創価学会破折
戦時下の問題

<牧口学会の実態は>
・命を賭するという正の部分もあったが、世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)した似非信行という負の部分もあった。→ただし、後の戸田会長の懺悔と功績に鑑み、歴代上人も、正の部分のみを強調されていた。(<歴代上人の賞賛について>参照)

・大部分の会員は退転し、組織は壊滅状態に→牧口学会総体としては、退転という最も避けなければならない謗法を犯したといえる。

・国家権力に弾圧されたのは事実だが、戦争に反対していた訳ではない。むしろ牧口学会は紛れも無く戦争推進団体であったのだ。(<牧口常三郎の戦争観>参照)



<池田学会と牧口会長との関係は>
・池田学会の主張する牧口像(謗法厳誡)が正しかったとしても、牧口会長の精神は池田学会には伝わっていません。(<摂受謗法路線>参照)→一般論としても正しい師匠についた弟子が異流義を構えたり、親の信心を子が受け継がない場合があります。

・従って、牧口会長を如何に宣揚しようとも、そのことをもって現在の池田学会を正当化することはできません。→残念でした。(笑)

<四悉檀と御法主の教導>参照)




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日恭上人誹謗粉砕
合同問題と獅子身中の虫

四悉檀と御法主の教導/<法蔵>H19.5.19

日淳上人の神道観/<法蔵>H19.7.15

御書削除/『慧妙』H15.1.1他

観念文改訂/『慧妙』H15.1.1他

開戦直後の訓諭

神宮遥拝

報国団

神札問題/<法蔵>H19.7.15

物資供出

内憂外患の情勢下で清流を死守/『慧妙』H6?

日恭上人の御遷化/『慧妙』H14.9.16他

『大橋慈譲講本集』について/『慧妙』H6?他
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学会「弾圧」の真相
学会「弾圧」の真相

宗門を悩ませた牧口会長の独善性/『慧妙』H6?

本山での神札指導

登山停止・信徒除名
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「通諜」問題
「通諜」問題総括/『慧妙』他

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(完結編)/『慧妙』H5.9.16

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(下)/『慧妙』H5.8.16

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(中)/『慧妙』H5.7.16

「通諜」の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す(上)/『慧妙』H5.7.1

やはり学会文書「通諜」は実在した/『慧妙』H5.6.1

宗門は庫裡に神札を祀るよう徹底/『地涌』H5.6.15・第669号

「通諜」の所有者である竜門講・稲葉「証言」は不可解極まる/『地涌』H5.6.14・第668号

謀略文書「通諜」を元に史実を覆そうとする/『地涌』H5.6.10・第667号

戸田会長を逆恨む檀徒の亡霊が「通諜」を携えさまよってる/『地涌』H5.6.8・第666号

牧口、戸田両会長に傷をつけようとする者が偽造/『地涌』H3.3.2・第61号

謗法容認の御指南を拒絶し、獄にあっても不屈であった/『地涌』H3.3.1・第60号



日恭上人誹謗粉砕

合同問題と獅子身中の虫

※ ◎=出所を示さない場合は<現宗研=日蓮宗現代宗教研究所>WSまたは<たむ・たむ>WSより

明治元年(1868)3月 「神仏分離令」を発布し神仏習合を禁じ、廃仏毀釈という手荒な措置にまで進展した。

明治5年(1872)4月 政府は教導職制度を設け、神官とともに僧侶を教導職14級に組み込み、三条教則による国民教化活動を推進した。そして教導職管長として身延山久遠寺の北風日健が就いた。

明治5年(1872)8月 仏教各宗の提唱により、神仏合併大教院を設置し、教化活動と教導職養成が行われた。

明治5年(1872)10月 日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の7宗に、一宗一管長制を定める通達が出されたのである。この通達に対し日蓮系各派は、法華経の受容のありかたにおいて、本門迹門の一致を主張する一致派と、本門迹門の勝劣を主張する勝劣派に分かれていたが、ここに日蓮宗と総称し、交代制の管長制度を定め、顕日琳が管長として就任した。日琳は本成寺派、現在の法華宗陣門流の総本山越後本成寺住職であり、一宗一管長制における日蓮宗初代管長は、勝劣派から出たことがわかる。
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「一宗一管長制」といっても、各派の自治は認められていたから、教義・本尊などは従来通りであった。

明治7年(1874)3月 一宗一管長制度も教義の違いや管長選出に問題が生じ、各派ごとに管長を置くことが認められ、日蓮宗一致派と、日蓮宗勝劣派に分けられた。
●大石寺は、当初より一貫して独立を主張し、再三にわたって政府に独立願いを提出したが認められなかった。当時においては、これ以上の抵抗を続ければ廃寺となるため、万やむをえず、比較的教義が近い勝劣派と、ひとまず連合(統合ではない)することとなった。(『慧妙』H14.12.1)

明治9年(1876)2月 本迹勝劣派は4派に分離し、大石寺をはじめとする興門8箇本山、すなわち大石寺、北山本門寺、京都要法寺、富士妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、西山本門寺、伊豆実成寺は、日蓮宗興門派と称することとなりました。そして、この時は明治政府の意向もあり、協議の上、1年ごとに8箇本山から交替で管長に就任することになったのであります。(『大日蓮』H15.9)

明治17年(1884) 太政官布達第19号にて、「第四条 管長は各其立教・開宗の主義に由て左項の条規を定め、内務卿の認可を得可し、一宗規、二寺法、三僧侶並に教師たる分限及其称号を定むる事、四寺院の住職任免及教師の等級進退の事、五寺院に属する古文書宝物什器の類を保存する事 以上仏道管長の定む可き者とす」と、管長の義務が明示された。(『慧妙』H14.12.1)
●明治17年の太政官布達第19号における管長選出にあたっては、他派の誤りを指摘し、大石寺の正統性を主張して、大石寺の正義のもとに帰一合同するよう働きかけていたのである。惜(お)しくも、その企図は達成されなかったが、戦後、妙蓮寺等が本宗に帰伏したことを考えれば、当時の御法主上人のこうした御苦労、善導が功を秦したともいえるのである。まさに慈悲の宗たる本宗の面目躍如たるものがあるではないか。(『慧妙』H14.12.1)

明治29年(1896)12月13日 本多日生は『各宗綱要』編纂における「四箇格言」削除(島地黙雷による)に端を発する、他宗僧徒との対決のなかで本成寺派・本隆寺派と連携し、統一団を結成する。統一団の折伏布教で小笠原長生・佐藤鉄太郎等の著名人を獲得するが、妙満寺派の統一団ということに本多は限界を感じていくようになる。そこでセクト意識を払拭し、村上專精の『仏教統一論』を意識し日蓮系教団統一への会派設立へと向かうのである。
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この本多日生の行動は国権による教団保護を目的とした国家主義的護教思想に基づくものであり、明治末期からの7教団合同の動きへ発展する。

明治33年(1900)9月18日 興門派より離脱した大石寺は「日蓮宗富士派」と称し独立。
●大石寺と他派との間には教義上の軋轢(あつれき)がやまず、大石寺の分離独立が認可され、本宗は「日蓮宗富士派」と公称して一宗独立を果たしたのである。(『慧妙』H14.12.1)

明治43年(1910) 大逆事件
 7教団合同の動きは、この事件を契機とする政府の「思想善導」運動と結びついてすすめられた。

明治45年(1912) 「日蓮宗富士派」を「日蓮正宗」と改称した。

大正3年(1914) 池上本門寺において教団統合会議が開かれ、7教団管長並びに代表者が出席、教団帰一の実現、連絡一致、教育機関の設立を目的に交渉委員の選出を協議し、門下統合後援会が組織された。7教団統合委員として谷日昌、信隆日秀2名を出し、教団統合規約を制定。具体化されずに立ち消えになる。

大正4年(1915) 日蓮宗・日蓮正宗・顕本法華宗・法華宗の4宗管長が日本橋倶楽部で統合規約成立発表会を開く。

大正11年(1922) 生誕700年にあたり大師号宣下につき、9教団が集結、奉戴式が催される。本門法華宗、日蓮宗、日蓮正宗、顕本法華宗、本門宗、法華宗、本妙法華宗、不受不施派、講門派の9教団である。
 これらの教団の動向は天晴会・本多日生、国柱会田中智学、法華会山田三良、矢野茂、小林一郎らによる統合の支援が生んだものであった。

大正14年(1925)4月22日 治安維持法(旧法)公布
 第1条@ 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
A 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス



【第58世日柱上人退座の策謀】
大正14年11月18日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。(中略)宗会議員・下山廣健 同・早瀬慈雄 同・宮本義道 同・小笠原慈聞 同・松永行道 同・水谷秀圓 同・下山廣琳 同・福重照平 同・渡邊了道 同・水谷秀道 同・井上慈善 評議員・水谷秀道 同・高玉廣辨 同・太田廣伯 同・早瀬慈雄 同・松永行道 同・富田慈妙 松本諦雄 西川眞慶 有元廣賀 坂本要道 中島廣政 相馬文覺 佐藤舜道 白石慈宣 崎尾正道(『地涌』第240号)

日蓮正宗の管長をめぐる紛争を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒大会がおこなわれた1月6日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従い、管長候補者選挙が告示された。(『地涌』第244号)

●(※崎尾正道は)日開上人にどうしても、日正上人の跡をやっていただきたい。そうすれば自分もきっと幅をきかせられる、と思ったのでしょう。そこで、日開上人を日正上人の跡にしようと、策謀したのでございます。(第66世日達上人『蓮華』S47.6)
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この崎尾正道とは、池田の小説『人間革命』第8巻で、「蓮華寺のS住職」としで描かれており、宗門に敵対して離脱していった人物であるから、学会古参幹部諸氏も、その人となりについてはよく知るところであろう。(『慧妙』H14.12.16)
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 日柱上人退座の首謀者の中に小笠原慈聞師がいたことは注目に値する。何故なら、彼は、後に軍部と繋がる水魚会なるグループの一員として活動し、宗門を身延と合同させるべく暗躍したからである。彼が合同実現のために取った行動は、国策に適ってはいるが宗義に反する思想を宣伝し、もし、これに異を唱える者があれば、当局に訴え弾圧し、合同の口実を作り出すというものであった。
 日柱上人退座に際して、文部省宗教局が"紛争解決"のために乗り出したのであるが、もし時期がずれておれば、合同の口実にされていたかも分らない。
 小笠原師が何時頃から水魚会で活動したか、あるいは、何時頃から合同を画策し始めたかは定かではない。しかし、小笠原師の関与は不明であるが、明治時代から日蓮系教団の統一を画策する動きがあったことを思えば、師がこの時期すでに、戦時下の軍部と一体となっての合同画策の萌芽とも言えるものを、胸の内に抱いていた可能性は十分あるのではないか。



【「本尊誤写事件」】
総本山第60世阿部日開(日顕の実父)は、昭和3年の登座直後、本尊を間違って書写した。「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき讃文を、「仏滅度後二千二百二十余年」と書写してしまった。(中略)宗内で問題とされ、小笠原慈聞らが阿部日開を問い糾した。(『地涌』第353号)
小笠原慈聞らは、昭和4年2月18日の朝、阿部日開が「六ツ坪」での勤行を終えるのを待ち詰問する。その結果、阿部日開は過ちを認め、訂正文を書き、自署花押したのである。(同)

◆流血の惨までも見せた管長選挙問題と昨年阿部管長の本尊誤写問題に絡み全信徒が2派に対立して騒ぎを続けている際とてこれが導火線となつて70万の信徒をあげて騒動の波紋を拡げさうな形勢である(『読売新聞』S5.12.29)
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これは、宗務総監・水谷秀道師のスキャンダルを報じる記事である。おそらく小笠原一派がリークした内容を新聞社が鵜呑みにして掲載したのであろう。その証拠に「本尊誤写問題に絡み全信徒が2派に対立」「70万の信徒をあげて騒動」など、全く証拠がなく、事実に反する。おそらくは、情報提供者の願望であり、宗内の混乱を社会に印象付けることがネライだったのではないか。もし、この時点で既に、小笠原師が身延との合同を意識していたのであれば、宗門のイメージダウンは合同の口実にもなるし、一般世間の支持も得られやすくなる。合同問題は別としても、後に「神本仏迹論」を掲げるほど信仰心のない小笠原師が、ことあるごとに宗内の混乱に中心人物として登場することから考えて、師が、薄汚い意図を持って宗門をコントロールしようと画策していたことは、ほぼ間違いない。



昭和8年(1933)11月1日 小笠原慈聞が日蓮正宗同心倶楽部結成。同月10日には同倶楽部の開場式がおこなわれた。この倶楽部が、日蓮正宗を内部攪乱する拠点となるのである。(『地涌』第692号)

昭和9年(1934)2月11日 小笠原は月刊誌『世界之日蓮』を発行。小笠原は同誌を武器に、日蓮正宗の正義を根絶し、みずからの野望を達成しようとする。いよいよ、師子身中の虫が露骨な動きを見せ始めたのである。(『地涌』第692号)

昭和9年(1934) 浅井要麟が一般読者の便を図って総ルビ付きで発刊した『昭和新修日蓮聖人遺文全集』が、読み易さが仇となって内務省警保局の目に留まり、不敬字句の削除を命じられていたことが『東京日日新聞』の報道で明らかとなり、日蓮遺文不敬削除問題が起こる。これは徐々に本格化する日蓮遺文削除改訂と曼荼羅国神勧請不敬問題の始まりであった。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)

昭和10年(1935)12月8日 大本教に対する第2次弾圧がおこなわれた。大本教は翌11年には京都府亀岡と綾部にあった神殿を柱1本残さず破壊された。この大本教への弾圧をテコに、国家権力は宗教団体への干渉を強める。(『地涌』第692号)

昭和12年 国家権力による宗教弾圧は容赦のないものとなり、4月5日に「ひとのみち教団」への一斉検挙、10月20日には「新興仏教青年同盟」への一斉検挙がおこなわれた。(『地涌』第692号)

昭和13年(1938) 門下合同協議会
 第1次近衛内閣成立直前の中国への本格的侵略準備のため文部省の『国体の本義』全国配布で本格化した、「国体明徴」と「国民精神総動員」運動への、迎合的協力姿勢によるものであった。しかし、この教団上層部の上からの動きはいずれも各派間の協議の不一致と各派の下からの強い批判に遭遇して結実にいたらなかった。

昭和14年(1939)4月 主務大臣の強権発動によって宗教団体を「臣民タルノ義務」としての戦争遂行と、そのための国民精神総動員に奉仕させることを目的とする「宗教団体法」が成立・公布される。

昭和14年(1939)8月19日 小笠原慈聞、大石寺でおこなわれた教師講習会で、「日蓮正宗教義の再吟味」と題し講演(『地涌』第693号)
◆天照太神に対し奉る信念の入替へ是正を叫び、本宗勤行式の「初座天拜」に梵天帝釋大六天魔王等の下に天照太神を連ねてゐることは大不敬である(小笠原慈聞「日蓮正宗教義の再吟味」『世界之日蓮』S17.2/『地涌』第693号)

昭和15年(1940)9月 政府は神・仏・基の代表を招集して各教派の合同を希望し、さらに仏教各宗派代表懇談会を招集して、宗教団体法第5条の「教派、宗派又ハ教団ハ、主務大臣ノ認可ヲ受ケ合併又ハ解散ヲ為スコトヲ得」によって、翌年3月末日までに「自主的」合同をおえて認可申請を行わなければならないこととされた。



【宗教団体法】
●昭和15年施行の宗教団体法に基づき、殊に軍国主義的色彩の強かった日蓮各門下において、強力に合同政策が押し進められていたのである。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)

●時の政府は、この法令をかざして、仏教会に対し「命令に背く宗派は解体に処す」と、強権をもって合同を迫り、当時、13宗56派あった宗派を13宗28派に統合したのであります。(『大日蓮』H15.9)

●この方針(※合同政策)は、日蓮宗の各教団は単称日蓮宗(身延)へ合同しなければならないとし、軍人会館を中心に日蓮主義者と称する軍人と、日蓮宗の策謀家達が屢(るる)会合して、この謀略の推進に当っていた。大石寺の僧俗の中にもこれに動揺を来(きた)す一類を生じ、小笠原慈聞師は水魚会の一員となり、策謀の一端を担うに至る、而(しか)して「神本仏迹論」を唱え、思想的にも軍閥に迎合して総本山大石寺の清純な教義に濁点を投じた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)

◆政府が宗教界統一をくわだてゝ大規模な各宗教統一に乘り出したころの事、小笠原慈聞が神本佛迹論を数度にわたつて鈴木日恭猊下へ文書で提出して居るという、又眞僞の確証はないが慈聞の活躍した水魚会を通じ日恭猊下のもとへ身延と合同せよと数度電報(?)を出したという事で、私が出獄後この話を聞いて眞僞をたしかめるため若しこれが本当ならあの当時の宗務院の文書を見せて下さるわけに行かぬでしょうか、と当局者に御うかゞいした事がある、その時は記録拝見は許されなかつたが、事件の有無については否定も肯定もなされず話をぼかして居られたのでそれ以上押しておたずねはしなかつた。又身延派と小笠原慈聞との間に、「この身延との合同が実現すれば小笠原を清澄寺の管長にする」という内約さえ出來て居てそれでしつこく水魚会方面から合同勧告があつたのだと水魚会関係者からうわさを聞いたし、当時このうわさは宗務院と交渉の深いだん信徒の間に公然と流布されていたものである。(『聖教新聞』S27.5.10/『地涌』第669号)

◆戦局の進行とともに、日蓮系各派の陸海軍人、学者、実業家などで形成された水魚会を背景として、小笠原慈聞の一派が宗内をかき回す。日蓮正宗内では、まんじどもえの暗闘が続いた。(中略)小笠原は時局に迎合し、鈴木日恭を治安維持法に引っかけようと、書状をもって難詰する。その書状のやり取りは6回おこなわれたが、鈴木日恭の返書は、すべて特高関係に渡っている。東京品川・妙光寺信徒の1人が小笠原の差し金で、この返書をばら撒いたので、特高(特別高等警察)の手に書状が落ちたものと思われる。(<暁闇>WS)



◎日蓮門下8派は合同委員長に日蓮宗柴田一能を選出、本門法華宗、法華宗、日蓮宗、本妙法華宗、顕本法華宗、本門宗、不受不施派、講門派が出席、合同に賛成し教団の組織は管長、宗務総監、宗会議員、日蓮宗20名、各派21名ときめる。宗名、教義、本尊は特別委員会で決めることになった。

昭和16年(1941)3月2日 法華宗・本門法華宗・本妙法華宗の3派合同

昭和16年(1941)3月10日 治安維持法(新法)公布
 第1章第7条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ4年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ1年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第3章第39条@ 第1章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレタル者其ノ執行ヲ終リ釈放セラルベキ場合ニ於テ釈放後ニ於テ更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ裁判所ハ検事ノ請求ニ因リ本人ヲ予防拘禁ニ付スル旨ヲ命ズルコトヲ得
A 第1章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレ其ノ執行ヲ終リタル者又ハ罪ノ執行猶予ノ言渡ヲ受ケタル者思想犯保護観察法ニ依リ保護観察ニ付セラレ居ル場合ニ於テ保護観察ニ依ルモ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ危険ヲ防止スルコト困難ニシテ更ニ之ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ亦前項ニ同ジ

昭和16年(1941)3月11日〜13日 日蓮宗第37宗会
 日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の3派合同を承認、同時に本末制度の解体が決められた。これより戦時新体制による新教団として戦争遂行にいっそう協力することとなった。
 教団合同の道筋には、当時の国家主義的風潮への心酔と迎合があった一面、政府・官憲によるさまざまな弾圧・脅迫があったことを忘れてはならない。



【僧俗護法会議】
●これに対し、日蓮正宗においては昭和16年3月10日僧俗護法会議を開催し、身延派など日蓮宗との合同は、これを断固拒否したのである。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)

●遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意をのべられ、この合同問題に止めをさゝれたのであつた。(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)

●猊下(※日恭上人)はお一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の弾圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。
 猊下は、単身、当局にむかって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。
 日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ―と。
 その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。
 なおも猊下は、たとえいま、頸(くび)を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(『人間革命』第1巻「千里の道」265頁)

4月1日漸(ようや)く単独で宗制の認可を取ることができた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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文部省の認可は昭和16年3月31日に下りました(『大日蓮』H15.9)

●当時、日蓮門下は9派ありましたが、(中略)日蓮正宗大石寺だけが、身延との合同を拒否し、日興上人の身延離山の遺誡を護りました。当時、日蓮正宗のこの姿勢を見て、他門では「日蓮正宗は遠からずして解体されるであろう」と好奇心をもって見守っていたと言われています。(『大日蓮』H15.9)

[画像]:宗教団体の合同について報じる『朝日新聞』S16.4.1

[画像]:宗義顕揚報恩大法会(昭和16年6月7日)


◎昭和16年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた小笠原慈聞師は、単独宗制認可後も、神本仏迹論をもって、通算5回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を"不敬罪"へと導こうとし(『慧妙』H6?)
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本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(本紙第13号参照)より拝される。(『慧妙』H6?)


昭和16年6月 日蓮宗は宗綱審議会を開き、自主的に日蓮遺文2百8ヶ所を削除する条案を決定する。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)



【観念文改定】
宗門は昭和16年8月22日、皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄(かいざん)を行ない、「皇祖天照大神」「皇宗神武天皇」に始まる代々の天皇に対する感謝を明記した。国家神道に領導(りょうどう)された国家権力に屈して、観念文を改竄するという大罪を犯した日蓮正宗は、宗教的にはもう骨抜きにされたも同然で、教義に違背し、ただひたすら大政翼賛を推進、戦争協力を行なった。(学会の主張)
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当時の宗門が行なった御観念文の改訂は、世情を考え、仏法に違背しない、許容範囲内での改訂である。したがって、「国家神道に領導された国家権力に屈し」云々という学会の疑難は、まったくの的外れである。(『慧妙』H15.1.1)



【御書削除】
宗門は、すでに昭和16年8月24日に「日蓮正宗宗務院」名で、「宗内教師」に対し御書全集の刊行を禁ずる院達を出し、同月29日には「宗務院教学部長」名で、「教師住職教会主管者宗教結社代表者」宛に御書の削除を通達した。(『地涌』第670号)


昭和17年 小笠原慈聞師、宗教新聞『中外日報』を使い、宗務当局に総辞職を迫る(『慧妙』H6?)



【神宮遥拝に関する文部省の通牒】
昭和17年10月10日に出された院達、日蓮正宗の「住職教師教会主管者」宛。
 文部次官より日蓮正宗管長宛に「通牒」があったことを述べ、「趣旨を檀信徒一般に徹底せしむる様周知方可然御配意相煩はし度」と、各末寺での檀信徒への徹底を通達している。その宗務院を経て僧俗に周知させられた「通牒」の内容。
 「神嘗祭当日神宮遥拝に関する件神嘗祭当日遥拝時間の設定に関しては客年十月八日付官文三七八号を以て通牒致したる処聖戦下愈々神嘗祭ノ真意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(学、校、所、会)職員をして当日午前十時を期し一斉に各在所に於て神宮を遥拝せしむる様可然御配意相煩度」
 神嘗祭とは、伊勢神宮の収穫祭のことで、1869年(明治2年)に皇室祭祀に定められた国家神道の重要行事の1つである。毎年10月17日に行われ、宮中においては現人神である天皇が伊勢神宮を遥拝し、また宮中三殿の1つである賢所で親祭を執り行う。この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布である。また10月17日当日は午前10時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遥拝するように、宗務院は僧侶に命じたのである。
(旧sf:2100)

★御観念文の改変や昭和17年10月の神宮遥拝に関する文部省の通牒については、その以前から、宗門と政府軍部との折衝があったことと無関係には論じられない。当時の日本は軍国化の真っ只中にあり、昭和15年施行の宗教団体法に基づき、殊に軍国主義的色彩の強かった日蓮各門下において、強力に合同政策が押し進められていたのである。これに対し、日蓮正宗においては昭和16年3月10日僧俗護法会議を開催し、身延派など日蓮宗との合同は、これを断固拒否したのである。かかる状況に鑑み、徒に他の瑣末な事項をもって当局を刺激し、身延派との合同の強制執行などという事態に至ることだけは何としても避けなければならない状況があった。そこにこれらの通牒などを敢えて拒否しなかった理由が存する。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)



【「合同問題のもつれ」と神札問題】
●(※昭和)18年4月7日には、東京の常泉寺において、小笠原師の神本仏迹論を議題に、堀米部長(※第65世日淳上人)が対論することになったが、小笠原師の破約によつて実現しなかった、また、この頃東京の妙光寺にも紛争があったが、陰には小笠原の策謀があつたといわれている。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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昭和16年4月に合同問題に一応の決着がついたとはいえ、小笠原一派の策謀は、その後も続いていたのである。

昭和18年6月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隠尊猊下おそろいの場に御呼出しで、(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日房御住職)から「神札をくばって来たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざっているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一応受取っているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があった。
 これに対して牧口先生は渡辺尊師に向ってきちっと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、「未だかって学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか」と申上げた処が、渡辺慈海尊師がキツパリと「小笠原慈聞師一派不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている」とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)
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身延との合同に失敗した小笠原一派は、国家権力に訴え宗門を弾圧するべく策謀したのである。彼らの宗門弾圧の目的は、やはり身延との合同実現ではなかったか。

◆(※学会幹部の)投獄は内務省、憲兵隊、警視庁が合体してやつたのだが、先にのべた警事(刑事?)の言葉通り大石寺に対する告訴状以来学会弾圧が決定して居たという事だ。(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)

●こうして合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)

◆あなた(※小笠原慈聞師)の神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです(『人間革命』第6巻)
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 以上のように、当時の宗門中枢には小笠原慈聞師という獅子身中の虫が存在した。彼は、私利私欲のために仲間を扇動し、宗内を撹乱する。特に、戦時下においては軍部と繋がる水魚会なるグループで活動し、日蓮正宗を身延に合同させようと画策していたのである。
 国家神道によって国民をコントロールしようとした政府・軍部は、国家神道を否定するような言動をする団体に対しては、強い態度で取り締まった。国家神道を否定するような言動とは、宗門の場合、具体的には御書の文言、観念文、神札の扱い、神宮遥拝の要否などである。もし、これらの問題で宗門の言動が不適当とされれば、政府や軍部に、身延との合同を強力に推し進める格好の口実を与えることとなったであろう。
 大聖人の仏法(大御本尊と血脈)を後世に伝える使命を持つ宗門としては、少々の"逸脱"を引き換えにしても、身延との合同だけは何としても避けなければならなかったといえる。




【各種発表は混乱回避の方便!?】
―僧俗個々に謗法なし―
"逸脱"といっても、僧俗個々人が実際に謗法に手を染めるというものではない。宗内に公式文書を発表することによって、不必要な混乱を回避したというべきであろう。また、弾圧回避の対外的"アピール"の意味もあったのであろう。

<「本尊誤写事件」>
―信無き者に、相伝書の解釈をしても納得しない―

 ことは相伝書の解釈に関わることであるから、他の文証をもって解釈の正当性を論じるすべがなかった。なぜなら、相伝書とは本来、唯授一人の血脈を受けられた方のみが披見できたのであるから、その解釈の仕方も当然、相承を受けられた方のみが伝え聞いているからである。
 唯授一人の血脈に対する信の欠如している者に対して、本尊書写に関する相伝の深義を説明したところで、相手が納得するはずもなかったであろう。
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
●親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ(『報恩抄送文』全集330頁)

―宗内撹乱の目的を遮(さえぎ)るには謝罪してでも騒ぎを収める―
小笠原一派の執拗な攻撃に対しては、一応非を認め謝罪することが、騒ぎを大きくしない唯一の方法だったのであろう。事実これによって、小笠原一派は、攻撃の鉾先を収めるほかなかったのである(ただし、これ以降も、ことある毎に新たな問題を作出し宗内を混乱させるが)。

―謝罪が問題解決のための一応の方便であったことは、周知されていた―
もし本尊の誤写が事実であれば、血脈の尊厳に関わる由々しき問題であるが、謝罪文を提出したことで簡単に収まった。このことは何を意味するか。大半の僧俗は、本尊誤写とは認識していなかったということであろう。もし、多くの人が本尊誤写と認識しておれば、宗内撹乱を画策する小笠原一派としては、事を大きくする絶好の機会であったに違いない。それは、現在の学会が、この問題をもって血脈そのものを否定する材料としているように。


<観念文の改定>
・牧口学会がこの観念文に異議を唱えたという事実はない。
・牧口学会は、新入会者に対して、この新しい経文を配布したのか?そのような証拠はないし、学会員も否定するであろう。
・そうであれば、宗門としても、それまで使用していた経本を回収してまで、新しい経本を配布はしなかったと考えられる。それどころか、新入信者に対しても、従来の経本(新品)を使用させていた可能性は大である。


<御書削除>
 御書全集の刊行を停止し、御書の字句削除を発表した理由は、当時の国情により、誤解・反発を招かぬように、との配慮にすぎない。
 この「削除通達」が、本当に本宗の僧俗によって実行されたのか、どうかも、現在ではわからない。
 というのも、冨士学林図書館に所蔵されている『祖文纂要』には、削除の痕跡(こんせき)など全く認められないからである。
 このことから推測すれば、他の僧俗においても、実際に削除を行なった人はまずいなかったであろう、と考えられる。
 つまり、この「院達」は、軍部の圧力を回避するための一時的な方便として、形どおり発表したにすぎないものであった、といえよう。(『慧妙』H15.1.1)


<神宮遥拝に関する文部省の通牒>
無用の混乱を避けるための形式的な通知に過ぎない。宗内において神宮遥拝をしたなどという事実はない。一方、牧口会長は自分の言葉で、神社参拝を容認し、わざわざ書籍として出版している。↓

●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。

[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)


<神札受容>
―信徒に対しては謗法厳戒を指導していた―

●総本山において、天照大神のお札を貼ったことは1度もありません。今時の大戦争において、国において軍部が大変に力を得て、我が国を滅ぼしたような状態でございました。昭和18年ごろ、いよいよ戦争が激しくなってきた時分、この総本山においては当時客殿・御宝蔵・庫裡・六壷、それから大奥と、そのちょうど真ん中あたりに書院がございまして、・・・そこは大書院ですから、御本尊は祭ってありません。その所を、昭和18年の、戦争がいよいよ盛んになった時に、国で借り上げてしまった、国に借りられてしまったわけです。その時にその書院を「中部勤労訓練所」ということにされてしまったのでございます。・・・その時に所長である上中甲堂と云う人が、書院の上段の間へ天照大神のお札を祭ったんです。
 それに対して、こちらは再三異議を申し立てたんですけれども、しかし国家でやる仕事である、国の仕事であるから、いくらこちらで何を言っても、それは及びもしない。何とも仕方がないから、そうなってしまったのであります。ただそれだけのことで、別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは事実無根であります。(第66世日達上人/『大白法』H3.4.1)
◆18年7月、中部勤労訓練所という、徴用工訓練のための機関が大坊の書院(200畳敷き)を利用しはじめた。神道に毒されていた指導者たちは、この書院に神棚をつくり、天照太神を祀ってしまった。総本山の宗務院は、当局者に厳重に抗議をした。(中略)再三にわたって、日蓮正宗の教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った。(『人間革命』第1巻「千里の道」258頁〜)
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謗法の徒が総本山内に神札を祀った時、宗門は「教義を懇切に説き、神棚の撤回を迫った」のである。この事実から考えても、宗門として信徒に神札を祀ることを容認する指導があったとは考えられない。神札受容は、実質をともなわない形式的対外的配慮に過ぎなかったのである。

◆(※牧口)「天照大神は天皇陛下の先祖であつてかえつて我々がズケズケおまいりするのは不敬になるとしているだけなのです。今少し強く申し上げたいと思いますが、時ではないと思うので、これでも心掛けているつもりです。ただし謗法だけは我等の会員にはさせたくないと思いますが、どうしたものでしようかな」
(本山側)「一度神札を受けてそつと処分すると云う様な方法か、又積んで置いてもそれ程の害はありますまい」(昭和18年6月初旬の本山での会話/戸田城聖著『人間革命』聖教新聞S28.12.6/『地涌』第667号)
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本山側は学会に対し「そっと処分」するように指示している。これのどこが謗法なのか。



◆邪宗の本尊は、人の命を食うことは知っているが、幸福にすることはできない。われわれがお山に行って、たった300円でお参りができるのは、もったいないことである。もし、小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら、何万円出しても拝することはできなかったであろう。(S28.3.1第2回鶴見支部総会『戸田城聖全集』第4巻20頁)

◆牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。

 ともあれ、明治期以降の近代は、政府の宗教政策による合同間題や、仏教界全般に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が荒れ狂うなど、宗門の運営はけっして平坦なものではなく、慎重な舵(かじ)取りが要求された時代である。このような苦難を乗り越えて、日蓮大聖人の清浄な仏法を今日まで伝えてくださったが故に、現在の我々が成仏の大功徳を享受させていただけるのである。
 しかれば、今日まで大法を守りぬいてこられた御歴代の御法主上人をはじめ、先師先達方に、深く感謝申し上げなけれはならない。(『慧妙』H14.12.1)



【邪難粉砕】
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日蓮宗身延派に日蓮正宗が合同させられないよう、創価教育学会は政界要人への運動をおこなった。宗門は案ずるだけで効果的な手を打つことはできなかった。日蓮正宗の僧侶たちによって、命がけの合同回避工作がおこなわれたから合同が回避されたとするのは、史実を知らない者の虚言である。(『地涌』第693号)
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客観的証拠(文証)も挙げないで、よくもまあ、自分達に都合のよい"感想文(空想文)"が書けたものである。

●猊下(※日恭上人)はお一人で文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の弾圧のもとに、実行にうつされるばかりになっていた。
 猊下は、単身、当局にむかって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。
 日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ―と。
 その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。
 なおも猊下は、たとえいま、頸(くび)を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。(『人間革命』第1巻「千里の道」265頁)
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『地涌』の筆者によれば、"現代の御書"たる『人間革命』の記述も「史実を知らない者の虚言」となるのか??

◆水魚会関係者から毎日総本山へ「身延と合同せよ」という勧告電報が来たそうで、遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意をのべられ、この合同問題に止めをさゝれたのであつた。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27/『大白法』H3.4.1)
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『地涌』の筆者によれば、戸田会長も「史実を知らない者」となるのか??


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宗教行政をおこなう文部省も、宗派合同を強制する法的根拠は持たず、宗派が合同を拒否すれば、それ以上のことはできなかったというのが事実。すなわち、合同を拒否すれば法的制裁を受け、宗派が滅亡するなどということは、まったくの架空の話である。(『地涌』第693号)
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 政府が宗派合同を進める目的は、宗教団体を能率的にコントロールすることであろう。そして、宗教団体をコントロールする目的は、国体護持に他ならない。国体護持の中身を具体的に言えば天皇制及び国家神道の絶対化である。
 確かに、合同自体は政府にとって大きな問題ではなかったかも知れないが、天皇制及び国家神道を冒涜する一切の言動については、政府として、どんなことがあっても容認できなかったはずである。だから、治安維持法や宗教団体法が制定されており、これを犯す団体については強権をもって、解散、財産処分なども行われたのである。
 要するに合同問題は、宗教統制の一手段に過ぎない。しかし、これを不穏当な形で強引に拒否すれば、政府の不興をかい、最悪は解散ということも十分あったであろう。
 また、そうはならなくとも、小笠原慈聞一派をして、宗門を乗っ取らせ教義・化儀を破壊するということもあったかも知れない。

●(※ひとのみち=PL教の前身)教団本部に特高警察が入り、教祖が拘引された翌年の昭和12年4月5日、当局は「不敬の事実をつかんだ」として、教祖を不敬罪で追起訴し、私はじめ弟の道正ほか、十数名の幹部教師も不敬罪で拘引されました。そして28日には、内務大臣命令により治安警察法が適用されて、教団に対して結社禁止処分を行ったのです。(中略)判決も出ないままに、教団は解散させられたばかりか、動産・不動産の処分、債務の整理、さらには建物の破壊もしくは売却までさせられました。(ひとのみち事件・御木徳近『宗教弾圧を語る』岩波新書61頁〜)


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 合同した宗派は35派、合同しなかった宗派は21派であった。ちなみに、日蓮正宗以外の合同しなかった20派の主たるものは以下のとおり、律宗、真言律宗、浄土宗、臨済宗国泰寺派、曹洞宗、黄檗宗、真宗十派、時宗、融通念仏宗、法相宗、華厳宗。
 臨済宗国泰寺派などは、末寺が25ヵ寺しかない弱小宗派だったが、さしたる合同反対運動もしなかったのに、合同を回避し独立した一派として認められた。
 合同問題で日蓮正宗のみ孤塁を守ったとするのは、完全な過ち。約4割の「派」は合同しなかったのである。ただし、小笠原が陸海軍人、学者、実業家、各派有力者などで構成される「水魚会」を背景にして、宗門中枢に合同するよう圧力をかけ、それに宗門が困惑したのは事実である。(『地涌』第693号)
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 合同の目的は国体護持であり、国体とは、天皇制および国家神道を根幹とする。だから、同じ合同といっても、その教義・化儀が天皇制や国家神道と矛盾しない教団と、そうでない教団とでは、政府の力の入れ方が違って当然である。
 日蓮大聖人の御書には天照太神に関する記述があり、仏本神迹の立場である。また、御本尊には天照太神が認められている。さらには、謗法厳戒を説かれている。
 また、日蓮系教団は明治以降、自主的に教派統合の動きがあったし、宗門内部にも、小笠原慈聞という、軍人と繋がり合同を画策する獅子身中の虫が存在したのである。
 このような状況であれば、同じ宗教団体といっても、日蓮正宗の置かれた立場と、他の宗派とは全く異なり、単純に合同した宗派の数を挙げて、「日蓮正宗のみ孤塁を守ったとするのは、完全な過ち」などとは言えないはずである。

●日蓮宗(四派)従来の九派のうち日蓮宗(総本山身延山久遠寺)顕本法華宗(同妙満寺)本門宗の三派で新に「日蓮宗」をつくり本門法華宗、法華宗、本妙法華宗の三派は「法華宗」を設立、日蓮宗不受不施、同不受不施講門の両派も合同して「本化正宗」を設立、日蓮正宗(総本山静岡県大石寺)だけがそのまゝ一派として残つた(『朝日新聞』S16.4.1)
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日蓮系教団9派のうち、合同しなかったのは日蓮正宗だけであった。

[画像]:宗教団体の合同について報じる『朝日新聞』S16.4.1


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合同問題は昭和16年3月に決着しており、創価教育学会に神札甘受を命じたのは、昭和18年6月のこと。身延派に合併させられることを避けるために、神札甘受を創価教育学会に命じたとするのは、歴史的にかけはなれた事実を牽強付会に結びつけ、大謗法を犯した言い訳をしているだけのことである。(『地涌』第693号)
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 まず、昭和16年当時、「神本仏迹論」の邪義を唱えていた某師は、単独宗制認可後も、神本仏迹論をもって、通算5回にわたって日恭上人に詰問状を送りつけ、日蓮正宗を"不敬罪"へと導こうとし昭和17年にも、宗教新聞『中外日報』を使い、宗務当局に総辞職を迫るなど、日恭上人を悩まし奉っていた。
 本宗の教義の上で、神本仏迹論を破折することはたやすいことではあったが、「神は迹、仏は本」と言下に破すれば、不用意に弾圧を招く危険性があり、某師への対応には慎重をきわめたことが、当時の往復文書(本紙第13号参照)より拝される。
 また、昭和18年には、創価教育学会の不敬問題が摘発され、それが本山へも波及しそうになった(結果的に、この時は御宗門の素早い対処により、未然に宗門本体への危難を避けるこどができたが)。これもまた、本宗の危機を招き寄せる一因となったのである。
 昭和16年から18年にかけての本山は、合同は免れたといっても、このような内憂外患の状態にあり、強行に「国主諌暁」を行ない、「神札拒否」を表明すれば、足並みも揃わないまま、御法主上人の投獄、そして宗門断絶へと進む危険性があったのである。(『慧妙』H6?)

 合同問題は、明治以来、政府が宗教統制の一環として何度も浮上し、実行に移された事柄である。また、治安維持法が強化されて以降は、天皇制および国家神道の絶対化とその維持が、思想統制の至上命題であった。
 このような状況であれば、1度は乗り切った合同問題が、再度浮上しても不思議ではなかったと考えるのが当時の常識であったといえよう。また、小笠原一派が大石寺を告訴し、それによって当局による学会弾圧が決定されたことを考えれば、合同問題どころか、宗派の解散さえあり得る状況だったといえよう。

◆渡辺慈海尊師がキツパリと「小笠原慈聞師一派不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている」とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。(戸田城聖「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27.6.10/『大白法』H3.4.1)
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身延との合同に失敗した小笠原一派は、国家権力に訴え宗門を弾圧するべく策謀したのである。彼らの宗門弾圧の目的は、やはり身延との合同実現ではなかったか。

◆(※学会幹部の)投獄は内務省、憲兵隊、警視庁が合体してやつたのだが、先にのべた警事(刑事?)の言葉通り大石寺に対する告訴状以来学会弾圧が決定して居たという事だ。(戸田城聖『聖教新聞』/『大白法』H3.4.1)






四悉檀と御法主の教導
(試論<法蔵>H19.5.19)

【御本仏の弘教】
―発迹顕本と法体建立に向けての法華経の行者の振る舞い―
 大聖人の折伏は、法華経の文々句々をことごとく身読することによって自身が法華経の行者即末法の本仏であることを証明するための特別の振る舞いである。そして、法華経の完全な身読の後に発迹顕本をなさり、時を感じて法体を建立されたのである。(<「三類の強敵」は大聖人の為に説かれた>参照)
 この振る舞いこそ、御書に説かれる如説修行であり、我々の理想であり模範とするところである。しかし、これは別しての法華経の行者の修行である。



【折伏の上の摂受】
大聖人滅後の御僧侶の使命は、大聖人が身命を賭して建立された法体と法門を正しく伝持することにある。それは折伏の上の摂受に当たる。

◆「法体の折伏」「化儀の折伏」からいえば、宗門僧侶の使命は「法体の折伏」という「折伏の上の摂受(しょうじゅ)」にあったといえる。事実、宗門700年の歴史を振り返ると、広布の時に備え、どうにか大御本尊を護持してきた「折伏の上の摂受の時代」であったと言わざるを得ない。(『聖教新聞』H5.9.20取意/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

●当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)
●折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折伏、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』)
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大聖人が「摂受」とは理解し難いところだが、「法華折伏、破権門理」とあるように他宗破折の法門の確立及び法門の説法等を「摂受」というのか。しかし、立宗宣言から佐渡赦免までは、法華経の行者としての特別の振る舞いであるから、法体建立前後(身延入山)からの振る舞いが、特に御僧侶の修行の規範となるのではあるまいか。

●法体の折伏は既に大聖人の御出現によって確立され、あとは日興上人以下、僧宝による伝持の折伏となりますが、問題は国王による化儀の折伏です。これは大聖人御出現当時より現在、そして未来へ向かう時の流れのなかに正法を篤く信仰してその威儀を顕し、法の威光を発揚するとともに、勧善懲悪の働きをなす大人格の出現であります(第67世日顕上人『大日蓮』H2.4/wt:23396)
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池田大作は、自分の代で広宣流布を達成しようと目論んでいたが、残念ながら「大人格」とは、池田のことではない。謗法まみれの氏が「勧善懲悪の働きをなす大人格」であるはずがないからネ。

●去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り同じき四月八日平の左衛門の尉に見参してやうやうの事申したりし中に今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり、これは・ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)
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佐渡からお帰りになった大聖人は「三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれ」との故事に則り、身延山に入られた。その後は国主諌暁を控えられ、令法久住(弟子檀那の教化育成、法体の建立)に力を注がれた。

●法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ(『忘持経事』全集977頁)
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大聖人門下における学問所の起源をたどれば、古く御開山日興上人が大石寺の運営を3祖日目上人に任せ、御自身は北山重須の地に子弟育成の重須談所を開かれたのが、大聖人門下全体を見渡しても最も古い談所となります。日興上人のこの御構想は、宗祖大聖人が晩年身延山にあって法華経等を講ぜられたことに端を発したものと拝されます。(『日寛上人と興学』511頁)

●まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり(『松野殿女房御返事』全集1394頁)

●今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ、此れらは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ(『曽谷殿御返事』全集1065頁)

◆700年の間には、徳川時代のような時代があった。あの時代に貫主様のなさっていらっしゃる行躰は摂受なんです。折伏の中の摂受です。折伏という大きな舞台からみて、摂受の分という意味です。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)

●縦(たと)ひ此の如く山林に斗藪(とそう)し万人に対せずとも義理に違背之無くんば折伏の題目と成り、普(あまねく)く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是即ち大聖の仰せ云云(第13世日院上人『要法寺日辰御報』/『富士宗学要集』第9巻64頁)
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[斗藪]=@衣食住に対する欲望をはらいのけ、身心を清浄にすること。また、その修行。とすう。
A雑念をはらって心を1つに集めること。(『大辞泉』)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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僧の役割は仏法を正しく後世に伝えることである。ここでいう「僧」とは、当然"僧俗"の「僧」であり、在家に対する語すなわち出家した人である。

●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁〜)

●戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
[有徳王]=(前略)唯一人の正法の受持者、覚徳比丘が破戒の悪僧に襲われ、正法がまさに滅せんとしたとき、武器を執って悪僧と戦い覚徳比丘を守った。(『新版仏教哲学大辞典』初版)
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広宣流布がまさに達成する時には、在家の有徳王が出家の覚徳比丘を守る。ここにも僧俗の役割・立場の相違が明らかである。

●善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持して持戒清浄の比丘を守護すべし(『釈迦一代五時継図』全集644頁)
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 在家は僧を守護することによって、令法久住の一翼を担うのである。僧俗の立場の相違はここにも明白である。
 学会よ!"命を捨てて謗法厳誡を貫き折伏をしたのは学会だけ"と自慢するのであれば経文どおり「持戒清浄の比丘を」命がけで「守護すべし」
※"「持戒清浄の比丘」などいない"という反論が聞こえてきそうだが、それは「持戒清浄」の意義を履き違えているからであろう。また、"僧侶不要""僧俗平等"を主張する在家団体であること自体「正法を護持する者」たりえない証拠である。


時期修行の目的または内容文証
身延入山前の大聖人法華経の身読(国主諌暁、三類の強敵、数々見擯出等)→発迹顕本→法華経の行者=末法の本仏の証明

「法華折伏、破権門理」の法体の折伏
●我が身の法華経の行者にあらざるか、(中略)日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(『開目抄』全集202頁〜)

●問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く(中略)末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり、問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云(『法華取要抄』全集333頁〜)

●疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん(『顕仏未来記』全集507頁)

身延入山以降の大聖人法体建立と令法久住、及び「法華折伏、破権門理」の法体の折伏●摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)

●三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)

●此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがことし。余は二十七年なり。(弘安2年10月1日『聖人御難事』御書1396、全集1189頁)

滅後の僧侶法体護持と令法久住、及び「法華折伏、破権門理」の折伏(伝持の折伏)●摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。(『観心本尊抄』全集254頁)

●涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云、天台大師は毛喜等を相語らい伝教大師は国道弘世等を恃怙む云云。(『曾谷入道殿許御書』全集1038頁〜)

●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)

●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

大聖人御入滅後の御僧侶の使命の第一は、大聖人が建立された法体(本門戒壇の大御本尊)と唯授一人の血脈を死守し、令法久住せしめることである。その上で謗法厳誡や布教拡大、国主諌暁がある。大御本尊と唯授一人の血脈は宗旨の根幹であり絶対不変、少しも傷を付けてはならない。それに対して謗法厳誡や布教拡大、国主諌暁などは、四悉檀の上から状況に応じた対応が可能。




【世相を弁(わきま)えた折伏】
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●謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり(『秋元御書』全集1076頁)
●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし(『秋元御書』全集1077頁)
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弾圧を恐れて国家諌暁もせず、神札を受け取ったり、観念文を改訂したり、御書を削除した戦時下の宗門は、明らかに上記御指南に反する。
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経文どおりに国主を諌暁し三類の強敵がすべて惹起したのは歴史上、大聖人様お一人。しかし、大聖人滅後の上人方も世相に応じて国主を諌暁されている。我々弟子檀那もまた、その分に応じて大聖人の折伏を規範として修行に勤めることは当然である。だからといって、世相を弁えずに、"何が何でも大聖人のように命を捨てて折伏しなければ謗法"などということは決してない。


<総じての「法華経の行者」>
●凡(およ)そ法門に於(おい)ては総別の二義があるのでありまして此れを忘れると地獄へ堕ちることになります。日蓮大聖人は「総別の二義を違へば成仏思ひもよらず」と仰せられてありますが、此れは行人(ぎょうにん)の最も心ををくべきところであります。法華経の行者は大聖人唯御一人だけで末法の仏も大聖人であります。総じて申せば妙法を信受する程のものは行者といへますが別して逆縁の衆生でありまして順逆の分別は行功によるところであつて畢竟(ひっきょう)御一人の仏に対しては凡夫であります。かへすがへすも此のところが根本でありまして、その御本尊を信受し奉る上の修行が題目になるのであります。既に仏身地であらせられる大聖人の建立し玉ふ大曼荼羅を信受し持ち奉ることが肝要でありまして、此れ以外は皆偏見であり邪道であります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』982頁〜)

法華経の行者に二人あり・聖人は皮をはいで文字をうつす・凡夫は・ただ・ひとつきて候かたびら・などを法華経の行者に供養すれば皮をはぐうちに仏をさめさせ給うなり(『さじき女房御返事』全集1231頁)
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「法華経の行者に供養」とは、大聖人への供養であるが、滅後は御僧侶に供養するのである。↓(<『さじき女房御返事』御書解説>参照)

●在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか(建治2年御作『松野殿御返事』全集1386頁)
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折伏は大切であるが「南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養」すること、つまり正しい自行が基本である。

1●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。(『新池御書』全集1443頁)
2●此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、(『新池御書』全集1444頁)
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1●の「僧」が大聖人に限定されないことは、同じ御手紙の「此の僧」(2●)が大聖人の命によって派遣された弟子であることから明らか。

●貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるい(類)し威儀は猿猴ににて候へども、あを(仰)ぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠(たま)をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たから(宝)は・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし(『盂蘭盆御書』全集1430頁)
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「無戒」「無智」であっても「法華経」を「信ずる」「僧」は「いみじき御たから(宝)」だと仰せである。御手紙を頂いた女性は在家信徒であるが、その人から見れば一般僧侶は「法華経の行者」であり「宝」(僧宝)なのである。


<状況に応じた折伏>
●心は日蓮に同意なれども身は別なれば与同罪のがれがたきの御事に候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ありがたく候へ、今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。(『主君耳入此法門免与同罪事』全集1133頁)
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折伏は、誰彼となくシツコク何回もすればよい、ということではない。建長8(1256)年に27歳で入信した四条金吾が主君・江馬氏を折伏したのは、文永11(1274)年9月、実に入信18年後のことであった。それまでは幕府の弾圧が厳しかったが、この時、大聖人の佐渡流罪が幕府より赦免されたのである。弾圧が厳しかったときにはできなかった主君への折伏を、赦免を機に行ったとも考えられる。それでも周囲の金吾に対する迫害は厳しく、大聖人は「此れより後には口をつつみて・おはすべし」と、主君に対する折伏を控えるように御指南されている。

●賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(『報恩抄』全集323頁)
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大聖人は、上記故事に倣い、佐渡赦免後は身延に退かれ国家諌暁を控えられた。

●小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり。(『小蒙古御書』全集1284頁)
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大聖人は、他国侵逼難を予言され、幕府に対し何度も"法華経に帰依しなければ他国に攻められる"と諫言された。しかるに、いざ、かねてからの予言が的中し、蒙古が攻めてくると、「言語に及ぶ可からず」と仰せられた。

●縦(たと)ひ此の如く山林に斗藪(とそう)し万人に対せずとも義理に違背之無くんば折伏の題目と成り、普(あまねく)く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是即ち大聖の仰せ云云(第13世日院上人『要法寺日辰御報』/『富士宗学要集』第9巻64頁)

●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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世相を弁えずに、勝手に暴走した牧口会長。しかし、氏が国家諌暁をしたという事実はない。尚、大聖人は、蒙古が襲来する前には何度も国家諌暁をされたが、いざ蒙古が襲来し国家存亡の危機が現実化したときには「他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず」と弟子檀那に厳命された。

3●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった、此頃は大東亜戦の最中で危機非常の時とて東西の真俗に古例に倣つて国諌を成し遂げ法力を以て国家を磐石たらしむべき説が蜂起したので、東京の一部の真俗よりの熱願に酬(こた)へての最後の手段の御相談であった。予は宗開両祖伝統の国諌の対所は時の国権の実権者であって、皇帝でも無く将軍でも無い執権でもない、国家の棟梁として平左衛門尉如き下級官吏までも時に取っては敵手(あいて)とされた。此点を考慮なされ先ず第一に御自身に全責任を負はれ門下の何人も力にしてはならぬ、安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した事で、要するに激越に御奮起を催したが此の盛挙は取り止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1ただし下線部はwt:21966による)
4●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
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日亨上人が、国家諌暁に賛成であったとしても、それは御法主上人御自身が「全責任」(3●)をもって行うことで、「門下の何人も力にしてはならぬ」(3●)というお考えであった。だから当然、国諌のやり方や時期についても御法主の専権事項である。また一方、個々の僧俗が勝手に「世相を無視」(4●)し「官憲の横暴を徴発」(4●)するような行為に対しては否定的であったことは「似非信行の門徒」(4●)という語から容易に分かることです。


<身命に及ぶ弘教、不惜身命>
我々が模範とし、常に目指すべき聖人の修行か。ただし、「不惜身命」といっても初信の者が直ちに実践できるものではないし、自由な時代に敢えて文字通りに身命を捨てる必然性はない。

●仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし(『佐渡御勘気抄』全集891頁)

●未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)

●悲いかな我等誹謗正法の国に生れて大苦に値はん事よ、設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失如何せん、謗家の失を脱れんと思はば父母兄弟等に此の事を語り申せ、或は悪まるるか或は信ぜさせまいらするか、謗国の失を脱れんと思はば国主を諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命但惜無上道と説かれ身軽法重死身弘法と釈せられし是なり、過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり、未来も亦復是くの如くなるべし今日蓮が身に当りてつみ知られて候、設い此の事を知る弟子等の中にも当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて或は落ち或は心計りは信じ或はとかうす、御経の文に難信難解と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ、謗ずる人は大地微塵の如し信ずる人は爪上の土の如し、謗ずる人は大海進む人は一H。(『秋元御書』全集1076頁〜)

●常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし、譬えば我は謀叛を発さねども謀叛の者を知りて国主にも申さねば与同罪は彼の謀叛の者の如し、南岳大師の云く「法華経の讎(あだ)を見て呵責せざる者は謗法の者なり無間地獄の上に堕ちん」と、見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出ずべからず、日蓮此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に一度ならず流罪死罪に及びぬ(『秋元御書』全集1077頁)



【四悉檀】
四悉檀を駆使し世相に応じた教化によって僧俗の信心を擁護するのは血脈付法の御法主の役割

[四悉檀]し‐しつだん(シシッダンとも)=仏様の教法を4種に分けたもの。『大智度論』巻1等に説かれる世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀をいう。悉檀とは宗、理、成就、究極などの意。また、『法華玄義』巻1下では、仏が4種の教相をもって遍く一切衆生に施すゆえに悉檀というとしている。
@世界悉檀……楽欲(ぎょうよく)悉檀ともいい、一般世間の楽(ねが)い欲する所にしたがって法を説き、凡夫を歓喜させ利益を与えること。
A為人悉檀……詳しくは各各為人悉檀といい、生善悉檀ともいう。人によって性欲機根が不同のために、人に応じて法を説き、過去の善根をさせていくこと。
B対治悉檀……断悪悉檀ともいう。貪欲の多いものには不浄を観ぜしめ、瞋恚(しんに)の多いものには慈心を修せしめ、愚痴の多いものには因縁を観ぜしめること。三毒の煩悩を対治するために法を説き、遍く一切衆生に施すので対治悉檀という。
C第一義悉檀……真実義悉檀、入理悉檀ともいう。前の3種が仮の化導であるのに対し、真理を直ちに説いて衆生を悟らせること。

●予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか(『太田左衛門尉御返事』御書1222、全集1015頁)
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「強ちに成仏の理に違はざれば」これを判断される方こそ、大聖人以来の血脈相承を受けられた御法主上人なのです(<化儀と血脈>参照)。

●各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ(『顕立正意抄』全集537頁)
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不惜身命は成仏のための大切な要件であるが、最初からそのような境界を得られるものではない。「若し爾らずんば」と仰せのように、修行者を取巻く社会的立場や世相、修行者自身の信心その他を総合的に判断し、状況に応じた信仰活動も認められるのである。

●日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり(『月水御書』全集1202頁〜)

●釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。(『真間釈迦仏御供養逐状』全集950頁)
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この御手紙は、富木常忍へ宛てたものである。常忍は造像を好むところがあり大黒を供養することすらあった。そのような常忍が釈迦仏を造立したことに対して、権実雑乱の大謗法を制止する立場から、一時的に許可されたものと拝する。

●随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。(『五人所破抄』全集1614頁)
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日興上人は「執する者」に対してのみ「四菩薩を加」えた造仏を許可されている。

●開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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 日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり」と容認されている。すなわち、本来の化儀からみれば逸脱(謗法)であっても、「信者を将護」するために状況を鑑みて容認する場合もある、ということである。
 ここでは本尊としての仏像安置について「宗門最初なる故に」許されたのであるが、時代が下っても相応の寛容を示されることがある。それは、江戸時代に幕府の宗教政策によって種々の弾圧を受けたり、不如意を強いられた宗門僧俗の対応について御存知だった日寛上人が「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」(『当流行事抄』)と明言されているとおりである。↓

●開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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 趣旨は勤行の化儀にあるが「故に」とあるから「化儀・化法四百余年全く蓮師の如し」は化儀・化法に対する一般論として成り立つ意義である。つまり、化儀・化法全体について「四百余年全く蓮師の如し」という前提が正しいからこそ「故に」勤行の化儀についても同様に「四百余年全く蓮師の如し」という文意である。「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人が一部末寺での仏像安置を容認されたことや、金沢法華講衆が表面上邪宗の檀家となっていたことも含まれる(下記5●6●)。これらは、四悉檀の上から許容される範囲のことであり、謗法厳誡を説かれた大聖人の御指南に反するものではないのだ。
 ただし、血脈の真義から考えて、あくまでも化儀を決定されるのは正師(大聖人以来の別付嘱の方)である。本来の化儀から見れば逸脱であっても正師の認可がある限りにおいて血脈が流れ通い功徳が出る。その場合の化儀は正義を前提としての方便のようなものであり、逸脱であって逸脱ではない。方便の法門も絶待妙の立場からみれば体内の法となるようなものか?

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇(※世界悉檀) 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候(第62世日恭上人より小笠原慈聞師への書簡S16.8.21『特高月報』所収/『慧妙』H6?)
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 すなわち、当時の時局や人々の機を考えて、無用の反発を生むことのなきよう(中略)世間悉檀の上から衆生教化を目されていたことが明らかである。
 また、この往復書簡を通読すると、某師は日恭上人に、わざと「神本仏迹説は邪義」と言わせることに腐心していた形跡がうかがわれる。つまり、書簡は私信ではあっても、某師の裏には軍部が控えており、わずかでも不敬にあたる言説があれば、弾圧、ひいては宗門断絶の危険性があったということであり、日恭上人はこの罠にも似た策謀を、四悉檀を駆使して巧みにかわされているのである。
 こうした、日恭上人の筆舌に尽くせぬ御苦労があって、今日、我々が妙法を信受できるのであり、多くの民衆が成仏の境界を享受できるのである。
 後年、2代会長戸田城聖氏は、某師に向かい、
 「あなたの神本仏迹論を、深く謝罪しなさい。私に謝れとはいわん。御本尊様にお詫び申し上げるのです。そして、いまは亡き日恭猊下と、初代牧口会長の霊に謝るのです」(『人間革命』第6巻)
 と呵責したそうだが、大法を護持しぬかれた日恭上人を誹謗する学会こそ、この呵責を我が身に引き当て、真摯に受け止めるべきであろう。(『慧妙』H6?)

●顧(かえり)みるに法難の起こる時、必ず、外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発ありて其の端を発し、内(宗内)に世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒ありて、(内外の)両面より官憲の横暴を徴発(ちょうはつ)するの傾き多し。本篇に列する十余章(の法難も)皆、然らざるはなし(第59世日亨上人『富士宗学要集』第9巻247頁)
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[突喊]とっかん=@ときの声をあげること。 Aときの声をあげて、敵陣へ突き進むこと。(『大辞泉』)
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戦時下の国家弾圧において「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非信行の門徒」とは一体誰で「官憲の横暴を徴発」とは何でしょうか。すぐに思い浮かぶのが、牧口会長以下学会員達が神札焼却の強調や、四悉檀を無視した強引な罰論等に走ったことです。



【門外折伏・門内摂受】
(全国布教師・正説寺住職 早瀬義久御尊師『大白法』H20.4.16抜粋)

 「門外折伏・門内摂受」、皆様には聞き慣れない御言葉かと思います。
 この御言葉は、総本山第59世日亨上人が第9世日有上人の『化儀抄』121箇条を解説された折に、大聖人様の御教示をふまえて私たちの信心の在り方、姿勢を、一言に「門外折伏・門内摂受」と説かれたものであります。
 その元は、『化儀抄』第57条の、
●法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(けはい)の別名なるが故なり(聖典983頁)
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という、日有上人の御教示を敷衍(ふえん)されて「門外折伏・門内摂受」と説かれるのであります。
 門外、つまり宗門の外部に向かっては、勇猛果敢に折伏を進めなくてはいけない。
 対して門内、宗門内の僧俗間にあっては「法華宗の大綱の義理」、正しく仏法僧の三宝を崇めるということでありまして、仏宝として大聖人様を御本仏と仰ぐ、法宝として本門戒壇の大御本尊様を根本の御本尊と定める、そして僧宝として2祖日興上人以来血脈付法の御歴代上人を大聖人様の御代理として、その御指南を拝する。また、他の一切の宗教を邪宗邪義として捨てる。これが「法華宗の大綱の義理」ということであります。
 この「大綱の義理」に背かない限りは、広い心、寛容の心をもって、些細なことには目をつぶり、その人の長所、すばらしいところを敬い、励まし合い、異体同心の絆を固めていく。これを「門内摂受」と説かれるのであります。
 「摂受」、摂引容受という言葉を略したもので、摂は「おさめる、包み込む」という意味があります。仏法の根本に背かない限りは、相手に仮に誤りがあっても、それを許し、包み収めて少しずつ導いていく。



【国法遵守】
国法遵守は当然のことであり、大聖人も国法は遵守された。

●よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうことなく少欲知足にして慈悲有らん僧の経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば仏は一切の僧の中に吉第一の法師なりと讃められたり(『法華初心成仏抄』全集550頁〜)


<鎌倉時代>
大聖人の時代はどうであったかといえば、法論そのものを禁止する法律はなかったのです。だからこそ幕府は、大聖人に付すべき罪状に困り、種々の讒言(ざんげん)を用いることによって「世間の失」なき大聖人を処刑しようとしたのです。

●念仏者等此の由を聞きて、上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし(『妙法比丘尼御返事』全集1413頁)
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伊豆流罪は文応元年の国主諌暁を契機として起こった法難である。この流罪は、時の最高権力者が国法に則るのではなく「親の御心を知りて」「理不尽」に行ったものである。つまり仏法上は勿論、世法に照らしても違法な行為であった。

●然るに事しづまりぬれば、科(とが)なき事は恥づかしきかの故にほどなく召し返されしかども、故最明寺の入道殿も又早くかくれさせ給ひぬ(『立正安国論』御書1150頁)
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この「最明寺の入道」というのは北条時頼のことでありますが、つまり時頼は、全く失がないのに流罪(※伊豆流罪)にしたということに気が付いて、大聖人様を赦免されたということです。(第68世日如上人『大日蓮』H18.7)

●故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり(『聖人御難事』全集1190頁)
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「此の殿」とは北条時宗のこと。

●日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず(『清澄寺大衆中』全集893頁)

●我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし(『佐渡御書』全集958頁)

●法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御ぎやうさく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き(『頼基陳状』全集1157頁)
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貞永式目12条は「悪口は騒乱の元であるから口にしてはならない。これを犯す者は流罪および禁固の刑に処す」とあります。しかしこれは法論対決を否定するものではなかったのです。

●讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる(『種種御振舞御書』全集916頁)
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鎌倉時代は、折伏自体は国法に触れる行為ではなかったのです。だからこそ、邪宗の連中は、他の罪を捏造したのです。


<江戸時代>
1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。
 宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳(宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。(<エピソード高校日本史>WS070803)

1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸宗寺院法度を出しました。これは先の寺院法度を強化したもので、幕府は、各宗派ごとに、その本山・本寺の地位を公認し、本山・本寺に末寺を統制する権限を与えました。これを本山・末寺制度といいます。
 内容は、(1)各宗の法式を守る(2)寺院の住持の資格や本末関係を厳正にする(3)自由な布教活動や自由な法談は制限する(4)新寺建立やそのための勧進募財は制限する(5)寺格や僧侶の階位も細かく規定する(6)住職になるための修行年数や学問も定める、などとなっています。(同上)

◆日寛上人の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を斬られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。(『戸田城聖全集』第2巻452頁)
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死身弘法は当然ですが、国法を遵守し四悉檀や随方毘尼の上から、時代状況に適合した修行をすることもまた必要なのです。「大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し」(『富士宗学要集』第9巻30頁)といって北山が日俊上人を攻めたように、江戸時代は、法論そのものが国法に違反する行為だったのです。

●慈雲寺(※法華宗陣門派)のほとんどの檀家が富士派となり、その近辺の寺院にも驚く程の富士派信者がいたことを、寺の過去帳などによって突きとめることができた。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』64頁)
5●久保家子孫代々伝えまいらせ候。今日まで正宗の法華経唱え奉り候えども、藩の取締り堅固なれば思うままに信心致し難く、大石寺にまかり出る事なかなか至難に相なり候ば、ただひたすら襖(ふすま)の影より心ひそかに題目を唱え居り候。(久保専朴の遺言状・弘化3〈1846〉年/『金沢法難を尋ねて』)
身業は一往は国法に任すといえども、口意の二業は全く当山興尊の付弟と申し、無二信受の大賢人あり、名を池田宗信と云う(第32世日教上人『金沢法難を尋ねて』向敏子著37頁)
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金沢では、慈雲寺(法華宗陣門派)の僧、了妙が折伏を受けて富士派に改宗したことから享保11(1726)年、第1回の加賀藩の富士派信仰禁止令が出た。第5代藩主・綱紀の代には、法論に負けると潔く改宗を表明することが常識であったが、第6代藩主・吉徳の代には改宗は事実上厳禁となった。表面上は邪宗の檀徒として、葬儀などの法要を依頼する。しかし、隠れて御本尊を拝み折伏し登山もしていた。第32世日教上人は、身は国法に従わざるを得ない厳しい環境にあって、あらゆる困難を乗り越えた絶大なる信心を称讃されている。

●先年、岩田伝右衛門の調べの時、富土派一万二千人(寛政3〈1791〉年の記録)
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この当時の金沢の人口は10万人に満たなかったであろうから、藩禁制であるにもかかわらず、この数字は藩にとって脅威の的と写ったことは言うまでもなかった。事実野田山墓地を調査して見ると富士派の人々は本当に多いのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』91頁)当時は相当の信心がなければ御本尊の下附は叶わない時代であった。(中略)城下が寝静まる夜中に題目を唱え、壁をくり抜いて御本尊をお掛けして護り抜き、折伏に走った時代なのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』110頁〜)

6●かならず、かならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候て御供養候とも若信心なくば詮なき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。乃至・かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(第26世日寛上人著『松任治兵衛殿御返事』妙喜寺蔵)
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これは、第26世日寛上人が加賀信徒に与えられた御手紙の一節である。歴代上人の慈悲あふれる感動的な御手紙は多くの加賀信徒の中に代々語り伝えられてきたのである。(向敏子著『金沢法難を尋ねて』84頁〜)


<戦時下>
◆第7条 国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的して結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し(治安維持法=昭和16年改正/『牧口常三郎全集』第10巻444頁)
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戦時下は直接国家神道を破折すること自体が国法に触れる行為であったのです。

●昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為(中略)昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり(「創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状」/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)
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学会の大麻焼却は、当時の国法(治安維持法)に違反する行為であった。

●日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をまつっている伊勢の神宮の御神札は、明治以前は御師(おし)といわれる神職によって全国各地の家々に配布されていました。(中略)明治の御代になって、御師による配布は廃止され、御祓大麻は神宮大麻(じんぐうたいま)と名称が改まり、明治天皇の聖旨により政府事業として全国全戸に漏れなく配布されるようになりました。(<神社と神道>WS060311)

●(左の一編は小平芳平氏の記に依る)(中略)18年6月(※初旬)には、学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(中略)会長の応急策も已に遅し(『富士宗学要集』第9巻431頁)
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神札を焼却しなくとも謗法にはならない。↓

●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
●当時、全戸に配布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫52頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」にを納めていたのである。その意義から言えば、新入信者の神札等を、世相を無視して堂々と焼却する必要はまったくなかったといえる。会員の神札受け取りについても、金銭を支払って受け取るのであれば格別、当局が勝手に配布するのであれば、一応受け取り、捨て置くか寺院に納めるか、コッソリ焼却すればよかろう。

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
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これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。勿論これは、公然と神本仏迹論を主張し身延との合同を画策していた小笠原慈聞師への書簡であるから、このように述べられたのであろう。



【御遺命の達成と御法主の教導】
 広宣流布は絶対達成される―これは大聖人の弟子檀那の確信であり、大聖人の御指南である。また、大聖人は謗法厳誡と不惜身命の信心を強調されている。この点において、牧口会長は、謗法厳誡を貫くことによって必ず諸天の加護があると信じていたといえよう。確かに原則は、そのとおりである。しかし、よくよく大聖人の御書を拝してみれば、状況に応じた様々の御指南が存在するのである。それらを総合的に考慮し、弟子檀那の信心を擁護するために四悉檀を駆使して謗法厳誡と国法遵守の両立をはかる―これこそ広布達成時まで法体を護持し一宗を導かれる御法主上人の役割であり、そこには我々の想像を絶するほどの苦衷があったことであろう。
 牧口会長のように命を惜しまず謗法厳誡を貫くことは立派ではあるが、ある意味指導者としては楽である。が、そのようなことでは信徒の信心は守れないし、法体の護持そのものが危うくなる恐れすらあるのだ。世相を弁えずに突喊(とっかん)する信心は、決して大聖人の御意に沿う信心ではないのである。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されています。このように、大聖人御自身が、滅後の師匠を日興上人御一人に限定されたのです。たとえ、大聖人の直弟子であっても、大聖人御入滅後は、日興上人を師と仰がなければならないのです。時の貫首である日興上人を蔑ろにした「大聖人直結」などありえないことは、明らかです。

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
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後加文ではありません。御本尊書写の権能が唯授一人血脈相承の方に限るとされています。唯授一人の相承は大御本尊だけではなく、大聖人の御内証の伝授とともに、本尊書写の権能も含まれるのです。しかもそれは「塔中に直授せるなり」とあるように、上行菩薩への別付嘱に由来するのです。

●一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。(『日興跡条々事』御書1883頁)

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。


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唯授一人の血脈によって大聖人の内証が伝わるのであれば、敢然と国家権力に立ち向かっても血脈が断絶することはないのではないか。
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歴代上人は、内証(内心の悟り)は大聖人と一体であるが、外用は菩薩の位であり、自ずからその能力や振る舞いにおいて仏とはことなる。(<内証と外用>参照)

●殺生―下殺は螻蟻蚊蝱
     中殺は凡夫人及び前三果の聖人
     上殺は阿羅漢・辟支仏・菩薩・父母等十悪(『一代五時図』全集616頁)
●五逆―一殺父
     二殺母
     三殺阿羅漢
     四出仏身血
     五破和合僧(『一代五時図』全集616頁〜)
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「殺生」とは十悪の1つであるが、その中に仏は含まれない。「五逆」(五逆罪)は「5種の最も重い罪のこと」(『新版仏教哲学大辞典』初版)で「これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受ける」(同)という重罪であるが、「出仏身血」とあるのみで"殺仏"はない。すなわち、いかなる悪人であっても強大な国家権力をもってしても仏を殺害することはできないのである。これに対して菩薩方は殺害される可能性がある。御法主上人が御法の為に命を惜しむことなど有り得ないが、血脈の断絶だけは断固として避けなければならないのである。

◆牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。
 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。


●広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし(『諸法実相抄』全集1360頁)
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大聖人の如説修行の御指南と上記御指南から、牧口会長は単純に、身命を賭して折伏をすれば諸天の加護があり戦争にも勝つ、と考えたのであろう。しかし、大聖人の御書をよくよく拝すれば、状況に応じた様々な御指南があるのだ。当該御指南は、血脈付法の御法主方が、必ず状況に応じた適正な教導をなさることを前提とした御指南なのである。

◆邪宗の本尊は、人の命を食うことは知っているが、幸福にすることはできない。われわれがお山に行って、たった300円でお参りができるのは、もったいないことである。もし、小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら、何万円出しても拝することはできなかったであろう。(S28.3.1第2回鶴見支部総会『戸田城聖全集』第4巻20頁)
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"大御本尊は絶対に守られ広宣流布は絶対できる"と運命論的に安易に考えるのは誤りであろう。戸田会長は、「(大御本尊を)小笠原慈聞が身延へ売ったとしたら」と仰せであるが、この言葉には安易な運命論はない。"命懸けで拝めば何でもかなう"と思っている人もいるが、それほど単純ではない。大聖人が御在世中に国主を帰伏させられなかったのは何故か?『三大秘法抄』の他言を制止され、大御本尊の意義を公言されなかったのは何故か?日興上人が断腸の思いで大御本尊を奉持し身延を去られたのは何故か?自身の能力や客観的状況、弟子の機根等、すべてを総合的に判断して、道理に適った努力なくして願い(目的)は達成できないし、因縁がなければすぐにはかなわないのである。

●日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』全集1463頁)
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戦時下の宗門には、神本仏迹論を公言し身延との合同を画策する僧や、反対に世法を無視し宗熱に突喊(とっかん)する僧俗がいた。これでは宗門が一丸となって国家権力に対峙できなかったのも当然であろう。



【学会の矛盾】
<国交正常化後の中国や旧ソ連での弘教>
学会は、国交正常化後の中国や旧ソ連において、まったく布教できていません。それは何故でしょう?おそらくは、国家として信教の自由を認めていなかったからです。布教自体が国家によって禁止されていたからです。


<折伏放棄>
◆SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して(中略)対話し、その解決のために協力していく(SGI第20回総会・H7.10.17※<SOKAnet>WSによれば「H7.11.13」/『大白法』H15.10.16)
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「尊重」する「他の宗教」の中には神道も含まれるのであろう。戦時下の学会会長が池田大作だったら、不敬罪で投獄されることもなかったし、組織が壊滅することもなかったでしょう。(笑)

◆創価学会は平成6年2月、それまで対立関係にあった立正佼成会に和解≠申し入れ、「在家仏教団体の先輩である佼成会に教えを乞(こ)いたい。戒名の付け方等も教えてもらいたい」とまで媚(こ)びを売った。
 当時の大新聞はこのことを、政界への影響力を強めるための、創価学会の政治戦略として報じたが、事実、その後の学会は、支持拡大、票獲得のために、大聖人の謗法厳誡の御制誡を次々と破っていったのである。(『慧妙』H13.9.1)


<自由な時代に謗法容認>
●とくに理解に苦しむのは、小泉首相が毎年続けた靖国神社への参拝への対応だ。形ばかりの反対に終始したのはどうしたことか。
 公明党の支持母体である創価学会は、戦中の国家神道の時代に厳しい宗教弾圧を受け、会長が獄中死した歴史もある。靖国神社はその国家神道の中心的な施設だった。
 政教分離を定めた憲法に抵触する疑いもある。信仰の自由と並んでこの党がもっとも重んじる理念のはずだが、意外にあっさりと6度の参拝を受け止めた。(『朝日新聞』社説H18.9.19)
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池田学会には、国家諌暁の精神など皆無であることがよく分かります。

◆謗法払いについては、あくまで原則どおり、本人処分であることには変わりはありませんが、御本尊を安置するための絶対的前提条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、もっと幅広く、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません。(秋谷栄之助『聖教新聞』H9.2.11)
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「古い対象物」とは、邪宗の本尊などです。これを所持したまま曼陀羅を拝んでもよいというのです!信教の自由が保障された時代にこんな指導をする者に、戦時下の神札受け取り(形式的なもの)を批判する資格はありません。

◆もし宗教目的に賛同して、他宗の本尊や神体を信じて拝むのであれば、それは謗法です。しかし、町会や自治会の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加しても、信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません(秋谷栄之助『聖教新聞』H11.9.9)
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「他宗の本尊や神体を」「信じて拝むのでなけれは、謗法にはなりません」一体こんな御指南が御書にあるでしょうか?これでは、外見上何をやっても謗法になりません。

◆祭りにおいて、御輿を担がざるをえない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式等に立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことです。”一種の文化祭”と名付けた学者もいた。それをもって、ただちに謗法とは言えません。」(秋谷栄之助『聖教新闇』同日付)
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「御輿」の中には謗法の神体が入っており、これを担ぐことが謗法であることはいうまでもありません。

★四悉檀の上から化儀について一時的例外的に、本来の姿からの逸脱を容認する場合もありました。しかし、それは、国家の宗教政策や交通事情、宗門草創期など、弟子旦那の意思とは無関係の不可効力的な特殊な状況があったからです。しかも、化儀改変を決定されるのは血脈付法の御法主上人に限られることは、唯授一人の血脈を根本とする師弟相対の信心の上から当然のことです。信教の自由が認められた時代においてこそ、化儀は本来の姿のままに実践すべきはずです。それを、正当な理由もなく勝手に化儀を解釈し改変しておきながら、一方で日精上人や日恭上人を謗法だと詈る学会、これこそ御都合主義の最たるものであり、頭破作七分の現証としかいいようがありません。

<牧口学会の実態は>
・命を賭するという正の部分もあったが、世相を無視して宗熱に突喊した似非信行という負の部分もあった。→ただし、後の戸田会長の懺悔(下記◆)と功績に鑑み、歴代上人も、正の部分のみを強調されていた。

・大部分の会員は退転し、組織は壊滅状態に→牧口学会総体としては、退転という最も避けなければならない謗法を犯したといえる。


<池田学会と牧口会長との関係は>
・池田学会の主張する牧口像(謗法厳誡)が正しかったとしても、牧口会長の精神は池田学会には伝わっていません。(<摂受謗法路線>参照)→一般論としても正しい師匠についた弟子が異流義を構えたり、親の信心を子が受け継がない場合があります。

・従って、牧口会長を如何に宣揚しようとも、そのことをもって現在の池田学会を正当化することはできません。→残念でした。(笑)

●「先生・・・」
 戸田は数珠を手にしたまま、ふり仰いだが、あとは言葉にならなかった。彼は、堀米尊師の前に手をついて、無言のまま動かなかった。堀米尊師は、彼の傍によって、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。大御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米尊師は、もう片方の手を、その上に重ねた。2人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように堅く握りあった。
 2人のあいだには、語るべき多くのことが溢れていた。だが、あまりの懐かしさに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で堅く握っている手が、言葉以上の多くを語っていた。
 堀米尊師は、戦時下、総本山の中枢であり、宗門の矢面に立って戦ってこられたのである。特に、国家権力に対峙する一切の衝にあたり、骨身を砕いてきていた。
 戸田城聖は、学会の要として、あらゆる苦難を一身にあびてきていた。そして、弾圧の2年の歳月は、2人をまったく隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、助けあい、呼びあう2人を、みるみる遠ざけてしまった。流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた
 後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、2人いたというだろう。1人は、日蓮大聖人の法水を、微塵も汚すことなく護りきった、総本山側の堀米尊師、もう1人は、最大の講中である創価教育学会側の戸田城聖その人である―と。(中略)
〈※堀米尊師〉「戸田さん、いつ?・・・」
〈※戸田〉「おとといの夜、やっと保釈になりました」(中略)
「この戸田の生きているかぎり、断じて御本山を安泰にお護り申しあげます。ご心配くださいますな。ただ、出獄後、まだ事業の見とおしも得ませんので、しばらくの猶予をおねがいいたします。」
 僧俗一体の実は、2年ぶりで回復したのである。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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 戸田会長自身が「(堀米尊師が)日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」と言っている。当然、「法水」とは唯授一人の血脈のことであり、池田学会が謗法を犯したと口汚く詈る日恭上人所持の法水のことである。ここでは一応堀米尊師のみが「宗門の矢面に立って戦って」こられたように述べているが、結局は御法主を初めとする宗門首脳の指示のもと行動されたのであり、あるときには御法主(日恭上人)自ら、当局に足を運び「(身延との)合同不承知」を宣言されたこともある。「国家権力に対峙する一切の衝」の内容は、池田学会が誹謗する神札の件、観念文の件等も含まれると考えるべきである。これら一切の宗門側の対応について戸田会長は「日蓮大聖人の法水を、、微塵も汚すことなく護りきった」といっているのである。
 尚、「(※戸田)おとといの夜、やっと保釈になりました」とあることから、保釈後、初めて宗門御僧侶に面会したのが、このときの会話であることが推測される。実は、このとき戸田氏は、日淳上人に戦時中に僧侶誹謗の罪を懺悔していたという証言がある(下記●)。「流れのうえには、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた」とは、このことを婉曲的に述べたものだろう。

◆堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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日淳上人誹謗を懺悔。仏法上、心から懺悔すれば罪障を消滅することができる。このことと、戦後の戸田会長の折伏活動および唯授一人の血脈に対する絶対的尊信の念(<戸田城聖の実像>参照)より、歴代上人は牧口会長に対しても正の部分を強調した讃歎の言を残されたといえよう。日亨上人が戦時下の学会弾圧を法難として賞賛されたのもその表れか。ただし、一般論としては、「世相を無視」(上記4●)し「官憲の横暴を徴発」(同)するような「似非信行の門徒」(同)が存在したとし、暗に学会を批判されている。

●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)






日淳上人の神道観
(<法蔵>H19.7.15)

【『誤ることなかれ』】
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 神道に於て神社神道宗派神道との二流があつて、前者は祖神崇敬を中心とし、後者は神道を宗教として立てるところに両者は全く趣を異にするといふのが学者の定説である。然るに近時神道家の間に神社神道を宗教的たらしめやうとする運動が擡頭(たいとう)しつつあるやうである。此は今日の国体精神の復興に刺激せられ国粋的純情の自然の趨勢(すうせい)として起り来るもの敢へて怪しむに足らぬところであつて、一般世人も暗々裡にかくの如き傾向にあるといへる。
 此れ等の所論に従へば日本は神国であり、世界無比の国である。然るに他国より輸入せられた神仏を崇敬して膝を屈するは恥辱であり、国体観念の混乱はこのことによつて醞醸される。苛(いやしく)も文化が他国と同等若くはそれ以上に達したる現在何を苦(ママ)んで他国の神仏を崇める必要があるか宜しく此等を排撃して神道に帰すべきであるといひ、而して此のために神道も此れ等の所依となるべく宗教的にならねばならぬといふ。而して又神道を宗教たらしむることの合理的なるについては神道は本来国家的倫理的宗教的の三つの要素を包含してをる。それ故此の宗教的要素を高揚して宗教とするも毫(ごう)も差支へなく当然であるといふ。
 此れについて吾人は前の他国の神仏を崇敬するを止めんとするは別途の意義もあり大いに賛するところである。由来かかる他国の神仏を立つることは往昔我が国文化が劣つてをつた時他国文化を崇拝するあまりに起つたことである。勿論此れは人情の然らしむるところ、今更とかくいふ必要もないが今日我が国が世界のどの国にも遜色なき文化をもち、しかも真の面目を宣揚して世界を導かんとする時に当って過去の残滓(ざんし)たるものを清掃して自家の天地を自覚し、決然立つべき時に於ては当然執(と)られねばならぬ処置である。このことはけつして感情上の議論ではなく、純粋理性の上から他国の神仏を批判する時到達するところなのである。
 しかし乍(なが)ら一方論者のいふ神社神道を宗教たらしめんとすることには一言しなければならぬと思惟する。神道が三つの要素を包含してをるが故に宗教たらしむることは差支へないといふは一往もっともの如くである。しかし乍ら此れは祖神を立つるところに自ら三要素が具足するのであつて宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。然るにその宗教的要素の高揚は必らず宗教的なる辺に神道を立つるといふことに結果する。若し然れば今日の宗派神道と何等撰ぶところがなくなるのである。祖神を立つるところ宗教的であるといふのと、宗教的なる辺に立つるといふのとは大した差違もなく考へられるが、しかしその結果より見る時大変な相違がある。而してこのことは神道の根本義を破壊するものである。
 神道が宗教として立てられることは宗派神道に見られる。而し此等がその教義を徹底して窮極(きゅうきょく)するときどうであるか。大概は神道の根本義たる祭政一致を没却し直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。このことは大事が中の大事である。
 西洋の神なるものは造化神であるかまた祖神なることに違いはない。彼等は此の神を宗教の上に信ずるがため、此れに影響せられて皆悪平等に堕するのである。その結果はどうであるかといへば西洋史の上に現はれてをる。今神道を宗教たらしむることは此の弊を踏襲することに他ならぬ。
 神道に於ては祖神を崇敬するところに宗教的要素があるのであつて、宗教的なるところに神道を立てないのが根本でなければならない。此の限界は一見不分明であるが、もつとも戒心すべきところである。(第65世日淳上人『大日蓮』S11.8/『日淳上人全集』136頁〜)
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【『神道の限界性に就いて』】
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 最近神道側から神社を以て宗教となし、之れを国教とせよといふ声が頻(しき)りに伝へられる。而してその論ずるところは神社以外の一切の宗教は非国家的であつて国体観念を破壊する誘引とこそなれ、豪(ごう)も涵養(かんよう)するものでないが、神社は国体の表現そのものであり、神人合一にこそ国家人としての体現があるとし、従来神道は教典を有せず三世を説かない等宗教としての要素を具備しないといはれるがけつして此見解が当つてをるものでないといふ。而して或は又神社は倫理的宗教的国家的の要素の上にあるものであるから宗教的面の高揚は少しも不都合でないとして主張するが如くである。
 宗教を国家の上から批判してその適合性によつて正邪を判断することは正当なことであり、日蓮大聖人は五綱の教判即ち教、機、時、国、教法流布の前後の五箇条を基準として宗教の正邪を判定なされてあるが此のうち国判がそれである。大聖人はこの国判によつて他一切の宗教は吾が国体に不適合であると断定せられてをる。神道側の主張は別な意味からではあるが国家を基準としてなさるゝ点は同じであり此は正当なことである。
 実際この国家を基準として現在行はるゝ宗教を見るとき吾が国体に適合するものはない。此点からいつて此等の宗教は否定されなければならない。或は此れに対して非常時に於て和を破ぶるが如き極論は避くべきでありといふものもあり、或は今日迄此等の宗教を信仰せるものの中にも日本精神を発揮せしものもあつたといふ理由をもつて抗議せんとするものもある様である。而し此等は誠に不徹底な言であつて非常時なるが故に国体に不適合なものは整理されねばならないしまたそれ等の宗教のうちに日本精神を発揮したものがあるといふもそれはそれ等の教法によつて体達されたものでなく天性の然らしめたのに他ならない。
 以上の理由によつて神道が宗教たり国教たらねばならぬといふことは一応首肯し得られやう。若しそのため必要ならば宗教的要素を補足するも可なりであつて、それは一切の宗教に於て見らるゝところであるから少しも差支へない。しかし乍ら神社を宗教たらしめた結果はどうなるであらうか。論者のいふ如く宗教として神人合一を庶幾(しょき)しその体現の上はどうなるであらうか。この事を考へる時到底此れ等の説を首肯することができない。神人合一の体現は必然的に世間法を混乱に導くことになる。今日不敬事件をもつて摘発を受けた宗教は皆神道に属するもののみである。その禍因(かいん)は他にもあらうが吾人は神道を宗教として信仰し、神人合一の結果当然堕入る結果が不敬となるものと思惟する。此ことは世間の識者に充分なる考慮を煩はさねばならぬところと思ふ。恰(あたか)も西洋の神なるものは造化神であるが祖先であることに相違はない、而して此れを宗教神として崇めるとき一切の人は平等であるといふ悪平等の思想が胚胎するその結果はどうであるか、西洋神が如実に之れを物語てをる。西洋の思想が基督教を産み出したといふも基督教が西洋思想を生み出したといふも結局同じことであつて危険なることに変りはない。
 考へてこゝにいたれば神社宗教論は国粋的純情のしからしむるところとしてその心情の辺は一応理解する事はできるが、その結果よりいつて到底賛ずる事はできない。神社はあくまで祖廟(そびょう)として世間法に属してその上に出世間法に跨(またがる)るものとしての立場を厳守しなければならない。それが神道の姿であり、本来の使命であつて此の範(のり)を超す時その面目を失ふ事になり弊害を醸(かも)すことになるであろう。(第65世日淳上人『大日蓮』S12.7/『日淳上人全集』164頁〜)
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【神社神道と宗派神道】
<神社神道>
[神社神道]
……祖神崇敬を中心とする。祖神を立つるところに自ら3要素(国家的倫理的宗教的)が具足するのであって宗教的の上に神があるのではない。此れが神道の根本義である。(日淳上人)
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「祖神崇敬を中心とする」「国家的」というから、これは国家神道のことである。

●宗旨の信仰は全部か否かにおいて意義をなす。而して体系は本尊が根源であり全部である。依て本尊を同じうするか否か此れに於て一切を決して破邪顕正論争をつくさねばならぬ。(第65世日淳上人『日淳上人全集』119頁)
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宗教は本尊をもって根幹とする。本尊とは「信仰者が供養し、礼拝・祈祷し、生命を委ねる対境」(『大白法』)である。日淳上人が神社神道を宗教でないとされた理由は、まさにこの点―個人の幸不幸に関わる本尊の有無―にあったといえよう。

◆国家神道(こっかしんとう)とは明治から大東亜戦争(太平洋戦争)の終戦までの間に日本政府の政策により成立していた国家宗教、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道」・「神社神道」とも、また単に「神社」とも称した。(<Wikipedia>070712)

◆「国家神道」を宗教では無いとする説と宗教であるとする説がある。非宗教説は、敬神を国民の義務とし、この義務は道徳の範疇にあるので、敬神は宗教では無いとする説である。(<Wikipedia>070712)


<宗派神道>
[宗派神道]
……神道を宗教として立てる。直接祭祀のことをなすが故に神の啓示は教祖教主が或は自己にありと信じ必然的に世間法の混乱錯雑を誘引するにいたる。(日淳上人)



【日恭上人】
●畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬12月12日伊勢神宮に御親拝と拝承し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等国民の齊(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。(第62世日恭上人=報国団結成の「祈願文」S18.1.15)
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日恭上人も国家神道の祖神崇敬自体については一往容認されていた。天皇がその祖先を崇敬すること自体は、仏教の教えにも適っている。

●當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候(第62世日恭上人『特高月報』/『慧妙』H6?)
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これは、第62世日恭上人が小笠原慈聞師に宛てた書簡である。「大聖人を本仏として人本尊と仰ぐ」ことは「第一義の法門」であると断言されている。しかし、これを公言して神本仏迹論を否定することになれば「不敬に渡る事故言ふべからざる事」と仰せである。天皇の祖先を神と仰ぐ国家神道としては、神を仏の垂迹とする法門は受け入れられない。よって世間悉檀(世界悉檀)の上から、本地垂迹説の主張を控えられたものと拝する。



【牧口会長】
◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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「無条件で敬神崇祖」とは国家神道の教えである。ここに牧口会長が国家神道を容認していたことは明らかである。「神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない」とは、日淳上人が「宗教的の上に神があるのではない」として国家神道を容認された主張を参考にしたものか。それにしても、「神社は感謝の対象」「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とは言い過ぎではないか。


日淳上人は神道を「神社神道」と「宗派神道」に分類し、前者は宗教的でないとして容認し、後者は邪宗教として排斥された。国家神道とは、天皇及びその祖先を神として敬うという理念(イデオロギー)であり、個人の具体的な幸不幸に関わる教義や祈念の対象としての本尊を持たない。その意味で宗教ではないのであり、その限りにおいて容認される。それに対して宗派神道は本尊(神体?)を持ち、それを信じることによって個人の幸不幸に関与する。だから邪宗教として破折排撃されるべきである。日恭上人を初めとする戦時下の宗門は、世間悉檀の上から、このような方針で国家神道に臨まれたものと拝する。







御書の削除
(『慧妙』H15.1.1ほか)

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院第二一七七号
昭和十六年八月二十四日 日蓮正宗宗務院
宗内教師殿
 今般上老会議ノ協議ヲ経テ参議會ニ諮問ノ上左記ノ條項決定候條御了知相成度候
        記
一 御書刊行ニ関スル件
 宗祖日蓮大聖人ノ御書ハ鎌倉時代ノ国情ノ下ニ御述作遊バサレシ為現下ノ社会ノ情勢ニ於テハ却ツテ宗祖大聖人ノ尊皇護国ノ御精神ヲ誤解スル者アルニ鑑ミ御書全集ノ刊行ハ今後禁止致シ本宗依用ノ祖書要典ヲ新ニ発行スルコト
二 垂迹説ニ関スル件
 本地垂迹ハ一般仏教ノ通途ノ説ニシテ宗祖已来日本国所立ノ仏法トシテ任ジタル本宗ハ第一義ニ於テ依用セザリシハ勿論ナレドモ方今世上ノ論議ニ顧ミ一層此点ニ留意徹底セシムベキコト
以上
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(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
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宗門は、すでに昭和16年8月24日に「日蓮正宗宗務院」名で、「宗内教師」に対し御書全集の刊行を禁ずる院達を出し、本地垂迹説の使用自粛を通達しました。

 昭和16年9月29日日付「学第八号」。この公式文書の中で、宗門は、大聖人の御書の字句を14箇所にわたって削除することを要請しました。「宗務院教学部長」名で、「教師住職教会主管者宗教結社代表者」宛に『祖文纂要(そもんさんよう=52世日霑上人編纂(へんさん)の御書要文集)』の中から本地垂迹(ほんちすいじゃく)説に関する14ヵ所の字句を削除することを発表。
 「此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり天神七代地神五代人王九十代の神と王すら猶釈迦仏の所従なり何に況や其の神と王との眷属をや」
 「太政入道隠岐の法皇等の亡び給ひしは是れなり此れは其れには似るべくもなし、教主釈尊の御使いなれば天照太神正八幡宮も頭を傾け手を合わせて地に伏し給ふべきことなり」
などのように国家神道を慮ってのものであった。だが、なかには、
 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」
という、日蓮大聖人が末法の御本仏としてのお立場を示されたものもあった。
 国家神道では絶対的存在とされる天照大神や国主を「小神」「仏の所従」と表現されている部分を削除し、当時の教学部通達で、「法話講演等ニ引用セザルコト」と、一切の使用・言及を厳禁した。
 これらの所業は、弾圧を恐れて、大聖人が御本仏であることを否定した、ということに他ならない。
 宗門は、この御書の削除をおこなった時点で、宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人に連なる仏弟子としての資格をみずから放擲してしまったといえる。
『地涌』第670号ほか)
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 まず御書の件とは、昭和16年8月、及び9月に、宗務院より御書全集(※準備中のもの)の刊行禁止と、それに代わり祖書要典を使用する件、また祖文纂要中の14書につき、部分的に字句の使用を控えるよう通達を行った件である。
 これらのうち、御書全集の刊行禁止については、宗務院通達中の「上老会議ノ協議ヲ経テ参議会ニ諮問ノ上左記ノ条項決定候」の文に注目しなければならない。すなわち、昭和16年の時点においては、宗門には、59世日亨上人、60世日開上人、61世日隆上人の三御隠尊猊下がおられた。まして御書全集刊行禁止など御書の件に関しては、日亨上人が学匠として権威をお持ちであり、当然、当局の命令を受け、かかる決定を御裁可なされたものと拝される。また祖文纂要中の御書要文14箇所についての文字削除についても、時局を鑑みた止むを得ざる決定であり、祖文纂要を再編纂する形をもって、当局の文字削除命令に応えるという、苦肉の策が拝せられるのである。これとても御隠尊並びに御当職日恭上人をはじめ、上老会議・参議会等、当時の宗門中枢の方々の決定であり、また、この具体的な文の削除に関する指導決定は日亨上人がなされたのである。(『離脱僧らの再度の邪難を破す』/『大白法』H14.9.1)
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 御書全集の刊行を停止し、御書の字句削除を発表した理由は、当時の国情により、誤解・反発を招かぬように、との配慮にすぎない。
 また、刊行を停止し字句を削除するといっても、「時代に適さぬから不要」としたのでもなければ、「御金言の内容を否定」したのでもない。法難を引き起こす口実を与えないよう、このように発表されたものである。
 なお、削除の対象とされた箇処は、一般的な本地垂迹説の説かれた箇処や、皇室が臣下に成敗された箇処などであり、日蓮大聖人の仏法の本質とはあまり関係のない部分ばかりである。
 創価学会が言い掛かりを付けている、「日蓮大聖人が末法の御本仏としての確信を述べられた」という『聖人知三世事』の箇処は、他の部分と同様に、神祇(じんぎ)観に関連することが説かれているから対象となったのであって、何も「御本仏としての確信」を否定したわけでも何でもない。
 事実、『撰時抄』の「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」の御文や、「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」等の、御本仏としての御確信を説かれている御文は、削除の対象には入っていないのである。
 また、この「削除通達」が、本当に本宗の僧俗によって実行されたのか、どうかも、現在ではわからない。
 というのも、冨士学林図書館に所蔵されている『祖文纂要』には、削除の痕跡(こんせき)など全く認められないからである。
 このことから推測すれば、他の僧俗においても、実際に削除を行なった人はまずいなかったであろう、と考えられる。
 つまり、この「院達」は、軍部の圧力を回避するための一時的な方便として、形どおり発表したにすぎないものであった、といえよう。(『慧妙』H15.1.1)

[画像]:昭和16年8月24日付「院第二一七七号」

[画像]:昭和16年9月29日付「学第八号」
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