§ 第4編 相対的剰余価値の生産

第10章 相対的剰余価値の概念

労働日のうち、資本によって支払われた労働力の価値の等価物だけを生産する部分は、これまでわれわれにとって不変の大きさと見なされてきたのであるが、それは事実、与えらえた生産諸条件のもとでは、社会のある経済的発展段階においては、不変の大きさである。労働者は、この必要労働時間を超えて、さらに二時間、三時間、四時間、六時間など、労働することができた。剰余価値率および労働日の大きさは、この延長の大きさいかんで決まった。必要労働時間は不変であったが、総労働日は反対に可変であった。今一労働日をとって、その大きさと、その必要労働と剰余労働への分割が与えられているものと想定しよう。たとえば、線分ac、すなわち、a・・・・・b・c は、一二労働時間を表し、そのうちab部分は一〇時間の必要労働を表し、bc部分は二時間の剰余労働を表すとしよう。では、acをこれ以上延長せずに、あるいはacのこれ以上の延長とはかかわりなしに、どのようにして剰余価値の生産が増大されうるか、すなわち剰余労働が延長されうるか?

労働日acの限界が与えられているにもかかわらず、bcは、延長されうるように見える。それはbcの終点c・・それは同時に労働日acの終点でもある・・を超えて延長しなくても、その始点bをaのほうに、逆方向に移すことによって、延長する場合である。かりに、a・・・・・b'・b・・c の中のb'・bが、bcの半分すなわち一労働時間に等しいものと仮定しよう。今一二時間労働日acの中で、b点がb'のほうに移されるならば、労働日はあい変わらず一二時間でしかないのに、bcはb'cに拡大し、剰余労働は、半分だけ増加し、二時間から三時間になる。しかし、このようなbcからb'cへの、すなわち二時間から三時間への剰余労働の拡大は、同時に必要労働がabからab'に、すなわち一〇時間から九時間に収縮するのでなければ、明らかに不可能である。剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応するはずである。すなわち、労働者がこれまで実際に自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が、資本家のための労働時間に転化する。変化するのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働への労働日の分割なのである。

他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさが与えられ、労働力の価値が与えられていれば、明らかにおのずから決まる。労働力の価値、すなわち労働力の生産に要する労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。一労働時間が半シリングすなわち六ペンスの金量で表され〔一シリング=一二ペンス〕、そして労働力の日価値が五シリングであるとすれば、労働者は、資本が支払った彼の労働力の日価値を補填するために、または彼が必要とする日々の生活諸手段の価値に対する等価物を生産するために、日々一〇時間労働しなければならない。この生活諸手段の価値が定まれば、彼の労働力の価値が定まり(1)、彼の労働力の価値が定まれば、彼の必要労働時間の大きさが定まる。ところで、剰余労働の大きさは、総労働日から必要労働時間を差し引くことによって得られる。一二時間から一〇時間を差し引けば二時間が残る。しかし、与えられた諸条件のもとで、どのようにして剰余労働がこの二時間を超えて延長されうるのかは、見当をつけにくい。もちろん資本家は、労働者に五シリング支払うのではなく、四シリング六ペンスしか、またはそれよりももっと少なくしか支払わないかもしれない。この四シリング六ペンスの価値を再生産するためには、九労働時間で十分であり、それゆえ一二時間労働日のうち、二時間ではなく三時間が剰余労働に帰属し、剰余価値そのものは一シリングから一シリング六ペンスに増加するであろう。けれどもこの結果が得られるのは、労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによる場合だけであろう。労働者が九時間のうちに生産するこの四シリング六ペンスで彼が自由に処置できるのは、今までより 1/10 だけ少ない生活諸手段であり、そうなると、彼の労働力の萎縮した再生産しか行われない。剰余労働は、この場合、ただ、その正常な限界を踏み越えることによってのみ延長されるのであり、剰余労働の範囲は、必要労働時間の範囲の一部を横領することによってのみ拡大されることになろう。この方法は、労賃の現実の運動においては重要な役割を果たすけれども、ここでは、諸商品は、したがって労働力もまた、まったく価値どおりに売買されるという前提に立っているので、考察から除外されている。このことが前提される以上、労働力の生産または労働力の価値の再生産に必要な労働時間が減少しうるのは、労働者の賃銀が彼の労働力の価値以下に減少するからではなくて、労3ュ力の価値そのものが低下するからにほかならない。労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は、必要労働時間の短縮から生じなければならず、その逆に、必要労働時間の短縮が、剰余労働の延長から生じるのではない。われわれの例においては、必要労働時間が 1/10 だけ、すなわち一〇時間から九時間に減少し、したがって剰余労働が二時間から三時間に延長されるためには、労働力の価値は、現実に 1/10 だけ低下しなければならない。

(1) 日々の平均賃銀の価値は、労働者が「生活し、労働し、増殖するために」必要とするものによって、規定されている(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、一六七二年、六四ページ〔松川七郎訳、岩波文庫、一三四ページ〕)。「労働の価格は、つねに生活必需品の価格によって規定される」。「・・・・労働者の賃銀が、彼らの多くの者の宿命であるような大家族を、労働者としての低い地位と状態とに照応して養うのにたらない場合にはいつでも」労働者は相応な賃銀を受け取っていないのである(J・ヴァンダリント『貨幣万能論』、一五ページ〔浜林正夫・四元忠博訳、東京大学出版会、二四ページ〕)。「自分の腕と自分の勤勉以外には何も持っていない普通の労働者は、自分の労働を他人に売ることができる場合のほかは、何も手にいれないのである。・・・・どんな種類の労働においても、労働者の賃銀は、彼が生計を維持するためにぜひ必要とするものに限られるものになるはずであり、また実際にそうなっている」(チュルゴ『富の形成および分配に関する諸考察』、デール編『著作集』、第一巻、一〇ページ〔津田内匠訳『チュルゴ経済学著作集』、岩波書店、七三ページ。永田清訳『チュルゴオ 富に関する省察』、岩波文庫、二六〜二七ページ〕)。「生活必需品の価格は、事実、労働の生産費に等しい」(マルサス『地代の・・・・に関する研究』、ロンドン、一八一五年、四八ページ、注〔楠井隆三・東嘉生訳『穀物条約論および地代論』、岩波文庫、一五一〜一五二ページ〕)。

しかし、このように労働力の価値が、 1/10 だけ低下するということは、それはそれで以前に一〇時間で生産されたのと同じ量の生活諸手段が、今では九時間で生産されるということを条件とする。けれども、このことは、労働の生産力が増大しなければ不可能である。たとえば、ある靴屋は、与えられた諸手段を使い、一二時間からなる一労働日で一足の長靴を作ることができるとしよう。彼が同じ時間で二足の長靴を作ろうとするなら、彼の労働の生産力は二倍にならなければならず、そして、彼の労働諸手段もしくは彼の労働方法、またはこれら両方において、同時にある変化が起こらなければ、彼の生産力は二倍になりえない。それゆえ、彼の労働の生産諸条件に、すなわち彼の生産方法に、したがって労働過程そのものに、ある革命が起こらなければならない。ここで労働の生産力と言うのは、一般に、ある商品を生産するために社会的に必要な労働時間が短縮され、したがって、より少ない量の労働がより多量の使用価値を生産する力を獲得する導因となるような、労働過程における変化のことである(2)。したがって、今まで考察した形態における剰余価値の生産にあっては、生産方法は与えられたものと想定されていたのであるが、必要労働を剰余労働に転化することによって剰余価値を生産するためには、資本が、労働過程をその歴史的に伝来した姿態または現存の姿態のままで支配下におき、ただその継続時間を延長するだけというのでは、決して十分ではない。労働の生産力を増大させ、労働の生産力の増大によって労働力の価値を低下させ、こうしてこの価値の再生産に必要な労働日部分を短縮するためには、資本は、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産方法そのものを変革しなければならない。

(2) 「技能が改善されるという場合、それが意味するのは、以前よりも少ない人々で、あるいは(同じことであるが)以前よりも短い時間で、ある生産物が仕上げられうるような新しい方法が発見されるということにほかならない」(ガリアーニ『貨幣について』〔クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第三巻、ミラノ、一八〇三年〕、一五八、一五九ページ)。「生産の諸費用における節約は、生産に用いられた労働量の節約以外の何ものでもありえない」(シスモンディ『経済学研究』、第一巻、二二ページ)。

労働日の延長によって生産される剰余価値を、私は絶対的剰余価値と名づける。これに対して、剰余価値が、必要労働時間の短縮およびそれに対応する労働日の両構成部分の大きさの割合における変化から生じる場合、これを、私は相対的剰余価値と名づける。

労働力の価値を低下させるためには、労働力の価値を規定するような生産物、したがって慣習的な生活諸手段の範囲に属するか、さもなければそれらに代わりえるような生産物を生産する産業諸部門を、生産力の増大がとらえなければならない。しかし、一商品の価値は、その商品に最後の形態を与える労働の量によって規定されているだけでなく、その商品の生産諸手段の中に含まれている労働総量によっても規定されている。たとえば長靴の価値は、製靴労働によってだけでなく、革、ロウ、糸などの価値によっても規定されている。したがって、生活必需品を生産するための不変資本の素材的諸要素、すなわち労働諸手段および労働材料を提供する諸産業において、生産力が増大し、それに対応して諸商品が安くなると、労働力の価値もまた低下する。それに反して、生活必需品をも、それらを生産するための生産諸手段をも提供しない生産諸部門においては、その生産力の増大が労働力の価値に影響することはない。

商品が安くなったことにより労働力の価値が低下するのは、もちろん、その商品が労働力の再生産の中に入りこむ“その分だけ”、すなわちその割合に応じてのことにすぎない。たとえばシャツは、生活必需品ではあるが、多くの生活必需品の一つにすぎない。シャツが安くなっても、そのための労働者の支出が減るだけである。けれども、生活必需品の総体は、まさしく特殊な諸産業の生産物であるさまざまな商品からなるほかはないのであり、このような各商品の価値は、つねに労働力の価値の一構成部分をなしている。この価値は、その再生産に必要な労働時間と共に減少するのであるが、この労働時間の短縮の総量は、前記の特殊な生産諸部門全体における労働時間の短縮の総和に等しい。ここでは、この一般的な結果を、それぞれの場合における直接の結果であり直接の目的であるかのように取りあつかうことにする。個々の資本家が労働の生産力を増大させてたとえばシャツを安くする場合、彼の頭には、労働力の価値を引き下げこうして必要労働時間を“その分だけ”引き下げるという目的が、必ずしも浮かんでいるわけではない。しかし彼が究極においてこの結果に貢献する限りにおいてのみ、彼は一般的剰余価値率の増大に貢献するのである(3)。資本の一般的かつ必然的な諸傾向は、これら諸傾向の現象諸形態とは区別されなければならない。

(3) 「工場主が、機械設備の改良によって、彼の生産物を二倍にする場合・・・・彼が利益を得るのは(究極において)ただ、彼がそれによって労働者にもっと安く衣料を供給できるようになり・・・・こうして総収益のいっそう小さい部分が労働者の手に帰する限りにおいてである」(ラムジー『富の分配に関する一論』、一六八、一六九ページ)。

資本主義的生産の内在的諸法則が、諸資本の外的運動のうちに現れ、競争の強制法則として貫徹し、したがって推進的動機として個々の資本家の意識にのぼる際の仕方は、ここでは考察されないが、しかし、もともと明らかなことは、競争の科学的分析が可能なのは、資本の内的性質が把握されている時に限られるのであり、それは、天体の見かけの運動が、その現実の、しかし感性上知覚しえない天体の運動を認識する人にだけ理解されうるのとまったく同じだという点である。そうは言っても、相対的剰余価値の生産を理解するために、それも、われわれがすでに自分のものとした諸成果だけに基づいて、次の点を指摘しておきたい。

もし一労働時間が、六ペンスすなわち 1/2 シリングの金量で表されるとすれば、一二時間労働日には六シリングの価値が生産される。与えられた労働の生産力で、この一二労働時間に一二個の商品が仕上げられると仮定しよう。各個の商品に消耗された原料などの生産諸手段の価値が、六ペンスとしよう。このような事情のもとでは、個々の商品は一シリングになる。すなわち生産諸手段の価値が六ペンス、その商品が加工される中で新たにつけ加えられた価値が六ペンスである。今、ある資本家が労働の生産力を二倍にし、したがって、一二時間労働日において、この種の商品を一二個ではなく二四個を生産することができるとしよう。生産諸手段の価値が変わらなければ、個々の商品の価値は、今や九ペンスに下がる。すなわち、生産諸手段の価値が六ペンスで、最後の労働によって新たにつけ加えられた価値が三ペンスである。生産力が二倍になったにもかかわらず、一労働日はあい変わらず六シリングの新価値を作り出すだけであるが、その新価値は、今や二倍の生産物に配分される。それゆえ、各個の生産物には、今ではこの総価値の 1/12 ではなく 1/24 が、すなわち六ペンスではなく三ペンスが、割り当てられるにすぎない。または同じことであるが、生産諸手段が生産物に転化する際には、生産物一個について計算すると、以前は生産諸手段にまる一労働時間がつけ加えられたが、今では半労働時間がつけ加えられるにすぎない。この商品の個別的価値は、今や、その社会的価値よりも低い。すなわち、この商品には、社会的平均的諸条件のもとで生産される同種の物品の大群よりも少ない労働時間しかかからない。その一個は、平均的には一シリングであり、言いかえれば社会的労働の二時間を表している。変化した生産方法によれば、その一個は九ペンスにしかならない、言いかえれば一時間半の労働時間しか含んでいない。しかし、一商品の現実の価値は、その個別的価値ではなく、その社会的価値である。すなわち一商品の現実の価値は、その商品が個々の場合に生産者に実際に費やさせる労働時間によってはかられるのではなく、その生産に社会的に必要な労働時間によってはかられる。したがって、新しい方法を用いる資本家が彼の商品をその社会的価値一シリングで売るならば、彼は、個別的価値よりも三ペンス高く商品を売るのであり、三ペンスの特別剰余価値を実現する。しかし他面、一二時間労働日は、今や彼にとって、以前のよう2ノ一二個ではなく二四個の商品で表される。したがって、一労働日の生産物を売るために、彼は二倍の販路を、すなわち二倍の大きさの市場を必要とする。他の事情が同じであれば、彼の諸商品は、価格の引き下げによってのみ、より大きな市場圏を獲得する。したがって彼は、その諸商品を個別的価値以上で、しかし社会的価値以下で、たとえば一個一〇ペンスで、売るであろう。こうして彼は、あい変われず一個あたり一ペンスの特別剰余価値をたたき出す。剰余価値のこの増大が彼に生じるのは、彼の商品が生活必需品の範囲に属しているかどうかにはかかわりがなく、したがって労働力の一般的価値を規定するものとしてこの価値の中に入りこむかどうかにはかかわりがない。したがって、後のほうの事情はさておき、個々の資本家にとっては、労働の生産力を高めることによって商品を安くしようとする動機が存在する。

それにもかかわらず、この場合でさえも、剰余価値の生産の増大は、必要労働時間の短縮とこれに対応する剰余労働の延長とから生じる(3a)。必要労働時間が一〇時間、すなわち労働力の日価値が五シリングであり、剰余労働が二時間、したがって日々生産される剰余価値が一シリングであるとしよう。ところで、わが資本家は、今や二四個を生産し、これを一個あたり一〇ペンスで、すなわち合計二〇シリングで売る。生産諸手段の価値は、一二シリングであるから、一四2/5 個の商品は、ただ前貸不変資本を補填するだけである。一二時間労働日は、後に残る九3/5 個で表される。労働力の価格は五シリングであるから、六個の生産物で必要労働時間が表され、そして三3/5 個で剰余労働が表される。必要労働と剰余労働との比率は、社会的平均的諸条件のもとでは五対一であったが、今ではもう五対三にすぎない。同じ結果は、次のようにしても得られる。一二時間労働日の生産物価値は、二〇シリングである。そのうち一二シリングは、生産諸手段の再現するだけの価値に属する。したがって、八シリングが労働日を表す価値の貨幣表現として残る。この貨幣表現は、同じ種類の社会的平均労働の貨幣表現よりも大きいのであって、その社会的平均労働の一二時間は、六シリングで表されるにすぎない。例外的な生産力の労働は、力を高められた労働として作用する・・すなわち、同じ時間内に、同じ種類の社会的平均労働よりも大きい価値を作り出す。しかし、わが資本家は、労働力の日価値に対して、あい変わらず五シリングを支払うだけである。したがって労働者は、この価値を再生産するのに、以前のように一〇時間ではなく、今ではもう、七1/2 時間を必要とするにすぎない。それゆえ彼の剰余労働は、二1/2 時間だけ増加し、彼によって生産される剰余価値は、一シリングから三シリングに増加する。そのため、改良された生産方法を用いる資本家は、同業の他の資本家たちよりも、労働日のより大きい部分を剰余労働として取得する。彼は、資本が相対的剰余価値の生産に際して一般的に行うことを、個別的に行うのである。しかし他面、この新しい生産方法が普及し、それにともなって、より安く生産された諸商品の個別的価値と社会的価値との差が消滅するやいなや、右の特別剰余価値も消滅する。労働時間による価値規定の法則は、新しい方法を用いる資本家には、彼の商品を社会的価値以下で売らなければならないという形態で感知されるのだが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争者たちを新しい生産方法の採用にかり立てる(4)。したがって、一般的剰余価値率が、結局、全過程を通じて影響を受けるのは、労働の生産力の向上が、生活必需品の生産諸部門をとらえた場合、すなわち、生活必需品の範囲に属し、したがって労働力の価値の諸要素を形成している諸商品を安くした場合に限られる。

(3a) 「ある人の利潤は、他人の労働の生産物に対する彼の支配にではなく、労働そのものに対する彼の支配に依存する。彼の労働者の賃銀が変わらないのに、彼が自分の商品をより高い価格で売ることができるならば、明らかに彼はそこから利益を引き出す。・・・・かの労働を動かすのに、彼の生産する物のより小さい部分で十分であり、その結果、より大きい部分が彼に残る」(〔J・ケーズノヴ〕『経済学概論』、ロンドン、一八三二年、四九、五〇ページ)。

(4) 「もし私の隣人が、少ない労働で多く作ることにより、安く売ることができるならば、私は、彼と同じように安く売るように努めなければならない。こうして、より少ない人手の労働で、その結果より安く作業をする、どんな技能、手順、または機械も、他の人々のあいだに、同じ技能、手順、もしくは機械を用いるか、または類似のものを考案するという、一種の強制および競争を引き起こすものであり、そのため、すべての者が同じ立場に立ち、だれもその隣人よりも安く売ることができなくなる」(『イギリスにとっての東インド貿易の諸利益』、ロンドン、一七二〇年、六七ページ)。

商品の価値は、労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品価値によって規定されているので、同じく労働の生産力に反比例する。これに反して、相対的剰余価値は、労働の生産力に正比例する。それは、生産力が上がれば上がり、生産力が下がれば下がる。一二時間という社会的平均労働日は、貨幣価値が変わらないものと前提すれば、つねに六シリングという同じ価値生産物を生産する。それは、この価値総額が、労働力の価値の等価物と剰余価値とのあいだにどう配分されるかにはかかわりがない。しかし、生産力が上がった結果、日々の生活手段の価値、したがって労働力の日価値が五シリングから三シリングに下がると、剰余価値は一シリングから三シリングに上がる。労働力の価値を再生産するために、かつては一〇労働時間が必要であったが、今ではもう六労働時間しか必要としない。四労働時間が自由になったのであり、それは剰余労働の範囲に併合されうる。それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を増大させることは、資本の内在的な衝動であり、不断の傾向である(5)。

(5) 「労働者の諸支出がどんな割合で減らされようと、もし産業に対する諸制限が廃止されるなら、彼の賃金も同じ割合で減らされるであろう」(『穀物輸出奨励金の廃止に関する諸考察』、ロンドン、一七五三年、七ページ)。「産業の利益は、穀物およびすべての食糧品ができるだけ安いことを要求する。というのは、それらを高くするものが何であろうと、それは、労働をも高くするに違いないからである。・・・・産業が制限を受けていないすべての国では、食糧品の価格は、労働の価格に影響を与えるに違いない。生活必需品の価格が安くなれば、労働の価格は、つねに引き下げられるであろう」(同前、三ページ)。「賃銀は、生産諸力が増加するのと同じ割合で、減少させられる。機械はたしかに生活必需品を安くするが、しかし、それはまた労働者をも安くする」(『競争と協同との功罪の比較に関する懸賞論文』、ロンドン、一八三四年、二七ページ)。

商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとって、それ自体、どうでもよいことである。彼が関心を持つのは、商品の中に潜んでいて、販売の際に実現されうる剰余価値だけである。剰余価値の実現は、おのずから、前貸価値の補填を含む。さて、商品の価値は労働の生産力の発展に逆比例して低下するが、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するということから、すなわち、この同一の過程が、諸商品を安くし、しかもそれに含まれている剰余価値をたえず増大させるということから、交換価値の生産だけを問題とする資本家が、諸商品の交換価値をたえず低下させようと努力するのはなぜか、という謎が解けるのである。それは、経済学の一創始者ケネーが彼の論敵たちを悩ました一つの矛盾であり、それに対して、彼らはいまだに返答をしていない。

ケネーは、次のように言う・・「諸君も認めるように、生産をさまたげずに、手工業生産物の製造における諸費用または費用のかかる諸労働を節約することができればできるほど、この節約は、ますます有利である。なぜなら、その節約は、製品の価格を引き下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、手工業者たちの労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値を増大することにあると信じている(6)」。

(6) "Ils conviennent que plus on peut, sans prejudice, epargner de frais ou de travaux dispendieux dans la fabrication des ouvrages des artisans, plus cette epargne est profitable par la diminution des prix de ces ouvrages. Cependant ils croient que la production de richesse qui resulte des travaux des artisans consiste dans l'augmentation de la valeur venale de leurs ouvrages."(ケネー『商業と手工業者の労働とに関する対話』〔所収『重農主義学派』、デール編、第一部、パリ、一八四六年〕、一八八、一八九ページ〔堀新一訳『商業と農業』、有斐閣、二二六ページ〕。)

このように、労働の生産力の発展による労働の節約(7)は、資本主義的生産においては、決して労働日の短縮を目的とはしない。それは、一定量の商品の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているにすぎない。労働者が、彼の労働の生産力を増大させて、一時間に、たとえば、以前の一〇倍の商品を生産し、したがって商品一個あたりについて一〇分の一の労働時間しか必要としないということは、彼に従来どおり一二時間働かせ、一二時間のあいだに以前のように一二〇個ではなくて一二〇〇個を生産させることを、決してさまたげるものではない。それどころか、彼の労働日が同時に延長され、その結果、彼は今や一四時間のあいだに一四〇〇個を生産するなどということもありえる。それゆえ、マカロック、ユア、シーニアその他同じたぐいのあらゆる経済学者たちの著作を見ると、あるページには、生産諸力の発展は必要労働時間を短縮するのであるから、労働者はこの生産諸力の発展について資本に感謝しなければならない、と書かれてあり、また次のページには、労働者は一〇時間ではなく今後は一五時間労働することによってこの感謝を表明しなければならない、と書かれてある。労働の生産力の発展は、資本主義的生産の内部では、労働日のうち労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮し、まさにそのことによって、労働日のうち労働者が資本家のためにただで労働することのできる他の部分を延長することを、目的としている。このような結果が、諸商品を安くしなくても、どの程度達成できるものであるかは、相対的剰余価値の特殊な生産諸方法において示されるであろう。今やわれわれは、この考察に移ることにする。

(7) 「自分たちが支払わなければならない労働者たちの労働をこのようにひどく節約するこれらの投機師たち」(J・N・ビドー『工業的技術と商業とにおいて生じる独占について』、パリ、一八二八年、一三ページ)。「企業家は、時間と労働とを節約するために、つねに全力をつくすであろう」(ドゥガルド・スチュアート『経済学講義』、所収、サー・W・ハミルトン編『著作集』、第八巻、エディンバラ、一八五五年、三一八ページ)。「彼ら」(資本家たち)「が関心を持つのは、彼らが雇っている労働者たちの生産諸力ができるだけ大きいものであることである。彼らの注意は、この力を増大させることに向けられており、しかもほとんどもっぱらそれに向けれられている」(R・ジョウンズ『国民経済学教科書』、講義第三〔三九ページ。大野精三郎訳『政治経済学講義』、日本評論社、七二ページ〕)。

 


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