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(1810〜1857)

19世紀フランスの作家、詩人


幼い頃のミュッセ


幼い頃の兄ポールとアルフレッド 1815年頃

アルフレッド.ド.ミュッセは、1810年12月11日、パリのノワイエ通りで生まれた。
両親と6歳年上の兄ポールと、9歳年下の妹エルミールと共に、一時期を除いては、ずっとパリ市内で暮した。
ミュッセの父は15世紀にまでさかのぼる由緒ある貴族の出で、詩や小説を書く文才に溢れた官僚だった。母もまた上流階級の家系に生れた上品で知的な女性であった。両親は大のナポレオン贔屓であり、自由で進歩的な雰囲気のなかでアルフレッドは育った。
アルフレッドは、利発で知識欲も旺盛だが、一方で感受性が強く繊細でわがままだった。
しかし、その容姿は金髪で青い瞳を持つ天使のような可愛らしさであった。

兄ポール.ド.ミュッセもまた、のちに文学者として活躍することになる。
彼は弟の才能を高く評価し、弟の死後は彼の伝記や作品集を刊行した。



学生時代と文壇デビュー

9歳でパリの名門校アンリ4世校に入学、最終学年で全国学力コンクールでラテン語の論文で賞を受賞するほど、優秀な生徒であった。
17歳の彼を詩の道に誘ったのは、クラスメートであり、ヴィクトール・ユゴーの義弟でもあったポール・フーシェだった。
当時26歳のヴィクトール・ユゴーは、ノートルダム.デ.シャン通りのアパルトマンで文学集会「セナクール」を開いていた。
ミュッセは、「セナクール」でサント.ブーヴ、メリメ、ヴィニー、ドラクロワなどと知り合う。
また同じ時期、シャルル.ノディエが主宰する文学サロン「アルスナル」にも出入りするようになる。「セナクール」は文学的熱気に包まれており、「アナスナル」はよりサロン的で、ピアノの演奏や、ダンスがあり、くつろいだ雰囲気があった。
当時の文学界では、古典派とロマン派が対立し次第に殺気だってきた時期でもある。会で朗読される作品を聴きながらミュッセは、創作欲を掻き立てられる。
そして彼の自作の詩編を披露する機会を得ることになる。
その作品はたちまち聴衆の心をつかみ大評判になった。

「スペインとイタリアの物語」で颯爽と文壇に躍り出た19才の若き詩人は、才気と美貌に輝き「青春のプリンス」と呼ばれ、ロマン派の寵児となった。
香り高い傑作の数々は全て20代の頃の作品。「マリアンヌの気まぐれ」「ロレンザッチョ」「戯れに恋はすまじ」等は、現代では頻繁に上演されている。


画家が催したある夜の仮装パーティーで。
16世紀のドイツの小姓に扮したミュッセ


ダンディ

ミュッセは、ダンディとして世に聞こえていた。フロックコートのテーラードの衿には、ビロードがつき、胴は、女性のドレスのようにくびれ、ブルーのパンタロンは、座るのも窮屈そうに、ピッタリとし、フリルのついたシュミーズの衿もとには、黒いクラヴァトを結び、白いベストを着ている。シルクハットをかぶり、手には麦わら色の手袋を持っていた。ほのかな香水の香りがしている。それらの服などは、パリで最高級の仕立て屋に作らせていたという。
上品な容姿、すらりとした身体つき、ダンディな服装、夢見るような瞳、ニヒルな表情、無造作にかきあげられたように見える金髪は、実際にはオイルをつけ細心の注意を払って整えられており、それが時々面長の青白い額にかかる。神経質そうな端正な顔には頬から顎にかけてのひげと、口ひげをたくわえていた。

女性の心を揺さぶる美青年であったが、サンドと出会うまでのミュッセは、女性を蔑視し、放蕩の生活に明け暮れていた。サンドに出会って彼の女性観は一変し、本物の恋に身をこがしたのである。



父の死

1831年〜32年の冬、パリでコレラが流行した。春には、死者は日に1000人を超えるようになった。ミュッセの父親も感染し、4月8日帰らぬ人となる。享年64歳であった。
父親の死に直面して、ミュッセは、次に出す詩集が最初の詩集の評判を超えなければ、文学を諦めて職業軍人になろうと一大決心をする。
そして猛然と詩作に専念し、第二詩集「肘掛け椅子のなかで見る芝居」を発表した。


「世紀児の告白」

「世紀児の告白」の中で、ミュッセは、ジョルジュ.サンドとの恋愛と別れを書いている。ミュッセにとって、サンドは理想の女性。シニカルな覚めた調子で、どのように理想の女性と出会ったか、その女性に恋をしたが相手にされず、気をひくためにあらゆる手を尽くし、彼女の方が彼を愛し始めたとき、今度は彼がこの恋の脆さに気づいた。彼は反抗的で嫉妬深くなり、独占欲を強め、残酷になりそして幸せを壊していったのである。ミュッセの人物像はとても現代的で利己性と寛容、子供っぽさ、狂気、挑発と天才が混在していた。

ミュッセの絶望は彼があまりに早く感じとった悪徳(現実)と美徳(不可能な理想)との絶え間ない軋轢から生じた。彼は信仰なき時代を呪った。遊蕩児を気取ってみても、この世界の居心地の悪さは増すばかり。何を信じ、何を目標に生きるべきか。旧制度の残照と新時代の黎明の間で、近代人の自我に目覚めた青年たちの精神を憔悴させた。

その後ミュッセは、ラマルチーヌ、ユゴー、サンド、シューらの文学者の政治参加に背を向け、あらゆる党派との連帯を拒んだ。「ぼくのコップは大きくない。でもぼくは、自分のコップで飲む。」これが彼の信条だった。


出会った頃のサンドの印象(世紀児の告白より)

ミュッセとサンドが初めて出会ったのは、1833年6月、リシュリュー通りのレストラン「ロワンチエ」。
「両世界評論」誌を主宰するフランソワ.ビュロが寄稿者たちを夕食会に招待した席での事だった。
二人は、たまたま隣り合わせに座っており、そのときサンドは紅一点だった。
当時ミュッセは23歳のロマン派詩人、サンドは「アンディアナ」でデビューしたばかりの注目の新進作家であった。お互いに相手の評判はよく知っていた。ミュッセが先に行動を起すが、ドン.ファンという評判に恐れをなしたサンドは、警戒して、なかなか心を開こうとはしなかった。

出会った頃のサンドの印象は、「世紀児の告白」に記されている。

「彼女の装いで私に強い印象を与えたのは、奇異な所はまるでなく、ただ若々しく感じがよいということであった。彼女の会話は、申し分のない教養を示していた。どんな話題でも彼女は上手にそして自然に話した。飾り気がないとみえると同時に深い考えを持ち豊かであると感じられた。...........とりわけ彼女を目立たせている点は、楽しそうな様子であった。歓喜というほどのものではないが、いつも変わることはなかった。まるで彼女は花に生まれ、楽しさという香りを放っているようだった。」

「顔色の青白さと大きな黒い瞳については、それがどんな強い印象を与えたか、表現することはできない。その上、時々ある種の言葉やまなざしで、彼女が苦しんできたということ、その生活が辛い試練を経たという事は明らかだった。」


ミュッセの描いたサンド

*ミュッセの描いたサンドの肖像はこちらに集めました。

1833年6月24日
サンドは、ミュッセから一通の手紙を受け取った。
「マダム、僕は、アンディアナの一節を数行の詩にしてみました。ヌンがレイモンから受けた女主人の室内でのことです。このささやかな詩があなたのお目にとまることを。誠意と深い賛美をこめて......」

**********

サンドよ、きみは、これを書いたとき、どこでそれを見たのか?

肌もあらわなヌンがアンディアナのベッドでレーモンと陶酔にふける怖ろしい光景を?

誰がそれを書き取らせたのか、

恋がその夢想の賜物の幻想を震える手で空しく求める

この燃えるようなページを。

きみはそうした悲しい体験があるのか?

レイモンが感じたことをきみは思い出したのか。

漠とした苦しみに由来するすべての感情、

無限の空虚に充ちた、幸うすい快楽の数々を

きみは夢見たのか、ジョルジュよ、それとも思い出したのか。

*********

サンドという呼び掛けに始る詩は、アンディアナと恋人レイモンの愛の場面とヌンに対する憐れみをうたっていた。受け取りようによっては、ミュッセのサンドに対する愛の告白となっていた。
恋愛に関して、ミュッセはいつも初めは、相手の女性にうぶな恥じらいと不器用さを示し、詩に託して自分の気持を伝えた。
サンドはひどく慎重で、なかなか心を開こうとはしなかったが、ミュッセの手紙は、日ごとに情熱を増してゆき、「私は幼子のようにあなたを愛しています。」この言葉はサンドの母性本能に火をつけた。
やがてふたりは、マラケ河岸19番地(パリ左岸芸術橋とカルーゼル橋の間に伸びる短い通り)のサンドのアパルトマンで幸福な時を過ごす。
9月19日サント.ブーヴにあてたサンドの手紙には、喜びに満ちあふれている。
「私は幸せです。とても幸せです。日毎にあのひとに惹かれていきます。」

ミュッセの写真(サンドに贈ったもの)


ロレンザッチョ


ミュッセ没後39年後にサラ.ベルナールにより、初上演された「ロレンザッチョ」のポスター(ミュシャ)と、1952年ジェラール.フィリップが演じたもの。

1834年ミュッセは劇作「ロレンザッチョ」を発表する。これは、ロレンティーノ.ディ.メディチという実在の人物が23歳の時に暗殺に手を染めたことを題材にした歴史劇であり、この話は、ジョルジュ.サンドの書きかけの小説「1537年の陰謀」からヒントを得て作られている。ロレンザッチョの話を書きかけていたサンドだったが、その話に心酔したミュッセのためにサンドがミュッセに譲ったものだった。ロレンザッチョの極めて繊細な誇り高い感性はミュッセを偲ばせ、しなやかで女性的な心情は、サンドを思わせる。この作品は、ミュッセの死後39年を経て、名女優サラ.ベルナールが男装して演じ、大成功をおさめている。


ミュッセの詩(1834年)

サンドとのイタリア旅行で唯一の楽しい思い出を綴ったミュッセの詩
日本語、フランス語、英語でどうぞ。

ジュデッカ島の サン=ブレーゼで
あなたは、あなたはとても幸せだった
ジュデッカ島の サン=ブレーゼに
僕達は、たしかに行ったのだ。

だがあなたはそのことを
思い出してくれるだろうか?
だがそのことを思い出して
再び 行ってくれるだろうか?

ジュデッカ島の サン=ブレーゼで
花咲く野原でクマツヅラを摘むために
ジュデッカ島の サン=ブレーゼで
命の限り 暮らすために

*****************************************************

A Saint-Blaise, a la Zucca
Vous etiez bien aise
Nous etions bien la .

Mais de vous en souvenir,
Prendrez-vous la peine?
Et d'y revenir?

A Saint-Blaise a la Zucca,
Dans les pres fleuris cueillir la verveine,
Vivre et mourir la !

*****************************************************

In St. Blaise at the Zuecca,
You were delighted
We were certainly there.

But will you take
the trouble to remember?
And to return there?

In St. Blaise at the Zuecca
In the flowery fields
Gathering the verbena!


ヴェネチアでの恋の破局

恋愛関係にあったサンドとミュッセはイタリアを旅行するが、旅先のヴェネチアで、サンドは病に倒れる。腸チフスであった。ヴェネチアに着くや、サンドはイタリア人のパジェッロ医師の診察を受けることになる。しかしミュッセはそんなサンドを放ったまま、毎晩女遊びに出掛けてしまう。サンドの病気が回復した頃、今度はミュッセが倒れてしまう。錯乱状態に襲われ、生と死の間を彷徨うミュッセ。パジェッロ医師とサンドは2週間もの間、昼も夜も献身的に看病した。しかしミュッセの精神の危うさを見せつけられ深く傷つくサンドは、パジェッロの優しさに徐々に惹かれていく。ミュッセが回復した時には、ふたりは深い関係になっていた。パジェッロへの恋文を発見し、狂おしいほどの嫉妬に駆られたミュッセは、単身パリへ戻る。だが、離れていると、ふたりの気持は再燃し、パリで再び共に暮らし始めると、ミュッセの激しい嫉妬はサンドを絶望させた。断絶と復縁を繰り返しながら、ついにサンドはミュッセには二度と会わない決意をする。彼女は大切な髪を切り、ミュッセに送った。


二重人格

ミュッセとサンドの恋愛は、強烈な個性のぶつかり合いだった。貴族趣味のミュッセと庶民派のサンド。
繊細で過敏な男と、自由奔放で大胆な女。

サンドはミュッセに激しく惹かれながら、同じように強く嫌悪を感じずにはいられなかった。

「彼のなかには、別の人間がいます。恋愛は酒と同じくらいに彼を酔わせるのです。
時には、その陶酔はすばらしいが、それがほとんど耐え難くなる瞬間がどれほどあることか...。
ひとりの個人のなかに、封じ込まれたもうひとりの人間。これほどにぞっとする対照を私はこれまで一度も目にしたことがありません。ひとりは人が好くて穏やかで優しく純真だが、もうひとりは、いわば悪魔にとり憑かれていて、凶暴で高慢で専制的で狂的で冷酷で狭量で疑りぶかくて、考えられないくらい身勝手でエゴイストで善においても悪においても同じように熱狂するのです。」



パジェッロの自伝

ある朝、ふたりのイタリア人がダニエリホテルの窓の下を通りかかった。ヴェネチア市立病院サン.ジョバンニ病院の外科医師ピエトロ.パジェッロと友人のラッツァーロ.レビッツオである。ふたりは、ふとホテルの2階を見上げる。と、窓辺に痩身の美しい青年と愁いを含んだ顔つきの女性が語り合っている。ふたりともパイプをくゆらせている。ルダンゴト姿の女性は、シュミーズの衿にクラヴァトを結び、帯状にした深紅のスカーフを髪に巻いていた。彼女のあまりの美しさにパジェッロは、歩くのも忘れて見つめていた。「おいおい、あの綺麗な女性に夢中になっているのか」という友人の声で彼は我にかえった。パジェッロは、彼女をイギリスの作家かポーランドの亡命貴族と思ったらしい。後に彼は、自伝の中で、このように記している。

「私がジョルジュ.サンドを知ったのは1834年の2月のことでした。アルベルゴ.ダニエッリの雑用係が、泊まっているフランス女性が病気なのでと、急いで私を呼びにきたのです。駆け付けてみると、この女性はベッドに横たわり、傍らで背の高い痩せた金髪の青年が「この人は、時々、激しい偏頭痛にかかります。瀉血をして助ける事ができないものでしょうか?」とたずねました。私は瀉血をして帰りましたが、彼は、彼女がよくなるかと聞くので、私はよくなると答えたのです。彼は礼儀正しく私を階段の奥に連れ出すと、「あなたはこの女性と再会し、彼女はあなたを意のままにしますよ。」と予言したのです。後に、ふたりが、フランスの作家ジョルジュ.サンドと詩人のアルフレッド.ド.ミュッセであると知らされた。」


「十月の夜」

ミュッセは1836年発表した詩「十月の夜」のなかで、ヴェネチアで裏切った恋人ジョルジュ.サンドへの怨みを綴っている

私はその病からすっかり癒えているので思い出そうとすれば、真実であったのか、疑える程だ

そして私の生命を危険にさらした、その地を思い浮かべても、私の代わりに見知らぬ顔が見えるばかり

恥を知るがいい 私に裏切りを教え 恐怖と怒りで 私に理性を失わせた最初の女よ

恥を知るがいい 暗い目をした女よ 不幸をもたらすおまえの愛が、

暗闇のなかに葬った、私の青春と美しい日々を!

うわべだけの幸福さえも 呪うことを私に教えたのは

おまえの声、おまえの微笑みだ

堕落へと誘うおまえのまなざしだ

私に絶望を教えたのは

おまえの若さとおまえの魅力だ



手紙

ジョルジュ.サンドは、ミュッセが彼女に送った手紙を彼の自由にできるようにしていた。しかしミュッセは、それを取りに行こうとはしなかった。彼は友人を介して、このようにサンドに伝えている。

「わたしが、あなたから要求するものは一つしかありません。兄に決して何も渡さないという誓いの言葉をください。これは私自身の薄志弱行の跡であるとともに、恋人がわたしに加えた害のいくつかの確かな証拠です。わたしがそれについて彼女に言ったり、書いたりしたことは、あくまでわたしたちの間のことです。わたしたちは、世間の批判が決して使わない秤でお互いを裁き合ったのです。兄でさえ、世間の側なのです。兄はわたしの名で彼女に対して怒る義務に縛られていると思うでしょう。彼の兄弟愛は、かつてわたしの心のすべてであったものに向かって行使されるでしょう。わたしは兄を俗悪なけんかのために武装させたくはないのです。」

ミュッセの死後、サンドはミュッセとの恋愛事件を取り上げた私小説「彼女と彼」を出版するが、彼の予言通り、兄のポール.ド.ミュッセはサンドに対して中傷する内容の小説「彼と彼女」を雑誌に掲載する。


思い出

1841年、サンドと別れて5〜6年の歳月がたったある日、ミュッセはテアトル.イタリアン劇場の廊下で、昔の恋人と再会する。
二人は、一言も言葉を交わさずにそのまま別れた。そしてミュッセは家へ戻るとすぐに、そのときの印象を詩に書いた。

**********

そうだ、若くてまだ美しい、ますます美しくなったと言えるかもしれない

あのひとに私は会った。その瞳は昔のように輝いていた。....

彼女の思い出でまだ一杯の私の心はあのひとの顔の上をさまよった。

だが、昔の面影を見い出すことはできなかった。.......

私はただ心のなかでつぶやく

「あの時、あの場所で、ある日、私は愛された、私は愛した。あのひとは美しかった。

私はこの宝物を不滅のわが魂に仕舞こんで、神のところまで持っていこう!」

***********

この詩を最後にミュッセの詩魂は、急速に枯渇した。

創作はなくなったが、彼は恋愛や放蕩をやめたわけではない。サンドと別離のあと、一年ほどしてミュッセは、7歳年上のジョベール夫人と関係を結ぶ。この関係は3週間の束の間のものだったが、その後、友情に変わっていく。その後、町娘ルイーズ、裕福な娘エメ.ダルトン、舞台女優のラシェルやアラン夫人、ルイーズ.コレなどと短い恋愛体験をする。(エメ.ダルトンは、ミュッセの死後、兄のポール.ミュッセと結婚した。)

ミュッセの一番の親友タテの1853年頃に書いた手紙には次のような事が書かれていた。
「アルフレッドは、娼婦たちのなかに枕湎し続けている。彼はそこに彼の天才と健康を置き忘れることになるだろう。なんと、おぞましい自殺であることか!」


47歳の死


晩年のミュッセの肖像画

サンドとの破局のあとの数年間は、ミュッセにとって、最も実り多い時期であった。が、晩年の20年間、ミュッセは苦しみ続けた。
創作も少なくなっていた。1837年に出版を再開し、1853年まで続く。健康状態は常に危険な状態にあった。
29歳の時ピストル自殺を図ったことがあった。30歳で肺炎、34歳(1844)で肋膜炎を患う。デビュー当時の華やかな名声は過去のものになっていた。
ところが、1847年に、10年前の戯曲「気紛れ」がロシアで大あたりし、その後パリで上演されて大変な評判になった。その後、彼の作品は次々と舞台で演じられることとなった。そして1852年にアカデミー.フランセーズ会員に選ばれたのである。
同年、詩選集(主に30歳以前の作品を集めたもの)を出版し、多くの人々から支持され、再評価が高まった。1857年、47歳のとき大動脈疾患と過剰なアルコール摂取により、その短い生涯を閉じた。

友らよ、わたしが死んだ曉には

私の墓に一本の柳を植えてほしい

泣き濡れた葉叢がわたしは好きだ

その淡い色合いはわたしにはやさしくてゆかしい

その影はわたしが眠る大地を

そっと覆うことだろう

ミュッセの詩編「リュシー」の冒頭の六行。ここに記された願いはかなえられ、詩人の死後ペル.ラシェーズの墓のかたわらには一本の柳が植えられ、石碑のうえには、この詩句が刻まれた。


1920年代パリで(ミュッセとローランサン)

1928年、ミュッセの戯曲「乙女らは何を夢見る」がコメディ.フランセーズで上演された。
ミュッセの戯曲はあまりにファンタスティックで叙情的であり、19世紀の写実的演出の時代には上演不可能と信じられてきた。ところが20世紀に入ると、文学、芸術に夢や幻想が主題として重要になってきて上演の機運が起こってきたのである。
舞台装置は画家マリー.ローランサンが受け持って大成功をおさめた。観客はローランサンの淡い色彩の衣装をまとった夢のなかのような人物たちが幻想的な背景のまえで会話する不思議な舞台に酔ったのであった。



マリー.ローランサン「田園の祭典」1928年  ミュッセの「戯れに恋はすまじ」の幕開きの場面を想像して描いたもの


マリー.ローランサン「舞台装置」1928年  ミュッセの「乙女らは何を夢見る」もしくは「牡鹿たち」のイメージ




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