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沖縄の歴史

古代

南西諸島は、九州から台湾までの140余りの島々からなりたっている。これらは地殻変動などによって大陸と地続きになったり沈んだりしながら、約1万年前の氷河期の終わりに今の形に落ち着いた。琉球列島各地で大陸や本土に生息していた生物の化石が発見されていることがこのことを証明している。

沖縄の旧石器人として約1万8千年前の港川人の人骨が発見されている。これと同時にシカやイノシシの化石も出土している。港川人は日本人の祖先の人骨としては非常に貴重な存在であるが、人工遺物はまったく発見されていない。

先史時代の南西諸島の文化は大きく3つに分けられる。北部文化圏は種子島・屋久島などで、本土の文化の影響下にある。中部文化圏は奄美・沖縄諸島などで、縄文人が南下したあと独自の発展をした。ここでは弥生式土器も発見されているが弥生文化は定着せず、水稲農作は12世紀ごろに始まっている。水稲農作が始まるまでの前4600年から後1100年ころまでは貝塚時代であった。南部文化圏はフィリピンやインドネシアなどの南方系の文化の影響を受けた宮古・八重山などの先島諸島である。

当時の人々は洞窟や竪穴住居に住み、漁労や狩猟を営んでいた。また貝塚からは石器や土器、装飾品が発見されている。中部では貝塚時代中期になると台地に炉を持った竪穴住居を造り、大集落を形成するようになり狩猟と農耕を行っていた。貝塚時代後期には開元通宝も発見されており、大陸や南方と交易していたと思われる。

沖縄は、縄文時代頃までは本土と同質の文化を持っていたと考えられている。しかし、弥生時代に入り、本土に鉄器が入ってくると、沖縄は取り残される形となり、部落時代といわれる封鎖的な村落共同体の時代が続く。しかし、7世紀になると本土との交渉があり、大和朝廷への違使・入貢が行われた。9世紀になると、村落共同体内での階級文化がすすみ、政治的社会が成立し始め、11世紀頃には、各地に按司(アンジまたはアジ)とよばれる族長的支配者が発生した(按司時代)。

按司たちは本土から渡来した鉄器を、はじめは武器、後に工具・農具として利用し、社会変革をすすめ、次第に政治的支配者として成長していった。按司は抗争しながら結合していき、14世紀中頃に中山・南山・北山とよばれる3つの小国家が成立した。

三山時代と尚巴志
三山の分布

14世紀になると三山と呼ばれる小国家が発生する。北山はいまの今帰仁(なきじん)、中山はいまの浦添(うらそえ)、南山はいまの大里(おおざと)を中心としていた。

この頃、鉄器の農具が木器や石器や骨格器に変わって普及し、また、明に入貢し、沖縄と中国が公式交通を始めた。

1406年、按司であった巴志(はし)が反乱を起こし、中山王の武寧(ぶねい)を滅ぼしたうえ、1416年には北山王攀安知(はんあんち)を降ろし、1429年に南山王他魯毎(たるみ)を破って、三山を統一する(第一尚氏)。

これによって、沖縄に統一政権が誕生するが、1469年、王府の財務官をつとめていた金丸(かなまる)を中心とするクーデターで政権が変わり、金丸は尚円王(しょうえんおう)となって第二尚氏の始祖となった。第二尚氏は、明治の廃藩置県まで19代にわたって琉球王国を支配し続けた。

尚円の子で第二尚氏の第三代の王となった尚真は、中国の制度を取り入れ、中央集権国家を確立させた。仏教も導入されたが、一部の支配階級に広まっただけで、一般民衆の間には原始的な固有信仰が続いた。

島津の支配

1441年に足利義教(よしのり)は、弟義昭(よしあき)の謀反鎮圧のさい功労があったとして、島津邦国に琉球国を与えたとされている。しかし、琉球王国は支配関係を持たない独立した国家として存在していた。

 豊臣秀吉は島津義久を介して朝鮮侵略のための出費を命じたが、尚寧王がこれに従わなかったため、島津氏に侵略の口実を与える結果となった。1606年、島津氏は徳川家康に許可を得、1609年に兵三千と船百艘を出して、琉球を征服した。

当時は、豊臣秀吉の朝鮮侵略で、明は日本との貿易を禁止していたため、薩摩藩は琉球国を利用する必要があった。その為、征服後も琉球王国の名前だけは残されることになった。後に、中国との密貿易は、薩摩藩の大きな財源となった。

琉球処分

1858年、アメリカのペリーの艦隊が浦賀に現れる前に、まず沖縄にやってきた。もし、日本が開国しなかったら、代わりに沖縄を占領して補給基地にしようと考えていたからである。しかし、日本が日米修交条約を締結したため、沖縄占領は行われなかった。

1871年、廃藩置県により、琉球は鹿児島県の管轄下となり、1872年には琉球藩が設置された。1875年、松田道之が訪沖し、王朝の廃止、沖縄県の設置を通達した。このことは王朝の反発を招くことになる。1879年、松田道之は軍隊を引き連れ強引に廃藩置県を行った。1874年、台湾に漂着した宮古島の住人が現地人に殺害された事件をきっかけに起こった「征台の役」で日本は勝利し、清国に沖縄が日本の領土であることを認めさせた。79年、沖縄県が発足する。その後も、清国は79年にグラント前アメリカ大統領に琉球問題の調停を依頼するが、日本との交渉がまとまらなかった。

1880年、琉球の帰属に関して日本と清が争うことになる。行われた交渉での日本案は、沖縄諸島以北を日本領土にし、中国に近い宮古・八重山を中国領土にするもので、1871年の日清修好条規に日本商人が中国内部で欧米諸国なみの通商ができるように条文を追加したものであった。対して清案は、奄美諸島以北を日本領土にし、沖縄諸島を独立させ琉球王国を復活させ、宮古・八重山を中国領土にするというものでった。結局、修好条規の追加をめぐって国内市場の混乱をおそれた清が問題を棚上げにしたまま84年の日清戦争に突入し、日本が台湾まで占領することになったため、琉球問題は自然解決となった。このように沖縄の帰属問題では、日清両国が沖縄住民の意思を無視し、自分の利益のために沖縄の領土を利用したという倫理的問題があった。

明治政府は、沖縄の役人からほとんどの沖縄県民を追い出し、県外者で固め、ほとんど植民地のようにあつかった。

沖縄県政

沖縄県政では、旧支配層の協力を得るため急激な改革は避けられた。このことは沖縄の近代化に悪影響を与えた。一方、古い慣習の廃止や皇民化の推進といった政策も実行された。1898年には徴兵制度が実施される。国民の義務としての兵役を担うことにより、皇民臣民として認められると沖縄のマスコミ・インテリ層は認識した。

海外移民

1920年代には関東大震災、世界恐慌が起こり沖縄の主な生産品である砂糖の価格が暴落した。その結果、有名なソテツ地獄が起こることになる。また、多くの貧しい人々がハワイ、東南アジア、南米といった海外に移住していった。

方言論争と皇民化教育

姓名を大和風に 仲村渠なかんだり→中村なかむら、安慶名あげな→安田、大城うふぐすく→大城おおしろ
豚便所の廃止・裸足禁止・火葬の奨励
方言撲滅運動−日本の軍国主義により励行。沖縄県民が本土で方言のために恥辱されることも多かったため、盛んに進められることに。また、方言を話すものはスパイと見なされ禁止された。

沖縄県民の被差別意識が時の軍国主義にうまく利用される結果になってしまった。

南進政策と沖縄

第1次世界大戦後、ドイツの植民地だった南洋諸島は日本の信託統治領になっており、沖縄から多数の県民が農業・漁業移民として進出した。南洋諸島の気候・風土が沖縄県民に適格とされた。1942年、アメリカ軍が南洋諸島を次々に陥落すると、多数の在留邦人は激しい砲撃や集団自決により死亡した。南洋諸島における沖縄県民の死亡者は12,000人にのぼるとみられている。

沖縄戦

1942年,ミッドウェー海戦に破れた日本は戦線の縮小をよぎなくされ、沖縄が重要視されるようになった。1943年から沖縄諸島各地で飛行場の建設がはじまり、沖縄守備軍が創設される。そのため、建物や食料、労働力が現地から徴発された。44年には疎開もはじまるが、対馬丸がアメリカ潜水艦に撃沈され1,500人が死亡する事件が起こる。10月10日には那覇が空襲される。市街地の90%が焼失、琉球王朝時代の貴重な文化遺産が失われた。アメリカは、沖縄占領によって、日本の南方・中国地方との連絡網を断ち切り、本土への侵攻基地にしようとした。

このころから沖縄への空襲が激しくなり、45年3月26日米軍は慶良間諸島に上陸する。パニックになった住民は日本軍を頼って陣地に向かうが,先頭の邪魔になるとして追い返され,食料も無くなった住民が軍の命令で集団自決する事件が多発した。

4月1日,米軍は沖縄本島の中部西海岸に上陸し、中・北部飛行場を占領する。北部には国頭支隊が配置されていたが、米軍の攻撃の前に山中を逃げ回り、食料目的に住民を虐殺する事件がいくつも起こった。5月22日には沖縄守備軍は首里の司令部壕を放棄し、摩文仁に撤退する。摩文仁の自然壕にはすでに多くの避難民がおり、そこでも食料目的やスパイ容疑での住民虐殺が起こった。米軍は5月30日に首里を占領し、南部に攻め寄せた。6月23日には牛島司令官が自決し,守備軍の組織的抵抗は終わるが、9月7日に日本軍が正式に降伏文書に調印するまで戦闘は続いた。

沖縄戦の特徴を要約すると以下のようになる。

・勝ち目のない捨石作戦であり、本土防衛・国体(天皇制)維持のための時間かせぎであった
・住民を巻き込んだ唯一の地上戦が行われた
・住民対策が不十分であった上、民間人が根こそぎ戦場に動員されたため、軍人よりも一般住民(非戦闘員)の犠牲者のほうが多かった
・日本軍による住民殺害事件が多発した
直接手を下した例−スパイ容疑による虐殺、乳幼児殺害
死に追いやった例−日本軍の命令・指導による「集団自決」の強要。食料強奪、壕追い出し等が原因となって死亡

また、沖縄戦ではのべ130カ所にのぼる慰安所が設置され,その中には多くの朝鮮からの従軍慰安婦が強制的に連れてこられた。近年,そのまま沖縄に残った元慰安婦などが次第に証言をはじめており、社会問題化している。

アメリカ支配と本土復帰

1945年、太平洋戦争終結の際、沖縄はアメリカによって統治されることになり1946年沖縄民政府が設置された。1950年には知事と議会議員を公選によって決めることができる群島政府が設立される。群島政府で初代行政主席に選ばれた平良辰雄知事は社会大衆党を結成し、日本復帰を綱領に掲げた。これに危機感をもった米国民政府は1951年、臨時中央政府を設置し、親米派の比嘉秀平を行政主席に任命した。だが、1952年に設立した琉球政府でも復帰促進派が議会多数を占めたため、米国民政府は主席公選の公約に反し比嘉氏をそのまま琉球政府の行政主席に任命した。その後、主席公選を求める闘争が続き、1968年には米国民政府は主席公選を約束することになるが、1957年に反米的な瀬長那覇市長が当選すると市町村選挙法を改正して瀬長氏を追放するなど、1972年の本土復帰まで米国民政府は沖縄の行政の上に立ち支配を続けた。

米軍によって占領された沖縄の帰属問題は一時棚上げにされていたが、折からの冷戦の勃発と中国革命の進行によって沖縄の軍事基地としての重要性が急に高まることになる。アメリカ政府は南西諸島を日本から切り離し「防共の砦」とすることを決定すると、1949年から沖縄に本格的に軍事基地を建設し始め、ガリオア、エアロ資金を投入して社会インフラの整備も行った。1953年には米国民政府は土地収容令を公布し、銃剣とブルドーザーによって強制的に土地を奪い基地用地にした。沖縄の土地強制収容に対する訴えに答え、1956年プライス議員を代表とする調査団が沖縄を訪問しアメリカ議会でプライス勧告を報告したが、基地の重要性と強制収容を認める内容だったため、沖縄の各地で怒りの声が相次ぎ、島ぐるみの土地闘争へと発展していった。これに対し米軍は無期限のオフリミッツ(米人の立入禁止)を発動し、基地に依存する地域への経済封鎖を行った。最終的に沖縄は米軍基地の使用を認め、米軍側は適正な地代の支払いを認めることで決着した。

1960年、沖縄県祖国復帰協議会が、沖縄教職委員会、沖縄県青年団体協議会、官公労、革新政党、民主団体などによって結成され、祖国復帰運動が巻き起こる。沖縄返還が日米の外交問題の焦点となり、アメリカも経済成長を始めた日本に、反共・アジア安全保障を一部肩代わりさせた方がよいと考えるようになっていった。1965年、アメリカが北ベトナム爆撃を開始しベトナム戦争に本格的な介入を始める。沖縄でも嘉手納基地を中心にB52爆撃機が直接ベトナムへ飛び立っていった。沖縄には莫大なドルが落とされることになり、一時的なベトナム景気が訪れることになる。だが、ベトナム戦争の攻撃基地として利用された沖縄では沖縄住民も加害者だとする意識が芽生え、沖縄の復帰運動も基地の全面撤去を求める反戦・平和運動へと傾斜していった。

1968年、基地の即時・無条件・全面返還を掲げた革新系の屋良朝苗が主席選挙で当選。屋良氏は復帰後初の知事にもなった。1969年には「核抜き、本土並、72年返還」を基本方針とする日米共同宣言が発表されるが、基地の存続を前提としたものであり沖縄の住民の要求にはほど遠いものであった。

1970年、コザ市(沖縄市)で米兵の起こした交通事故を巡る処理をきっかけに群衆の不満が一気に爆発、5千人もの人が暴徒と化し、米人車両73台などを焼いた。また、1971年には基地を残したままの返還に怒った人々によって10万人規模のゼネストが2回行われた。デモ隊の中には基地に侵入して星条旗を焼き捨てるものや、右翼や警察と衝突して多数の負傷者をだした。

復帰後の沖縄

沖縄は1972年5月15日に本土に復帰することになる。しかし復帰後返還された米軍基地は全体の15%に止まり、いまだ日本の米軍基地の75%が沖縄に残されたままになっている。また、現在でも基地からの航空機騒音、環境破壊、米軍人等による犯罪が絶えない。また、経済格差是正のために5兆円近い開発資金が投入されたが、公共事業依存型の経済構造から抜け出せない体質を作った。一方で、場所によっては返還された土地の利用も進んできており、米軍基地への経済的依存は減少してきている。

復帰後の県政は基地や経済の問題が山積した中でスタートすることになる。屋良氏と後任の平良幸市の革新県政の間、CTS(石油備蓄基地)の誘致など産業振興が行われたが経済効果は薄かった。

1978年の知事選挙では、保守系の西銘順治が復帰後の革新県政の元でなかなか解決されない経済不況を批判して当選。1980年の県議会でも保守系が過半数を占めることになる。中央政府とつながった西銘県政の元では基地政策が後退したが、地域開発と国際交流を柱に打ち出し大型プロジェクトを推進した。西銘県政の元で一定の経済成長は果たされたが、公共事業や第3次産業に依存するという偏った経済構造を生み出すことになった。

1990年の知事選挙では保守分裂などによって、反戦平和・公正公平を掲げた革新系の大田昌秀が当選。1995年海兵隊員による少女暴行事件が起こると、軍用地の強制使用に伴う代理署名を拒否するが、裁判となり、1996年に最高裁で異例のスピード敗訴が決まった。1998年の知事選挙では、戦後最大の不況の中、中央政府と結びつき経済政策を唱えた保守系の稲嶺恵一が当選した。