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第4節 マニュファクチュア内の分業と社会内の分業

われわれは、まずマニュファクチュアの起源を考察し、ついで、マニュファクチュアの単純な諸要素すなわち部分労働者とその道具を考察し、最後に、マニュファクチュアの全機構を考察した。そこで今度は、マニュファクチュア的分業とすべての商品生産の一般的基礎をなす社会的分業とのあいだの関係に、簡単に触れることとする。

労働そのものだけを眼中におくならば、農業、工業などのような大きな類への社会的生産の分割は一般的分業と名づけることができ、種および亜種へのこれらの生産上の類の区分は特殊的分業と名づけることができ、一つの作業場内での分業は個別的分業と名づけることができる(50)。

(50) 「分業には、きわめて多種多様な職業の分割から、マニュファクチュアにおけるように、幾人かの労働者が同一の生産物の仕上げを分担するような分業まである」(シュトルヒ『経済学講義』、パリ版〔一八二三年〕、第一巻、一七三ページ)。「われわれは、ある程度の文明に達している諸国民のもとでは、三種の分業に出会う。第一のものは、われわれが一般的分業と名づけるものであって、生産者を農業者、工業者、および商人に区別し、国民的労働の三つの主要部門に照応する。第二のものは、特殊的分業と名づけうるものであって、各労働部門の種への分割である。・・・・最後に第三の分業は、仕事の分割または本来の意味での分業と呼ばれるべきものであって、それは、個々の手工業や職業の中で形成され、・・・・大部分のマニュファクチュアと作業場の中で地歩を占める分業である」(スカルベク『社会的富の理論』、八四、八五ページ)。

社会内の分業、およびこれに照応する特殊な職業領域への個人の拘束は、マニュファクチュア内の分業と同じく、相対立する出発点から発展する。一家族(50a)の内部で、さらに発展すると一部族の内部で、自然発生的な分業が、性や年齢の相違に基づいて、すなわち純粋に生理学的な基礎の上で発生するが、この分業は、共同体の拡大、人工の増加、および特に異なる部族間の衝突や一部族による他部族の征服と共に、その材料を拡大する。他方、前述したように、異なる諸家族・諸部族・諸共同体が接触する諸地点で、生産物交換が発生する。というのは、文化の初期には、私的個人ではなく、家族、部族などが自立的に相対するからである。異なる共同体は、それぞれの自然環境の中に異なる生産手段や異なる生活手段を見いだす。それゆえ、これら共同体の生産様式、生活様式、および生産物は異なっている。この自然発生的な相違こそが、諸共同体の接触の際に、相互の生産物の交換を、したがってこれら生産物の商品へのゆるやかな転化を、引き起こす。交換は、諸生産領域の区別を作り出すのではなく、異なる生産領域を関係させ、こうしてそれらを、一つの社会的総生産の多かれ少なかれ相互に依存しあう諸部門に転化させるのである。この場合、社会的分業は、本来異なっていてたがいに独立している諸生産領域間の交換によって成立する。生理的分業が出発点となっているところでは、直接の結びつきでつくられている一全体の特殊な諸器官が、相互に分解し、分裂し・・この分裂過程に対して、他の共同体との商品交換が主要な衝撃を与える・・、自立化して、異なる労働の関連が商品としての諸生産物の交換によって媒介されるまでになる。一方の場合には、以前に自立していたものの非自立化であり、他方の場合には、以前は非自立的であったものの自立化である。

(50a) {第3版への注。・・人類の原始状態に関するその後のきわめて徹底的な研究によって著者の達した結論によれば、本源的には、家族が部族に発達したのではなく、その逆に、部族が、血縁関係に基づく人類社会形成の本源的な自然発生的形態であった。したがって、部族的きずなの解体が始まってから、後になってはじめて、いろいろと異なる家族諸形態が発展したのである。・・F・エンゲルス}

あらゆる発展した、商品交換によって媒介された、分業の基礎は、都市と農村との分離である(51)。社会の全経済史はこの対立の運動に要約されると言えるのであるが、ここでは、この対立については、これ以上立ちいらないことにする。

(51) サー・ジェームズ・スチュアートは、この点をまったく見事に論じた。『諸国民の富』の一〇年前に出た彼の著作が、こんにち人に知られることがどんなに少ないかは、とりわけ次のことからわかる・・すなわち、マルサスは、その「人口」に関する著書の初版で、純粋に空疎な美辞麗句の羅列の部分は別として、坊主のウォリスとタウンゼンドとのほかは、ほとんどもっぱらスチュアートを剽切(ヒョウセツ)しているのであるが、このことを、マルサス賛美者たちはまったく知らないのである。

マニュファクチュア内の分業にとっては、同時に使用される労働者の一定
数がその物質的前提をなすのと同じように、社会内の分業にとっては、人口の大きさとその密度・・この密度は、この場合、同じ作業場における密集に取って代わる・・とが物質的前提をなす(52)。けれども、この人口密度は相対的なものである。交通手段の発達している相対的に人口の希薄な地方は、交通手段の発達していない人口のより多い地方よりも、緻密な人口を持っているのであって、この意味では、たとえばアメリカ合衆国の北部諸州は、インドよりも人
口が緻密である(53)。

(52) 「社会的交通にとっても、労働の産物を増大させる諸力の共同にとっ
ても、共に有用である人口の一定の密度がある」(ジェームズ・ミル『経済学要綱』、五〇ページ〔渡辺輝雄訳、『古典経済学叢書』、春秋社、五六ページ〕)。「労働者の数が増加するにつれ、社会の生産力は、この増加に分業の効果を欠けたものに比例して増大する」(Th・ホジスキン『通俗経済学』、一二〇ページ)。

(53) 一八六一年以来の綿花の大需要の結果、東インドのもともと人口の多いいくつかの地方で、米の生産を犠牲にして、綿花の生産が拡張された。それゆえ局部的な飢饉が発生した。なぜなら、交通機関の不完備、したがって物理的連絡の不完備のために、地方における米の不足が他の諸地方からの輸送によって補充されえなかったからである。

商品生産および商品流通は、資本主義的生産様式の一般的前提であるから、マニュファクチュア的分業は、すでに一定の発展度に成熟した、社会の内部における分業を必要とする。その反対に、マニュファクチュア的分業は、あの社会的分業に反作用し、これを発展させ何倍にもする。労働諸用具の文化につれて、これらの用具を生産する職業がますます分化する(54)。これまで本業または副業として他の諸職業と関連させながら、同じ生産者によって営まれていたある職業が、マニュファクチュア的経営によってとらえられると、ただちに分離と相互の自立化とが生じる。また、マニュファクチュア的経営がある商品の一つの特殊な生産段階をとらえると、その商品のさまざまな生産段階がさまざまな独立の職業に転化する。すでにふれておいたように、製品が、部分生産物を単に機械的に組み合わせてつくられた全体にすぎない場合、部分労働は、ふたたび自己を独自な諸手工業に自立化しうる。マニュファクチュアの内部で分業をより完全に行うために、同じ生産部門が、その原料の相違に応じて、または同じ原料がとりえる形態の相違に応じて、さまざまな・・部分的にはまったく新しい・・マニュファクチュアに分裂させられる。こうして、すでに一八世紀の前半に、フランスだけで、一〇〇以上もの違った種類の絹布が織られており、また、たとえばアヴィニヨンでは、「各徒弟は、つねにただ一種の製造にのみ専念すべきで、幾種もの織物の織り方を同時に習得してはならない」という法律があった。地域的分業は、特殊な生産諸部門を一国の特別の地方に縛りつけるのであるが、これはすべての特殊性を利用するマニュファクチュア的経営によって、新たな刺激を与えられる(55)。社会内の分業のための豊富な材料をマニュファクチュア時代に提供するのは、マニュファクチュア時代の一般的存在諸条件の一部をなす世界市場の拡大および植民制度である。社会内の分業は、社会の経済的領域のほかに社会のあらゆる他の領域をもとらえ、いたるところで専業すなわち専門職のあの形成と人間分割の基礎をすえるのであり、この人間分割はすでに、A・スミスの師A・ファーガスンに「われわれは奴隷たちの国民をつくることになるのであって、われわれのあいだには自由人は存在しないことになる(56)」と叫ばせたのであるが、ここでは、これ以上論証することはしない。

(54) こうして、梭(ヒ)〔機織用器具の一つ〕の製造は、すでに一七世紀中にオランダにおける一つの特殊な工業部門を形成していた〔ポッペ、前出、第一巻、二八〇ページ参照〕。

(55) 「イギリスの羊毛マニュファクチュアは、特定の諸地域に固定されたさまざまな部分または部門に分割されており、それらの諸地域では、さまざまな部分または部門がもっぱらまたは主として営まれている。すなわち、目の細かい布はサマシットシャーで、目のあらい布はヨークシャーで、広幅物はエクセターで、絹はサドベリーで、クレープはノリッジで、半毛交織はケンダルで、毛布はウィットニーで、などというように!」(バークリー『質問者』、一七五〇年、質問五二〇〔川村・肥前訳『問いただす人』、東京大学出版会、二四三ページ、質問二三七〕)。

(56) A・ファーガスン『市民社会史』、エディンバラ、一七六七年、第四部、第二節、二八五ページ〔大道安次郎訳、河出文庫、下、一三ページ〕。

けれども、社会内における分業と作業場内の分業とのあいだには数多くの類似および諸関連があるにもかかわらず、この両者は、ただ程度が異なるだけでなく、本質的にも異なっている。一つの内的なきずながさまざまな事業部門をからみ合わせている場合には、類似は、明白で争う余地がないように見える。たとえば、牧畜業者は獣皮を生産し、なめし皮業者は獣皮を革に変え、製靴業者は革を靴に変える。この場合、各人は一つの段階生産物を生産するのであり、最後の完成した姿態は彼らの特殊な労働の結合生産物である。これに加えて、牧畜業者、なめし皮業者、製靴業者に生産諸手段を提供する多様な労働諸部門がある。そこでA・スミスと共に、この社会的分業は、ただ主観的に、すなわち観察者にとってのみ、マニュファクチュア的分業と区別されるにすぎず、マニュファクチュア的分業の場合、観察者は多様な部分労働をひと目で空間的に見渡すが、社会的分業の場合には、広い面積にわたって部分労働が分散しており、各特殊部門の従業者が多数であるため、その関連が見えにくくされている、と思いこむこともできる(57)。しかし、牧畜業者、なめし皮業者、製靴業者の独立した諸労働のあいだに関連を生じさせるものは何か? それは、彼らのそれぞれの生産物が商品として定在していることである。それに対し、マニュファクチュア的分業を特徴づけるものは何か? それは、部分労働者が商品を生産しないということである(58)。部分労働者たちの共同生産物が、はじめて、商品に転化する(58a)。社会の内部における分業は、さまざまな労働部門の生産物の売買によって媒介されており、マニュファクチュアにおける諸部分労働の関連は、同一の資本家にさまざまな労働力が販売され、その資本家がこれらを結合労働力として使用することによって媒介されている。マニュファクチュア的分業は、一人の資本家の手に生産手段が集中されることを想定しており、社会的分業は、相互に独立した多数の商品生産者たちのあいだに生産諸手段が分散することを想定している。マニュファクチュアにおいては、比例数または比率性の鉄則が一定の労働者群を一定の諸機能のもとに包摂するのに対して、さまざまな社会的労働部門のあいだに商品生産者たちと彼らの生産手段が配分される際には、偶然と恣意とが多彩な作用をする。たしかに、さまざまな生産領域は、たえず均衡を保とうとしている。すなわち一方で、各商品生産者はある使用価値を生eYし、したがってある特殊な社会的欲求を充足しなければならないのであるが、これらの欲求の度合いは量的に相違している。それで、一つの内的なきずながさまざまな欲求群を一つの自然発生的体系に連結することによって、生産領域の均衡が保たれる。他方では、社会がその処分しうる全労働時間のうち、特殊な商品種類のそれぞれの生産にどれだけ支出しうるかを商品の価値法則が規定するということによって、右の均衡が保たれる。しかし、均衡を保とうとするさまざまな生産領域のこの絶え間ない傾向は、この均衡の絶え間ない破壊に対する反作用としてのみ働く。作業場の内部における分業にあっては“前もって a priori ”計画的に守られる規則が、社会の内部における分業にあっては、内的で無言の、市場価格の晴雨計的変動によって知覚されうる、商品生産者たちの無規則な恣意を圧倒する自然必然性として、ただ“あとから a posteriori ”のみ作用する。マニュファクチュア的分業は、資本家に所属する全機構の単なる分肢をなすにすぎない人々に対し、その資本家が無条件的な権威を持つことを想定する。社会的分業は、独立の商品生産者たちをたがいに対立させるのであるが、彼らは、競争の権威すなわち彼らの相互的利害の圧迫が彼らにおよぼす強制以外に、どのような権威をも認めない。それは、また動物界において“万人に対する万人の戦い bellum omnium contra omnes ”が、すべての種の生存諸条件を多かれ少なかれ維持しているのと同じである。したがって、マニュファクチュア的分業、細目作業に対する労働者の終生の従属、および資本のもとへの部分労働者たちの無条件的隷属を、労働の生産力を高める労働組織として賛美するその同じブルジョア意識が、社会的生産過程のあらゆる意識的な社会的管理および規制を、個別的資本家の不可侵な所有権、自由、および自律的な「独創性」への侵害として、同じように声高く非難する。工場制度の熱狂的な弁護者たちが、社会的労働のあらゆる一般的組織に対して、それは全社会を一つの工場に転化するものであるということ以外に何の憤まんも表明しえないということは、きわめて特徴的である。

(57) 本来のマニュファクチュアにおいては・・と彼は言う・・分業がより大きく行われているように見えるが、それは、「それぞれ別々の作業部門で働いている人々が、しばしば同一の仕事場に集められ、観察者がひと目で見渡せる」からである。「これに反して、大多数の住民の主要諸欲求を満たすべき大マニュファクチュア(!)においては、それぞれ別々の作業部門で、実に多数の労働者が働いているので、彼らを一つの仕事場に集めることは不可能である。・・・・分業はそれほど明瞭ではない」と(A・スミス『諸国民の富』、第一篇、第一章〔大内・松川訳、岩波文庫、(一)、九九ページ〕)。同じ章にある、「文明開化し繁栄している国のごく普通の手工業者または日雇い労働者の家財道具を観察せよ・・・・」〔同前訳、岩波文庫、(一)、一一三ページ〕という言葉で始まり、さらに、普通の労働者の欲求を満たすためにどんなに多くの多様な職業が協力しているかを描写している有名な章句は、B・デ・マンドヴィルがその著『蜜蜂物語。または私悪は公益』につけた注釈からほとんど逐語的に引き写されている。(初版は一七〇五年で注釈なし、注釈のついた版は一七一四年〔『蜂の寓話』の題で知られる本書は、上田辰之助『蜂の寓話』、新紀元社、および田中敏弘『マンデヴィルの社会・経済思想』、有斐閣、に部分訳されている〕)。
(58) 「一個人の労働の自然の報酬と呼びうるものは、もはや何もない。各労働者は、全体のうちのある部分を生産するだけであり、そして各部分はそれ自身だけでは価値も効用もないのであるから、労働者が手に取って、これは私の生産物である、これは私のものにしておこう、と言えるものは何もない」(『資本の諸要求に対する労働の擁護』、ロンドン、一八二五年、二五ページ〔安川悦子訳『労働擁護論』、『世界の思想』5、河出書房新社、三七八ページ〕)。この卓越した著述の著者は、さきに引用した〔本章、原注28および52〕Th・ホジスキンである。

(58a) 第2版への注。社会的分業とマニュファクチュア的分業とのこの区別は、アメリカ北部人〔Yankees〕には実際に例証された。南北戦争中にワシントンで新たに考え出された租税の一つに、「すべての工業生産物」に課せられた六%の消費税があった。質問・・工業生産物とは何か? 立法者の答弁・・ある物が生産されるのは、「それがつくられる時」(when it is made)であり、そしてそれがつくられるのは、販売向けにでき上がる時である。多くの例の中から一例をあげよう。ニューヨークおよびフィラデルフィアのマニュファクチュアは、かつては付属物を全部つけた雨傘を「つくって」いた。ところが雨傘はまったく異質な諸構成部分の“組み合わせ製品”であるから、それらの構成部分は、しだいにたがいに独立し、異なった場所で営まれる事業部門の製品となった。そこで、これらの部分生産物は、自立的商品として雨傘マニュファクチュアに入っていき、雨傘マニュファクチュアは、もはやそれらを一つの全体に組み立てるだけとなった。アメリカ北部人は、この種の物品を "assembled articles"(集合品)と名づけたが、それらの物品は租税の集め場所なのでこの名が特にふさわしかった。こうして雨傘は、まず、その諸要素それぞれの価格に対する六%の消費税を「寄せ集め」、さらにふたたび、それ自身の総価格に対する六%の消費税を「寄せ集め」たのである。

資本主義的生産様式の社会においては、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とは相互に制約しあっているのであるが、職業の特殊化が自然発生的に発展し、ついで結晶し、最後に法律的に確定された以前の社会諸形態は、これに反し、一方では、社会的労働の計画的かつ権威的な組織の姿を示すが、他方では、作業場内の分業をまったく排除するか、または、それをきわめて小規模にしか、もしくは散在的かつ偶然的にしか、発展させない(59)。

(59) 「一般的原則として言えるのは、権威が社会内の分業を支配することが少なければ少ないほど、作業場の内部における分業はますます発達し、それはますます個人の権威に従属させられる、ということである。したがって、作業場における権威と社会における権威は、分業に関する限り、たがいに逆比例する」(カール・マルクス『哲学の貧困』、一三〇、一三一ページ〔『全集』、第4巻、156ページ〕)。

たとえば、部分的には今なお存続しているあの太古的な小さいインド的共同体は、土地〔Grund und Boden〕の共同所有と、農業と手工業との直接的結合と固定的分業を基礎としており、この固定的分業は、新たな共同体がつくられる際に与えられた計画や見取り図として役立つ。この共同体は、自給自足的な総生産体をなしており、その生産地域は、一〇〇エーカーから数千エーカーにいたるまでさまざまである。生産物の大部分は、共同体の直接の自家需要のために生産され、商品として生産されるのではなく、したがって生産そのものは、商品交換によって媒介されるインド社会の分業全体から独立している。生産物の余剰だけが商品に転化されるのであり、この余剰の一部もまた、大昔から一定量が現物地代として流入する国家の手によって、はじめて商品に転化する。インドでは、地方が異なれば共同体の形態が異なる。最も単純な形態では、共同体が土地を共同で耕作し、その生産物を成員のあいだに分配するが、他方、各家族は、家内的副業として糸をつむぎ、布を織るなどの仕事をしている。これらの同じような仕事をしている民衆のほかに、一人で裁判官と警察官と徴税官とを兼ねる「首長」、農耕に関する計算を行い、その関係事項いっさいを記帳し登録する記帳係、犯罪者を訴追したり、外来の旅行者を保護して一つの村から他の村に案内したりする第三の役人、共同体の境界を隣接の諸共同体から警護する境界監視人、共同貯水池から農耕用に水を分配する水番、宗教的儀式の職分をつかさどるバラモン、共同体の子供たちに砂で読み書きを教える教師、占星者として播種・収穫の時期およびあらゆる特殊農耕労働を行う日時の善し悪しを指図する暦バラモン、すべての農具をつくったり修繕したりする鍛冶屋と大工、村のためにすべての容器をつくる陶工、理容師、衣類を洗うための洗濯師、銀細工師がおり、ところによっては詩人がいて、ある共同体では銀細工師の代わりをし、他の共同体では教師の代わりをする。これら一ダースほどの人々は、共同体全体の費用で養われる。人口が増加すると、新しい共同体がもとからの共同体を見本として未耕地に定住させられる。この共同体の機構は計画的分業を示してはいるが、そのマニュファクチュア的分業は不可能である。というのは、鍛冶屋や大工などの市場は不変のままであって、せいぜい、村の大きさの相違に応じて、鍛冶屋や陶工が一人でなく二人か三人いるといったぐらいのものだか2轤ナある(60)。共同体の分業を規制する法則は、ここでは、自然法則の犯すべからざる権威をもって作用するのであるが、他方、鍛冶屋などのような特殊な手工業者はいずれも、伝統的な仕方に従いながらも、自立的に、自分の作業場では何らの権威をも認めないで、自分の専門に属するすべての作業を行う。これらの自給自足的共同体は、たえず同じ形態で再生産され、偶然に崩壊することがあっても同じ場所に同じ名称で再建されるのであるが(61)、この自給自足的な共同体の単純な生産有機体は、アジア諸国家の絶え間のない崩壊と再建ならびに絶え間のない王朝交替と著しい対照をなしているアジア諸社会の不変性の秘密を解く鍵を提供する。社会の経済的基本要素の構造は、政治的雲界の嵐によって影響されないのである。

(60) 陸軍中佐マーク・ウィルクス『インド南部の歴史的概要』、ロンドン、一八一〇〜一八一七年、第一巻、一一八〜一二〇ページ。インド的共同体のさまざまな形態の見事な比較は、ジョージ・キャンブルの『近代インド』、ロンドン、一八五二年、の中に見いだされる。

(61) 「この単純な形態のもとで・・・・この国の住民たちは大昔から生活してきた。村々の地域の境界は、まれにしか変更されなかった。そして村々は、たびたび戦争や飢饉や疫病に襲われ、荒らされさえしたが、同じ名称、同じ境界、同じ利害、および同じ家族さえもが、幾世代を通じて存続してきた。住民たちは、王国の崩壊や分割によってはわずらわされない。村が分割されない限り、村がどんな権力に引き渡されるか、どんな主権者の手に帰するかは、彼らにとってはどうでもよい。村の内的経済は変わらないままである」(元ジャワ副総督 Th・スタンフォド・ラッフルズ『ジャワの歴史』、ロンドン、一八一七年、第一巻、二八五ページ)。

すでに前述したように、同職組合の諸規則は、個々の同職組合親方が使用してもよい職人の数をきわめて強く制限することによって、親方が資本家に転化することを計画的にさまたげた。同じように、親方は、彼自身が親方をしている専門の手工業においてしか職人を使用することができなかった。同職組合は、それに対立していた唯一の自由な資本形態である商人資本のあらゆる侵害を油断なく防いだ。商人は、どんな商品をも買うことができたが、商品としての労働だけは買うことができなかった。商人は、手工業諸生産物の売りさばき人〔Verleger〕として容認されただけであった。外的な諸事情が一歩進んだ分業を呼び起こすと、既存の同職組合はもろもろの亜種に分裂するか、または、新たな同職組合が古いものとならんで設けられるかしたが、さまざまな手工業が一つの作業場に集められることはなかった。それゆえ同職組合組織は、その職業の特殊化、分立化、および完成がどんなにマニュファクチュア時代の物質的存在諸条件の一部になるとはいっても、マニュファクチュア的分業を排除した。概して労働者と彼の生産諸手段とは、カタツムリとその殻のように、相互に結合されたままであり、したがってマニュファクチュアの第一の基礎、すなわち労働者に対立する資本としての生産諸手段の自立化が、欠けていた。

一社会全体の中での分業は、商品交換によって媒介されていてもいなくても、きわめてさまざまな経済的社会構成体に存在するのであるが、マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産様式のまったく独自な創造物である。


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