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創価学会破折
指導者の実像



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池田大作の実像
池田の履歴書

「大阪事件」の真相/『フォーラム21』H14.7.1『慧妙』H15.10.16

池田は「仏法西還」の先駆にあらず/『慧妙』H16.4.1
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池田大作の思想と人格

仰天スピーチの証拠と『聖教』改ざん報道/『慧妙』H18.11.1

「アメリカSGI&関西合同総会」で見せた奇行/『慧妙』H18.8.1

池田大作の実像を検証する/『慧妙』H16.8.16

直訴の青年に周章狼狽/『慧妙』H15.12.1

人々の「福運」奪う暗黒の魔王/『慧妙』H18.2.1

幼児の顔に落書き/『慧妙』H18.9.1

会員と宗門からダブル搾取/『慧妙』H18.2.1

独善性と人間不信/『慧妙』H16.1.1

恋文に認めたお粗末な「詩」/『慧妙』H16.3.16・H16.4.1・H16.5.16
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戸田城聖の実像
大御本尊と血脈信じたが、正見・正念見失うことも/『慧妙』H18.4.1

戦時下の国家諌暁について/<法蔵>H18.11.25
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牧口常三郎の実像
関連年表

戦争観

異流義めざした牧口氏/『慧妙』H18.4.1

『価値論』の本末顛倒(てんとう)と日淳上人への誹謗/『慧妙』H18.3.1



池田大作の実像

■池田大作の「履歴書」

【幼少期】
●生れは大森のノリ屋です。3歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。小学校では栄養不良で3・4回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には6回目の肋膜をしていましたし、肛門(コウモンネンマクビラン)性のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰がでてたんです。(池田発言/小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年57頁)
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池田は昭和22年8月の入信だが、戸田は学会を戦後再発足させた後、早い時期に宗教学者の調査を受け入れ、池田にもインタビューに答えさせている(『フォーラム21』H14.7.1)。

●「子之吉さんの家族は、大森(現・東京都大田区大森北)の池田本家が所有する"学校に似た木造2階建て"の海苔作業場(現・大田区東糀谷)に仮住まいのような感じで暮らしていました」池田大作さんの幼少期を知る深沢さん(年上の女性)はそう語る。太作少年(1953年25歳のとき大作へ改名)の父・子之吉さんと母・一(いち)さんの間には8人の子がいた。太作さんは5番目である。貧しかった。(『フォーラム21』H15.1.1)

●子之吉さんは太作少年が尋常小学校2年生のとき(1935年)、リューマチで寝込むようになってしまった。おまけに、ほどなく「池田様」と呼ばれていた本家の海苔づくりが傾き、これに依存していた子之吉さんの家族は極貧に陥った。子之吉さんは寡黙かつ強情だった。彼を知る女性が「(妻の一さんとは)別の人に手を出し子どもを産ませてしまった」と話す。(『フォーラム21』H15.1.1)

●昭和17年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は4組にいました。彼はとにかく印象のない男だったね。勉強も目立たないし、身体も強くない。それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものですよ(小学校時代の同級生『週刊新潮』H15.12.18)



【青年期】
―右翼との接点―
●「私たち(10人余りの読書仲間=郷友会、太作は少し遅れて参加)は須山さんからもいろんなことを学んだ。須山さんの影響をかなり強く受けました」「須山秀吉さんです。私たちの中心は6歳年上の須山さんでした。笹川良一や藤吉雄(蒲田区選出都議)につながる右翼です。笹川の国粋会の青年隊長をしていたこともあります。須山さんの机の上にはいつもヒトラーの『わが闘争』が置いてありました」「戦前の右翼活動や反共思想です。池田は須山さんによって政治を知ったんだ。後に参院選(1956年)で大阪へ行き、選挙違反をやって逮捕されたりしましたね。あのとき、池田の頭の中には須山さんの話があったと思うよ。須山さんは常々『選挙ではブタ箱に入る覚悟でなりふり構わず猛然とやらなかったら勝てない。勝つか負けるかだ』と言っていた」「学会に入った池田は『おれはやるぞ、絶対やるぞ、生涯かけて名が出るようにするぞ』なんて言ってたなあ。で、おれは笑ってしまった。」(東京都大田区在住20歳前後の太作の読書仲間/『フォーラム21』H15.1.1)

●太作の頭には「須山さん」もまた強く刻印されたのではないか。 池田大作さんの背後の闇にはいつも笹川良一や児玉誉士夫がいた。たとえば76年から83年の月刊ペン・言論弾圧事件の裁判過程で池田さんたちによる笹川良一へのモミ消し工作が発覚している。児玉誉士夫との関係は政財界の裏舞台を徘徊していた塚本素山(学会顧問)を介して始まり、児玉がロッキード事件で転倒するまで続いている。(野田峯雄『フォーラム21』H15.1.1)



【入信神話(戸田との運命的出会い)】
池田はのちにこれを実に見事なまでに改竄(かいざん)する。入信神話こそ、池田の嘘(うそ)の出発点、典型といって決して過言ではあるまい。(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』)
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昭和22年8月14日、池田大作氏は、小学校時代の同級生に誘われ、東京都大田区蒲田にある三宅穣(ゆたか)氏宅で行われていた創価学会の座談会に出席した。その座談会で戸田氏と運命的な出会いをして入信を決意。その喜びを即興の詩に託して読んだという。

◆この日、この運命の師と会ったことが、私の生涯を方向づけることになったのであるが、その時は知るべくもなかった。ただ、初対面ながらも不思議に親しみの情がわき上がってくるのを禁じえなかった。講義と質問への応答が一段落すると、戸田先生は微笑しながら「幾つになったね」と尋ねられた。仁丹をかみ、たばこもふかしておられた。19歳ということを耳にして、ご自身も故郷の北海道から東京へ初めて上京した時もそんな年ごろだったと懐かしげに語られる。
 私は教えていただきたい、と質問をした。「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」この3点であった。簡明直截な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。「これだ!」と思った。この人のいっていることは本当だ!
 私は、この人なら信じられる、と思った(池田大作『私の履歴書』)

◆私は、なにかしらうれしかった。その日、自分の所懐を即興の詩に託して誦した。
 旅人よ いづこより来り いづこへ往かんとするか 月はしずみぬ 日は いまだ昇らず 夜明け前の混沌に 光 もとめて……(池田大作『私の履歴書』)
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●いま創価学会で言われているような、池田と戸田先生の伝説的な出会いはそこではありませんでした。
 『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、"今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい"と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした。(三宅妙子『週刊新潮』H15.12.18)
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三宅妙子さんの父親は地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。池田が入信を決意したという座談会場こそ、彼女の自宅だったのである。

●学校時代の友人にさそわれて創価学会の本部へいきました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。私は友人と2人で行ったのですが3、40人もいたでしょうか。5時間くらいもそこで締めあげられたのです。南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわってしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような感じがしたんです。そのときの話というのはこうなんです。「これから先のこと、20年先のことがわかるか。これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるがそれならば今のうちに考えたらいいではないか。自分の宿命は自分でも知らないではないか。誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。この4つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ」というのです、私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていました。それから御本尊をお下げするという話で、私は30分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました。
 家に帰っても3日間おがまずにほっておきました。3日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校をでて蒲田に勤めて出張していたときのことです。それからは、おがみはじめるとなんとなく1日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。それから1年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。2年目に「立正安国論」の講義を聞いてから、よし、よい勉強しようと考えるようになりました。3年目の8月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくてしかたなかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。14、5人の研究会の仲間からもやられました。そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい、という願いをして御題目を60万遍唱えることにしました。逃れなければやめようと思っていたのです。それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。私の体験は3年だけです。信仰しなかったならば23くらいで死んだだろうといわれています。信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。わたしは今それから6年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。(池田発言/小口偉一編『新心理学講座4 宗教と信仰の心理学』河出書房、1956年57−59頁)
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池田は昭和30年ころ、宗教学者のインタビューに答えて、入信前の心理や座談会の模様、入信までの経緯や信者としての生活等を語っている(中略)インタビューでの池田の回答は、いくつかの細かな事項が、一般に行われている説と相違するが、宗教学者・日隈威徳(ひぐまたけのり)はもっとも事実に近く、かなり率直なものと見ることができるとしており、少なくとも池田の当時のいつわらぬ心境を察知するには十分である(池田に関する資料は発表年時の古いものほど、ことに会長就任前のものほど、信憑性が高いといえる)。(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』)

●私が信仰したのは、丁度今から10年前の8月24日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった2階の8畳と6畳の2間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです(池田大作『聖教新聞』S32.10.18/『フォーラム21』H15.1.1)

★池田は会場を本部から(蒲田の)友人宅に、折伏時の雰囲気、心理等を変更した。が、より重要なことは対者を、小平芳平から戸田にすり替えたことである。


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 『慧妙』は名誉会長が『人間革命』で入信の状況を脚色したとか、三宅家の座談会に戸田先生は出席していないとか、即興詩を詠んだのは嘘だとか、言いたい放題の悪口を書き殴っている。
 だが、森田一哉前理事長は「新来者として来ていた池田青年が戸田先生の前で即興詩を詠んだ場にいました」と証言。そして「随分、変わった青年がいるなあ、と感心したことを覚えています」と述べていた。
 それに何より、最新号の『慧妙』で「当時、戸田会長が『立正安国論』講義を行なっていたのは『毎月の第1日曜日だった』(竜年光)ということだから、やはり、この日に池田が戸田先生の講義を聞いた、などという事実はない」と紙面に登場する竜年光自身が「私と創価学会の歴史」と題し、次の通り書いていた。

◆昭和22年の8月下旬、都内で、戸田先生を囲んでの座談会が開かれた。その席で1人の若い青年が真剣な表情で戸田先生に2、3の質問をしたあと、その時の心境を詩に託して朗々と読み上げたのである。私はその場にいて、あっけにとられてしまった。その青年こそ、現会長池田先生だったのである(『聖教新聞』S50.3.12)
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このように明確に戸田先生と池田青年との出会い、池田青年が即興詩を詠んだ事実、そこには何らの脚色もないことを記しているではないか!(『フェイク』第504号=04.03.28/sf:5724)
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 『フェイク』が持ち出してきた龍氏の"証言"というものは、日付も暖昧(あいまい)で、かなり記憶があやふやに見えます(それもそのはず、この"証言"なるものは昭和50年当時の文で、池田入信の頃から27年以上も経っているのですから、記憶が暖昧で当然です)。
 また、森田の"証言"とやらにしても、すでに池田が入信神話を語った後に、学会内に「それは事実ではない」などと"証言"できる者がいるはずがありません。どうやら、せっかくの反論も、空振りだったようです。(『慧妙』H16.4.1)



【日本正学館入社の"真相"】
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 山平(忠平)は戸田に言った。
 「先生、山本伸一君です」
 「わかっている」
 山本伸一は、だまって履歴書を提出した。やや長い睫(まつげ)が、影を落とし、まだ少年らしい面影を残している。
 戸田は、ていねいに履歴書をひろげ、仔細にじっと眼を注いでいた。(中略)やがて顔をあげると、微笑みながら山本をじっと見つめ、一言、こう言っただけである。
 「頑張るか」
 山本伸一は、間髪を入れず答えた。
 「はい。おねがいいたします」
 一瞬の気合いであった。決定的な瞬間である。時はすでに熟していたのだ。……1年前、戸田と邂逅(かいこう)したあの夏の夜……山本伸一が予感したことは、避けがたく、いま現実となって、立ち至ったのである。
(『人間革命』第3巻)
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戸田会長との"運命の糸"の強さを強調し、"どこの、誰の世話にならずとも、2人は出会い、師弟の契りを結ぶ運命にあったのだ"と思わせ、池田が入信当初から不思議な因縁の人物であったかのように脚色しているのがよくわかる。

"鳴かず飛ばず"の信心だった池田大作を、戸田先生の日本正学館に連れていき、就職を斡旋(あっせん)したのは私の母でした。それまで池田は、蒲田工業会という小さなところに勤めていたんですが、私の母が「辞めたほうがいいんじゃないの」と声をかけて。
 私の家は、戸田先生とはずいぶん懇意(こんい)にさせていただきました。目黒区白金の戸田先生のお宅にも、何回もおじゃましたし、先生の事業などにも協力させていただきました。そんな関係から、池田のことも気安く頼むことができたのだと思います。
 けれど、それに対する感謝の言葉を、池田から聞いた覚えは、1度もありません。(三宅妙子『慧妙』H16.4.1)
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三宅妙子さんの父親は地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。池田が入信を決意したという座談会場こそ、彼女の自宅だったのである。さらに、彼女は、池田の片思いの相手でもあった。(<恋文に認めたお粗末な「詩」>参照)



【貸し金業】
<「金集め」に腐心した青春時代>
 池田大作は第2代会長・戸田城聖がやっていた金貸し業の社員出身である。彼は1949年(昭和24年)1月、21歳になったばかりのとき、戸田の経営する出版業「日本正学館」に「小僧から入った」が、同社はその年10月には倒産、同時に、池田は戸田が専務理事をつとめる小口金融「東京建設信用組合」の社員に移動した。
 「重苦しい中を、仕事のことで、部長と、O学園にゆく。またO第一小学校に回る」(50年5月10日『若き日の日記』1)
 池田は戦前の創価教育学会員や、個人的な知り合いなど、誰彼問わず訪ねては、カネを貸すよう頼み回った。信用組合は取り立てにからんで、刑事事件までひき起こしていた。
 50年8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家として致命的に敗れた。組合法違反に問われ、債権者からは告訴されるハメに陥る。そのため戸田は創価学会理事長の椅子を去り、後任を矢島周平(後に大宮・正因寺住職=故人)に譲って夏期講習会にも出られず、一時は城聖の名を城外と変え、雲がくれした。
 だが、戸田も一筋縄ではいく男ではない。いつ起訴されるかもしれない身にもかかわらず、裏では同じく小口金融の「大蔵商事」を用意していた。同社の初代代表役員は矢島周平(2代は和泉覚)だったが、実権は専務理事の森重紀美子、それに戸田自身が握った。森重は公然とした戸田の愛人である。池田は直接の上司である奥山和平が責任をとって去ったため、50年11月に営業部長に昇格した。(『フォーラム21』H15.1.1)

●ちょっと池田大作のことを調べたことがありましてね。そうしたら、かなりひどいことをやってるんですよ。池田大作は青年部にいた前、財務を担当してたんですね。そこで高利貸しをやってたんですよ。それで、苦しい商店街とかあるでしょ?そこに金を貸して、返せなくなると、即刻、土地を担保に取っちゃうんですよ(脚本家・笠原和夫『昭和の劇』太田出版/佐高信『噂の真相』H15.4)
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取った後に、新しい職を見つけてやったり、店を開かせたりして学会に取り込んでいく。池田より1歳上で、観念だけでは生きられないという同じ戦後的人聞の笠原は、それを「偉い」と思って映画化しようとしたがダメだった。(佐高信『噂の真相』H15.4)

●戸田城聖第2代会長は金の面は自分で何とかしようとして、大蔵商事など金貸しや信用金庫などを随分とやったんです。その尻拭いと言うか、酷な言い方をすれば金貸しの手代をしていたのが池田大作です。彼も当初は好きでやっていたわけではないと思うのですよ。しかし、彼には才能があったようで、池田が"ここ金あるよ"という家には、見た目は貧乏な家でも必ず金があった、ということを古参の幹部から聞きました。逆に門構えの立派な家の前で"ここはどうだ?"なんて聞いても、池田が"ここにはない"と言えば、その通りだったそうです。(小川頼宣=創価学会本部元広報部副部長『週刊新潮』H15.12.18)

●要するに、観念でもって今さら宗教だなんて言うやつはおらんと。金だと。食うためにやるんだと。現実主義で、金を集めるために宗教をやるんだと。じゃあ、それを誰がやるのかという時、俺がやってやると出てきたのが池田大作なんですよ。宗教家なんていうのは、みんな金貸しなんてことはやりたくないわけでしょ?それで返せなくなったら土地を取り上げるなんてことは1番汚い。要するに手が汚れる話ですよ。それを誰がやるのかという時に、俺がやってみせると。それが池田大作の今の出世の基なんですよ(脚本家・笠原和夫『昭和の劇』太田出版/佐高信『噂の真相』H15.4)
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池田に対するホメ殺しのような笠原の「礼讃」だが、多分、学会員は猛反発するに違いない。金正日と同じように「伝説」は十分につくられているからだ。(佐高信『噂の真相』H15.4)

●(※大蔵商事に入った頃)昭和25年に池上でやった最初の同窓会に現れた時だったな。あの時のことは今でも忘れられない。昭和17年卒業組は今昔会という同窓会を開くんだけど、その時、池田は遅刻してきた。同窓会に顔を出したのは後にも先にもその時だけだよ。遅刻してきたのに、恩師に挨拶もせずに、どっかりと席をおろして、いきなり演説を始めたんだ。大きな声で。みんな驚いたよ。遅刻してきたのに、いきなりですからね。ひとしきり自分の話が終わったら、初めて"おっ先生、元気か"なんて片手をあげた。田中角栄みたいなあれだよ。目立たないだけのあの男が、いつの間にかそういう尊大さを身につけていたんだ。(小学校時代の同級生『週刊新潮』H15.12.18)
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大蔵商事時代の彼が、水を得た魚のごとく活き活きとし、さらに周囲が驚くほどの尊大さを身につけ始めたのは注目に値する。

[画像]:肩で風を切って歩いていた当時の池田大作/右は大蔵商事時代の名刺(『週刊新潮』H15.12.18)


<会長就任後に発揮したほんとうの酷薄さ>(『フォーラム21』H15.1.1抜粋)
 池田は大蔵商事では、戸田の愛人である専務・森重紀美子に密着して仕えた。戸田夫人に対してより、いっそう彼女にゴマをすった形跡がある。
 大蔵商事の社業は順調に推移し、57年には甲賀(※当時国鉄大宮機関区の経理係長で、東京建設信用組合の協力者のひとり)が退職者の58人のカネを取りまとめて貸していたカネ600万円も返すほどの勢いだった。甲賀は学会本部に呼ばれ、戸田からこういわれる。
 「大蔵商事はカネもできた。だからこのカネは返したいのだが、どうだろう。ワシに一の友人である精文館書店の北村宇之松にそっくり貸してやれないか」
 甲賀は出資者とも相談のうえ、戸田から、まして学会本部で頼まれたことでもあり、精文館書店にカネを回すことにした。戸田の保証つきと受けとめたのである。戸田が生きている間は、精文館書店もきちんと利子を届けて、何1つ問題は起こらなかった。同社は戸田の『巻頭言集』、『人間革命』(池田の同名書とは別)、湊邦三の宗教小説、経本などを刊行して、相応の利益をあげている会社だった。
 ところが58年に戸田が死に、60年に池田が創価学会の第3代会長に就いてから、事態は一変した。
 「池田は、これから戸田先生の関係はいっさい切ると宣言して、取引の継続を頼み込む北村さんの願いを頑として聞かなかった。」(甲賀)
 北村は池田によってすべての糧道をたたれたのだから、精文館書店の倒産は当然である。連鎖的に甲賀が道義的な責任を負う58人分の貸し金回収も不可能になり、600万円の重荷はすべて甲賀1人の肩に掛かってきた。
 「北村さんはその年のうちに、池田を恨んで憤死してしまった。病床では私にすまないと泣いて謝りましたが、池田がそれまで通り精文館書店に仕事を続けてさえいれば、すべてが順調にいったんです。何も倒産する状態ではなかったのだから。 しかも私が森重さんに戸田さんとのいきさつを何度話しても、森重さんは弁護士に会えと逃げるし、池田は知らぬ存ぜぬで、何一つ面倒を見ようとしない。北村さんの葬式では遺族に600万円は香典に上げますからといって、それから私は出資者への弁償のために無我夢中で働きました(甲賀)



【後継者指名】
<エレベーター相承/3月1日>
『人間革命』12巻に記載された、昭和33年3月1日に行われた日蓮正宗総本山大石寺の大講堂落慶法要において、戸田会長から池田氏に対して「広布の継承」すなわち後継指名がなされたとの場面は、以下の通り。
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 そのあと、午後1時から祝宴となった。戸田城聖は、日淳上人とともに、来賓を招いて行われる6階の貴賓室での祝宴に、出席することになっていた。また、5階の大会議室では寺族の祝宴が、講堂の大広間では学会員の祝宴が、それぞれ行われた。
 山本伸一は、戸田の腕をとって言った。
 「先生、まいりましよう」
 戸田の腕は温かかった。伸一は、体内に脈打つ師の鼓動を感じた。しかし、その腕は元気だったころと比べ、1回りほど細くなっていることに気づいた。
 清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった
 エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。そして、静かだが、力をこめて言った。
 「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ
 伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。2人の眼と眼が光った。
 「はい!
 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静寂のなかに、戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交わすかのように、沈黙したまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。
 清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。2人は、戸田と伸一の厳粛な姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じとったに違いない。
 それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレベーターは6階に着いた。
(『人間革命』第12巻)
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●3月1日、落成法要を終えて、戸田先生は祝賀会に向かうためにエレベーターに乗られ、柏原ヤスさんと森田一哉さんと私が同乗しました。(山浦千鶴子『大白蓮華』H18.3)
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 この"証言"が事実だとすれば、いわゆる"エレベーター相承"の現場には、柏原ヤス・森田一哉の両名が同座していたことになる。
 ところが、この両名が、『大白蓮華』昭和35年6月号の「特集・第3代会長就任」と題する記事に寄せた文。その内容は、それぞれの言葉で"戸田会長が意図したとおりに青年部の中から3代会長が生まれた"ということを喜び、池田へおべんちゃらを贈ったものだが、両名とも、「大作、お前が全部やるんだ」との重大発言のことどころか、「大講堂落成法要」にも、「3・16」にも触れていない。当然のことながら、「エレベーター」の「エ」の字もない。
 そればかりか、この特集記事には、総勢10名の創価学会最高幹部が名を連ね、それぞれ自分の知る、戸田会長と池田大作のエピソードを披瀝(ひれき)し、池田大作こそが戸田会長の後継者に相応(ふさわ)しい、と持ち上げているが、そうしたエピソードにおいても、「大講堂落成法要」「3・16」に関するものは皆無である。
 このことからも、"「3・16」は広布後継の儀式だった"というのが、後から強引にコジツケたものであることが窺(うかが)われる。(『慧妙』H18.3.16)

 この大講堂落慶法要という重大な行事に際しても、池田や北條、森田、秋谷らは戸田先生の側にいなかったのです。
 戸田先生はジリジリして待っておられました。しばらくして池田がやってくると、いきなり「大作、なぜ、大事な時に俺の側にいないんだ!俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだ!」と大声をあげて池田を怒鳴りつけられたんです。
 ところが池田は悪びれる風でもなく、シレッとして「いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係りをしているほうがふさわしいと思いましたので」などと言い訳したのです。しかし、その面貌には、怒鳴りつけられたことに対する反感の色が浮かんでいました。(中略)
 池田の様子を見た戸田先生は何もおっしゃらず、池田をその場に残してエレベーターに乗り込み、祝賀会に向かわれました。
 それまで戸田先生は、池田を公衆の面前で公然と怒鳴りつけるようなことはしませんでした。それだけに戸田先生の激しい怒りに、居合わせた幹部は、皆、驚きました。
 池田は『人間革命』第12巻の「後継」の章で、この大講堂落慶法要祝賀会のエレベーターの場面を取り上げ、戸田先生とともにエレベーターに乗り込み、その中で戸田先生から、後継の指名を受けたかのように記載していますが、そもそも池田はエレベーターに乗っていないのですから、後継の指名などあろうはずがありません。
 もし、『人間革命』の記載のように、戸田先生から後継の指名があったとすれば、どうして戸田先生の逝去後、創価学会の会長職は2年余にわたって空席だったのでしょうか。この事実1つ見てもわかるように、戸田先生から池田に後継の指名などというものはなかったのです。(龍年光『フォーラム21』H15.1.15)

●「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ」 伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。2人の眼と眼が光った。 「はい!」 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。(『人間革命』第12巻)
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池田自身が執筆したとされる『人間革命』によれば、戸田会長は他の弟子の見守る中で、「伸一、あとはお前だ。頼むぞ」と"後継指名"をしたことになっている。しかもそのとき池田は「深い決意を秘め」て「はい!」と言い、後継指名を受けたのだそうだ。師匠の生前に後継者指名を深い決意をもって受諾しておきながら、何故、学会は2年間もの間会長職が空白だったのか?この一事をもってしても『人間革命』のいう「エレベーター相承」なるものが如何にイイカゲンであるかが分かろう。


<敵は内部>
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 ある時、報告にやってきた参謀の滝本欣(※龍年光氏)が、戸田にたずねた。
 「先生が1日の落慶法要で言われましたように、御書も発刊され、大講堂も建立されたいま、学会は身延をしのぎ、もはや、敵はなくなったと思います。これからの学会は、何を敵として進んでいけばよいのでしょうか」
 戸田はよこになっていたが、質問を聞くと、布団の上に起き上がった。そして、滝本の顔を見て言下に答えた。
 「敵は内部だよ
 自己の利益のために学会の組織を利用しようとする者は、今後、学会が大きくなればなるほど、さらに、出てくるであろうことを、彼は予見していた。それゆえに、今後の学会の敵は何かという滝本欣也の質問に、即座に「敵は内部だ」と答えたのである。
 しかし、それは同時に、滝本自身に対する戸田の警鐘でもあった。滝本をよく知る戸田は、彼の生き方に対して人知れず心を痛めてきたのである。
 戸田城聖は、いま理境坊の2階にあって、滝本欣也を前に、この一青年の来し方を思い起こした。そして、滝本をまじまじと見つめて、もう1度、言った。
 「敵は内部だよ……」
 彼は、私生活にだらしなく虚栄心の強い滝本が、最後まで心配でならなかったに違いない。(『人間革命』第12巻)
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 仮に『人間革命』に書かれているように、戸田会長が龍氏の姿勢を心配していたとするなら、当の本人が眼前にいるのである、その場で注意をしたはずである。婉曲な「敵は内部」との表現で自らの亡き後の創価学会の課題を吐露したのは、むしろ誰よりも目をかけてきた池田氏を死の1カ月前に「学会の敵」であることを龍氏に告げなければならなくなった戸田会長の、婉曲な表現でしか示し得ない苦衷が投影されていると見る方が自然である。
 この『人間革命』第12巻は、龍氏が池田、森田、秋谷の各氏に最終勧告と最終通告を出して創価学会と絶縁した平成3年10月12日以後、創価学会ならびに池田氏が日蓮正宗から破門ならびに除名となった後の平成4年から5年にかけて執筆され、刊行されたものである。絶縁宣言した生き証人の龍氏を、池田氏は『人間革命』誌上で、戸田会長の言葉を借りて中傷し、自己弁護を図ったのである。(『フォーラム21』H15.2.1)

●会議(※昭和33年3月17日の第1回最高会議)では、辻が、戸田先生に対して、「先生、次の会長は誰にするんですか」と単刀直入に質問しました。 すると戸田先生は、「それは、お前たちで決めるんだ」とハッキリと答えられたのです。 当然、「池田」という指名があると思っていた辻はビックリしたようで、あわてて「先生、先生、3代会長はどうするんですか」と息せき切って聞き直しました。 すると戸田先生は再び、「それはお前たちが決めるんだ」と、強い口調できっぱりと述べられるとそのまま横を向いてしまい、以後、なにもおっしゃらなかったのです。そのあまりに決然とした姿勢に、最高会議のメンバーは誰1人として何も言えないまま戸田先生の部屋を後にしましたが、この時、戸田先生はハッキリと池田は後継者ではないという意思を明確にされたのです。(龍年光『フォーラム21』H15.2.1)
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この最高会議の事実は、『人間革命』には1行も記載されていない。『人間革命』によれば池田氏は3月16日夜に東京に帰京し、2、3日して再び大石寺に戻ったとある。 ただし3月22日に理事室と参謀室の合同会議があり、その席上、戸田会長から「学会の組織は戸田の命だ」として、不純な幹部の追放、粛正の指示があったとの記載がある。 いずれにせよ、戸田会長から池田氏を後継会長とするとの指名はなかった。否、指名がなかったばかりか、当時を知る生き証人の龍氏の証言によれば、当初、池田氏を後継者にと考えていた戸田会長が、死の1カ月前には、池田氏を後継者にするとの考えを放棄し、逆に池田氏は後継者ではないとの意思を明確に示していたことが明白である。(『フォーラム21』H15.2.1)


<車駕/3月15・16日>
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<1>3月15日
 3月15日の午後、車駕が出来上がった。それは、大きくがっしりしていた。制作費は、4万円になってしまった。まだ、高校卒業者の初任給が1万円に満たないころである。澤田良一は、車駕が出来上がると、輸送担当の青年たちと一緒に、理境坊の中庭に運んだ。山本伸一は車駕を見ながら、澤田の労をねぎらい、心から感謝の意を表した。
 「ありがとう。立派にできたね。これなら、戸田先生のお体に負担をかけなくてすむ」
 そして、制作にかかった費用を聞くと、伸、は財布をはたいて、自分ひとりで全額を支払った。
 澤田は、師の戸田城聖をどこまでも思う伸一の姿勢に、熱いものが込み上げた。
 それから、伸一は、理境坊の2階に行って、戸田に報告した。2階には、理事などの3、4人の幹部がいた。
 「明日の式典で、先生にお乗りいただこうと、車駕をつくりました。御覧いただければと思います」
 戸田は伸一に支えられ、窓のところへ行くと、しばらく車駕を見ていた。そして、思いもかけぬ厳しい言葉が、戸田から発せられた。
 「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ!
 体は衰弱していても、戸田には縦横無尽に広布の戦場を駆け巡ろうとする気概が、熱く脈打っていたのだ。また、戸田は伸一に、常に実践に即した立案、計画が必要であることを、教えておきたかったのである。(中略)澤田は、2階のやりとりを聞きながら、体から血の気が引くのを覚えた。
―参謀室長のせいではない。あの形も大きさも、私が考案したものだ。責任は私にある。

<2>3月16日
 戸田城聖は、山本伸一に手を取られて、理境坊の玄関に降り立った。玄関前には周囲を白い布で巻いた車駕が置かれてあった。戸田は車駕を見ると、また、大きな声で言った。
 「大きすぎて、実践には向かぬ。戦いにならんぞ!
 2度にわたる戸田の叱責であった。その時、伸一が1歩前に進み出て言った。
 「先生、よくわかりました。申し訳ございません。しかし、この車駕は弟子が真心でつくったものです。どうかお乗りください」
 自らの命の燃え尽きんとするまで、戦いの極意と闘将の気迫を身を以て教え伝えようとする師の厳愛。その師の体を気遣い、いたわろうとする弟子の真心―それは、師と弟子の熱い生命交流のドラマであった。
 戸田は、伸一を見てにっこり頷くと、弟子たちに体を預け、車駕の中央に固定された肘掛け椅子に座った。(『人間革命』第12巻)
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 理境坊の2階から小泉理事長らに両腕を支えられて降りてきた戸田先生は、その「車駕」を一目見られた途端、渾身の力を振り絞るようにして、再び、公衆の面前で、「何だこれは、これでは戦場を駆け回ることはできんじゃないか。大作!お前はなんという奴だ、俺の心の分からん奴だな」と池田を激しく怒鳴りつけられたのです。
 この時の戸田先生の怒りの形相はすさまじいものでした。その場に居あわせた幹部は、皆、首をうなだれていましたが、池田だけは平然としており、後日、北条(浩氏・昭和54年に池田氏が会長辞任した後の創価学会会長)たちに「あれは5万円もかけてつくったのだ。戸田先生こそ俺の気持ちが分からなかったんだ」とうそぶいていました。
 3月1日の大講堂落慶法要の祝賀会に向かわれる際のエレベーター前での叱責に続き、理境坊の玄関先で大勢の幹部を前に、「大作、お前は何という奴だ、俺の心の分からん奴だな」と言われたことは、「池田は後継者に非ず」ということを大勢の学会幹部の前で宣言されたのです。(龍年光『フォーラム21』H15.2.1)



【的場事件】
 昭和33年3月28日、池田は大石寺の境内で、大石寺の所化頭である的場正順師に対するリンチ集団暴行事件を引き起こした。
 この事件は、日蓮正宗宗門に対する威嚇・威圧のために池田氏が、側近の星野義雄登山部長らの青年部員と立案、実行したもので、大石寺内事部で修行している所化・小僧を統括する立場にある所化頭の的場師を、大石寺境内を流れる潤井川の水に沈め、暴行を加えたというものである。

<的場師暴行事件>
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 毎日、酒を飲み、お小僧さんを虐待するこの僧侶に対し、青年たちの誰もが義憤を感じた。(中略)伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。
 伸一は、青年たちが怒りのあまり、口調が詰問調になるたびに、「まあ、待ちなさい」と、制止することを忘れなかった。
 所化頭はよほど酒を飲んでいたと見え、青年部員の言うことさえ、理解できないようだった。伸一は僧侶の無惨な醜態を前にして、憤りを通り越して、むしろ悲しさを覚えていた。戸田が宗門の興隆のために、外護の赤誠を貫いてきたことを潮笑うかのように、僧侶の腐敗、堕落は、限りなく進行していたのである。
 青年の1人が言った。
 「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」
 所化頭は衣を脱ぐと、川に入り、顔を洗いはじめた。戻ってくるのを待って、伸一は込み上げる激情をこらえ、諄々と諭すように語りはじめた。(中略)
 伸一は忍耐強く、噛んで含めるように所化頭の非をただした。真心をつくしての説得であった(『人間革命』第12巻)
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 事件があった日は、戸田先生の病状はさらに悪化し、理境坊の2階にふせっておられました。小泉隆理事長らは戸田先生を東京の病院へ移送するために帰京していました。
 そうした大石寺に突然、池田が腹心である北条(浩・後に理事長、会長)や森田(一哉・現理事長)、秋谷(栄之助・現会長)、星野登山部長らを連れて登山してきたのです。池田は重篤の戸田先生を理境坊に見舞うこともなく、いきなり「これから所化頭の的場を徹底的にやっつける。彼は大変素行が悪い、小僧さんをいじめる、こんなことではこれから学会員の子弟は僧侶に志願しなくなってしまう。だから断固として粛正するのだ」と言って、大石寺の内事部に押し掛け、「的場を出せ」と怒鳴り散らし、3時間後に、出てきた的場師を六壷において大勢で吊るし上げたのです。
 その後、的場師を潤井川の川原へと連行していき、自ら裸になった的場師を青年部員に担ぎ上げさせて冷たい水の中に頭を何回も押し込ませたのです。午前8時に始まり午後5時に終わった一連の暴行事件の指揮をとった池田の形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものでした。(龍年光『フォーラム21』H15.2.15)


<戸田会長の「追撃の手をゆるめるな」発言>
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 その言葉は、しばしば途絶えたが、ただならぬ気迫にあふれていた。
 「…衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的な基盤が整い、金を持つようになれば、学会を切り捨てようとするにちがいない……。戦時中と同じように、宗門は、正法を滅亡させる元凶となり、天魔の住処にならないとも、限らないのだ」
 戸田は、最期の力を振り絞るように叫んだ。
 「そのためには、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。1歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな」
 それは、炎のような言葉であった。瞬間、戸田の眼が燃え輝いた。これが、彼の最期の指導であり、愛弟子への遺言となったのである。伸一は、その言々句々を命に焼き付けた。(『人間革命』第12巻)
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 事件後、池田は1人で理境坊の2階にあがって行き、しばらくして降りてくると、下で待っていた北条、森田、秋谷らに対して「戸田先生が、追撃の手をゆるめるなといわれた」と、さらに宗門を攻撃するよう戸田先生が指示したかのように告げたのです。しかし戸田先生は、所化・小僧さんを、「この中から将来の猊下がお出ましになるんだ」と言って、毎年、理境坊に招待し、御本尊様の前の上座に並ばせ、自らは下座から、1人1人に恭しく新調の衣を差し上げるほど、若い修行中の僧侶を大事にされていました。
 ですから戸田先生が僧侶暴行事件の報告を受けて、「追撃の手をゆるめるな」などと発言されるはずがありません。
 実際、戸田先生を4月1日、東京の病院に移すため付き添った小泉隆理事長に対して戸田先生は「猊下に申し訳ない、猊下に申し訳ない」と何度も繰り返しながら、下山されていったのです。
 後に小泉は私に「あの豪毅な戸田先生が、あの時はまるで子どものように、何回も何回も『猊下に申し訳ない』と謝られていた。どうしてなんだろう」と語りました。小泉は事件当日、東京に行っており不在でしたので、池田が引き起こした暴行事件を知らなかったのです。(龍年光『フォーラム21』H15.2.15)

●また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。(戸田会長・関西本部入仏落慶式S30.12.13)
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唯授一人の法水写瓶を信仰の根本だと考えていた戸田会長が「衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。」などと発言するはずがない。もし、そんなことを発言していたとすれば、会員に対する指導と正反対となり、妄語の罪を形成する。世法上も信仰上も許されない大罪となってしまう。現在の創価学会は日顕上人を、衣の権威で、学会員を奴隷のように扱い、切り捨てた「天魔」と非難しているが、『人間革命』第12巻の戸田発言は、まるで今日の創価学会の主張を先取りするような内容になっている。この『人間革命』第12巻が執筆、刊行されたのは、日蓮正宗が創価学会を破門した後の平成4年から5年にかけて。おそらく池田は戸田会長の言を利用して、創価学会の日蓮正宗攻撃を正当化しようとしたのだろう。



【名前にコンプレックス?】
●長男・博正氏が生まれた時、正式に「大作」と改める。「たいちゃん」「たっちゃん」と呼ばれていた年少時代に触れられることをひどく嫌う。(戸口浩『創価学会の真実』日新報道200頁)



【親も折伏できず】
●名誉会長は、父・子之吉、母・一の五男として出生。兄弟は一応、10人。妻妾同居とも言われ、実子を養子に出したり、養子にもらったりの複雑な家庭環境にあった。 父・子之吉は「強情さま」とも言われるほどの真言宗の強信者。葬式も真言宗で行っている。名誉会長は、学会に入ってからは、ほとんど実家に出入りしていない。勘当同然だった。名誉会長が折伏した家族・一族は、兄弟2人だけだという。(戸口浩『創価学会の真実』日新報道200頁)

●「折伏しろ」っていうから、私は自分の友だちを10人ぐらいよんだのです。・・・会長先生がわざわざ、私のおよびした会合に出て下さったこともありました。しかしだれも信心しないのですよ。一生懸命やってもね。みな友だちがはなれっちゃうんだよ。(池田大作『聖教新聞』S34.2.6/戸口浩『創価学会の真実』日新報道200頁)
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名誉会長は、一対一の折伏が苦手。「人間・池田太作」を知る人の大半は、入信していないようだ。幹部として立場を得たときは成果を出しても、名誉会長が紹介者となる個人折伏は、ご本人が次のように語る如くあまりない。(戸口浩『創価学会の真実』日新報道200頁)





■池田神話のひとつ「大阪事件」の真相
―「勾留」は刑罰にあらず!「法難」は大ウソ―
―有罪会員を切り捨て何が「正義の証明」か!?―
(『フォーラム21』H14.7.1/『慧妙』H15.10.16編集)

平成15年10月1日付『創価新報』を見た。刮目(かつもく)すべきは、「昭和37年(1962年)1月25日、大阪事件の裁判で池田会長(当時)が無罪となり、無実が証明された」と息巻いている点だ。いったい事実はどうだったのか?

<「大阪事件」とは>
 昭和32年4月、参議院大阪地方区の補欠選挙において、当時の学会本部長の小泉隆と渉外部長の池田大作らがこの選挙運動を指揮し、学会組織として公職選挙法に違反した事件である。具体的には、小泉理事長は、主として"実弾作戦"を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当たり、府下の5支部に「選挙係」を設け、6万の会員のほとんどを戸別訪問に動員したというもの。投票数日前には"タバコ戦術"として職安十数ヵ所で、日雇(ひやと)い労務者に候補者名を書いたピースなど約4千個をバラまいた(『朝日新聞』S32.7.29夕刊の取意)容疑であった。
 結果的には、翌年に小泉が無罪となり、4年後の37年1月に池田が禁固10月の求刑を受けたものの、検察側は公判で戸別訪問の指示を立証できず、無罪を判決されて解決した。
 しかし、では大阪事件は、学会として本当に「無実」だったのか、というと、小泉・池田以外の、選挙運動に参加して起訴された学会員41人は、学会より除名され、さらに、このうち20人の創価学会員については戸別訪問で罰金1万円から3千円、うち10人に公民権停止3年7人に公民権停止2年の判決が言い渡されているのである。
 つまり、当時から現在に至る創価学会における「大阪事件」の勝利は、証拠不十分で指示を立件できなかった池田大作に限ったもので、その陰には、多くの末端会員の切り捨てという、限りなく非情な真実があるのだ。

<池田顕彰に利用>
 池田大作が公選法違反で逮捕され、大阪東署と大阪拘置所に15日間勾留された。いわゆるブタ箱入りであり、酔っ払って乗車拒否のタクシーを蹴(け)っ飛ばすぐらいでも、間と運が悪ければ、あり得る事件である。
 勾留は刑ではない。警察署内の留置場(ブタ箱)と、れっきとした刑務所とは大いにちがう。勾留とは本来、刑が確定する前の被疑者・被告人の逃亡・証拠隠滅を防ぐために行なわれる「未決拘禁」であって、刑罰としての意味はまるでない。
 だが、池田はこの大阪事件に連累(れんるい)したことで、初代・第2代と続いた名誉ある「投獄=法難」を第3代会長でもある自分もまた受けたとして、池田自身の神聖化に活用し、自己顯彰の根拠にしている。
 また、これまで、この大阪事件の詳細については、創価学会側の都合のよい宣伝のみがなされ、末端会員には真実が明らかにされていなかった。




池田は「仏法西還」の先駆にあらず
―功労者に箝口令(かんこうれい)布き"実績"独占―
(『慧妙』H16.4.1抜粋編集)

<虚構だった池田による"仏法西還">
―池田渡印の前年、すでに正法は到達―

池田大作が第3代会長に就任した翌年、「仏法西還」と称し、日達上人と共にインドを訪れ、日達上人御書写の『三大秘法禀承事』や、池田の揮毫(きごう)を彫りつけた石版などをブッダガヤの地に埋めた時のことである。
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1◆今回の山本伸一のアジア訪問の目的は、日蓮大聖人の御予言である、"仏法西還"の第一歩を印し、東洋の幸福と恒久平和への道を開くことにあった。(中略)
 もしも、創価学会がなければ、この仏法西還の御本仏の御予言も、虚妄(こもう)となってしまったにちがいない。
 その先駆けの歩みを、伸一は会長に就任して迎えた新しき年の初めに、踏み出そうとしていたのである。それは仏法の歴史を画し、東洋に生命の世紀の旭日を告げるものであった。
(『新・人間革命』第3巻)

2◆この渡印にさいしては、さきのアメリカのように、現地に学会員がいて組織づくりをしてきたような事情とは違い、インドのようにひとりも会員がいない所もあり、この未開拓の分野に先駆をきって戦ってくるわけである。(『聖教新聞』S36.1.18)
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 "月氏国すなわちインドへ正法が流布していく歴史的先鞭(せんべん)は、このオレがつけた!"そんな池田の得意顔が目に浮かぶようではないか。
 この記事(2◆)にしてからが、池田宣揚のために事実を曲げている。
 というのは、その当時、インドにはすでに正宗信徒(学会員)がおり、しかも熱心に信仰に励んでいた。その事実は創価学会としても充分に承知しており、『大白蓮華』(S35.8)誌上にも、その事実を述べていたのだ(写真参照)。

[画像]:海外広布の進捗状況を伝える『大白蓮華』S35.8=そこには、「昭和35年4月調べ」として、「インド2世帯」と明確に

しかして、そのうちの1人で、インドの最初の「一粒種」であるT・プラサド氏は、何を隠そう、三宅妙子さん(<恋文に認めたお粗末な「詩」>参照)の夫君、伊藤監英氏が折伏した人物であった。

●私が、夫・伊藤監英と結婚したのは、昭和34年9月のことでした。
 その頃、私たち夫婦の新居を座談会場に、もっぱら外国人を対象にして折伏を進めていました。その際、当時、アジア各国との技術交流を推進する、アジア協会(※「アジア協会」とは、「国際協力事業団」の前身の1つである「海外技術協力事業団」の旧称)というところに勤めていた央洋一さんという学会員が通訳を担当していました。
 T・プラサド氏は、アジア協会で技術研修を受けるために来日していたインドの高級官僚で、彼を連れてきたのは央さんです。
 プラサド氏が入信するに至る大きなきっかけとなったのは、来日中に体調を崩したプラサド氏を、約1ヵ月にわたって、私の家で看病したことです。その間、折にふれては仏法の話をしたことで、氏は入信を決意したのです。
 昭和35年、プラサド氏は、御下附いただいた御本尊様をしっかりと捧持(ほうじ)し、インドヘと帰っていきました。(三宅妙子)
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かくして、日蓮正宗の御本尊は、池田が渡印する前に、すでにインドの地に到達していたのだ。昭和36年以降、池田はその事実を隠して、自分が先駆者であるかに脚色してきたのだが、それはとんだ嘘っぱちだったわけである。


<記念品埋納が成功した背景には・・・>
―功労者たちの口封じた池田ら首脳―

●池田大作が日達上人と共に渡印し、『三大秘法禀承事』などを埋納する、という話を聞き及んだ私たち夫婦と央さんは、昭和35年12月、学会本部に池田大作を訪ねました。そこには秋谷と森田もいました。
 私たちは、インドの高官であるT・プラサド氏のことなどを話し、仕事を兼ねてインドに行くので、何かお手伝いさせてほしい、と申し出ました。
 すると池田たちは、仏頂面で、「何かしたいというなら、行って勝手にやればいい。ただし、それが成功したからといって、表には絶対出てくるな!出てきたらクビだぞ! 」と言い放ったのです。それでも主人たちは、インドヘと旅立っていきました。
 日達上人と池田らの一行が帰国した後、主人たちも帰国しましたが、ブッダガヤのことについては私達にも語ろうとしませんでした。唯一、「T・プラサドはよくやってくれた」と語った以外は―。また、央さんは、インドから帰国して間もなく、創価学会をやめてしまいました
 後に、私の弟で、池田一行に通訳として同行した三宅建夫が、「埋納が終わった後、なぜ、皆で一行の宿泊先のホテルに顔を出さなかったんだ」と言ってきましたが、出発前にあれだけ厳しくクギを刺されていれば、主人たちがホテルに行かなかったのも当然だと思います。(三宅妙子)
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 昭和36年当時の創価学会といえば、海外では全く無名。その団体がいきなり、後年、世界文化遺産に登録されるような外国の聖地にモニュメントを埋めるなど、よほどの後ろ盾がなければ不可能なのは、誰の目にも明らかだろう。だからこそ、アジア協会に勤めた関係で、アジアの諸事情に通じていた央洋一氏と、インド高官のT・プラサド氏の存在は、実際に大きな影響を与えたはずだ。
 ところが『新・人間革命』には、伊藤氏も央氏も、そしてT・プラサド氏もいっさい登場せず、ただただ、寸暇(すんか)を惜しみ、飛行機の中でも、空港の待合室でも、移動中の車の中でも、「行く先々で、地涌の菩薩の出現を願い、大地に題目を染み込ませる思いで、唱題し続け」た山本伸一の姿を述べるばかりなのである(この件で池田は、ブッダガヤにほど近いパトナ空港において「カルカッタにいる日本人のメンバーが迎えてくれた」などと書き、万一指弾されてもお茶を濁せるよう準備している。が、そうなると、前掲の『聖教新聞』の記述はウソだ、と、自ら白状したことになる)。


<ブッダガヤには埋納品すでに無し>
―学会はこの現実をどうするのか!?―

●伊藤は池田の"忠告"を忠実に守り、インドでの出来事は何も語りませんでしたし、記録の類も残しておいてはくれせんでした。
 ところが、インドから帰国した伊藤が入院している時に、私の家に、インド政府の公式文書が郵送されてきたのです。
 それを読んだ私はビックリ仰天し、入院中の伊藤に相談するのももどかしく、急いで文書を翻訳(ほんやく)し、公式文書と共に学会本部に届けました。その手紙には、「ブッダガヤの地を整備するため、埋納された品は他所に埋め直しました」と書かれていたからです。(三宅妙子)
―――――――――――――――――――――――
 ちなみに、埋納当時の『聖教新聞』にも、また『新・人間革命』にも、池田らが現地の責任者に確認し、「埋納品が掘り返されることはない」とのお墨付きをもらって安堵したこと、東洋広布の暁(あかつき)にはじめて、これらの埋納品を掘り出す、ということが明記されている。
 それが、埋納からいくらも経たないうちに掘り出され、別の場所に移されてしまっていた、というのは、創価学会にとってはまさに重大事。
 そんな重大な連絡が伊藤氏になされたということは、インド政府は、伊藤氏こそ件(くだん)の埋納に拘(かか)わる中心的人物だと理解していたからに他ならない。

●学会本部に着いた私は、そこにいた白木薫次さん(池田大作の義父で、当時創価学会理事)に手紙を見せて事情を説明しました。ところが、白木さんはそれを聞いて慌(あわ)てるでもなく、むしろ迷惑そうな顔をするばかりで、手紙も「いらない」というから、そのまま持ち帰ってきてしまいました。
 伊藤たちが、命をすり減らすような思いで行なったことが、学会にとってはそれほど軽いことだったのか、複雑な思いにかられ、私はこのことは誰にも話さず墓石の下まで持っていこう、と決意しました。学会の言う「東洋広布」というのがいつのことか知りませんが、いずれブッダガヤを掘り起こしたときに慌てればいいんです。
 それが私の、いえ、池田に踏み台にされた伊藤・央・プラサドの無念を晴らす、ささやかなお返しだと思いますから。(三宅妙子)
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今まで、身内にもこの手紙のことを語ったことのなかった三宅さんは、本紙からの取材申し入れを受けようと決意した時、「全てを墓石の下に持っていっては独り相撲で終わってしまう。今こそ口を開いて、池田の欺瞞(ぎまん)ぶりを多くの人に知らせなければ」と考え直したという。

●創価学会が、日蓮正宗誹謗(ひぼう)の非を悔(く)いた上で、礼を尽くして「埋め直された場所を教えてほしい」と言ってきた時には、教えてもいいと思っています(三宅妙子)
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またしても『人間革命』の虚構は崩れ去った。心ある学会員よ、今からでも遅くはない、「池田大作」という虚像に訣別し、正法に帰依せよ。





■池田大作の思想と人格
http://www.toride.org/real/real.htm

自前の機関紙誌をフルに使い、日蓮正宗誹謗(ひぼう)に明け暮れる創価学会は、この世の中に存在する野卑(やひ)な言葉の全(すべ)てを集めたような俗悪記事を、相も変わらずタレ流し続けている。こんな下劣な記事を掲載できる感性は"異常"と断定せざるを得ないが、そもそも教祖からして"異常"な人物である故、学会内部においては、"異常"も"正常"と受け止める者が大半なのであろう。(『慧妙』H16.11.16)


【人格】
<憎悪>
<傲慢(ごうまん)>
<品性>
<臆病>
<コンプレックス>
<物欲>
<奇行>

【信心】
<憍慢(きょうまん)>
<勤行>
<本尊>
<御供養>

【政教一致(権力志向)】
―総体革命・本化国主への野望―

【政治理念】
―理念なき御都合主義―

【謀略】

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【人格】
<憎悪>
怒りの炎を燃やして「戦闘」する!「叱咤(しった)」する!「攻撃」する!「追撃(ついげき)」する!これこそが仏法であり、正しき人間の道である。(池田大作『聖教新聞』H11.10.11/『慧妙』H17.5.1)

●師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ。(平成8年11月3日「創価同窓の集い」にて/『週刊新潮』H15.12.18)

●2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい(池田大作『聖教新聞』H6.9.2/『大白法』H14.8.1)

●あっ、クリントン元気かしら、ああっ、そう、あのよーにね、口をうまくね、うんと、うんと人を誤魔化してね、あのー、あのー警察につかまんないように、ンフフフ、まあーいいや、ね、口をうまく、クリントン以上に口をうまくね、折伏戦でやってください。指導してください。口をうまく、口下手なんていうのはね、時を遅れています。クリントンは口がうまかったんだから。(平成5年1月27日・アメリカSGI&関西合同総会/『慧妙』H17.1.1)
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池田大作は、アメリカ大統領との会見を何度も企てたものの、これまで1度も実現していない、という。その腹いせに、当時の大統領だったクリントン氏を"嘘つき"呼ばわりし、クサして見せた!?

●あのー、まぁ日顕(※日蓮正宗管長・阿部日顕上人)なんか、その(※イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金(はりがね)でゆわえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね。(平成4年12月13日・全国青年部幹部会)

●このあいだ、オバサン、オバサンジョだ。2つ字を加えなきゃオバサンだったが、男だったんですよ(※ナイジェリアのオバサンジョ元国家元首のこと)。アフリカ全体の中心的人物だ。じつを言えば頭がいいんです、なかなかねェ。アフリカっていうと、少しねェ、黒くてねェ。そう、そんなもんじゃない、先入観がよくない。1番バカなのは日顕(上人)!(平成4年4月26日・第8回中部総会)
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「人権」「人権」と騒ぐ池田大作こそ、じつはアフリカの人々を偏見の目で見ている、という本音がポロリ!

脱会者は自殺するまで追いつめろ(『諸君!』H4.5/『妙観』H4.5.15/『大白法』H15.1.16)

●全員が「勝つ」と強く決めていけ!勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ!私は恐れなど微塵(みじん)もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ!強気で勝つんだ!強気、強気、強気…でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴(どな)っていけばいいんだ!(中略) 反逆者には「この野郎、馬鹿野郎」でいいんだ!(H1.3.12・埼玉指導での池田大作発言/『慧妙』H17.5.1)


<傲慢>
●平成7年には、来日したネルソン・マンデラ南アフリカ共和国大統領(当時)と会見した池田大作が、いかにも親密ぶって同大統領の頬(ほお)をなでつける、という"暴挙"を犯した。これに対し、「あまりにも非礼だ」との批判が相次いだ。(『慧妙』H18.8.1)
[画像]:マンデラ大統領の頬をなでる池田(『フォーカス』H7.7.19)=この一件は、マスコミも大きく取り上げた。

●池田氏の話し方は、傲慢かつ他に恐怖心を与えるもので、彼が話を進め、他の人がそれにうなづき従う、といったものでした。 時として、彼が予期しない、一般的でない意見が述べられると、途端に彼の目には厳しい反応が現われ、警告にも似た冷たさが浮かぶのです。 私達は、形だけの会話をしながら、この男を観察いたしました。彼は、頭の先からハンドメイドの靴のつま先まで、俗人そのものであり、崇高さのひとカケラも見えませんでした。「彼の職業が何か。当ててみろ」と言われても、"宗教家"と答えられる人は、ほとんどいないでしょう。 私は、多くの有力者と会ったことがあります。それは、首相をはじめ、さまざまな分野の指導者達ですが、しかし、池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。 彼は、おそらく長年にわたり、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そして、それに対する反論や軋櫟に触れないよう、守られてきた人間なのでありましよう。 私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は体の芯までゾッとさせられました。 夕食は苦しい体験でした。私達は、伝統的な日本間に通されました。畳に座布団を敷き、池田氏を中心にテーブルを囲みました。テーブルの中央には料理人が入り、熱い油の鍋から天ぷらを揚げてくれるのです。 「あまり堅苦しい話は、今夜はやめにして、ともかく楽しみましょう」と、池田氏は命令口調で言いました。 私達は、耐えがたい、くだらない会話を、まだ続けなければならないのかと、沈痛な気分になりました(ポーリー・トインビー=トインビー博士の孫娘『ガーディアン』S59.5.19/『フォーラム21』H17.1.1)
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昭和59年、ポーリー・トインビーさんは創価学会の招待で来日し、池田氏と面談。未発表の対談部分の出版を依頼されたのだが、その際の感想を帰国後、手記として『ガーディアン』紙(S59.5.19)に発表した。

●紹介する写真(@AB)は、昭和40年代、創価学会本部内で撮られたものです。『月刊ペン』裁判の記録によれば、池田によって顔に落書きをされた被害者は、当時、創価学会第1庶務に勤務していたYさんの娘。プライバシー保護のため被害者である幼児の目を隠していますが、少なくとも原版写真を見るかぎり、幼児が喜んでいるようには見えません。否、むしろ、困惑の表情をしています。(『慧妙』H18.9.1)
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 親としては、たとえ相手が誰であっても、自分の子供が慰(なぐさ)み者にされるのを見て平常心でいられるわけがありません。
 にも拘(かか)わらず、池田大作は、平気で幼児を慰み者にしたのです。これぞ"自分は何をしても許される"という慢心の極みでなくして、いったい何でしょう。
[画像]:幼児の顔に落書きする池田

●私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者最高権力者である。(『池田大作―その思想と生き方』S40/『慧妙』H17.4.1)
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会長就任の5年後、37歳の池田会長にインタビューした評論家・高瀬広居氏の『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』(65年)(『週刊新潮』H15.12.18)


<品性>
●処女のお嬢さんが、輪姦(りんかん)されたあと、さらに蹴(け)とばされているような気分(インタビュー『週刊文春』)
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これは、かの言論出版妨害事件につき、池田大作が『週刊文春』のインタビューの中で語った言葉だが、いったい、どういう顔をして、こんな台詞(せりふ)を語れるのだろうか。たぶん婦女暴行魔しか使わない(?)ような、この異常な台詞は、世間に対して美辞麗句(びじれいく)を並べる池田の正体が、いかに品性下劣であるかを雄弁に物語っている。まさに宗教者云々以前の問題であろう。そもそも「輪姦」とは、「多人数の男が次々に一人の女性を強姦すること」であり、世間のほとんどの人間には、日常において、まったく縁のない言葉である。ところが池田にとっては、雑誌のインタビューという、おおっぴらなところで、簡単に口をついて出てくるほど、生活に即した言葉であるようだ。「御里が知れる」とは、こういう姿を指して言うのであろう。心底は、女性蔑視(べっし)と人権軽視そのものでありながら、"口八丁、手八丁"で、「人格高潔」な「世界の指導者」を演出し、学会員たちを洗脳し続ける希代の詐欺(さぎ)師・池田大作。(『慧妙』H16.11.16)

●金のタマゴ、キン○マじゃないよ

●んもー、糸満平和会館なんて、名前変えた方がいいんじゃないか、うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい、イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか、もっといいねー、もっといいその、キンマン、イトマン、キン○○コだよ(H5.7.7・第66回本部幹部会)

●ニューヨーク!ニューヨークの人は、毎日身体を洗っているからきれいです。(※外人には全くウケない)(H5.1.27・アメリカSGI&関西合同総会)

●ハワイ!(中略)マハロー! マハロー! バカヤロー! バッハロー!(H5.1.27・アメリカSGI&関西合同総会)

●皆さん方もねェ、もうションベンしたいから早く(※会合を)終わりたいな、って思っているよねェ。(H4.4.26・第8回中部総会)


<臆病>
●池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(※池田はN君とは創価学園の校友会で会っている)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎(だっと)のように逃げ出したのである。驚いたことに池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走(とんそう)した。その光景は、大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽(こっけい)な喜劇役者のように写った。 池田は、よほど気が動転したのか、いつも利用している本部正面玄関と文化会館来客用玄関との区別ができず、文化会館に間違って飛びこみ、あわてて、そこから飛び出してきた。(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H15.12.1)


<コンプレックス>
●オウムの麻原もそうでしたが、私もやはり池田氏を考える場合にこの言葉(※コンプレックス)が第一に浮かびます。大森海岸の海苔屋に生まれ、学歴もない彼が、社会的に認知されている人をコントロールできる快感を覚えたのではないでしょうか。彼らの共通点はエリートを支配することに喜びを感じることです。池田さんは実は非常に小心で、自信のない人だと思います。自信あるリーダーというのは、相手を一方的に支配しようとはしません。気が小さいからこそ、怖いのです。しかし、問題はそのリーダーに率いられ、肥大化した集団が信者どころか、日本全体を支配しようとしていることです。宗教、教団が持っている暴力性、排他性、差別性というものは物凄く強い。ヨーロッパの歴史を見れば分ると思いますが、肥大化したこういう集団を動かした時には無限の力が働き、人間一人一人を蹂躙していくことは歴史が証明しています。排他、除外というものは、宗教によって美化されます。普通の組織、政治とは違った、宗教自身の持つ恐ろしさを忘れてはなりません。(宗教学者・山崎龍明=武蔵野大学教授『週刊新潮』H15.12.18)


<物欲>
●正本堂の御供養。5年間であれだけ。10年間はあの倍。あの発表の外に百億はやった。又、かせぐよ(第44回社長会S46.1.26)
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 池田は、正本堂建立御供養(学会では、355億円が集まったと発表していました)においても、公式発表した以外に百億円を稼いだばかりか、宗門を恫喝して、納めた御供養の中からも13億7千万円を拠出(きょしゅつ)せしめています。
 さらには、今や年間2千億円以上を集金する狂乱財務。昭和56年には150億円だったものが、今では10倍以上。平成2年などは3千9百億円集めたといわれます。(『慧妙』H18.2.1)

●本山の全T・V報告。東洋(東洋物産)でやらせようね、いいね。どれ位儲(もう)かる。10%かそれでは少ない、15%位儲けなさい。かまわないよ(第53回社長会S46.10.13)
●本山のCATV予算はいくらだ。2億1千万か。その見積はそれとして、1千750万技術料として加算しなさい(第56回社長会S46.12.31)
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学会の系列企業に「●」と命じ、あらゆる機会を通じて日蓮正宗からも不当な搾取(さくしゅ)を続けてきました。(『慧妙』H18.2.1)

●皆んなは公私混同、公私混同と云うが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ(第20回社長会S44.1.22)
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 かくして集金された金銭は、いったい、どこへ消えて行ったのでしょうか。いみじくも、池田は次のように(●)言いました。
 全国の学会施設のうち約百ヵ所に池田専用施設が設けられ、国家元首も及ばぬような、贅(ぜい)を尽くした風呂、トイレ、ぶ厚いジュータン、壮大なシャンデリア等々が用意されたことは、すでに多くの証言、証拠写真によって明らかといえましょう。それぞれの専用施設が、数億から数十億かけて作られ(しかも、土地代を除いて、です)、調査を受けそうになれば一夜にして取り壊し、また作る―まさに池田発言のごとく、池田は「公私混同で全部公だ」との信念(?)のもと、学会に集まる巨額の金を好き放題に使ってきたのであります。
 かの1億7千万円入り金庫が捨てられていた事件(平成元年7月)にしてもしかり。中西治雄総務(当時)が犠牲となり、全てをかぶって記者会見しましたが、"中西氏個人の商売で得た金が、金庫に入って聖教新聞社の地下にあり、それも昭和46年当時で現在の6億円にもあたる大金を、20年近く忘れていた"などという釈明を、いったい、誰が信じるというのでしょうか。
 この事件発覚の際、『聖教新聞』は、「今度は廃品金庫から1億7千万円。ゴミの中から。欲ボケ社会の戯画(ぎが)・縮図か」(「寸鉄」欄)などと酷評(こくひょう)していましたが、"捕えてみれば我が子なり"で、まさに「欲ボケ」池田学会の「縮図」ともいうべき事件でありました。(『慧妙』H18.2.1)


<奇行>
[画像]:"居眠り勤行"を演じる池田大作(『慧妙』H18.8.1)=「寝ながらナンミョ・ナンミョ・ナンミョ……何千べんやったって(御本尊に)当たらない」と居眠り勤行を演じて見せ……

[画像]:弓を引く真似をして「バーン!」(『慧妙』H18.8.1)=「御本尊にピシャッと願いが通じるような、真剣勝負の勤行……」と語りながら、ピストルを撃(う)ったり弓矢を射(い)る真似をして見せるのです。

[画像]:壇上の幹部を皮肉って、進軍ラッパを吹く真似(『慧妙』H18.8.1)=スピーチの冒頭で、いきなり、アメリカSGI名誉理事長となったジョージ・ウイリアムス氏の批判を始めました。驚くべきことに、本人が幹部席にいるにも拘(かか)わらず、です。ウイリアムス氏には人望がなかった、と言いたい池田は、「1人で進軍ラッパ吹いていた」とラッパを吹く真似(まね)。要するに「笛吹けど踊らず」だった、と言いたかったようです。

[画像]:机をバンバン叩きながら「マッハロー、マハロー、馬鹿野郎だ!バッハロー!」(『慧妙』H18.8.1)

[画像]:最後は、会員の歓声にオーバーアクションで「ビックリしたなァ、もー」(『慧妙』H18.8.1)=まともなスピーチもせず、会員を小馬鹿にしたパフォーマンスだけで帰ってしまった池田大作―彼が、会員のことなど全く大事にしていないことが、このビデオを見るとよく判(わか)ります。




【信心】
<憍慢(きょうまん)>
私の話が高尚(こうしょう)で、そしてわかりやすく、そいで哲学的で、そいで文学調で、詩的で、そいで会話的である。頭がそうとう聡明でないと追っついていけないんです。そいで、行き詰まったところでコーラスやって、皆なでウップン晴らしをすると。それが、芸術的、SGIの本当の仏法の行き方なんです。その反対が日顕(上人)の行き方なんです。(H5.1.27・アメリカSGI&関西合同総会)

法華経第4の巻には法師品、仏様を一中劫という永い間、罵り続ける罪よりも、末法の法華経の行者――別しては私だ!総じては学会員――を、たとえ、わずかにも憎み、敵対する罪の方がより以上に深い、と説かれております。これ大聖人の仰せです。(H4.4.26・第8回中部総会)

●心から、全世界の創価学会を代表して、中部の壮年部にご苦労さまと申し上げます。アリガト。(※参加者、拍手して手を振る)もォ、手の振り方もやっとだしね。それから、今、手を振った人、中風になりません!! 顔色がいい。ね。もう少し景気よく振ればねェ、福運つくんだけど……(H4.4.26・第8回中部総会)

●池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェアーにアグラをかき直すと、煙草を一服し、静かに、そして激しい語気でいった。 「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」 同席の大幹部数人は深く肯(うなず)き、息をのんだ。(池田大作インタビュー=評論家・高瀬広居『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』S40/『週刊新潮』H15.12.18)

私から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けること です。会合もただ列座しているのと、記別を受けて出るのとでは違う。記別とは信心の血脈です。これなくしては「法華経を持つとも無益なり」である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ、「霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色になる」との御金言のごとく、幸福境界を確立することができるのです。(池田大作『前進』S42.2/『慧妙』H16.8.16)

私は、何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。……私は言ってあげて、罪業を切ってあげているのだ。(池田大作『前進』S41.1/『慧妙』H16.8.16)

なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく(池田大作・第40回社長会・S45.11.19/『慧妙』H16.8.16)

私の頭の中にあることは全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ。(池田大作・第15回社長会・S43.8.3/『慧妙』H16.8.16)

皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊(こわ)れていてはだめだ。(池田大作『前進』S44.10/『慧妙』H16.8.16)

私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何もならない。(池田大作『前進』S45.5/『慧妙』H16.8.16)

私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう) していなければ、異体同心とはいえない(池田大作『前進』S40.6/『慧妙』H16.8.16)

私のそばにいたら私になんでも言えるように境智冥合しなさい。それ以外にないよ。私は信心の指導者だ。私しかいないよ。(池田大作『前進』S40.6/『慧妙』H16.8.16)

そばにいても、会長の心を知ることは難しい。雖近而不見 (すいごんにふけん)である。(池田大作『前進』S42.2/『慧妙』H16.8.16)

"師弟血脈"という観点から大聖人の仏法の本因・本果の流れを見るならば、大聖人のお立場は本因妙の仏法の上の本果妙であり、第2祖日興上人が本因妙ということになる。(中略)今度は私が本果、北條理事長をはじめ副会長が本因の立場になるのである。(池田大作『前進』S52.6/『慧妙』H16.8.16)

本仏気取りで弟子檀那(だんな)に成仏の記別を与え、三世十方を見通すがごとき大風呂敷を広げ、自らを福運の当体と言って憚(はばか)らず、自分が功徳を与える、自分と境智冥合せよ、と説く池田大作―まさに"池田本仏論"は、他ならぬ池田大作自身が作出した大謗法であることが、これらの慢心発言から明らかであります。


<勤行>
●ねェ、朝勤行してない人、ずいぶんいるかも知れないけどさァ、いいですよ、お題目1ぺんでいいんです。(H4.4.26・第53回本部幹部会/『慧妙』H16.8.16)

●学会の内部資料(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")によれば、池田は昭和45年当時より、五座三座の勤行もまともにしていなかったことが明らかです。

・「十四時二十五分 勤行  十四時三十五分 手紙二通書く」→勤行10分
・「十三時十五分 勤行  十三時二十分 食事 広間 原稿」→勤行5分
・「十一時〇〇分 勤行  十一時〇〇分 離れに行かれる」→勤行0分
・「十四時〇四分 勤行  十四時一〇分 終了 おそば」→勤行6分

(学会が「月刊ペン」裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")

 池田の朝の勤行というのは、ほとんど、5・6分、あるいは0分(おそらく題目三唱のみ)といった、呆れ果てた体(てい)たらくなのです。
 それ故(ゆえ)、かつて、池田大作が総本山大石寺の法要に参詣(さんけい)した折など、わずかな時間の正座で、すぐに足がしびれて立てなくなるのを、多くの僧俗(そうぞく)が目の当たりにしています。(『慧妙』H16.8.16)

[画像]:学会が、自ら裁判所に提出した池田の行動記録

●池田が、多勢の会員の導師となって読経・唱題(むろん短い時間ですが)することもありますが、その内容・実態を見ると、さらに呆れさせられます。というのは、池田の前にある経机の上には、常に茶托(ちゃたく)と茶碗(ちゃわん)が置かれており、池田は茶を飲みながら勤行の導師を行なっているのです。経机を卓袱台(ちゃぶだい)の代わりにし、茶を飲みながら勤行する―池田の行体の弛(ゆる)み様(よう)には、もはや開いた口が塞(ふさ)がりません。(『慧妙』H16.8.16)

[画像]:経机の上に茶托と茶碗を置いて読経・唱題する池田大作


<本尊>
●(三大秘法総在の大御本尊のことを)やっぱり、曼奈羅はいつかな<なっちゃう。物体だから(H5.5.3・池田発言/『慧妙』H16.11.16)

●本門戒壇・板本尊、何だ!寛尊(かんそん)は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です!(H5.9.7・本部幹部会/『慧妙』H16.11.16)


<御供養>
●サンフランシスコの皆さん、今回は関西の交流団がお世話になりました、と、お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れることを、私は声を小さくして申し上げておきます。(H5.1.27・アメリカSGI&関西合同総会)




【政教一致(権力志向)】
―総体革命・本化国主への野望―
●同君(※池田のこと)は常に一言う「天下を取ろう」と。(『聖教新聞』報道記事・S27.3.10/『慧妙』H17.3.1)

●広宣流布(※ここでいう広宣流布は、国民のほとんどが学会員となった状態)の時には、参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少なくとも10万や20万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、ひとつ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布できゃしませんよ。ひとつ天下取るまで諸君は大事な体だから、うんと修行して行きなさいよ。(池田大作『聖教新聞』S32.9.6/『慧妙』H17.3.1)

●広宣流布の時には、不開門(あかずのもん)が開きます。その時は、どういう儀式になるのか。(中略)一義には(※不開門を開くのは)天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。後々のために言っておかないと、狂いが生ずるから言うのです。(『聖教新聞』S40.7.26)

●私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい。(池田大作『月刊現代』S45.7/『慧妙』H17.3.1)
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"創価学会・公明党を使っての天下取り"―。これが、池田大作が目指してきたものなのである。そして、その究極の目的は、池田大作が最高権力者の地位に上り詰めることにあるのだ。

●すごい時代に入りました、ね!そのうちデェジン(大臣)も、何人か出るでしょう。もうじきです、明日あたり出るから。みんな、皆さん方の部下だから、そのつもりで。日本一の創価学会ですよ。(H5.8.8・第69回本部幹部会)




【政治理念】
―理念なき御都合主義―
●基本理念は王仏冥合・仏法民主主義(公明党結党宣言S39.11.17)

●あれ(※大学紛争)は一種の精神風俗への感染症としかいいようなく、覆面にヘルメットというファッションは宗教団体にまで蔓延していき、創価学会の青年部の学生たちと一緒に池田会長までがヘルメットに覆面といういでたちで片手を突き上げ、「宗教社会主義」なる面妖な祝詞をとなえているのを何かのグラビアで目にしてあきれ果てたのを覚えている。(石原慎太郎『国家なる幻影』文芸春秋社H11・89〜90頁)

[画像]:昭和44年7月の創価学会学生部集会にゲバ学生スタイルで出席した池田大作の勇姿

※かつて池田が唱えていたという実体のない「宗教社会主義」なる主義は、いつのまにやら完全に捨て去られた。社会主義とは対極にある「資本主義」の擁護者・自民党に擦り寄り、権力者気取りである。御本人は以前から「全体主義が1番」だと思っていたようですが・・・↓

●本当は、全体主義は1番理想の形態だ。(S47.6.15・第61回社長会での池田大作発言/『慧妙』H17.4.1)




【謀略】
ある日、堺の選挙事務所が、酔っぱらいに荒らされた。報告を受けられた先生(※池田大作)は「すぐ110番に電話して警察に来てもらいなさい」と指示され、(中略)「"いま、対立候補が、こちらの選挙事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへん、ご迷惑をおかけしました"といって御近所を全部回りなさい」と指導された。(中略)そして先生は「対立候補は悪らつな妨害をやる。"選挙事務所になぐりこみをかけてきた"という印象を与えればよいのだ。特定の候補の名を出さず、1軒1軒手を打て」といわれた。(『前進』S41.12"将軍学を学ぶ"/『慧妙』H18.2.1)
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たかが酔っばらいのイタズラを、対立候補の殴(なぐ)り込みにデッチ上げ、巧妙に選挙妨害を図(はか)るとは、なんとも恐ろしい"将軍学"があったものですが、池田は、こうした"目的のためなら手段を選ばぬ"謀略(ぼうりゃく)思想を幹部達にも叩き込みました。

●(※学会が犯〈おか〉した言論妨害といっても)たいした妨害ではないよ。どこでもやっている事だよ。(S45.2.27・第31回社長会での池田大作発言/『慧妙』H17.5.1)

口八丁・手八丁でよ。なんでもうまくやるんだ。社会(党)だって方便(ほうべん)を使っている。共産(党)だって目的のためならみんな謀略(ぼうりゃく)じゃないか。一般社会だって利益のためならあらゆる手段をつかう。うちは信心のため、信心を守るため、学会を守るためだ。(S51.6.1・扶桑研修所での池田大作発言/『慧妙』H17.5.1)
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むろん、ここで池田が「信心を守るため、学会を守るため」などと言っているのは、本音に訳せば「学会の勢力を伸ばし、自分の野望を達成するため」ということに他なりませんが、池田に盲従(もうじゅう)する狂信的幹部達は、この池田流"将軍学"を忠実に実行に移していきました。(『慧妙』H18.2.1)







■仰天スピーチの証拠と『聖教』改ざん報道(仮題)
(『慧妙』H18.11.1抜粋編集)

【仰天スピーチと改ざん記事】
<「キン○○コ」発言>
◆んも-、イトマン平和会館なんて、名前変えた方がいいんじゃないか、うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい、イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか、もっといいねー、もっといいその、キンマン、イトマン、キン○○コだよ。(第68回本部幹部会H5.7.7)
ざん
◆更に南は沖縄・糸満平和会館の開館も、おめでとう。きょうから、この3会場でも、衛星中継がスタートしている。(『聖教新聞』H5.7.9)
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なんと、異常発言部分はバッサリと「カット」されているのです。これぞまさに「C(カット)作戦」!!


<「板御本尊ただの物です」発言>
◆宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである。信心の2字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊、何だ。寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です。いちおうの機械です、幸福製造機だから。(第70回本部幹部会H5.9.7)
ざん
◆大聖人は「此の御本尊も、只信心の2字にをさまれり」(御書〈※全集〉1244頁)と仰せである。「信心の2字」の中にこそ御本尊は、ましますと。戸田先生は、御本尊を「幸福製造機」に譬(たと)えられたが……(『聖教新聞』H5.9.9)
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 やはり、都合の悪い部分はバッサリと切り取られ、池田スピーチの支離滅裂(しりめつれつ)さは、装飾を施(ほどこ)されて隠されてしまっています。これは、いうなれば、「偽造写真」ならぬ「偽造スピーチ」!!
 創価学会の欺瞞(ぎまん)体質は、こんなところにも看(み)て取れるのです。



【学会の反論と動かぬ証拠】
池田大作の、その人格や信心を疑いたくなる仰天スピーチを暴露(ばくろ)されてしまった創価学会は、慌(あわ)てて弁明をしました。
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<「キン○○コ」発言について>
名誉会長のスピーチは何度も改ざんされた経験がある。テープ自体の信びょう性についても疑問ですね。悪意をもって編集されたものだ

<「板御本尊ただの物です」発言について>
あの発言は、名誉会長の声とは断定できない。「どんな価値のあるものでも、その価値の分からない者には値打ちがない」といった例(たと)え話を、つぎはぎで編集したもの
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 そこで本紙は、問題の池田スピーチのテープと、シナノ企画から発売されていた『対話シリーズ』ビデオのうち、「池田SGI会長ヨーロッパ広布の旅」と題されたビデオを、声紋解析で有名な日本音響研究所に鑑定を依頼しました。
 しかしてその結果は、

1、指定された部分「糸満平和会館て、(中略)イトマン、キン○○コだよ」に関して編集・改ざんの形跡は、見当らない
2、反訳は、「宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである、信心のなk.信心の2字の中でしか、本尊はないんです。本門戒壇・板本尊、なんだ、寛尊は信心の中にしか本尊ない、ただ物です、いちおうの、機械です、幸福製造機だ」。(漢字、記号は便宜上、発音に添って使用)
3、鑑定資料2(シナノ企画から発売されたビデオ)で池田大作であると指定された音声と鑑定資料1(池田の間題発言テープ)の指定された音声は、同一人の音声と推定する(声紋検査)

 こうして、問題のテープの声は、間違いなく池田大作のもので、編集・改ざんされてはおらず、本紙の反訳も正確であることが証明されたのです。
 以後、創価学会は、この件についてはピタッと沈黙してしまいました。

[画像]:鑑定結果=池田大作の異常スピーチは正真正銘の本物!





■「アメリカSGI&関西合同総会」で見せた奇行(仮題)
―これが池田大作の実像だ!!@―
(『慧妙』H18.8.1)

 今回は、池田大作の品性がよく現われた1本のビデオテープを紹介します。
 そのテープに収められているのは、平成5年1月27日に、アメリカのロサンゼルスで行なわれた「アメリカSGI&関西合同総会」の模様。池田はその中で、聴衆の歓心(かんしん)を買おうとして、様々なパフォーマンスを繰り広げます。
 他の登壇者の発言中、いきなり机を叩き出し、登壇者に向かって意味もなく「クリントン、がんばれ、クリントン」とヤジを飛ばす池田大作。
 その後、式次第を無視してスピーチを始めようとする池田に、側近が慌(あわ)てて駆け寄ると、
 「コーラス?コーラスは後!」
と命じ、次のように語り出しました。
 「私の話が高尚(こうしょう)で、そして解りやすく、そいで哲学的で、そいで文学調で、詩的で、そいで会話的である。頭がそうとう聡明(そうめい)でないと、追いついていけないんです。そいで、行き詰まったところでコーラスやって、みんなウップン晴らしをすると。それが、芸術的、SGIの本当の仏法の行き方なんです。
 哲学的で、文学調で、詩的で、会話的なスピーチ????常識ある人間には、ちょっと想像がつきません。
 しかも、行き詰まったところでコーラスやって、皆でウップン晴らしをするのが、SGIの本当の仏法の行き方である、とは、いったい何のこっちゃ!?と言いたくなります。要するに「思いつき」と「デタラメ」がSGIの仏法なのだ、ということです。
 さて池田は、スピーチの冒頭で、いきなり、アメリカSGI名誉理事長となったジョージ・ウイリアムス氏の批判を始めました。驚くべきことに、本人が幹部席にいるにも拘(かか)わらず、です。
 ウイリアムス氏には人望がなかった、と言いたい池田は、「1人で進軍ラッパ吹いていた」とラッパを吹く真似(まね)。要するに「笛吹けど踊らず」だった、と言いたかったようです。
 池田は続けて、スピーチ原稿を読み始めますが、パフォーマンス好きな池田のこと、真面目な話だったのは十分程度で、話の内容が"真剣な祈り"ということになると、「寝ながらナンミョ・ナンミョ・ナンミョ……何千べんやったって(御本尊に)当たらない」
と居眠り勤行を演じて見せ、「御本尊にピシャッと願いが通じるような、真剣勝負の勤行……」と語りながら、ピストルを撃(う)ったり弓矢を射(い)る真似をして見せるのです。
 ところが、原稿を読むのに飽きたのか、しばらくすると、「ここで話を変える」と宣言し、スピーチを中断してしまいました。
 そして、また壇上の幹部をクサした後、今度は「サンフランシスコの皆さん!」「ワシントン!」「ニューヨーク!」「ハワーイ!」などと全米各地からの参加者に声をかけ、その反応に大げさなパフォーマンスとジョークで答えたのですが、これが、どうせSGIメンバーには日本語が通じないだろうと考えての、メンバーを完全に小馬鹿にしたもの。
 「サンフランシスコの皆さん、今回は関西の交流団がお世話になりました。ありがとうこざいます。(中略)と、お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れることを、私は声を小さくして申し上げておきます
 「クリントン(※当時の米大統領)は元気かしら?あのようにね、口をうまく、うんとうんと人をごまかして、警察につかまんないように
 「ニューヨークの人は、毎日身体を洗っているからきれいです
 「ハワァーイ!(中略)マッハロー、マハロー、馬鹿野郎だ!バッハロー!
 それが終わると、「後の原稿は新聞に出しときます。もう面倒くさいから
と、スピーチを終わらせてしまったのです。
 ちなみに、このデタラメきわまる池田スピーチを感動的な名スピーチに翻訳(といえるのか!?)する、という名人芸を見せていたのが、このたび覚せい剤・大麻取締法違反でつかまった、美人通訳の矢倉涼子サンでした。
 この会合には、はるばる日本から、また、ハワイ・アラスカといった遠隔地から、「池田センセーのスピーチが聞ける!」と会員が集(つど)ったというのに、まともなスピーチもせず、会員を小馬鹿にしたパフォーマンスだけで帰ってしまった池田大作―彼が、会員のことなど全く大事にしていないことが、このビデオを見るとよく判(わか)ります。

[画像]:"居眠り勤行"を演じる池田大作

[画像]:弓を引く真似をして「バーン!」

[画像]:壇上の幹部を皮肉って、進軍ラッパを吹く真似

[画像]:机をバンバン叩きながら「マッハロー、マハロー、馬鹿野郎だ!バッハロー!」

[画像]:最後は、会員の歓声にオーバーアクションで「ビックリしたなァ、もー」





■池田大作の実像を検証する
―自作自演の猿芝居だった"池田本仏論"―
―池田大作の本性は懶惰懈怠の不信心者―

(『慧妙』H16.8.16編集)

 創価学会が謗法(ほうぼう)化していった根元には、すでに指摘したとおり"池田本仏論"があります。
 もとより、末法の仏は日蓮大聖人御一人ですから、
 「四天下(てんげ)の中に全く二の日無し、四海の内豈(あに)両主有らんや」(御書677頁)
の道理で、池田大作が仏でなどあるはずはありませんが、ここでは、池田大作の行体や言動、信条などを検証して、それを裏付けてみましょう。


【本仏を気取った慢心発言の数々】
学会出版物や内部資料の中には、以下のごとく、池田大作の本仏気どりの指導が随所(ずいしょ)に散見されます。

私から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けること です。会合もただ列座しているのと、記別を受けて出るのとでは違う。記別とは信心の血脈です。これなくしては「法華経を持つとも無益なり」である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ、「霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色になる」との御金言のごとく、幸福境界を確立することができるのです。(池田大作『前進』S42.2号)

私は、何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。……私は言ってあげて、罪業を切ってあげているのだ。(池田大作『前進』S41.1)

なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく(池田大作・第40回社長会S45.11.19)

私の頭の中にあることは全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ。(池田大作・第15回社長会S43.8.3)

皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊(こわ)れていてはだめだ。(池田大作『前進』S44.10)

私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何もならない。(池田大作『前進』S45.5)

私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合(きょうちみょうごう) していなければ、異体同心とはいえない(池田大作『前進』S40.6)

私のそばにいたら私になんでも言えるように境智冥合しなさい。それ以外にないよ。私は信心の指導者だ。私しかいないよ。(池田大作『前進』S40.6)

そばにいても、会長の心を知ることは難しい。雖近而不見 (すいごんにふけん)である。(池田大作『前進』S42.2)

"師弟血脈"という観点から大聖人の仏法の本因・本果の流れを見るならば、大聖人のお立場は本因妙の仏法の上の本果妙であり、第2祖日興上人が本因妙ということになる。(中略)今度は私が本果、北條理事長をはじめ副会長が本因の立場になるのである。(池田大作『前進』S52.6)

本仏気取りで弟子檀那(だんな)に成仏の記別を与え、三世十方を見通すがごとき大風呂敷を広げ、自らを福運の当体と言って憚(はばか)らず、自分が功徳を与える、自分と境智冥合せよ、と説く池田大作―まさに"池田本仏論"は、他ならぬ池田大作自身が作出した大謗法であることが、これらの慢心発言から明らかであります。



【懶惰懈怠(らんだけたい)】
<「題目1遍でよい」>
 かつて池田大作は、会員たちに次のように指導していました。
 「私も200万遍(べん)、300万遍の題目をあげてあげて、あげぬいて、少しずつ御本尊様のお力、大聖人様の仏法の片りんがわかってきた程度であります。皆さん方も題目をあげてあげて、あげぬいて、本当に御本尊様の功徳はすごい、偉大なんだ、大聖人の仏法は世界最高なのだということを、自分自身が体得していっていただきたい。」(S40.2.20『会長講演集』第13巻)
 もとより池田が「御本尊様のお力、大聖人様の仏法の片りん」すらわかっていたか、どうか、大いに疑問ですが、時が下り、日蓮正宗から分離独立した後の指導では、露骨(ろこつ)に池田の本音(ホンネ)が出ています。

心から、全世界の創価学会を代表して、中部の壮年部に御苦労様と申し上げます。ありがと。(参加者が拍手して手を振るのに対し)もォ、手の振り方もやっとだしね。それから、今、手を振った人、中風になりません!!顔色がいい。ね、もう少し景気よく振ればねェ、福運がつくんだけど…。(中略)ねェ、朝勤行してない人、ずいぶんいるかもしれないけどさァ、いいですよ、お題目1遍でいいんです(池田大作・平成4年4月26日・第53回本部幹部会)
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 「池田に手を振れば福運がつく」から「勤行をしなくても題目1遍でいい」とは、初信者でも呆(あき)れるような無茶苦茶な話です。
 このような指導を真顔でできるとすれば、池田自身も、もとより「200万遍、300万遍の題目をあげてあげて、あげぬいて」などおらず、大事な化儀(けぎ)である勤行・唱題すら疎(おろそ)かにしていたであろうことが、容易に窺(うかが)われます。


<勤行時間0分>
そして事実、学会の内部資料(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")によれば、池田は昭和45年当時より、五座三座の勤行もまともにしていなかったことが明らかです。

・(昼近くに起床して風呂に入った後)13時30分・勤行 13時40分・研修所発勤行10分
11時00分・勤行 11時00分・離れに行かれる勤行0分
13蒔15分・勤行 13時20分・食事勤行5分
14時04分・勤行 14時10分終了・おそば勤行6分
14時35分・勤行 14時35分・手紙2通書く勤行0分

(学会が裁判の際に証拠として提出した"池田大作の行動記録")

 池田の朝の勤行というのは、ほとんど、5・6分、あるいは0分(おそらく題目三唱のみ)といった、呆れ果てた体(てい)たらくなのです。
 それ故(ゆえ)、かつて、池田大作が総本山大石寺の法要に参詣(さんけい)した折など、わずかな時間の正座で、すぐに足がしびれて立てなくなるのを、多くの僧俗(そうぞく)が目の当たりにしています。


<御茶飲みながら勤行>
 また、池田が、多勢の会員の導師となって読経・唱題(むろん短い時間ですが)することもありますが、その内容・実態を見ると、さらに呆れさせられます。
 というのは、池田の前にある経机の上には、常に茶托(ちゃたぐ)と茶碗(ちゃわん)が置かれており、池田は茶を飲みながら勤行の導師を行なっているのです。
 経机を卓袱台(ちゃぶだい)の代わりにし、茶を飲みながら勤行する―池田の行体の弛(ゆる)み様(よう)には、もはや開いた口が塞(ふさ)がりません。
 このような懶惰懈怠(らんだけたい)そのものの男に、仏祖三宝に対する敬虔(けいけん)な信心など、あろうはずがないではありませんか。





■直訴の青年に周章狼狽
―前後不覚の態で脱兎のごとく遁走!―
―"イケダ体験"雑感―
(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H15.12.1)

 昭和61年10月29日、その日は雲ひとつない快晴であった。「このような日には、神宮外苑の木漏れ日の中を散策すると、気分が最高だろうな」などと思いつつ、筆者は、N青年と共に創価文化会館の案内所の受付に着いた。
 受付には、顔見知りの本部の警備職員達が、来訪者2〜3名の応対をしていた。
 筆者は太田昭宏青年部長への面会を申し入れた。用件は、太田氏と面識のあるN青年を伴(ともな)っての面談であったが、本当の目的は、この案内所で池田大作を捕まえ、N青年と池田を引き合わす事にあった。
 太田青年部長は、当時、問題視されていたN青年との面会を、快く了承し、しばらくの間、案内所で待つよう返答してきた。
 計画どおりである。これで池田大作と遭遇する第1関門は突破できたことになる。
 それにしても、太田氏の人の良さ(悪く言えば脇の甘さ)を、不憫(ふびん)に思わずにはおれなかった。
 というのは、太田氏は、この面会の数ヶ月前、N青年の件で池田大作の逆鱗(げきりん)に触れたばかりであり、そのため、学会首脳達も太田氏に批判を浴びせていたのである。
 太田氏が池田を怒らせてしまった理由であるが、N青年の父親は元都議会の実力者、母親は幾たびも池田大作のセクハラに耐えてきた経緯を持つ、いわば池田大作のウラのウラまで熟知した「池田打倒」の急先鋒であった。あろうことか太田青年部長は、このN青年の人物評を、本部組織センターにおいて秋谷(現会長)や青年部幹部のいる前で、大声で言ってしまったのである。「小多仁さん、N君と会ってきましたよ!なかなかよい青年ですね!皆が心配するような人物ではないですよ」
 太田氏にしてみれば、まだ若いN青年を色メガネで見るのは好ましくないとの思いで、組織センター幹部に言いたかったのであろう。
 これが太田氏の創価学会幹部としての甘さなのである。その結累として、池田大作の怒りを買い、そのあとすぐに聖教新聞社地下の閑職に追われ、また落選確実な東京8区(文京・中央・台東)の衆議院候補になり、悲哀を味わうことになる。
 今、太田昭宏氏は公明党の次代を担(にな)う人材としてクロースアップされているが、上記のような大らかな人柄のため、首脳の中には将来を危慎(きぐ)する声もある。
 筆者は、太田氏の常識的な物事の捉(とら)え方や優しい側面が、変節を繰り返す公明党のスタンスとは、似つかわしくないと思っている。むしろ、太田氏は将来、公明党解党へのリーダーシップを発揮するかもしれない、と逆説的に期待したい。
 ともあれ、この日、N君を学会本部に連れて行った最大の理由は、池田大作と直接会って、率直に意見を述べ、懇談する機会を造ることにあった。
 「池田大作と、どうしても会いたい」とのN君の強い希望があり、御両親の長年の願望でもあったからである。
 そもそも「池田大作と会う」ということは、不可能に近い、といわれていた。
 小心者の池田大作は"おれを守れ"とばかり、過剰なまでの警備陣を配置する。ゆえに、その厳重な池田大作の包囲網をかいくぐって、面会したり拘束したりする事は、はなはだ難しいのである。
 しかし、私達は、この日のために着々と準備を重ね、池田の行動範囲を絞り込み、日程を把握(はあく)することに成功したのである。
 案内所の隅で、私達は池田大作を、今や遅しと待っていた。
 通常、池田は黒い最高級車に乗ったまま、案内所の脇を猛スビードで通過して、建物奥の本部正面玄関に横付けする。
 この時がチャンスであった。その機を逃さず、N君が池田の車を追って、その正面玄関で捕まえる、という計画であった。
 はたして池田大作は、案内所前で乗用車から降り、来客を伴って本部の中へゆっくりと入ってきた。計画どおりである。池田は、来客に何かの説明でもするように、立ち止まって話をしている。池田は、慇懃(いんぎん)にして尊大な態度で来客と接しており、すこぶるご機嫌の様子であった。
 筆者は、頃あいを見て「今ですよ!」とN君の背中を押した。
 N君は「センセー、Nです!センセー、Nです!」と声を張り上げ、「センセー!お話があります」と、駆け出しながら池田に迫っていった。
 この一瞬の出来事に、池田の警護隊をはじめ第1庶務の職員達は、なす術もなく見守るばかりであった。まるで時間が止まったかのようである。
 池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(※池田はN君とは創価学園の校友会で会っている)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎(だっと)のように逃げ出したのである。驚いたことに池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走(とんそう)した。その光景は、大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽(こっけい)な喜劇役者のように写った。
 池田は、よほど気が動転したのか、いつも利用している本部正面玄関と文化会館来客用玄関との区別ができず、文化会館に間違って飛びこみ、あわてて、そこから飛び出してきた。そのため、池田を追ってきたN君との距離がなくなった。
 N君は「センセー!」「センセー!」と追いすがる。その時、池田は「わかってる」「わかってる」「あとで、あとでな!」というセリフを発しながら、奥の正面玄関に消えていってしまった。
 筆者は、この歴史的(?)な出来事の、一部始終を冷静に観察していた。
 一方、この場に居合わせた他の人達は、どのような様子であったか。
 まず、池田に置き去りにされた来賓の、ひきつった顔が印象的であった(池田が車を降りて案内するぐらいの大事な人物と思われる)。また、池田を警護するため、日常的に訓練を重ねてきた池田警護隊の、茫然自失の態。案内所職員の金縛り状態―。どれ1つを取っても、池田大作にとっては、腹わたが煮え繰り返る思いであっただろう。
 私達の本当の期待は、N君の熱情を池田が受け止め、懇談が実現する、というところにあった。これは池田が逃げ出したため、失敗に終わったが、池田大作の真の姿を知ることにより、このような臆病な男を「稀有(けう)の指導者」と錯覚していたことが、私もN君も、よく分かったのである。
 この日、本部全体会議が行なわれたが、出席を予定していた池田大作は、動揺のあまり、職員の前に出ることさえできず、会議を欠席してしまった。
 御聖訓に
 「おごる者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅(しゅら)のおごり、帝釈(たいしゃく)にせめられて、無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し」(御書579頁)
とあるように、池田大作こそ典型的な増上慢の権化、といえるであろう。しかも、池田は、三宝を破壊し、自らを永遠の指導者と位置付ける大悪人である。
 その池田大作に騙(だま)され続ける学会員が、哀れでならない。




■人々の「福運」奪う暗黒の魔王
(『慧妙』H18.2.1)

 この現代の天魔は、自ら次のごとく豪語しました。
 「なんだかんだ云っても、私とつながりがあるから福運がつく」(第40回社長会・昭和45年11月19日)
 「タクシーに先生(池田のこと)が乗って降りると、良い客がつく。私が乗ると、今日はもう心配ない」(第55回社長会・昭和46年12月15日)
 「私の頭の中にある事は全部事件をまぬがれる。頭を通るだけで良くなる。(だから)何でも話しておかねばならないのだ」(第15回社長会・昭和43年8月3日)
 「太陽にあわなければしおれるよ。社長会に入っていのちびろいしたな」(第59回社長会・昭和47年3月31日)
 この言葉のとおりなら、池田の弟子となって一生懸命に活動している学会員は皆、福運に満ちて、商売繁盛、事件を免(まぬが)れ、命を長らえているはずです。
 が、しかし、事実は全く正反対といわざるをえません。
 会員に財務を競い合わせて、やれ「自分は百万円出した」「いや、自分は1千万」などと発表させ、生活保護家庭にまで財務を強行推進した結果、学会員において、金策に行き詰まっての犯罪、サラ金苦による自殺心中夜逃げ―が多発し、随所で家庭崩壊の悲劇が起こりました。
 現に、『週刊朝日』(昭和58年4月22日号)のグラビアには、東京都住宅局が管理する、夜逃げした人々の残していった仏壇が報じられていましたが、その大半が、鶴丸のついた学会員の仏壇でした。
 また、『アサヒグラフ』(同年9月2日号)の特集「サラ金地獄"蒸発"の現場」でも、写真の大半に鶴丸のついた仏具や経本が写っています。
 こうした悲劇は、非活動会員の身の上に起こったことではなく、歴とした第1線の幹部や市議・県議といった人々をも巻き込んで、広く発生してきたのであります。
 さらには、学会員として活動する中で、人格が破綻(はたん)したり、ノイローゼとなって、凶悪犯罪に走ったケースもじつに数多く見られます。学会幹部による詐欺・窃盗・放火・殺人・麻薬・密輸・連続婦女暴行等々、なんと重大犯の3割近くが学会員といわれているほどです。
 なおまた、幸せを願い、真面目に生活していながら、謗法の果報として悲惨な末路となった気の毒な学会員のケースも、数えきれないほどあります(これについては、あらためて紹介することにしましょう)。
 しかして、不可思議なことに、池田が会談し絶讃した各国の指導者達―ルーマニアのチャウシェスク大統領、パナマのノリエガ将軍、ソ連のゴルバチョフ大統領等々までもが、「福運がつく」どころか、相次ぎ崩れ落ちていってしまいました。
 ちなみに、仏法でいう「魔」、とは「奪命者」「奪功徳者」の意であり、第六天魔王(天魔)とは、その一切の魔を司(つかさど)る者です。その意味からすれば、まさに池田大作こそ天魔、「太陽」どころか、関わる者すべてを滅ぼし尽くしていく暗黒の魔王という他はありません。





■幼児の顔に落書き(仮題)
―"自分は何をしても許される"という慢心の極み―
(『慧妙』H18.9.1)

 紹介する写真(@AB)は、昭和40年代、創価学会本部内で撮られたものです。
 『月刊ペン』裁判の記録によれば、池田によって顔に落書きをされた被害者は、当時、創価学会第1庶務に勤務していたYさんの娘。そして、副会長の上田雅一はこの件について、次のように"証言"しています。
 「池田会長は子供が大好きな人で、当時、(学会本部周辺には)幼稚園に入る年頃の子供がたくさんいて、本部近くの路地でいつも遊んでいたんです。
 それを見ていた池田先生が、かわいさのあまり、子供が喜ぶのを知って、ああいうことをしたのです。Yさんの子供だけが、狙(ねら)い撃ちされたわけではありません。私の子供だって何回もそういうことがありましたよ。

 しかし、プライバシー保護のため被害者である幼児の目を隠していますが、少なくとも原版写真を見るかぎり、幼児が喜んでいるようには見えません。否、むしろ、困惑の表情をしています。
 それよりも何よりも、このことを知って、いちばん心穏やかでないのはYさんだっだのではないでしょうか。
 親としては、たとえ相手が誰であっても、自分の子供が慰(なぐさ)み者にされるのを見て平常心でいられるわけがありません。池田とて人の親、その心情が解らぬはずはないでしょう。
 にも拘(かか)わらず、池田大作は、平気で幼児を慰み者にしたのです。これぞ"自分は何をしても許される"という慢心の極みでなくして、いったい何でしょう。しかも、上田の言からすれば、池田はこの1回だけでなく、複数の幼児に対してたびたび、このようなイタズラをしていた、というのですから、もはや呆(あき)れ果てて物を言う気も起こりません。
 およそ、宗教者としての襟度(きんど)が感じられない池田の振る舞いは、通常の神経を持ち合わせた者であれば、とうてい見過ごすことなどできません。
 が、狂信的学会員には、そうした傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いが、池田特有の"ユーモア"に映るのでしょう。そして、そんな池田を増長させているのが、他でもない、池田を師と仰ぐ学会員達なのです。
 写真Bをご覧になれば、それがよく理解できるのではないでしょうか。池田が幼児にイタズラをするのを黙って見ていただけでなく、イタズラされた幼児の顔を見て歯を見せて笑う。中には腹を抱えている者まである--これでは、池田の増長に歯止めが掛かるわけがありません。
 ですから、自分よりもはるかに年長の者や、国賓(こくひん)に対してまで、尊大な態度をとることができるのです。

[画像]=年齢差も、相手の立場も、全て自分を"偉大な師"に見せるために利用する池田大作




■会員と宗門からダブル搾取
(『慧妙』H18.2.1)

 「日蓮正宗を守っていくことは私どもの役目です。(中略)創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの1銭も寄付を願ったり、供養を願うような事はありません」(『聖教』昭和37年6月9日)
と言って、学会がお金を集めるのは日蓮正宗に寺院を寄進したり御供養するためで、学会としては1銭も受けていない(ならば、あの3千名からの膨大〈ぼうだい〉な職員・職業幹部達は、カスミでも食べて生きているというのでしょうか)、と宣伝してきたのです。
 しかし、これらの池田発言は、全て会員を欺(あざむ)くための嘘(うそ)でした。たとえば、
 「正本堂の御供養。5年間であれだけ。10年間はあの倍。あの発表の外に百億はやった。又、かせぐよ」(第44回社長会・昭和46年1月26日)
等の発言からも明らかなとおり、池田は、正本堂建立御供養(学会では、355億円が集まったと発表していました)においても、公式発表した以外に百億円を稼いだばかりか、宗門を恫喝して、納めた御供養の中からも13億7千万円を拠出(きょしゅつ)せしめています。
 さらには、今や年間2千億円以上を集金する狂乱財務(昭和56年には150億円だったものが、今では10倍以上。平成2年などは3千9百億円集めたといわれます)で会員の生活を圧迫する一方、学会の系列企業に、
 「本山の全T・V報告。東洋(東洋物産)でやらせようね、いいね。どれ位儲(もう)かる。10%かそれでは少ない、15%位儲けなさい。かまわないよ」(第53回社長会・昭和46年10月13日)
 「本山のCATV予算はいくらだ。2億1千万か。その見積はそれとして、1千750万技術料として加算しなさい」(第56回社長会・昭和46年12月31日)
と命じ、あらゆる機会を通じて日蓮正宗からも不当な搾取(さくしゅ)を続けてきました。
 また、会員から巨額の金銭を拠出させる大義名分となっていた「日蓮正宗を守っていく役目」すなわち"寺院の建立寄進"という点についても、当時の学会が日本最大の宗教法人であるにも拘(かか)わらず、日蓮正宗の寺院数は日蓮宗のそれに比して僅(わず)か1割程度、それも近年寄進の寺院は小さくて安普請(やすぶしん)、一方、学会の会館は規模建築費ともに「超」がつくほど―という実態を冷静に考えてみれば、虚偽(きょぎ)は明白です。
 要するに池田は、「日蓮正宗のため」と称して会員から徹底的に搾取し尽くし、それで本当に日蓮正宗を守るわけでもなく、かえって日蓮正宗をも搾取する対象としていたのです。
 かくして集金された金銭は、いったい、どこへ消えて行ったのでしょうか。いみじくも、池田は次のように言いました。
 「皆んなは公私混同、公私混同と云うが、私は公私混同で全部公だよ。仏法に私はないよ」(第20回社長会・昭和44年1月22日)
 全国の学会施設のうち約百ヵ所に池田専用施設が設けられ、国家元首も及ばぬような、贅(ぜい)を尽くした風呂、トイレ、ぶ厚いジュータン、壮大なシャンデリア等々が用意されたことは、すでに多くの証言、証拠写真によって明らかといえましょう。それぞれの専用施設が、数億から数十億かけて作られ(しかも、土地代を除いて、です)、調査を受けそうになれば一夜にして取り壊し、また作る―まさに池田発言のごとく、池田は「公私混同で全部公だ」との信念(?)のもと、学会に集まる巨額の金を好き放題に使ってきたのであります。
 かの1億7千万円入り金庫が捨てられていた事件(平成元年7月)にしてもしかり。中西治雄総務(当時)が犠牲となり、全てをかぶって記者会見しましたが、"中西氏個人の商売で得た金が、金庫に入って聖教新聞社の地下にあり、それも昭和46年当時で現在の6億円にもあたる大金を、20年近く忘れていた"などという釈明を、いったい、誰が信じるというのでしょうか。
 この事件発覚の際、『聖教新聞』は、「今度は廃品金庫から1億7千万円。ゴミの中から。欲ボケ社会の戯画(ぎが)・縮図か」(「寸鉄」欄)などと酷評(こくひょう)していましたが、"捕えてみれば我が子なり"で、まさに「欲ボケ」池田学会の「縮図」ともいうべき事件でありました。





■独善性と人間不信
―"目の上の瘤(こぶ)"潰しに懸命の結果・・・―
―"イケダ体験"雑感―
(元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H16.1.1抜粋)

 「なぜ、今日まで池田大作は後継者を育てなかったのか」その原因は、池田の稀(まれ)に見る独善性と、極端な人間不信等に起因する、といわれている。
 筆者は、昭和40年代から約20年間、本部職員として秋谷栄之助現会長の下で働いてきたが、その間、池田の秋谷に対する"嫉妬(しっと)や苛(いじ)め"の場面を数多く見てきた。
 入社した頃、旧聖教別館4階の部屋で、筆者は広報総局長だった秋谷と、毎日のように遅くまで残業していた。
 ある時、秋谷が電話に"ヒソヒソ"と語りかけており、それが何日か続いた。電話の内容は、池田からの理不尽な叱責(しっせき)に対して、事実関係を当事者に確かめているようだった。
 電話を取り次いで分かったことだが、その相手の多くは、矢野絢也(元公明党書記長)や渡部一郎(元衆議院議員)等の親・秋谷メンバーといわれる人たちであった(ちなみに、秋谷栄之助・渡部一郎は、戸田2代会長から、それぞれ「城永」「城克」という名前をもらっていたが、池田大作が、これを嫌い、元の名前に戻させた、といわれている)。
 だが、こうした池田の苛めにも堪(た)えて、実務者として力のある秋谷は、やがて聖教新聞社主幹、副会長、会長へと昇進していく。
 一方、池田大作は秋谷を潰(つぶ)したいのか、長い間、さまざまな人間を秋谷と競わせてきた。それは青木亨(現理事長)、山崎尚見(副会長・元広報室長)、福島源次郎(元副会長)、野崎勲(副会長)等の人たちである。
 山崎尚見などは、公然と"秋谷がなんだ"とばかりに、秋谷に盾突いていたが、それぞれ池田が後ろ盾にいて"けしかけている"のは、周りの職員たちも先刻承知していたのである。
 ある日、本部組織センターでの出来事であるが、第5代会長となった秋谷のもと、20名ほどの職員が仕事中、突然、池田大作が入ってきた。何事かと思った瞬間、池田は秋谷会長をものすごい剣幕で怒り出したのだ。
 池田は、5分間ぐらい秋谷に罵声(ばせい)を浴びせて、意気揚々と帰っていった。秋谷会長は、その間、直立不動で"ハイ""ハイ"と答えているのみであった。私は今でも、その時の秋谷会長の、屈辱にゆがんだ顔を忘れることができない。
 なぜ、新入職員や役職の無い職員の前で、会長職にある人物を叱(しか)り飛ばすのか?筆者は、池田大作の途方もない独善的な振る舞いと暴力団のような口ぶりに、しばらくの間、体の震えが止まらなかった。
 そして、そのような池田大作を観(み)ているうちに、池田からどんどん心が離れていくのを、どうすることもできなかったのである―。
 あれから長い時間が経(た)った。もはや池田大作の余命は、あと僅(わず)かである。
 哀れなるかな、池田は死ぬ瞬間まで、誰も信用することはできないであろう。
 一介の書生から、"天下人"の妄想に迷い、とうとう仏法破壊の極悪人と化した池田大作の終焉。
 我ら「法華講衆」にとっては、創価学会員を猛折伏する機会の到来である。本年「破邪顕正の年」を、歓(よろこ)び勇んで精進してまいりたい。





■池田が恋文に認めたお粗末な「詩」
―これでは入信神話もボロボロ総崩れ―
(『慧妙』H16.3.16・H16.4.1・H16.5.16)

 入信後の池田であるが、信仰面、というより"成果"の面で頭角を現わし始めたのは、文京支部に派遣されてからのことで、昭和24年1月、戸田会長の日本正学館に入社するまでは、しばらく"泣かず飛ばず"が続いたという。
 そんな池田だったが、"女好き"はやはり生来のものと見え、信心は"泣かず飛ばず"でも、女性に対してはマメに働きかけることを忘れなかった。その対象は、他ならぬ三宅妙子さんであった。
 三宅さんの写真をほしがる池田に、三宅さんが不承不承、証明写真ほどの大きさの写真を1枚、渡したことがあった。
 これに狂喜した池田は、その写真を肌身離さず持ち歩いていたという。池田は、そのことを、問わず語りで三宅さんに語っている。
●あれは、昭和23年頃、池田が20才頃のことだったと思います。「映画の券をもらったから」と池田に誘われ、2人で映画を観(み)に行ったこともあります。
 でも私は、池田に対し、恋愛感惰を持つまでには至りませんでした。
 つい最近、池田から当時もらった手紙が出てきましたので、手紙のやりとりをしたことはあったんだと、改めて思い出したくらいです。(三宅妙子)
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 そう言いながら三宅さんが見せてくれた池田の手紙からは、文学青年を気どりながら、何とか自分の"熱い想い"を伝えようとの池田の苦心が伝わってくる。
 たとえば、三宅さんから写真をもらった時の心境・三宅さんへの想いを、池田は次のように書いている。

賢女のphotoを無理に頂いた私の心境を!妙子さん、お互いに若いのです。未完成です。故に、完成を目指し未完成の歌を高らかにうたほうではありませんか。(池田のラブレター)
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文学青年を気どる池田の、三宅さんへの想いは、文面からよく伝わってくる。ちなみに、池田の手紙には、次のような自作の「詩」が添えられていた。

体で見たことをゆう。
体で見たことを書く。
体で見たことを行ふ。
目で見て見えるか?
耳で聞いて聞えるか?
体で読んだものが本当だ。
体で祈ったものは実現する。
体で語ることは誰にも聞える。
体で悟った真理だけが我がものである。

爾(なんじ)の願いを高めよ。
爾の願いを潔めよ。
爾の願いを深めよ。
爾の願いを広めよ。
私欲を離れた願いならば死ぬまで願いつずけよ。
諦めるから叶わぬ。
応答を信ぜよ。
正しき願いは実現する。

 想いを寄せた人に送った「詩」であれば、これは、推敲(すいこう)に推敲を重ねた、池田の自信作(?)なのだろうが、あまりに稚拙(ちせつ)で、とても詩などと呼べる代ろ物ではない。
 さて、これと較(くら)べて、池田の「入信神話」に登場する、かの即興詩はどうか―。

旅びとよ
いづこより来り
いづこへ往かんとするか

月は沈みぬ
日はいまだ昇らず

夜明け前の混沌に
光 もとめて
われ 進みゆく

心の 暗雲をはらわんと
嵐に動かぬ大樹を求めて
われ 地より涌き出でんとするか

 練りに練った自信作と、その場の思い付きで詠んだとされる即興詩。その、あまりの違いについては、小中学生の目にも明らかだろう。しかも、その「即興詩」たるや、当時の池田が知り得るはずのない、戸田会長が後年に作った『青年訓』にソックリなのである。
 もはや、池田の入信神話がデッチ上げであることは、誰の目にも明らかであろう。

 閑話休題。
 こうした池田のアプローチを受けても、三宅さんはこれに取り合わなかったため、2人の関係は"信仰の同志"以上になることはなかったようだ。
 それを逆恨みしたのか、池田は後に、三宅妙子さんに連なる人々を、ことごとく冷遇した。

●私はそういうことに無頓着(むとんちゃく)なので、人から指摘されるまでまったく気付きませんでしたが、言われてみれば、たしかに私たちは冷遇されていたようです。
 でも私たちは、少なくとも学会に在籍していた当時は、池田から感謝されこそすれ、冷遇されなければならないようなことは、何一つしていないと思います。
 そもそも、池田が戸田先生の日本正学館に入社できたのだって、私の母が「蒲田に、こういう青年がいるんですが」と戸田先生に取りなしたからこそなんですから。(三宅妙子)

[画像]:文学青年(?)の"実力"がわかる池田の「ラブレター」=これによって即興詩のデッチ上げまでバレてしまった!?

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『慧妙』は池田青年の手紙を恋文だと揶揄しているが、これは激励文である。竜や大草の愛人が夜の行為を克明に記した「今夜も爆発」「やだよ、そんな娘(こ)は」のような熱烈な日記に比べると、その違いが明白ではないか。(『フェイク』第504号=04.03.28/sf:5724)
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「貴女のphotoを無理に頂いた私の心境を!」などと書く激励文がありますか?社会通念上、それは「ラブレター」と呼ぶのではないでしょうか。念のため、問題箇所を拡大して掲載しますので、よくご確認ください。(『慧妙』H16.4.1)

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 "舞台となった三宅家三女"が全てを語ったそうですが、これを読んで私は、せっかく早い時期から入信しても「やはり持ち続けるのはとても難しいんだ」という感想を持ちました。一生涯不退転でやりぬ<、貫き通すことは、至難のわざ、私も他山の石として身が引き締まる思いがしましたよ。
 (※池田大作が三宅家三女に送った)恋文とやらが本物としたら、それを今まで大事に持っていたのは、余程忘れられなかったのでしょうね。かなわぬ恋は嫉妬(しっと)の炎となったことでしょう。
 女は嫉妬により、石にも蛇へも変わるそうですから、この証言も、あてにもクソにもなりませんね。可愛さあまって憎さ百倍てことよ。
(学会婦人部とおぼしき者による無記名投稿『慧妙』H16.5.16)
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 この学会婦人部は、早い時期に日蓮正宗に入信していた三宅妙子さんが、学会という組織の謗法に気付いて脱会、法華講へ所属を移したことを、「退転」と受け止めているようだ。
 だが、よく考えてみるべきである。もともと創価学会という宗教など存在しておらず、学会はあくまでも日蓮正宗を信仰する信徒団体の1つであったはずだ。
 その学会が、日蓮正宗に背いて別の宗教となった時点で、「退転」したのは学会首脳およびそれに従う会員達である。三宅さんらは、日蓮正宗の信仰を「一生涯不退転で」「貫き通す」「持ち続ける」ために、やむなく学会を脱会するに至ったのであって、話はまったく逆なのである。
 この学会婦人部の感覚は、最初から、池田大作を崇(あが)める創価学会という宗教に入信した人のそれであって、だから三宅さんら脱会者を退転者扱いするのである。ならば、彼(彼女?)らが長年にわたって日蓮正宗の御本尊を拝み、これぞ世界最高の大仏法と述べてきたのは、いったい何だったのか!?げに恐るべきは、道理を弁(わきま)えぬ者の盲信というべきであろう。
 なお、三宅証言は"嫉妬の産物"だ、との論難であるが、そもそも、恋文を送ったのは池田大作なのである。それを送られた側が「かなわぬ恋は嫉妬の炎となる」道理がないではないか。こんな本末転倒の言い掛かりをもって「この証言も、あてにもクソにもならない」というのだから、その知的レベルが疑われよう。
 ちなみに、件の手紙(恋文)は、三宅さんが、取材の際に裏付け資料はないかと捜すうち、保管してあった私信の中から池田の手紙を見つけ出し、これを取材者に提示したところ、取材者の指摘を受けて初めて「恋文」だと気付いた、というのが実際である。このことは三宅さんの名誉のためにも言っておこう。
 なお、件(くだん)の「手紙」が「恋文」であるか否かは、本紙報道にとって、本質的な問題ではない。そこに記された、推敲(すいこう)を重ねた末のものであろう池田の「詩」が、同時期、戸田会長との出会いの際に詠(よ)んだとされる「即興詩」に比べ、はるかに稚拙(ちせつ)であることが問題なのである。

[画像]:池田大作が三宅妙子氏に宛てて出したラブレター
[画像]:入信当時の池田大作の文才を物語って余りある自筆の「詩」








戸田城聖の実像

■大御本尊と血脈信じたが、正見・正念見失うことも(仮題)
(『慧妙』H18.4.1)

【日蓮正宗への信心を持っていた戸田2代会長】
 かくして戸田会長は、牧口氏の「摧尊入卑」という根本的な謗法を学会の中から取り除きました。
 そして、壊滅状態であった学会を、勤行・教学・登山・折伏・御供養等の徹底指導によって再建、わずか10年のうちに75万世帯を突破せしめたのです。
 その戸田会長の根底には、少なくとも先代・牧口氏とは異なり、日蓮正宗の仏法を絶対とする信心があったものと思われます。
 それは、以下のような戸田会長の指導を見れば、明らかであるといえましょう。

◆良き法と、良き師と、良き檀那との3つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、非常に光栄とするものであります(関西本部入仏落慶式・S30.12.13)

◆学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。
 むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳を損なう者は当然そうなる。
 どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである(『信者の大精神に立て』S31.1.29)

◆ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましを願い、畑毛の猊下のお出ましを願って、われらとしては、これ以上の名誉はない。来年の今日までの間に、本当に功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。
 それでは、わたくしが導師となります。(題目三唱)(創価学会第10回総会・S29.5.3)

◆日本中にいる一般の坊主は、全然不用なものである。(中略)20の扉の語を借りれば、「動物」という題で、陰の声が「寺に住む動物の親分」ということになる。すなわち高級乞食である。
 かかる何十万の動物の中で、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人のなかでも立派な僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。
 かかる、立派な教団でも、身近に住む信者はありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、"宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっばい食うことを唯一の願いであるとしている猫坊主が多い"と攻撃して、功績の方を見ない。(中略)かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人御出世の御本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである。
 わずか百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の「出世の御本懐」たる弘安2年10月12日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護したてまつって、700年間、チリもつけずに、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に身心1つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。(中略)もったいないではないか。神々(こうごう)しいではないか。ありがたいではないか。……かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿たる功績こそ、たたえねばならぬことである。この上に、大聖人の御教義は、深淵(しんえん)にして、厳博(げんぱく)であって、愚侶(ぐりょ)の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損することなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのまま伝えられたということは、仏法を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか(『僧侶の大功績』S26.6.10)

◆(戸田会長は)決然と立って、「御供養することは、信徒の務めである。もし、それが使途不明であるとか、収支決算せよとか、御供養を出しもしないうちから、はじめからそんなことを言っておるのは信徒の努めを怠(おこた)っておるものである。信徒は供養することによって利益があるのである。御利益は供養することにある。もし、そのお金を不正に使ったならば、それは使った僧侶が罪を受けるのである。地獄へ堕ちるのである。信徒は清い供養をすれば、それで御利益がある。経文に照らしても、また大聖人の仰せではないか」と叫んだのである(『大日蓮』S40.7.11)

 以上のように、戸田会長は、その心底においては日蓮正宗を信じ、赤誠の御奉公を貫こうとしていたものと思われます。
 しかし、
 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」(御書986頁)
との御金言のごとく、この戸田会長の志を蝕む魔の用(はたら)きが忍び寄っていました。それは、親以上に敬慕した牧口常三郎氏を獄死させてしまった、との無念の想いと、講義中にまでウィスキーを呷(あお)り続けるほどの、並外れた飲酒の弊害(へいがい)であった、といえましょう。



【大酒の弊害か!?正見・正念を見失う】
ちなみに、戸田会長の飲酒がどの程度であったか、NHKの元ディレクター吉田直哉氏は、取材した時の様子を次のように記しています(※場面は、戸田会長が法華経講義に臨〈のぞ〉む定刻の直前です)。

◆想像もしなかったことばかりが起きた。
 「グイッとあけな、グイッと」
 「……いえ、これから撮影…。仕事中ですから」
 「なにィ?それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ」
 黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にするのも勇気が要(い)った。尋常ならぬウィスキーなのだ。
 こんな荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコップのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しビールを垂(た)らして割って、机の上に溢(あふ)れさせるのだ。その濡(ぬ)れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押してよこして、飲め!
 とこんどは大声の命令である(中略)
 ひとくち飲んで不覚にもむせると、
 「グイッとあけな」
と眼がすわっている。ビールをあおりながらウィスキーをストレートでのむのを、アメリカではボイラーメーカーと呼ぶ、というのはのちに得た知識だが、ビールとウィスキーの量がこの場合逆転しているのだ。いかに教祖でどんな酒豪でも、酔わないわけがない。(中略)
 そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ち上がった。ネクタイは右の方にはね上がり、スボンは下がってシャツの裾(すそ)が半分以上出て、みるからに酔漢(すいかん)の姿である。(元NHKディレクター・吉田直哉)
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 これでは、仏道を正しく修していくための正見・正念が持(たも)てるはずがありません。
 仏経典には、飲酒による弊害が種々説かれていますが、その中に
 「瞋相(しんそう)を現ず(他に対して、むやみに怒りを顕わにする)」
 「闘訟(とうじょう)を増す(他に対して、諍〈いさか〉い、喧嘩〈けんか〉を吹っ掛けることが増える)」
 「智慧減少す(物事の理非曲直〈りひきょくちょく〉を分別する智慧が損〈そこ〉ねられてしまう)」
等とあります。
 まさに戸田会長は、尋常ならざる大酒を浴びるように飲む中で、"智慧減少"し、「牧口会長が獄死したのは、弱腰だった日蓮正宗宗門のせいだ」「学会がこれだけ頑張っても、非協力的な僧侶が多くてけしからん」等といった"瞋相"を現じ、また、その"闘訟"の思いをどんどん暴走させてしまいました。
 その結果、戸田会長率(ひき)いる創価学会は、「狸祭り事件」と呼ばれる騒乱事件(これは、立宗700年祭の大法会の最中、総本山境内で多数の学会青年部が、1人の老僧に集団で暴行を加えた事件で、警察も出動する騒ぎとなった)を引き起こしたのをはじめ、機関紙上で宗門に対する揶揄(やゆ)・中傷を繰り返すに至ったのです。
 以下に、当時、戸田会長が自ら論述したものの一部を、紹介しておきます。

◆牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信にたたれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が、国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌(りゅうしょう)のためには国家諌暁(かんぎょう)よりないとして、「日蓮正宗をつぶしても国家諌暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ」と厳然たる命令をくだされた(略)
 折伏もせず、正法の流布に身命を捨てえない坊主は、じつに困ったものである。この考えにまかせて、学会人は身命をささげての折伏行をなしていることは、申すまでもないことである(『創価学会の歴史と確信』S26.8.10)

◆軍部に脅(おど)されて梵鐘(ぼんしょう)を取り上げられ、軍部が消えたら又作り出す。奥さんの前でヘイヘイして、居なくなればつまみ食いする女中のような坊主だ(『寸鉄』S26.7.1)

◆御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね(『寸鉄』S26.7.10)

折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばることばかりを知っとる坊主(『寸鉄』S26.12.10)

◆正宗信者に信心が足りない、旧信者は特に足りない、僧侶の中に特別に足りぬ者がいる様に見える、国家の救済をどうする気だ(『寸鉄』S27.7.10)

平左衛門の後身、宗会議員と現る。仏恩広大にして、逆縁の輩(やから)、今大聖人の仏法の中に生まれて、唯1人の大信者をそねみ恨む、習性恐るべし(『寸鉄』S27.7.20)

「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」「乞食坊主」「化物坊主」(『寸鉄』S27.7.20)

◆仏様でもないくせに仏様のような顔をして威張る坊主が気に入らない(『寸鉄』S27.12.1)

◆坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか(『寸鉄』S27.12.10)

 これらの戸田会長の論調は、日蓮大聖人が『四恩抄』に
 「譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく『五箇(ごか)の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明(とうみょう)を減(めっ)せんと思へ』と説かれたり」(御書268頁)
と戒められているように、正法受持の御僧侶を「失あり」と言って責め立て悩ませる、まさに、仏法の大灯明を滅せんとする重罪である、といえましょう。
 ただし、戸田会長は、大御本尊と血脈に対する根本の"信"という1点で、何とか日蓮正宗に繋(つな)がり止まっていました(それ故、前述「狸祭り事件」においても、時の御法主・第64世日昇上人から誡告を受けて謝罪文を提出し、随順を誓っています)。
 そして生涯をかけて、75万世帯の大折伏と、日蓮正宗に対する外護を成したのです。


 以上に見てきたように、創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったとはいえ、牧口時代には、異流義の在家教団という路線を指向し、戸田時代には、大功績を上げる一方、宗門軽視・僧侶誹謗という誤った体質を孕(はら)んでいました。
 日蓮大聖人は、
 「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書827頁)
との道理を御示しですが、牧口・戸田の後を継いだ第3代会長・池田大作は、牧口時代の在家教団路線や戸田時代の宗門軽視を、そのまま継承し、さらに増幅させる路線を取りました。
 これによって創価学会は、元々間違いを多く含んでいた団体でありましたが、完全な大謗法団体となり、ついに平成3年11月、日蓮正宗から破門されるに至ったのです―。
 なお、戸田会長については、いろいろな誤りや行き過ぎがあったとはいえ、本心では命がけで日蓮正宗の仏法を護らんとした、氏の信心を想うと、真実の歴史の公表には心苦しいものがありましたが、将来に向けての教誡のため(再び日蓮正宗内に、濁流の源を発生させたりしないため)、やむなきことと決断した次第であります。





■戦時下の国家諌暁について
(<法蔵>H18.11.25)

1◆当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖の教義に背けば罰があたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。
 昭和18年6月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、2上人立ち会いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(御書全集1618頁)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
 「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん」と。
 まことに大聖人の御金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部21名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである」(『戸田城聖全集』第3巻所収『創価学会の歴史と確信』より一部抜粋)
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この戸田会長の論文は、「上」「下」にわかれており、会長就任間もない昭和26年の『大白蓮華』(「上」は7月号、「下」は8月号)に発表された。(『地涌』第667号)


2◆日蓮大聖人様も、仏さまですから、なかなかじょうずにものごとをこしらえられまして、三大秘法の仏法をお説きくださるのにも、あそこで、広宣流布してしまったならば、後のものがろくなことをしないとお考えあそばしたか、三大秘法の戒壇建立を後の弟子に御付嘱になった。
 しかし、戒壇建立ということは、大きな仕事でありまして、なかなか実現するものではない。で、大聖人様以来、代々の法主猊下はみな、天皇陛下に、戒壇建立、また文底秘沈の仏法を日本の国におかなければ、日本の国の繁栄はないと、御諌暁あそばしたのであります。それが、わが当門流の歴史でありまして、当門流の名において、その戒壇建立ということができないのにもかかわらず、代々の法主猊下がこれをなされたということは、のちのちの弟子どもの教育のために、国主諌暁の実態を明らかにするためにやったのであります。3代日目上人は、京都へ折伏の途中でおなくなりであります。70いくっで。これ絶大なる、当門流の弟子檀那に課せられた大きな問題なのです。
 さて、それがいつできるかという問題です。天皇陛下に実力のあったときに、天皇陛下が、広宣流布、すなわち、日本中の人間に、日蓮正宗の御本尊様を拝ませなくてはならんということを、ご決定あそばされれば、日本の国は、いうまでもなく広宣流布の国になる。
 ところが、考えてみると、そうはいきません。ある御僧侶がいうには、「お山がこんなチッポケでは、広宣流布になったとき困ります」といったら、「いやあ、天皇陛下が信心したときには、寺などはちゃんと建ててくださる」といったが、そういうのん気なことを考えているようではまずいと思う。
 いったい、天皇陛下が、この日蓮正宗を信じられるわけがない。代々の天皇陛下というものは、京都の念仏宗と縁が深い。まえに枢密顧問官というものがあって、国の政治を直接ひきうけて、皇族会議、皇族といって偉そうに飾っていたときには、それで世の中が通ったけれども、ひとたび、こんどのような事件が起こってみると、皇族という肩書きでは、商売も通らない。それでたいてい損しているのです。その御前会議がいくら開かれたって、根本的に日本の国を救う大仏法なんてわかるわけがない。枢密顧問官のおじいちゃんなんかにわかるわけがない。国会を指導できるわけはない。どうにもならん。いかなる偉い天皇陛下が現れても、これだけはやりきれないと思う。ひじように私は、これに苦慮する。広宣流布というものができるものか。(東京・中央大学講堂S29.4.29/『戸田城聖全集』第4巻146頁〜)
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 1◆は、昭和18年頃の牧口会長の確信について、戸田会長が戦後の昭和26年に発表したものである。それによれば牧口会長は「一国が滅びることを、嘆」(1◆)き、「いまこそ、国家諫暁の時ではないか」(1◆)と叫んだという。つまり、牧口会長にとっての国家諌暁の目的は戦争に勝つことだったのである。戦争に勝つためには日本一国が正法に帰依しなければならない、そのためには国家元首たる天皇陛下を折伏しなければならない、というのが牧口会長の考え(構想)であった。
 1◆を発表した昭和26年当時は、戸田会長も戦時下の牧口会長の国家諌暁の姿勢を高く評価していたのであろう。しかし、昭和29年の戸田会長は、「天皇陛下が、この日蓮正宗を信じられるわけがない」と明言している。この考えからすれば、戦時下の牧口構想が荒唐無稽な発想であったことになる。
 さらに歴代上人の国主諌暁について「のちのちの弟子どもの教育のために、国主諌暁の実態を明らかにするためにやった」としている。これでは、戦勝のためにも、広宣流布のためにも、国主諌暁は意味のないものになってしまう。
 いずれにせよ、戦時下の牧口会長の国家諌暁について、戸田会長は最初(昭和26年まで)は評価したが後(昭和29年)に、「国家諫暁」(1◆)しても「天皇陛下が、この日蓮正宗を信じられるわけがない」(2◆)したがって、国家諌暁によって「一国が滅びることを」(1◆)防ぐことはできなかった、と考え直したのである。

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●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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時機を弁えずに、勝手に暴走した牧口会長。しかし、氏が国家諌暁をしたという事実はない。

●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった(乃至)安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した(乃至)此の盛挙は取止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1)
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当時、宗門が国家諌暁しないことを批判した信徒がいたようだが、日亨上人は、その人を指して「低級な御信者」と批評されている。もしかして「低級な御信者」とは牧口会長のことか??








牧口常三郎の実像

■牧口常三郎関連年表

<明治36年> 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。


<大正1年>
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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この国家観は入信後も変わらなかったようである。


<大正3年頃> 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー


<大正5年> 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)


<昭和3年>
・6月 東京・常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信

・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)
●(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)


<昭和5年>
・11月 「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)


<昭和6年>
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表
◆百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)
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 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
 結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)


 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和12年>
・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

 昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
 それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
 この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

●牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
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こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1)

●本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1)
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牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。(『慧妙』H18.3.1)


<昭和16年>
・11月
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)


<昭和17年>
・1月
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・5月17日 創価教育学会第4回総会

・11月 創価教育学会第5回総会


<昭和18年>
・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・5月
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・6月
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・6月初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・7月6日 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)


<昭和19年>
・9月6日
●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)
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牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


<昭和20年>
・7月5日
●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
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会話内容から考えて、上記『人間革命』での堀米尊師(日淳上人)との再開の場面と同じときのものであろう。




■牧口常三郎の戦争観

<天皇制>
一般人以上に天皇への忠誠を大切にし、天皇と国家は一体と考えていた。弾圧回避の組織防衛のためとはいえ、感謝のための神社参拝を容認し、天皇は現人神などとする邪義を展開。神札については、当初は撤去焼却していたが、本山の指導に従い、柔軟に対応しようとする。逮捕後は、国法遵守を一層明確にする。

<戦争観>
侵略戦争である15年戦争(特に太平洋戦争)の最終局面を『立正安国論』で説く他国侵逼難と捉え、その原因は謗法であると主張。しかし、その一方で、日本の海外派兵、参戦を容認。戦勝を願い、戦勝のためには国家諌暁が必要だと考えていた。ただし、国家諌暁の事実はなく、逮捕後は「国法にはどんなにでも服従する」と。



【関連年表】

【池田学会、歴史を捏造】

【天皇中心主義】

【戦争翼賛する牧口学会】

【国家諌暁】
<訊問調書>
<戦争翼賛は組織擁護の方便?>

【柳田國男の証言】

【『人生地理学』】

【『立正安国論』と平和主義】
<戦争反対と「立正安国」は次元が違う>
<第65世日淳上人>

【戯論粉砕】

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【関連年表】
・1903(M36) 『人生地理学』を発刊
●同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。

・1912(T1)
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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この国家観は入信後も変わらなかったようである。

・1914(T3)頃 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(<芳野朝廷研究会>WS)
[画像]:大日本皇道立教会のメンバー

・1916(T5) 『地理教授の方法及内容の研究』を著す
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)

・1925(T14) 治安維持法

・1928(S3)6. 日蓮正宗に入信。続いて戸田も牧口の紹介で入信(『牧口常三郎全集』第10巻78頁)

・1930(S5)11.18 「創価教育学会」(創価学会の前身)を創立(<SOKAnet>WS)
●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・1931(S6) 満州事変(15年戦争開始)

・1937(S12) 日支事変

・1941(S16)11.
●北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)

・1941(S16)12.8 太平洋戦争開始

・1942(S17)1.
●警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・1942(S17)1.6 大都市配給制実施(『富士年表』)

・1942(S17)4.18 米B25爆撃機13機日本本土を初空襲(同)

・1942(S17)5. 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・1942(S17)5.17 創価教育学会第4回総会

・1942(S17)11. 創価教育学会第5回総会

・1943(S18)4. 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・1943(S18)5.
●牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・1943(S18)6.
●東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・1943(S18)6.初旬 本山での神札指導
●学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・1943(S18)7.6 牧口、逮捕
●牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・1943(S18)10.15 従来の建物・施設疎開に加えて、建物疎開に伴う人員疎開対象地区として京浜、阪神、名古屋及び北九州が重要都市に定められた。(『牧口常三郎全集』第10巻328頁)




【池田学会、歴史を捏造】
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国家が強権で民衆をおさえこんだ時代。創価学会牧口(常三郎)初代会長は、国家主義にかたよらない、世界市民の育成を訴えた。侵略戦争に反対し、信教の自由のために苦闘した。そのため、牧口会長と戸田(城外)理事長(当時)は不当にも逮捕され投獄(1943年)。牧口会長は1944年11月18日、獄中に殉じ、1945年7月3日、戸田理事長は衰弱した体で豊多摩刑務所を出獄。壊滅させられた創価学会の再建に歩み出した(『SGIグラフ』H11.5/『フォーラム21』H14.3.15)
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牧口や戸田が不敬罪や治安維持法違反で逮捕されたことは事実だが、その理由を「国家主義にかたよらない、世界市民の育成を訴えた。侵略戦争に反対し、信教の自由のために苦闘した」ことによると主張することは、真っ赤なウソであり、歴史の偽造以外のなにものでもない。




【天皇中心主義】
●わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15)
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ここには「国」に優先して「個」を大事にし、国家よりも子どもの幸せを優先するという考えは微塵もみられない。

●我国の主権は、即ち万世一系の天皇にましまして、吾々国民から言へば上に万世一系の皇室を戴(いただ)き奉(たてまつ)るのである(T5「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻277頁/『慧妙』H17.11.1)
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我が国の主権者は天皇・皇室であることをしっかりと教え込め、と訴えているのだ。

●我々は天皇陛下の御為に、1人でも多く折伏し、実行を以て示さねばならぬ(S16.7「目的観の確立」『牧口常三郎全集』第10巻8頁)

●東亜共栄圏乃至世界列国にこれからの新秩序の中核として吾等が実証によってこゝに提供せんとする最高価値の大善生活法は、人生の理想として何人も渇望する所のものであり、仏教の極意たる成仏法こそ之に応じた妙法であり、又「惟神(かんながら)の道」の真髄も之でなければなるまい。所謂(いわゆる)皇道精神もこれ以外にあるべきはない(S16.8.20「大善生活法の提唱」『牧口常三郎全集』第10巻9頁)
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[惟神の道]かんながら-のみち=神代から伝わってきて、神のみこころのままで人為の加わっていない道。神道(しんとう)。〔近世、国学者が用いたことに始まる〕(『大辞林』)

●大臣も知事も他の百官も権力に於いては悉く、天皇陛下の大御稜威(みいつ)に摂(せっ)せられる。故に一切の政治機関のあらゆる権力は悉く、天皇陛下の統治権の発動に過ぎない(S16.12.5「大善生活法の実践」『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

1●万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち天照太神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されているのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある「天皇」を最上と思念奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。「義は君臣、情は父子」と仰せられているように、吾々国民は常に天皇の御稜威の中にあるのである。恐れ多いことであるが、十善の徳をお積み遊ばされて、天皇のお位におつき遊ばされると、陛下も憲法に従い遊ばすのである。即ち人法一致によって現人神とならせられるのであって、吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。(S17.11『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻363頁)
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「人法一致」などという語をつかって、宗義にはない思想を展開してまで、皇国思想におもねる。

2●吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(S17.11第5回総会「大善生活実証録」『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)

学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと(戸田城外=城聖「通諜」S18.6.25)
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文面を考えたのは戸田理事長(当時)である。しかし、「天皇中心主義」という語は、大日本皇道立教会なる団体に所属するなど、天皇制に対して深い思い入れのあった牧口会長が口にしていたものであろう。この語は牧口会長の造語ではなく、当時大石寺に出入りしていたという極右団体がさかんに使っていたという(<「通諜」問題総括>参照)。↓

極右の朝日平吾も大石寺に参篭したことのある人である。 また他面、牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。・・・(元直達講副講頭・竹尾清澄『畑毛日記』/『慧妙』H6?)
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朝日平吾は大正時代の人であるが、牧口氏の入信が昭和3年であるから、あるいは入信前(内得信仰時代またはそれ以前)に、折伏親の三谷素啓氏らを通じて交流があったのかも知れない。上記記述は、別のテーマ(牧口氏らが日淳上人を誹謗し、宗門と疎遠になった経緯)で紹介された『畑毛日記』の記事の端っこに偶々掲載されたものでる。そのため残念ながら、前段の内容は不明である。しかし、「極右の朝日平吾も大石寺に参篭・・・また他面、牧口氏の側に」とあるから、朝日平吾についての記述は、牧口氏との関連で書かれたことは間違いない。


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>問 王仏冥合一天四海帰妙法と云ふ事は、上は 陛下より下国民に至る迄で日蓮正宗の本尊に帰依することなりや。
答 左様であります。
(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』201頁)
>天皇陛下も凡夫であって(中略)間違ひも無いではない。
(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』203頁)
>日本国民は 陛下に忠義を尽すのが臣民道であると考へます。之は私が法華経の真理から左様に悟って居るのであります。
(「訊問調書」『牧口常三郎全集第10巻』203頁)
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ここに書かれていることは、仏法の正義から逸脱しているようには思われない。これが、牧口会長の真意であると信じたいところである。が、しかし、逮捕前に公式の出版物で表明した天皇観(1●2●)は、仏法上の邪義が含まれている。これを、どう解釈するか。

[解釈1]=組織防衛のために1●2●のような邪義を方便として展開、訊問調書では本心を述べた。
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戦後の創価学会が主張する牧口像="身命を賭して国家諌暁しようとし、最後まで神札拒否を貫いた"という主張と完全に矛盾する。また、組織防衛のために方便を駆使したというのなら、逮捕されても同様の主張をするはずである。そうでなければ、さらに逮捕者が拡大することになり、解散命令が出ないとも限らないからだ。解散命令が出なかったこと自体、訊問調書が宗義書に基づいて書かされたことを示唆する。

[解釈2]=組織防衛のために1●2●のような邪義を方便として展開。宗義書等が押収されていたから、その内容に沿った訊問調書が強制的に作成された(牧口会長自身の筆答であることを否定するものではない)。
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戦後の創価学会が主張する牧口像="身命を賭して国家諌暁しようとし、最後まで神札拒否を貫いた"という主張と完全に矛盾する。

[解釈3]=1●2●の邪義は本心。訊問調書については、宗義書等が押収されていたから、その内容に沿って強制的に作成された(牧口会長自身の筆答であることを否定するものではない)。
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この場合は、牧口会長の信念は貫かれた可能性を否定できない。しかし、その信念は仏法から逸脱していたことになる。

[解釈4]=1●2●の邪義は本心。訊問調書の内容も本心。
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この場合は、牧口会長の信念は貫かれた可能性を否定できない。しかし、その信念は仏法から逸脱していたことになる。

★上記の解釈のうち、[解釈1]または[解釈2]が真実に近いと思われる。牧口会長が、日蓮正宗の本尊に帰依しなければ真実の幸福は得られないと考えていたことは、逮捕前の氏の主張からも明らかである。。頑なな神札拒否や性急な国家諌暁の主張は、その強い信仰心の現れと思われる。しかし、天皇の解釈については組織防衛のあまり、邪義を展開。頑なな神札拒否については、本山の指導後より柔軟となり、逮捕後の獄中書簡では、国法遵守の気持ちが一層明確に表明されている。すなわち、国家諌暁の主張は、宗門の指導後、一時的な反発もあったようであるが、結局撤回されたのである。

●我々は決して寺を遠のけとは言はない。寺を離れたら原理を失うことになり日蓮正宗でなくなる。是だけが正宗で他はすべて邪宗であります。(S17.5.17「大善生活実証録」『牧口常三郎全集』第10巻145頁)

●皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること(戸田城外=城聖「通諜」S18.6.25)

●国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口「獄中書簡」S19.3.16/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)

●御上の事は何んでも従ふ(牧口「獄中書簡」S19.3.27『牧口常三郎全集』第10巻405頁)




【戦争翼賛する牧口学会】
●若(も)し日本をして、英国や独逸(ドイツ)或(あるい)は丁抹(デンマーク)和蘭(オランダ)等の如く、近隣に直接に強圧力を以(もっ)て居る強国があつたならば、平常大なる力を其(その)方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却(かえっ)て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(T5「地理教授の方法及内容の研究」/『牧口常三郎全集』第4巻273頁)
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"外敵"に対する防御のみならず、日本の権勢拡大のためにも弱い国家に対して「力」を使え、と力説

●創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)
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創価教育学会が、、当初から反戦・平和を唱え、天皇制を批判していたのなら、軍人や植民地支配の最高責任者に顧問就任を要請するはずなどなく、また軍人らも、要請されたとしても、それを承(う)けようはずがない。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
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「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。牧口会長は、戦争に反対するどころか、教育の分野においても戦時下に即した対応の必要性を認めていたのである。

●大善生活は個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなくて、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであらう。全体主義とはいへ己を忘れるが為に、云ふべくして行はれないやうな空虚なる偽善生活ではなく、自他共に共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る、真実なる全体主義の生活のことである。全体のためと共に、各個人にもその所を得しめる皇道精神の理想と一致することが知れるであらう(S16.10.20「大善生活法即ち人間の平凡生活に」『牧口常三郎全集』第10巻14頁)

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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大東亜戦争(太平洋戦争)で赫々たる戦果があがっているのは、日本が法華経の護持の国であればこそであり、勝利の戦果を聞く時に総会を開催することは感激の極みだというのである。宮城遥拝に次いで首脳幹部が大東亜戦争の戦果を賞賛する。ここには侵略戦争に反対したという事実も、軍国主義に抵抗した事実も全く見あたらない。あるのは侵略戦争に迎合協力する体制翼賛団体としての創価教育学会の姿だけである。

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

●(※岩崎洋三理事)我々は大東亜戦争を戦ひ取っている、日本帝国の銃後の一員として課せられた一大使命を発見する者であります。産業報国が然り、職域奉公が然り貯金報国が然り簡素の生活が然り、而し斯る一通りの事に依って銃後の使命足れりとする創価教育学会の会員が万一ありとすればそは誤れるの甚しき物であります。然らば我等の使命は何ぞや。折伏之のみであります。折伏に於て此の幸福の生活を世間に延しひろめて、不安と疑と嫉妬と排斥ときづなと権謀の世界の消へ去った時こそ、たとへ何年でも大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜く銃後が築かれるのである(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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八紘一宇の思想に基づく大東亜共栄圏を建設するために、通り一遍の協力のみならず、「大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜」ける優秀なる「銃後の民」を築くのが、創価教育学会員の一大使命だというのである。創価教育学会の実態が、創価学会の言う「侵略戦争に反対」する「反戦・平和の団体」ではなく、軍国主義体制に迎合する体制翼賛団体であったことは、第4回総会での一連の幹部発言に照らせば明瞭である。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵(あんど)せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以(ゆえん)である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある(S17.5「大善生活実験証明の指導要領」『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

●(※理事の1人)いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある(創価教育学会第5回総会『大善生活実証録』S17.12.31発行)
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[聖戦]=宗教的に神聖とみなされる目的のために戦われる戦争。また、正義の戦い。(三省堂『大辞林』第2版)

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。

●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)

●洋三(牧口会長の三男、享年38歳)戦死の御文、(中略)病死にあらず、君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ唯だ冥福を祈る(「獄中書簡」『牧口常三郎全集』第10巻300頁)
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これを、家族を守り検閲を逃れるための方便とすることはできない。なぜなら、牧口氏の他の獄中書簡には戦争翼賛、皇国讃歎の記述はないからである。つまり、一々君国賛美の記述がなくても検閲は通っていたのである。そもそも妻子を守るために真意を隠すような態度で「反戦思想を貫いた」などといえるのか?




【国家諌暁】
<「訊問調書」>
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逮捕後も、安国論を示しながら「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法國である処から起きて居ると思ひます。故に上は陛下より下國民に至る迄総てが久遠の本仏たる曼荼羅に帰依し、所謂一天四海帰妙法の國家社會が具現すれば、戦争飢饉疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常に於ける各人の生活も極めて安穩な幸福が到来する」と言われた。仏法教義のことがあるため、「訊問調書」は牧口先生自ら調書を書くのを手伝われたこともわかっている。
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 もし、特高刑事の前で、政府による戦争行為を批判したのであれば、それ自体が大問題視され、当然、起訴状にもその事実が記載されていたであろう。しかし、実際には、起訴状には牧口会長が反戦論者であることを示す記述は一切ない
 このことからも分かるように、「現在の日支事変・・・」の発言は、戦争批判ではないと考えるべきである。戦争によって多くの死傷者が出ることは不幸なことであり、戦争がないにこしたことはない。それについては時の政府とて否定しなかったであろう。日支事変や大東亜戦争も、多くの死傷者を出したという点では、不幸なことである。だからこそ仏法も戦争を三災七難の中に含めているのである。そのような不幸な戦争をしなければならなかったことは止むを得ないこととはいえ、その原因の元を糺(ただ)せば謗法にある、というのが牧口会長の見解である。その辺のニュアンスは刑事には伝わっていたはずであり、だからこそ、取り立ててこの発言を問題視しなかったのである。
 ところで、『立正安国論』を示して日支事変や大東亜戦争の原因が謗法であると主張したとあるが、これは少々おかしいのではないか。『立正安国論』に示された戦争に関する難といえば、他国侵逼難である。この難は、他国から侵略されるというものである。だから、牧口会長が、自国から進んで他国へ侵攻した日支事変や大東亜戦争をもって他国侵逼難と捉えていたとすれば、事実誤認というべきであろう。

●三災七難すでに現れ、ついに未だかつてなき他国侵逼の大難も、厳然と現れたことは、御承知のとおりです。(戸田城聖発言S23.11.12『人間革命』第3巻「結実」)
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太平洋戦争を含め、満州事変以降のいわゆる15年戦争は、明らかに日本軍から仕掛けた侵略戦争であった。それでも形勢逆転し本土空襲、無条件降伏による連合軍の日本上陸という事態を他国侵逼難と捉えている。

●「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」といふ剣道の真髄を、実戦に現はして国民を安堵せしめられるのが、今回の日支事変及び大東亜戦争に於て百戦百勝の所以である。それは銃後に於けるすべての生活の理想の要諦でもある。(『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻129頁)

吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(S17.11第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版)


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検挙され訊問を受けた創価教育学会幹部など、種々の証言によると、この訊問調書の供述は牧口自身の筆答が大半であることが判明している。(『牧口常三郎全集』第10巻184頁)
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「訊問を受けた創価教育学会幹部」「種々の証言」とは誰なのか?同書の発行・編集者が学会とは無関係の者であれば、信用するところであるが、学会関係者が発行・編集しているから、具体的に証言者及び証言内容を示さない限り信憑性は低い。また、この記述を信用したとしても「牧口自身の筆頭」は「大半」である。残りの部分は官憲が作成したことになる。そうであれば、難解な純粋教義に関わることについては牧口会長に書かせ、神札不敬など起訴事実にかかわる部分は官憲が作文したと考えるのが自然である。また、既に宗義書が押収されていたから、その内容に沿った供述を筆答させられたのであろう。

3●取調官があんまりひどいデッチ上げをいうので「そんなバカなことはない」と食ってかかろうものなら両手を背中までもっていって後手にしばる、足もしばって転がしてしまう。口にはゴムでつくった丸い猿ぐつわをくわえさせられて、しめつけられる。物も言えない・・・。ところが向こうの机の上にはちゃんと質問書ができているんですね。(中略)こちらの言い分も聞かないで、どんどん書いていっちゃう(中略)取調官は書くだけ書いてしまうと、「きょうはこれで終わりだ。えらかったろう。ちょっとこれにハン押してくれ」。ハン押せったって、大国さんは手をくくられている。そうすると印肉をしばられている後の手へ持ってくるんです。あおむけに転がされているのを今度は裏がえしにしてうつぶせにして、上になった手の指に印肉をもっていってぴしゃっと引っ付ける。それで自分がちゃんと印を押したことにされてしまった、というんだからひどいもんです。署名の字も大国さんに名前を何枚も何枚も書かせ、それをもってあとで特高が調書を間にはさんで、なぞる。これで、自分が書いたことになる。(大本事件・徳重高嶺『宗教弾圧を語る』岩波新書12頁〜)
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訊問調書は、逮捕を正当化するために、容疑事実を裏付けるように官憲によって"作文"されていたのです。

[資料]:牧口常三郎に対する起訴状


<戦争翼賛は組織擁護の方便?>
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既に特高は、創価教育学会の総会にも監視に表れるようになり、第5回総会ごろにはほとんどの会合が監視下になった。牧口初代は個人活動の思想家ではない。当時数千人に及んだ民衆を組織した運動の責任者であり、主導者であった。内外からできえる限り会員を守り、なおかつ運動の目的を遂げなければならなかったのである。よって時と場合において韜晦(とうかい=才能や学問をつつんであらわさないこと)せざるを得ない
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 これは、『創価学会の歴史と確信』で描かれた牧口会長像に大いに反するではないか。同書をはじめとして戦後の創価学会による牧口像は、国家諌暁を声高に叫び、死をも厭わずに国家権力に対峙したというものである。そのような牧口会長が「内外からできえる限り会員を守り」、「時と場合において韜晦」したというのであれば、氏は一体、本気で国家諌暁をする気があったのか、疑わしいという他ない。まさに"あちらが立てれば此方がたたず"である(笑)。
 牧口会長にとっての国家諌暁の動機は太平洋戦争に勝って日本を救うことであった。そうであれば、氏には時間的猶予などなかったはずである。また、国家諌暁すれば、組織全体に大難が降りかかってくることは誰の目にも明らかなことである。それなのに、既に配給制が実施され、本土空襲も始まったという時期に、弾圧回避の戦争翼賛発言をしていたのである。こういう態度の人を普通、反戦論者・平和主義者などとは言わない。なぜなら、一般庶民でも陰では"戦争はいやだ""このままでは日本は負けるだろう"くらいのことは言っていたからである。陰では反対していても、決して公言はできなかったのが普通の人々の態度だったが、牧口会長も普通の人々と大同小異だったということになろう。

●最近、文部省が軍事訓練を課したるは、近ごろの大できである。……何という、今の非常国家に適切の忠告であろう(牧口常三郎「『光瑞縦横談』と教育・宗教革命」S11/『フォーラム21』H14.3.15)
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「軍事教練」の義務化を賞賛する牧口に、軍国主義に反対する思想があったとはとうてい言えない。

●戦場に於ては悉(ことごと)く大善生活法の実践であり、それによつてのみ勝利が得られ、これがなくしては必ず惨敗をするのである。(S16.10.20「価値創造」第3号/『牧口常三郎全集』第10巻18頁)
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これは、ほかならぬ牧口会長自身の言葉である。しかも太平洋戦争勃発前の記述である。

●(昭和18年)牧口会長は今こそ国家諌暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向つて来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長(日淳上人)がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諌暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。(『富士宗学要集』第9巻430頁)
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時機を弁えずに、勝手に暴走した牧口会長。しかし、氏が国家諌暁をしたという事実はない。

●(※日恭上人より)予(※日亨上人)が池袋の蟄窟(ちっくつ=ひそかに住んでいる場所)に駕を枉げて(がをまげて=貴人がわざわざ来訪する)国諌の御相談があった(乃至)安政度の霑上の国諌ぶりをも引いて懇談した(乃至)此の盛挙は取止めになった道程は聞かないが但或方面の低級な御信者の中には池袋の隠居は国諌は嫌ひぢやげな先聖に背く怪(けし)からぬ悪魔であるとかの聲(こえ)がしたとの事、尤(もっと)も宗門の表面から隠れて居(お)る足の無い亡者であるから此の曲批を不問に付した(第59世日亨上人著『日恭上人伝補』29頁〜/『大白法』H6.7.1)
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当時、宗門が国家諌暁しないことを批判した信徒がいたようだが、日亨上人は、その人を指して「低級な御信者」と批評されている。もしかして「低級な御信者」とは牧口会長のことか??

●牧口が宗門をあげての「国家諌暁」を願った時、総本山では文部省から、思想統一政策の1つとして、全日蓮宗の統合合併策を強要されていた。そして宗門の一部には、この身延との統合案に迎合する悪侶も出ていたのである。これらの節操のない僧侶が、時の軍部と手を握ったため、宗門は紛糾せざるを得なかった。 国家諌暁の断行には、第1に宗門の内部の意志の統一が必要であることは、いうまでもない。宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。宗内の獅子身中の虫ともいうべき一派は、水魚会と称する背後の軍部勢力と結託していた。これらが、文部省の宗教政策を牛耳りつつあったのである。そのため正宗の僧侶達は、国家の危機より、宗門の7百年来の未曾有の危機を克服することに懸命であった。(『人間革命』第3巻「渦中」)
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池田自身、当時の宗門の置かれていた状況を「宗内を統一し、身延との合併を防ぐために、総本山の首脳は、その戦いで手一杯であった。」としていた。一信徒の牧口と、宗門全体の信徒の信心と法体を守るべき立場とでは、自ずから考えや行動の視点が異なるのである。

●一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん(牧口常三郎『戸田城聖全集』第3巻所収「創価学会の歴史と確信」)
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これは、昭和18年6月初旬の発言とされるものである。

国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。(牧口常三郎「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)
御上の事は何んでも従ふことで検事様との間はなごやか(牧口常三郎「獄中書簡」S19.3.27『牧口常三郎全集』第10巻405頁)
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「国法にはどんなにでも服従」「御上の事は何んでも従ふ」と獄中書簡で綴った牧口会長であるが、「創価学会の歴史と確信」で述べる意気軒昂な牧口像との相違が明白である。ここには、一番弟子が語った牧口氏の「確信」の片鱗も見られない。

牧口会長が国家諌暁をしたという事実はない。もし、特高刑事の質問に答えたことをもって国家諌暁だと言うのであれば、大笑いである。

・国家諌暁といえば、最高権力者に対して行われるべきものである。特高刑事や検事は、国家の手先として庶民に対しては強大な権力を持ってはいるが、所詮は木っ端役人である。彼らに述べたことは記録としては残っても、天皇は勿論、首相をはじめとする為政者にさえ届かないであろう。

国家諌暁をして逮捕されたのではなく、戦争翼賛の言辞を弄したり、神社参拝容認ともとれる指導(2●)をして弾圧を回避しようとしたが、以前行った神札破却等のために逮捕されてしまったのである。

・訊問調書に記述された謗法厳戒の主張も、押収された宗義書をもとに検事等が作文した可能性が高い。(3●)

・起訴状をみる限り、当時の戦争に反対したという事実はない





【柳田國男の証言】
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 今度の戦争に入つて間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話しに来て、泊り込んで行つたが、私は大した印象もうけなかつた。それにあれの哲学のシステムが少し違つてゐると思つたので、深入りしても役に立たないと思ひながら、一緒に話して泊つたのが最後であつた。若い者を用(つか)って熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが抵抗しつづけた為め、牢の中か、又は出されてか直ぐかに死んでしまった。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。
 その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。(中略)宗祖となるには牧口君は少し不適当で、それほど深い信仰ではなかったから、物足りなかったと思ふ。本も沢山読んでいたわけではなかった。
(『定本柳田國男集』別巻第3=筑摩書房:絶版463頁)
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<昭和6年頃の記憶>
◆その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。
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●発会時には、数十人にすぎなかった会員が、15年には500人を超え、翌16年には、3千人に達した。(『創価学会40年史』/『牧口常三郎全集』第10巻50頁)
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「30人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度」とあるから、牧口会長らが「一晩若いのを連れて話しに来て、泊り込んで行つた」のは、創価教育学会の発会当時、即ち昭和5年頃であったことが分る。とすれば「今度の戦争に入つて間もなく」という「今度の戦争」とは太平洋戦争のことではなく15年戦争(昭和6年の満州事変勃発から昭和20年の太平洋戦争終結までの一連の戦争)のことである。

[15年戦争]=教科書では、「15年も続いた戦争」と書いてありますね。第2次世界大戦の終了が1945年ですから、1931年から1945年のことを15年戦争と呼びます。(<シリウス(静岡教育サークル)>WS)

[資料]:15年戦争史


<「戦争反対論や平和論」云々について>
●1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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 この記述どおりだとすれば、確かに明治36年頃の牧口会長には反戦意識があったようである。しかし、大正5年の『地理教授の方法及内容の研究』では「日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ」(『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)とも述べている。その後も史料を見る限り、反戦どころか一貫して戦争翼賛的言動が続いている。これをどうみるか。
 牧口会長の戦争観に変化がないとすれば、『人生地理学』の思想は一種の理想論または目標であって、現実の戦争を無条件で否定したものではなかったといえよう。
 戦争観に変化があったとすれば、反戦思想から戦争翼賛への転向である。

・大正時代以降、牧口会長自身の著作物に戦争翼賛的言辞は数多く見られるが、反戦的言辞は見当たらない。
・牧口会長が熱心だったのは謗法払いと折伏、さらに国家諌暁による戦勝である。これについては戦後の戸田会長の記述からも明らかである。
・そのような牧口会長が、創価教育学会設立以降、折伏ではなく「戦争反対論や平和論」を「若い者を用(つか)って熱心に唱える」とは考えられない。


<自身の記憶と獄死した事実を結び付けて誤った結論を出す>
◆戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて意味なしに牢屋に入れられた。
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●軍国主義の横暴と、時の警視庁の小役人の愚癡蒙昧から、ついに牢死(『人間革命』第2巻「車軸」)
●検察当局は、学会幹部の一斉検挙の機会を、虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。そして、神道を蔑視する言動を理由に、ついに学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。(『人間革命』第3巻「渦中」)
●生れ故郷といつてよい兵庫県の代表日刊紙たる神戸新聞の懇請により、33年1月9日から、9月14日まで、200回にわたる「故郷70年」が連載されることになつたわけであります。(嘉治隆一「『故郷70年』の成り立ち」/『定本柳田國男集』月報34)
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『定本柳田國男集』別巻第3は昭和33年1月9日から、9月14日まで『神戸新聞』に連載された「故郷70年」を収録したものである。昭和33年といえば牧口会長が死去してから10年以上になる。創価学会は戸田会長の最晩年であり、世帯数も約30万世帯(公称)と飛躍的に拡大している。「その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく」という記述から明らかなように、当該記事は、昭和33年に15年以上昔のことを思い出して書かれたことが分る。しかしながら、「戦争反対論や平和論」については、現存する牧口会長自身の著書からは証拠がない。むしろ、戦争には肯定的で勝利を願っていたという証拠さえ存在する。戦後に書かれた戸田城聖著の『人間革命』にさえ好戦的な牧口会長らの発言が掲載されているのである。このことから分るように、「戦争反対論や平和論」「陸軍に睨(にら)まれて」云云というのは、戦後になって得た情報であろう。自身が見聞した昭和6年頃の記憶と戦後になって知った事実(牧口会長が思想犯として獄死)をつなぎ合わせて、誤った推測をしたものであろう。

●私は前からなかなか関係が深かったから『価値論』といふ本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよく分らない。若い者を引立てることが好きで、師範学校で教へたお弟子たちを大変可愛がつたりするのが1つの特徴であった。(『定本柳田國男集』別巻第3=筑摩書房:絶版187頁)

●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
●(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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 戦後の日本は反戦思想が広まり、それに呼応するかのように、創価学会も反戦を掲げていた。戸田城聖著『人間革命』は、戦後になって出版されたものであるが、それでも戦時下の牧口会長を反戦論者のようには描いていない。それどころか、信心を根本として戦争に勝つことを願っていたように描かれているのである。
 戸田氏は牧口会長の一番弟子であったから、牧口会長のことは柳田國男以上に詳しかったはずである。また、戦後の創価学会の反戦・平和路線と、牧口氏が、戸田氏自身が会長を務める組織の初代会長であったことを考えれば、池田学会がそうであったように、多少なりとも脚色して牧口会長が反戦論者であったかのように描いても不思議ではない。それにも拘らず、牧口会長が戦勝を強く願っていたように記述したことは、相当信憑性があるというべきである。

●(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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というように、学会もおおいに喜んでいた。そんな状況下で、牧口会長が時局批判などするはずがないのだよ。大戦の詔勅が下され、日本軍が勝利している時期に、もし牧口会長が柳田翁に戦争反対をぶっていたら、翁が「私は大した印象もうけなかつた」というはずがないではないか。とんでもないことをいう、と強く印象に残っているはずだ。が、翁はそうはいっていない(宵待草)

[資料]:牧口常三郎に対する起訴状




【『人生地理学』】
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1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。「人生」すなわち人間の生活と「地理」の関係から世界を見つめた意欲作でした。同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127)
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<平和論の歴史>
ストアの人々の平和論は、一切の人類は1つの神から出て平等であり、神の前に同胞であるという考えから出発し、人間同士の反目や戦争を非合法のものだとして平和論を打ち立てました。(『世界国家』S27.1/<国際平和協会>WS)

●ゲルマン諸民族の建国や西欧諸国の形成となり、近世諸民族の自覚と対立は、前のような、あこがれや武力では到底世界の恒久平和も期待できないことを知らしめました。そして平和を望む人々は、武力や政治力によらず、宗教的権威によって平和を招来しようと考えるようになりました。ルネッサンスの哲学者カムバネラの提唱した神政的平和論がこれです。(同)

●17世紀の初め頃、アンリ4世は、ヨーロッパだけではありましたが、一種の国際連盟の構想を立てました。これが世界平和機構の最初のものといえましょう。
 アンリ王の案は、凡てのヨーロッパのキリスト教諸国が連合して普遍的キリスト教共和国を組織し、さらに最高国際裁判所を設置して国際紛議を裁判しようというのでした。もっとも、アンリ王の案は机上のプランにとどまり、その実現は見ませんでしたが、今日の国際連合が300年前既にこの王のプランによって芽を出していたということは、注目されねばなりますまい。それのみならず、それから間もなく起こった30年戦争(1613−48年)が終わり、ウェストファリアで講和が締結さられる時、この考えが幾分取り入れられ、諸国の協同の最初の試みがなされたのでした。(同)

●1693年、クェーカーの指導者ウィリアム・ペンによって一石が投ぜられました。彼は『欧州平和の展望』と題する一書を著し、国連思想と、クェーカーの平和主義とを結び付けて、平和は正義を通じて保たれると説き、個人がその国の政府の法治に服するように、政府はそれよりも高次な政府の法治に従うべきであるとして、国際連盟的な機構を欧州に組織せしめようとしたのでした。当時、英国はルイ14世の治下で、侵略戦争を行っている最中でしたので、ペンのこの議論は一大風雲を巻き起こしました。(同)

サン・ピエールによって唱道されたヨーロッパ永久平和論です。(中略)ピエールの説いたところは、ヨーロッパのキリスト教世界は元来「1つの世界」を形成しているわけなのであるから、ヨーロッパ諸国の間に「公法」を作り、お互いにこれを遵奉して行けば平和は保たれる筈であり、またそうして平和を保って行くべきである――としたもので、一大同盟を組織し、常設の会議を開き、調停及び仲裁により紛争や戦争を未然に防止しようというのでした。このピエールの平和草案は、大きなセンセーションをヨーロッパに巻き起こし、殊にジャン・ジャック・ルソーが、これを祖述して広く宣伝したので、一層有名となり、国際機構の問題は、もはやユートピアや、あこがれではなく、現実の問題として取り扱われるようになったのでした。そして、このピエールの平和論が、後に述べるカントの永久平和論を生む基礎となり、国際連盟はいよいよ胎動を始めることになるのです。(同)

●『永久平和のために』は1795年、ケーニヒスベルクで出版された。三批判書を完成させた晩年のカントの関心は、宗教や政治や歴史や具体的な諸義務の規定などに向けられていった。既に71歳に達していたカントが、永久平和の実現を念じて公表した著作である。執筆の直接の動機となったのは、1795年にフランスとプロイセンの間で締結されたバーゼル平和条約に対する不信であったと思われる。フランス革命から6年、まだ混乱の最中にあったフランスは、対外戦争においても和平を求めざるをえない状態にあった。一方のプロイセンにおいても、ロシアとオーストリアのポーランドをめぐる進出に気が気でなく、フランスと戦争をしている余裕はなかった。そういった両国の事情からバーゼル平和条約は結ばれたのだが、なぜカントがこの条約に対して不信の念を抱いたかというと、戦争を永久に終わらせるような条約では決してなく、秘密条項を含む欺瞞的平和条約だったからである。
 カントは人間の尊厳に基づいて永久平和論を主張している。「汝の意思の格率(個人の行為を決定する原理)が同時に普遍的立法の原理に妥当し得るように行動せよ」カントの言葉であるが、人間は自分の快楽の方向に進んでしまうと彼は知っていた。これは自然な傾向ではあるが、人間である以上は理性的に立ち向かわなくてはならない。自分の理性によって立てた道徳法則に自発的に従うことをカントは「自律」と呼び、自律の状態において人間は真に自由であるとした。またカントは自律の能力を持つ自由の主体を「人格」として、道徳的な自律を持てる存在である人間には尊厳があると説いた。尊厳がある以上、人間は常に「目的」として扱われるべきで、「手段」ではありえない。つまりカントにとって人間を手段として扱う戦争は、国家間、個人間、大小に関わらず道徳上、悪であった。戦争は、目的そのものである人間の尊厳を壊し、自由を損なう。したがって、「戦争はあるべからず」というのが実践理性の絶対的命令なのである。戦争のない永久平和は人間の到達すべき義務であるから、人間は努力しなくてはならない。有限な人間にとっての永遠の課題である。永久平和へのこの努力はカントにとって、人類の福祉とか、世の功利のためとか、あるいは博愛主義に基づくといったものではなくて、実践理性に基づく人間の無条件的な義務そのものであったのである。(京都産業大学文化学部国際文化学科・深尾光恵『カントの平和論とその現代的意義』

平和論自体は牧口会長以前にも数多く世に提出されていた。これらの平和論は、現実に起こっている戦争を制止し、平和世界を構築しようとする熱意が感じられる。一方、牧口会長および創価教育学会の場合は、戦争を悪だとはしながらも日露戦争や15年戦争といった、現実に自国が直面した戦争を真っ向から否定し行動するというものではなかった。それどころか、戦争を翼賛する言動が数多く残されている。これをどう解釈するか。


<転向>
1903年(明治36年)に発刊したのが『人生地理学』です。
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 一般に知られている牧口会長および創価教育学会の戦争翼賛発言は、昭和11年以降のものである。日露戦争直前とはいえ、国家による締め付けが緩いときには吐けた理想論も、だんだんと思想統制が厳しくなると、転向して戦争翼賛者となったということか。
 同書は入信前の著書である。氏に好意的に考えるならば、入信して大聖人の仏法の偉大さを知り、反戦を直接叫ぶよりも、折伏によって広布を進める方が真の平和構築への近道であると悟ったのか。その場合には、大聖人門下としては立派な心掛けではあるが、一般にいう"反戦思想家"ではなかったことになる。

◆日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。
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●(※牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16)
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これは、終戦後に出版されたものである。戦後の日本社会は反戦・平和思想が広く浸透しており、創価学会もその時流に乗り、反戦・平和を前面に掲げて活動している。そのような中で、池田学会は自己正当化のために"牧口会長は反戦論者であった"かのように喧伝している。しかし、戸田会長は、そのようには牧口会長のことを描いてはいなかったのである。戸田会長が描く牧口会長は「日本の民族は勇敢」であるから「米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させた」と、国粋主義者のような言動をとり、出征する会員に対して「前線で悔いのない働き」をするように激励していたのである。これは、終戦後の反戦思想の普及した時代に書かれたものであり、決して"会員擁護のための方便"などではない。


<戦争翼賛と『人生地理学』は矛盾しない!?>
 牧口会長は『人生地理学』で「世界は『軍事的競争』『政治的競争』『経済的競争』の時代から『人道的競争』の時代へと移らねばならない」と考えた。しかし、彼にとって「人道的競争」の時代へ移る方法は教育であり後には宗教であった。だから、現実に直ちに「軍事的競争」を否定するものではない。
 そう考えれば牧口会長が「世界市民を志向」し、「人道的競争」の時代を求めたことは一種の理想論(あるいは教育改革と宗教改革の徹底によって遠い将来に実現する目標)であり、国策に従って直面する戦争に翼賛することとは、必ずしも矛盾しない、といえるかも知れない。

●本当の八紘一宇とは「世界の人全てと仲良く暮らしましょう」と言う理想だったのです。決して世界征服を企む邪悪な日本軍の陰謀の合い言葉などではありません。(中略)当時の世界情勢が白人絶対主義、帝国主義全盛であったことを考えると、かなり革新的思想だったのではないでしょうか?ですから、本当のところは日本人が当時の世界で、白人絶対主義に対抗する為には、「アジア人の団結を謳うことで、少しは白人社会に対するバランスが取れるのかもしれない」という、当時の進歩的文化人達の理想とする少々甘ちゃん的発想であったのです。しかし輝く理想も厳しい現実の前に他聞(ママ)に難儀したようではありますが、その理想が生かされたのがインドネシアの今村均将軍の解放政策であったりする訳です。(アーモンド<道徳・教育・何でも会議室>WS000310投稿)

●40年に発足した第2次近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」で「皇国の国是は八紘一宇とする肇(ちょう)国の大精神に基(もとづ)き世界平和の確立を招来することを以(もっ)て根本」とするとうたい、「皇道の大精神に則(のっと)りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圈の確立をはかる」(松岡外相の談話)ことをめざしました。(『しんぶん赤旗』H11.11.11)

●抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス(「大東亜共同宣言」1943=S18.11.6/フリー百科事典『ウィキペディア』051127)

●(※戸田理事長が披露した歌=幹部会員・四海民蔵作詩)男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む(S17.5.17創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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「大君の御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」とは、大東亜共栄圏の建設を目指した軍部政府のアピールそのものである。

 『人生地理学』で述べる反戦的思想は、一種の理想・目標であり「軍事的競争」(同書)を直ちに否定するものではない。牧口会長にとっては、「八紘一宇」「大東亜共栄」のスローガンのもとに進められた戦争は「大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」(「大東亜共同宣言」)するのための緊急措置であり「世界平和ノ確立ニ寄與」(同)するための止む終えない措置であった。むしろ、国家諌暁によって戦争に勝てば一気に「人道的競争」(『人生地理学』)の時代への道が拓かれると考えていた。
 このように考えれば、牧口会長や彼の組織が行った戦争翼賛の言動と、『人生地理学』との間に矛盾はなかったことになる。
 しかし、この場合には当然、牧口会長を一般的意味での"反戦思想家"と規定することはできない。


<転向>したにしろ<戦争翼賛と『人生地理学』は矛盾しない>にしろ、牧口学会が戦争翼賛的発言を繰り返していたことは事実である。それは、公式な場所だけではなく、官憲のいない私的な会話においてもそうであった。そうであれば、氏がいかに"立派な"反戦平和論を述べていたとしても、反戦思想家ということはできない




【『立正安国論』と平和主義】
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>牧口初代は入信4年後発刊の『創価教育学体系』で、「日蓮聖人が当時の世相を経文に照ら合せて、その毫も違わないのに驚き『立正安国論』を著わし、一世を警醒して帰趣を明らかにせられたのであるが、正に現代迄をも痛烈に警められて居るのには更に驚異せざるを得ないではないか」と安国論に注目されていたことを示されているが、昭和18年の春ごろから学生対象に安国論の講義を始められて逮捕直前まで続けられ、「立正」による「安国」を訴えられている。

>牧口先生は、真っ直ぐに『立正安国論』を実践されたのであり、「立正」によって平和の方向、「人道的競争形式」に導かんとされたのである。
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 『立正安国論』の主旨は、その名の示す通り、「立正」すなわち正法を打ち立てることによって「安国」すなわち安寧な国家を実現できるというものである。
 たしかに仏法では三災七難の中に他国侵逼難や自界叛逆難が含まれている。国内問題であれ、外国との問題であれ、武力による争いは多くの死傷者を生み出すものであり不幸の最たるものである。しかしてそのような不幸の原因は、主権者や国民が正しい仏法を信じないところにある。

●人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには(『立正安国論』全集24頁)
●国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回(めぐ)らし忩(いそい)で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり(『立正安国論』全集31頁)
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要するに、『立正安国論』が我々に求める実践内容は、正法の弘通にある。正法が弘通すれば、国民個々の一生成仏も実現し、自ずから国家社会も種々の災難から免れるということである。反戦・平和の徹底および実現は仏法流布の目的の一部であるが、すべてではない。究極的目的は全生命の成仏であり、法界全体の仏国土化である。


<戦争反対と「立正安国」は次元が違う>
 戦争反対のための政治的文化的言論や行動は世法の問題であり、仏国土達成のための正当な手段ではなく、『立正安国論』で示された「安国」実現のための具体的手段ではない。もし、牧口会長が戦争反対を座談会で主張していたとすれば、手段を誤った言動であったというしかない。
 日蓮大聖人の御書には、戦争が仏法上の災難(三災七難)であるという主張はあっても、個々具体的な戦争反対の主張をされたことはない。かの蒙古が襲来したときにさえ、戦争回避の具体策は一切提示されてはいない。むしろ、真言による蒙古調伏の祈祷を制止され、正法によるべきことを主張されている。

●皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさ(戦)のあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。(『種々御振舞御書』全集918頁)
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これは自界叛逆難(二月騒動)を予知された大聖人が、六郎左衛門尉に対して、"戦(いくさ)が起こるのだから急いで鎌倉へ上り、名をあげなさい"と助言されているところである。当時の武士にとっては、戦において力を発揮することが名誉である。"戦争で活躍しなさい"などと言うことは、決して反戦論者の言とはいえない。また、仏法は戦争を三災七難の1つに挙げている。つまり、戦争のない国土をつくることと戦争に反対することとは、全く次元が異なるのである。言い換えれば、いくら戦争反対と叫び行動したとしても、真の平和は実現しないというのが仏法の見解である。だからこそ大聖人は、その時代の社会的価値観を尊重されながら仏法を弘通されているのである。

●今日蓮は去ぬる建長五年〔癸丑〕四月二十八日より今年弘安三年〔太歳庚辰〕十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり(『諌暁八幡抄』全集585頁)
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『立正安国論』の精神とは「妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ」ことであり、戦争反対を叫ぶことではない。


<第65世日淳上人>
・昭和10年10月には堀米御尊師(第65世日淳上人)が『大日蓮』に、「立正安国論」と題して同書の講義をされている。(『日淳上人全集』113頁参照)

●大聖人の御遺文の中に時節柄不穏当と認められる箇所があるとして、此れを削除すべしとの問題があって、その是非の論議が行はれてをるが如くである。(中略)大聖人御一代の御主旨は何んであらせられたか。いふ迄もなく正法国家として真の日本の面目を堅持せしめ、真浄国土の顕現を計るにあらせられたのである。(「御書削除の問題について」『大日蓮』S11.12/『日淳上人全集』147頁)
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戦時下、御書削除の声に対する反論として認められたのが同書である。その中で簡単ではあるが「大聖人御一代の御主旨」として『立正安国論』の主旨が明確に述べられてある。このことからも分かるように、『立正安国論』を初め、大聖人の仏法は、単に個々の戦争を否定するといった短絡的な思想ではないのである。

※以上のように、『立正安国論』の講義をされたからといって反戦論者だという証拠にはならない。そのことは、戦時下に政府によって不適当とされる御書の御文が削除されたが、その中に『立正安国論』が入っていなかったことからも明らかである。




【戯論粉砕】
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牧口初代は既に昭和15年には政党関係者の会合に出席し、軍国思想・教育を批判していることがわかっている。(fb)
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根拠がない。


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当時の会員は座談会で牧口先生が戦争に反対されていることをはっきりと言われていたことを証言している。そして戦時下でも240回以上も座談会は開催されている。
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 もし、牧口会長が戦時下において、未入信者や入信間もない者の前において戦争反対を主張していたらどうなっていたであろうか。直ちに通報され当局に逮捕されていたであろう。しかしながら、牧口会長の罪状を記した起訴状にさえ反戦論者であったことを示す記述は一切ない。
 これらのことからも明らかなように、柳田國男のような伝聞または不確かな記憶は別として、牧口会長が反戦論者であったという客観的証拠はないのである(『人生地理学』、「訊問調書」については前述)。




■異流義めざした牧口氏
―獄死は「誹謗の罪」―
(『慧妙』H18.4.1)

 さて、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったかというと、ここに驚くべき資料が存在しています。それは、逮捕後の牧口氏に対する、特高警察の尋問調書です。その中で牧口氏は、
 「私は正式の僧籍を持つことは嫌いであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌(はま)った行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります」
として、純然たる日蓮正宗の教義に沿った修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結び付けるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのです。
 この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠(いきょ)するところは、日蓮正宗に相違なきや?」との質問をしています。これに対し牧口氏は、
 「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」
などと答え、重ねて、
 「学会は飽迄(あくまで)も、日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に、特異性があるのであります」
と強調しているのです。
 なんたることでしょうか。要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、個々の学会員は正宗寺院で御授戒を受けていても、学会そのものは1個の独自な在家宗教団体である、と意義付けていたのであります。
 これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたことは間違いありません。
 また、これを見るならば、今日の池田創価学会が長い間、日蓮正宗との2重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の在家教団(池田教)を指向してきた原体質は、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽(ほうが)していた、と言わざるをえないのであります。
 結局、投獄された牧口氏は、1年有半を経た昭和19年11月18日、獄中に死去し、その一生の幕を閉じました。そして、牧口氏の1番弟子であった戸田理事長は翌年7月、釈放されましたが、創価教育学会は半ば壊減(かいめつ)同然の状態となっていました。
 こうして、学会に対する官憲の弾圧は終わったのです。
 が、しかし、牧口氏の中に根付いていた異流義思想の実態や、日淳上人に対する吊るし上げと背反、偏(かたよ)った布教の在り方等々を知る時、これを、純然たる日蓮正宗信仰を貫いた結果の法難、などと呼ぶことは、とうていできません。
 『佐渡御書』には、
 「善戒を笑へば国土の民となり王難に値(あ)ふ。是(これ)は常の因果の定まれる法なり。
 日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易(きょうい)せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山(かざん)に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下(くだ)して嘲弄(ちょうろう)せし故に、此の八種の大難に値へるなり」(御書582頁)
と仰せられ、投獄されたりするのは法華経を持つ人を誹謗(ひぼう)した罪、と明かされていますが、獄中にあっての戸田理事長は、この御金言の厳しさを我が身に引き当てて感じたのでしょう、
 「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身にみる』と言っております、と」(前出『獄中書簡』)
と述べて僧誹謗の重罪を懺悔し、さらに牧口氏が獄死してしまったことについては、やや曖昧(あいまい)に、
 「牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう」(『創価学会の歴史と確信』)
と述べています。
 仏法の因果の厳しさ、不思議さに、慄然(りつぜん)とさせられるではありませんか。
 また、これら獄中書簡等を見るかぎり、戸田理事長は、師たる牧口氏の謗法に気付いていたものと思われます。
 現に、出獄の2日後(20年7月5日)、戸田理事長は
 「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって平身低頭、深くお詫(わ)び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任(まか)せいたしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言)
と、お誓いしたとのことです。
 さらに戸田理事長は、学会再建に着手するにあたり、まず牧口氏の根本的誤りを払拭(ふっしょく)する(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷つけることなく、むしろ顕彰しながら行なう)ことから始めました。その事実は、かつて池田大作が、迂闊(うかつ)にも『人間革命』第1巻の中に、次のように描写してしまったことからも明らかです。
 「牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味(しゅうみ)を帯びてくる。
 さらに、大善生活の実践のために大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇(はんちゅう)に入ることになってしまう。
--ここに摧尊入卑(さいそんにゅうひ)のきらいが影となって射して来るようだ。
 戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
 そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。…しかし、大聖人の大生命哲理からするならば、時に『九重の劣』とすら思えた。」
 遠回しな表現ですが、要するに、牧口氏は自説の「価値論」を第1とし、「価値論」を実践証明するための手段として、日蓮正宗の大御本尊を利用する格好となっており、これが摧尊入卑(尊極な教えを摧〈くだ〉いて、低下な教えの中に取り入れ、卑しい教えを尊く見せかける謗法行為)に当たっていた、というのであります。





■『価値論』の本末顛倒(てんとう)と日淳上人への誹謗
(『慧妙』H18.3.1)

 牧口常三郎氏は、昭和3年6月、東京.常在寺所属の信徒で直達講講頭であった三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信しました(同じ年の秋、後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信)。
 牧口氏入信の動機について、柳田国男は、「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(『牧口君入信の動機』)と述べています。
 入信後の牧口氏は、昭和5年11月に「創価教育学会」の名で『創価教育学大系』第1巻を発刊(この日が後に"学会創立の日"とコジツケられた)、
 翌6年3月には同『大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表したのです。
 この『価値論』について、牧口氏は、後の獄中書簡の中で、
 「百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです」
などと、驚くべき評価をしています。
 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘(ひろ)めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕(あら)わしたのだから、三障四魔が紛然と競(きそ)い起こるのは当然、というのです。
 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒(ほんまつてんとう)という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度(さいど)の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。
 結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪(ゆが)め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。
 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親(きょうけおや)であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相(あい)容(い)れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。
 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮を事実上の所属寺院とするようになりました。
 当時の歓喜寮御住職は堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人であられ、当初のうちこそ、牧口氏は上人の指導に従って信仰に励んでいくかのように見えましたが、昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。
 それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証言)。
 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。
 この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。
 なおまた、古くからの信徒で直達講副講頭を務めていた竹尾清澄氏(故人)も、59世堀日亨上人から伺(うかが)ったこととして、
 「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と、席を蹴(け)って退去」(『畑毛日記』)
した、という出来事を記録に残されています。
 こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。
 以上のような事実は、戸田理事長(後の2代会長)の獄中書簡にも、
 「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)
とあって、牧口氏の1番弟子であった戸田理事長自らが、自身の投獄は日淳上人を誹謗した罰である、として懺悔していることからも明らかです。
 こうして牧口氏の率(ひき)いる学会は、所属寺院たる歓喜寮と信仰上の断絶を生じていきました。そして、同時にそのことは、"本宗の信徒は総(すべ)て各寺院住職のもとに所属して信仰に励む"ことが原則である日蓮正宗からも、疎遠になっていくことを意味していたのです。
 前出の、竹尾氏が日亨上人から伺った話の次下には、
 「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」
とまで述べられており、牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。
 とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗であります。そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりがあれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。

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65世堀米日淳上人はどれほどに、慈愛の込められたお言葉で牧口会長を賞賛されたのを知らないのか。『日淳上人全集』より引用する。

◆牧口先生は、非常に慈悲の深い方でありましたが、このことは先生が、日蓮聖人の御書に、涅槃経の文をお引きなされた「慈なくして詐(いつ)はり親しむは、是れ彼が、怨(あだ)なり」といふ点を常に、口にせられたがこれは先生が、自らの境地を端的に表現するものにして余ほど感じて居られたやうでありました。

◆(牧口)先生は非常な慈悲心と厳格さとを以て他に対せられた

◆牧口先生の折伏のことでありますが、折伏といへば先生、先生と言へば折伏のことと、ことほどさように、先生と、折伏とは、重要なものでありますが、これはいふ迄もなく深く大きな慈悲心を持たれた先生が、思ひやりの止むに止まれぬ心からの救済の現われでしかも真実に、しかもも忠実でありなほかつあの厳格が、折伏の形をとられたのであります

◆私は(牧口)先生が、法華によつて初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考へさせられるのであります。そうして先生の姿にいひしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かつたのであります。あの荊(いばら)の道を厳然と戦いぬかれた気魄(きはく)、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります
(wt)
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牧口会長が謹厳実直にして信念の強かったことは、私も認めるところである。日蓮正宗に対する信仰心も強盛であった。しかし、一面、負の部分もあった。すなわち、摧尊入卑の教学(価値論に代表される)や、御僧侶への尊敬の念が希薄であったことである。特に、日淳上人を誹謗した罪は大きい。しかし、

@日淳上人に対する誹謗については、"一心同体"の弟子・戸田氏が、懺悔されている(下記1●)。しかも、その弟子である戸田城聖氏は、御法主上人に信伏随従され、大折伏を展開された。過去に謗法があっても、懺悔し、さらに現在、信心に励んでいる者に対して、過去の謗法を論(あげつら)うことは、あるべきではない。

A摧尊入卑の教学については、弟子であり、創価学会の後継者である戸田氏が、軌道修正した(下記2●)。

B牧口会長は、日蓮正宗の信徒として一生を終えた方である。

C創価学会が、信徒団体として折伏戦に励んでいる時に、初代会長の信心の正の部分を強調することは、学会員の信心にとってプラスとなる。

以上の理由によって、日淳上人は、敢えて牧口会長を讃歎されたものと拝する。要するに、牧口会長の信心には、素晴らしい正の部分もあったが、負の部分もあった。しかし、負の部分については戸田氏が懺悔し、さらに後継会長として(牧口会長の名誉を傷つけないように)軌道修正し、模範の信徒団体たらんとしたのである。この戸田会長の心情を汲み取られた上で、日淳上人は、牧口会長の正の部分を強調されたものと拝する。

日達上人や日顕上人も52年路線当時は、池田大作や学会を厳しく糾弾されていた。しかし、池田が反省懺悔してからは、学会を擁護され、過分とも思えるほどの評価を与えられている。つまり、ある時点で正の評価があったことをもって、過去に負の実態がなかったことの証拠とはならないのである。


<戸田会長の懺悔>
1●堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔(さんげ)しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1)

●足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
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会話内容から考えて、上記『人間革命』での堀米尊師(日淳上人)との再開の場面と同じときのものであろう。


<戸田会長の牧口観>
●彼(戸田)の活動が、実は空転していたとさえ思えてならない。彼はまだよい。先師牧口にいたってはまったくの空転に終わったとさえ、時に思われた。彼の反省は深かった。(『人間革命』第5巻「随喜」の章)
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独りよがりの「謗法厳戒」で、組織を空転させてしまった罪は大きい。

●〔野島〕「あなたは真木(※牧口)先生の1番弟子であり、私も第何番目かの弟子の1人である。弟子として、私は真木先生の教えを忠実に守っていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは、敢えて人後に落ちない熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたは一体どういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長引き、そのあげくに、真木先生の獄死ということになったのでしょうか。これについて、あなたは反省してみたことがありますか。(中略)
〔戸田〕それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、真木先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」(野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16)

2●牧口の価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。−ここに摧尊入卑のきらいが影となって射して来るようだ。戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。・・・しかし、大聖人の大生命哲学からするならば、時に「九重の劣」とすら思えた(『人間革命』第1巻)
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戸田理事長は、2代会長として学会再建に着手したが、まず牧口氏の根本的誤りを払拭すること(それも、師たる牧口氏の遺徳を傷付けることなく、むしろ顕彰しながら行なう)に心を砕いた。その事実は、若かりし頃の池田大作が、迂闊にも『人間革命』第1巻の中に、次のように(2●)描写してしまったことからも明らかである。(『慧妙』)




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