時間、土曜日には九時間以上操業することはできない。さて、以下の分析(!)は、このような工場では、純利得の全部が最後の一時間から引き出されているということを示すであろう。ある工場主が一〇万ポンド・スターリングを投資するとしよう・・工場の建物および機械設備に八万ポンド・スターリング、原料および労賃に二万ポンド・スターリングである。資本が年に一回転し、総利得が一五%であると仮定すれば、この工場の年間売上高は、一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの価値を持つ商品となるに違いない。・・・・二三の半労働時間のそれぞれは、毎日、この一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの5/115すなわち1/23を生産する。一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの全体を構成する(constituting the whole 115 000Pfd.St.)この23/23のうちの20/23すなわち一一万五〇〇〇ポンド・スターリングのうちの一〇万ポンド・スターリングは、資本だけを補填する。1/23、すなわち一万五〇〇〇の総利得(!)のうちの五〇〇〇ポンド・スターリングは、工場および機械設備の摩滅を補填する。後に残る2/23、すなわち毎日の最後の二つの半時間が一〇%の純利得を生産する。したがって、価格は前と変わらないとして、工場が、一一時間半ではなく、一三時間操業することができるならば、約二六〇〇ポンド・スターリングの流動資本を追加することによって、純利得は二倍以上になるであろう。他方、もし労働時間が一日につき一時間だけ短縮されるならば、純利得は消滅するであろう。もし、労働時間が一時間半だけ短縮されるならば、総利得さえも消滅するであろう(32)。」
(32) シーニア、前出、一二、一三ページ。われわれは、われわれの目的にとってどうでもよい珍妙な諸点には立ちいらない。たとえば、工場主たちは、摩滅した機械設備など、したがって資本の一構成部分の補填を、利得として、・・総利得であろうと純利得であろうと、汚い利得であろうと清い利得であろうと・・計算するという主張がそれである。また、あげられた数字が正しいか誤っているかという点にも立ちいらない。それらの数字が、いわゆる「分析」と称するもの以上の何の値うちもないことは、レナド・ホーナーが、『シーニア氏への一書簡』、ロンドン、一八三七年、の中で証明した。レナド・ホーナーは、一八三三年の“工場調査委員”の一人であり、一八五九年までは工場監督官、実際上の工場監察官であって、彼は、イギリスの労働者階級のために不滅の功績を立てた。彼は、憤激した工場主たちに対してだけでなく、工場における「工員たち」の労働時間を数えることよりも下院における工場主たちの「票」を数えることのほうがはるかに重要だと思っている大臣たちに対しても、生涯にわたる闘争を遂行したのである。
注32への追加。シーニアの叙述は、それの内容の誤りをまったく度外視しても混乱している。彼が本来言おうとしたことは、次のようなことであった。工場主は、労働者たちを毎日一一時間半、すなわち23/2時間、働かせる。個々の労働日と同じく、年労働も一一時間半、すなわち23/2時間(掛ける一年間の労働日の日数)から構成されている。このことを前提すれば、23/2労働時間は一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの年生産物を生産する。1/2労働時間は、1/23×115,000ポンド・スターリング を生産する。20/2労働時間は 20/23×115,000ポンド・スターリング=100,000ポンド・スターリング を生産する。すなわち、それは前貸資本だけを補填する。3/2労働時間が残り、それは 3/23×115,000ポンド・スターリング=15,000 すなわち総利得を生産する。この3/2労働時間のうちの1/2労働時間は、 1/23×115,000ポンド・スターリング=5,000ポンド・スターリング を生産する。すなわち、それは工場および機械設備の摩滅の補填分だけを生産する。最後の二つの半労働時間、すなわち最後の一労働時間が、2/23×115,000ポンド・スターリング=10,000 を、すなわち純利潤を生産する。原文では、シーニアは、生産物の最後の2/23を労働日そのものの部分に転化している。
この教授先生は、こんなものを「分析」と名づけているのである! 彼が労働者たちは一日の大部分を建物、機械、綿花、石炭などの価値の生産、したがってそれらの再生産または補填に浪費するという工場主たちの嘆きを信じたのであれば、どんな分析も余計であった。彼は、単純に次のように答えるべきであった。諸君! もし諸君が一一時間半ではなく一〇時間働かせるなら、他の諸事情はもとのままとして、綿花、機械設備などの日々の消耗も一時間半分だけ減少するであろう。したがって、諸君は、ちょうど諸君が損をするのと同じだけ得をすることになる。諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産または補填のために一時間半だけ少なく浪費するであろう、と。もし、彼が工場主たちの言葉を信じないで、専門家として分析が必要であると思ったのであれば、労働日の大きさに対する純利得の比率のみがもっぱら中心となっている問題について、彼は、何よりもまず、工場主諸君にお願いし、機械設備、工場建築物、原料、および労働をごちゃごちゃいっしょくたにしないで、どうか、工場建築物、機械設備、原料などに含まれている不変資本を一方の側に置き、労賃に前貸しされた資本を他方の側にお置きください、と言うべきであった。その上で、万一、工場主の計算どおりに、労働者が2/2労働時間すなわち一時間で労賃を再生産または補填すると言う結果になったとしたら、分析家は次のように続けるべきであった・・
諸君の申し立てによれば、労働者は最後から二番目の一時間で自分の労賃を生産し最後の一時間で諸君の剰余価値すなわち純利得を生産する。労働者は等しい時間内には等しい価値を生産するのであるから、最後から二番目の一時間の生産物は、最後の一時間の生産物と同じ価値を持つ。さらに、労働者は、彼が労働を支出する限りにおいてのみ価値を生産するのであり、彼の労働の量は彼の労働時間によってはかられる。諸君の申し立てによれば、この労働時間は一日あたり一一時間半である。この一一時間半の一部分を、彼は自分の労賃を生産または補填するために消費し、他の部分を諸君の純利得を生産するために消費する。一労働日のあいだには、彼はそれ以上のことは何もしない。ところが、申し立てによれば、彼の賃金と彼によって提供される剰余価値とは等しい大きさの価値なのであるから、彼は明らかに、自分の労賃を五3/4時間で生産し、諸君の純利得をもう一つの五3/4時間で生産するのである。さらに、二時間分の糸生産物の価値は彼の労賃プラス諸君の純利得の価値額に等しいのであるから、この糸価値は一一1/2労働時間によってはかられなければならず、最後から二番目の一時間の生産物は五3/4労働時間によってはかられ、最後の一時間の生産物も同じく五3/4労働時間によってはかられなければならない。今や、われわれは取りあつかいの実に難しい点にきている。したがってご注意あれ! 最後から二番目の一労働時間は、最初のそれと同じように普通の一労働時間である。“それ以上でもそれ以下でもない”。そうだとすると、紡績工は、どのようにして一労働時間で五3/4労働時間を表わす糸価値を生産することができるのか? 実際には、彼はそのような奇蹟を行いはしない。彼が一労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸である。この糸の価値は五3/4労働時間によってはかられるのであって、そのうちの四3/4労働時間は、毎時間消費された生産諸手段すなわち綿花、機械設備などの中に彼の関与なしに潜んでいるのであり、4/4すなわち一労働時間は彼自身によってつけ加えられているのである。したがって、彼の労賃は五3/4時間で生産されるのであり、一紡績時間の糸生産物も同じく五3/4労働時間を含んでいるのであるから、彼の五3/4労働時間の価値生産物が一紡績時間の生産物価値と等しいということは、決して魔術でも何でもない。しかし、もし、紡績工は綿花、機械設備などの価値の再生産または「補填」によって彼の労働日のほんの一瞬間でも失うものだと諸君が考えるならば、諸君はまったく間違っているのである。彼の労働が綿花と紡錘とで糸を作ることによって、すなわち彼が糸を紡ぐことによって、綿花と紡錘との価値はおのずから糸に移行する。これは、彼の労働の質のせいであって、その量のせいではない。もちろん、彼は、一時間には1/2時間におけるよりもより多くの綿花価値などを糸に移転するであろうが、それはただ、彼が、一時間では1/2時間におけるよりもより多くの綿花を紡ぐからにほかならない。したがって諸君には次のことがおわかりであろう・・労働者は最後から二番目の一時間で彼の労賃の価値を生産し、最後の一時間で純利得を生産するという諸君の表現は、彼の労働日の二時間の糸生産物のうちには、その二時間がはじめにあろうと終わりにあろうと、一一1/2労働時間が、すなわち彼の前労働日の時間とちょうど同じだけの時間が、体現されているということ以上のことは何も意味しない。私が、労働力の支払いではなく労働の支払いと言うのは、諸君の俗語で語るためである。さて、諸君が、諸君の支払う労働時間と、諸君の支払わない労働時間との比率を比較するなら、諸君は、それが半日対半日、したがって一〇〇%であることを見いだすであろうが、これは、もちろん結構なパーセンテージである。また、もし諸君が、諸君の「工員たち」から一一時間半ではなく一三時間を手にいれることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した一時間半を単なる剰余労働につけ足すならば、剰余労働は五3/4時間から七1/4時間に増加し、したがって剰余価値率は一〇〇%から一二六2/23%に増大するであろうということもまったく疑いない。これに反して、もし諸君が、一時間半の付加によって剰余価値率が一〇〇%から二〇〇%になり、それどころか二〇〇%以上に上昇する、すなわち「二倍以上」になるものと期待するならば、諸君はあまりにもばかげた楽天家であろう。他方・・人間の心というのはおかしなもので、特に財布に心を奪われている時にはそうである・・もし、労働日が一一時間半から一〇時間半に短縮することによって、諸君の純利得の全部がだめになるであろうと恐れるならば、諸君はあまりにも気違いじみた悲観論者であろう。断じてそんなことはない。他の事情がすべてもとのままだと前提すれば、剰余労働は五3/4時間から四3/4時間に減少するであろうが、剰余価値率は今までどおり相当高い。すなわち八二14/23%である。そこで、かの宿命的な「最後の一時間」なるもの・・これについて諸君は、千年王国説の信奉者が世界の没落について語った以上の作り話を語ったのであるが・・は「“まったくのたわごと all bosh ”」なのである。それが失われるからといって、諸君にとって「純利得」が犠牲となることもないし、諸君によって働かされる男女の児童たちの「魂の純潔」が犠牲になることもないであろう(32a)。
(32a) シーニアが、工場主たちの純利得、イギリス綿業の存在、イギリスの世界市場での偉大さが「最後の一労働時間」にかかっていることを証明した時、ドクター・アンドルー・ユアのほうでは、おまけに、工場の児童および一八歳未満の年少者たちは、作業場の暖かくて純潔な道徳的雰囲気の中にまる一二時間閉じこめておかれないで、「一時間」早く冷酷で浮薄な外界に突き出されると、怠惰と悪徳によって彼らの魂の救いを奪われるということを証明した。一八四八年以来、工場監督官たちは、その半年ごとの『報告書』の中で、「最後の」「宿命的な一時間」の件でうむことなく工場主たちをからかっている。たとえばハウエル氏は、一八五五年五月三一日付の彼の工場報告書の中で次のように言う・・「もし次のような巧妙な計算」(彼はシーニアを引用する)「が正しかったとすれば、連合王国のすべての綿工場は、一八五〇年以来、赤字で操業していたことになるであろう」と(『工場監督官報告書。一八五五年四月三〇日に終わる半年間』一九、二〇ページ)。一八四八年に一〇時間法案が議会を通過した時、工場主たちは、ドーシットシアとサマシットシアとのあいだに散在する農村地方の亜麻紡績工場で何人かの正規の労働者たちに強要し、反対誓願文を出させたのであるが、その中ではとりわけ次のようにのべられている・・「われわれ請願者たちは、人の親として、暇な一時間を追加することは、子供たちを堕落させる以外には何の役にも立たないと考えます。というのは、怠惰は悪徳のもとであると信じるからです」と。これについて、一八四八年一〇月三一日の工場報告書は、次のようにのべている・・「これらの徳の高い情け深い親の子供たちが働いている亜麻紡績工場の空気は、原料から出る塵と繊維とのほこりが立ちこめているので、わずか一〇分間でさえ、紡績室ですごすことは非常に不愉快なほどである。というのは、避けようのない亜麻の塵で目、耳や鼻、口がすぐに塞がれてしまい、それを避けるすべもないので、この上もない苦痛を感じることなしにそこにいることはできないからである。労働そのものは、機械設備の熱狂的な速さのために、うむことを知らない注意力の制御を受けながら、たえず熟練と運動を充用することを要求される。そして、食事時間をのぞいてまる一〇時間、このような雰囲気の中でこのような仕事にしばりつけられている自分の子供たちに対して、『のらくら』という言葉を両親が用いるようにed向けるのは少し情け知らずであるように思われる。・・・・これらの子供たちは、近隣の村の作男たちよりも長時間労働している。・・・・『怠惰と悪徳』についてのこのような残酷なおしゃべりは、まったくの信心家ぶった言い草であり、また最も恥知らずな偽善として烙印を押されるべきである。・・・・約一二年前、工場主の『純利得』全部が『最後の一時間』の労働から流れ出るのであり、したがって、労働時間を一時間だけ短縮すれば彼の純利得が無くなってしまうということが、公然と大まじめに、確信を持って、しかも上級の当局の是認のもとで宣言されたが、公衆の一部はこの確信にびっくりした。ところが今になって『最後の一時間』の功徳に関するあの独創的発見が、それ以来はるかに改良されて、『道徳』をも『利得』をも等しく含むものになったということ、その結果、もし児童労働の時間がまる一〇時間に短縮されるならば、児童の道徳は彼らの雇い主の純利得もろとも、消えてなくなる・・というのは、純利得も道徳も、この最後の、この致命的な一時間に依存するのであるから・・ということを今や見いだすにおよんで、この公衆の一部は・・とわれわれは言う・・きっとほとんど自分の目を信じかねるであろう」と(『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一〇一ページ)。ついで、この同じ工場報告書は、これらの工場主諸君の「道徳」と「美徳」の見本、すなわち、彼らがまったく抵抗できない少数の労働者たちに先のような諸請願文に署名させるために、さらにそれらを一産業部門全体、各地域全体の請願文として議会に信じこませるために、彼らが用いた奸計、策略、誘惑、脅迫、偽造などの見本をあげている。シーニアは、のちにはあっぱれにも工場立法に精力的に味方したのであるが、そのシーニア自身も、また彼の最初およびその後の反対者たちも、あの「独創的発見」の誤った結論を解き明かすことができなかったことは、いわゆる経済「科学」の現状にとってきわめて特徴的なことである。彼らは、実際の経験に訴えた。“なぜ why ”と“何のために wherefore ”とは、依然として神秘のままであった。
いつか諸君の「最後の時」が現実にやってくる時、オックスフォードの教授のことを思いたまえ。では、あの世でもっとおつきあいを深めよう。“さようなら! Addio! ”(33)・・・・と。一八三六年にシーニアによって発見された「最後の一時間」という警笛は、一八四八年四月一五日に、経済学の主要な大立物の一人であるジェームズ・ウィルスンによって、『ロンドン・エコノミスト』誌上で、一〇時間法を論難するためにあらためて吹き鳴らされた。
(33) とはいえ、この教授先生も、彼のマンチェスターへの旅行で何ほどかのもうけは得たのである! 『工場法についての書簡』によれば、純利得全部すなわち「利潤」および「利子」、それどころか「“それ以上のあるもの”」までが労働者の不払労働時間に依存している! その一年前、オックスフォードの学生と教養ある俗物との共通の利益のために著わされた彼の『経済学概論』においては、彼は、まだリカードの労働時間による価値規定に反対して、利潤は資本家の労働から生じ、利子は彼の禁欲、彼の「節欲」から生じるということを「発見」していた。このたわごとそのものは古いものであったが、"Abstinenz"〔節欲〕という言葉は新しいものであった。ロッシャー氏がこれを"Enthaltung"〔節制〕とドイツ語訳しているのは正しい。彼の同国人で彼ほどラテン語に通じていないヴィルト某々ら、シュルツェ某々ら、その他ミヒェル某々らは、これを坊主くさく"Entsagung"〔禁欲〕と訳している。