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☆  第7章 剰余価値率

★   第1節 労働力の搾取度

 前貸資本Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まずもって、生産物の価値のうち、それの生産諸要素の価値総額を超える超過分として現われる。
 資本Cは、生産諸手段に支出される一つの貨幣額cと、労働力に支出される一つの貨幣額vとの二つの部分に分解する。cは不変資本に転化される価値部分を、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。したがって、最初はC=c+vであり、たとえば 前貸資本500ポンド・スターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v) である。生産過程の終わりには商品が現われてくるが、その価値は(c+v)+mであって、このmは剰余価値である。たとえば (410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v))+90ポンド・スターリング(m) である。最初の資本CはC’に、五〇〇ポンド・スターリングから五九〇ポンド・スターリングに転化した。両者の差額は、m、すなわち九〇ポンド・スターリングの剰余価値である。生産諸要素の価値は前貸資本の価値に等しいのであるから、生産物価値のうち、それの生産諸要素の価値を超える超過分は、前貸資本の増殖分に等しい、または生産された剰余価値に等しいと言うことは、実際には、同義反復である。
 けれども、この同義反復はよりくわしい規定を必要とする。生産物価値と比較されるものは、生産物の形成に際して消費された生産諸要素の価値である。しかし、前述したように、充用された不変資本のうち労働諸手段から成り立つ部分は、その価値の一部分のみを生産物に引き渡すのであるが、他方、残りの部分はそのもとの存在形態で存続する。この後者は価値形成においては何の役割も演じないのであるから、ここではこの部分は度外視しなければならない。これを計算にいれても何の変わりもないであろう。かりに、c=410ポンド・スターリングは、三一二ポンド・スターリングの原料、四四ポンド・スターリングの補助材料、および過程で摩滅する五四ポンド・スターリングの機械設備から成り立っているが、現実に充用された機械設備の価値は一〇五四ポンド・スターリングであると仮定しよう。生産物価値の産出のために前貸しされたものとして、われわれが計算に入れるのは、機械設備がそれの機能によって失う、したがってそれが生産物に引き渡す五四ポンド・スターリングの価値のみである。もしわれわれが、蒸気機関などとしてもとの形態のまま存続する一〇〇〇ポンド・スターリングを算入するとすれば、われわれは、これを両方の側に、すなわち前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないのであり(26a)、こうしてそれぞれ一五〇〇ポンド・スターリングと一五九〇ポンド・スターリングとなるであろう。差額すなわち剰余価値は、あい変わらず九〇ポンド・スターリングであろう。それゆえ、価値生産のために前貸しされた不変資本と言う時、われわれは、文脈からみて反対の結果が出てくるとわかるのでない限り、生産において消耗された生産諸手段の価値という意味にのみ解する。
(26a) 「もしわれわれが充用された固定資本の価値を前貸資本の一部分として計算するならば、われわれは、その年の終わりにはそのような資本の残存価値を年収入の一部分として計算しなければならない」(マルサス『経済学原理』、第二版、ロンドン、一八三六年、二六九ページ〔吉田秀夫訳、下巻、岩波文庫、八九ページ〕)。

 このことを前提にして C=c+v という定式に戻ると、この定式は、C’=(c+v)+m に転化し、またまさにこのことによって、CはC’に転化する。既述のように、不変資本の価値は生産物において再現するにすぎない。したがって、過程において現実に新たに生みだされた価値生産物は、過程から得られた生産物価値とは異なるのであって、したがって、一見そう見えるように、(c+v)+m すなわち {410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)}+90〔ポンド・スターリング〕(m) ではなく、v+m すなわち {90ポンド・スターリング(v)+90ポンド・スターリング(m)} なのであり、五九〇ポンド・スターリングではなく、一八〇ポンド・スターリングなのである。cすなわち不変資本がゼロであるならば、言いかえれば、資本家が生産された生産諸手段を何一つ充用せずに、天然に現存する諸素材と労働力を充用しさえすればよい産業諸部門があるならば、何らの不変価値部分も生産物に引き渡されえないであろう。生産物価値のうちのこの要素・・われわれの例では四一〇ポンド・スターリング・・は欠落するであろうが、しかし九〇ポンド・スターリングの剰余価値を含む一八〇ポンド・スターリングの価値生産物は、あたかもcが最大の価値額を表わす場合とまったく同じ大きさにとどまるであろう。したがって C=(0+v)=v であり、そしてC’、すなわち増殖した資本=v+m であり、C’−Cはあい変わらず=mであろう。それに反して、M=0であれば、言いかえれば、労働力・・それの価値が可変資本として前貸しされる労働力が等価物を生産しただけであるならば、C=c+vであり、そして C’(生産物価値)=(c+v)+0 であり、したがって、C=C’であろう。前貸資本は価値増殖をしなかったことになるであろう。
 すでにわれわれが実際に知っているように、剰余価値は、vすなわち労働力に転換された資本部分に生じる価値変化の結果であるにすぎず、したがって v+m=v+Δv(vプラスvの増加分) である。しかし、現実の価値変化および価値変化の割合は、前貸総資本の可変的構成部分が増大する結果、前貸総資本もまた増大するということによってあいまいにされる。前貸総資本は五〇〇であったのが五九〇になる。したがって、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうち不変的資本価値が再現するにすぎない部分を完全に度外視すること、すなわち、不変資本c=0とすること、その上で、不変量と可変量の演算をするのに、加減のいずれかによってのみ不変量が可変量に結びつけられる場合の数学上の一法則を適用することが、必要である。
 もう一つの困難は、可変資本の最初の形態から生じる。たとえば上述の例では、C’=410ポンド・スターリングの不変資本+90ポンド・スターリングの可変資本+90ポンド・スターリングの剰余価値 である。しかし、九〇ポンド・スターリングは一つの与えられた、したがって不変の大きさであり、したがってこれを可変の大きさとして扱うことは不合理であるように見える。しかし、九〇ポンド・スターリング(v)すなわち九〇ポンド・スターリングの可変資本は、ここでは、実際に、この価値が通過する過程を表わす象徴であるにすぎない。労働力の購入に前貸しされた資本部分は、一定量の対象化された労働であり、したがって、購買された労働力の価値と同様に不変の大きさの価値である。しかし、生産過程そのものにおいては、前貸しされた九〇ポンド・スターリングに代わって自己を発現する労働力が、死んだ労働に代わって生きた労働が、静止している大きさに代わって流動している大きさが、不変の大きさに代わって可変の大きさが、登場する。その結果は、vの再生産プラスvの増加分である。資本主義的生産の立場からは、この全経過は、労働力に転換された、最初は不変な価値の自己運動である。この過程とその結果は、この不変な価値によって生じるものだとされる。それゆえ、九〇ポンド・スターリングの可変資本すなわち自己増殖する価値という定式が矛盾に満ちたものに見えるとしても、それはただ資本主義的生産に内在する矛盾の一つを表現するにすぎない。
 不変資本をゼロに等しいとすることは、一見すると奇異に感じられる。けれども、これは人々が日常生活でたえず行なっていることである。たとえば、ある人が綿工業から得られるイギリスの利得を計算しようとすれば、彼は、何よりもまず合衆国、インド、エジプトなどに支払われた綿花価格を差し引く。すなわち、彼は生産物のうちに再現するにすぎない資本価値をゼロとするのである。
 もちろん、剰余価値の割合については、直接に剰余価値を生みだし、剰余価値によって価値変化を表わす資本部分に対する割合だけでなく、前貸総資本に対する割合も、大きな経済的意義を持っている。それゆえ、われわれはこの割合を第3部でくわしく扱う〔第3巻、第1編、第2章「利潤率」、参照〕。資本の一部分を、労働力にこれを転換することによって増殖するためには、資本の他の部分が生産諸手段に転化されなければならない。可変資本が機能するためには、不変資本が、労働過程の一定の技術的性格に応じて、それ相応の比率で前貸しされなければならない。とはいえ、ある化学的過程のために蒸留器(レトルト)その他の容器が必要であるという事情は、分析の際に蒸留器そのものを捨象するということをさまたげるものではない。価値創造および価値変化がそれ自体として、すなわち純粋に考察される限りにおいては、生産諸手段すなわち不変資本のこの素材的諸姿態は、流動的な、価値形成的な力が固定されるべき素材を提供するだけである。それゆえ、この素材の性質は、それが綿花であろうと鉄であろうとどうでもよい。この素材の価値もまたどうでもよい。この素材は、生産過程中に支出されるべき労働量を吸収しうるに足る量で現存しさえすればよい。この量が与えられれば、それの価値が上がろうと下がろうと、または大地や海洋のように無価値であろうと、価値創造および価値変化の過程は、そうしたことによっては影響されない(27)。
(27) 第2版への注。ルクレティウスの言う「“無からは何物も創造されえない nil posse creari de nihilo ”」ということは自明のことである。無からは何も生じない。「価値創造」は、労働力の労働への転換である。また、労働力自体は、何よりもまず、人間的有機体に転換された自然素材である。

 というわけで、われわれは、さしあたり不変資本部分をゼロに等しいとする。したがって、前貸資本はc+vからvに、生産物価値(c+v)+mは価値生産物(v+m)に、なる。価値生産物=180ポンド・スターリング が与えられ、その中に生産過程の全継続期間中に流動する労働が表わされているとすれば、剰余価値=90ポンド・スターリング を得るためには、可変資本の価値=90ポンド・スターリング を差し引かなければならない。90ポンド・スターリング=m という数は、ここでは生産された剰余価値の絶対的な大きさを表現する。しかし、その比率的な大きさ、したがって可変資本価値が価値増殖した場合は、明らかに可変資本に対する剰余価値の割合によって規定され、またはm/vで表現される。すなわち、上述の例では 90/90=100% である。可変資本のこの比率的増殖または剰余価値の比率的大きさを、私は剰余価値率と名づける(28)。
(28) これは、イギリス人が「“利潤率 rate of profits ”」「“利子率 rate of interest ”」などというのと同じ言い方である。第3部からは、剰余価値の法則を知れば利潤率を把握しやすいということがわかるであろう〔第3巻、第1編、第2章「利潤率」、参照〕。逆の道をたどったのでは、“どちらも”把握されない。

 すでに見たように、労働者は、労働過程のある期間中は彼の労働力の価値、すなわち彼の必要生活諸手段の価値を生産するにすぎない。労働者は、社会的分業に基づく状態において生産するのであるから、彼の生活諸手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品、たとえば糸の状態で、彼の生活諸手段の価値・・または彼が生活諸手段を購買するのに用いる貨幣・・に等しい価値を生産するのである。彼の労働日のうち、彼がこのために使用する部分は、彼の平均的な日々の生活諸手段の価値に応じて、したがってその生活諸手段の生産に必要な平均的な日々の労働時間に応じて、より大きいこともより小さいこともある。彼の日々の生活諸手段の価値が、平均して、対象化された六労働時間を表わすならば、労働者は、この価値を生産するためには、平均して、日々六時間労働しなければならない。彼が資本家のためにではなく、自分自身のために独立して労働するのだとしても、その他の事情が変わらない限り、彼の労働力の価値を生産し、それによって彼自身の維持または永続的な再生産のために必要な生活諸手段を獲得するためには、彼は、あい変わらず平均して、一日のうちの同じ可除部分だけ労働しなければならないであろう。しかし、労働日のうち労働者が労働力の日価値たとえば三シリングを生産する部分においては、彼は、ただ資本家によってすでに支払われた(28a)労働力の価値の等価物を生産するだけなのだから、したがって新たに創造された価値によって前貸可変資本価値を補填するだけなのだから、価値のこの生産は単なる再生産として現われる。したがって私は、労働日のうち、この再生産が行なわれる部分を必要労働時間と名づけ、この時間中に支出される労働を必要労働と名づける(29)。それは労働者にとって必要である。なぜなら、彼の労働の社会的形態にはかかわりなく必要だからである。それは資本とその世界にとって必要である。なぜなら、労働者の永続的な定在は資本とその世界との基礎だからである。
(28a) {第3版への注。著者はここではありふれた経済的用語を用いている。現実には、資本家が労働者にではなく、労働者が資本家に「前貸しする」ということが、本書137ページ〔第4章、第3節、第19パラグラフ。『全集』188原ページ〕で証明されているのを想起されたい・・F・エンゲルス}
(29) われわれは、これまで本書では、「必要労働時間」という言葉を、一商品の生産に対し一般に社会的に必要な労働時間という意味で用いてきた。今後は、われわれは、この言葉を、独特な商品である労働力の生産に必要な労働時間という意味にも用いる。同じ“術語”を異なる意味に用いるのは不便ではあるが、どんな科学においても完全には避けられない。たとえば高等数学と初等数学とを比較されたい。

 労働者が必要労働の限界を超えて苦役する労働過程の第二の期間は、たしかに労働者に労働を費やさせる、すなわち労働力を支出させるのであるが、しかし彼のためには何らの価値も形成しない。それは、無から何かを創り出すという魅力をいっぱいたたえながら資本家を魅惑する剰余価値を形成する。私は、労働日のこの部分を剰余労働時間と名づけ、この期間中に支出される労働を剰余労働(surplus labour)と名づける。価値一般の認識にとっては、それを労働時間の単なる凝固として、単なる対象化された労働として把握することが決定的であるように、剰余価値の認識にとっては、それを剰余労働時間の単なる凝固として、単なる対象化された剰余労働として把握することが決定的である。この剰余労働が、直接的生産者すなわち労働者からしぼり取られる形態だけが、もろもろの経済的社会構成体を区別するのであり、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から区別するのである(30)。
(30) 真にゴットシェット的な独創性をもってヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー氏は、次のような発見をする。すなわち、剰余価値または剰余生産物の形成、およびこれと結びついている蓄積は、こんにちでは資本家の「節約」のおかげなのであり、資本家はその代償として「たとえば利子を要求する」のであるが、これに反して、「最も低い文化段階では・・・・弱者が強者によって節約を強制される」(『国民経済学原理』、八二、七八ページ)と。節約されるのは労働か? それとも現存しない超過生産物か? ロッシャーのような男とその一味を強制して、現存する剰余価値の取得を正当化する資本家の多少とももっともらしい理由を、剰余価値の発生の根拠だとこじつけさせるものは、現実的な無知のほかに、価値および剰余価値の良心的な分析とおそらく危険で反警察的な結論とに対する弁護論的な恐怖である。

 可変資本の価値は、この資本によって購買された労働力の価値に等しいのであるから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定するが、剰余価値のほうは労働日の超過部分によって規定されるのであるから、次のような結論が生じる・・剰余価値の可変資本に対する比は剰余労働の必要労働に対する比と等しい。すなわち、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働 である。両方の比率は、同じ関係をあい異なる形態で表現するのであって、一方は対象化された労働の形態で、他方は流動的な労働の形態で、表現する。
 したがって、剰余価値率は、資本による労働の、または資本家による労働者の、搾取度の正確な表現である(30a)。
(30a) 第2版への注。剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現であるけれども、搾取の絶対的な大きさの表現では決してない。たとえば、必要労働が五時間で剰余労働が五時間であれば、搾取度は一〇〇%である。ここでは搾取の大きさは五時間ではかられる。これに対して、必要労働が六時間で剰余労働が六時間であれば、一〇〇%という搾取度は不変のままであるが、他方、搾取の大きさは五時間から六時間に二〇%だけ増大する。

 われわれの仮定によれば、生産物の価値=(410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v))+90(m) であり、前貸資本=500ポンド・スターリング であった。剰余価値は九〇で前貸資本は五〇〇であるから、通常の計算方法にしたがって剰余価値率(人はこれを利潤率と混同する)は一八%と算出されるであろうし、この比例数の低さはケアリ氏その他の調和論者を感動させるかもしれない。しかし、実際には、剰余価値率はm/Cすなわちm/(c+v)ではなく、m/vであり、したがって、90/500ではなく、90/90=100%であって、外観上の搾取度の五倍以上である。さて、この場合、われわれは、労働日の絶対的な大きさを知らず、また労働過程の期間(日、週など)も知らず、最後に九〇ポンド・スターリングの可変資本が同時に運動させる労働者の数をも知らないにもかかわらず、剰余価値率m/v は、これを剰余労働/必要労働 に転換できるのであるから、労働日の二つの構成部分の相互の比率を正確にわれわれに示す。それは一〇〇%である。すなわち、労働者は、一日のうちの半分は自分のために、残りの半分は資本家のために労働したのである。
 したがって、剰余価値率の計算方法は、要約すれば次のようになる。生産物価値全体をとり、そこに再現するにすぎない不変資本価値をゼロに等しいとする。後に残る価値額は、商品の形成過程で現実に生みだされた唯一の価値生産物である。剰余価値が与えられているならば、可変資本を見いだすために、われわれは、剰余価値をこの価値生産物から差し引く。可変資本が与えられていて、剰余価値を求める場合には、逆に可変資本を差し引く。両者が与えられているならば、最後の演算をし、可変資本に対する剰余価値の割合m/v を計算しさえすればよい。
 方法はこのように単純ではあるが、その根底に横たわっている、読者に不慣れな見方について、いくつかの例をあげて慣れさせるのが適当であると思われる。
 まず、一万錘のミュール紡錘をもち、アメリカ綿花から三二番手の糸を紡いで、紡錘一錘あたり毎週一ポンドの糸を生産する紡績工場の例をとろう。屑は六%である。したがって、毎週一万〇六〇〇ポンドの綿花が加工されて、一万ポンドの糸と六〇〇ポンドの屑になる。一八七一年四月では、この綿花は一ポンドあたり七3/4ペンスかかり、したがって、一万〇六〇〇ポンドでは約三四二ポンド・スターリングかかる。一万錘の紡錘は、前紡機と蒸気機関とを含めて一錘あたり一ポンド・スターリング、したがって一万ポンド・スターリングかかる。その摩滅は〔年に〕10%=1000ポンド・スターリングであり、毎週では二〇ポンド・スターリングである。工場建築物の賃借料は三〇〇ポンド・スターリング、週あたりで六ポンド・スターリングである。石炭(一時間一馬力あたり四ポンド、一〇〇馬力(図示馬力)でもって週あたり六〇時間、建物の暖房を含む)は週あたり一一トン〔一トンは二二四〇ポンド〕で、一トン八シリング六ペンスずつで、週あたり約四1/2ポンド・スターリングかかるし、ガスは週あたり一ポンド・スターリング、油は週あたり四1/2ポンド・スターリング、したがってすべての補助材料は週あたり一〇ポンド・スターリングかかる。したがって、不変的価値部分は週あたり三七八ポンド・スターリングである。労賃は、週あたり五二ポンド・スターリングである。糸価格は、一ポンドあたり一二1/4ペンスであり、1万ポンド=510ポンド・スターリング であるから、したがって剰余価値は510−430=80ポンド・スターリング である。われわれは、三七八ポンド・スターリングの不変的価値部分をゼロとする。というのは、それは、毎週の価値形成には関与しないからである。残るのは、132=52(V)+80(m)ポンド・スターリング という毎週の価値生産物である。したがって、剰余価値率=80/52=一五三11/13%である。一〇時間の平均労働日では、必要労働=三31/33時間、剰余労働=六2/33時間 である(31)。
(31) 第2版への注。第1版であげた一八六〇年についての一紡績工場の例は、事実に関する若干の誤りを含んでいた。本文であげたまったく正確なデータは、マンチェスターの一工場主によって私に提供されたものである。・・注意すべきことは、イギリスでは旧馬力はシリンダーの直径に従って計算されたが、新馬力は、インディケーターが示す実馬力によって数えられるということである。

 ジェイコブは、一八一五年について、小麦価格は一クォーターあたり八〇シリング、一エーカーあたり二二ブッシェルの平均収穫、その結果一エーカーが一一ポンド・スターリングをもたらすと仮定して、上のような計算をあげている。〔『サミュエル。ウィットブレドへの手紙。イギリス農業が必要とする保護に関する諸考察の続編』、ロンドン、一八一五年、三三ページ〕。この計算は、種々の項目が前もって補整されているのできわめて不完全ではあるが、われわれの目的にとっては十分なものである。

・      一エーカーあたりの価値生産
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・  種子(小麦)       1ポンド・スターリング9シリング
・  肥料           2ポンド・スターリング10シリング
・  労賃           3ポンド・スターリング10シリング
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・   計           7ポンド・スターリング9シリング

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・  十分の一税、地方税、国税  1ポンド・スターリング1シリング
・  地代           1ポンド・スターリング8シリング
・  借地農業者の利潤と利子  1ポンド・スターリング2シリング
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・   計           3ポンド・スターリング11シリング


 生産物の価格はその価値に等しいとつねに前提すれば、剰余価値は、ここでは、利潤、利子、十分の一税などの種々の項目に配分されている。これらの項目はわれわれにとってはどうでもよい。われわれはそれらを合計し、三ポンド・スターリング一一シリングの剰余価値を得る。種子と肥料に支出された三ポンド・スターリング一九シリングは、不変資本部分としてゼロに等しいとする。三ポンド・スターリング一〇シリングの前貸可変資本が残り、それに代わって 3ポンド・スターリング10シリング+3ポンド・スターリング11シリング の新価値が生産されている。したがって、m/v=3ポンド・スターリング11シリング/3ポンド・スターリング10シリング となり、一〇〇%以上である。労働者は、自分の労働日の半分以上を、剰余価値の生産のために費やし、この剰余価値をさまざまな人々がさまざまな口実で分配しあうのである(31a)。
(31a) ここにあげた計算は、例証として通用するだけである。というのは、価格=価値 ということが想定されているからである。第3部でのべるように、この等置は、平均価格についてさえもこう単純な仕方では行なわれない〔第3巻、第1編、第1章や、同第2編、第9章、参照〕。



★   第2節 生産物の比率的諸部分での生産物価値の表現

 さて、われわれは、資本家がどのようにして貨幣を資本にするかを示した例にたち戻ろう。〔第5章、第2節「価値増殖過程」、参照〕。彼が雇う紡績工の必要労働は六時間、剰余労働も同じく六時間、したがって労働力の搾取度は一〇〇%であった。
 一二時間の労働日の生産物は、三〇シリングの価値を持つ二〇ポンドの糸である。この糸価値の8/10(二四シリング)だけは、単に再現するにすぎない消耗された生産諸手段の価値(二〇シリングの価値の二〇ポンドの綿花、四シリングの価値の紡錘など)によって形成されており、すなわち不変資本からなっている。残りの2/10は、紡績過程中に生じた六シリングの新価値であり、そのうちの半分は前貸しされた労働力の日価値すなわち可変資本を補填し、他の半分は三シリングの剰余価値を形成する。したがって、二〇ポンドの糸の総価値は次のような構成になっている。
・  30シリングの糸価値=24シリング(c)+(3シリング(v)+3シリング(m))
 この総価値は二〇ポンドの糸という総生産物において表現されているのであるから、さまざまな価値要素もまた当然、生産物の比率的諸部分で表現できるはずである。
 三〇シリングの糸価値が二〇ポンドの糸の中に存在するならば、この価値の8/10すなわち二四シリングの不変的部分は、生産物の8/10すなわち一六ポンドの糸の中に存在する。そのうちの一三1/3ポンドは、二〇シリングの原料の価値すなわち紡がれた綿花の価値を表現し、二2/3ポンドは、四シリングの消耗された補助諸材料および労働諸手段・・紡錘など・・の価値を表現する。
 したがって、一三1/3ポンドの糸は、二〇ポンドの糸という総生産物に紡がれたすべての綿花を、すなわち総生産物の原料を表わしているが、それ以上のものは何も表わしてはいない。たしかに、この一三1/3ポンドの糸の中には、一三1/3シリングの価値を持つ一三1/3ポンドの綿花が潜んでいるだけであるが、しかし、六2/3シリングというそれの付加的価値が、残りの六2/3ポンドの糸に紡がれた綿花の等価物を形成するのである。それは、まるでこの残りの六2/3ポンドの糸から綿花が引き抜かれて、総生産物中の綿花が一三1/3ポンドの糸に詰めこまれでもしているかのようである。これに反して、この一三1/3ポンドの糸は、今や、消費された補助諸材料および労働諸手段の価値の一原子をも、紡績過程で創造された新価値の一原子をも、含んではいない。
 それと同じように、不変資本の残り(=4シリング)が潜んでいる他の二2/3ポンドの糸は、二〇ポンドの糸という総生産物の中に消耗された補助諸材料および労働手段の価値以外のものは何も表現しない。
 したがって、生産物の8/10、すなわち一六ポンドの糸は、肉体的には、すなわち使用価値として糸として考察すれば、残りの生産物部分とまったく同じように紡績労働の形成物であるにもかかわらず、この関連では何らの紡績労働を、紡績過程そのもののあいだに吸収された労働を、含んではいない。それは、まるで紡ぐことなしに糸に転化でもしたかのようであり、糸といううその姿態は純粋のごまかしででもあるかのようである。実際、資本家がそれを二四シリングで販売し、それで彼の生産諸手段を買い戻す場合には、一六ポンドの糸は、綿花、紡錘、石炭などの変装したものにすぎないことが明らかになる。
 それとは逆に、後に残っている生産物の2/10すなわち四ポンドの糸は、今や、一二時間の紡績過程で生産された六シリングの新価値以外のものは何も表現しない。消耗された諸原料と労働諸手段との価値のうち、この四ポンドの糸の中に潜んでいるものは、すでに抜き出されて最初の一六ポンドの糸に合体された。二〇ポンドの糸に体現された紡績労働は、生産物の2/10に集中されている。それは、まるで紡績工が四ポンドの糸を空気で紡いだか、さもなければ、人間労働の関与なしに天然に現存し、生産物には何らの価値をもつけ加えない綿花と紡錘とをもって紡ぎでもしたかのようである。
 こうして、日々の紡績過程の全価値生産物は四ポンドの糸のうちに存在するのであるが、この四ポンドの糸のうち、半分はただ消費された労働力の補填価値を、したがって三シリングの可変資本を表現するのみであり、他の二ポンドの糸は三シリングの剰余価値を表現するのみである。
 紡績工の一二労働時間は六シリングに対象化されているのであるから、三〇シリングの糸価値には六〇労働時間が対象化されている。その六〇労働時間は二〇ポンドの糸のうちに存在するのであるが、この二〇ポンドの糸の8/10すなわち一六ポンドは、紡績過程以前にすぎ去った四八労働時間の体現物、すなわち糸の生産諸手段に対象化された労働の体現物であり、これに反して、2/10すなわち四ポンドは、紡績過程そのものにおいて支出された一二労働時間の体現物である。
 さきにのべたように、糸価値は、糸の生産において生みだされた新価値と、すでに糸の生産諸手段の中に前もって存在する諸価値の合計に等しい。今や、生産物価値の機能的または概念的に相異なる諸構成部分が、生産物そのものの比率的諸部分で表現されるということが明らかになった。
 生産物・・生産過程の結果・・が、生産諸手段に含まれている労働または不変資本部分だけを表現するある量の生産物と、生産過程でつけ加えられた必要労働または可変資本部分だけを表現するもう一つの量の生産物と、同じ過程でつけ加えられた剰余労働または剰余価値だけを表現する最後の量の生産物とに分解することは、後にこれを、錯綜した、なお未解決な諸問題に応用する時に示されるように、重要なことであると共に単純なことである。
 今までに、われわれは、総生産物を一二時間の労働日の完成した結果として考察した。しかし、われわれは、総生産物の生成過程をたどり、しかもなお、部分諸生産物を機能的に異なる生産物諸部分として表現することもできる。
 紡績工は、一二時間で二〇ポンドの糸を生産するのであるから、一時間で一2/3ポンドの糸を生産し、八時間には一三1/3ポンドの糸、すなわち全労働日中に紡がれる綿花の総価値に相当する部分生産物を、生産する。同じやり方で、次の一時間三六分の部分生産物は二2/3ポンドの糸であり、したがって一二労働時間中に消耗された労働諸手段の価値を表現する。同様にして、紡績工は、次の一時間一二分には 2ポンドの糸=3シリング を、すなわち彼が必要労働の六時間中に創造する価値生産物全部に等しい生産物価値を、生産する。最後に、彼は最終の6/5時間でやはり二ポンドの糸を生産するのであるが、それの価値は彼の半日の剰余労働によって生みだされた剰余価値に等しい。この計算の仕方は、イギリスの工場主の常用のものになっており、たとえば彼は、労働日の最初の八時間、すなわち2/3で綿花を回収し、云々と言うであろう。この定式は正しいのであって、実際、はじめの定式を、生産物の諸部分が完成してならべられている空間から、それらが相ついでたどる時間に翻訳したものにすぎないことがわかる。しかし、この定式はまた、きわめて無知な観念をともなうことがありえるのであって、実践的には価値増殖過程に関与〔interessiert〕していると共に、理論的にはこの過程を曲解することに利益〔Interesse〕を持つ人々の頭脳にあっては、ことにそうである。そこで次のように思いこまれることがありえる。すなわち、わが紡績工は、たとえば彼の労働日の最初の八時間には綿花の価値を、次の一時間三六分には消耗された労働諸手段の価値を、次の一時間一二分には労賃の価値を、生産または補填するのであり、そしてかの有名な「最後の一時間」だけを工場主に、すなわち剰余価値の生産にささげるのである、と。こうして紡績工には、綿花、紡錘、蒸気機関、石炭、油などをもって糸を紡ぎながら、それと同じ瞬間にこれらのものを生産し、そして、与えられた強度を持つ一労働日をそのような五労働日にするという、二重の奇跡が背負わされる。というのは、われわれの事例では、原料および労働諸手段の生産が24/6すなわち四日分の一二時間労働日を必要とし、それらのものを糸に転化するのにさらに一日分の一二時間労働日を必要とするからである。強欲がこのようなもろもろの奇跡を信じており、また、それらの奇跡を証明する空論的追従者に決してこと欠かないということについては、これから、歴史的に有名な一つの例でこれを示そう。


★   第3節 シーニアの「最後の一時間」

 一八三六年のある日、その経済学と名文とをもって聞こえた、いわばイギリス経済学者の中のクラウレンであるナッソー・W・シーニアは、オックスフォードからマンチェスターに呼び出された。これは、オックスフォードで経済学を教える代わりに、マンチェスターで経済学を学ぶためであった。工場主たちは、近ごろ公布された工場法〔一八三三年の工場法〕と、それを乗り越えてさらに進もうとしている一〇時間労働運動とに対抗する、懸賞試合の闘士として彼を選んだのである。彼らは、いつもながらの実際的な明敏さで、この教授先生には「“そうとう手をかけた仕上げが必要だ wanted a good deal of finishing ”」と前から認めていた。だからこそ彼をマンチェスターに呼び寄せたのである。他方、教授先生のほうは、マンチェスターで工場主たちから受けた講義を、『綿業におよぼす影響から見た工場法についての書簡』、ロンドン、一八三七年というパンフレットに書きあげた。この中では、とりわけ次のようなお説教を読むことができる・・
・ 「現行法のもとでは、一八才未満の者を雇用する工場は・・・・一日に一一時間半以上、すなわちはじめの五日間は一二時間、土曜日には九時間以上操業することはできない。さて、以下の分析(!)は、このような工場では、純利得の全部が最後の一時間から引き出されているということを示すであろう。ある工場主が一〇万ポンド・スターリングを投資するとしよう・・工場の建物および機械設備に八万ポンド・スターリング、原料および労賃に二万ポンド・スターリングである。資本が年に一回転し、総利得が一五%であると仮定すれば、この工場の年間売上高は、一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの価値を持つ商品となるに違いない。・・・・二三の半労働時間のそれぞれは、毎日、この一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの5/115すなわち1/23を生産する。一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの全体を構成する(constituting the whole 115 000Pfd.St.)この23/23のうちの20/23すなわち一一万五〇〇〇ポンド・スターリングのうちの一〇万ポンド・スターリングは、資本だけを補填する。1/23、すなわち一万五〇〇〇の総利得(!)のうちの五〇〇〇ポンド・スターリングは、工場および機械設備の摩滅を補填する。後に残る2/23、すなわち毎日の最後の二つの半時間が一〇%の純利得を生産する。したがって、価格は前と変わらないとして、工場が、一一時間半ではなく、一三時間操業することができるならば、約二六〇〇ポンド・スターリングの流動資本を追加することによって、純利得は二倍以上になるであろう。他方、もし労働時間が一日につき一時間だけ短縮されるならば、純利得は消滅するであろう。もし、労働時間が一時間半だけ短縮されるならば、総利得さえも消滅するであろう(32)。」
(32) シーニア、前出、一二、一三ページ。われわれは、われわれの目的にとってどうでもよい珍妙な諸点には立ちいらない。たとえば、工場主たちは、摩滅した機械設備など、したがって資本の一構成部分の補填を、利得として、・・総利得であろうと純利得であろうと、汚い利得であろうと清い利得であろうと・・計算するという主張がそれである。また、あげられた数字が正しいか誤っているかという点にも立ちいらない。それらの数字が、いわゆる「分析」と称するもの以上の何の値うちもないことは、レナド・ホーナーが、『シーニア氏への一書簡』、ロンドン、一八三七年、の中で証明した。レナド・ホーナーは、一八三三年の“工場調査委員”の一人であり、一八五九年までは工場監督官、実際上の工場監察官であって、彼は、イギリスの労働者階級のために不滅の功績を立てた。彼は、憤激した工場主たちに対してだけでなく、工場における「工員たち」の労働時間を数えることよりも下院における工場主たちの「票」を数えることのほうがはるかに重要だと思っている大臣たちに対しても、生涯にわたる闘争を遂行したのである。
・ 注32への追加。シーニアの叙述は、それの内容の誤りをまったく度外視しても混乱している。彼が本来言おうとしたことは、次のようなことであった。工場主は、労働者たちを毎日一一時間半、すなわち23/2時間、働かせる。個々の労働日と同じく、年労働も一一時間半、すなわち23/2時間(掛ける一年間の労働日の日数)から構成されている。このことを前提すれば、23/2労働時間は一一万五〇〇〇ポンド・スターリングの年生産物を生産する。1/2労働時間は、1/23×115,000ポンド・スターリング を生産する。20/2労働時間は 20/23×115,000ポンド・スターリング=100,000ポンド・スターリング を生産する。すなわち、それは前貸資本だけを補填する。3/2労働時間が残り、それは 3/23×115,000ポンド・スターリング=15,000 すなわち総利得を生産する。この3/2労働時間のうちの1/2労働時間は、 1/23×115,000ポンド・スターリング=5,000ポンド・スターリング を生産する。すなわち、それは工場および機械設備の摩滅の補填分だけを生産する。最後の二つの半労働時間、すなわち最後の一労働時間が、2/23×115,000ポンド・スターリング=10,000 を、すなわち純利潤を生産する。原文では、シーニアは、生産物の最後の2/23を労働日そのものの部分に転化している。

 この教授先生は、こんなものを「分析」と名づけているのである! 彼が労働者たちは一日の大部分を建物、機械、綿花、石炭などの価値の生産、したがってそれらの再生産または補填に浪費するという工場主たちの嘆きを信じたのであれば、どんな分析も余計であった。彼は、単純に次のように答えるべきであった。諸君! もし諸君が一一時間半ではなく一〇時間働かせるなら、他の諸事情はもとのままとして、綿花、機械設備などの日々の消耗も一時間半分だけ減少するであろう。したがって、諸君は、ちょうど諸君が損をするのと同じだけ得をすることになる。諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産または補填のために一時間半だけ少なく浪費するであろう、と。もし、彼が工場主たちの言葉を信じないで、専門家として分析が必要であると思ったのであれば、労働日の大きさに対する純利得の比率のみがもっぱら中心となっている問題について、彼は、何よりもまず、工場主諸君にお願いし、機械設備、工場建築物、原料、および労働をごちゃごちゃいっしょくたにしないで、どうか、工場建築物、機械設備、原料などに含まれている不変資本を一方の側に置き、労賃に前貸しされた資本を他方の側にお置きください、と言うべきであった。その上で、万一、工場主の計算どおりに、労働者が2/2労働時間すなわち一時間で労賃を再生産または補填すると言う結果になったとしたら、分析家は次のように続けるべきであった・・
 諸君の申し立てによれば、労働者は最後から二番目の一時間で自分の労賃を生産し最後の一時間で諸君の剰余価値すなわち純利得を生産する。労働者は等しい時間内には等しい価値を生産するのであるから、最後から二番目の一時間の生産物は、最後の一時間の生産物と同じ価値を持つ。さらに、労働者は、彼が労働を支出する限りにおいてのみ価値を生産するのであり、彼の労働の量は彼の労働時間によってはかられる。諸君の申し立てによれば、この労働時間は一日あたり一一時間半である。この一一時間半の一部分を、彼は自分の労賃を生産または補填するために消費し、他の部分を諸君の純利得を生産するために消費する。一労働日のあいだには、彼はそれ以上のことは何もしない。ところが、申し立てによれば、彼の賃金と彼によって提供される剰余価値とは等しい大きさの価値なのであるから、彼は明らかに、自分の労賃を五3/4時間で生産し、諸君の純利得をもう一つの五3/4時間で生産するのである。さらに、二時間分の糸生産物の価値は彼の労賃プラス諸君の純利得の価値額に等しいのであるから、この糸価値は一一1/2労働時間によってはかられなければならず、最後から二番目の一時間の生産物は五3/4労働時間によってはかられ、最後の一時間の生産物も同じく五3/4労働時間によってはかられなければならない。今や、われわれは取りあつかいの実に難しい点にきている。したがってご注意あれ! 最後から二番目の一労働時間は、最初のそれと同じように普通の一労働時間である。“それ以上でもそれ以下でもない”。そうだとすると、紡績工は、どのようにして一労働時間で五3/4労働時間を表わす糸価値を生産することができるのか? 実際には、彼はそのような奇蹟を行いはしない。彼が一労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸である。この糸の価値は五3/4労働時間によってはかられるのであって、そのうちの四3/4労働時間は、毎時間消費された生産諸手段すなわち綿花、機械設備などの中に彼の関与なしに潜んでいるのであり、4/4すなわち一労働時間は彼自身によってつけ加えられているのである。したがって、彼の労賃は五3/4時間で生産されるのであり、一紡績時間の糸生産物も同じく五3/4労働時間を含んでいるのであるから、彼の五3/4労働時間の価値生産物が一紡績時間の生産物価値と等しいということは、決して魔術でも何でもない。しかし、もし、紡績工は綿花、機械設備などの価値の再生産または「補填」によって彼の労働日のほんの一瞬間でも失うものだと諸君が考えるならば、諸君はまったく間違っているのである。彼の労働が綿花と紡錘とで糸を作ることによって、すなわち彼が糸を紡ぐことによって、綿花と紡錘との価値はおのずから糸に移行する。これは、彼の労働の質のせいであって、その量のせいではない。もちろん、彼は、一時間には1/2時間におけるよりもより多くの綿花価値などを糸に移転するであろうが、それはただ、彼が、一時間では1/2時間におけるよりもより多くの綿花を紡ぐからにほかならない。したがって諸君には次のことがおわかりであろう・・労働者は最後から二番目の一時間で彼の労賃の価値を生産し、最後の一時間で純利得を生産するという諸君の表現は、彼の労働日の二時間の糸生産物のうちには、その二時間がはじめにあろうと終わりにあろうと、一一1/2労働時間が、すなわち彼の前労働日の時間とちょうど同じだけの時間が、体現されているということ以上のことは何も意味しない。私が、労働力の支払いではなく労働の支払いと言うのは、諸君の俗語で語るためである。さて、諸君が、諸君の支払う労働時間と、諸君の支払わない労働時間との比率を比較するなら、諸君は、それが半日対半日、したがって一〇〇%であることを見いだすであろうが、これは、もちろん結構なパーセンテージである。また、もし諸君が、諸君の「工員たち」から一一時間半ではなく一三時間を手にいれることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した一時間半を単なる剰余労働につけ足すならば、剰余労働は五3/4時間から七1/4時間に増加し、したがって剰余価値率は一〇〇%から一二六2/23%に増大するであろうということもまったく疑いない。これに反して、もし諸君が、一時間半の付加によって剰余価値率が一〇〇%から二〇〇%になり、それどころか二〇〇%以上に上昇する、すなわち「二倍以上」になるものと期待するならば、諸君はあまりにもばかげた楽天家であろう。他方・・人間の心というのはおかしなもので、特に財布に心を奪われている時にはそうである・・もし、労働日が一一時間半から一〇時間半に短縮することによって、諸君の純利得の全部がだめになるであろうと恐れるならば、諸君はあまりにも気違いじみた悲観論者であろう。断じてそんなことはない。他の事情がすべてもとのままだと前提すれば、剰余労働は五3/4時間から四3/4時間に減少するであろうが、剰余価値率は今までどおり相当高い。すなわち八二14/23%である。そこで、かの宿命的な「最後の一時間」なるもの・・これについて諸君は、千年王国説の信奉者が世界の没落について語った以上の作り話を語ったのであるが・・は「“まったくのたわごと all bosh ”」なのである。それが失われるからといって、諸君にとって「純利得」が犠牲となることもないし、諸君によって働かされる男女の児童たちの「魂の純潔」が犠牲になることもないであろう(32a)。
(32a) シーニアが、工場主たちの純利得、イギリス綿業の存在、イギリスの世界市場での偉大さが「最後の一労働時間」にかかっていることを証明した時、ドクター・アンドルー・ユアのほうでは、おまけに、工場の児童および一八歳未満の年少者たちは、作業場の暖かくて純潔な道徳的雰囲気の中にまる一二時間閉じこめておかれないで、「一時間」早く冷酷で浮薄な外界に突き出されると、怠惰と悪徳によって彼らの魂の救いを奪われるということを証明した。一八四八年以来、工場監督官たちは、その半年ごとの『報告書』の中で、「最後の」「宿命的な一時間」の件でうむことなく工場主たちをからかっている。たとえばハウエル氏は、一八五五年五月三一日付の彼の工場報告書の中で次のように言う・・「もし次のような巧妙な計算」(彼はシーニアを引用する)「が正しかったとすれば、連合王国のすべての綿工場は、一八五〇年以来、赤字で操業していたことになるであろう」と(『工場監督官報告書。一八五五年四月三〇日に終わる半年間』一九、二〇ページ)。一八四八年に一〇時間法案が議会を通過した時、工場主たちは、ドーシットシアとサマシットシアとのあいだに散在する農村地方の亜麻紡績工場で何人かの正規の労働者たちに強要し、反対誓願文を出させたのであるが、その中ではとりわけ次のようにのべられている・・「われわれ請願者たちは、人の親として、暇な一時間を追加することは、子供たちを堕落させる以外には何の役にも立たないと考えます。というのは、怠惰は悪徳のもとであると信じるからです」と。これについて、一八四八年一〇月三一日の工場報告書は、次のようにのべている・・「これらの徳の高い情け深い親の子供たちが働いている亜麻紡績工場の空気は、原料から出る塵と繊維とのほこりが立ちこめているので、わずか一〇分間でさえ、紡績室ですごすことは非常に不愉快なほどである。というのは、避けようのない亜麻の塵で目、耳や鼻、口がすぐに塞がれてしまい、それを避けるすべもないので、この上もない苦痛を感じることなしにそこにいることはできないからである。労働そのものは、機械設備の熱狂的な速さのために、うむことを知らない注意力の制御を受けながら、たえず熟練と運動を充用することを要求される。そして、食事時間をのぞいてまる一〇時間、このような雰囲気の中でこのような仕事にしばりつけられている自分の子供たちに対して、『のらくら』という言葉を両親が用いるようにed向けるのは少し情け知らずであるように思われる。・・・・これらの子供たちは、近隣の村の作男たちよりも長時間労働している。・・・・『怠惰と悪徳』についてのこのような残酷なおしゃべりは、まったくの信心家ぶった言い草であり、また最も恥知らずな偽善として烙印を押されるべきである。・・・・約一二年前、工場主の『純利得』全部が『最後の一時間』の労働から流れ出るのであり、したがって、労働時間を一時間だけ短縮すれば彼の純利得が無くなってしまうということが、公然と大まじめに、確信を持って、しかも上級の当局の是認のもとで宣言されたが、公衆の一部はこの確信にびっくりした。ところが今になって『最後の一時間』の功徳に関するあの独創的発見が、それ以来はるかに改良されて、『道徳』をも『利得』をも等しく含むものになったということ、その結果、もし児童労働の時間がまる一〇時間に短縮されるならば、児童の道徳は彼らの雇い主の純利得もろとも、消えてなくなる・・というのは、純利得も道徳も、この最後の、この致命的な一時間に依存するのであるから・・ということを今や見いだすにおよんで、この公衆の一部は・・とわれわれは言う・・きっとほとんど自分の目を信じかねるであろう」と(『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一〇一ページ)。ついで、この同じ工場報告書は、これらの工場主諸君の「道徳」と「美徳」の見本、すなわち、彼らがまったく抵抗できない少数の労働者たちに先のような諸請願文に署名させるために、さらにそれらを一産業部門全体、各地域全体の請願文として議会に信じこませるために、彼らが用いた奸計、策略、誘惑、脅迫、偽造などの見本をあげている。シーニアは、のちにはあっぱれにも工場立法に精力的に味方したのであるが、そのシーニア自身も、また彼の最初およびその後の反対者たちも、あの「独創的発見」の誤った結論を解き明かすことができなかったことは、いわゆる経済「科学」の現状にとってきわめて特徴的なことである。彼らは、実際の経験に訴えた。“なぜ why ”と“何のために wherefore ”とは、依然として神秘のままであった。

 いつか諸君の「最後の時」が現実にやってくる時、オックスフォードの教授のことを思いたまえ。では、あの世でもっとおつきあいを深めよう。“さようなら! Addio! ”(33)・・・・と。一八三六年にシーニアによって発見された「最後の一時間」という警笛は、一八四八年四月一五日に、経済学の主要な大立物の一人であるジェームズ・ウィルスンによって、『ロンドン・エコノミスト』誌上で、一〇時間法を論難するためにあらためて吹き鳴らされた。
(33) とはいえ、この教授先生も、彼のマンチェスターへの旅行で何ほどかのもうけは得たのである! 『工場法についての書簡』によれば、純利得全部すなわち「利潤」および「利子」、それどころか「“それ以上のあるもの”」までが労働者の不払労働時間に依存している! その一年前、オックスフォードの学生と教養ある俗物との共通の利益のために著わされた彼の『経済学概論』においては、彼は、まだリカードの労働時間による価値規定に反対して、利潤は資本家の労働から生じ、利子は彼の禁欲、彼の「節欲」から生じるということを「発見」していた。このたわごとそのものは古いものであったが、"Abstinenz"〔節欲〕という言葉は新しいものであった。ロッシャー氏がこれを"Enthaltung"〔節制〕とドイツ語訳しているのは正しい。彼の同国人で彼ほどラテン語に通じていないヴィルト某々ら、シュルツェ某々ら、その他ミヒェル某々らは、これを坊主くさく"Entsagung"〔禁欲〕と訳している。



★   第4節 剰余生産物

 生産物のうち剰余価値を表わしている部分(第2節の例では二〇ポンドの糸の1/10すなわち二ポンドの糸)を、われわれは、剰余生産物(surplus produce, produit net)と名づける。剰余価値率が、資本の総額に対する剰余価値の比率によってではなく、資本の可変的構成部分に対する剰余価値の比率によって規定されるのと同じように、剰余生産物の水準も、総生産物の残部に対する剰余生産物の比率によってではなく、必要労働を表わしている生産物部分に対する剰余生産物の比率によって規定される。剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的目的であるのと同じように、富の高さの程度をはかるのは、生産物の絶対的大きさではなく、剰余生産物の相対的な大きさである(34)。
(34) 「二万ポンド・スターリングの資本を持ち、その利潤が年間二〇〇〇ポンド・スターリングとなる個人にとっては、彼の利潤がどんな場合にも二〇〇〇ポンド・スターリング以下に減少しないとすれば、彼の資本が一〇〇人を雇おうと一〇〇〇人を雇おうと、また生産された商品が一万ポンド・スターリングで売れようと二万ポンド・スターリングで売れようと、まったくどうでもよいことであろう。一国民の真実の利益もこれと同様ではあるまいか? その真実の純利得、すなわちその地代と利潤とが同じであるとすれば、その国民が一〇〇〇万人の住民からなっていようと一二〇〇万人からなっていようと、少しも重要ではない」(リカード『経済学および課税の原理』、四一六ページ〔堀経夫訳、『リカード全集』I、三九九ページ〕)。リカードよりずっと前に、剰余生産物の狂信者であるアーサー・ヤング・・彼は、とにかくおしゃべりで無批判的な著作家で、その名声はその功績に逆比例しているのではあるが・・は、とりわけ次のように言った。「現代の王国においては、一つの州全体が、古ローマ流に小独立農民によってどんなによく耕作されていたところで、何の役に立つであろうか? 人間を繁殖させるというたった一つの目的(the mere purpose of breeding men)、このこと自体まったく無目的なもの(is a most useless purpose)であるが、それ以外に何の目的があるだろうか?」と(アーサー・ヤング『政治算術』、ロンドン、一七七四年、四七ページ)。
・ 注34への〔第2版での〕追加。奇妙なのは、「剰余の富を労働者階級にとって有利であると主張する強い傾向」があることである。「しかし、たとえそれがそういう作用をするとしても、それが剰余の富であるからでないことは明かである。」(トマス・ホプキンズ『地代・・・・について』、ロンドン、一八二八年、一二六ページ)。

 必要労働と剰余労働との合計、すなわち労働者が彼の労働力の補填価値を生産する時間と剰余価値を生産する時間との合計は、彼の労働時間の絶対的大きさ・・労働日(working day)を形成する。


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