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第11章 協業

すでに見たように、資本主義的生産は実際は、同じ個別資本が比較的多数の労働者を同時に就業させ、したがって労働過程がその範囲を拡大し、より大きい量的規模で生産物を供給するようになった場合、はじめて開始される。より多数の労働者が、同時に、同じ場所で(同じ作業場でと言ってもよい)、同じ種類の商品を生産するために、同じ資本家の指揮のもとで働くことが、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。生産方法そのものについて言うと、たとえば初期におけるマニュファクチュアは、同じ資本によって同時に就業させられる労働者の数がより多いこと以外には、同職組合的な手工業的工業と区別されるものはほとんどない。同職組合の親方の仕事場が拡大されているだけである。

したがって、区別はさしあたり単に量的である。すでに見たように、ある与えられた資本が生産する剰余価値の総量は、個々の労働者が提供する剰余価値に同時に就業している労働者の総数を掛けたものに等しい。この労働者の数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度を何ら変えるものではなく、また商品価値一般の生産に関しては、労働過程のどのような質的変化も影響することはないように見える。そのことは、価値の性質から生じてくる帰結である。一二時間の一労働日が六シリングに対象化されるとすれば、このような労働日の一二〇〇は 6シリング×1200 に対象化される。一方の場合には一二労働時間の一二〇〇倍が、他方の場合には一二労働時間が、生産物に合体されている。価値生産においては、多数はつねに多数の個としてのみ計算される。したがって、価値生産にとっては、一二〇〇人の労働者が個別に生産しようが、同じ資本の指揮のもとで結合して生産しようが、何ら区別はない。

それにもかかわらず、ある限界内では、変化が生じる。価値に対象化されている労働は、社会的平均的な質の労働であり、したがって、平均的労働力の発揮である。しかし、一つの平均的大きさは、つねに、同じ種類の多数の異なる個別的大きさの平均としてしか存在しない。どの産業部門においても、個々の労働者、たとえばペーテルやパウロは、多かれ少なかれ平均労働者から背離している。この個別的な背離は数学では「誤差」と呼ばれるが、比較的多数の労働者が集められると、たちまち相殺され、消滅する。有名な詭弁家でありへつらい者であるエドマンド・バークは、借地農業者としての実際の経験から知ったこととして、農僕五人といった「実に小さな集団でも」、労働の個別的差異はいっさい消滅する、したがって壮年期にあるイギリスの農僕を手あたりしだい五人集めると、同じ時間で他の任意のイギリスの農僕五人と同じだけの仕事をする、とさえ言っている(8)。それはともかくとして、比較的多数の同時に就業している労働者の総労働日を労働者総数で割ったものが、社会的平均労働の一日であることは明らかである。各人の一労働日をたとえば一二時間であるとしよう。そうすると、同時に就業している労働者一二人の労働日は、一四四時間の総労働日を形成する。そして、一二人のそれぞれの労働は、社会的平均労働から多かれ少なかれ背離しているかもしれず、したがって一人一人をとってみると、同じ作業に必要な時間がいくらか多かったり少なかったりするかもしれない。にもかかわらず、各個人の労働日は、一四四時間の総労働日の一二分の一として、社会的平均的な質を持つ。しかし、一二人を就業させている資本家にとっては、労働日は、一二人の総労働日として存在する。各個人の労働日は、総労働日の可除部分として存在しており、それは、一二人がたがいに助け合って労働するのか、それとも同じ資本家のために労働するという点にだけ彼らの労働の全関連が存在するのか、ということにはまったくかかわりあいがない。これに反して、もし一二人の労働者のうち二人ずつが一人の小親方によって就業させられるなら、個々の親方がいずれも同一の価値総量を生産するかどうか、したがってまた一般的剰余価値率を実現するかどうかは、偶然的なこととなる。そこでは個別的な背離が生じるであろう。ある労働者が、ある商品の生産において、社会的に必要とされるよりも著しく多い時間を要するならば、すなわち彼にとっ2ト個別的に必要な労働時間が社会的に必要な労働時間または平均労働時間から著しく背離しているならば、彼の労働は平均労働として通用せず、彼の労働力は平均的労働力として通用しないであろう。その労働力は、まったく売れないか、または労働力の平均価値以下でしか売れないであろう。すなわち、労働の熟練の一定の最低限が前提されているのであって、あとでわかるように、資本主義的生産はこの最低限を量る手段を見いだすのである。それにもかかわらず、この最低限は平均から背離する。それでも他方では労働力の平均価値が支払われなければならない。それゆえ、六人の小親方のうち、ある者は一般的剰余価値率よりも多くのものを、他の者は一般的剰余価値率よりも少ないものを、しぼり出すであろう。これらの不等性は、社会にあっては相殺されるであろうが、個々の親方にあっては相殺されないであろう。したがって価値増殖一般の法則は、個々の生産者が資本家として生産し、多くの労働者を同時に使用し、こうしてはじめから社会的平均労働を動かすようになる時に、個々の生産者に対し、はじめて完全に実現されるのである(9)。

(8) 「ある人の労働の価値と他の人の労働の価値とのあいだには、力、器用さ、かげひなたのない勤勉さの違いからみて、疑いもなく著しい相違がある。しかし、私が自分の綿密な観察によって確信するところでは、どのような人を任意に五人選んでも、その合計においては、前述の年齢期に属する他の五人と同じ量の労働を提供する。すなわち、この五人のうち、一人はよい労働者のあらゆる資格をそなえており、一人はだめな労働者であり、他の三人は中くらいであって前者または後者に近い。こうして、五人程度の小さな集団においてさえも、およそ五人の人間が提供しうるすべてのものの合計が見いだされるであろう」(E・バーク『食料不足に関する意見と実情』、一五、一六ページ〔永井義雄訳『穀物不足に関する思索と詳論』、『世界大思想全集』社会・宗教・科学思想編、11、河出書房新社、二五四ページ〕)。平均的個人に関するケトレの所説参照。

(9) ロッシャー教授は、教授夫人によって二日間雇われる一人の針子は、教授夫人が同じ一日に雇う二人の針子よりも多くの労働を提供することを発見した、と主張する〔ヴィルヘルム・ロッシャー『国民経済学原理』、第三版、シュトゥットガルト、アウグスブルク、一八五八年、八八〜八九ページ〕。この教授先生は、子供部屋の中とか、主要人物である資本家のいない状態のもとで、資本主義的生産過程に関する彼の観察を行うべきではあるまい。

労働様式が変わらない場合でも、より多数の労働者を同時に使用することは、労働過程の対象的諸条件における一つの革命を引き起こす。多くの人々が働く建物、原料などのための倉庫、多くの人々に同時にまたは交互に使われる器具、用具、装置など、要するに生産諸手段の一部分は、今や労働過程で共同で消費される。一方では、諸商品の交換価値は、したがって生産諸手段の交換価値もまた、それらの使用価値の利用が何ほどでも高めらることによっては、決して高くはならない。他方では、共同で使用される生産諸手段の規模は増大する。二〇人の織布工が二〇台の織機で労働する部屋は、二人の職人を使う一人の独立した織布業者の部屋よりも、広くなければならない。しかし、二〇人用の仕事場を一つ作るほうが、二人ずつで使う仕事場を一〇作るよりも、かかる労働は少ない。このように、大規模に集中された共同の生産諸手段の価値は、一般に、それらの規模および有用効果に比例しては増大しないのである。共同で消費される生産諸手段は、個々の生産物に、より少ない価値構成部分を引き渡す。なぜなら、一つには、それらの生産諸手段が引き渡す総価値はより多量の生産物に同時に配分されるからであり、また一つには、それらの生産諸手段は個々別々に使用される生産諸手段にくらべればたしかに絶対的にはより大きな価値をもって生産過程に入るのではあるが、しかし、それらの作用範囲を考えれば相対的にはより小さな価値をもって生産過程に入るからである。そのために、不変資本の価値構成部分は低下し、したがってこの価値構成部分の大きさに比例して、商品の総価値もまた低下する。その効果は、商品の生産諸手段がより安く生産されたのと同じである。生産諸手段の使用におけるこの節約は、多くの人々が労働過程で生産諸手段を共同で消費することからのみ生じる。そしてこれらの生産諸手段は、社会的労働の諸条件または労働の社会的諸条件としての性格において、個々別々の自立した労働者または小親方たちの分散した相対的に高価な生産諸手段とは区別される。多くの人々が同じ場所に集合して労働するだけで、協力して労働するのでない場合でも、右のような性格を受け取る。労働諸手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものが獲得する以前に獲得する。

生産諸手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。一方では、その節約が、諸商品を安くし、そのことによって労働力の価値を低下させる限りにおいて。他方では、その節約が、前貸総資本に対する・・すなわち総資本の不変的構成部分および可変的構成部分の価値総額に対する・・剰余価値の比重を変化させる限りにおいて。このあとのほうの点は、この著作の第3部の最初の部分〔第3巻、第1編、第2章「利潤率」〕においてはじめて論究されるのであり、これまでのことに関係のあるいく多の論点も、関係上、そこに譲ることにする。分析の進行が対象のこの分断を必要とするのであるが、それは同時に、資本主義的生産の精神にも対応している。すなわち、資本主義的生産において、労働諸条件は労働者に対して自立的に相対するのであるから、その労働諸条件の節約もまた、労働者には何のかかわりもない、したがって労働者個人の生産性を高める諸方法から切り離されている、特殊な操作として現れるのである。

同じ生産過程において、あるいは、異なっているが関連している生産諸過程において、肩をならべ一緒になって計画的に労働する多くの人々の労働の形態を、協業と呼ぶ(10)。

(10) 「“諸力の協同。 Concours de forces. ”」(デスチュト・ド・トラシ『意志および意志作用論』、八〇ページ)。

騎兵一個中隊の攻撃力または歩兵一個連隊の防御力は、各騎兵および各歩兵によって個々別々に展開される攻撃力および防御力の合計とは本質的に違っているのであるが、それと同じように、個々別々の労働者の力の機械的な合計は、多数の働き手が、分割されていない同じ作業で同時に働く場合・・たとえば、荷物を持ち上げたり、クランクをまわしたり、障害物を取りのぞいたりするような場合・・に展開される社会的能力とは、本質的に違っている(11)。この場合、結合された労働の効果は、個々別々の労働によってはまったく生みだされないか、またははるかに長い時間をかけてようやく生みだされるか、もしくは小規模でしか生みだされないか、であろう。ここで問題なのは、協業による個別的生産力の増大だけではなくて、それ自体として集団力であらねばならない生産力の創造である(11a)。

(11) 「諸部分に分割しえないほど単純な性質のものであるが、多くの働き手の協力によってのみ遂行できるような多数の作業がある。たとえば大きな材木を荷馬車に積むこと・・・・要するに、多数の働き手が、分割されていない同じ仕事で同時に助けあわないとできないようなすべてのことがそれである」(E・G・ウェイクフィールド『植民の方法に関する一見解』、ロンドン、一八四九年、一六八ページ)。

(11a) 「一トンの重さのものを持ち上げることは、一人ではできないし、また一〇人でも努力しなければならないが、一〇〇人ならば各人の指一本だけの力でやることができる」(ジョン・ベラーズ『産業高等専門学校設立の提案』、ロンドン、一六九六年、二一ページ)。

多くの力が一つの総力に融合することから生じる新しい能力は別としても、大部分の生産的諸労働において、単なる社会的接触が競争心と活力(animal sprits)の独自の興奮とを生みだし、それらが個々人の個別的作業能力を高めるのであって、その結果、一緒になった一二人の人間は、一四四時間の同時的一労働日で、各自一二時間ずつ労働する一二人の個々別々の労働者よりも、または一二日間続けて労働する一人の労働者よりも、はるかに大きい総生産物を供給する(12)。このことは、人間は生まれながらにして、アリストテレスが考えるように政治的動物(13)ではないにしても、とにかく社会的動物であるということに由来している。

(12) 「また」(同数の労働者が、一〇人の借地農業者によって三〇エーカーずつで使用されるのではなく、一人の借地農業者によって三〇〇エーカーで使用される場合には)「農僕の比率の面で有利であるが、この有利さは、実際家以外の人には、たやすくは理解されえない。一対四は三対一二であるということは当然であるが、そのことは、実際には当てはまらない。というのは、収穫時には、また同じような急を要する他の多くの作業では、多くの人手を集めることによって、仕事は、よりよく、より速くなされるからである。たとえば、収穫時において、二人の御者、二人の荷積み人夫、二人の投げこみ人夫、二人の掻き集め人夫、それに、作物集積場や穀倉にいる残りの人々が集まれば、同数の人々が、別々のグループに分かれて別々の農場に分散している場合の、二人の仕事を仕上げるであろう」(『食糧の現在の価格と農場規模との関係の研究』、一農業者〔J・アーバスノト〕著、ロンドン、一七七三年、七、八ページ)。

(13) 本来、アリストテレスの定義は、人間は生まれながらにして市民であるということである。この定義は、古典古代にとって特徴的なものであるが、それは、人間は生まれながらにして道具をつくる者であるというフランクリンの定義が、北米人にとって特徴的なものであるのと同様である。

多くの人々が一緒になって、同じことまたは同種のことを同時に行うにもかかわらず、各人の個別的労働が総労働の部分として労働過程そのものの異なる諸段階をなし、これらの諸段階を労働対象は、協業の結果いっそう速く通過することもありえる。たとえば、レンガ積み工が手の列をつくってレンガを足場の下から頂上まで運ぶ場合、彼らは、それぞれ同じことをするのであるが、個々の作業は、一つの総作業の連続する諸部分・・すべてのレンガが労働過程において通過しなければならない独自の諸局面・・を形成しているのであって、このことにより、たとえば労働者全体の二四本の手は、足場を昇ったり降りたりする個々の労働者それぞれの二本の手よりも、速くレンガを運ぶ(14)。労働対象は、同じ空間をより短い時間で通過する。他方、たとえば一つの建築がさまざまな方面から同時に着工される場合には、協業者たちは同一のことまたは同種のことを行うのであるが、労働の結合が生じる。結合された労働者または労働者全体は、前にもうしろも目と手を持っており、ある程度の普遍性を持っているから、一四四時間の結合された労働日は、多方面の空間から労働対象をとらえ、自分たちの仕事により一面的に取りかからなければならない多かれ少なかれ個々別々な労働者の一二時間の一二労働日よりもより速く総生産物を仕上げる。生産物のさまざまな空間的諸部分が同じ時にでき上がる。
(14) 「さらに確認しなければならないことは、この部分的な分業は、労働者が同じ作業をしている場合にも生じうるということである。たとえば、レンガを手から手へと高い足場のほうに運んでいるレンガ積み工たちは、みな同じ労働をしているが、それにもかかわらず、彼らのあいだには一種の分業が存在しており、この分業というのは、各人がレンガを一定の距離だけ運び、彼らを一緒にすれば、おのおのが自分のレンガを別々に高い足場まで運ぶ場合よりも、はるかに速くレンガを所定の場所に運んでいくということである」(F・スカルベク『社会的富の理論』、第二版、パリ、一八三九年、第一巻、九七、九八ページ)。

われわれは、たがいに補いあう多くの人々が、同じことまたは同種のことをするということを強調したが、それは、共同労働のこの最も単純な形態が、協業の最も発達した姿態においても大きな役割を果たすからである。労働過程が複雑であれば、一緒に労働する人々が多数であるというだけで、さまざまな作業を異なった人手のあいだに配分することができ、したがって諸作業を同時に行い、こうすることによって総生産物の生産に必要な労働時間を短縮することができる(15)。

(15) 「ある複雑な労働を遂行することが問題である場合には、さまざまなことが同時になされなければならない。ある人が一つのことをしている時に、他の人は別のことをし、こうしてみんなが、個々の人ではできないようなある成果を生みだすことに寄与する。一人の人は漕ぎ、他の人は舵をとり、第三の人は網を投げたり魚をモリでとったりするのであり、こうして漁獲労働は、この協同がなければ不可能であるようなある成果をえる」(デスチュト・ド・トラシ、前出、七八ページ)。

多くの生産部門には、決定的な瞬間、すなわち、労働過程そのものの性質によって規定された時期があり、そのあいだに一定の労働成果が達成されなければならない。たとえば、一群の羊の毛を刈るとか、または幾モルゲンかの穀物畑を刈り取って収穫しなければならない場合には、生産物の量および質は、その作業がある特定の時点に始まり、ある特定の時点に終わるかどうかで決まる。この場合、労働過程が占めうる期間は、たとえばニシン漁の場合のように、前もって定められている。個々人が一日から切り取ることのできるのは、たとえば一二時間からなる一労働日にすぎないのであるが、たとえば一〇〇人の協業は、一二時間の一日を一二〇〇時間の一労働日に拡大する。労働期間の短さが、決定的な瞬間において生産場面に投入される労働総量の大きさによって埋めあわされる。この場合、効果が適時のものとなるかどうかは、多くの結合労働日が同時に使用されるかどうかにかかっており、その有用効果の大きさは労働者総数にかかっている・・けれどもこの労働者総数は、同じ期間に同じ作業範囲を個々別々にやりとげる労働者の総数よりも、つねに小さい(16)。この協業が欠けていることによって、合衆国の西部では大量の穀物が年々だいなしにされ、またイギリスの支配によって古来の共同体を破壊された東インドの諸地方では大量の綿花が年々だいなしにされる(17)。

(16) 「決定的瞬間におけるそれの」(農業における労働の)「遂行は、それだけより大きな効果を持つ」(〔J・アーバスノト〕『食料の現在の価格と農場規模との関係の研究』、七ページ)。「農業では、時間という要因以上に重要な要因はない」(リービヒ『農業における理論と実践とについて』、一八五六年、二三ページ)。

(17) 「その次の害悪は、おそらく中国とイギリスを別とすれば、世界中の他のどんな国よりも多くの労働を輸出する国でそんなことがあろうとはほとんど予想されないこと・・綿花の収穫に十分な人手が得られないこと、である。その結果、多量の綿花が摘まれないままに残ったり、他の部分は落ちてもちろん変色し一部が腐った時に、地上から集められることになり、適期に労働が不足するため、栽培業者は、イギリスが非常に切望している綿花収穫の大部分を失うことに、事実上、甘んじざるをえない」(『ベンガル・フルカル〔ベンガル通報〕。隔月海外ニュース抄録』、一八六一年七月二二日)。

一方で、協業は、労働の空間的部面の拡大を可能にするので、ある種の労働過程にとっては、労働対象の空間的関連によって、すでに協業が必要とされる・・たとえば、土地の干拓、築堤、潅漑、運河・道路・鉄道の建設などの場合がそうである。また他方で、協業は、生産の規模にくらべて、生産の場を空間的に縮小することができる。このように、労働の作用部面を拡大しながら同時に労働の空間部面を縮小することによって多額の空費(faux frais)が節約されるのであるが、この縮小は、労働者の結集、さまざまな労働過程の集結、および生産諸手段の集中から生じる(18)。

(18) 「耕作の進歩に際して、かつては五〇〇エーカーにおいて分散的に用いられていたすべての資本とすべての労働が、またおそらくそれ以上のものが、今では、一〇〇エーカーのより完全な耕作のために集約化されている」。「使用された資本と労働との量にくらべると、面積は縮小しているが、しかし、以前はただ一人の独立した生産者によって所有され、または耕作されていた生産部面に比較すれば、その面積は、拡大された生産部面を表している」(R・ジョーンズ『富の分配に関する一論』、〔第一部〕「地代」、ロンドン、一八三一年、一九一ページ〔鈴木鴻一郎訳『地代論』、岩波文庫、下、一六、二五〜二六ページ。『資本論草稿集』4、大月書店、五七三ページ参照〕)

結合労働日は、それと同じ大きさの個々別々に行われた個別的労働日の総和と比較すると、より大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果を生産するのに必要な労働時間を減少させる。与えられた場合に、結合労働日がこの増大した生産力を持つようになるのが、労働の力学的能力を高めるからであろうと、労働の空間的作用部面を拡大するからであろうと、生産の規模にくらべて空間的生産場面をせばめるからであろうと、決定的瞬間に多くの労働をわずかの時間のあいだに流動させるからであろうと、個々人の競争心を刺激して彼らの生気を張りつめるからであろうと、多くの人々の同種の作業に連続性と多面性との刻印を押すからであろうと、異なる作業を同時に行うからであろうと、共同使用によって生産諸手段を節約するからであろうと、個別的労働に社会的平均労働の性格を与えるからであろうと・・いずれの場合にも、結合労働日の独特な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である。それは、協業そのものから生じる。労働者は、他の労働者たちとの計画的協力の中で、彼の個人的諸制限を脱して、彼の類的能力を発展させる(19)。

(19) 「個々の人間の力はまったく小さいが、このまったく小さな諸力を結合すれば、すべての部分力の総和よりも大きい一つの総力を生みだすのであり、したがって、単に諸力を結合するだけで、時間を短縮し、かつそれらの力の作用の空間を拡大することができる」(P・ヴェッリ『経済学に関する諸考察』、クストーディ編『イタリア古典経済学者』叢書、近代篇、第一五巻、一九六ページへのG・R・カルリの注)。

概して労働者たちは、一緒にいなくては直接に協力することはできないのであり、したがって、彼らが一定の場所に結集していることが彼らの協業の条件であるのならば、同じ資本、同じ資本家が賃労働者たちを同時に使用することがなければ、すなわち彼らの労働力を同時に買うことがなければ、賃労働者たちは協業することができない。したがって、これらの労働力そのものが生産過程において結合される以前に、これらの労働力の総価値、すなわち労働者たちの一日分、一週間分などの賃銀総額が、資本家のポケットの中に統合されていなければならない。三〇〇人の労働者に一度にまとめて支払いをすることは、ただの一日分だけであっても、少数の労働者たちに一年間にわたって週ごとに支払うよりも多くの資本支出を必要とする。したがって、協業する労働者の総数または協業の規模は、まず第一に、個々の資本家が労働力の購入に支出できる資本の大きさに、すなわち一人一人の資本家が多数の労働者の生活諸手段を自由に処置できる範囲に、依存している。

さらに不変資本についても、可変資本の場合と事情は同じである。たとえば、原料のための支出は、三〇〇人の労働者を雇っている一人の資本家にとって、労働者を一〇人ずつ雇っている三〇人の資本家それぞれによってよりも、三〇倍大きい。共同で使用される労働諸手段の価値の大きさと素材総量とは、たしかに、雇用される労働者総数と同じ程度には増加しないが、しかし著しく増加する。したがって、比較的大量の生産手段が個々の資本家の手に集中することは、賃労働者たちの協業の物質的条件であり、協業の範囲または生産の規模は、この集中の範囲に依存する。

はじめは、個別資本の一定の最小限の大きさは、同時に搾取される労働者の総数、したがって生産される剰余価値総量が労働使用者自身を手の労働から解放し小親方を資本家にし、こうして資本関係を形式的に創出するのに十分なものとなるために、必要なものとして現れた。今や、個別資本のこの最小限の大きさは、分散しかつ相互に独立する多くの個別的労働過程を一つの結合された社会的労働過程に転化させるための、物質的条件として現れる。
 それと同様に、労働に対する資本の指揮は、はじめは労働者が自分のためにではなく、資本家のために、したがって資本家のもとで労働することの形式的結果として現れたにすぎなかった。多数の賃労働者の協業とともに、資本の指揮は、労働過程そのものを遂行するための必要事項に、現実的生産条件に、発展する。生産部面における資本家の命令は、今や、戦場における将軍の命令と同じように不可欠なものとなる。

比較的大規模の直接に社会的または共同的な労働は、すべて多かれ少かれ一つの指揮を必要とするのであるが、この指揮は、個別的諸活動の調和をもたらし、生産体総体の運動・・その自立した諸器官の運動とは違う・・から生じる一般的諸機能を遂行する。バイオリン独奏者は自分自身を指揮するが、オーケストラは指揮者を必要とする。指揮、監督、および調整というこの機能は、資本に従属する労働が協業的なものになるやいなや、資本の機能となる。この指揮機能は、資本の特別な機能として、特別な特性を持つようになる。

第一に、資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的は、できるだけ大きな資本の自己増殖(20)、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。同時に就業している労働者の総数が増えるとともに、彼らの抵抗が増大し、それとともに、この抵抗を押さえつけるための資本の圧力が必然的に増大する。資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から発生しこの過程に属する一つの特殊な機能であるだけではなく、同時に、社会的労働過程の搾取の機能であり、したがって搾取者とその搾取原料とのあいだの不可避的敵対によって条件づけられている。同様に、他人の所有物として賃労働者に対立する生産諸手段の範囲が増大するとともに、生産諸手段の適切な使用を管理する必要も増大する(21)。さらに、賃労働者たちの協業は、彼らを同時に使用する資本の作用にすぎない。賃労働者たちの諸機能の関連と生産総体としての彼らの統一は、彼らのそとに、彼らを集め結びつけている資本の中に、ある。したがって、彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自己の目的に従わせる他人の意志の力として、彼らに対立する。

(20) 「収益は・・・・交易の唯一の目的である」(J・ヴァンダリント『貨幣万能論』、一一ページ〔浜林・四元訳、東京大学出版会、一九ページ〕)。

(21) イギリスの俗物新聞『スペクテイター』一八六六年五月二六日付の報道によれば、「“マンチェスター針金製造会社 wirework company of Manchester ”」において、資本家と労働者たちとの一種の組合制度が導入されてから、「第一の結果は、材料の浪費が突然減少したことであったが、それは、労働者が自分の所有物を雇い主の所有物以上にいっそう浪費すべき理由がなかったからである。しかも材料の浪費は、不良債務とならんで、おそらく工場における欠損の最大の源である」。同紙は、ロッチデイル協同組合の諸実験の根本的欠陥として、次のような発見をしている・・ "They showed that associations of workmen could manage shops, mills, and almost all forms of industry with success, and they immensely improved the condition of the men, but then they did not leave a clear place for masters."(「それらの実験は、労働者の組合が、売店、工場、およびほとんどすべての形態の産業の管理に成功しうることを示したし、また労働者たち自身の状態を著しく改善した。だが、その時これらの実験は、雇い主たちのために明白な席を空けておかなかった」。“何と恐ろしいことだ! Quelle horreur! ”)

したがって、資本家の指揮は、内容から見れば二面的である・・それは、指揮される生産過程そのものが、一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では資本の価値増殖過程であるという二面性をそなえているためである・・のに対し、形式からみれば専制的である。協業がいっそう大規模に発展するにつれて、この専制は、それ独自な諸形態を発展させる。資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産をはじめて開始するための最小限の大きさに達した時に、さしあたり、手の労働から解放されるのであるが、今や彼は、個々の労働者および労働者群そのものを直接にかつ間断なく監督する機能を、ふたたび特殊な種類の賃労働者に譲り渡す。軍隊と同様に、同じ資本の指揮のもとでともに働く労働者大衆は、労働過程のあいだに資本の名において指揮する産業将校(支配人、managers)および産業下士官(職長、foremen, overlookers, contre-maitres)を必要とする。監督の労働が、彼ら専有の機能に固定される。独立農民または自立的手工業者たちの生産様式を奴隷制にもとづく植民地的大農場経営と比較する時、経済学者は、この監督の労働を“生産の空費 faux frais de production”に数える(21a)。それに反して、資本主義的生産様式を考察するにあたっては、経済学者は、共同の労働過程の性質から生じる限りでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって条件づけられる限りでの指揮の機能と、同一視する(22)。資本家は、彼が産業上の指揮者であるがゆえに資本家であるのではなく、彼が資本家であるがゆえに産業上の指揮官になるのである。封建時代に戦争および裁判における指令が土地所有に固有な属性であったように、産業における指令は、資本に固有な属性になる(22a)。

(21a) ケアンズ教授は、「“労働の監督 superintendence of labour ”」を、北アメリカの南部諸州における奴隷制生産の一つの主要な性格としてのべたあと、続けて次のように言っている・・「農民的所有者」(北部の)「は、自分の耕地の全生産物を自分のものにするので、努力を特に刺激する必要は何もない。この場合監督はまったく不必要となる」(ケアンズ『奴隷力』、四八、四九ページ)。

(22) サー・ジェームズ・スチュアートは、だいたいにおいて、さまざまな生産様式の特徴的・社会的区別を見抜く目を持つ点で抜きん出ているが、彼は、次のようにのべている・・「大きな製造企業が家内工業を滅ぼすのは、その企業が奴隷労働なみの単純さに近寄ることによってでないとすれば、なぜであろうか?」(『経済学原理』、ロンドン、一七六七年、第一巻、一六七、一六八ページ〔中野正訳、岩波文庫、(二)、一八ページ〕)。

(22a) したがってオギュスト・コントとその学派は、彼らが資本の主人のためにしたのと同じやり方で、封建領主の永遠の必然性をも証明できたことであろう。

労働者は、自分の労働力の売り手として資本家と取り引きする限りは、自分の労働力の所有者であり、彼は自分が所有するもの、すなわち自分の個人的な個々の労働力を販売しうるにすぎない。この関係は、資本家が、一個の労働力ではなく一〇〇個の労働力を買うことによっても、または、一人の労働者とではなく一〇〇人の相互に独立した労働者と契約を結ぶことによっても、決して変えられない。資本家は、一〇〇人の労働者を、協業をさせなくても使用することができる。だから資本家は、一〇〇個の自立した労働力の価値を支払うが、一〇〇個という結合労働力に支払うわけではない。独立の人間としては、労働者たちは、同じ資本と関係があるがおたがい同士ではそうでない、個々別々の人間である。彼らの協業は労働過程ではじめて始まるが、労働過程では、彼らはすでに自分自身のものではなくなっている。労働過程に入るとともに、彼らは資本に合体されている。協業する者としては、活動する一有機体の諸分肢としては、彼ら自身は資本の一つの特殊な存在様式であるにすぎない。したがって、労働者が社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者たちが一定の諸条件のもとにおかれるやいなや無償で展開されるのであり、そして資本は、労働者たちをこのような諸条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は資本にとって何の費用も要しないのであるから、また他方、労働者の労働そのものが資本のものとなる前は労働者によっては展開されないのであるから、この生産力は、資本が生まれながらに持っている生産力として、資本の内在的な生産力として、現れる。

単純な協業の効果が途方もなく大きいものであることは、古代のアジア人、エジプト人、エトルリア人などの巨大な工事に示されている。

「過去の時代には、これらのアジア諸国家は、その行政費と軍事費を支弁した後に、なお食糧の余剰を持っていて、威光を輝かすための工事や有用な工事のためにそれを支出することができた。ほとんどすべての非農業人口の手と腕を支配するこれら諸国家の命令権と、かの余剰に対する君主および聖職者の独占的処理権とは、国中を満たしたあの巨大な記念物を建設する手段を彼らに与えた。・・・・巨大な彫像と大量の物資の運搬には目をみはらされるが、それらを動かす場合、もっぱら人間の労働だけがおしげもなく投入された。労働者たちの数にものを言わせ、彼らの労苦を集中すればことたりたのである。たとえばわれわれは、一つ一つの堆積物(depositary)は微小で貧弱で取るにたりないにもかかわらず、巨大なサンゴ礁が大洋の深部から隆起して島となり、固い陸地を形成するのを見る。アジアの王国の非農業労働者たちは、自分一人の肉体を酷使する以外に何も工事に役立つものを持っていないが、その数にものを言わせ、この大群を指揮する権力が、あの巨大な工事を生みだしたのである。このような事業を可能にしたのは、労働者を雇う収入が一人または数人の手に集中されていることであった(23)」。

アジアおよびエジプトの国王やエトルリアの神政者たちなどのこの権力は、近代社会においては資本家に移っているのであって、その際、彼が個別の資本家として登場するか、それとも株式会社のように結合された資本家として登場するかにはかかわりがない。

(23) R・ジョーンズ『国民経済学教科書』、七七、七八ページ〔大野精三郎訳『政治経済学講義』、日本評論社、一三六〜一三八ページ〕。ロンドンその他のヨーロッパの首都にある古代アッシリア、エジプトなどの収集品を見れば、あの協業的な労働過程が目に浮かぶ。

人類文化の初期、狩猟民族(23a)において、またおそらくインド的共同体の農業において支配的であるような労働過程における協業は、一方では生産諸条件の共同所有にもとづいており、他方では一匹一匹の蜜蜂がその巣から切り離されていないように、各個人が部族または共同体のへそのおからまだ切り離されていないことに基づいている。これら二つのことは、この協業を資本主義的協業から区別する。古代世界、中世、および近代的植民地における大規模な協業の散在的な応用は、直接的な支配隷属関係に、多くの場合は奴隷制にもとづいている。これに対し資本主義的形態は、最初から、自分の労働力を資本に売る自由な賃労働者を前提している。けれども歴史的には、この形態は、農民経営の対立物として、また独立手工業経営・・それが同職組合的形態を持つかどうかにかかわりなく・・の対立物として、発展する(24)。これらと向かい合って、資本主義的協業が協業の一つの特殊な歴史的形態として現れるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に固有な、かつこの過程を独特なものとして区別する歴史的形態として現れるのである。

(23a) ランゲがその著『民法の理論』の中で、狩猟を協業の最初の形態とし、人間狩り(戦争)を狩猟の最初の諸形態の一つとしている〔一七六七年版、第七〜八章、二七八〜二八九ページ参照〕のは、おそらくまちがってはいないであろう。

(24) 小農民経済および独立手工業経営はいずれも、一部は封建的生産様式の基礎をなし、一部はこの生産様式の解体後に資本主義的経営とならんで現れるのであるが、それらは、同時に、本源的オリエント的共同所有制が解体したのち、奴隷制が生産を本格的に支配するまで、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなす。

協業によって展開される労働の社会的生産力が、資本の生産力として現れるのと同じように、協業そのものも、個別的な独立労働者たちや小親方たちの生産過程に対立する、資本主義的生産過程の独特な形態として現れる。それは、現実の労働過程が資本に包摂されることによってこうむる最初の変化である。この変化は、自然発生的に生じる。この変化の前提、すなわち同じ労働過程において比較的多数の賃労働者が同時に就業することは、資本主義的生産の出発点をなす。この出発点は、資本そのものの定在と一致する。したがって、一方では、資本主義的生産様式が労働過程を社会的過程へと転化させる歴史的必然性として現れるとすれば、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によってより有利に搾取するために資本が使う一方法として現れる。

協業は、これまでに考察された単純な姿態においては、比較的大規模な生産と同時に現れるが、それは、資本主義的生産様式の一つの特殊な発展段階の固定的特徴的形態を形成するものではない。ほぼこれに近いものとして協業が現れるのは、せいぜいのところ、まだ手工業的な初期マニュファクチュアにおいてであり(25)、さらに、マニュファクチュア時代に照応し、同時に使用される労働者の総数と集中された生産諸手段の範囲とによってのみ農民経営と本質的に区別されるようなあの大農業においてである。単純協業は、資本が大規模に作動しているが分業または機械設備が重要な役割を演じていないような生産諸部門では、いつまでも支配的な形態なのである。

(25) 「一緒に同じ仕事に従事する多くの人々の熟練、勤勉、および競争心の結合は、仕事をはかどらせる方法ではないのかどうか? またこの方法によらないで、イギリスが羊毛マニュファクチュアをこれほど高度に完成させることができたかどうか?」(バークリー『質問者』、ロンドン、一七五〇年、五六ページ、質問五二一〔川村大膳・肥前栄一訳『問いただす人』、東京大学出版会、二四三ページ、質問二三八〕)。

協業は・・その単純な姿態そのものが、いっそう発展した諸形態とならぶ特殊な形態として現れはするが・・つねに資本主義的生産様式の基本形態である。


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