志賀直哉「小僧の神様」試論

    三人称小説の放棄について

                                               

 志賀直哉の「小僧の神様」(一九二〇年発表)は、「擱筆」されたテクストである。この物語の結末は語り手によって、「擱筆」=中止が宣言されて読者に投げ出されている。と言っても、周知のようにこの短編が未完に終わったというわけではなく、正確に言えば、「擱筆」という作者の行為が書き込まれているテクストと言った方がよい。にもかかわらず、このテクストは中途で放棄された失敗作とされるどころか、志賀の代表作として公認されているし、またこのタイトルをもじって志賀が「小説の神様」と呼ばれていることはよく知られている。では、志賀が本当に「小説の神様」だとすると「擱筆」という行為もまた志賀の小説の高度な計算や技術によるものということになるのだろうか。たとえば高田瑞穂は新潮文庫「小僧の神様・城の崎にて」の解説のなかで、「小僧の神様」について「その円満具足した姿は、古美術品のように美しく不動である。直哉の心は、生動しつつ静かであった」と述べている。また、結末の「ところが、その番地には人の住まいがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。――とこう云う風に書こうと思った。然しそう書くことは小僧に対し少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした」を引用して、この場面は「直哉における美的関心と人間的関心との微妙な関連の暗示である。直哉は美的ではあり得ても耽美派はなかったのである」と論じる。「生動」―「不動」「静か」、「美的」―非「耽美派」といった対立的な言葉が併存するこの評価は、テクストについてほとんど何も言っていないに等しいが、この論法でゆくと「擱筆」=中止もまた、同時に「円満具足した」完結ということになるのかもしれない。もちろん、こうした玉虫色の評価に対して、性急に「擱筆」=中止をテクストの未完成さであると反論する必要はない。そうではなくて、ここでわれわれ読者が注意しなければならないのは、この「小僧の神様」をあたかも珠玉の「古美術品」として遠巻きに読んでしまうことだろう。結論めいたことを先に言ってしまえば、この名作「小僧の神様」は、多声性を装いながら結局「語り手」の専制的な言説によってしか終えることができなかったテクストである。その意味で、この「擱筆」=中止という明白な事態を、改めてテクストに接見して考え直してみなければならない。

 「小僧の神様」は十章で構成されている。語りの視点は基本的に三つである。ひとつは題名にもある小僧の仙吉に同化した視点で、もうひとつは貴族院議員のAに同化した視点、そして三つめは他ならぬテクストを語る語り手の視点である。語り手の視点については、最後の方で述べるとして、とりあえずテクストの展開にそって前二者について検討してみよう。

 冒頭の一、二章は仙吉の視点で語られている。そこではふたりの番頭の鮨屋の話を聞いた仙吉が、使いに出された機会に実際にその屋台を訪れる場面が描かれている。そして続く三章では、一転して視点が貴族院議員のAにかわる。Aは議員仲間から聞いた屋台の鮨屋を訪れ、そこで仙吉が入ってくるのに遭遇する。仙吉はAを押し退けるように前に立って鮨に手を伸ばしたものの、「ひとつ六銭だよ」という主の言葉を聞いて鮨を戻して立ち去ってゆく。語り手はその一部始終をAの視点に立って描いている。「小僧の神様」はこの仙吉を目撃するAの登場によって、次の展開を迎える。

 四章では、屋台の後日談としてAと友人Bの会話が記される。ここではAの仙吉に対する同情が「何だか可哀想だったよ。どうかしてやりたいような気がしたよ」と語られている。しかし、Bが指摘するようにAには仙吉に「御馳走」する「勇気」がなかった。それは人前で「御馳走」する「勇気」が仙吉に対する行為であることを越えて、その場にいる客に対する自己宣伝となってしまうこと(偽善)を良心が恐れたからと言えるだろう。もっとも、六章では結局Aはこの勇気を振るうわけだが、にもかかわらず彼は「変に淋しい気」になってしまう。言うまでもなく、こうしたAの心理はこのテクストにおいては重要なテーマとなっているし、それはまた読者の様々な解釈を呼ぶところだろう。Aが同情を実行に移せなかった、その心理についての分析は確かに興味を誘うものだが、しかしわたしたち読者はここでそうした問題を立てる以前に、Aと仙吉の両者が極めて不均衡に取り扱われていることにまず注目すべきだろう。

 もっとも目につくのは、言うまでもなく階級的な差異である。小僧と貴族議員。仙吉は、屋台とはいえその鮨は「一つでもいいから食いたいものだ」と切に思っている。仙吉にとっては、その屋台の暖簾を勝手にくぐることは出世を意味する(たとえそれが番頭程度であったとしても)。一方、Aは友人から「鮨の趣味は握るそばから、手掴みで食う屋台の鮨でなければ解らないと云うような通を頻りに説かれ」、「何時かその立食いをやってみようと考え」ていた。Aにとっては「立食い」は、一種の好奇心からくる、階級を越えた非日常的な冒険だったわけで、こうした渇望と好奇心が出会った場所が「屋台」だったのである。この両者の欲望の差異は、Aが屋台の「立っている人と人との間に割り込む気がしなかったので」「人の後に立っていた」のに反して、仙吉がこのAを「押し退けるようにして」前に出たところに如実に顕れている。こうして、上方と下方の両方向から階級を越境した人物が邂逅を果たした。

 さらに、両者については成人―子供という年齢上の階級差を指摘することもできる。このテクストでは、Aにとって子供はその成長が測量される存在である。「Aは幼稚園に通っている自分の小さい子供が段々大きくなって行くのを数の上で知りたい気持から、風呂場へ小さな体量秤を備えつける事を思いついた。そして或日彼は偶然神田の仙吉のいる店へやって来た」。子供を外側から測量する「秤」が、Aと仙吉を再び出会わせるというのはいかにも象徴的で、仙吉はAや彼の妻、あるいはAの友人のBや番頭といった成人ではなく、Aによって測量される「小さい子供」に近接した存在なのである。

 このふたりのもうひとつの大きな差異は、テクスト上において一方が「仙吉」という固有名詞で語られ、他方が「A」という匿名で語られている点である。この固有名詞―匿名という対立は、語り手(あるいは読者)にとってはある意味で階級的な差異よりも決定的である。両者は、同じ語り手の言説のなかにありながら、微妙に位相を違えている。「仙吉」は小説の登場人物として確かに登録されている。その意味で、彼はこのテクストの主人公たる資格をもっていると言えるだろう。一方、「A」(あるいは友人のBやY夫人)は、この「仙吉」といった登場人物に対して、言わば姓名を記す必要のない準―主人公の地位を象徴している。このテクストのタイトルの「小僧の神様」を思い出すまでもなく、ここで読者は「仙吉」を中心とし、「A」をその周辺に配置する物語を期待することになるだろう。

 もっとも厳密に言えば、仙吉はこの三章では固有名詞として登場してはいない。Aの視点に立ったこの章においては、仙吉は「小僧」という抽象名詞で描かれている。因みに「A」と「仙吉」の両者が語り手の言説に同時的に現れるのは、両者が再会する五章だけで、以後もAの視点で語られた章では「小僧」という語しか出てこない。テクストのなかの当事者であるAと仙吉にとっては、互いに無名であり、それぞれ「客」「小僧」という抽象的な存在なのである。もちろん、その点では両者は対等と言ってさしつかえない。にもかかわらず、わたしたち読者はこの両者の名前(あるいは出自)の差異を無視するわけにはいかない。テクストの時間を先取りすれば、屋台での場面の後、Aは偶然仙吉に再会するが、このとき「仙吉はAを知らなかった。然し、Aの方は仙吉を認め」る。Aは仙吉の名を知らないものの、彼が神田の秤屋の小僧であることを知る。Aは「小僧」の存在を把握しうる立場に立つのである。ところが、仙吉の方はAを知る手がかりを得ることができない。と言うのも、すでに仙吉に鮨を御馳走する気になっていたAは、「秤を買う時、その秤の番号と一緒に買手の住所氏名を書いて渡さねばならぬ規則」があるにもかかわらず、「名を知らしてから御馳走するのは同様如何にも冷汗の気がし」て「彼は考え考え出鱈目の番地と出鱈目の名を書いて渡した」のである。この「出鱈目の番地」が結末の伏線となっているわけだが、それはともかく、ここで注目したいのはAが「小僧」の居所を知りながら自らの住所・姓名を隠すことと、上述した匿名―固有名詞の関係がテクスト上で対応しているということである。こうした観点で言えば、屋台で「押し退けるようにして」前に出た「小僧」は、階級的な欲望からそうしたと言う点に加えて、彼が固有名詞を与えられた主人公であるがゆえに、匿名の「A」の「前に出た」と読み換えることもできる。「仙吉」という固有名詞の機能は、このようにしてAのような匿名の準―主人公に注視されることにあるのだ。もちろん、「仙吉」が純粋に任意の固有名詞であるかどうかについては、若干保留が必要かもしれない。と言うのは、物語の後半で明らかになるように、神仏を信じやすい性格が、この「仙吉」という名に寓意的に込められている可能性もあるからである。

 しかしいずれにしても、語り手(あるいは読者)や匿名であるAは、主人公である仙吉を認識することができるが、逆に名指された登場人物は匿名のものの姿を認識することができない、という両者の関係構造は明白だ。テクストに現出する匿名―固有名詞が一般論的にこうした関係をもつかどうかは別としても、少なくとも「小僧の神様」においては、両者の言説の非対称的な関係はこの匿名―固有名詞の差異に対応しているのである。

 「小僧の神様」では、語り手が交互に仙吉とAの視点に立ってその語りを展開してゆく。しかし、ここでも語り手は両者を均等に語っているとは言いがたい。最後に、この二者に対する語り手の言説の差異を確認しておこう。言説上の不均衡という観点から最も目につくのは、屋台でふたりが出会った三章以降、Aの側の後日談に比重が傾いているということである。屋台の事件はAだけの事件であったわけではない。それはまさに仙吉にとっての事件であったにもかかわらず、当事者の仙吉がこのテクストでそれを語ることは遅延されている。実際は、Aが偽善をめぐってある感情をもつ以上に、仙吉の方がこの事件についてはなにがしかの感情をもって当然だろう。だが、仙吉の内面は、冒頭から極めて単純にしか語られることがないし、語り手にとってはAの内面の劇に次ぐものとしてしか語られないのだ。しかも仙吉には食の欲望の他、「淋しい」気持ちも不快感も与えられていないのである。語り手は交互に両者の視点をとりながらも、確実に仙吉の側の言説を軽視している。もちろん、語り手にすれば、それは先に見たように、一方がすでに成人(しかも貴族院議員という知識階級)であるのに反して、他方は年端もゆかない子供であって内面性が未熟だからだと弁明することができるかもしれない。しかし、両者の後日談の順序と比重は、明らかに語り手の言説の欲望に対応している。

 六章では、仙吉の視点は明らかに限定されたものになっている。語り手やA、読者がすでに知っている事情は、仙吉には一切明かされていない。仙吉は全くの無知な人物として描かれているのだ。仙吉はAとの再会を契機に、完全にAとの対等な位相を失う。六章の冒頭はこの事態を明確に示唆している。「客は加減をしてぶらぶらと歩いている。その二三間後から秤を乗せた小さい手車を挽いた仙吉がついて行く」。もちろん、ここでも見られるもの―Aは、「前」に出ている。しかし、仙吉は屋台でのAのように「後」から一部始終を見ているのではない。仙吉はAの後を「ついて行く」存在なのだ。Aと仙吉の「前後」関係は屋台での場面に酷似しているが、内実は全く違う。ここではAの優位は明白である。むろん、この事態は語り手にとっても読者にとっても明らかだ。仙吉だけがこの事態を知らないのである。そしてAの方はとうに仙吉に対する注視を始めているのだが、仙吉の方はいまだAという人物を注視することができないし,またそうするための視野も与えられていない。

 この六章では、仙吉にとって未知の「客」から鮨を御馳走される下りが語られ、続く七章では今度はAに視点が変わって、彼の「変に淋しい気」持ちが再び後日談として語られている。一方、仙吉の後日談が初めて語られるのは八章である。この八章では、題名ともなった「小僧の神様」が何を意味するのかがはっきりと明かされることになる。

 とにかくあの客は只者ではないと云う風に段々考えられて来た。自分が屋台鮨屋で恥をかいた事も、番頭達があの鮨屋の噂をしていた事も、その上第一自分の心の中まで見透かして、あんなに充分、御馳走をしてくれた。到底それは人間業ではないと考えた。神様かも知れない。それでなければ仙人だ。若しかしたらお稲荷様かも知れない、と考えた。

 仙吉の内面は、Aのそれに較べるといたって単純である。しかし、ここで重要なのは、そうした内面の単純さにも関わらず、仙吉が未知の「客」を彼なりに解釈し始めたということである。Aとの偶然の再会が、ようやく仙吉のなかで屋台の事件と結びつき出したのだ。仙吉はこの物語の終わりに近い八章を境に、受動的で見られるだけの登場人物から、初めて他者を解釈する能動的な視線の持ち主となってゆく。

 他方九章では、「Aの一種の淋しい変な感じが日と共に跡方もなく消えて了った」ものの、彼は仙吉の店の目を通ることもあの鮨屋に出掛けることもできなくなったことが語られているが、こうしたAの心理状態は、仙吉への同情と御馳走という行為が単純には結びつかない、微妙な内面の葛藤に左右されている。たとえば、Aの視点で語られた次のような七章の言説は、仙吉の単純な言説とは全く対称的である。

 自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していい筈だ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、或喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後の気持に似通っている。

 仙吉はAを神様のように絶対視し始める。この崇拝について仙吉はいささかも疑問を感じていない。しかし、Aの方は自らの慈善行為に疑問を感じ始めている。もちろん、この疑問は当初からあったものだが、それが実際の行為を契機に一気に自らへふりかかってきたのである。仙吉の視線が「神様」という未知の他者に対して延長してゆくのに反して、Aは逆にその視線を自らの内部に向けて反転させてゆく。引用した両者の言説は、そうした視線の差異を明確に示している。「小僧の神様」を主題論的に分析する観点に立てば、ここでAの内面の分裂状態―善事をした自分と本統の心との―を詳述すべきところかもしれない。しかし、Aの視点からのそうしたテーマを特権化する前に、テクストの後半で両者がどのような事態を迎えたのかをあらためて確認しておくべきだろう。

 すでに触れたが、仙吉の立場で描かれた八章で、彼は初めてAを解釈する視線を獲得することになった。仙吉にとっては、「小僧の神様」という物語は実はここから開始されるべきものである。たとえば十章の冒頭では、「仙吉には『あの客』が益々忘れられないものになって行った」と語られている。仙吉にとって、ようやく「あの客」―Aが視野に登場したのだ。ところが、Aの視点に立つ次の九章では、すでに彼の「一種の淋しい変な感じが日と共に跡方もなく消えて了っ」ている。言わば、Aにとって、小僧との出会いという事件は後日談も含めて終息に近づいているのである。この章の終わりでAは「俺のような気の小さい人間は全く軽々しくそんな事をするものじゃあ、ないよ」と言う。この言葉は、言わばAにとっては物語の結語に等しい。

 一方では物語の開始の可能性があり、一方ではすでに物語は終息を迎えつつある。このテクストの終わりでは、ふたつの視点は時間的な落差によってはっきりと隔てられている。両者が同じ時間帯に属したのは、五章の再会の場面で「A」―「仙吉」という語が同在したわずかな瞬間だけである。この再会の瞬間だけが両者が対等に交差した時空であった。しかし、仙吉の側はそこから物語を引き出すことに遅れ、一方Aは早々と自らの内面の物語を語り終えてしまったのである。

 テクストの展開にそってこれまで、Aと仙吉の差異について、社会上・年齢上の階級差、匿名―固有名詞の差異、あるいはそれぞれの物語の時間的な落差を見てきた。そしてこれらの領域では、いずれも仙吉は劣位に立たされていた。さらにこうした事態は、テクスト上におけるAと仙吉との遭遇という事件にもかかわらず、一度たりとも実質的なコミュニケーションがないという、すれ違いの構造のなかで語られていたことを、ここで確認した方がいいかもしれない。優劣の違いはあれ、この両者は互いに対話することもなく、並行して語られてきたのである。単純化して言ってしまえば、両者はそれぞれの閉ざされた世界のなかで、相手に対する一言の呼びかけもなく、他者への解釈を始めたにすぎない。テクストはこの分離された両者のために、それぞれ勝手な物語を生成させてしまったのである。

 ここでわたしたち読者は、この両者の物語を回収すべく現れた、最後の登場人物について語らなければならない。この論の冒頭で若干触れたように、それは言うまでもなくこのテクストを完全な匿名のうちに展開してきた「語り手」である。最終章では、冒頭で述べたように、この最後の人物である「語り手」が自らテクストのなかで唐突に「作者」と名乗りでた上で、語りを擱筆=中止してしまう。この「作者」の登場によって、これまで語られてきた事件は、語り手という「小説の神様」によって支配されていたことが露呈されてしまうのである。「小僧の神様」の言説は、こうして近代小説=虚構が前提とするこの匿名化された「語り手」を暴露することで、三人称小説の約束事を崩壊させてしまう。それは言い換えれば、この物語世界に同化してきた読者を、不意に物語そのものから遠ざけてしまうことを意味する。仙吉やAに対する読者の視線が、語り手の登場によって無効とされてしまうのである。読者がテクストの最後で対面するのは、仙吉でもAでもなく、他ならぬ彼らを語ってきた語り手なのだ。

 作者は此処で筆を擱くことにする。実は小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。――とこう云う風に書こうと思った。然しそう書く事は小僧に対して少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした。

 この結末を読んだ瞬間、わたしたち読者は、たとえば仙吉の物語の行方を追う欲望を喪失してしまう。と言うのも仙吉の物語の可能性は、語り手の内に回収されることで、ここでは全く閉ざされてしまうからである。仙吉の物語を閉鎖するこうした力はむろん、Aというテクスト上の人物には到底持ちえないものであった。Aはせいぜい仙吉を解釈するだけだが、語り手は引用部分にも繰り返されているように、彼を「書く」ことができるという点で絶対的なのである。

 この絶対的な力をもった語り手がAに同化しているのは、これまで述べてきたことからも明白だろう。志賀の「創作余談」にも、「屋台のすし屋に小僧が入って来て一度もったすしを価をいわれまた置いて出て行く、これだけが実際自分がその場にいあわせて見た事である」と語られている。その意味で、「小僧に対して少し残酷な気がし」た語り手の心情は、Aの抱いた後ろめたさと類似のものである。したがって、Aと語り手の心情を同一視する読みが生まれる可能性を否定することはできないし、そこから志賀の偽善に対する姿勢を汲み取る読みも当然ありうるだろう。しかし、ここで看過されているのは、結末にいたってなぜ語り手が登場しなければならなかったのか、という問題である。これについては、善事をした自分と本統の心との分裂状態というテーマをいくら掘り下げたところで、おそらく大した解答は得られないだろう。むしろここで注目しなければならないのは、これまで分析してきたように、Aと仙吉との両者にかかわる言説上の不均衡さであり、にもかかわらず仙吉の側の物語が生成を開始した、というテクスト上の思いがけない事態である。語り手が自らを仮託したとおぼしきAは、すでにテクストの中に埋没した人物としてその機能を終えようとしている。彼にはもはや仙吉の物語に介入する力はない。もちろん、小説というジャンルはこうしたテクストの生成を許容するし、あるいは逆にその生成の力によって新たな展開を語り継いでゆくことができる。しかし、「小僧の神様」の語り手の言説は、そうした事態をあからさまに排除してゆくのである。わたしたちが向き合うのは、他でもない、こうした他者の排除を欲望する語り手なのだ。しかも、仙吉という他者を自ら語り出してしまったという点で、この語り手はテクストの当初からその排除の欲望の不可能性を抱え込んでいる。換言すれば三人称小説の放棄という事態は、書かれてしまったテクストと語り手の欲望とのずれが必然的に呼び込んだ結果なのである。仙吉に対するAもしくは語り手の同情と後ろめたさというテーマは、同時に語り手の言説が抱いている排除の欲望にそって書かれているのだ。このテーマと言説との矛盾こそが、「擱筆」という異常な事態を呼び込んでいる。極論すれば、このテクストは結末において、語り手の「擱筆」という事件を描く「私小説」へと変容せざるをえなくなってしまったのである。

 生成する他者を抑圧するこのような事態の原型を、わたしたちはすでに志賀の初期テクスト「網走まで」(一九一〇年)において見ることができる。そこにおいても、語り手はその専制的な視線の欲望にもかかわらず、自らそれに楔をさす男の子という他者を語り出してしまっていた。あるいは、戦後に書かれた「灰色の月」(一九四六年)を引き合いに出してもよい。こうした「網走まで」や「灰色の月」と「小僧の神様」は、他者に対する語り手の言説に着目すると、ほとんど同様の構造をもったテクスト群なのだ。ただ、前者が「小僧の神様」と違うのは、それらが最初から「私小説」として書かれたという点である。ここではテクスト上の他者の生成に対して、「作者が今書いているこのテクスト」を放棄するという事態は、一切語られることはない。と言うのも、「私」=作者とみなされているこれらの「私小説」では、他者の物語が生成する契機はすべて語り手によって握られている。少なくとも、テクスト上の人物たちはそこで、「私」の語りという言説に媒介されることなく、物語を始めることはできないのだ。仮に「小僧の神様」が始めから「私小説」として書かれた場合、このテクストはAの物語を早々に語り終えるだけで、おそらく仙吉の側の物語を一切現出させることがなかっただろう。たとえば、「網走まで」では、語り手の「自分」は汽車に同乗した男の子と母親に対して、勝手な解釈と空想に耽るだけで、結局実質的なコミニュケーションを図ることもなく別れてしまっていた。このテクストでは、母子は不意に語り手の視野から消されてしまうのである。このテクストのタイトルとなっている「網走まで」は、本来語り手に対してのものではなく(語り手は日光に向かっている)、母子に対するものであった。しかし、このタイトルに対応する母子の物語は、語り手の空想の言説の中にしか現れない。「網走まで」という他者の物語は、あらかじめ「私」の語りの内に封じ込められているのだ。

 しかし、「小僧の神様」では、仙吉という語り手自身からは、もっとも遠い人物の視点で語り始められていた。また、その冒頭は仙吉が番頭の会話を聞くという他者の言葉が交わされる場面から始められていた。さらにAと友人、Aと妻との会話文がこのテクストでは繰り返し描かれている。こうした会話文の応酬は、交互にAと仙吉の視点で事件を描く多言語的なテクストの構成と共鳴している。その点で、このテクストは確かに冒頭から、語り手とは一線を画す登場人物同士の対話が反復して企てられている。戯曲的とも言えるこの技法は、しかし、最後に登場する語り手の言説とはあまりにも異質である。「小僧の神様」の冒頭以降と結末とのこの破調を果たしてどう読むべきなのか。

 生成しはじめた登場人物の物語を回収=排除すべく現れざるをえなかった語り手という皮肉な事態は、志賀に与えられた「小説の神様」という賛辞に微妙な陰影を落とすことになるだろう。テクストを支配する、という意味で文字通りの「小説の神様」の露骨な権力性が、ここでは強引に発動されている。同時に、「小僧の神様」という題名もまた逆説的な響きをもつことにならざるをえない。本当のことを言えば、このタイトルは仙吉の視点に立った物語にこそ冠せられるべきものだったはずである。しかし、テクスト上では結局この「小僧の神様」という物語は書かれることがない。その意味で、このタイトルは「書かれなかった小説『小僧の神様』」を含意しているのであって、実際に書かれたテクスト全体を指しているのではないのだ。もちろん、志賀が当初からこうした実験を意図したとは思えない。それはおそらく、志賀の「私小説」という無意識の方法が、自らの意図を越えて三人称小説を瓦解させてしまった結果である。言い換えれば、それは三人称小説において、「書かれているもの」にとって本来匿名であるはずの「書いている私」が、「私小説」的な欲望に引きずられて顕在化した、ということを意味する。そこでは、「私小説」という形態では抑圧されていた、「書かれているもの」と「書いている私」の対峙関係が極端なかたちで露呈されてしまったのである。

 おそらくこうした反小説的な事態の出来を読むことにこそ、「古美術品」ではない「小僧の神様」の再生が賭けられているに違いない。虚構として完成された全体、という事態とは全く対極的なこの三人称小説の自壊過程を露にすること、あるいはそれこそが「小僧の神様」の言説上のテーマであったと言うべきなのかもしれない。

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