Do you know Mansell?
BTCCでのマンセル

これを御覧のあなたはナイジェル・マンセルというレーサーをご存じでしょうか? 彼の今までの人生の中で一番大きな偉業と言えるのが1992年のF1ワールドチャンピオンシップを制したことでしょう。日本では「荒法師」と呼ばれ、我が儘で気分屋であるとの見方をされてきました。

確かにその通りであるのですが、彼のドライビングスタイルはこれまでのどのレーサーよりも私には魅力的でしたし、彼のレースに対する情熱は誰にも負けない熱いものであったのは否定出来ない事実であることを、このページを通して伝えたいと思います。彼の過去はあまり公開されていませんが、彼の事を知るに従って、彼に興味を持ってくれる方が一人でもいてくれれば良いな、と思っています

マンセル誕生

マンセルの生家

幼少のマンセル

1954年8月8日、イングランドのミッドランドにあるアプトン・オン・セバーンで彼は生まれる。家は雑貨屋とカフェを営むごく一般的な家庭だったらしい。4人兄姉の3番目として生まれ、普通の元気なスポーツ好きな少年だった。小さな頃から父親の友人の古い車を乗り回し、スピードには興味があったようだ。

そして彼が9才の時、父親にレーシングカートを買って貰う。スピードへの興味はそこから大きく飛躍することとなったのである。

父親の友人の古い車は、アクセルを一杯に踏んでも大したスピードが出なかったが、やはりカートである。エンジンは草刈り機のものであったが、スピードは出る。

彼は同じようにアクセルを踏み、急発進したカートのハンドルにしがみついたまま激突してカートを壊してしまう。この辺りに彼の将来を暗示するものがあるような気がするのは私だけであろうか? とにかく、こうして彼のレーサーとしての人生が始まったのである。

少年レーサーマンセル
少年時代のマンセル

週末になると父親とカートのサーキットに出かける生活が始まった。ある程度のレベルのドライバーにはだいたいこうした小さい頃からのレース経験がある。マンセルも例外ではなかった。理解のある父親の存在は、彼のドライバーとしての根元に存在するものと思われる。
 そして彼はただ速く走るという自分だけの楽しみから、レースの楽しみを知る。それと同時に知りたくなかったであろういくつかの事実も知ってしまうのである。

同じレベルのマシンでなければレースにならない・・・どのカテゴリのレースでもそうである。彼はカートの段階でそれに気が付くことが出来た。芝刈り機のエンジンでは勝負にならないのはすぐに気が付いた。しかし勝負になるレベルのカートは、シャーシ、エンジン共に少年だったマンセルには高価過ぎた。しかしそこに祖父母の援助があった。

彼は新しいシャーシとエンジンを手に入れることが出来たのである。こうした家族の暖かい助けが現在の彼の「家族を大切にする気持ち」のベースになっていることは、疑う余地もないだろう。

それからの彼は見違えるように速くなり、初勝利、初選手権を獲得する。そして驚くべき事に国の代表にもなっている。しかし学校での彼は、彼の活躍をうらやむ連中からいじめられた。成功をやっかむものがいるというのは、いつの時代もどこの世界も一緒のようである。

左足の怪我

いつの頃からだろうか・・・。。マシンから降りて歩いている時の多くは足を引きずっていた。そのレースでは特に事故があったわけではなかったのにである。そして彼はマスコミに「おおげさだ」とか「痛くもない足を引きずって同情を乞おうとしている」などと言われた。彼が足を引きずっていたのには理由があったのである。

彼の初勝利は、ミッドランドのシロップシャーにある「ターンヒル」というサーキットである。それから彼はミッドランド・カート選手権を7回、ウェールズ・カート選手権を2回、全英カート選手権でも優勝を飾る事になる。その初勝利をあげた「ターンヒル」での事故が彼のレーサー人生を苦労に満ちたものにして行くのである。

「僕はターンヒルで誰かに追突してロイヤル・シュルーズベリー病院に入院したんだ。左足が粉々になって担架で運び込まれ、ギブスをはめられてそのまま3ヶ月さ」

マンセルの言葉である。

 「それからというものこの足に悩まされっぱなしだったんで、何人かの専門家に診て貰ったけど、接合部が良くないというんだ。それで手術待ちのリストに載せられたんだけど、9ヶ月待ちということになった。しかも大きな手術をすると、それから4ヶ月もギプスをはめていなければならないというじゃないか。僕は既にレーサーになっていたし、とってもそんな時間はなかったよ。すごく痛かったけどね」

この事実が一般に知られるようになったのは、マンセルが世界チャンピオンになってからである。彼は自分の傷について多くを語るのを好まなかったというのである。 しかしこの痛い足でよくドライビングが出来たものである。確かにセミオートマチックギアのおかげでクラッチ操作はしなくていいが、F1での体の各部所にかかるGは常人では理解出来ない程の力である。

そして彼はワールドチャンピオンになった年に手術している。

決心

フォーミュラフォードの頃

そして数年が経ち、彼の栄光はどんどん積み上げられていった。彼はいつしかレースに自分の将来を見いだした。その信念がその後の彼の大きな助けとなっていく。
 彼は普通の人間ならば諦めてしまうような出来事を決して諦めなかった。たくさんの事件やハンデが彼を襲うのだが、マンセルは負けなかった。自分を信じていたのである。
 他の人間が彼の実力を半信半疑、いや全く疑ってかかっても彼の信念は変わらなかった。

しかし、「彼はいつも不安だったのではないか」と私は思っている。その不安を、「信じる」という行為で自分をだまし続けたのではないかと。努力してもタイムが伸びない、結果がついてこない・・・そんな時も彼は「信じる事」を止めなかった。

ローザンヌとの出会い

ローザンヌとマンセル

この頃に彼は、ある魅力的な女性に出会い、二人で夢を追いかけるようになっていくのである。彼女の名前はローザンヌ・エリザベス・ペリー。
出会ったのはソリハル・テクニカル・カレッジに彼が通っていた頃の事である。スピードへの情熱とは違う愛の情熱にとりつかれた彼は、歩いて学校に通う途中の彼女のそばに車を寄せて一緒に乗っていかないかと声をかけた。断られるが彼は諦めなかった。そして彼女とつき合うようになる。

二人とも気が強い同士だから、喧嘩もしょっちゅうだった。が、彼女の魅力がマンセルを徐々に穏やかな人間に変えていった。その頃のマンセルは体重が88kgもあって、悪い仲間と一緒になってけんかはするわ、大酒は飲むわで大変な生活を送っていたのだが、彼女とつき合うようになってからは、丘を散歩したり、お城を見物に行ったりするようになっていった。

マンセルがローザンヌを思う気持ちは彼の次の言葉によく現れている。

「彼女に惚れているのが自分でも解った。彼女が他の男達と一緒にいると思っただけで、そいつらをぶん殴ってやろうと思ったものだよ」

ローザンヌの方も同じだった。サッカーの試合でタックルを仕掛けられてマンセルが倒れ、その上に相手の選手がどっかと腰をおろしたのを見た瞬間、ローザンヌがグラウンドに飛び出し体ってその相手をピシャリとやったこともあった。このときは自分が殴り返してやろうとしていたマンセルの方があっけにとられてしまったという。

結婚

勿論二人は結婚した。1975年、ワーウィックシャー、ラップワースのセント・メリー・ザ・バージン教会で式を挙げた。新居を構えたのはバーミンガムの郊外にあるホール・グリーンというところである。子供を持つことなどは考えもしなかった。マンセルのレースキャリアが優先だったのである。
ローザンヌはガスを供給する公社に働きに出て、マンセルは父のエリックの若いときと同じようにルーカス・アエロスペース社の見習い工になった。

この頃のマンセルは単座のフォーミュラ・フォードに乗りたくてうずうずしていた。カートで獲れるタイトルの殆どをとりつくしていたし、それも楽勝のケースが多かったから新しい挑戦がしたくてたまらなかったのである。

仕事には熱心にはなれなかった。エンジニアリングの国家試験をパスするための勉強にもそれほど身が入らなかった。それでもテクニカル・カレッジ(工業専門学校)に通い続けたのは、その国家試験にパスしたら念願のフォーミュラ・フォードをかってやると父親が約束してくれたからである。何年か学校に通い、やっとの思いで合格したマンセルは、父親に約束の履行を迫った。だが父親の返事はつれないものであった。

「あの日のことは絶対忘れない。僕は長い間、すごく腹をたてていた。働きながら5年も6年もかけてエンジニアの資格を取ったのは、レーシング・カーが手にはいると信じていたからではないか」 とマンセルは語っている。

マンセル個人には経済的な余裕が全くないから、父親が約束を反故にしたことは大変なショックだった。だが、いつもの事ながら彼は負けてはいなかった。とりあえず単座のマシンを楽しむことが出来るものかどうかを確認するために彼は、20ポンドの入学金を払って地元のレーシングスクールに入った。カートと同じくらい情熱を傾けられるものかどうか、これでわかる。

 彼は自分の将来を決定した。

苦悩の時代

結婚して1年半後にローザンヌと相談して彼はレースの世界に身を置く事を決定した。カート時代に自分にかなわなかったヤツがフォーミュラのレースで良い成績を挙げていたのである。彼は焦った。

しかし最初からかなりの犠牲を必要とした。初期のホークDL11を買うために二人は1200ポンドをかき集めた。そのうちの200ポンドは自分たちの新車を売り払い、レーシングカーを積んで国中を廻れる様なトレーラー牽引できる中古車購入に充てた。必要経費はまだまだあった。旅費、修理費、スペアのパーツ代、オイル代、燃料費・・・。それらを捻出するためにマンセルはルーカスなど4つも5つもパートタイムの仕事をやり続けた。しかし週末はレースに没頭した。同時に家のまわりでランニングしたりウェイトトレーニングをやったりして体調を整える事も忘れなかった。
フォーミュラのデビュー戦は驚くべきものであった。いきなりの優勝である。彼の自信は間違ってはいなかった。更に彼は自信を持つようになる。

フォーミュラフォードは1600ccのエンジンを積み、最大速度190km/hは出る。事故が死につながるには十分なスピードである。タイヤは幅が狭く、エアロダイナミクスなどは問題外という車だった。

マンセルの乗っていた車は直線で構成されたシェイプで、醜いノーズをしていた。マンセルはそのコックピットの前にわずかばかりのスポンサーの名前や自分の名前を貼り付けていた。どう見ても格好良いとは言えない。金が有れば、レースに勝つだけのエンジンを買うことは出来たが、勝敗を分ける最大の要因はドライバーだった。その意味でFF1600は「公平な」レースだった。勝利に必要なのは才能であって、勝利は才能の証明でもあった。FF1600は荒っぽいレースだったが、才能の有無をはっきりさせるには最適だった。そしてここで揉まれたマンセルは更に力をつけていくのである。マンセルは9戦6勝という成績を挙げた。
成功を重ねるほどマンセルの欲望は膨らんでいった。プロのレーシングドライバーになろう、それだけの実績は積んだはずだ、とマンセルは思った。だが、一つ、問題があった。資金がなかったのだ。
 「その頃僕が乗っていた車は凄く古くて、がたついていた。後輪のアライメントがずれていておかしな具合だったよ。レースを続けるためにいつも頭を下げていたし、またものも借りていたよ。」

マンセルがモータースポーツで生きていく覚悟を固めていることを家族はようやく少しずつ理解し始めていたが、彼を助けてやることは何もできなかった。そんなマンセルの前に救いの神が現れる。小さなチームを持つ、ジョン・ソーンバーンという人物が、マンセルにレーシングカーを一台提供してくれたのである。その車もマンセルが前に乗っていたのと同じくらい古いものであったが、若いマンセルには選択の余地などなかった。それでもマンセルは勝ち始め、選手権を視野に入れて走るようになっていた。
 しかしちょうどその頃マンセルにもう一度不幸が訪れる。

 


彼を襲った障害

事件は、のちにF1GPレースで2勝を挙げることになったケント州ブランズ・ハッチで起こった。レース中に前を走っていたFF1600が突然”ブレーキテスト”をしたのだ。ブレーキテストとは、ブレーキポイントではないところで急ブレーキをかけて、後ろを走る車にする嫌がらせの事で非常に危険な行為である。

これを目の前でやられたマンセルは車を守ろうとして左にハンドルを切った。ウェットな路面であったが、もしかしたらタイヤがグリップしてくれるかもしれないと思って危険をおかしたのである。

しかし車は時速80マイル(128km)のスピードでバリアに突っ込んでいった。

一般的にレーシングカーはフロントの部分がリアの部分より壊れやすい。ぶつかったときのショックを和らげる為にそういう風に作ってあるのである。だから前を走っている車が予想外のところでブレーキをかけると、後続車は前の車の後部にクラッシュしてリタイヤすることになる。前の車のドライバーがエキスパートなら、後ろの車にだけダメージを与え、自分はレースを続行できる。ぶつかった車は無惨な姿になった。マンセルはもっと酷かった。ただちにシドカップにあるセントメリー病院に運ばれた。首の骨が2カ所で折れていて、レーサーの生命はそこで終わったかのようだった。この病院はGPで事故を起こした世界的に有名なドライバーがよく治療を受けるところである。

最初の一日は身体が麻痺して動くこともできなかった。医者は完治するのに少なくても6ヶ月はかかるという。普通の人間ならこのあたりでレーサー生活は諦めていたことだろう。だが、マンセルは違った。

これではたまらない、自分で勝手に退院してミッドランドの自宅に帰ろうと決心したのである。ローザンヌは事故の時に駆けつけたが、家に帰っていった。家を抵当にして借りた金を返済するために働かなければならなかったからだ。

まずマンセルは無理矢理身体を起こすことから始めた。それだけで2日かかった。3日目の夜は歩いてトイレまで行った。医者に見つかると怒られるので夜にしたのだが、それでも見つかってしまった。

「いま動くと生涯、全身麻痺になるぞ、またレースをやろうなんてとんでもない。医者にそう言われたよ」とマンセルは述懐している。

2週目の終わりに、マンセルは弱くなっている首を支えるギブスをつけたまま退院を強行した。医者たちはひどいことになるぞ、と強い警告を発したが、マンセルはきかなかった。

家に戻ったマンセルは首の強化を始めた。最初はほんの2,3分ギブスを外しただけだったのだが、それでも首は疲れてぐらぐらした。それでも2ヶ月もしないうちに、ギブスはつけたままであるがコックピットに戻った。 幸いなことに、選手権はまだ手の届くところにあった。この年、マンセルは40レースに出場、27勝を挙げて選手権優勝を果たしているのだが、この優勝を決めたのは10月末シルバーストーンで行われたシーズン最後のレースだった。

当時はポールポジションと最速ラップにもポイントが与えられていて、マンセルが選手権優勝を果たすためには勝つだけでなくその両方のポイントも必要だった。

マンセルはライバルのトレバー・ヴァン・ルーエン(南アフリカ)を押さえてポールポジションからのスタートとなった。

その頃のシルバーストーンは今日のような曲がりくねったコースではない。上から見ると四角張っていて、最初から最後まで全開で走るコースだった。高速で事故が起こると死ぬまではいかないが、かなりの重傷を負うのは必至だった。このコースで勝つにはまず勇気が必要であったのだ。同じエンジン、同じ車ではあったが、中には経験の浅いドライバーもいたし、皆必死だったから事故もよく起きた。

 それでもマンセルには絶対必要な優勝だった。次の段階・・・F3に上がれるか否かはこの段階で優勝出来るかどうかにかかっている。人が覚えているのは勝者だけだ。敗者は忘れ去られるのみである。
 マンセルにとっては、2位になることは敗者になるのと同じ事だった。金もなしにF3に上がるチャンスをつかむためには、ここでタイトルを取ってみせる以外ない。

 マンセルは素晴らしいスタートを切り、一度は3位に落ちたが、再びトップに立った。しかしそれだけでは十分ではない。選手権優勝を果たすためにはファステストラップも取らなければならない。栄光の勝利か、敗北か・・・。マンセルは車の性能を極限まで引き出しながらリードを広げていった。

 ついに勝った。だがファステストラップの方はどうだ? マンセルは表彰台に案内され、高々と腕を突き上げたが、気持ちは落ち着かなかった。アナウンスがあった。が、どっとあがった歓声に掻き消されてよく聞こえなかった。もう一度スピーカーのボリュームが上がって、観衆が沸き返った。アナウンスは1秒の何分の一の差でマンセルが選手権優勝を果たした事を告げていた。

 

更に続く苦悩

マンセルは何日かの間、例えようのない喜びの中に身を浸していた。だが、ここで選手権を獲ることとF3に昇格することは全く別の問題だった。 マンセルの人生は難しい局面にさしかかった。ここまでは何とかやりくりしてきたが、F3となるとそうはいかない。必要経費が彼の収入を遙かに超えるのだ。どんなに一生懸命働いても1年分の収入が1ヶ月で消えてしまう。1シーズンで2万5000ポンドはかかるのだが、これは家が一件買えるほどの金額である。

マンセルとローザンヌは500もの会社に手紙を出した。しかしスポンサーになろうという会社は一つも現れなかった。現在も同じだが、イギリスの会社の大半はグランプリ・スターでもない限り、モータースポーツに関心を示すことはない。

マンセルの取るべき道は一つしかなかった。金は自分とローザンヌで作るしかない。だが、二人でどんなに相談し有っても解決策は見つからなかった。父親も親戚も助けてくれない限り、自分たちの唯一の財産を処分するしかない。マンセルは勿論、ローザンヌも覚悟を決めた。 二人は家を売りに出して、陰気な貸しアパートに移り住んだ。モーターレーシングというと人は豪勢なイメージを抱くが、マンセルの直面した現実は厳しいものだった。マンセルの血管中をアドレナリンが流れ、鼓動が高鳴るのは車に乗っているときだけで、後は冷たくじめじめしたアパートでひたすら待つという日が続いた。

家は8000ポンドで売れ、マンセルはその金で1978年のイギリスF3シリーズのうち5レースにマーチで参戦することになった。マンセルのように自分の才能に絶対の自信を持っている人間にとっても、これは大変な賭けだった。
 5レースではこのフォーミュラと車に慣れるだけで精一杯。金のあるドライバーなら練習期間ぐらいにしか思われないそれが、マンセルにとっては唯一のチャンスだった。5レースが終わった時点で金は1ペニーも無くなってしまうのである。

更に、このときのライバル達の顔ぶれを見ると、マンセルの賭けはますます危ういものだった、と言わざるを得ない。ネルソン・ピケ(後に2度のワールドチャンピオンシップを獲得)、アラン・プロスト(最多勝利、最多チャンピオン獲得)、ディレック・ワーウィック(アロウズなどをドライビング、SWCのチャンピオンを獲得)らのドライバーに加えて、後にマクラーレン、フェラーリをドライブするステファン・ヨハンソン、「走るシケイン」の異名をとったアンドレア・デ・チェザリスなどそうそうたるメンバーであった。

その中でバーミンガムから来た貧しい青年は何を頼りに走っていたのだろうか。自分自身とローザンヌに対する信頼・・・それしかなかった。だが、それだけで十分だった。  マンセルは方々の会社の掃除夫のアルバイトをやった。夢を抱きながら一人、前夜のパーティの後片づけをするときもあった。

マンセルは一気にスターダムにのし上がることを夢見ていたが、現実は厳しかった。F3の第1戦はポールポジションからスタートしての2位。どうやら軌道に乗ったと思ったのだが、あとがいけなかった。次のレースは4位。その後は3レース続けて7位・・・。

そこで全てが終わった。同時に金もなくなった。こんな成績でGPチームがマンセルを拾い上げるわけがない。だが、彼の必死のレース振りが注目を集めたのは確かだった。

当時、あの偉大なるコーリン・チャップマンの下でアシスタント・マネージャーを務め、ロータスGPチーム(現在は活動していない)のマネージング・ディレクターをしているピーター・コリンズが次のように述懐している。

「あんな状況だったのにマンセルは少しも気後れしたところがなかった。自信満々で、ポールポジションを取るのは当然といった顔をしていた。その印象が凄く強かった。」

マンセルはこのシーズンを「生涯最悪のシーズン」と呼んでいる。長い間かかって掻き集めた金がほんの3ヶ月ばかりで雲散霧消、残ったのはドライバーズ賞だけだった。これは同じ年の6月に行われたF2レースに無償で乗れるというものだった。しかしそのレースでは、予選で他の車がまき散らしたオイルに乗り、車を大破。決勝にも進出出来なかった。

悪いことは他にもあった。義母(ローザンヌの母親)が心臓麻痺で急逝したのである。仲のいい家族にとってはショッキングな出来事だった。

 

 



希望の光

F3(UNIMART)に乗るマンセル

前年の「最悪のシーズン」が明け、1979年になると、マンセルにも少しは良い風が吹いてくるようになった。車のパーツ会社であるユニパート社がF3のチームを作ってドライバーを2人雇う事になり、マンセルに接触してきたのである。チーム・マネージャーのデビッド・プライスがドライバーの一人を当時速いと評判のあったニュージーランド人のブレット・リレイと決め、残る一人に同国人のマンセルを選んだのだ。

プライスが言う。

「マンセルはあらゆるものをレースのために投げ出した。家まで、だ。その意気込みに感心して選んだんです。マンセルとブレットは1レースずつ勝ったんですが、特にマンセルが他のドライバーより優れているとは思いませんでした。」

 

チームはトライアンフ・ドロマイト・エンジンを使っていたのだが、マンセルはいい方のエンジンはチームメイトに与えられていると思い込んでいた。だが、「それは違う。ドロマイト・エンジンはどれもこれもガタピシだったんです。」と、プライスはマンセルの思い過ごしだと言っている。エディ・ジョーダンもこの頃のマンセルを知っている。今はジョーダンGPのオーナーだが、当時はマンセルと同じようにF1ドライバーを夢見るF3のドライバーだった。そのジョーダンがその頃のマンセルをこう語る。

「私はその頃、マンセルなどと中段グループでレースをやっていて、とても敵わないと思ってチーム・マネージャーの道を選んだんです。現在の彼が速いのは間違いないことだけれども、当時では格別光るという存在ではありませんでした。」

とりたてて語るほどの成績は残していないが、マンセルの生活が上向いてきたことだけは確かだった。週に25ポンドばかりではあったが、少なくても支払いを受ける方の側であって、支払いをする方の側では無くなっていた。

7月、マンセルはGPサポート・レース(F1などと同日に開催される前座レース)に出場した。ここで良い成績を残すことは、F1チーム関係者が見ているだけに、生涯を左右するかも知れない。それはグリッドについたドライバー全員が考えていた。マンセルの予選は13位。そのすぐ後ろにアラン・プロストという名前のフランス人がいた。マンセルの決勝は6位。

これより先、マンセルの長い間の友人であるピーター・ウィンザーがピーター・コリンズにマンセルについて情報を伝え、コリンズがロータス・チームのオーナー、コーリン・チャップマンに、「マンセルに注目するように」ささやいていた。

しかし、当時のマンセルの実力に疑いの目を向けていた人は少なくない。その一人、F1ティレルチームのオーナー、ケン・ティレルが言う。

「私はあのモナコのF3レースを忘れません。ナイジェルは3位でスタートして、車をぶつけて5位で終わりました。車にも悪いところがあったんだろうけど・・・。みんなマンセルの事を話題にしたけど、私には特別なところがあるとも思えませんでした。」

チャップマンが一目でマンセルの潜在能力を見抜いた、というのが伝説的な話になっているが、ウィリアムズ・チームのマネージャーを務めたこともあるピーター・ウィンザーは、

「80年代の初期の段階でチャップマンはいろいろな分野の事業に手を出していて、60年代、70年代の様にF1に没頭するという状態ではありませんでした。ナイジェルがロータス・チームに入ったのは、ピーター・コリンズが招いたからです。少しは私の意向も影響したのかもしれません」

 と、チャップマンのマンセル発掘説を否定している。

F3での事故

マンセルのF3時代は、エディ・ジョーダンの後方で、アンドレア・デ・チェザリスとバトルの最中に起こした有名なアクシデントで終わりを告げた。マンセルはデ・チェザリスに押された、というのだが、原因はともあれマンセルの車は空中でトンボ返りし、上下逆になって落下していった。マンセルは脊椎を損傷、首も痛めて、6週間、活動停止に追い込まれた。
 さすがのマンセルも、自分のレース生命もこれまで、と覚悟を決めた。長い自宅静養。それもギブスをはめたままだ。

そんな状態のある日、突然電話が鳴った。電話の主はロータスのデビッド・フィリップスで、南フランスのポール・リカールでF1のテストをやるから乗ってみないかという。

「彼が”アクシデントがあったそうだけど身体はどんな状態か”というので、僕は”いや、大した怪我じゃありません。行きます”と答えたんだ」

ついにマンセルはF1にデビューすることになった。そのためには体中に痛み止めを注射しなければならなかったが・・・。こうしてようやく道は開かれた。

 

ついにF1ドライバーに

ロータスでの最初のテスト

人生でもモーター・レーシングの世界でも同じ事だが、ほんのわずかのチャンスでもそれを両手でしっかりとつかまなければならないときがある。チャンスは何も生み出さないかも知れないが、夢に向かうロケットの発射台になるかもしれない。

マンセルがこのチャンスをものにする可能性は半分もなかったと言えるだろう。それでも彼は必死になってしがみついた・このときのテストには、F3のワンダラス・ボーイと言われたスティーブン・サウス、エリオ・デ・アンジェリス、エディ・チーバー、ヤン・ラマースと並び、ナイジェル・マンセルの名前はそのリストの最後に追加されたにすぎなかった。このうちマンセルとサウスを除く全員がF1経験者である。

 

この日マンセルはテストが終わり近くになるまで待たされ、わずかしか走ることが出来なかった。現場にいたコリンズが言う。
「ナイジェルがF1に乗るのはこのときが初めてだった。それなのに2周もしたと思ったら、あの強烈なパワーをちっとも怖がってないのがよく分かりました。冷静にやるべき事をちゃんとやっていましたよ。10周もしたら、彼より長い周回をこなしているラマースより良いタイムを出したんです。私は彼の能力を認めざるを得ませんでした」

 「その実績を買って、ナイジェルとは2500ポンドでテストの契約をしました。私が社用車を与え、そしてロータスの技術部門で職を与えると、彼は一生懸命働き出しました。経済的に苦しいところは私が助けてやりました。そんなときにエリオがロングビーチで怪我をしたんです。マリオもテストに来ることが出来ず、ナイジェルがまたテストをやって、素晴らしい走りを見せました。スピードも能力も献身振りも大変なものでした。私は81年にリオでローラースケートをやりにいったことのことが忘れられません。エリオはスケートを履くとすぐに格好良く滑り回っていましたが、ナイジェルはいきなり車みたいなスピードで滑っていって、アクシデント。しかしその日の終わり頃にはすっかりマスターして、凄いスピードで滑っていました。この話が両者の差をよく示しているとは思いませんか」

チャップマンとマンセル

チャップマンはマンセルに対して次第に温かい態度を示すようになり、1980年のシーズンには3つのレースに出場させると約束した。

 宿願のF1デビューを果たしたのは、この年のオーストリアGPだった。懸命に走ったが、グリッドは最後列。そして決勝のスタート直前、ひょんな事からマンセルの背中にガソリンがかかった。普通なら棄権するところだし、周囲の人もそうするように勧めた。だが、マンセルは「絶対嫌だ」といってとび出していった。ガソリンの化学反応で背中がやけど状態になっているのにもかかわらずマンセルは必死にレースを続け、エンジンが壊れたところでストップした。イギリスに帰るとすぐ病院に直行したが、この火傷と長い間ガソリンに浸されたために縮んだ脚の筋肉を完全に治すのにマンセルは何ヶ月も費やさなければならなかった。

 

2レース目のオランダGPでは予選16位(レギュラードライバーのマリオ・アンドレッティは10位、エリオ・デ・アンジェリスは11位)。決勝はブレーキにトラブルがあり、16周でリタイアした。3レース目のイモラでは予選でクラッシュして決勝進出ならず。こうしてGPで3戦を終えたマンセルの成績には見るべきものはなかった。だが、マンセルはF1で十分にやっていけるだけのスピードと能力のあるドライバーとして周囲に認められるようになった。

このシーズンが終わると、マリオ・アンドレッティがチームを出ることになり、チャップマンはデ・アンジェリスのパートナーを探し始めた。いや、探したのは素振りだけで、実は何ヶ月も前から次はマンセルと決めていたらしい。

マンセルこのとき27歳。晴れて、フルタイムのGPドライバーである。驚いたことに、フォーミュラ・フォードの最後のシーズンが終わってからF1のデビューまで40レース程度しかやっていない。

リオで1981年のシーズン開幕戦が始まる前に、ちょっとしたドラマがあった。ホテルの近くで海水浴をしていたコリンズが潮の底流に巻き込まれて溺れ、マンセルがこれを救助したのである。コリンズが言う。

「オーバーな言い方ではなくて、彼は私の命の恩人です。彼は一緒に泳ぎ続け、大きな声で励まし続けてくれました。彼がいなかったら私は助からなかったでしょう 」

 

ロータス時代のマンセル

ロータス時代

ベルギーにおける第4戦でマンセルはジル・ビルヌーブのターボ・フェラーリと駆けて3位でフィニッシュ。初の表彰台を決めた。モナコではロータスが新しくて軽い車、ロータス87を登場させ、マンセルは3列目のグリッドについた。スペインでは6位。4ヶ月後にはラスベガスのストリート・コースで4位につけて、このシーズンを終わった。このシーズン途中でモナコGPの後、チャップマンはマンセルとの契約金を2倍に増やしている。

眼力のあることでは定評のあったチャップマンがこの頃、 「ナイジェルとジム・クラークはよく似ている。私は未来のチャンピオンを手に入れた」と発言して論議の的になったことがある。クラークは1960年代にチャップマンの元でロータスに乗り、72レースをこなして世界チャンピオンに2度もなった伝説のドライバー。謙虚で物静かで人当たりも良く、そのくせコースに出ると滅法速い男だった。そのクラークとマンセルを同列に並べて語ったのである。  まだ時期尚早だ、信じられないという人が大勢いたのも無理はない。だが、マンセルを見込んだチャップマンは3年の契約をオファーした。

 

1982年はマンセルにとってもロータスにとっても良い年ではなかった。マンセルはブラジルで3位、モナコで4位と2度しかポイントにありついていない。チャップマンとは強い個人的な絆で結ばれていたが、この成績では不穏な空気がただよってくるのもやむを得ないことだった。

またマンセルは、チャップマンがチーム・マネージャーにした元英国国王立騎兵隊、ピーター・ウォーとそりが合わなかった。これはウォーの方でもはっきり認めている事実である。
「ナイジェルはことあるごとに私の悩みの種になった」とウォーは言っているが、彼にしてみればこれでも控えめな表現だったろう。

それでもまだ、チャップマンに突然の死がが訪れていなかったら、事態の悪化は防ぐことが出来たかもしれない。チャップマンは12月16日の早朝、ノーフォークのロータスの本部の近くにある自宅で心臓発作を起こし、そのまま死亡した。まだ54歳だった。マンセルは父とも親友ともいえる恩人を失った。この悲劇が悪い影響を及ぼしたことはいうまでもない。ウォーがチームの運営を引き継いだのも、マンセルにとっては望ましくないことだった。

新しいターボのルノーに乗って、マンセルはブランズ・ハッチで行われたヨーロッパGPで3位になり、その後次第に先輩のチームメイト、デ・アンジェリスを凌ぐようになっていった。シーズンが終了してみると、アンジェリスがわずか2ポイント、17位だったのに対し、マンセルは10ポイントを挙げて12位になっている。

ロータスにおける最後の年になった1984年、マンセルは大きな転換期を迎えた。3年のキャリアを積んで、もうベテランと見られていたマンセルだが、この年のマシン、93Tは使いものにならない車だった。その劣勢を挽回するしようとしてフランス人、ジェラルド・ドゥカルージュが5週間で作り上げたのが94T。マンセルはこのマシンでイギリスGPに出場、いつものようにシルバーストーンの熱心なファンに支えられて4位に食い込んだ。

雨のモナコを疾走する

1984年のレースのうちマンセルが強く記憶にとどめているのはモナコでのパフォーマンスだろう。マンセルは予選で良く走ってターボのロータス・ルノーをアラン・プロストと並ぶフロントローにつけた。11週目、豪雨の中でトップにたつ。GPレースでトップにたつのは初めての事だ。5周の間、舞い上がるしぶきの中でブラック&ゴールドのロータスが輝いて見えた。事故が発生したのはその時だった。興奮したマンセルがカジノ・スクウェアに向かう上り坂でスピードを上げすぎ、バリアに激突したのである。ストリートサーキットだからコースに白線が引いてあるのは当然。「その上でブレーキを踏んだのだから、車が滑ったのだ」というのが良く知られたマンセルのいいわけだった。これを信じない人たちは、「マンセルはプレッシャーに負けたのだ。スピードがあることは認めるが、真のチャンピオンになれる素材ではない」と言った。

いずれにしろ、マンセルにとってはあまりにも手痛い事故だった。最大の好機が指の間からこぼれ落ちていった。

ジャッキー・スチュワートが言う。「当時のナイジェルに素質を認めるわけにはいきませんでした。今になってこんなことをいうのはおかしいのですが、私が神経をとがらせた対象には入っていませんでした。その翌日モナコで彼と出会ったときの事を良く覚えています。奥さんや子供達と一緒にプリンセス・グレース通りを歩いていたのですが、彼はずっとうなだれていました。見るからに落ち込んでいる様子で、私が”コースがあれだけウェットで滑りやすくなっていたんだ。ミスをしたって仕方ないさ。良い経験になったと思えばいいじゃないか。トップを走っていたんだから、気を取り直して・・・”と声をかけたのを覚えています」 マンセルはロータスに5年間いたが、ウォーとの間は悪化する一方で、ついには全面戦争の様相を呈するに至った。ウォーの有名な談話が残されている。ひとつは「マンセルは彼の限られた才能の限界点に達している」というものであり、もうひとつは「マンセルがGPで勝利を挙げることは絶対ないだろう」というものだった。

マンセルにとって新しい道に進むときが来た。

ここに面白い数字がある。アンジェリスは3回に2回の割合で予選でマンセルを破っていた。だが、アンジェリスは翌年、トールマンで1シーズンしか経験を積まないでロータス入りしたアイルトン・セナには3レースの予選で上回っただけで、後は全部後塵を拝している。

 

 


ウィリアムズ時代のマンセル

1985年、マンセルはウィリアムズに移った。これから8年間、両者の関係は切れたり繋がったりしながら続き、マンセルに彼の夢を叶えられるマシンが与えられることになる。

しかし、ウィリアムズ入りした当初は、共同オーナーのフランク・ウィリアムズもパトリック・ヘッドもマンセルを勝てるだけのドライバーとは見ず、ターボエンジンの経験のあるケケ・ロズベルグの良きパートナーと見なしていた。

「あの段階で我々はターボエンジンを感覚的に知っていて車の能力を100パーセント引き出してくれるドライバーを探していました。ナイジェルにもその素質はあるとは思ったのですが、我々が彼に期待したのはセカンド・ドライバーとしての役割です」

とヘッドがうち明けている。

ロズベルグはマンセルのウィリアムズ入りに反対の態度をとった。彼は言う。

「私はフランクに、ナイジェルは要らない、彼をチームに入れるなら私が飛び出す、とまで言いました。それでもフランクは”そうはいかない”といってナイジェルと契約したのです。しかし一緒にやってみると、これまでナイジェルについていろいろ言われてきたことは全部間違っていると思うようになりました」

ウィリアムズには、マンセルがロータスでピーター・ウォーとやり合ったような内部抗争がない。それだけでマンセルはのびのびした気分で腰を据えることが出来た。

「ナイジェルは速かったし、それでいてあまりミスをしなかった。彼自身、チームから批判めいたことを言われなかったことに驚いていたよ」

とヘッドが当時のマンセルを語っている。

しかし、多少なりともマンセルの才能を認めていたのはウィリアムズぐらいのもので、ジャッキー・スチュワートも、名伯楽と言われたケン・ティレルもマンセルは駄目なドライバーだと思っていた。ティレルの述懐を聞いてみよう。

「正直言って、彼はものにならないと思っていました。だからチャップマンが彼とテスト・ドライバーの契約をしたと聞いたときはびっくりしたし、チームに入れると言ったときにはもっとびっくりしました。ウォーが契約を更改しなかったのは当然と思いました。そしたらフランクが彼をチームに引っ張ったので二度びっくり。最初のうちは私の考えが正しいと思っていたのですが、85年の終わりのヨーロッパGPで突如として奇跡が起きて、彼が優勝しちゃったんです。いまは押しも押されもしない大ドライバーですがねぇ・・・」

初優勝

モーターレーシングの世界では初めての勝利がもっとも難しい勝利だといわれているが、マンセルの場合もまさにその通りだった。

チャップマンがマンセルとジム・クラークを比較して言った言葉を覚えているだろうか。マンセルは初の一勝を挙げるのに72戦を要した。クラークは同じ72戦で25勝を挙げ、世界選手権を二度獲っている。だが、これは7000ポンドもあれば勝てるエンジンを買える時代のことだった。

マンセルが初勝利を挙げたのはシーズンも残り3レースというときで、場所は彼がよく知っているブランズ・ハッチ。ロンドンのすぐ南である。それから2週間後、そこから数千マイルも離れた南アフリカで二勝目を挙げた。マンセルは勝つ味を覚えた。

 

ロズベルグはすでにマクラーレンと翌年の契約を結んでチームをでる体制になっていたが、それでもオーストラリアでの最終戦で優勝した。この頃からウィリアムズは上り調子になっていった。

「この年の終わり頃、我々はエアロダイナミクスを少々、リア・サスペンションを大幅に改良したし、ホンダのエンジンも良くなってきました。これでいいムードになってきたところでナイジェルが2勝を挙げて自信をつけたんです」

とヘッドは語っている。


1986年、ロズベルグにかわってネルソン・ピケが入ってきた。ピケは1981年と83年に世界チャンピオンになっているが、マンセルとピケが反目するだろうことは最初から目に見えていた。ピケは派手な性格のプレイボーイで、どう見てもマンセルとはタイプが違う。 ピケとマンセルがどんなに仲が悪かったか、2つのエピソードを紹介しよう。

メキシコでマンセルが腹具合が悪くなってマシンからトイレに走った。するとピケが先回りしてトイレットペーパーを全部盗み出してしまった。

またマンセルがアクシデントで肋骨を痛めているときに汽車に乗った。するとピケが後ろの席からマンセルの痛いところを突っついた。もう一度やったらぶん殴るとピケに言っている。

チーム内部の緊張はフランク・ウィリアムズの事故によっても一段と高まった。ウィリアムズはポールリカール(フランス)でのテストの岐路、交通事故を起こして下半身不随となったのである。その後をパトリック・ヘッドが継いだ。

F1史上最少差のゴール

スペインGPではマンセルとセナが歴史に残るデッドヒートを演じた。スタートからセナがリードし、2番手にピケ、3番手がマンセルだったが、燃費の関係でペースを落として様子を見ていた。そして19周目には燃費が予定レベルまだ回復したので果敢に攻め始める。34週目にはピケを抜いて2位に進出、そして首位にたつと、残り10周の時点で4秒引き離していた。ところがそのあたりからリアが滑りやすくなってしまった。リアディヒューザーの取り付けが緩んだと同じにリアタイアも1本スローパンクチャーをおこしていたのだ。タイヤ交換に入る時間はない。数周はセナを押さえるも、これ以上は危険と判断するとピットインしてタイヤ交換ををする。レースに復帰したときはセナとの差は20秒近くに開いていた。間にはプロストがおり、簡単には抜かせてくれるわけがない。抜き去るのに思ったより時間がかかり、セナとの差を1秒以上損してしまう。プロストを抜いた時点で残りは4周、差は6秒。普通のドライバーなら諦めるところだ。猛然と追いつづけてファイナルラップに入ったところで差は1.5秒まで縮まった。マンセルもセナも、もはや限界と言える速度でドライビングしていた。最終ラップ、一度はセナを抜くがまたも抜き返され勝負は最後のヘアピンからホームストレートのゴールラインまでに凝縮された。

直線の真中で抜くには抜いたが、それはもうフィニッシュラインの後のことで、ライン上ではセナの方が先にラインを超えていた。差にして0.014秒。距離にしてたった93cmのことだった。フィニッシュラインがあと5m先にあったならマンセルの優勝だった。

  そのレースの後で、プロストが誤りにきた。「アイルトンがずっと遠くだったから、俺たちどっちも追いつけると思ってなかったんだ。もし君がそうできるとわかっていたら、さっさと抜かせてやるんだったよ」とプロストは言った。これはマンセルも笑って済ませられた。結局のところ彼も2位を争っていたわけだから、それを責めるわけにはいかない。

 

次にマンセルはベルギーGPで勝ち、この勝利をフランスにおけるテスト中に悲劇的最期を遂げた元チームメイトのエリオ・デ・アンジェリスに捧げた。ロータスでマンセルとチームメイトだったエリオは自分がセナのナンバー2になのを悟ったのでロータスを止めていた。とっくにマンセルが見限っていたように、ロータスは既に2台の車をちゃんと仕上げられるチームではなくなっていた。86年にはブラバムに移籍していた。この頃にはマンセルとエリオは良い友人になっていた。こんなふうに彼を理解するまで2年もかかったのは、2人が全く違う環境の出身で、違うタイプの人間だったからである。でも一旦気心が知れてしまうと、何か本当に特別な共通点もあった。マンセルがロータスを出た後、今度はエリオとチームとの間でやたらと問題が持ち上がり、マンセルが揉めていた事情もわかるにつれて、同情もしてくれるようになった。

この年、モナコGPとベルギーGPとの間にテストの為にポールリカールに戻ってきた。エリオもコース上でブラバムのマシンのテストをやっていて、そのエンジン音が高く、低く鳴り響いていた。と、突然それが途切れた。ガードレールで跳ね上がった車が裏返しに着地、そのまま燃え上がったのだった。その時ピットに止っていたマンセルの目に飛び込んできたのは黒い煙だった。誰もが消火器を求めて右往左往していた。マーシャルの姿も見えず、たまたま居合わせたコースマーシャルも消防服を着ていなかった。

マンセルが現場に駆けつけるまでも数分かかり、もうエリオが車の中にいるなんて信じられない状況になっていて、誰も何も手を施せるものではなかった。アラン・プロストと二人でエリオを引っ張り出そうとはしたものの、車はまだくすぶったり燃え上がったりして、救いようがなかった。シートベルトを外せるほど近寄ることもできなかった。彼は結局8分間も車に閉じ込められてしまい、さらに長いこと待たされてからヘリコプターがやってきて、マルセイユの病院まで搬送した。かわいそうなエリオに望みはなく、病院で息を引き取った。

マンセル曰く、「彼は素晴らしい奴で、本当のイタリア野郎で、ずば抜けたピアニストで、偉大なレーシングドライバーだった。あの年の終わりにケケ・ロズベルグが引退する気になったのも彼の死が原因だったし、私にとっても間違いなく転機になった。ロザンヌとも危険について話し合って、この仕事を続けるなら、それなりの報酬も求めていくことに決めた。それは金銭というだけでなく、ただ参加するよりももっと強く成功を追い求めるという意味もあった。ただ走っているだけという状況になったら、やめるべきだった」

トップに躍り出るマンセルここからリードを奪いはじめるが・・・マンセルのタイヤ交換直後既にタイヤの暖まっているピケはあちこちのコーナーでしかけるウィニングラン

続いてマンセルはフランスでチームメイトのピケとスリリングなレースの末に勝って2連勝。

チームメイトのピケとの壮絶なトップ争いが一番顕著の出たレースは、この年のイギリスGPだろう。マンセルのホームコースであるブランズ・ハッチで行われたこのレースは、マンセルの生涯でも印象に残るレースであろう。 ワールドチャンピオンとしてウィリアムズ入りしたピケは焦っていた。イギリスGPでは必死に頑張りただ一人1分7秒台を叩きだしポールポジションを獲得した。マンセル母国のGPであるからにはポールポジションが欲しいところであったが、エンジン・ブロー、水漏れ、ミスファイアとトラブルの連続で2番手に甘んじた。ブランズハッチに詰めかけたマンセルファンの数はどんどん増え、ホームグランプリでの優勝は疑わなかった。 フランク・ウィリアムズも事故以来初めてグランプリにやってきた。車椅子で登場した彼を待っていたのは、暖かい歓迎だった。記者会見ではジャーナリスト達がスタンディングオベーションで彼を迎えいれた。

レース当日、観衆は11万500人をこえた。コースのあちらこちらでヒートアップしていた。

マンセルのスタートは最悪だった。2速にシフトアップした瞬間にCVジョイントがぶち割れて全く駆動力が伝わらなくなってしまった。惰力で第1コーナーを越えたところでコース外に車を止めて皆が走るさるのを見送るだけだった。しかしそこで赤旗が出てレースが中断された。マンセルの後ろの集団の中で、ジャック・ラフィットが多重衝突に巻き込まれてパドックヒルの入り口で激しくクラッシュ、足を骨折してしまった。これがラフィットの176戦目で最後のレースになってしまった。ラフィットの不運がマンセルの幸運となった。レースはやり直しとなり、マンセルもスペアカーでもう一度スターティンググリッドにつくことができた。しかしそのスペアカーはピケ用にセッティングされたものであり、体形が違うのでシートが合わないだけでなく、予選中からあまり調子の良いマシンではなかった。エンジンもターボのウェイストゲートが壊れたりしてパワーも出ていなかった。金曜日にマンセルも乗って、気に入らなかった。

セッティングももちろん不完全で、そういう車でレースをすることには悲観的にはならざるを得なかった。2回目のスタートでは、焦らず車の特性を見極めることにまず集中した。ベネトンのベルガーが先行し、ピケ、ベルガー、マンセルの順でレースは始まった。車のセッティングはピケ用だったのでマンセルのセッティングとはかなり違っていた。ドライバーによってセッティングは変わるものだが、マンセルのセッティングは特にオーバーステア気味にセッティングされている。さらにマンセルの方が大柄なので、シートベルトもきつい。更に困ったことに、度リングボトルが無かった。夏のレースでは給水が出来ないと脱水症状になってしまうのだが、補給もできない。

そんな中、なんとか車の特性を2周で見極め、攻めに転じた。3周目にベルガーを抜き、ピケに2秒さまで追いついた。

残りの車を置き去りにして完全なマッチレースとなった。20周目にはピタリとピケの後ろにつけた。その3周後ピケが思わぬシフトミスを犯し、マンセルは一瞬の隙をついてトップにたった。タイヤ交換はピケが30周目、マンセルが32周目である。マンセルがタイヤ交換を終えてレースに復帰したとき、ピケはすぐ背後まで迫っていた。タイヤが暖まっていないマンセルはなんとかピケの猛攻を凌ぎ、タイヤが暖まってからはミスを犯すこともなく走り続けた。レースも終盤に近づくとマンセルを脱水症状が襲ってきた。しかし彼をブランズハッチの歓声が後押しする。最後は歓声に答えようという気力だけで彼は走りきり優勝を手にした。

マンセルはこうして不利な状況にも関らず、ピケよりも速いことを証明して見せてしまった。面白くないのはピケで、チームが良い車をマンセルに回していると思いはじめた。そしてフランクには、ナンバー1ドライバーなのだからかつ権利があり、勝利を譲るべきだと言った。しかしフランクはそれには耳を貸さなかった。コースに出たらレースをやっているのであり、チームオーダーは「チームメイトをコース外に押し出さないこと」だけであった。

ベルギーを皮切りにマンセルは5戦4勝、ドライバーズ選手権で2位に4ポイントの差を付けてトップにたった。ピケは莫大な契約金を手にして入ってきたのにマンセルに18ポイントもの差を付けられていた。

ピケは自分のNo.2であるはずのドライバーの陰に覆われてしまったことにいらだっていたが、それから2連勝して落ち着きを取り戻した。その途端、F3時代にチームメイトだったブレット・リレイが良いマシンを与えられていたと思いこんでいたことがよみがえってきたのか、マンセルはピケだけが使用していたディファレンシャル・ギアが自分との差に繋がっていると思い始めた。実際に新しいデフをピケだけが使ったいたのであるが。 チームはこれを否定したが、マンセルとピケの間はこじれるばかりであった。

ちょうどこの頃、エンツォ・フェラーリがマンセルに触手を伸ばしてきていた。だが、マンセルは選手権のトップ争いが激化していて来年の話どころではない情勢になっていた。ピケがモンツァで勝ち、マンセルがポルトガルで勝った時点で、マンセル68ポイント、ピケ60ポイント、プロスト59ポイント。残りは2レース。マンセルはメキシコで上位入賞すればタイトルは自分のものになると乗り込んでいった。しかしそのメキシコでマンセルは予選3位、決勝は1週目18位と出遅れたが、最期は5位でフィニッシュした。プロストは2位、ピケは4位。これでポイントの合計はマンセル70、プロスト64、ピケ63。

アデレード(オーストラリア)入りしたときのマンセルと2位との差は6ポイント。当時16戦中、11戦の有効ポイント制で、1位9ポイント、2位6ポイントだったから、マンセルは3位以内ならチャンピオン、プロストとピケは優勝以外にタイトルの目はなかった。

マンセルはポールポジションからのスタートとなったが、トラブルに気を使い過ぎて4番手までポジションを落とした。だがこのストリートサーキットは難しい。レースはまだ先が長いし、マンセルもそれを計算に入れていた。12週目、プロストがマンセルを抜いた。そしてこのフランス人は続いてベネトンのベルガーを抜こうとして接触、パンクに見舞われピットインを余儀なくされた。そのときプロストは知るすべもなかったが、これが幸運との巡り合わせとなった。

時速300km超でバーストするタイヤ

63週目、生涯最後のGPレースを走っていたロズベルグの耳に異常な音が聞こえたかと思うと、車を止めてリタイアしてしまった。かわってピケがトップにたった。プロストが2番手につけ、マンセルは楽々と3番手に上がった。ロズベルグが車から降りてみてみると、タイヤが剥離しており、異常な音はその破れたタイヤがボディを叩いていたと悟った。
 この情報はグッドイヤーへ、更にチームへと伝えられた。4番手との差がかなりあったのでウィリアムズは大事をとりマンセルにタイヤ交換のためにピットインするよう指令を出した。しかしその機会は訪れなかった。

それはマンセルがメイン・ストレートを時速180マイル(290キロ)で疾走しているときだった。突然左タイヤがブロー(破裂)。車は左リアを落としたまま右に左に狭い壁の間をひどい蛇行を続けた。マンセルは暴れ狂うマシンと100メートルも格闘したであろうか、やっとラン・オフ・エリアに止まった。

「生きてるだけでよかったよ」とマンセルは語ったが、その表情は痛々しいほど落胆の色に満ちていた。この日の為に人生の全てを捧げてきた。夜も寝ずに働き、レース以外の事を全て犠牲にし、ケガもした。父親も「こんな生まれ育ちじゃ不可能だ」と言ったマンセルの目標がまさに今目前にあった。一瞬にして目の前から消えてしまった。マンセルが一番がっかりしているのは当然だが、一緒に辛い思いをしたロザンヌ、一生懸命応援してくれたファンも同然だった。
  ウィリアムズはピケもピットに呼ばなければならなかった。これでトップが代わり、結局は世界選手権のタイトルをプロストに与えることになった。マンセルとの差はわずか2ポイント。これはマンセルにとっては勿論、ウィリアムズにとっても悲劇だった。のちにホンダがウィリアムズからマクラーレンに移った理由のひとつがこれだとされている。

プロストが優勝し、1986年のチャンピオンとなってインタビューで「ナイジェルになんといったらいいんでしょう。最後のレースでタイトルを取り逃した経験が私にも2度ありますから、彼が今どんな気持ちか分かるんです。彼こそ今年のワールドチャンピオンにふさわしかったんですから」と礼儀正しく述べた。プロストの感想は世界中に伝染してオフシーズンの間、そんな手紙がたくさんマンセルの元に届いた。

 

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87年のマンセルは、昨年同様何度も優勝争いに加わることとなった。特にまたもやホームレースであるイギリスGPでは、彼の歴史に残ると思われる素晴らしいレースをした。
ポールポジションは1000分の7秒差でピケ。マンセルの作戦は、ピケより少しだけウィングを寝かして後半の燃費を稼ごう(この頃は再給油はできなかった)というものだった。序盤は苦しいがそれほど差をつけられずについて行った。しかし12周目にタイヤのバランスウェイトが飛び、バイブレーションが出始めた。36周目、タイヤ交換のためにピットインしたとき、ピケとの差は5秒。ピットアウト後は28秒となっていた。 レースの残りは29周。絶望的な差である。しかしマンセルは違った。コース上のどこでも限界以上の走りをして1周1秒以上差を詰めて、見る見るうちに残り10周で7秒差までピケとの差を縮めてしまった。 58周目に突入したとき、ピケとの差は6.5秒。メインストレート1本分だった。59周目にはストレート半分の差になっていた。

こうなると観衆もマンセル自身も熱狂せざるを得ない。

その4周後、コブスコーナーの入り口で数車身まで近づいた。

残り2周である。

ハンガーストレートに出ると同時に真後ろについた。右に軽く動き、ピケの反応を誘った。マンセルの動きに反応して右に動き、ラインを塞ぎにかかった。その瞬間左にもっと大きく抜きにかかっているように見せると、ピケもあわてて左に動いた。マンセルはスリップストリームから抜け出し、右側からイン側のラインを奪ったのだ。ピケはブロックしようとしたが既に遅かった。

残り2周、ダッシュボードのメーターはガス欠になりかけていることを示していた。なんとか持ちこたえてフィニッシュラインを越えてクラブコーナーでストップした瞬間、なだれ込んだファンにマンセルは囲まれてファンと勝利を喜んだ。 ついにマンセルはワールドクラスのドライバーとして一般に認められるようになった。そのスピードと献身的なレースぶりに疑問を抱いた人はいない。しかし、彼の安定性には疑問を呈する人が少なくなかった。
 これは87年の成績を見るとよくわかる。ピケは16レース中12レースでポイントを挙げているが、マンセルはまったくポイントを挙げることの出来なかったレースが5回あって、残る9レースのうち6レースが優勝だ。良いときと悪いときに落差が激しい。

 しかしシーズンが終わりに近づくにつれてピケの成績がマンセルを上回っていった。ピケはすでにハンガリーでロータス・ホンダと契約を済ませており、ホンダはモンツァでウィリアムズからロータスに移ると発表した。これを見てマンセルはホンダがピケを特別待遇しているのだと信じ込んだ。

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世の中が自分に背を向けている。そう思ったマンセルは少々意欲をなくしていたらしい。鈴鹿の予選で集中力を欠いたのか事故を起こし、背中を痛めて棄権。最後の2レースを欠場して優勝争いから脱落した。

 

チャンピオンになったのはピケ。これでマンセルは2年連続して惜しいところでタイトルを取り損ねた。2年とも実力はマンセルの方が上だったことは認めてやらなければならないだろう。


 1988年はマンセルとウィリアムズが競争力のない自然吸気のジャッド・エンジンに手を焼いた年で、特筆すべきことはない。一つあるとすれば、豪雨のシルバーストーン(イギリス)でマンセルが自分のものよりも優れたエンジンを搭載したマシンに囲まれながらもよく走り、2位に入ったことぐらいである。


 ジャッド・エンジンの無力さに飽き飽きしたマンセルはついにフェラーリに口説き落とされ、1989年の契約に応ずることに決めた。

 



フェラーリ時代のマンセル

ナイジェル・マンセルのフェラーリ時代は短くて華やかなものだった。”跳ね馬”に乗っていたのは2年に過ぎないが、その間に生涯最高のシーズンと最悪のシーズンを経験したと言っても良いだろう。

モーターレーシングにおけるフェラーリの赤い炎は良くも悪くもあらゆるものを燃え上がらせる。その往くところ熱狂的なファンが待ち受け、イタリア国内ではフェラーリのドライバーはローマ法王より有名だと言う人さえいる。勝てば尚更だ。
 その”跳ね馬”伝説に包まれた奥の院にいたのが”オールドマン”、エンツォ・フェラーリ。長年ワンマンとして君臨してきた会社の創業者である。もう何年もGPの現場に姿を見せたことがなかったが、誰にも畏敬の念をもって見られていた。コリン・チャップマン、バーニー・エクレストンと共にF1の歴史に大書されるべき存在である。

エンツォがドライバーに惚れる理由は一つしかなかった。スピード、それのみである。イタリア人であるか否かよりも速いか、遅いか、それがドライバーを選ぶときの基準だった。そのスピードがマンセルにはあった。エンツォ・フェラーリからみてマンセルには、パワーを愛してスピードを全く恐れないといった点で、あの伝説的なジル・ビルヌーブを思わせるものがあった。そこでエンツォは四回も五回もマンセルに交渉を持ち掛けた。だが、マンセルはそのたびに断った。フェラーリに誘われて断ったドライバーはマンセルぐらいのものだろう。ついにエンツォがマンセルを口説き落とすのに成功したのは、自分が死を迎えるわずか数ヶ月前のことだった。マンセルのフェラーリ入りが発表されたのは88年の7月、エンツォが他界したのはその一ヶ月後の8月である。

それからしばらくの間、マンセルは気持ちの落ち着かない日々を送らなければならなかった。”オールド・マン”の死の悲しみというよりは、その死のもたらした虚脱感によるものだったろう。この総司令官はいつもフェラーリの台風の目であったが、いついかなる場合でもチームを鉄の支配下におく存在だった。

マンセルがイタリアで長持ちすると思った人はほとんどいなかった。フェラーリで生き抜くにはありとあらゆる権謀術数を身につけていなければならないのだが、彼ほどそれに不向きな人間はいない。直情径行、思ったことをそのまま口にする性格である。おまけにイタリア語を話すことも出来なかった。(かなり勉強したことは事実だが) それやこれやでマンセルはシーズンの半ばまで保たないだろうと言う人さえいた。

マンセルがフェラーリに惹かれた理由はいつくかある。その第一はチームのテクニカル・ディレクターでデザイナーのジョン・バーナードの存在。彼の第一作、バイオリンの形をした640はGP史上もっとも美しい車のひとつだろう。 次にスポンサーがうるさくないことも魅力だった。ウィリアムズ時代には14を超すスポンサーがいて、あれやこれやと時間も体力も使わざるを得なかったが、フェラーリにはその煩わしさもなく、レースに集中することが出来た。
 バーナードの車がリオでデビューしたとき、マンセルはひどい予選セッションを二度も味わった。車は速いときはすごく速いのだが、続けて3周もしないうちに壊れてしまう。それでも予選6位につけたのだが、決勝ではまた壊れるだろうと思いこんだ。

決勝の朝、事態はマンセルの予言通りに進み始めた。ウォームアップの2周目で早くも車がストップ。スペアカーに乗り換える時間もなかった。この信頼性のなさは、新しい7速のエロクトロ・ハイドロリック・ギアボックスが、まだバーナードによって完成されていないことによるものだった。
 絶対にフィニッシュできない、と決め込んでレースに出ていくマンセル。”5周しか保たないだろう”というイタリア記者には「またオーバーなことをいう」と笑って見せていたが、自分のすぐ後ろのディレック・ワーウィック(アローズ)には「またギアが壊れてスタートできないかも」と警告を発していた。

しかし車はロケットの様に飛び出し、マンセル本人も含めたあらゆる人を驚かせた。8周目には外輪をコースからはみ出させながら回り込んでパトレーゼを押さえ、トップにたつ。それからしばらくそのままだったがタイヤ交換でピットイン、代わってマクラーレンのプロストがトップにたった。プロストもタイヤ交換したかったのだが、クラッチに問題があって、一度車を止めたら二度とスタートできなくなる。そんな状態で走るプロストをマンセルはじりじりと追い上げ、ついにあの有名な勝利を手中にした。

誰よりも驚いたのは本人だったろう。イタリアでは神様扱いされ、”イル・リオン”(ライオン)と呼ばれるようになった。
 カーナンバー「27」。ジル・ビルヌーブによって伝説化されたナンバーである。この勝利はその期待と重荷に立派に応えるものであった。

「フェラーリにとっても嬉しい勝利だった。特に僕は13勝で足踏みしていて、それが気になっていたときだったからね。それにしてもまさか勝てるとは思わなかった」

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マンセルファンでいらっしゃる安藤さんから送って頂いたCG

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 次にサンマリノではゲルハルト・ベルガーが時速150マイルでクラッシュ、車が炎上するという事故が発生した。原因はサスペンションが壊れ、ロッドが予備タンクを破壊したことだった。車はこぼれたガソリンにのってスピン。ベルガーは救助隊の敏速な活動によってかろうじて猛火に包まれるのを免れた。

 当然、車の安全性が懸念されたのだが、マンセルは果敢にレースを続けてイタリアのファンの賞賛を浴びた。これから後のマンセルは5レース連続して途中リタイアの不運に見舞われている。いずれの場合もギアボックスの信頼性の悪さが原因だった。

だが、フェラーリはそこから勢いを盛り返し、マンセルはフランスGPから5レース連続で表彰台に立った。その中には、彼の生涯最高のレースと思われる1989年のハンガリーGPも含まれている。

ハンガロリンクはひどいところだ。地図の上ではそれほど南でもないのに、この時期いつでも暑い。その上、路面はすごく硬い。車が予選で落としたゴムのダストが細いラインになっていて、車がそこにのるとグリップがなくなってアイス・スケートのように滑っていく。コースはコーナーまたコーナー。おまけにアップダウンも激しい。モナコの曲がりくねったストリートコースより悪いというドライバーが少なくない。追い越すところもない。あるとすればピット前のストレートなのだが、それさえ長さが十分とは言えない。だから予選成績がものをいって、上位グリッドを得ることが勝負の決め手になる。第1コーナーまでの100ヤードダッシュでレースが行方が見えてしまうほどだ。
 マンセルはここに来るまでフランス、イギリス、ドイツと3回連続して表彰台に立っているが、リオデジャネイロで勝利を挙げて以来優勝はしていない。 
 予選は12位。マンセルは自分の希望通りにチームがセットアップしてくれないので欲求不満の塊のようになっていた。それでも車のポテンシャルそのものには手応えを感じていたので、最終予選は自分の思うようにセットアップすることに専念した。結果は上々。決勝の日のウォームアップではファステスト・ラップを記録した。それでも予選12位は12位。優勝はおろか、表彰台に立つこともないだろうというのが大方の予想だった。
 だが決勝では最初の1周だけで順位を8位に上げた。「うまくいった。あとは車を壊さないでタイヤに気をつけよう」と思ったそうである。22周目でパトレーゼ、セナ、プロストの順で走っていたトップグループから16秒遅れの5位。ベルガーがタイヤ交換で予定通りのピットインをしたところで4位。タイヤの調子がいいからどんどんプッシュせよという無線の指令が出る。
 36周目で追いつくと、プロストが道を開けてくれた。「何かトラブルが発生したようだった」とマンセル。これで3位。セナとパトレーゼが視界に入ってきた。54周目、パトレーゼが突然スローダウンしたかと思うと、リタイア。原因はエンジンのオーバーヒートだった。これで2位。 だが、セナ、特にトップを走っているときのセナを追い抜くのは至難の技である。
 セナに厳しくプレッシャーをかけながらコースを回ること4回。58周目でセナが彼らしくないミスを犯した。コーナーを出たところでステファン・ヨハンソン(オニックス)がコースの真ん中にいた。そのヨハンソンが右側から自分をパスさせてくれると思ったセナは右に出ると、ヨハンソンも同じ方向に出てブロックされる形となった。何分の一秒か、その隙をついてマンセルがトップを奪った。
 スピードはフェラーリの方がある。おまけにタイヤがくたびれてきていたから、セナは諦めて2位を守りに出た。結果25秒の大差でマンセルの優勝となった。
 サーキットがどこであろうとも、12位スタートからの優勝は快挙とされていい。それを、こともあろうのハンガリーでやったというので、マンセルの名は一段と光彩を放つことになった。

 「車はちっとも速くならないし、マネージメントもメカ達も耳が痛くなるほどがみがみ言う。土曜日は本当に泣きたくなったよ。つらい一日だった。僕のセットアップに全員が反対して味方はワイフ一人。予選タイヤは半周しかもたないのだということを彼らはどうしても解ってくれなかったんだ。しかし翌日の決勝で僕は勝った。大満足だったよ。あれで少しは人の言うことをきくものだということが彼らにもわかったんじゃないかね」

 マンセルはそううち明け話をしてからレースについて次のように語った。「87年のシルバーストーンに並ぶ、僕の生涯の最高の勝利だった。勝利というのは、金曜日でも土曜日でもなくて、日曜日に勝つことなんだということを初めて悟ったよ」

イタリア人たちの祝福の熱気の中で、彼はこの勝利をちょうど一年前に無くなった恩人エンツォ・フェラーリに捧げた。


 この後ベルギーで3位。そしてイタリアGPにやってきたときのマンセルは、それこそ神様扱いだった。
夕闇が迫ってきてぽつぽつ灯りがともり始めた頃だというのに、ピットの壁に腰をかけてサインに応ずるマンセルを囲むファンはますますその人数を増やして行くばかりだった。6ヶ月前、フェラーリからチューインガムのように吐き捨てられるだろう、さもなければ自分の方から飛び出すだろうと予想した”専門家”がいたことなどとはとうてい信ずることの出来ない光景であった。そこにいたのはバーミンガム訛りの強い英語を喋り、フラットなチェックの帽子をかぶっている、まぎれもないイギリス人だった。これほどイタリアの風物にそぐわない人間がここでこれほどのヒーローになろうとは・・・・


 このシーズンの残り5レースは全部フィニッシュ出来なかったし、ポルトガルでは失格を言い渡されたりの憂き目をみているが、もう1シーズンチームに残るのは確実だった。チームメイトのベルガーはマンセルについていくのがやっとという状態で、マンセルに次ぐタイムを出すことで満足していたから、チームには波風も立たなかった。
 だがチームはそのころ、マクラーレンのアラン・プロストに誘いをかけていた。プロストはチームメイトのアイルトン・セナとのバトルに敗れて嫌気がさしていて、フェラーリからの巨額オファーに飛びついてきた。

プロストのフェラーリ入りはマンセルにも利益をもたらすことになった。プロストの付けた条件はマンセルと完全に同じ身分でナンバーワンドライバーを分け合うこと。これをのんだチームはマンセルへの埋め合わせとして前年度に使っていたフェラーリ640を完全な形で与えることにした。これは原価だけでも1億2000万円はする。コレクターが欲しいといえば、それよりははるかに高い値段が付くだろう。

しかしそうした間にフェラーリの内部では大きな変化が起きていた。ジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターの座を去り、プロストが自分のレースエンジニアとしてマクラーレンからスティーブ・ニコルスを引き抜いてきたのをはじめ、自分の人脈に繋がる人間を何人かチームに入れていた。

「ジョン(バーナード)の働きが不完全なままでストップしたのは悲しいことだ。彼はパトリック・ヘッド、亡くなったコリン・チャップマンと並ぶ優れたデザイナーだと思う。フェラーリは彼ともっとうまくやれたはずなんだが・・・」

そしてマンセルの内部にも大きな変化があった。「選手権を獲得するためには、2位になることもやむを得ない」と言うようになったことである。それまでは優勝することしか眼中になかったあのマンセルが、である。

「僕はいつも世界選手権は結果としてついてくるものだと思っていて、そのためにはこつこつとポイントを積み上げることも必要なのだということを忘れていた。この冬はフェラーリ内部でもう0.5秒速いマシンを作ることが出来ると言っていたし、事実、今年のスタート時点では去年のスタート時点より速いエンジンを持っていた。しかし、信頼性の点で問題があって、最初から着実にポイントを稼いでいくという基本路線と合わなかったからそうしなかったんだ。勝てないと思ったときでも粘りに粘ったことが何度もあったよ。僕は世界選手権をどうしても欲しかったんだ。」

 またマンセルは、「プロストからは学ぶことはほとんどなかったけど、とにかく良いチームを作ることを第一に考えた」と、プロストと協調する努力もしたという。

この年のサンマリノGPで、マンセルは「凄い」パフォーマンスを世界に見せることになる。前年のチームメイトであるベルガーと順位を争っていたのだが、マンセル曰く「ベルガーに押し出されて」スピンする。映像を見るかぎりでは、ベルガーに押し出そうという意思は無くレーシングラインを走っているところにマンセルが追い越しをかけ、行き場所が無くなってダートにタイヤを落としたように見える。とにかくマンセルは300km/hに近いスピードでスピンするのだが、驚異的なテクニックでリカバリーしてベルガーを追い続けるのだ。

最大の予算と最強のドライバー二人を抱えてシーズンに突入したフェラーリは先行きを楽観視していた。だが、この二人の仲は急速に悪化していった。

「私が土曜の夕方も残ってセットアップを手伝っているのに、彼はゴルフをやりに行くんだから・・・」
とプロスト。シルバーストーンで第8戦を終わる頃までに、二人の仲は完全におかしくなっていた。ここまでマンセルは表彰台に2度上がっただけで優勝はゼロ。一方、プロストは6位以上が6回、そのうち優勝4回で世界選手権の有力な優勝候補に浮上していた。

マンセルはそれまでずっと自分の車が不安定なことに怒り続けていた。自分の車がおかしくなるのであれば、プロストの車も同じようにおかしくなるはずだ、それなのになぜ自分の車だけそうなるのか・・・。勿論、プロストにはニコルスという親友のエンジニアがついていて車を徹底的に仕上げてくれる。マンセルにはそういう特別なサポートがない。それは解っている。だがフェラーリというチームは事情がどうであれ強いドライバーの肩を持つ。伝統的にそういうチームである。
 元々ひがみっぽい性格のマンセルは、自分一人が仲間外れにされているのではないか、プロストの犠牲にされているのではないかと疑いはじめ、プロストが流暢なイタリア語で話すことが出来るようになるとその傾向はますます強くなって、プロストがメカ達と冗談を言い合って笑っていると自分のことを笑いものにしているのだと思うようになってしまった。これがドライビングに影響しないわけがない。

これより早く、シーズンがまだ浅いうちからウィリアムズが91年の契約交渉を持ち掛けてきていた。だが、このシルバーストーンまで来たところで、ウィリアムズはセナのナンバー2が条件だと言い出した。マンセルは怒り心頭に発した。おまけにレースはギア・トラブル、58週でリタイア。憎いプロストが優勝した。マンセルがシーズン末でF1から引退すると発表したのはこのときだった。

「一つの車だけが完璧で、僕の車はいつでも壊れてしまう。なぜだか解らないんだ」

マンセルはそういってモーターホームに閉じこもり、出てきたかと思うと、その決定が瞬間的な思いつきではないというだめ押しの談話は発表した。

「私は今冷静で落ち着いています。2,3の問題はありましたが、それはレースのあとでいつもあることに過ぎません。今、ほんの少し疲れていますが、私がこれから言うことは今日のレースに対する感情から出た反応ではなく、この数ヶ月間よく考えた結果のことです。このイギリスGPで発表するのは悲しいことですが、私はここに引退を声明するものであります」


 「今シーズンの終わりまでは全力を挙げてレースを続けます。アランが世界チャンピオンになる助けとなり、その上で私もいくつか勝てたら、それは素晴らしいことだと思います。このあと8レースは走りますが、今ここで言えることは、アデレードが私の最後のGPになるということです」

「これからは家族と自分のことを第一に考えていきます。誰の人生でもそういうときがあっても良いでしょう。私も今年で37歳。トップにいるうちに止めた方がいい。」

「この半年の間、人を憎む感情を抱いたこともありますが、今はそれもなくなりました。イギリスGPだからタイミングが悪いと言ってくれる人もいましたが、これは私にとっては一番大事なレースなのです。そこで勝って発表という運びにしたかったのですが、それもかないませんでした。これからは、家族と一緒の時間を持ち、出来れば少しビジネスの世界に入ってみたいと思っています。」

 チーム・マネージャーのチェザーレ・フィオリオからも談話が出されたが、これは、「やめたいと思ったときには継続する義務がないという一項を契約に入れたのはナイジェルの方である。我々は彼と相談はするが、きわめて早急に態度を決定する。この時期、ドライバーマーケットの動きが目まぐるしいからである」と、斬って捨てるような態度のコメントだった。


 しかしマンセルに対する接触はなかった。彼はその事実をフェラーリに連絡することなく、イギリスの報道陣に明らかにした。フェラーリとの関係を続けることは考えようともしなかった。

その年の終わり、セナはウィリアムズには入らず、マンセルはウィリアムズの熱心な交渉に応じて引退を撤回する。彼は本当は走りたかったのだ。いや、チャンピオンになる夢を捨ててはいなかったのだ。

 


チャンピオンへの布石

古巣ウィリアムズに戻ったマンセルは、90年〜91年のシーズン当初までテストを精力的に行った。マンセルはテストをしないという話を結構訊いたが、それはある意味合っていて、ある意味間違っていると言える。自分が必要なテスト、自分を必要とするテストには非常に積極的に参加しているのである。

その時、ウィリアムズでは新しいサスペンションの開発がかなり進んでおり、まさに先進的な技術であるアクティブ・サスペンションが完成しようとしていた。以前、ロータスが87年辺りに開発をしていたが、実践では殆ど成果をあげることが出来なかったものである。というのも、コンピューターの制御によって、サスペンションを油圧でコントロールするこのシステムは、やはり信頼性に欠ける部分が多かった。しかしこのシステムが完璧に作動する事によって得られる恩恵はとてつもないものであることは想像できた。地面と車との距離が常に一定であれば、サスペンションの特性については考えなくても良いのだが、多くのコーナー、それも左右に角度が違い、進入スピードも違うコーナーを同じサスペンション特性で走ること自体無理がある。コーナーごとに地面と車の距離が変わってしまうのだ。高速サーキットと低速サーキットで速さが極端に違う車を見かけるが、エンジンのパワーだけにそれが起因しているとは言えないのである。車の癖というか、特性がサスペンションなどのセッティングだけでは問題をクリア出来ないのである。しかしそれぞれのバランスをとり、「ある程度」の範囲で調整して決定する。 しかし、各コーナーの特性に合わせてサスペンションのセッティングを変えることが出来るとすれば、それ以上のことは望むべくないであろう。アクティブ・サスペンション(ハイドロマティック・サスペンション)は、それが出来る唯一の技術である。それをパトリック・ヘッドはFW14に実戦投入しようとしていた。

そして91年のシーズンは開幕した。多くの人はアイルトン・セナのチャンピオンを予想した。マクラーレンの開発技術とセナの運転技術からして、それは至極当然のように思われた。

開幕からマクラーレンは激走した。セナは開幕4連勝。対してマンセルは3戦連続リタイアである。やはりハイドロマティック・サスペンションの信頼性はまだまだであった。そしてハイドロマティック・サスペンションだけではなく、電気的にコンピューターが多く制御しているマシンなので、いろいろトラブルが出るはしょうがないところであろう。実戦で、テストで信頼性を徐々に上げていくしかないのである。我慢が如いられる序盤であった。

今までのマンセルであれば、途中で放りだしているところだろう。しかしこの年のマンセルは違った。辛抱強くマシンが完成していくのを見守っていた。

第4戦モナコGPで2位に入ったのを皮切りに7戦連続入賞。夏のヨーロッパラウンド3連勝を含む大活躍でセナを脅かし初めていた。徐々にマシンは信頼性を増し、速さだけではなくなっていた。マンセルも、トップかリタイアかというリスキーなドライブではなく、完走しポイントを獲得するドライブを実戦した。しかし癖というのはなかなか治らないようで、かなりアグレッシブなドライビングも垣間見れた。

しかしマクラーレン(というかホンダだが)も黙って見過ごすわけがない。更にパワーの上がったエンジンで対抗する。

この年チャンピオンになったセナは16戦のうち、14戦を完走している。優勝6回、2位が3回、完走したグランプリでは必ずポイントを挙げている。対してマンセルはリタイアが6回。優勝は5回、2位が3回である。やはり車の信頼性が勝負の分かれ目になっているのである。

その信頼性もセカンドドライバーであるリカルド・パトレーゼと共に上げてきた。コンストラクターズポイントは最終戦までもつれ込んだ。マクラーレン・ホンダ139ポイントに対してウィリアムズ・ルノー125ポイントでマクラーレン・ホンダに軍配は上がったが、来年の勝負はマクラーレン有利とは言えない状況になっていた。

最大のライバルとも言えるアラン・プロストであるが、フランスのエンジンであるルノー(彼は昔からルノーの多大な後押しに助けられたことも多い)がウィリアムズにプロストを入れて欲しいという要望を出したが、ウィリアムズのチーム監督であるフランク・ウィリアムズはそれを却下した。勿論マンセルもそれを否定した。マンセルの速さを信じたフランクは、来年こそチャンピオンシップ獲得の年であると信じて疑わなかった。

プロストは92年はマンセルがタイトルを獲り引退するとよんでいたと思われる。一年間解説者としてシーズンを一緒にまわり来年どのチームで戦うのかをじっくり考え、どうすれば最強のチームに入れるのか画策していたのである。
 そうしてライバルがひとり不参加の状況で、1992年のシーズンは開幕していくのである。



 


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