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ミュッセの部屋 / マヨルカの部屋 / ショパンの部屋 / 夜想曲の部屋 / リストの部屋


ジョルジュ.サンド(1804〜1876)

このページでは、ショパンのノクターン12番(Op37-2)を使っています

ジョルジュ.サンドとは、19世紀のフランスの小説家、劇作家。19世紀の封建的社会のなかで、女性のあるべき立場を擁護しました。表現の自由、情熱と幸福を求める権利、男女平等について書きました。当時としては、とても勇気のいる行動だったと思います。同じ女性として、彼女の生き方はとても興味深いです。とはいえ、pixyが読んだジョルジュ.サンドの本は「愛の妖精」と「魔の沼」だけです。(--;;)

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ジョルジュ.サンド(本名オーロール.デュパン)

(1804〜1876)
1804年パリに生まれた。本名はオーロール.デュパンという。父方の祖母は、ポーランドの旧貴族。
1808年の父親の死後、ノアンにある彼の実家で祖母によって育てられる。幼少時代の転居と田舎暮らしは、彼女の人生に対する考え方や円熟期の作品に影響を与えた。
18歳でデュドバン男爵夫人となり2児をもうけるが、愛のない結婚生活に厭き、当時は法的に離婚が認められていなかったため夫と別居。1831年パリに出る。そして1年の半分をパリで過ごすようになる。

パリに出て来たばかりのサンドは母に書き送った手紙のなかで、「私が望んでいるのは、社交界でも喧噪でも、劇場でも衣装でもありません。---自由です。ここパリでは、好きな時に....十時であろうが、真夜中であろうが、出かけることができます。私の勝手なのです。」という文があり、抑圧から逃れ、自由を満喫しているサンドがうかがえる。

サンドの生み出す作品は、広く人気を博した。彼女の扱うテーマは、「アンディアナ」のようなセンチメンタルなものから、「レリア」のような社会に目を向けたもの。更には、「フランソワ.ル.シャンピ」のような素朴なものまで、多岐にわたっていた。サンドは生涯80ほどの作品を書いたが、あるものは私小説風の趣きを持ち、多くは舞台にかけられて、それぞれ、様々な評価を受けた。彼女の哲学は、1830年代以降の特徴だった体制への反骨精神を反映しており、社会的に様々な意味で、理想とは程遠い社会に生きる一個人としての独立心という要素が多分に含まれている。


 女性作家の少ない時代、結婚制度を否定し、タブーとされていたものを堂々と正直に描くその強さと勇気は、賞賛と憧憬、そして嫉妬をもって迎えられ、作品の内容とともにサンド自身も男装、数々の恋愛により、スキャンダラスな存在として世間を騒がせていた。
サンドは女性のあるべき立場、表現の自由、情熱と幸福を求める権利を擁護した。彼女は男女平等について書いたが、当時の社会の規律に背き、偽善を受け入れなかったために、非難を浴びたりもした。しかし一方で、自然を愛し、友人たちを手作りの暮らしでもてなし、子供や孫たちにかけた母性的愛情深さなどを見ても、彼女の魅力はひと言では語れない。


恋愛、仕事、家庭、その全てにエネルギーを注ぎ、なおかつ多くの若い芸術家を愛し育てていった包容力に満ちたサンド。彼女はたくさんの人々との出逢いと別れを繰り返しながら愛することを生きる原動力とし、ポジティブな生き様で相手を優しく癒すような大きな愛を与え続けた。



**男装**

パリに滞在した最初の頃、サンドは、なぜ男装を選んだか。それは、便利さと、倹約精神からだというのである。自らの回想で、彼女は次のように述べている。

「私の足は、例のベリー産の小さくて優秀な足で、大きな木靴の上でバランスをとりながら、悪い道を歩くコツは学んでいた。しかし、パリの歩道の上では、私は氷上の船のようなものだった。お上品な靴は二日で破れ、シューズカバーは、私の足をとり、私は裳裾の持ち上げ方を知らなかった。私は泥だらけで疲れ果て、風邪をひいた。」

当時の男性は、長いフロックコートを着ていて、それは、がっちりとしていて、かかとまで届き、身体の線が、ほとんどわからなかった。サンドは、男物のフロックコートにズボンとベストを仕立てさせ、帽子を被り、ブーツをはき、ウールのネクタイを合わせた。

「私は、チビの新入生そのものだった。そして、パリの端から端までを飛び回った。そしてもうひとつのおまけの楽しみは、変装のお陰で男性と間違えられ、男であり、女でもある存在になりすませる事だった。私はもはや、貴婦人ではなかった。紳士でもなかった。群集に紛れ込んだ一個の原子だった。人は私の事を何とも思わなかったし、私も見もしなかった。私は、パリの一方の城壁ともう一方の城壁の間でなら、何でも好きな事ができた。....それは、独房よりもよっぽどましだった。」


***サンドの印象と魅力***

1838年、リストを介してサンドに出会ったショパンは、サンドの印象を次のように書いていた。

「あれでも女なのだろうか。疑いたくなるね。」

「感じの良い顔とは思えず、全然気に入りませんでした。彼女には、どこか近づきたくない雰囲気があります。」

初対面の印象が悪かったにも関わらず、なぜショパンは、サンドに惹かれるようになったのか。ちょっと興味がわいてくる。

もうひとり、作家のド.トクヴィルという人がサンドの印象について、こう綴っている。

「私は、はじめサンド夫人に大きな偏見を抱いていた。......顔は鈍重な感じだが、素晴らしいまなざしをしていた。全精神が顔の他の部分を放槨して目の中に引き退いたような感じであった。私が特に強い印象を受けたのは彼女のなかに、偉大な精神から発する自然な態度のようなものが存在している事だった。実際のところ、彼女の言葉や態度は、実に素朴なもので、この素朴なものへの好みは、服装のうえにも現れていた。」

ここに書かれたように、ショパンはサンドに対しある種の偏見から、驚き、共感へと印象が変わっていった過程があったのかもしれない。一方ミュッセがサンドに感じた初印象は、かなりの好印象で、ショパンとずいぶん異なっていておもしろい。(ミュッセの部屋にあります。)


**不滅の恋人たち**

後世は、僕達の名を、もはや切り離すことのできない不滅の恋人たちの名として繰り返すだろう。
ロミオとジュリエットのように、エロイーズとアベラールのように。一方の事が語られれば、必ずもう一方のことも語られるだろう。(ミュッセからサンドへの手紙より)

日本では サンドといえば、「ミュッセとの恋愛」よりも、「ショパンとの愛」の方が有名ですね。でも、いろいろ調べていくうちに、サンドが最も情熱的に求め、愛し、傷つき、翻弄されたのは、ミュッセだったというのがわかりました。
彼らが交わした手紙には、愛に苦悩する互いの姿が浮きぼりにされています。

「わたしはもうあなたを愛していません。しかし依然としてあなたを熱愛しています。もうあなたなんかほしくありません。でもあなたなしではすませられません。.........わたしのただひとつの愛するもの、わたしの命、わたしの骨肉、わたしの弟、私の血、行ってしまうがよい、でも行くときにはわたしを殺して。」

つき合い始めた最初の頃には、ミュッセの方がサンドを夢中で追いかけまわしていたが、終わりの頃幾度となく別れと再燃をくりかえすうちに、サンドの方が彼を追い求め、振り回され、極度の苦悩と混乱に陥り深く傷つき、死を口にするようになる。

1835年3月の決定的な別れを経て、数年が過ぎ去り、それでもサンドは親友にミュッセへの深い母性愛は今でも消えてはいないと打ち明けている。

「彼の悪口を言われるのを聞くと、怒らずにはいられません。」


髪を切ったサンドの肖像



***サンドVSダグー夫人***


ジョルジュ.サンド(左)とマリー.ダグー伯爵夫人(後ろ向き)

1834年11月当時サンドの恋人だったミュッセは、ピアニストのリストに手紙を送っている。
「きみに、あさっての木曜日、僕たちと夕食をご一緒いただけないか尋ねてほしいとサンド夫人に頼まれています。...僕のため、彼女のために、ぜひ来てください。僕たちふたりだけで、きみを待っています。」
こうしてサンドにリストを会わせたのはミュッセだった。リストとサンドは、音楽と文学に対する共通の関心から急速に親しくなっていった。サンドとリストの交友は、ミュッセの場合と同様に、人々の噂と注目の的であった。

リストは、数年前からマリ-.ダグー伯爵夫人と恋愛中で、当時パリの社交界で金髪三美人のひとりとうたわれたダグー夫人はピアノの才能も抜群であった。
彼らは、1835年初め、スイスに逃れる決心をするが、これは、サンドの小説の恋愛観、結婚観に共鳴したからと言われている。(彼らの二番目の娘コジマは、サンドの小説「コジマ」から名づけられた。)

翌年、パリに戻ったふたりは、ラフィット通り23番地(現在のラフィット通り交差点付近)にあったフランス館に居を構え、そのすぐ下の階はサンドが借りて客間を彼らと共有することになったのである。
サロンを開くのが好きなダグー夫人は、詩人ハイネや作家シュー、ラムネ、サント.ブーヴ、作曲家ベルリオーズなど、当時の有名人を招いた。サンドがショパンに初めて会ったのも、彼のピアノを聴いたのもここであった。ショパンにうっとりしたサンドに比べ、ダグー夫人には、彼がわざとらしい不遜な態度と優雅さを誇示しているように見えた。ピアノの名手として作曲家としてリストの強敵と感じとったのかもしれない。

こうして最初は大変親密な仲のサンドとダグー夫人であった。1836年5月から9月半ばにかけて、サンドはノアンの館にリストとダグー夫人を招いた。
昼は散策したりして過ごし、夜になるとダグー夫人は本を読み、リストはピアノを弾き、サンドは原稿を書く。そしてたいていダグ−夫人は早めに部屋にひきあげ、居間にはリストとサンドだけが残されることが多かった。ふたりは長い間、時間を忘れて話しこんだ。
サンドとリストがあまりにも気が合うことにダグー夫人が嫉妬したのか、サンドとリストの間に友情以上の関係があったと邪推してか、9月のある日、ダグー夫人は、ほとんど不意打ちにノアンからリストを連れ去った。ダグー夫人とリストは、イタリアへ向かう。手紙で近況を伝え合うふたりの女性の間にわだかまりはあったものの、表面上は平静を装っていた。
だが、その後サンドが急速にショパンと親密になると、もともとショパンを気にいらなかったダグー夫人は、ますます冷たい態度をとるようになった。
ダグー夫人は、サンドとショパンがマヨルカに発った後、悪意に満ちた中傷の手紙を共通の友人に送った。それを後に見せられたサンドは、彼女との交際を断つのだった。

ふたりの女性の仲違いは、バルザックの小説「ベアトリクス」に書かれた。この小説で肯定的なヒロインとなったのはサンドで、ダグー夫人は嫌味たっぷりに描かれたため、夫人は大変腹をたててバルザックを恨んだ。
1844年、ダグー夫人と破局したリストは別離の後「ベアトリクス」について次のように書いている。
「ベアトリクスは、巨匠の手になる肖像画です。細部まで、あまりに忠実に再現されているものですから、ちょうど他の女性が有名になることを避けるように名声を追い求めるこの女性を知りつくしていると信じていた私でさえ、驚嘆し、この本を読んで一層彼女のことが理解できたのです。ダグー夫人は私が出会ったどの女性よりも化粧が巧みでした。バルザックはこの際立った特徴を十分に利用したわけですが、このことが芸術家たちに大きな影響力を持つ女性として、自由思想家として真面目に考慮されることを強く望んでいる彼女の自尊心を傷つけたという次第ですよ。」

ダグー夫人は、リストと別れた後、パリでサロンを開いたり、ダニエル.ステルンというペンネームで、作家兼ジャーナリストとして活躍することとなる。サンドの小説も手厳しく批評したりした。

一方、サンドとリストは、リストがフランスを去ってからは時々手紙のやりとりをする程度であったが、サンドとショパンが別れると、ショパンに強い共感を抱いていたリストは、サンドに対し厳しい見方をするようになる。
だが、過ぎていく年月のなかで、お互い様々な誤解などは忘れ、懐かしい思い出へと変わっていくのだった。



リストとマリー.ダグー夫人



***ノアンの館***

フランス、ブールジュを中心都市とするベリー地方の田園地帯にノアンはある。
小高い丘、緑豊かな森、アンドル川に沿って豊かな水源と温暖な気候に恵まれた、のどかな農村地帯である。サンドはこの故郷を愛し、館にはドラクロワ、リスト、デュマ.フィス、バルザック、フロベールなど数多くの友人たちを招いてもてなした。

この館の歴史は、13世紀にさかのぼる。サンドの祖母デュパン.ド.フランクイユ夫人が、ここに手を入れ暮すようになったのは1793年のことだった。屋敷の周りには果樹園、庭園、温室、それらを回るように小道を作った。館内の部屋の数は1階が14部屋。2階は16部屋ある。

空間は限られているが、サンドはさまざまな工夫をして、様々な客たちを温かくもてなした。廊下の壁には小さな木製のポストがあり、客達が希望するものをメモして入れておくと、召し使いがすぐに用意した。
屋敷の南に面した庭の左側には小さな森が広がっていて、そののなかの小道を客達は心地よい風がふくなか、夕食までの時間、散策をしばし楽しんだ。
季節によっては、アイリス、チューリップ、リラ、牡丹、ゼラニウム、きょうちくとうが美しい花々を咲かせ、木々の緑に映えていた。

食堂の奥が客間で、客間の壁を隔てた玄関側に台所がある。そこで作られる食事の種類は様々で、食材は、自給自足であった。ベリーは、穀物類の生産が盛んな地方で栄養価と満腹感に恵まれた料理を作ることができた。敷地内では鶏も飼育されており、小麦と鶏肉の料理は定番のひとつであった。どちらも自家製で最も手軽に使えるものなので、
「小麦と鶏を食べている限り、少しの客なら全然負担になりません。ノアンにいるかぎり貧乏だというとこを忘れます。」と友人に手紙を書いている。

*ノアンの食卓を彩る料理を載せていますので、こちらもどうぞ。

果樹園でのオレンジ、カシス、イチゴ、木イチゴ、アプリコット、プラム、リンゴ、などの大切なジャム作りは、全てサンドの仕事だった。キノコの季節は、山に入ってカゴいっぱいに採ったり、サケが川をのぼる頃には、クルーズ川まで馬車ででかけ、川に投網して幼魚をたくさん取って帰り、フライにした。
ワインは、ボルドー産の高級ではないが、味のよいものを注文した。


ノアンの館             サンドの書斎      


***ノアンの館でのサンド***


オーギュスト.シャルパンティエ作

1838年4月、肖像画家のオーギュスト.シャルパンティエがノアンの館に滞在し、サンドの肖像画を描いたが、そのときのサンドの日常を見て、そのときの様子を叔母にあて手紙を書いている。

「この有名なサンド夫人には、今なおまったく、感嘆しています。世間は彼女を全然知りません。彼女に与えたがる全てのものは、忌まわしい中傷にすぎません。サンド夫人は、家庭の最もよき母であり、人間の想像しうる最も優れた女性です。.......人の見ることのできる最も素晴らしい頭脳を備えていて私は、最初の印象から戻れないでいます。私は、やっと明日肖像にとりかかるのです。
家族は朝起きる時間が、まちまちなので、各自が部屋で朝食をとり、昼食も皆が集まることはありません。朝7時か8時に召し使いが大きな火をおこしにきて、昼食に何を望むかを聞き、めいめいが自分のところで食事をします。昼食が終わると仕事をするなり、互いに訪問するなり、気晴らしに玉突きのゲームをしたりします。サンド夫人は一日中自分の部屋にいて仕事をし、誰とも会いません。5時に鐘がなると、服装を整えて家族が集まってきます。そろって食事をし、その後サロンでくつろぎます。11時にはサロンを退き自室に戻ります。部屋に戻ると、勢いのよい火が燃え、何杯も砂糖水にありつけます。....要するに、ほんとうのシャトーのあらゆる贅沢ができるのです。....これがノアンの館のあらましです。」

1939年7月1日、サンドの家族とショパンがジェノバからマルセイユ経由でノアンに着いた。ショパンの部屋は、食堂の上の庭に面し二階の南側にあてられ、窓からは庭やノアンの田園が見わたせた。
その後41年〜46年サンドとの破局にいたるまで、ショパンは、毎年3〜4回ノアンの館で過ごしている。そしてこの間、スケルツォ、ソナタ、ノクターン、ワルツ、バラード、マズルカ、ポロネーズなど数々の名曲を作曲している。



**画家ドラクロワとの交友**

ショパンとマヨルカの旅を終えたサンドは、しきりにドラクロワをノアンに誘った。
忙しさに追われていたドラクロワであったが、1842年、ショパンがドラクロワのために出来上がったばかりの曲を演奏したいという誘いにドラクロワはノアンを訪れる。ドラクロワにとって、ショパンとゆっくり話し合えることは最大の楽しみであった。館の中庭の奥まったところにはベンチがあって、ショパンとドラクロワは座って談笑した。
ノアンの生活は、ドラクロワに活力を与えた。彼はノアンの庭に咲く花を束にして描いたり、散歩や玉突きなどを楽しんだ。また村人たちの踊りの輪は彼に絵の霊感を与えた。サンドのもてなしは心の行き届いたもので、ドラクロワは、感謝と称賛の気持でいっぱいになるのだった。

「...私の心のなかのノアン、慰め生き返らせてくれる所、そして私を夢中にさせる数少ない場所......」ウジェーヌ.ドラクロワ


画家ドラクロワ        ノアンで描いた花の絵



**ポーリーヌ.ヴィアルド**


サンドには生涯固い友情で結ばれた女友達がいた。ポーリーヌ.ガルシア、後のポーリーヌ.ヴィアルドである。
1839年、スペイン人でオペラ歌手のポーリーヌに巡り会ったとき、サンドは35歳、ポーリーヌは18歳であった。
ポーリーヌはどちらかといえば無器量であったが、彼女が歌いだすと、その完璧なテクニックと豊かな声が人々を圧倒し、皆をとりこにしてしまうのだった。
ポーリーヌは幼い頃より父親から厳しい英才教育をほどこされ、ソルフェージュ、ピアノ、作曲はもちろん、美的センスを磨くためのデッサン、優雅な身のこなしを覚えるための乗馬など、あらゆることを身につけさせられたのだった。ピアノはリストから習っていた。
リストは、彼女にとって淡い初恋で片思いの相手であったという。また一時期ミュッセが、ポーリーヌに夢中になったが、彼女はつれなく肘鉄をくらわせたのだった。

サンドとショパンはポーリーヌと大変親しくつき合うようになる。
それはふたりの共通の友人で、ポーリーヌを深く崇拝していたルイ.ヴィアルドと彼女を結びつけることになる。
ポーリーヌはヴィアルドと結婚した。
サンドの息子モーリスも2歳年上のポーリーヌに恋していたが、ある時期彼女の方もモーリスの一途な想いに応えたが、歌手としてヨーロッパ中を回る彼女との恋は長くは続かなかった。
ロシアに行ったポーリーヌは文豪ツルゲーネフと出会う。ツルゲーネフの運命を大きく変えた大恋愛であった。

ポーリーヌ.ヴィアルド


**ノアンでの劇**

サンドの息子モーリスは、17歳でパリに出て、ドラクロワのもとで絵の修行に励んでいた。パリで観た人形劇に魅せられたモーリスは、自分の手で作ってみたいと思うようになる。1847年、モーリスは、パリの自分のアトリエやノアン近郊に人形劇の舞台を作った。
舞台は小さいながらも豪華な彫刻をほどこした奥行きのある背景は額縁つきのもので、人形は、菩提樹の木を切り、彫って作った。サンドは、モーリスから芝居の内容を聞いては、それに見合った衣装を縫った。親子で作る人形は、全部で百体を越え、今に残っている。

ノアンでは人形劇をする以前にも劇を演じていた。
サンドは、あっという間に 大笑いできる楽しい台本を書き上げ、ショパンをはじめ、ソランジュ、婚約者のプレオ、モーリス、オーギュスティーヌなど身内が登場人物であった。
ショパンは、身体の調子がいいと「コメディをやろう」と提案した。パントマイムの名手であるショパンは、サンドの台本の役者になることを楽しみにしていた。

モーリスと人形劇の人形、彼の描いた風景画



***地震***

1841年、7月5日、サンドはノアンで初めて地震の揺れを体験した。2度めは30年後だった。
イポリットの雌牛たちは、モーモー鳴き、犬のピストレは長く遠吠えをした。ソランジュは、壁が振動して絵が揺れるのを見て叫んだ。村人たちは「悪魔が来た」と叫んだ。
パリでも、この地震は体感されたようで、人々に恐怖と混乱をもたらした。その後さらに嵐も起こった。
サンドは、ドラクロワに「地震で、ショパンのか弱い神経はメチャメチャになった。」とそのときの様子を伝えている。


***ソランジュの結婚とショパンとの破局***


サンドの娘ソランジュ

娘のソランジュが成長するにつれ、やがてソランジュの気性の激しさはサンドの手に負えなくなってくる。
ソランジュはひとつの事に集中するということが出来ず、いつまでも落ち着きのない子供のように騒々しかったし、おまけに物やお金への執着心が人一倍強く、いつもサンドを困らせていた。一方モーリスは、成長するにつれ、ショパンの存在が疎ましくてたまらなくなっていた。
サンドは息子モーリスに母親としての愛情を精一杯注いだが、ソランジュには冷たかった。ソランジュは嫉妬心や不満をショパンに訴えては彼の同情を得るようになっていく。
そんな、ある日、遠縁にあたる娘、オーギュスティーヌがノアンにやってくる。
サンドとモーリスは、オーギュスティーヌをたいへん気にいり、サンドは彼女を実の娘のように可愛がった。ソランジュの嫉妬心はオーギュスティーヌに向けられ、ショパンを味方にしたソランジュは、モーリスとオーギュスティーヌに対抗した。

1848年、ソランジュは人のよいフェルナン.ド.プレオと婚約していたが、そこにバプティスト.クレサンジェという彫刻家が現れる。その自信に満ちたエネルギッシュな様子はプレオとは正反対だった。サンドとソランジュの胸像を作りたいというクレサンジェの申し出は、ふたりを喜ばせた。ソランジュは、すっかりクレサンジェに夢中になりプレオとの婚約を解消してしまう。パリにいたショパンは、クレサンジェの悪い評判を知っていてたいへん心配していた。が、サンドはクレサンジェの堂々とした所が気に入って、ショパンには内緒でこの結婚話を進めてしまおうと考えていた。ショパンとサンドとの溝は深まっていく。

ソランジュの結婚が終わると、オーギュスティーヌにも縁談が舞込んできた。相手はバルビゾン派の画家テオドール.ルソーだった。サンドは喜んだが、オーギュスティーヌとモーリスの関係を邪推した何者かがルソーに告げ、破談になる。

一方、結婚したソランジュとクレサンジェは、パリで放蕩三昧の挙げ句、借金がふくれあがっていた。ふたりは、ノアンのサンドの前に現れ、「ノアンの屋敷を抵当にして借金を返したい。」という。サンドが同意しないのを知るとクレサンジェは、凶暴な性格をむき出しにして暴れだした。サンドが殴られそうになりモーリスは銃を取り出すという、一歩間違えれば殺人事件になりえるところであった。

今度の事で、ソランジュはショパンに頼るかもしれない。自分に都合のよい作り話を吹き込み、ショパンに取り入るに違いない。そう考えたサンドは「ふたりを絶対に入れないでください。」とショパンに手紙を書く。
だが、ショパンはソランジュを部屋に入れ、自分の馬車を貸し与えたりした。
「今のソランジュに必要なのは、母親のあなたなのですよ。」と返事を出すが、これがサンドの逆鱗に触れる。

「さようなら、お友達。あなたが早く治られることだけを祈っています。.........9年におよぶ稀なる友情。その奇妙な終わり方を神に感謝します。でも時々はあなたの事を教えてください。......」

ショパンは、この手紙に抗議することもなく、和解を求めることもなく、沈黙を守っていた。こうして、ふたりの関係に終止符がうたれてしまったのだった。

1848年3月4日、サンドは、パリで偶然ショパンと出会った。ふたりは形式的な挨拶をし、サンドはショパンに「ソランジュに女の子が誕生した。」と告げられた。それがショパンとの最後の別れとなった。翌年10月17日ショパンは結核の悪化により、息をひきとった。




**二月革命**

1848年2月、最左派に率いられたデモ隊が議会に迫り、国王ルイ.フリップは退位し、臨時政府がしかれた。
フランス革命は階級闘争である。1789年のフランス革命は、貴族に対する階級闘争で、1830年の革命は、王政に対するブルジョワジーの闘争、一方1848年の革命は労働者が独立の党派として政治の舞台に登場し、ブルジョワジーとともに、臨時政府を組織したのだった。

サンドは、ルイ.ブランら、友人たちが臨時政府に席を占めたのを知ると、友人達と労働者たちの勇気を讃えようとノアンとパリを行き来した。
サンドは、以前からピエール.ルルーの提唱する理想的社会主義に傾倒していたので、この革命で夢が実現しつつあると信じていた。社会からの貧困の根絶を願っていたのだった。
人々の協力のもとに成り立つ社会を説くルルーに、サンドは、財産を削って援助の手を差しのべてきた。

だが、ルルーの熱にうかされたような理想論は、結局民衆を助けることはできなかった。
革命のエネルギーとなったのは、大多数を占める労働者たちであったが、犠牲者の多くも彼らだった。
サンドはやがて革命に虚しさを感じるようになる。
民衆の蜂起がいつも悲劇に終わるとこを何度も目撃してきたからだった。

その後1870年、フランスとドイツの戦争が始まり、パリは内乱のなかにあったとき、サンドはもう民衆に賛同することはなかった。
「暴動は未来を築く革命ではない」とペンで示した。

暴動の中にあって、パリの多くの建物も破壊されたが、
「神のおかげでリュクサンブール宮、オデオン座、パンテオンは、焼かれずにすみました。」と友人に手紙で、愛した建物が破壊から免れた事に安堵した気持を伝えている。



***モーリスの結婚***

1862年、39歳になったモーリスは20歳年下のイタリアの彫刻家の娘、リーナ.カラマッタと結婚した。彼女は、生粋のローマ娘で、ほっそりして個性的な美しさと魅力的な声の持ち主であった。彼女の性格は誠実であったので、サンドは大変気にいり愛情を注いだ。
サンドの温かさにリーナは感謝を忘れることなく、深い尊敬の念を持ってサンドのために骨身を惜しまず尽くした。
リーナは、サンドの原稿の整理や清書、屋敷の管理などに貢献し、様々な資料などが散逸せずに現在に残ったのはリーナの功績によるところが大きい。
だが、何といっても一番サンドを幸せにしたのはふたりの孫娘オーロールとガブリエルをもたらしてくれたことであろう。
10年前にソランジュの娘ジャンヌは、猩紅熱により5歳で天に召されていった。サンドは深い悲しみに沈んでいただけに、ふたりの孫との交流は、サンドに大きな喜びを与えた。
サンドの晩年の大きな楽しみは、ふたりの孫の教育だった。孫たちに読み聞かせる童話を書いたり、ピアノでダンスの伴奏をしたり、庭の片隅に、コケと岩を使って箱庭の作り方を教えた。
この時代厳しくしつけることが教育だと考えられていたが、サンドは子供の可能性を伸ばすには、鞭ではなく愛情だと考えていた。
クリスマスには、美しく飾られたモミの木のそばで、くじ引き遊びに興じたり、リーナの心尽しの料理と、モーリスの人形劇で楽しんだ。


リーナ.カラマッタの肖像


***マンソーとの15年***

モーリスはドラクロワのアトリエで版画家マンソーと知り合い、1850年、マンソーはモーリスの友人としてノアンにやってきた。
貧しい育ちのマンソーは、話し方が洗練されていなかったが、そんなマンソーにサンドは「礼儀にかなった話し方」を教える約束をする。そのとき、マンソーは32歳、サンドは45歳だった。
マンソーは誠実で素直で頭もよく、いつも学ぼうとする姿勢に好感が持てた。その後彼は、サンドの秘書として、頼りになる存在になっていった。
マンソーはサンドと同じように、自然を愛し、ふたりは連れ立ってはノアンの周辺を散歩したのだった。
サンドのお気にいりは、クルーズ河畔の散策だった。そのそばの小さな村ガルジレスをサンドが気にいったと知ると、マンソーは、そこの小さな家をサンドのために買って、手入れしてくれたのだった。
1855年、ふたりは、イタリアの地を訪れ、ローマ、フィレンツェ、ミラノなどをまわった。

マンソーが母親サンドの愛人になったと知り、モーリスは、ショパンの時のように嫉妬をあらわにするようになった。そして、ノアンからマンソーを追い出しにかかったのだった。モーリスはリーナと結婚後も母親に対する独占的な愛情を持っていたのだった。

サンドはノアンを出て、マンソーがサンドのために購入していたパリ近郊のパレゾーの家に移り住む。マンソーとの暮らしは、静かで癒される日々だった。だが彼は結核に蝕まれていて、1年後の1865年、48歳で他界した。
サンドは、ひとりで看取り翌日もずっとかたわらにいたのだった。
マンソーの遺言は、モーリスにガルジレスとパレゾーの家を贈るというものだった。

サンドは、マンソー亡き後もしばらくパレゾーの家にいたが、悲しみに耐え切れず、マンソーとの思い出を胸に、息子夫妻のいるノアンの館に戻るのだった。


マンソーの肖像



***フロベールとの友情***

マンソーを失ってからの最後の11年間がサンドの晩年と呼ぶなら、その間、サンドが最も親密に交際したのが「ボヴァリー夫人」の作者ギュスターヴ.フロベールであった。フロベールは、サンドよりも17歳年下であった。
サンドはフロベールの作品に、夢想や幻想に憧れる気持と、それでいて現実にしっかり目を見据えている人間観察の鋭い洞察力を感じとっていた。初めての出会いは、フロベールからの手紙で始った。
57年オデオン座の公演のおりに初めて顔を合わせ、その後、何度か会う機会があったが、1863年、フロベールは「サランボー」という作品をサンドに献呈した。この作品は批評家たちから「血なまぐさい空想」と非難されたが、サンドは「ラ.プレス」紙に、フロベールの創造に対する情熱と作品のできばえの素晴らしさを称賛する記事を出した。フロベールにとって、何よりも嬉しいことだった。

そして64年「秘められた情熱」初演の夜、桟敷席にいたサンドは、すぐ近くにいたフロベールが感涙にむせんでいるのを見て心をうたれたのだった。その後、ふたりは、お互いのパリのアパルトマンを行き来したり、文学仲間が集うレストランで会食したりするようになる。
フロベールは、ルーアン近くのクロワッセにある館に住んでいて、サンドは、66年に二度招待された。
屋敷ではフロベールの母と彼の姪コマンヴィル夫人が出迎え、サンドは家庭的でゆきとどいた温かいもてなしを受けた。

69年のクリスマスには、ノアンにフロベールがやってきて、大歓迎を受ける。
フロベールは、幼い孫娘ふたりにクリスマスプレゼントの人形を贈り、自作の劇を朗読したり、モーリスの人形劇やダンスを楽しんだり、ノアンの庭園、農場を散策や、心づくしの料理や、おしゃべりを心ゆくまで5日間楽しんだのだった。

「ノアンは、だれもかれも優しくて気持のいい人ばかり。そこに暮らせるモーリスが心から羨ましい........なぜ、私たちは一緒に暮らせないのでしょう。人生とはなんと間が悪いのでしょうか。」フロベールはサンドへの思慕を綴っている。
ふたりの文通は、サンドが亡くなるまで続いた。


フロベールの写真


***サンドの両親***

サンドの父モーリスと母のソフィ
父親モーリスの肖像画を見て、驚いた。ショパンとミュッセを足して2で割ったような顔立ちである。彼は、文学や音楽、演劇を好み、医学や薬学の知識もあった。ヴァイオリンを弾いたり、アマチュアの演劇活動を行ったりもしていた。
ナポレオン軍の将校になり、イタリアでソフィに出会う。1808年サンドが4歳のとき、落馬の事故で帰らぬ人となる。

サンドの祖母マリー.オーロール.デュパン.ド.フランクイユ夫人はポーランド王家の血をひいており、サン.シール修道院で教育を受け、当時としては珍しいほどの教養の持ち主であった。サンドの母ソフィはパリの貧しい小鳥商人の娘で、サンドの父と知り合った頃はフランス軍の娼婦だったことで、祖母にはソフィが我慢ならない存在だった。
サンドの父モーリスは、ソフィと出会う前に女中との間にイポリットという名の息子をもうけおり、フランクイユ夫人がひきとり、養育していた。
サンドがノアンで暮すようになったのは、父の死がきっかけであった。幼いサンドは、母と祖母が何かにつけ、衝突するのを目にしていた。数カ月で突然母は、サンドをおいてパリに帰ってしまう。それは、サンドの心に深い傷を残した。
ノアンの館で、サンドは4歳から13歳まで祖母の手で育てられた。


***子供の頃のサンド***

ジャン.ジャック.ルソーと親交のあった祖母は、様々な本を所有していた。
祖母は、書庫に入り込んでは本を手にしているサンドを目にした。サンドは賢い子で、四歳にして、すでに字を読めた。
だが、椅子にじっと座っているのは苦手で、家庭教師のデシャルトルが教えてくれる事も、最初は熱心に聞いているものの、長くなると、じっとしていられなくなるのだった。ずっと机にいることだけが勉強ではないと、デシャルトルは早めに授業を切り上げ、ピアノや絵にも興味を促そうとするが、サンドは、外にいる方がずっと生き生きしていた。
デシャルトルから教わった事で、サンドが一番興味を持ったもののひとつは、乗馬であった。乗馬のために、男の子のようなズボンをはくのも心地よく、その凛々しい姿は父モーリスの幼い頃にそっくりだった。



***修道院での暮らし***

知的で上品な女性に育てようと意気込む祖母にとって、サンドのお転婆ぶりは、目にあまるようになる。
祖母は14歳になったサンドをパリの修道院に入れて貴族的な優雅さを身につけさせることを期待する。
パリには母がいる。それはサンドを嬉しくさせたが、やがてサンドは、面会に来る母親に失望するようになる。
サンドの母ソフィは、あまりにも気紛れで自分勝手で、母親らしい愛情でサンドに接するのは苦手だった。

修道院の規律は厳しかったが、ノアンの暮らしでは出会えなかった同じような環境に育った文学好きの少女たちと知り合えて楽しい生活をおくることができた。
サンドの文学的才能は、次第に開花していき、劇の脚本を書いたり、皆の前で即興で物語を語ったりした。サンドのひとりの修道女がサンドの才能を認めてくれて、サンドは、勧められるままに、詩や小説を書いた。皆の称賛をあびて、初めてペンを執る楽しみを味わったのだった。

修道院での生活で、サンドは落ち着いた大人へと成長し、ノアンに戻ったサンドを祖母は頼りにするようになる。ふたりは互いに心を通わせるようになるが、祖母は病気で他界する。(サンドの祖母フランクイユ夫人について)


***サンドをめぐる男たち***

19世紀女性の立場が著しく弱かった封建的な社会の中で、サンドは誰よりも自由に生きようとした、20世紀の先駆けのような女性でもあった。時代を先取りする豊かな感性と知性で多くの男性を惹きつけた。

*カジミール・デュドヴァン男爵

祖母の死後すぐ、1821年18歳で求められるままに田舎の小領主であったカジミール・デュドヴァン男爵と結婚。1823年にモーリス、1828年にソランジュという2人の子供が生まれた。結婚生活は平穏ではなく、凡庸なカジミールは狩り好きで女好きな無教養な男で、サンドはたちまち夫に失望するようになり、1831年に別居する。1835年、ノアンの邸宅で、酔ったカジミールがサンドを小銃で脅すという事件が起こる。ジョルジュは、「別居及び財産分割」の訴訟を起こす。この裁判は、法廷で何回か争われた後、結局翌36年、ノアンの所有権と娘ソランジュの養育権を彼女は得ることができる。

*ジュール.サンドー

1831年、夫カジミールとの関係が決裂。カジミールから年三千フランの年金を受け取り、一年の半分を夫と離れてパリで暮らすという取り決めが交わされる。27歳の頃、19歳の法律学生ジュール・サンドーと暮らし始める。彼との合作は、J.サンドのペンネームで書かれた。『フィガロ』で記者としての第一歩を踏み出したのもこの時期。多くのロマン主義の人々との交流も始まった。1832年、ジョルジュ・サンドと署名した「アンディアナ」で一躍文名を高める。1833年、サンドーと別れたジョルジュは、文芸評論家G.プランシュ、作家メリメなどと親密になるが、長続きしない。

*アルフレッド.ド.ミュッセ

29歳のサンドは1833年の春23歳の詩人ミュッセに出会う。彼の文学的名声は独自の「ダンディスム」と無分別という、毒気によって評判になっていた。ほどなく激しい恋に落ち、ミュッセはマラケ通りのサンドの家で暮らし始める。ふたりの恋は一躍文壇のスキャンダルとなる。サンドは幸福を夢見るものの、ミュッセは、病的なほど不幸を愛する人だった。そのうえミュッセは貴族的な放蕩児であり、狂気、残酷さ、サディスティックな面を多分に持っていた。ヴェネチアへの旅行が最初の別れのきっかけとなり、イタリア人医師パジェッロを巻き込んだ三角関係などをはさんで幾度も断絶と仲直りを繰り返し、1835年にサンドが、この情熱の恋に疲れ果て、終わりを告げる。ミュッセは、サンドとの恋愛と別れを「世紀児の告白」(1836)で発表し、一方サンドは、ミュッセの死後「彼女と彼」(1859)という作品に書いている。

*ピエトロ.パジェッロ


1807年イタリアのヴェネト州カステルフランコで生まれた。長身で金髪、青い瞳の血色のいい青年で、サンドと知り合った時は、27歳であった。異国で病気になり、やっと治った頃には、病気の愛人を看護しながら困苦するサンドへの同情と親切がパジェッロの医師としての職務を越え、次第に愛情に変わり始める。ミュッセが単身パリに戻って後、サンドはパジェッロとイタリアで暮らし始めるが、パリに戻って、ミュッセと再会したサンドには、もうパジェッロは、色あせた存在でしかなかった。パジェッロは、単身ヴェネチアに戻り、ふたりは、二度と会う事はなかった。

パジェッロは、90歳まで長生きして、サンドとの恋をいつまでも懐かしみ、周囲の人々に語ったという。

*フレデリック.ショパン

ミュッセと別れたサンドは、ミシェル.ド.ブールジュや、家庭教師マルフィーユ、俳優ボカージュとの短い恋愛を経験する。

1838年にショパンに出会う。有名な作家と音楽家のロマンスは、世間の人たちの興味をそそったが、ふたりは、マヨルカ島に逃避行を試みる。(詳しくはマヨルカの部屋へ)ところが、悪天候などでショパンは胸を患い、危険な状態に落ち入ってしまう。そんなショパンをサンドは、母親のように献身的に看護した。彼らの関係は1847年まで、10年近くも続いた。その間、毎年のように初夏から秋にかけて、サンドとショパンは主に中部フランスのノアンにある館(下の画像)で生活した。緑美しい田園風景で静養しながらショパンは作曲に専念できた。(詳しくは「ショパンの部屋ヘ)

サンドが描いたショパンとノアンの館

*アレクサンドル・マンソー



1817年5月3日トラップに生まれた。彫金を学び、1848年の革命の年、サンドの息子モーリスと知り合い、1849年サンドに出会う。マンソーはサンドよりも、13歳年下で、ジョルジュの息子モーリスと共に、ドラクロワのアトリエに出入りしていたなかのひとりだった。パートナーとして、また信頼のおける彼女の秘書として版画家として、1865年の彼の死まで共に過ごした。マンソーは、サンドの華やかなかつての恋愛の相手たちとは全く異質で、地味で実直な人物であった。また彼は、サンドと同じ様に勤勉で、同じように自然を愛した。彼は、常にサンドの影になり、彼女を支えていた。
ジョルジュ・サンドはノアンで落ちついて暮らすようになる。庭を手入れし、田舎の生活への愛着と、貧しい人々に対する思いやりによって、サンドは“ノアンの奥様”と呼ばれた。
マンソーは、クルーズ川のほとり、ガルジレスにサンドのための農家を買い、サンドは、規則的にガルジレスに出かけては、散策したり、作品を書いたりした。1864年、サンドは、ノアンを息子夫妻に譲り、マンソーと共にパレゾーに移り住む。だが、すでにマンソーは結核におかされており、翌65年8月死亡する。


マンソーが描いたサンドの肖像

*フロベール

親しい友人は次々亡くなり、サンドの周辺もさびしくなった。そんななか、作家のフロベールは、老年のサンドに充実した交友の喜びを与えている。フロベールは、1857年オデオン座でサンドと知り合って以来、69年、73年にノアンを訪ね、サンドも66年、68年クロワッセにフロベールを訪ねている。彼はサンドを師と慕い、ふたりの間に交わされた書簡集は118通にのぼる。サンドは、彼に1867年の「最後の愛」という小説を献呈している。



***サンドの描いた作品***


サンドは、パリに出て作家として身をたてられなかった場合、画家の道を歩もうと思ったこともあったくらい、絵を描くことも好きであった。


サンドの描いた風景画



***臨終の時***

孫のオーロールが結婚するまでは、なんとか生きていたいと願うサンドであったが、身体の不調を感じない日はないようになっていた。1876年、5月になると、胃の痛みに加え、酷い腹痛に苦しむようになる。腸閉塞ではと医師から診断されたが、もう手遅れで打つ手はなかった。死の床について八日間大変な苦しみ方だったが、死の前日、孫たちが呼ばれた。
サンドは最後まで孫とモーリスを気づかったが、ソランジュの名を呼ぶことはなかった。
だが、皮肉にも母の最後を看取ったのはソランジュだった。苦しむサンドに、ソランジュからこれまでの事を謝る言葉はなかった。
ソランジュはサンドが嫌っていたカトリックの葬儀を行うという、最後の親不孝を演じた。
葬儀をしっかり取り仕切るソランジュのかたわらで、憔悴しきったモーリス。そのモーリスに、悲嘆にくれたフロベールが「母親をもう一度亡くしてしまったようだ。」と告げた。

フロベールは、サンドの死を悲しむあまり、葬儀の後モーリスあてに手紙を書いた。
「なんという天才、なんという情けの深さ!彼女が必要なのに、彼女がいなくてやりきれません。」
フロベールはサンドの死とともに文学への情熱も失せ、まるで後を追うように1880年、59歳で急逝してしまった。


****19世紀ロマン主義について****

ロマン主義のイメージは、あまりに甘ったるく、気取って受けとられがちだが、ロマン主義は暴動、自由、反抗、誠実、若さをも掲げていた。
ロマンとは、情熱と真実、苦悩、彷徨を永遠に探し求めることで、自然と生命を再発見するためである。

ロマン派の文学者たちは、王制復古期に外務大臣になったシャトーブリアン、七月王制下の貴族院議員ユゴー、二月革命で共和派の象徴的存在のラマルチーヌなど、政治思想的遍歴を経ながら、民衆を導く詩人としての使命感から社会に対して積極的に発言し、政治に参加した。その一方で、功利的なブルジョワ社会の現実に挫折し、メランコリーを兆候とする「世紀病」に悩む一群の文学者がいた。ミュッセは「世紀児の告白」のなかで、苦悩する自己そのものをも冷徹に見据える皮肉な目が自己の存在を更に蝕む過程を精緻に描き出している。このような孤独の裏に夢想し苦悩する永遠の青春像が、後世にロマン派の詩人のイメージとして定着していく。


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サンドの肖像画などを置いています



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