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観明寺
板橋3−25−1
真言宗豊山派の寺院。参道入口に寛文元年
(1661)造立の庚申塔が建っている。この塔
は、唐破風笠付の角柱で正面に青面金剛像・
日像・月像・二童子・二邪鬼・一鶏・一猿が
陽刻されている。境内左手にはかつて加賀藩
下屋敷にあったと伝えられる稲荷神社がある。
この堂宇は欅造りの見事なもので、正面の欄
間の竜の彫刻は左甚五郎の作と伝えられてい
る。正面本堂の左側には不動明王が祀られて
いるが、これは成田山新勝寺から勧請したも
のである。この寺は板橋七福神の一つでもあ
り、恵比寿天を祀っている。
この他、境内には享保8年(1723)造立の
「疱瘡の石仏」、宝暦7年(1757)の宝篋院
塔、寛文12年銘の観音石像などもある。
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縁切榎
本町18−9
この榎の下を婚礼の行列が通ると必ず不縁
になるという言い伝えがあり、嫁入りの際に
はここを避けて通ったといわれる。
実際、幕府の公武合体政策により、14代将
軍家茂に降嫁した和宮の行列がここを通過す
るときには、この榎の根元から梢までを菰で
すっぽり覆ったという。またそれ以前に中山
道を下って10代将軍家治に嫁いだ五十宮(い
そのみや)や、12代将軍家慶に嫁いだ楽宮(さ
ざのみや)の行列はこの地を避けて、回り道
をして江戸に入っている。
また、江戸時代に離婚の自由を持たなかっ
た女性が、この縁切榎に願掛けをし、念願が
成就して三下り半(離縁状)手に入れたとい
う話も伝わっており、川柳に「板橋へ三下り
半の礼詣り」という句もある。
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板橋宿本陣跡
仲宿47−8
スーパーマーケット「ライフ」のあるあた
りに板橋宿の本陣があった。隣接する不動産
屋さんの前に「板橋宿本陣跡」の石碑が建っ
ている。宿場の本陣は、参勤交代の大名や公
家などが、休息や宿泊施設としたもので、地
元で最も裕福な有力旧家が、名主を兼務して
つとめた。ここ中山道板橋宿では代々飯田家
がつとめた。
参勤交代で中山道を往来する大名の数は加
賀藩前田家をはじめ約30家にも及び、文久元
年(1861)には、孝明天皇の妹にあたる皇女
和宮もここに宿泊した。
本陣跡の向いの石神医院には「水村玄洞宅
跡」の案内板がある。弘化2年(1845)の小
伝馬町牢獄の出火に乗じて脱獄し逃亡した、
蘭学者の高野長英が一時ここにかくまわれて
いたという。
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板橋
本町28−1
石神井川にかかる橋。この橋の名が江戸時
代以降の宿名・町名そして区名へと冠称され
た地名の発祥である。
江戸時代の橋は『江戸名所図会』にも描か
れているが、何度も架け替えられた。現在の
橋は昭和47年の石神井川改修工事の時に架
け替えられたもので、もちろんコンクリート
製である。欄干には往時の風情を模して木目
を施している。
江戸時代末期の蘭学者で文人画家として有
名な渡辺崋山がまだ少年のころ、父の病気な
どのため家が貧しく、崋山を筆頭に7人の子
供を養いかねて、1人の男の子を他家にやる
ことになった。崋山はその弟を板橋まで見送
り、雪が降る中を何度も後ろを振り向き別れ
を惜しんだという。
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東光寺
板橋4−13−8
浄土宗の寺院で芝増上寺の末寺。境内には
宇喜多秀家(豊臣政権の五大老)の墓がある。
秀家は関が原の戦いに敗れた後、薩摩の島津
家に逃れていたが、まもなく自首して、慶長
11年(1606)一族12人とともに八丈島に流
された。秀家は明暦元年(1655)に84歳で
没したが、宇喜多家が赦免され、秀家の子孫
71人が帰還したのは明治3年(1870)。遠縁
にあたる(秀家の妻「お豪の方」は、前田利
家の娘)旧加賀藩主前田家を頼り、この地の
前田侯爵家に寄居した。秀家の墓はその時に
八丈島から移された。
境内には他にも寛文2年(1662)造立の庚
申塔や地蔵尊などの石造物がある。とくに庚
申塔は高さ1メートル90センチで区内に現存するも
のとしては最大である。
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文殊院
仲宿28−5
真言宗豊山派の寺院。本尊は文殊菩薩であ
るが、山門に向って左側に延命地蔵堂があり、
境内には閻魔堂や足腰の守り神として知られ
る「子(ね)の権現」がある。
本堂の脇から墓地に入ると飯田家の墓所や
遊女の墓がある。
未完成
その他としては、日曜寺(松平定信揮毫の扁額)
加賀公園 などもよい
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