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一難去れど

 ひときわ強い風を待って、柚那は地を蹴った。
 手作りの両翼は風にがさりと不安な音を立てるが、ペダルを踏む足に躊躇いはない。ぐっと、一足踏み込んだ。
 が。
「――ナット緩んでる!」
 叫びに、それまで盛んにけし立てて見物していた二人が、咄嗟に翼に手を伸ばす。
 ばきりと、厭な音を立てて翼に穴があいた。

「もう、信じらんない。なんであそこまでいってああなるのよ」
 ワゴン車の運転席の真後ろの位置で、柚那は怒るというよりも心底呆れるようにして、溜息をついた。
 ついさっき、素人鳥人間よろしく空を飛ばせようとした、自転車に羽根をつけたような物体は、中心部分はともかく、羽根は見るも無惨になっている。飛び立とうとした瞬間に、両方から力任せに押さえたのだから無理もない。
「でも、良かったよ。怪我がなくて」
 そう言って、雅人はミラー越しに柚那を見てちらりと笑った。
 その隣では、うんうんと、彦弥が肯いている。
「そうそう。せーっかく廣道叔父さんの魔の手から逃れられたってのに、こんなところで怪我してたらつまんないよな」
「つまらないとか、そういう問題じゃないだろう」
 雅人は、前を向いたまま、横目で睨んだようだった。
 雅人と彦弥は、丸二月違うだけの同い年だ。しかし、受ける印象はかなり違う。言うなれば、雅也のイメージは都会で、彦弥のイメージは舗装道路もないような田舎というところだ。
 柚那は、その二人からは二つ年下になる。二人を都会と田舎と評すると、じゃあお前は空中都市だ、というわけのわからない形容をされたことがある。
「でもさ、上手くいって良かったよね。叔父さん捕まらなかったら、まだ追っかけ回されてたよ、わたしたち」
「そもそも、大学生と高校生を子供だなんてみくびるのが間違ってんだよ。経済的にはともかく、他はそう大人と変わんないんだからさ」
「まあ、これでしばらくは大丈夫だね」
 それぞれ親の違う従兄弟同士は、そこで揃って溜息をついた。
 三人が、叔父――雅人にとっては伯父になる――に命を狙われていたのは、三月ほど前からになる。それは、祖父が遺言書を作成したのと同時期だった。
 そうして、罠にかけて警察に引き取ってもらえたのがつい先日のこと。
 毒やら車の仕掛けやらをどうにか回避した日々は、まだ、懐かしむには近すぎた。
「しっかしなあ。もっと早く判れば、蜂号が壊れることもなかったのに」
「ちょっと、その名前やだっていったでしょ」
「じゃあ他考えろよ」
「え。う。うー・・・」
「思いつかないなら、蜂号でいいだろ。形も似てたし」
「過去形で言わないでよ、ちゃんと直すんだから! 次こそは飛ぶのよ!」
 そう言って、既に八回目。三人の親の代から引き継がれるそれは、一部を変えながら、未だ飛ぶことができずにいる。
 そして。
「前危ない!」
「えっ・・・」
 蜂号で飛び立とうとしたときと同じようにして叫んだ柚那に、ずっと前を向いていた雅人は、咄嗟にブレーキを踏んだ。
 突然の急ブレーキに、幸い至近距離に後続車はなかったものの、数十メートル離れて走っていた後ろの車もブレーキを踏み、ついでにクラクションも鳴らしている。
 しかし、すぐにそれどころではなくなった。
 対向車線を走っていたトラックが、急に車線をはみ出して、雅人たちの車の目の前に横たわったのだった。
「・・・さすがにこれは、伯父さんの策略ってことはない、ね」
「・・・あったら厭すぎよ」
 因みに、後で判ったことでは、運転手の突然の心臓発作が原因だった。後少し、気付くのが遅ければ巻き込まれ、大きな事故になっていただろうとも言われた。
 しかし、今はそんなことも知る由はなく、三人は、とりあえず無事であることに胸を撫で下ろすのだった。  
「俺、お前に一生ついていく!」
「彦兄、こんな時だけ調子いいんだから」
 助手席から体を乗り出す彦弥に言って、柚那は力無く笑った。
 直前にしか判らなくても、それなりにこの危険察知能力は役に立つらしい。

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いつものこと

「ほい、完了」
「スゴイスゴイ、ありがとう!」
 小さく跳びながら礼を言う少女に、真は小さく苦笑した。まさか、自転車を直したくらいで「すごい」と言われるとは思わなかった。しかも原因は、ゴムチューブのムシが傷んでいただけという、簡単なもの。
 ――ま、それで金もらえるし感謝してもらえるんだから、こっちとしちゃありがたいけど。
 決して嫌味ではなく、そう思う。つい、「騙されるなよー」といって頭を撫でたくなるが、ここでそれをしたら、セクハラ、あるいは変態としてとられかねない。
「すごいね、本当に何でもできるんだ!」
 ――いや、何でもってのはさすがに・・・・。
 賢明にもその言葉を呑み込むと、真は笑顔で「ありがとう」とだけ返した。
 笑うと、つり目できつい印象を与えている顔が一気に優しくなるのだが、本人はそれを知らない。少女は、一瞬動きが止まり、思いがけず良いものを見た、と内心ほくそえむ。後で、思いっきり自慢してやろう。
「あ、俺部室行かなきゃ。鷺沢さん、報酬・・・・」
「はい、これ。一枚で良かった?」
「うん。これからもよろしく。よかったら、友達とかにも宣伝しといて? じゃ」
 食券を受け取ると、真はゴミと化したムシや傍らに立てかけていたかばんを手に、軽やかに走り去っていった。

 無人の地学講義室、もとい部室にたどり着くと、真は手近な机にかばんを置いた。真の性格からいって投げるように置いてもおかしくないのだが、制かばん・補助かばんともに大事な商売道具が入っているので、乱暴な扱いはできない。
 真が成立させた「万能部」は、はっきり言って「何でも屋」だった。食堂の食券ではあるが報酬をもらう、れっきとした「商売」だ。
 そんなものが学内で成立してしまうのは、ひとえにこの学校が変だから――そう、真は思い込んでいる。だが実際には、真の器用さに教諭陣も含め世話になっているため、認めざるを得ないというのが実情だった。口コミで広がって黙認の商売になるよりは、とこの方法を選んだのだが、生徒会長あたりは、普通逆じゃないのかと、少し悩むことになる。
 現在、部員は一年生の真のみ。別段部費ももらってないし活動の場があればいいのだから、部の存続には拘っていなかった。
「さーって、記録記録」
 水色のバインダーを開くと、ルーズリーフに「自転車修理」と記入する。その下には、依頼主、報酬、どこで何をしたかを書く。他のページには、「生物部の兎捕獲」「天文部の望遠鏡磨き」「車の掃除」「印鑑探し」「食堂の場所取り」といったことが書かれている。そのうち「車掃除」と「印鑑探し」は、教師からの依頼だった。
 これは全て今日一日にこなしたものなのだが、今日以前に予約の入っていたものは別のバインダーに記録しているので、一日に十件ほどは受け付けていることになる。   
 基本的に、依頼は直接本人に。放課後までは真の教室でか、いないときは机にでも。放課後からは六時まで地学教室、ということになっている。
「あ?」
 明日の予定を確かめるために予約ノートを開いた真は、眉をひそめた。
 ――バスケの練習試合の助っ人の後にサッカーチーム内試合に参加、その後剣道部の指導だあ?
「なんちゅーハードな・・・・・大体おれ、剣道やめてから半年くらい経ってるってのに」
 自分で入れた予定だが、呆れるしかない。それでも予定が一切かぶっていないところに、少し満足する。余裕をとって組んであるから、多分大丈夫だろう。体力のほうは・・・・まあ、何とかなるか。
 遊びやそのための費用捻出であればここまでしないが、真の場合、半ば生活がかかっていた。父が中学卒業を間際に亡くなり、母は入退院を繰り返している状況。いくら祖父母が母親の入院費を払い、父の保険金や今までの貯金で学費をまかなえても、母子二人の生活費と、大学にいく分の学費はどうにかしなければならない。祖父母の貯金も父の保険金も、いつまでも頼れるほどはない。奨学金も受けてはいるが、それだけでどうにかなるものでもない。
 バイトも考えたのだが、高校生の賃金は安い。丸々時間を束縛されて勉強もろくにできない状況では、大学にも行けないと真が考えた末に、こうなった。もともと、器用さから友人に頼みごとをされ、その見返りで色々と融通してもらっていた体験が幸いした。
「あー、俺って勤労学生〜」
 歌うように呟く。忙しくはあるが、真は現在の生活が、嫌いではなかった。まだ、一年も経たない状態では父が懐かしいにしても。
 一通り記録や明日の予定を点検すると、それをしまって、今度は授業の予習を始めるべくノ−トを広げた。時刻は、まだ四時半を過ぎようかといったところだった。
「まこ君、いる?」
 セーラー服のすそを翻して駆け込んできた少女に、真は目をやった。小中学も同じで今はクラスメイトでもある畑中弥生は、幼馴染と言っても差し支えないだろう。確か、保育園から同じだったはずだ。
「いるけど、なんか用?」
「うわ、偉い。予習ちゃんとやってる――って、そうじゃなくて。仕事よ、仕事。工科学部の連中がまた部室の前に機材置いて、入れないし出られないのよ」
 そう言って、写真部の弥生は怒り顔を見せた。
 この問題で弥生を始めとする写真部が真の元に駆け込んでくるのは、もう二桁目に突入する。何度も苦情を言ったのだが、一向に改善されない。これは、顧問などに言ってもどうなるものではなかった。そもそもこの学校の方針は、「生徒のことは生徒に」。
「機材って、今度は何?」
「知らないわよ。重そうなガラクタってことしか。今、仕事入ってないんでしょ? ほら、早く」
「はーい、先生」
 冗談めかした声で、真は立ち上がった。値段交渉は、もう慣れたことなので、この件に関してはすでに定額化されていた。

「ちょっと、聞いてるの?!」
 決して広いとは言えない生徒会室の中で、何故自分がこんなことを、と思っている人間が、少なくとも二人はいた。真と、その目の前で怒っている人物だ。
「イエス・マム」
「ふざけないで!」
 目を吊り上げて怒る生徒会長に、そんなこと言ったってー、と、真はぼやいた。既に何回も聞いた小言は、諳[ そら ]んじて言えるくらいだ。
 こんな状況になるのも工科学部のせいだ、と真は思った。
 大体、口論に次いで強制撤去、そして最後は拳と、辿るルートは決まっているのだ。そして最後には、生徒会長のお説教。隣で工科学部の部長も怒られているのだが、それは何の慰めにもならない。
 いっそこんなとき、言葉がなければもっと手っ取り早いと思う。まず、口論の手間が省ける。そしてこの説教も、拳骨なり何なりで方がつくだろう。
 ――あー。それって楽でいいなー。
 到底知識人とは思えない考えを抱いたまま、真は小言を聞き流していた。あくびをかみ殺すのに、苦労する。朝刊配達のバイトは、やっぱり眠気をもたらすのだ。
「田辺真!」 
「だから聞いてるってば・・・」
 力なく、呟く真だった。 

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牛とご飯

 チャイムの音に玄関に出ると、牛がいた。
「ウシ?」
 それはそれは立派な牛――だと思う。多分。乳牛か肉牛かは、知識がないのでちょっと判らない。どうだろう。
「牛?」
 牛が口を利いた。度肝を抜かれる。
「あーっ、ホントだっ、なんで? なんで俺牛?」
 喋る牛が家の前にいて、しかも、その声に聞き覚えがあるとしたら。一体、どうすればいいだろう。
 頭の中は真っ白だ。
「俺、判るか? 和原喜一だよ、判るよな?!」
 幼馴染の名前に駄目を押され、ずるりと扉にもたれかかり、ずり落ちた。
 いや。
 いや、いやいやいや。待て。
「お前が牛になったとしよう。どうして日本語喋ってんだよ? 骨格からして無理だろう、そんな発声!」
「そんな、冷静に突っ込まれても」
「クダンでさえ、頭は人だぞ?!」
「なんだよそれ」
 声が半泣きだ。
 クダンは、件。人面牛身の、予言をすると言われる獣だ。普通、そんなものの名前を言われたところでわかろうはずもない。
 結局、混乱しているには違いないらしかった。
 部屋に上げると、牛――あるいは喜一は、食べかけの手作り餃子を見て、ひょいと顔を上げた。
「相変わらずまめだな。一人暮らしで作るか、餃子」
「うるさい、牛。やらんぞ」
「いるか、昼はとっくに食った。食ったどころか、一眠りして来たんだ。遅いぞ、お前」
「俺がいつ何を食べようと勝手だろ」
 話すほどに、この牛が喜一との確信が強くなる。どうしたものか。
 医者に見せたところで、保健所やら得体の知れない研究施設に連れて行かれてしまうのではないか。
 悩んでいると、当の本人――本牛は、勝手に、鼻でつついてテレビのリモコンを操っている。やがて、再放送のテレビドラマに落ち着いた。
「こんなの見てる場合か?」
「騒いでどうなるものでもないだろ。これ見たかったのに、友達来るからって友美に追い出されたんだ。いいよな、お前は一人で」
 友美とは、喜一の妹だ。ちなみに、一人暮らしは期間限定であって、あと半年ほどすれば、両親は赴任先から帰ってくるはずだ。
 しかし、そうとなれば、家を出る時点では牛にはなっていなかったようだ。なっていれば、いくら胆の据わった友美でも、友達と遊ぶどころではなかっただろう。
 こうなったら、世界吃驚ショーにでもエントリーさせるか。
「お前、俺を売り払おうなんて思うなよ」
「な」
 そのものではないが、似たようなことを考えていた。喜一は、不気味にも牛面でにたりと笑い、テレビに向き直った。
 侮りがたい牛だ。
「それより、そうなった心当たりはないのか?」
「あー? 昼飯食べてすぐに寝たくらいか?」
 そんなことで牛になるなら、辺り一面牛だらけだ。大体それは、消化が悪くなることを戒めただけのものではないか。溜息をつく。
 わずかに、沈黙が下りた。
「ん?」
 路上で取っ組み合っていた男たちから、急に地味に美人のニュースキャスターへと画面が変わり、「番組の途中ですが、」という決まり文句を口にする。一人と一匹(仮)は、思わず顔を見合わせた。速報にしても急だ。
 表情を消しているはずのニュースキャスターはしかし、わずかに困惑を滲ませていた。
「――署が調べたところによりますと、株式会社**の先月二十六日から三十日にかけて出荷された小麦粉の一部に、幻覚作用のある食品が混入されていたことが判明しました。混入物は――」
 混入物の素性と、小麦粉のパッケージが映し出され、人体に深刻な影響は及ぼさないが、くれぐれも食べないよう、食べてしまったら、数時間で軽い幻覚症状は収まるので安静にするようにとの注意がされた。
 まだ情報が少ないのか、似たようなことが何度も繰り返し告げられる。
「・・・なあ、昼飯、何だった?」
「お好み焼き。お前、小麦粉食った?」
「餃子の皮」
 二人は、顔を見合わせて笑うと、畳に寝転がった。
「――昼寝でもしとくか」

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卯月朔日

 ひらり、ひらりと、薄く色付いた花びらが舞う。
 退屈さと寒さと、あと、場所を盗られやしないかという微妙にばかばかしい緊張感を別にすれば――それがほとんどとは知っているが――花見の場所取りもそう悪くはないと、風見和幸は思おうとした。
 努力した時点で、心から思っていないことは自明なのだが。
「ちっくしょーう」
「何叫んでるの?」
 なんとなく仰向けに寝転んでしまった顔の上に、白い袋がぶら下がっている。少しして、その上から二十歳くらいの女の顔がのぞいた。
 慌てて飛び起きると、袋は、素早く移動させられていた。おかげで、顔を打つことは避けられた。
「もうそんな時間?!」
「差し入れ」
 よくあるコンビニエンスストアの袋を置いて、それを挟んで和之の向かいに座り込む。
 二十歳くらいに見えるけど、確か、それよりは三つ四ついっていたはずだと思い出す。同期で、四年制の大学を卒業したと聞いた記憶があった。
「ココアと紅茶無糖どっちがいい?」
「え・・・っと、ココア?」
「肉まんとピザまんは?」
「肉まん」
「あと、飴と煎餅も入ってるから、適当に食べてね。カイロもあるし」
「あ、うん。ありがとう・・・?」
「遅刻したお詫びに」
「へ?」
 悪びれずに紅茶の缶を抱えて中華万を頬張る女を、少しの間ぼんやりと見て、「ああッ」と叫んで指さす。
「同期で同じ課!」
「そうだけど?」
「お前も場所取りじゃないかッ!」
「だからお詫び持ってきたでしょ。それにあたしは、お前じゃなくてホウキカズヨ。まだ名前覚えてないの? 風見和幸君」
 なんとなく納得いかないながらも、和幸は、さすがに指さすのは悪かったなと思いながら手を下ろした。が、すぐにそんな殊勝な思いも消えて、柳眉が上がる。
「最初に、差し入れって言っただろ」
「そうだった?」
「言った。差し入れとお詫びじゃ意味が違う」
「うーん・・・うん。そうかもね。ごめん」
「う・・・」
 あっさりと謝られて、毒気を抜かれた。
 和幸は、口の中でもごもごと「いただきます」と呟いて、まだ温かい中華まんを囓った。ココアのプルトップも開ける。
 ちらりと伯耆――確か、そんな漢字だったはずだ。当然のように、和幸はそらでは漢字が書けない――を見ると、気の強そうな瞳が、何?とでも言うように見返してきた。
 何を話せばいいかと、少し焦る。
 そう大きな部署ではないが、それなりの人数はいる。同期とはいえ、性別が違うと、頻繁に話をするというわけでもなかった。男子社員の中で、伯耆は、そこそこかわいいが少し変わっているというのが定評だった。   
「その・・・さっき、ごめん」
「え? 何が?」
 きょとんと見返されて、言わなくても良かったかと軽く後悔する。
「場所取り・・・いや、名前」
「名前? ああ。何、本当に覚えてなかったんだ? ひっどいなー、こっちはフルネームで覚えてるっていうのに。やっぱ来なきゃ良かった」
「・・・遅刻じゃなかったのかよ」
「あ。あー・・・まあ、隠しても仕方ないか。どうせそっちも聞いてるんでしょ? 場所取りしろって言われても、女子社員はほとんど参加しないって」
「まあ、な」
 二人の勤める会社、正確には部署は少し変わっていて、入社式の日の花見が慣例となっていた。入社一年目の社員が場所取りをして、二年目の社員が弁当などの手配、菓子類は各自。
 ちなみに、新入社員が毎年入るとは限らないため、その場合は順送りとなる。運が悪ければ、場所取りを三年連続、という事態も有り得るのだ。和幸は、幸い、今年で一回目だ。
 その場所取りを、女子は冷えるからと、来ないことが多いとは、確かに先輩たちに聞かされていた。代わりに、その分弁当の手配を押しつけるとも聞いていたが。
「こうやって来たから、来年手伝ってね」
「遅れてきたくせに」
「数字って苦手なのよ。この前も、十のところ百って書いてて。課長が発見してくれてなかったら、大惨事」
 明るく笑い飛ばすが、笑い事ではない。仕方ないと、和幸は腹の中でだけ溜息をついた。何かへまをしたら、被害は自分にも回ってくるのだ。
 いやな運命共同体だ。
「ねえ、噂、知ってる?」
 突然何を言い出すのだろうと、和幸は、見るともなしに見ていた桜の幹から視線を外した。
「噂。風見君に関する」
「えっ、何それ?」
「知らないんだ。風見君ね、風見グループの跡取りって言われてるんだよ」
 風見グループ。幅広い活躍をしている大企業で、一応、二人の勤める会社も、その一部門と売り上げを競っている。
 何の冗談かと伯耆を見たが、笑ってはいるが嘘を言っている風ではなかった。
「それさ・・・いくら名字一緒だからって、安直すぎない?」
「一人息子と名前が一緒だから。でね、今のところ、父親に反発して出奔っていうのと、ライバル社偵察っていうのが主流。少数派だけど、甘やかさないために関係のないところで下っ端から働くため、っていうのもあるよ」
「漫画かよ」
「そうとも限らないでしょ。使えないから見限られた、っていうのもあるけどね。これは陰口」
 やはり明るく言われて、怒るべきなのかと判断に迷う。
 それはやめにして、肩をすくめるだけにした。
「伯耆さんはどれを支持してるの?」
「同姓同名の別人。別の事実と混ざって噂になったのね、きっと」
「別の事実って?」
 何の気なしに訊くと、ふっと、伯耆は笑った。その微笑が先程とは違って見えて、思わず首を傾げる。
 飴の袋を開けると、和幸の方にも一つ投げて寄越した。
「風見正和の子供が入社したのと、その息子と同姓同名の風見君が入って来たのとで、そんな噂になったんでしょうね」
「えっ、ほんとにいるのか、息子」
「息子とは言ってないじゃない。息子の妹。もっとも、こっちは離婚して母親に引き取られたんだけどね」
 それって、と言いかけて、なんとなく言葉を呑む。
 今度は伯耆の方が肩をすくめた。
「凄いと思わない? 生まれたのは双子で、それははじめに知ってて、父親は男名前を二つしか考えてなかったのよ」
「え・・・カズヨって・・・」
「あれ、どうして知ってるの? 名前、覚えてなかったんでしょ?」
「さっき言ったから」
「あ、そうか。記憶力いいね。でも漢字は知らないでしょう。和幸のカズに、夜。母親が読みを変えてくれなかったら、カズヤだった」
 そう言いきって、紅茶の缶を横に置いた。
 何を言えばいいのか判らず、和幸は、所在なしにココアの缶を見つめた。
「――っていうのが、あたしの支持してる説。今のところ一人だけだから、超少数派」
「嘘か!?」
「エイプリルフールに因んで」
 そう言って、次は煎餅を開ける。一枚つまむと、無造作に袋を向けてきたが、断った。まだ、飴を食べきっていなかった。
 嘘か本当か、そう考えて少しして、どっちでもいいやと頭を振る。
 くすりと、伯耆――和夜が笑った。
「それで本当のところ、どうなの?」
 いい加減日も暮れて、そろそろ他のみんなも来るだろう時間になっていた。暇どころじゃなかったなと、ふと思う。
「じゃあ、四月一日に因んで、一番目に言ったやつで」
「信憑性無いなあ」
 笑う二人の上に、桜の花びらが舞い降りた。

    
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おつきさま

 泣けない夜は、散歩に出る。
 ごみごみとした空気や安っぽいネオンが溢れているが、少し歩けば公園に着く。街灯の嘘臭い光から逃れるようにして、鉄棒にうまくバランスをとって座り、ぼんやりとする。運が良ければ、月も見える。
 慣れないうちは茂みのカップルに遭遇したりもしたが、今はそれもない。
 ここは、美里の場所だった。
「おつきさまおつきさま。お願い事があります」
 これで三回目。美里は、しっかりと回数を覚えていた。
 一回目。怖いくらいに大きな月が、冴え冴えと浮かんでいた。
 ――お父さんがいなくなりますように。
 いつも暴力を振るう父は、電気屋のテレビで見掛けた「家庭内暴力」や「幼児虐待」の 人そのものだった。何人目かの父だが、そのどれも、大差はなかったと思う。
 お願いをした翌日――十二時を越えていたから、正確にはその当日、父はいなくなった。「父」が突然姿を消すのは、多くはないが特別珍しいことでもなかったので、母も気にせず、すぐに新しい恋人を作ったようだった。
 新しい「父」が来るのはそう遠くないと美里は思い、実際そうなった。
 二回目。風が強く、真っ黒な影になった木々が大きく揺れていた。
 ――お母さんがいなくなりますように。
 一つの事が長続きしない、短気な母は、美里にも感情に任せて接していた。溺愛され、殴られ、放置され、かと思えば優しくされて。
 お願いをして数週間して、さすがに母がずっと帰ってこない事で警察に行く途中、テレビでワイドショーを見た。身元不明者の絞殺死体。
 美里は、多少地方気味の祖父と足が不自由な祖母に引き取られる事になった。
 三回目。風が凪いで、空気が熱い。
「あなたに会いたいです」
 今だ行方が知れず、探すつもりもない父と、恋人が犯人として処理された母と。偶然としても有り得なくはない。美里はずっと、そういうところで生きてきた。 
 それでも「おつきさま」がいるかもしれないと、美里には思えた。
「あなたに、会いたいです」
 祖父母は、美里には意外な事に、優しかった。
 一回目や二回目と、状況はすっかり変わっている。
 父も母も、もういない。
 学校にだって、ちゃんと行ける。
 泣くことを堪えることも、それに慣れて無感情でいることも、もう必要ない。
 時間が経って、月が傾いた。夜の公園から、人の気配が消えることはなかった。
 父や母父や母に暴力を振るわれたときよりも、今の方が辛いのは何故だろう。
 泣けない夜は、もう来ない。
 何故か美里は、そう確信していた。これで最後。 
「おつきさまおつきさま。――さようなら」
 夜の道を、美里は走っていった。

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