薬師寺城(やくしじ) 
所在地 栃木県河内郡南河内町薬師寺
現状 雑木林
築城者 小山朝村
主な城主 薬師寺氏
主な遺構 郭、土塁と堀
自治医大の東側の雑木林が城跡である。雑木林の北側、東側の縁に沿って空堀が東西100mほど残っている。小山朝政の孫、小山朝村がここに城を築き、以来薬師寺氏を名乗った。ここは宇都宮氏と小山氏の勢力の境界であったが、六代目の薬師寺公義は歌人としても知られるが、足利尊氏の執事であった高師直のと昵近となり、懐刀として活躍、足利尊氏=高師直と足利直義が戦った駿河さつた峠の戦いでは、宇都宮氏綱を説いて尊氏側に引き入れ、自身も親族とともに参戦した。この頃から、薬師寺氏は小山氏から独立し、宇都宮氏との関係を強めていったものと見られる。この薬師寺氏の離反と宇都宮氏の接近が、小山義政の乱の一因になったとも言われている。このあと、薬師寺氏は、いくつかに分流したと見られる。鎌倉公方の奉公衆となり、結城合戦で攻城側にいた薬師寺宮内大輔行政、薬師寺安芸守某の流れと結城合戦において結城方の被官として篭城し、戦死した薬師寺和泉守公高の流れ、さらに結城宇都宮氏被官となった流れの三流が考えられる。薬師寺城は、小山義政の乱の後、小山氏の旧領を与えられた結城氏のものとなった可能性が強く、このあと、結城氏の支城として慶長2年(1597年)まで存続した。
なお、宇都宮氏についた薬師寺氏は城を持たず宇都宮城内に居たと考えられ、朝村から13代目に当る薬師寺貞村は五月女坂の戦い、上三川の戦いに参加している。(この薬師寺氏は「宇都宮没落の後、浪人となり、その玄孫、次郎左衛門は、母方の苗字を名乗り医を業として橘隆庵と号し、御奥医師に召し出されたという。さらにその弟の薬師寺次郎左衛門と号して共に直参に召し出だされた」ということが「下野國誌」に載っている。この家は我が家の6代目松野豊後守?義の妻の実家であり、また、9代目八郎兵衛助喜の養子となった松野主税助順の実家である。)
なお、薬師寺氏は小山氏の支流であるため、本来藤原姓である筈だが、公義などは明らかに橘姓を名乗っている。(江戸幕臣の上記薬師寺氏も橘姓である)このため、公義は下野の薬師寺氏とは関係ない摂津の国人であるという説もある。
ここはちょうど自治医大の東隣で100m四方くらいの平地の雑木林の中に空堀と土塁が残っております。スゴイ薮です。そしてざっと見た所、東側北寄りと、北側100mくらいの長さで深さ2mくらいのごみだらけの堀と土塁が残っております。また、北側やや西寄りには郭の内側にも多少堀の址(かなり浅いけど)が残っています。
城の中央部は物凄い薮で入れませんでしたが、帰って「南河内町史」の薬師寺城実測図を見たら、我々が見た以上の遺構はほとんどない模様。説明板は北東の隅に薮に隠れるようにしてありました。
ここの薬師寺氏はわが松野家6代目の豊後守?義の妻となった橘宗仙院元孝女(実は薬師寺宗仙院元常女)の実家であり、また9代目八郎兵衛助喜の養子となった主税助順(実は橘宗仙院元周四男)を出した橘氏(元常のときに薬師寺氏から橘氏に改氏)の祖先とみられている家です。
薬師寺城遠景
薮の中の説明板
空堀
薬師寺城  
mapion
資料 日本城郭大系(新人物往来社)
関東地方の中世城館1 栃木・群馬(東洋書林)
南河内町史(実測図あり)