2007年2月10日(土)開催 「改正」教育基本法フォーラムの詳細

 

 

 

 

 

 

2月10日(土)、オホーツク木のプラザで、室蘭工大の奥野恒久先生を迎え「改正」教育基本法フォーラム(例年の地域創造フォーラムに変わる市民公開例会)を開催し、市民を含め60名が参加しました。

昨年12月15日に、憲法と一体ともいえる教育基本法「改正」が強行され、さらに改憲にむけ国民投票法案が審議も不十分なまま5月14日に強引に通されました。民主主義が危うくなっている今、私たちは何をしなければならないのかを改めて考えさせられるフォーラムでした。

以下、フォーラムの内容を報告します。                    (大門)

<基調講演>

教育基本法「改正」後、改めて考える、日本国憲法の価値

室蘭工業大学助教授(憲法学専攻) 奥野 恒久氏

与えられた課題を整理すると、@教育を切り口にして、今改憲論議はどういうことなのか、何をめざしているのか。A日本の憲法はどういう価値をもっているのか、これについて考えられるようなそんな話をさせていただく。

教育基本法が改正された。北海道新聞に11月の終わりに自分自身の思いがあったので、意見を出させてもらった。専門は、憲法の中でも民主主義のことを考えている。

民主主義は多数決と言われるが、決められることは多様で、何でも多数決で決め、決まったものに従えというわけにはいかない。特に人権関係は多数決で決められなく、対抗するべきものと理解されている。人権に関わるが、どうしても決めておかなければならない問題もしばしばあるが、どういうふうに決めていったら良いのか。多数決の前段で、どれだけ丁寧な議論ができたか。立場の言い分を力づくで押し込めるような議論ではなく、相手の立場をどれだけくみ取れる議論ができたか。それでも平行線ならば決定するべきでないと考えている。アメリカではデリバラティブデモクラシーと言われ1980年代後半からそれなりに議論が盛んになってきたのを何とか日本の民主主義の中にも応用できないか取り組んできた。

教育基本法の問題は、生徒や教師の心に関わる場面がしばしば出てくる。いうまでもなく基本法の下に学校教育法があり、学習指導要領など、たくさんの決まり事があり、現場の学校運営や地域での教育行政がなされる。この根本が変るということは、あらゆることがガラット変りうる大変なこと。学生たちに、「思いもよらない教育を君たちの子ども達は受ける可能性がある。毎週の朝礼では、日の丸や君が代に対して、ある種の接し方が強いられることもあるし、何でこんなに毎週こんなテストをさせられるの、ということがあるのかも知れない」と話している。

国民の間にこれだけのことを受け止めるだけの覚悟ができていないまま改訂されたと思っている。そこまでの判断がいってないだろう。タウンミーティングのやらせとか、手続きの段階でも相当不当と思われる改訂のあり方で、相手方にとっても相当痛手になるのではないか。

安倍総理の発想を確認しておいた方が良いと思うが、彼は総理になるための演説で「国の形、国の理想の全てのもの。私はそれは憲法だろうと思う」、憲法の研究者からすれば「憲法をわかっているのか」と感じるが、次が問題で「私自身の手で憲法を書き変えていきたい」、この発言、恐ろしいものを感じた。うちの政治的でない普通の学生が自民党のポスターを見て、「創りあげたい日本がある」と書いてあることに、「あなたの日本じゃないだろう」「何を考えているの、この人」と言っている。健全な発想かなと思う。

教育に関わって安倍さんの「美しい国へ」という本を仕事上全部読んだ。安倍さんは「確かに自分の命は大切なものである。しかし、時にはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」「教育の目的は志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」と。教育の目的は国家をつくることなのかどうか。日本国憲法の下、おかしいと言えるが、1947年教育基本法では、教育の目的として「人格の完成」を言っている。「一人ひとりを自分なりに成長させていくこと、これが教育の目的だ」と理解している。ところが安倍さんに言わせると「国家をつくることが教育の目的だ」と。そしてこの国家をつくることを教育の目的とするような教育基本法の改訂がなされたということだ。

昨今の社会動向の中で、憲法が「改正」されるならば、ということを考えてみたい。今、3つの社会化が進んでいるとみている。@戦争のできる社会。するかどうかはわからないが、最後の歯止めとなっている憲法9条が今変えられようとしている。日本国憲法の平和主義は憲法9条だけでなく憲法の全文と一体として考えた方が良いと考えている。A監視社会。何かわからないが動機不明の犯罪がしばしば大きく報じられる。犯罪が増えたかどうかは広い意味では減少傾向にあるとされている。ところが新聞の扱い(朝日新聞を分析)、特に子どもの関わる犯罪の扱いが数段増えているという。何を意味するか。体感治安が悪くなってきている。本当に悪くなってきているかどうかわからないが、悪くなっている気がする。これを一つのテコにして、監視カメラとか、地域で子どもを守りましょう、共謀罪も新設しようということが起っている。B格差社会。勝ち組、負け組の差が広がっている、これは政府の白書でも認めているが、政府はあえて「格差」という言葉を使わない方向にある。これらは、新自由主義という改革が背後で通ずるものがあるだろうと、政治学者や経済学者の分析がされている。

新自由主義とは、「上の方(豊かな層)からカンフル剤を打てば、やがては下の層(しんどい層)にも染み渡っていく」という考え方だ。もっと国際競争力をつけて、どんどん成長していくと、やがてはそれが下の方にも染み渡っていく。アメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権が一定の成果をあげた。日本も橋本政権でやりかけて頓挫し、小泉政権から本格的にやっている。果たして国民一人ひとりを幸せにする政策なのか。ようやくメディアでも最近になって異議申し立てがなされるようになった。

格差社会に対する憲法の立場は、「憲法は全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡のとれた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つものに対する適切な保護政策を要請していることは明らかである」(最高裁判例1972.11.22)。

「苦しさをしっかりサポートする」というのが憲法の考え方なので、新自由主義政策は矛盾する。だからこそ、とりわけ新自由主義の改憲論者達は、憲法9条を変えるだけでなく、福祉国家的なプログラムも変えてしまいたいという願いがある。

戦争のできる社会について触れておきたい。憲法9条を変える最大の目的は何か。あまり勉強していない方々は、「1954年にできた自衛隊は、今は25万人もの隊員がいるのだから、憲法の中にしっかりと明記するのは必要なことではないか」と言う。それに対して、「改憲論者たちが憲法9条を変えたい一番の目的は、自衛隊を憲法に明記することではないということをまず確認しておいてください」という話はしなければならない。

自衛隊の論議は、1990年前後を境に論争のタイプが変った。それまでの「違憲か合憲か」から、1990年前半を境にして、「海外へ出すのが良いか、悪いか」に論議が大きく変った。1991年に湾岸戦争があって、日本にも「国際貢献をしろ」「金だけ出して血や汗を流さない」等批判があって、自衛隊を海外に出すためのシステムをとらなければならないということで、PKO協力法がつくられ、あくまでも非軍事で受入国の要請という条件の下で活動できるようになる、1999年には周辺事態法がつくられ、あくまでもアメリカの後方支援という形で海外に出る、日本の周辺との限定つきで海外に出せるような法律がつくられた。ところが2001年のアメリカのテロを受けてテロ対策特別措置法になると、インド洋にまで自衛隊が行けるようになって、さらに2003年、イラク復興支援特別措置法では、まだ戦争中のイラクに非戦闘地域と称して行けるようにした。

こうみると、1990年以降の自衛隊政策は、在るのは良いとして、それをどう海外で活動させるかに関心が移る。ところが、戦地のイラクにまで行くが、憲法9条があるから武力行使することはできない。武力行使ができると、今のアメリカとの力関係を考えると、イギリス軍がやったようなことは当然させられるだろう。憲法9条があるからさせられなくて済んだという言い方もできるかもしれない。

今朝の新聞では、石破さんの質問に安倍さんは「自衛隊を海外に出すための恒久法をつくりたい」と言ったと報じられている。常に内閣の判断で出すことはできず、国会の審議を経て一つひとつ法律をつくらなければ海外に出て行けない。手間がかかる。いつでも出せるようにしたい。

さらに、今までの自衛隊の活動の本務は、あくまでも国土防衛。海外に出てやる仕事は副業だった。ところが昨年の年末、防衛庁を防衛省に変えるときに、どさくさにまぎれて自衛隊法までいじって、海外での活動を本業に移した。本業に差し支えない範囲でやる副業と違って、いつでもやっていいということ。後は、いつでも出せるような法律を整えれば、本当に出ていける。さらに武力行使もできるようにすれば、完全にイギリス軍と変らない自衛隊になってしまう。

武力行使をさせるためには、憲法9条を変えるしかない。あるいはもう一つのウルトラC的技として、集団的自衛権の行使ができるようにすることで、アメリカという同盟国がドンパチに巻き込まれそうになったときには、日本も武力行使ができるようにする。こういうことを模索しているようだが、憲法9条の下での内閣法制局解釈に従うならば、難しい相談だと我々は思っている。やはり、海外で武力行使できる自衛隊にしたいのならば、憲法9条を変えるということにターゲットが絞られてくる。

何でそんなに自衛隊を海外に出して武力行使できるまでさせたいのか。ひとつはアメリカの要請、もう一つは国内からの要請、財界が強くこれを求めるようになっている。

1985年にプラザ合意があって、それまで日本の経済は国内で生産をして海外へ輸出をするというパターンだった。ところが、1985年以降、日本に対し円高政策が推し進められるようになり、円高で輸出が厳しくなる。困った財界は、海外に生産拠点を移し、アジア諸国を中心に日本資本の会社、工場等がたくさんでき、日本の権益ができた。その権益が脅かされた場合、アメリカだったら軍でにらみをきかす。日本はそういう力をもっていない。財界側から、何かのときはにらんでくれる体制をつくってくれと、それができることが、アメリカと一緒になって広い意味でのグローバルな秩序を守ることにつながる。石油の問題ひとつとってもどうするのか。そういう秩序づくりをするしかないという要請だ。

安倍さんは「美しい国へ」の中で、「企業の駐在員をはじめ、海外で活動している日本人はたくさんいる。犯罪者やテロリストに対して、『日本人に手をかけると日本国家が黙っていない』という姿勢を国家が見せることが、海外における日本人の経済活動を守ることにつながる」と述べるように、海外で活動している企業、いわゆる勝組みの利潤を守るためにもいつでも出せる体制をつくっておきたいということを確認しておきたい。

1 立憲主義に立脚する日本国憲法

大学の授業の最初に、日本国憲法の中で「憲法を尊重し擁護する義務」が明記されている人は誰かと聞く。多くの学生は「すべての国民」だと思っている。正しくは「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」。今年やって100人中正解は2名だけだった。

憲法は、ヨーロッパで、近代市民革命の後にできた。近代市民革命の前は、絶対主義とか絶対王政期、国王が王権神授の下、やりたい放題の政治をやった。それに対して、人々が「おかしい」と目覚める。イギリスのロックは「人は生まれながらにして、平等で幸せになる権利がある」と言い、そのきっかけを与えた。人々が立ち上がって、国王を打倒する。これが市民革命。倒された段階で、国王の権力がなくなるが、国家や社会には、リーダーが必要だ。そこで、リーダーは選ぶが、その役割はあくまでも人々を幸せにすること、「リーダーのために人々が従うのではなく、人々を幸せにするためのリーダー」。これをはっきり文書で契約を結ぶ。人々の側から文書で、権力側に対して、「こういうことをしてください。そのためにあなたに力を授けます。とともに、こんなことをやってもらっちゃ困ります。困ることをやった場合は、我々はあなたをリーダーとは認めませんよ」と。この契約書が憲法の起源になる。

憲法とは、国民の側が国家権力を持つ側に対する命令として、投げかけられる。なぜ国会が法律をつくることができるか、それは、憲法41条で「国会は立法機関である」と国民が国会に法をつくる権限を授けたということ。なぜ安倍さんを中心とする内閣が政治的権力をふるまえるのか。これは憲法65条で「行政権は内閣に属する」。国民には、19条で思想良心の自由、20条で宗教の自由、21条で表現の自由、22条で経済的自由、このような自由を国家権力に対して認めさせ、自由を侵害することは許さない。憲法は、国民が国家権力縛るための法だ。

憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」、政治に携わる人で政治的な力を持っている人は「この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」となる。日本国憲法が立憲主義という、国民が憲法で権力をしばるという考え方に基づいていることをこの条文で表している。

そもそも内閣総理大臣の側が「憲法を変えたい」と言うこと自体がおかしい。先ほど言った安倍さんの「私の手でつくりかえたい」という発言に、「憲法をわかっていないのではないか」という話とつながる。

ただし、憲法に改正条項を設けている。それを使って憲法を変える言い出しっぺは国会、国会は国家権力の担い手であると同時に国民の声の代表者でもある。従って国民の側から「こういう風に憲法を変えるべきだ」「環境権も明記すべきだ」という声が高らかに上がってきて、それを受けて国会の側が憲法を変えるために「環境権というのを加えましょう」という手続き、これが憲法を改正する際の正当な手続きだ。

内閣という政治権力の一番の担い手の側から「憲法を変えるべきだ」「憲法を変えたい」というのは、考え方からして立憲主義を破壊する発想に立つのではないかと思われる。

2 立憲主義を否定する改憲論

憲法は政治をする側が守らなければならない法だが、このような考え方自体をひっくり返したいという願望が自民党「新憲法草案」から伺える。「草案」の前文に「日本国民は帰属する国や社会を、愛情と責任感と気概をもって、自ら支え守る責務を共有し」とある。国民の側が国家や社会に尽くす責務を憲法に書き込もうとしている。

さらに、草案の12条は恐ろしい条文で「国民は自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないよう自由を享受し、権利を行使する義務を負う」とある。「徴兵制は国の方針だ。身体の自由や思想良心の自由の侵害を言っても、大きな国家的な責務として決めた限りは、個人の事柄よりも国家として決めた公益、公の秩序の方が優先する」という解釈が出てくる。憲法学の研究者でも、徴兵制を憲法違反とは言えなくなる。

今の憲法では、徴兵制は、@徴兵制は戦力だからできない(9条)。A嫌なことに無理矢理従事させられるというのは身体の自由の侵害(18条)。戦争は嫌だ、戦争のための訓練はしたくない、それをしろということになれば、思想良心の自由の侵害(19条)。従って徴兵制は、絶対採用できない。なし崩し的に、奉仕事業を盛り込みたいようだが、これも憲法18条とか19条に引っかかる余地が出てくる。

さらに、自民党の憲法理解は、「我々は憲法には最高法規としての国民行為規範という要素のあることを頭においている」と、つまり、「国民が従わなければならない、どうふるまうかを定める」、そういう法にしたいと言っている。

立憲主義を権力側から否定する。国民を「しつけたい」改憲論、「しつけ」文書としての憲法。そのような形にしようとしており、非常に危険に思われる。

国民が立憲主義を理解すれば、今の改憲論の在り様自体が「おかしい」という声が出てきそうだが、改憲論者たちは国民に十分理解してほしくない。「国会がやるのだから、まあ大丈夫だろう」「一部の偏った人たちだけが反発するのであって、ついてきてくれるよ」くらいの乗りで改憲をしたがっている。

憲法改正手続法案が今の国会に出ている。自民も民主も5月3日までの成立が願いのようだ。この法案は、去年の通常国会で出され、継続審議になった。出された段階で、与党案と民主党案は相当違った。例えば、先生や公務員は与党案では国民投票運動を禁止にした。違反者は懲役刑を含む刑罰を科そうとした。民主党は公務員や教員の運動禁止はダメだと言っていた。ところが、去年の秋からの臨時国会後半になり、自民と民主の間で相当妥協が進み、「公務員、教員は、国民投票運動を禁止するが、罰則はつけない」、という妥協点で落ち着いた。

憲法改正手続法案は、草の根運動を止めるための法律だ。メディアを利用する運動は野放しで、例えばタレントを使って、「やっぱ、今の憲法古いよね」なんていうコマーシャル流すことはOKだ。ところが、草の根運動、例えば、「憲法改正考えるフォーラム」をやるとする。その時に入場料をとらず、ざっくばらんに話そうとお茶など出したりする。これが引っかかる可能性が出てくる。お茶やケーキを無料で提供するとやばい。

どう理解してよいか分からない、法律のスペシャリストの弁護士も分からない、そんな条文が手続き法案にある。「組織より、多数の投票人に対し、憲法改正案に対する賛成又は反対の投票をし又はしないよう勧誘し、その投票をし、又はしないことの報酬として、金銭若しくは憲法改正案に対する賛成若しくは反対の投票をし、若しくはしないことに影響を与えるに足りる物品その他の財産上の利益若しくは、行使の職務の供与」これをやったなら、「3年以下の懲役若しくは禁固又は50万以下の罰金に処する」との条文。

ケーキなど出した「護憲集会」や、駅前で100円くらいしそうなパンフレットを「憲法改正を考えてみませんか」と無料で配るならば、狙い撃ちされる可能性が出てくる。「憲法は大問題だから、ご近所で考えたい」、「私のところでお食事会でカレーライスでも食べながら考えましょう」と、憲法や政治的な問題を、家族やご近所や職場である草の根のところから考えていくのが原点だと思うが、手続き法案の出した側は、「そういうことはやめて、正当とかメディアとかコマーシャルで流れるから皆さんは見ておいてください。投票日に来ていただけばそれで結構です」という発想。

国民の草の根運動の芽を摘む国民投票法だが、変えられた後、国民から支えられない憲法になってしまう。これは変えたがっている人たちにとっても、不幸だと思うが、力づくで変えたいようだ。

3 教育を通じての国家による国民統制

「日の丸・君が代」問題は、教師の問題と生徒の問題を2つに分けて考えてみる。

教職員に対して、とりわけ東京では、「日の丸に向かって立って君が代を歌えと」いう10・23通達が出され、それに基づいて、各学校長が職務命令を出した。

教員の中には「そんなことしたくない」「日の丸・君が代は、戦争の歴史と密接不可分。日の丸に向かったり、君が代を堂々と歌うことは自分の良心に照らし合わせてもできない」と主張する先生方がいるのは不思議ではない。それに対して、推進する側は、「一市民なら結構だが、公職を担う教員には私的な事柄でできないと言ってもらうと困る」「職務命令という形になれば、やるべきだ」という議論になる。

この議論に対して、2006年9月11日の東京地裁の判決が重要だ。

東京10・23通達に対して、裁判を起こすのは簡単なことではない。裁判は、@受け付けてもらえるか、A勝たなければならない、の2つのハードルがある。

靖国神社に総理が参拝をするのは、憲法20条の「政教分離の違反」だとほとんどの憲法学者は言っている。ところが裁判を起こせない。起こすには、民事の損害賠償請求訴訟にしても、行政の取り消し訴訟にしても、自分の権利が侵害されたことを裁判所に認めさせてはじめて裁判の扉が開く。憲法違反やっているのだから裁判所はちゃんと裁けよと言う前に、靖国参拝が個人の権利を侵害されたこと言ってからでなければ裁判は始まらない。

東京都の場合、先生方は予防訴訟という裁判を起こした。10・23通達が出た段階で、このままいけば、我々に卒業式で立つことが命令されるから、卒業式の前の段階で止めておく。我々には君が代を歌ったり、ピアノを伴奏したりする義務は不存在だということを裁判所に確認させる。こういう予防訴訟をやった。予防訴訟はまだ権利が侵害されていないから、非常に難しいとみていた。

東京地裁は「思想良心の自由は、精神的自由に関わる権利であるから、権利侵害があった後に処分取り消し請求とか、慰謝料請求ができるとしても、そもそも事後的救済になじみにくい権利である」「心に関わる問題は、一旦傷ついてしまうととりかえしがつかないから、傷ついた後での裁判は遅い。傷つく前にできる」と言った。一つ目のハードル突破で、二つ目のハードルは、日の丸・君が代に歌えとかピアノ弾けというのが、思想良心の侵害になるか。東京都は、「心の中の問題は憲法で保障されているから、心の中まで言うつもりはない。ただ、心在らずで結構だから歌ってほしい、日の丸の向かって立ってほしい」。これに対して、東京地裁は「日の丸・君が代は、明治時代以降、第二次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは、否定しがたい歴史的事実であり、国民の中に、日の丸・君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない」、その上で「人の内心領域の精神活動は、外部的行為と密接な関係を有するものであり、これを切り離して考えることは、困難かつ不自然である」と言って、「憲法で保障されている思想良心の自由の下で、日の丸・君が代に対する強制は、侵害になる」と、先生方の側を勝たせた。

教育基本法は、その後変えられたが、憲法は変っていない。その憲法が在る限り、こういう判決は、論理的には正当だから、このような議論の組み立てをしていけば、これから先もいき続けると思う。

次に、日の丸・君が代に向き合う生徒だが、生徒の中にもおそらく祖父や祖母から家で色々な話しを聞いて、違和感をもつ子どももいると思う。あるいは国籍が日本でない子どももいる。そういう生徒に対して、強制ではないが勧める形にはなっている。このような間接的強制は、ある種、少数派をあぶり出すような働きをするのではないか。これを教育の場でやって良いのかという問いかけをしたい。

もう一つは、日の丸・君が代に対して、まだ小学6年生でどう接してよいか分かっていない。どんな歴史があって、社会の中で違和感を持っている人たちが何で違和感を持っているかも分かっていない。分かっていない子どもたちに、卒業式に皆が立つし、立つように勧められるから自分も立つ、元気に歌う、ということは、ある種の生徒への刷り込み的な役割を果たすのではないか。厳粛な雰囲気のときは、この歌を歌わなければならないという、暗黙の雰囲気、これをつくり上げていこうとしているのではないだろうか。

これは、寛容、自由、互いに認め合うという民主主義社会の国家にとって、全く逆立ちしたことをやっているように見える。本来国がやるべきことは、なぜあの歌に違和感を持つ人がいるのか、どういう歴史があるからなのかを生徒に説明していく、こうやって、「あなたが立つか立たないかは別だが、立たない人はこういう思いで立たないのだから、その人たちの立場もわかろうね」という教育をすべきなのが国家の役割だろうと思うのだが、そうではなく、こういうときは立つのが当たり前という状況に持っていきたい。

ここの関わりで言うと、安倍さんの「美しい国へ」の中で、日の丸・君が代に対する記述は「自分は、日の丸・君が代に接すると荘重な思いになる。ところが、日本社会の中には日の丸・君が代に対して違和感を持つ人がいる。違和感を持つ人には根拠がない」と。なるのが当たり前で、違和感を持つ人は認められないと切捨てる。この発想が、柳沢発言にもつながる空気が、あの政府の中にはある。自分たちがやることは正しいことで、「結婚をして子どもを2人産むことは健全だ」と言う。国の側が人の生き方に対して、多様性を認めず、ある特定の生き方が健全だという発想で政策形成をしていくのであれば、相当問題の根が深いのではないかと思われる。

教育基本法改正のねらいは、大きく3つある。@国家の形成者を育てるに教育の目的が変った。心に関わる文言が新教育基本法にはたくさん出てくる。「豊かな情操と道徳心」「自主及び自立の精神」「公共の精神」「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」、そして「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」など。

あまり強調されていないが、15条に「教育において、宗教に関する一般的教養が尊重されなければならない」となっている。この「一般的な教養」は何を差すのか。簡単に言えばこれは戦前の修身の教科書に出てきて、1966年に「期待される人間像」という宗教心の報告に出てきた「宗教的情操」という言葉へとつないでいきたいのだろう。この「宗教的情操」とは、生命の根源であるとか、人の力を超えたもの、人の手におえないものに対する、恐れ、尊ぶ気持ち。この背後には神らしきものが出てくる。それに対する恐れ、尊ぶ気持ちを養わせたい。

これが出てくると見えてくる。なるほど、格差社会、戦争への道、こういったものが進む中で、若い人中心に社会に対して反発心、批判心というものが出てくる。しかし、自ずと出てくるような批判意識を育たせないために、情操教育、「人の力ではどうにもならないものがある、もっと従順になりなさい」「頑張りなさい、自分のできることを」こういう思いがにじみ出ているように読取れる。

A教員の役割の内容が変った。「全体の奉仕者」という文言があり、国の目を気にして教育するというよりも、自分のやることが国全体、国民全体、社会全体に対してどういう役割を担えるのか、それぞれの教員の自立性と責任に基づいて教育することができ、生徒たちと向き合うことができる。ところが、その言葉を消した上で、教員免許更新制度を導入する。国家や上の言い分をしっかりと聞ける教員を理想とした上で、免許更新制を引こうとしている。

B旭川学力テスト事件というのがあった。最高裁判決で、日本国憲法の想定している教育とはこのようなものだと言っている。後でシンポジウムのときにふれるが、そこでのエッセンスだけを言うと「国は教育、とりわけ中身について入り込むことを控えなければならない」というのが、教育に対する日本国憲法の一つの考え方だ。なぜなら、教育に入り込んだがゆえに、あの戦争を導いたという反省にたってのものだと思われる。ところが、新教育基本法は、教育の主導は国がやるのだという発想だ。国に入り込ませないために教育委員会等で地方にそれぞれまとめさせるというガードをつくってきたが、今国会では、教育委員会に対しても文部科学大臣から指令することや改善勧告ができるようにすると書かれていた。免許更新についても、基準をそれぞれの地方が決めるのではなく国が決めたいと今日の道新に載っていた。このように、国が教育に対して今までは入り込めなかったのが、入り込めるようにする、これが、「改正」教育基本法ということになる。

しかし、新教育基本法は、相当程度、日本国憲法の教育観と相入れない。だから、具体的なたたかいの場で、「しかし、憲法では」という議論ができるはずだ。憲法は国家の最高法、教育基本法はその下部にある法律、憲法の教育観がこれこそが良いものだという国民的な合意を形成していく作業をしながら、憲法とつき合わせて現場をみてほしいと思う。

 

<パネルデスカッション>

問題提起1 「いじめ問題」等管理強化が進む学校現場と「改正」教育基本法

谷村 好史氏(北見から教育を考える会会員)

1 私たちを取り巻く職場の現状

中学教師で副担、週20時間授業を受けもっている。

時間がない密度の高い仕事の中、部活もあり、生徒指導で悩んでも、教師同士で話し合う余裕もない。いじめの問題も話せず、情報交換できないようなギュウギュウ詰めの職場だ。

学校指導要領では、必ず年間980時間を超えなければならず、学校行事もあり非常に苦労している。教育再生会議で10%増と言っているが、土曜勤務か夏休みが半分なくなるかで、子どもたちの心の問題を解決するのに良い方には向かわないと思っている。

以前に比べ子ども達の扱いは大変になり、学級崩壊なども起きているが、2005年には、7,000人超が休職し、その半数以上がうつ病などの精神疾患だ。東京は、毎年1,000人から1,500人の新しい先生を採用しているが、それくらい辞める、やっていけない。

現場は、校長の権限が大きくなり、職員会議は伝達機関化されようとしている。生徒指導やいじめのことは行政が決めた形でしかやれなくなり、その中には非科学的で教育的立場の欠如したものもあり、百害あって一利なしと思う。

子ども達の現状は、習熟度別学習という名のもとに能力主義教育が進行し、できる子、普通の子、できない子、の3コースに分けられる。子ども達の中で優越感と劣等感がすごい状態で、子ども達の関係を壊すようなことが進行している。昔は勉強のできる子がリーダーになり、仲間を助けたが、今は全然違う。他人が困っているのをせせら笑うような表情すら伺える。例えば、部活動で勉強のできる子ができない子にきついサーブをうち、優越感をもつようなことが起きている。

関心、意欲、態度と言うことがはかられるようになり、子ども達はどのように見られるかに関心がいき、表面的にどう見られるかをやるから余計おかしくなった。影でいじめをしていても「絶対やっていません」と、いじめの実態を捕まえること事態が難しくなっている。

2 「いじめ問題」を考える

道教委の行った「いじめの調査アンケート」について、北教組の非協力が問題視されているので、実際に見てもらって検討してもらいたい。

いじめを一般的に規定できることはない。もし分かっているなら、今どうこう言われるようなことはないと思う。「悪口」「暴力」「おせっかい」「冷やかし」は人間関係でよく起きる普通のことで、そういう中で、関係を学んでいくものだと思っている。これがアンケートでは「いじめがある」となる。マルが多いのは小学校で低学年が多い。ゼロの学校はない。

教員用アンケートには協力しなかったが正しかったと思っている。どう答えても悪いとされる。学校用で「いじめがない」とあれば、道教委から指導があり、やり直しをさせられている。

見て見ぬ振りをする教師などいない。「いじめがある」と、悪い教員だとレッテルを貼られる。なるべく大事にならないように萎縮した状態で対応せざるを得ない。

アンケートに答えれば、120%教師が悪者になる。いじめは簡単に解決できるものでもなく、再生会議でいう厳罰主義でやれるのではない。意図的、非科学的な内容なので、協力しなかった。

10年前より今のほうが複雑になっていることは確かで、道教委は実態を把握するためというが、非常に難しい。調査結果の一部が公表されており、数字が一人歩きする。親に影響あることも確かだ。今は親が全部教育者のようになっている。

心の教育は難しい。伊吹文部科学大臣は修身のようなものだと言っている。

格差社会で、強い者が弱い者を蹴散らすことは当たり前になっている。親子の対話の暇がなくなっている。能力主義教育が浸透しており、何とかしなければならないと思う。

教育再生会議の提案内容は、悪化させるだけだ。生徒と教師、親たちが敵対するのではなく、手をつなぎ子どもの成長に尽力することだと思う。それに、教育現場へ行政を介入させないこと。30人以下学級や教員の定数増など、生徒に対する条件を整えていくことが急務だ。

 

問題提起2 子どもを持つ親としての責任と家庭教育

松谷 隆一氏(柏陽高校・商業高校PTA役員)

子どもが2人、高校生で、PTA役員を10年ほどやっている。保育所では、お父さんの参加も結構多かったが、中学校総会では3〜4人で、高校はもっと少なくなっている。

子どもは父母で育てるべきだと思ってずっと参加してきた。

親だけでなく、大人の責任も大きい。

耐震偽造事件が全国に蔓延し、「発掘あるある大辞典」の納豆が店からなくなるテレビの影響、視聴率アップの番組づくり、不二家の利益中心の社会的責任を果たさない企業の態度、パロマ湯沸器や北見のガス事故、等々、子ども達は大人たちがやっていることを見ている。

安倍内閣は、教育再生よりも大人再生をやらなければならない。

子どもたちを社会全体で育てていけるか、知らないうちに変な方向に向いている。私たちが変わらないと子どもたちも変らない。

戦争の悲惨な話は親たちから聞かされている。親として子どもたちを戦争にあわせたくない。ちゃんと説明できる信頼される父親になりたいと思い、色々と勉強している。これからもいろんな場面があれば、声を発信していきたいと思う。

 

問題提起3 教育の母なる憲法=「教育基本法」の具現化、公的社会教育として大事にしてきたこと、そしてこれから

若杉 鉄夫氏(オホーツク社会教育研究会代表)

社会教育主事として採用され、20年近く社会教育行政、教育委員会、公民館、図書館に携わってきた。今は現場を離れ、北見市役所にいる。

昨年12月15日に教育基本法改正がすんなり国会を通ってしまったことに、情けない、もどかしい思いで、ショックだった。本来、内閣が3〜4回もひっくり返って良いような重い法律だ。

教育基本法を母なる大元の憲法と位置づけ、それに結びつく社会教育法、学校教育法、図書館法、博物館法、教育委員会法や、地方教育行政の組織と運営に関する法律、教育公務員特例法がある。教育公務員特例法が「変な教員を辞めさせる」と改正されたように、徐々に下の法律が改悪される危機感を持っている。

オホーツク社会教育研究会は、1982年にオホーツク管内の情熱理論派と言われる担当者6人で組織し、現在40数名になっている。私共は、社会教育法や教育基本法を条例解釈しながら、社会教育の原理原則をどう貫いていくかということを大事にしてきた。それまでの社会教育は、学校行事や青年団活動など、行事屋とか団体指導屋型と言われていた。

要綱に「この会の会員は、思想信条の違いを互いに認め合って、平和憲法と教育基本法を基調として、住民自治の確立を目指し、社会教育の自由と住民の学習権を共に学ぶ住民社会教育担当者研究者で組織する」とある。最初は「思想信条を乗り越えて」だったが、話し合った結果、お互いの考え方の違いを認め合い、学習の1点で結びつこうとやっている。

現在、社会教育現場は半分もおらず、偉くなった方もいるが、40数回の研究会で学んでいる。

公的に北見地区社会教育研究会があり、20数年前、「公民館かコミュニティーセンターか」という議論があった。コミュニティーセンターは地方自治法で公の施設であり、しばりがなく、補助金の率が良い。私は公民館でなければだめだという議論をずっとやってきた。

北海道の公民館は非常に遅れており、貸館化している。法律では、教育機関として学校、図書館、公民館が定められ、公民館は大人の学習の館だ。

図書館、博物館は「無料の原則」で入場料、使用料をとってはいけない。同様に公民館も明記はないが、当然無料と解釈され、文部省も同じ見解だ。

当時、あちこちでコミュニティーセンターを建てようとしていた。津別と留辺蘂は新館化していたが、訓子府、置戸、端野が新築で、改善センターをやめさせ、公民館法に基づく公民館を建てた。知床の夢ホールも同じ。

なぜかというと、@無料の原則、A民意を反映させる公民館運営審議会委員が必置制となっている、B専門職員を配置する、がある。このように、公民館をきちんと生きたものにしていこうと、あちこちの町に公民館が実現した。

合併してショックだったのは、北見はずっと原則有料であること。留辺蘂は条例化し原則無料だが社会教育活動、学習活動、文化活動など実質無料。合併で、北見は文化団体が7割徴収で、常呂、端野、留辺蘂は全部タダ。市教委と随分やりあったが、これを3年間で調整しなければならない。町村は大人の学習を保障することが自己変革であり地域を変える力となるとの考え方にある。今後、有料化でつぶれるサークルが出てくる。既に端野で2割徴収すると2つの団体が解散になった。

また、オホーツク管内は、図書館の先進地で、置戸の貸出冊数が30年前に全国一になったとき1人8.7冊だった。当時の町村は0.5〜0.7冊で、良い活動は町村に広まり、女満別、訓子府、端野などで良い図書館ができた。私も携わり留辺蘂にも建った。市立図書館は悲しい現状で、紋別、網走が新館化したが、古い時代に3市は2冊いってない。それを町村が頑張ることで北見市も4〜5冊となった。町村が牽引者となったといえる。

公民館は社会教育では、民主主義の訓練場と位置づけられている。いわゆる無知と盲従に基づく専制から解放される唯一の機関だと。図書館のない町は知的無医村という考えだ。

考えない、体制に対して批判を言わない国民。知的情報を知り得たり、知恵をつけられたら困る。そのためには図書館や公民館をやめる。そうすれば愚民政策ができる。

今回の法改正は、社会教育の条文は少ししか変ってないように見える。生涯学習と社会教育と分かれたが、「個人の要望や社会の要請に応える」となり、今までの「家庭教育を含めて勤労の場所や社会で国・地方公共団体は奨励しなければならない」との国家の任務が180度変ったようにみている。教育とは存在の意識はないが、なくなると心に関わる。法律はもともと権力者への箍(たが)、その箍が外れ、国家が国民を教育する、しばるというふうに変っている。読み返すとそれらが巧妙に入ってきている。

教育は本来、誰からも、時の政治からも干渉されない。司法と同等の扱いで権力からの独立性がある。それが、時の権力に左右されることになる。ここで言いたいのは、子どももそうだが、かつて期待される国民とか人間像とかが出たが、「こういう大人にならなければダメですよ」と大人に対して心がけの問題として変っている。

もう一つ特徴的なのは、個人の要望、つまり私的利益のために社会教育をやると、非常に狭くとらえている。社会教育を矮小化し、どうなるかというと、先ほどの公民館の有料化の話で、自分たちが好きでやっているのだから受益者負担は当たり前、そこで指定管理者が出てくる。民間の市場開放だ。それから新自由主義とか新保守主義の考え方が反映されてくる。

このように、利用者からお金を取るのが当たり前になり、指定管理者によって館の魂が抜けてくる。

もう一つは、「社会の要請に応える」とある。教育の目標の中に、「こういう人間になりなさい」という意味で、「養う態度」というのがいっぱい出てくる。「養う態度」とは、社会の要請に応える、いわゆる社会奉仕活動とか、隣組とか、地域ぐるみ活動、これに参加しない人はダメな人間で村八分になるかも知れない。そのうち、町内会長から「国旗を掲揚しなさい」と回覧がきて、あそこの家は旗が上がってないとチェックされる。いわゆる異端者を認めない、考え方の違いを認めない、健常と異常、監視社会、健全という言葉。そういう社会になりやしないかと非常に危惧している。

最後のまとめとして、教育基本法改正の先がけは、東京都の石原知事だと思う。日の丸・君が代を強制しない国が悪いと言っている。社会教育の現場でも、東京都国分寺市で、文部科学省の補助を受けた講座があり、ジェンダーの講演会で講師の上野千鶴子氏にクレームがつき、不許可となった。補助金もダメで会場も貸さない。これは後で市と市民で話し合って解決するが、東京都は絶対ダメだという。本日の講演会のような奥野先生の講師はバツで、使用不許可。大人の学習内容の選定権は市民にあるが、権力側がそこまで入り込んでくる社会にならないかと危惧する。

 

<質疑応答>

○奥野先生が、草の根を阻止する目的があると言った。つぶされていられないので一生懸命頑張っているが、頑張っていれば、憲法を盾にして覆していくことができるか。また、重度心身障害児のお母さんたちとボランティア活動をやっている。障害をもった人たちは、人間としての尊厳、疎外感、人間だからそれを認めることこそ英智なわけで、そういう原点から教育基本法や憲法を取り組んでいくことが増えればよいが、なかなか自分の問題でないような気がして取り組んでいけない。連帯して10年でも20年でも死滅しないで取り組んでいけば覆すことができるか。

○教育委員の公選制が廃止されたが、中野区などで公選制に準じた取り組み方を守っていたと記憶している。国はどのようなことで廃止したか。教育委員会を5万人以下は統合すると新聞に出ていたが、教育委員会、教育委員のことについて聞きたい。初めて公民館の役割や社会教育の大切さを認識した。

○北教組はいじめのアンケートやらないと聞いたが、対案あったらお尋ねしたい。

○3つの社会化(@戦争のできる社会、A監視社会、B格差社会)の提起がされた。同じように思っている。子どもに関わる犯罪の扱いが多くなり、体感治安が悪くなっていると思わされる。滝川の女の子が自殺したということで様々な報道がなされ、国会でも話題になった。このことが、教育基本法改悪や今後の憲法改悪につながっているように思えてならない。自民党幹事長中心に北教組追及のチームを発足するということも出ていて、改憲や教育基本法改悪等大きなことをめざす力が働いてきているのではないかと思うが、話しがあれば伺いたい。

○松谷 先に退席するので、発言したい。今までは何でもお任せ主義で知らないうちに色々な方向に向いている。これからは皆さんが主体になり、参加して環境を変えていくのも皆さんの力だし、多くの視点で物事を見ていかないと大変なことになると色々な話を聞いて感じた。

○新聞の犯罪の取り扱いが多くなったと話されたが、戦争中も戦争を進めるための報道が多くなり、国のしめつけがあったと聞く。マスコミは国民がうけるものをつくるので、勝手にマスコミが作り出したという傾向があると聞く。今回もスコミ操作があるのではないか。テレビのワイドショーなど面白おかしく放送し、必要以上にあるから、犯罪国家のような雰囲気になっている。潜在的には犯罪の種類は変らなくバランス的にあって、数的にもそう変らない。日本は今危機だというような煽られ方をしているということもあり、その辺の真意を聞かせてもらいたい。

○谷村 いじめアンケートについて、今ものすごい影響で、色々なことを言われている。始めたのは12月上旬で、いじめの問題が出たのが、ちょうど教育基本法が衆議院で可決うんぬんのあたりから政府が騒ぎ出して、アンケートが現場に降りるのと比例して参議院で可決強行された。北教組が狙い撃ちされたと思うのは、日教組が教育基本法反対の国会前のたたかいをやろうと言わなかったので、北教組が全国に呼びかけた。テレビ報道はされなかったが、2回も1万人を超える大集会をやった。多分、それを狙い撃ちされたと思う。

いじめアンケート問題では、北教組本部は道教委に「こんなアンケートはやめなさい。色々な問題点を提起し、現場の我々が子ども達と接する時間をきちんと保障し、学級定員とか職員の定数増を図りながらやるべきだ」と話した。アンケートは強行された。これからどうすべきか北教組皆で考えていかなければならない。数字の公表は、3月頭に中間発表、3月末には最終報告があるようだが、現場を混乱に導くことと、子どもたちに新たないじめを見出すものでしかないので反対していかなければならない。

○若杉 北見市はどうだったか質問があった。答えにくいが、夜な夜な議論しあった情熱理論派の中に北見市の仲間もいた。当時、現場で一生懸命やり無料にはできなかったが2割負担にした。だんだん増えて、旧北見市は今年度からは8割にしようとしていた。

現場に理論をもち、熱い思いがある担当者がいれば、頑張れる。今の人的配置の中では、専門職が現場に少ない。図書館、公民館に人事のはけ口的なところもある。病院に医者が、学校に先生がいるように、公民館には公民館主事を、図書館には司書を置きなさい。置くからには学校出てきてからすぐにではなく、実務経験を蓄積していかないと良いものにならない。職員を鍛えるのは市民。主体は市民、職員と市民が一体になってやっていけば良いものができる。

公民館で言い忘れたのは、反省として公民館がカルチャーセンター化している。趣味、教養、娯楽的なもので終っている部分がある。「合併問題」は地域の課題、法律の中に「実生活に則するものをやりなさい」とあり、課題に即した学習機会を設けなければならない。合併に賛成、反対のどちらの先生も呼んでそういう場を提供するのが本来公民館の仕事だ。留辺蘂は公民館がやれなかったので、図書館が池上先生を呼んで「著者は語る」というようなタイトルでやった。

先日、私共の研究会で東大の社会教育の先生、佐藤一子氏を呼んだときに、「もう教育基本法が改正されて法は守ってくれない。箍(たが)も印籠(いんろう)もなくなった。それをあてにしていてはだめだ。地域の中でやれるところからやっていく。昔からの友人や思いの持っている人たちが10人や20人いるだろう。そこから活動していきましょう」と話された。私もそう思っている。ただ、期限がある。今やらなければならない。「改正されて1年以内」だ。学ぶ会、社会教育を考える会でも、読書会でも何でも良い。具体的に地域の中からやっていくことが大事だと思う。

 

<コメンティータ−まとめ>

コメント1 佐藤 毅氏(北見から教育を考える会・オホーツク自治研会員)

「改正」教育基本法は、憲法違反であり、子どもの権利条約からもはずれている。憲法98条には憲法が最高法規であり、第2項で条約の遵守がうたわれており、子どもの権利条約は守らなければならない。

2月1日に「北見から教育を考える会」は道教委いじめアンケート調査で要請書を提出し、教育長と1時間ばかり話したが、北見市教委は結果を公表しないと言った。パネラーも言っていたとおり教育現場は大変な状況になっている。

東京の教育実態が週刊紙に書かれていたが北見と全く変らないと思った。地方と東京が同じというのはすごく恐いことだ。

5月3日に、「北見から憲法を考える会」があるが、奥野先生に憲法を中心に語ってもらうので、是非参加してほしい。

 

コメント2 奥野 恒久氏(室蘭工業大助教授)

教育委員の公選制で質問があったが、自分の不勉強で正確に答えることができない。ただ、地方自治法をはじめ、憲法の地方自治法の本旨から、自治体がその気になれば教育委員、議会の在り様も含めて相当自由なことができる。そこを活用してやってきたということだと思う(注:最後に後日、奥野先生から送られてきた資料を掲載)。

犯罪と改憲動向、メディアとのつながりの質問があった。

子どもに関する扱いが増えているが、事件が多くなっているのではない。体感治安を悪化させている。犯罪のメディアの取り上げ方でも、テレビと新聞は違う。新聞は原因と結果、理由と結論を論理的に訴えかける。テレビはイメージ、情緒に訴え、理由、根拠は十分伝えられない。ところが、今、新聞よりもテレビがもっぱら情報源になっている。テレビでもニュースとワイドショーでは大きく違う。ワイドショーはゲーム感覚で伝えるところがある。「ズバット」という言葉を使う朝のワイドショー、これは、人々のフラストレーションのはけ口捜しとして、報道の素材が求められているのではないか。この方が視聴率が高まるし、スッキリ視聴者にさせると言われている。視聴者の側にも問題があるが、難しい話題より、犯罪、「皆さんにいつふりかかるかわかりませんよ、恐いですね」という問題が取り扱われる傾向にある。

なぜか、@視聴者が見たがる。うがった見方をすれば、いつ自分たちも苦しい側に追いやられるかわからないが、世の中にはもっと大変な人もいる、ここがはけ口になっているのではとその気がしないでもない。A犯罪報道で、国民の体感治安が悪くなれば、犯罪グッズが商品化されるなど商売がなりたつという、おかしな螺旋階段になってきている。

犯罪をクローズアップすると、刑法、刑事手続きは、いつ自分たちも被告人、加害者側になるかわからないということを前提としている。冤罪の危機を避けるためもあって、加害者をかばい手続きを保障するつくりになっている。「無罪の推定」と言う原則があり、手続きを受けて、裁判所が認定してはじめて犯罪者になる。警察に捕まりメディアで報じられた段階で犯罪者扱いするのはおかしな議論となる。ここが改憲論と結びつくだろうとみている。

なるはずがないと思っている多くの「健全な市民」を権力側が利用して、異端者を敵視し、排他しようとする論理、これが監視社会につながる。この監視社会が権力側に利用され、いつしか刑事手続きがガラッと変って、改憲論法につながる恐れがある。

草の根の可能性についてだが、この運動しかないと思っている。

同じ教育基本法でもタウンミーティングはバイト料を出さないと集らない。教育基本法に反対する人たちは雪が降ってもデモに行く、この差はすさまじく大きい。

9条を守る会は6,000を超えた。逆に「憲法を変える市民の会」はいくつあるのか。我々は手弁当でもやる。草の根運動は恐い。権力サイドもわかっている。ある意味、恐いから、草の根運動を押さえ込むような国民投票手続法案をつくりたがっている。

今が正念場で、今踏ん張ることによって、次の総理あたりから「我々の任期中に改憲は考えられない」との発言が出てくるところまで我々はやり続けなければいけない。ここで一旦キッチリかたをつけ、次の政権には憲法に基づく政治をさせるためにも、今まで憲法について国民が考えて議論する機会が少なかったかもしれないが、改憲論が出てきたからこそ、我々は憲法を考える機会を新たに手にしたかもしれない。そう思うと、憲法改悪反対とか、日本国憲法を守るとか、改めて憲法を我々のものにし直すという運動に何とかつなげていきたい。

最後に、旭川学力テスト訴訟において、最高裁は「@教育とは、本来、人間の内面的価値に関する文化的営みであって、党派的な政治的観念や、利害によって支配されるべきではない。教育的内容に対する国家的介入については、できるだけ抑制的であることが要請される。A教育は、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないということを本質的要請とする」、国からの命令で教育するのではなく、生徒と向き合うことが本質的な要請なのだということ。「Bことに個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を、子どもにうえつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、そして13条の規定からも許されない」、これが憲法上の教育についての最高裁の考え方なので、大いに使っていきたいと思う。

 

 奥野 恒久氏(室蘭工業大助教授)補足 ※後日送付された資料

<教育委員準公選制>

 1947年施行の教育基本法10条1項は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と規定していた。この規定は、「もしも学校が強力な民主主義の有効な機関になるべきものならば、それは人民と緊密な関係におかれなければならない」「各段階の教育行政を直接につかさどるべき教育関係者は、彼らが奉仕すべき人民に対して責を負うものとされることが重要である」というアメリカ教育使節団報告書の思想的影響を強く受けていた。この思想は、教育行政における民主化、分権、独立性の三原則に要約される。当時、政府は『教育基本法の解説』のなかで、「国民の意思と教育とが直結」することが大切で、「この国民の意思が教育と直結するためには、現実的な一般政治上の意思とは別に国民の教育に対する意思が表明され、それが教育のうえに反映するような組織が立てられる必要がある」として、アメリカで行われている教育委員会制度を採用したのである。

 1948年に制定された教育委員会法の下では、地方住民の直接選挙によって教育委員会が選ばれ、公選の教委が校長や教師を指導助言し、文部省も教育委員会に指導助言するという、話し合いを軸とする横の行政組織であった。ところが1956年、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の成立により教育委員会法は廃止され、第一に教育委員会は議会の同意のもとに長が任命することに、第二に教育委員会が教育長を任命しこれには文部大臣の承認を得ることに、そして第三に文部大臣は地方団体の長や教育委員会に教育事務に必要な措置を講ずるよう求めることができるようになった。「支配服従を軸とする官僚組織に一変した」とされるところである。

 そのようななか、1978年に東京都中野区では「中野区教育委員候補者選定に関する投票条例」が住民による直接請求(有権者の50分の1以上の署名を前提とする)によって成立した。美濃部革新都政の下である。これによると、区長の委員任命に先立って、委員の立候補者に対する区民投票が行われ、区長はその投票の結果を参考にしなければならないとされている。この条例をめぐっては、法律上区長の有する任命権が条例により同意権にまで制約され、結果的に奪われることになり法律に反しないか、という批判がある。しかし日本国憲法は「地方自治」を保障しており、住民自治の拡大をはかる「地方自治の本旨」からすると、教育委員準公選制を正当化することは十分可能だといえよう。

 もっとも、中野区では1995年の区議会で、自民党と民社党の両会派が準公選の廃止条例案を提出し、可決された。これにより15年つづいた準公選制は幕を閉じたのである。

 教育基本法の改悪を契機に、地方分権の動きに逆行するにもかかわらず、教育の国家統制が進められようとしている。教育委員の公選制を含め、改めて教育の民主化や分権化について冷静に論じることが必要であろう。

【参考文献】 ・ 渡辺洋三『日本における民主主義の状態』(岩波新書、1967)

・ 宗像誠也『教育と教育政策』(岩波新書、1961)

・ 宗像誠也編『教育基本法』(新評論、1966)

 

 

 

 

 

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