〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君! 二月一日の団交は評礒会が〈寮問題〉に関する解決能力を持っていないことを暴露した。
しかし、これだけをスト続行か中止かの基準にしてはならない。まして〈時間〉が切迫しているからといって、〈しけん〉のための秩序に復帰してはならない。
〈スト〉に入る契機自体よりも、一ケ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性がうまれていることの方が、はるかに重大なのだ。
〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君! このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。
少なくとも、この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。
この問題提起に何らかの共有性を発見する諸君は、自己にとって最も必然的な方向を創り出して闘争に参加せよ。
全学集会→封鎖解除→授業再開という反革命過程にぬりこめられている犯罪性は、大学の枠をこえて階級社会と人間存在のあらゆる原罪性へいきつく。
国家権力、右翼秩序派、スターリニストの見事な統一戦線を見よ。私たちは微笑しながら、かれらを出現させている世界(史)的な関係に対立し、打倒し、止揚していくであろう。
敵でも味方でもない、ある圧倒的な力によって問題提起の正しさが彎曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚のむこうに、はじめて、ほんとうの闘争がはじまっている。
いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。
私たちは、バリケードから、全ての人間たちの真の姿を見てしまった。そしてバリケードの影は、全ての人間の時間と空間をおおいつくしている。この上、何を怖れることがあろうか。
私が、年代や情況の表面的な変化とは関係なく格闘しなけれぱならないテーマは、私が、この数年間追求してきたテーマ、α・不可能性表現論、β・情熱空間論、γ・仮装組織論(連続性論)などを、包囲し、つきうごかすようなかたちで訪れてきている。それは、いますぐに、ここで展開させうるものではない。むしろ、私は、それ〜―らの星雲状の総体〜⌒―からやってくる波動を、この紙片でうけとめることによって、私のように闘争とかアピールから最も遠い位相にある人間を最前線に押し出してしまう何ものかの残酷な力と対抗しようとねがっているのだろう。それゆえ、残りの数十行に私が断片的に、一気に埋める言葉は、純粋に私だけのものである。しかし……いや、やめておこう。時は迫っている。
この世界で最も幻想性にあふれた領域で、固有のスローガン、戦術を媒介として問われているのは、おそらく、つぶやきからゲバルトをへて国家、さらには宇宙に至る全ての表現の根拠の変革である。とりわけ、表現の階級性の止揚。死語のなだれ、自己と他者に本質的な死をもたらす沈黙への怒り。倒錯した現実へのなしくずし感覚の根底にある自然さを、どのように粉砕するのか。報復と一行の詩。汝の表現論を示せ。汝の原罪性がそこに、ひっそりと息づいているはずだから。
橋を、広場を、部屋を、かんたんに通りすぎるな。権力にも、寄生虫的な参加者にも視えない空間が存在するのだ。汝はなぜここにいるのか。もはや、ここから脱出することはできない。ここに集中してくる全てのテーマを一人でも生涯かけてひきずっていく力を獲得するまでは。何よりもまず、バリケードとか、占拠とかという言葉を汝だけの言葉に変化させ、その方法の追求ないし総括の場が、そのまま闘争となるような場を創りださなければならない。
風のヘルメットによる恒常的武装。火焔ビンを投げつけざるをえない関係そのものへ火焔ビンを投げよ。真の断絶をこえた連続性。憎悪の対象や愛のしぐさが固定しているとき、汝は汝の敵のものである組織論を内部に育てている。日付けを超え、政治を越え、一片の綿毛に生命を吹きこみつつ、最後の日付け、最後の政治へたどりつこう。固有の、不可避の闘争としてだけではなく、それを無視するはど巨大な闘争の不可避の応用として。
一九七○年一月三日
(『(松下昇)表現集〈 〉版 〜1988・8〜』p4〜より)