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ナイジェル・マンセルのフェラーリ時代は短くて華やかなものだった。”跳ね馬”に乗っていたのは2年に過ぎないが、その間に生涯最高のシーズンと最悪のシーズンを経験したと言っても良いだろう。
モーターレーシングにおけるフェラーリの赤い炎は良くも悪くもあらゆるものを燃え上がらせる。その往くところ熱狂的なファンが待ち受け、イタリア国内ではフェラーリのドライバーはローマ法王より有名だと言う人さえいる。勝てば尚更だ。
その”跳ね馬”伝説に包まれた奥の院にいたのが”オールドマン”、エンツォ・フェラーリ。長年ワンマンとして君臨してきた会社の創業者である。もう何年もGPの現場に姿を見せたことがなかったが、誰にも畏敬の念をもって見られていた。コリン・チャップマン、バーニー・エクレストンと共にF1の歴史に大書されるべき存在である。
エンツォがドライバーに惚れる理由は一つしかなかった。スピード、それのみである。イタリア人であるか否かよりも速いか、遅いか、それがドライバーを選ぶときの基準だった。そのスピードがマンセルにはあった。エンツォ・フェラーリからみてマンセルには、パワーを愛してスピードを全く恐れないといった点で、あの伝説的なジル・ビルヌーブを思わせるものがあった。そこでエンツォは四回も五回もマンセルに交渉を持ち掛けた。だが、マンセルはそのたびに断った。フェラーリに誘われて断ったドライバーはマンセルぐらいのものだろう。ついにエンツォがマンセルを口説き落とすのに成功したのは、自分が死を迎えるわずか数ヶ月前のことだった。マンセルのフェラーリ入りが発表されたのは88年の7月、エンツォが他界したのはその一ヶ月後の8月である。
それからしばらくの間、マンセルは気持ちの落ち着かない日々を送らなければならなかった。”オールド・マン”の死の悲しみというよりは、その死のもたらした虚脱感によるものだったろう。この総司令官はいつもフェラーリの台風の目であったが、いついかなる場合でもチームを鉄の支配下におく存在だった。
マンセルがイタリアで長持ちすると思った人はほとんどいなかった。フェラーリで生き抜くにはありとあらゆる権謀術数を身につけていなければならないのだが、彼ほどそれに不向きな人間はいない。直情径行、思ったことをそのまま口にする性格である。おまけにイタリア語を話すことも出来なかった。(かなり勉強したことは事実だが) それやこれやでマンセルはシーズンの半ばまで保たないだろうと言う人さえいた。
マンセルがフェラーリに惹かれた理由はいつくかある。その第一はチームのテクニカル・ディレクターでデザイナーのジョン・バーナードの存在。彼の第一作、バイオリンの形をした640はGP史上もっとも美しい車のひとつだろう。 次にスポンサーがうるさくないことも魅力だった。ウィリアムズ時代には14を超すスポンサーがいて、あれやこれやと時間も体力も使わざるを得なかったが、フェラーリにはその煩わしさもなく、レースに集中することが出来た。
バーナードの車がリオでデビューしたとき、マンセルはひどい予選セッションを二度も味わった。車は速いときはすごく速いのだが、続けて3周もしないうちに壊れてしまう。それでも予選6位につけたのだが、決勝ではまた壊れるだろうと思いこんだ。
決勝の朝、事態はマンセルの予言通りに進み始めた。ウォームアップの2周目で早くも車がストップ。スペアカーに乗り換える時間もなかった。この信頼性のなさは、新しい7速のエロクトロ・ハイドロリック・ギアボックスが、まだバーナードによって完成されていないことによるものだった。
絶対にフィニッシュできない、と決め込んでレースに出ていくマンセル。”5周しか保たないだろう”というイタリア記者には「またオーバーなことをいう」と笑って見せていたが、自分のすぐ後ろのディレック・ワーウィック(アローズ)には「またギアが壊れてスタートできないかも」と警告を発していた。
しかし車はロケットの様に飛び出し、マンセル本人も含めたあらゆる人を驚かせた。8周目には外輪をコースからはみ出させながら回り込んでパトレーゼを押さえ、トップにたつ。それからしばらくそのままだったがタイヤ交換でピットイン、代わってマクラーレンのプロストがトップにたった。プロストもタイヤ交換したかったのだが、クラッチに問題があって、一度車を止めたら二度とスタートできなくなる。そんな状態で走るプロストをマンセルはじりじりと追い上げ、ついにあの有名な勝利を手中にした。
誰よりも驚いたのは本人だったろう。イタリアでは神様扱いされ、”イル・リオン”(ライオン)と呼ばれるようになった。
カーナンバー「27」。ジル・ビルヌーブによって伝説化されたナンバーである。この勝利はその期待と重荷に立派に応えるものであった。
「フェラーリにとっても嬉しい勝利だった。特に僕は13勝で足踏みしていて、それが気になっていたときだったからね。それにしてもまさか勝てるとは思わなかった」
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マンセルファンでいらっしゃる安藤さんから送って頂いたCG
フェラーリF189(latevirsion)
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次にサンマリノではゲルハルト・ベルガーが時速150マイルでクラッシュ、車が炎上するという事故が発生した。原因はサスペンションが壊れ、ロッドが予備タンクを破壊したことだった。車はこぼれたガソリンにのってスピン。ベルガーは救助隊の敏速な活動によってかろうじて猛火に包まれるのを免れた。
当然、車の安全性が懸念されたのだが、マンセルは果敢にレースを続けてイタリアのファンの賞賛を浴びた。これから後のマンセルは5レース連続して途中リタイアの不運に見舞われている。いずれの場合もギアボックスの信頼性の悪さが原因だった。
だが、フェラーリはそこから勢いを盛り返し、マンセルはフランスGPから5レース連続で表彰台に立った。その中には、彼の生涯最高のレースと思われる1989年のハンガリーGPも含まれている。
ハンガロリンクはひどいところだ。地図の上ではそれほど南でもないのに、この時期いつでも暑い。その上、路面はすごく硬い。車が予選で落としたゴムのダストが細いラインになっていて、車がそこにのるとグリップがなくなってアイス・スケートのように滑っていく。コースはコーナーまたコーナー。おまけにアップダウンも激しい。モナコの曲がりくねったストリートコースより悪いというドライバーが少なくない。追い越すところもない。あるとすればピット前のストレートなのだが、それさえ長さが十分とは言えない。だから予選成績がものをいって、上位グリッドを得ることが勝負の決め手になる。第1コーナーまでの100ヤードダッシュでレースが行方が見えてしまうほどだ。
マンセルはここに来るまでフランス、イギリス、ドイツと3回連続して表彰台に立っているが、リオデジャネイロで勝利を挙げて以来優勝はしていない。
予選は12位。マンセルは自分の希望通りにチームがセットアップしてくれないので欲求不満の塊のようになっていた。それでも車のポテンシャルそのものには手応えを感じていたので、最終予選は自分の思うようにセットアップすることに専念した。結果は上々。決勝の日のウォームアップではファステスト・ラップを記録した。それでも予選12位は12位。優勝はおろか、表彰台に立つこともないだろうというのが大方の予想だった。
だが決勝では最初の1周だけで順位を8位に上げた。「うまくいった。あとは車を壊さないでタイヤに気をつけよう」と思ったそうである。22周目でパトレーゼ、セナ、プロストの順で走っていたトップグループから16秒遅れの5位。ベルガーがタイヤ交換で予定通りのピットインをしたところで4位。タイヤの調子がいいからどんどんプッシュせよという無線の指令が出る。
36周目で追いつくと、プロストが道を開けてくれた。「何かトラブルが発生したようだった」とマンセル。これで3位。セナとパトレーゼが視界に入ってきた。54周目、パトレーゼが突然スローダウンしたかと思うと、リタイア。原因はエンジンのオーバーヒートだった。これで2位。 だが、セナ、特にトップを走っているときのセナを追い抜くのは至難の技である。
セナに厳しくプレッシャーをかけながらコースを回ること4回。58周目でセナが彼らしくないミスを犯した。コーナーを出たところでステファン・ヨハンソン(オニックス)がコースの真ん中にいた。そのヨハンソンが右側から自分をパスさせてくれると思ったセナは右に出ると、ヨハンソンも同じ方向に出てブロックされる形となった。何分の一秒か、その隙をついてマンセルがトップを奪った。
スピードはフェラーリの方がある。おまけにタイヤがくたびれてきていたから、セナは諦めて2位を守りに出た。結果25秒の大差でマンセルの優勝となった。
サーキットがどこであろうとも、12位スタートからの優勝は快挙とされていい。それを、こともあろうのハンガリーでやったというので、マンセルの名は一段と光彩を放つことになった。
「車はちっとも速くならないし、マネージメントもメカ達も耳が痛くなるほどがみがみ言う。土曜日は本当に泣きたくなったよ。つらい一日だった。僕のセットアップに全員が反対して味方はワイフ一人。予選タイヤは半周しかもたないのだということを彼らはどうしても解ってくれなかったんだ。しかし翌日の決勝で僕は勝った。大満足だったよ。あれで少しは人の言うことをきくものだということが彼らにもわかったんじゃないかね」
マンセルはそううち明け話をしてからレースについて次のように語った。「87年のシルバーストーンに並ぶ、僕の生涯の最高の勝利だった。勝利というのは、金曜日でも土曜日でもなくて、日曜日に勝つことなんだということを初めて悟ったよ」
イタリア人たちの祝福の熱気の中で、彼はこの勝利をちょうど一年前に無くなった恩人エンツォ・フェラーリに捧げた。
この後ベルギーで3位。そしてイタリアGPにやってきたときのマンセルは、それこそ神様扱いだった。
夕闇が迫ってきてぽつぽつ灯りがともり始めた頃だというのに、ピットの壁に腰をかけてサインに応ずるマンセルを囲むファンはますますその人数を増やして行くばかりだった。6ヶ月前、フェラーリからチューインガムのように吐き捨てられるだろう、さもなければ自分の方から飛び出すだろうと予想した”専門家”がいたことなどとはとうてい信ずることの出来ない光景であった。そこにいたのはバーミンガム訛りの強い英語を喋り、フラットなチェックの帽子をかぶっている、まぎれもないイギリス人だった。これほどイタリアの風物にそぐわない人間がここでこれほどのヒーローになろうとは・・・・
このシーズンの残り5レースは全部フィニッシュ出来なかったし、ポルトガルでは失格を言い渡されたりの憂き目をみているが、もう1シーズンチームに残るのは確実だった。チームメイトのベルガーはマンセルについていくのがやっとという状態で、マンセルに次ぐタイムを出すことで満足していたから、チームには波風も立たなかった。
だがチームはそのころ、マクラーレンのアラン・プロストに誘いをかけていた。プロストはチームメイトのアイルトン・セナとのバトルに敗れて嫌気がさしていて、フェラーリからの巨額オファーに飛びついてきた。
プロストのフェラーリ入りはマンセルにも利益をもたらすことになった。プロストの付けた条件はマンセルと完全に同じ身分でナンバーワンドライバーを分け合うこと。これをのんだチームはマンセルへの埋め合わせとして前年度に使っていたフェラーリ640を完全な形で与えることにした。これは原価だけでも1億2000万円はする。コレクターが欲しいといえば、それよりははるかに高い値段が付くだろう。
しかしそうした間にフェラーリの内部では大きな変化が起きていた。ジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターの座を去り、プロストが自分のレースエンジニアとしてマクラーレンからスティーブ・ニコルスを引き抜いてきたのをはじめ、自分の人脈に繋がる人間を何人かチームに入れていた。
「ジョン(バーナード)の働きが不完全なままでストップしたのは悲しいことだ。彼はパトリック・ヘッド、亡くなったコリン・チャップマンと並ぶ優れたデザイナーだと思う。フェラーリは彼ともっとうまくやれたはずなんだが・・・」
そしてマンセルの内部にも大きな変化があった。「選手権を獲得するためには、2位になることもやむを得ない」と言うようになったことである。それまでは優勝することしか眼中になかったあのマンセルが、である。
「僕はいつも世界選手権は結果としてついてくるものだと思っていて、そのためにはこつこつとポイントを積み上げることも必要なのだということを忘れていた。この冬はフェラーリ内部でもう0.5秒速いマシンを作ることが出来ると言っていたし、事実、今年のスタート時点では去年のスタート時点より速いエンジンを持っていた。しかし、信頼性の点で問題があって、最初から着実にポイントを稼いでいくという基本路線と合わなかったからそうしなかったんだ。勝てないと思ったときでも粘りに粘ったことが何度もあったよ。僕は世界選手権をどうしても欲しかったんだ。」
またマンセルは、「プロストからは学ぶことはほとんどなかったけど、とにかく良いチームを作ることを第一に考えた」と、プロストと協調する努力もしたという。
この年のサンマリノGPで、マンセルは「凄い」パフォーマンスを世界に見せることになる。前年のチームメイトであるベルガーと順位を争っていたのだが、マンセル曰く「ベルガーに押し出されて」スピンする。映像を見るかぎりでは、ベルガーに押し出そうという意思は無くレーシングラインを走っているところにマンセルが追い越しをかけ、行き場所が無くなってダートにタイヤを落としたように見える。とにかくマンセルは300km/hに近いスピードでスピンするのだが、驚異的なテクニックでリカバリーしてベルガーを追い続けるのだ。
最大の予算と最強のドライバー二人を抱えてシーズンに突入したフェラーリは先行きを楽観視していた。だが、この二人の仲は急速に悪化していった。
「私が土曜の夕方も残ってセットアップを手伝っているのに、彼はゴルフをやりに行くんだから・・・」
とプロスト。シルバーストーンで第8戦を終わる頃までに、二人の仲は完全におかしくなっていた。ここまでマンセルは表彰台に2度上がっただけで優勝はゼロ。一方、プロストは6位以上が6回、そのうち優勝4回で世界選手権の有力な優勝候補に浮上していた。
マンセルはそれまでずっと自分の車が不安定なことに怒り続けていた。自分の車がおかしくなるのであれば、プロストの車も同じようにおかしくなるはずだ、それなのになぜ自分の車だけそうなるのか・・・。勿論、プロストにはニコルスという親友のエンジニアがついていて車を徹底的に仕上げてくれる。マンセルにはそういう特別なサポートがない。それは解っている。だがフェラーリというチームは事情がどうであれ強いドライバーの肩を持つ。伝統的にそういうチームである。
元々ひがみっぽい性格のマンセルは、自分一人が仲間外れにされているのではないか、プロストの犠牲にされているのではないかと疑いはじめ、プロストが流暢なイタリア語で話すことが出来るようになるとその傾向はますます強くなって、プロストがメカ達と冗談を言い合って笑っていると自分のことを笑いものにしているのだと思うようになってしまった。これがドライビングに影響しないわけがない。
これより早く、シーズンがまだ浅いうちからウィリアムズが91年の契約交渉を持ち掛けてきていた。だが、このシルバーストーンまで来たところで、ウィリアムズはセナのナンバー2が条件だと言い出した。マンセルは怒り心頭に発した。おまけにレースはギア・トラブル、58週でリタイア。憎いプロストが優勝した。マンセルがシーズン末でF1から引退すると発表したのはこのときだった。
「一つの車だけが完璧で、僕の車はいつでも壊れてしまう。なぜだか解らないんだ」
マンセルはそういってモーターホームに閉じこもり、出てきたかと思うと、その決定が瞬間的な思いつきではないというだめ押しの談話は発表した。
「私は今冷静で落ち着いています。2,3の問題はありましたが、それはレースのあとでいつもあることに過ぎません。今、ほんの少し疲れていますが、私がこれから言うことは今日のレースに対する感情から出た反応ではなく、この数ヶ月間よく考えた結果のことです。このイギリスGPで発表するのは悲しいことですが、私はここに引退を声明するものであります」
「今シーズンの終わりまでは全力を挙げてレースを続けます。アランが世界チャンピオンになる助けとなり、その上で私もいくつか勝てたら、それは素晴らしいことだと思います。このあと8レースは走りますが、今ここで言えることは、アデレードが私の最後のGPになるということです」
「これからは家族と自分のことを第一に考えていきます。誰の人生でもそういうときがあっても良いでしょう。私も今年で37歳。トップにいるうちに止めた方がいい。」
「この半年の間、人を憎む感情を抱いたこともありますが、今はそれもなくなりました。イギリスGPだからタイミングが悪いと言ってくれる人もいましたが、これは私にとっては一番大事なレースなのです。そこで勝って発表という運びにしたかったのですが、それもかないませんでした。これからは、家族と一緒の時間を持ち、出来れば少しビジネスの世界に入ってみたいと思っています。」
チーム・マネージャーのチェザーレ・フィオリオからも談話が出されたが、これは、「やめたいと思ったときには継続する義務がないという一項を契約に入れたのはナイジェルの方である。我々は彼と相談はするが、きわめて早急に態度を決定する。この時期、ドライバーマーケットの動きが目まぐるしいからである」と、斬って捨てるような態度のコメントだった。
しかしマンセルに対する接触はなかった。彼はその事実をフェラーリに連絡することなく、イギリスの報道陣に明らかにした。フェラーリとの関係を続けることは考えようともしなかった。
その年の終わり、セナはウィリアムズには入らず、マンセルはウィリアムズの熱心な交渉に応じて引退を撤回する。彼は本当は走りたかったのだ。いや、チャンピオンになる夢を捨ててはいなかったのだ。
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