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「大聖人直結」破折
【「大聖人直結」と称して仏法を私物化】
―「唯授一人の血脈」「師弟相対の信心」を否定―
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日顕宗の言う「血脈」などは本当にナンセンスな話です。本来、宗教には、「仏と自分」との関係の信仰が重要であって、権威主義の
「血脈」などは、信仰的には何の意味もない(池田大作『聖教新聞』H5.5.5)

日蓮大聖人の全生命は、仏意仏勅の広宣流布を遂行する創価学会に流れています。創価学会という和合僧団を離れて、大聖人の血脈も、信心の血脈も絶対にありえません(池田大作『大白蓮華』H14.7)
「血脈」とは要するに「信心」であり、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、究極の法である一大秘法の南無妙法蓮華経を唱え、異体同心の団結で広宣流布の実践に励む中に、万人に流れ通う(池田大作『創価新報』H13.5.21)
大聖人直結の教団であることを明らかに(新会則の特徴を示す見出し『聖教新聞』H14.3.29/『慧妙』H14.4.16)
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おいおい、それじゃ、顕正会も正信会も認めてしまうことになるぞ!今度は、ぜひ、顕正会と正信会と池田狂(創価学会)の違いを、分かりやすく説明してくれたまえ(この違いは、いまだに明確に説明がされていない!)。(『慧妙』H16.10.1)
●此の頃信心相承を振り廻す人があるが御笑ひ草である。仏家付嘱の儀が信心の有無によるなんどは世の末の議論である(第65世日淳上人『日淳上人全集』1209頁)
●大聖人が仏法−最大深秘の正法と仰せ給ふ秘法、また末法には持ち難しと仰せ給ふ大法を唯(ただ)信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか(第65世日淳上人『日淳上人全集』1444頁)
●(本師の滅後になると)動(やや)もすれば、なにかの感情で事を宗義に托(たく)して、自分は何某の弟子でない、信者でない、添(かたじ)けなくも宗祖大聖人の御弟子である、と云ふ反逆児ともいはるべき者が出現する(第59世日亨上人/『慧妙』H18.10.1)
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◆すなわち五老僧達は、"自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である"とし、日興上人に信順できなかった。さらに迫害を恐れ「天台沙門」とさえ名乗った。その根底は、日興上人と対等であるなどという傲(おご)りであり、嫉妬(しっと)であり、保身に堕した卑(いや)しい感情であった。日亨上人は、反逆の徒は常に、こうした感情を言葉巧みに正当化していくものであると御教示されているわけである(池田大作『広布と人生を語る』第10巻80頁)
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かつての自らの指導に完壁に破折されていますが、まさに池田創価学会の"直結信仰"主張は、池田の「傲(おご)り」「嫉妬」「保身」の「卑しい感情」を言葉巧みに正当化したものであり、日蓮大聖人の正しい信仰の在り方ではない、謗法である、ということが明らかであります。(『慧妙』H18.10.1)
◆血脈否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、究極の悪業ではないでしょうか。故にこれをいかに糾弾してもしすぎることはないものと考えます。その意味では、正信会の輩が血脈の否定にいかなる口実をかまえようとも、ことの本質は彼らの信心の根本の狂いにある。(平成3年1月1日付文書「『お尋ね』に対する回答」秋谷栄之助)
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これは、第2次宗創問題勃発後の公式見解である。文中「血脈否定」とは、正信会が唯授一人の血脈を否定したことを指す。学会自身、唯授一人の血脈を否定することを「日蓮正宗の根本教義の否定であり、究極の悪業」だとしていたのである。それが今は、学会が正信会同様「日蓮正宗の根本教義の否定」をし「究極の悪業」を刻んでいるということでる。これについては「いかなる口実をかまえようとも」「ことの本質は」「信心の根本の狂いにある」。
◆良き法と、良き師と、良き檀那との3つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります(昭和30年12月13日・関西本部入仏落慶式『戸田城聖全集』第4巻399頁)
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「大御本尊」「御法主上人猊下」から離れてしまった池田学会は、戸田学会とは本質的には別団体ということができよう。
◆学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうであらねばならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる(S31.1.29『戸田城聖全集』第3巻235頁〜)
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「猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきた」「これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。」戸田会長が生きていたら池田は即座に除名である。「今後も、この精神で一貫する。」とあるとおり、一時的な評価などではない。
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【法への随順】
●此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり謗法と申すは違背の義なり随喜と申すは随順の義なり(『唱法華題目抄』全集4頁)
●随順不逆とは本迹二門に随順するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の事なり。(『御義口伝』全集737頁)
●所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり(『御義口伝』全集761頁)
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文底独一本門においては仏と法が一体である。よって「寿量品の内証」=「大聖人の内証」となる。つまり、法への随順=仏への随順となる。この「寿量品の内証」は、法水瀉瓶によって、日興上人以下の歴代に相伝されているのである。<内証相伝>参照
【師への随順】
●謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。(『立正安国論』全集27頁)
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[侶]りょ=伴侶となる僧・伴僧の意(『御書辞典』聖教新聞社S51)
[伴僧]ばん‐そう=法会や葬式で、導師につき従う僧。(『大辞泉』)
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つまり「正道の侶」とは正法受持の御僧侶であり、必ずしも大聖人のことではない。
●法華に云く「悪知識を捨て善友に親近せよ」文、止観に云く「師に値わざれば邪慧日に増し生死月に甚し稠林に曲木を曵くが如く出づる期有こと無けん」云云、凡そ世間の沙汰尚以て他人に談合す況んや出世の深理寧ろ輙く自己を本分とせんや(『蓮盛抄』全集153頁)
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「悪知識を捨て善友に親近せよ」とあるのだから、「師に値わざれば邪慧日に増し」の「師」とは「親近」すべき善知識である。ということは、現に生きておられる方である。
●されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑ(智慧)なににかせん(中略)善知識たひせち(大切)なり。而るに善知識に値ふ事が第一のかた(難)き事なり(『三三蔵祈雨事』御書873、全集1468頁)
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善知識について天台大師は『摩訶止観』巻4下に、3種の善知識を説き示しています。(中略)第3は教授の善知識で、智慧をもって正しい修行の在り方を教え、善き果報をもたらしてくださる御法主上人猊下をはじめとする、指導教師、講中の役員や先輩などを指します。(『大白法』H17.2.1)
●流を酌む者は其の源を忘れず法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し云云浄土門に入つて師の跡を踏む可くば臨終の時善導が如く自害有る可きか、念仏者として頚をくくらずんば師に背く咎有る可きか如何。(『念仏無間地獄抄』全集100頁)
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念仏を信じるのであれば、その法(経、論)を拝するだけではなく、その師(ここでは善導)の振る舞い(自害したこと)も真似るべきである。ここでは、念仏を破折されているが「・・・師の跡を踏む可し」の御指南は、一般論として成り立つものである。尚、念仏宗にとっての仏は阿弥陀であり、正師は善導、法然などの人師である。善導は道綽の弟子であり、念仏宗の開祖ではない。だから、ここでいう「師」とは仏のことではなく、途中の人師のことである。
我々にとっての「源」とは日蓮大聖人である。「流」とは大聖人→日興上人→日目上人→と続く師弟の流れである。だからこそ「師の跡を踏む」ことによって「源」=大聖人の「法を行ずる」ことができ、「源」である師と同じ境地に達することができるのである。池田学会のように付嘱・相伝・師弟を無視して「大聖人直結」を唱える者には「酌む」べき「流」が存在しない。
●日蓮・法華経の行者となつて善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや、日蓮は草木の如く師匠は大地の如し、(中略)日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず(『華果成就御書』全集900頁)
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「日蓮は草木の如く師匠は大地の如し」の「師匠」とは「道善房」のことである。だから一般論としての「師弟相違せばなに事も成べからず」という御指南の「師」とは、大聖人のことではなく、直接の師匠である。
●彼の不軽軽毀の衆は現身に信伏随従の四字を加れども猶先謗の強きに依つて先ず阿鼻大城に堕して千劫を経歴して大苦悩を受く、(『顕立正意抄』537頁)
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不軽菩薩へ信伏随従することの正しさが説かれている(ただし、ここでは、過去の罪深き故に、ただちには成仏できずに一旦地獄に堕ちたとされる)。
●(上記御文のつづき)今日蓮が弟子等も亦是くの如し或は信じ或は伏し或は随い或は従う但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は設い千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑無からん者か是を免れんと欲せば各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ、我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云云。(『顕立正意抄』全集537頁)
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「奴婢と為つて持者に奉(つか)えよ」と仰せである。「奉え」ることが"御本尊への給仕"や"大聖人の仰せのままの実践"などを意味するものではなく、生きておられる方に仕えることは明らか。なぜなら、御本尊への給仕や御書の実践は、誰もがやるべきことであるが、ここでは「若し爾らずんば」とあるように、能力に応じた具体的実践について述べられているからである。しかもこれは、「或は信じ或は伏し或は随い或は従う」とあるように、信伏随従の姿の1つとして述べられているのである。
●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(『四恩抄』御書268・全集938頁)
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仏滅後、仏の説かれた法のみがあっても衆生はそれを正しく解釈できないのです。だからこそ僧宝が必要なのです。我々は僧宝を師と仰ぎ信伏随従することによって、法を正しく解釈できるのです。また、僧宝は末法万年に常住していなければならないのであり、日興上人のみを僧宝とすることが誤りであることは明らかです。当然、僧宝のみが正しく法を説けるのは、大聖人の御内証が僧宝に伝わっているからである。
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
【唯授一人の血脈相承】<血脈相伝の体>参照
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されています。このように、大聖人御自身が、滅後の師匠を日興上人御一人に限定されたのです。たとえ、大聖人の直弟子であっても、大聖人御入滅後は、日興上人を師と仰がなければならないのです。時の貫首である日興上人を蔑ろにした「大聖人直結」などありえないことは、明らかです。
大聖人から日興上人への唯授一人の血脈相承は、日目上人以下の大石寺歴代上人へ伝えられていることは、以下の文証から明らかです。
●日興謹んで之を記し奉る。聖人の言く此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり(『産湯相承書』全集880頁)
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後加文ではありません。
●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。
●本門寿量品に於ても秘し玉ふ処の御内証結要五字の真文を譲り給ふと云へども、無常の相を娑婆に訓え、一瓶の法水を日興に御付嘱あり、日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて当時末代の法主の処に帰り集まる処の法花経なれば法頭にて在(おわ)す也、秘すべし口外すべ可らず(中略)末代には上行菩薩本門の別付嘱唯我一人也(妙蓮寺第5代日眼『五人所破抄見聞』/『富士宗学要集』第4巻9頁)
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此の書は康暦2年のもので、第6世日時上人の時代にあたる。日興上人滅後40数年のことである。この時代にも既に「上行菩薩への別付嘱=唯授一人の血脈相承=法水写瓶」という法門が、宗門内において徹底していたことが分かるのである。そして血脈付法の御法主上人を「法頭」であると断言しているのです。これは上記『百六箇抄』や『池上相承書』と同趣旨の御指南であることは明らかです。
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「蓮・興・目」とあるように、御書を正しく拝することができるのは、唯授一人血脈相承によるのです。大聖人滅後は、唯授一人血脈相承を受けられた御法主上人の御指南に基づかなければ、御書を正しく解釈できないのです。
●申すまでもなく御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切なことでありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。それ故此には従来拝読を許されてをる御相伝書を挙ぐるに止めたのでありまして、此れを以て全部であると速断してはならないのであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1150頁)
●当宗では、血脈なくして御本尊様を書写し奉ることはできない。もし、血脈などいらないというのならば、身延の人が書いた本尊でもよい、誰が書いてもよいではないか。(第66世日達上人・第17回妙観会・昭和53年3月31日)
●さてそこで、もう一歩深く考えて、その信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるか、ということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の血脈は流れないであります。
大聖人は『一代聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書92、全集398頁)
と申されております。また日寛上人は、「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります。(第66世日達上人『大日蓮』昭和53年9月号)
【生死一大事血脈抄】<生死一大事血脈抄>参照
<在家のみの異体同心に信心の血脈は流れず>
●総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、(『生死一大事血脈抄』全集1337頁)
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「生死一大事の血脈」は「日蓮が弟子檀那等」が異体同心であるところに成り立つのです。いかに数が多くても、「檀那」である在家だけで仲良くやっても、異体同心とならないことは明らかです。よって、「弟子」である御僧侶を蔑ろにした今の学会に、生死一大事の血脈が通わないことは明らかです。
<血脈相承に総別あり><総別の二義>参照
●只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、(中略)妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由(中略)日蓮先ず粗弘め候なり(『生死一大事血脈抄』全集1338頁)
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「釈迦多宝上行菩薩血脈相承」とあるように、生死一大事の血脈は、釈尊から地涌の菩薩への結要付属に由来するのです。この付嘱・血脈において総別のあることは、『曽谷殿御返事』や『身延相承書』に明らかです。そのうち、日寛上人の以下の御文は、別しての血脈=唯授一人の血脈を表しています。
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(日寛上人・撰時抄愚記/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、生死一大事の血脈は、別して唯授一人血脈相承として、大石寺歴代御法主に伝わるのです。
<昔の学会指導>
◆もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈があり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない(学会版日蓮大聖人御書講義『生死一大事血脈抄講義』30上−32頁)
◆この(生死一大事血脈抄の)御文は、別しての『法体の血脈』を大前提としての、総じての『信心の血脈』について、お述べになったものと拝される。(中略)ゆえに『法体の血脈』と『信心の血脈』を混同するようなことがあってはならない。(『大白蓮華』S55.3・69頁)
【師弟相対の信心】
さて、この師弟相対の源、淵源は、大聖人、日興上人の時代にまで遡(さかのぼ)ることができます。
それは、大聖人が信徒にお手紙を与える場合、出家である内弟子を使いとして、その手紙を読ませ、講義し、理解させるという、信徒に対する教化・指導が行われたことが、諸御書に拝されるからであります。特にあの熱原の法難は、大聖人の御指南を賜りながらも、直接的には日興上人の御指導や対応によって、熱原の信徒は法難を堂々と乗り切っております。これが師弟相対の信心の表れであります。(『大白法』H19.5.16)
●本果妙の日蓮は経巻を持ちたまへば本因妙の日興は手を合せ拝したまふ事・師弟相対して受持斯経の化儀・信心の処を表したまふなり。十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以ッて結帰するなり(第9世日有上人『有師談諸聞書』/『富士宗学要集』第2巻160頁)
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日興上人が大聖人と一体の境界を得ることができたのも、師・大聖人に絶対的な信を置き常随給仕の修行を貫かれたからでしょう。もし、日興上人が、大聖人滅後に仏法に巡り合ったとしても、大聖人の遺文を拝しただけでは、大聖人と一体の境地に達することはできなかったはずです。ここに、付嘱を受けた正しい師(大聖人も釈尊より別付嘱を受けている)に直接相対する信心の必要性があるのです。
●私ノ檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云フ義は有るべからざるなり(第9世日有上人/『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻247頁)
この御文について第31世日因上人は、
●此ハ師檀の因縁を示す檀那ハ是俗ノ弟子なり、故ニ師弟血脈相続なくしては即身成仏に非す、況や我が師匠に違背せるの檀那ハ必定堕獄なり(第31世日因上人『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富士宗学要集』第1巻247頁)(同)
●此の師弟の相対的の関係に於て、仏法を拝するといふのが仏法の極意であります(中略)若し此れ等のことを考へずに仏法を論ずるならば、最早仏法ではないと言ふべきであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1153頁)
<手続の師匠とは御法主上人>
手続(てつぎ)というのは、1つは「物事について他人を介することなく、直接承継し付嘱すること」と、もう1つは「正統な承継の次第、また二者の間を取り次ぎ仲介する」という、2つの意味があります。
最初の「物事について他人を介することなく、直接承継し付嘱すること」の意味からすると「手続の師匠」とは、大聖人・日興上人・唯我与我の重(じゅう)における下種仏法の正統な承継者、すなわち唯授一人・血脈付法の御法主上人に当たるのであり、これが「手続の師匠」の本義となります。(中略)
したがいまして、唯授一人の血脈相承そのものが、仏法上の「手続の師匠」の本義なのであり、この意義から考えますと「手続の師匠」をすぐさま住職・主管と考えるのは間違いであります。(『大白法』H19.5.16)
●信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず(第9世日有上人・化儀抄『富士宗学要集』第1巻64頁)
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学会や正信会は、この御文をもって唯授一人血脈が不要であることの文証としています。「出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり」とありますが、ここでいう「師匠」とは唯授一人血脈付法の御法主上人なのです。そのことは、同じ日有上人の以下の御文に明らかです。
●手続の師匠の所は、三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。また我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是を即身成仏と云ふなり(第9世日有上人『化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻61頁)
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「もぬける」とは、蛇などの脱皮のこと。日達上人は「師匠は三世諸仏や、大聖人已来、歴代の法主上人の御心がぬけられて、師匠のところに来ている」(『日興遺誡置文・日有師化儀抄略解』)と仰せであります。
日有上人は「我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし」と仰せです。その理由は「手続の師匠」(時の御法主上人)は「三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故」だからです。「代々上人」とは唯授一人血脈相承を受けられた大石寺歴代上人であることは『産湯相承書』や『百六箇抄』などからも明らかです。
●「手続」とは経次又は順序の義なり・仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず、世間に物件の授受は必ず手を以つて受渡しを為す故に・手続又は手継の成語生ず、惣勘文抄に三世諸仏の手継の文書を釈迦仏より相伝せられるゝ時と遊ばされたるは・師より弟子に父より子に相伝する時の手継の証文書類は・法華経なり妙法なりとの御意なり、今文は弟子より師匠に対して手続きの師匠と云へり・師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、義別にして手続の意異なる事なし、「もたげられたる」とは・もちあげたるなり・興起したるなり・奉上するなり弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十万の通軌なれば・釈尊は釈葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、師弟の道は神聖ならざるべからず・世間の利害を離れて絶対ならざるべからず、然るに世澆季に及び・師の弟子を見るや使丁の如く・弟子の師を見るや雇主の如く・師厳道尊の風行はるべくもあらず・互に勢に附き利を求めて・師師たらず、弟子弟子たらず、師は其道を尽すも弟子は此に仕ふるの責を怠り、弟子は其法を尽すも師は之を顧みざるの類頻々として生ず、是れ畢竟師弟の縁を軽視するに依るなり・慎むべし、「師匠の所を能々取り定めて信を取るべし」と仰なるは、千古の金言として仰ぐべき事なり、「又我弟子も此の如く我に信を取るべし」とは・三世の諸仏も高祖も開山も三祖も道師も行師も・各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ如く・有師も影師に依りて信を取り給へば・有師の弟子たらん者は・此の如く我にと即有師に信頼して信心決定すべしとなり、「此時は何も妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり」等とは・信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華の色心は即所化の弟子の色心となるが故に・生仏一如師弟不二の即身成仏の域に達する事を得、是れ葢し信の手続によりて生する所のものなり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻124・125頁)
<末寺住職にも手続の師匠の意義>
●「手続の師匠」は、当代の法主であるとともに、またその旨を受け、意を受けて、日本全国、乃至世界の各地にその命を受けて赴き、法を弘宣するところの僧侶であり、その各々の僧侶の命の中に大聖人様の仏法の功徳が存するのであるということを、深くお考えいただきたい(第67世日顕上人『大白法』346号)
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(※「手続の師匠」の)もう1つの意味の「正統な承継の次第、また二者の間を取り次ぎ仲介する」という意味から考えるならば、法華講員の信心が、住職・主管を通して御法主上人の血脈へ取り次がれるということですから、ここにおいて各末寺の住職・主管も「手続の師匠」ということになります。(『大白法』H19.5.16)
●日仙上人は、師の日華上人とともに修験より御開山門下に改衣せしが、また大聖人の弟子に進まれた。(中略)日郷上人は目師の弟子のままであり・・・(『富士日興上人詳伝(下)』143頁)
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日興上人に折伏された方は日興上人の弟子であり、大聖人の直弟子ではない。日目上人に折伏された方も日目上人の弟子であって、大聖人の直弟子ではない。このように、師弟関係には厳しい筋目が存在する。日仙上人が「大聖人の弟子に進めれた」というのも、師である日華上人の允可があったればこそ許されたことなのであろう。自分勝手に、師を変えることは、『佐渡国法華講衆御返事』において日興上人が厳戒されるところである。
●自今以後は、師をさだめて、講衆にも、一とうせられ候べし。この法門は、師・弟子をただして、仏になり候。(中略)師・弟子だにも、違い候へば、同じ法華を、持ちまいらせて候へども、無間地獄に落ち候也。うちこし・うちこし直の御弟子と申す族(やから)が、聖人の御時候しあひだ本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す族(やから)多く候、此等の人は謗法にて候也(第2祖日興上人『佐渡国法華講衆御返事』/聖教文庫『富士日興上人詳伝下』245、261頁、『歴代法主全書』第1巻182頁〜)
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御文を拝すれば師弟を正すといふは日蓮大聖人から直弟、そのまた弟子といふ順序を間違はぬ様に正しく行くことを仰せ給ふものである。借問す、池田氏は師弟の順序を正してをるか、聖人の直の弟子なりと申す輩ではないかといいたい。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1469頁)
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文中「池田氏」は実際は「高田氏」(『興尊雪寃録』の著者)
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane2/ketimyaku-sadonokuni.html <佐渡国法華講衆御返事>
師資の系統明らかならざる風来僧を師と仰ぐなの厳制が長文の各所に顕われており、一時系統不明の僧よりの御供養を拒絶せられてたことが明文にあるほどである。この開山上人の厳格さが、現今にまで御本山にも残っており、貧富にかかわらず、その所縁の僧俗の証明書をもって信徒たるの待遇をなす、厳として、またうるわしき慣例は、いかに煩雑の時代に変ずるとも、万年の未来までに残したきもので、師弟不二の信仰が、少しも衰微せぬことを祈り申すのである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』262頁)
この御手紙(『佐渡国法華講衆御返事』)は日興上人の真筆である。その内容は、終始一貫、佐渡の講中に「手続の師匠」が定っていないことのみを問題にしている。そして、大聖人が本弟子6人を定められたのは「その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずるため」と仰せになっている。そして「末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す」ことが「謗法」であると断言されている。これを彼の波木井実長の立場で言えば、波木梨は日興上人の弟子であって、大聖人の直弟子ではない、ということ。それを無視して「聖人の直の御弟子と申す」ことは「謗法」となるのである。大聖人の時代であっても大聖人→本弟子→末弟→信徒という師・弟子の筋目が守られていたことが分かる。
●日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持(たも)たざらん者をば御用ひあるべからず(『一谷入道女房御書』御書831頁・全集1330頁)
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「たとえ日蓮大聖人の弟子と名乗っても、大聖人より証明された正統な者でなければ用いてはならない」と仰せである。師弟子の筋目を無視して、勝手に「大聖人の弟子」と名乗ることが、大聖人の御心に背く行為であることは明らか。
●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし(『新池殿御返事』1443頁)
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この「僧」が大聖人に限定されるものではないことは、同じ御手紙の次の御文から明らかである。
●此の僧によませまいらせて聴聞あるべし、この僧を解悟(げご)の智識と憑(たの)み給いてつねに法門御たづね候べし(『新池御書』全集1444頁)
●此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給うべし(『一谷入道御書』全集1330頁)
●法華経十巻をくりまいらせ候、日蓮がこいしく・をはせん時は学乗房によませて御ちやうもんあるべし(『千日尼御前御返事』全集1314頁)
●学乗房をもつて(※一谷入道の)はかにつねづね法華経を・よませ給えと・かたらせ給え(『千日尼御前御返事』全集1315頁)
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これらの御文からうかがうに、学乗房は大聖人赦免後の佐渡で、残された信徒の教導に当たる中心者として、重要な役目を担っていたことが判ります。(『富士門流の歴史』重須篇90頁)
●口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候則(すなわち)如来の使なるべし(『四条金吾女房御書』全集1109頁)
●吾等が如き者の談義に今日も大勢の参詣満足せり(中略)何様の事ありとも万端を抛(な)げ捨て参詣して、丁聞し本門寿量の南無妙法蓮華経を唱へ奉り報恩謝徳に擬し玉はん事専らなり。(中略)今幸に本門寿量品を弘宣するに何ぞ参詣せざらんや何ぞ夢中の世事に拘つて信心を励まざらんや云云(第26世日寛上人著『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻137・143頁)
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御説法中随所に寺院参詣・説法聴聞による功徳の甚重なる事を御教示であります。この御説法は、江戸市中の寺院、つまり末寺で行われており、総本山参詣はもとより、末寺に参詣して説法聴聞を重ね行学を増進する事の重要性を御教示されたものとしてもよく知られています。(『大白法』)
●一足一足を積んで千里を行くが如く、日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足一足の裏に寂光の都は近づくなり。一辺一辺に大山大海の如くなる仏身を、我が己心にこしらえ立つる程に随分参詣唱題肝要なり(第26世日寛上人著『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻191頁)
<化儀は師弟相対の表明>
第9世日有上人は『化儀抄』において、師弟相対の信心を随所に強調されています。「師弟相対の信心」とは大聖人→御法主上人→末寺住職→信徒という筋目を違えない信心のことです。当然、「大聖人直結」の信心は師弟相対の信心に反する謗法です。
●実名・有職・袈裟・守・曼陀羅・本尊等の望を、本寺(総本山)に登山しても田舎の小師(末寺住職)へ披露し、小師の推挙を取りて本寺にて免許有る時は仏法の功徳の次第然るべく候。直に申す時は功徳爾るべからず(第9世日有上人『化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻62頁)
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御本尊下付などを末寺住職をさしおいて、直接本山に申し出たのでは功徳があまりないということです。この御文は僧侶間について述べられたものですが、日達上人は、信者についてもあてはまると御指南(『略解日興遺誡置文・日有師化儀抄』28頁)されています。
このように大聖人→御法主上人→末寺住職→信徒という筋目を違えないことが大切なのです。「大聖人直結」が間違いであることは、明らかです。
また、末寺住職を無視した本尊の下付願いさえ師弟相対の信心に反するとして誡められているのですから、本山の認可を受けずに、勝手に日寛上人書写の御本尊を複製(実際には、首題の一部を改変)した学会の行為が、大謗法であることは明らかです。
●卒塔婆の事、縦ひ能筆なりとも題目計りをば書くべき人にかゝすべし。余の願文意趣の事は然るべき作文の人、能筆尤も大切にて候。又一向其の時の導師無筆ならば代官しても書かすべきなり。是も師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故なり。但し導師計りの外には沙汰あるべからざる事なり。(第9世日有上人『化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻65頁)
上記の註解について日亨上人は
●師弟相対の事、有師丁寧反復是を述べらる。前条にも本条にも、又下にも多く出づ。類文塔婆の下更に細かなり。今時の信仰稍此意を失へる傾あり。或は害あり、或は無し。謂己均仏・現身成仏・師弟不用の高慢より生して、師弟相対を無視する事は大いに信行に害あるものと知るべし(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻96頁)
【邪難粉砕】
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日蓮正宗大石寺は、大聖人直結の信心は邪義だと批判しますが、ではこれはどうなるのでしょうか。
昭和37年に連合会組織を発足させた法華講は、6項目からなる「日蓮正宗法華講要旨」を制定した。その1つが、「法華講衆として大聖人に直結した信仰を致しましょう」との項目。これは、当時の『大白法』(「昭和37年10月20日付」となっているが、10月は11月の誤植と思われる)でも大々的に報じられている。
つまり、本来、「大聖人直結」の信心が法華講の根幹だったはずなのである。
それが、いつしか大聖人と法華講のあいだに「法主」をいれてしまったために、狂ってしまった。創価学会は日蓮正宗大石寺から切られたために、本来のありかたに戻っているだけ。
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<名同義異>
本来、仏教用語に「大聖人直結」などという語はない。昭和37年頃の法華講と、現在の創価学会が、それぞれ独自に使用した語であって、語句は同じでも意味が全くことなる。
<法華講の「大聖人直結」>
―御法主に信伏随従することによって大聖人に直結―
●今春は法華講全国連合会が結成されて最初に迎える意義深い新年でありますので、この機会に特に一言申し上げたいと存じます。(中略)
しからばこの法華講衆はどう云う風に進まねばならんかと云うに、我々僧俗の信仰は御本尊中心であり、同時に御法主上人が中心でなければならない。そこに外護の任が生れてくるし、亦折伏行も生じて来るのであります。(中略)
然らば2祖日興上人、3祖日目上人、日道上人、日行上人とずっと続きまして御当代第66代日達上人に唯授一人の御相承が伝わっておりまして、我々が仰ぎ奉る御法主上人は今世の日蓮大聖人を拝するが如き心持を以て御本山にお参りせねばなりません。(中略)
でありますから、我々の信仰は御法主上人即日蓮大聖人と云う固い信念を以て、法華講衆は御法主を中心に信仰し、外護の任は御本山を中心に修行せられ、本年は更に一層信心倍増あらんことをお祈りして新年の御挨拶と致します。(高野日深御尊能化『大白法』S38.1.1/<妙音>WS)
●日蓮大聖人が御在世のとき駿河一円の清信の人々を指して法華講衆と仰せられ、戒壇の大御本尊建立の願主と遊ばされ対告衆となし給ふのであります。それ故本宗の信徒は、皆此の法華講を相続して参るといふのが、大聖人に対し奉り正しい在り方であります。(中略)本宗の法華講でなければ意義をなさず、又大聖人に直結し奉ることができない(第65世日淳上人『日淳上人全集』1164頁)
●内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といつて内証のみに執して、師弟の関係を整えることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである(『日淳上人全集』1443頁)
<創価学会の「大聖人直結」>
―唯授一人の血脈を否定―
◆日顕宗の言う「血脈」などは本当にナンセンスな話です。本来、宗教には、「仏と自分」との関係の信仰が重要であって、権威主義の「血脈」などは、信仰的には何の意味もない(池田大作『聖教新聞』H5.5.5)
―「大聖人直結」と言いながら「池田直結」―
下記【池田学会の矛盾】参照
【昔の学会指導】
◆釈尊出世の本懐としての法華経を、今日において我々が理解するには、その予証どおりに出現して、これを実生活に証明された日蓮大聖人を信じ奉り、説のごとく実践躬行(きゅうこう)して価値を体験し、証得する以外に途(みち)はない。それをするためには、唯一の正統たる日興上人門流として、61世を重ねつゝある日蓮正宗の総本山大石寺の教義に従って、忠実純真に、三大秘法、すなわち法華本門の本尊に、法華本門の戒壇において、法華本門の題目を唱え奉る外には絶対にない。(略)正法は正師につくにあらざれば、証得し能(あた)わぬとはこの意味である(『牧口常三郎全集』第8巻69頁/『慧妙』H15.12.16)
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「正師」とは、すなわち第2祖日興上人と歴代の御法主上人である。学会ではこの「正師」とは日興上人のみである、と反論するのだろうが、牧口会長は「日興上人門流」と述べたのち「61世を重ねつゝ」と言っており、これが日興上人以来の歴代を指すことは明らかである。しかも、歴代上人によって伝えられる大石寺の教えに従って三大秘法を持つ以外に、法華経を理解する方法は絶対にない、と述べているのである。
この牧口会長の指導からすれば、今の創価学会は、絶対に法華経および大聖人の御意を知ることはできないことになる。
◆どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。(S31.1.29『戸田城聖全集』第3巻236頁)
◆大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものであります。したがって、唯授一人、遣使還告であられる御法主上人を通しての大聖人への直結であることは当然であります。(S54頃・学会作成『特別学習会テキスト』25頁/『大白法』H14.6.16)
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学会は「昭和52年路線」終結にあたり、「大聖人直結」の指導について、日達上人に対して上記のような弁解をしていたのです。日達上人への謝罪が、単なるポーズであったことは明かです。一度反省懺悔したことを反古にした学会を、日顕上人が破門するのは当然です。
◆経文の「遣使還告」とは、どういうことでしょうか。文上から読めば、釈尊の使いとして上行菩薩が、末法に出現したことをいいます。したがってこの文は、末法に上行菩薩、すなわち日蓮大聖人が現れることを予言したものであるとも考えられます。事実、日蓮大聖人が出現され、釈尊の予言を一応証明し、かたちのうえで助けています。大聖人はこのことを「観心本尊抄」で「今の遣使還告は地涌なり」(全集251頁)と仰せです。しかし、再往、文底の立場から読めば、御本仏日蓮大聖人の使いとして、歴代の法主上人が厳然と法水を受け継がれ、弘法に励まれている姿であると拝すべきです。私たちは、日蓮大聖人御在世当時に入信することはできませんでしたが、滅後、歴代法主上人が法水を護ってくださったおかげで、謗法の酔いから覚めてこの正法にめぐり会うことができたのです。そのめぐり会った私たちが、日蓮大聖人の末弟としてその精神を受けて折伏に励むならば、それは日蓮大聖人の使いとしての、仏の行となるのです。(創価学会教学部編『方便品寿量品の解説』S48発行197頁)
◆ご存じのとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第2祖日興上人、第3祖日目上人、第4世日道上人、および御歴代上人、そして現在は第67世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない。(池田大作『広布と人生を語る』第3巻249頁/『邪誑の難を粉砕す』H17.6.7)
◆いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。(池田大作『広布と人生を語る』第3巻294頁/『邪誑の難を粉砕す』H17.6.7)
◆日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった「正信会」も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」なのである。(池田大作『広布と人生を語る』第8巻228頁/『邪誑の難を粉砕す』H17.6.7)
◆本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります(池田大作『聖教新聞』S54.5.4/『邪誑の難を粉砕す』H17.6.7)
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以上、池田大作の過去の発言を提示した。松岡(※離脱僧)は池田のこの発言と全く異なった、大石寺の唯授一人相承を日蓮日興以来の歴史的事実として承認しているわけではない≠ニの言を弄するが、池田大作が過去にこのような血脈を尊信する発言を繰り返していたことはまったくの矛盾ではないか。池田大作の過去の発言は、正しかったのか、誤りだったのか。もし正しいのであれば、松岡の述べることは誤りとなる。また過去の池田の発言が誤りであるなら、それがなぜ誤りであるのかを総括すべきである。
松岡雄茂に聞く。池田大作は、二枚舌なのか、それともボケたのか、どちらなのだ。正直に答えてみよ。(『邪誑の難を粉砕す』H17.6.7)
【池田学会の矛盾】
―「大聖人直結」といいながら池田に直結―
◆この若い革命家(※山本伸一=池田大作)の「妙法への帰命」という理念は、具体的な実践でいうならば、稀有の師と一体となっての「妙法への帰命」であることを、彼は知ったのである。(『人間革命』第3巻「結実」)
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"大聖人直結"などといい、師を否定する学会であるが、「具体的な実践でいうならば、稀有の師と一体となっての『妙法への帰命』」などと言っている。池田自身、戸田城聖という"師"がいたからこそ「妙法への帰命」が実践できたことを認めているのである。
◆第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第2代会長、池田大作第3代会長の「3代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である。(学会・新会則)
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現在の学会・新会則でも池田大作を「永遠の指導者」とし、現に、池田の指導を御書以上に読み"心肝に染める"べく必死で活動しているのが実態である。本当に"大聖人直結"であるならば、各会員が独自に御書を拝読すれば充分ではないか。池田の指導を通してしか教学も分からないし、具体的な活動もできないのであれば決して"大聖人直結"などではない。
◆第10条 会長は、次に定める会務を行なう。
1)教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議に諮問の上、最高指導会議の意見を聞き、これを尊重するものとする。
2)御本尊に関する事項を司る。(学会・新会則)
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師匠などいらない、会員も会長も平等だというのであれば、会長も会員の直接選挙で選んではどうか。地区部長、支部長なども各組織の会員による選挙で選ぶべきである。それでこそ「自由」で「平等」な「大聖人直結」の組織ではないのか。

「御書根本(口伝否定)」破折
<経文解釈>
1.●不依人とは法華涅槃に依らざる人なり(『守護国家論』全集67頁)
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「依法不依人」とは、相伝・口伝に基づく人師の解釈を否定したものではない。
●此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、依法不依人此れを思ふべし(『松野殿御返事』全集1383頁)
2.●爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし(『十章抄』全集1274頁)
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「依法不依人」といっても、文自体にとらわれたのでは、正しい解釈はできない。経文を解釈する場合は、その文にとらわれるのではなく、より高い経典に説き示された義によって解釈しなければならない。
3.●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』全集398頁)
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最高の経典(法華経)は、相伝に基づかなければ、正しく解釈できない。つまり「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」(『開目抄』全集219頁)というときの「口伝」とは、正しい付嘱を受けていない者の口伝のことである。
●若し法華経の謂(いわれ)を知らざれば法華も仍(なお)これ爾前の経なり(乃至)若し本門の謂を知らざれば本門は仍これ迹門なり(乃至)若し文底の謂を知らざれば文底は仍これ熟脱なり(乃至)若し文底の謂れを知れば熟脱も即ちこれ文底の秘法なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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法華経だけでなく、文底下種仏法も相伝(釈尊→上行菩薩→日興上人→)によって正しく解釈できる。
4.仏典自体が、文字のない時代の口伝を基に作成された。このような歴史的経過から考えても、仏教が口伝を否定するはずがない。少なくとも付嘱を受けた正統な弟子による口伝と、付嘱のない者の口伝を同列に扱うべきではない。
<御書解釈>
―御書は相伝口伝に基づく―
●此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。(『三大秘法禀承事』全集1023頁)
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上行菩薩への結要付属自体が口伝だったのである。その口決相承に基づいて説かれたのが御書である。
―文書化されていない相伝―
●当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)
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古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽(ゆるが)せにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救うべからざるに至る、誠に嘆ずべきである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』45頁)
●義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
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「廿六箇条」(『日興遺誡置文』)や「化儀条目」(『有師化儀抄』)は、大聖人滅後に付法の上人によって認められたものである。その意味では、相伝・口伝を文書化したものであるが、これらが化法に即した正依であることは学会も異論あるまい。さらに、これら文書化された御指南(相伝・口伝)だけではなく、「其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条」もまた、『日興遺誡置文』や『有師化儀抄』と同等に扱われるべきである。
―附文と元意―
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
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大聖人や日興上人の御指南といえども、対告衆の機根や時代状況、著述の目的などを正しく把握しなければ著者の真意を把握することはできないのです。厳密に言えば「事事見参の時を期せん」とあるように、御本人に直接御会いし、真意を糺す外はないのです。しかし、大聖人や日興上人は既に御入滅されて御会いすることはできません。そこにこそ、大聖人の御内証を其のまま伝持された時の御法主の存在意義があるのです。
―内証一体の方による解釈―
●依義不依語 依智不依識(涅槃経の法四依/『一代五時継図』全集628頁)
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智とは仏智であり、識とは菩薩以下の浅い知識をいう。
●大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし(『阿仏房尼御前御返事』全集1307頁)
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「御書根本」といっても御書を拝しただけでは、法門を正しく理解することはできない。
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
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後加文ではない。
●一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり(『開目抄』全集189頁)
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
●経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る(第65世日淳上人『日淳上人全集』1444頁)
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御書の目的は衆生を事行の一念三千(三大秘法)に導くことであるが、その事行の一念三千は法華経本門寿量品の文底に秘沈されているのである。だから、法華経の文底が分からない者は御書を正しく理解できないのである。つまり、御書の解釈もまた「塔中及び蓮・興・目」等とつづく「相伝」に基づかなければならないのである。
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【御書の拝し方】
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』ほか)
<佐前・佐後>
●又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ(『三沢抄』御書1204、全集1489頁)
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御書の中に佐前と佐後の別があり、それを踏まえて解釈しなければならない。
<権実、本迹、種脱の所対>
●所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり(『法華取要抄』全集332頁)
●諸の法相は所対に随って同じからず(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『富士宗学要集』第3巻75頁)
●一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり(種脱相対)(『開目抄』全集189頁)
●大聖人様のたくさんある御書の中の一方面における顕れ方としては、やはりお釈迦様の教えの方便と真実を整理するという意味があるのです。これはまた同時に天台大師の教学を整理する意味にも通ずるのです。そこに内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対等のけじめからの従浅至深、破邪顕正があるわけです(第67世日顕上人『大白法』H16.11.16)
<附文・元意>
●依義不依語 依智不依識(涅槃経の法四依/『一代五時継図』全集628頁)
●一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但し真実の依文判義は本門に限るべし。(『十章抄』全集1273頁)
●我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく(『開目抄』全集203頁)
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『御義口伝』『百六箇抄』なども本来は唯授一人の口伝である。これは後に公開されたが、相伝・口伝を無視すれば、大聖人=末法の本仏、ということさえ分からない。「人本尊開顕の書」とされる『開目抄』でさえ、附文の辺からは「上行菩薩開顕の書」に過ぎない。
●本門の教主釈尊を本尊とすべし(『報恩抄』御書1036頁)
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血脈相伝の深義を知らざる他門下においては熟脱の教主たる色相荘厳の釈尊像を本尊とする。 池田創価学会も「御書根本」を標榜し、それ以外の血脈相伝を無用のものとするならば、他門下と同様に、当文を文字づらだけで判断して、金ピカの釈尊像をもって本尊とするのが順当であろう。 池田創価学会がそうしない理由は何か、それは、口では「御書根本」と言って独自の見解を立てた如くに述べるも、その実、歴代御法主上人から学んだ相伝による判釈を用いているからである。(『大白法』H14.7.1)
<四悉檀>
●予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか(『太田左衛門尉御返事』全集1015頁)
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大聖人様の御書の内容には、根本の確固たる筋道がありますが、また僧俗の種々の機根に応じて世界・為人・対治・第一義という四悉檀の上からいろいろな段階における御指南があります。(第67世日顕上人『大白法』H16.11.16)
1.正依に基づかなければならない。
2.正依は正しい相伝によって正しく解釈される(相伝に勝劣・正邪あり)
【依法不依人】
<正依に基づくことは当然>
―口伝を否定したものではない―
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◆竜樹菩薩の云く「修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざれば黒論なり」(『撰時抄』全集281頁)
◆法門を説き給ふとも、経文を手に把(と)らずば用ゐざれとなり(『聖愚問答抄』全集481頁)
◆仏法の邪正は経文の明鏡に依る(『北條時宗への御状』全集170頁)
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文証は御書だけでなければならない。

口伝に基づくというのは、愚かな本末転倒の迷走であることは言うまでもない(『創価新報』H13.5.21)
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当然、文証は、基本は御書に依るべきだが、しかし、御書だけでは、日蓮大聖人の御真意を正しく拝しきることはできない。
たとえば、日蓮大聖人は、直裁的に御自身を「末法の御本仏である」とは、御書のどこにも仰せられていない。末流の人々は、日興上人が大聖人を拝された信心を通じて、それを知ることができるのであって、逆にいえば、日興上人の御指南を拝さなければ、大聖人が御本仏であられることすら誰も知ることができない、ということである。
それは、今に至る他門流の日蓮宗を見れば、何の説明も要(い)らぬであろう。
この、大聖人の御真意を正しく拝された日興上人の信心、それを唯授一人で受け継がれ、時々に応じて解釈(げしゃく)を示された御歴代上人方の御教示に依らなければ、下種仏法の深義には到達できないのである。
学会も、かつて、戸田会長自ら「教学は日寛上人に還れ」と叫び、日寛上人の『六巻抄』に基づいて教義体系を学ぼうとしてきたではないか。それとも、今となれば、「御書ではないから」と、日寛上人の御指南をも捨てるのか。
日興上人も捨て、日有上人や日寛上人も捨てて、「御書だけ」などと言っていると、日蓮宗と同じになってしまう、と知るべきである。
ちなみに学会が引用した御文は、大聖人が、仏説に違背している真言宗を破するために仰せられた箇所で、「文証は常に仏説(御書)のみに依れ」などという意味ではない。それが証拠に、大聖人御自身がここで挙げられている文証自体、仏説ではなく、竜樹菩薩の"論"であり、これ以外にも、天台・伝教等の論釈を文証として挙げられている箇所は、御書の随所にある。(『慧妙』H9.7.16)
<口伝・相伝に勝劣あり>
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◆伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」(『聖愚問答抄』全集482頁)
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御文は、「仏説に違背する口伝は信じてはいけない」という意味であって、「口伝」そのものを否定しているのではない。
その証拠に、日蓮大聖人の仏法において、「口伝」は厳然とある。
まず、学会版の御書全集にも収録されている『御義口伝』は、題号からして、そのものズバリ「口伝」であるし、やはり全集に収録されている『百六箇抄』『本因妙抄』の両巻血脈、あるいは『産湯相承事』等も、金口相承とまではいかないが、大聖人から日興上人への「口伝」を筆受された法門である。
なお、そのうち『産湯相承事』の末文には
「聖人の言(のたまわ)く此の相承は日蓮嫡嫡一人の口決・唯授一人の秘伝なり」(全集880頁)
と、この法門が、大聖人から日興上人への口決の秘伝―すなわち「口伝」であることを明記されているのである。(『慧妙』H9.7.16)
<付法の正師は「不衣人」の「人」にあらず>
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◆依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるを何にいみじき人なりともご信用あるべからず候か(『唱法華題目抄』全集9頁)
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●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』全集398頁)
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一往は法華経についての御指南であるが、それでも、その正しい解釈は「相伝」によって行われるのである。即ち、「依法不依人」の「人」とは、正しい相伝を受けた方のことではないのである。
●不依人とは法華涅槃に依らざる人なり(『守護国家論』全集67頁)
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正しい付嘱を受けた方は「依法不依人」の「人」ではない。
●此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、依法不依人此れを思ふべし(『松野殿御返事』全集1383頁)
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正しい付嘱を受けた方に師弟相対することによって、師から弟子へと血脈が通うのである。「依法不依人此れを思ふべし」とあるように、このときの三位房は「依法不依人」の「人」ではないのである。
●されば日蓮が、法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども(『開目抄』全集202頁)
●一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・天親知てしかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。(『開目抄』全集189頁)
●書を読むことは容易である、しかし書物の意を把(つか)むは難事である(中略)弘法空海に一を三と読むの大誤ありといはれ、無一不成仏を逆解する痴者ありしといふ(中略)御書を拝すると共に極理の師伝といふことに心を置かざるべからず。稍(やや)もすれば法によつて人によらざれの経文に執して強ちに人を斥けむとするものがあるが、此れ誤れる解釈にして師と法と合せざれば法によつて人を捨つべしといふなり。師あつて法正しく法あつて師正しきを得、師言若し法に合せずとなさば躊躇するところなく捨て更に師を求むべきである。此場合我れには遂に師あらずといはば上慢なり、中途にして挫折するは怯懦(きょうだ)なり、此二者はついに道を得ること能はざるべし、怯懦者は猶道を得る機あらんも上慢に於ては道を得べからず。(中略)正師とは日興上人とその門流あるのみ。(第65世日淳上人『日淳上人全集』46頁〜)
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「師と法と合せざれば法によつて人を捨つべし」とは、血脈の正統を知らない者に対する一往の言である。その証拠に、最後の結論として「正師とは日興上人とその門流あるのみ」と仰せである。
<文証自体に誤伝・捏造あり。相伝によって文証の真偽も判定>
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◆設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり(『立正観抄』全集529頁)
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一代聖教を正しく判釈されたのは天台大師であり、法華最勝は天台大師の指南です。しかし、それも元をたどれば、釈尊よりの総付嘱によるのです。「設い天台の釈なりとも」とは、釈自体の誤伝や、釈に対する誤解の可能性を念頭に置かれての言でしょう。
●されば日蓮が、法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども(『開目抄』全集202頁)
●一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・天親知てしかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。(『開目抄』全集189頁)
●其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し。況や仏法の深義に於てをや。如来の滅後二千余年の間、仏法に邪義を副へ来り、万に一も正義無きか。一代の聖教多分は誤り有るか。所以に心地観経の法爾無漏の種子、正法華経の属累の経末、婆沙論の一十六字、摂論の識の八九、法華論と妙法華経との相違、涅槃論の法華煩悩所汚の文、法相宗の定性無性の不成仏、摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣、此等は皆訳者人師の誤りなり、此の外に亦四十余年の経経に於て多くの誤り有るか。設ひ法華・涅槃に於て誤有るも誤無きも、四十余年の諸経を捨てて法華・涅槃に随ふべし。(『開目抄』全集45頁)
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「依法不依人」の前提となるべき経文自体に誤りがあるのです。それを正しく取捨選択し、解釈できるのは何故か。それは釈尊からの付嘱によるのです。現に天台・伝教など、付嘱を受けたとされる方以外に、経文を正しく解釈された方はいないのです。
●法華経に勝れておはする御経ありと申す人出来候はゞ、思し食すべし。此れは相似の経文を見たがへて申すか。又、人の私に我と経文をつくりて事を仏説によせて候か。智慧おろかなる者弁へずして、仏説と号するなんどと思し食すべし。慧能が壇経、善導が観念法門経、天竺・震旦・日本国に私に経を説きをける邪師其の数多し。其の外、私に経文を作り、経文に私の言を加へなんどせる人々是れ多し。(『善無畏三蔵抄』全集881頁)
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「依法不依人」の前提となるべき経文自体に誤りがある。それを正しく取捨選択し、解釈できるのは何故か。それは釈尊からの付嘱による。現に天台・伝教など、付嘱を受けたとされる方以外に、経文を正しく解釈された方はいないのである。
●総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵一人を除てはいづれの人人も誤らざるはなし。其の中に不空三蔵は殊に誤多き上、誑惑の心顕なり。疑て云く、何をもて知るぞや、羅什三蔵より外の人人はあやまりなりとは。汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土日本にわたる一切の訳者を用ひざるかいかん。答て云く、此の事は余が第一の秘事なり。委細には向つて問うべし(『撰時抄』全集268頁)
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誤りの多い経文の中より、正しい経文を選べるのは「余が第一の秘事」と仰せです。これこそ、釈尊よりの付嘱相伝に基づくものではないでしょうか。
【正しい相伝】<血脈相伝の体>参照
●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』全集398頁)
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天台大師や伝教大師が正しく一代聖教を解釈できるのは、釈尊よりの相伝によるのです。「依法不依人」とあるように仏説に拠るべきであるのは当然だが、その仏説自体に権経実経、顕教密教、本門迹門など、様々であり、正しい相伝を受けた方(天台大師など)の御指南に基づかなければ、仏意に適った解釈かどうかさえなかなか分からない。この御文は表面上権実相対の文であるが、元意においては「この経」=「三大秘法」と考えるべき。↓
●此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。(『三大秘法禀承事』全集1023頁)
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上行菩薩への結要付属自体が口伝だったのです。その口決相承があったからこそ、誤訳偽作の混ざった一切経を正しく取捨選択し、「依法不依人」を前面に出し、文証を根拠にして折伏ができたのである。
●懐胎のよし承り候い畢んぬ、それについては符の事仰せ候、日蓮相承の中より撰み出して候(『四条金吾女房御書』全集1109頁)
●日蓮相承の法門血脈慥に之を註し奉る(『立正観抄送状』全集535頁)
●仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり(『撰時抄』全集272頁)
●問う、夫れ正像未弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり、宗祖何んぞ最大深秘の大法経文の面に顕然なりと言たもうや。答う、一代聖教は浅きより深きに至り、次第に之れを判ずれば実に所問の如し。若し此の経の謂われを知って立ち還って之れを見る則んば爾前の諸経すら尚お本地の本法を詮せずと云うこと莫し、文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に経文の面に顕然なりと云うなり。問う、此の経の謂われを知るとは其の謂われ如何。答う、宗祖云わく(一代聖教大意)、此の経は相伝に非ざれば知り難し等云々。三重の秘伝云云。(第26世日寛上人『依義判文抄』/『富士宗学要集』第3巻104頁〜)
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「若し此の経の謂われを知って立ち還って之れを見る則んば」「文底の義に依って今経の文を判ずる」とは依義判文です。この場合は「最大深秘の大法経文の面に顕然」となります。しかして、「此の経の謂われを知るとは其の謂われ如何。答う、宗祖云わく(一代聖教大意)、此の経は相伝に非ざれば知り難し等云々。」とあるように「此の経の謂われ」は相伝によって知ることができるのです。つまり、文底仏法に基づく正しい依義判文は、相伝によって行われるということです。そして、その相伝とは何かといえば、「『塔中及び蓮・興・目』等云々。」(『撰時抄愚記』)とあるように唯授一人の血脈相承のことなのです。
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
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大聖人や日興上人の御指南といえども、対告衆の機根や時代状況、著述の目的などを正しく把握しなければ著者の真意を把握することはできないのです。厳密に言えば「事事見参の時を期せん」とあるように、本人に直接会い、真意を糺す外はないのです。しかし、大聖人や日興上人は既に御入滅されてお会いすることはできません。そこにこそ、大聖人の御内証を其のまま伝持された時の御法主の存在意義があるのです。
●此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、依法不依人此れを思ふべし(『松野殿御返事』全集1383頁)
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血脈相伝に基づいた正しい師に随順することのよってこそ、御書を正しく解釈できるのである。これこそ真の「依法不依人」である。学会のいう「御書根本」「大聖人直結」とは、血脈相伝を無視して、大聖人の法門を勝手に解釈しようとするものである。ほんとうに、御書の真意を知りたいのであれば、相伝を受けた正師の指南に従うべきなのである。これまた、大聖人の御指南である。
●口には涅槃を信ずと雖も心に爾前の義を存する者なり又此の第二の人を説いて云く「信ずる者にして慧無く顛倒して義を解するが故に」等と云云、顛倒解義とは実経の文を得て権経の義を覚る者なり。(『顕謗法抄』全集459頁)
●手続の師匠の所は、三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。また我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是を即身成仏と云ふなり(第9世日有上人・化儀抄『富士宗学要集』1巻61頁)
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「手続の師匠」とは直接の師匠(一般僧侶にとっては御法主上人)のことです。「もぬける」とは、蛇などの脱皮のこと。日達上人は「師匠は三世諸仏や、大聖人已来、歴代の法主上人の御心がぬけられて、師匠のところに来ている」(『日興遺誡置文・日有師化儀抄略解』)と仰せであります。日有上人は「我が弟子も此くの如く我れに信を取るべし」と仰せです。その理由は「手続の師匠」(時の御法主上人)は「三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故」だからです。「代々上人」とは唯授一人血脈相承を受けられた大石寺歴代上人であることは『産湯相承書』や『百六箇抄』などからも明らかです。
●義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
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「廿六箇条」(『日興遺誡置文』)や「化儀条目」(『有師化儀抄』)は、大聖人滅後に付法の上人によって認められたものである。その意味では、相伝・口伝を文書化したものであるが、これらが化法に即した正依であることは学会も異論あるまい。さらに、これら文書化された御指南(相伝・口伝)だけではなく、「其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条」もまた、『日興遺誡置文』や『有師化儀抄』と同等に扱われるべきである。
●当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。(『日興遺誡置文』全集1618頁)
●古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らずこれを忽せにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救うべからざるに至る、誠に嘆ずべきである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』45頁)
●経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る(第65世日淳上人『日淳上人全集』1444頁)
●仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1442頁)
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相承を否定する池田学会は「仏法を破る」「魔族」ということである。
★私達は大聖人や日興上人に直接お会いして、文証の真意をお伺いすることはできません。しかし、大聖人の御内証そのままに伝持された時の御法主を「三世諸仏高祖已来代々上人のもぬけられた」方と拝して、「信を取る」ことによって正しい信心をすることができるのです。
<「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(『一代聖教大意』)>
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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上記の「相伝」とは、塔中→大聖人→日興上人→日目上人→と続く。「この経」とは、法華経であるが、相伝=結要付属によってこそ、文底下種仏法の真義も知ることができるのである。
●若し法華経の謂(いわれ)を知らざれば法華も仍(なお)これ爾前の経なり(乃至)若し本門の謂を知らざれば本門は仍これ迹門なり(乃至)若し文底の謂を知らざれば文底は仍これ熟脱なり(乃至)若し文底の謂れを知れば熟脱も即ちこれ文底の秘法なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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当該御文(「此の経は・・・」)は、一往、権実相対についての御文であるが、再往、下種仏法の立場でいえば、文底下種仏法の深意は「相伝」(唯授一人の血脈)によらなければ「知り難」いということである。
●大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は『一代聖教大意』に、「この経は相伝に有らざれば知り難し」と申されております。また日寛上人は「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります(第66世日達上人『日達上人全集』2−5−592頁)
◆[相伝]=(上記当該御文について)日蓮大聖人の法門は、不相伝の徒輩には知ることができないのである。(『新版仏教哲学大辞典』初版1149頁)
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表面は権実相対の文であっても、末法に即した解釈ができるである(開会、絶待妙など)。法華文上の意義さえ相伝がなければ分からない。況や文底下種仏法においておや。
1●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
2●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『富士宗学要集』第3巻94頁)
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法水瀉瓶は金口相承(1●)であり、内証伝持なのです。大御本尊の伝持のみであれば「清浄」の表現はありえないでしょう。
◆[法水瀉瓶]=血脈相承をあらわしている(『新版仏教哲学大辞典』初版1621頁)
◆[血脈相承]=法門、戒律を1人の師から1人の弟子へ絶えることなく授け伝えていくこと。(『新版仏教哲学大辞典』初版409頁)
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血脈相承とは大御本尊のことのみではなく、法門や戒律も含みます。日寛上人は法門や戒律(化儀)も「清浄」にして「断絶せしむる事無し」(上記2●)と仰せなのです。
<血脈相伝の文証>
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
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後加文ではない。
●日興謹んで之を記し奉る。聖人の言く此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり(『産湯相承書』全集880頁)
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後加文ではない。「嫡々」とあるから、相承が日興上人一代に留まるものでないことは明らか。このように、日興上人へ付嘱された唯授一人の血脈が、歴代上人へ流れていることは明らかである。「代々の聖人悉く日蓮なり」と仰せのように、大聖人の御内証が伝わっている歴代上人の御指南に基づくことは当然。
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(『池上相承書』全集1600頁)
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大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されている。この戒めは、そのまま歴代上人に対してもあてはまることは当然である。
●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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後加文だが、日亨上人は「義において支語なき所」(『富士宗学要集』第1巻25頁)だとされてる。史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。
●唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり(仏が悟った智慧は、ただ仏と仏とのみがよく知り尽くすことができる)(法華経『方便品』89頁)
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大聖人の教えは、いかに教学に勝れていても、何十年と信心をしていても、我々が理解し尽くすことはできない。「唯仏と仏とのみ」という境界こそが、大聖人と日興上人の境界であり、その内証が唯授一人の血脈相承によって歴代上人に伝わっているのです。
【権実相対の文証に執着する池田学会】
創価学会のくどくどとして、ただ文証さえ引けばよいというような主張は、要するに、権実相対の範疇の道理、文証をもって大聖人の甚深の血脈口伝を同一に論じ、法義の所対を混乱する暴論・邪論であります。創価学会の引くこれらの大聖人のお言葉は、すべて権実相対に限っています。故に「経文根本という原則」が大聖人の御法門の如く言うけれども、大聖人の正意の御法門では、経文根本という執着を、かえって否定されていることを知らないのでしょうか。
●文の底にしづめたり(『開目抄』全集189頁)
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いわゆる文底の御指南であります。すなわち、一代経の文に執(とら)われず、法華経を基準とせよ(「一念三千の法門は但法華経」権実相対)。迹門の文に執われず、本門を基準とせよ(「但本門寿量品」本迹相対)。本門の文に執われず、文底の意を拝せよ(「但文の底にしづめたり」種脱相対)と、明らかに仰せです。これでもなお「経文だ、経文だ」と言う者こそ、大聖人の御正意の法門に暗い謗法者であります。
●追て申す、竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず〔此に口伝有り〕(『法華行者値難事』全集965頁)
●問うて曰く要法の経文如何、答えて曰く口伝を以て之を伝えん(『曽谷入道殿許御書』全集1033頁)
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大聖人御自身、時に随い、機に応じて、本迹、種脱等の内容にかかる御指南を、口伝をもってなされていることも事実であります。したがって、御自身の文底の義をこれらの文(※下記◆網掛けの諸文証)によって否定されたなどの莫迦げたことは、全く存在しません。
そして、この文底の意より、大聖人の口伝、すなわち『御義口伝』等が述べられているではありませんか。かえって、大聖人が御自身の法門の口伝をもって正義を顕されていることが明らかです。この口伝法門のさらに精髄・肝要が、日興上人、日目上人、日道上人と続く、歴代上人への相伝であるのです。故に『御義口伝』に、明瞭にその趣意が記されているではないですか。↓
●秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず(『御義口伝』全集783頁)
★文上に対する文底、すなわち、下種仏法の肝要の口伝法門は、まさに『開目抄』という御文に依るのであり、御書に基づくものであります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』36頁〜)
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◆仏教には、経論にはなれたるをば外道という(『蓮盛抄』全集152頁)
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したがって、経文に明確に書かれていることに対して、歴代法主も含めて後世のどんなに立派そうな人がそれと異なることを言っても絶対に信じてはなりません。
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教外別伝の禅宗破折の文であります。臆面もなく、こういう所対の異なる文をもって歪曲の解釈を構え、宗祖以来の血脈に基づく歴代法主の御指南を否定する池田らの輩こそ、まさしく『聖愚問答抄』の、「正理を以て前とすべし」との大聖人の教えに背く仏敵であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ(『開目抄』御書558、全集219頁)
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この文は伝教大師の『法華秀句』下の、無問自説果分勝三の結語中の文で、釈尊滅後、有見・空見に執着する者に対し、その歴劫修行等に関する人師の口伝を法華の大直道で打ち破ったあと、天台の釈する法華経の正義の大切なことを述べた文であります。要するに権実相対の文なのです。
大聖人もまた、華厳、法相、三論、真言の法華に背く例証として伝教のこの文を挙げられたのであり、意は全く権実相対にあります。それを、大聖人の文底法門の奥旨における口伝法門と同一にすべき構格ではありません。こういうのを「乱引」と言い、全く見当違いの文証なのであります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』114頁)
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◆唯人師の釈ばかりを憑(たの)みて仏説に依らずば何ぞ仏法という名を付くべきや。言語道断の次第なり(『持妙法華問答抄』全集462頁)
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「人師の釈」とは、権実相対に約せば弘法、法然、達磨、得一等であり、本迹相対に約せば天台の末流、種脱相対に約せば不相伝の日蓮門下、日蓮大聖人の三大秘法の化導に約せば、まさに池田大作の外道義であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆仏法は強ちに人の貴賎にはよるべからず只経文を先とすべし身の賎しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ(『聖愚問答抄』全集481頁)
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したがって、法華講員の方々は歴代法主の言葉を引用する場合は、併せて「経文(御書)にもこう書いてある」と示さなければならないのです。
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仏法の正義を示す論証の方法は、経文、御書と歴代法主の言を一々に並べて引くという形式に囚われることが正しいのではなく、その文理が正しく、論旨の浅深・勝劣の趣意が明確であることが大切であります。権実相対に示された文をもって全く場違いの証明に当てることは、法理から言うも、許すべからざることであります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん(『報恩抄』全集307頁)
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これは、口伝と文献の優劣を判じたものではない。伝教・義真の正しい法門と、慈覚・智証の邪義を対比されたものであり、既に伝教・義真の正しい指南が正文として残っているのであるから、それに従え、ということ。当然、権実相対の文。
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◆師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか(『妙一女御返事』全集1258頁)
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慈覚と伝教大師の、真言と法華の関係の正義を論じ給う権実の上の文であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)
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これほど繰り返して大聖人が御指南されていることを守らない者は、まさに天魔であると断言しても良いでしょう。
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「上人」とは、弘法大師、善導和尚、法然上人を前文に挙げられ、それぞれ金剛薩埵(こんごうさった)、阿弥陀如来、大勢至菩薩の化身と崇められている人が邪見なるや、との問いに対し、「経文を先として是をただすべきなり」との指南であり、この「経文」とは何の経文か知っているのでしょうか。これは、すべて権実相対の重であり、(※爾前権経に依るのではなく)法華経の経文を先として糾(ただ)すべしという趣意なのです。また、御書中にその例が多いのは、当時の権実雑乱が数多い状況より当然であります。「これほど繰り返して大聖人が御指南・・・」などの浮言は、その本来の法門の所対を忘れた低見に過ぎません。この文の「上人」とは、まさしく真言、念仏等の祖師であり、日蓮正宗の歴代法主とは全然、異なっているにもかかわらず、この語をもって「上人」とは正宗の法主のごとく重ね合わせ、なんら具体的事実を挙げず、無智の者をだまそうとする奸計は、許しがたい卑劣者であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり(『祈祷抄』全集1355頁)
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真言宗を破折した権実相対の文。下種仏法の血脈相伝を否定する文証とならないことは当然。
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◆仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり(『行敏訴状御会通』全集181頁)
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この文を引用すると「それは禅宗を破折しているだけだ」と、思いつきの愚かな言い逃れをする者がいますが、それでは大聖人が「禅宗の教外別伝はダメだが、我が正法では教外別伝は許されるのだ」とでも言われているというのでしょうか?
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これは、まさに、禅宗の教外別伝を破する文であります。それも涅槃経の取意の文です。「思いつき」でも「愚か」でもなく、まさしく禅宗破折の文そのもので、それ以外ではありません。すなわち、法門で言いえば権実相対であり、この経の文をもって下種仏法に当てはめるなら、その明確な証拠を出しなさい。(中略)そもそも、この文を下種仏法に短絡すること自体、法門の段階・筋道も弁えぬ愚かな者どもではありませんか。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるを何にいみじき人なりともご信用あるべからず候か(『唱法華題目抄』全集9頁)
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この「法」とは、外道に対すれば内道たる一代仏教であります。また、爾前権経に対すれば法華経であり、迹門に対すれば本門であり、文上に対すれば文底深秘の妙法蓮華経であります。さらに、宗教に対すれば宗旨の三大秘法であり、これは相伝によって万代に伝承される歴代上人伝承の法体であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり(『如説修行抄』全集502頁)
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この御文の前後始終は、すべて権実相対の趣旨で、この、「人の言を用う可らず」とは、権経をもって実経に背く謗法の人師の言を破されているのであります(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)。
つまり、「人の言」とは権実相対を弁えない人のことである。もしこれを、文底下種仏法の立場より解釈するならば、「人」とは、種脱相対、下種仏法の真義を知らない不相伝の者となる。
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◆経に云く「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」文、此の文の心は菩薩・人師の言には依るべからず(『法華初心成仏抄』544頁)
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涅槃経の法の四依を説き給うなかの一文で、これも文の前後は全く権実相対の趣旨であります。その義からは、宗門の血脈とは全く次元の異なる筋違いの盲引です。もし、この文を依義判文すれば、大聖人の御書の正義は、古来の宗門の伝承法義に厳然たるものであり、創価宗も、かつてはそれを受けてきたのです。しかるに今、本仏日蓮大聖人のお定めに背き、他宗他門に擦り寄り、正系の血脈を否定するにいたっています。つまり、この文の破折に当たるのは、まさに創価学会なのであります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり、今当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)
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「当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず」とは、まさに創価学会員が池田を崇めて、本門戒壇の大御本尊に参詣しないことを指摘されている文ではありませんか。また、「心を師として経によらず」の文も、自らの立場のみを正しいと執着する我見・偏見の心により、宗門700年の道理、文証、現証に背いて、クルクル猫の目のように変わる池田らの言に明らかな、創価学会の非を示される文であります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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◆問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり(『撰時抄』全集259頁)
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法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され、経文という、文字によって誰にでも確認できる教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だと御指南されているのです。
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経文と天台等の釈との重要性を比較せられ、経が釈より重いことを言われたものであります。しかし、これは大聖人が「釈を捨てよ」と仰せられた文ではありません。そう取るのは、まさしく切り文であります。質問者が釈の所在を尋ねたのに対し、釈より経が元であり、大切であると注意された所であります。故に、経が根本であることを寸示されたあと、天台、妙楽、伝教の釈を引かれて、重ねて経の趣意を述べられているではありませんか。従って、大聖人は正しい釈を少しも否定されてはいないのであります。
ところが、この文をそっくりそのまま悪用して「法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され・・・」などと言っているのは、まさに趣意のスリ替えであり、捏造の代物であります。
日蓮正宗においては、法華経と宗祖大聖人、日興上人の教えを素直に拝して、その相伝に基づいて、歴代上人がそれぞれの時に応じて教えを垂れておられるのです。本宗における血脈相伝の大事は、天台、妙楽、伝教等の釈などとは、全く異なったものなのです。
また、仏法は難信難解であります。大智・舍利弗すら、なお信をもって入るといいます。しかるの彼等の「経文という、文字によって誰にでも確認できる教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だ」などの主張は、まさに仏法の深意を蔑(ないがし)ろにする摧尊入卑の偏見です。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
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学会は権実相対以下の文証をもって口伝・人師の解釈などを否定しているが、真実の相伝(結要付属)を知らない者にとっては、御書もまた、経文に対する"人師の解釈"に過ぎない。邪師の邪義(誤った相伝・口伝・解釈)に基づいて、権実相対にさえ迷っている者に対しては、まず「経文を先として」(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)正しい経文解釈を示し、権実相対→本迹相対と導くほかないのである(依法不依人)。しかして、釈尊の正統仏法が結要付属によって上行菩薩(大聖人)に付嘱されていることを知ってはじめて、末法適時の正師たる大聖人の御書(塔中相承に基づく)を根本として経文を拝するのである(依義判文)。
しかしながら、大聖人の御書といえども、宗旨建立乃至宗門草創期であるため、ほとんどは、権実相対、本迹相対の経文解釈が中心である。そのために日興上人への付嘱を知ってしかもこれを軽視した者は、日興上人の御指南を通して大聖人の御書を拝することができず、それがために御書を拝しながら、大聖人の真意に到達できず、真実の種脱相対に迷ったのである。
日興上人への付嘱・血脈を重視する者は、日興上人の御指南(相伝・口伝に基づく)を通して御書を拝するが故に、正しく大聖人の法門を知ることができるのである。
日興上人の御指南もまた、その時代にしか適用されない化儀・法門もある。だから、日興上人滅後においては、正しい付嘱を受けられた日目上人の御指南を通して御書や日興上人の御指南を正しく拝することができる。以下同様である。
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★「依法不依人」とは、邪宗の人師の思想に執着し、経文(とくに法華経)を無視する人に正依を示すことだといえよう。
●不依人とは法華涅槃に依らざる人なり(『守護国家論』全集67頁)
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もし「依法不依人」を文底下種仏法の立場から用いるならば、正しい相伝の内容も「法」に含まれる、と考えるべきでしょう。
★正依といっても化導の時期、対告衆の機根、周囲の状況などによって様々な指南があり、矛盾もある。「依法不依人」といっても、経文や御書の文言だけみて、それがそのまま仏の真意を示すものとは限らない。それらを矛盾なく、総合的に正しく把握することは相伝による。
●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』全集398頁)
★さらに、経文にも誤訳あり、釈にも誤伝あり。天台大師の伝と雖も、誤伝なきにしもあらず。しかし、天台大師は薬王菩薩の再誕であり、総付嘱を受けた方であるから、天台大師が生きておられたなら、無条件にその言葉を信じるべきである。大聖人の御書や宗門歴代上人の御指南もしかり。
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
★天台大師が一切経を正しく体系化できたのは、釈尊からの総付嘱による。大聖人が下種仏法の立場から経文を解釈し、御書を表されたのは結要付属によるのである。「依法不依人」とは、血脈相承を知らない者に正しい血脈相承の所在を教え、正法正師に帰依させるための法門である。付嘱の当所が定まったならば、付嘱を受けられた方の指南を中心にして文証を解釈すべきなのである。
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
★大聖人の法門は御書がすべてではない。その振る舞い(化儀)や、相伝も合わせて大聖人の法門なのである。それを正しく伝えられているのが、血脈付法の方なのである。
●義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
★経典や御書は歴史的に減ることはあっても増えることはない。さらに文字は固定化したものであり、仮にそれによって原理原則が正しく理解されたとしても、我々の直面する現実世界は無限に展開される。無限に展開される個々の具体的状況に即した原理原則の具体的適用(四悉檀、随方毘尼、化儀や法門解釈その他の具体的対応)は、大聖人と一体の智慧・境界においてはじめてなされることである(「依智不依識」=『一代五時継図』全集628頁)。そこに、相伝付嘱が直授相承の口伝によって代々の正師に内証相伝される必然性がある。だから、経文や御書だけでなく、歴代先師の文証も、時の正師(御法主上人)の直接の御指南を通して、その時代に適合した正しい解釈ができるのである。(<「大聖人直結」破折><内証相伝>参照)
◆[依智不依識]=智とは仏智であり、識とは菩薩以下の浅い知識をいう。(『新版仏教大辞典』初版)
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
★そもそも、釈尊自身、直接経文を書かれた訳ではない。弟子から弟子への口伝を後世の者が、文字に表したのである。そして、法華経をはじめとする大乗経典は、現実離れした譬喩が多用されているが、その中でも虚空会の儀式などは、釈尊自身と弟子までもが、"現実離れした譬喩"の中に登場する。このことから考えても、釈尊の説法を言葉通りに反訳したものではないことは明らかである。つまり、正しい付嘱を受けた弟子が、釈尊の説いた大乗の法門を"意訳"して、大乗経典として書き表したのである。このような、仏典自体の成立の歴史から考えても、仏教として口伝を否定することはあり得ない。むしろ、付法の弟子の相伝・口伝によって成立したのが仏典なのである。このことは、末法の正依たる御書が、塔中における相伝・口伝に基づいて書き表されたことと規を一にする。
●此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。(『三大秘法禀承事』全集1023頁)
【昔の学会教学】
◆その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。『一代聖教大意』に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せられ、日寛上人が『観心本尊抄文段』で「故に当抄に於て重々の相伝あり(中略)甚深奥旨(おうし)、宗門の淵底(えんでい)は唯(ただ)我が家の相伝にして諸門流の知らざる所なり」と記されているように、大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならないのである(御書講義録『生死一大事血脈抄』59頁/『慧妙』H18.12.1)
◆日蓮大聖人の御書を拝するにあたっては、あくまでも御法主日顕上人猊下の御説法を中心として、よくよく拝していかなければならない(池田大作『広布と人生を語る』第1巻118頁/『慧妙』H18.12.1)
◆[経巻相承]=経典に依拠するのは仏教の基本であり、経巻を読んで仏の教えを学ぶことはだれでも同じで、特に相承を受けたなどと主張する必要はない。経巻から思い思いに学んでいくうちにいろいろの解釈や主張の乱れを生ずるので、単なる経巻相承では新たな分立諍論の基となる。そこで仏の真意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。仏教においては究極の法体はすべて血脈相承、師資相承される(『新版仏教哲学大辞典』初版313頁)
◆[相伝]=(「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(全集398頁)について)日蓮大聖人の法門は、不相伝の徒輩には知ることができないのである。(『新版仏教哲学大辞典』初版1149頁)
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つまり、表面は権実相対の文であっても、末法に即した解釈ができるのです(開会、絶待妙など)。法華文上の意義さえ相伝がなければ分からないのです。況や文底下種仏法においておや。
◆釈尊出世の本懐としての法華経を、今日において我々が理解するには、その予証どおりに出現して、これを実生活に証明された日蓮大聖人を信じ奉り、説のごとく実践躬行(きゅうこう)して価値を体験し、証得する以外に途(みち)はない。それをするためには、唯一の正統たる日興上人門流として、61世を重ねつゝある日蓮正宗の総本山大石寺の教義に従って、忠実純真に、三大秘法、すなわち法華本門の本尊に、法華本門の戒壇において、法華本門の題目を唱え奉る外には絶対にない。(略) 正法は正師につくにあらざれば、証得し能(あた)わぬとはこの意味である(『牧口常三郎全集』第8巻69頁/『慧妙』H15.12.16)
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この中の「正師」とは、すなわち第二祖日興上人と歴代の御法主上人である。学会ではこの「正師」とは日興上人のみである、と反論するのだろうが、牧口会長は「日興上人門流」と述べたのち「61世を重ねつゝ」と言っており、これが日興上人以来の歴代を指すことは明らかである。しかも、歴代上人によって伝えられる大石寺の教えに従って三大秘法を持つ以外に、法華経を理解する方法は絶対にない、と述べているのである。 この牧口会長の指導からすれば、今の創価学会は、絶対に法華経および大聖人の御意を知ることはできないことになる。
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学会の"法論オタク"は、口では「御書根本」といいながら、御書では宗門を破折できないことを知っているようです。だから、何処からか都合のよい資料を探し出してきて出所も示さずに得意げに攻撃してきます。
ところで学会は、以前認めていた文証でも、都合が悪くなると平気で正依からはずしています。ひどい場合には、文証自体を改竄(かいざん)するということまでしているのです。例えば以下の御文です。
●但し直授結要付嘱は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付嘱せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(『百六箇抄』全集869頁)
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日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのです。しかし、学会は「根本」であるはずの「御書」に掲載されている当該御文を「後加文」だといって無視しています。
●建長五年癸丑四月廿八日午の時清澄寺持仏堂に於いて一山の大衆を集め念仏無間諸宗無得道の法門を一々に仰せ出せしなり(『富士宗学要集』第5巻17頁)
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創価学会が昭和53年に発行した『富士宗学要集』第5巻には、要法寺日辰の『祖師伝』が収録されているが、この『祖師伝』の日辰の原本には、宗旨建立は「建長五年癸丑三月廿八日」と記述されているのである。 ところがこの学会版の宗学要集では、なんと「建長五年癸丑四月廿八日」と改変されているのだ。そして驚いたことに、昭和31年発行の旧版の宗学要集には、原本どおり、「建長五年癸丑三月廿八日」と記載されているのである。 昭和53年3月の発行年次から見て、「三月」の記述を勝手に「四月」に変えたのは、日亨上人ではなく、明らかに創価学会の仕業である。このように大聖人の「三月」の御金言を無視し、頑固な我見で「四月」のみに固執し、古来の史伝書の内容までも勝手に改竄(かいざん)するという奸悪(かんあく)の所業が許されないことは言うまでもない。(『大白法』H14.6.1)
★以上のように、平気で正依を代えたり、文証を改竄するのが学会です。公式な言動においてすら、こうなのですから、"法論オタク"が個人的に出してくる出所不明の文証については、「文証自体が信用できない」と言って一蹴すべきではないでしょうか。

「依義不依語」と血脈に関する御書の解釈(仮題)
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』91頁〜)
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どこの誰が書いたかも確認できない後加文ばかりを根本とせずに、大聖人の言葉を根本にしなさい!ということです。そもそも御書根本とは、御書全集を根本とするということではなく、大聖人の言葉を根本とするのだ、ということが日顕宗には分かっていないようです。日顕宗が血脈について出す文証は大聖人の経文の外にある後加文ばかりなので、ここでも「天魔、外道!」と攻めましよう。(『日顕宗の邪義を破す』)
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しかし、この大聖人様のお言葉は、5段の相対、教相・観心、宗教・宗旨、対告別異等々があり、だれにでも判るなどという浅薄なものではありません。
「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし」(御書906頁)
との仰せを、少しはその石頭にたたき込みなさい。簡単に「大聖人の言葉を根本にしなさい」などの言こそ、思い上がりもはなはだしい創価学会の独断であり、推尊人卑のエセ法門なのです。すなわち、法の四依の第2に「義に依って語に依らざれ」とある誡めに当たるものであります。
この「義」について、大聖人の御書の拝し方を言えば、創価学会の如く、自分らの邪想による凡夫成仏、創価学会成仏、創価学会の法華経行者勝ち取りなどを論証するために一々の文をやみくもに羅列する方法は、大聖人の大仏法の構格を破壊し、虚仮にするものであります。つまり、御書は大聖人御化導の全体のなかで分々の主意が存し、それぞれの義が分かれているのであります。それらの全体を総合した大綱の上から、それぞれの御書の義を拝し、それぞれの文に及ぶべきであります。
具体的に言えば、佐前、佐後の別も存し、佐後においても、『開目抄』は、文底の一念三千を示し給うとともに、それを実現する仏の振る舞いを法華経の行者として顕され、主師親三徳に結帰されます。故に、主意は末法下種の人本尊の顕示であります。故に、これを振る舞い給う日蓮の御名が、文中に34ヵ所を数えるのでありますが、地涌上行の末法出現の文は全く示されておりません。
これに対し『観心本尊抄』は、末法衆生即身成仏の観心と、その対境たる法本尊を示し給うため、結要付嘱の妙法蓮華経の御本尊と、これを弘宣する地涌千界の末法出現を各所に説かれている反面、文中に日蓮の御名は1ヵ所も示されていないのです。同じ本尊についても、人と法の主意の違いにより、このような文の相違があるのです。
また、『法華取要抄』では、上行所伝の妙法蓮華経の弘通の法体として、開・観の両抄にはいまだ示されていない、三大秘法の名目を示されるところに主意があります。そのほか、『立正安国論』『撰時抄』『報恩抄』『本尊問答抄』等々、各御書には御化導の時機と対告衆による、随自、随他の法門の主意は皆、異なっているのです。故に、まずその主意に随って文の当分の意味を拝さなければ、根本的に判断が狂うのであります。
その上から、池田大作がかつて創価仏法を標榜するのに悪用し、今また、創価学会で盛んに引く『生死一大事血脈抄』は、その題号からも解るとおり、生死のため、臨終正念のための教示がその主意をなすものであり、そこに広宣流布への意義も含ませられているのであります。
故に、法華の血脈相承と言われるのも、妙法と地涌上行・日蓮に対する信心の血脈が主意をなしているのです。全文を通じ、また、特に末文の、
「相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むろことなかれ」(同515頁)
の文は、まさしく生死に関し、臨終の心得としての法華経・日蓮への信心の血脈であります。そこにこの抄の当分の血脈の主意があるのですが、これは血脈の全分ではないのです。
血脈の全分を言えば、『安国論』の附文に対する元意、『本尊抄』の下種本尊に関する法体と法門の血脈、『法華取要抄』『報恩抄』『三大秘法抄』に説かれる三大秘法に関する甚深の血脈等を含むのであり、言うまでもなく、大御本尊を根幹とする法体の血脈、唯授一人金口嫡々の血脈、法門の血脈、信心の血脈がそれであります。『生死一大事血脈抄』の「血脈」は、このなかの信心の血脈を主意とする御書であり、彼等の引く諸文の意もその範囲に属するのであります。
創価学会の者どもは、この抄の「血脈」の語を見て、鬼の首でも捕ったように「これ以外に血脈なし」などと力み返りますが、大聖人の御化導の全体と各御書の主意・正意に暗く、部分に執われて全体を知らず、あるいは部分をもって全体を律しようとする我意・悪義であります。わけも判らず「文証、文証」と、ねずみの如くあちこち、つつき回すのを「ねずみ法門」と言うのです。少しは恥を知りなさい。
以上が法四依の「義に依って語に依らざれ」の誡めによる御書の拝し方の1つであります。
さらに2つには、文と義には、文の表面になくとも義が具わっている場合、反対に文の趣意はそれぞれに明らかでも、さらに深い義までは具していない場合等、様々であります。故に、あくまで義に依るべきであって、表面だけの文や語に執われないことが大切であります。創価学会が言う「文証、文証」とは、莫迦の1つ覚えの如く、切り文やスリ替えであり、この誡めに当たっているのであります。
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同じ『本因妙抄』の本文すなわち「大聖人の相伝」をしっかり読んでみてください。
「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く」(『本因妙抄』全集872頁)
と、代々の法主など一切関係無く、余念の無い題目で成仏することが断言されているではありませんか! (『日顕宗の邪義を破す』)
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したがって、次に『本因妙抄』の「信心強盛にして」云々の文を引いて「代々の法主など一切関係無く、余念の無い題目で成仏することが断言されている」と、本当に無知忘恩の言を吐いております。これも切り文であり、その前に「今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す」の文があるのです。
「久遠名字の本門」とは末法出現の本仏大聖人の弘宣し給う三大秘法であり、末法一切衆生の信心の対境たる、この三大秘法の法体と金口の血脈は、日蓮、日興、日目以下、厳として歴代上人の伝承するところであります。故に、そこを外れて即身成仏の利益は全くありません。したがって、この文は創価学会の主張とは逆なのであります。

"大聖人直結"信仰の誤り
―本師・小師・信徒が正しい筋目―
―日興上人も"直結は堕地獄"と―
(『慧妙』H18.10.1)
私達が、仏道を正しく修して功徳を頂戴(ちょうだい)し、成仏を獲得していくためには、正しい師匠である御本仏日蓮大聖人と大聖人の血脈を受け継がれる御法主上人を、仰ぎ求めていかなければなりません。
しかし、池田創価学会は、正師である血脈付法の御法主上人を否定・誹謗(ひぼう)し、池田大作を師(仏)と仰ぐゆえに、大謗法であり、堕地獄必定(ひつじょう)となるのであります(このことは、前々回・本紙8月1日号の「やさしい教学」で述べたとおりです)。
のみならず、池田創価学会では、自分達こそが正しいとするために、ことあるごとに「大聖人直結の創価学会」「御本仏直結の3代会長」などと強調しています。
しかしながら、結論から申せば、この"直結信仰"も誤りなのであります。
今回は、正しい師弟の筋道について学び、併(あわ)せて、学会のいう「御本仏直結」「大聖人直結」の誤りについて、述べてまいりたいと思います。
まず、正しい師弟の筋道についてですが、根本の正師が、御本仏日蓮大聖人と血脈付法の御法主上人であることを前提にした上で、きちんと弁(わきま)えておかなければならないことは、日常的には、本師の御代理として小師(手続ぎの小師)を仰ぐ、ということです。
このことについて第2祖日興上人は、次のように仰せられています。
「この法門は、師弟子を正して仏に成り候。師弟子だにも違い候(そうら)へば、同じ法華を持(たも)ちまいらせて候へども、無間地獄におち候也。うちこしうちこし直の御弟子と申す輩(やから)が、聖人の御時も候(そうらい)しあひだ、本弟子六人を定めおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後(のち)も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申(もうす)輩多く候。これらの人、謗法にて候也。御講衆等この旨をよくよく存知せらるべし。」(歴代法主全書1巻183頁)
つまり、日興上人は、
「成仏するためには、師匠と弟子の関係をはっきりと定め、師弟子の道を正しく踏んでいくことが大事である。もし、この師弟子の関係を違えるならば、いくら御本尊を信じているといっても、地獄に堕(お)ちることになる。
大聖人の御在世にも、"自分は大聖人の直弟子だ"という人が多くいたので、大聖人は本弟子6人を定められた。それは、6人が折伏教化した弟子は、その6人それぞれの弟子である、とするためである。
案の定、大聖人御入滅後も、"誰それは大聖人の直弟子である"と言い出す人が多くいるが、これらの人々は謗法である。
法華講衆は、このことをよくよく弁(わきま)えていきなさい」
と御教示されているのです。
大聖人は、御在世中に本弟子6人を定められましたが、その理由を一言で言えば、自分勝手な"直結信仰"を戒め、日常的に現実の師匠を仰いで、師弟相対の信心ができるようにするためです。
つまり、当時、全国に数多いる信徒が、身延におられる大聖人から直接御指南をいただくことは、物理的に不可能でありました。そのような状況で御本尊を信じている、といっても、日常的に細かくその人の信仰について教導くださる師匠はおらず、結局その人は、師をもたない一人信心となって、増上慢に陥(おちい)り、地獄に堕ちることになってしまいます。
そのようなことにならないよう、大聖人は、御自分の意を受けた高弟6人を本弟子と定められ、その6人の教化によって入門した人達は、6人それぞれの弟子であるから、門流の人々は、その自らの師を大聖人の御代理として、日常的に教えを受けていくように、とされたのです。
このことは、大聖人が御入滅された後も同じです。
大聖人からの血脈を受けられ、後を継がれた第2祖日興上人以来、御歴代の御法主上人を本師と仰ぐことは根本でありますが、しかし、御法主上人がお一人で全ての信徒を見ていく、ということは不可能であります。そこで、御法主上人から薫陶(くんとう)を受けた御僧侶が、各地の寺院に指導教師御住職として派遣され、信徒は、指導教師御住職を御法主上人の御名代(みょうだい)、本師の御代理と仰いで、日常的に種々御教導をいただくのであります。
以上のことからわかるように、大聖人御自ら、実際には師を持たない"直結信仰"を戒められていたのであり、第2祖日興上人も、"直結信仰"を「無間地獄におち候也」「謗法にて候也」と厳しく仰せられているのであります。
ゆえに、創価学会が、ことさらに"大聖人直結"を強調し、本師・小師の存在を否定していることは、堕地獄必定の大謗法なのです。
日蓮正宗第59世日亨上人のお言葉に、
「(本師の滅後になると)動(やや)もすれば、なにかの感情で事を宗義に托(たく)して、自分は何某の弟子でない、信者でない、添(かたじ)けなくも宗祖大聖人の御弟子である、と云ふ反逆児ともいはるべき者が出現する」
とありますが、『広布と人生を語る』(第10巻80頁)で、池田大作は、この日亨上人のお言葉を引いて、次のように語っています。
「すなわち五老僧達は、"自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である"とし、日興上人に信順できなかった。さらに迫害を恐れ『天台沙門』とさえ名乗った。その根底は、日興上人と対等であるなどという傲(おご)りであり、嫉妬(しっと)であり、保身に堕した卑(いや)しい感情であった。日亨上人は、反逆の徒は常に、こうした感情を言葉巧みに正当化していくものであると御教示されているわけである」
と。
かつての自らの指導に完壁に破折されていますが、まさに池田創価学会の"直結信仰"主張は、池田の「傲(おご)り」「嫉妬」「保身」の「卑しい感情」を言葉巧みに正当化したものであり、日蓮大聖人の正しい信仰の在り方ではない、謗法である、ということが明らかであります。
何をどう理屈付けてみたところで、どうにもならない、創価学会の哀れさを、つくづく感じさせられます。
私達は、本師-小師-信徒という正しい筋道の中で正信正行に励み、1人でも多くの創価学会員を覚醒(かくせい)させてまいりましよう。

大聖人直結の故に「2月7日」を無視!?
―御歴代の「除歴」が学会の望み―
(『慧妙』H16.3.1抜粋)
2月7日は、御開山日興上人の御正当会(祥月命日) であり、当宗僧俗が挙(こぞ)って「身延離山」「大石寺開創」等々、日興上人の御高徳に報恩謝徳の思いを強くする日である。
一方、『聖教』では全くこれに触れずじまいだが、それも「大聖人直結」を詐称(さしょう)する者共であれば、当然といえば当然すぎる報道姿勢だったかもしれない。
このような、日興上人に対する『聖教』の姿勢と、御当代日顕上人に対する誹謗(ひぼう)中傷、そして日蓮宗(いわゆる身延派)とには、共通のキーワードがある。
それは「除歴」の一語である。
宗祖の正嫡(せいちゃく)たる日興上人が、身延山久遠寺の第2祖として同寺を董(ただ)されていたことは、歴史上の紛(まぎ)れもない事実である。
これについて、日蓮宗では
「日興が院主、日向が学頭」(『日蓮宗辞典』571頁)
と、これを事実上認めていながら、その一方で
「日向が身延山の第2世」(同)
と、相反・矛盾(むじゅん)する主張を展開している。実際、同辞典巻末の「祖山(身延山)歴代譜(ふ)」を見ても、身延の第2世は「日向」となっている。
いうなれば、日蓮宗では日興上人を「除歴」しているのである。
そして、昨今「ジョレキ、ジョレキ」と莫迦(ばか)騒ぎをしているのが、創価の賊どもである。
彼奴(きゃつ)等も、日興上人を無視し除歴した身延派同様、年に1度の御正当会すら等閑視し、しかも恬然(てんぜん)として恥じるふうすらない。
つまり、彼奴等の唱える「大聖人直結」という邪義は、詰まるところ、日興上人をはじめとする御歴代上人方を全て「除歴」しようとするものであり、日顕上人に対して「除歴」を騒ぐのは、その手始めなのである。現に『聖教』が、日興上人の御命日を完全に無視していることが、何よりの証明と言えよう。
しかし、いかに身延派が日興上人を「除歴」しようとも、自ら「日興が院主、日向が学頭」等と認めているのと同様、いかに創価の賊が御当代日顕上人の「除歴」を喚(わめ)き叫ぼうとも、かつて自らが公言し認めていたように、総本山の67世が日顕上人であることは、後から動かしようのない事実なのである。
このような血脈否定の逆徒どもが、なんと宗祖日蓮大聖人御生誕の2月16日、各地でこれを「祝賀」したことを、翌17日付『聖教』で報じている。だが、
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書577頁)
のお言葉のとおり、連日のごとく血脈の尊厳を冒涜(ぼうとく)し続ける愚人どもから「祝賀」されることなど、宗祖は毫(ごう)もお望みではないだろう。
そもそも、2月16日が「宗祖御生誕の日」であることを、この愚人どもは何故、知りえたというのか。それは、元を質せば本宗の4世日道上人が、
「日蓮聖人は(略)貞応元年二月十六日誕生なり」(『御伝土代』聖典587頁)
と書き留めてくださったからではないか。
そもそも日道上人が、このように明確に書き留められた事実は、宗祖以来の「口伝」に依(よ)るものと拝せられ、このような伝承は、身延等、不相伝の他門流にはなしえなかったものと拝する。まさに
「相伝に有らざれば知り難し」(御書92頁)
である。
創価の賊どもよ、所詮、新興宗教の一派に過ぎない自らの立場を忘れ、盗っ人猛々(たけだけ)しく「大聖人直結」を唱える前に、少しは恥というものを知れ。

教義研鑽の態度
(第65世日淳上人『大日蓮』S7.5/『日淳上人全集』45頁〜)
日興上人の御遺誡に曰く、「御書を心肝に染め極理を師伝し、若し暇あらば台家を学ぶべきこと」と、此れ実に聖祖の教義研鑽の羅針盤たるなり。求道者にして若し此大途を踏みはづさば遂に祖教に体達するを得ざるなり。御書を心肝に染めざれば聖祖の御霊格に親炙(しんしゃ)し奉るを得ず。而して極理を師伝せざれば我見に堕するを免れず。此二途を完うして智見初めて具はるを得る然るに古来聖祖門下に於て御書を手にすることを知つて、極理の師伝を知らずこれを忽(ゆる)がせにするもののみを見る、此れが為に我見に堕して救ふべからざるに至る誠に嘆ずべきである。今日異流百出教学の紛乱殆んど収拾すべからざる状態にあり、此の趨勢益々盛にして止まるところを知らぬ有様なるはその依て起るところ此の用意を忘れ眇目を以て祖書を妄断し未(レ)得謂フ(二)為(レ)得(一)となすが故である。
書を読むことは容易である。しかし書物の意を把(つか)むは難事である。教を受くるは容易である、しかし教旨を体達するは難事である。弘法空海に一を三と読むの大誤ありといはれ、無一不成仏を逆解する痴者ありしといふ。天台に於て章安、孔子に於て顔回その旨を知るのみといふ。もつて解しがたく達しがたきを知ることができる。依つて真剣に道を求めるの士は常に此の弊に堕せざるの用意が肝要である。即ち未だ至らざるなりとして、御書を拝すると共に極理の師伝といふことに心を置かざるべからず、稍々(やや)もすれば法によつて人によらざれの経文に執して強(あなが)ちに人を斥けむとするものがあるが、此れ誤れる解釈にして師と法と合せざれば法によつて人を捨つべしといふなり、師あつて法正しく法あつて師正しきを得、師言若し法に合せずとなさば躊躇するところなく捨て更に師を求むべきである。此場合我れには遂に師あらずといはば上慢なり、中途にして挫折するは怯懦(きょうだ)なり、此二者はついに道を得ること能はざるべし、怯懦者は猶道を得る機あらんも上慢に於ては道を得べからず。
方便品の中の「比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信」を文句の四に釈して、上慢と我慢と不信とは四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬つて聖果と謂ひ偏に上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ずと、御義口伝に曰く「此四衆は今は日本国に盛んなり乃至比丘比丘尼増上慢とは道隆良観等に非ずや、又鎌倉中の比丘尼等に非ずや、優婆塞とは最明寺優婆夷とは上下の女人に非ずや」と。仏法を得ざるのみにあらず、かへつて仏法を失ふものは上慢と我慢とである。仏法を行じて地獄に堕る人は十方の土の如しとは蓋し此の二慢を指すか、上菩提を求むるものは省みて此二慢を捨離し、正法と正師とに帰せなければならぬ。昔雪山童子が半偈のために身を投げし謙譲と真剣とは求道者の精神であらねばならぬ。
然るに聖祖門下に於て如何にこの二慢の多きこと乎(か)御書を手にして一知半解我れ既に得たり師たりといつて慢執天より高きものあり、此輩仏を破り法を濁す幾許(いくばく)なるを知らず、これこれを仏法の怨敵といふ。求道者は師を択ぶに師伝曖昧にして法統明らかならざるものは、悉く此類として斥けざるべからず。
正師とは日興上人とその門流あるのみ。

師弟観
師弟相対して信を取る
―布教講演―
―総本山御霊宝虫払大法会(於仮御影堂)―
―H19.4.6―
(全国布教師・法照寺住職・石井栄純御尊師『大白法』H19.4.16)
皆さん、こんばんは。ただ今、御紹介をいただきました法照寺住職の石井栄純でございます。
本日は宗門二大行事の1つであります総本山御霊宝虫払大法会に、皆様方、支部を代表して登山参詣なされましたことは、まことに御同慶に堪えません。
私もこの大法会に出仕させていただき、さらに布教講演の大役まで与えられたことは無上の喜びであります。
30分ばかり「師弟相対して信を取る」と題しまして、皆々様の信行増進の一助となることを心から願いつつ、お話を申し上げたいと存じますので、御清聴のほどよろしくお願い申し上げます。
【信仰の要諦は師弟相対】
さて、この師弟相対の大事について、私が一番印象に残っているのは、私の御師範であられた日淳上人が第65世の法灯をお継ぎあそばされ、その最初の説法、すなわち初転法輪の中で次のように仰せられている御指南であります。
「元来法華経と云うお経の骨子は何処にあるかと申しますると、師匠と弟子と云う関係に於て仏法を説かれて居るのでこざいます。つまり師弟の関係を如何に心得如何にこれを行うかと云う事が法華経の教の骨子をなして居ります(中略)日有上人様は我が宗門の信仰は師弟相対して信を取る処に要があるぞと、仰せ遊ばされているのでございます。で、師の命令に対しては弟子が恐々としてこれを行うんだ、我が身を顧みずこれを行うと言ふ所に信心の要があると云う事を仰せ遊ばされておるのでございまする」(『日淳上人全集』上巻183頁)
と御説法なされております。
日蓮正宗の信仰の要、要諦とは、下種三宝の御当体である本門戒壇の大御本尊を根本として尊崇し奉り、また、御本仏宗祖日蓮大聖人、第2祖日興上人以来、師弟相対して正しく伝持されてきた血脈相伝の仏法を信解するところに、日蓮正宗の信仰の要諦が存するのでございます。
したがいまして日蓮正宗の僧俗は、この血脈相伝の仏法に随順する、師弟相対の信心に徹することが肝要と存じます。
この師弟の筋目を知ったならば、創価学会でいう「大聖人直結」がいかにいい加減な、誤った教義であるかがよく判ると思いますが、これについては後ほど申し上げます。
【師は針の如く弟子は糸の如し】
この師弟ということでありますが、これは何も仏法の世界だけにあるのではありません。華道の世界にも、書道の世界にも、剣道、柔道、将棋、囲碁等の世界にもそれぞれに師弟の関係があり、誰もが人生において様々な師匠や恩師と呼ぶべき人がいるわけであります。
どの道を究めるにしても、立派な師について学び、毎日毎日、倦(う)まず弛(たゆ)まず実践し続けることによって上達し、目的を果たすことができるものなのです。
よく「人生、何事も努力。努力さえすればいい」などという人がいますが、たしかに努力はその道を究める上で大事なことには違いありません。何の努力もせずに道を究め、幸福な人生を送った人などは、ほぼ皆無と言っても過言ではないでしょう。
一見、表向きは努力していないように見える人であっても、その実、陰では血の滲(にじ)むような努力をしていることが、成功者の常なのであります。
そしてさらに、どの道においても立派な先生・師匠について習練と努力を重ねていけば、より着実に進歩することは間違いありませんが、師匠より学ぶべき基本・筋道を無視し、自己流でいくら努力しても上達しないばかりか、いつか行き詰まって、努力することすら面倒臭くなってしまうのも、よく聞く話であります。
やはり、努力によって価値あるものに実らせるためには、良き指導者の正しい指導にしたがって努力してこそ、所期の目的が叶うというものであります。
一般世間にあってもかくの如くでありますから、まして仏法の上においてはなお一層、最大にして最高の指導者である仏の御教導に触れることが大事なことは言うまでもありません。
大聖人は『立正安国論』に、
「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ」(御書243頁)
と仰せられておりますが、この譬えで示されることは、正しい師について、正しい教えをもって、正しい信仰を貫いていくならば、正法の偉大な功力によって福徳の花が咲き、その努力が大きな実を結び、真実の幸せな生涯を全うすることができるということなのであります。
「師は針の如く、弟子は糸の如し」と言われますように、師が絶対の信頼をもって弟子に仏法を教え、弟子は師にまた絶対の帰依をもって仕えていく姿を「師弟相対の信心」と言うのであります。
【池田大作の誤った師弟観】
大聖人の仏法は、師匠と弟子の関係をきちんと明らかにして、初めて成仏していくことができる教えであります。
かつて池田大作は、
「私は戸田前会長と10年間、師弟の道を歩んできた。たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。それを自分の人生と決め、だまされても、師匠と一緒なら、それでいい。これが師弟相対だと決めていた」(池田大作著『指導メモ』185頁)
と言っておりました。一見、麗しき師弟相対の姿のように思えるかも知れません。今でも実際に、創価学会員を折伏すると、これと同じ考えで「私は池田先生になら、地獄にでもついていく」と言う人もおります。
では、どうでしょう。これが師弟相対の信心になるのでしょうか。日達上人はこの池田の"師弟観"について、
「『あの人が師匠だから、あの人が死んで地獄に落ちたならば自分も地獄に落ちても良い』などと言っている人がありますが、これは大変な間違いであります。これは実は親鸞が法然に対して言った言葉なのです(中略)法華経にはそのような考え方はありません。法華経は、『師匠が地獄に落ちるならば、自分は法華経をもって救ってやろう』というのが本当の教えなのであります」(『日達上人全集』)
と、徹底的に池田の邪説を破折されております。
もし、皆さんが折伏している学会員に、先ほどの誤った師弟観に惑わされている人がいるならば、この日達上人の御指南をもって、真実の師弟観を教えてあげてほしいと思います。
【師弟相対の源】
さて、この師弟相対の源、淵源は、大聖人、日興上人の時代にまで遡(さかのぼ)ることができます。
それは、大聖人が信徒にお手紙を与える場合、出家である内弟子を使いとして、その手紙を読ませ、講義し、理解させるという、信徒に対する教化・指導が行われたことが、諸御書に拝されるからであります。特にあの熱原の法難は、大聖人の御指南を賜りながらも、直接的には日興上人の御指導や対応によって、熱原の信徒は法難を堂々と乗り切っております。これが師弟相対の信心の表れであります。
また、大聖人は御入滅に先立つこと数日前の10月8日に本弟子6人を制定されました。六老僧です。すなわち、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人の高弟であります。
この本弟子を定められた理由について日興上人は、
「うちこしうちこしぢきの御でしと申やからが、しやう人の御ときも候しあひだ、ほんでし六人をさだめおかれて候。そのでしのけうけのでしは、それをそのでしなりといはせんずるためにて候」(『歴代法主全書』)
と仰せられております。すなわち、日蓮大聖人御在世の時から既に自分が折伏教化を受けた師を通り越して「自分は日蓮大聖人の直接の弟子である」という出家・在家の者が現れた。このような師弟関係の誤りをなくす上から、日蓮大聖人は本弟子6人の高弟を定められたのである、と仰せられているのであります。つまり、6人の本弟子が折伏教化した僧侶や信徒は、すべてそれぞれ6人の僧の弟子となるという、師と弟子の筋目関係を明らかに説き置かれたということであります。
これはあくまでも大聖人御在世のことでありましたが、御入滅後は日興上人が「本門弘通の大導師」の任に当たられた以上、日興上人が大聖人のお立場に立たれるわけでありますから「大聖人直結」を叫ぶ者は日興上人への師敵対関係になることを知らなければなりません。
それからもう1つ、大聖人・日興上人時代の「師弟相対の信心」の根本義を求めるならば『身延相承書』の、
「血脈の次第 日蓮日興」(御書1675頁)
の御文ではないでしょうか。この御文は、根本の師である大聖人の御内証たる妙法蓮華経と衆生化導のお振る舞いを、弟子の日興上人が寸分違わず譲り賜ったことを表しております。
だからこそ、日興上人は『日興遺誡置文』の中で、
「一、富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。
一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して云云」(同1884頁)
等とお示しになられたのであり、これは自らも師弟相対の大事を表明され、さらに弟子たちにもその筋道をしっかりとお示しあそばされた文証なのであります。
このように、日蓮正宗における「師弟相対の信心」は、大聖人を末法下種の教主・主師親三徳兼備の御本仏と仰ぎ奉り、大聖人の甚深の仏法を唯授一人の血脈相承をもってお承けあそばされた日興上人以来の御歴代上人を本師と仰いで仏道修行に励むことによって、末法の私たち衆生は三宝相即の御本尊と境智冥合することによって成仏得道が叶うのであります。
【筋目を違えば無間地獄】
では、この師弟相対の筋目を違えたらどうなるのか。日興上人は、
「このほうもんはしでしを、たゞ