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平成十二年十二月十八日(月曜日)
發行所 週刊日本新聞
〒一一二−〇〇〇一
東亰都文京區白山五−三五−十二
電話 〇三−三八一三−七八二五
編輯主幹 太 田 龍
一部三百圓 送料九十圓(プラス)
年間郵送購讀料 二萬圓(適宜分割可)
郵便振替 〇〇一八〇−六−四〇六四四八
《本號の主な内容》
◎ 編輯前記(編輯人から讀者へ) 太田 龍
◎ 宇宙戰略放送(一、一七四號) 太田 龍
ユダヤイルミナティ世界權力の指揮下で、
日本民族は岡潔博士をどのやうに愚弄し、嘲笑し、
抹殺したか
◎ 對話 人間の建設(抄) 岡 潔、小林 秀雄
(新潮社、昭和四十年)
◎ 宇宙戰略放送(一、一七五號) 太田 龍
全地球精神牢獄刑務所化の行動日程
◎ 【EIR 二〇〇〇年十一月二十四日號】 森 通曉 譯
アメリカの選擧危機とは何か (二)
リンドン・ラルーシュJr.
◎ 編輯後記 太田 龍
編 集 前 記(編輯人から讀者へ)
編輯主幹 太田 龍
◯ 産經新聞(12年12月2日夕刊)。「高山正之の異見自在。世界はみんな腹黒い。眞珠灣を見た男。」これは必讀だ。この記者は、米國に對してのみならず、英國に對しても(オランダにも)、或る程度、ズケズケとモノを云ふ勇氣を持つ例外的ジャーナリストの一人である。但しそれで終る。その奧に踏み込むことはない。
◯ テックス・マーズの「パワー・オブ・プロフェシー(預言の力)」二〇〇〇年十二月號。
「魔術がキリスト教の中に侵入する」。これは、例のハリー・ポッター現象についての批評である。出來れば小紙上に飜譯紹介したい。
◯ 「ニュー・フェデラリスト」(リンドン・ラルーシュ派の週刊紙)二〇〇〇年十一月二十七日號。
「ペルーのフヂモリ大統領の失脚。そして“麻藥デモクラシー”がやつて來る。」
◯ これはきはめて重要な記事だ。
◯ デーヴィット・アイク著「The Biggest Secret」。第二版を入手。
初版第一刷 一九九九年二月
第二刷 一九九九年四月
第三刷 一九九九年五月
第四刷 二〇〇〇年二月
増補第二版 二〇〇〇年五月
(これは初版より二十頁ほど増補されて居る)
◯ 「寺門興隆」(「月刊住職」の後身)、平成十二年十二月號、四十六頁以降。「佐伯眞光師を偲ぶ」。この方は、高野山眞言宗寶生寺(横濱市)住職。昭和五年生まれ。私は、昭和六十年前後から親しく、そして氣持ち良く、おつき合ひさせて頂いた。この數年、ご病氣、九月十五日遷化、享年六十九、とは殘念至極。眞光さんの分までこれから頑張らなければ。
◯ 同誌の人氣連載「つつぱり和尚ホンネ奮戰記」(高橋芳照、平塚市高野山眞言宗芳盛寺住職)は、「月刊住職」の時代から愛讀して居る。
◯ 神社の宮司神職向けの同種の雜誌はないやうだ。
平成十二年十二月四日記
宇 宙 戰 略 放 送(一、一七四號)
平成十二年十二月四日
ユダヤイルミナティ世界權力の指揮下で、
日本民族は岡 潔 博士を
どのやうに愚弄し、嘲笑し、
抹殺したか。
昭和三十五年、日本國は岡潔博士に文化勳章を與へた。
數學に顯著な業績を擧げた、と云ふ。
それから十年、つまり一九六〇年代を通じて、日本の體制内大マスコミは、盛大に岡博士を持ち擧げ、持て囃した。
私はそのときも、そのあとも、ずつと、この人には全く無縁であつた。
昭和六十年前後、或る知人から同博士の一册の著作をすすめられて、一讀したが、それで終り。
それ以上に踏み込むことはなかつた。
最近、讀者から、岡潔先生の著作を一册ご送頂き、通讀して、興味を抱いた。
そして、他の著作を手に入れやうとすると、先の一册を除き、市販されて居る著作は存在しないことを知つた。
そこで、本格的に調べることにした。
現在、市販されて居る著作とは、
日本圖書センター刊
「人間の記録シリーズ」。
これは明治以降、現代日本人の傳記、自傳、又は、代表的著作を收録したもの。
六十卷(六十人)。
その第五十四卷が「岡潔」、となつて居る。
この出版社は、その他に「作家の自傳」シリーズ(全六十卷、明治以降)も出して居る。
圖書館に常備して置くやうなものであらう。
これを改めて良く讀んで行くと、
もともとは、講談社が昭和四十六年に出した「日本のこころ」(岡潔博士が昭和三十五年文化勳章受賞以後書かれた文章を一册の本に編輯したもの)を、そのまま復刻したものであつた。
この本の末尾に、「年譜」と、昭和三十八年以降の著作の目録が掲載されて居る。
昭和三十八年から昭和四十四年まで、十六册。
そして、昭和四十四年には、學習研究社から、全五卷の著作集。ここには、それ以前の著作の大部分が收められて居る。
古本を探して、講談社現代新書五册(「風蘭」、「月影」、「春の雲」、「曙」、「神々の花園」)及び、學研版選集第五卷(講演集)以外の十册は入手し得た。
同博士の數學論文は、フランス語で書かれて居り、昭和三十六年に、岩波書店が、このフランス語の全集(論文からまで)を出版したとのことだが、これは讀んで居ない。
改めて今、岡潔博士の十册の著作を讀む。
二つのことを考へる。
第一。岡潔先生の水準は、敗戰後今日までの日本民族の水準から比較すると、超々高度。
これではまるで接點がないだらう。
第二。日本民族と日本國は、このやうな岡博士を、もてあそび、徹底的に愚弄し、嘲笑し、「消費」し、そして抹殺した。
そして一九八〇年代からはこのお方は、全く忘れられ、「過去の人」と化した。
これが私の受けた印象である。
小林秀雄は、文學評論では著名であつて、或いはその死(昭和五十八年)後の著作集又は全集に、この對話が收録されて居るかも知れない。
この「對話」を讀むと、岡潔博士は世界的に見て第一級の水準で語つて居るが、
小林秀雄は、平凡そのもの、可もなく不可もなし。
こんなものは單なる紙クヅに過ぎない。
岡博士は、この「對話」の中で、
「破壞だけの自然科學」
について、かなり長く、語つて居られる。
この部分は、參考資料として、掲載引用する。
つまり、岡博士の見るところでは、
現代(近代)西洋自然科學は破壞の科學である、破壞のみ、建設が出來ない。
と云ふ。
これは正しいか。
一應はそれは正しい。
だが、もしも、この岡博士のお説が正しいとすれば、これは大變なことだ。
日本は、國を擧げてその問題を議論しなければならないのではないか。
然り、
日本はさうしなければならなかつた。
日本はそれをしたか。
否。
とんでもない。
日本はあつさりと岡博士の説を無視した。
昭和四十三年に、「日本ソノサービスセンター」から、
「心の對話」、岡潔・林房雄
と云ふ對談集が出て居る。
小林秀雄の方は、可もなく不可もなく、
と云つたところだが、
林房雄の方は、「不可」である。
これは次元が低過ぎて、お話しにならない。
とりわけ、
林房雄は、
「創價學會を肯定する」、
と斷定して、
「創價學會は危險だ、警戒せよ」、
とする岡潔博士と論爭して居る。(前出百十一頁以下)。
林房雄の心はひどく汚れて居る、
と云ふ印象である。
學研版の選集(全五卷)には、保田與重郎が卷末に「解題」を書いて居る。
この文章が、保田の全集に收められて居るかどうかは知らない。
保田のこの文は批評に値いする。
「岡先生の『春宵十話』が新聞紙(毎日新聞か)に連載された時(これは、昭和三十六年か、それとも三十七年か)、私はものがよみがへる時のありさまをしきりと思つた。……
「『春宵十話』は、日本の各階層の人々の心に、年齡を超へて、深くしみ入つたのである。……この成果は、これから將來にわたる日本の誠實な人の心の動きにふれて、日本歴史の上に必ずあらはれると思ふ。」(第一卷、三百四十〜三百四十一頁)。
と、保田與重郎は述べた(この卷は、昭和四十四年二月に刊行されて居る)。
連載終了後、「春宵十話」は、昭和三十八年二月に、毎日新聞社から出版された。
昭和三十五年とは、例の日本安保條約改定反對運動の起きた年である。
岸内閣は倒れ、
池田勇人が首相に選出された。
そして池田内閣は超高度經濟成長政策を採用する。
岡潔博士が文化勳章を授與されたのは、そんな時代である。
毎日新聞が岡博士の文章を連載するのが、昭和三十六年、三十七年かは分らない。
いづれにしても、當時の日本は經濟成長ブームで湧き返つて居た。
だが、同時にその頃、有力財界人は、
「日本農業安樂死論」、
を公然、提唱した。
一體これは何のことか。
いはゆる「民族派」いはゆる「右翼」は、かくの如き明々白々たる國賊賣國奴財界人に天誅を加へるのでなく、
「愛國黨」を直前に脱黨した山口青年は社會黨の日比谷公會堂で演説中の淺沼委員長を刺殺した。
この「愛國黨」の黨首は、赤尾敏。
この人物については、
海部悌治著「攘夷の流れ」を參照のこと。
敗戰前の赤尾敏はともかくとして、
敗戰後の赤尾敏は、
親米反共右翼(民族派)の典型であつた。
ユダヤ問題は完全に眼中になひ。
こんな時代に、
「春宵十話」は、日本の各階層の人々の心に、年齡を超へて、深くしみ入つたのである。…
などと、云つてしまつて良いものであらうか。
私は、いはゆる一九六〇年代の十年間の内外情勢の推移を、良く知つて居る。
それは、日本が根柢から腐つて行く時代であつた。
日本の傳統のすべてが、ユダヤイルミナティ世界權力とその手先と化した賣國奴エリート日本權力指導層によつて破壞されて行く十年であつた。
日本は、こんな時代に突然出現した場違ひな岡潔博士を、
1ケの道化(ピエロ)として消費しつくした。
これが悲しい眞實である。
しかし私は、岡潔先生死後二十二年目の今、改めて、同博士の遺志を繼承することを、先生の靈に誓ふ。
平成十二年十二月四日記
太田 龍
小紙前號(一六五號)誤植訂正
誤 → 正
1頁下段本文16行目 「聖書の誇り → 「聖書の誤まり
1頁下段本文16行目 光文者 → 光文社
2頁下段7行目 四王延孝 孝陸軍中將 → 四王天延孝陸軍中將
6頁下段終から2行目 萬類共集 → 萬類共尊
11頁上段終から8行目 石 忠篤 → 石黒忠篤
16頁上段1行目 一六四號 → 一六五號
16頁下段終から3行目 定版日本民族史 → 定版民族日本歴史
宇 宙 戰 略 放 送(一、一七五號)
平成十二年十二月五日
全地球精神牢獄刑務所化の行動日程
「月刊住職」、いまは「寺門興隆」。
これはお寺の住職さんの讀む專門誌だが、何年か前から愛讀して居る。
その編輯發行人も、お寺の住職さん(矢澤澄道)である。
この雜誌によると、
大方の日本のマスコミ界の人々は、
日本の神道佛教、傳統宗教について、智識も關心も皆無である。
その殆んどが、無宗教、無神論、唯物論である。
しかし、西洋歐米のキリスト教については、なにも知らないくせに、盲目的に崇拜し、尊敬し、格上のものと見て居る。
從つて、さうした人々によつて作られるマスコミでは、佛教神道界についての報道はスキャンダルがらみのものだけ(但し、創價學會については、權力を行使して、會員にかかはるスキャンダルを、マスコミに報道させない構造を作り上げることに成功した)。
キリスト教は別格で、崇高、高級なものとして報道論評される。
と成つて居ると云ふ。
確かにこれはその通りであらう。
マスコミ人も戰後生まれ戰後教育。
子供の頃から、日本の神話も、神道佛教についても、何一つ、教へられたことがない。
學校では、極惡最惡の西洋啓蒙主義唯物論科學萬能の教育のみ。
けれども、こんな程度の認識に甘んじては居れらない。
問題は、「世界統一宗教」への動きである。
本紙一五八號(12・10・23)十頁以下に、「ラスト・トランペット・ニュースレター」二〇〇〇年十月號の一部(「新世界秩序の誕生」)を飜譯紹介した。
「世界統一宗教」は、もちろん、「宗教」だけの話しではない。
世界單一政府、ワンワールド、新世界權力、ワールドオーダー、グローバル・プランテーション、その他、色々に表現されるが、
その實態は、「世界人間牧場」(黒岩重治)、以外の何物でもない。
全世界全地球を單一の監獄にしてしまふ。
もつと分かりやすく、通俗的に云へば、絶對的奴隸制世界帝國。
その世界國家の實現のために用意されて居る機關は、
第一に、世界軍。
第二に、世界警察。
そして第三に、世界裁判所そして檢察廳。
第四に、世界銀行と單一世界通貨ないし電子貨幣。從つて、現金の廢止(キャッシュレス社會)。この件については、ジョン・コールマン著「300人委員會凶事の餘兆」の第六章、第七章參照。
そして當然、第五に世界議會と世界政府。
更に、第六に、世界公用語。
第七に、世界宗教、ないし單一世界教會、
などなど。
これらを繪空事と思ふバカも多い。
世界政府なんて、實現するとしても精々、一千年後だらう、
などとかうしたバカはほざく。
「ラスト・トランペット」二〇〇〇年十月號で、デーヴィッド・メイヤーは、
「國連ミレニアム・サミット」(二〇〇〇年九月)に提起された「世界民主主義憲章」なるものを紹介して居る。
この國連の會議に、
「我々の地球の隣人逹」と名付けられた、四百十頁の報告書も提出されたと云ふ。
この文書の詳細な内容について、私は日本のマスコミ上で讀んだ記憶はない。
「世界憲章」は、
世界各國軍隊の武裝解除、
國連常備軍の設立、
地球税(毎年一・五兆ドル)
などなど、多くの目標を掲げて居ると云ふ。
更に、この國連サミットと前後して、
世界宗教サミットが開かれ、全世界、千五百人の各宗教指導者が參加した、とある。
これは、疑ひもなく、「單一世界教會」實現への大きな、重要な一歩であらう。
だが、今の日本民族は、かうした、物事の本筋にかかはる大問題については、ビク、とも反撥しない。
ゾンビ。
精神的な死者である。
「カルトとしての創價學會=池田大作」(古川利明著、第三書館、二〇〇〇年十月)。
この本は讀みごたへがある。
著者の古川利明は、一九六五年生まれ。慶應大學卒。一九八八年、毎日新聞入社一九九四年退社。
一九九六年、東亰新聞入社。一九九七年、退社。
現在、フリーのジャーナリストと云ふ。
無神論者、唯物論者、と自稱する。
この人は、同じ出版社(第三書館)から、
「システムとしての創價學會=公明黨」(一九九九年)
「シンジケートとしての創價學會=公明黨」(一九九九年)
と、創價學會を批判する本を二囘出して居る。
この著者は、今どきの若い世代としては、珍しく、勇氣と正義感と根性のあるジャーナリスト、と見受けた。
但し、この人の視野はきはめて狹い。
既に昭和四十年代に、「週刊文春」が、
「池田大作フリーメーソン説」
を報道して居る。
もちろん、何等かの裏付けがあつてのことであらう。
池田大作がフリーメーソンに加盟した、
との直接的確證は示されて居ない。
しかし、池田が、廣義に於てユダヤフリーメーソンイルミナティ三百人委員會世界權力の影響化にあることを示す間接的状況證據は存在する。
ここでは、二つだけ、擧げて置く。
その一つは、池田=創價學會と、ローマクラブの、緊密な關係である。
ローマクラブの正體については、ジョン・コールマン博士の著作「300人委員會」(邦譯・KKベストセラーズ)第2章、及び「300人委員會凶事の豫兆」(成甲書房)第1章參照のこと。
その二。
サイモン・ヴィーゼンタール・センターとのきはめて密接な友好協力關係。
文藝春秋社の日刊誌「マルコポーロ」を廢刊に追ひ詰めた、サイモン・ヴィーゼンタール・センターの惡名は高ひ。敢へてここで説明するまでもないであらう。
しかし、イルミナティ世界權力にとつて、池田大作創價學會は、單なる、使ひ捨ての駒の一つに過ぎない。
このことをしつかり認識しなければならない。
ユダヤイルミナティは、日本民族と日本國を壞滅抹殺するために、一時的に、池田と創價學會に或る程度の、利用價値を認めて居るだけのことだ。
世界統一宗教のための目に見える枠組みは、一九九七年二月二日、米國サンフランシスコ市、グレース大聖堂での會議で公表された十四項目(ラスト・トランペット・ニュースレター、二〇〇〇年十月號)によつて既に示されて居る。
しかし、これを讀んでも、白癡化した今の日本人には何のことやらまるで分るまい。
ここで言はれて居ることの要點は、
「傳統的宗教の抹殺」。
これである。
この「傳統的宗教」には、ユダヤ教、キリスト教、イスラムはもちろん含まれる。
まして、日本の傳統佛教や神道が、イルミナティ世界權力によつて、抹殺の標的とされて居ることはあまりにも當然だ。
そして、日本人は、日本の宗教界はその危機に全く氣付いて居ないのだ。
世界國家、ないし新世界秩序、ないし世界人間牧場は、どのやうにして作られるか。
このことについて、今の日本人は、完璧に盲目である。
イルミナティ・フリーメーソン自身が公言して居るではないか。
カオスを通しての秩序、と。
この「カオス」は、「混亂」、「混沌」などと飜譯してはならない。
その意味は
現在秩序をトコトンまで破壞解體して、無秩序化せよ、
と云ふことなのだ。
平成十二年十二月六日記
太田 龍
對話 人間の建設(抄)四十八〜六十三頁
百三十五〜百三十八頁
岡 潔、小林 秀雄
(新潮社、昭和四十年)
岡 はい。人類が幸ひに自分を滅ぼさずにすむなら、最初にそれは考へるべきことだと思ひます。本然の感情の同感なしには數學でさへ存在しない。自然科學者、ことに物理學者あたりが、ベルグソンの非難したとほり知性だけで存在を主張しやうしてもできない相談なのです。そこにやつと氣づいたのですから。
小林 たとへば物資を次第にこまかく調べていつても、ある方程式は滿足させるやうな結果は出るが、感情はそれをうんといゐませんね。
岡 攜わつてゐる學者逹の感情がそれに同感する必要があるといふことを自覺すると、すべてがよくなると思ひます。科學が進歩するほど人類の存在が危うくなるといふ結果が出ることだつて、ベドイトゥング(意義)について考へ足りないのです。藝術にしても現在のやうでは、たとへばモデルを女性として尊重しないやうな繪書きが多い。さういふ人の繪は人類にとつてプラスとは考へられない。隨所に間違ひがあらはれてゐる。すべてのことが人本然の情緒といふものの同感なしには存在し得ないといふことを認めなくてはなりません。女性のモデルを女性としてよりも妙に取り扱ふ、けもの的に取り扱ふ。さういふ状態でよい繪がかけたら、繪について考へ直さなければいけないが、幸ひよい繪はかけてゐない。そのことに氣づかないといふことはいけない状態です。歐米人には小我をもつて自己と考へる缺點があり、それが指導層を貫いてゐるやうです。いまの人類文化といふものは、一口に云へば、内容は生存競爭だと思ひます。生存競爭が内容である間は、人類時代とはいへない、獸類時代である。しかも獸類時代のうちで最も生存競爭の熾烈な時代だと思ひます。ここでみづからを滅ぼさずにすんだら、人類時代の第一ページが始まると思ひます。たいていは滅んでしまふと思ふのですけれども、もしできるならば、人間とはどういふものか、したがつて文化とはどういふものであるべきかといふことから、もう一度考へ直すのがよひだらう、さう思つてゐます。それはおもしろく樂しいことだと思ふのです。〃考へるヒント〃といふのはそのひとつだと思ひます。人はさういふことを考へると、ほのぼのとおもしろくなるはずです。人に勝つためにやるといふやうな考へは押えないと、そのおもしろさは出てこないですね。
私、自然科學はろくなことをしてゐないと思ひますが、そのなかでごくわづかですが、人類の福祉に貢獻したといふことのうちで、進化論、つまり人は單細胞から二十億年かかつてここまで進化してきたのだといふことを教へてゐるといふことは、その一つに數へられます。たいへん意義あることだと思ふのです。このごろの人のやり方を見てをりますと、さういふ崇高な人類史にたいする謙虚な心がありません。コッホがコレラの原蟲を發見した。これはすがすがしい科學の夜明けでしたが、それから第一次世界大戰で人類始まつて以來の世界的規模の戰爭を始めるまで、破壞力が科學によつて用意されるまでに、たつた三十年しかかかつてゐないのです。それから長いやうでもまだ五十年しかたつてゐない。アインシュタインが相對性理論を出しましてから、それが理論物理の始まりですが、原子爆彈が實際に廣島に落ちるまで二十五年しかかかつてゐない。すべて惡いことができあがるのがあまりに早すぎる。人類は單細胞から始まつて、いまの邊りまできては自分で自分を滅ぼしてしまふ。また新しく始めてはいつの日か自分で自分を滅ぼしてしまふ。さういふことを繰り返し繰り返しやつてゐるのぢやなからうか。自然を見てみますと、草は種からはえては大きくなつて、花が咲いて實ができたら枯れてしまふ。またその實から芽を出して、繰り返し繰り返しやつてをりますが、これはまつたく同じことを繰り返してゐるのではなくて、かうしてゐるうちに少しづつ、なぜか知りませんが、進化してゐる。この草の一年に相當するのが人の二十億年で、これを繰り返してやつてをれば、しまひにはこの綫が越へられるかも知れない。木馬にたとへますと、飛びそこなつてはまた助走をつけて走りなほし、また失敗してはやりなほしてゐるうちに、だんだん上手になつて、たうたう木馬が飛び越へられるといふふうになる。
たとへば數學で、數學といえども感情の同調なしには成立し得ないといふことが初めてわかつた。これはだいぶわかつたはうで、さういふ花が咲いたのだから、枯れて滅びる。また新しい種から始めればよいのです。人はずいぶんいろいろなことを知つてゐるやうにみえますが、いまの人間には、たいていのことは肯定する力も否定する力もないのです。一番知りたいことを、人は何も知らないのです。自分とは何かといふ問題が、決してわかつてゐません。時間とは何かといふ問題も、これまた決してわからない。時間といふものを見ますと、ニュートンが物理でその必要があつて、時間といふものは、方向をもつた直綫の上の點のやうなもので、その一點が現在で、それより右が未來、それより左が過去だと、そんなふうにきめたら説明しやすいといつたのですが、それでいまでは時間とはそんなものだとみな思つてをりますが、素朴な心に返つて、時とはどういふものかと見て見ますと、時には未來といふものがある。その未來には、希望をもつこともできる。しかし不安も感じざるを得ない。まことに不思議なものである。さういふ未來が、これも不思議ですが、突如として現在に變る。現在に變り、さらに記憶に變つて過去になる。その記憶もだんだん遠ざかつていく。これが時ですね。時あるがゆゑに生きてゐるといふだけでなく、時といふものがあるから、生きるといふ言葉の内容を説明することができるのですが、時といふものがなかつたら、生きるとはどういふことか、説明できません。さういふ不思議なものが時ですね。時といふものがなぜあるのか、どこからくるのか、といふことは、まことに不思議ですが、強ゐて分類すれば、時間は情緒に近いのです。
破壞だけの自然科學
小林 たとへばアインシュタインが物理學者としてある發見をする、發見はしたが順序立てて表現できてゐないものを數學者が表現してやるといふことが數學にはあるのですか。
岡 アインシュタインのしたことについて一番問題になりますのは、それまで直綫的に無限大の速さで進む光といふものがあると物理で思つてゐたのを、否定したのです。それを否定して、しかしいろいろな物理的な公理をそのまま殘したのですね。ところが光といふものがあると考へてゐたアインシュタイン以前では、さういふ公理體系は近似的に實驗し得るものだつたのです。だから物理的公理體系だつたのです。ところがアインシュタインは、在來の光といふものを否定した。さうすると、假定してゐる物理の公理體系が殘つても、實驗的にはたしかめることのできないものに變つてしまつたのです。物理的公理體系ではなくなつたのです。これはなんと云ひますか、觀念的公理體系、哲學的公理體系といふやうなものに變つてしまひます。さういふ公理體系の上に物理學を組み上げたことになつたのですね。現在はその状態なんです。だから數學者はそれを問題にしてゐるのですが、現在の公理體系を再び物理學的公理體系たらしめるにはどうすればよいか、さういふことが可能かといふ問題があるのです。ところが、それはできさうにもない。だから若い無茶の好きな數學者は、さういふ準備もしてをりますし、ことによるとそれは可能かもしれませんが、たいていの人はやらうともしてゐない。現在の物理學は數學者が數學的に批判すれば、物理學ではない。なんと云ひますか、哲學の一種ですか。そんなふうな状態だから、それ以上立ち入つて理論物理のことをやらうとしてゐる數學者はあまりゐないでせう。早晩なんとかしまければならぬとは思ふのです。しかし公理體系の上にいろいろなものを積み上げて、物理學といふ知的體系の無矛盾が知的に證明できただけではだめだといふことが、數學の例でわかつてゐますが、その知的に無矛盾といふものを證明することが、すでに到底できさうもないこととして寫つてゐるのです。それはアインシュタインが光の存在を否定しましたから。それにもかかはらず直綫といふふうなものがあると假定していろいろやつてますね。物理の根柢に光があるなら、ユークリッド幾何に似たやうなものを考へて、近似的に實驗できますから、物理的公理體系ですが、光といふものがないとしますと、これは超越的な公理體系、實驗することのできない公理體系ですね。それが基礎になつてゐたら、物理學が知的に獨立してゐるとは云へません。そこに物理學の一番大きな問題があると私は思ひます。たいていの數學者もさう見てゐるだらうと思ひます。まだ數學者と物理學者はお互いに話し合つてはゐませんが。何しろいまの理論物理學のやうなものが實在するといふことを信じさせる最大のものは、原子爆彈とか水素爆彈をつくれたといふことでせうが、あれは破壞なんです。ところが、破壞といふものは、いろいろな假設それ自體がまつたく正しくなくても、それに頼つてやつたはうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるといふなら認めてよいのですが、建設は何もしてゐない。してゐるのは破壞と機械的操作だけなんです。だから、いま考へられてゐるやうな理論物理があると假定させるものは破壞であつて建設ぢやない。破壞だつたら、相似的な學説がなにかあればできるのです。建設をやつて見せてもらはなければ、論より證據とは云へないのです。だいたい自然科學でいまできることと云つたら、一口に云へば破壞だけでして、科學が人類の福祉に役立つとよく云ひますが、その最も大きな例は、進化論は別にして、たとへば人類の生命を細菌から守るといふやうなことでせう。しかしそれも實際には破壞によつてその病源菌を死滅させるのであつて、建設してゐるのではない。私が子供のとき、葉緑素はまだつくれないと習つたのですが、多分いまでも葉緑素はつくれない、葉緑素がつくれなければ有機化合物は全然つくれないのです。一番簡單な有機化合物でさへつくれなやうでは、建設ができるとは云へない。
いまの機械文明を見てみますと、機械的操作もありますが、それよりいろいろま動力によつてすべてが動いてゐる。石炭、石油。これはみなかつて植物が葉緑素によつてつくつたものですね。それを掘り出して使つてゐる。ウラン鑛は少し違ひますけれども、原子力發電などといつても、ウラン鑛がなくなればできない。そしてウラン鑛は、このまま掘り進んだら、すぐになくなつてしまひさうなものですね。さういふことで機械文明を支へてゐるのですが、やがて水力電氣だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのもむつかしくなります。つまりいまの科學文明などといふものは、殆どみな借り物なのですね。自分でつくれるなどといふものではない。だから學説がまちがつてゐても、多少さういふまじなひを唱へることに意味があればできるのです。建設は何もできません。いかに自然科學だつて、少しは建設もやつてみやうとしなければいけませんでせう。やつてみてできないといふことがわかれば、自然を見る目も變るでせう。
かういふことはニュートン力學あたりに始まるのですが、ニュートンは、地球からいふなら太陽の運動、その次は月の運動、それくらゐを説明しやうとして、ああいふニュートン力學を考へ出し、そこで時間といふものをつくつて入れたのです。ああいふ時間といふものだつて、實在するかどうかわからないが、ともかく天體を見てああいふことを考へるうちに、地上で電車が走るやうになつたといふふうで、おもしろい氣がします。しかしその使ひ方は破壞だけとはいえなくても、少くとも建設ではない。機械的操作なのです。
しかし、人は自然を科學するやり方を覺えたのだから、その方法によつて初めに人の心といふものをもつと科學しなければいけなかつた。それはおもしろいことだらうと思ひます。人類がこのまま滅びないですんだら、ずいぶん弊害が出ましたが、自然科學によつて觀察し推理するといふことは、少し知りましたね。それを人の心に使つて、そこから始めるべきで、自然に對してももつと建設のはうに目を向けるべきだと思ひます。幸ひ滅びずにすんだらのことですが、滅びたら、また二十億年繰り返してからそれをやればよいでせう。現在の人類進化の状態では、ここで滅びずに、この綫を越へよと注文するのは無理ではないかと思ひますが。しかし自然の進化を見てみますと、やり損いやり損つてゐるうちに、何か能力が得られて、そこを越へるといふやり方です。まだ何度も何度もやり損わないとこれが越へられないのなら、さうするのもよいだらうと思ひます。しかもそんなふうなものだとすると、人が進化論だなどといつて考へてゐるものは、ほんの小さなもので、大自然は、もう一まはりスケールが大きいのかもしれませんね。私のさういふ空想を打消す力はいまの世界では見當りません。ともかく人類時代といふものが始まれば、そのときは腰をすゑて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根柢はこれである、だからといふところから考へ直していくことです。そしてそれはおもしろいことだらうなと思ひます。
小林 數學者はいまの物理學をさういふ態度で考へてゐるのですか。
岡 大きな問題が決して見えないといふのが人類の現状です。物理でいへば、物理學的公理が哲學的公理に變つたことにも氣づかない。
岡 ええ。本當に行き詰まつたら、數學といふものがなくなるでせうね。さういふ危險性がないといふことは云へないわけです。だから數學のなかだけでは安心できないわけで、やはり人類の文化の一つとして數學といふものがあるといふ自覺があれば、心配はないわけです。人類の向上に對して方向が合つてゐると思ふやうにやればいいので、そこまで行かなければ安心できない。數學至上主義といふものはあり得ません。私はさしあたつて日本の非行少年の數が三割といふやうな驚くべき比率から、せめて三パーセントぐらいに下がつてほしいと痛切に思つてゐます。それに役立ちさうなことがあつたら、喜んでしてゐるのです。大變な數字だといふことを、どうして思はないのか。こんな數字は今までになかつた。昔の國家主義や軍國主義は、それ自體は、間違つてゐても教育としては自我を抑止してしました。だから今の個人主義が間違つてゐる。自己中心に考へるといふことを個人の尊嚴だなどと教へないで、そこを直してほしい。まづ日本人が小我は自分ではないと悟つてもらはないと。なぜ日本人にさういふことを云ふかと云ひますと、イギリス人の歴史家が沖繩へ行つてみて「神風」の恐しさは見たものでなければわからないと云つてゐるのです。ものすごい死に方をしてゐる。善惡は別にして、ああいふ死にかたは小我を自分だと思つてゐてはできないのです。だから小我が自分だと思はない状態に至れる民族だと思ふのです。自分の肉體といふものは人類全體の肉體であるべきである。理論ではなく、感情的にさう思へるやうになるといふことが大事で、それが最もできる民族としては日本人だと思ひます。ところが三割といふ非行少年、いま日本が市場多いのですね。一億といふ人が生存競爭の空しさを云つてくれたら、世界に對して相當の聲になつて、あるいは人類の滅亡を避けられるかもしれない。さう思つてをります。理性といふものでは到底現状を防げるとは思ひません。感情、情緒といふものが眠つてゐるのです。もう一つは、いまの中學生は同級生を敵だとしか思へないと云ふのです。私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思へるやうに教へてほしい。同級生を敵だと思ふことが醜い生存競爭であり、どんなに惡いことであるかといふこと、いつたん、さういふ癖をつけたら直せないといふことを見落してゐると思ひます。獸類にはいろいろな本能や慾情がある。ところが獸類の世界が滅茶苦茶になることはない。なぜ、ならないかと云ふと、獸類の頭には、本能や慾情に對する自動調節裝置がつゐてゐるのですね。そのために放つておいてもひどいことにはならない。ところが人の頭には本能や慾情に對する自動調節裝置は全然ないのですね。その代り意識して自主的にさういふものを抑える力が大腦前頭葉に與へられてゐるのです。人はその働きを行使することによつてのみ人として存在し得るといふ、さういふ構造になつてゐるのです。これは前世紀來の醫學の定説なんです。さういふ事實を無視した教育をやれば、非行少年は減りません。