青空に白い月

 とろりと、濃い闇に抱かれて、半ば眠るようだった。
 あれのいなくなった世界では、起きていようと眠っていようと、死んでいるのと変わりがない。では、厭なものを見なくていいだけ、眠っていたほうがましだ。いっそ、死ぬことを許して欲しいと、そう、思ったこともあった。
「どうか――生きてください」
 貴方に死なれては困るのですと、その声は告げた。感情を出さないよう努力していそうな声音で、妙に可笑しく、馬鹿馬鹿しかった。
「生きて。いつかは――貴方にも、救いがくるかもしれない」
 耐え切れず歪んだ声は、そう告げた。
 ただとろりとした闇の中で、確かにその声を聞いた。

 1

「逃げるな、衣装合わせにならないだろ!」
「聞いてないぞこんなの、俺は!」
 無背の神童は、逃げの体勢に入りかけた鬼子の白い半袖シャツの裾を掴んで、怒気を込めてにっこりと微笑んだ。
「衣装を決めるときに任せるって言ったよね? 原案も見せたよね? 仮縫いの時にもいたよね? そこまでやっときながら聞いてないってのは、ちょっとおかしいだろう? ねえ、何か間違ったことを言ってる?」
 ぐ、と、言葉に詰まって動きを止めた隙に、裾から移って、しっかりと腕を掴む。それがすがりつくようにも見え、見ようによっては仲のいいカップルなのだが、周囲は確実に距離を置いている。もっとも、それどころではないというのもある。
 学校を上げての梅雨祭は、すぐそこに迫っているのだ。
 梅雨祭の片付けの最中には来年のことに思いを馳せる、というくらいには、熱が入っている。個人参加でも団体参加でも、手を抜く者はいないのが常識だった。――基本としては。
「だって、女物なんて」
「違いなんてあんまりないじゃない。それにちゃんと、設定図に書いてます。こっちがキミでこっちがボク。この絵、見せたね? 見て、納得したからこれでいいって言ったんだと思ったけど?」
 もしかすると唯一の、梅雨祭に乗り気でない友人に、無背の神童と呼ばれる竜見和希は、手書きの衣装設定図を突きつけた。
 活き活きとした瞳に、うっかり目線をやってしまったクラスメイトたちが、わざとやったに違いない、と確信する。特別、注釈を与えることもなく見せたのだろう。中には、異端児の長良幸に、ほんのりと同情心を抱く者もあった。
 しかしそれも、じっくりと見ていれば、そして仮縫いの段階でも気付けたはずのことだ。そのことは、幸にも自覚があるらしく、反論の言葉は出なかった。そもそも、言う通りに、少し見たくらいでは判らないくらいの差異だ。
 小柄な少女に追いつめられて、同年代の中でも身長のある青年は、足掻くように天井を仰いだ。確かめるように、右手首の腕時計を見るのは、ただの癖だ。しかし、妙案は出なかったらしい。
「わかった。俺が悪かった」
「いやだなあ、まるでボクがいじめたみたいだ」
 そんなことを言いながらも、既に衣装を着せかけている。羽織っていくものだから、脱ぐ必要がないのは楽でいい。
 しかしこれでは着せ替え人形のようで、覚悟を決めた幸は、和希の手から衣装を奪い取り、渋々と身に纏った。和希も、腹を括ったらしいと見定め、自分の分を身につける。
 布をたっぷりと使った服は、下手をすると裾を踏みつけそうだった。唐風の衣装にしたのだと、和希が、今度は裏面はなしに笑顔を見せる。
 和希は、いっそ異常なほどの記憶力で神童とまで称えられるが、そのせいか応用しかできないのだと知っている。しかし、それは卑下したものではなく、時には大いに有効だ。
 そういったことを役立てられるのは、嬉しい。
「…ひらひらしてる」
「素っ気ない感想ありがとう。当日は、ガクランは脱いでね。着るなら、Vネックのシャツやランニングで。草履に履き替えるのも忘れないように。腕時計は――」
「外せない」
 有無をいわせず言い切る言葉に、一瞬だけ目を見開いて、和希はこくりと肯いた。
 拘りの一つや二つ、誰にでもあるものだ。例えば和希は、中学に入る少し前から延ばし始めた髪を、肩よりも短くするつもりはない。そして、幸が体育の時でさえ時計を外さず、しかも、教師にも渋々と認められているのは、周知のところだ。
「わかった。じゃあ、袖に隠すように気をつけて」
「ああ。…男女逆転する意味、あるのか?」
「あんまりない」
 素直にそう告げると、絶句する。その間抜け面に吹き出してしまい、慌てて謝った。
「意表を突けるかな、と思ってさ。奇策の外道だけど、どうせなら優勝狙いたいし。参加するなら頂点だ」
「参加するならって、これ、全校強制参加だろ」
 そうでなければ参加していない、と言外に言う幸に、和希は、わかってないなあと肩をすくめた。
「強制だろうが自由だろうが、参加は参加。やる以上は全力を尽くさないと、企画者にも他の参加者にも失礼ってものだろう? ま、現時点でキミが一番礼を欠いている相手は、ボクだと思うけどね」
「お前が勝手に仕切ったんだろう」
「酷いなあ、ヒトが丹誠込めてふたり分も作ったっていうのに」
「それは――ご」
「楽しんでやったんだけどね。梅雨祭、キミがさぼらず参加してくれるなら、苦労も報われるってものだ」
 そう言って笑って、和希は、確認は済んだから脱いでいいよと、明るく告げた。 

 2

 無背という地名は、今では存在しない――ことになっている。数年前、流行に乗ってうっかりと合併してしまったためだった。おかげで今では、県立高校や市立図書館の分館に名前が残る程度だ。
 それでも、地元では未だに、「無背」と呼ぶ。そこには、市名を決めるときに、県内で一番北に位置するなどという、安直な案が通ったことに腹を立てたためでもあった。
 無背は、よく言えば自然が多く、悪く言えばただの片田舎だ。
 そして今時珍しく、地域の人の結束は強かった。人情に厚く、因習が残っている。田舎の豪族を主張するかのような日本家屋も、あばら屋のような民家も、依然として残っていた。
 そのうちの一軒の前で、自転車を押す幸とそれに乗った和希が立ち止まった。
「悪いね、送ってもらっちゃって。お茶飲んでいく?」
 意外に広い背中を見るとはなしに見ながら、和希は、学校から歩いて自転車を押してくれた幸に話しかける。自転車は和希のもので、二人乗りをすれば、少なくとも途中までは早かったのだが、幸は頑として聞き入れようとしなかった。
 妙なところで突っぱねる。
 幸は、軽く捻って湿布の貼られた和希の右足首にちらりと視線を寄越し、無愛想に首を振った。
「いや」
「そう? 今日は、節子さんが駅の方まで出るって言ってたから、明月堂の羊羹買ってきてくれてると思うんだよね」
「明月堂?」
「えっ、知らない?」
 思わず身を乗り出して幸の顔を覗き込み、本当と知って絶句した。明月堂だよ明月堂、と、意味もなく言葉を繰り返す。
 市街地中央、この辺りでは一番大きな電車の駅の近くにある和菓子屋は、ちょっとした有名店だ。
 例えば、無背の外れにある真田貴和子は、老齢ながらのんびりと茶菓道を教えて暮らしているが、去年孫が無背高校に通うようになり、頻繁に尋ねるようになって以来、その孫に頼んで茶菓子を明月堂から購入してもらうようにした。それ以来、突如生徒が増えたらしい。
 祖父母のもとで育てられた和希だけでなく、同級生たちにも愛好家は多い。
「知らないなら、是非一度食べるべきだよ。甘いもの好きだよね?」
 捻った足も忘れて、自転車から飛び降りそうになった和希の腕を、幸が咄嗟に掴んだ。困惑したように、眉間にしわを寄せている。
「…家、入ると迷惑だろう」
「迷惑って何が」 
「俺は、異物だから」
 本気らしい自嘲の言葉に、和希は思いきり顔をしかめた。一応足を気遣ってそろりと着地し、自転車のハンドルを握る幸の肩を掴んで、正面から向かい合う。うっかりと、思い切り体重をかけてしまったが、びくともしない。
「そりゃあそうだよ。キミは、ボクの家族じゃないし、節子さんみたいに働きに来てるわけじゃあないからね」
「そういう」
「ことじゃないなら何。鬼子だって呼ばれてるから? それがどうかした。鬼子だろうが番長だろうが、キミがボクの友人であることには変わりないと思うけど?」
「…番長?」
「気にしないで、ただの連想だから」
 問題児、異端者として呼ばれる「鬼子」の名称に、「不良」を連想し、そこから安易に「番長」を連想したのだが、そこまで説明する必要もない。
 何かしら他者とは違った雰囲気をしており、遠い血縁だという人物と二人暮らしの曰くありげな状態、中学時代、別の片田舎でクラスメイトに刺されてその生徒と教師を殴って入院させたという噂。絶対に外さない腕時計も、何かありそうだ。
 退屈と表裏一体の平穏な無背では、明らかに浮き立っている。
 そして溝を、本人が認め、一層深く掘り下げていることも、和希は知っている。しかし和希には、それを放置しておくつもりは全くなかった。
 正義感からでも義務感からでもなく、それは単に、利己的な問題だ。
 「とにかく出来がよく」「豪士の跡継ぎ」という方向でではあるが、同じく周囲と距離のある和希にとって、おそらくは唯一、愚痴を言える相手だろうからだ。友人は多く、無背全体でも人望が厚い和希だが、それだけに、本心をさらけ出しての愚痴や弱さを見せられる人がいない。そして、衆目を集めるからには、和希自身のことにではなくても反感を持つ者もおり、下手なことをすれば陰湿な攻撃が待ち受ける。
 勝手ながら、幸を同盟者と定めてしまっているのだ。せめて自分相手には堀をほらないで欲しいと、はなはだ自分勝手なことを思う。
 今回の相手に名乗りを上げたのは、親しくなろうという魂胆を持ってこのことだ。
「とにかく、ボクはボク以外の人間が勝手に自己完結をしているのを見るのは好きじゃないんだ。それがじめじめと鬱陶しい方向ならなおのこと。そんなわけだから、遠慮だか自虐だかは却下するよ」
 いつもは怒ったように結ばれた唇の端が、わずかに持ち上げられる。眉間のしわは一層深くなっている。一瞬間を置いて、笑いを堪えていると知って、和希は、正直なところ当惑した。
 自分勝手と自覚があるだけに、怒られるかも知れないとは予想したが、笑われるとは思っていなかった。
「…何か、笑うようなこと言った?」 
「いや。…いい奴だな、お前は」
「勝手だ、って怒られると思った」
「確かに勝手だ。だけど、怒るようなことでもないだろう。多分」
 くくと、声を殺して笑う。つい洩れてしまったという風なあたり、ひねくれている。
 しかしまあ、悪い方向にはいかなかったようだと、ほっと、肩から力を抜く。
「じゃあ、立ち話もなんだし、家に」
「いいや、帰る」
「えー」
「お前を送るだけでも、かなりの譲歩だったんだ。このあたりで観念しろ」
「だけどそれは、キミの荷物に躓いたっていう正当な理由があったと思うけど」
「それでも、お前の信者にいくらでも送りたがってる奴がいただろう」
 信者ねと、苦笑気味に呟く。確かに、和希を生き神のように扱う人もいる。そうでなくても、面倒見のいいクラスメイトも、大勢いた。
 軽く、肩をすくめる。
「あそこで、キミに頼まなかったらどうなってたと思う? キミには非難がいったんだよ。恩の一つくらい、感じてみない?」
「お節介」
「予想通りの返答をありがとう」
 至極あっさりと返して、はあと溜息をこぼす。
「まあ、そこまで言うなら仕方ないね。ちょっと待ってて」
 とりあえずは捻った足を気遣いながら、早足で行く。さすがに家の、母屋までの道とあって、慣れているだけに歩きやすい。
「おい?」
「いいから待っててって。勝手に帰ったりしたら、後日をお楽しみに」
 ひらりと、後ろも見ずに手を振ると、手入れの行き届いた庭を向けて、古びているががっしりとした玄関を避けて裏戸を気軽にくぐる。
 大きな、古い日本家屋。かなり古くに立てられたという話だが、よくもこんな行き来しにくい山裾に、これだけの資材を運んで後々にまで耐え得るものをつくったものだと思う。
 幼い頃には、広すぎる家に少ない人で、怯えた覚えがある。それでも泣いた覚えがないのは、その頃から意地を張り通していたから――だろうか。
 生まれて、一年目の年。きっちり一年の後に、和希はこの家で暮らすようになった。祖父母と、家事を取り仕切る住み込みの節子と通いの何人かの家政婦。それが、和希の「家族」になった。
 両親が事故で亡くなり、誰もが、何かにつけて「可哀想だ」「不憫だ」と言葉を残していった。和希が覚えている一番古い記憶は、そんな言葉が行き交う両親の葬儀の席から、鮮明さを伴って開始する。
 そんなところでまで、記憶力の良さを発揮しなくてもいい、と思う。そうでなければせめて、もう少し早くから、始めてほしい。
 今ではそれなりに使いこなせる記憶力も、当時はそうではなかったらしく、一連の映像として残っている。脳裏に再生されるのは、両親の抜け殻ばかり、周囲の気の毒がる様子ばかりだ。
「おや、おかえりなさい、和希さん。足をどうされたんです」
 特に意識をすることもなく、それでも目的地にたどり着けていたらしい和希は、中年家政婦の節子の声に、我に返った。
 湿布を貼ったせいで不自然に膨らんだ靴下のくるぶしは、見るからに違和感を主張しているだろう。心配そうに眉をひそめていた。
 山本節子は、他に身寄りもないということで、和希が生まれる以前から住み込みで竜見家で働いているとのことだった。おそらく、物質的な範囲では、節子がこの家のことを一番理解しているのだろう。そして、和希にとっては育ての親と言っても差し支えない。
「捻っただけ。少し大袈裟でさ。ねえ、節子さん」
「なんです?」
 決して丁寧な口調を崩さない節子だが、冷たい感じは全くない。和希は、節子のこの「なんです?」という言葉を数えることもできないくらいに聞いてきた。
「明月堂、行ってきた?」
「はい。ちゃんと買ってきましたよ、羊羹。早速召し上がりますか?」
「うん、いや、少し、分けてもらえないかと思って。友達が、食べたことがないって言ったから」
「まあ。それは是非とも、差し上げませんとね」
 節子は、笑うとお多福の面のようになる。柔和な、優しい顔だ。
 上がってもらえという言葉を適当に誤魔化して礼を言って受け取り、駆け出そうとすると、やんわりとたしなめられた。足を気遣ってのことでもあるが、家の中を走り回ることを、節子が良しとした試しはない。
 来たときと同じ道をそのまま引き返して家の前に戻ると、使い込まれた自転車とともに、幸がぼんやりと待っていた。
 和希の姿に即座に気付き、いささか不服そうな視線を寄越す。
「やあ、ごめん。これ」
「何だ?」
「羊羹。明月堂の」
 げ、と漏らした声が、確かに聞こえた。そんな反応に、むと、眉根を寄せる。
「一度食べてみなって。甘党だってことは知ってるんだから。明月堂の和菓子を食べずに過ごすなんて勿体ない」
 幸は、学校での昼食は常に食堂か購買なのだが、ほとんどデザート類や菓子パンばかりを食べている。それ以外のものを食べただけでも噂になるくらいには、密かに注目の的だ。
 ただ、誰もが遠巻きにするだけに、面と向かって理由を質す者はなかった。
 自覚はないのか、少しだけ、焦ったように幸の目線が空を彷徨った。
「…やけに熱心だな」
「言っとくけど、この辺りじゃあ、明月堂の無断広報係は多いよ。市に合併して、唯一嬉しいのはあの明月堂と同じ行政区域に入ったことだ、なんていうわけのわからないことまで言う人もいるくらいだからね」
 事実だ。
 しかし幸は、胡乱そうに見返す。とにかく、と、和希は羊羹の入った包みを押し付けた。
「また明日。送ってくれて、どうもありがとう」
「俺は…」
「初めてだろう、無背の梅雨祭。キミが引っ越してきたの、夏休みの終わりだったらしいから。少しでいいから、期待してくれていいと思うよ」
 そうして不承不承ながら、幸は帰途に着くようだった。歩くと遠いから自転車を貸そうかと言ったが、きっぱりと断わられた。もしかして、乗れないのだろうか。あるいは、借りをつくるのがそんなにも厭か。
 幸の腕時計が、夕日に近い陽の光を反射する。梅雨の合間の晴空は、うっすらとかげりを見せ始めていた。 

 3

 笹と紫陽花で飾り立てられた校舎は、一挙に日常から異次元へと変化していた。民族学でいうなら、「ハレの日」が今日だ。
「驚くぐらい具のでかいたこ焼きだよー」
「甘味処のしらたま屋、二階の右突き当たりですよー。どうぞ寄ってってくださいねー」
 賑やかな喧噪が、校舎を包む。日曜ということもあり、生徒以外の姿も見受けられる。
 基本的にはありふれた文化祭のそれと変わらないのだが、生徒が、二人一組で同じ趣向の衣装に身を包んでいるのが一つの特徴だ。七月の七日に一番近い日曜に催されるのが、無背高校名物の「梅雨祭」。ちなみに、文化祭はまた別にある。
 二人一組の仮装は、その中の明らかな主眼だ。
 そもそも梅雨祭というのは、無背では旧暦に行なう七夕行事ではなく、奈良の時代にあったという、水乞いが元になっているらしい。梅雨にもほとんど雨が降らず、農作物のために一夜を祈り通し、命の代わりに天を動かしたのが、まだ若い一組の男女だったという。
 無背以外から通う者には、時として七夕伝説とごっちゃにされてしまうのだが、無背高校の裏にある祠には、その二人が祀ってある。
「あれ? 真田さん、長良幸知らない?」
「長良君? さっきまでそこにいたと思ったけど…」
「あ。店番、交替か。どこ行ったかなんて知らないよね?」
「ええ。ごめんなさい、わからないわ」
 浴衣に前掛けをつけた同級生が、そう言ってすまなそうなかおになる。和希は、礼を言って教室を後にした。
 祠の二人を元とした生徒の仮装は、当日の午前中に投票でクラス代表を決め、午後には全校でのステージ発表と投票が行なわれる。クラス投票は、正午までに投票を済ませておくことになっているのだが、幸の投票用紙は、荷物の上に無造作に残されていた。
 朝一番のクラス出店の店番を終えた和希は、忘れ物を取りに戻った際に気付き文句を言おうとしたのだが。一学年が四クラスの比較的小さな高校とはいえ、名物のお祭り騒ぎで、校舎の人数は、下手をすれば倍以上に膨れ上がっている。
 これは探し出すのは無理か、と決めかけた時に、校庭に見たことのある服を見つけた。萌葱色が中心の、和希が造り上げた衣装だ。
「見つけた!」
 一年生のクラスは、生憎と最上階だ。今から駆け下りても移動していそうだし、声をかけると余計に逃げてしまうだろう。いっそこのまま飛び降りて、と無茶なことも考えたが、幸が、誰かと話し込んでいる――というよりも、詰め寄っている風なのを見て取って、駆け出す。間に合うかも知れない。
 昨日捻った足は、丹念にマッサージをしたら、違和感もなく治った。もともと、手当するほどのことでもなかったのだ。
「今すぐ帰れ!」
「やあ、よく似合ってるよ」
「撮るな!」
 たどり着いてしばし、目の当たりにしている光景が信じられなかった。あの幸が、親しげな空気を伴って話をしている。内容はこの際、関係ない。
 布地のたっぷりとした衣装と、長髪の鬘を身につけた幸を前に、楽しそうに、写真を撮るというのも凄い話だ。凡庸に見える男は、怒る幸を軽くいなしているようだった。
 鬘と衣装でがらりと印象が変わり、一目では長良幸と判らない見掛けに、騙されかけてから気付いた生徒は、例外なくぎょっと目を剥いている。
 声をかけたものかどうか迷っていると、不意に、男と目が合った。しばらく見つめ合ってしまった後、にこりと笑いかけられた。青筋を立てている幸の隣をひょいと抜けて、歩み寄ってくる。
「はじめまして。もしかして、幸の友達?」
「え――はい、とりあえずそう思ってます。同じクラスの、竜見和希です」
 突然の質問に驚いて詰まったものの、そう素直に応えると、にこりと、男は微笑んだ。三十前後といったところだろうか。しかし、あまりにも落ち着いた雰囲気からすると、童顔で年齢はもっと上なのかも知れない。
 不器用な医師のような、そんな印象を受ける。
「幸にも友達がいたんだ、良かった。家では何も話してくれないものだから」
「家って…長良君の保護者さん、ですか?」
「ああ、ごめん。うん、幸の保護者というか後見人というか。杉岡です。連絡先しかないけど、良ければこれ、名刺」
 渡された小さな長方形の紙片には、言葉通りに「杉岡宝」という名前と、確認に一度回されただけのクラス名簿に載っていた、幸のものと同じ住所と電話番号が書かれていた。メールアドレスは、世界有数のフリーアドレスだ。
 そうして、男はしげしげと、和希の着ている衣装とみづら風に結った髪を見つめた。
 隣では、不機嫌そうに、それでいてどこか不安そうな様子で幸が佇んでいる。身長は、わずかに幸の方が勝っているようだった。
「良くできてるね、その服。幸の分も、作ってくれた?」
「はい。目玉なんです、生徒の仮装。生徒会や新聞部の配付している資料に詳しくありますけど、昔、水乞いをした男女に因んでるんです。午後には、体育館で衣装審査のステージ発表がありますから、時間が合えば見ていってくださいね」
 外向きの笑顔を向ける。実は、その双方に和希が関わっていた。新聞部には、今までの学校新聞を見せてもらいに入り浸っているうちに部員になってしまい、生徒会では、クラス委員ということで雑用に使われた。
 そのおかげで、おそらく和希は、今、校内で一番梅雨祭の由来や変遷について詳しいだろう。そもそも無背で育った以上、梅雨祭には何度も来ていたし、概要も知っていたが、詳細や多説の全てまではあまり知らずにいた。
 唐風に作った衣装も、一応は、その二人が大陸から流れ着いた術師だった、という一説を基にしたものだった。自らではなく、村人たちに人身御供に奉り上げられた、行きすがりの人物だと伝えるものもある。伝承は、そんなあやふやさが面白い。
 真実や事実は、一つしかないように思いがちだが、実際には人によって異なることが多い。捉える側によって、時によって、それらは変化する。
「そうだ、これ」
 投票用紙を差し出すと、杉岡は興味を覚えたように覗き込み、幸は、煩わしそうに顔をしかめた。
「誰に入れてもいいから、投票参加は頼むよ」
 当初の目的をようやく差し出して、受け取ったことを確認してから、杉岡に笑顔を向ける。
「これ、うちのクラスのチラシです。割引券ついてますし、どうぞ」
「ありがとう。幸は、何もくれないんだ。今日だって、何一つ言ってくれなかった」
「即刻帰れ」
 杉岡は、笑って肩をすくめる。これは勝ち目はないなと、和希は苦笑を堪えた。
 それに気付いたものか、杉岡は、にこやかな笑顔を和希に向けた。
「迷惑でなければ、案内をしてもらえないかな。幸は、この通りだから、期待できなくて」 
「是非、と言いたいところですが、残念ながら、用事を頼まれてまして。午後の準備があるんです」
 心底、残念だと思う。普段にはない、幸を大いに見られそうな、折角の機会だというのに。
 杉岡は、そうかと、少しだけ残念そうに言った。
「無理を言ったね」
「そんなことはないです」
「ありがとう。衣装審査には、二人も参加するのかな?」
「午前中に、クラス内で投票があるんです。その結果次第ですね」
 その言葉に、謀ったわけではなく、揃って、幸の手にしていた投票用紙に視線が向いた。
「あの紙?」
「そうです」
 心持ち幸を睨むと、わずかにたじろぐように身を引いた。杉岡も、非難するように見たことが大きな理由だろう。
 和希は、何とはなしに、杉岡と顔を合わせて苦笑した。一種、共犯のような空気が流れる。もう少し話してみたいと、幸のことを抜きにしても思った。
 しかし、スケジュールを詰め込みすぎの梅雨祭一日目は、どうにも慌ただしい。元々は衣装コンクールのみだったものが、クラスでの出店も加わって煩雑になったためもある。
「そうだ。校内図、新聞部か生徒会の配ってる冊子に載ってますよ。ここからだと、新聞部の配布場所が近いです。そっちの校舎に入ったらすぐのところに机置いてます。よければどうぞ」
「ありがとう」
 三人が立っているのは、一般教室が主に配置されている校舎と、特別教室や職員室が配置されている校舎との間の中庭だ。向かい合った校舎は、それぞれ端に近い二カ所の渡り廊下で繋がっている。
 そんな校舎の、校門に通じる通路の反対側は、山になっていた。その境のあたりに、今日の基である男女の祠が建っている。中庭からは、園芸部の温室が目隠しになって見えなかった。
 中庭や校舎前には各クラスや部活が店を広げていて、おそらくは、出店参加の半数近くがここや運動場に出て来ているだろう。新聞部は、校門の横辺りに陣取りたかったのだが許可が下りず、中途半端に校舎の中を割り振られてしまっていた。
 ちらりと校舎に設置された時計を確認して、和希は軽く頭を下げた。
「それじゃあ、すみません、失礼します」
 ひらりと浅葱色の衣装を翻して、二人に背を向けた。
 小走りに駆けていく先には、体育館がある。小さな学校にふさわしく、こぢんまりとしている。用があって尋ねた市内の大きな高校には、トレーニングルームや運動部の部室、第二体育室などといった、複合の体育館を見たこともあるが、それにはほど遠い。
 体育館は、梅雨祭の開会宣言のために生徒を集めたきり、閉じられている。
「あれ、まだ誰もいない?」
「残念、一番になり損ねたか」
「!」
 集合場所の扉前にたどり着き、呟いた途端の声に、ごくごく当然の流れで振り返った和希は、思わず吹き出していた。
「か、会ちょ、何です、それ」
 不格好なほどに短いスカートと、わざわざへそを出している短い上衣。飾りの付いたヘアピンで留めた髪。キャラクター化された「女子高生」のようなそれに、笑いを押さえるのも必死だ。
 朝、開会宣言の時は普通に制服だった覚えがある。
 無背高校生徒会長の橋本力也は、なかなかに美人な顔に、にこりと笑みを浮かべた。
「仮装だ、文句あるか」
「ないですないです。笑えるだけで」
「ふん、好きなだけ笑っとけ。結果発表の時に悔しがっても知らんからな」
「へえ、自信満々ですね。クラス発表もまだなのに」
「俺に入れずに誰に入れる。――おう、遅いぞおまえら」
 力也は、続々とやってくる生徒会役員と各学級委員たちに気軽に声をかけ、ある程度揃ったところで扉を開けた。
 中は、ありふれた体育館だ。使い込まれ、床が深みのある飴色をしている。ステージには、濃紺の緞帳。片隅にはピアノが載っている。
 今は何もないこの空間に、クラス代表たちが歩く花道をつくらなければならない。元々のステージだけでもいいようなものだが、そのあたりは、慣例とこだわりだ。
「よっし、やるか、皆の衆!」
「あっ、馬鹿会長、スカートに気遣いなさい、誰も中なんて見たくないのよ!」
 身軽に動く力也に、副生徒会長も含め、手際よく準備が進められる。
 今期の生徒会はこの梅雨祭で事実上引退となるため、生徒会の主要メンバーの三年生は、作業を進めながらも、感慨深そうだった。無背高校に通う生徒は大半が地元の出身で、幼い頃から梅雨祭に足を運んでいるため、一年生でさえも、そんな空気に同調していた。
 和希は、一歩引いてそんな感想を持ってしまう自分に、違和感を憶えた。何故、同調しないのだろう。
 どうでもいいことだとは思う。他者との一体感といったところで、実際には思い込みの類だ。感じたからといって、何があるわけでもない。ただ少し、それでは淋しい。
「働いてるか?」
「働いてます、きっちり。ほら、副会長呼んでますよ」
 単純作業が割り振られている学級委員と違い、生徒会役員たちは、放送部や職員と機材の配置や進行の最終打ち合わせもしている。忙しいはずなのに、わざわざ声をかけにやってきた力也を、和希はあっさりと追い払った。
 不服そうに口を尖らせながらも、大人しく呼ばれた方へ行く。
 力也が生徒会長というのは、優秀な補佐がいて、という前提付きではあるが、適任だと思う。人心を掌握するものがあり、さぼるが、ここぞというところではきちんと力を発揮する。
 付属品の威光ではなく、自身の能力だ。
「あー、やだなあ」
 意識せずに、間近に人がいないことを知って、ぼそりと呟く。誰かと比べることは、その違いを補う意志と手段がなければ、自虐か優越感に浸るかでしかなく、気晴らし程度の効能しかない。そして、自虐での気晴らしは、好きになれない。
 高校に入って数ヶ月、生徒会と関わるようになったこともあり、どうも人に「あてられて」いるようだ。
 小さく首を振って、和希は、準備に専念しようと努めた。
 お祭り騒ぎは好きだけれど、始まると、逃げ出したくなるのは何故だろう。早く終わらないかと、つい願っている自分に気付き、和希は、口の端を歪めた。

 4

「付き合ってくれないか」
 予想外だ、と、和希は、硬直した体勢のまま、相手の胸元にあるスカーフを眺めやった。衣装を着替えていないのは、和希も同じだった。
 祖父の拘りによって、小学校を卒業する間際まで、祖父が亡くなるまで、少なくとも家では男としての扱いを受けて育った。そのせいもあるのか、和希の色恋に関する感情は幼い。未だ、友達に男女の区別はなく、恋愛は遠い。成長が遅すぎると思うものの、感性ばかりはどうしようもない。
 この人のことは好きだ、と思う。劣等感を刺激されはするが、好きだ。しかし、その「好き」は、微塵も色を含まない。
「――今から打ち上げの買い出しとか、そういうのですか」
「竜見」
 傷付いたような、咎める声に、焦りを憶える。あまりに真剣な表情が、いつもとは別人に見える。
 そして、ふざけた格好にも関わらず、「男」をまざまざと見せつけられ、感情の奥底に押しやったはずの想いが、空気を探して浮上しようとする。それは厭だ。
「ごめんなさい」
 顔を上げることもなく伝えた言葉に、相手の肩から、力が抜けたのがわかった。
「…そっか」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。なんとなく、わかってた気もする。――悪かったな」
 首を振るのが精一杯で、そうしていると、二、三言葉を残して、力也は去って行った。
 行ってしまうと、大きく息を吐いた。
「女の子、だなあ…」
 呟いて、天井を見上げる。
 梅雨祭第一日目も終わり、明日には一般公開はしない二日目が続くこともあり、校内にはまだ多く生徒が残っている。それでも、屋上に続く扉の前には、誰もやってこないだろう。屋上は開放されておらず、時々さぼる生徒がたまっていることはあるが、授業中でもないのだから、帰ればいいだけのことだ。
 あーあと、瞼を下ろす。
 女として扱われることには、居心地の悪い違和感を憶えてしまう。髪を伸ばしているのは、自覚を持つためだというのに役に立っていない。
「竜見」
「え、うぁ?!」
「…大丈夫か?」
 突然現われた幸に、咄嗟に後ずさろうとしてもたれていた壁にぶつかり、妙な具合に身体が傾いだ。体勢を立て直して声の主を見ると、下の踊り場から、呆れたように見上げてきていた。
「な、何?」
「大丈夫か」
「…一応。何か用でも? もう帰ったと思ってた」
「宝が。羊羹の礼に、一緒に飯でもどうかって言ってきたから」
 誰だそれはと言いかけて、もらった名刺を思い出す。照れくささを隠すように、怒ったような表情をする幸に、和希は、微笑をこぼした。
「それでわざわざ探してくれたのか。ありがとう、だけどよく判ったね?」
「なんとなく」
「それは立派な探知能力だ」
 和希が階段を下りるのを、幸は、黙って見つめていた。
 ああ、返事を待ってるなと、思う。待機を命じられた犬のようで、微笑ましいと言ったら怒るだろう。幸は、既に制服に着替えていた。
 最後の一段を抜かして、両足を揃えて着地する。
「こんなこと言われても困るだけだろうと思うけど、今、キミに会えて良かったよ。気分として救われた」
 揺れていた思いが、静かに収まる。それが良いことでも悪いことでも、とにかく和希にはありがたい。
 幸は、困惑するように顔をしかめた。
「前から言おうと思ってた」
「何?」
「…俺には、関わらない方がいい」
「どうして?」
「幸せになれることは、きっと、ないから」
 本気かと、思うまでもない。酷く真剣な表情は、役者であれば大したものだ。そして和希は、幸が、そんな引け目のようなものを引きずっていることに、なんとなく気付いていた。
 冷ややかに、笑みを形作る。
「それは、随分と皮肉な命名だ。名付け親は誰?」
「冗談で言ってるわけじゃない、俺は、化け物にしかなれない」
 苛立つような声だった。和希には、「化け物」という言葉が、何故か、酷く禍々しく聞こえた。おそらくそれは、幸がそう思っているからなのだろう。
 少し、泣きたくなる。
 すうと、深呼吸をひとつ。ここで、泣くなんて厭だ。哀れむわけでも、責めたいわけでもないのだから。
「昨日、キミは自分が異物だと言った。ボクだって、それは同じだ」
「何を」
「勿論ボクは、キミが何をもって異物と自認しているのかなんて知らない。知らないものと、同じだと言うつもりはないよ。でも、他と違うものとしてなら、同じことだ」
「…誰からも慕われているのに?」
「慕う、ね」
 苦笑いが口の端に浮かぶ。
「昼間の月を考えてくれないか。例えが少し、きれいすぎるけど。昼の白い月は、雲に紛れるように見えるけど、確実に違うものだ。似ていても、全く違う。かといって、太陽と同じわけでもない。まあ、雲よりは近いかもしれないけどね」
 自分でもどこか的の外れているような例えが、しかし、和希にはひどくしっくりときていた。いつから、そんなイメージを持つようになったのかは覚えていない。
「昼の月は、どれだけ白くても、雲になんてなれない。キミは、ボクの異常な記憶力の良さを知っているだろう?」
 戸惑うように、頷くのを確かめて、一度、唾で口をしめらせる。喉は、緊張で干上がっていて、それも難しかった。
「だけど、病院なり大学なりに、調べてもらいに行ったことはない。使いこなせてるからいいとか、遠いし時間を取られるなんて、表向きの理由だよ。検査して解明することで、強大な何かが発見されると確約されていても、きっとボクは肯かない。だって――怖いんだ」
 幸の驚いたかおに、思わず苦笑してしまう。どんな風に思われているのかと、和希は、こんなときながら思った。
 理解なんて、所詮は思い込みの上に成り立っているもので、誰かのそれと合致することなど、まずはない。共通の認識を持っているという、実際には馬鹿げた思いの上にある、ただの虚像だ。
 そういった意味では、和希も、幸のことを本人の自覚とは別に捉えているのだろう。
「祖父が、病院や検査がとにかく嫌いな人でね。そのおかげで、そういったところに行かされることもなかった。祖父は四年ほど前に亡くなったから、行こうと思えばいつでも行ける。実際、そうした方がいいと勧めてくる人もいる。理由は色々だけどね。サヴァン症候群、一部の発達障害のある人が特異能力を示すように、今は表立ってないだけで障害があると困るだろうと言ったり、解明したら世紀の発見になるかも知れないと言ったり。だけどボクは、そうやって明確に線を引かれたら、絶望するよ。確として突きつけられたら、ボクは、ここには居残れない」
 人と違うことは、怖くない。脳に欠陥があろうと、他者にはないところが発達していようと、そのこと自体は怖くない。怖いのは、それによって変わる周囲の目だ。
 これ以上、違うものとして見られたくはない。解明は、最後の一線を引き込んでしまう。
 打ち消される可能性よりも、それが怖くて、手を出せない。怯えて、そちらに歩むことはできない。
「俺が言いたいのは、そんなことじゃなくて…」
 待っても続かない言葉に、和希は一度、静かに目を閉じる。深呼吸。受け止めて、齟齬を訂正しようとしてくれることが、ひどく嬉しかった。ただ、それだけのことが。
 しばらくして、幸は、振り払うように首を振った。
 上げられた顔には、自嘲するような、諦めるような笑みが浮かび、和希は、軽く失望する。再び、閉ざされてしまった。
「飯、どうする」
「良かったら、明日にしてもらえないか。ごはん、もう家で準備してるはずだから。わがまま言うけど」
 殊更に平静を保つのは、ささやかなプライドとでも呼ぶべきものなのだろう。
 幸は、いつもと変わらない、感情の読めない微苦笑を刻んだ。
「いや、いきなり言うあいつが悪い。伝えとく」
「ありがとう」
 そう、和希は笑顔で言った。
 このときの返事を、悔やむことになるとは、思ってもいなかった。
 明日もごく普通に来るのだと、そう、思っていた。

 5

 翌日、幸は学校に来なかった。
 和希が力也をふったことは校内に知れ渡っていて、しみじみとその人気を実感する羽目となった。それにしても何故、と思ったら、階下で階段を上っていた女子生徒に、声が届いてしまっていたらしい。力也が去ってすぐに、その女生徒も立ち去ったのがせめてもの救いといったところか。
 このくらいなら、困った笑い話で済ませられる。周囲との関係や立場がいささか悪くなろうとも、どうにか過ごせる。
 そんな状態で、その上、昨日の衣装審査では、和希のクラスの代表が二等を取ったため、見物の客足も増え、クラス出店も忙しかった。ちなみに、クラス代表は花嫁と魔術師と見紛うような衣装で、一位を獲得したのは、力也の組だった。中身だけは純情可憐な少女、という寸劇がその勝因だ。
 だから、和希が幸の欠席を本当に訝しく思ったのは、随分と後になってのことだった。帰宅しようとして、節子に夕食はいらないと告げていたことを思いだしたのだ。
 そう言えば、一緒に夕食をという話はどうなったのだろうと、電話をかけてみる気になった。
 生憎と携帯電話は持っていないし、持っていたところで無背では電波の通じないところも多いので、学校の公衆電話で番号を押した。
 長くコール音が続き、挙げ句に、誰も出ることなく、回線が切れてしまった。
「家にいないのか?」
 首を傾げる。
 梅雨祭の一般公開は日曜で、今日は月曜。揃って出かけているのも妙だと思う。幸は、何やかやと言いながらも、和希の知る限り学校を休むことも遅刻することもなく、増して、明日は振り替えの休日だ。それを踏まえての旅行ということも考えられないでもないが、昨日の別れ際の様子では、そんなこともなかった。
 突然の用事。誰かの訃報でも届いたのかと、不吉な考えにたどり着く。葬式に予定は立てられない。
「今度訊くか」
 今日一緒に夕食をとると、はっきりと約束したわけでもない。また学校で会えるだろうから、その時に何があったのか訊けばいい。そう考えて、思考を切り替える。
 節子のことだから、頼めば、一人分の夕食くらい簡単に作ってくれるだろう。それか、距離はあるが市の繁華街にでも出て、どこかで食べてもいい。さてどうしようかと迷っていると、ふと、やってくる力也と目が合ってしまった。
 正直なところ、かなり気まずい。しかし、今更目を逸らすわけにもいかず。
「…見回りですか?」
「ああ。毎年、粘る奴らがいるからなあ。まあ俺も、去年までそのクチだったけど」
 梅雨祭や体育祭、文化祭の後の校舎の見回りは、生徒会と教師の協力作業が恒例となっている。余韻に浸って校内で打ち上げでもしたいのか、トイレや掃除用具入れに忍んでやり過ごそうという生徒が、呆れるほどにいるらしい。
 雑談を続けるべきか帰るべきかと、わずかに逡巡している間に、力也が大きく息を吐いた。和希を見つめる瞳が、あまりに優しくて身じろぎする。
「ありがとうな」
「何が、ですか」
「こんな状態になって、もう口もきいてくれないと思ってた」
「そうした方が良かったんですかね、一般論で考えて」
「いいや」
 どうして。どうしてそうも、優しく返すのか。
 走って逃げれば良かったかと、少し、思う。和希は、溜息を押し潰した。
「ええと、じゃあ帰りますね。お邪魔しました」
「あ…ああ。気をつけて帰れよ。真っ直ぐにな」
「小学生ですか?」
 苦笑いして、会釈のような一礼を残し、身を翻す。
 教室棟のある二階からは、直接駐輪場に繋がっている。和希は、そこに自分の自転車を見つけ、財布程度しか入っていないカバンを前かごに放り込んだ。
 小さな盆地のような無背でも、坂や砂利道に妨害されはするものの、自転車は有用だ。スクーターよりも多いほどで、こんな田舎だというのに、下手をすれば自動車よりも普及率が高い。健康な人たちだ。
 鍵を外してペダルに足をかけ、さてどうしたものかと思案する。
「お好み焼きでも食べに行くか」
 繁華街ではなく、無背の外れにある個人店を思い浮かべ、ペダルに体重を乗せた。学校からだと、自転車で三十分ほど。その距離を遠いと思うほど、和希は交通の便に優れたところに住んではいない。むしろ、近い。
 途中で幸たちの家の近くを通るなと、考えはした。しかしだからどうといったものではない。
「うあー」
 和希が、自転車を走らせながら空を仰いだのは、学校を出て二十分ほどが経過してからのことだった。怪しいと思っていた雨雲が、いよいよ活動を始めてしまった。
 ここまで来るとお好み焼き屋の方が近い。せめて食べてから雨に濡れようと、ハンドルを強く握りしめた。
 その途端に、目の前に飛び出してきたものがある。
「あ…っぶないなあ、って、ん?」
 人だよなあこれ、と、どこか呑気に首を傾げる。雨空に暗くなった田舎道で、ずよれた黒服と遭遇する確率はどれほどだろう。上品なヤクザ、といった印象なのだが。
「うっ」
 離れたところから聞こえた呻き声に顔を上げると、そこにも黒服がいる。
「…田舎ロケ?」
 そんな話は伝わっていない。こんな狭い場所でそれはないと、判ってはいるが呟きたくもなる。
 黒服を着込んだ戦闘要員のような集団と、それに囲まれているらしき誰かがいるとなると、ドラマや映画の情景だ。
 しかし、そう呑気にしているのも如何なものか。
「ちょっと、警察呼ぶよ?」
 叫ぶが、自転車の前に倒れ出た男は意識を失っているらしく、少し離れたところでやり合っている集団はこちらを見もしない。民家までは少し距離があり、人を呼びに行くべきだとは思うものの、その間に取り囲まれている誰かが連れ去られるかも知れないと思うと、二の足を踏んでしまう。
 こういった判断は苦手だ。
「あーっ、もう」
 諦めて、溜息をひとつ。改めて、ハンドルを握る。
 そしてそのまま、器用にあぜ道を突っ走り、集団の中に飛び込む。どうやら一人二人踏みつけたようだが、輪が少し緩んだ程度なのは、さすがプロと言うべきなのか。何のプロかは知らないが。
「あ」
 輪の中心にいたのは、幸だった。
 ぐるりと黒服に囲まれながら、約一日ぶりに顔を合わせた級友は、殴られたのか蹴られたのか、薄汚れた学生服で、唖然として和希を見つめていた。驚いたのは和希も同じだが、とりあえず用意していた言葉はある。
「乗って」
「――!」
 状況がよくわからないまま、とりあえずは飛び乗った幸をつれて、一目散に黒服たちを後にする。田舎道に二人乗りの自転車ではさすがに追いつかれると思ったが、何故か、男たちが追ってくることはなかった。
 雨の滴が、とうとう空から落ちてきていた。
 和希が家にたどり着いたのは、学校を出てから一時間以上が経ってからのことだった。下手をすると、二時間弱。
 道中、荷台から降りようとする幸を、「走ってる途中で飛び降りたら、バランス崩してボクも倒れるからやめてね」と脅しながらのことだから、余計に時間を喰った。その上に、雨は、随分と景気よく降り注いでくれたのだ。
「とりあえずタオルとお風呂。話はその後だね」
「俺はいい」
「はーい、帰らない。事情説明したくないならそれはそれで、良くないけど良しとしよう。だけど、そのままってのはなしでしょう。そりゃ、家に送らないで勝手に連れてきたのは悪いけど」
 いくらなんでも動転していたのだ。
 しかし幸は、反論もせずに背を向ける。和希は咄嗟に、その肩を掴んだ。自転車に乗ったまま体を捻ったものだから、バランスを崩し、思い切り幸に体重をかけてしまった。
 ぐらりと、その身体が傾ぎ、二人と自転車は、濡れきった草地に倒れ込んだ。
「ごめん…!」
 体を起こそうともがき、焦ったことで、余計に幸の身体を踏みつけてしまう。どうにか起き上がったときには、二人とも、草で身体が剥き出しの部分を切ってしまっていた。
「…ごめん」
「気をつけろ」
「うん。本当に、ごめん。だけど、この間は支えられたよね?」
 雨の中だからといって、負荷が強かったとはいえ、あそこまで無様に倒れるのは、普段から考えると珍しい。一昨日は、平気だった。
「何が起きてるのかは知らないけど、疲れてるのは確実だ。雨が止むまでだけでも、休んだ方がいい」
「構うな!」
 怒鳴り声に、思わず身を竦めてしまう。
 しかしそれは、赤ん坊の癇癪のようにも聞こえた。
「俺に構うな! 俺は…ッ」
「こんな状態の友人を放っておけというのか。ボクは、ボクを見損ないたくはない」
 逆に静かな声で、睨みつける。
 行動の基準は、結局のところは自分だ。誰かのために事を起こして、何かあったときにその誰かを恨むのだけは厭だ。それくらいなら、ただのわがままを通したい。
 和希を睨み付けた幸の顔は、泣きそうに歪んでいた。雨に、泣いたところで隠れてしまうだろう。
「宝が、殺された」
 昨日、夕飯を一緒にと誘われた人。もしかしたら、それは今日実現していたかもしれない。話をしてみたいと、思った。
「俺がここにいることを、あいつらは許しはしない。いままでずっと、宝が庇ってくれてたんだ。…だから、殺された」
 嘘だろうと、問い質したくなる。人が死ぬ事自体は、珍しくない。突然の事故や、老衰、病死。どこにでも、転がっているものだ。
 それでも、殺されたということは、同じようにあるはずなのに、妙に遠い。
「宝まで手にかけたんだ。他の奴に、容赦するわけがない」
「きっと、もう遅い」
 こぼれ落ちた声が、思った以上に冷静だと、どこか痺れた頭の奥で思う。雨に濡れきって、身体は芯から冷えていた。蒸し暑さよりも、冷たさが勝る。
「姿を見られてる。制服だし、自転車の鑑札だって読み取れたかも知れない。キミがどこかに行ったからって、ボクが安全だなんて保障は、どこにもない」
「このまま残るよりは、ましなはずだ」
「どうだろうね。キミがいなくなったら、ボクは探すよ。そうしたら、口封じでもされるかな」
 泣き顔に、歪む。
 和希は、そっとその頭を撫でた。濡れた髪は、安物の皮のような感触がする。
 二人とも、言葉もなく、どのくらいかそうしていた。
 足音と人の来る気配に、身を固くした。
「和希さん…何してるんですか、そんなになって!」
「節子さん」
 見慣れた顔に、つい、安堵の息が漏れる。幸は警戒したまま、押し黙る。
「声がすると思ったら…風邪を引きますよ、ほら。あなたも。何か着替えを用意します」
 きっぱりとした、強い言葉に急き立てられ、幸も無言で立ち上がった。
 自転車を置いてきますから、すみませんけど和希さん、タオルを自分で出してください。
 そう言われて、幸を伴って玄関へと向かう。節子が自分の差している傘を貸してくれようとしたが、これだけぬれたら同じだと、断った。雨は、一向に衰える気配がない。
 玄関の引き戸を開けて、早くタオルを出そうと靴を脱ぎかけた和希の腕を掴み、幸は、感情を押し殺したような囁きを発した。
「あの人も、全て、失うかも知れないんだ」
「天秤にかけるには、情報が少なすぎるよ」
 足を踏み出すと、靴下から水がにじみ出る感覚がして、床の木材が水を吸うのが判った。    

 6

 風呂に入り、食べそびれた夕食をとる。その間、幸は無言だった。
 即刻帰る、ということはとりあえずは諦めたようだが、事情の説明もない。節子が食事を下げるのを待って、和希は幸に向き直った。
「幸いに、明日は休日だ。泊まって行くといい。部屋はいくらでも空いている」
「…そういう恰好で、そんな格好をするな」
「うん? キミでも、そんな反応をするんだね。意外意外」
 風呂上りの浴衣姿で当然のように胡坐を組んでいた和希は、からかうように軽く言って、正座になおした。背筋が伸びるのは、ただの条件反射だ。
「今日は休んだ方がいいんだと思う。本当は。時間は早いけど、疲れているだろうからね。だから、休むと言うなら止めない。だけど、抜け出すのは無しだ。黙ってどこかへ行くようなら、どんな手を使っても、キミを探し出すよ。それに、もう一度繰り返すけれど、キミが心配しているものがどんなものかまでは知らないけれど、今の時点でボクの安全は保障されていない。何も告げずに、報復を受けるなり人質にされるなりした場合、キミは、その方が後悔するのじゃないかな」
「…関わるなと言っても、納得しないんだな。お前は」
「出来るわけがないだろう」
 幸の保護者が殺されたというなら、思い違いでない限り、おそらく和希の手には余るだろう。そうして、幸を取り囲んでいた男たちをも考え合わせると、何らかの問題が生じていることはほぼ確実だ。保身を考えるなら、ここで手を引くべきだ。
 そのくらいのことは、判っている。
 本人が、和希を巻き込むことを避けているのだから、そこに甘えるべきなのだ。和希は、たかだか、経験の浅い高校生でしかない。
「話したくないのなら、それでも構わない。こちらで調べるまでだ」
「脅しだぞ、それは」   
「そう取るなら、素直に話してほしいね。待てと言うなら、少しくらいは待つよ」
 言葉のやり取りぐらいで、話を聴くことで、いくらかでも負担が除けるのならいい。しかし、その逆もある。そこで、我を通す気にはなれなかった。
「和希さん」
 ふすまの外からかけられた声に応じ、入ってくるよう促す。節子は、顔を覗かせると、芙蓉の間に床を延べたと告げた。
「ありがとう。案内はするから、もういいよ。ごめん、節子さん。迷惑と心配と、かけた」
「しおらしいことを言わないでください。雹が降りますよ。長良さん、ご迷惑でしょうけど、和希さんのお相手をお願いしますね」
「迷惑って、ひどいな」
「おやすみなさい」
 和希の、ボヤキともつかない反論には無視を決め込んで、母親のような笑みを残し、部屋を後にする。
 ふすまが閉じられると、それを待ったわけでもないが、音も立てずに、和希は立ち上がった。無駄に裾をひるがえすこともない、和装に慣れた者の動きだ。
「とりあえず、部屋を移ろう。案内するよ」
「俺は――」
「まだ泊まるとは言ってない、かな。そんなに意地を張るなら、さっきの台詞、丸々繰り返そうか?」
「判った――話す」
 苦りきった声に、座り直す。
 幸は、和希に注意しておきながら、正座は苦手と見え、胡坐をかくようにして足を崩している。それに正座で向かい合う和希は、しっかりと背筋を伸ばした。
 溜息とともに、言葉が零れ落ちる。
「今から何を見ても、叫ばないでいてくれると助かる」
「努力しよう」
 曖昧ながらも誠実な返答に、浅く頷くと、幸は、自分の右手首に左手を伸ばした。銀色の腕時計の留め金を外し、腕から抜く。
 風が、吹いたように感じた。
 相対していた人物は、長良幸のはずだった。それは、変わりない。はずだ。
 切り損ねたような中途半端に長い髪も、少しばかり色素が薄く見える髪も、ピアニストの役でもやれそうな手も、何も、変わらない。
 ただ、瞳だけが、瞳孔が縦に長く、細くなっていた。銀をまぶしたような金色の瞳。蛇に似ているが、例えるなら、もっと異なった――神話の、龍の方が正確だろう。
 瞳だけでなく、何かが大きく違う。爬虫類めいているとでもいうのか、吹いたように感じた風も、妙に生臭い。生理的な嫌悪感に、肌があわ立った。込み上げる嘔吐感を、どうにか押しとどめる。
 声など、出ようはずもなかった。
 そんな和希の様子を冷静に見つめ、幸は、時計を元に戻した。
 空気が戻り、風が消える。緊張が切れてか、急に噴き出した汗を感じながらも、和希は、呼吸さえもぎこちなかった。
 幸が、何事もなかったかのように立ち上がり、庭に面した障子と窓を開け放った。降り続ける雨に湿った空気が、それでもいくらか、心地よく感じられる。
「無理はしなくていい。宝でさえ、苦手だった」
 淡々と紡がれた保護者の名に、和希は、はっとして顔を上げた。途端に、呼吸のぎこちなさが消える。それは、気にしなければ、意識せずにも行えることだ。
「俺も…好きじゃない。自分が自分でなくなるようで…俺の感じられる感覚が、遠くなる」
 まるで懺悔でもするように、口にする。左手は、右手首を、存在を確かめるように、時計ごと握り締めていた。
「俺は、人間じゃないらしい。体組織自体が違うという話だ。聞いたことのある仮説では、ホモ=サピエンスとは違った経路をたどって進化したヒト、地球外生命体、といったところだ。神と呼ばれていた存在かもしれない、とも言っていたな」
 言われただけでは、到底信じなかっただろう。しかし和希は、さっきの異様な「長良幸」を、見ている。あれは確かに、和希や節子と同じ存在ではありえなかった。
 幸は、素っ気無く、腕にはめた時計を一瞥した。ありふれたデザインに見える、銀色のそれ。
「これは、俺を抑えるためのものだ。昔はただの枷だったけど、それだと影響が強すぎて、ろくに考えることも出来なかった。見かねて、宝が調整するように言って、それが通った。おかげで、こうやって、ただの人の振りもできる」
「振り…」
「ああ。別物だから、振りだろう。あいつが無理を言って、これも研究の一環と言い張って、俺を外に出してくれた。だが、とうとう、堪忍袋の緒が切れたんだろうな。辞令を下しても抵抗した宝を殺してまで、俺を連れ戻そうとした」
 わかるだろうと、言うような目が、和希を見下ろした。
 わかるだろう、と。到底、ただの女子高生が関わることではないのだと。
 和希は、一度だけ、呼吸を整えるために深呼吸をした。雨の、土の匂いがする。ここは、現在まで育った、見慣れた自分の家だ。大丈夫と、胸のうちで呟く。この一言が、これらの全てを失う元となっても。
 今のここは、和希の知る、確かな場所だ。
「質問に答えてもらいたいんだけど、いいかな」
「――?」
「沈黙は承諾と取ろう」
 明らかに意外そうな幸の様子を無視して、真っ直ぐに視線を向ける。怖くない、わけではない。
「宝さんが殺されたと、さっきからキミは言っている。どんな状態で?」
「…俺を庇って、腹を撃たれた」
「それで?」
「それで…?」
「近くに加害者がいたのなら、キミが宝さんを看取るまで、親切に待ってくれたとは思えない。それとも、人を殺したと、思考停止するような相手だったのかな」
「何が言いたい」
 苛立たしげに睨み付けてくるが、その瞳は、ヒトのそれだ。教室で見かける、同級生。さっきの姿は夢だと、思い込もうとすればできるだろう。   
「宝さんは、彼らを抑えるだけの力があったわけだろう? それが何に起因していたのかは知らないけど、何か強みがあったのだとすれば、そう易々と、死なせようとするとは思えない。それで済むなら、もっと早くに殺していただろうからね。堪忍袋の緒が切れたというからにはそれなりの長さだろうし、少なくとも、高校入学以来の数ヶ月、待ってくれていたわけだろう。勿論、宝さんの持っていた切り札が無効になり、必要がないと判断されたかもしれないけれど、可能性はあるんじゃないかな」
「あいつが生きてると…? そんなはずがない……!」
「何故?」
 返事はなく、幸が、必死に考えているのが判った。望みを持ちたいと願いつつも、それが外れてしまったら一層の絶望が襲うと、それを恐れているかのようだ。
 希望は、時として恐怖を育てる。それでも、縋らなければならないときがあるのも確かだ。
「確認くらい、するべきだろう。接触する気があるのなら、家に戻ったときを狙うかもしれない。おっと、今すぐに戻る、というのは無しだ」
「竜見」
「キミの生活くらい、探るなり報告を受けているなりしているだろう。ボクの存在なんて、すぐに露見する。あの時、追ってこなかったのが不思議なくらいだ。それとも逆に、知っていたから見逃したのかな。そしてそれだけ、彼らの側に、事を有利に運べるという自信があったのではないかな。荒事に持ち込まずともキミを抑えられると。宝さんを人質に立てられるなら、そう判断してもおかしくない、と考えるけど、キミの意見は?」
「そうだとしても、すぐに行くべきだろう」
「長良幸。キミは、疲れている。休息が必要だよ。ボク程度の重みを、支えられなかったことを忘れたわけじゃないだろう? 人質として捕らえているのなら、数時間を焦る必要はないだろう。冷静に物事も考えられない状態で行って、わざわざ相手に分を持たせるのは愚かしいことだと思うけど、違うかな」
 全ては、宝が無事で相手側に捕らえられていることが前提にある。そうして実のところ、推測ばかりで、今にもこの場に踏み入られることがないとは限らないのだが、休息が必要なのは判りきった事だ。
 幸は、しかめっ面で和希を睨み付けた。そこには、訝しげな様子も、いくらか含まれている。
 何、と、首を傾げて促した。
「…怖くは、ないのか」
「怖くない、とは言えないね」
 困惑する風の幸に、苦笑を返す。
「どの程度の危険なのかしらないけど、ボクは、死を願うほど生に飽いてはいないよ」
「違う。…俺を。恐れないのか」
「何? 恐れおののいて平伏した方が良かった?」
「茶化すな」
「はいはい」
 肩をすくめ、唇の端に浮かんでいた笑みを消す。表情を消した幸を、真っ直ぐに見つめた。
「声を上げないよう努力するとは言ったけど、もし、あの状態で顔でも撫でられていたら、叫んでいたかもしれないと思うよ。はじめにあの姿を見せられていたら、逃げ出して、キミに関わろうともしなかったかもしれない」
 和希の口調は、一貫して落ち着いている。
「でも、ボクは『長良幸』を知っているからね。キミ自体を怖いとは思わない。そのことで、縁を切りたいとは思わない」
「何故――」
「さあ。そう訊かれても困る。強いて言うなら、キミは、ボクにとってはじめての気兼ねせずに済む友人だから、ということにでもなるだろうね。さて、そろそろ寝ようか。全ては明日だ」
 にこりと微笑み、そうして、和希は、当然のように手を伸ばした。幸は、それをぼんやりと眺めやった。   
「部屋に案内したいんだけど、腰が抜けたらしいんだ。手を貸してくれないか」

 7

 ごくごく自然に目を覚ますと、和希は、通常通りに軽く身なりを整え、木刀を使った素振りなどの鍛練も済ませると、幸に割り当てた部屋を訪れた。
 竜見家には、祖父の常用していた睡眠薬も、祖母が時折使う睡眠導入薬もあり、一服盛ることも考えたが、止めておくことにした。そんなことをしなくても、一方的な約束でも、守ってくれるだろうから――というのは、ただの楽観的な願望に過ぎないのだが、ちゃんといてくれるような気がしていた。
 またそれとは別に、幸が心身ともに消耗しているだろうことは確実で、日が昇る頃には目覚める和希よりも先に、目を覚まして出て行く可能性は少ない、と踏んでもいた。
 ちなみに、和希の部屋の向かいが幸に充てた部屋であり、その間に挟まれた庭で、祖父仕込の早朝鍛練を行うのが習慣となっている。
「おっはよーございまーす」
 コントのノリで勢いよく開けた障子は、小気味のいい音を立てて柱にぶつかって止まった。傷むからあまりやっていいことではないが、気分はいい。
 まだ眠っているのか、布団は盛り上がっている。
「…映画やなんかだと、こういうのは、既にも抜けの空でした、ってのが定例なんだよなあ…」
 不吉なことを呟きながら、そっと、頭に当たる方の布団をめくる。
 足があった。
 無言で、しばし固まった後でそっと元に戻して、今度は逆の方を、慎重に持ち上げる。
 頭があった。
 凄い寝相だ。布団に大きな乱れは見られないのに、百八十度回転。枕を足元に置く習慣でもない限り、やはり寝相の問題だろう。
「さっちゃーん、朝ですよー」
「…ん」
「着替え出してあるから。洗面所は、出て右」
「…んん」
 ちゃんと覚醒しているのかは怪しいが、とりあえず、差し当たっての要件だけ告げておく。目覚めて覚えていなくても、服が出してあれば察して着るだろう。とにかく、まだいることだけは確認できた。
 軽やかに身を起こした和希は、ふと思いついて、再び幸の耳元にひざまづく。
「単独行動取ったら、どうなるか。ちゃんとわかってることを願うよ?」
 睡眠学習並みの刷り込みだ。
 半ば嫌がらせを行って、和希は、今度は静かに障子を閉めると、北側の棟に歩を進めた。幸が起きる前に、要件をひとつ、済ませてしまおう。
 家は、L字型のようになっている。そこに、Lに二面を囲まれたように離れがあり、離れが和希の部屋で、西の端が幸に割り当てた部屋。北端が、祖母の部屋だ。旧式の和建築で、これも、山奥によくもと、思わされる。
 祖母の部屋の前まで行くと、和希は、正座して声を掛けた。
「お祖母様。おはようございます」
「おはようございます」
 若々しくはないが、張りのある声。
 和希は、障子を押し開けた。きちんと手入れがされているので、うっかりと開けすぎてしまいそうなくらいには速やかに滑る。
 わずかに緊張するのは、祖母と敵対するわけではないが、甘やかされた覚えもないからだろう。
「事後報告になりますが、昨夜、友人を泊めました」
「そうですか」
「そのことで、厄介ごとが持ち上がるかも知れないので、ご報告をと」
 ふ、と、笑う気配があった。下げていた頭を上げたが、残念ながら、笑うところは見逃してしまった。
 いっそ見事な白髪を、すきもなく結い上げた祖母は、年齢よりも若く見える。それには、背筋をきっちりと伸ばしていることも一役買っているだろう。
「本当に、あなたは要件しか話しませんね」
「そうですか?」
「ええ。節子さんから話は聞いています。友人――ということでいいのですね」
「はい」
 人、ではないかもしれないが、とは、心のうちでだけの呟きだ。
 祖母が、和希の男として育った部分を認めてくれるのは、ありがたい。そうやって育てたのが祖父だからということもあるのだろうが、それでも、いなくなったからといって態度を翻さなかったのは、助かる。
 祖父母は、親しむ相手ではないかもしれないが、敬愛する人たちではある。
「私も、まだ詳しくは聞いていませんが、下手をすると国の研究機関を敵に回しているかもしれません」
 国か、よほど財力のある施設機関か。漫画じみた推測だが、外れてはいないだろうと思う。
「そこの関係者に、友人の保護者が囚われているかもしれないのです。こちらにも、類が及ぶかも」
「しばらく、湯治にでも出かけましょうか。お友達と一緒に」
 祖母の友人やそのつながりには、政界の実力者や関係者も多い。そこであれば、何も起こらずにすむ、かも知れない。
 和希は、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「あなたたちは、言い出したら聞きませんからね」
「…ありがとうございます」
 頑固者の、祖父と母。祖父に逆らって駆け落ちまでしたという母は、今となっては話に聞くしかないが、やはり意思は強かったのだろう。蛙の子は蛙だ。
 静かに祖母の部屋を辞し、和希は、そっと息を吐いた。
 一体、予想しているうちのどれだけが実現するのか知らないが、どうにも大げさな話だ。和希を信用してか、他の理由からか、それを鵜呑みにして動いてくれる祖母も凄い。ほら話にとりあえず付き合ってやろう、という態度でないのは、判る。
「国が相手ねえ」
 確信に近いものはあるのだが、どうにも実感は薄い。苦笑いで色々と押しやって、和希は、再度幸の元へと足を向けた。節子に、朝食をそこへ運んでほしいと頼んであった。

 8

「これはまた、派手に荒らされたね」
 幸が宝とともに借りていたのは、小さなアパートの一室だった。待ちきれず、鍵を開けた幸の肩越しに覗き込んだ和希は、呆れるよりも感心したように声を上げた。
 入った狭い上がり口からすぐ、部屋につながっているつくりだ。その部屋の中には、家具と思しきものは、和希に見える範囲内では、小さな箪笥とちゃぶ台のような低いテーブル。それと、本棚。あとは、雑誌と衣類などが雑多に散らかっている。
 とりわけ衣類が、棚や本棚の上の方に引っかかっている。まるで、子供が遊びで放り投げたかのようだ。本棚の本がきっちりと収まっている分、落差が激しい。
「…いや」
「何?」
 小さい声に聞き返すが、返事は返らず、幸が背をかがめ、靴を脱ぐ。そのまま、ずんずんと進む。
 和希もそれに倣ったが、敷き詰めるように散らばった服を踏んでいいものかと、足を浮かせたまま踏み出せない。
「ええと、あの?」
「上がれ。変なものは落ちてないはずだ」
「…ねえ。まさかこれ、元からってことはないよね?」
「…悪いか」
「大いに悪い、信じられない。片付けるよ」
「は?」
「それどころじゃないだろうけど、どうせやることないし。散らばってる服、着たやつ? 洗濯済み?」
 言葉を忘れたかのように立ち尽くす幸に、繰り返す。未洗濯のものなら洗濯かごに一時保留だし、洗濯されているものなら収納だ。和希は、当然とばかりに、そんな算段を立てる。それとも、どちらにしても洗った方がいいだろうか。食べかすなどは、見当たらないようだが。
 唸り声に顔を上げると、幸が、睨み付けていた。
「ふざけるな」
「言っておくけどボクは、遊びだってからかいだって、手を抜くことはあっても、ふざけてやることはないよ」
「状況がわかってるのか」
 低い声に、苛立っていると判る。他のクラスメイトであれば、一言たりとも口を開くことができなくなっているだろう。謝ることもできず、真っ青になるに違いない。
 しかし和希は、いっそ傲慢なほどに真っ直ぐに、幸を見つめた。
「しばらくここにいるんだろう。それで、どうするつもり? じっと、二人で陰気に顔をつき合わせていれば満足? ある程度どんな行動を取るかは、来る途中で話したはずだね。つき詰めて話すかい? 不確定部分をおいておかないと、柔軟な行動を取り損ねるおそれがあるから、ボクは奨めないね。それとも、杉岡宝さんの現状について話し合うか? 推測ばかりになると思うけどね」
「…悪かった」
「謝るようなことじゃない。キミが落ち着いていられないのもわかる。つもりだ。とりあえず着替えて、動物園の熊よろしくうろうろするなり、体を休めて座るなり、あらゆる状況のシュミレーションをするなりすればいいよ」
「間違っても慰めじゃないな」
 そうぼそりと言って、苦笑いを浮かべた。幸は、悪かった、ともう一度繰り返し、軽く肩をすくめた。そしてそのまま、自室があると思しき方へ姿を消す。
 竜見家には生憎、男性の居住者がおらず、室内なら多少寸足らずでも祖父の着物で事足りたが、それで外出させるというのも問題だ。しかし、洋服はといえば和希か節子、祖母のものは論外として、祖父のものはサイズが違う。着て来た学生服を洗濯はしたものの、乾いていないと節子に取り上げられた。
 そこで出されたのが、梅雨祭のために和希が作り、持ち帰りを拒否された衣装だった。目を惹くことは仕方がないが、和希は、自分を基準に動きやすいものを作ったから、途中、襲撃されてもある程度の立ち回りはこなせたはずだ。
 嫌がっていたそれを失念しているくらいだから、本当に、気が気ではなかったのだろう。無理に引き止めて悪かったかな、という気もしないでもないが、あのまま帰していれば、下手をすれば今頃、誰も知らないままに高杉と揃って行方不明だ。冗談ではない。
「さて」
 片付けるか、と、近くにあったシャツを拾い上げる。
 これは、男二人だけの生活だからというよりは、性別に関係なく、どうしようもなく生活のできない二人が、共同生活を送ってしまった悲劇…あるいは喜劇じゃなかろうかと思ってしまう。和希とて、掃除好きというわけではないのだが、明らかに書籍にだけ注意を向けたこの部屋は、どうかと思う。節子が見たら、悲鳴を上げること受けあいだ。
 和希が六着ほどを拾い上げたときに、来客を知らせる音が鳴った。
「はいはい」
 郵便かお客サンか、と身軽に立ち上がった和希は、扉とは逆方向に小さく駆けた。開けなければ確認できない扉なので、お客サンだった場合、不用意に家に上げてしまうのはまずいだろう。
「家主さん家主さん」
「来たか」 
「わからない。開けていい?」
「訊く必要もないだろう」
「宝箱と思ったら吃驚箱、ってのが定例だけどねえ。さてこれはどっちやら」
 軽口を叩きながら、方向を変えた和希は、唐突に肩を掴まれ、間の抜けた声を漏らし、上向いた。幸が、真剣な顔で前を向いている。
「俺が出る。お前は――」
「窓でも見張ってよう」
 適当に決めて、立てかけてあったほうきを持って移動する。分散して襲う、というのも常套手段だ。おそらく幸は、そこまでは考えていなかったのだろう。一瞬、驚くような顔をした。本当に入ろうと思うならどこからでも入れるだろうが、とりあえず和希は、玄関の向かいの窓の辺りに立って、肯いて幸を促した。
 これで書留郵便なら、驚いた配達人の顔が見られるかもしれない。ぐちゃぐちゃの部屋と、窓でほうきを持って立つ人だ。和希なら、何事かと訊いてみたくなるくらいには驚く。
 ゆっくりと、幸が開け放つと、黒いスーツの男が立っていた。
 ここで、外開きの扉に頭をぶつけてたらコントなのに、と考えてしまった和希は、逃避しているなと、一人、苦笑をこぼした。残念ながら、そんな事態にはならなかったのだが。
「長良川幸、と、名乗っている方ですね?」
「…!」
「幸、殴ってもよくは転ばないいよ」
 とっさに拳を振り上げた幸に、静かに声を投げかける。安心はできないが、とりあえずは情報を持ってきてくれたらしい人物だ。無論、それは十分に取捨選択されたものだろうが、ないよりはずっといい。
 幸も、そのくらいのことはわかっているのだろう。すぐに、拳は下ろされた。
「そちらは、竜見のご長女ですか」
「正解を褒めてあげるから、名刺のひとつでももらいたいものだね。呼んでもいない訪問販売の人は、無理矢理にでも置いていくものだよ。品切れなら、口頭でも許してあげよう」
「お祖母様は、お元気ですか」
「おかげさまで、湯治に出かけようとはりきっていた。あの人も、きっかけを提供してくれたことに、感謝の言葉くらいはくれるかも知れないね」
「そちらは、私が頂くべき栄誉ではありませんね」
 互いに笑顔ながら――もっとも、男は黒の濃いサングラスで目元が隠れており、和希は、男に対しては逆光の位置に立っている――、氷山の一角の言葉をやり取りしている。芝居じみてるなあと、和希は、心の中だけで呟いた。
 それも、まったく面白くない芝居だ。
 和希は、溜息をつき、何気ない動作で外向きに開く窓を開けた。隣の部屋の窓から身を乗り出し、なんとか開けようと手を伸ばしていた別の黒スーツに、遠慮なくガラス窓の枠をぶつける。男は、その拍子に外れてしまった黒眼鏡をあたふたと掴もうとして、危うく落ちかける。その、おおきく泳がせた腕を、にっこりと笑って引っ張った。
 生憎とあるいは幸いに、落ちはしなかったが、大いに肝を冷やした黒スーツは、素顔をさらして、凍りついたように和希を凝視した。
「ああ、どこか覚えがあると思ったら。昨日、田んぼの中に尻餅をついて、両手で苗を握りしめてた人だね。そう言えば、梅雨祭にも来てたか。2‐6の屋台で焼きそば買ってた」
「なっ…何故!」
「サングラスで印象は変わるけど、さらされてるパーツは多いからね。体型だって変わるわけじゃないんだし。逐一照らし合わせれば、そのくらいの判別くらいはできるさ」
 勿論、写真機並みの性能を持つ脳をもち、自在に記憶を引き出せる和希だからこそ、実現できたことだ。
 男は、自分の半分ほども生きていないだろう少女に、怯えるような、化け物を見るような視線を投げつけた。それを鼻先で笑い飛ばすには、虚勢と予めの想定で十分だ。和希は、窓を閉めて玄関に視線を戻した。
 幸は、何が起きているのか判っていないらしくわずかに困惑顔だが、対する男の方は、口元に笑みを浮かべる余裕すらあった。
「同席許可は取ってあるよ」
 和希の身柄と単なる退席と、どちらが目的だったのかは知らないが、簡単に応じるつもりもない。そのつもりなら、昨夜、あの「長良幸」を見た時点で手を引いただろう。本人の希望通りに。そしてここでの宣言は、抜き差しならない状況に己と幸を追い込むものだと、理解しているつもりだった。
 まるで小説や漫画だ、と、皮肉交じりに思わないでもないが、実際の現実だ。
 祖母と節子は、無事に家を出られただろうかと、それだけは気に掛かった。迎えを寄越させると言っていたことと、この黒スーツの男が示唆以上を見せなかったことから、大丈夫だろうと、言い聞かせる。最後の切り札に取っておくことも考えられるが、果たして和希は、そこまで重視されているのだろうか。
 男は、軽く肩をすくめた。
「それでは、時間も無限ではありませんし、本題に入りましょうか。杉本氏は、現在私どもの施設にて休養を取られています。是非とも、あなたにもいらっしゃってほしいとのことです」
 どこが本題なんだか。
 そう、声に出さずに呟く。ここまできたら茶々を入れるつもりはないが、表皮だけの慇懃さが鼻につく。
 とにかく、これで目的地までは連れて行ってくれるはずだ。勿論、その先には、檻が門扉を開いて待っているはずだ。
「…宝が、本当にそう言ったのか」
「そうですね。多少は、違ったと思います」
「行く」
「幸!」
「文句は言わせない」
「わかった。それなら、ボクも一緒に行かせてもらう」
「駄目だ」
 敵意であるはずはないのだが、強い意思を込めて、睨み付けられる。さすがにこれでは、軽口の出ようもない。
 ぴんと張った空気を伴い、見つめあう二人を、黒スーツが面白そうに見やっていた。
「ここまで来て、それはないだろう。ボクも行くということで、話はついていたと思ったが?」
「勝手に思い込んだんだろ」
「幸。もう一度、そんなことでボクと言い争うつもりか」
「…頼む」
 静かに、言っただけだ。静かに、たった一言。
 深々と、和希は溜息をついた。
「好きにすればいい。それが、君の望みと言うならね。学校には、ちゃんと戻るのか?」
「さあ、どうだろうな」
「お話は済みましたか」
 嫌味な冷笑を浮かべて、黒スーツが口を挟む。それを睨み付けて、どうぞと、和希は幸の肩を突いて送り出した。幸は、和希と向かい合っているというのに、見ようともしない。無理に、視線を外して顔を背けていた。そしてそのまま、行ってしまう。
 扉が開き、閉まる。
 そうして、二人が出て行くと、和希は、部屋の受話器を取った。無断借用だが、このくらいで怒りはしないだろう。
「――はい。和希です。――ええ。そちらはどうです? ――それなら良かった。――いえ、ただの確認ですよ。――ええ。そうですね。車を一台、回してもらえると助かります。――はい。では、また後ほど」
 祖母との長くはない通話を終えると、和希は、ぐちゃぐちゃの部屋を最後に一瞥して、後にした。錠のかかる音がすると、それで、和希がここに残る理由はなくなった。
 さあて、長い一日になるか短い一生になるか。
 声には出さずに呟いて、和希は、アパートの前で大人しく、迎えの車を待った。

 9

「会長?」
 家に帰りついたところで門前に立つ自校の生徒会長を発見し、首を傾げる。車は降りて、徒歩で帰宅する途中のことだった。
「ああ、竜見」
「何やってるんですか、こんなところで。下手したら熊が出ますよ、この辺」
「…どこに住んでるんだお前」
「ええ? 日本にだって、熊くらい出ますよ。学校だって、出てもおかしくないじゃないですか」
「熊沢ならいるけどな」
「面白くないです、会長」
 一教師の名を挙げる力也を冷たく見やって、門を開ける。とりあえずどうぞと、招き入れた。もっとも、普通の者の目には、祖母が丹精込めている庭も、外の山地と大差なく見えるだろう。
「人がいないから、おもてなしには期待しないでくださいね」
「お構いなく」
 当たり障りのない受け答えだが、先程の冴えない反応といい型にはまりきった応えといい、どうにも様子がおかしい。そういえば、告白されたときもそうだったと思い、和希は、胸の内で短く舌打ちした。
 思い出したら、対応がぎこちなくなりそうだ。
 とりあえず客間に通すと、台所に走り、お茶を蒸らす傍ら、残っていた明月堂の栗洋館を切って皿に乗せた。
 力也とは、生徒会の関係で親しく口を利くが、とりわけ個人的な関係は、今までもこれからもないものと思っていた。先日、告白されるまでの話だ。しかし、その後にしても、あと一年もしないうちに、力也は卒業を迎える。それで終わりと、思っていた。
 お茶をもって行くと、羊羹を認め、いささか強張りながらも、笑顔を見せた。
「明月堂?」
「ご名答。甘いもの、平気ですか?」
「うん、ありがとう」
 それからしばらく、沈黙が続いた。
 内心で溜息をつき、和希は、それをお茶と一緒に飲み込んだ。
「で、何があったんです?」
「え?」
「わざわざ家まで来たんだから、何かあるんでしょう?」
「…うん」
 こちらも、猶予はあっても時間は惜しい。直截に切り出すと、それでもまだ躊躇いながらも、やがて、力也は真っ直ぐに背筋を伸ばした。
「俺と付き合えないって言ったのは、長良と付き合ってるからか?」
「何も、そんなことを確かめに来なくても」
「違うなら、いいんだ。理由は、何でも。俺が嫌いだからでも、他の奴が好きだからでもいい。だけど、あいつだけは――関わらない方が、いい」
「何を知ってるんです?」
「怒らないのか?」
「はい?」
 予想外の方向から飛び込んできた幸の情報に、とりあえず耳を傾けるつもりでいた和希は、肩透かしを喰わされたようで、繕うこともせずに、訝しげな目線を向けた。
 力也が、戸惑ったようなかおをする。
「言いがかりをつけてるって、思わないのか? 俺は…これで完全に嫌われるだろうと、思ってた。話も、聞いてもらえるかと…」
「話を聞いてみないと、判断もできないじゃないですか。それに、嫌がらせで家になんて押しかけてこないでしょう? 違います?」
 勿論、そういった手合いも、いないことはない。だが、短い付き合いながら、和希は、力也にそれはそぐわないと、そう、思う。どこの記憶を引き出してもいいが、その片鱗さえ、見出せないだろう。和希が知らないだけということもあり得るが、そのときはそのときだ。
 力也は、ふっと表情を和らげ、泣きそうな笑い顔を一瞬だけ見せて、真剣なかおを向けた。
「実を言うと、俺も良くは判らないんだけど。長良は、見張られてる」
「誰に?」
「…少なくとも一人は、俺の叔父だ」
 今度は、驚かないんだなとは、言わなかった。
 和希は、軽く首を傾げ、先を促した。
「叔父は、去年の夏、無背に移って来た。近くなんだからって、家に来ることも多かったし、東京で大きな研究施設に勤めてたのに、どうしてこんなところになんて、質問攻めにしたりも。そのうち、叔父の様子から長良を知ってるって気付いて、そうして注意してみてると、どうにも、見張って、どこかに報告してるようだってことが、わかったんだ」
 去年の夏と言えば、幸と杉岡が引っ越してきた時期だ。もっとも、夏と言っても幅広い。そう告げると、力也は、頷いて、言葉を継いだ。
「そう思って、俺も、長良川が引っ越して来た時期を調べたんだ。叔父が移ってきたのは、その一週間前。偶然かもしれないけど、それでも、たまたま、引っ越してくる一週間前に引っ越してきて、たまたま、その当人たちを知ってて、その付近で姿が見え隠れするってのは、ちょっと偶然が過ぎないか? ないとは言わないけど、だけどそれなら、長良川のことを知らないなんて言わなくてもいいはずだろ?」
 思い込みと取れないこともないが、力也の中では、確信があるようだった。
「叔父さんって、会長と同じ名字なんですか?」
「いや。母方だから、違う」
「なんて名前なんです?」
 じっと、目を覗き込まれた。
 真っ直ぐで、羨ましいほどに力強い視線。健やかに育って伸びる、青竹を想起させる。
 真っ直ぐに、力強く。和希には、手に入れることのできないものだ。和希は、竹の子の時に、歪んで伸びてしまっている。そのことで誰を怨むつもりもないし今の自分を否定するつもりもないが、羨望めいた感情はある。
「竜見。何か知ってるのか」
 和希は、逆に覗き込んで、にっこりと微笑んだ。
「何をですか?」
 少しの間見つめあったが、やがて、溜息と共に、力也の方が目を逸らした。
 幸ではないが、和希も、これ以上人を巻き込むつもりはない。覚悟を決めての人でなければ、尚更だ。
 力也は、深々と息を吐くと、苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「悪い、色々とわけのわからないことを言ったな。そろそろ帰るよ」
「そうですか? ああ、会長。はっきり言って置きますけど、幸とは付き合ってませんよ。少なくとも、今は。そもそも、今までに恋愛対象で見られた人っていないんですよね」
「え?」
「折角来てくれたから白状しますけど、祖父に男の子として育てられたものだからか、なかなか、そういった風に思えなくて。女の子が好きってわけでもないですけど」
 力也の、驚くというよりは、理解できていない顔を眺めて、ここで笑ったら失礼だよなあと、密かに思う。少し、間の抜けたかおになっているのだが。
「元々祖父は、息子がほしかったんですよね。それは、希望というより義務感みたいなものだったと思いますけど。時代がかって聞こえるかもしれませんけど、跡継ぎは男児じゃないと駄目っていう、強迫観念。でも生まれたのは、娘が一人だけ。これがボクの母ですね。でまあ、だからって虐待したり存在を無視したりするような人ではなかったんです。頑固者で、そんな意識があったから、優しい父親ってわけでもなかったみたいですけど」
 当たらず触らずの親子関係といえばいいのかもしれない。祖母は祖母で、愛情を見せることが苦手な性質だから、母は、淋しい思いをしていたかもしれない、とは思う。だが和希には、それらのことを母から聞いた記憶は一切なく、全てが父母以外からの伝聞と推測だ。
「それでもまあ、成長して。母には、結婚したいと思う人ができました。でも、祖父は反対したんです。それはもう、強固に。相手の問題というよりも、母が家を出ると言ったからのようですけどね。父の勤務先のことがあったらしいです。祖父の強迫観念に火がついた。後は、駆け落ち、絶縁。そうして和解、ってなる日があったかもしれないけど、そこは、夫婦揃っての事故死でなくなってしまいましたね。祖父母は、娘夫婦の葬儀を行って、ボクを引き取りました」
 分類されることなく、起こった通りに再生されるそのときの記憶の中で、祖父は、能面のようにただ、厳しいかおをして座っていた。どこか虚ろに見えた。祖母は、集まった人などに指示を出しながら、それでも眼のふちが赤かったから、どこかでそっと泣いていたのだろうか。
 あの葬儀から、竜見和希は始まるのだ。
「祖父は、それで――取り違えたんですね。娘だったから、家を投げ出したから、こんな不幸が降りかかったんだ、と。まあこれは、ボクの推測ですけど。だから、たった一人で女の子のボクを、男として育てようと決めた」
 嘘だろうと、言いたげな力也の瞳を、ただ見返す。
 思うに、母の早い死で、祖父は一種、気が狂ってしまったのだろう。密やかな狂気に、呑まれてしまったのだ。それでも、悪い人ではなかった。
「節子さんや祖母は気にしていたようだけど、祖父は何しろ頑固な人でしたから。ボクが妙だなと思い始めたのは、小学校に上がってからですね。それでも、しばらくは気付きませんでしたけど。さすがに高学年になると、祖父の方針と世間一般がずれてることは、はっきりと判ってましたね。中学の制服なんて、そのおかげで両方作るところだったんですよ。学ランを着て出て、どこかでセーラーに着替えなきゃなあ、雨の日は大変だ、なんて思ってたんですけど。その前に、祖父が亡くなってしまって、唐突に問題はなくなってしまいました。残されたのは、さてボクは男なのか女なのか、ってことですね」
 生物学上は、間違いなく女だ。だが意識はと言えば、男になりたいわけではないが、男の子っぽいどころでなく男に偏っており、女と知ってはいるが、どこかうそ臭い。性同一性障害と言うにも、違和感のある中途半端な状態だ。
 第二次性徴も過ぎているのだから、そのうち慣れるだろうと構えているのだが、そのあやふやさのせいでが、そもそも成長が遅いのか、具体的な恋愛感情を持ったことはない。男女どちらにしても、仲間や同類との思いが先に立つのだ。
 初恋めいたものは、節子だったような気がするのだが、それは、母への思慕と混ざっている気もしないでもない。
「…そんな、こと」
「冗談や誤魔化しじゃないですよ?」
「ああ。そんなことで騙さないだろう。でも、どうして、誰も…学校の先生に言ったりとか、どうにかなったんじゃないのか」
「駄目ですよ。そんなことをしたら、祖父が悪者になってしまう。ボクは、あの人が嫌いじゃないですよ。教えてもらったことも色々と、面白かったし。厳しい先生でしたけど」
「…」
 何と言っていいのか判らない、と、そんな顔をする。節子にしてもそうだ。祖母は、表情を崩さないよう、強く口元を引く。だが和希は、自分が可哀想かもしれない状況にいたと知っている上で、それでも、祖父のやり方も、なんとなくわかるような気がするのだった。
 祖父が、祖父なりの愛情をもって育ててくれたと、知っている。だからこそ、気付いた後でも、誰にも話せなかったのだ。
「そういうわけですから、外れくじですみませんってことで」
「外れてなんか、ないだろ」
 どこか呻くような声に、和希は、軽く肩をすくめる。現時点では、恋愛対象としては明らかに外れだと思うのだが、そうとらないならそれでも構わない。
 力也は、途方に暮れたように和希を見つめた。
「どうして、俺にこんな話を…?」
「忠告をいただきましたから。誠意には誠意で返すべきでしょう? それがこんな話で、申し訳ないですけど」
「…俺が、他の奴に話すとは考えないのか」
「話すんですか?」
「いや」
 苦笑を零し、力也の空気が和らいだ。真っ直ぐに、和希の目を覗き込む。
「なあ、竜見。お前の思春期が来たころにも俺が好きでいたら、望みはあるわけだな?」
 和希がよく目にする、生徒たちに人気の生徒会長のかおに戻り、そんな事を言い出す。和希は焦って、思わず前のめりになった。
「待ってくださいなんですそれ、どうやったらそんなことになるんです!?」
「まあ、それまで保つかなんて判らないけどな。お前に好きな奴ができてる、なんて可能性もあるわけだし?」
「そうですね」
「とりあえずしばらくは、気長に待たせてもらうよ」
「え」
 気を軽くしてくれようと、そういった趣旨の発言じゃなかったのかと、勝手に予測していた和希は、今や、珍獣を見る思いで力也を見ていた。本気だろうか。
 しかし、すっかり調子を取り戻した生徒会長は、考えを読み取らせてくれることはなく、笑顔になると、和希の頭を軽く撫でて、立ち上がった。
「じゃあ、帰るよ。羊羹、ご馳走様」
 しばらく、和希はぽかんとそれを見送っていたが、我に返ると、時計を見て立ち上がった。目指すは、自室のモバイルパソコンだ。知人からもらったソフトを入れてあるそれでは、GPS追跡ができるようになっている。
 それと、盗聴器の受信機。これは、すぐにイヤホンに繋いで音声を拾う。これももらい物だが改造品で、一時間程度なら、通常のものよりも離れた場所でも音が拾える。
 どちらも、電波が完全に遮断される場所に行かれてしまえば、意味を成さないのだが。
『うするつもりだ』
『なに、もとのせいかつにもどってもらうだけだ』
 盗聴器は、明瞭にとは言わないが、とりあえず意味が取れる程度には聞き取れる。
 和希は、モバイルの電源を入れて起動を待たずに机に戻すと、箪笥の引き出しを開けた。飛行機乗りが被るような耳付の帽子と、ゴーグル。それと、丈夫な手袋。あとは、これも丈夫なジャンバーを取り出し、ポケットにバンダナを二、三枚と絆創膏を放り込む。
 実は、山菜取りに出掛けるときの格好だったりする。モバイルをベルトについたポーチに入れて腰に固定すると、それで準備は完了だ。
 なんとか、盗聴器の時間制限が過ぎる前に、山を下って待機しているはずの車に乗り、普通に音が拾える範囲までは行きたいのだが。
『どうせおまえはなにもかんじないのだから』
 黒スーツだろう男の声が聞こえ、イヤホンをむしり取って罵りたい気持ちに駆られながらも、意味がないと押さえる。それよりもよほど、早く家を出た方が有意義だ。ただでさえ、力也との会話で時間を割いている。
 見くびっててくれると助かるんだけどなあ。
 そう思うが、こういった場合、しっかりと見張られていると予想して行動したほうがいい。そうでなければ無駄足だが、それはそれだ。
 さあ、山を越えるか。
 胸の内で呟いて、和希は、こっそりと家を出た。

 10

「あれ。お久しぶりです、水無瀬さん」
 和希が乗り込んだのとほぼ同時に発車した国産セダンの中で、そう挨拶を告げる。和希を家まで送り届けたものとは別の車で、そのときの運転手に言伝して、来ていてもらったものだ。
「和希君、今度は何に巻き込んでくれたんだ」 
「せっかくおしとやかに挨拶したのに、それ無視するなんて酷くない? それに、ボクは水無瀬さんが戻ってること自体知らなかったよ。巻き込んだのは、お祖母様あたりでしょう?」
「悠長にしてていいのか。とりあえず走らせろ、としか聞いてないが」 
「これ見て行って」
 淡々とした反応には慣れているので、和希もさっさと、モバイルパソコンを取り出し、幸に渡した発信機の居場所を拾っていることを確認し、左肩越しに運転席に差し出した。
 水無瀬巽は、昔、地方議員をしていた祖父の秘書の息子ということだった。しかし、和希の実感としては、「よくわからないけど家にいて遊んでくれるくれるお兄さん」だ。
「事故を起こしたくないなら、前に来い。そもそも、二人しかいないのに後ろに座るなよ」
「それくらいいいじゃない」
 ひょいと、運転席と助手席を掴んで、それらに挟まれた空間に、手を軸に体を浮かせ、滑り込む。巽は、眼鏡越しにそんな和希を一瞥し、これ見よがしに溜息をついた。
「和希君、何歳になった?」
「えー、ひどい、覚えてないの?」
「…もう十六歳になるのに、馬鹿なことをするな。その程度の常識は、叩き込んだと思っていたが?」
「はぁい」
『たから!』
 ぴくりと、イヤホンからの声に、体が動く。理論に反して一時間強で特設効果の切れた盗聴器が、再び音を拾い出す。受信圏内に入ったらしい。
 安定した運転を続けたまま、巽は、耳を澄ます和希を横目で見遣った。
「事情説明はなしか?」
「友達を助けに行く」
「了解。一応、シートベルトしてろ」
「はい」
 素直にベルトを引き寄せる。すっかり忘れていた。
 やはり、頼りになる。
 巽と和希がはじめて顔を合わせたのは、幼稚園に通っているような年齢のときのことだ。巽は当時、中学一年生。祖父から子守を押し付けられた形になる少年は、しかし、真面目に和希の相手をし、異常な記憶力を知るに到っては、面白がって暗記対決をしたりもした。もちろん、和希の圧勝で、手を抜けば怒られた。
 一貫して、巽は和希の、頼れる師匠だった。
 その師匠が、目線を上げる。  
 そこは、北上市でも珍しい高層ビルだった。もっとも、北上市で珍しいだけであって、もっと人口が多くて交通の盛んな都市部に行けば、ありふれたものに違いない。
 現在は兵庫県に住んでいるはずの巽は、だが、それを見上げて嘆息した。
「俺のいない間に、変なものを作ってくれたもんだ」
「否定はしないけど、ビルのオーナーが聞いたら怒るよ」
「考えてみろ。無背まで行けとは言わんが、少し動けば土地はたくさんあるんだ。だだっ広いところにひょろ高いビルなんぞ建てて、何になる。誕生ケーキのロウソクでもあるまいに」
「それだったら、おめでたかったんだけどねえ」
「いっそ、なくなったほうが喜ぶな、これは」
「あー、否定しないけど」
 どう考えたところで片田舎の駅前にはふさわしくないビルの前で、モバイルを置いてきた和希と、車を置いてきた巽は、のんびりと穏やかでない会話を交わしていた。
 相変わらず耳に押し込んだままのイヤホンからは、既に何度か聞いた音声が流れている。盗聴器は既に露見し、親切にも、情報提供を兼ねて、一定時間の会話を繰り返し聞かせてくれているらしい。
 幸はこのビルの中で、杉岡とは、再会と呼んでいいものか躊躇うような再会を果たした後、閉じ込められているらしい。――おそらく。
 素直に正しい事態を教えてくれているとは限らないが、聞こえた会話を繋ぎ合わせれば、そういうことになる。 
「さて、和希君。どう行く?」
「とりあえず、真っ向から受付?」
 はじめは巽は車で待機の予定だったのだが、既にこちらの存在が知られていると判った時点で、同行することになった。こうなるとほとんど意思を変えない、という態度で同行を告げた巽に、幸の気持ちが少しわかったかも、と、和希は溜息をこぼした。
 ちなみに、借り物の国産セダンは、本来の持ち主を呼びつけて番をさせている。当然のように他人をあごで使う巽に、和希は毎回、漫画で定番の悪の生徒会長みたいだなあと、中途半端な感想を持つ。
 視線に促されて自動ドアをくぐると、まだ今の季節冷房でもないだろうが、がらんとしているせいか、冷え冷えとした空気に当たった。
 入ってすぐの受付には、妙に垢抜けた女性が座っていた。巽はともかく、和希を見て目を丸くする。なにしろ、自己流山菜摘みの格好のままだ。
「すみません、高見響さんにお会いしたいのですが」
「…お約束はおありですか?」
「どうでしょう。竜見といいます。お手数ですが、確認していただけますか」
 笑顔で返すと、戸惑った様子のまま、制服だろう薄いピンクのシャツに白いベストの女性は、受話器を取った。
 短いやり取りは予想通りのもので、受話器が戻されたると、案内が来ると告げられた。 和希は、巽と視線でやり取りすると、来客用に置かれたのだろう無駄に豪勢なソファーに腰を落とした。受付の女性は、まだ少し、不思議そうにこちらを見ている。
「健在なりし竜見志郎、か?」
 皮肉を言うわけでもなく、淡々と口に出されたのは、和希の祖父の名だ。
 和希は、こちらは口の端を歪め、肩をすくめた。
「さあ。過去の亡霊か、竜見和希の名か。わざわざ呼びつけたのだから、後者だと思うけど」  
「高見ってのが当面の敵か?」
「本当かどうか怪しい情報によると、そうらしい。水無瀬さんも聞いてみる? ボクが見たのと同一人物なら、黒眼鏡に黒スーツで、まだ若い人だったけど」
「ちなみに、今まで会った中には?」
「覚えがない」
 そうか、と言って、巽は腕時計を見た。飯食い損ねたな、と言うが、正午など疾うに過ぎている。
 硬質な床はよく足音を響かせそうだが、案内人が来る気配はなかった。それにしても、平日の午後だというのに、人の動きのない会社だ。さっきから受付嬢以外に、人の姿を見ていない。 
 和希は、軽く反動をつけて立ち上がった。
「トイレ、どこだと思う?」
「お姉さんにでも訊いて来い」
「はーい」
「あ。ちょっと待て」
 真っ直ぐに受付に向かいかけた腕をつかまれ、首を傾げる。薄いガラスを一枚隔てた瞳は、遠慮容赦がない。これで、眼鏡さえもなければ、和希は逃げ出していたかもしれない。
 ふっと空気が緩み、見透かしたままの視線で、意地の悪い笑みを浮かべた。
「友達って、女の子か?」
「残念、男の子。ロマンスは芽生えそうにないよ」
 笑って立ち上がると、やる気をなくす話だ、と呟いて、ソファーに背を預ける。
 和希は、ずっと見ていたらしい受付嬢のところへ行って、トイレの場所を訊く。そうして、そちらに足を運び、そのまま、近くの階段を下った。
 閉じ込めるなら地下だろうと、そんな安直な考えによる。違っていれば、誰かが出て来て案内してくれるだろう。あるいは、連行か。どうせ、気付かれずに忍び込めるとも思っていない。それは巽も判っているだろうから止められるかと思ったが、案外お咎めなしだった。
 地下に行けば電波も拾えないだろうと、ようやくイヤホンを外す。普段使うことがないため、変に付きまとっていた違和感が、やっとなくなる。
「ここで合ってるといいんだけど」
 なんとなく呟いた声が、聞き取れはしないものの思ったよりも音として反響して、和希は慌てて口をつぐんだ。何をやっているのか。
 自分で突っ込みに浮かべた疑問は、道を逸れて、いつの間にか、曖昧なものに摩り替わった。
 何をやっているのか。
 本当に、幸を助けようと思っているのか。助けられるのか。これはただの思い込みで、やはり彼には、余計なことでしかないのかもしれない。そもそも、助け出すといっても、何から。和希は、一方的に友人と宣言した少年のことを、あまり知らない。
 何度も考えながら、努めて忘れてきた疑問。自分だけでなく、他の人まで巻き込んだ今になって考えるには、遅すぎる。
 階段は、二階分下ると行き当たってしまった。注意しながら、平行移動する。物置に使われていそうな地下二階は、予想以上に埃っぽかった。
「何か御用ですか?」
 足音もなく、部屋からか出てきた男が、静かに声を投げかけた。
 和希は、そんな男をじっと見つめた。二十代か、せいぜいが三十を過ぎたくらいだろう。そう推測するが、はっきりとは判らない。何しろ、日も差さない地下だというのに、色の濃いサングラスを掛けている。
「ここの会社は、黒服に黒眼鏡が制服?」
「竜見和希さんですか」
「返答の必要、あるかな」
「こちらへ」
 午前中に顔を合わせた二人とは異なり、こいつらは宇宙人話に付き纏う黒服の男たちを意識でもしているのかと、意味のなさそうな擬態に首を傾げる。質問はあっさりと無視されたが、本当に制服だったらどうしよう。多分、どうもしないがセンスは疑う。
 とりあえず大人しく、男を追う。
 開け放された扉は、和希がくぐると閉じられた。入ってすぐに階段で、皓々と人工灯に照らされながら、男を前に、無言で下る。
 長々と続くそれに飽きてきた頃に、ようやく扉にたどり着いた。無骨な分厚い扉を、男がさほど苦もなく押し開ける。体は細いが、実は筋肉質だろうか。
「違法建築じゃないのかな、これ」
 そのあたりの法律は、見聞きしたことがないので判らないが、軽くビルの三階分くらいは下る階段のある隠された地下室など、認められるのだろうか。
 期待はしていなかったが、男からの返事はなく、続いて扉をくぐった和希は、思わず目を瞠った。
「エレベーターあるし!」
「はい」
 十メートルほど離れた壁面のそれに目を留め、じゃあ歩かせるなよとぼやく。しかしそれよりもと、広々とした部屋にごちゃごちゃと並ぶ計測器や手術器具のようなものを、うんざりと見渡した。
 拘束器具のついた台に、メスやピンセット、鉗子などの載せられた台、指示薬や薬品の並ぶ棚、呼吸器具や心電図。カメラやノートの置かれた事務机もある。
 手術室と化学実験室をごちゃ混ぜにして広げたような場所だ、と思う。拘束器具の間隔から見ても、人体実験にうってつけのようで、見ていて厭になる。
「実はここ、製薬会社だったとか? 密かに地下で実験してます、って、都市伝説の域だ」
 言ってみるが、やはり返事はない。
 男の目的地はここではないようで、エレベーターの向かいにある衝立を、無造作に横にのけた。その向こうにも、扉がある。
 開けた先は、打ちっぱなしのコンクリートの、牢獄だった。
「…やあ」
 和希が見たのと同時に相手も認めたらしく、数時間前に別れたクラスメイトは、頑丈そうな鉄格子を隔てて絶句していた。
 狭い通路で、二つある檻のうちの、幸が入っていない方は空なので、平気で背を向ける。快適さを求めなければ、ライオンも入れそうだ。
「…どうして」
 虚ろな声に首を傾げると、幸は、鉄柵を掴み、火がついたように言葉を継いだ。
「何故来た、罠だと判っていただろう、本当に危険になったら逃げると、そう言っただろ!」
「馬鹿だなあ、信じたのか」
「ッ!」
 怒るというよりもむしろ、泣きそうな幸の指先は、柵を強く握りすぎて、早くも白くなっている。
 和希は、それを緩めようとするかのように、そっと手を重ねた。
「ここまで来たんだ、ボクが納得のいくまでつき合わせてもらうよ。君は、神にでも祈るといい。願いを叶えてくれるかもしれない」
 そうして、手を離す。
 振り返ると、案内してきた男が、入り口に立ったまま待っていた。和希の視線を受けて、手で示す。
「ご案内します」
「今度こそ、エレベーターだろうね」
「ええ」
 それならと、ついて行こうとして、思いついて幸を見る。人に怯える動物のようで、和希は、どうしようもなくて苦笑した。
「ボクは君が好きだよ、長良幸」
 だから、気付いてと。そう願うことが正しいのか、和希には判らなかった。

 11

「遅かったな」
 エレベーターで到着した社長室では、部屋の主よりもむしろ、巽の方が堂々としている。和希は、そんな巽に肩をすくめて応じると、おそらくは部屋の主だろう男に視線を向けた。
 ガラスのテーブルを挟んで向かい合うソファーの奥に置かれた、どっしりとした机と椅子。その机に肘をつく、両手を組み合わせた姿は、三流映画の黒幕のようだった。幸の家で会った黒服の男ではなく、しかし見覚えがあると思ったら、地方紙の取材を受けたことがあるためだった。もっとも、記事自体は読んでいなかったため、名前は知らなかったのだが。
 それにしても――肥満して病を患ったガマガエルめいている。
「座りなさい」
「ああ、自己紹介は不要ですか」
 独り言のように言って、巽の向かいのソファーに腰を落とす。ここまで案内してきた男は、部屋の中には入ってこなかった。外で番犬よろしく、見張っているのだろうか。
「君をここに呼んだのは、他でもない。是非とも、協力していただきたいと思っているのだよ」
「はぁ」
「我々は、今、岐路に立たされている。試練の時と言ってもいいだろう。酸性雨に環境破壊、地球温暖化と、早急な対応が迫られている。そのくらいは、君も耳にしているだろう?」
「小学校の理科で習う程度のことですからね」
 相手のあまりに表面を掬っただけの説明に対したつもりだが、通じなかったらしく、中年太りした男は、鷹揚そうに肯いた。
「そうだろう。それほどに、これらの問題は深刻化している。だが、対応が整っているかといえばそうではない。何もできずに、手を拱いているのが現状だ。我々は、それに対して、実に画期的な解決策を見出した」
 和希と巽が、それぞれに目で「どうする」と会話している間に、話は先に進む。今や男は、立ち上がり、演説の体勢に入っていた。
「太古の時代、この地球を支配していたものがあった。我々はそれを神と名付け、敬い畏れていたが、やがて、科学技術の進歩の前に、自然を擬態化したものだといった理屈をつけて、なかったものにしてしまった。しかし、本当にいたのだ。竜見君、君は知っているだろう。その目で見たはずだ」
 竜見、と呼びかけられ、うっかりと巽も反応してしまう。
 二人はそれに苦笑いしたが、ぎらぎらとした目つきの男は、和希の眼を覗き込む。不躾なそれに、ついと目を逸らす。
「実に驚くべき存在だった。あれは、天候も気候も、風の流れまでも、自在に操れるのだ。それを人が制御できれば、問題の多くが、すぐにも解決するとは思わないかね?」
「それが、こちらにどう関わってくるんです」
「気付いていないのかね。君は、あれのアキレス腱にもなれる。あの化け物は、君のことを気遣っただろう」
「つまり、人質に取りたいと、そういう申し出ですか」
「進んで協力してほしいといっているのだよ。君の能力を活かせば、研究者としてもすぐに頭角を現すだろう。あれも、君が己の意思で参加したのなら、大人しく従うとは思わないかね?」
 もういい加減にうんざりとしたが、男の目は、一層に光を放つ。ぬらりとした感触さえありそうで、和希は、知らないうちに身震いをしていた。
「杉岡さんがいたと思うけど? 彼がいれば、十分じゃないのか。現に、長良幸はここに囚われている」
 そう言うと、途端に不機嫌そうに顔をしかめる。
 協力するどころか勝手に連れ出した男では、十分な手駒にできないのだろう。故意に聞かされた会話と巽のつての情報によれば、彼はまだ生きているはずだが、切り札が何であれ、失効したら、生死は問わず未来を与えるつもりはないだろう。
 和希は巽を見たが、かすかにそれとわかる風に、首を振られた。
 探索ついでに杉岡を連れ出すよう頼んだのだが、まだ、時間を稼ぐ必要があるようだ。
「それで具体的に、研究者って何をするんです?」
「君には、すぐにしてもらいたいことがある。上田、このお嬢さんをもう一度おつれしなさい」
 話は全て聞こえていたのか、先ほどの黒眼鏡の男が、戸を開けて和希を促す。和希に続き、当然のように立ち上がった巽を咎めなかったのは、暴れたところでどうなるものでもないとでも、思われているのだろう。
 ああそうだ、と、和希は弁舌を振るった男を見た。
「ご高説は拝聴したけど、とりあえず一つだけ、訂正を求めよう」
「何かね?」
「ボクを気遣ったのは、長良幸であって化け物なんて名前のないものじゃない。まあ彼も、あなたなんかに名を呼ばれたくはないだろうけど」
 鼻で笑われた。理解を求めたかったわけでもない和希は、そんなものだろうと肩をすくめた。
 案内の、どうやら上田というらしい男は、何も言わずに、先ほど和希をつれてきたのとそっくり逆の道をたどって先導する。
「お前の友達は、そんなに大層な御仁なのか」
「らしいね」
 ふうんと、どこか気抜けする反応を聞きながら、和希は再び、エレベーターに乗り込んだ。
 滑らかに閉まった扉の中で、鉄の箱は、できる限りに静かに、下降する。
「ボクは、お涙頂戴の寸劇でもさせられるんですか」  
「立ち会っていただくだけのことです」
「何に?」
「すぐに判ります」
 感情の読めない短い会話の間に、目的の地下二階に到着してしまった。ところが、開かれたそこは、先ほど和希が見た状態とは変わっていた。
 がらんとしていた広い空間の真ん中に、手術台が移動されている。そこに、四肢を金属で固定されて、幸が寝かされている。体中に、モニタ観測のための、測量器具が取り付けられていた。少人数の、器具を設定し、観察する白衣の者らに混じって、黒服に黒眼鏡の者も、白衣よりはやや少ないくらいが立っていた。
 唇を噛み締め、足早に近付く和希のわき腹に、硬い物が押し当てられた。予想はしていたが、目で見て確認する。
「結局、信用はされてないってことか」
「今回ばかりは、ご容赦ください。以後は、あなたの働き次第です」
「以後があればな」
 いつの間にか寄り添う別の黒服に同様に拳銃を押し当てられた巽が、和希に並んで気楽に言った。はっとして、しかしそんな変化は気取られないよう、落ち着いて青年を見ると、口の端を持ち上げる笑みが返された。
 電波の届かない地下だが、巽は、報告を受け取ったようだった。
「妙なことは考えないでください」
「ここで何をやろうとしてるんだ? さすがに、目の前で人体解剖でもされると、後味が悪いんだが」
「そんなことはしません」
 それだけ言って、もう少し幸に近づくよう促す。台のすぐ横の位置で、止まることになった。何故かぐったりとしている様子が、見て取れた。どうにも、汗をかいていたようだ。
「幸?」
 呼びかけに口を開きかけたときに、突然、びくりと幸の体が痙攣した。咄嗟に伸ばしてしまった手が、黒服に掴まれる。
「失礼。ですが、触れないほうがいいですよ。今触れると、あなたまで感電してしまう」
「…電気を流したのか。何故」
「体力は削っておくにこしたことはありませんから」
「まだ、何をするつもりなのか訊いてなかったな」
 幸は、声が出ないのではなく、押し殺しているようだった。やがて、電流が止まったのか、痙攣が治まり、荒くなった呼吸と、汗だけが残る。
 さっそく、計測された反応の記録や分析に取り掛かる白衣たちの動きが感じられた。
 和希らの正面に、箱に入れられた銀色の輪状の金属が五つ、運ばれた。一つが少し大きめで、他の四つは大体同じくらいの大きさの、腕輪のようだ。
「腕時計を、外していただけますか」
「何故?」
「外さないなら、それでも構いませんよ。ただしその場合、これだけ体力の落ちている状態だと、下手をすると死に至るかもしれませんね」
「どういうことだ」
 これは、俺を抑えるためのものだ。昔はただの枷だったけど、それだと影響が強すぎて、ろくに考えることも出来なかった。    
 昨日の夜――もう、随分と前のようにも思えるけれど、そのとき。幸が口にした言葉を、思い出す。彼らは、その状態に戻そうとしているのだろう。そうして、和希と杉岡という枷を二つ用意するほどに、恐れている。
 相手は、「神」なのだから。
「杉岡博士が提唱し、あちらの器具からその腕時計に、制御石を変えました。その取替えの際に、少なくない死傷者が出ました。全て嵌めてからその時計も外せばいいようなものですが、あの器具とその時計では、使っている石が違うようでしてね。同時に使えば、反発が起こる」
「その証拠が、少なくない死傷者、か」
「はい。付け加えれば、それからしばらく、彼も不調続きだったようですよ。一時は、この研究が終わるかと思われたほどに」
「なるほどね。外すだけでいいのか?」
「はい」
 いつの間にか、五つの輪の収まった箱の方には、五人の黒服と白衣の混成隊が控えている。
 和希は、幸の指を握った。電撃のせいか、指先は冷たかった。
「枷が邪魔だ」
 即座に、外すように指示が下る。
 左手だけ外れたその下の皮膚が、電流のせいか、軽く火傷を負っていて、和希は、眩暈の起こるような怒りに呑まれた。脇腹の拳銃さえ、忘れる。これでは、腕時計の下は、より酷いだろう。
「幸。外すよ」
 握った指先に反応はなく、意識がないだろうとは思っていた。
 ところが時計を外すと、目を開けた。
 縦長の、銀を散らした、金の虹彩。それだけでなく、髪までが一瞬で、銀に色を変えた。
 首輪をかけようとしていた黒服が、一睨みで足を止め、傍目に判るほどに汗をかいている。
 静まり返ってしまった空間の中に、みしりと、物の壊れる音がした。幸を拘束していた鉄の金具が、右手と両足、三つがほぼ同時に、手術台ごと引き剥がされる。
 幸の手を握っていた和希は、指先だけでなく、掌全体から体温が失われたのを感じた。
「ッ!」
 音に我に返ったのか、巽に銃を突きつけていた黒服が、「幸」に向けて発砲した。だが、体に届く前に、枷の鉄で跳ね返してしまう。兆弾は、天井に埋まったようだった。
「カズ!」
 黒服の動きで気を持ち直したのか、巽は、気付くと回り込み、和希の横にいた黒服を叩きのめし、愕然と銃を構えたままの男の手元を、蹴り飛ばした。
 和希も我に返り、握っていた手を、強く握り締める。
「走れる?」
「お前は…?」
「行こう」
 茫然とする白衣と黒服に手術台を蹴りこんだ巽に後ろを任せ、和希は、「幸」の手を取ったまま、走り出していた。  
 路上駐車していた車に飛び乗ると、運転席で雑誌を見ていた男が、ぽかんと口を開けた。確か、巽の高校時代の後輩だったはずだ。彼は、「幸」の姿を認めると、途端に表情を凍りつかせた。
「運転しないなら跳べ!」
 運転席のドアを開け、駆け込んできた巽は、容赦なく男を蹴飛ばし、無理やり助手席へと移らせた。小太りの体で窮屈そうにチェンジギアの上をまたぐが、そのときには、もうクラッチとアクセルを踏んでいる。そうして走り出すと、男がまだ座席に収まりきっていないにもかかわらず、無茶なギアチェンジで疾走する。
 どこへ向かうのかはわからないが、ビルの中では混乱が続いているのか、追ってくる気配はなかった。受付嬢は目を丸くしていたなと、そんなことを思い出す。
「柳、上着脱げ」
「は、はぁ?」
「一応、全裸は気の毒だろ」
 そんな二人の会話でようやく、和希は、幸が衣服を剥ぎ取られていたことに気付いた。すっかり失念していたのだが、これは目を逸らした方がいいのかと、窓の外に視線を向ける。どうやら、北上市の中心からは離れて行っているようだ。
 握り締めていた手は、和希の側は離したのだが、「幸」が離してくれないため、つないだままになっている。 
 前座席から渡された薄手のジャンパーを、「幸」は首を傾げて受け取らないので、代わりに和希がもらい、とりあえず腰のあたりにかけておく。
「この先どうする」
「うーん…とりあえず、着替えと休める場所だね。水無瀬さん、リバーサイド無背って判る? そこに、着替え一式があるはずだから、行ってくれない? 見張りも、いるかもだけど」
「それなら、うちに行くか」
「あ、うん。お願いします」
 バックミラー越しに、おっかなびっくりといった風に向けられる柳の視線に気付き、落ち着くまでにもうひと段落あることを思い出して、小さくため息を吐く。
 鏡越しに巽と目が合って、軽く肩をすくめられた。俺は知らないぞと、その瞳が言う。
「長良幸、って呼んで、判る?」
「お前は?」
 同じ声のはずなのだが、何故こうも、響きが違うのだろう。ただ一声で竦み上がりそうになる自分を叱咤して、和希は、「幸」を見た。
 そこにいるのは、神でなかったとしても、人ならぬものに違いないと思わせる存在だった。
「長良幸の友人。あなたは、幸ではないの?」
「ああ…そうか…カズキと、言ったか」
「え」
 何故名前を、と思ったが、とりあえず肯いた。「幸」は、ふっと微笑した。
「持っているものを貸せ。それをつければ、吾はナガラサチになる」
「え?」
 わかるようなわからないような言葉に戸惑っていると、「幸」の方から腕時計を取り、嵌めた。
 途端に、威圧的な空気が消え、髪の色が黒くなる。閉じられた瞼の下の虹彩も、人のそれに戻っていることだろう。
「あ。あぶな…っ」
 ぐらりと、力の抜けた幸の体が傾ぎ、そのまま右の窓ガラスにぶつかりそうになったところに手を伸ばしたのだが、勢いがつきすぎていたせいで逆に、反対に倒れ込んでしまう。抱きしめるような形のまま、揺れる車内で、押し倒されているような抱きかかえているような状態のまま、ろくに身動きが取れない。下手をしたら、シートの下に落ち込んで、余計に厄介なことになる。
「た、助けて…」
「無理だ。着くまで大人しくしてろ」
「そんなぁ」
 我ながら情けない声を上げながら、低温の幸の体が、徐々に人並みに体温を取り戻していくのが判り、それには安心した。しかし、このままの体勢は辛い。
「幸が起きたら何とかなるのに」
「おい。本当に、それでいのか?」
「え? 何が?」
「今の状況でそっちの少年が目を覚ましたら、お前、抱き合ってる状態だぞ」
 ああそうかと、そこでようやく気付く。それはまずいかもしれない。驚いた拍子に、やはり、シート下に落ちそうだ。
 水無瀬家に着くまでに、苦労して幸の体を動かし、膝に乗せる。到着したころには、その体勢で落ち着いていた。
「とりあえず、運ぶか」
 そう言って、幸を担いで行く巽を見送った。
 ふと気付いて、助手席に座る男を見遣った。こちらの様子を窺っていたのか、一瞬、眼が合う。
「ありがとうございました。手を貸していただいて、助かりました」
「え。あ、いや…」
 驚いたような反応に、首を傾げる。男は、逆に慌てたように、声を上げた。
「お、俺は、水無瀬さんにはお世話になったから、その、大したこともしてないし…」
「いえ。ありがとうございます」
「和希君、何やってるんだ。入って来いよ」
 車のドアが開けられ、巽が覗き込む。和希は、はいと言って、外に出た。
 なんとなく、気が抜けたような感じがある。
「柳、迷惑かけたな」
「水臭いっすよ」
 巽の言葉に照れたように笑う柳に、横からもう一度礼を言い、巽たちを置いて、古い木造の家に上がりこんだ。
 現在、この家は半ば空き家になっている。巽が無背を出てしまい、両親は既に亡くなっているので、今は、時々隣家の者に換気と掃除を頼んでいるくらいらしい。
 幼年時に度々遊びに来た和希は、家の配置も知っている。無人の家に、それでも「失礼します」と告げて、靴を脱ぐ。幸は、居間にでも寝かされているか、今でも時々寝泊りに使うという、巽の寝室辺りだろうと予想をつけた。
「いた」
 居間を経由して、唯一の二階部屋の巽の寝室に行くと、畳に敷かれた布団に、寝かされている幸の顔が見えた。
 先ほど目にした銀を散らした金の虹彩の他に、髪の色まで変わっていた。あれは、幸ではないのかもしれない。
「自分が自分でなくなるよう」だといっていたが、比喩ではなく、そのものだったのだろうか。あれが、神なのだろうか。それなら、何か特異の力を持っているのか。
 事態を把握し切れていない自覚は、あった。中途半端に関わり、中途半端に知っている。
「…生きててよかった」
 つい呟いてから、寝ている間に枷を外しておこうかと、布団の端をめくる。鉄自体は壊せないが、一緒にくっついた寝台の部分なら取り除けるだろう。
「うん?」
 指で削るように落としている途中で、声が漏れる。鉄枷の下には、火傷の痕があったはずだった。うっすらとしかないのかと思い、作業を進めて枷を外すが、やはり見当たらない。
 常人よりも高い、自己治癒能力でも備えているのだろうか。
 もう驚く気にもなれないなとぼやいて、和希は、両足も外しにかかった。右足はほとんど取れていて、辛うじて輪を保っている程度だった。左足の方も、手の部分よりも薄い。走ったためだろうか。
「和希君」
「はい。あれ、柳さんは?」
「帰した。何かあったら、また呼ぶとは言ってる」
「…ずっと不思議だったんだけど、水無瀬さんのあの無茶な要求も通るつてって何なの」
 つてというか、人員というか。
 突然呼び出され、一方的に用事を押し付けられても文句を言わず、かといって脅されている気配も、嫌々従っている様子もない。出会った当初のことはよく判らないが、少なくとも、巽が高校生になった頃には、彼らとの付き合いがあったと思われる。
 布団の傍らに正座する和希の横に胡坐をかき、そうだなと、記憶をたどるように目線を泳がせる。
「族の知り合いとか仲間とか、あとは地方極道の奴とか、そんなところだな」
「……何やってたの」
「竜見の家では、それなりに気を使ってたからな。無背から出なかったから知らなくても不思議じゃないが、一応、有名だったんだぞ」
 一応どころじゃなさそうだ、と思いながら、口をつぐむ。しかし、成績が良くて不良となると、学校関係者は、さぞかし不服だったことだろう。
「それより、これからどうするつもりだ」
 どうやら考えないようにしていたらしいことを正面切って訊かれ、ようやく、そのことに気付かされる。いくらなんでも、和希の手には余る事態だ。かといって、放棄もできない。
「杉岡さん、身柄の確保をお願いした人は、無事なんだよね?」
「多分な。はっきりと聞いたわけじゃないが。何しろ、あの地下だ。一方的とはいえ、通信手段が保たれていたことを褒めてほしいくらいだ」 
 今回連絡に使った器具は、巽の大学の友人の試作品だったらしい。大掛かりな電波などを介することのない離れた場所での連絡手段を研究しているということだが、現段階では、せいぜいがon/offが判る程度、それも、実験以外での使用は今回が初とのことだ。
 いやそうじゃなくてと、わずかとはいえ逸れた思考を戻す。
 巽は尋ねはしないが、これ以上巻き込むなら、知っているだけのことでも、全て打ち明けるべきだろう。そうでないなら、巽にも離れてもらった方がいい。
「…事情、聞きたい?」
「俺が決めることじゃない」
 判断を委ねようとしていた浅ましさをあっさりといなされてしまい、情けなさに溜息をついた。好きだが苦手という点において、巽は、祖母や節子と同じ位置にある。つまりは、家族に対するそれだ。甘えてしまうと判るだけに、苦手に思う部分がある。
 和希は、もう一つ溜息を落とすと、ここに至るまでの経緯を、かいつまんで話して聞かせた。
 話し声で幸を起こしてしまうことも考えられたが、むしろ、起きてもらったほうがいいからと、部屋を変えずにそのままで。
「つまり、梅雨蔡の由来は実話だったかもしれないってことか」
 話し終えての第一声がそれで、そういえばそうだと、気付かされて肯く。
「もっとも、龍神伝説はたくさんあるから、幸が無背の龍神とは限らないわけだけど」
「俺も、そこまでは言ってない。しかし、神なんて呼ばれてたものが、金属何ぞで取り押さえられるってのも、つまらない話だな」
「でも、河童は鉄が苦手で、狐は人のつばが嫌いで、なんて伝承もあるし。封じ込めるものがあったとしても、おかしくはないんじゃないかな」
「妖怪と神を同列にして、奉る奴が聞いたら卒倒するぞ」
「元々同じようなものだって説もあるんだから、このくらい大丈夫だって」
 二人とも、ふざけているわけではなく、ただ脱線しているだけだ。
 そんな会話をしているうちに、布団の上では幸が意識を取り戻していたのだが、話し込んでいた二人が気付くまでにしばらくかかり、和希が飲み物を探して立ち上がるまでには、更にもう少しかかった。

 * * *  

「ハジメマシテ、水無瀬巽だ。ああ、無理に喋らなくていい。和希の友達の長良少年だろう」
 喉が渇いて喋りにくいだろう幸の、反射的な行動を遮り、にこりと笑うこともなく、一方的に話しかける。
 一瞬きょとんとして、複雑そうな表情になった少年は、巽と並ぶだろう体格を別にすると、見掛けよりも幼さがあった。人見知りの子供のようで、これなら和希の方が大人かもしれないなと、心中で呟く。あれはあれで歪だが。
 こちらを真っ直ぐに見ようとはしない少年は、地下で変化したような威圧的な存在では、なくなっている。人込みを歩けば、似たような子供はすぐに見つかるだろう。まだ親離れもできていないのに、事情があって一人で歩こうとしているような、ありふれた印象。
「俺も、まあ、和希の友達だ」
 兄と言い切るには、いろいろなものが抜けている。
「君が気にしているだろう杉岡宝という人物は、俺の仲間が保護している」
「…なぜ」
 かすれる声を、無理に振り絞る。和希が飲み物を取りに行っているのだから待てばいいのに、と思うが、そうもいかないものだろうとも思う。
 この少年にとって、その人物は離れられない「親」なのだろう。
「和希に頼まれたからだ。感謝でも文句でも、あいつに言え。俺はただ、頼まれただけだ」
 まさか、寂れた我が家で自分の布団に寝る見知らぬ少年と話すような機会が来るとは。神と呼ばれたかもしれない存在が実在したことよりも、そのことに、意外の念を抱かずにはいられない。
 本来巽は、面倒見のいい性格などではない。厄介事に発展しそうなら、それに付随する人間関係ごと切り去っても、なんら痛痒は感じない。なついてくれば親しみは湧き、相手にしないこともないが、程度による。
 今付き合っている彼女に頼まれても、これほどの厚遇はしないだろうと思う。
「だから正直なところ、お前が何者であろうと、興味も関係もない。ただ、あいつを泣かせるな。どうせあいつから首を突っ込んだんだろうから、巻き込むなとは言わないが、それだけは覚えて置け」
 頼まれたわけでもないのに、柄にもないことをしている。
 しかし、あの少女にだけは、どうにも弱いのだ。

 12   

「お茶発掘したよ。水無瀬さん、寝泊りしてる割には、ここ何もないんだけど?」
「そりゃあ、寝るだけだからな」
 はぁ、と溜息をついてみせる。
 しかし気を取り直して、幸と巽とを交互に見遣った。
「何か話、した?」
 湯気を立てる湯呑みを三つ載せた盆を一度畳に置き、幸に確認をとってから、上体を起こすのに手を貸す。その間に、巽は自分の湯飲みを手にとっていた。じろりと見ると、肩をすくめて、盆の上から別の湯飲みをとって幸に差し出す。
 幸の視線が探るようなものであることに気付き、何も話していないのかと訝った。
「この人は、ボクの幼い頃からの知人の水無瀬巽さん。いろいろと手を借りてて、杉岡さんも、今は水無瀬さんの知り合いのところに保護されてる。状態は、まだ判らないけど。地下から、幸を連れ出すのも手伝ってくれた。…覚えてない?」
「いや…お前がいたのは、多分…」
「それは残念。活躍してたのに」
 素知らぬ顔で茶を啜る巽に苦笑して、ほとんど一息で空になった幸の湯飲みを、自分用に持ってきていたものに替える。
「だから、水無瀬さんには大まかに話したよ。幸のこと」
 怒られるかと思ったが、一瞬、息を詰まらせたような様子はあったが、沈黙が返される。
 なんとなく、和希は肩をすくめた。
「勝手につれだしたけど、この後、どうしようか」
「…何も考えてなかったのか」
「あのね。ボクは、ただの女子高生だよ? ここまでやってのけただけで、とてつもなく凄いと思わない?」
 ぼそりと呟いた巽を、そう言って和希は睨みつけた。
 実際、自分でも考えなしだと思うが、かといって、あれこれと考えてしまえば、身動きが取れなかっただろうとも思う。
 自分どころか他の人の身も危険にさらし、友人の命さえも左右しかねない状況を、ただただ走り抜けて何が悪い。走られただけもうけものだ――というのは、いささか強引だとしても。
「今の日本で、隠れ住むってのも難しいよねえ。かといって、欧米に逃げるのは余計危ないし。実験材料にされるよ。国外逃亡するなら、やっぱり南米か東南アジア?」
「パスポート持ってるのか?」
「あ。水無瀬さん、ハイジャックってしてみたくない? 旅客機じゃないやつで」
「阿呆、それなら金持ちの子供かペットを誘拐する」
「あ、なるほど。さすが」
「さすがって何ださすがって」
 完全な冗談ではないのだが、何故か、巽と話すと冗談にしか聞こえなくなる。当人でそうなのだから、傍から聞いていれば如何ほどかと、和希は、胸のうちで溜息をついて幸を見た。
 だが幸は、ただひたすらに険しいかおをしている。呆れも怒りも見られず、あるとすれば、焦りか。
「幸?」
「…何故、こんなことをした」
 はあと、和希は盛大に溜息をついた。すっと、立ち上がる。
「終わったことに拘ってどうする? どうせ心配するなら、この先にしてほしいね。今のところ、ハイジャック案しか出てないんだから。相手が、これで終わってくれるようならそれでもいいけど」
 言って、空になった三つの湯のみを盆に載せ、一旦二人に背を向けた。巽も立ち上がり、ついてくる気配があった。
 そのまま、先導でもするような並びで台所へと移動した。幸は、起き上がれないのかそのつもりがないのか、とりあえずは布団の中にいたようだが、この後はどうだろう、と思う。
 だが、それで逃げるなら逃げるで、押し留める権利も、自分にはないような気がしていた。
「あのさー水無瀬さん?」
「あ?」
「この家、お茶すら埃被ってたのはいいんだけど、冷蔵庫と戸棚一杯のアルコール飲料は何?」
「俺の心の友だ。文句あるか」
「心の友を消費するのか」
 半ば意識して、笑う。肩の力が抜ける。
 そのまま、和希は、先ほどの日本茶と一緒に発見した、缶入りの紅茶を手に取った。やかんに水を継ぎ足して火にかけていると、巽が、当然のように缶ビールや日本酒、ブランデーを手に取っている。呆れ顔をして見せた。
「これからどうなるか判らない状態にそれって、どうなの」
「あの生真面目君、酔わせたら面白いと思わないか?」
「それ以前に飲まないと思う」
「いいや、飲ませて見せる」
 その自信はどこから、と和希が言うよりも先に、きっぱりと背を向けられてしまった。仕方なく、その背を見送る。
 湯飲みは片付け、ティーカップを、一応三客。巽はグラスを持っていかなかったが、缶ビールはともかく、瓶入りの日本酒やブランデーはどうやって飲むつもりかと、グラスと、これも冷蔵庫にあった天然水とを手に取った。
 それから、あちこちを探索して、食べられそうなもの――主に、乾き物の酒の肴をみつけ出し、それを一まとめに袋に入れる。何往復もするのは面倒で、こうすれば一度に持てそうだ。
「これから、どうするかな」
 湯の沸きかける音を聞きながら、呟いてみる。
 日常に戻れるなら、喜んで。問題は、それが認められるかというところ。認めないと主張するだけなら勝手だが、行動が伴えば、和希の日常は、手を伸ばす間すらなく崩壊するだろう。昨日今日のように。
 恐くないと言えば、完全な嘘だ。巽や祖母や節子らを、失うかもしれない。自分のことは、何が起きても自業自得と思うからか、さほど惜しめもしないのだが。
 幸の得体の知れない側面も、恐い。「長良幸」は怖いと思わなくても、別の面に「それ」がある以上、切り離せもしない。
 だが、その彼を平然と傷つけ、痛みをひとかけらも考えようとしない「彼ら」には、怒りは覚えても、恐怖はない。あるとすれば、嫌悪感、あるいは気持ち悪さ。
「さて。どうしようね」
 呟いて、和希は、やかんの湯をティーポットとティーカップに注いだ。今は使われていないだけで、下手をすれば無駄に、食器や小物の多い家だった。
 小道具、という言葉から、舞台演劇を連想する。
 舞台の上で、あからさまに創られた世界を、現実として演じる。どこか今の状態と似通っているようにも思えた。誰もが嘘と知りながら、じっと、「現実」を見つめる。一度その場を離れれば、そこにあるのは何一つ変わらない「日常」。
 一歩を踏み出すことさえ恐れるほどに怯えている一方で、どうにも実感に乏しい。だから、そんなことを考えてしまうのだろうか。
「みんな、タイミング良すぎるんだもんなあ」
 呟いてみて、和希は、そうかと納得した。舞台が整えられているのだ。
 せいぜいが親しく話す程度だった幸の保護者――杉岡と出会った翌日に、彼が拉致され、こともあろうか、幸自身も連れ去られようとした現場に遭遇。そして、同時期に、関西に出ていた巽がこちらに戻っていた。長期休みの時期でも、試験休みの時期でもないというのに。生徒会長もそうだ。実にタイミングよく、情報をくれた。
 偶然、あるいは必然。
 ただそれだけだ。それをあまりにも嘘くさく感じてしまうのは――全てを、鮮明に諳んじることさえできるからだろうかと、和希は、ひっそりと自嘲じみた息を吐いた。
 それを帰着点にすることのほうがよほど、無理やりだと思いながら。 
「戻るか」
 完全に沸いたやかんの火を止め、温めるために注いだポットとカップの湯を捨て、ティーポットに茶葉と湯を注ぎ入れた。蒸らす際にポットの被せるカバーまで置かれていて、おばさんは――もしかしたら、おじさんかもしれないが、とにかくどちらかは、紅茶が好きだったのだろうかとぼやりと推測する。
 両親を共に喪ったというのは、そういえば同じ境遇だと、和希は今更ながらに思い至った。違うのは、そのときの年齢と、庇護者が肉親か他人か、だろうか。もっともそれは、同一人物ではあるのだが。
 カバーのかかったポットとティーカップ三客、残念ながら牛乳はなかったがスティックの砂糖、ティースプーンにグラスが二つ、天然水の二リットルボトル、つまみの入った袋。袋以外は、全て盆の上だ。
 ずしりと重いそれらを一度に持ち、和希は、どうにか歩き出した。 
 これで、扉を開ける必要があればさすがに無理があっただろうが、廊下へは短い暖簾がかかっているだけで、布団を敷いた部屋のふすまは閉まっていたが、声をかければ開けてもらえた。
「うわ酒臭!」
 長々と考えに耽ってはいたが、何十分と空けたわけではない。それなのに、既に部屋には、アルコールの匂いが漂っている。
「言い忘れてたけど、水無瀬さん。幸、一応ボクと同じ学年だよ」
 未成年者の飲酒は法律で禁じられています、と言って、和希は、あいている床に盆を下ろした。つまみの袋も腕から外し、くっきりと残る跡に、少しばかり顔をしかめる。
 巽は、ふん、と鼻で笑った。手元のビールは、既に二缶目と推測された。
「俺よりずっと年上だろうが。なあ?」
「まあな」
「―――――――!?」
 頃合かと、自分の分の紅茶を注ごうとしていた和希は、ようやく気付いて絶句した。
 銀を散りばめたような瞳、明らかに幸のものとは異なる、それどころか人とは一線を画した、硬質な気配。何故今まで気付かなかったのかがわからない。
 ぱくぱくと口を開閉させるに終わった和希の目の前で、ゆるりと、「それ」は缶のビールを飲み干している。にやりとした、巽の声が聞こえた。
「どうだ、飲ませたぞ」
「――でも、もし戸籍があれば、やっぱりボクと同じ年齢だと思うよ。そうすると、法的には未成年。未成年者の飲酒は、勧めた人にも罰則があります。まあそれよりも、空きっ腹で飲むと悪酔いする」 
 不意打ちからとりあえず立ち直り、探し当てたつまみを広げる。材料さえあればしっかりとした食事を摂りたいところだが、何もないのだから仕方がない。
 ちらりと「それ」を見ると、黙々と、ビールを飲み干した次は、日本酒に取り掛かろうとしている。和希は、溜息をついて、つまみを押し出した。
 あの威圧感はやはりあるのだが、嫌悪感は薄れている。
「あなたも。朝ごはんさえろくに食べてないのに、酒だけ飲んでると倒れてもおかしくない。わかってる?」
「……お前たちは…何者だ」
「そう訊かれて、正確に語れる人間がどれだけいるんだか」
 あっさりと質問を逸らし、和希は、紅茶を注いで砂糖もたっぷりと入れた。頭を動かすには、糖分が必要だ。
 巽を見ると、こちらもあっさりと、肩をすくめた。
「言っとくが、無理やり外させたわけじゃないからな。話して、その末のことだ」
 そう言う巽と「長良幸」の間の畳には、ありふれた銀色の腕時計が転がっている。和希は、なんとなくそれを拾い上げ、嵌めてみた。ただの時計だ。
 「それ」は、そんな和希、というよりも腕時計を、厭そうに目を細めて見遣った。
「わざわざそれを外そうなどという人間には、はじめて会った」
「え? 杉岡さんは?」
「あれはましな部類だが、それでも、吾と会うことは避けていた」
 そう言えば、怖がっていたと言っていたなと、和希は思い出す。
 淡々とはしているが、話すこと自体を忌んでいる様子はなく、それが少しばかり意外だった。だがそれはそれとして、和希は、思い出して紅茶を啜り、砂糖を入れすぎたと顔をしかめた。
「でも、これ自体は昔からあったわけじゃないですよね? そもそも、あなたは――って、どう呼べばいい?」
「………吾か?」
「それ以外に誰がいるんです。幸と同じだって言うならそう呼ぶけど、ちょっと違うでしょう? 水無瀬さん、飲むなら食べる」
「はいはい」
 話を聴いてはいるが、会話をしようとはしない水無瀬は、黙々とアルコールを消費している。和希は、それを睨みつけ、スルメを契って噛むところを見守り、ようやく視線を戻した。
 「それ」は、ふうっと遠くを見ているかのようだった。和希の視線に気付き、微苦笑を浮かべた。
「アサギ」
「浅葱?」
「…そう呼ばれていたことが、あった」
 そこで一度口を閉じた。先がありそうで、待った和希は紅茶に口をつけ、うっかりと甘さを忘れていて、再び顔をしかめた。そうして、甘さを覚悟して、飲み干す。
 塩辛さを求めた和希があられの小袋を開けていると、ぽつりと言葉が落とされた。
「…少し、話をしてもいいか」
「どうぞ」
「水瀬、といったか」
 本題に入るかと思いきや、話を振る。巽がどこか面白そうに頷くと、浅葱は、一度目を閉じた。
「この辺りの郷士か。そういう一族がいた。土地に因んで、そういう号を名乗っていた。水の瀬、と」
「え? 水の無い瀬、だよ。この辺りには、大きな川もないし」
「字を変えたか。吾がいなくなったからな。川は多分、枯れたのだろう」
 本当に水神なのかと思うが、これ以上遮ろうとも思わず、和希は、短く応じて続きを待った。あられを噛み潰す。
「あの娘は、その家の出だった。なんでもないことで笑って、泣いて。いつも幸せそうだったのに――吾といるところを見られて、その後はずっと、泣いていた。吾は――水無瀬の家に囚われ、いつ頃までだっただろう。時だけが流れ、その石が発見され、あとは、ほとんど眠っていたようなものだ。ろくに覚えてはいない」
 流れた年月に比べ、短く簡潔に過ぎる言葉。和希は、そんなところに幸の姿を見て、考えずに口を開いていた。
「幸は?」
 名を読んだ後で、ゆっくりと頭が動き出す。
 浅葱が話すのは、もしかすると、梅雨際の大本の出来事だったのかもしれない。龍神を捕らえ、水を制御する力を手に入れ、故意にか偶然か、引き裂かれた男女が悲劇の主人公へと反転した。
 だが本当のところ、和希にとって、それは今はどうでもいい。知りたいのはただ、浅葱が昔から生きてきたとして、では、長良幸は何なのかと、そういうことだ。
「眠っていたと言うなら、幸は? 夢の中のことだった? 杉岡さんと一緒に暮らして、甘いものがやたらと好きで、無愛想で、ボクと梅雨蔡に出たのも、全部夢?」
「夢――ああ。そうかも知れない」
「…」
「長良幸は、何も知らない。吾がどうして囚われたのか、水気をどう扱うのか。そんな厄介なものを外せば、怯え暮らす必要もないことも。――吾は少し、あいつが羨ましい」
 少し顔を俯かせて、浅葱は、和希の腕を取った。小さな金属音を立てて、腕時計を外す。
「水無瀬。過去の因縁と諦めて、もう少しばかり、付き合ってくれないか」
「ご指名か? 悪いが俺は、先祖かもしれないというだけの奴らが犯した罪に責任を感じるほど、善人じゃないぞ」
「善意で付き合えというつもりもない。退屈はしないだろう?」
「なるほど。いいだろう」
 一人でブランデーの瓶を空けた巽は、わずかに頬を上気させ、にやりと笑う。つまみにはろくに手をつけていないが、それを怒る和希の言葉もない。
「和希。あいつらが来たら、これを外せ」
「何故ボク?」
「今のところ、誰かに外されても許すのは、杉岡か和希くらいのものだろう。自分で外せというのも、少し酷だ。――辛いなら、水無瀬にやってもらうが」
「ええ、俺?」
「お前は、長良幸にどう思われようと歯牙にもかけないだろう」
「その通りで」
 皮肉気味な笑みが向けられる。和希は、ぼんやりとそれを見ていた。
 仲が良さそうで、なんだかずるいなと、意識の端で考える。少し話しただけだろうのに、通じるものがある。和希は、一人置いてけぼりを食らったような気持ちになっていた。
 ああ、違うそうじゃなくてと、和希は息を吐いた。
「浅葱さん、あなたは何をしようとしているんです?」
「借りを返すだけだ。当然の権利だとは思わないか? どうやら、この後も邪魔をしてくるようだしな」
「それは、判るけど。わざわざそれを嵌める必要はある? 幸に戻っても――意味はないでしょう? むしろ、手間が増えるだけに思える」
 努めて平然と放った言葉に、ふうと、浅葱は笑った。
「吾は、長良幸が羨ましい。長良幸には、大切なものが沢山ある。吾は、亡くしてしまった。――長良幸が認めてくれるなら、吾は、眠っていたい。長良幸の見る世界を夢見て、眠っていたい」
 え、と、和希は声を漏らしていた。
「そう、長良幸に伝えてくれ」
「って待ってえちょっ…!」
 和希が手を伸ばしたときには遅く、既に、浅葱の右腕には腕時計が嵌められていた。勢いでがっちりと肩を掴んでしまい、思いがけず至近距離で、夢から覚めたような表情の幸と目を合わせることになった。
「…やあ?」
「っ、なんっ、何やってんだお前っ!?」
「逃げられたーッ! 一方的だずるいッ!」
「た、辰見?」
「カズ、少年面食らってるから」
「あ。ごめん」
 言われて、半ばしがみついていた体を離す。
 改めて友人を見ると、驚いたかおは教室にいたときと変わらず、何故だか、泣きそうになった。上手く言葉が浮かばず、助けを求めて巽を見る。旧友は、肩をすくめて笑った。
「少年。話はできたよ、ありがとう。話した内容を聞きたいか?」
「…俺にも、酒」
「勝手に飲みな。浅葱の飲みかけもあるし。ああ、浅葱ってのがもう一人の君の名前らしいぞ、少年」
 幸が苦いかおをしているのは、馴れ馴れしく話しかけられるからか、気分でも悪いのか。和希は、そう考えてから、自分の呼び方も変わっていることに気付いた。むしろ、戻っている。
 幼年時のそれ。そう呼ばれていたときは、和希も「たつにい」と呼んでいた。やめろと言われ、今の呼び方になってしまったのだ。
 和希は、グラスに半分ほど残っている上から更に注ぎ、一息で飲み干してからなみなみと注ぐのを見て、溜息をついて自分用に紅茶を入れた。
 巽はウイスキーを舐めながら、簡潔に先ほどのやり取りを告げた。
「で、どーするよ?」
「……何?」
「それ外してたら、少年は意識ないんだろ? それなら、答えは俺たちが伝えないとだろう? 外さないとしたら、何か対策を立てる必要もあるしな。どうするんだ?」
「…宝は。本当に、無事なんだろうな」
「だから言っただろう? 連絡がない以上、無事だけど連絡の取れない状態かこれを折ることもできない状態になってるかだって。悪いが、俺にはそれ以上は判らない」
 無責任と言えば無責任な言いようだが、巽があまりに堂々としていて、責めることも考え付かないかのように見える。幸って押しが弱いからなあと、和希はこっそり溜息をついた。
 巽が持つのは、乳白色をした燐寸棒ほどのものだ。中央部分に浅く溝があり、折りやすくなっている。これが巽の友人が新開発に携わったという代物で、とりあえず現段階では、対となる物に変化があれば、もう片方も変化するというものだ。巽はそれを、折る回数を決めて通信機に代用したのだ。
「ぐだぐだ考えたって、なるようにしかならんさ」
「だからってタツ兄はいい加減すぎ」
 巽が空けた二本目のウイスキーボトルを奪い取り、和希は、まだ半分中身のあるティーカップに注いだ。もはや、紅茶のにおいはほとんど打ち消されてしまっている。
「そりゃタツ兄は、その人たちを信頼してるからいいだろうけど、幸は全く知らないんだよ。不安にもなるってものだ」
「そう言うカズは、心配してないみたいだけど?」
「してないってことはない。相手が大掛かりで鬱陶しそうなのは判ってるし。でもボクは、タツ兄のつてならまあ大丈夫かなと、うっかり思い込んでしまうくらいの素地はあるんだよ。立ち位置が違う」
「それなら、カズの信頼してる俺の信用してるやつらが匿ってるから大丈夫だってことにしておけ、幸少年」
「詐欺師みたいな口調になってるよ、タツ兄」
 そいつは酷いと、巽は破顔した。そうして笑うと、いくらか幼く見える。表情や口ぶりに騙されるが、本当のところ、巽は童顔なのだ。
 唐突に、幸が盛大に息を吐いた。何事かと、和希が思わず注視する。
「お前たちを見てると、馬鹿らしくなってくる」
「…褒め言葉ではなさそうだなあ、それって」
 あまりにも生真面目なかおで言われ、和希は、反応に困った。巽を見ると、何食わぬかおで酒を飲んでいる。
「もう少し、考えさせてくれ。とりあえず、あいつらが来たら――これは外すから」
 浅葱は、幸が自分で外すのは酷だと言った。浅葱の覚醒を促すことは、つまりは「長良幸」の消失を招きかねないのだから、当然だろう。
 頑なに聞こえる幸の決断に、だから和希は、強いと思っていいのか、自棄と取れるのか、判断に迷った。ただどちらにしても、自分の言葉では覆せそうにもないなと、漠然と淋しく思った。
 だが、そこで諦めるつもりもない。
「幸、覚えておいて。ボクは、キミのことが大好きなんだよ」

 13

 端から夕闇に包まれる空に、星々がうっすらと光を取り戻していく。白くうすらぼんやりとしていた月も、空が濃い色になるにつれ、白々とした光で主張する。
 三人は、山の祠にいた。
 家屋に被害を出したくない、という巽の言葉に移動したのだが、興味が手伝い、人気のない場所ならいくらでもあるだろうこの無背の中で、梅雨蔡の言わば主役の祠を選んでいた。これでは巽の家屋に被害は無くとも、祠だけならまだしも、下手をしたら向かいの校舎を壊しかねないといった和希の主張は、気付けば却下されていた。
 今更文句を言うのも面倒で、和希は、刻一刻と染まっていく空を、祠の側の岩に腰かけて眺めやっていた。しかしこれで、今夜来なければ相当間抜けだ。
「無背の由来って、さ」
「なんだ急に」
「浅葱さんの話聞いてて、ふっと思ったんだ。元々の話し言葉っていうか、倭言葉での意味は知らないけど、漢字は、水無瀬の水が取れて何かの拍子に漢字が変わっただけかもしれないけど、どこかで誰かが、意味を込めてたかもしれないなって」
 はじめは「水の瀬」だった号が、「水の無い瀬」へと変わったように、多くのものは移り変わる。
 和希は、古典の授業で引いた漢和辞典の「背」の項を思い出した。「背水の陣」を学んだときに調べたものだ。そのときの国語教師は、漢文の授業では、ひたすらに辞書を引かせたものだった。
 わかっていると思っている漢字ほど意味を取るのが難しいんだ、なにしろこれは漢文、漢つまり中国の文章で、漢和辞典というのは古語の中日辞典なんだからなと、何故か活き活きと語っていた。
 せいぜいが二年前の出来事だというのに懐かしいと感じた和希は、鮮やかに蘇らせることのできる記憶との対比に、面白いものだと一人で感心した。そして、脱線しているなと頭の片隅で苦笑する。
「背という漢字には、そむくという意味がある。背信とか背反とかは、その意味で使ってるね。それに打消しの無をつけると、裏切らない、裏切ることはない、って、そういう意味になるんじゃないかなって。逆らうことはない、かも知れないけど」
「だとしたら、随分な皮肉だな」
 巽が、軽く肩をすくめた。幸には反応らしい反応は見られず、そこで、静かに沈黙が立ち降りた。
 梅雨の合間のよく晴れた一日だったからか、空気も、いくらか湿度が低いようだ。木々を揺らしていく風を感じながら、和希は、ぼんやりとそんなことを考えた。
 月明かりに、影が落ちる。こんなに明るいのわざわざ電気をつけるなんて馬鹿だなあと、度々思った。
「漢字を充てたのは、時代を下ってのことかもしれない。だからこそ、今度は裏切らないと、そうしたとも考えられるね」
「…お前は」
 何、と首を傾げた和希を、幸はまぶしげに目を細めて見遣った。だがすぐに、ついと視線を木々に戻してしまう。
「恥ずかしくないのか。そんな綺麗事を、平気で口にして」
「言霊という考え方があるね。口に出したことが力を持つ。幸も禍も、口に出さなければ顕現しない」
「……馬鹿か」
「かも知れないね。だけどボクは、伝えなかったことで後悔なんてしたくないんだ」
「カズ――」
 怪訝そうな幸のかおと気遣うような巽の声音は知っていたが、三人同時に、人以外の生き物の声が消え、風とは違った草木のざわめきが聞こえることに気付いていた。
「…離れていろ」
「と、言われても、囲まれてるんだけど」
 小声のまま、とりあえず、和希と水無瀬は祠に背をつけた。一歩踏み出した幸は、腕時計を外し、それを和希に投げて寄越した。少し外れて祠に当たりかけたところを、寸手で掴む。そのせいで転びかけた和希の体を、咄嗟に水無瀬が抱き止めていた。
 そんなことをしている間に、「長良幸」は「浅葱」へと替わり、異常なざわめきの主たちは、威圧的な演出の元、姿を現していた。
「手間をかけさせてくれる」
 取り囲むのは、迷彩服を着た男たち。幸を狙ったライトが煌々と照らし出した指揮官らしき者は、黒服に黒眼鏡だった。幸の家に来た人物だ。
 迷彩服も黒服に黒眼鏡も、どこの二流映画だと、巽に抱きかかえられたまま、和希は呆れ返った。
 だが二人に背を向けた浅葱は、失笑した様子もない。ただ無言で、片腕を振り上げた。
「み、水ッ?!」
 迷彩服の集団から口々に、似たような言葉が漏らされる。だが和希には何も感じられず、巽を見ても、こちらも、浅葱を見据えたまま、わずかに困惑顔だ。
 改めて迷彩服たちを見ると、まるで大水が流れてきたかのように、身体をのめらせ、もがいたりしている。狭い場所に密集しているだけに、誰かの振り上げた手が他の誰かに当たり、その為に倒れたりもしている。
 だが、黒服の男だけは、和希たちと同じように、何の変化も見られない。
「ねえ、仮説一」
「ほう」
「彼は幻術を使っている」
「ああ」
「仮説二。これに触れていたら幻術は利かない」
 そういって、握り締めている腕時計を示す。正しくは、それに使われている鉱石だか何だかだろう。
「俺は?」
「仮説二ダッシュで、ボクを掴んでるからとか? 離れてみたら、たつ兄も水が見えるかも」
「…試すのは後でいいぞ?」
「そう? じゃあ、仮説三。あの黒服もこれを持っている」
「かもなあ。で、何をするつもりだ?」
「たつ兄、ちょっと溺れててくれない?」
 落とさないよう時計を腕に嵌め、和希は、にこりと微笑んだ。巽が、厭そうに顔を歪める。
「カミサマなら、神通力使ってあっという間にやっつけりゃいいのに」
「吾を神と呼んだのはお前たちだ。そう名乗ったことはない」
「うわ、きいてやがった」
 そうと知っても抑えた声で、巽はぼやいた。
 浅葱は、相変わらず二人に背を向けたまま、微動だにしない。その向かいで、男がにぃと笑った。
「龍神。あなたは何故、こんな者たちとここにいる? 辰見も水瀬も、あなたを裏切った者たちではないですか」
 穏やかな声に、優越感がにじみ出ている。
「あなたの子を奪い、意のままに育てることであなたの監視役に当てた、水瀬。そんな子供とあなたを見捨てて分家に逃げた、辰見。憎み恨みこそすれ、気遣う理由などどこにもないでしょう」
「だからって、そっちに手を貸すことのほうが理由がなさそうだけど?」
 突然告げられたことに、驚きはしたがそれ以上に腹が立った。事実かどうかは措いて、男たちが高らかに糾弾できるとも思えない。
 和希は、煌々と照らし出された男を、睨みつけていた。
 かちりと、金属音がした。和希の腕から時計が外され、ぎこちなく、首をめぐらす。巽が、笑っていた。
「ごめん、和希君。少し幻を見ていてくれ」
 その言葉と共に肩を押され、巽にいくらか重心を預けたままになっていた和希は、呆気なく草の地面に倒れ込んだ。そうして、巽の手が離れたのと前後して、奔流に押されていた。 
「っ…ぅ」
 普段触れているものとは比べ物にならない、圧倒的な勢いに押され、そしてそれが頭まですっぽり包む高さが十分にあり、息ができない。目も、開けてはいられなかった。
「竜見!」
「おーっと、危ない。君は手出し無用」
「離してください、水無瀬先輩! あいつには何もしないって言ったじゃないですか!? だから俺は…ッ」
「君の役目は連絡係。それだけだ。俺が、案内役でしかないように」
 やり取りが聞こえ、呑まれそうになる意識を必死に保ち、和希は、会話の中身を聴き取った。そして、声の主を探る。一人は巽で、もう一人は――。
「無事か」
「う、うん、助かりました」 
 見れば、浅葱に抱え上げられている。気付けば服も体も濡れた様子はなく、そうだよ幻って自分で仮説立てたんじゃないか、と、和也は一人心の中で呟いた。水無瀬もそう言っていた。
 死ななくて良かった、と息を吐く。迷彩服たちは軒並み気を失っているようだが、あれだけ凄い幻覚とあれば、中に、心臓麻痺を起こしている者が混じっていてもおかしくない。
「ありがとう。下ろしてもらえます?」
「いや。片付くまで、我慢してくれ」
「はあ」
 疲れないかと思ってのことだったのだが、一顧だにくれることなく、きっぱりと言ってのけられてしまった。
 その浅葱の肩越しに後方を見ると、巽と、巽に羽交い絞めにされた力也がいた。涼しげなかおと泣きそうな必死のかおとが対照的で、覚悟の差が窺い知れた。
「余裕だな。だが、私にはこんなものは通用しない」
 黒眼鏡が、口元を歪めて笑う。
「水無瀬。早くそれを何とかしろ」
「はいはい」
 軽い返事をした水無瀬は、力也の頚動脈を押さえた。ほんの数秒で、力也の身体から力が抜け、くずおれた。叫んでいた声も、聞こえなくなった。
「たつ兄。――水無瀬さん」
「なんだ?」
「杉岡さんは、どこにいるの?」
「あの新製品の実験は、本当に成功してるんだよ」
「わかった」
 そんなことを話している間に、ぽつりと、雫が落ちかかってきた。
「雨――?」
 見上げた空からは星も月も姿を消し、白濁した闇が目に入った。いつの間にか、雲が張っている。
 浅葱の横顔を見ると、少し、笑ったようだった。
「掴まっていろ」
「はい?」
 雨が、降ってきた。
 徐々に強まる雨は、夕立や通り雨、五月雨の勢いを上回り、豪雨という言葉でも足りないだろう。とっさに浅葱のシャツの胸元にしがみついた和希は、とりあえず呼吸確保のため、顔をうつむかせていた。水滴が痛い。
 風の吹き狂う音に、雨の音。いっそ滝の中にいるのではないかと思うような、雷の音が聞こえないことが不思議なくらいの。支えてくれる腕だけが、妙なくらいにはっきりと感じられた。
 そうして、思い出す。
 温かな腕。痛いくらいに、抱きしめてくれた身体。強い衝撃と、それでも離されない手。温かなそれらは次第に冷たく、硬くなり、独りで残されるとただ悟り、かなしくて、おそろしくて仕方がなかった。
 両親が事故に遭った車には、和希も乗っていたのだという。人のあまり来ない場所で、通り掛かった人が見つけたときには、誰も生存者はいないと思い込まれていたと。だが和希はそこにいて、そうして、本当であれば全てを、見聞きしていたのだと。
 全て、人から聞いた話だ。話だった。そう、思っていた。――本当は、全て覚えていたのに。
 はじめて父と顔をあわせたときも、母に触れたときも、産道を降りる感触も、羊水の中も、そうしてそれよりもずっと遡った、「和希」の体験していないはずの体験も、全て。和希は、覚えていた。
 大粒の雨に混じって、和希の頬を、涙が伝った。
「……アサギ」
「うん?」
「ごめん。わたしがいなければ、あなたは、ずっとあなたでいられた」
「…和希?」
「ごめん。ごめんなさい。わたしが、わたしがあなたを好きになんてならなかったら」
「―――!」
 浅葱が、誰かの名を呼んだ気がした。
 自分に連なる数多の記憶を思い出しながら、和希は、ゆっくりと意識を手放した。雨の音を、どこか遠くで聞きながら。

 14

 和希が目を開けると、巽の顔があった。
「あにさま――って違う、たつ兄。何がどうなった?」
 自分のものでない記憶の余韻を振り払い、急いで身体を起こすと、勢い余って、巽に頭突きを喰らわせかけた。向こうが身体を引いてくれたおかげで免れたが、阿呆、と、額を叩かれた。
 見れば和希の部屋で、まさか熱にうなされた夢なんておちじゃあと、和希は、もしかすると今までの人生はじめて、自分の記憶を危ぶんだ。寝起きで混濁した記憶と意識は、このときには既に、いつも通りに戻っていた。
 巽は、なんだか懐かしい笑みを浮かべる。
「気分は? 何か飲むか食べるかするか?」
「幸は? 浅葱さんは? 会長もいたでしょ? あの大雨は? それに――」
 あの記憶の数々。それは、鍵を掛けて仕舞った。科学的にどうであれ、例えば思い込みの産物としても、あの情報量では、耐えられない。発狂してもおかしくはなかった。断片はまだ残っているが、和希はあれらの記憶を、自分の意思で押し込めた。
 しかし和希の記憶は、少しだけ遡って始まるようになった。両親の優しい手を、覚えている。
「とりあえずひとつに絞れよ、一度には無理だ。俺の知ってることでよければ、全部話すから」
「…幸は?」
「部屋を借りて寝てる。怪我もしてないから、安心しろ」
「何がどうなったの?」
「あー、ちょっと待て、腹減った。何かあるだろ、探してくるから、その間にしっかり着替えとけ」
「しっかり?」
 言われて和希は、自分が、寝巻きに使っている浴衣を一枚羽織っただけだと気付いた。帯すら、ゆるく巻かれている程度だ。
 考えてみれば濡れ鼠のはずで。巽も着替えている。巽も和服を選んだのは、祖父のシャツでは、多少窮屈だからだろうか。
 和希は、そそくさと立ち上がって部屋を出ようとする巽の着物の裾を、体ごと倒して捉まえた。
「たつ兄が、着替えさせてくれた?」
「濡れてちゃ風邪ひくだろ?」
「うん、それはありがとう。ボクにも何か食べるもの、よろしく。起きてたら幸にも」
「…はいはい」
 ふすまの閉まる音を聞きながら、和希は、畳に上半身を乗り出すような状態で寝そべっていた。怒るか恥ずかしがるかといった反応を取った方がいいのだろうが、そういった感情は生まれていない。ぼやりとする。
 ただ、ぼんやりと。
 結局、巽が入れたてのほうじ茶と土鍋のおじやを運んでくるまで、和希はそのままでいた。とりあえず、足音で身体を起こし、帯を締め直しはしたが、浴衣のままだ。梅雨冷のする日で、それだけでは少し肌寒く、出しっ放しにしていた白のパーカーを肩に羽織る。
「少年は寝てた。まあ、色々やって疲れたんだろうな。実際に動いたのは浅葱の方だけど」
「色々? 雨降らせただけじゃなくて?」
 それぞれ、茶碗に湯気の立つおじやをすくい入れる。のりとごまが散らしてあり、白菜と葱、鮭を卵でとじてある。昨日夕飯だった塩鮭は残っていたのかと、和希は妙なところで感心した。
 一口飲み込んで満足げに頷いた巽は、俺も詳しくは知らないが、と前置きをした。
「雨を降らせただろう? それで取り囲んでた奴らは完全に戦闘不能になって、俺たちも身動き取れなくなって、それからあいつは、一人であの胡散臭いオヤジに会いに行ったらしい。姿を見せたときには、腕時計を嵌めていた。で、そのままぐっすりお休みだ」
「はあ」
「大変だったんだぜ。お前と後輩君担いで、大分ましになったとはいえ雨の中! 道がぬかるんでるどころじゃなく水流れてるし、重いし」
「あ、ありがとう。って、会長は?」
「寝てる」
 一体いつからうちは民宿代わりになったんだろうと、場違いなことを考える和希だった。
 どのくらいの時間が経ったのかと時計を見れば、十二時を差している。当然夜の十二時だろうが、思っていたよりも、眠ってはいないようだ。
「それで、たつ兄は?」
「はい?」
「どう絡んでくるの。ボクが連絡して、手伝ってもらって、それ以外にも噛んでるんだよね?」
「色々と縁があってな。まあ、深く気にするな。俺がカズの嫌がることはしないって、判ってただろう?」
「まあね」
 おなかがふくれると、腹立たしさもどこかへ消えてしまう。それでなくても、そもそも和希は、巽を疑ってはいなかったのだし、裏切られてもいない。だからこそ、問いかけも後になった。
 しばらく二人は、食べることに専念した。
 黙々と雨音を聞きながら食べ進み、二人分にはいささか多かったはずのご飯が姿を消すと、一足先に食べ終えていた巽が、じっと和希を見ていた。
「カズ。…まだ、気にしてるのか」
 何を、というのは無駄な反応だ。
「だって、忘れられないよ。ボクは、覚えているからね」
「そういう問題じゃないだろう」
「じゃあ、どういう問題? 忘れた振りをして、仕舞い込んでればいい? 厭な思い出だからって、封をすればそれでいい? ボクは――お祖父様が好きだったのに、それも一緒に、押し込めてればいい? ボクには、記憶を薄れさせることなんてできないんだから」
 祖父は、和希を男として扱った。そうやって、十年近くを過ごしていった。和希は、それが常識外れと知っても、祖父が好きだから、否定しようとはしなかった。
 だが最期に、謝られてしまった。赦してくれと。――赦せるような対象が、そもそも和希の中にはなかったにもかかわらず。恨んでいるだろうと、そう、言われた。
 何も言えなかった。
 祖父が好きだった和希は、何も伝わっていなかったことに驚き、ただ無言で、まるで赦すことを拒むかのように、そこにいた。何も言わなくても伝わると、そう過信していた。
 今更涙も出ない和希の頭を、巽の手が優しく撫でた。
「じいさん、頑固だったからなあ。全部知ってたよ、あの人は」
「――え」
「お前の気持ちを知っていて、それでも行動を変えられなかった自分を、赦せなかったんだよ。挙句に最後の最後にそんな言葉残して逝っちまうんだから、とんだ大馬鹿野郎だと、俺なんかは思うけどな。俺が言っても説得力ないか?」
「ううん」
 今度こそ泣きそうになって、和希は、ただただ首を振った。
「――ああもう、お前は。なんでもかんでも信じるなよ。好きな奴だって、間違ったことくらいするし、嘘だってつく。たのむから、もっと疑ってくれよ。いや、今は嘘を言ってるつもりはないけど」
 何も言えず、和希は困ってしまった。そんな和希を見て、巽が苦笑いする。
「全肯定されても甘えないでいられるほど、俺は強くないんだよ。カズ」
「…だから、ボクと距離をおいたの?」
 呼び方を変えて、県外に出て、和希の前から姿を消した。勿論、通いたい大学が近くにはなかったからでもあるのだろうが。
 巽は、ふっと息を吐いた。
「さて。少年でも、起こしに行くか。後輩君は、寝かせとけばいいだろ。起きるとうるさそうだし。馬鹿なことしないように引き止めるのにも、随分苦労したんだぜ」
「たつ兄」
「なんだ?」
「…ううん。ありがとう」
 巽が出て行くと、和希は、長い溜息をついた。
 人との間に壁を感じて、それを感じない人に対しては、どこまでも甘えてしまう。そうして、相手にも悪影響を与えるなら。いない方がいいのかなと考えかけて、和希は、母の手を思い出した。
 助けてもらったのに、情けない。
 和希は、食器を載せた盆を持って立ち上がった。外の様子が知りたい。ついでに、食器も片付けてしまおう。このまま置いていれば、節子が怒るのは目に見えている。
「降ってるなあ」
 雨が。あの土砂降りと比べれば同じものだとは信じられないような細い雫が、降り注いでいた。
 廊下のガラス戸越しにそれを眺めながら、冷たい床を踏んで歩く。裸足に、ひやりと冷たかった。
「被害、出てないといいけど」
 いやきっと出てるけど。苗が流れてなきゃいいなと、和希は思った。
 「神様」に出会って、自分自身、あの本流のような記憶を体験したというのに、考えるのはそんなものだ。小さいなと、苦笑がこぼれた。
 流しに食器を置くと、汚れが落ちやすいように水を張った。そのまま、節子が使っている丸椅子を持ち出して、流しの正面の窓を開けて、ぼんやりと外を眺める。色々とありすぎて、考えもまとまらない。何を考えればいいのかもわからない。下手に記憶力だけがいいと面倒さ倍増だと、和希は嘯いた。
「和希」
 どのくらいそうしていたのか、声が聞こえた。電気もつけていない暗闇に、黒い人影が佇んでいた。
「浅葱さん? あれ、どうして?」
 あの気配には、早くも慣れてしまった。そうして声は同じだが、幸が和希を名で呼ぶことはないだろう。闇で、相手の表情は判らなかった。
「長良幸は、吾に明け渡してしまった。和希。説得してはくれないか」
「幸が許してくれたら、って言ってなかった?」
「ああ。そう思っていた。だがあれは、吾の起こした結果を見て、比べて、吾がいる方が有益だからと、誰にも迷惑をかけないからと譲ろうとする。卑怯だ」
 憮然とした声に、つい笑ってしまう。怒っていないところがおかしい。まあ怒ったところで、自分相手の喧嘩など不毛でしかないのだが。
「そりゃあ、話すくらいならいいけど。結局無理かもしれないよ?」
「それでも構わない。…和希」
「はい?」
「お前はあれを――いや、いい。フシャとは知らなかった」
「え?」
「気にするな。頼んだ」
 再び言い逃げられて、待て、と言う間もなく、目の前に立っているのは幸だった。
 フシャフシャ、と繰り返し、巫者かと漢字を当て嵌める。つまりは、巫女。なるほどと、和希は自分の能力の一端が腑に落ちた。
 膨大な記憶の蓄積があれば、異能者と見做されただろう。また、それらを有効活用できれば、十分に不思議な脅威の力となる。情報や知識はいつの時代のどんな場所でも有用だ。
 やはりどうあっても異人らしいと、和希は思った。しかし何故か、もうそれが厭わしくはない。
 だが、今の問題はそれではなく。
「幸」
「竜見――?」
 はっとした風に、幸は手首を押さえた。相変わらず影だけで顔は見えないが、動きに気付いた和希が、その腕を捉まえる。
「逃げるのなし」
「離せ、俺はっ」
「ここにいたくない? 全く? それを外してしまえば、幸の記憶は全く残らないんだろう? それでいいの?」
「…お前に何が判る」
「わからないから訊いてるんじゃないか。知ってるなら訊かないよ」
 とりあえず、台所に立ち尽くすのも間抜けだと、和希は幸の手を引っ張って連れ出した。廊下に出ると、とうとう雨が止んだのか、雲の割れ目から、月だけが顔をのぞかせていた。
「ああ、止んだね。溜まってるらしい水も引くかな」
 幸はむっつりと黙り込んだままで、和希は、盛大に溜息をついた。用心のために手首は離さないまま、冷えた廊下で向かい合う。 
「言ってくれないとわからない。本当に厭なら、止める権利なんてないしね」
 幸は頑なで、自分や祖父以上の頑固者ははじめて見たかもしれないと、和希は密かに嘆息した。いや、これは頑固というのだろうか。
「…俺は。いれば、迷惑を掛けるだけだ。…宝にも、お前にも。戻れば、簡単に片付くことだったのに。逃げて、危険な目に遭わせた」
「だからって、幸がいなくなる方が厭だ」
「何を――」
「言ったじゃないか。幸が大好きだって。そう言った相手は、浅葱さんじゃなくて幸なんだよ。あの人は幸が羨ましいって言って、生きていてほしいって言ってるのに、遠慮する必要がどこにある?」
「竜見、お前…」
「何?」
 手は、もう離してしまった。
 差し込んだ月の光に、うっすらとではあるが、呆然とした幸の顔が見えた。そうして、ふっと笑う。
「…もう少し、いてもいいか?」
「いいに決まってる」
 良かった、と胸を撫で下ろす。好きにすればいいとは言ったが、いなくなるのが厭なのも本当で、恐かった。
 安心すると、日常が戻る。
「あ。とりあえず、何か食べた方がよくない? 簡単になら」
「暗いところで何してる、飯なら作ったぞ」
「あー。絶対全部聞いてたな、たつ兄」
 言葉と一緒に明かりのついた台所に、足を向ける。行ってみれば、一口大のサンドウィッチが並んでいた。本気を出せば手早い。
「そうだ、少年。杉岡氏は無事だ。今は神戸の学園都市にいる」
「どうしてそんな遠くに?」
「俺の大学があるから。教授にも一枚噛んでもらったんだが、どうやら知り合いだったらしくてな。何か知らんが、少年が無事だと知ったら、二人で酒盛りを始めて研究分野のことやら何やらで盛り上がって、他の奴はついていけてないらしい」
「…あの人も、なかなかに面白い人なんだね…」
 さすがは幸の育ての親だ、と、ふっと和希は視線を遠くへ飛ばした。
 そうして壁掛け時計が目に入り、あ、と短く声を上げる。
「明日、学校あるのに。うわー、面倒だなー。休みたい」
「休めば? どうせ梅雨祭の片付けだろ。というより、休みじゃないか?」
「どうして?」
「土砂崩れ。おかげで俺は、お前と後輩君担いで難儀した。いやあ、ここは無事でよかった。俺の家なんて、流されてるかも知らん」
「そ…そういうことは早く言ってよたつ兄…」
 確かに、あの降りなら不思議はない。早々に土砂崩れが起こり、山津波にならなかっただけましとも言える。
 しかし呆れ顔の和希に対し、巽は、からからと笑った。
「何、民家がまばらなおかげで、そこまで大したことにはなってない。後片付けが大変なくらいだろう。ただ、道がいくらかつぶれてるから、多分学校はない。むしろいいこと尽くめだろ?」
「いや、よくはないと思う」
 溜息をついて、いつの間にか黙々とサンドウィッチをつまんでいる幸を見て、しかしそれでよかったのかもしれない、とも思う。幸は、もう二、三日、休んで杉岡と話をした方がいいだろう。
 本当に全てが片付いたのかは知らないが、一旦は、これで収まったと考えてもいいのかもしれない。
「ところで、カズ。俺のこと好きか?」
「うん、好きだよ? 何、突然」
「いやいや、気にするな」
 そう言って巽は、幸に笑いかけた。「ふふん」とでも言いそうな笑い方で、うわ柄悪い、と、和希は軽く顔をしかめた。何か妙なところで、幸に対抗意識を持っているような気がする。
「…竜見」
「はい?」
「いい性格をしてるな、こいつは」
「カズ。友達を作るなら、もうちょっと選んだ方がいいぜ?」
「…巻き込まないでくれる? 二人の気が合ったのはよく判ったから。もう、寝るよ。お祖母様と節子さんの部屋以外なら、適当に使っていいよ。おやすみ」
 ああ疲れた、と、小さくぼやく。起きたら、何が起こったかの確認をして、祖母と節子に連絡を取ろう。本当に片が付いているのなら、明日には、日常に戻れているだろう。
「ああ、カズ。俺、明日か明後日には大学に戻るから」
「…わかった」
「で、秋には教育実習で一旦戻ってくるからな」
「何!?」
 和希よりも先に、幸が厭そうな声を上げた。驚いて振り返っていた和希は、睨む幸と、不敵に笑う巽の両方を見ることになった。
 なんだか、楽しそうだと思った。  


「…平和だー…」
 背中には、冷たく硬い感触。
 和希は、屋上に寝転んでいた。視界いっぱいに晴天だ。梅雨もそろそろ明けるだろう。
 本来立ち入る者もいないこの場所は、管理する者もいないせいで、荒れに荒れていた。和希がここの鍵を手に入れたのも、偶然だ。
 それにしても、草が生えているのは土や種が風で飛んできたからとして、ピンクの小さなプラスチックボールは、どこから入り込んだのか。
 土砂崩れから数日。
 幸いにも死者は出ず、しかし負傷者は多数。そして大雨は無背を中心とした北上市だけで、交通機関には大した被害はなく、巽は、宣言通りに帰ってしまった。とりあえず学校は再開し、昨日中に梅雨祭りの片付けは終わった。今日は通常授業。
 日常が、無事に戻ってきた。
「こんなところで寝るなよ」
「うん? あ、幸。いつ来たの。もう放課後なんだけど?」
 幸は、杉岡に会いに巽と共に無背を出ていた。もう戻らないかもしれないと思っていた分、その姿が意外で不思議で、嬉しかった。
 無言で手を差し出され、少し戸惑いながらも素直に掴まり、身体を起こす。逆行に、笑っているように見え、驚いた。分かれて数日と経っていないというのに、随分と雰囲気が丸くなっている。
「杉岡さんは? これからどうするの?」
「神戸の大学で、とりあえず臨時採用。だから、俺だけ戻ってきた」
「へえ。あのアパートで一人暮らし?」
「いや。金がない」
「ああ。じゃあ、うちに来る? 部屋ならたくさん余ってる」
 過去には、祖父の仕事関係者、あるいは道場を開いていた頃の門下生など、食客を多数抱えていた時代もあったらしく、部屋数はやたらと多い。今はその家に三人だけで、無背に誘致中の大学が移転してくれば、勿体ないし部屋も傷むから、下宿人でもとろうかとの話も出ている。
 幸は、一瞬呆れたような顔をすると、深々と溜息をついて見せた。
「何?」
「いや。水無瀬の家を借りる」
「ああ、なるほど」
 よく巽がと思うが、人の住まない家の傷みは激しいから、どちらにとっても悪い話ではないのだろう。
「じゃあ、学校は続けるんだ?」
「…とりあえずはな」
「そっか。せっかくだし、学校行事を思いっきり楽しもうね」
 半月もしないうちに夏休みに入り、それが明ければ、体育祭に合唱コンクールと文化祭、二年生の修学旅行に合わせての郊外学習もある。あとは、冬休みを挟んでマラソンと焼き芋大会。
「……待て」
「ん?」 
 何故か渋い顔をする幸を、不思議に思って見つめる。
「そんなにあるのか…色々」
「うん。あ、秋にはタツ兄が一旦戻ってくるんだったね」
「早まったか、俺……」
 呟く幸に笑いかけて、和希は、晴れた空を見上げた。
 何の根拠もなく明日を保障してくれるようなそれが、心底嬉しい。そこには、雲の端に引っかかって、白い月も姿を見せていた。




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