創価学会破折
反戦・平和の"原点"



LNK学会「弾圧」の真相

LNK牧口常三郎の戦争観

「戦争翼賛」宗門と学会の違い/『慧妙』H17.12.1

学会は「反戦・平和」の団体にはあらず!/『慧妙』H17.11.1

創価学会“カリスマ会長”(2代目・戸田城聖氏)が遺した「戦争加担文書」騒動/『フライデー』H17.10.24/<創価学会ウォッチ>WS

学会顧問(台湾総督)が少数民族弾圧/『慧妙』H16.3.16



■「戦争翼賛」宗門と学会の違い(仮題)
―八方破れの言い掛かりを返り討ち―
―「戦争に協力するも、宗門には反省の色無し」!?―
―やむなき最小限の協力も日淳上人が総括済み―

(『慧妙』H17.12.1抜粋編集)

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>戦争に積極的に荷担し、賛美、翼賛(よくさん)してきたのが宗門の歴史なのだ(『創価新報』H17.11.16)
>(宗門は)自ら何の総括もできず、いまだにデッチ上げ話で学会を中傷しているだけ(同)
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 学会に対し、本紙が糾弾しているのは、単に学会が戦争翼賛団体であったということではなく、そのことを反省もせず、否、実質的には今もその体質を継承しながら、"創価学会は一貫して「反戦・平和」の団体である"と主張する、その無慙(むざん)について、である。
 とはいえ、降りかかった火の粉は払っておかねばなるまい。
 学会があげつらった戦時中の宗門の様態については、すでに本紙が過去において論破済みである(『地涌からの通信・資料編』を笑う」「『地涌からの通信・歴史編』の虚構を暴く」等)。
 よって、紙面の都合もあり、ここではその一々については言及しないが、総論として簡単に論破しておく。

◆鈴木管長(日恭上人)及びその一味は、時局の如何を弁(わきま)えず、政府の宗門合同を要望せるに拘わらず、自家独尊の建前を固守し、(中略)何ら宗門らしき奉公の実を示さず、此の苛烈(かれつ)なる戦局に対し、飛行機1機も献納せんともせず、『報国会』の組織も名のみにして実行なく(『世界之日蓮』S18.12・S19.1合併号)
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『世界之日蓮』は、戦時中、戦争翼賛に積極的であった宗内の一僧侶が主催していた。この記事から分るように、身延との合同問題等、最悪の環境の中、法体護持を最優先した当時の日蓮正宗は、時局下、戦時体制に積極的に協力する意思表示はせざるをえなかったものの、実際の行動は、他の団体等に比較して非常に消極的であった、ということである。

●我々は戦争の責任を思うが故に、一方に懺悔(さんげ)すると共に、一方に正法治国をもって正しい文化・正しい道義の国を建設する、最大の努力を払わなければならない。このことは宗教者の仕事としてなさねばならない(「我々の進む路」S23.8発行の宗報に掲載/『日淳上人全集』下巻901頁)
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戦争に協力した事実は事実として、戦後、日淳上人(当時は宗務総監)が、明確に総括されているのである。

★戦争翼賛について反省懺悔するどころか、虚構の学会史を誇示し、「『反戦・平和』を貫いてきた」と嘯(うそぶ)く学会と、事実は事実として真摯(しんし)に受け止め、反省懺悔の態度を示した宗門と、果たしてどちらが、本当の「宗教団体」の在り方であるかは、今さら論ずるまでもあるまい。
 創価学会よ、必死に体裁を繕(つくろ)うその前に、まずは「恥を知る」ということを弁えるがいい。




■学会は「反戦・平和」の団体にはあらず!
―初代から3代へと伝わった全体主義崇拝―
―「大善生活によって戦争に勝つ」と牧口氏―
―「全体主義は理想の形態だ」と池田大作―

(『慧妙』H17.11.1)

 11月18日は、創価学会の創立記念日である。創立75周年となる本年、創価学会は創立記念日に向けて、またぞろ歴史の改ざんを試みている。
 すなわち、『大白蓮華』(11月号)において「3代会長の獄中闘争(上)」なる特別企画を組み、創価学会が、あたかも一貫して反戦・平和を訴えてきた団体であるかに、歴史を粉飾(ふんしょく)しようとしているのである。
 ところがその矢先、創価学会にとってまことに不都合な資料が世に出回ってしまった。というのは、写真週刊誌の『フライデー』が、戦時中、創価学会(当時は「創価教育学会」)が作った『通諜』の実物写真を大きく掲載、"創価学会の「反戦平和団体」との看板に偽(いつわ)りあり"と報じたのである。
 これにより、創立75周年慶祝キャンペーンの出鼻を挫(くじ)かれる格好となった創価学会は猛反発、怪文書『フェイク』(632・633・634号)を用い、3日連続で反論を試みた。
 が、この『通諜』問題に関しては、すでに平成5年の時点で、それがまごうことなき本物であることを、本紙が完壁に論証済み(平成5年6月1日号から9月16日号を参照)。今回の一連の『フェイク』は、口先だけは勇ましかったものの、目新しい反論材料は何1つ示せずじまいで、ただひたすら"学会は反戦・平和を唱え続けた"と連呼するのみのお粗末さであった。
 しかるに、そもそも創価学会が戦争翼賛団体であった、という証拠は数多くあり、『通諜』はそのうちの1つにすぎない。
 学会が、かつては戦争翼賛団体であった、、否、今現在でも、けっして"反戦・平和の団体"などと公言できる団体ではないことを、この際あらためて証明しよう。


【著述に明らかな牧口氏の軍国思想】
―入信前も入信後も覇権主義唱える―
 まず、『フェイク』(633号)は、「牧口会長が日露戦争の前年に発刊した『人生地理学』で、人類は『軍事的、政浴的、経済的な競争』という『戦争の文化』の段階から、『人道的な競争』という『平和の文化』の段階へ、断じて進んでいかねばならないと強く主張したことは、有名である」という。
 が、牧口氏は、大正5年に著(あら)わした『地理教授の方法及内容の研究』で、
 「若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ」(『牧口常三郎全集』第4巻273頁)
 「我国の主権は、即ち万世一系の天皇にましまして、吾々国民から言へば上に万世一系の皇室を戴(いただ)き奉(たてまつ)るのである」(『牧口常三郎全集』第4巻277頁)
と主張している。つまり、"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説し、我が国の主権者は天皇・皇室であることをしっかりと教え込め、と訴えているのだ。
 創価学会としては、牧口氏は日蓮正宗に入信する以前から、もともと平和主義者であった、ということにしたかったのであろうが、それはあまりにも無茶というものである。
 では、創価学会を創設した牧口氏が、それまでの考えと一転して、反戦・平和を主張し、天皇制批判でも展開したのか、といえば、さにあらず。
 まず、創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁)
 創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。
 この事実をもってしても、創価教育学会が反戦・平和の団体であった、というのが、大ウソであることがわかる。
 また、昭和15年4月30日に行なわれた、創価教育学会第2回総会の会場となったのは、九段の軍人会館(現在の九段会館)。
 反戦・平和の団体が、こともあろうに「軍人会館」で大切な総会を開催するとは、どう考えてみても不自然であろう。加えて、軍人会館の側も、反戦団体に会館を貸す、などというのも、全く考え難(がた)い話ではないか。
 しかして、当時の牧口氏は、
 「我々は天皇陛下の御為に、1人でも多く折伏し、実行を以て示さねばならぬ」(「目的観の確立」『牧口常三郎全集』第10巻8頁)
 「東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又『惟神(かんながら)の道』の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない」(「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)
 「大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう」(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)
 「戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによってのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである」(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
 「大臣も知事も他の百官も権力に於いては悉く、天皇陛下の大御稜威(みいつ)に摂(せっ)せられる。故に一切の政治機関のあらゆる権力は悉く、天皇陛下の統治権の発動に過ぎない」(「大善生活法の実践」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
 「『皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る』といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある」(「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)
等々の指導を繰り返しているのである。
 そして、会合を開くにあたっては宮城を遥拝(ようはい)し、軍歌を高唱していたのである。
 これらのことから、創価教育学会は、とくに反戦・平和の団体などと呼べるものではなく、実際は、天皇を国主と仰ぎ、その下に「大善生活法」に基づく全体主義社会を築こうとした、むしろ戦争翼賛の団体であったことがわかろう。
 その創価教育学会が、なぜ取り締まられたか、といえば、ただひとえに、大麻―天照皇大臣の神札に対する不敬罪と、大善生活によらなくては大東亜戦争は負ける、との主張が治安維持法に触れたからであった(さらにその背景には、第59世・堀日亨上人が「法難の起る時、必ず外に反対宗門の針小棒大なる告発ありて其端を発し、内に世相を無視して宗熱に突喊〈とっかん〉する似非〈えせ〉信行の門徒ありて、両面より官憲の横暴を挑発するの傾き多し」〈『富士宗学要集』第9巻247頁〉と指摘されているように、社会状況を全く考慮しない、強引で非常識な布教活動があり、これについて官憲への告発がなされていた)。
 べつに、反戦・平和を唱えたために弾圧を受けた、というわけではないのである。


【「反戦・平和」と強弁するのは無理!】
―資質が疑われるナポレオオン礼讃―
 さて、戦後の創価学会はどうか―。
 創価学会は昔から、士気を鼓舞(こぶ)するため「学会歌」を高唱することを常としてきた。以下に戦後の「学会歌」のいくつかを紹介しよう。

〈日本男児の歌(戦陣訓の歌)〉
一、日本男子と生まれ来て 戦(いくさ)の庭に立つからは 名をこそ惜しめ つわものよ 散るべき時に潔く散り 御国に香れ桜花

〈出撃(加藤隼戦闘隊)〉
一、エンジンの音 轟々(ごうごう)と 隼は征く雲の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描きし若鷲の 印は吾等が戦闘隊

〈同志の桜(同期の桜)〉
一、貴様と俺とは同志の桜 同じ学会の庭に咲く 咲いた花なら 散るは覚悟 見事散ろうよ国のため

 あえて説明する必要もなかろうが、全て軍歌に若干の手を入れただけの代ろ物である(カッコ内は原曲である軍歌の題名)。すなわち、戦後の創価学会もまた、「軍歌」を利用して士気を鼓舞してきたのであって、戦後の創価学会が、軍国主義の形骸(けいがい)を引きずっていたことは、隠しようのない事実なのである。
 そもそも、会長となった戸田城聖氏が、かの戦争についてどのような考えを持っていたかというと、
 「日本の癌(ガン)になる対支問題の解決には、われわれが支那大陸の地下工作にまで乗り出そうではないか!勿論(もちろん)、巌(がん=戸田城聖氏自身のこと)の全財産は、この運動に提供する」(精文館発行・妙悟空著『人間革命』386〜387頁)
 「牧田城三郎先生(牧口常三郎氏のこと)は国家諌暁(かんぎょう)を思い立たれ、自分は学会幹部を集めて、救国の一大折伏戦や、支那大陸への潜行運動などを展開しようとしたが、それは飽(あ)くまでも、日本を負けさせたくないからであって(以下略)」(同書455頁)
との記述に明らかなように、牧口氏と同じく、あくまでも日本の戦勝を目的とし、そのためにできることは積極的に行なっていこう、というものであった。
 さらに戸田氏は、心理学者のインタビューに応えて
 「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。(学会の)教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
と語っている。
 このように、戸田城聖氏率いる戦後の創価学会も、牧口時代からの考えを捨ててはいなかったのである。
 それを象徴するのが、昭和29年10月に行なわれた、創価学会青年部による1万名総登山の際の大出陣式であろう。
 昭和29年10月31日、創価学会は総本山大石寺近くにあった高校の校庭を借り、男女青年部員1万人による大出陣式を挙行した。
 この時、白馬に跨(またが)った戸田城聖氏は、部隊旗を先頭に分列行進する青年部員を"閲兵"。その上空を"戦闘機"ならぬセスナ機が旋回する。そして地上では、軍歌モドキの"部隊歌"の大合唱。さらに後日には、「軍楽隊」までが結成された―。
 こうした、戸田氏の発言や創価学会の行動形態に顕著なように、戦後、戸田城聖氏が再建した学会組織もまた、「反戦・平和」のかけ声とは裏腹の体質を持ち合わせていた。
 そして、その体質の中で様々なものを学んだ池田大作が、「本当は全体主義は1番理想の形態だ」(昭和47年4月18日「第60回社長会」)との考えに固まったのも、理の当然といえよう。
 ちなみに、去る10月25日付の『聖教新聞』の1面を大々的に飾ったのは、11月3日より東京富士美術館で開催される「栄光の大ナポレオン展」の紹介記事。そしてそこには「英雄の生涯を彩る文化の光」の文字が―。
 たしかに、ナポレオンは立志伝中の人物であり、また「英雄」には違いない。
 だが、その「英雄」というも、所詮は軍人としての非凡さを称える呼称であって、侵攻された側、例えば、ゴヤの絵で有名なマドリードの虐殺の犠牲となったスペイン民衆、あるいは、ロシア遠征によって尊い命を落とした数十万名のロシア・フランス両軍兵士や巻き添えになった市民にとって、ナポレオンは残虐な「侵略者」であり、冷酷な「独裁者」以外の何者でもなかったのである。
 しかれば、少なくとも、「反戦・平和」を唱える者にとって、ナポレオンは、たとえどのような理由を付けようとも、賞賛の対象にはなり得ない。
 ところが、創価学会なかんずく池田大作は、再三再四、ナポレオンを賞賛。東京富士美術館等で何度も「大ナポレオン展」を開くばかりでなく、これを全国各地で(例えば8月には長崎で、10月には神奈川で)開催してきているのである。
 このことからも、池田創価学会が唱える「反戦・平和」が、単に名目だけのものであることが窺(うかが)われよう。
 そして何より、御法主日顕上人猊下をはじめ「学会の敵」と見なした者を、徹底的に罵倒(ばとう)し、執拗(しつよう)に攻撃する姿勢に、牧口氏の時代から、創価学会内に連綿と受け継がれてきた体質が、よく現われているではないか。
 創価学会は、その成立の昔から今に至るまで、「反戦・平和」などとは、およそほど遠い団体だったのである。




■創価学会“カリスマ会長”(2代目・戸田城聖氏)が遺した「戦争加担文書」騒動
―韓国でも騒然!「反戦平和団体」じゃなかったの?―
(『フライデー』H17.10.24/<創価学会ウォチ>WS)

●時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員於、益々尽忠報国の念(破損)会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す(カッコ内は本誌注)

 左(※上)の朽ちかけた1葉の文書を見てほしい。ここに書かれているのは、「国・天皇に尽くし、米英打倒のため戦いぬけ」と呼びかけている、いうなれば「戦争加担文書」ともいうべきもの。
 問題は、その発信者となっている人物の名前だ。「理事長 戸田城外」。これは、「戦争反対・平和主義」を標榜する、創価学会の2代目会長・戸田城聖氏のことだ。

●私はこの通諜を、82年の10月に、創価学会の前進である創価教育学会の初代総務だった稲葉伊之助氏の子息・稲葉荘さん(故人)のお家で見せてもらいました。稲葉さんは「学会は戦争に反対していたわけではない」と私に話してくれたのです(ジャーナリスト・溝口敦氏)

最近、韓国のテレビ局・SBSが、創価学会と池田大作名誉会長(77)の「実像」に迫るドキュメンタリー番組を放送し、150万人の学会員がいるという韓国国内が騒然となる“事件”があった。

●実はこの番組の中で、韓国の会員がもっとも動揺した部分が、「創価学会は第2次大戦中、いわれているように戦争に反対したわけではない」と示唆した部分だったといいます(元創価学会幹部)

 左(※上)の文書を遺したとされる戸田城聖氏とは、戦争中に雲散霧消しかけた学会を戦後に再建し、現在の創価学会の隆盛の基礎を築いたという“大偉人”だ。池田氏の著書である『人間革命』の主人公でもあり、学会員にとってはまさに「カリスマ指導者」といっても過言ではない。
 そしてその『人間革命』の第1巻の冒頭には、こんな言葉がある。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない」
 つまり戦後の創価学会は、「反戦平和」を標榜することから始まったというわけだ。にもかかわらず、戸田元会長が「米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す」などという通諜を発していたとしたら、韓国で動揺が広がったように、学会の根本的土台が大きく揺らぐことになろう。
 この「通諜」は、前出のように元学会幹部の自宅に保管されていたもの。元の持ち主だった稲葉伊之助氏は、43年(昭和18年)7月に学会初代会長・牧口常三郎氏や戸田氏とともに逮捕された大幹部。
 拘束当時、さまざまな物品が当局に押収されたが、戦後10年ほどたって息子の荘氏のもとに資料が戻り、その荷物のなかに、30通に及ぶこの「通諜」があったという。荘氏は地下室にこれらを保存していたため、湿気でほとんどが朽ち果てるなどし、わずか3通のみが残ったとされる。
 ただしこの文書について、創価学会側は「文面・出所に不審があり荒唐無稽な創作であることは明白」と断言する。

◆牧口初代会長、戸田第2代会長が、戦中、軍国主義に傾倒し、(創価学会の教義とは相容れない)国家神道を容認したかのような話は全くの暴論で、創価学会に敵対する一部の人々がプロパガンダに利用しているにすぎません。「通諜」なる文書も、戦中に押収された資料であるといいながら、他の押収資料には存在する押収番号もなく、「天皇中心主義」なる戦前、戦中に一般には使用されていなかった言葉を記載しています。仮に真正だとすれば当会の国家神道への転向を示す重要文献のはずですが(当局などの)公式文書にはこれについて記したものは皆無です(創価学会広報室・カッコ内は本誌注)
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“押収番号”についていえば、もともと30通あった同じ文書すべてに当局が番号をつけていたとは考えられず、結果としてたった3通しか残らなかったのだから、番号がなくてもなんの不思議もない。この文書の日付は6月25日付になっていますが、学会の文書には「43年6月に牧口初代会長が“応急処置”をしたが、時すでに遅く逮捕された」というくだりがあります。牧口氏、戸田氏らの逮捕が同年7月6日ですから、この通諜こそが、“応急処置”を指していると思われます(文書の持ち主であった稲葉荘氏と面識のある日蓮正宗法華講大講頭の大草一男)

文書の真贋について、断言する決定的材料はいまのところ乏しい。しかし、「靖国神社参拝」という、周辺諸国から“国家神道的”“戦争礼賛”ととられかねない行動を続ける小泉首相を、与党として強力に支援しているのは、学会を支持母体とする公明党だ。宗教団としての教義より、与党として政治的権力の保持を優先するかのような現在の学会の姿を、泉下の戸田氏はどう見ているのだろうか。
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一般世間の人々が購読している週刊誌にまで「通諜」の存在が紹介されてしまった。学会本部は「全くの暴論」だと否定しているが、その根拠はきわめて希薄。さらに、現物の写真が読者に与えるインパクトは想像以上に大きいに違いない。さて、創価学会は御得意の"名誉毀損"訴訟を提起し、裁判を通して「通諜」の真贋を証明できるか??(<■「通諜」問題総括>参照)(法蔵)




■学会顧問(台湾総督)が少数民族弾圧(仮題)
―日・台で脚光浴びる台湾の霧社事件(抗日蜂起事件)―
―当時、弾圧指揮した総督が学会顧問―

(『慧妙』H16.3.16抜粋編集)

 昭和6年、創価教育学会は発足に当たり、11人の顧問を設置している。その中に、貴族院議員や官僚、あるいは海軍大将・野間口兼雄や台湾総督・太田政弘がいた。
 この太田政弘は、台湾総督府の最高責任者として、霧社事件に深く関わった人物である。台湾総督府とは、日本の植民地となった台湾を統治するため、台北に設置された当時の日本の官庁名であるが、1895年から1945年まで、台湾を支配し、行政・司法・立法・軍事を一手に掌握していた。


<霧社事件>
 霧社事件とは、1930年10月に現在の南投県霧社で起こった、台湾原住民による最大にして最後の抗日蜂起事件である。
 この事件は、日本人警察官が台湾の先住民タイヤル族に対し、民族文化を無視した生活を強制したり、重労働を課したことなどが原因となり、1930年10月、タイヤル族約300人が、日本人が多数居住していた霧社の駐在所や小学校などを襲撃し、134人ほどの日本人を殺害したものである。
 これに衝撃を受けた台湾総督府は、総督府警察隊と台湾軍約2600人を投入し、タイヤル族の戦闘員・非戦闘員に対し砲撃や爆撃による鎮圧を行ない、ついには毒ガスまで使用した、と言われている。
 その結果、タイヤル族の343人が戦死、約300人が自殺、約600人が投降した。
 さらに翌年、投降し収容されたタイヤル族の生存者を、親日派タイヤル族が襲撃して多数を殺害、結局、生存者は300人ほどとなった。しかも、この襲撃を手引きしたのは日本人警察官といわれている。
 この、大人数を残酷に殺害した事件は、現代における無差別テロと同様であるが、いままで公に触れられることはなかった。しかし、このたび、台湾において霧社事件が初のドラマ化(※「風中緋櫻」)され、両国において話題となっているのである。
[資料]:霧社事件

[資料]:台湾総督府


<「平和と反戦の団体」ではなかった学会>
 このような残虐な戦争の中心的人物であった太田政弘や野間口兼雄ら高官を、顧問に請うて発足した創価教育学会が、平和と反戦の団体などとは、とても言えるはずがない。
 彼らを招聘(しょうへい)した創始者・牧口常三郎にも、反戦的な考えはなく、むしろ戦争容認の思想であったといえよう。これは当時、学会の総会において宮城遥拝(ようはい) 戦争賛美の演説が行なわれたり、戦勝の念願ヒトラー賛美、あるいは他国への侵略を肯定する演説がなされ、さらには牧口会長の靖国神社への参拝等からみても、誰の目にも明らかである。
 戦時中に反戦を掲げなかった、などと批判するつもりはないが、現に、創価学会に戦争容認の思想が存在していた過去は消せない事実であり、これを隠し、いくら『創価新報』や『聖教新聞』にて「学会は当初より反戦・平和の団体」「初代会長は戦争反対を叫んで投獄された」などと宣伝しても、それは偽善でしかない。






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