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私の自主講座運動

 詩というものが無数の表現方法をとるように、闘争にも無数の方法があると思いますから、私も自分の軌跡について、ひとまず報告しておきたいと思います。 ここへやってきたのは、さきほど菅谷君もいったように、たんに報告するとか、講演をするためではありません。菅谷君はもともと、神戸大学で一諸にドイツ語 を教えていた仲間です。数年前から我々をとりまく情況をなんとかして突破しなければならないと考え、そのために、我々は様々な目にみえない闘争をすでに開 始していたのです。いま、場所的に離れてはいるけれども、私のやっている自主講座運動と菅谷君のやっている解放学校とがいわば〈 〉のように情況を包囲す る形で現実化しようとしています。そういう時にあたって、私自身も六十年代に自分がやってきた事を総括する意味をこめて、今日、ここへやってきたわけで す。

 私(たち)の運動の特徴を六つの項目にまとめてみました。
 一番目は、二月二日に私が出した「情況ヘの発言」に示されていますけれども、大学闘争における表現の階級性粉砕を主要な根拠にしています。例えば、権力 を持っている者の表現と持たない者との表現とは、文字として、あるいは声として同じであっても、それが現実に持つ意味については全く違ってきます。そして 闘争の契機自体よりも、闘争過程において各人が表現にたいして持っている責任を追究する形で、闘争が持続しているわけです。
 具体的には、この問題について全ての人が私に対してこたえるまで、大学の秩序に役立つ労働を放棄するという形で授業や試験やその他一切の旧秩序推持の労 働を拒否しているわけですけれども、同時に、単純な拒否でなく、自分の出来る範囲で攻撃的に粉砕してゆこうと考えました。大学によってそれぞれ条件は違う と思うけれども、我々の場合には、自主講座運勤がいわゆる全共闘運動を包囲している形で展開されており、また単に闘争者がやっている運動というよりは、こ の運動にかかわる人間がたとえ我々が敵対する場合でも、自主講座運動に無意識的にも参加しているのだという確認を前提としています。たとえば、我々の自主 講座に大学当局や民青や、さらには機動隊がやってくる場合も、彼らを平等な参加者とみなして運動を続行してきました。
 二番目は、創造(想像)的なバリケードです。全国的に目に見えるバリケードが撤去されている段階において、本当のバリケードの意味はこれから追求され始 めるであろうと思います。そのための条件として、目に見えるバリケードの中に何を、いかに形成してきたかということがあります。神戸大学の場合でいうと、 大学措置法成立後、もっとも早くバリケードが解除されましたけれども、バリケード形成以前から一貫して自主講座運動を続けていたために、解除されたという ことがそれ程打撃にならなかったのです。そればかりか、最後までバリケードで徹底的に活動したのは自主講座運動であったし、またその後の授業再開、試験強 行にたいしてもっとも戦闘的に反撃したのは、我々の運動でした。
 我々が活動する空間がそのままバリケードになってしまう。例えば、この教室を授業で使うとしますと、ここを占拠して、自分達の問題提起をおこなう。別に ロッカーとか、机で封鎖しなくても、我々の存在がそのままバリケードに転化していく。しかも、移動可能なわけですから、いたるところに出没して、ゲリラ的 にバリケードを運動させていくわけです。これは不可視の領域へまで拡大していくべきだと思います。
 三番目は、我々の自主講座運動のテーマはどういうものか、ということです。これは明確に定義をするのは不可能だと思うのです。むしろ不可能である様な運 動を目ざしているのです。まず、明確な規定として、これこれに近づこうという風な運動論はもはや破産したと思います。我々が創り出しうる最も深い情況に我 々自身が存在すること、そのことによって引き寄せられて来る一切のテーマが自主講座運動のテーマであるし、その時やって来る全ての人間が自主講座運動の参 加者になるわけです。だから、毎日、過渡的なテーマはかかげておくけれども、そのテーマどおりに進行するかどうかは分らないわけです。テーマをかかげるこ とによって、そのまわりに変化が起こります。そして様々な力関係でこの部屋ならこの部屋に問題が殺到してきます。反論や退去命令や機動隊導入など。その様 な変化がそれ自身、持続的体系的な自主講座のテーマに合流するのです。そこにはじめて、学ぶことの怖しさが何重にも予感されてきます。いまのところ初期に くらぺて、目に見える意識的な参加者はおそらくここにおられる人数よりも少ない場合が多いと思います。しかし、目に見える参加者が多いとか少ないとかいう ことをそれ程、気にしないで良いと思うのです。少なくとも二人いれば、永続出来ると言う確信がありますから。

 四番目は、いわゆる全共闘運動が崩壊した、ないしは危機的状況にあるといわれています。これは確かにそういう面もあるとは思いますけれども、私は全共闘 運動という概念そのものを飛躍させる時期に来ている、飛躍させうる人にとっては決して崩壊してはいないし、今やまさに始まろうとしている段階だと思いま す。全共闘運動という概念は、自分にとって必然的な課題と、情況にとって必然的な課題とを対等の条件で共闘させるということではないでしょうか。従っ て、何かを粉砕するとか、打倒するとかはそれだけでは、スローガンになり得ないのです。必ず、それと対等な自分のスローガン、自分だけの言葉によるスロー ガン、それがうまく表現できるかどうかは別として、そういう自分のスローガンを対等に結合させえない限り、決して或るスローガンを荷いきることは出来ない し、まして命をかけることは出来ないだろうと思います。
 私にとっては、それは、ご承知の方もあるかと思いますけれども、いくつかの作品、たとえば、〈包囲〉とか、〈六甲)とか、そういった作品を本当に時=空 間の中に生かしていく、そういう作業が別の面で大学闘争に参加しているといえるに過ぎないのであって、決して私 は、大学闘争が正しいからやっているのでもなければ、学生諸君が正しいから支持するのでもないのです。そのような方向性を持続化することが、ある意味では 大学闘争にもなり、それをこえていくという関係だろうと思います。
 五番目は、これは一年におよぶ闘争過程でつくづく感じたのですけれども、報復とはなにか、復讐とはなにかという問題です。目の前でたくさんの全共闘の学 生諸君が血を流す。これはもちろん本当に許せないことです。しかし同時に、それと一見関係ない場面でにこやかに会議をしている、あるいは仮病を使って家で 寝ている、あるいは海外に留学と称して逃亡している、そういう一見流血と関係のない、政治性とも関係のないような場にいる人間の存在形態が最終的に血をあ ふれ出させるにすぎないのです。ですから、私自身の感じる憎悪は、単に流された血を見て感じるのではなく、それを生みだした諸関係総体に、皆の目が向けら れないということに対する憎悪なのです。単純に、なぐられたからなぐるとか、殺されたから殺す、そういう関係だけでは決して本当の報復は出来ないのです。 むしろ、それらと一見無関係な場所で行なわれている惨劇に目を向けないかぎり、決して真の報復は出来ないだろうと思うのです。まさにそういう関係が大学と いう空間で最も象徴的な形で展開されているにすぎないのです。大学という空間はこの社会において、もっとも幻想的な空間であろうと思います。たとえば工場 労働者が労働を拒否するといえば、すぐ解雇処分になるでしょう。ところが、大学の場合は現に私自身がそうであるように一年近くたっても、まだ処分するかど うかでもめている。それは普通のブルジョア社会の空間で行なわれている現象よりも非常にゆっくりと、スローモーションのフィルムを見るように、きわめて緩 慢に展開されることを示しています。ある意味では恵まれているともいえますけれども、別の意味でいうならば、人間の幻想性の運動が最も詳細に歴史的な問題 をえぐり出しつつ展開されてくるのです。つまり、人間にとって知識とはなにか、文化とはなにか、そういった一切の問いが個々の階級的存在に対して、大学闘 争を契機として問われているのです。だから、それをただ単純に階級闘争の前段階であるとか、あるいは安保闘争と結合すべき課題であるという水準で捉えるな らば、決して大学闘争は捉えきれないと思います。大学という言葉に、記号〈 〉をつけて〈階級闘争がもっとも幻想的に展開される空間〉という風によみかえな い限り、決して大学闘争は捉えきれないと思います。ですから、私自身は大学にいるときは大学でその問題を追求しているにすぎないのです。家庭にいようと、 工場にいようと、どこにいようと、幻想性を媒介にした問題は我々すべてにとって既成の概念や行動では捉えきれない危機的な状態に達していると思いますか ら、大学闘争の課題は実は全ての人間が現在つき当っている課題を、最も拡大して、最も深刻にえぐりとっているにすぎないのです。そういった特殊な条件を徹 底的にとらえ直さないかぎり、大学闘争の真の生命カをすててしまうことになると思います。
 報復ということから少し離れましたけれども、報復は最終的には一行の詩を書かせることではないかと或るとき、ふっと思ったのです。相手をなぐることでも なければ、殺すことでもない。或る情況に原罪性をもってかかわっている全ての人達が一行の詩をかかざるを得ない様な現実的条件を作りだす、それが本当の報 復になるであろうと思います。だから団交にせよ、ゲバルトにせよ、それらは一行のまだ表現されない詩へ向かっての行為であるし、あらねばならないのです。 そうでないようなゲバルトはおそらく自分自身にはね返って、マイナスの面しかもたないだろうと思います。
 六番目の問題は、一番目の問題とかかわってくるわけですが、我々が打倒しなければならないのは、決して体制だけではないし、機構だけではないということ です。それと同時に、我々自身の表現の根拠、我々自身が表現するときの根拠をも含めて変革しないかぎり、何一つ始まらないだろうし、それは古い形の階級闘 争に還元されてしまうと思います。いいかえると、闘争過程において自分がどのような言葉をつくり出したか、どのような言葉にひかれて、それをになってきた かという問題です。常に人の言葉で戦い、人の言葉で死ぬということは、本当に戦うこと、死ぬことになり得ないと思います。ですから、先程もいいましたよう に、情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出さないかぎり、本当には戦えないし、戦いを永続化できない でしょう。ということは、自分をそのように表現させる世界の根拠を、自分が叫び声をたてざるを得ない根拠というものを徹底的に追求することであって、それ は政治という領域をはるかに超えた行為だと思うのです。そして、それこそが真の政治性のはじまりでしょう。

 私がいや応なしにとらえ、同時につきうごかされているいくつかのテーマのうち三つのものについて語っておきます。最初のテーマは表現の階級性という問題 です。一つの文章、一つの言葉があるとして、それがどこで表現されたかによって、全く意味を変えてしまいます。たとえば、教授会の中でAという発言がなさ れ、学生諸君の集会でAという発言がなされるとします。言葉としてはまったく同じであるにもかかわらず、それが現実過程において持つ意味は決定的にちがい ます。それは階扱闘争の問題であると同時に、言葉の本質にかかわる問題でもあるわけです。このことは沈黙についても言えます。教授会の中で決して発言しな い、あるいは団交で追求されても決して発言しない、責任追求されても決して発言しない、そのような沈黙が問題である場合、意味はゼロかというとやはりそう ではないわけです。沈黙もそれなりの階級性をおびてしまうのです。これは階級性という言葉ではおおいつくせない、むしろ原罪性というべき問題だろうと思う のですが、そういう問題が本質的に提起されたのは大学闘争においてだろうと思うし、この点をはっきりさせておかないと、我々の語る言葉は全て死んでしまう と思います。
 二番目は空間性に関する問題ですが、これは闘争の過程にしたがって多少、変化してきます。最初の段階では、権力を持たない者は空間を持つことができると いう形で提起しました。そういうテーゼによって、我々のバリケードが開始されました。その次の段階は、バリケード空間とはなにか、つまりバリケードという 概念をどこまで飛躍させるのかという問いです。物理的封鎖がバリケードそのものではない。むしろ、我々の置かれた本質的な断絶の一つの断面が封鎖であるに すぎない。我々がこんなにも断絶していたのだ、こんなにも階級性の中に置かれて来たのだ、ということの影にすぎないと思うのです。とすれば、バリケードと いうものは決して大学だけに存在するものでなくて、家庭の中にもあるし、人間関係のなかにもあるし、国家という国境をもつバリケードもあるし、〈 〉とい う記号としてもあるし、その他無数に存在しうるのです。つまり、無数に〈バリケード〉が存在しうることを明らかにしたのが、目に見えるバリケードにすぎな い。バリケードが解除されてもなお、運動が存続しうるとすれば、そのような不可視のバリケードをとらえた度合だけ、運動は存続すると思うのです。ですか ら、封鎖解除された瞬間にがっかりするならば、恥じるべきだと思います。むしろその瞬間から自分にとってのバリケードの意味が問われ始める。自分にとって の闘争が開始されるのです。それをどこまで荷って続けるかということは未踏の情況における一人一人の問題であるけれども、それを荷って行けないならば、実 は今まで何も戦って来なかったのだということになると思います。我々の模索の一つの応用例としていうならば、これぐらいの教室を占拠し、六ケ月以上、毎日 毎日、日曜日も含めて、白主講座運動を展開して来たし、ゲリラ的に様々な教室、或る場合には街頭や風景に、出没して、体制側にとっては全く手のつけられな いような存在になっているわけです。我々はその事を理想的な形だと決して思っているわけではありません。むしろ、自分でマンガ的な行為だなと思い、笑いな がらやっているのです。闘争には笑いが不可欠な要素だろうと思うし、最もよく笑った者が大学闘争の勝利者ではないかと、此頃、思うのです。決して、深刻 な、不気嫌な顔をしてやるものではなくて、いわば大学祭を永続化しうる力量だけが闘争を支えていくのだと思います。
 三番目のテーマというのは、連続性の問題です。これは具体的には一二月三日、神戸大学の教授会が私の処分を検討しはじめた日、我々自主講座実行委員会は 会議室へ突入し、一人一人を徹底的に追求しました。それ以後、教授会は開かれていませんが、いつ学内で、機動隊に守られて私の処分を強行するか分からない のです。したがって、その時間も、場所も、議題も不確定になった教授会というものにたいして、我々は常に準備していなくてはなりません。つまり、今までは 闘争というものには日付があったわけです。何月何日には、これこれがあるから結集せよ、闘争方針もそれから逆規定されて、こうしようという形で、闘争が組 まれました。しかし、もはやそういう段階は終ったと思うのです。不確定な連続闘争の時代が始まったのです。これは大学闘争に限らず、一切の政治闘争、階級 闘争についてもそうだけれども、日付の闘争というものはもはや終ったと思います。日付をこえた連続闘争に真の意味で武装して行かないかぎり、敗北は決定的 でしょう。この場合、武装というのは単に軍事的な武装ではなく、闘争の本質をいかに引き出し得るか、闘争をいかに飛躍させ得るか、という暴力的な問いかけ です。だから、今連続性を日付を超えるという表現で語ったけれども、それは同時に今までの闘争の枠をはみだす、最終的には闘争という概念をすらはみだすと いう意味での連続性をさしています。大学闘争は決して大学だけに止まるものでなく、全階級的な問題にひろがっていくだろうし、個人の生活の二十四時間をお おっていくだろう。決して、バリケードに入ったときとか、デモに行ったときだけが闘争ではなく、二十四時間をおおいつくす連続闘争になるだろうと思いま す。そうでなく、あるときには闘争し、あるときには眠る。その眠りが夢の組織論から切り離された眠りであってはならないと思います。なお、ここでいう夢 は、睡眠というよりは、私の表現でいうと、〈情況から最も遠い夢〉を志向しているのです。三つのテーマ、即ち、階級性、空間性、連続性について、舌たらず にしゃべりましたが、三つとも全部、〈性〉がついており、なにかセックスに関係があるかもしれないなあと思ったりするのですが(笑)、それは今後の追求課 題の一つとして残しておきます。

(1969年12月都立大解放学校での問題提起 「ラディクス」2号から転載)
(松下昇表現集 1971.1.1 あんかるわ別号≪深夜≫版2 p23〜p27より)
(2004.5.4  野原燐によってUP)

訂正リスト(〜1988・8〜< >版表現集による)(訂正済み) 殺倒→ 殺到  撤去命令→ 退去命令  ブルジュア→ ブルジョア  眠りは夢の組織論→ 眠りが夢の組織論  状況から最も遠い夢→ 情況から最も遠い夢    (今回テキスト化により追加された誤りがあるはずです、気がついたら指摘していただければ嬉しいです。)(5/9 黒猫氏から指摘いただいた、記して感謝します。訂正済み。)
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