中 山 道

 中山道は木曽路を経て江戸から京都まで通
じる街道である。近江国の草津で東海道と合
流する。五街道で最も往来が盛んだったのは
言うまでもなく東海道であるが、中山道はそ
れに次ぐ賑わいをみせた街道である。『江戸
名所図会』に次の一節がある。「東海道は川
川の差支多しとして、諸侯を初め往来繁けれ
ば、傳舎(旅籠)酒舗軒を連ね、繁昌の地な
り」。
 坂本竜馬の愛読書でもあった、十返舎一九
の『東海道中膝栗毛』で東海道を江戸から京
都まで上った弥次さんと喜多さんも、『続膝
栗毛』では中山道を京都から江戸に下ったよ
うに、往路は東海道、復路は中山道をといっ
た例が多かったようである。
 江戸・草津間に板橋〜守山の67宿を置き、
各宿駅に50人・50疋の人馬を常備。正徳期
以前は中仙道と記す。

高野長英

 1804−50
 蘭学者。陸奥水沢の人。シーボルトに医学・
蘭学を学び、江戸で開業する。蛮社の獄で永
牢の処分を受け、入獄中に火災で逃亡し、の
ち追われて江戸で自殺した。著書に『戊戌夢
物語』がある。

蛮社の獄

 1839年の洋学者弾圧事件。知識人の集まり
である尚歯会の蘭学者グループ(蛮学社中)
の渡辺崋山・高野長英らが小笠原島(無人島)
渡航計画などを理由に逮捕され、無実である
ことは判明したが、モリソン号事件などを批
判したとして処罰された。

渡辺崋山

 1793−1841
 蘭学者・画家。三河田原藩の江戸年寄役。
高野長英らと蘭学を研究したが、蛮社の獄で
自刃。絵は谷文晁に学び西洋画法も摂取。天
保の飢饉を表わした『荒歳流民救恤図』もあ
る。代表作は『鷹見泉石像』。

板橋宿


 板橋宿は江戸の方から平尾・仲宿・上宿の
3宿からなっていた。天保14年(1843)の
記録で戸数が573戸、人口は2448人。本陣
1軒と脇本陣3軒が置かれ、旅籠54軒があった。

板橋区加賀 


 加賀藩前田家の下屋敷がこの一帯を占めて
いた。敷地は21万8000坪といわれる。
 加賀公園、加賀橋、金沢橋、金沢小学校、
加賀中学校などにその名が残っている。

本 陣


 宿駅の大名・公家・幕府役人の宿泊所。門・
玄関・上段の間を持ち格式が高い。問屋・名
主らの兼業が多い。寛永年間に整備された。
これを補うのが脇本陣。

旅籠 はたご


 宿場の一般庶民用の宿舎。薪代を払い、自
炊を旨とする木賃宿から進み、寝食設備を整
え、飯盛女も置くようになった。

庚申講 こうしんこう


 招福除災のため庚申(かのえさる)の夜に
集会する民間信仰の組織。道教から起こり、
病魔を除く青面金剛などを刻む供養塔・庚申
塔(塚)が各地に建てられた。同種の講には
観音講・念仏講・地蔵講・太子講・報恩講が
ある。

宇喜多秀家 

1572-1655
 備前岡山城主。豊臣秀吉に服属して信任厚
く五大老の1人。関が原の戦いで西軍に参加
したため八丈島に配流された。

和 宮 

1846−77
 孝明天皇の妹。若くして有栖川宮熾仁親王
と婚約。幕府の要請で1862年14代将軍家茂
と結婚(和宮降嫁)。戊辰戦争では朝幕間の斡
旋に尽力。家茂死後は仏門に入り静寛院宮。


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