2004 3月4日 ちょっといい話
人は、自分が得意としている分野ののオーソリティーと出会ったとき、勝負を挑みたくなってしまうものです。それが、公的な性格のものだったらなおさら。おまえ得意顔してるようだが、こんなマニアックなの知らないだろ!みたいな。 4月2日 去る3月27日、姉と妹と連れ立って原宿へnekonokoさん主催のアートマーケット“nokomart”へ
行って来ました。nekonokoさんはGOMESの投稿時代からのファンだったので、nekonokoさんのゴメスマンガグランプリ(河合克夫や辛酸なめこや館山克人を輩出した由緒正しき漫画賞)入選作『猫配り』が掲載されたGOMESを持っていってサインをしてもらいました。しかしnekonokoさんグッズを買いそびれてしまったのでただでサインだけさせてしまったかたちになってしまった。nekonokoさんごめんなさい。 5月11日 最近思いついた駄洒落たち 「セルジオ、あなたは本当に頑張ったわ。」「クリントはとってもかっこよかったですよ。」 「はいはい、エンニオも利口ね。」 「あそこの飲み屋さん、最近スポーツ用品も扱い始めたんだって。」 「なんてお店?」 「村さ来スポーツ」 「おととい、超新星爆発が発見されたんだよ。」 8月18日 苗字と名前の最初の文字を入れ替えてみました 膀胱騎兵ソトムズ 天才悪球少女タイちゃん メグンセス・プリ カナフル・パワ ひまがた やろお 以上 5月13日 「月長石」(ウィルキー・コリンズ 創元推理文庫)を読み終わった。謎解きはわりとあっけないけれども、もったいぶりが長い長い。ただ、その長さの元である、事件に関わる幾人もの人々の手記を連ねてゆくという構成が見事。手記同士が謎を補完しあうところは読み応えあります。 6月5日 映画の日に「真珠の耳飾の少女」という映画をみてきた。 フェルメールが代表作の一つである「真珠の耳飾の少女」を描く映画です。
使用人のグリート役のスカーレット・ヨハンソンがエロくて良かった。
肉屋の息子のピーター(うろ覚え)は、作劇上の当て馬って感じでちと可哀想。 「まて〜」「いや〜ん」「キャッキャッ」という古典的なシーンが登場する。
グリートに嫉妬して意地悪をするフェルメールの娘が恐ろしくかわいくない。 物陰から覗き見るシーンが多かったなあ。
「真珠の耳飾りの少女」出来上がり(うろおぼえ)。 グリートにモデルをさせるまでにセクハラまがいのことを散々しておきながら出来上がった絵はたいしてエロくない。 9月18日 オリンピックや先日再放送されたNHKの「にんげんドキュメント」を見ていて思ったのだが・・・室伏広治選手はブルース・リーに似ている!
これ、どう見てもドラゴン入ってるじゃないですか。 そういうわけで「キル・ビル」の続編がなんかが出来るならゴーゴー夕張の兄役とかで是非出演して欲しい。 12月28日更新 NHK教育で放送中のピタゴラスイッチはなぜ面白いのかということについて書きます。 車の部品は、分解されてしまうとどんな役割のために使われるものなのか、わからないものがある。そうなると、もしかしたらその部品はCMのために作られたものなのかもしれないと感じてしまうかもしれない・・・。 世の中の物事はいくつかの属性を持っています。たとえば、サッカーボールだったらそれは競技用具であり、同時に動物の革でもあり、球でもあり、円でもあり、白と黒という色でもあるわけです。 ピタゴラ装置のポイントは使われるパーツがいずれも日用品というところです。 こういった、意味を置き換えるという理知的な操作が、視覚的で生理的な快感の原則のもとにピタッとはまる、左脳の作業を右脳が纏め上げるときの、「分かった」という感覚が再現されるような、そんなあたりがピタゴラ全体を貫いている面白さではないかなあ。 ピタゴラのほかのコーナーでも、面白さはこういった「意味の置き換え」にもとめられると思う。 あと、1月3日の夜10時半からNHK教育で佐藤雅彦研究室が作ったアニメーションの特番が放送されるそうです。面白そうです。 2005年 1月15日 近所の公園に立ててあった看板。
「大声」をさらに細かく分類しているあたりに住民の怒りを感じますが、いかんせん「バカ笑声(バカワラ声?)」、「キャッキャ声」という語感が間抜けすぎる。 3月8日 トッド・ラングレンとやらないか
映画「テルミン」より 3月19日 「ローレライ」が観たーい。 うちの父は元自衛官で日本の近現代史に詳しいので、旧日本軍とか出てくる映画を見ていると、自前のオーディオコメンタリーをつけてくれるのです。「八甲田山」や「激動の昭和史 沖縄決戦」がよかったです。 6月12日 「ローレライ」観た・・・。でも、期待していたのよりもオタクっぽくなかったので少しガッカリ。それに、ストーリーをテーマに沿って要約すると「親父達が、若い世代に未来を託す」というようなものになると思うのだけど、肝心の若者達がほぼ何にもしないというのは如何なものか。妻夫木君はちょっとだけ役に立つけど、佐藤隆太のあの扱いはないでしょう。それともこれは、今の世相に対する皮肉になっているのだろうか!? 「ローレライ」は今ひとつ楽しめなかったけど、同じ日に見た「サマリア」と「PTU」が面白かったので満足できた。 「サマリア」は「悪い男」が面白かったキム・ギドク監督の作品。韓国の援交女子高生とその父親の話です。 「PTU」は、「ザ・ミッション/非情の掟」が面白かったジョニー・トウ監督の作品。これは、テーマなんかなくても―画面上で起こっていることがそれ自身しか指し示さないとしても、十分に面白い映画はできる、というお手本のようなものだと思う。香港の刑事が拳銃を無くしたことをきっかけに、機動隊やらマフィアやらが出入りをするさまを一晩の出来事として描いただけなのですが、セルジオ・レオーネの映画を見たあとような満足感をおぼえました。 7月31日 むしろ悔い改めよ
近所の教会。前日のお言葉が何だったのか気になるが 9月20日 「型技術」という雑誌の広告なのですが
『今、〜が熱い!』という特集見出しがいかにもマイナー雑誌っぽくて良いです。 10月8日 「さくらももこワールド ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌」の感想 テレビやまんがの「ちびまる子ちゃん」の得意技といえば、さくらももこが「ちびまる子」だった当時の、芸能や子供文化などの固有名詞をばんばんだすこと。それにくわえて、「あるある」ネタとか「いたいたそんなヤツ」ネタとかが感情移入の取っ掛かりになっていました。ところがこの映画の中では固有名詞ネタを出す事はほぼ封印されてます(山田が「傷だらけのローラ」と言うくらい?)。既成の歌謡曲が何曲か使用されていますがどれも当時の流行歌ではないですね。 そのかわり、日常の描写がものすごく充実しています。屋内の色々な小物や、画面の端に映るクラスメイトに道を通り過ぎる兄ちゃんなど群集一人一人の芝居まで、細かく描きこまれています。個人的には友蔵が隣組の小坂さんの引越しを回想するシーンの描きこみが良いです。 こういうのは「あるある」ネタに比べると即効性はないし、手間のかかる方法ではあるけれども、より一般的だし情緒的であると思います。登場人物の感動が、絵空事としてではなく、よりリアルなものとして迫ってくるような効果を支える力があると思います。 この作品からは「テレビの拡大版ではない、劇場ならではありえないことをやろう!」というスタッフの意気込みが感じられて嬉しいです。 あと、やっぱり、湯浅政明。「1969年のドラッグレース」で、ジュースを口にするまる子が橋の下に入るとき、色相も大幅に変えて影を表現するセンスがスゴイ。足をはやしたロールスロイスが言葉では例えようのない動きでワシワシと猛ダッシュ、その動きのイメージを損なわずにぐりぐり回りこみ、すごい画力だ!花輪くんの指をすり抜けるフィンチャーもビックリのカメラワークで悶絶。生い茂る木の葉が一瞬で鳥の群れに変わりあたりで滂沱。崖際を走る機関車はマインドゲームにもでてきたね。 他の音楽シーンは 2006年 1月1日 あけましてポメラニアン 「ちょっとだけ」「ひとりぐらいなら」というフレーズを使いたいなら標語でも作ったほうが効果的な気もするが、手っ取り早く新ジャンルを作っちゃいました。 1月12日 今日はひまだったので「魔女の宅急便」のオープニングに荒井由実の『中央フリーウェイ』を合わせてみました。 1月24日 「あらしのよるに」の感想 この映画のキャラクターたちは二本足で歩いたり、風呂敷包みを首からさげたり、自分たちと対立する集団の構成員と交友することを許さなかったりします。そしてもちろん、彼らは日本語で会話を交わします。そんななかで、劇中に台詞のなくなるシーンがみっつあります。冒頭と中盤の狩りのシーンと、雪山でガブと追っ手の狼たちが格闘するシーン。ここでは狼やヤギたちは動物としての鳴き声しか発しないです。 つまりこの映画のキャラクターたちは人間(社会の写し絵)としての世界と動物としての世界と、二つの世界を生きており、ガブとメイはそれぞれの世界で問題を抱えています。 ガブとメイが抱える人間としての問題とは、人を見た目だけで判断してもよいのかということと、自分のモラルと自分の属する社会のそれとが対立するときにいかに振舞うべきかということですね。これはふたりが駆け落ちを成功してみせることで解決しました。 しかし、彼らの動物としての問題、つまり食べるものと食べられるものという関係をいかに解消するかという問題は未解決のまま残ってしまっています。永遠に別れを告げるか、食べてあげるかのどちらかを選ばざるを得ないと思います(僕は雪洞のシーンで佐川一政さんを思い出してしまいました)。フィクションのなかで狼とヤギが友情を結ぶことは大いに結構なのですが、彼らを動物として描いているシーンが同じ作品のなかにある以上―この映画が現実と地続きの部分を持っている以上、緑の森で、本当にガブがメイを食べたくならないだろうか、心配でならないのです。お願いだからこんなに心配になる映画を作らないでください。 また、ガブは時としてメイを餌としてみてしまうのですが、メイがガブを捕食者としてみることは一度も無いんですね。それで、メイは天真爛漫にかわゆさを振りまく一方、ガブはひたすら耐え忍び、尽くす。このあたりにもフェアじゃないなあと感じるのですが、メイのわがままに付き合ってやったり、岩場で手を引いてやったり…なんか、楽しそうでいいなあ…と。そんな映画でした。 2月28日 妹がもりやすじさんの画集を買ってきたので見せてもらいました。うーむ、画が上手い。 森さんの画に関してはもののかたちがしっかりとれているという、そこにしびれる、あこがれるゥです。 もののかたちがとれている、というのはひとつの描線の指し示すものが全く揺るがないということです。 たとえば、顔の画のために円を描いたとしたら、その円は顔の輪郭線以外のなにものでもない、というような画力(これの対極として、しりあがり寿さんのような、描線それ自体の美しさでみせるタイプがあると思う)。 あまり関係ないですがアニメージュ文庫の「長靴をはいた猫」には、大塚康生さんともりやすじさんの座談が収められていています。前半はまともに作品とそのスタッフについて語っているのですが、後半は東映動画の恋愛事情を大塚さんがひたすら暴露するだけの展開でめちゃくちゃ面白いです。森さんまでも槍玉に挙げつつ自分に話を振られると、さらりとかわしてしまう大塚さんの達者振りが渋いです。 3月16日 いまさらですが「バス男」の感想 タイトルはアレですが、テーマの方向性は「電車男」の真逆を向いていますね。「電車男」がおたくから脱皮することの感動を描いた作品ならば、「バス男」はありのままの自分でいることのすばらしさを描いていると思います。 それが象徴的なのがクライマックスのダンスシーンです。対立候補のサマーのスキットは、いかにもレクリエーション的な垢抜けないものなのですが、ナポレオンのダンスは、かなりアダルトな振り付け。むしろこっちのほうがサマー達人気者が好みそうです。 しかし、ナポレオンの内的必然性が振り付けを選んだというわけではないですね。ナポレオンの内面はそれまでのナポレオンのまんまで、決して洗練されたセンスまで身につけたわけではないし、そもそも彼はそういう志向自体、持っていない。あえてたどたどしくされたままの演出がそれを良くあらわしています。このあたりのずれのセンスが絶妙で、大笑いのシーンになってます。 一方でこのシーンはものすごく感動的でもあります。「この程度でいいでしょう」と、少しお高くとまった気持ちがうかがえるサマーに対し、ナポレオンのただ、ひたすらなパワーが生徒たちの共感を得、半ば強引にリコおじさんの復縁、おばあちゃんの回復、ナポレオンの仲直りなど幸福的エピソードを呼び込んでゆく。ナポレオンはかっこいいダンスを披露できたからすごいのではなくて、ナポレオンのままでいるからすごいんです。 ダメ人間だからこそ持ちうる偏った情熱のエネルギーへの賛歌。これがこの映画の感動の源になっいるのだと思います。 4月10日 「ヒストリー・オブ・バイオレンス」の感想 強盗を返り討ちにして殺せばヒーローになるが、お金や楽しみのために人殺しをするような男は人間ではない。両者の差は明らかなようですが、あとに残るむごたらしい死体のまえではどんな理由もその場を取り繕うための嘘としか思えなくなります。 この映画を見て一番印象に残ったのは、暴力を行使するのにはもちろん、排除するのにも嘘が必要なのだということです。 息子のジャックがそのあたりをよく体現しています。二度目に悪ガキの挑発を受けたとき、衝動を抑えられずにボコボコにしてしまい、後で父親に「あいつはクズだった、皆も喜んでいる」などと釈明します。最初に悪ガキに突っかかられたときはなんとか冗談でケンカを回避することができたのに…。 暴力のエキスパート、トムはそんなことは百も承知であります。ジャックと違って、トムは衝動的に暴力を振るうことはありません(説教するときを除いて)。理性的に暴力を行使することで、かつての自分を遠ざけるための嘘を常に有効にするために。これまで三年間、嘘をつき続けて何事もなく暮らすことが出来たじゃないか。 しかし、嘘を信じ続けるための、エディとの関係を回復するための試みは見事に失敗します。二人の関係なんてものは嘘だということが明らかになっているからです。暴力とはまず人体が破壊されることであり、それは感覚によって受けとめられます。人は理性―嘘よりも、感覚を優先させずにはいられないです。エディはトムを前にして、思わず嘔吐してしまう。 トムは嘘を信じ続けるために、ギャングの兄の下に赴きます。しかし暴力が積み重ねられたあとでは、より重苦しい嘘を背負って帰らなければならなくなりました。 ラストシーンでは、それでもトムは家族に迎え入れられます。が、演出のタッチは寒々としています。おそらく彼らはこれからも家族として暮らしていくでしょう。しかし、その関係は嘘で固められているという、岸田秀から楽観性を抜いたようなあまりにも冷たい世界観が、提示されているようにおもえます。 4月11日皇居東御苑で、伊藤若冲の「動植綵絵」を見てきました。 すごいよこれは SF作家のアーサー・C・クラークは「高度に発展した科学技術は魔法と区別が付かない」といいましたがこれは科学のみならず技術一般にも当てはまりますね。とても人間が手で描いた絵ととは思えん。 造形や表現においてぬきんでた作品を残したひとは何人もいますが、描写を徹底することでここまでクレイジーな境地に達することができたのは若冲くらいのものでは。画面の前に立つだけで異次元感覚を味わうことができます。 展示場所が場所だけに、皇居見物のついでに立ち寄ったオジオバ集団と遭遇してしまうこともありますが、頼むから皇居まできて「いい仕事してますね〜」というのは勘弁してくれー。 4月25日 「ピノキオ」の感想 一応ピノキオは人間になることができてめでたしめでたしなんですが、ちょっと違和感が残りました。 ピノキオの良心、あるいは誘惑を絶つ心があまり人間的には見えないのです。良いことするにも悪いことするにも、行動がどうにもストレートなんですね。ピノキオは誘惑への追従と良心のはざまにいるようでいて、そうではない。 つまりかれは葛藤というものをしていないんですね。 対立するものであるはずの誘惑への追従と良心が、ゼペットの窮状を知らせる手紙を読む前と後ろと、全く別のところに置かれてしまっています。 はなしが終わった後もピノキオはよいことをしつづけるでしょうが、果たして良心の尊さを理解することはあるのだろうかとちょっと心配になる映画でした。 でもこんなことどうでもいいですよ。 あの魔法のような画面の美しさの前ではどんなけちをつけても瑕疵にすらならない気がする。作画ではストロンボリが異次元ですね。なかむらたかしに似ている(逆だ)。 アニメスタイルの井上俊之の20本に挙がってました。うつのみやさんも。ストロンボリはビル・タイトラという人が描いたそうです。 5月18日 昨年池袋文芸座の石井輝男追悼特集でもよおされたリリーフランキー×杉作J太郎トークショーのレポートをアップしてみます。 当日は日曜日で「直撃!地獄拳 大逆転」と「ポルノ時代劇 忘八武士道」の二本立てという狂ったような(実際狂っている)人気ラインナップだったため会場は超満員。立ち見すら不可能という異常事態でした。以下、どれがどっちの発言だったかは忘れてます。 ・石井監督の人柄というと作品から怖いひとを想像するかもしれないが、ダンディー、モダンといった言葉の似合う人で、繊細な所もあった。数人で喫茶店に入ったときには「今日は小銭がたくさんあるので私がもちます」と監督は言われた。持参のバッグを開けると、中には小銭がいっぱいに詰まっていた。 ・石井監督はとても酒に強かった。風邪は飲めば治るという信条があった。どれだけ飲んでも酔ったように見えることはなかったが、飲んだ帰りに車に乗っては反対車線にはみ出して走行していたという。タランティーノは来日時に石井監督と飲んでいたが、朝五時に「もう帰っても良いですか」と懇願していた。 ・リリーさんに対しては非常に優しかった。ただネコやハトなど動物が望みどおりの動きをしないときには「…ネコさあ!」とキレることもあったとか。「役者には優しかったが、動物には厳しかった」というリリーさんの言葉に「俺には、厳しかった…」としょんぼりする杉J先生。 ・杉J先生が女性の乳をもむシーンでのこと。はじめは女優さんの着衣が乱れないように遠慮がちに揉んでいたが石井監督から「杉ちゃん、もっとこうでしょ、こう!」と胸をはだけさせるよう演技指導が。しかし女優さんは胸を見せないという話で現場に着ており、スタッフも皆了承していた。OKが出ないので仕方なく要求どおりの揉み方をしたが、現場では実行犯の杉J先生が悪者になってしまい、結局その日は誰も口をきいてくれず、撮影が終わったあとも一人寂しく家に帰ったという。 ・石井監督の早撮りというスタイルは、スタッフとのあいだにギャップを生じさせることもあったようだ。石井監督と杉J先生が昼休みに昼食をとっているあいだ、照明のスタッフは作業を続けていた。自分達の昼休みが終わるとすぐに撮影を始めようとしたが、照明スタッフはまだ作業中。杉J先生がそのことをいうと「いいのいいの、あの人たちはほっておくといつまでもやってるんだから」と発言、杉Jは仰天してしまった。 ・石井監督は面白い逸話が多く、東映の他の監督について関係者の方に話を聞きに行ってもいつの間にか石井監督の話になってしまうこともしばしばだったとか。 ・「盲獣対一寸法師」はほぼゲリラ撮影。注意されそうになったら即撤収。「下の茶屋でおちあうぞ!」という捨てゼリフ?も決まっていたとか。 二人とも話したりないやら名残惜しいやらで十分ほど時間を延長してトークは終わりました。 6月17日 のび太の恐竜2006の感想 ジャイアンさん 表情のつけかたがすばらしいです。このあたりは「『東京ゴッドファーザーズ』の小西賢一」と聞いて期待するところにがっちりこたえてくれたという感じです。 ただ皆が期待しているからといって、出しっぱなしにすることなく、押すところと引くところとしっかりとメリハリをつけてあります。 最初のピー助との別れのシーンでも、海岸から歩み去るときののび太の表情はフラットなかんじです。その分ドラえもんのほうにのび太を気遣うような眼差しをさせてあって、うつろなような悲しいような微妙な感情を上手く表現してます。 マスクの男と会ったあとの話し合いのシーンでは、スネ夫のいらつきを表情ではなく腕や首をかくという芝居でみせてます。ジャイアンがのび太に同意して握手するときの表情も、エモーションは最高潮に達しているにもかかわらず、これ以上無いくらいシンプルなラインで描いてあったりします。 ここのジャイアンはものすっごくいい顔してるんです。レイアウトには「一番いいカオで」と演出指示が書いてあるに違いない。 で、しずかちゃんものび太、ジャイアンと同意見なんですが、ちょっと印象が違うんですよ。しずかちゃんには悪いが、彼女の意見はいかにも道徳的というか、模範解答的な印象があります。それに比べるとジャイアンは本当に自分の個性からの意見を言ってくれているんですよ。ジャイアンがここで彼の個性を見せてくれったていうのがこのシーンの感動につながっていると思います。シンプルな表情=素顔を見せてくれたっていくのは、こういうことだと思います。 つづくスネ夫がボロボロ泣くところも好き。直前の、自分の心の弱さを強気な態度で隠していたことの裏返しですね。 ここでわかるのが、本当の敵は自分自身であって、ハンター達は敵というよりも目的の障害にすぎないのだということです。原作ではきび団子を食べたティラノでなかなか痛快にハンターの基地を破壊していましたが、今作ではやってませんね。 この点に関する表情の演出で一番感心したのがピー助との別れのシーンです。ぼろぼろに泣いていたのび太が、別れ間際の間際に涙が晴れてすごく自然な笑顔になるんですよ。自分の別れを悲しむより、ピー助の幸福を喜ぶきもちの表現ですね(直前に泣き顔を無理やり笑顔にしようとするカットがあるのも効いている。抜かりがないっ)。こののび太の表情の変化には自分のためではなく誰かのために行動するというテーマが入ってるとおもいます。やっぱり絵のパワーはすごいなあと思ったです。 他に気がついたこと。 のび太たちがT・Pの手助けを受けなかったのは、もちろん最後まで自分達の力でやりきるということと、作劇的にはピー助が成長する時間をつくるためですね。ピー助は5人を背負えるまで大きくなりました。成長促進剤を使わなくてよかった。 ピー助を帰すことと自分達が帰ることが等価であることとする藤子F先生のアイデアは秀逸だとおもう。 海水浴をする前の「じゃ、いいわ」というときのしずかちゃんが、一瞬、二重になってかわいい。 のび太がうそつき呼ばわりされる教室のシーン。壁に貼ってある習字の課題は「真実」! 本当は「森久司!森久司!森久司!」と連呼するだけで終わりたかったけど頑張って感想を書いた。読んでくれたひとありがとう。 7月15日 ![]() とり・みきTシャツキター 8月20日 去る8月6日に、皇居東御苑に行って伊藤若冲の絵をみて来ました。 酒井抱一の絵もみれてよかったです。 抱一さんのすごいところは「手」の跡がまったく描写の邪魔になっていないところですね。どこから描き始めて、どこで力を入れて、どこで抜くか、全部あからさまであるのだけれど、それがモチーフの良さの素直な表現になっている。モチーフから手を経て絵まで、まっすぐつながっているのが気持ちイイ。 向かい合わせの位置に展示してあったんで特に対照的に見えたのですが、若冲は描く対象を、自分の世界に完全に引き寄せて絵を作っています。絵が自己完結してます。それを成立させる脅威の描写力は、手の跡をまったく残さず筆先よりも細かいものを描いているようにすらみえます。絵画という表現ジャンルの自立性が猛威を振るっています。 まっ、好き嫌いでゆうと僕は抱一さんのが好きですけどね。 時間があったんでディズニーアート展にも行ってきました。 なんというかアニメーションは芸術たり得る!という当時のスタッフの強い意志を感じました。オスカー・フィッシンガー作品をみて「ファンタジア」を作った、とかっだったら面白いですネ。(10・2付記 ディズニーは「ファンタジア」を作るとき実際にフィッシンガーを招聘していた。ちゃんと調べてから書かねば・・・)あと、Mary Blairという人のコンセプト・アートが素晴らしかったです。 ナイン・オールドメンのコーナーで流れていたビデオの、ミルト・カールの項にあったおばさんが驚いて椅子にしがみつくカット。はたと井上俊之の20本を思い出しました。そうか〜井上さんはコレのことを言っていたのか〜と得心して、「ビアンカの大冒険」のDVDをレンタルして帰りました。 9月21日 「時をかける少女」の感想 ネタバレまくり 千昭が告白した直後、振り返ると真琴はタイムリープをして既にいなくなっているというカットが印象に残っています。 このカットは奇妙です。 なぜなら、ここには映画の主人公が、別の場所に居るとか、死んでいるとかではなく、本当の意味で存在しないのだから。カットをどんなに長くしても、カメラをどこに振っても真琴は写せません。 そしてこのカットはとても恐ろしい。 なぜなら、ここにあるのは自分だけが存在しない世界だから。 自分が存在しないことは、究極の孤独です。自己とは他者との関係のうえにこそ存在するものならば、世界に自分以外の人がいないことと、世界に自分だけがいないことはおんなじです。 なぜ、真琴は孤独にならないといけなかったのか。それはもちろんタイムリープ能力のせいです。 この能力はなかなかすごい。真琴が最後のタイムリープで戻ってくるのは、高瀬君と替わってもらった後の実験室ではなく、映画が始まって10分位のところで描かれた実験室です。つまりタイムリープで移動できるのは真琴の時間軸=映画の時間軸です。ということはタイムリープとは自分の世界の法則に作用する一種のメタフィクショナルな能力なのであるといえます。 (そう考えると、タイムリープ発着時の消失・出現が直接描かれないのは、その瞬間にカメラは別のところを向いているから、というよりカットが割られることによってによって消えたり現れたりするからのように思ます) このほとんど神のような力は、思春期に抱きがちな「俺は何でも出来る」的な全能感のメタファーなのだとおもいます。ただ、ホントにそんな力を得てしまえば、ひとりぼっちになってしまうでしょう。千昭とはどうもよそよそしくなってしまうし、知っているはずのないことをしゃべれば下級生三人組はあとずさってゆく。神は孤高なのだ。 まあ、そこまでの能力に無自覚なのが真琴の可愛いところですね。土手の上で「一人勝ちよーん」と高笑いして遠くを見つめるカットによく表れていると思います。で、ここはラストの雲を見上げるカットと対比になっています。夕景と青空、バッターとピッチャー、一人と複数。土手とグラウンド、左向きと右向き。最大の違いは真琴の抱く充実感が過去に対するものか、現在にたいするものか、というところですね。 また、タイムリープの全能性と対比になっているのがタイムリープ出発時の全力疾走と、到着時の転倒。この自分の体に縛られることの無様さは、一種の歯止めになっているのだと思います。 そしてその裏返しの、自分が現在ここに「いる」ことの素晴らしさを描いたのが、あのクライマックスの全力疾走なのだとおもいます。 「山下高明!山下高明!山下高明!」と連呼したくなる作品を期待していたのですが・・・!山下さんパートは時間の止まった点描写のところか? 10月24日 「映画クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡 」の感想 アクションが素晴らしかったです。 空港ロビー、スーパーマーケット、山の中、ビルのてっぺんと、バリエーションに富んだ舞台設定とそれを生かしきる演出が見事でした。屋上の高さの表現とか、感心しました。作画のスタイルを比べてみるのも面白かった。個人的には珠黄泉本部一階のムチムチ感が好き。 バトルは全て肉弾戦。相手に与えられるダメージは自分の力の量だけで、感情や正義感などによる上乗せはできない。また、ヘクソン対珠由良七人衆のシーンでは、ヘクソンが締め技と打撃技を使い分けているところを描いていたりして、理屈でアクションを設計、展開している感じですね。クライマックスでも、歌を歌って心を空にして、テレパシーを封じる…という理屈で決着がつくことになっています。が、実際の映像を見ると、ひろしとみさえの夫婦愛の力、さらにいえば歌そのものの力でヘクソンを倒したようにしかみえない。ロジックを積み重ねて積み重ねて重ねきったところでバーン!とエモーションがひっくり返してしまうのがこのシーンの感動ですね。 もう一つ、青森から東京に向かうシーンも同じく感情が理屈をぶっちぎってて素晴らしいです。他には無人駅でのひろしと東松山よねのシーンもよかったです。 1月2日 あけまして、おめでとう、ございます! 昨日のことですが、友人の家で新年会をやるので、近所のダイエーに買い物に行きました。すると、7階で古本市開催中という看板がでているではありませんか。 「ひとつ冷やかしに行くか」などとぶらりと覗いてみると、百均棚にあったよ! ![]() 「梅田地下オデッセイ」! 今年は、TSUITERU!? 1月25日 「金田一少年の事件簿」のエンディング。 かっこいい。 3月16日 2006年にみた映画ベスト10!!発表!! 10位 「劇場版NARUTO 大興奮!みかづき島のアニマル騒動だってばよ」(都留稔幸) ロック・リーの活躍が嬉しかった。海岸でのバトルに敗れた後、ナルトとうちひしがれているところがベストカット。 9位 「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ」(ニック・パーク) ノスタルジーとテクノロジーの融合!アニメならではありえない幸福感に陶酔! 8位 「柔道竜虎房」(ジョニー・トー) トーさんの映画が面白いのは、それが映画だからだ!今年もありがとう。 7位 「狂った野獣」(中島貞夫) プログラムピクチャーの真髄をまざまざとみせつけられた。 5位 「しとやかな獣」(川島雄三) 生活様式が変わると、文化のありようも変わってゆく。川島作品は、野暮と粋の対立が、スリリング!そしてミヤコ蝶々、好きなんだ。 5位 「接吻泥棒」(川島雄三) 新珠三千代、好きなんだ。 4位 「結婚のすべて」(岡本喜八) 岡本喜八は最初から岡本喜八だった。団令子のシーンほか、ワンカットでも俳優の個性を描出!幕間に「スーパージェネレイション」をかけるシネマアートン下北沢がニクイ! 3位 「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム) 現実に対する決別のごとく、目を見開いたまま幻想を見続けるラストカットのローズが印象的。 2位 「ゲド戦記」(吾郎) 「ゲド戦記」に関する与太話というか妄想 『 点は、無と線分との間の共通の限界であって、無でもなければ線でもなく、無と線との中間に位置を占めるものではない。したがって、無の終わりと線の始まりはたがいに接触してはいるが、連続してはいない。しかも、このように接触するところに点はある。』 レオナルド・ダ・ヴィンチ(森毅「数学の歴史」より孫引き) ゲド戦記を見ながらぼくはこの言葉を思い出していた。 というのも、この言葉は作中で語られる、「命」のありようと対応しているように思えるからだ。 ゲドやテルーは、アレンに、生と死は等価であり、どちらかだけでは「いのち」はありえない。両者のあいだにこそ「いのち」は存在すると説く。 この観点から、生を捨てようとするアレンと、死から逃れようとするクモは等しく批判される。 この考え方は、アニメーションそのものをも指し示しているように思える。 止まった絵の連続であるはずのアニメーションはなぜ動いて見えるのか。 それは絵が現れて、消えるときに網膜に生じる残像現象が絵と絵の間を動きとして埋めるからである。 同じ絵を写し続けていても、また暗闇だけでもアニメーションは存在しない。その両方が必要なのだ。 つまりアニメーションは生成と消滅の繰り返しの狭間に存在するものなのだ(4・21付記 この網膜の残像現象による解説はまちがいで、動き」は脳内で生じるものらしい)。 そしてこのことを物語中の表現としてギリギリの線で落とし込んだのが、テルーが姿を変えるシーンであると思う。 カットが変わると、いつの間にか変身は完了している。描かれるのは姿を変える前と後だけで、中間形態の描写は省かれている。 極端に考えると、カットを割るという、映画的(=アニメーション的)手続きをとることによって、姿を変えている。 テルーの、有言実行というわけ。 ゲドが顔を変えるシーン、沼地でアレンを襲うまぼろしにも同じことが言えると思う。 一方で、クモが変身するときには、身体の輪郭を大きく変化させるところが描写されている。 また、クモは魔法の力によって、身体をスライム状にさせる。 手を触れずに人やものを傷つけることができるのはこの不定形さゆえである。 不定形なものは得体が知れない。得体が知れないものには名前をつけることができない。 そのような、「非存在」とでもいうようなものは、ゲドやテルーの説く「いのち」とは対極の位置にある。 この、テルーとクモとの変身描写の対比は、「アニメーションの原理」と「アニメーションの得意技」との対比でもあると思う。 さらにいえば、「ゲド戦記」と「それまでのジブリ映画」との対比でもあると思う。 (テレビ放映された「ハウルの動く城」を観て気づいたのだけれど、この作品ではカルシファーはじめ、ソフィー、ハウル、荒地の魔女に、引越しのシーン、クライマックスの城が崩れるところなど、あらゆるものが変形する。そしてそれらは生成にしろ破壊にしろ、すべて生命感の表現になっている) と、まあ、このようなことを表現として成立させた「ゲド戦記」に、ぼくはいたく感動したのだった(自分自身に感動しているのかも)。 1位 「女獄門帖 引き裂かれた尼僧」(牧口雄二) 大井武蔵野館で初めてみてビックリして、8年ぶりの再会! 以上 3月26日 衛星アニメ(こども)劇場祭り
Pirates of Dark Water
Korean anime 2020 Wonder Kiddy OP Japanese version ulysses31 Flipper Doctor Who Fourth Doctor Intro opening title to pole position from the collectors dvd Casper and Friends - Hebrew Version Inspector Gadget Heathcliff cartoon intro David el Gnomo. Spanish Opening Final Capitulo David El Gnomo Rainbow Bright-Rainbow Night Star Com Galaxy Highschool 1-1 Get Along Gang 衛星アニメ劇場 島崎路子 Spiral Zone (Opening) Reporter Blues
Ironman intro Shazam! (Animated) - Opening Titles Blackstar Intro 衛星アニメ(こども)劇場祭り 補遺篇 前回の衛星アニメ祭りを開催するに当たって、アニメージュの付録のパーフェクトデータブック(99年版)と80's Cartoons Intro Overload!という、アニメのオープニングだけをひたすらつないだファイルが大いに参考になった。今回はその中から気になったタイトルを中心に面白いオープニングを紹介します。
He Man New Adventures
Adventures of the Galaxy Rangers intro
Visionaries
Captain planet intro
Cops: Central Organization of Police Specialists : INTRO
Swat Cat Episode 1 Part 1
Silverhawks intro
Thundercats
Bravestar
Mighty Orbots Introduction
De Wuzzles
The littles
Bionic Six - Intro
Chuck Norris: Karate Commandos
Mr.T Intro
Jem Opening
2nd Jem AMV by Shadowsaturn
1st Jem AMV By Shadowsaturn
muppet babies
Muppet Babies Opening Theme
GI JOE THE MOVIE (Intro)
My Little Pony Tales Opening
Beetle Juice
Beetlejuice 6月20日 山口正人著「任侠沈没」1巻(日本文芸社) わーい! わーい! わーい! 「任侠沈没」の1巻が出たぞーい! 雑誌で読みはじめたのが5話からなのでこれはとても嬉しい。 どうゆうお話のまんがかというと、龍伍というやくざの若頭が妻子を殺されてしまいます。犯人は現在東京にいる自分の組の組長らしい。復讐を決意した龍伍はその後を追い東京に向かいます。 道中のバスの中で、龍伍は部下に活を入れます。 「俺は組のために組長の息子を斬った! 組長はその腹いせに俺の妻と子供を殺した! あいこなんて筋違い! だから俺は親を斬る 付いてきたい奴だけ付いてこい 降りたい奴は降りろ! 邪魔する奴はぶった斬る!」 「おお・・・兄貴が燃えている・・・」 「い・・・いや違う 火柱だ〜〜〜ッ!!」 「噴火!」 実際の火山活動を「怒りの炎」と見間違えるとゆう、漫画のミラクルとしか言いようのない素晴らしいシーンなのですが、全編こんな感じです。作者が漫画を描く喜びに打ち震えていることだけは間違いない。 とりあえず北嶋博明+鈴木ダイの「A-D.O.G.S」、黒田洋介+戸田泰成の「スクライド」、倉田英之+山田秋太郎の「サムライジ」あたりが好きだった人にはオススメの作品です。 8月9日 オリンピックアトランタ大会開会式の影絵 http://www.youtube.com/watch?v=CAFhNobJABU もう一度見たい見たいと思いつつも、YOUTUBEとむすびつかなかった。今日なんとなく発見、感動。 影絵としてひねったことはほとんどやってない。影絵というより映像としてスゴイ。影は全ての映像の始原で、やっぱりそういうものが究極的な強さを持つのか?と思った。 8月13日 山口正人著「任侠沈没」2巻(日本文芸社) わーい! わーい! わーい! 「任侠沈没」の2巻が出たぞーい! 雑誌では飛び飛びでしか読めなかったのでこれはとても嬉しい。 どうゆうお話のまんがかについては日本一「任侠沈没」に詳しいなめくじ長屋さんを参照してください。 2巻は1巻にも増して狙いすぎ感がありますが、龍伍さんの、自分のやっていることがギャグだとは微塵も思ってないところは相変わらずでめちゃくちゃ面白いことは間違いないです。鈴木則文監督の映画の感覚に近い。映画秘宝のまんがページでインタビューしてほしいです。 別冊ゴラクの今号によると、単行本最終3巻が10月発売とのこで・・・それまでは死ねないんで、とりあえず赤信号は渡らないようにします 10月16日 山口正人著「任侠沈没」3巻(日本文芸社) わーい! わーい! わーい! 「任侠沈没」の3巻が出たぞーい! 完結した!そして超漫画になった! もはや突っ込むとかいうより、ぼくは温かい目で見守り全てを受け入れたい気持ちでいっぱいです。お見事でした。 あと関係ないですが、「プロキング」というテレビ番組でとり・みき先生が大平透さんの似顔絵とシンプソンズのホーマーの柄の入ったTシャツをお召しになっていました。その意見自体に対しても、そういう手段で意見を主張できてしまうとり先生に対しても感動した。 2008年 3月31日 「映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝」の感想 渡辺歩監督はドラえもんより宮崎駿のほうが好きなんじゃないだろうか−というのはもちろん飛躍した結論だし、例えそうだとしても全否定するつもりはないのだけど、ドラえもん好きな心に引っかかったので書いてみる。 ラピュタのすれ違いざまにキャッチとか、カリオストロの歩きながら着替えとか、随所で宮崎作品を連想しながら見てしまったが「決定的だ…」と思ったのが、のび太とキー坊が手を取り合って高速回転し空中に舞い上がるも、タケコプターを持っていないのに気づき落下してしまうというシーン。ここで「カリオストロの城」のルパンの大ジャンプ、あるいは押井守が批判したことで有名な「未来少年コナン」のラナ救出飛び降りジ〜ンを思い出してしまったのは僕だけではありますまい。気持ちの高揚の、「空を飛ぶ映像」というレトリックによる表現と思いきや実際に空中にいた、というわけだ。漫画的表現と物理現象の転換の面白さ、あるいは人物を芝居や演出という映画的技法に頼ることなくアニメーションそのものが持つ抽象性、造形性で表現する面白さがあるのはわかる。でも、それを「ドラえもん」でやるってのはどうよ。ただ嬉しいというだけで「空を飛ぶ映像」が出てくるのはのはいい。ただ、そこにどうして理屈付けがあってはいけなかったのか。ギリギリ日常に止まる、最後には日常に帰ってくるっていうドラえもんの好きなところをこのシーンは踏み越えてしまっていると思った。 ついでに、ラストのキー坊とのび太達の言葉が通じるようになるシーン。ここって「魔女の宅急便」の、キキがジジの言葉を理解できなくなるくだりとにてないかな?もし意図的になぞったのだとしたら順序を逆にしているあたりさすがに上手いと思うが。 さらに突っ込むと敵方の「地球からみるとやってることはエコロジー、でも本人達は全く無自覚なただの排他主義者」という設定。これ自体はとても面白い(し、F先生的である)けどうまく消化しきれていない気がする。そのせいで三宅裕司の説教で締め、という困った構成がひねりだされたのでは、と思った。 あとはジャイアン相変わらず愛されてましたなあ。スネ夫にももっと愛を。 映像的には例によって最高峰で、特に作画の統一がスゴかった(中盤ちょっと息切れしてたけど)。商店街とか住宅地のレイアウトも渡辺監督らしくてカッコ良かった。「ぼくの生まれた日」を思いおこさせるラストシーンもまた、渡辺監督らしいドラ愛にあふれていてグッときた!以上! 7月1日 「ミスト」の感想 これはすごかった・・・。 人の死に様がすごかった。怪獣に上半身食いちぎられて死ぬ、巨大な節足動物の粘液にとらわれ、体の内側から無数の幼虫に食い破られて死ぬ、ガソリンの入ったバケツに引っかかって転び、火だるまになって死ぬ、不気味な羽虫に刺され、頭が二倍にも膨れ上がって死ぬ、極度の心労で気が付いたら(付かないんだけど)いつの間にか死んでいたりもする・・・。 中でもラストで描かれる、ある死にかたは、タイプすることも憚られるほどおぞましい。これはおそらく、それまで主人公達(と観客)を追い詰めてきた信仰心の正反対にメーターが振り切れてしまった結果で、これがこの映画の主張なのだと思った。どんな風にも解釈のしようのない、絶望がただ広がる世界で、人はどう生きてゆけばよいのかと。しかし、その後に続く展開で、それはあっさりひっくり返される。なんで。じゃあ、どうすればいいというのか・・・。 安直な希望と、甘い絶望を引いたときに後に残るのは、ただ必要十分な、人間の営みなのだと思う。食べて寝て排泄して、仕事をする。一番強いものは、人間と自然の中間にあるようなものにひたすら従事することなのではないか・・・。エンドクレジットで響き渡るタンクの走行音にヘリのローター音と、それらに今にもかき消されてしまいそうな足音を聞きながら、そんなことを考えた。 一番強いのものが人間だとしても、この映画の中で一番怖いものもまた人間である。とにかく怖かったのが人は信じたいものしか信じないということ。黒人の弁護士のおっさんは、今見てきたことをありのままに話されて(証拠もあるというのに)も、自分が相手に好感を持っていないということだけでかたくなに信じない。一方で篤信過剰なおばさんに扇動された人々は、異次元がどうたらという恐ろしく飛躍している「うわさ」に過ぎない話であろうと、責任を負わせられる対象ができるというだけで、あっさりと信じてしまう。そして信じるものが違うというだけで、相手の人格からなにから全否定してしまう怖さ。このへんは人事でない、ごくありふれた話である。 それにしても、このお話でどうして怪獣なのか?霧なのか? どくろの形をした頭を持った巨大昆虫がでてきたことから、怪獣は死そのものの象徴なのだろう。霧についてはまず、もしも霧がある時期ではれてしまっていたら・・・と考えてみたい。もしも視界が完全に開けていたら、映画は全く違った展開になっていたはずだ。怪獣の正体は分からなくても、姿かたちや、どこに、どのくらいの数でいるのかは掴めるし、より積極的な対応ができただろう。早い時期に外にうってでて、外部とコミュニケーションをとることもできただろう。 怪獣たちが潜む霧の中に、閉じ込められている。そこに何かがいるのは、分かっている。怖いのは、いつ、どこから、何が、どのように襲ってくるのが全く分からないということだ。主人公達が向き合っているこの状況は、人の死に対する認識そのものなのだと思う。自分がいつか死ぬことは、みんな知っている。それでも死ぬことが怖いのは、いつ、どうやって死ぬのか、死んだらどうなるのか、分からないからだ。「ミスト」における霧とは、そういう抽象的なものを映画的、具体的かつシンプルに表す仕掛けであって、このアイデアにはいたく感心しました。 関係ないけどアンナ・カヴァンの「氷」を読んだらラストがちょっと似てた。 7月2日 「ピアノの森」の感想 自然(海)と人工(修平)の対立という構図で、どちらに優劣をつけるというわけでもないところが面白かった。 「自然」‐「人工」を「音」‐「楽譜」という対立に置き換えてみると、森のピアノを弾けるか弾けないか、という違いのゆえんが分かるように思う。 音楽教育を受けておらず、楽譜を読めないがゆえに音楽を「音」そのものとして捉えることのできる海と、「楽譜」を再現することを演奏の最終目的とする修平。 で、森のピアノは壊れている。それはピアノという楽器に良く似てはいるが、繊維と木と金属を組み合わせた物に過ぎない。「音」を出すことはできるが、「楽譜」の指示するような音色、音階などは表現できないのだ。 ここで「音」を「現在」に、「楽譜」を「過去」にさらに置き換えてみるのも面白いかもしれない。 生成と同時に消滅する「音」は、音楽という芸術形式の、「現在」におけるありようだといえる。いっぽう、常に既に存在するものである「楽譜」は、音楽という芸術形式の、「過去」におけるありようだといえる。これはそのまま、海と修平がピアノを弾いている理由となっていると思う。 ただそこにピアノがあったからピアノを弾いている海と、その家系のゆえにピアノを弾いている修平。ピアノを弾くことに対してまったく無自覚で、常に「音」という「現在」とたわむれているだけの海と、「過去」からプレッシャーを受け続けている修平。 ここで、彼らは内的必然性からピアノを弾いているのではないという共通点に気がつく。海はピアノがなくなれば、修平は外からの理由がなくなれば弾くことをしなくなってしまうだろう。 そんなふたりが・・・出会った〜。そして、自分の中に、自分で動機を形成する。これがこの映画の主眼目だと思った。 「現在」と「過去」が合わさって、「未来」が形作られると見ても面白い。 作画的には最初のほうで、海が下校時に階段を降りるところと、別のシーンで修平が階段を1段飛ばしで上って行くところが良かったきがする。 それとこの映画は人物配置が「あしたのジョー」と似てるね。 8月12日 ダイショー 焼肉のたれ CM ジュン!ちんぴょろすぽーん!殊勝な人のいるものである! 7月3日 まめちしき ![]() 田村信先生のまんが「すっとんでシャバダ」に登場する砂針持人(さっぱりもてんど)は世界のナベアツにそっくりである 9月21日 ケータイのアドレスを変えてほうぼうに連絡したらみんなからメールがたくさん来てセレブ気分♪ほっこりした♪ ![]() ![]() 2月28日 妹に岩本ナオ先生のまんがを借りて読むがさっぱり理解できず落ち込む。 ストーリー構成とか描写の意味が良く分からない。 「アルファがベータをカッパらったらイプシロンした。なぜだろう?」 といわれた気分です。 ところでチャンピオンに載っている「木曜日のフルット」というまんがが面白いです。 石黒正数先生の漫画は「読みたいなー読みたいなー」と思いつつ手を出していなかったのですが、いつも読んでるチャンピオンに向こうから来てくれてラッキー。 向こうから来てくれるといえば、同じく「読みたいなー読みたいなー」と思っていた某作家さんがある日自分と同じ会社で働き出した時はびっくりした。 もどる |