☆ 第8章 労働日
★ 第1節 労働日の諸限界
われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のあらゆる商品の価値と同様に、その生産に必要な労働時間によって規定される。したがって、労働者の平均的な日々の生活諸手段の生産に六時間を必要とするならば、労働者は、彼の労働力を日々生産するためには、あるいは彼の労働力を販売して受け取った価値を再生産するためには、平均して一日あたり六時間労働しなければならない。この場合には、彼の労働日のうちの必要部分は六時間であり、したがって他の事情が前と同じならば、一つの与えられた大きさである。しかし、そのことだけでは、労働日そのものの大きさはまだ与えられてはいない。
われわれは、線分 a・・・・・・b
が必要労働時間の継続または長さ、たとえば六時間を表わすものと仮定しよう。労働がabを超えて一時間、三時間、あるいは六時間などと延長されるのに応じて、われわれは三つの相異なる線分を得る・・
・ 労働日T a・・・・・・b・c
・ 労働日U a・・・・・・b・・・c
・ 労働日V a・・・・・・b・・・・・・c
これらの線分は、七時間、九時間、および十二時間という三つの異なる労働日を表わす。延長線bcは剰余労働の長さを表わす。労働日は ab+bc、すなわちacであるから、それは可変量であるbcと共に変化する。abは定量であるから、bcのabとの比はつねにはかることができる。それは、労働日Tではabの1/6、労働日Uでは3/6、労働日Vでは6/6になる。さらに 剰余労働時間/必要労働時間 という比率は剰余価値率を規定するから、剰余価値率は、右の比によって与えられている。それは、三つの異なる労働日において、それぞれ一六2/3%、五〇%、および一〇〇%になる。逆に、剰余価値率だけでは、労働日の大きさはわからないであろう。たとえばそれが一〇〇%であるとしても、労働日は八時間、一〇時間、一二時間などでありえる。それは、労働日の二つの構成部分、すなわち必要労働と剰余労働とが等しい大きさであることを示すのであろうが、この部分のそれぞれがどのような大きさであるかを示しはしないであろう。
したがって、労働日は不変量ではなく可変量である。その二つの部分のうちの一方は、たしかに労働者そのものの持続的な再生産のために必要な労働時間によって規定されているが、しかし、その全体の大きさは、剰余労働の長さまたは継続と共に変動する。それゆえ、労働日は規定されえるものではあるが、それ自体として規定されているものではない(35)。
(35) 「一労働日というのはあいまいな大きさであって、それは長いこともありえるし、短いこともありえる」(『工業および商業に関する一論。租税に関する諸考察を含む』、ロンドン、一七七〇年、七三ページ)。
ところで、労働日は固定的な大きさではなく流動的な大きさであるけれども、他方、それは一定の制限内でのみ変化しえる。しかし、その最小限度の制限は規定しえない。たしかに、延長線bc、すなわち剰余労働をゼロとすれば、一つの最小限度の制限、すなわち労働者が自己を維持するために一日のうちどうしても労働しなければならない部分が残る。しかし、資本主義的生産様式の基礎上においては、必要労働はつねに彼の労働日の一部分をなしえるのみであり、したがって労働日がこの最小限度の制限まで短縮されることは決してありえない。これに反して、労働日は一つの最大限度の制限を持っている。それは一定の限界を超えては延長されえない。この最大限度の制限は二重に規定されている。第一に、労働力の肉体的な制限によって。人間は、二四時間からなる一自然日のあいだには、一定量の生命力しか支出できない。それは、馬が日々八時間だけしか働けないのと同じである。一日のある部分のあいだにこの力は休息し、睡眠をとらなければならず、また他の部分のあいだに人間は食事をし、体を洗い、衣服を着るなどの他の肉体的な諸欲求を満たさなければならない。これらの純粋に肉体的な制限のほかにも、労働日の延長は社会慣行的〔moralisch〕な諸制限に突き当たる。労働者は、知的および社会的な諸欲求の充足のために時間を必要とするのであり、それら諸欲求の度合いと数は、一般的な文化水準によって規定されている。それゆえ、労働日の変化は、肉体的および社会的な諸制限の内部で行なわれる。しかし、この二つの制限はきわめて弾力性に富むものであって、変動の余地はきわめて大きい。こうして、八、一〇、一二、一四、一六、一八時間からなる労働日、したがってきわめて相異なる長さの労働日が存在するのである。
資本家は、労働力をその日価値で買った。一労働日のあいだ中、労働力の使用価値は彼のものである。したがって、彼は労働者を一日のあいだ自分のために労働させる権利を手にいれた。しかし、一労働日とは何か(36)? いずれにせよ、自然の一生活日よりは短い。どれだけ短いのか? 資本家は、この“極限
ultima Thule ”、すなわち労働日のやむをえない制限については彼独自の見解を持っている。資本家としては、彼はただ人格化された資本にすぎない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本は唯一の生活本能を、すなわち自己を増殖し、剰余価値を創造し、その不変部分である生産諸手段で、できる限り大きな量の剰余労働を吸収しようとする本能を、持っている(37)。資本とは、生きた労働を吸収することによってのみ吸血鬼のように活気づき、しかもそれをより多く吸収すればするほどますます活気づく、死んだ労働である。労働者が労働する時間は、資本家が、自分の買った労働力を消費する時間である(38)。もし労働者が、自分の処理しえる時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むことになるのである(39)。
(36) この質問は、バーミンガム商工会議所に対するサー・ロバート・ピールの有名な質問、「“一ポンドとは何か?
What is a pound?
”」よりもはるかに重要なのであって、右の質問は、ピールがバーミンガムの「“小シリング論者
little shilling men
”」とまったく同様に、貨幣の性質について無知であったからこそ提出されえたものである。
(37) 「支出された資本で、できる限り大きな量の労働を手にいれることが資本家の任務である。」("D'obtenir
du capital depense la plus forte somme de travail possible.")(J・G・クルセル−スヌイユ『工業的・・・・企業の理論的および実践的概論』、第二版、パリ、一八五七年、六二ページ)。
(38) 「一日につき一時間の労働を失うことは、商業国家にとってはぼう大な損害である」。「この王国の労働貧民のあいだでの奢侈品の消費はきわめて大きい。ことに製造業で働く庶民のあいだでそうである。そのことによって、彼らはまた彼らの時間を消費するのであって、それは最も致命的な消費である」(『工業および商業に関する一論』、四七および一五三ページ)。
(39) 「日雇い自由労働者が一瞬でも休めば、概念を持って彼を監視するさもしい経済は、自分のものを彼が盗むのだと主張する」(N・ランゲ『民法の理論』、ロンドン、一七六七年、第二巻、四六六ページ)。
したがって、資本家は商品交換の法則を楯に取る。彼は、他のすべての買い手と同じように、彼の商品の使用価値からできる限り大きな効用を手にいれようとする。しかし、生産過程の疾風怒涛の中でかき消されていた労働者の声が、突如として高くなる。
私があなたに売った商品は、その使用が価値を創造し、しかもそれ自身が値するよりも大きな価値を創造するという点で、他のありきたりの商品とは区別される。これこそあなたがその商品を買う理由だった。あなたの側で資本の増殖として現われるものは、私の側では労働力の余分な支出である。あなたと私とは、市場ではただ一つの法則、すなわち商品交換の法則を心えているだけだ。そして商品の消費は、それを譲渡する売り手のものではなく、それを手にいれる買い手のものである。したがって、私の日々の労働力の使用はあなたのものだ。しかし、私の労働力の日々の販売価格を媒介にして、私は日々この労働力を再生産し、したがって新たに売ることができなければならない。年齢などによる自然的な消耗を別にすれば、私は、あすもきょうと同じ正常な状態にある力と健康とはつらつさで労働できなければならない。あなたは私にたえず「倹約」と「節制」の福音を説教している。よろしい! 私は、分別のある倹約な一家のあるじのように、私の唯一の財産である労働力を管理し、そのばかげた浪費はいっさい節制することにしよう。私は毎日、労働力の正常な持続と健全な発達とに合致する限りでのみ労働力を流動させ、運動に、すなわち労働に転換しよう。労働日を無制限に延長することによって、あなたは、一日のうちに、私が三日間で補填できるよりも多くの量の私の労働力を流動させることができる。こうしてあなたが労働において得るものを、私は労働実体において失うのだ。私の労働力の利用とそれの略奪とは、まったく別な事柄だ。もし一人の平均労働者が合理的な労働基準のもとで生きることのできる平均期間が三〇年だとすれば、あなたが連日私に支払う私の労働力の価値は、それの総価値の1/(365×30)すなわち1/10950である。ところが、もしあなたが私の労働力を一〇年間で消費するとすれば、あなたが私に日々支払うのは、それの総価値の1/3650ではなく1/10950であり、したがってその日価値の1/3にすぎない、それゆえ私の商品の価値の2/3を日々私から盗むのである。あなたは三日分の労働力を消費しながら、私には一日分の労働力を支払うのだ。これは、われわれの契約および商品交換の法則に反する。したがって、私は標準的な長さの労働日を要求するのであり、しかもあなたの情に訴えてそれを要求するのではない。というのは、金銭取引に温情はないからだ。あなたは模範市民で、もしかすると動物虐待防止協会の会員で、その上、聖人のほまれが高いかもしれない。しかし、私と相対している時にあなたが代表している物には、胸で高鳴る心臓はない。その物の中で何かが鼓動しているように思えるなら、それは私自身の心臓の鼓動である。私は標準労働日を要求する。なぜなら、私は他のすべての販売者と同じように、私の商品の価値を要求するからである(40)。
(40) 一八六〇〜一八六一年に労働日を九時間に短縮するため、“ロンドンの建築労働者たち
London builders
”の大ストライキが行なわれたが、その最中に、彼らの委員会は一つの声明を発表した。それはわが労働者の上記の弁論とほとんど一致している。この声明はいささか皮肉をこめて、「“建築業者
building masters”」のうち最も貪欲な者・・サー・M・ピートウなる者・・が「聖人のほまれ」が高いことを当てこすっている。(このピートウも一八六七年以後没落した・・ストロウスバーグ式に!)
このように、まったく弾力的な諸制限を度外視すれば、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界、したがって剰余労働の限界は何ら生じないことがわかる。資本家が労働日をできる限り延長し、できることなら一労働日を二労働日にしようとする場合、彼は買い手としての彼の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独特な性質は、買い手がこの商品を消費することへのある制限を含んでいるのであって、労働者が、労働日を一定の標準的な大きさに制限しようとする場合、彼は売り手としての彼の権利を主張するのである。したがって、ここでは、どちらも等しく商品交換の法則によって確認された権利対権利という一つの二律背反が生じる。同等な権利と権利のあいだでは暴力がことを決する。こうして、資本主義的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の諸制限をめぐる闘争・・総資本家すなわち資本家階級と、全体労働者すなわち労働者階級とのあいだの一闘争・・として現われる。
★ 第2節 剰余労働に対する渇望。工場主とボヤール
資本が剰余労働を発明したのではない。社会の一部の者が生産諸手段を独占しているところではどこにおいても、労働者は、自由であろうと自由でなかろうと、生産諸手段の所有者のための生活諸手段を生産するために、自分の自己維持のために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えなければならない(41)。この所有者がアテネの“貴族
καλοζ καγαθοζ
”であろうと、エトルニア〔古代イタリア中部の古代国家〕の神政者であろうと、“ローマの市民
civis romanus
”であろうと、ノルマン人の領主であろうと、アメリカの奴隷所有者であろうと、ワラキアのボヤール〔Bojar,
領主〕であろうと、近代の大地主〔Landlord〕または資本家であろうと、そうである(42)。けれども、ある経済的社会構成体において、生産物の交換価値ではなくそれの使用価値が優位を占めている場合、剰余労働は、あるいは狭くあるいは広く、諸欲望の範囲によって制限されているのであって、剰余労働に対する無制限な欲求は生産そのものの性格からは発生しないということは明らかである。それゆえ、古典古代において、交換価値を自立的な貨幣姿態で獲得することが肝要である場合に、金銀の生産において過度労働は恐るべきものとなる。ここでは、死ぬまで労働を強制することが過度労働の公認の形態である。シチリアのディオドロスを読みさえすればよい(43)。それでもやはり、これは古典古代世界においては例外である。しかし、その生産がまだ奴隷労働、夫役労働などというより低い諸形態で行なわれている諸民族が、資本主義的生産様式によって支配されている世界市場に引きこまれ、この世界市場によって諸民族の生産物を外国へ販売することが、主要な関心事にまで発展させられるようになると、奴隷制、農奴制などの野蛮な残虐さの上に、過度労働の文明化された残虐さがつぎ木される。したがって、アメリカ合衆国の南部諸州における黒人労働は、生産が主として直接的な自家需要に向けられていた限りでは、穏和な家父長的な性格を保っていた。しかし、綿花の輸出がこれら諸州の死活の利害問題となるにつれて、黒人の過度労働が、所によっては黒人の生命を七年間の労働で消費することが、打算ずくめの制度の要因になった。黒人から一定量の有用生産物をしぼり出すことは、もう肝要ではなくなった。今や、剰余価値そのものの生産が肝要であった。夫役労働、たとえばドナウ諸侯国におけるそれについても同様である。
(41) 「労働する人々は・・・・富者と呼ばれる年金受領者と自分自身とを実際に養っている」(エドマンド・バーク『食糧不足に関する意見と実情』、二、三ページ〔永井訳、河出書房新社、二四七ページ〕)。
(42) ニーブーアは、彼の『ローマ史』〔第五版、一八五三年、七四ページ〕の中できわめて素朴に次のようにのべている・・「その廃虚を見てさえ驚嘆させられるエトルリアのような工事が、小さな(!)国々では領主と奴隷とを前提することは、隠しおおせるものではない」と。シスモンディははるかに深遠に、「ブリュッセルのレース」は賃雇い主と賃雇い人を前提すると言った。
(43) 「身体を清潔にしておくこともその裸体を包むことすらもできないこれらの不幸な人々」(エジプト、エチオピア、およびアラビアの境界にある金山の)「を見ると、彼らの痛ましい運命を嘆かずにはいられない。というのは、そこでは、病人であろうと身障者であろうと老人であろうとかよわい女性であろうと、だれに対しても情けも容赦もないのであるから。すべての者は、鞭に強制されて、死が彼らの苦痛と貧苦を終わらせるまで労働し続けなければならない」(ディオドロス・シクルス『歴史文庫』、第三巻、第一三章〔二六〇ページ〕)。
ドナウ諸侯国における剰余労働への渇望を、イギリスの工場における同じ渇望と比較することは、特別な興味がある。なぜなら、夫役労働における剰余労働は、一つの独自の感性的に知覚できる形態を有するからである。
労働日は六時間の必要労働と六時間の剰余労働からなるものとしよう。そうすれば、自由な労働者は資本家に対して毎週
6×6
すなわち三六時間の剰余労働を提供する。それは、労働者が週のうち三日は自分のために労働し、三日は無償で資本家のために労働するのと同じことである。しかし、このことは目には見えない。剰余労働と必要労働とはたがいに融合しあっている。したがって、私は、この同じ関係を、たとえば労働者は一分間ごとに三〇秒は自分のために、三〇秒は資本家のために労働するというように表現することもできる。夫役労働の場合には事情は異なる。たとえば、ワラキアの農民が自己維持のために行なう必要労働は、ボヤールのために行なう彼の剰余労働とは空間的に分離されている。彼は、一方を自分自身の畑で行ない、他方を領主の直営農場で行なう。したがって、労働時間のこの両部分は、独立に並んで存在する。夫役労働の形態においては、剰余労働は必要労働から厳密に分離されている。現象形態のこの相違は、明らかに剰余労働と必要労働の量的関係を少しも変えない。週に三日の剰余労働は、それが夫役労働と呼ばれようと賃労働と呼ばれようと、労働者自身のためには何らの等価物も形成しない三日の労働であることに変わりはない。けれども、資本家の場合には、剰余労働に対する渇望は労働日の無制限な延長への熱望となって現われ、ボヤールの場合にはもっと単純に夫役日数の直接的な追求となって現われる(44)。
(44) 以下にのべることは、クリミア戦争以来の変革以前に形成されていたルーマニア諸州の状態に関するものである。
夫役労働は、ドナウ諸侯国においては、現物地代その他の農奴制の付属物と結びついてはいたが、支配階級への決定的な貢租をなしていた。こういう事情の所では、夫役労働が農奴制から発生したことはまれであり、むしろたいていは、逆に、農奴制が夫役労働から発生した(44a)。ルーマニア諸州ではそうであった。これらの諸州の本源的な生産様式は共同所有を基礎としていたが、スラヴ的形態の共同所有ではなかったし、ましてインド的形態のそれではなかった。地所の一部分は自由な私的所有として、共同体の各構成員によって自立的に経営され、他の部分・・“共有地
ager publicus”・・は彼らによって共同的に耕作された。この共同労働の生産物は、一部は凶作その他の災害のための予備財源として、一部は戦費、宗教費、その他の共同体の支出をまかなうための国家備蓄として役だった。時がたつにつれて、軍事および宗教関係の高職者たちが、共有財産と共に、そのためになされるもろもろの給付を横奪した。自由農民たちが彼らの共有地で行なった労働は、共有地の盗人たちのための夫役労働に転化された。それと共に農奴制諸関係が発展したが、しかしこの諸関係は、世界の解放者ロシアが農奴制を廃止するという口実のもとにこれを法律に制定するまでは、ただ事実上発展したにとどまり、法律的に発展したのではなかった。ロシアの将軍キシリョーフが一八三一年に公布した夫役労働の法典は、もちろんボヤールたち自身によって口授されたものであった。こうしてロシアは、ドナウ諸侯国の大貴族たちと、全ヨーロッパの自由主義的白痴どもの拍手喝采を一挙にかちえた。
(44a) {第3版への注。・・このことはドイツにも、ことにエルベ河以東のプロイセンにも同じように当てはまる。一五世紀には、ドイツの農民は、ほとんどどこにおいても、生産物と労働とによる一定の給付の義務を課されてはいたが、その他の点では少なくとも実際上は自由な人間であった。ブランデンブルク、ポンメルン、シュレージエン、および東プロイセンのドイツの開拓者たちは、それどころか法的にも自由人として認められていた。農民戦争〔一五二四〜一五二六年〕における貴族の勝利が、この状態を終わらせた。敗北した南ドイツの農民たちがふたたび農奴となっただけではなかった。すでに一六世紀の中葉以来、東プロイセン、ブランデンブルク、ポンメルン、およびシュレージエンの自由農民が、そしてその後まもなくシュレースヴィッヒ=ホルシュタインの自由農民たちもまた、農奴に落とされるのである(マウラー『夫役農場』、第四巻。・・マイツェン『プロイセン国家の耕地』。・・ハンセン『シュレースヴィッヒ=ホルンシュタインにおける農奴制』)・・F・エンゲルス}
「“レグルマン・オルガニク Reglement organique
”」・・かの夫役労働の法典はこう呼ばれたのであるが・・によれば、ワラキアの農民いずれも、いわゆる土地所有者に対し、詳細に規定されたある量の現物納付以外に、(1)一二日の一般労働、(2)一日の耕作労働、および(3)一日の木材運搬、を行なう義務がある。“総計”で年に一四日である。といっても、この労働日なるものが、経済学への深い洞察で、その普通の意味にではなく、一日分の平均生産物をつくるために必要な労働日と解されているのであって、しかもこの一日分の平均生産物なるものが、どんな巨人でもそれを二四時間では仕上げられないように狡猾に規定されている。それゆえ、「レグルマン」そのものが、まったくロシア流の皮肉を含んだすげない言葉で、一二労働日とは三六日分の手労働の生産物と理解すべきであり、一日の耕作労働とは三日分のそれ、一日の木材運搬も同じく三倍のそれと理解すべきであると言明する。合計で四二夫役日である。しかし、その上にいわゆるヨバギー〔Jobagie〕、すなわち臨時の生産上の必要に応じて領主に提供すべき労役給付が加わる。どの村落も、その人口の大きさに比例して、毎年一定の割り当て人数をヨバギーに差し出さなければならない。この追加的夫役労働は、ワラキアの農民一人あたり一四日と見積られる。こうして、規定の夫役労働は年に五六労働日となる。しかし、ワラキアでは、気候が悪いために一年の農耕日数は二一〇日にすぎず、そのうちの四〇日は日曜および祭日のために、平均三〇日は悪天候のために、合計七〇日が失われる。残るのは一四〇労働日である。夫役労働対必要労働の比、56/84すなわち六六2/3%は、イギリスの農業労働者または工場労働者の労働を規制する剰余価値率よりもはるかに小さな剰余価値率を表現する。しかし、これは法律で規定された夫役労働であるにすぎない。それに、「レグルマン・オルガニク」は、イギリスの工場立法よりももっと「自由主義的」な精神で、それ自身の法網をたやすくくぐり抜けられるようにするすべを心えていた。それは、一二日を五四日にした後で、さらに五四日の各夫役日の名目上では一日分の仕事なるものが、その一部を翌日分への追加として持ち越さざるをえないように規定されている。たとえば、一日のうちにある広さの地面を除草するものとするとされているが、この地面は、特にトウモロコシ畑では、この作業のために二倍もの時間を必要とするのである。法定の一日分の仕事は、いくつかの農業労働については、その一日が五月に始まって一〇月に終わるというように解釈されうる。モルダヴィア地方については、これらの規定はもっと過酷である。
・
「レグルマン・オルガニクの一二夫役日は」、勝利に酔った一ボヤールはこう叫んだ、「一年に三六五日になる!(45)」と。
(45) もっとくわしいことは、E・ルニョ『ドナウ諸侯国の政治的社会的歴史』、パリ、一八五五年、に見いだされる。
ドナウ諸侯国のレグルマン・オルガニクが剰余労働に対する渇望の積極的表現であり、この各条項がそれを合法化したものであるとすれば、イギリスの工場諸法は同じ渇望の消極的表現である。これらの法律は、国家の名によって・・しかも資本家と地主との支配する国家の側から・・労働日を強制的に制限することにより、労働力を無制限にしぼり取ろうとする資本家の熱望を制御する。日々ますます威嚇的にふくれ上がる労働運動を度外視すれば、この工場労働の制限は、イギリスの畑地にグアノを注ぎこんだのと同じ必然性によってよぎなく行われたのである。この同じ盲目的な略奪欲が、一方の場合に大地を疲弊させ、他方の場合には国民の生命力の根源をすでに襲っていた。ここでは、周期的な流行病が、ドイツおよびフランスにおける兵士の身長低下(46)と同じように、そのことを明瞭に語ったのである。
(46) 「一般的には、有機体がその種の平均的大きさを超えることは、ある一定の限界内では、その有機体の繁栄を証明する。人間については、自然的事情によるにせよ社会的事情によるにせよ、その繁栄がさまたげられる時は、その身長が低下する。徴兵制がしかれているすべてのヨーロッパ諸国では、その実施以来、成年男子たちの平均身長が、また全体的に見て彼らの兵役適格性が低下した。革命(一七八九年)以前は、フランスでの歩兵の合格最低限は一六五センチメートルであった。一八一八年には(三月一〇日の法律では)一五七センチメートル、一八三二年三月二一日の法律によれば一五六センチメートルであった。フランスでは、平均して、半数以上が身長の不足および身体的欠陥のために不合格となった。ザクセンでは徴兵の合格身長は一七八〇年には一七八センチメートルであったが、今では一五五センチメートルである。プロイセンでは、それは一五七センチメートルである。一八六二年五月九日付の『バイエルン新聞』におけるマイアー博士の報告によれば、九年間の平均で、プロイセンでは一〇〇〇人の徴募兵のうち七一六人が兵役に不適格・・三一七人は身長不足のため、三九九人は身体的欠陥のため・・であることが判明した。・・・・ベルリンは、一八五八年に補充兵の応召兵員を提供することができず、一五六人が不足であった」(J・v・リービヒ『化学の農業および生理学への応用』、一八六二年、第七版、第一巻、一一七、一一八ページ)。
現在(一八六七年)も効力を持っている一八五〇年の工場法は、平日平均で一〇時間を許している。すなわち、週はじめの五日については朝の六時から晩の六時までの一二時間であるが、そのうち1/2時間が朝食のために、一時間が昼食のために法律によって差し引かれ、したがって残るのは一〇1/2時間労働であり、土曜日については朝六時から午後二時までの八時間で、そのうち1/2時間が朝食のために差し引かれる。残るのは六〇労働時間、すなわち週はじめの五日については一〇1/2時間、最後の日については七1/2時間である(47)。この法律の特別の番人である内務大臣直属の工場監督官たちが任命されていて、その報告書が半年ごとに議会の名によって公表される。それらの報告書は、したがって剰余労働に対する資本家の渇望の継続的かつ公式の統計を提供する。
(47) 一八五〇年の工場法の歴史は、本章の進行につれてのべられる。
しばらく、われわれは工場監督官たちの言うところを聞こう(48)。
・
「詐欺的な工場主は、朝の六時十五分前に・・時にはより早く、時にはより遅く・・仕事を始め、午後六時十五分すぎに・・時にはより早く、時にはより遅く・・仕事を終える。彼は、名目上、朝食時間として決められた三〇分の始めと終わりから五分間ずつを奪い取り、また昼食時間と決められた一時間の始めと終わりから一〇分間ずつを取り上げる。土曜日には、彼は午後二時以後一五分間・・時にはもっと長く、時にはもっと短く・・仕事をする。こうして彼の利得は次のようになる。
・
・ 午後六時以前・・・・・・・・15分
・ 午後六時以後・・・・・・・・15分
・ 朝食時間に・・・・・・・・・・10分
・ 昼食時間に・・・・・・・・・・20分
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 60分
・
・ 五日間の合計 300分
・
・
・ 土曜日
・ 午後六時以前・・・・・・・・15分
・ 朝食時間に・・・・・・・・・・10分
・ 午後二時以後・・・・・・・・15分
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・
・ 一週間の総利得 340分
・
・
すなわち週に五時間四〇分であり、これに祭日または臨時休業の二週間を差し引いた五〇労働週を掛ければ二七労働日になる(49)」。
・
「労働日が標準的な長さを超えて毎日五分間ずつ延長されるならば、年に二1/2生産日になる(50)」。「あちらこちらで、ほんのわずかの時間を奪い続けることによって得られる毎日一時間ずつの追加は、一年の一二カ月を一三カ月にする(51)」。
(48) イギリスにおける大工業の発端から一八四五年までの期間については、私はところどころでふれるだけにとどめ、これについては読者にフリードリッヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』、ライプツィヒ、一八四五年〔『全集』、第2巻〕を参照していただくことにする。エンゲルスが資本主義的生産様式の精神をどんなに深く把握したかは、一八四五年以来出版されている工場報告書、鉱山報告書などが示しており、また、彼がどんなに驚くほどくわしくその状態を描き出したかは、彼の著書と、一八年ないし二〇年後に公表された「児童労働調査委員会」の公式の報告書(一八六三〜一八六七年)とを、ざっと比較しただけでもわかる。すなわち、後者の報告書が取りあつかっているのは、一八六二年まではまだ工場立法が実施されておらず、部分的には今なお実施されていない産業諸部門なのである。したがって、これらの諸部門では、エンゲルスによって描写された状態に多少とも大きな変更が外部から押しつけられることはなかった。私は、主として、一八四八年以後の自由貿易時代、すなわち、ほら吹きで学問的にはでたらめな自由貿易行商人たちが、ドイツ人に対してファウヒャーばりに実にたくさんのつくり話をしゃべりまくるあの楽園時代から、私の例を借りてくることにする。・・いずれにしても、ここではイギリスだけが前面に立ち現われる。なぜなら、イギリスが資本主義的生産を典型的に代表しており、しかもイギリスだけが、取りあつかわれる対象についての公式の継続的な統計を持っているからである。
(49) 『工場規制法。下院の命により一八五九年八月九日印刷』の中の「工場監督官L・ホーナー氏の・・・・諸提案」、四、五ページ。
(50) 『工場監督官報告書。一八五六年一〇月に終わる半年間』、三五ページ。
(51) 『工場監督官報告書。一八五八年四月三〇日・・・・』、九ページ。
恐慌においては、生産は中断されて「短時間」しか、週のうち若干の日しか労働が行なわれないが、その恐慌も、もちろん、労働日を延長しようとする衝動に何の変化も生じさせない。仕事が行なわれるのがわずかであればあるほど、行なわれる仕事で得られる利得はそれだけ大きくならなければならない。労働しえる時間がわずかであればあるほど、それだけ多くの剰余労働時間の労働をしなければならない。こうして工場監督官たちは、一八五七年から一八五八年までの恐慌期について次のように報告する・・
・
「それほど景気が悪い時に何らかの過度労働が行なわれるというのは矛盾していると思われるかもしれないが、しかしこの景気の悪さが無法な人々を違反にかりたてる。こうして彼らは特別利潤を確保する・・・・」。「私の管区において一二二の工場が完全に廃業し、一四三の工場が操業を停止し、他のすべての工場が操業を短縮しているまさにその時に」・・とレナド・ホーナーは言う・・「法定時間を超えて過度労働が続けられている(52)」。「大多数の工場では不況のために半分の時間しか労働が行なわれていないにもかかわらず」・・とハウエル氏は言う・・「私はあい変わらず同じ数の苦情、すなわち労働者に法律的に保証された食事時間および休養時間を侵害することによって、労働者から毎日半時間または3/4時間がひったくられる(snatched)という苦情を受け取っている(53)」。
(52) 『工場監督官報告書』、同前、一〇ページ。
(53) 『工場監督官報告書』、同前、二五ページ。
同じ現象は、一八六一年から一八六五年までの恐ろしい綿花恐慌のあいだにも、より小さな規模でくり返されている(54)。
・
「われわれが食事時間中または他の違法な時間に労働者たちが仕事しているのを現場で押さえると、労働者たちがどうしても工場を立ちさろうとしないとか、また彼らの労働」(機械の掃除など)「をやめさせるためには、特に土曜日の午後には、強制が必要であるとかいったことが、しばしば口実とされる。しかし『工員たち』が、機械の停止後も工場に残っているのなら、それはただ、朝の六時から晩の六時までのあいだに、すなわち法定労働時間中に、そのような仕事をするための時間が彼らには許されていなかったからにほかならない(55)」。
・
「法廷時間を超えた過度労働で得られる特別利潤は、多くの工場主たちにとってあまりにも大きい誘惑であり、これに抵抗できないように思われる。彼らは運よく発見されないことを当てにしており、発見された場合でさえも、罰金と裁判費用が取るにたりない額なので、あい変わらず自分たちには差引利益が保証されると計算している(56)」。「一日中のちょろまかしの累積(a
multiplication of small thefts)によって追加時間が得られる場合には、監督官たちにとって、それを立証するのはほとんど乗り越えられない難事である(57)」。
資本がこのように労働者たちの食事時間や休養時間から「こそ泥」することを、工場監督官たちも、"petty
pilferings of minutes",「数分間のちょろまかし(58)」、"snatching
a few minutes",「数分間のひったくり(59)」、または労働者たちが仲間同士で呼んでいるように「“食事時間のかじり取り
nibbling and cribbling at meal times ”(60)」と言っている。
(54) 『工場監督官報告書。一八六一年四月三〇日に終わる半年間』、付録第二号を見よ。『工場監督官報告書。一八六二年一〇月三一日・・・・』、七、五二、五三ページ。違反は一八六三年の後半の半年間にふたたび増加している。『工場監督官報告書。一八六三年一〇月三一日に終わる半年間』、七ページ参照。
(55) 『工場監督官報告書。一八六〇年一〇月三一日・・・・』、二三ページ。工場主たちの法廷での供述によれば、彼らの工場の工員たちがいかに頑迷に工場労働のあらゆる中断に反対するかは、次のような奇妙な事実が示すとのことである。すなわち一八三六年六月のはじめにデューズベリー(ヨークシャー)の治安判事のもとに届いた告発によれば、バトリー付近にある八つの大工場の工場主たちが工場法に違反した。これらの紳士たちの一部は、一二歳から一五歳までの五人の少年を金曜の朝六時から翌土曜の午後四時までこき使い、食事時間と深夜の一時間の睡眠とのため以外にはどんな休息も許さなかったかどで告訴されていた。しかもこれらの児童たちは、この休みのない三〇時間の労働を、穴と呼ばれている「“ぼろ穴
shoddy-hole
”」・・そこは羊毛のぼろ切れが切り裂かれる所で、ほこりや屑などがもうもうとしていて成年労働者でさえも肺を保護するためにたえず口をハンカチでしばっていなければならない・・で行なわなければならなかった! 被告人諸公は、宣誓の代わりに・・彼らはクェーカー教徒として、あまりにも小心な宗教人であるから宣誓は行なわない・・次のように確言した。すなわち、自分たちは大いに同情して哀れな児童たちに四時間の睡眠を許していたのであるが、頑固な児童たちはどうしても床につこうとしなかった! と。クェーカー教徒諸公は、二〇ポンド・スターリングの罰金を宣告された。ドライデンは、これらのクェーカー教徒を予想していた・・
・ 「見かけは神々しさあふれる狐、
・ 誓いは恐れたが、悪魔のように
・ 嘘はついたろう、
・ 精進潔斎者のように、聖なる
・ 顔立ちを備え、
・ あえて罪を犯すのもお祈りを
・ 唱えてからだ!」
(56) 『工場監督官報告書。一八五六年一〇月三一日・・・・』、三四ページ。
(57) 同前、三五ページ。
(58) 同前、四八ページ。
(59) 同前。
(60) 同前。
明らかに、このような雰囲気の中では、剰余労働による剰余価値の形成は秘密でも何でもない。
・
「『もしあなたが毎日たった一〇分間だけ超過時間の労働をさせることを私に許すならば』・・と、きわめて尊敬すべき一工場主は私に言った・・『あなたは私のポケットに毎年一〇〇〇ポンド・スターリングを入れることになるのです』と(61)」。「時々刻々が利得の源である(62)」。
(61) 同前、四八ページ。
(62) 『工場監督官報告書。一八六〇年四月三〇日・・・・』、五六ページ。
この点では、全時間にわたって労働する労働者を、「“全日工
full timers ”」と呼び、六時間だけしか労働することを許されない一三歳未満の児童を「“半日工
half timers ”」と名づけること(63)以上に特徴的なことはない。ここでは労働者は、人格化された労働時間以上の何物でもない。すべての個人的区別は、「全日工」と「半日工」との区別に帰着する。
(63) この表現は、工場内でも工場報告書内でも公認の市民権を得ている。
★ 第3節 搾取の法的制限のないイギリスの産業諸部門
これまでわれわれが労働日の延長を求める衝動、剰余労働を求める人狼的な渇望を観察したのは、イギリスの一ブルジョア経済学者が言うように、アメリカのインディオに対するスペイン人の残虐さにも劣らない無制限な不法行為(64)のために、資本がついに法律的規制の鎖につながれるようになった領域においてである。そこで今度は、労働力のしぼり取りがこんにちにおいてもなお無拘束であるか、きのうまではまだそうであったいくつかの生産部門に目を向けよう。
・
「州治安判事であるチャールストン・ブロートン氏は、一八六〇年一月一四日にノッティンガム市の公会堂で開催されたある集会の議長としてこう言明した。すなわち、市の住民のうちレース製造業に従事している人たちのあいだでは、他の文明社会に見られないほどの苦悩と窮乏とが支配している、と。・・・・九歳ないし一〇歳の児童たちが、朝の二、三、四時に彼らのむさくるしいベッドから引きずり出され、露命をつなぐだけのものを得るために夜の一〇時、一一時、一二時まで強制的に働かされ、そのあいだに彼らの手足はやせ細り、彼らの体格は萎縮し、彼らの容貌は愚鈍な表情になり、彼らの人間性は、石のような無感覚状態にすっかり硬化して、見るだけでもまったくぞっとするほどである。われわれは、マリット氏やその他の工場主たちがあらゆる議論に抗議するため立ち現われたのに驚きはしない。・・・・この制度は、モンターギュ・ヴァルピー師がのべたように、無制限な奴隷状態の制度、社会的、肉体的、道徳的、知的な点で奴隷状態の制度である。・・・・成年男子たちの労働時間が一日一八時間に制限されるべきであるという誓願を行なうために公開の集会を催す町があることを、どう考えたらよいであろうか!・・・・われわれはヴァージニアやキャロライナの綿花農場主たちを非難する。けれども、彼らの黒人市場は、鞭打ちの恐怖と人肉売買とをともなうとしても、資本家の利益のためにヴェールやカラーを製造するのに行なわれる緩慢な人間屠殺よりも、いっそういまわしいものなのであろうか? (65)」
(64) 「工場主たちの貪欲、利得の追求における残虐さは、アメリカの征服に際して黄金を追い求めながらスペイン人が犯した残虐さにほとんど劣らないものであった」(ジョン・ウェイド『中間階級および労働者階級の歴史』、第三版、ロンドン、一八三五年、一一四ページ)。一種の経済学概論であるこの書の理論的部分は、当時としては若干の独創的なもの・・たとえば経済恐慌について・・を含んでいる。その歴史的な部分は、サー・F・M・イーデン『貧民の状態』、ロンドン、一七九七年、からの恥知らずな剽窃(ヒョウセツ)である。
(65) ロンドン『デイリー・テレグラフ』、一八六〇年一月一七日付。
スタッフォードシャーの製陶業(pottery)は、過去二二年のあいだに、三回にわたって議会の調査の対象となった。その結果は、「児童労働調査委員会」宛の一八四一年のスクリヴン氏の報告、枢密院医務官の命令によって公表された一八六〇年のグリーノウ医師の報告(『公衆衛生、第三次報告書』、第一部、一〇二〜一一三ページ)、最後に、一八六三年六月一三日付『児童労働調査委員会、第一次報告書』の中の一八六三年のロンジ氏の報告に記録されている。私の課題のためには、一八六〇年および一八六三年の報告書から、搾取されている児童たち自身の若干の証言を借りてくれば十分である。児童たちの状態から成人、特に未婚および既婚の女性たちの状態・・しかもそれにくらべれば綿紡績業などはきわめて快適で衛生的な仕事であると思える一産業部門における状態・・を推論できるであろう(66)。
(66) F・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、249〜251ページ〔『全集』、第2巻、440〜442ページ〕を参照。
九歳のウィリアム・ウッドは、「働き始めた時は七歳一〇カ月であった」。彼ははじめから「“型運びをした
ranmoulds
”」(型に入った仕上がり品を乾燥室に運び、その後空の型を持ち帰った)。彼は週に六日は、毎日、朝の六時にやってきて、晩の九時ごろに仕事をやめる。「私は週に六日は、晩の九時まで働きます。たとえば最近の七〜八週間はそうでした」。したがって、七歳の児童が一五時間労働を行なうのである! 一二歳の少年J・マリーは次のように供述する・・
・
「“私は型運びをし”ろくろまわしをします。私が来るのは朝の六時で、四時に来ることも時々あります。昨夜は、徹夜で今朝の六時まで働きました。私は昨夜から床についていません。昨夜は、私のほかにも八人ないし九人のほかの少年が徹夜で働きました。一人をのぞいて全員が今朝もまた来ています。私は週に三シリング六ペンス」(一ターレル五グロッシェン)「もらいます。徹夜で働いた場合でも、それ以上はもらいません。私は、先週は二晩徹夜で働きました」と。
一〇歳の少年ファーニハフ・・
・
「私はまる一時間を昼食のためにもらえるとは限りません。三〇分だけのこともしばしばで、木曜、金曜、土曜にはいつもそうです(67)。
(67) 『児童労働調査委員会、・・・・第一次報告書。一八六三年』、付録、一六、一九、一八ページ。
グリーノウ医師は、ストウク・アポン・トレントやウルスタントンの陶業地方では寿命が異常に短いと言明している。二〇歳以上の男子人口のうち製陶業に雇われている者は、ストウク地方では三六・六%ウルスタントンでは三〇・四%にすぎないにもかかわらず、この年齢層の男子のうち、第一の地方では死亡者数の半分以上が、第二の地方では約2/5が、肺疾患の結果死亡した陶工によって占められる。ハンリーの開業医ブースロイド博士は次のように供述している・・
・
「陶工は代々、前の代よりも矮小で虚弱である」と。
同様に、もう一人の医師マクベイン氏は供述する・・
・
「二五年前に私が陶工たちのあいだで開業しはじめて以来、この階級の顕著な退化が、身長と体重の減少としてしだいにひどくなっている」と。
これらの供述は、一八六〇年のグリーノウ医師の報告書から引用したものである(68)。
(68) 『公衆衛生、・・・・第三次報告書』、一〇三、一〇五ページ。
以下は、一八六三年の委員会の報告書からの引用である。北スタッドフォードシャー診療所の医長J・T・アーリッジ医師は言う・・
・
「陶工たちは、男子も女子も、・・・・一つの階級として、肉体的にも精神的にも退化した住民を代表する。彼らは、通常、発育不全で、体格が悪く、しばしば胸が奇形化している。彼らは早くから老いこんで短命である。彼らは無気力で血の気がなく、彼らの体質の虚弱さは、消化不良、肝臓・腎臓障害、リウマチという痼疾(コシツ)にかかることで示される。しかし、とりわけ彼らは、肺炎、肺結核、気管支炎、ぜんそくといった胸部疾患にかかりやすい。ある型のぜんそくは彼らに特有のものであって、陶工ぜんそくまたは陶工肺結核の名で知られている。腺、骨、身体のその他の部分をおかす腺病は、陶工の三分の二以上がかかっている病気である。この地方の住民の退化(degenerescence)がもっとひどくならないのは、もっぱら周辺の農村からの補充と、より健康な種族との結婚のおかげである」と。
最近までまだ同じ診療所の“住みこみ外科医
House Surgeon ”であったチャールズ・パースンズ氏は、ロンジ委員に宛てた手紙の中で、とりわけ次のように書いている・・
・
「私は個人的な観察から言えるだけであって統計的に言えるわけではありませんが、これらの哀れな児童たちの健康が、彼らの両親と雇い主との貪欲を満足させるため犠牲にされているのを見て、いく度となく憤りをおぼえたと断言してはばかりません」と。
彼は陶工病の諸原因を数え上げ、その最たるものは
"long hours" (「長時間労働」)であると総括している。委員会報告書は・・
・
「世界的に見てこのように卓越した地位にある製造業が、その大成功には、労働人口・・彼らの労働と熟練とによってこのように大成果が達成された・・の肉体的退化、多種多様な身体的病苦および早期死亡がともなうという汚名を、これ以上長く担うことはない(69)」ように希望している。
イングランドの製造業について言えることは、スコットランドのそれについても言える(70)。
(69) 『児童労働調査委員会。一八六三年』、二四、二二ページおよびXIページ。
(70) 同前、XLVIIページ。
マッチ製造業は、一八三三年に、すなわち燐を軸木そのものにつける発明に始まる。それは、一八四五年以来イングランドで急速に発展し、ロンドンの人口密集地域から、特にマンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、ノリッジ、ニューカースル、グラスゴーにも拡大したのであるが、それと共に、すでに一八四五年にヴィーンの一医師がマッチ製造工に特有な病気として発見していた顎けいれん症も広がった。労働者の半数は一三歳未満の児童と一八歳未満の年少者たちである。この製造業は、その不衛生さと不快さとのためにきわめて評判が悪いので、この仕事のために児童たち・・「ぼろを着た、餓死にひんした、まったくうっちゃらかしの、教育を受けていない児童たち(71)」・・を引き渡すのは、労働者階級のうちで最も零落した部分や餓死にひんした寡婦などだけである。ホワイト委員が(一八六三年に)尋問した証人のうち、二七〇人が一八歳未満、四〇人〔第3版、第4版、英語版では「五〇人」〕が一〇歳未満、一〇人はわずか八歳、五人はわずか六歳であった。一二時間から一四ないし一五時間にわたって変動する労働日、夜間労働、たいていは燐毒に満ちた作業室そのものの中でとられる不規則な食事。ダンテも、この製造業には彼の描く恐ろしさこの上ない地獄絵もおよばないことに気づくであろう。
(71) 同前、LIVページ。
壁紙工場では、粗製の種類のものは機械で、精巧な種類のものは手(“木版刷り
block printing
”)で印刷される。仕事が最もいそがしいのは一〇月はじめから四月末までのあいだである。この期間中は、この仕事はしばしば、しかもだいたい中断なしに、午前六時から晩の一〇時まで、また深夜までも続けられる。
J・リーチは供述する・・
・
「この冬」(一八六二年)「一九人の少女のうち六人が、過労からきた病気のため出てきませんでした。彼女たちに居眠りさせないため、私は怒鳴りつけなければなりません」と。W・ダフィーは言う・・「児童たちは、しばしば疲労のあまり目を開けていることができませんでした。実際、われわれでさえよくそんなふうになります」と。J・ライトボーンは言う・・「私は一三歳です。・・・・私たちはこの冬は晩の九時まで働きましたし、その前の冬は一〇時まで働きました。私は、この冬は足が痛くてほとんど毎晩声をあげて泣きました」と。G・アプスデンは言う・・「この子が七歳だった時、私はしょっちゅうこの子を背負って雪の中を往復しましたし、この子はいつも一六時間働いたものです!・・・・この子が機械について立っている時、ひざまずいてこの子に食べ物を食べさせることもしばしばでした。というのも、この子は機械を離れたり止めたりしてはならなかったからです」と。マンチェスターのある工場の業務執行社員であるスミスは言う・・「われわれ」(彼がわれわれと言うのは、「われわれ」のために働く彼の「工員たち」のことである)「は、食事のために中断したりしないで働くので、一〇時間半の一日の労働は午後四時半に終了し、後はすべて超過時間です(72)」。(いったい、このスミス氏は一〇時間半のあいだに自分の食事時間を持たないのであろうか?)「われわれ」(スミスその人)「は、晩の六時前に仕事をやめること」(彼が言っている意味は、「われわれの」労働力機械の消費をやめるということである)「はめったになく、その結果、われわれ」(“またもやクリスピヌス
iterum Crispinus
”〔「またもや同じ人物」の意〕)「は、実際、一年中超過時間の仕事をしています。・・・・児童も成人も」(一五二人の児童と一八歳未満の年少者、および一四〇人の成人)「一様に、過去一八カ月間、平均して少なくとも週に七日と五時間、すなわち週に七八時間半ずつ仕事をしました。今年」(一八六三年)「の五月二日までの六週間には、この平均はもっと高く・・週に八日すなわち八四時間でした!」と。
(72) これは、われわれが言う剰余労働時間という意味に解すべきではない。これらの諸君は、一〇時間半の労働を標準労働日とみなしているのであって、したがってこれには標準的な剰余労働も含まれている。この後に、いくらか余計に支払われる「超過時間」が始まる。のちの機会にのべるであろうが、いわゆる標準労働日中の労働力の使用は価値以下に支払われるのであり、したがって「超過時間」なるものはいっそう多くの「剰余労働」をしぼり出すための資本家の策略にすぎない。ついでながら、このことは、「標準日」中に使用される労働力が現実に価値どおりに支払われる場合でさえ変わりはないのである。
それでも、“荘重な複数用法”〔君主が「余」と言う場合に「われわれ」を使う用法〕がひどくお気に召しているこのスミス氏は、にやにやしながらつけ加える・・「機械労働は楽なものです」と。ところが“木版刷り”の使用者は言う・・「手労働は機械労働よりも衛生的です」と。全体的に言って、工場主諸氏は、「少なくとも食事時間中は機械を停止すること」という提案に対しては、憤激をもって反対を言明する。
・
バラ(ロンドンの)のある壁紙工場の支配人オトリー氏は言う・・「朝の六時から晩の九時までの労働時間を認める法律ならば、われわれには(!)きわめて適しているのであるが、しかし朝六時から晩の六時までという工場法の時間は、われわれには(!)適さない。・・・・われわれの機械は、昼食中は」(何という寛大さ)「停止される。この停止から生じる紙や絵の具の損は大したものではない」と。「しかし」と彼は思いやり深くつけ加える、「それにともなって生じる損失が好ましく思われていないということは理解できる」と。
委員会報告書は、素朴にも次のような意見をのべている・・いくつかの「有力な商会」が、時間、すなわち他人の労働をわがものにする時間を失い、また、それによって「利潤を失う」と懸念しているからといって、それが、一三歳未満の児童と一八歳未満の年少者たちから一二時間ないし一六時間ものあいだ彼らの昼食を「失わせ」てよいという「十分な理由」にはならないし、また、労働手段の単なる補助材料として、生産過程そのもののあいだに彼らに昼食を与える・・蒸気期間に水と石炭を、羊毛に石鹸を、車輪に油を給するのと同じように・・のでよいという「十分な理由」にもならない(73)、と。
(73) 『児童労働調査委員会。一八六三年』、付録、一二三、一二四、一二五、一四〇ページおよびLXIVページ。
イギリスの産業部門の中で、製パン業・・(われわれは最近やっと道を切り開き始めたばかりの機械製のパンは度外視する)・・ほど古風な、ローマ帝政時代の詩人たちの作から読み取れるような紀元以前の生産様式を、こんにちまで維持してきている部門はない。しかし、前にのべたように、資本は、さしあたり、それが征服する労働過程の技術的性格には無関心である。資本は、とりあえず、労働過程をそのあるがままに取りいれる。
信じられないほどのパンの不純物混和、ことにロンドンにおけるそれは、「食料品の不純物混和に関する」下院委員会(一八五五〜一八五六年)とハッスル博士の著書『摘発された不純物混和』とによって初めて暴露された(74)。これらの暴露の結果は「“飲食料品製造における不純物混和防止のための
for preventing the adulteration of articles of food and drink
”」一八六〇年八月六日の法律であったが、それは、不純商品の売買によって「“正直に金をもうけよう
to turn an honest penny
”」と企てるすべての“自由商業主義者”に対して、もちろん最大の思いやりを示しているので、実効のない法律であった(75)。この委員会そのものが、自由商業とは本質的に不純品の、またはイギリス人の気のきいた言い方によれば「ごまかし品」〔"sophistizierten
Stoffe"〕の取り引きのことだという確信を、いくらか素朴に言明した。実際に、この種の、「“ごまかし
Sophistik
”」は、白を黒に、黒を白にする術をプロタゴラスよりもよく心えており、あらゆる現実的なものが単なる仮象にすぎないことを“眼前に
ad oculos ”証明するすべをエレア派よりもよく心えている(76)。
(74) 粉末にするか塩をまぜたミョウバンが、「“パン屋の材料
baker's stuff ”」という意味ありげな名前を持つ通常の商品となっている。
(75) 周知のように、煤(スス)は炭素のきわめてエネルギーが高い形態であって、資本主義的煙突掃除夫がイギリスの借地農業者に販売する肥料になっている。さて、一八六二年に、イギリスの「“陪審員”」は、ある訴訟で、買い手に内緒で九〇%のほこりと砂が混ぜられている煤が「商業的」意味で「本物の」煤であるか、それとも「法律的」意味での「不純な」煤であるかを決定しなければならなかった。「“商業の友たち”」は、それは「本物の」商業的な煤であると決定を下して原告の借地農業者の訴えを却下し、おまけに原告は訴訟費用を支払わなければならなかった。
(76) フランスの化学者シュヴァリエは、商品の「“ごまかし製造
sophistications ”」に関する論文の中で、彼が検査している六〇〇いくつかの品目の多数について、一〇種、二〇種、三〇種のさまざまな不純物混和の方法を数え上げている。彼は、自分がすべての方法を知っているわけではなく、また自分が知っているすべての方法に言及しているわけでもない、とつけ加えている。彼は、砂糖については六種、オリーヴ油については九種、バターについては一〇種、塩については一二種、ミルクについては一九種、パンについては二〇種、ブランデーについては二三種、小麦粉については二四種、チョコレートについては二八種、ワインについては三〇種、コーヒーについては三二種などの不純物混和の仕方をあげている。主なる神でさえ、この運命をまぬがれない。ルアール・ド・カル『聖体の偽造について』、パリ、一八五六年、を見よ。
いずれにしても、委員会は、公衆の目を彼らの「日々のパン」、したがってまた製パン業者に向けさせていた。と同時に、公開の集会や議会に対する請願において、過度労働などに関するロンドンの製パン職人の叫びが響き渡った。この叫びがきわめて切実なものとなったので、さきに何度もふれた一八六三年の委員会の委員でもあったH・S・トリマンヒア氏が、王国調査委員会に任命された。彼の報告書(77)は、諸証言と相まって、公衆を・・その心をではなく胃袋を・・ゆり動かした。たしかに、聖書通のイギリス人は、恩寵によって選ばれた資本家や地主や聖務義務のない聖職禄受領者でないかぎり、顔に汗してパンを食う〔旧約聖書〕のが人間の天職であることは知っていたが、しかし、人間が自分のパンを食う時に、毎日、ミョウバン、砂、その他の結構な鉱物性成分は別としても、腫物の膿やクモの巣やゴキブリの死骸や腐ったドイツ製酵母の混じったある量の人間の汗の賜物を食わなければならないのだとは知らなかった。それゆえ、神聖な「自由商業」陛下には何の敬意も表することなしに、それまで「自由」であった製パン業が国家監督官の監督に服させられ(一八六三年の議会の会期末に)、同じ議会の法律により、一八歳未満の製パン職人たちに対して、夜の九時から朝の五時までの労働時間が禁止された。この最後の条項は、実に古きよき昔をしのばせるこの産業部門の過度労働について、あますところなく語っている。
・
「ロンドンの製パン職人たちの仕事は、通例、夜の一一時に始まる。この時間に彼はこね粉を作るが、これはきわめて骨の折れる工程であって、一焼き分の量およびその品質に応じて、半時間から3/4時間かかる。その後彼は、こね板の上に身を横たえる・・このこね板は同時に、こね粉をねるこね鉢のふたとしても役立つものである・・そして彼は、粉袋を枕にし、もう一枚の粉袋を身体にかけて二、三時間眠る。それから、こね粉を投げつけてこねたり、目方をはかったり、型に入れたり、オーブンの中に入れたり、オーブンから出したりといった敏速で絶え間のない五時間の労働が始まる。パン焼き場の温度は七五度から九〇度〔華氏。摂氏では約二四度から三二度〕に達し、小さいパン焼場ではそれより低いどころかむしろ高い。食パンやロールパンなどを作る仕事が終わると、パンの配達が始まる。日雇い人たちのかなりの部分は、上述のきつい夜業を終えた後、昼間はパンをバスケットに入れたり手押し車に乗せたりして家から家へと配り、そのあいだにもパン焼場で時々作業をする。季節と事業の大きさとに応じて、仕事は午後一時と六時のあいだに終わり、他方、職人たちの他の一部は夜遅くまでパン焼場で仕事についている(78)」。「ロンドン季節〔ロンドンの社交季節、初夏前後〕のあいだ、パンを『正常』な価格で売るウェストエンドの製パン業者の職人たちは、通常夜の一一時に仕事を始め、そのあいだにたいていはきわめて短い中休みを一回か二回するだけで、翌朝の八時までパン焼きに従事する。それから彼らは四時、五時、六時、それどころか七時までもパンの配達に使われ、時にはパン焼場でビスケット焼きにも使われる。仕事を終えた後で、彼らは六時間の睡眠をとる。わずか五時間か四時間のこともしばしばある。金曜日には、いつも仕事はもっと早く、たとえば晩の一〇時に始まり、そしてパンの調理にであれ、パンの配達にであれ、翌日の土曜の晩の八時まで間断なく続く。しかしたいていは夜を徹して日曜日の朝四時ないし五時まで続く。パンを『正常価格』で売る一流の製パン所においても、日曜日にはさらに四時間から五時間、翌日の準備の仕事がなされなければならない。・・・・『“安売り親方たち
underselling masters
”』」(パンを正常価格以下で売る親方たち)「・・これは前にのべたようにロンドンの製パン業者の3/4以上に達するのであるが・・の職人たちの労働時間はもっと長い。しかし、彼らの仕事はほとんどまったくパン焼き場に限られている。というのは、彼らの親方たちは、小さな小売店への供給をのぞけば、自分たちの“店”で売るだけだからである。週末近くには・・・・すなわち木曜日には、ここでの仕事は夜の一〇時に始まり、わずかな中休みがあるだけで、土曜の深夜まで続く(79)」。
(77) 『製パン職人たちが申し出た苦情に関する・・・・報告書』、ロンドン、一八六二年、および『第二次報告書』、ロンドン、一八六三年。
(78) 同前、『第一次報告書』、VI、VIIページ。
(79) 同前、LXXIページ。
「“安売り親方たち”」については、ブルジョア的立場でさえも「彼らの競争の基礎になっているのが、職人たちの不払労働(the
unpaid labour of the men)である(80)」という点を理解している。そして「“正常価格売り製パン業者
full priced baker
”」は、「“安売り”」競争者たちを他人の労働の盗人および不純生産物の製造者として調査委員会に告発している。
・
「彼らは、ただ公衆をあざむくことによってのみ、また彼らの職人たちから一二時間分の賃金と引き換えに一八時間をしぼり出すことによってのみ成功している(81)」。
(80) ジョージ・リード『製パン業の歴史』、ロンドン、一八四八年、一六ページ。
(81) 『報告書(第一次)。証拠』。「正常価格売り製パン業者」チーズマンの供述、一〇八ページ。
パンの不純物混和とパンを正常価格以下で販売する製パン業者階級の形成とは、イギリスでは、一八世紀のはじめ以来、この営業の同職組合的性格が衰微し、資本家が製粉業者または麦粉問屋の姿で名目的な製パン親方の背後に登場すると共に、発展した(82)。同時に資本主義的生産のための基礎、すなわち労働日の無制限な延長と夜間労働との基礎、がすえられた。ただし、夜間労働はロンドンにおいてさえ、ようやく一八二四年になって真に地歩を固めたのではあるが(83)。
(82) ジョージ・リード、前出。一七世紀末および一八世紀初頭には、ありとあらゆる営業に侵入しつつあった問屋(商事代理人)は、まだ当局から「“公的不法妨害
Public Nuisances ”」として告発されていた。それでたとえば、サマセット州の治安判事四季裁判所における“大陪審
Grand Jury ”は、下院に対して「“告発 presentment
”」をしたのであるが、それにはとりわけ次のようにのべられている・・「ブラックウェル・ホールのこれらの商事代理人は、公的不法妨害者であり織物業に害を与えるものであって、不法妨害として抑圧されるべきである」と。(『わがイギリスの羊毛の事例』、ロンドン、一六八五年、六、七ページ)。
(83) 『第一次報告書』、VIIIページ。
これまでのべたことから、委員会報告書が製パン職人たちを短命な労働者に数えており、労働者階級のあらゆる部分で当り前になっている多数の幼児死亡を幸いのがれたとしても、彼らが四二歳に達することはめったにないとしていることが理解できるであろう。それにもかかわらず、製パン営業はいつも就職希望者で満ちあふれている。ロンドンへのこれらの「労働力」の供給源はスコットランド、イングランドの西部農業地域、および・・ドイツである。
一八五八〜一八六〇年に、アイルランドの製パン職人たちは、夜間労働および日曜労働に反対する世論喚起のための大集会を自費で組織した。民衆は、たとえば一八六〇年のダブリンでの五月集会では、アイルランド人的な熱情をもって彼らに味方した。この運動によって、ウェクスフォード、キルケニー、クロンメル、ウォーターフォードなどでは、もっぱら昼間だけの労働が実に大成功のうちに実現された。
・
「周知のように賃職人の苦悩がまったく度はずれであったリメリクでは、この運動は製パン親方、ことに製パン兼製粉業者の反対に出会って失敗した。リメリクが先例となって、エニスとティペレアリーでの後退がもたらされた。公衆の怒りが最も活発な形態で表明されたコークでは、親方たちは、職人たちを追放するという彼らの権力の行使によって運動を敗北させた。ダブリンでは、親方たちは最も頑強に抵抗し、世論喚起運動の先頭に立っていた職人たちを迫害することによって残りの者に譲歩をよぎなくさせ、夜間労働および日曜労働への服従をよぎなくさせた(84)」。
イギリス政府はアイルランドにおいて寸分のすきなく武装しているのであるが、この政府の委員会は、ダブリン、リメリク、コークなどの情け容赦のない製パン親方に対して、沈痛な調子で抗議する・・
・
「本委員会の信じるところでは、労働時間は自然の諸法則によって制限されているのであって、これらの法則を犯して罰せられずにすまされることはない。親方たちは、解雇するとの脅迫によって、彼らの労働者に対し、その宗教的信念に違背し、世論の軽蔑と国法とへの不服従を強制することによって」(これらのことはすべて日曜労働をさしている)「資本と労働のあいだに不和をもたらし、かつ宗教、道徳、および公の秩序にとって危険な実例を与える。・・・・本委員会は、一二時間を超える労働日の延長が労働者の家庭的および私的生活の不法な侵害であり、各人の家庭生活を妨害し、彼が、息子、兄弟、夫、および父として家庭義務を履行するのを妨害することによって、有害な道徳的結果をもたらすものと信じる。一二時間を超える労働は、労働者の健康をむしばむ傾向があり、早い老化と早死とをもたらし、したがって、労働者家族の不幸をもたらすのである。これら家族は、家長による世話と扶養とを、最も必要としている時に奪われる("are
deprived")からである(85)」。
(84) 『一八六一年度のアイルランドの製パン業に関する調査委員会の報告書』。
(85) 同前。
以上は、アイルランドでのことであった。海峡の他の側、スコットランドでは、農業労働者、犂を手にする人が、きわめて厳しい天候の中で一三ないし一四時間労働し、それに加えて日曜日に四時間の追加労働を行なう(この安息日厳守の国で!)と告発し(86)、他方では、ロンドンのある大陪審の前に三人の鉄道労働者、すなわち車掌、機関士、および信号手が同時に立っている。ある大きな鉄道事故が数百人の乗客をあの世に送ったのである。鉄道労働者たちの不注意が事故の原因である。彼らは陪審員たちの前で異口同音にこう言明している。一〇年ないし一二年前には、自分たちの労働は一日にたった八時間にすぎなかった。最近の五、六年のあいだに、労働は一四、一八、二〇時間へしゃにむに引き上げられ、また行楽専用列車のように旅行好きな人々が特に激しく殺到する場合には、労働は、しばしば中断なしに四〇〜五〇時間続く。彼らは普通の人間であって、サイクロプスたち〔ギリシア神話における一つ目巨人〕ではない。ある時点では、彼らの労働力は役に立たなくなる。感覚麻痺が彼らを襲う。彼らの脳は考えることをやめ、彼らの目は見ることをやめる、と。まったく「“尊敬すべきイギリスの陪審員
respectable British Juryman ”」は、彼らを
"manslaughter" (非計画的殺人)のかどで陪審審判に付するという評決をもって答え、寛大な評決副申書の中で次のような殊勝な願いを表明している・・何とぞ鉄道関係の大資本家諸氏は、将来、必要な数の「労働力」を購入する際にはもっと気前よくふるまい、支払われた労働力を吸い取る時には、「もっと節制的」または「もっと禁欲的」または「もっと節約的」にされたい(87)、と。
(86) エディンバラ近くのラスウェイドにおける一八六六年一月五日の農業労働者の大衆集会。(一八六六年一月一三日付の『ワークマンズ・アドヴォケイト』を見よ。)一八六五年の末以来、農業労働者のあいだに労働組合が・・まず最初にスコットランドで・・結成されたことは、一つの歴史的なでき事である。イングランドで最も抑圧された農業地域の一つであるバッキンガムシャーでは、賃労働者たちが、一八六七年三月に、週賃金を九ないし一〇シリングから一二シリングに引き上げるため一大ストライキを行なった。〔「イングランドで」以下の一文はマルクスの第3版への追加〕・・(以上にのべた注から明らかなように、イギリスの農業プロレタリアートの運動は、一八三〇年以後彼らの激しい示威運動が抑圧されて以来、特に新しい救貧法〔一八三四年〕の実施以来、すっかり挫折していたが、六〇年代にふたたび始められ、ついに一八七二年には画期的なものにまでなる。私は第2部で、ふたたびこの点について、さらに一八六七年以来出版されたイギリス農業労働者の状態に関する青書について、ふれる。第3版への追加)。
(87) 『レノルズ・ペイパー』、一八六六年一月〔二一日〕。その直後に、この同じ週刊紙は、毎週のように「“おそるべき宿命的な事故”」、「“凄惨な悲劇”」などという「“センセーショナルな見出し”」をつけて、たくさんの新しい鉄道事故を掲載している。これに対し、北スタッフォード線の一労働者は次のように答えている・・「機関士と火夫の注意力が一瞬でもゆるめば、その結果どうなるかはだれもが知っている。それにしても、ひどい荒天の中で、中休みも休養もなしに際限なく労働が延長される場合、どうしてそれ以外のことが起こりえましょうか? 毎日起こっている例として、次の場合をあげましょう。この月曜日、一人の火夫が夜明け早々に一日の仕事を始めました。彼は一四時間五〇分後に仕事を終えました。お茶を飲む暇さえなく、彼はまた新たに仕事に呼び出されました。したがって、彼は二九時間一五分、休みなしに苦役を続けねばならなかったのです。彼の一週間の仕事の残りは以下のように組まれていました・・水曜日一五時間、木曜日一五時間三五分、金曜日一四時間半、土曜日一四時間一〇分、この週の合計は八八時間三〇分。そこで、彼が六労働日分の支払いしか受けなかった時の驚きを想像してください。この男は新米だったので、一日の仕事とはどれだけのことを言うのかと質問しました。答えは一三時間、したがって週あたり七八時間ということでした。では、一〇時間三〇分の余分な時間に対する支払いはどうなっているのか? 長い口論の末、彼は一〇ペンス」(一〇グロッシェン銀貨にもたりない)「の手当を受け取ったのです」(同前、一八六六年二月四日付)。
あらゆる職業、年齢、性からなる労働者たちの種々雑多な群れが、オデュッセウスに群がり寄る打ち殺された人々の魂よりもずっと熱心にわれわれのところに群がり寄る。そしてその小脇にかかえた青書を見なくても一目で彼らの過度労働が見てとれる、この群れの中からわれわれは、さらにもう二人の人物・・婦人服仕立女工と鍛冶工とを取り出そう。彼らの著しい対照ぶりは、資本の前で万人が平等であることを実証するのである。
一八六三年六月の最後の週、ロンドンのすべての日刊新聞は
"Death from simple Overwork"
(単なる過度労働からの死亡)という「センセーショナル」な見出しをつけた一文を掲載した。話題になったのは、非常に声望のある宮廷用婦人服仕立所で仕事をしていて、エリーズという感じのよい名前の女性に搾取されていたメアリー・アン・ウォークリーという二〇歳の婦人服仕立女工の死亡のことであった。しばしば語られた古い物語が、今また新たに発見されたのであって(88)、これらの娘たちは平均して一六時間半、しかし社交季節にはしばしば三〇時間も休みなしに労働し「労働力」が思うように動かなくなると、時おりシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えて動くようにしておくというのである。ところで、時はまさに社交季節の最中であった。新たに輸入されたイギリス皇太子妃〔のちのエドワード七世と一八六三年三月に結婚したデンマーク王女アレクサンドラ〕の祝賀舞踏会用の貴婦人たちの豪華なドレスをあっという間に仕上げるという魔法が必要であった。メアリー・アン・ウォークリーは、他の六〇人の娘たちと一緒に、必要な空気容積のほとんど1/3もない一室で三〇人ずつとなって、二六時間半も休みなく労働し、他方、夜は、一つの寝室をさまざまな板の仕切りで仕切った息詰まる穴の一つの中で、一つのベッドに二人ずつで寝た(89)。しかもこれは、ロンドンの婦人服仕立屋の中では比較的よい方であった。メアリー・アン・ウォークリーは金曜日に病気になり、エリーズ夫人の驚いたことには、その前に縫いかけの婦人服の最後の仕上げさえもせずに、日曜日に死んだ。あまりにも遅く死の床に呼ばれた医師キーズ氏は、「“検屍官審問陪審
Coroner's Jury ”」で、率直に証言した・・
・
「メアリー・アン・ウォークリーは過密な作業室における長時間労働と、狭すぎる換気不良の寝室とのために死んだ」と。
これに対して、「“検屍官審問陪審”」は、この医師に礼儀作法について教えをたれるために、次のように言明した・・
・
「死亡者は脳卒中で死んだのであるが、彼女の死が過密な作業場における過度労働などによって早められたものと懸念される理由がある」と。
わが「白人奴隷は」と自由貿易主義者コブデンおよびブライト両氏の機関紙『モーニング・スター』は叫んだ、「わが白人奴隷は墓場に入りゆくまで苦役させられ、音もなくなえ果てて死んでいく(90)」と。
・
「死ぬまで働くことは、婦人服仕立女工の作業場ばかりでなく、幾千もの場所において、それどころか商売が繁昌しているどの場所においても日常茶飯事なのである。・・・・鍛冶屋を例にとってみよう。もし詩人たちの言うことを信じてよいのであれば、鍛冶屋ほど元気で愉快な男はいない。彼は早く起き出して、太陽の昇る前に火花を打ち出す。彼はほかのどんな人間よりもよく食い、よく飲み、よく眠る。労働が適度であれば、純粋に肉体的に見て、彼は実際に人間の最良の状態の一つにある。しかし、われわれは、この男の後について都会へ行き、この頑丈な男に負わされる労働の重荷を見、彼がわが国の死亡率表の中でどのような位置を占めているかを見てみよう。マリルボン」(ロンドンの最大市区の一つ)「では、鍛冶屋は年に一〇〇〇人あたり三一人の割合で、すなわちイギリスの成年男子の平均死亡率よりも一一人多く死んでいる。人間のほとんど本能的な一技術であってそれ自体としては非難すべき点のない職業が、単に労働の過重というだけのことで人間の破壊者になる。人間は、毎日、何度かハンマーを打ち、何歩か歩き、何回か呼吸し、ある程度の量の仕事をやりとげ、そして平均してたとえば五〇年生きることができる。彼は、毎日、何度かより多くハンマーを打ち、何歩かより多く歩き、何回かより多く呼吸し、全部を合計して毎日四分の一だけ生命の支出を増やすよう強制される。彼はそれをやってみせる。そしてその結果として、彼はある限られた期間内に四分の一だけ多くの仕事をやりとげ、五〇歳ではなく三七歳で死ぬことになる(91)」。
(88) F・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、253、254ページ〔『全集』、第2巻443〜446ページ〕参照。
(89) “衛生局”に勤務している医師レサビー氏は、当時次のように言明している・・「成人にとっての最小限の空気は、寝室で三〇〇立方フィート、居室で五〇〇立方フィートでなければならない」と。ロンドンのある病院の医長リチャードスン博士は次のようにのべている・・「あらゆる種類の裁縫女工、すなわち婦人服仕立女工、衣服仕立女工、および普通の針子は、三重の不幸に悩まされている・・過度労働、空気欠乏、栄養不足または消化不良に。概してこの種の労働はどんな事情のもとでも男子よりは女子に適している。しかし、この事業の弊害は、特に首都では、それが二六人ほどの資本家によって独占され、彼らが資本から生ずる権力手段を使って労働から節約をしぼり取ること」(彼の言う意味は、労働力の浪費によって出費を節約するということ)「である。彼らの権力は、この女工たちの階級全体にわたって感じられている。ある衣服仕立女工がわずかな数の顧客の人たちでも獲得できれば、彼女は、競争上、自宅で死ぬほど働いて顧客たちを維持せざるをえないのであり、さらにこの同じ過度労働を、自分の助手たちにどうしてもやらせなければならなくなる。彼女が事業に失敗するか、または独立して身を立てることができなければ、彼女は、労働は少なくなりはしないが支払いは確実となる店に頼みこむ。そういう立場に身をおけば、彼女はまったくの女奴隷となり、社会の波浪によってほんろうされる。ある時は自宅の小さな一室で飢えに苦しめられるか、またはそれに近い状態にあり、次にはふたたび、一日二四時間のうち一五、一六時間、それどころか一八時間も、ほとんどがまんしきれない空気の中で、しかも新鮮な空気がないために質のよいものでも消化されえない食物をとりながら仕事をする。肺結核とは、これらの犠牲者を食って生きているものであって、それは一種の空気病以外の何物でもない」(リチャードスン博士「労働と過度労働」。所収、『社会科学評論』、一八六三年七月一八日号)。
(90) 『モーニング・スター』、一八六三年六月二三日付。『タイムズ』紙は、ブライトらに反対してアメリカの奴隷所有者を弁護するためにこの事件を利用した。それは次のように言う・・「われわれのきわめて多くの者の考えでは、われわれ自身の若い女性たちをぴしりというムチ音の代わりに飢餓という責め苦で死ぬまで働かせている限り、生まれながらに奴隷所有者であって、自分たちの奴隷を少なくとも立派に養い、ほどほどに働かせている家柄の者たちに対し、放火と剣を向けよとそそのかす権利は、われわれにはあまりない」(『タイムズ』、一八六三年七月二日付)。同じやり方でトーリー党の機関紙『スタンダード』は、ニューマン・ホール師を次のように罵倒している・・「彼は奴隷所有者たちを破門しているとのことであるが、ロンドンの御者や乗合馬車の車掌などを犬なみの賃金で一日一六時間も働かせている立派な人々と一緒にお祈りしているのである」。最後に、トマス・カーライル氏がご託宣をならべたが、彼については私はすでに一八五〇年に「天才はだめになり、崇拝が残っている」と書いた。彼は、一つの短いたとえ話の中で、現代史の唯一の大事件であるアメリカの南北戦争が、つまるところは、次のようなことだとしている・・すなわち、北部のピーターは南部のポールの頭蓋を全力をこめて打ち砕こうと欲しているのであるが、その理由は、北部のピーターがその労働者を「日ぎめで」雇っているのに、南部のポールがそれを「一生涯雇っている」からだというのである(「クルミの殻の中のアメリカのイリアス」、『マクミランズ・マガジン』、一八六三年八月号)。こうして、都市の・・農村のでは断じてない・・賃労働者に対するトーリー党の同情の気泡はついにはじけ散ってしまった。この同情の核心は・・すなわち奴隷制である!
(91) リチャードスン博士、前出〔四七六〜四七七ページ〕。
★ 第4節 昼間労働と夜間労働。交替制
不変資本である生産諸手段は、価値増殖過程の立場から考察すれば、労働を・・そして一滴一滴の労働と共に剰余労働のある比率的量を・・吸収するためにのみ定在する。生産諸手段が剰余労働の吸収を行なわない限り、その単なる存在は資本家にとって消極的損失である。というのは、それらが使用されないでいる時間中は、それらは無用な資本前貸しを表わしているからである。そして、この使用中断によって仕事の再開のために追加支出が必要となるようになるやいなや、この損失は積極的なものとなる。自然日の限界を超えて労働日を夜間まで延長することは、単に緩和剤の作用をするだけであり、労働という生き血を求める吸血鬼の飢えを、ただある程度しずめるだけである。それゆえ、一日の二四時間全部にわたって労働をわがものにすることが、資本主義的生産の内在的衝動なのである。しかし、同じ労働力が昼夜連続にしぼり取られるなどということは肉体的に不可能であるから、この肉体的障害を克服するために、昼間食いつくされる労働力と夜間に食いつくされる労働力との交替が必要になる。この交替にはさまざまな方法がありえるのであって、たとえば労働人員の一部がある週には日勤に就き、次の週には夜勤に就くというように編成されえるのである。周知のように、この交替制、この輪番制は、イギリス綿業などの血気さかんな少壮期に支配的に行なわれていたのであり、とりわけ現在では、モスクワ県の綿紡績工場においてさかんに行なわれている。この二四時間の生産過程は、大ブリテンの今もって「自由な」多くの産業諸部門、とりわけイングランド、ウェールズ、およびスコットランドの溶鉱炉、鍛冶工場、圧延工場その他の冶金工場において、こんにちもなお制度として存在している。労働過程は、ここでは、六平日労働日の毎日の二四時間以外に、たいていは日曜日の二四時間をも含んでいる。労働者は男子と女子、すなわち男女の成人と児童たちとからなっている。児童および年少者たちの年齢は、八歳から(若干の場合には六歳から)一八歳にいたるまでのあらゆる中間の年齢層にわたっている(92)。若干の部門では、また、未婚および既婚の女子たちが男子従業員と一緒に夜業をしている(93)。
(92) 『児童労働調査委員会、第三次報告書』、ロンドン、一八六四年、IV、V、VIページ。
(93) 「スタッフォードシャーにおいても南ウェールズにおいても、若い娘や女性たちが炭坑やコークス置き場で昼間だけでなく夜間も就業させられている。この慣行は、しばしば議会に提出された報告書で、大きな明白な弊害をともなうものとして言及された。これらの女性たちは男子と一緒に仕事をし、衣服からは男子と区別することはほとんどできず、ほこりや煤で汚れていて、品性の堕落の危険にさらされている。なぜなら、彼女たちの女性らしくない仕事から十中八九まで避けられない結果であるが、自尊心を失っているからである」(同前、第一九四号、XXVIページ。『第四次報告書』(一八六五年)、第六一号、XIIIページ参照)。ガラス工場においても同様である。
夜間労働の一般的な有害な影響度を度外視しても(94)、生産過程が、休みなしに二四時間継続することは、名目的労働日の限界を踏み越えるための絶好の機会を与える。たとえば、今のべたきわめて骨の折れる産業諸部門においては、どの労働者にとっても公認の労働日は、夜間でも昼間でも、たいてい一二時間である。しかし、この限界を超える過度労働は、イギリスの公式報告書の言葉を借りれば、多くの場合、「真に恐るべき」("truly
fearful")(95)ものである。
「どんな心根の人でも」・・報告書は次のように言う・・「九歳から一二歳の少年たちが行なっていると証言されている労働量のことを知れば、両親や雇い主たちのこうした権力の濫用はもはや許されるべきではないという結論に達せざるをえない(96)」と。
・
「少年たちを昼夜交替で働かせる方法は一般に、事業の繁忙時も平常時にも、労働日の法外な延長に導く。この延長は、多くの場合、残酷だというにとどまらず、それこそ信じがたいほどのものである。あれこれの理由から、交替の少年が時々欠勤するということが必ずある。その場合には、すでに自分の労働日を終えた出勤中の一人または数人の少年がその欠落を埋めあわせなければならない。この制度は一般的によく知られているので、ある圧延工場の支配人は、欠勤した交替少年たちの席はどのようにして埋めあわされるのかという私の質問に対して、たぶんあなたも私と同じようによくご存知でしょう、と答え、少しもためらうことなく事実を認めたほどである(97)」。
・
「ある圧延工場では、名目的労働日が朝の六時から晩の五時半までであったが、ある少年は、毎週四晩は、少なくとも翌日の晩の八時半まで働き・・・・しかもこれが六カ月間続いた」。「もう一人の少年は、九歳の時には、時々一二時間労働の三交替分をぶっ続けで働き、一〇歳の時には二日二晩ぶっ続けで働いた」。「現在一〇歳の第三の少年は朝の六時から三晩は夜の一二時まで、その他の晩は晩の九時まで働き続けた」。「現在一三歳の第四の少年は、まる一週間のあいだ午後六時から翌日の正午で働き、しかも時々三交替分をぶっ続けで、たとえば月曜日の朝から火曜日の夜まで働いた」。「現在一二歳の第五の少年は、ステイヴリーのある鋳鉄所で、朝の六時から夜の一二時まで一四日間働き通したが、それ以上続けることはできない」。ジョージ・アリンズワース、九歳は言う・・「私は、この前の金曜日にここへ来ました。翌日、私たちは朝三時に始めなければなりませんでした。ですから、私は夜通しここにとどまっていました。住居はここから五マイル離れたところです。革の前掛けを敷き、小さなジャケツを掛けてゆかの上に寝ました。他の二日は朝の六時にここへ来ました。ほんとに! ここは暑い所です! ここへ来る前には、私はやっぱりまる一年間ある溶鉱炉で働きました。それは、いなかのとても大きな工場でした。そこでも土曜日には朝の三時に始めましたが、家が近かったので、少なくとも家へ帰って寝ることができました。ほかの日には、私は朝の六時に始め、晩の六時か七時に終わりました(98)」など、と。
(94) 児童を夜間労働に使用しているある製鋼業者はのべた・・「夜間に労働する少年たちが、昼間は眠ることもちゃんとした休息をとることもできず、翌日は休みなく走りまわるのも、当然であると思われる」と(同前、『第四次報告書』、第六三号、XIIIページ)。身体の維持と発達にとって太陽光線の持つ重要性について、一医師はとりわけ次のようにのべている・・「光線はまた、肉体の諸組織に直接に作用して、それに強靭性と弾力性とを与える。標準量の光線を与えられない動物の筋肉は、海綿状で非弾力的なものとなり、神経力は刺激の不足のためにその緊張力を失い、発育中のすべてのものの成熟がさまたげられる。・・・・児童の場合には、たえず豊かな昼間の光に接すること、また昼間のある部分のあいだたえず直射日光に接することは、健康にとってまったく欠くことのできないことである。光線は、食物が良質の成形的血液に作り上げられるのを助け、また繊維が形成された後にこれを強靭にする。光線はまた、目に対する刺激物として作用し、これによって脳のさまざまな機能のより大きな活動を呼び起こす」と。この一文はウスター「“総合病院”」の医長W・ストレンジ氏の「健康」についての著書(一八六四年)から引用したものであるが、氏は調査委員の一人であるホワイト氏宛の手紙の中で、次のように書いている・・「私は以前、ランカシャーにおいて、夜間労働が工場児童たちにおよぼす影響を観察する機会を持ったのですが、いく人かの雇い主が好んで保証するところとは反対に、私は、児童たちの健康がそれによってまもなく害されたと断固として明言します」と(『児童労働調査委員会、第四次報告書』、第二八四号、五五ページ)。そもそも、このようなことがまじめな論争の対象になるということが、資本主義的生産が資本家とその“家来たち”との「脳機能」にどのように作用するものであるかを、最もよく示している。
(95) 同前、第五七号、XIIページ。
(96) 同前(『第四次報告書』、一八六五年)、第五八号、XIIページ。
(97) 同前。
(98) 同前、XIIIページ。これらの「労働力」の教育程度は、当然のことながら、調査委員の一人との次のような会話に現われているようなものであるに違いない! ジェリマイア・ヘインズ、一二歳、・・「・・・・四の四倍は八ですが、四を四つ寄せる(4
fours)と一六です。・・・・王様とは、すべてのお金と金(キン)を持っている人です。(A
king is him that has all the money and gold.)私たちにも王様がいますが、それは女王だそうで、アレクサンドラ内親王というのだそうです。彼女は女王の息子と結婚したのだそうです。内親王は男です」。ウィリアム・ターナー、一二歳・・「イングランドには住んでいません。そんな国があるとは思いますが、前にはそんな国のことは何も知りませんでした」。ジョン・モリス、一四歳・・「神様が世界を作ったことや、一人をのぞいて全部の人が溺れ死んだということを聞いたことはあります。その一人は小鳥だったと聞きました」。ウィリアム・スミス、一五歳・・「神様が男を作り、男が女を作りました」。エドワード・テイラー、一五歳・・「ロンドンのことは何も知りません」。ヘンリー・マシューマン、一七歳・・「たびたび、教会へいきました。・・・・説教で話された名前は、イエス・キリストとかいいましたが、私はそのほかの名前は知りませんし、イエス・キリストについても何も知りません。彼は殺されたのではなく、他の人々と同じように死んだのです。彼は他の人々とはいくらか違っていました。なぜかというと、彼はいくらか信心深いところがあったのですが、他の人はそうではなかったからです。(He
was not the same as other people in some ways, because he was
religious in some ways, and others isn't.)」(同前、第七四号、XVページ)「悪魔はよい人です。私はそれがどこに住んでいるかは知りません。キリストは悪い奴でした」。("The
devil is a good person. I don't know where he lives. Christ was a
wicked man.")「この少女(一〇歳)は、God〔神〕をDog〔犬〕とつづり、女王の名前を知らなかった」(『児童労働調査委員会、第五次報告書』、一八六六年、五五ページ、第二七八号)。上述の冶金工場で行なわれているのと同じ制度は、ガラス工場や製紙工場においても支配的に行なわれている。紙が機械で製造される製紙工場では、ぼろ布選別の工程以外のあらゆる工程にとって、夜間労働が通例となっている。若干の場合、夜間労働が、交替制によって休みなしに一週間ぶっ通しで続けられる。普通は日曜日の夜から次の土曜日の夜一二時まで行なわれる。昼組の者は、週に五日間は一二時間、一日は一八時間労働し、夜組の者は、週に五晩は一二時間、一晩は六時間労働する。他の場合には、各組が一日置きに連続して二四時間労働する。そのうちの一組は、この二四時間という数を満たすために、月曜日に六時間、土曜日に一八時間労働する。他の場合には中間的な制度が採用されていて、そこでは、製紙機械につけられているすべての者が、一週間に毎日一五〜一六時間労働する。調査委員ロードは言う、この制度は一二時間交替制と二四時間交替制とのあらゆる弊害を結合しているように見える、と。一三歳未満の児童、一八歳未満の年少者、および女性たちがこの夜勤制度のもとで労働している。一二時間交替制において、彼らは交替要員の欠勤のために、時々二交替分の二四時間、労働しなければならなかった。証言が明らかにしているところでは、少年や少女たちが非常にしばしば超過時間労働をしており、それが二四時間はおろか、三六時間という休みのない労働にまで延長されることもまれではない。艶出し作業場の「連続的で単調な」過程では、「食事のため二回か、せいぜい三回三〇分ずつ休む以外に何らの規則的な休養や休止もなく」、一二歳の少女たちがまる一カ月間にわたって毎日一四時間労働しているのが見いだされる。正規の夜間労働が完全に廃止されている若干の工場においては、恐ろしいまでに多くの超過時間労働が行なわれており、しかも「これは、しばしば、最も不潔な、最も暑い、最も単調な諸工程においてなのである」(『児童労働調査委員会、第四次報告書』、一八六五年、XXXVIIIページ、およびXXXIXページ)。
さて、われわれは、資本自身がこの二四時間制度をどう解しているかを聞くことにしよう。資本は、もちろん、この制度の度をすぎたやり方、「残酷で信じがたいほどの」労働日の延長を生みだすこの制度の濫用を黙過する。資本が語るのは、「正常な」形態にあるこの制度のことだけである。
製鋼工場主であるネイラーおよびヴィッカーズ両氏は、六〇〇人ないし七〇〇人の人員を使っており、そのうちわずか一〇%が一八歳未満であり、このうちさらに二〇人の少年だけが夜間要員であるが、彼ら工場主たちは次のように言っている・・
・
「少年たちが暑さに苦しむということは決してない。温度は、おそらく八六度から九〇度〔摂氏では、三〇度から約三二度〕であろう。・・・・鍛鉄工場と圧延工場では、工員たちは昼夜交替で働いているが、これに反して、他のすべての工場では朝六時から晩の六時までの昼間労働である。鍛鉄工場では、仕事は一二時から一二時までである。若干の工員たちは昼時間と夜時間の交替をせずに、いつも夜間に働く。・・・・われわれは、昼間労働と夜間労働とが健康に」(ネイラーおよびヴィッカーズ両氏のそれに?)「何らかの相違をもたらすとは認めないのであり、おそらくこの人たちは、同じ休息時間をとる方が、それが変わる場合よりもよく眠れるであろう。・・・・約二〇人の一八歳未満の少年が夜勤組で働いている。・・・・われわれは、一八歳未満の若者たちの夜間労働なしではうまくやることはできない(not
well do)であろう。われわれが異議を唱えるのは・・生産費の増加である。熟練工や各部門の職長を得るのは難しいが、若者は欲しいだけ手に入る。・・・・もちろん、われわれが使用する少年の比率が小さいことを考えれば、夜間労働に対する諸制限は、われわれにとって重要性も利害関係もあまりないであろう(99)」。
(99) 『・・・・第四次報告書』、一八六五年、第七九号、XVIページ。
ジョン・ブラウン会社は、製鋼・製鉄工場で、三〇〇〇人の大人と少年を使用しており、しかも製鋼・製鉄重労働の〔一〕部分に「昼夜交替制」を採用しているのであるが、この会社のJ・エリス氏は、重労働の製鋼工場では、二人の大人に対して一人ないし二人の少年が使われていると言明している。この工場には一八歳未満の少年が五〇〇人おり、このうちの約1/3、すなわち一七〇人が一三歳未満である。提出された改正法案について、エリス氏は次のような意見をのべている・・
・
「私は、一八歳未満の者に二四時間のうち一二時間を超えて労働させないということが大いに非難されること(very
objectionable)だとは考えない。しかし、私は一二歳以上の年齢のどこかに線を引いて、その年齢の少年に夜間労働を免除するようなことができるとは思わない。われわれは、すでに雇っている少年たちを夜間に使用することを禁止されるよりもむしろ、一般に一三歳未満の、または一五歳未満の少年さえも使用させない法律のほうがましだと考える。昼間の組で働いている少年たちは、交替で夜間の組でも働かねばならない。なぜなら、大人たちはたえず夜間労働だけをしているわけにはいかないからである。そんなことをすれば彼らの健康がだめになるであろう。しかし、一週間おきに交替すれば、夜間労働も何ら害にはならないとわれわれは思っている」。
(ネイラー=ヴィッカーズ会社は、その反対に、彼らの事業のご都合にあわせて、不断の夜間労働ではなく、周期的に交替する夜間労働こそがおそらく害を引き起こすと信じていた。)
・
「われわれは、一週間おきに夜間労働を行なう人々が、昼間労働のみを行なう人々とまったく同じように健康なのを知っている。・・・・一八歳未満の少年の夜間労働を許さないことにわれわれが異議を唱えるのは、出費の増加が理由であるが、しかしこれがまた唯一の理由なのである」。(何という厚かましい素朴さ!)「われわれの考えでは、この増加は、事業(the
trade)をうまくやっていくよう十分に考慮する場合に当然負担できるものより大きいであろう(As
the trade with due regard to etc. could fairly bear!)」。(何というまわりくどい言いまわし!)「労働はここでは希少であり、そのような規制のもとでは不足することがありえるであろう」。
(すなわち、エリス=ブラウン会社は、労働力の価値を完全に支払わなければならないという致命的な苦境に陥ることがありえるであろう(100))。
(100) 同前、第八〇号、XVI、XVIIページ。
キャメル会社の「サイクロプス製鋼・製鉄工場」は、上記のジョン・ブラウン会社の工場と同じほどに大規模に経営されている。その専務取締役は、政府委員ホワイトに自分の証言を文書にして手渡したが、その後、修正のため手元に返却された原稿を隠匿するのが適当であると考えた。だがホワイト氏は、記憶力がよい。彼がまったく正確に思い出すところによれば、これらの巨大な〔Zyklopen〕雇い主たちにとっては、児童および年少者たちの夜間労働の禁止は「不可能なことであり、それは彼らの工場を停止させるのに等しいであろう」とのことであるが、そうは言っても、彼らの事業では一八歳未満の少年は六%強そこそこであり、一三歳未満の者はわずか一%にすぎないのである!(101)。
(101) 同前、第八二号、XVIIページ。
同じ事柄について、アタクリフにある製鋼・圧延・鍛鉄工場であるサンダースン兄弟会社のE・F・サンダースン氏は、次のように説明している・・
・
「一八歳未満の少年たちを夜間に労働させることを禁止することから大きな困難が生じるであろうが、主要な困難は、少年の代わりに大人を使用することで必然的に費用が増加することから生じるであろう。それがどれほどになるかは私には明言できないが、おそらく大きなものではなくて、工場主たちは鋼価格を引き上げるわけにはいかないだろう、その結果、損失は工場主たちの肩にかかることになろう。というのは、大人たち」(何とまあ偏屈な連中だ!)「は、もちろんそれを負担することを拒むであろうから」と。
サンダースン氏は、彼が児童たちにいくら支払っているかを知らないのであるが、しかし、
・
「たぶん、一人あたり週四シリングないし五シリングであろう。・・・・少年労働は、一般的に」(「“一般的に
generally
”」であって、「個々の場合には」必ずしもそうではないことはもちろんである)「少年の力でちょうど間にあう種類のものであり、したがって大人のより大きな力からは、損失をつぐなえる利得は流れ出てはこないであろうし、出てくるとしても金属が非常に重いというわずかな場合だけのことであろう。大人たちは、自分の部下が少年でないことをあまり好まないであろう、というのは、大人は少年ほど従順ではないからである。その上、少年たちが仕事を覚えるのには幼い時から始めなければならない。少年たちを昼間労働だけに制限すれば、この目的は果たされないであろう」。
では、なぜ果たされないのか? なぜ少年たちは彼らの手仕事を昼間覚えることができないのか? あなたの理由は?
・
「なぜなら、そうした制限をすることによって、一週間おきに、ある時は昼間、ある時は夜間に労働する大人たちは、その時間のあいだ自分の組の少年たちから引き離され、彼らが少年たちから引き出す利益の半分を失うであろうからである。すなわち、彼らが少年たちにほどこす訓練は、これら少年たちの労賃の一部とみなされるのであり、そのため大人たちは、少年労働をより安く手に入れることができる。どの大人も彼の利益の半分を失うであろう」。
言いかえれば、サンダースン会社は、成年男子たちの労賃の一部を、少年たちの夜間労働で支払う代わりに、自分のポケットから支払わなければならないであろう。この機会に、サンダースン会社の利潤はいくらか減少するであろうし、そしてこれこそ、なぜ少年たちが昼間彼らの手仕事を覚えるわけにはいかないかということへのサンダースン会社のもっともな理由なのである(102)。その上、このことにより、現在、少年たちが代わりをしている大人たちに正規の夜間労働が背負わされるであろうし、彼らはこれに耐えられないであろう。要するに、諸困難はきわめて大きいので、そのためおそらく夜間労働はまったく廃止されることになろう。「鋼の生産そのものに関して言えば」・・とE・F・サンダースンは言う・・「まったく変わりないであろうが、しかし!」しかし、サンダースン会社は、鋼を造る以上のことをしなければならない。鋼造りは金もうけの単なる口実にすぎない。溶鉱炉、圧延工場など、建物、機械設備、鉄、石炭などは、みずからを鋼に転化することよりも、より以上のことをしなければならない。それらは剰余労働を吸収するために定在するのであり、そしてもちろん二四時間でのほうが一二時間でよりもより多く吸収する。それらは、事実、神と法の定めによって、一日まる二四時間にわたる一定数の工員たちの労働時間を取得する権利証書をサンダースン会社に与えるのであり、そして労働を吸収する機能が中断されるやいなや、それらは資本の性格を失い、それゆえサンダースン会社にとってまったくの損失なのである。
・
「しかし、その場合には、きわめて高価な機械設備が半分の時間遊んでいることから損失が生ずるであろうし、またこんにちの制度のもとでわれわれが提供できるだけの生産物量をこなすには、建物と機械施設とを二倍にしなければならず、それは支出を二倍にするであろう」。
しかし、他の資本家たちが、昼間だけしか労働することを許されず、したがってその建物、機械設備、原料が夜には「遊んで」いるのに、なぜこのサンダースン会社に限って特権を要求するのか?
・
「たしかに」・・とE・F・サンダースンはサンダースン会社全体の名において答える・・「たしかに、遊休機械設備から生じるこの損失は、昼間だけ仕事が行なわれるすべての工場に存在する。しかし、われわれの場合、溶鉱炉を使用していることで特別の損失が生じるであろう。溶鉱炉の火を燃やし続ければ、燃料が浪費され」(今のように労働者の生命材料が浪費される代わりに)「また火を消せば、ふたたび火入れして必要な高温を得るのに時間の損失が生じ」(他方、睡眠時間の損失が、八歳の子供でそれでさえ、サンダースン一族にとっては労働時間の利得なのである)「そして溶鉱炉そのものも温度の変化によって傷められるであろう」(ところが他方、この同じ溶鉱炉は、労働の昼夜交替によっては少しも傷むことはない(103))。
(102) 「反省と理由づけの多いわれわれの時代には、すべてのもの、最も悪く最も不合理なものに対しても、何らかのもっともな根拠を与えるすべを知らない人は、まだひとかどの者にはなっていないに違いない。この世で腐敗してしまっているものは、すべてもっともな根拠があって腐敗してしまっているのである」(ヘーゲル『エンチクロペディー』、二四九ページ〔第一二一節、補遺。松村一人訳『小論理学』、下、岩波文庫、四一〜四二ページ〕)。
(103) 『児童労働調査委員会、第四次報告書』、一八六五年、第八五号、XVIIページ。ガラス工場主諸氏のこれに似た優しい心づかい・・児童たちの「規則的な食事時間」は不可能である、なぜなら、それによって、炉が放散する一定量の熱が「純損失」となる、すなわち「浪費」されるであろうからという・・に対して、調査委員ホワイトは、ユア、シーニアなど、またロッシャーらのようなドイツにおける彼らの貧弱な模倣者たち・・すなわち、自分の貨幣の支出における資本家たちの「節欲」、「禁欲」、および「倹約」と、また人命に関する資本家たちのティームール−タメルラン的な「浪費」とに心を動かされた者たち・・とはまったく違って、次のように答えている・・「規則的な食事時間の保証の結果、ある量の熱が現在の程度以上に浪費されるかもしれないが、しかしその浪費は、貨幣価値で表わしてみてさえも、生命力の浪費・・すなわち、ガラス工場で使われている発育ざかりの少年たちが、くつろいで食事し消化する暇さえ持たないということから、現在王国に生じている生命力の浪費(the
waste of animal power)・・とはとうていくらべものにならない」(同前、XLVページ)と。そして、これが「進歩の年」一八六五年のことなのである! 物を持ち上げたり運んだりする力の支出を度外視しても、このような子供が、ビンや鉛ガラスをつくる仕事場で、彼の労働を連続的に遂行するあいだに、六時間で一五〜二〇(イギリス)マイル歩くのである! しかも労働はしばしば一四ないし一五時間続く! このようなガラス工場の多くでは、モスクワの紡績工場におけるのと同様に、六時間交替制が支配的に行なわれている。「一週間の労働時間のあいだで、中断のない休息期間の最大限が六時間であり、そのうちから工場への往復、洗濯、身支度、食事・・これらはすべて時間を要する・・に費やされる時間が消える。こうして、実際残るのは、きわめて短い休息時間だけである。これほど暑い空気の中でこれほど骨の折れる仕事をする幼い少年たちにとって、睡眠は実に必要不可欠なのであるが、その睡眠を犠牲にするのでなければ、遊んだり新鮮な空気を吸ったりする時間は全然ない。・・・・この短い睡眠でさえも、夜であれば少年が自分で目を覚まさなければならず、昼であれば外の騒音によって目を覚まされるということによって、中断される」。ホワイト氏は、ある少年が三六時間連続して労働した事例や、一二歳の少年たちが夜の二時まで苦役し、・・新たに昼間の仕事を始めるために!・・それから朝の五時まで(三時間!)仕事場で眠るといった他の事例をあげている。一般報告書の作成者であるトリマンヒアとタフネルは次のように言っている・・「少年、少女、および女性たちが昼間または夜間の勤務時間(spell
of labour)中に行なう仕事の量は途方もないものである」(同前、XLIIIおよびXLIVページ)。そのあいだに、たぶん、夜ふけに、「禁欲に徹する」ガラス資本氏は、ポートワインで夢うつつになって、クラブから家へと千鳥足で歩いているであろう。「“イギリス人は決して決して奴隷なんかなるものか!
Britons never,never shall be slaves!
”」と白痴のようにぼそぼそ言いながら。
★ 第5節 標準労働日獲得のための闘争。一四世紀中葉から一七世紀末までの労働日延長のための強制法
「労働日とは何か?」労働力の日価値を支払って資本がそれを消費してよい時間の大きさはどれだけか? 労働日は、労働力そのものを再生産するのに必要な時間を超えてどれほど延長されうるか? これらの質問に対して、すでに見たように資本はこう答える・・労働日とは、毎日のまる二四時間から労働力が新たな役に立つために絶対欠かせないわずかばかりの休息時間を差し引いたものである、と。まず自明のことであるが、労働者は彼の生活の一日全体を通じて労働力以外の何物でもなく、それゆえ、彼が自由にしえる時間は、すべて性質上も法律上も労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的役割を遂行するための、社会的交流のための、肉体的・精神的生命力の自由な活動のための時間は、日曜日の安息時間さえもが・・そして安息日厳守の国であろうとも(104)・・まったく無意味なものなのである! しかし、資本は、剰余労働を求めるその無制限な盲目的衝動、その人狼的渇望の中で、労働日の精神的な最大限度だけでなく、その純粋に肉体的な最大限度をも突破していく。資本は、身体の成長、発達、および健康維持のための時間を強奪する。それは、外気と日光にあたるために必要な時間を略奪する。それは食事時間を削り取り、できれば食事時間を生産過程そのものに合体させようとし、その結果、ボイラーに石炭が、機械設備に油脂があてがわれるのと同じように、食物が単なる生産手段としての労働者にあてがわれる。それは、生命力の蓄積、更新、活気回復のためのための熟睡を、まったく消耗し切った有機体の蘇生のためになくてはならない程度の無感覚状態の時間に切りつめる。この場合、労働力の正常な維持が労働日の限度を規定するのではなく、逆に労働力の最大可能な日々の支出が・・たとえそれがいかに病的で強制的で苦痛であろうと・・労働者の休息時間の限度を規定する。資本は労働力の寿命を問題にはしない。それが関心を持つのは、ただ一つ、一労働日中に流動化させられえる労働力の最大限のみである。資本は、労働力の寿命を短縮することによってこの目的を達成するのであって、それは、貪欲な農業経営者が耕地の豊度の略奪によって収穫を増大させるのと同じである。
(104) たとえば、イギリスにおいては、今でもなお農村で、労働者が自宅の前の小さな菜園で労働して安息日を冒とくしたというかどで、禁固刑の判決を下されることが時々ある。その同じ労働者が、たとえ宗教的な気まぐれからであろうと、金属工場、製紙工場、またはガラス工場を日曜日に欠勤すれば、契約違反のかどで処罰される。正統派信仰を奉ずる議会も、安息日の冒とくが資本の「価値増殖過程」で起こっている場合には、それには耳をふさぐ。ロンドンの魚屋および鳥肉屋の日雇い労働者たちが日曜労働の廃止を要求したある陳情書(一八六三年八月)では、彼らの労働は、週の最初の六日には平均して一日に一五時間働き、日曜日には八時間ないし一〇時間続くとのべられている。同時に、この陳情書からは、エクセター・ホールの貴族的なニセ信心家たちの気むずかしい食い道楽が、特にこの「日曜労働」を奨励するということも推測される。実に熱心に「“自分たちの体のことに気を配る”」これらの「聖者たち」は、第三者たちの過度労働、欠乏、および飢餓を耐えしのぶ忍従の精神によって、自分たちがキリスト教徒であることを証明している。“満腹は、彼ら(労働者)の場合には実に有害である
Obsequium ventris istis(den Arbeitern)perniciosius est.”。
したがって、本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は、労働日の延長によって、人間労働力の正常な精神的および肉体的発達と活動との諸条件を奪い去るような人間労働力の萎縮を生みだすだけではない。それは労働力そのもののあまりにも早い消耗と死亡とを生みだす(105)。それは、労働者の生存時間を短縮することによって、ある与えられた諸期限内における労働者の生産時間を延長する。
(105) 「以前の報告書においてわれわれは、超過時間は・・・・たしかに人間の労働する力をあまりにも早く消耗させる危険を蔵するものだとする経験豊かなさまざまな工場主の供述を掲載した」(『児童労働調査委員会、第四次報告書』、第六四号、XIIIページ。)
しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の繁殖に必要な諸商品の価値を含む。したがって、資本が自己増殖をめざすその無制限な衝動の中で必然的に追求する労働日の反自然的延長が、個々の労働者の生存期間、したがって彼らの労働力の持続期間を短縮するならば、消耗した労働力のより急速な補填が必要になり、したがって、労働力の再生産により大きな消耗費を計上する必要があるのであって、それはちょうど、ある機械がより早く摩滅すればするほど、日々再生産されなければならぬ機械の価値部分がそれだけ大きくなるのと同じである。それゆえ、資本はそれ自身の利害によって一つの標準労働日を指向させられているかのように見える。
奴隷所有者は、自分の馬を買うのと同じように自分の労働者を買う。彼は奴隷を失うことによって資本を失うのであり、この資本は新たな支出によって奴隷市場で補填されなければならない。しかし、
・
「ジョージアの米作地やミシシッピーの湿地は、人体に致命的な破壊作用をするかもしれない。けれども、人命のこの浪費は、ヴァージニアとケンタッキーに充満している〔奴隷〕飼育場から補給されえないほどの大きいものではない。経済的な考慮は、奴隷の人間的な取りあつかいが主人の利益と奴隷の維持とを一致させる限り、そのような扱いに対する一種の保証を与えることもありえようが、奴隷貿易の実施以後は、逆に、奴隷のまったく極端な酷使の原因に転化する。というのは、ひとたび外国の黒人飼育場からの供給によって奴隷が補充されえるようになるやいなや、奴隷の寿命は、その命が続いている間の生産性ほど重要なものではなくなるからである。それゆえ、奴隷輸入諸国における奴隷労働による経営の準則は、できるだけ短い時間内にできるだけ多量の働きを人間家畜(human
chattel)からしぼり出すのが最も実効ある経済的な方法だということにある。年々の利潤がしばしば農場の総資本と等しい熱帯の栽培でこそ、黒人の生命は最も容赦なく犠牲に供される。数世紀この方、作り話のような巨万の富の揺りかごであった西インドの農業は、幾百万のアフリカ人種を食いつくしてしまった。こんにち、キューバにおいては、そこでの収入は幾百万をもって数えられ、農場主は王侯さながらであるが、奴隷階級にあっては、この上なく粗末な食物、この上なく体力を消耗させる、やむことのない労苦のほかに、その一大部分が過度労働ならびに睡眠および休息の不足という緩慢な拷問によって年々直接に滅ぼされているのが見られる(106)」。
(106) ケアンズ『労働力』、一一〇、一一一ページ。
“名前を変えれば、これはみなお前のことを言っているのだぞ!
Mutat nomine de te fabula narratur!
”奴隷貿易を労働市場に置き換え、ケンタッキーおよびヴァージニアをアイルランドならびにイングランド、スコットランド、およびウェールズの農業地方に置き換え、アフリカをドイツに置き換えて読んで見たまえ! われわれは、過度労働がロンドンの製パン職人をいかに一掃しているかをすでに聞いているのであるが、それでもなお、ロンドンの労働市場は製パン業に職を求めるドイツ人その他の命がけの志願者で超満員である。上述のように、製陶業は最も短命な産業部門の一つである。だからと言って製陶工は不足しているであろうか? 近代的製陶法の発明者であり、自分自身普通の労働者の出身であるジョウサイア・ウェッジウッドは、一七八五年に下院で、この製造業全体で働いているのは一万五〇〇〇人ないし二万人であると言明した(107)。一八六一年には、大ブリテンの諸都市におけるこの産業の中心部の人口だけで一〇万一三〇二人にのぼった。
・
「綿工業は九〇年を数える。・・・・それは、イギリス人種の三世代にわたるあいだに、綿業労働者の九世代を食いつくした(108)」。
もちろん、個々の熱病的な活況の時期には、労働市場は容易ならぬ欠乏を示した。たとえば、一八三四年がそうであった。しかし、その時、工場主諸氏は、農業地方の「過剰人口」を北部へ送ることを救貧法委員たちに提案し、「工場主たちはこれを吸収し消費するであろう(109)」と説明した。これが、彼らの本音であった。
・
「救貧法委員たちの同意を得て、マンチェスターに周旋人たちが置かれた。農業労働者の名簿が作成され、これらの周旋人に渡された。工場主たちは周旋人たちの事務所に駆けこみ、彼らの気にいったものを選び出した後、それらの家族がイングランド南部から送られた。これらの人間貨物は、貨物の包みと同じように札をつけられて運河や荷馬車で送りつけられた。徒歩でついていく者もあれば、道に迷ってなかば飢死しそうになって製造業地方をさまよう者も多かった。この制度が取り引きの正真正銘の一部門に発展した。下院はこのようなことをたぶん信じないであろう。この規則的な取り引き、このぼろもうけの人肉商売は引き続き行なわれたのであり、これらの人々は、ちょうど黒人が南部諸州の綿花農場主に売買されたのとまったく同じような規則正しさで、マンチェスターの周旋人によりマンチェスターの工場主に売買された。・・・・一八六〇年は綿工業の絶頂を示す。・・・・ふたたび人手が不足した。工場主たちはふたたび・・・・人肉周旋人たちに頼った。周旋人たちはドーシットの砂丘やデヴォンの丘陵やウィルツの平原を探しまわったが、過剰人口はすでに食いつくされていた」。
『ベリー・ガーディアン』紙は、英仏通商協定の締結後は、一万人の追加の人手が吸収されうるであろうし、やがてさらに三万人か四万人の人手が必要となるであろうと嘆いた。人肉取り引きの周旋人と下請け周旋人が一八六〇年に農業地方をあさりまわってほとんど成果をあげられなかったが、その後、
・
「一人の工場主代表が救貧局長のヴィラーズ氏に対し、救貧院労役場から貧児と孤児とを供給することをふたたび許可されたいと請願した(110)」。
(107) ジョン・ウォード『・・・・ストウク・アポン・トレント市の歴史』、ロンドン、一八四三年、四二ページ。
(108) 一八六三年四月二七日の「下院」におけるフェランドの演説。
(109) 「“工場主たちはこれを吸収し消費しつくすであろうということ。綿工場主たちは、まさにこう言ったのである
That the manufacturers would absorb it and use it up. Those were
the very words used by the cotton manufacturers.
”」(同前)。
(110) 同前。ヴィラーズは、その気は十分あったとしても、「法律上」工場主たちの懇願を拒否しなければならない立場にあった。にもかかわらず、工場主諸氏は、地方の救貧当局の厚意によって彼らの目的を達した。工場監督官A・レッドグレイヴ氏は、こう確言した。すなわち、今回は、孤児や受給貧民の子供たちを「法律上」
apprentices (徒弟)とみなす制度は、「昔の弊害」・・(この「弊害」については、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』〔『全集』、第2巻〕参照)・・「をともなってはいなかった」。たしかにかつては「娘や若い女性たちがスコットランドの農業地方からランカシャーとチェシャーに連れてこられた件について、この制度の濫用が行なわれたことがあるにはあった」と。この「制度」では、工場主は救貧院当局と一定期間にわたって契約を結ぶ。彼は、児童たちに衣食住を支給し、わずかな手当を貨幣で与える。レッドグレイヴ氏の以下の言葉は奇妙なものに聞こえるのであって、ことに次のことを考慮するとそうである。すなわち、イギリス綿工業の繁栄の諸年のうちでさえ一八六〇年は比類のない年であり、その上労賃は高かった。なぜなら、異常な労働需要が、アイルランドの人口減少とぶつかったからであり、イングランドおよびスコットランドの農業地方からのオーストラリアとアメリカとへの前例のない移民とぶつかったからであり、イングランドのいくつかの農業地方における人口の明確な減少・・これは、一部にはついに生命力の破壊が行なわれた結果であり、また一部には自由に処分しえる人口が人肉取り引き業者たちによってすでに汲みつくされた結果である・・とぶつかったからである。それにもかかわらず、レッドグレイヴ氏はこう言う。「けれども、他の種の労働がまったく見つけられない場合だけに、この種の労働」(救貧院の児童たちの労働)「が求められる。というのは、それは高価な労働(high-priced
labour)だからである。一三歳の少年の普通の労賃は、週約四シリングであるが、しかし、五〇人または一〇〇人のこのような少年たちに衣食住を支給し、医療をほどこし、適当な監督を行ない、その上にいくばくかの手当金を与えることは、毎週一人あたり四シリングでは実行不可能である」(『工場監督官報告書。一八六〇年四月三〇日』、二七ページ)と。工場主が、五〇人または一〇〇人の少年を一緒に住まわせ、一緒に食事を支給し、一緒に監督してもできないのに、どうして労働者自身が自分の子供たちにその四シリングの労賃でこれらすべてのことをしてやれるのかを、レッドグレイヴ氏は言い忘れておいでなのである。本文から誤った結論が引き出されないようにするために、私はここでなお次のことをのべておかなければならない。すなわち、イギリスの綿工業は、労働時間などを規制する一八五〇年の工場法の適用のもとにおかれて以来、イギリスの模範産業とみなされなければならない、と。イギリスの綿業労働者は、どの点から見ても、大陸における同じ運命の仲間よりも上に立っている。「プロイセンの工場労働者は、イギリスの競争者よりも、週に少なくとも一〇時間は余計に労働し、そして彼が自分自身の織機で自宅で仕事をさせられる場合には、彼の追加労働時間に対するこの制限さえもなくなる」(『工場監督官報告書。一八五五年一〇月三一日』、一〇三ページ)。上記の工場監督官レッドグレイヴは、一八五一年の産業博覧会の後、大陸、ことにフランスとプロイセンを旅行し、そこの工場事情を調査した。彼は、プロイセンの工場労働者について次のように言っている。「彼が受け取るのは、単純な食事とわずかな楽しみごとを手にいれるのにたりるだけの賃金であり、彼はそれに慣れ、満足している。・・・・彼は、イギリスの競争者たちよりも悪い暮しをし、過酷な労働をしている」と(『工場監督官報告書。一八五三年一〇月三一日』、八五ページ)。
経験が資本家一般に示すものは、たえざる過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比較しての過剰人口である・・とはいえ、この過剰人口の流れは、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟のうちに摘み取られる代々の人間から形成されているのではあるが(111)。もちろん、経験は、他面では、歴史的に言えばやっときのう始まったばかりの資本主義的生産が、いかに急速にかつ深く人民の力の生命源をおかしてしまったか、産業人口の退化が、もっぱら農村からたえず自然発生的な生命要素を吸収することによっていかに緩慢にされるか、また農村労働者でさえも、自由な空気に恵まれ、彼らのあいだで実に全能の力をもって支配している“自然淘汰の原理”により最強個体のみが成長させられているにもかかわらず、すでにいかに衰弱し始めているか、を賢明な観察者に示している(112)。自分を取りまいている労働者世代の苦悩を否認する実に「十分な理由」を持つ資本は、その実際の運動において、人類の将来の退化や結局は食い止めることのできない人口の減少という予想によっては少しも左右されないのであって、それは地球が太陽に墜落するかもしれないということによって少しも左右されないのと同じことである。どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということはだれでも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだ後で、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。“わが亡き後に洪水は来たれ!
Apres moi le deluge!
”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない(113)。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う・・われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか?と。しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家に対して外的な強制法則として通させるのである(114)。
(111) 「過度労働をする人々は異常な早さで死亡する。しかし、死亡した者の席はすぐにふたたび補充されて、登場人物がひんぱんに交替しても舞台の上には何の変化も生じない」『イギリスとアメリカ』、ロンドン、一八三三年、第一巻、五五ページ(著者はE・G・ウェイクフィールドである)〔中野正訳、『世界古典文庫』、日本評論社、(一)、六〇〜六一ページ〕。
(112) 『公衆衛生、枢密院医務官第六次報告書。一八六三年』、一八六四年、ロンドンで公刊、を見よ。この報告書は、特に農業労働者を扱っている。「サザーランド州は改良の進んだ州であると言われてきたが、最近の調査によって、かつては立派な男子と勇敢な兵士で聞こえたこの州の諸地方においても、住民はやせこけて萎縮した種族に退化していることが発見された。海に面した丘陵の斜面という最も健康的な位置にありながら、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの裏町の腐った空気の中でしか見ることができないほどにほっそりして青白い」(ソーントン『過剰人口とその救済策』、七四、七五ページ)。実際、彼らは、グラスゴーがその“路地と小路”で売春婦たちや泥棒たちとざこ寝させている三万人の「“勇敢な高地スコットランド人
gallant Highlanders ”」に似ている。
(113) 「住民の健康は国民的資本のきわめて重要な要素であるにもかかわらず、残念ながらわれわれは、資本家たちがこの宝を保存し大切にする用意がまったくないことを認めざるをえない。・・・・労働者の健康への顧慮が工場主たちに強制された」(『タイムズ』、一八六一年一一月五日)。「ウェスト・ライディング〔ヨークシャー〕の人々は人類の毛織物業者になった。・・・・勤労大衆の健康は犠牲にされ、そのためこの種族は二、三代のうちに退化してしまったであろうが、しかし一つの反動が生じた。児童労働の時間が制限された・・・・」(『戸籍本署長官第二二次年次報告書』、一八六一年)。
(114) したがって、たとえばわれわれは、一八六三年のはじめに、スタッフォードシャーに広大な製陶工場を持つ二六の商会・・それにはJ・ウェッジウッド父子会社も含まれる・・が、ある陳情書の中で「国家の強制的介入」を請願しているのを見いだすのである。「他の資本家たちとの競争」は、自分たちが児童の労働時間を「自発的に」制限することなどを許さない。「したがって、いくらわれわれが上記の弊害を嘆いたところで、工場主たちのあいだでの何らかの種類の協定によってそれを阻止することは不可能であろう。・・・・これらすべての点を考慮した結果、われわれは強制法が必要であると確信するにいたった」(『児童労働調査委員会、第一次報告書』、一八六三年、三二二ページ)。
・
注114への追加〔第2版での追加〕。つい最近のでき事が、はるかに顕著な実例を提供した。熱病的な好況の時期に、綿花価格の高騰をきっかけとして、ブラックバーンの綿織物工場の所有者たちが、相互協定により彼らの工場の労働時間を一定期間にわたって短縮するにいたった。この期間は、一一月末ごろ(一八七一年)に満了した。そのあいだに、紡績と織布とを兼営しているより富裕な工場主たちは、かの協定によって引き起こされた生産の減少を利用し、彼ら自身の事業を拡張し、小親方たちの犠牲で大もうけした。そこで、小親方たちは、窮地におちいり・・工場労働者たちに訴え、九時間運動を真剣に進めるよう呼びかけ、この目的のために寄付金を出すと約束した!
標準労働日の確立は、資本家と労働者とのあいだの数世紀にわたる闘争の成果である。しかし、この闘争の歴史は二つの対立する流れを示している。たとえば、われわれの時代のイギリスの工場立法を、一四世紀から一八世紀中葉すぎにいたるまでのイギリスの労働者規制法(115)と比較されたい。現代の工場法は労働日を強制的に短縮するのに対して、これら諸法はそれを強制的に延長しようとする。たしかに、資本が萌芽状態にあり、資本がやっと生成したばかりで、したがってまだ単なる経済的諸関係の暴力だけによってではなく、国家権力の助けをも借りて十分な量の剰余労働を吸収する権利を確保するような場合、この資本の諸要求は、資本がその成年期に不平を言いつつ不承不承に行なわなければならない譲歩の数々とくらべてみると、まったくつつましいものに見える。「自由な」労働者が、資本主義的生産様式の発展の結果、彼の習慣的な生活諸手段の価格と引き換えに、彼の活動的な全生活時間を、いな彼の労働能力そのものを売ることを、レンズ豆のあつものと引き換えに彼の長子の特権を売る〔旧約聖書〕ことを、自発的に承諾するようになるまでには、すなわち社会的に強制されるようになるまでは、数世紀かかっている。それゆえ、一四世紀中葉から一七世紀末まで、資本が、国家権力の助けを借り大人の労働者たちに押しつけようとする労働日の延長が、一九世紀の後半に、子供たちの血が資本に転化するのを防ぐために国家が時おり設ける労働時間の制限とほぼ一致するのは当然なのである。こんにち、たとえば、最近まで北アメリカ共和国の最も自由な州であったマサチューセッツ州において、一二歳未満の児童の労働の国家的制限として布告されているものは、イギリスでは、まだ一七世紀中葉には、血気さかんな手工業者、たくましい作男、および頑健な鍛冶屋の標準労働日だったのである(116)。
(115) この労働者規制法は、同じころにフランスやオランダなどでも見いだされるのであるが、イギリスにおいてそれは、生産諸関係によってそれらがずっと前に無効にされてしまった後、一八一三年にようやく正式に廃止された。
(116) 「一二歳未満の児童はいずれも、工場施設において一日に一〇時間以上就業させてはならない」(『マサチューセッツ法律集』、第六〇号、第三条。これらの諸法は、一八三六年から一八五八年までのあいだに公布された)。「すべての木綿工場、羊毛工場、絹工場、製紙工場、ガラス工場、および亜麻工場において、または製鉄その他の金属加工工場において、一日一〇時間のあいだになされる労働は、法定の日労働とみなされるべきである。さらに、法律の規定によって、今後、いかなる工場で雇用される未成年者も、一日に一〇時間以上または週に六〇時間以上労働するよう拘束または要求してはならぬものと定め、かつ、今後、一〇歳未満の未成年者は、この州の領域内の工場において労働者として雇用してはならぬものと定める」(『ニュー・ジャージー州。労働時間制限・・・・法』、第一条および第二条。一八五一年三月一八日の法律)。「一二歳および一五歳のあいだの未成年も、いかなる工場施設においても、一日に一一時間以上、または朝五時以前、もしくは晩の七時三〇分以後に就業させられてはならない。」(『ロード・アイランド州現行法集』、第一三九号、第二三条、一八五七年七月一日)。
最初の「“労働者規制法 Statute of Labourers
”」(エドワード三世第二三年、一三四九年)は、その直接の口実(その原因ではない。というのは、この種の立法はその口実がなくなっても数世紀にわたって存続するのだから)をペストの大流行に見いだしたのであって、このペストは人口を激減させ、その結果トーリー党のある著述家が言っているように、「労働者たちを手ごろな価格で」(すなわち、彼らの使用者たちに適度な量の剰余労働を残す価格で)「働かせることの困難が実際に耐えがたいものとなった(117)」。それゆえ妥当な労賃が、労働日の限界と同じく、強制法の形で命令された。ここでは労働日の限界だけがわれわれの関心事であるが、それは、一四九六年(ヘンリー七世治下)の法でもくり返されている。その当時、すべての手工業者(artificers)および農業労働者の三月から九月までの労働日は・・これは決して実行されはしなかったが・・朝五時から晩の七時と八時のあいだまで続くものとされた。しかし、食事時間は、朝食のために一時間、昼食のために一時間半、四時の間食のために半時間であり、したがって、現行の工場法の規定のちょうど二倍であった(118)。冬期には、休み時間は同じで、朝五時から夕暮れまで労働させられるものとされた。「日賃金あるいは週賃金で雇用されている」すべての労働者に関する一五六二年のエリザベスの法は、労働日の長さはもとのままにしているが、中休み時間を夏期には二時間半に、冬期には二時間に制限しようとしている。昼食時間は一時間に限るとされ、「半時間の午睡」は、五月なかばと八月なかばとのあいだに限り許されるものとされる。欠勤一時間ごとに一ペニー(約八ペニッヒ)が賃金から差し引かれるものとされる。とはいえ、実際には、事情は労働者にとって法典の規定よりもはるかに有利であった。経済学の父であり、いわば統計学の創始者であるウィリアム・ペティは、一七世紀の最後の三分の一期に公刊した一著作の中で次のように言っている・・
・ 「労働者たち」(labouring men、厳密には、当時は農業労働者のこと)「は一日に一〇時間働き、週に二〇回、すなわち労働日には日に三回、日曜日には二回の食事をとっている。このことから明らかなように、もし彼らが金曜日の晩に断食するつもりになり、そして、現在昼食のために午前一一時から一時までの二時間を使っているが、この食事時間を一時間半にするつもりになれば、したがって、彼らが1/20多く働き、1/20少なく消費するならば、上記の税の1/10は徴収しえるであろう(119)」。
アンドルー・ユア博士が、一八三三年の一二時間法案を暗黒時代への後退であるとののしったのはもっともではなかったか? もちろん、この法に含まれていてペティが言及した諸規定は、「徒弟」にも適用される。しかし、一七世紀の末になってもなお児童労働がどんな状態にあったかは、次の不平からも見てとれる。すなわち、
・
「ここイギリスにおいては、わが少年たちは、彼らが徒弟になる時までまったく何もしない。そしてそれから、彼らが、一人前の手工業者になるのには、もちろん長い年月・・七年・・が必要である」と。
これに反して、ドイツはほめられる。なぜなら、そこでは児童は揺りかご時代から、少なくとも「少しは仕事をしこまれる(120)」からである。
(117) 〔J・B・バイルズ〕『自由貿易の詭弁』、第七版、ロンドン、一八五〇年、二〇五ページ。同じこのトーリー党員は、さらに次のことをも認めている・・「労賃を労働者に不利に、雇い主に有利に規制する議会法は、四六四年の長期にわたって存続した。人口は増大した。この法律は、今や不必要でやっかいなものとなった」と(同前、二〇六ページ)。
(118) J・ウェイドがこの法令について次のようにのべているのは当然である・・「一四九六年の法からわかることだが、食物は手工業者の所得の1/3に等しく、農業労働者の1/2に等しいものとみなされた。そしてこのことは労働者たちの中に見られる独立性の程度が現在一般に見られるよりも高かったことを示しており、現在では、農業および製造業における労働者たちの食事は、彼らの賃金に対してはるかに高い割合を占めている」と(J・ウェイド『中間階級および労働者階級の歴史』、二四、二五、五七七ページ)。この違いが、こんにちの食糧および衣類と当時のそれらとのあいだの価格比率の違いのせいであるかのように言う見解は、フリートウッド主教の著書『物価編年誌』(第一版、ロンドン、一七〇七年、第二版、ロンドン、一七四五年)をまったく表面的に一べつしただけでも論駁される。
(119) W・ペティ『アイルランドの政治的解剖、一六七二年』、一六九一年版、一〇ページ〔大内・松川訳『租税貢納論』所収の「賢者には一言をもって足る」、第二章、岩波文庫、一七九ページ〕。
(120) 『機械工業を奨励する必要に関する一論』、ロンドン、一六九〇年、一三ページ。マコーリーはイギリス史をウィッグ党とブルジョアとの利益になるように偽造したが、彼は、次のように長広舌をふるう。「児童をあまりにも早くから労働につかせる慣習は、一七世紀には、当時の工業の状態からみればほとんど信じられないほどに広く行なわれていた。羊毛工業の中心地であるノリッジでは、六歳の子供が労働能力があるものとみなされた。その当時のさまざまな著述家たち・・そのうちの相当数の人はことのほか博愛心に富んでいるとみなされた人々であるが・・は、この都市だけで、少年と少女たちが、一年間に、彼らの生活費を超えること一万二〇〇〇ポンド・スターリングといった富を創造するという事実を、『歓喜』しながら取り上げている。われわれは、過去の歴史を厳密に研究すればするほど、われわれの時代が新しい社会的諸弊害に満ち満ちていると見る人々の見解をしりぞけるべき理由をますます多く見いだす。新しいものとは、諸弊害を発見する知性と、それらを矯正する人道精神である」と(『イギリス史』、第一巻、四一七ページ)。マコーリーは、さらに、「ことのほか博愛心に富む」“商業の友たち”が、一七世紀にオランダのある救貧院で四歳の児童が就業させられていたことを「歓喜」して語っていることを、また、「“実行に移された美徳
vertu mise en pratique
”」のこの実例は、A・スミスの時代にいたるまでマコーリーばりの人道主義者のあらゆる著作の中で模範とみなされていることを、報ずることもできたであろう。手工業と区別されるマニュファクチュアの発生と共に、ずっと以前からある程度まで農民のあいだに存在している児童“搾取”の徴候が姿を現わし、農村住民にのしかかるくびきが重くなればなるほど、児童搾取も発展するということは正しい。資本の傾向はまぎれもなく認められるが、事実そのものは、双頭児の出現と同じく、まだ個別的なものにすぎない。したがって、それらの事実が特に注目すべき驚嘆に値することとして、未来を予感する「“商業の友たち”」により、当代および後代のために「歓喜」をこめて記録され、これに見習うよう進められたのである。スコットランド生まれのへつらい者で美辞麗句の口達者屋であるかのマコーリーは言う・・「こんにち、耳にするのは退歩だけであり、目にするのは進歩だけである」と。何という目、そして特に何という耳であろう!
一八世紀の大部分のあいだ、大工業の時代にいたるまでは、資本はまだ、イギリスで、労働力の週価値を支払うことにより労働者の一週間をまるまる領有することには成功していなかった・・けれども、農業労働者たちは例外をなしていたのではあるが。四日間の賃金でまる一週間生活できたからといって、労働者たちにとっては、そのことが残りの二日間をも資本家のために労働しなければならぬ十分な理由になるとは思われなかった。イギリスの経済学者の一派は、資本のお気に召すようにこのわがままを怒り狂って非難したが、他の一派は労働者たちを擁護した。われわれは、たとえば、ポスルスウェイト・・その当時、彼の商業辞典は、こんにちマカロックおよびマクレガーの類似の諸著作と同じ好評を博した・・と、さきに引用した『工業および商業に関する一論』の著者との論戦を聞いてみよう(121)。
(121) 労働者に対する非難攻撃者の中で最も激怒しているのは、本文であげた『工業および商業に関する一論。租税に関する諸考察を含む』、ロンドン、一七七〇年、の匿名の著者である。それ以前、彼の著書『租税に関する考察』、ロンドン、一七六五年、の中ですでにそうであった。話にならぬほどひどい統計的おしゃべり屋であるポロウニアス・アーサー・ヤングも同じ方向を追っていく。労働者を擁護する者のうちで抜きんでているのは、『貨幣万能論』、ロンドン、一七三四年〔浜林・四元訳、東京大学出版会〕、におけるジェイコブ・ヴァンダリント、『食料の現在の価格の諸原因の研究』、ロンドン、一七六七年、における神学博士ナサニエル・フォースター師、プライス博士、ならびに特にまた『商工業百科辞典』への補遺および『大ブリテンの商業的利益の説明および改善』、第二版、ロンドン、におけるポスルスウェイトである。事実そのものは、他の多くの同時代の著作家たち、とりわけフォウサイア・タッカーによって確認されていることがはっきりしている。
ポスルスウェイトは、とりわけ次のように言う・・
・
「私はこのささやかな考察を終わるにあたり労働者(“よく働く貧民
industrious poor”)が五日間で、生活するのに十分なものを受け取ることができるならば、彼はまる六日間も働こうとはしないというあまりにも多くの人々の口にのぼる陳腐な言い方に注意を払わざるをえない。このことから、彼らは、手工業とマニュファクチュア労働者とに休みなしの週六日間の労働を強制するため、租税その他何らかの手段によって生活必要品をさえも騰貴させる必要があると結論する。失礼ながら、私は、この王国の労働する人々の永続的な奴隷状態(the
perpetual slavery of the working people)を維持するために闘う大政治家たちとは意見を異にするといわなければならない。彼らは、'all
work and no play'(働かせるだけで全然遊ばない)とうすのろになる、という諺を忘れている。イギリス人たちは、これまでイギリス商品に一般的な信用と名声を与えてきた彼らの手工業者とマニュファクチュア労働者との独創性と熟練とを自慢にしているのではないのか? これはどんな事情のおかげであったか? おそらく、わが労働人民が自分なりにうさばらしをするそのやり方のおかげ以外の何物でもないであろう。もし彼らが、一週間にまる六日間、たえず同じ仕事をくり返しながら、一年中働き通すことを強制されるならば、このことは彼らの独創性を鈍らせ、彼らを機敏かつ熟練にするのでなく愚鈍にするのではなかろうか? そしてわが労働者たちは、そのような永遠の奴隷状態の結果、その名声を維持するどころか失ってしまうのではなかろうか?・・・・このようにひどく酷使された動物(hard
driven animals)から、いったいどのような種類の技量が期待しえるであろうか?・・・・彼らの多くは、フランス人が五日または六日間かかるのと同じ仕事を四日間でする。しかし、もしイギリス人たちが永遠の苦役労働者であるべきだとすれば、彼らはフランス人以下に退化する(degenerate)恐れがある。もしわが人民が戦争での勇敢さのゆえに有名であるのなら、それは、一方では彼らの食う上等なイギリスのロースト・ビーフとプディングとのおかげであり、他方では、それに劣らず、わが自由な立憲精神のおかげであると言われるのではないか? それでは、なぜ、わが手工業者とマニュファクチュア労働者たちとの優れた独創性、精力、および熟練が、彼らが自分なりのやり方でうさばらしをする自由のおかげであってはならないのか? 願わくば、彼らがこれらの特権を決して失うことのないことを、また彼らの労働技能の、同時にまた彼らの勇気の源泉となっている良き生活を決して失うことのないことを!(122)」と。
(122) ポスルスウェイト、前出、『第一諸論』、一四ページ。
これに対して、『工業および商業に関する一論』の著者は次のように答える・・
・
「週の七日目を休日とすることが神の摂理であるとみなされるならば、このことは、他の週日が労働」(資本、をさしてこう言っていることは、すぐ次にわかる)「に属することを含むのであり、神のこのおきてを強制することが残酷だととがめるわけにはいかない。・・・・人間はたいてい生まれつき安楽と怠惰を好むのであり、このことについて、われわれは、生活手段が高騰する場合以外には平均して週に四日以上は労働しないわがマニュファクチュア細民の行動から、不幸にも経験させられるのである。・・・・一ブッシェルの小麦が労働者のすべての生活諸手段を代表し、その値段が五シリングであって、労働者が、その労働によって毎日一シリングをかせぐとしよう。そうすれば、彼は週に五日だけ働けばよいし、一ブッシェルが四シリングならば、四日だけでよい。・・・・しかし、この王国の労賃は生活諸手段の価格とくらべてはるかに高いから、マニュファクチュア労働者は四日間働いて、週の残りを遊んで暮らす余分な金(カネ)を持つことになる。・・・・週に六日間の適度な労働は決して奴隷状態でないことが、私ののべたことで十分に明らかになったことと思う。わが農業労働者たちはこれだけの労働を行なっており、どう見ても、彼らは労働者(“労働貧民
labouring poor ”)の中で最も幸福な人々なのであるが(123)、しかし、オランダ人たちはこの労働をマニュファクチュアで行なっており、きわめて幸福な国民に見える。フランス人たちも、多くの休日があいだに入らない限りそうしている(124)。・・・・しかし、わが細民は、イギリス人として、生得の権利によりヨーロッパの他のいかなる国における」(労働人民)「よりもより自由でより独立的である特権を持つとの固定観念を吹きこまれてきている。ところで、この観念は、それがわが兵士たちの勇敢さに影響する限りでは、いくらかは有用であるかもしれないが、しかし、マニュファクチュア労働者たちがこの観念を持つことが少なければ少ないほど、彼ら自身にとっても国家にとっても有益なのである。労働者たちは、決して自分が自分の目上から独立している(independent
of their superiors)と考えてはならない。・・・・おそらく総人口の八分の七がわずかしか、あるいはまったく財産を持っていないわが国のような商業国家において、“群衆”を増長させることは、きわめて危険である(125)。わが工業貧民たちが、今四日間でかせいでいるのと同じ金額で甘んじて六日間労働するようになるまでは、治療は完全ではないであろう(126)」と。
この目的のために、すなわち「怠惰、放とう、およびロマンチックな自由の夢想を根絶する」ために、同じくまた「救貧税を軽減し、勤勉の精神を助長し、マニュファクチュアにおける労働価格を引き下げるために」、わが資本の忠実なエッカルトは、おおやけの慈善に頼っているこのような労働者、一言で言えば“受救貧民たち
paupers ”を「理想的な労役場」(an ideal Workhouse)に閉じこめるための特効薬を提案する。「このような労役場は恐怖の家(House
of Terror)にされなければならない(127)」。この「恐怖の家」、この「労役場の模範」では、「まる一二時間が後に残るように、適当な食事時間をも含めて一日に一四時間」労働させられるべきである(128)。
(123) 『工業および商業に関する一論』。彼みずからが九六ページで、すでに一七七〇年にイギリスの農業労働者たちの「幸福」の中身がどのようなものであったかを語っている。「彼らの労働する力(their
working powers)はつねに極度に緊張状態に(on the
stretch)ある。彼らは今より悪い暮しをすることもできないし(they
cannot live cheaper than they do)、より激しく働くこともできない(not
work harder)」。
(124) プロテスタントは、伝統的な休日のほとんどすべてを仕事日に転化したことだけですでに、資本の発生史において一つの重要な役割を演じている。
(125) 『工業および商業に関する一論』、四一、一五、九六、九七、五五、五六、五七ページ。
(126) 同前、六九ページ。ジェイコブ・ヴァンダリントは、すでに一七三四年に、労働人民の怠惰に関する資本家たちの不平の秘密は、単に彼らが同じ賃金で四労働日の代わりに六労働日を要求している点にあるだけだと説明した。
(127) 同前、二四二、二四三ページ。「“このような理想的な労役場は『恐怖の家』にされなければならない。
Such ideal workhouse must be made a 'House of Terror'
”そしてそれは、貧民たちがたっぷり食事を与えられ、暖かくて見苦しくない衣服を着せられ、しかもほんのわずかの仕事しかしないという、貧民たちのための養護施設にされてはならない」。
(128) "In this ideal workhouse the poor shall work 14
hours in a day, allowing proper time for meals, in such manner
that there shall remain 12 hours of neat labour."同前〔二六〇ページ〕。「フランス人は」・・と彼は言う・・「われわれの熱狂的な自由の観念をせせら笑っている」(同前、七八ページ)。
「理想的労役場」、すなわち一七七〇年の恐怖の家では一日に一二労働時間! 六三年後の一八三三年に、イギリス議会が四つの工場部門で一三歳から一八歳までの児童たちの労働日をまる一二時間に引き下げた時には、イギリス産業の最後の審判の日が始まったかのように思われた! 一八五二年に、ルイ・ボナパルトが、法定労働日を根底から揺るがすことによってブルジョア的地歩を占めようとした時、フランスの労働人民は異口同音に叫んだ・・「労働日を一二時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれに残された唯一の善である!(129)」と。チューリッヒでは、一〇歳以上の児童の労働は一二時間に制限されている。アールガウ〔スイス〕では、一八六二年に、一三歳ないし一六歳の児童たちの労働は、一二時間半から一二時間に短縮され、オーストリアでは、一八六〇年に、一四歳ないし一六歳の児童たちについて、同じく一二時間に短縮された(130)。何という「一七七〇年以来の進歩」か、マコーリーなら「歓喜して」歓声をあげることであろう!
資本の魂が一七七〇年にはまだ夢として描いていた受救貧民のための「恐怖の家」は、数年後に、マニュファクチュア労働者たちそのもののための巨大な「労役場」として出現した。それは工場と呼ばれた。そして今度は、理想が現実の前に生色を失った。
(129) 「彼らが一日に一二時間以上の労働に反対したのは、とりわけこの時間数を定めた法律が、共和国の立法のうち彼らに残されている唯一の善だからである」(『工場監督官報告書。一八五五年一〇月三一日』、八〇ページ)。一八五〇年九月五日のフランスの一二時間法は、一八四八年三月二日の臨時政府の布告のブルジョア的修正版であるが、それはすべての“作業場
Ateliers
”に無差別に適用される。この法律以前は、フランスの労働日は無制限であった。それは、工場では一四時間、一五時間、またそれ以上続いた。『一八四八年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』を見よ。ブランキ氏・・経済学者のブランキのほうであって革命家のブランキではない・・は、政府によって労働者の状態の調査を委嘱されていた。
(130) ベルギーは、労働日の規制に関してもブルジョア的模範国であることを実証している。ブリュッセル駐在のイギリス全権公使ロード・ハウアード・ウォールデンは、一八六二年五月一二日づけで“外務省”に次のように報告している・・「ロジエ大臣は私に次のように説明した。すなわち、児童労働は、一般法によっても地方法規によっても何ら制限されてはいない。政府は、この三年間、この問題に関する法案を議会に提出しようと、会期のたびに考えたが、しかし、労働の完全な自由の原理に矛盾する何らかの立法措置に反対する警戒的不安がつねに打ち勝ちがたい障害となった」と!
★ 第6節 標準労働日のための闘争。強制法による労働時間の制限。一八三三〜一八六四年のイギリスの工場立法
資本が労働日をその標準的な最大限界まで延長し、ついでこれを超えて一二時間という自然日の限界にまで延長する(131)のに数世紀を要したが、その後今度は、一八世紀の最後の三分の一期に大工業が誕生して以来、なだれのように強力で無制限な突進が生じた。風習と自然、年齢と性、昼と夜とのあらゆる制限が粉砕された。古い法令では農民流に単純だった昼と夜の概念でさえもきわめてあいまいになったので、一八六〇年になってもなお、イギリスの一判事が、昼とは何であり夜とは何であるかを「判決上有効に」説明するために、真にタルムード学者的な〔「へりくつの」、の意〕英知をしぼらなければならなかった(132)。資本は飲めや歌えの酒宴をはった。
(131) 「何らかの階級の人々が一日に一二時間苦役しなければならないということは、たしかにきわめて残念なことである。食事時間と仕事場への往復時間とを加算すれば、これは、実際に、一日二四時間のうち一四時間になる。・・・・健康のことを度外視しても、労働者階級の時間を、一三歳という幼少期から、そして『自由な』産業部門においてははるかに幼少期から、これほど徹底的に絶え間なく吸収することが道徳的見地から見てきわめて有害であり、恐るべき害悪であるということは、だれもがためらうことなく認めるものと思う。・・・・公衆道徳のために、有能な住民の育成のために、そして国民の大多数に妥当な生活の喜びを与えるために、すべての職業部門において毎労働日の一部分が休養と余暇のために留保されるようあくまでも要求されなければならない」(『工場監督官報告書。一八四一年一二月三一日』におけるレナド・ホーナーの報告)。
(132) 『一八六〇年、アントリム州ベルファスト高等法院ヒラリー開廷期の法廷におけるJ・H・オトウェイ氏の判決』を見よ。
生産の大騒ぎにだまされていた労働者階級が、いくらか正気に戻るやいなや、彼らの抵抗が、まずもって大工業の生国であるイギリスで始まった。けれども、三〇年間は、彼らによって勝ち取られた譲歩は純粋に名目的なものにとどまった。議会は、一八〇二年から一八三三年までに五つの労働法を公布したが、しかしきわめて抜け目なく、その強制施行や必要な官公吏などのために要する経費としてびた一文も可決しなかった(133)。それらは死文にとどまった。
・
「事実は、一八三三年の法以前は、児童と年少者たちは終夜であろうと、終日であろうと、またはその両方であろうと、“意のままに
ad libitum ”働かされた(were worked)ということである(134)」。
(133) “ブルジョア王”ルイ=フィリップの政治体制にとってきわめて特徴的なことは、彼の統治下で公布された唯一のものである一八四一年三月二二日の工場法が、一度も実行に移されなかったことである。しかもこの法律は、児童労働のみに関するものである。それは八歳ないし一二歳の児童には八時間、一二歳ないし一六歳の児童には一二時間などと定めているが、多くの例外が、つけ加えられ、八歳の児童にさえ夜間労働を許している。この法律の監視と強制は、ネズミ一匹まで警察に取り締まられるこの国において、「“商業の友たち”」の善意にゆだねられたままであった。一八五三年以後やっとのことで、たった一つの県、すなわちデュ・ノール県に有給の政府監督官が一人任命された。フランス社会一般の発展にとってこれに劣らず特徴的なことは、すべてのものを法の網でからめこむフランスの法律工場の中で一八四八年の革命にいたるまで、ルイ=フィリップの法律がただ一つの法律であった!ということである。
(134) 『工場監督官報告書。一八六〇年四月三〇日』、五〇ページ。
一八三三年の工場法・・木綿工場、羊毛工場、亜麻工場、および絹工場を包括する・・以後、近代産業にとって一つの標準労働日がようやく始まる。一八三三年から一八六四年までのイギリスの工場立法の歴史以上に、資本の精神を見事に特徴づけるものはない!
一八三三年の法律が言明するところによれば、普通の工場労働日は朝五時半に始業し、晩の八時半に終業するものとし、また一五時間という時限の制限内では、年少者(すなわち一三歳ないし一八歳の者)を一日のうちのどんな時間に使用しても、同一の年少者が一日に一二時間以上労働しさえしなければ、特別に規定されたある場合を除き、適法であるとされる。この法の第六条は、「このように労働時間を制限された者には、すべて、毎日少なくとも一時間半の食事時間が認められるべきこと」と規定している。九歳未満の児童の使用は、のちにふれる例外を除いて禁止され、九歳から一三歳までの児童の労働は、一日八時間に制限された。夜間労働、すなわちこの法律によれば晩の八時半から五時半までの労働は、九歳ないし一八歳のすべての者について禁止された。
立法者たちは、成年労働力を吸収する資本の自由、または彼らの名づける「労働の自由」を侵害する気は毛頭なかったのであり、彼らは、工場法のこうした身の毛もよだつ結果を防止するために、一つの独自な制度を案出したほどであった。
・
「現在整備されている工場制度の大きな弊害は」・・と一八三三年六月二五日の工場調査委員会中央委員会第一次報告書はのべている・・「それが、成人の労働日の最大限の長さにまで児童労働を延長する必要性を作り出す点にある。成人の労働を制限せずに・・それを制限すれば、予防しようとするはずの弊害よりももっと大きな弊害を生みだすであろう・・この弊害を矯正する唯一の手段は、二組の児童を使用する案であると思われる」と。〔工場調査委員会、王命委員中央委員会第一次報告書。一八三三年六月二八日、下院の命により印刷』、五三ページ〕
したがって、リレー制度("System of
Relays"・・ Relay
とは、英語でもフランス語でも、別々の駅で郵便馬車の馬を継ぎ替えるという意味である)の名でこの「案」が実施され、その結果、たとえば朝五時半から午後一時半までは九歳ないし一三歳の一組の児童が、午後一時半から晩の八時半までは別の一組が、継ぎ馬として使われるといったふうになった。
しかし、過去二二年間に公布された児童労働に関するすべての法律を、工場主諸氏がまったく厚かましく無視したことにむくいるため、今度もまた彼らに与える苦言の丸薬は金色に染めて飲みやすくされた。議会は、一八三四年三月一日以後一一歳未満の児童が、一八三五年三月一日以後一二歳未満の児童が、一八三六年三月一日以後一三歳未満の児童が、八時間以上工場で労働してはならない! と規定した。「資本」にとってこれほど思いやりのあるこの「自由主義」は、ファレ医師、サー・A・カーライル、サー・B・ブロウディー、サー・C・ベル、ガスリー氏など、要するにロンドンの最も著名な“内科医たち”と“外科医たち”が、下院における彼らの証言の中で、“遅滞は危険だ!
Periculum in mora! ”と明言していただけに、なおのこと賞賛に値するものであった。ファレ医師は、いくらかぶっきらぼうにのべた・・
・
「あらゆる形で起こりうる早死を防止するためにやはり立法が必要であり、たしかにこれ」(工場のやり方)「は、彼らを早死させる最も残酷な方法の一つと見なされなければならない(135)」と。
あの「改革された」議会〔一八三二年の選挙法改正後の議会〕が、工場主諸氏への思いやりから、なお何年ものあいだ、一三歳未満の児童を週七二時間の工場労働という地獄に封じこめておきながら、奴隷解放法〔一八三三年八月可決〕・・これまた自由を一滴一滴と服用させるにすぎないが・・においては反対に、農場主に対してどんな黒人奴隷をも週四五時間以上過度労働させることをただちに禁止したのである!
(135) "Legislation is equally necessary for the prevention
of death, in any form in which it can be prematurely inflicted,
and certainly this must be viewed as a most cruel mode of
inflicting it."〔『連合王国の作業場および工場における児童労働規制のための法案に関する委員会報告書。証言記録つき。一八三二年八月八日、下院の命により印刷』、J・R・ファレ医師の証言、五九八〜六〇二ページ。〕
しかし、資本は決して妥協しないで、今度は長年にわたる騒々しい扇動を開始した。その主たる問題は、児童という名のもとに八時間労働に制限され、かつ一定の就学義務を課されている部類の年齢のことであった。資本家的な人間学によれば、児童年齢は、一〇歳またはせいぜい一一歳で終わるものであった。工場法の完全実施の期限、宿命の一八三六年が迫ってくればくるほど、工場主暴徒はますます激しく荒れ狂った。事実、それは政府を縮み上がらせることに成功したのであって、その結果、政府は、一八三五年に、児童年齢の限界を一三歳から一二歳に引き下げることを提案した。ところが、“外部からの圧力”が威嚇的に増大した。下院は勇気を失った。下院は、一三歳の児童を一日に八時間以上資本のジャガノートの車輪のもとに投げこむことを拒否し、一八三三年の法は完全に効力を生じた。それは、一八四四年六月までそのまま変更されなかった。
この法が初めは部分的に、ついで全面的に工場労働を規制した一〇年のあいだ、工場監督官たちの公式報告書は、法の実施不可能に関する苦情で満ちあふれている。すなわち、一八三三年の法は、朝五時半から晩八時半までの一五時間なら、任意の時点で各「年少者」および各「児童」に一二時間または八時間の労働を始めさせ、中断させ、終わらせることを、同じくまた、異なる者に異なる食事時間を指示することを、資本の主人たちの自由裁量にまかせたので、主人たちはやがて一つの新しい「リレー制度」を見つけ出した。それによれば、労働馬たちは一定の駅々で交替させられるのではなく、次々と別な駅でたえずくり返し新たに継ぎ替えられるのである。われわれはのちに、この制度の見事さに立ち返らなければならないのであるから、これ以上くわしくは論じない。しかし、この制度が工場法全体を、単にその精神から見てばかりではなくその文言から見ても無効にしたということだけは一見して明らかである。個々それぞれの児童とそれぞれの年少者についてこんな複雑な記帳が行われていては、工場監督官たちは、どのようにして法定の労働時間と法定の食事時間の保証を強制すればよいのか? やがてふたたび大部分の工場において、以前の残忍な不法が、罰も受けずにさかんに行われた。内務大臣とのある会見(一八四四年)で、工場監督官たちは、新たに案出されたリレー制度のもとではどんな監督も不可能であることを証明した(136)。しかし、そのあいだに、情勢はすでに大いに変化していた。特に一八三八年以来、工場労働者たちは、憲章〔die
Charter〕〔*〕
を彼らの政治的な選挙スローガンにすると共に、一〇時間法案を彼らの経済的な選挙スローガンにしていた。工場主自身のうちでも工場経営を一八三三年の法に従ってすでに規制していた一部の者は、よりひどい厚かましさか、より幸運な地方的事情かによって法律違反をなしえた「にせ兄弟たち」の不徳義な「競争」に関して陳情書を次々に提出し、議会を圧倒した。その上、たとえ個々の工場主がいかに以前の強奪欲をほしいままにしたいと思おうとも、工場主階級の代弁者および政治的指導者たちは、労働者たちに対する態度と言葉を変えることを命令した。彼らはすでに穀物法廃止のための戦役を開始しており、勝利のためには労働者たちの援助を必要としていた! それゆえ彼らは、自由貿易の専念王国のもとでは、パンのかたまりを二倍にするだけでなく、一〇時間法8トをも採択すると約束した(137)。したがって、一八三三年の法を真実のものにしようとするだけの処置に対しては、ますますもって反対するわけにはいかなかった。トーリー党は、彼らの最も神聖な利益、すなわち地代をおびやかされたので、ついに博愛家ぶった憤激をあらわにしながら、彼らの敵たちの「非道な術策(138)」を、どなりつけた。
〔*人民憲章(people's charter)・・チャーチストの諸要求を内容とする宣言。議会への提出を予定した法案として、一八三八年五月八日に公表された。その諸要求は、一.普通選挙権(二一歳以上の男子)、二.毎年の議会選挙、三.秘密投票、四.選挙区の均等化、五.議会選挙候補者の財産調査の廃止、六.国会議員への日当。・・『全集』注解〕
(136) 『工場監督官報告書。一八四九年一〇月三一日』、六ページ。
(137) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、九八ページ。
(138) なお、レナド・ホーナーは「“非道な術策
nefarious practices ”」という表現を公式に用いている(『工場監督官報告書。一八五九年一〇月三一日』、七ページ)。
こうして、一八四四年六月七日の追加工場法が成立した。それは、一八四四年九月一〇日に施行された。この法律は、新しい部類の労働者、すなわち一八歳以上の女性たちを被保護者の分類に加えている。彼女たちは、その労働時間が一二時間に制限され、夜間労働が禁止されるなど、あらゆる点で年少者と同等にされた。したがって、立法は、はじめて成年者たちの労働をも直接かつ公式に監督することをよぎなくされるにいたった。一八四四/一八四五年の工場報告書には、皮肉にも次のようにのべられている・・
・
「成年女性たちが彼女たちの権利のこの侵害に対して不平を言ったという事例は一つも聞かない(139)」と。
一三歳未満の児童の労働は一日六時間半に、そして一定の諸条件のもとでは一日七時間に短縮された(140)。
(139) 『工場監督官報告書。一八四四年九月三〇日』、一五ページ。
(140) この法は、毎日毎日ではなく一日おきにだけ労働する場合には、児童を一〇時間使用することを許している。全体として、この条項は実効のないままであった。
この法は、にせ「リレー制度」の濫用をなくすために、とりわけ次のような重要な細則を定めた・・
・
「児童および年少者の労働時間は、だれかある児童または年少者が、朝、工場で仕事し始める時間から数えられるべきである」と。
その結果、たとえばAは朝八時に仕事を始め、Bは一〇時に始めるとしても、Bの労働日はAのそれと同じ時間に終わらなければならない。労働日の開始は公的な時計、たとえばもよりの鉄道時計で示されるものとされ、工場の時計はこれに合わせられなければならない。工場主は、工場内に、労働日の開始、終了、休憩を示す大きな活字で印刷された掲示を掲げなければならない。午前の労働を一二時前に始める児童たちは、午後一時以後にふたたび使用されてはならない。したがって、午後組は午前組とは別の児童たちから成り立っていなければならない。食事のための一時間半は、すべての被保護労働者に同一時限に与えられなければならず、少なくとも一時間は午後三時以前に与えられなければならない。児童または年少者たちは、少なくとも三〇分の食事のための休憩なしに、午後一時以前に五時間以上使用されてはならない。児童、年少者または女性たちは、どの食事時間中も、何らかの労働過程が行われている工場の室内にとどまってはならない、など。
すでにのべたようにこれらの事こまかな諸規定は、労働の期間、限界、休憩を、時計の打つ音に従ってこのように軍隊式に画一的に規制するものであるが、この諸規定は決して議会の幻想の産物ではなかった。それらは近代的生産様式の自然諸法則として、諸関係の中からしだいに発展してきたのである。それらの法則の定式化、公的な承認、および国家による宣言は長期にわたる階級闘争の所産であった。それらの法則の最も手近な結果の一つは、実践の中で成年男子工場労働者の労働日も同じ制限に従わせられた・・というのは、大多数の生産過程において、児童、年少者、および女性たちの共同作業が不可欠であったから・・ということである。それゆえ、だいたいにおいて、一八四四〜一八四七年の期間中は、工場立法に従わせられているすべての産業部門において、一二時間労働日が一般的かつ画一的に行われていた。
けれども、工場主たちは、この「進歩」を、それを埋めあわせる「退歩」なしには許さなかった。工場主たちにけしかけられて、下院は、神と法によって資本に当然に与えられるべき「工場児童の追加供給」を保証するために、働かせるべき児童の最低年齢を九歳から八歳に引き下げた(141)。
(141) 「彼らの労働時間の引き下げは、より大ぜいの」(児童の)「雇用をもたらすであろうから、八歳と九歳の児童の追加供給は、増加した需要を満たすであろうと考えられた」(同前、一三ページ)。
一八四六/一八四七年は、イギリス経済史で新紀元を画する年である。穀物法が撤廃され、綿花その他の原料に対する輸入関税が廃止され、自由貿易が立法の導きの星と宣言された! 要するに、千年王国が始まった。他方、同じこれらの年にチャーティスト運動と一〇時間法運動とがその頂点に達した。これらの運動は、復讐すると息まくトーリー党の中に同盟者を見いだした。ブライトおよびコブデンが先頭に立っている、約束違背の自由貿易軍の熱狂的な反抗にもかかわらず、あのように長らく熱望された一〇時間法案が議会を通過した。
一八四七年六月八日の新工場法は、「年少者」(一三歳から一八歳)およびすべての女性の労働日が、一八四七年七月一日には暫定的に一一時間に短縮されるが、一八四八年五月一日には最終的に一〇時間に制限されるべきと確定した。その他の点では、この法は、一八三三年および一八四四年の法の修正的な追加でしかなかった。
資本は、一八四八年五月一日におけるこの法の完全実施をさまたげるために、予備戦役を企てた。しかも、労働者たち自身が、経験によって利口になったと称して、彼ら自身の事業をふたたび破壊するのを助けるはずであった。時機は巧妙に選ばれた。
・
「一八四六/一八四七年の恐るべき恐慌の結果、多くの工場は短時間しか操業せず、他の工場は完全に操業を停止してしまったので、大きな苦痛が工場労働者のあいだで支配的であったということを想起しなければならない。したがって、かなりの数の労働者がきわめて窮迫した状態にあったし、借金をしている者も多かった。それゆえ、彼らが、過去の損失を埋めあわせ、たぶん借金を返済し、または家具を質屋から請け出し、または売った持ち物を補填し、または自分と家族に新しい衣服を調達したりするために、より長い労働時間のほうを選ぶであろうことは、かなり確実に推測できた(142)」。
工場主諸氏は、一〇%の一般的な賃金引き下げによって、この事情の当然な作用を強めようとした。これは、いわば新しい自由貿易時代の除幕式として行われた。これに続いて、労働日が一一時間に短縮されるやいなや、さらに八1/3%の賃金引き下げが行われ、そして労働日が最終的に一〇時間に短縮されるやいなや、その二倍の賃金引き下げが行われた。したがって、何とか事情が許した場合には、少なくとも二五%の賃金引き下げが行われた(143)。このように有利に準備された好機のもとで、一八四七年の法の撤廃のための扇動が労働者たちのあいだで始められた。その際、詐欺、誘惑、および脅迫のどんな手段も用いられないものはなかったが、すべてはむだであった。半ダースの請願書の中で労働者たちが「この法による彼らの圧迫」を訴えなければならなかった点については、請願者自身が、口頭審問に際して、彼らの署名は強要されたものであることを明言した。「彼らは圧迫されているとのことであるが、しかし、それは工場法とは違うだれかによってである(144)」。しかし、工場主たちが、自分の思いどおりに労働者たちをしゃべらせることに成功しなかった時、彼ら自身が、新聞と議会で、労働者たちの名においてますます声高に叫んだ。彼らは、自分たちの世界改善という気まぐれのために不幸な労働者を無慈悲にも犠牲に供する一種の国民公会委員であるとして工場監督官たちを非難した。この策略も失敗した。工場監督官レナド・ホーナーは、自分みずから、また彼の部下の副監督官たちを通じて、ランカシャーの工場で多くの証人審問を行った。審問された労働者の約七〇%の者が一〇時間に、はるかに少ないパーセンテージの者が一一時間に、まったく取るにたりない少数の者がもとの一二時間に賛成であると明言した(145)。
(142) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一六ページ。
(143) 「私は、週に一〇シリングを受け取っていた人が、一〇%の一般的な賃金引き下げによって一シリングを引き去られ、さらに時間短縮のために一シリング六ペンス、合計して二シリング六ペンス引き去られたのであるが、それにもかかわらず、多数の者が一〇時間法案がよいとしているのを見いだした」(同前)。
(144) 「私が請願書に署名した時、同時に私は悪いことをするわけだなとはっきり言いました・・では、なぜ君はそれに署名したのか?・・断われば首を切られそうだったからです。署名者は、実際、『圧迫されている』と感じたが、しかし、それは決して工場法によってではなかった」(同前、一〇二ページ)。
(145) 同前、一七ページ。ホーナー氏の管区では、こうして一八一工場の一万〇二七〇人の成年男子労働者が審問された。彼らの供述は、一八四八年一〇月に終わる半年間の工場報告書の付録の中に見いだされる。これらの証人審問は、他の点でも貴重な資料を提供している。
もう一つの「穏便な」策略は、成年男子労働者を一二時間ないし一五時間労働させ、ついでこの事実をプロレタリアの心からの願いの最上の表現であると説明することであった。しかし、またもや「無慈悲な」工場監督官レナド・ホーナーがいあわせた。大部分の「超過時間労働者」は次のように供述している・・
・
「彼らは、もっと少ない労賃で一〇時間働く方がはるかに好ましいのであるが、彼らにはまったく選択権がない。彼らのうちの多くの者が失業しており、多くの紡績工がよぎなくただの“糸つなぎ工”として働かされているのであるから、もし彼らがより長い労働時間を拒絶すれば、すぐさま他の者が彼らに取って代わるであろう。こうして、彼らにとって問題になることは、より長時間働くか、それとも首を切られるかということである(146)」。
(146) 同前。「付録」における、レナド・ホーナー自身によって集められた供述、第六九、七〇、七一、七二、九二、九三号、および副監督官Aによって集められた供述、第五一、五二、五八、五九、六二、七〇号を見よ。一工場主は、みずから真実のことを打ち明けた。同前、第二六五号のあとに第一四号を見よ。
資本の予備戦役は失敗に終わり、一〇時間法は一八四八年五月一日に発効した。けれども、そうする間にも、チャーティスト党の大失敗・・その指導者が投獄され、その組織は粉砕された・・は、すでにイギリス労働者階級の自信を動揺させていた。その後まもなく、パリの六月蜂起とその血ぬられた圧殺は、ヨーロッパ大陸においてもイギリスにおいても、支配階級のあらゆる分派・・すなわち土地所有者と資本家、オオカミ相場師と小商人、貿易保護主義者と自由貿易主義者、政府と反対党、僧侶と無神論者、若い売春婦と年老いた尼・・を、財産、宗教、家族、社会を救え!という共同の叫びのもとに糾合した。労働者階級はいたるところで法の保護の外におかれ、破門され、「“容疑者法
loi des suspects ”」〔*〕のもとにおかれた。したがって、工場主諸氏は気がねする必要はなかった。彼らは、単に一〇時間法に対してだけでなく、一八三三年以来労働力の「自由な」吸収をある程度抑制しようとした全立法に対しても公然たる反乱を起こした。それは、“奴隷制擁護の反乱
Proslavery rebellion ”の縮図であり、恥知らずな仮借なさをもって、恐怖政治的な精力をもって、二年以上にわたって行われたのであった。このどちらも、反乱資本家は彼の労働者の身体以外には何ものも危険にさらすことがなかったので、ますますもって安上がりであった。
〔* loi des suspects(容疑者法)・・公安維持のための措置に関する法律で、一八五八年二月一九日にフランスの“法制局
Corps legislatif
”によって制定された。この法律は、第二帝政に敵意をいだいていると疑われたすべての者を、投獄するか、フランスとアルジェリアの各地に追放するか、フランス領土から完全に追放するかの、無制限の権限を皇帝とその政府に与えた。・・『全集』注解〕
以下にのべることを理解するためには、一八三三年、一八四四年、および一八四七年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しない限り、三つとも法律としての効力を持つということ、それらはいずれも一八歳以上の男子労働者の労働日を制限してはいないということ、さらに、一八三三年以来、朝の五時半から晩の八時半までの一五時間の時限がずっと法律上の「昼間」であったのであり、この範囲内で、初めは一二時間、後には一〇時間の年少者および女性の労働が規定の諸条件のもとで行われるものとされたこと、そうしたことが想起されなければならない。
工場主たちはあちこちで、彼らが使っていた年少者と女性労働者の一部、時には半分を解雇し始め、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させた。彼らは叫んだ、一〇時間法のもとではこれ以外に選択の余地はない!と(147)。
(147) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一三三、一三四ページ。
第二の措置は、食事のための法定の休憩に関係していた。工場監督官の言うところを聞こう。
・
「労働時間を一〇時間に制限して以来、工場主たちは・・まだ実際には自分たちの見解を思う存分には実行に移していないけれども・・次のように主張している。たとえば、朝の九時から晩の七時まで仕事が行われる場合、彼らは、朝の九時以前に食事のために一時間、晩の七時以後に三〇分、したがって食事のために一時間半を与えることによって、法律の規定を十分に守っている、と。若干の場合、彼らは、今でも、昼食のために三〇分またはまる一時間を許しているが、しかし、同時に、一時間半のどれかの部分を一〇時間労働日の経過中に与える義務はまったくないと言い張っている(148)」。
したがって、工場主諸氏の主張するところによれば、一八四四年の法の食事時間に関する実に厳密な諸規定は、労働者たちに彼らの工場への出勤以前と工場からの退出以後に、したがって自宅において飲食する許可だけを与えたものである! それに、労働者たちはなぜ朝の九時以前に昼食をとってはならないのか? ところが、勅選裁判官たちは、次の用に判定した。規定の食事時間は、
・
「実際の労働日のあいだの中休み中に与えられなければならず、かつ朝の九時から晩の七時まで引き続き一〇時間、中休みなしに仕事をさせることは違法である(149)」と。
(148) 『工場監督官報告書。一八四八年四月三〇日』、四七ページ。
(149) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一三〇ページ。
これらの楽しい示威運動ののち、資本は、一八四四年の法の条文に合致した、すなわち合法的な措置によって、その反逆を開始した。
一八四四年の法は、たしかに午前一二時より前に就業させられた八歳から一三歳の児童たちを昼の一時より後にふたたび就業させることを禁止した。しかし、それは、午前一二時またはその後に労働時間が始まった児童たちの六時間半の労働は規制しなかった! それゆえ、八歳の児童たちは、午前一二時に労働を始めた場合には、一二時から一時まで一時間、午後二時から四時まで二時間、晩の五時から八時半まで三時間半、全部合わせて法定の六時間半使用されることができた! あるいは、もっとうまいやり方もできた。児童たちの使用を晩の八時半までの成年労働者の労働に適合させるためには、工場主たちは、午後二時より以前には児童たちに何の仕事も与えなければよいのであって、そうすれば彼らを晩の八時半まで中断せずに工場にとどめておくことができた!
・
「最近、機械設備を一〇時間以上稼働させたいという工場主たちの渇望の結果、イギリスでは八歳から一三歳の男女の児童たちを、年少者と女性たちがすべて工場から退出した後に、もっぱら成年男子と一緒に晩の八時半まで仕事をさせるという慣行が忍びこんできたのが、今でははっきりと認められる(150)」。
労働者と工場監督官たちは、衛生学的および道徳的な理由から抗議した。しかし、資本は答えて言った・・
・
「罰はこの身で引き受けるまで! 手前の望みはお裁判(サバキ)、
・
証文どおりの違背金をお願い申しておるんです」。〔シェークスピア、『ヴェニスの商人』〕
(150) 『工場監督官報告書・・・・』、同前、一四二ページ。
実際、一八五〇年七月二六日に下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、一八五〇年七月一五日には二五七の工場で三七四二人の児童がこの「慣行」に従わされていた(151)。それだけではまだことたりない! 資本のずる賢い目は、一八四四年の法が、元気回復のための少なくとも三〇分の休憩なしには午前中の五時間の労働を許していないが、しかし、午後の労働についてはこの種のことは何も規定していないことを発見した。それゆえ資本は、八歳の働く児童を二時から晩の八時半まで休みなしに苦役させるだけでなく、ひもじくもさせるという楽しみを要求し、かつ、無理やり獲得した!
・ 「さよう、その胸だ。
・ ちゃんとそう証文にある(152)」。〔『ヴェニスの商人』〕
(151) 『工場監督官報告書。一八五〇年一〇月三一日』、五、六ページ。
(152) 資本の性質は、その未発達な諸形態においても発展した諸形態においても、変わりはない。アメリカの南北戦争勃発の直前に奴隷所有者たちの勢力がニューメキシコ准州に押しつけた法典では、次のようにのべられている。労働者は、資本家がその労働力を買った以上は、「その人の(資本家の)貨幣である」("The
labourer is his(the capitalist's)money.")と。同じ見解は、ローマの貴族たちのあいだでも行われていた。彼らが平民の債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活諸手段を通じて、債務者の血と肉に転化した。したがって、この「血と肉」は「彼らの貨幣」であった。十銅板表〔*〕のシャイロック的な法律はここに由来する! 貴族の債権者たちが、時々ティベル川の向こう岸で、債務者たちの人肉料理を使い祝宴を催したというランゲの仮説は、キリスト教の主の晩餐についてのダウマーの仮説と同じく、未決定のままにしておこう。
〔*
十銅板表の法律・・ローマ奴隷制国家の立法的記念碑である「一二銅板表」法の元の異本。この法律は私有財産を保護し、支払不能の債務者に対する自由剥奪、奴隷化、または身体切断を規定した。それはローマ私法〔Privatrecht〕の出発点をなした。・・『全集』注解〕
けれども、一八四四年の法律が児童労働を規制する限り、その条文にこのようにシャイロック的に固執することは、それが「年少者および女性たち」の労働を規制する限り、同法への公然の反逆の手だてにほかならなかった。思い起こされるのは、「にせリレー制度」の廃止が、あの法律の主要な目的および主要な内容をなしていることである。工場主たちは、次のような単純な宣言でもって彼らの反逆を開始した。すなわち、一五時間の工場日を勝手に短く区切って年少者と女性たちを思うがままに使用することを禁止した一八四四年の法の諸条項は、
・
「労働時間が一二時間に制限されている間は比較的無害(comparatively
harmless)であった。一〇時間法のもとでは、それは耐えがたい不当(hardship)(153)」である、と。
ということで、彼らはきわめて平然と、法律の条文を飛び越え、彼らの一存でかつての制度をふたたび実施するであろうと工場監督官たちに通告した(154)。それは、悪い助言にまどわされている労働者たち自身のために、
・
「彼らにより高い賃金を支払うことができるようにするために」行われているのである。「それは、一〇時間法のもとで大ブリテンの産業の覇権を維持するための、唯一の可能な案である(155)」。「リレー制度のもとで反則を発見することは少しは困難かもしれないが、しかし、それが何だと言うのか?(what
of that?) 工場監督官と副監督官の少しばかりのめんどう(some
little trouble)を省くために、この国の大きな工場利益が副次的な事柄として扱われるべきなのか?(156)」。
(153) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一三三ページ。
(154) とりわけ、博愛家アシュワースがレナド・ホーナー宛に送ったクエーカー臭い手紙の中にそう書いてある(『工場監督官報告書。一八四九年四月』、四ページ)。
(155) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一三八ページ。
(156) 同前、一四〇ページ。
これらすべての言いのがれは、もちろん何の役にも立たなかった。工場監督官たちは訴訟を起こした。しかし、まもなく、工場主たちの請願のもうもうたる砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレイにふりかかったので、彼は、一八四八年八月五日付の回状の中で、監督官たちに対し、
・
「年少者と女性たちを一〇時間以上労働させるためにリレー制度が明白に濫用されているのでない限り、一般に、法律の条文に違反したかどをもって告訴することのない」よう通達した。
これによって、工場監督官J・スチュアートは、一五時間の工場日の時限内で、いわゆる交替制度をスコットランド全域で許可し、同地では、まもなく、交替制度がふたたびもとのようにさかんになった。これに反してイングランドの工場監督官たちは、大臣は法律を停止する独裁権を持ってはいないと宣言し、“奴隷制擁護の”反乱者たちに対する訴訟手続きを続行した。
けれども、裁判官たち、すなわち“州治安判事たち
county magistrates (157)”が無罪判決を下してしまうならば、いくら法定に召喚しても何になったろうか? これらの法廷においては、工場主諸氏が自分自身を裁判したのである。一例をあげよう。カーショー・リーズ会社の綿紡績業者であるエスクリジなる者が、自分の管区の工場監督官に対して、自分の工場のために定めたリレー制度の構想を提出した。拒絶の回答がなされたので、彼は、さしあたり受動的な態度をとった。わずか数カ月後、同じく綿紡績業者で、フライデーではないがとにかくエスクリジの親戚であるロビンソンという名の人物が、エスクリジが考案したのと同じリレー計画を採用したかどで、ストックポートの“市治安判事
Borough Justices ”の前に出頭した。四人の判事が列席したが、そのうち三人は綿紡績業者であり、その主席はおなじみのエスクリジであった。エスクリジは、ロビンソンに無罪判決を下し、今やロビンソンにとって正しいことはエスクリジにとっても至当であると言明した。自分自身の下した法的に有効な判決に支えられて、彼は、すぐさまこの制度を自分自身の工場で採用した(158)。もちろん、この法廷の構成がすでに公然たる法律違反であった(159)。
・
「この種の茶番劇は」・・と監督官ハウエルは叫んでいる・・「矯正手段を切実に要求している。・・・・このような場合にはすべて・・・・法律をこれらの判決に適合させるか、それとも法律に適合する判決を下すようなもっと誤りない法廷に法律を執行させるか、そのいずれかである。いかに有給治安判事が要望されることか!(160)」
(157) これらの「“州治安判事”」、すなわち、W・コベットの名づける「“偉大な無給者”」は、諸州の名士たちからなる一種の無給治安判事である。彼らは、事実上、支配階級の領主裁判所を形成している。
(158) 『工場監督官報告書。一八四九年四月三〇日』、二一、二二ページ。同様な諸事例については、同前、四五ページ参照。
(159) サー・ジョン・ホブハウスの工場法として知られるウィリアム四世第一年および第二年の法律の第二九章〔*〕、第一〇条によって、綿紡績工場もしくは織物工場のいかなる所有者も、またはこのような所有者の父、息子、および兄弟も、工場法に関する問題で治安判事として職務を行うことは禁じられている。
〔* ディーツ版『全集』では「c.29」となっているが、大月書店版では「第二四章」、新日本出版社版では「第二四号〔第三九号の誤り〕」としている。〕
(160) 『工場監督官報告書。一八四九年四月三〇日』。
勅選裁判官たちは、一八四八年の法の工場主的解釈は不条理であると宣言したが、社会救済者たちは考えを変えようとはしなかった。
・
「私は」・・とレナド・ホーナーは報告している・・「七つの異なる裁判所管区における一〇回の訴追によってこの法律を励行させようと試みたが、治安判事によって支持されたのは一件にすぎなかったので、・・・・法律違反のかどでこれ以上訴追しても無益であると考えた。この法のうち、労働時間の均一性を確保するために作成された部分は、・・・・もはやランカシャーでは存在しない。私も部下も、いわゆるリレー制度が支配的に行われている工場が年少者および女性たちを一〇時間以上働かせていないことをたしかめる手段をまったく持っていない。・・・・一八四九年四月末、私の管区ではすでに一一四の工場がこの方法で作業したのであって、その数は最近急激に増加してきている。だいたいにおいてそれらの工場は、現在朝の六時から晩の七時半まで一三時間半作業しており、
若干の場合には、朝の五時半から晩の八時半まで、一五時間作業している(161)」。
すでに一八四八年一二月に、レナド・ホーナーは、このリレー制度のもとではどんな監視制度もきわめて広範なこの過度労働を防止できないと異口同音に言明した六五人の工場主と二九人の工場監督者との名簿を持っていた(162)。同じ児童と年少者たちが、ある時は紡績室から織布室などへ、ある時は一五時間のあいだにある工場から他の工場へ移し替えられた(shifted)(163)。どうして監督できようか、
・
「トランプのカードを切るように工員たちを限りなく多種多様に混ぜあわすために、また個々人の作業時間と休息時間を毎日切り替え、同じ完全な一組の工員たちが決して同じ場所で同じ時間に一緒に作業することがないようにするために、交替という言葉を濫用する(164)」ような制度を!
(161) 『工場監督官報告書。一八四九年四月三〇日』、五ページ。
(162) 『工場監督官報告書。一八四九年一〇月三一日』、六ページ。
(163) 『工場監督官報告書。一八四九年四月三〇日』、二一ページ。
(164) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、九五ページ。
しかし、現実の過度労働をまったく度外視すれば、このいわゆるリレー制度は、資本の幻想から生まれた子なのであって、労働の魅力が資本の魅力に変わった点を除けば、フーリエがその「“短時間交替
courtes seances ”」〔*〕のユーモラスなスケッチをもってしてもそれには到底およばなかったほどのものであった。立派な新聞が、「適度な注意と方法とがなしとげられるもの」("What
a reasonable degree of care and method can accomplish")の模範としてほめたたえた、かの工場主たちの計画を見られたい。労働人員は、しばしば一二ないし一五の部類に分けられ、これらの部類そのものがまたその構成部分をたえず変えた。一五時間目の工場日の時限のあいだに、資本は、ある時は三〇分、ある時は一時間、労働者を引き寄せてはまた突き放すことによって、彼を改めて工場に引きいれては、また工場から追い出すようにし、こうしてまる一〇時間労働が完全に遂行されるまではいつも労働者をつかんで放すことなく、わずかなばらばらの時間ずつ労働者をあちこちに追いたてたのである。舞台の上でと同じように、同じ人物が、違う幕の違う場面にかわるがわる登場しなければならなかった。それに、俳優が劇の上演の終わるまでは舞台に属しているのと同じように、労働者たちは今や、工場への往復時間は勘定にいれずに、一五時間のあいだ工場に属した。こうして、休息時間は強制された怠惰の時間に転化し、それが若い労働者たちを居酒屋へ、若い女性労働者たちを売春宿へかり立てた。資本家が、労働人員を増加させずに彼の機械設備を一二時間または一五時間稼働させるために毎日新しい思いつきを考え出すたびごとに、労働者は時にはあの切れ端の時間で、時にはこの切れ端の時間で、彼の食事を丸のみにしなければならなかった。一〇時間運動の時代には、工場主たちは、労働者の奴らは一〇時間労働で一二時間分の労賃を受け取ることを期待して請願を行っていると叫んだ。今や彼らはメダルを裏返しにした。彼らは、労働力を一二時間も一五時間も意のままに使って一〇時間分の労賃を支払ったのである(165)! これがむく犬の正体であり、これが一〇時間法の工場主版であった! まやかしの感動に満ちた〔salbungsvollen〕、人類愛にあふれたこの自由貿易論者たちこそは、自由な穀物輸入が実施される場合には、イギリス産業の諸手段をもってすれば、資本家たちを富ませるのに一〇時間労働でまったく十分だと言うことを、穀物法反対運動のあいだのまる一〇年間、労働者たちの前で一銭一厘にいたるまで計算してみせた当人たちだったのである(166)。
〔* "courtes seances"(「短時間交替」)・・フーリエは1つの未来社会の姿を描いたが、そこでは人間は1労働日のあいだに何種類もの労働に従事する、つまり1労働日はいくつかの短時間交替からなっており、そのどれもが1時間半ないし2時間以上長くは続けられないことになっている。フーリエの考えでは、このことによって労働の生産性は非常に高くなり、最貧労働者でも、全ての自己の欲望を以前のどの資本家よりも十分に満たすことができる、ということである。・・『全集』注解〕
(165) 『工場監督官報告書。一八四九年四月三〇日』、六ページ、ならびに『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』における工場監督官ハウエルおよびソーンダーズによる「“交替制度”」の詳細な説明を見よ。また、アシュトンおよびその近辺の僧侶が「“交替制度”」に反対して一八四九年の春に女王に提出した請願書を見よ。
(166) たとえば、『工場問題と一〇時間法案』、R・H・グレグ著、〔ロンドン〕一八三七年を参照。
二年間にわたる資本の反逆は、イギリスの四つの最高裁判所の一つである“財務裁判所
Court of Exchequer
”の判決によってついに勝利の栄冠を与えられた。この裁判所は、一八五〇年二月八日に提起された訴訟事件において、工場主たちはたしかに一八四四年の法の精神に反する行為を行ったが、しかしこの法そのものがこの法を無意味ならしめる若干の文言を含んでいる、と判決した。「この判決をもって一〇時間法は廃止された(167)」。これまでまだ年少者と女性労働者たちに対するリレー制度の適用をためらっていた多数の工場主も、今やこれに飛びついた(168)。
(167) F・エンゲルス『イギリスの一〇時間法案』(私の編集した『新ライン新聞、政治経済評論』、一八五〇年四月号、13ページ〔『全集』、第7巻、246ページ、240原ページ〕所載)。同じ「上級」裁判所は、同様に、アメリカの南北戦争中にも、海賊船の武装を禁止する法律を正反対のものにひっくり返してしまうようなあいまいな文言を発見した。
(168) 『工場監督官報告書。一八五〇年四月三〇日』。
しかし、資本のこの外観上の決定的な勝利と共に、ただちに一つの転換が起こった。労働者たちは、不屈でしかも日々新たな抵抗を行ってきたけれども、これまでは受動的であった。今や彼らは、ランカシャーとヨークシャーで公然たる威嚇的集会を開いて抗議した。すなわち、いわゆる一〇時間法はこのように単なるペテン、議会的まやかしだったのであり、今だかつて存在したことはないのだ!と。階級的敵対は前例がないほどの緊張度に達していると、工場監督官たちは政府に切に警告した。工場主たち自身の一部も次のように不平を鳴らした・・
・
「治安判事たちの矛盾する諸判決によって、まったく異常で無政府的な状態が支配している。ヨークシャーではある法律が行われているが、ランカシャーでは別の法律が行われ、ランカシャーの一教区ではある法律が行われているが、そのすぐ近くでは別の法律が行われている。大都市の工場主は法の網をくぐり抜けることもできるが、地方の工場主はリレー制度に必要な人員を見つけることはできないし、ましてや労働者を一つの工場から他の工場に移すのに必要な人員を見いだすことなどなおのことできない・・・・」と。
しかも、労働力の平等な搾取は、資本の第一の人権なのである。
こうした事態のもとで、工場主たちと労働者たちとのあいだに妥協が成立し、それが一八五〇年八月五日の追加新工場法の中で議会により承認された。「年少者および女性たち」については、労働日は、最初の五日の週日には一〇時間から一〇時間半に引き上げられ、土曜日については七時間半に制限された。労働は、朝の六時から晩の六時までの時間内に行われねばならず(169)、それには食事時間のための一時間半の休憩が含まれ、この食事時間の休憩は、同時刻に、かつ一八四四年の法律の諸規定にのっとって与えられなければならない、等々。これによって、リレー制度にきっぱりと結末がつけられた(170)。児童労働については、一八四四年の法律が依然として有効であった。
(169) 冬期には、朝の七時から晩の七時までの時限に変えることができる。
(170) 「現行法」(一八五〇年の)「は一つの妥協であって、この妥協によって、労働者は、労働時間を制限されている人々の労働の開始時間および終了時間を均一にするという利益と引き換えに、一〇時間法の恩恵を放棄したのである」(『工場監督官報告書。一八五二年四月三〇日』、一四ページ)。
以前と同じように、今度もある部類の工場主たちは、プロレタリア児童に対する特殊な領主権を確保した。それは絹工場主たちであった。すでに一八三三年に、彼らは、「年齢のいかんを問わず児童を日々一〇時間酷使する自由が自分たちから奪われるならば、自分たちの工場は停止させられるであろう」("if
the liberty of workind children of any age for 10 hours a day was
taken away, it would stop thier works")と脅迫的にわめき立てた。一三歳以上の児童を十分な人数だけ購入することは、彼らにとって不可能であるというのである。彼らは、所望の特権をゆすり取った。この口実は、その後の調査で純然たるうそであると判明したが(171)、しかしだからといってそのことは、仕事をするのにイスの上に乗せてもらわなければならない小さな児童たちの血から、彼らが一〇年間にわたって毎日一〇時間ずつ絹を紡ぎ出すことのさまたげにはならなかった(172)。たしかに、一八四四年の法は、彼らから一一歳未満の児童を六時間半以上こき使う「自由」を「奪いはした」が、その代わりに一一歳ないし一三歳の児童を毎日一〇時間ずつこき使う特権を彼らに保証し、しかも、他の工場児童については規定されている就学義務制を破棄した。今度の口実はこうであった・・
・
「織物の繊細さは指のしなやかさを必要とし、それは、ただ幼い時に工場に入ることによってのみ確保される(173)」と。
南部ロシアにおいて、有角家畜が皮と脂肪のために屠殺されたように、児童たちが軽やかな指のためにことごとく屠殺されるのである。ついに一八五〇年には、一八四四年に与えられた特権が絹撚糸部門と絹巻取部門とに制限されたが、しかしここでは、「自由」を奪われた資本の損害を補償するために、一一歳から一三歳の児童の労働時間が一〇時間から一〇時間半に引き上げられた。その口実は、「労働は絹工場においては他の工場におけるよりも容易であり、また決してそれほど健康に有害ではない(174)」というものであった。政府の医学的調査がその後に証明したところによれば、その逆に、
・
「平均死亡率は絹業地域ではなみはずれて高く、住民の女性部分のあいだでは、ランカシャーの綿業地域におけるよりも高くさえある(175)」。
工場監督官たちが半年ごとに抗議をくり返してきたにもかかわらず、この不法はこんにちにいたるまで続いている(176)。
(171) 『工場監督官報告書。一八四四年九月三〇日』、一三ページ。
(172) 同前。
(173) "The delicate texture of the fabric in which they
were employed requiring a lightness of touch, only to be acquired
by their early introduction to those factories."『工場監督官報告書。一八四六年一〇月三一日』、二〇ページ。
(174) 『工場監督官報告書。一八六一年一〇月三一日』、二六ページ。
(175) 同前、二七ページ。一般的には、工場法の適用を受けている労働者人口は、肉体的には大いに改善されてきている。すべての医師の証言がこの点では一致しており、さまざまな時期における私自身の個人的観察によって、私もそのことを確信している。それにもかかわらず、また乳幼児期における児童の恐るべき死亡率を度外視しても、グリーノウ医師の公式の報告書の示すところでは、工場地域の健康状態は「標準的健康の農業地域」にくらべて好ましくない。証拠として、特に一八六一年の彼の報告書から下の表を引用しておく・・
・
・ 製造業 男子10万 女子10万 製造業 女性
・
従事の 人あたり 人あたり 従事の の
・
成年男 の肺疾患 地域名 の肺疾患 成年女 職種
・
の% 死亡率 死亡率 の%
・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 14.9 598
ウィガン・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 644 18.0
木綿
・ 42.6 708
ブラックバーン・・・・・・・・・・・・ 734 34.9
同上
・ 37.3 547
ハリファックス・・・・・・・・・・・・ 564 20.4
羊毛
・ 41.9 611
ブラッドフォード・・・・・・・・・・ 603 30.0
同上
・ 31.0 691
マクルズフィールド・・・・・・・・ 804 26.0
絹
・ 14.9 588
リーク・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 705 17.2
同上
・ 36.6 721
ストーク・アポン・トレント・・ 665 19.3
土器
・ 30.4 726
ウルスタントン・・・・・・・・・・・・ 727 13.9
同上
・ - 305
健康な8農業地域・・・・・・・・・・ 340
- -
・
(176) イギリスの「自由貿易論者」が、いかにしぶしぶと絹製造業のための保護関税を断念したかはご存じの通りである。フランスからの輸入をふせぐ保護の代わりに、今やイギリスの工場児童の無保護が役だっている。
一八五〇年の法律は、「年少者および女性たち」について、朝の五時半から晩の八時半までの一五時間の時限を、朝の六時から晩の六時までの一二時間の時限に変更しただけであった。したがって、児童たちについては変更はなく、彼らの総労働時間の長さは六時間半を超えてはならなかったけれども、この一二時限の開始前の半時間と終了後の二時間半はあい変わらず彼らを使用することができた。この法律の審議中に、この変則の恥知らずな濫用に関する一つの統計が、工場監督官によって議会に提出された。しかし、むだであった。その背後には、繁栄の諸年のあいだに児童たちの手助けを借りて成年男子の労働日をふたたび一五時間につり上げようとする意図が潜んでいた。続く三年間の経験によって、このような試みは成年男子労働者たちの抵抗に突き当たって失敗せざるをえないことが示された(177)。それゆえ、一八五〇年の法は、ついに一八五三年に、「年少者および女性たちよりも朝は早く、晩は遅くまで児童たちを使用すること」の禁止によって補完された。この時以来、わずかの例外を除いて、一八五〇年の工場法は、その適用を受ける産業諸部門において、すべての労働者の労働日を規制した(178)。最初の工場法の発布以来、今や半世紀が流れ去っていた(179)
。
(177) 『工場監督官報告書。一八五三年四月三〇日』、三〇ページ。
(178) イギリス綿業の絶頂の年であった一八五九年と一八六〇年に、若干の工場主たちは、超過時間に対する賃金増額というおとりの餌によって、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとした。手動式ミュール紡績工たちと自動式ミュール紡績機見張工たちは、彼らの使用者への陳情書によってこの試みをやめさせたのであるが、その中ではとりわけ次のようにのべられている・・「率直に言って、われわれの生活はわれわれにとって重荷となっています。そして、われわれが他の労働者にくらべて週にほとんど二日」(二〇時間)「も長く工場につなぎとめられている限り、われわれはさながらこの国の奴隷に等しいと感じており、またわれわれ自身とわれわれの子孫にとって肉体的にも精神的にも有害である一制度を永続させることに、われわれ自身、心やましく思っているものです。・・・・したがって、われわれは、新年以降は、一時間半の法定の休憩のための控除を含め、六時から六時まで、週に六〇時間以上は一分たりとも労働しないであろうことを、ここに丁重にお知らせするしだいです」(『工場監督官報告書。一八六〇年四月三〇日』、三〇ページ)。
(179) この法律の用語が、この法律に違反するための手段となっていることについては、議会報告書『工場規制法』(一八五九年八月九日)、およびその中にあるレナド・ホーナーの「現在きわめて広く行われるにいたっている違法作業を監督官が防止できるように工場法を改正するための諸提案」を参照。
立法がその本来の領域の外にはじめて手を出したのは、一八四五年の「捺染(ナッセン)工場法」によってであった。資本がこの新たな「常軌の逸脱」を受けいれた時に示した不気げんさは、この法の一行一行があます所なく語っている! この法は、八歳から一三歳の児童および女性たちの労働日を、朝の六時から晩の一〇時までの一六時間に制限しており、食事時間のための法定の休憩はまったくない。これは、一三歳以上の男子労働者を、昼も夜も、意のままにこき使うことを許している(180)。それは、議会の生みそこないである(181)。
(180) 「私の管区では、八歳およびそれより上の児童が、この半年間」(一八五七年)「実際に朝の六時から晩の九時まで酷使されてきている」(『工場監督官報告書。一八五七年一〇月三一日』、三九ページ)。
(181) 「捺染工場法は、その教育規定に関してもその保護規定に関しても、失敗であると認められている」(『工場監督官報告書。一八六二年一〇月三一日』五二ページ)。
それにもかかわらず、原則は、すでに、近代的生産様式の最も独創的な創造物である大工業諸部門における勝利をもって、凱歌を奏していた。一八五三〜一八六〇年の大工業諸部門の驚くべき発展は、工場労働者の肉体的および精神的再生と手をたずさえながら、どんなに鈍い目にも映った。労働日の法律による制限と規制とを、半世紀にわたる内乱によって一歩一歩奪い取られた当の工場主たち自身が、まだ「自由」である搾取領域との対照を自慢げに引きあいに出したほどである(182)。「経済学」のパリサイ人たちは、法律による労働日の規制の必然性に対する洞察こそ彼らの「科学」の特徴的な新発見であると宣言した(183)。単純に理解されることであるが、工場実力者たちが不可避的なものに順応し、それにたてつかなくなってから、資本の反抗力はしだいに弱まり、同時に他方では、直接には利害関係のない社会階層の中で労働者階級の同盟者の数が増大すると共に彼らの攻撃力が増大した。一八六〇年以来の比較的速い進歩は、そこから生じた。
(182) たとえば、一八六三年三月二四日付『タイムズ』への投書の中でE・ポッター〔マンチェスター商工会議所会頭〕がそうしている。『タイムズ』は彼に、一〇時間法に対する工場主たちの反逆を想起させている。
(183) とりわけ、トゥックの『物価史』の協力者であり編集者であるW・ニューマーチ氏がそうである。世論に対していくじのない譲歩をすることが科学的進歩であろうか?
染色工場と漂白工場(184)は一八六〇年に、レース工場と靴下工場は一八六一年に、一八五〇年の工場法の適用を受けた。「児童労働調査委員会」の第一次報告書(一八六三年)の結果、すべての土器〔Erdenware〕製造所(製陶所〔Toepferei〕だけではない)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、じゅうたん工場、および綿ビロード調整(fustian
cutting)工場、および"finishing"(仕上げ)という名称で一括されている多数の工程が同じ運命を分けあった。一八六三年には、「屋外漂白業」(185)および製パン業が独自の法の適用下におかれたのであるが、これによって前者は、とりわけ児童、年少者、および女性たちの夜間(晩の八時から朝の六時まで)の労働を禁止され、後者は、一八歳未満の製パン職人を晩の九時から朝の五時まで使用することを禁止された。農業、鉱山業、運輸業を除いて、イギリスのすべての重要な産業部門から「自由」を奪い去ろうとする上述の委員会のその後の諸提案については、のちに立ち戻ることにする(185a)。
(184) 一八六〇年に公布された漂白工場および染色工場に関する法は、労働日が、一八六一年八月一日には暫定的に一二時間に引き下げられ、一八六二年八月一日には確定的に一〇時間に、すなわち平日は一〇時間半、土曜日には七時間半に引き下げられると規定している。こうして、不吉な年である一八六二年が来ると、かつての茶番劇がくり返された。工場主諸氏は、もう一年だけ年少者および女性たちの一二時間使用を許してもらいたいと議会に請願した。・・・・「事業の現在の状態のもとでは」(綿花飢饉の時期には)「一日に一二時間労働して可能な限り多くの労賃をかせぐのを労働者たちに許すことが、彼らにとって大いに利益になるとのことであった。・・・・この趣旨の法案を下院に提出することはすでに成功していた。この法案が否決されたのは、スコットランドの漂白業の労働者たちの運動のせいであった」(『工場監督官報告書。一八六二年一〇月三一日』、一四、一五ページ)。労働者の名において語るふりをしたのにその労働者たちそのものによってこのように打ち負かされたので、今度は、資本は法律家のめがねを借りてきて、一八六〇年の法が、「労働者の保護」のためのすべての議会の諸法と同じく、意味のあいまいな言いまわしで書かれているため、「“つや出し工”」と「“仕上げ工”」をその適用範囲から除外する口実を与えるということを発見した。つねに資本の忠実な下僕であるイギリスの裁判権は、「“民事訴訟
Common Pleas ”」裁判所によって、この三百代言的言いぬけを是認した。「それは労働者たちのあいだに大きな不満を引き起こしたのであり、立法の明白な意図が、用語の定義の不完全という口実によって挫折させられるとはきわめて残念である」(同前、一八ページ)。
(185) 「屋外漂白者たち」は、夜間に女子をこき使ってないとうそをつくことによって、「漂白業」に関する一八六〇年の法律の適用を逃れた。このうそは工場監督官たちによって暴露されたが、それと同時に、議会は、労働者たちの請願によって、「屋外漂白業」とは草の香りのする涼しい仕事だという観念をはぎ取られた。この屋外漂白業では華氏九〇度ないし一〇〇度〔摂氏約三二度ないし約三八度〕の乾燥室が使われ、その中では主として少女たちが労働している。"Cooling"(涼み)とは、乾燥室から時おり逃れ出て外気に当たることをさす術語である。「乾燥室には一五人の少女がいる。リンネルの場合には八〇度ないし九〇度〔摂氏約二七度ないし約三二度〕、“上等リンネル”の場合には一〇〇度〔摂氏約三八度〕かそれ以上の温度である。まん中に密閉式のストーブが一つあるおよそ一〇フィート平方の小さな部屋の中で、一二人の少女が(上等リンネルなどに)アイロンをかけて積み重ねしている。少女たちはこのストーブのまわりに立ち、そのストーブがものすごい熱を放射してアイロン女工たちのために急速に上等リンネルを乾燥させる。これらの女工たちの労働時間は無制限である。いそがしい時には、彼女たちは夜の九時または一二時まで、何日も続けざまに働く」(『工場監督官報告書。一八六二年一〇月三一日』、五六ページ)。ある医師は、次のように言明している・・「涼みのための特別の時間は許されていないが、温度が耐えられないものになるか、または女工たちの手が汗で汚れるかすれば、数分間出ていくことが許されている。・・・・これらの女工たちの疾患を取りあつかった経験によって、私は彼女たちの健康状態が紡績女工のそれよりはるかに悪いと確言せざるをえない」(しかも資本は、議会に対するもろもろの請願の中で、彼女たちをルーベンス風に健康にあふれるものとして描いていたのである!)「彼女たちの疾患で最も目につくものは、肺結核、気管支カタル、子宮病、最もひどい症状のヒステリー、およびリウマチである。私の信じるところでは、これらの疾患は、直接または間接に、彼女たちの作業室の熱すぎる空気と、冬期中、帰宅の際に冷湿な大気から彼女たちを保護するにたりる快適な衣服がないことから生じる」(同前、五六、五七ページ)。工場監督官たちは、ごきげんな「屋外漂白者たち」から遅ればせながら闘いとられた一八六三年の法律について次のようにのべている・・「この法は、それが与えているかに見える保護を労働者に与えるのに失敗しただけではない。・・・・この法は、児童および女性たちが晩の八時以後に労働している現場を取り押さえられた時にはじめて保護が与えられるように規定されており、その場合でさえ、規定の証明方法には、ほとんど処罰が行えないようにする留保条件がつけられている」(同前、五二ページ)。「人道的な、教育目的を持った法としては、これはまったく失敗である。年齢についての制限もなく、性の区別もなく、漂白工場がある付近の家族の社会的慣習も顧慮することなしに、食事はつごうしだいで取ったり取らなかったりしながら、日々一四時間、またおそらくもっと長い時間にわたって女性と児童たちに労働することを許すこと、あるいは同じことに帰着するが、彼らにそれを強制することが、まさか人道的であるとは言えないであろう」(『工場監督官報告書。一八六三年四月三〇日』、四〇ページ)。
(185a) 第2版への注。私が本文にのべてあることを書いた一八六六年以来、ふたたび一つの反動が起こってきている。
★ 第7節 標準労働日のための闘争。イギリスの工場立法が他国におよぼした反応
読者が記憶しているように、労働が資本のもとへ従属することから生じうる生産様式そのもののあらゆる姿態変化は別として、剰余価値の生産すなわち剰余労働のしぼり出しが、資本主義的生産の独特な内容および目的をなす。やはり読者が記憶しているように、これまで展開してきた観点においては、自立した、したがって法律上成年である労働者のみが、商品の売り手として資本家と契約を結ぶ。したがって、われわれの歴史的素描において、もし一方では近代的産業が主役を演じ、他方では肉体的および法律的未成年者の労働が主役を演じるとした場合、われわれにとっては、前者は労働吸収の特殊な領域としてのみ、後者は労働吸収の特に顕著な実例としてのみ考えられた。けれども、これから後の展開を先まわりしてのべなくても、単なる歴史的諸事実の関連だけからでも、次のような結論が引き出される。
第一に・・無制限で容赦のない労働日の延長を求める資本の衝動がまずもって満足させられるのは、水力、蒸気力、および機械設備によって真っ先に変革された諸産業においてであり、綿花、羊毛、亜麻、絹の紡績業および織布業という近代的生産様式のこれらの最初の創造物においてである。変化した物質的生産様式と、それに照応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)とは、初めに無制限な逸脱を作り出し、次にはこれとは反対に、休憩時間を含めた労働日を法律によって制限し、規制し、画一化する社会的な抑制を呼び起こす。したがって、この抑制は、一九世紀の前半中は単に例外的立法としてのみ現れる(187)。この抑制が新たな生産様式の本源的領域を征服し終えた時には、そのあいだに他の多くの生産部門が本来の工場体制をとっていただけではなく、製陶業やガラス製造業などのような多かれ少なかれ時代遅れな経営様式をとっているマニュファクチュア、また製パン業のような古風な手工業、そして最後に釘製造業のような分散したいわゆる家内労働(188)でさえも、工場とちょうど同じ程度に、ひさしい以前から資本主義的搾取の手におちいっていたことが明らかになった。それゆえ立法は、しだいにその例外的性格を脱却することを・・すなわち、イギリスでのように立法がローマ的決疑論者流にふるまうところでは、労働が行われるどの家屋をも任意に工場(factory)であると言明することを、よぎなくされた(189)。
(186) 「これらの階級のそれぞれ」(資本家たちと労働者たち)「の行為は、これらの階級がおかれていた相対的な状態の結果であった」(『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一一三ページ)。
(187) 「制限のもとにおかれた事業は、蒸気力または水力の助けによる織物の製造と関係していた。ある事業が工場監督官の保護のもとに服させられるためには、それは二つの条件を満たさなければならなかった。すなわち、蒸気力または水力の使用、および一定の特殊繊維素材の加工である」(『工場監督官報告書。一八六四年一〇月三一日』、八ページ)。
(188) このいわゆる家内工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の報告書の中にきわめて豊富な材料が見いだされる。
(189) 「議会の前会期」(一八六四年)「の諸法は・・・・習慣がはなはだ異なっているさまざまな職業を含んでおり、機械設備を動かすための機械力の使用は、もはや以前のように、ある経営が法律上の意味で工場とされるのに必要な要素の一つではない」(『工場監督官報告書。一八六四年一〇月三一日』、八ページ)。
第二に・・孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者が、資本主義的生産がある一定の成熟段階に達すると抵抗できずに屈服するということは、若干の生産諸様式においては労働日の規制の歴史によって、他の生産諸様式〔*〕においては今なお続いているこの規制をめぐる闘争によって、実に明白に証明される。したがって、標準労働日の創造は、資本家階級と労働者階級とのあいだの、長期にわたる、多かれ少なかれ隠されている内乱の産物なのである。この闘争は近代産業の範囲内で開始されるのであるから、それは、まずもって、近代産業の祖国であるイギリスで演じられる(190)。イギリスの工場労働者たちは、単にイギリスの労働者階級ばかりでなく近代的労働者階級一般の戦士であったのであり、同じくまた彼らの理論家たちも資本の理論に最初に挑戦したものである(191)。だからこそ工場哲学者ユアは、「労働の完全な自由」のために雄々しく闘う資本を相手にして、イギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制」を彼らの旗印にしたのは、ぬぐいがたい不名誉であると非難する(192)。
〔*
フランス語版、英語版、ロシア語版では「生産諸部門」となっている〕
(190) 大陸的自由主義の楽園であるベルギーは、この運動の何らの痕跡も示していない。同国の炭坑および金属鉱山においてさえ、労働者たちは、男女を問わず、年齢を問わずに、何時間でも、いつ何時でも、完全な「自由」をもって消費されている。そこで働いている各一〇〇〇人あたり、七三三人が成年男子、八八人が女子、一三五人および四四人が一六歳未満のそれぞれ少年および少女である。溶鉱炉などでは、各一〇〇〇人あたり、六六八人が成年男子、一四九人が女子、九八人および八五人が一六歳未満のそれぞれ少年および少女である。ところで、その上、成熟および未成熟労働力の異常な搾取と引き換えに支払われる労賃は低く、一日平均で男子が二シリング八ペンス、女子が一シリング八ペンス、少年が1シリング二ペンス半である。しかしまた、そのおかげで、ベルギーは、一八六三年には一八五〇年にくらべて、石炭、鉄などの輸出の数量および価額をほぼ二倍にした。
(191) 今世紀の最初の一〇年間がすぎるとまもなく、ロバート・オーエンが、労働日の制限の必要性を理論的に主張しただけでなく、一〇時間労働日をニュー・ラナークの彼の工場で現実に実施した時、それは共産主義的空想であると嘲笑された・・彼の「生産的労働と児童の教育との結合」とまったく同じように、また彼によって創設された労働者の協同組合とまったく同じように。こんにちでは、右の第一の空想は工場法となっており、第二の空想はすべての「工場法」において正式の用語として用いられており、第三の空想は、それどころかすでに反動的なペテンの仮面として役だっている。
(192) ユア(フランス語訳)『工場の哲学』、パリ、一八三六年、第二巻、三九、四〇、六七、七七ページなど。
フランスは、イギリスの後ろからびっこを引きながらのろのろとついてくる。一二時間法の誕生(193)のためには二月革命が必要であったが、その法も、イギリスの原型よりもはるかに欠点の多いものである。それにもかかわらず、フランスの革命的方法は、独自の長所をも表している。それは、すべての作業場および工場に対して一挙に無差別に労働日の同じ制限を課しているのであるが、これに対してイギリスの立法は、時にはこの点で、時にはあの点で、事情の圧力にしぶしぶ屈服しており、新たな法律的な紛糾を生みだす恐れが大いにある(194)。他方、フランスの法律は、イギリスで児童と未成年者と女性たちとの名においてのみ闘いとられ、最近になってようやく普遍的権利として要求されているものを、原理として宣言している(195)。
(193) 「パリ国際統計会議、一八五五年」の“報告書”では、とりわけ次のようにのべられている・・「工場および作業場における日々の労働の継続を一二時間に制限しているフランスの法律は、この労働を一定の固定した時間」(時限)「内に局限しておらず、ただ児童労働について午前五時から晩の九時までのあいだの時限を規定しているだけである。それゆえ、工場主たちの一部は、この致命的な沈黙が彼らに与える権利を利用して、おそらく日曜日を除いて毎日毎日、中断なしに労働させている。そのために、彼らは異なる二組の労働者を使用しており、そのうちのどの一組も作業場で一二時間以上をすごすことはないが、工場の仕事は昼も夜も続けられている。法律は守られているが、人道も守られているのであろうか?」と。「夜間労働が人間有機体に与える破壊的な影響」のほかに、「薄暗い同じ作業場の中で、男女が夜間入りまじって働くことの破滅的な影響」も強調されている。
(194) 「たとえば、私の管区では、同じ工場敷地内で、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者兼染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法』のもとでは仕上げ業者である・・・・」(『工場監督官報告書。一八六一年一〇月三一日』、二〇ページにおけるベイカー氏の報告)。これらの諸法の相異なる諸規定とそこから生じる複雑さとを数え上げた後、ベイカー氏は言う・・「工場所有者がこの法律の網をくぐろうとする時、これら三つの議会制定法の執行を確保することがいかに困難なものとならざるをえないかがわかるであろう」と。しかし、このことによって法律家諸氏に確保されているものは、訴訟だけである。
(195) そこで、工場監督官たちも、ついに敢然と次のように言う・・「これらの異議」(法律による労働時間の制限に対する資本の)「は、労働の権利という大原則の前に屈服しなければならない。・・・・たとえ労働者がまだ疲れきっていなくても、自分の労働者の労働に対する事業主の権利がそこで停止されて、労働者自身が自分の時間を自由に使用することができる、といった時点が存在する」と(『工場監督官報告書。一八六二年一〇月三一日』、五四ページ)。
北アメリカ合衆国では、奴隷制が共和国の一部を不具にしていた限り、どんな自立的な労働運動も麻痺したままであった。黒人の労働が焼き印を押されているところでは、白人の労働も解放されえない。しかし、奴隷制の死から若返った新しい生命がすぐさま芽ばえた。南北戦争の最初の成果は、七マイル長靴のような機関車の速さで、大西洋から太平洋まで、ニューイングランドからカリフォルニアまで広がった八時間運動であった。ボルティモア全国労働者大会(一八六六年八月)は次のように宣言する・・
・
「この国の労働を資本主義的奴隷制から解放するための、現在の第一の大きな必要事項は、アメリカ連邦のすべての州において、八時間を標準労働日にする法律を施行することである。われわれは、この輝かしい成果が達成されるまで全力をつくす決意である(196)」と。
同じ時期(一八六六年九月初め)に、ジュネーヴにおける「国際労働者大会」〔九月三〜八日の国際労働者協会の大会〕は、ロンドンの総評議会の提案に基づいて、次のように決議した・・
・
「われわれは、労働日の制限が、それなしには他のすべての解放の試みが失敗に終わらざるをえない先決条件であると宣言する。・・・・われわれは、労働日の法定の限度として八労働時間を提案する」と〔『全集』、第16巻、191ページ〕。
(196) 「われわれダンカークの労働者は宣言する・・こんにちの制度のもとで要求されている労働時間の長さは過大にすぎ、それは労働者に休息と知的発達とのための時間を少しも残さず、労働者を奴隷制にほんのわずかましなだけの隷属状態(a
condition of servitude but little better than slavery)に突き落としている、と。したがって、われわれは決議する・・一労働日には八時間で十分であり、かつ法律によって十分であると認められなければならない、と。かの強力なテコである新聞に助力を求め・・・・そしてこの助力を拒否するすべての者を、労働の改革と労働者の権利の敵と見なすと決議する」(ニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議、一八六六年)。
こうして、大西洋の両岸で、生産諸関係そのものから本能的に成長した労働運動は、イギリスの工場監督官R・J・ソーンダーズの次の陳述の正しさを裏書きする。
・
「社会改革のためのより進んだ諸方策は、労働日が前もって制限され、かつ規定されたその制限が厳格に強制されるのでなければ、何らかの成功の見こみを持って実行されることは決してありえない(197)」。
(197) 『工場監督官報告書。一八四八年一〇月三一日』、一一二ページ。
わが労働者は生産過程に入った時は違うものとなって、そこから出てくるということをわれわれは認めなければならない。市場では、彼は、「労働力」商品の所有者として他の商品所有者たちと相対したのであり、商品所有者が商品所有者と相対したのである。労働者が自分の労働力を資本家に売る時に結んだ契約は、彼が自分自身を自由に処分するものであることを、いわば白い紙に黒い文字で書きとめたようにはっきりと証明した。取り引きが終わった後になって、彼は「何ら自由な行為者ではなかった」こと、彼が自分の労働力を自由に売る時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間であること(198)、実際に、彼の吸血鬼は「一片の筋肉、一片の腱、一滴の血でもなお搾取することができる限り(199)」手放しはしないことが暴露される。自分たちを悩ます蛇に対する「防衛」のために労働者たちは結集し、階級として一つの国法を、資本との自由意志的契約によって自分たちとその同族とを売って死と奴隷状態におとしいれることを彼らみずから阻止する強力な社会的防止手段を、奪取しなければならない(200)。「譲ることのできない人権」の派手な目録に代わって、法律によって制限された労働日という慎ましい“大憲章
Magna Charta
”が登場する。それは「労働者が販売する時間がいつ終わり、彼ら自身のものとなる時間がいつ始まるかをついに明瞭にする(201)」。何とひどく変わったことか!
(198) 「その上、これらのやり方」(たとえば一八四八〜一八五〇年の資本家の策略)「は、労働者たちは何らの保護も必要とせず、彼の手の労働と額の汗という彼らが持っている唯一の財産を自由に処分する所有者と見なされなければならないという、きわめてしばしば持ち出される主張が誤ったものであるかということの、争う余地のない証拠を提出した」(『工場監督官報告書。一八五〇年四月三〇日』、四五ページ)。「自由な労働は・・そもそもそう呼ぶことができるとすれば・・自由な国においてさえも、それを保護するのに法律という強い腕を必要とする」(『工場監督官報告書。一八六四年一〇月三一日』、三四ページ)。「食事をとったりとらなかったりしながら一日に一四時間労働すること・・・・を許すのは強制するのと同じことである・・・・」(『工場監督官報告書。一八六三年四月三〇日』、四〇ページ)。
(199) フリードリッヒ・エンゲルス「イギリスの一〇時間法案」、『新ライン新聞、政治経済評論』、一八五〇年四月号、5ページ〔『全集』、第7巻、239ページ〕。
(200) 一〇時間法案は、それが適用された産業諸部門において、「労働者たちを完全な退化から救い、彼らの肉体的状態を保護」した(『工場監督官報告書。一八五九年一〇月三一日』、四七ページ)。「資本」(工場における)「は、使用している労働者たちの健康と品行をそこなうことなしには、制限された時間を超えて機械設備を稼働させておくことは決してできない。しかも、労働者たちは、自分自身を保護しうる状態にはない」(同前、八ページ)。
(201) 「労働者自身に属する時間と彼の事業主に属する時間がついにはっきり分かれたことは、さらにいっそう大きな利益である。今や労働者は、彼が販売する時間がいつ終了し、自分自身の時間がいつ始まるかを知っている。そして、彼はこのことを前もって正確に知っているのであるから、自分自身の時間を自分自身の目的のために予定することができる」(同前、五二ページ)。「それら」(工場法)「は、彼らを自分自身の時間の主人にすることによって、彼らがいつかは政治権力を掌握するにいたることを可能にする精神的エネルギーを彼らに与えた」(同前、四七ページ)。抑えた皮肉ときわめて慎重な表現を用いて、工場監督官たちは、現在の一〇時間法は、資本家をも、資本の単なる化身としての彼に固有な生来の野蛮性からある程度解放し、彼に若干の「教養」のための時間を与えたということをほのめかしている。以前は、「事業主は貨幣以外のための時間はまったく持たなかったし、労働者は労働以外のための時間はまったく持たなかった」と(同前、四八ページ)。