
がたりと、揺れた拍子に身動きして、そんなことができる自分にはっとする。
「なんてこった」
あのままあそこにいれば、動けるはずもないというのに。
つまりは、あそこから動かされてしまったということだ。誰がやったかは知らないが、冗談ではない。
二、三屈伸をして、周りを見てみると、やたらに狭苦しいところだった。
「気付いたか」
「おう。で、ここどこだ?」
相棒を見遣って訊く。相棒は、知らんと短く返す。
気付いた時間に大差はないだろうので、それも当然のことだった。むうと首を捻って、台から飛び降りる。床や他の台にも、木彫りの狛犬が転がされていた。
「こいつら、仲間か?」
「中身がないから、正確にはそう言い難い」
「あー。まあ、そういうもんか」
淋しいな、と思うが、言うまでもない。相棒と目が合っただけで同じ感想が読み取れて、やれやれと溜息をついた。
それでどうする、というのも、相談する必要もない。
決まり切ったことで、戻るだけのことだ。
「こいつらは?」
「動けないなら、仕方がないだろ。そうなったら、ただの物だ」
「そりゃあ、そうだけどさー。放っておくのも気がひけるよな」
「・・・甘すぎるぞ」
「そうかあ?」
溜息をつく相棒に、笑い返す。
そこでぴくりと、揃って音を拾った。足音が下りてくる。ここは地下で、誰かがやってきたようだった。
相棒と見交わして、それぞれ、元の位置に戻る。
入ってきたのは、目だけが飛び出すような、貧相な男だった。両手に木像を――小さな仏の像を、持っている。
男は、乱雑にそれを置いた。冷めた目で、狛犬たちや仏像を見遣る。
「こんながらくた、ちゃんと金になるのかよ」
「おい、早く来いよ。配分決めるらしいぞ」
「ああ、今行く」
階上からの声に応じて、男は去って行った。鍵をかけたらしい音が残る。
足音が去って行くのを待って、うんざりとしたように、相棒と視線を交わした。
「売られるの、おれら?」
「そうらしいな。不届き極まりない」
穏やかな口調が、逆に厭だ。こういうときに限って、烈しく怒っているのだ。それはもう、手に負えないくらいに。
うわあと心の中で呟いて、じりと後ずさって距離を置いた。
「安心しろ。人死には出さない」
「それって最低限って言うか全々安心できないって」
遠い昔に約束したそれは、大前提であり、安心できる理由にはほど遠い。それでも、なんとなく笑ってしまった。
とにかく、何をするにしても次に鍵が開いてからと、室内の散策を始める。それでなくても、策を練るのは相棒の仕事だ。
ほこりっぽく、何か色々と積み重ねられている上に、仲間――抜け殻であってもやはりそう思える――が転がっていて、気分のいいものではない。
「なあ、おれたちは好きに動けるとして、こいつら、どうする?」
「大丈夫だろう。気になるなら、隅にでも避難させておけばいい。それよりも、早く戻らないと、また――」
「動く呪われた狛犬とかって、小学生の見学ツアーがくまれるな」
「笑い事じゃないぞ」
そもそもは由緒正しい神社なのに、から始まって、近頃じゃあ掃除さえろくにされない、と溜息で終わる。聞き慣れた愚痴だ。そして、哀しい現実でもある。
相槌も返さずに聞き流しながら、歯形が残らないよう注意しながら、木彫りの狛犬たちをくわえて引っ張る。置きようによっては、なくなったと勘違いしてくれるかも知れない。
「何人いるか知らないが、驚かせて、警察にでも駆け込ませるか」
「了解」
その機会は、しばらくしてからやってきた。
空き箱を抱えていたから、おそらくは運び出すつもりだったのだろう。
部屋に入ってきた男たちは、はじめ、何か動く物に仰天した。その上、灯りに照らされた場所に、置いていたはずの木像の狛犬五対と仏像二体が姿を消していることに、目を丸くした。瞬時に、誰の仕業かと、水面下のさぐり合いが始まる。
「まて、さっきの影は何だ?!」
一人が発した言葉に、我に返る。そこまで馬鹿揃いでもないようだった。
「知りたいなら教えてやろうか」
「――何?」
警戒している男たちの前に現われたのは、大きな狛犬だった。床に乱雑に積み上げられた箱の陰から現われたそれは、見る見る大きさを増し、威圧的にのしかかってきた。
しかもそれが、二匹。
「ひッ」
しゃくり上げた声と、その拍子に足が引っかかったアルミの缶の音に、二人が、どたばたと部屋を駆け出していった。残された二人は、魅入られたように立ちすくみ、脂汗を滲ませている。
「ほう、逃げないか?」
鼠をいたぶる猫のような、上からの声に、二人はいよいよ硬直する。
大きな一対の狛犬のそれは、左側が恐ろしげな顔のまま凄み、右側がにたりと笑った。
そうして、右側が大きく口を開けて近付いてくると、二人は、息を止めてそのまま、意識を手放したのだった。
「あれ、呆気ない?」
「こういったことをやる輩に限って、迷信深いということもあるからな」
「そんなもんかあ」
納得しつつ首を傾げて、相棒を見遣る。その視線には、二人をどうする、と尋ねる意も含んでいた。
応じて、一人の襟首をくわえる。交番にでも引っ張って行くつもりだと知って、もう片方をくわえる。仲間たちに対するよりもずっと気遣わなかったのは、当たり前といえば当たり前のことだ。自分たちに危害を加えかけた奴に、かける情けはない。
部屋から完全に身体を引っ張り出したところで、一旦休む。相棒が、男たちの身体を探り、鍵を引っぱり出したためでもあった。逃げ出した二人が戻って仏像や仲間たちを運び出してしまっては厄介だ。
器用に、口でくわえて鍵をかけるのを見ながら、ふうと溜息をつく。
「社で聞いてるだけだとそうでもなかったけど、随分と荒んでるよなあ。また末世か?」
「さあ、どうだろうな。愚者は、いつでもいるものだ。それに、本当にいい世なんて、今まで果たしてあったのか?」
そう言われると、わからない。
それでなくても、自由に動き回れるわけではないのだ。生みの親や社の神様が確と存在していたころは、まだできることもあったが、今では、人の睡眠のように不連続に意識が戻ったり去ったりするだけだ。
しかし、まだましなのだ。
ごくわずかながら、お社の神様を信じてくれる者がいるから、意識も戻る。こうやって、危地に陥ったときに動き回れるだけの力も蓄えられる。それもやがては、さっきの部屋にいた仲間たちと同じように、なくなってしまうのかも知れない。
恐ろしくはないが、哀しい。
「呆けるな」
「前から思ってたけどお前、おれが黙ったら、何も考えてないとか思ってない?」
「違うのか?」
「真顔で訊かれると余計に傷つく」
気分転換の言い合いをして、男たちを引きずることを再開する。
空気の匂いがまだ明け方だから、そう人に見られることもないだろう。もっとも、見られたところでそう困るものでもない。大型の犬にでも見えるはずだから、仰天されはするだろうが、簡単に怪異に結びつけられもしないだろう。
翌朝、狛犬と仏像泥棒の不可思議な逮捕劇が、地方紙の一面を飾ることとなる。
ちなみにそれは、全国ニュースにもなったようだった。
私は、薔薇に囲まれていた。
はじめは、ただ花畑の中にいる、と思ったのだけれど、ふうわりと白いワンピースを着た女性が、すべて薔薇なのだと教えてくれた。
これも? 棘が・・・ないように見えますが。
ええ。
にっこりと、笑う女性。白い日傘を、くるくると子どものように回す。
そこでふと気付いて、私は、広々とした薔薇たちを見渡した。薄曇の空の下で、それらは、何処までも続くかのようだ。
ここは――
あの人が、つくってくださったの。わたしのために。
嬉しげな微笑が口元に浮かび、あの人、というものが、どれだけ大切かを知らしめる。そんなに好きなら幸せだろうと、他人事なのに、何故か、私の頬も緩んだ。
ねえ、きれいでしょう?
ええ。
ありきたりな返答をして、もう一度、ぐるりと見回す。
あざやかな色に、あわい色。ちいさな花に、おおきな花。牡丹のように、チューリップのように、他の花を思わせるもの。寄り添うように集ったり、孤独な女王のように一輪だけだったり。つぼみに、朽ちていくもの。
世界中のバラを集めれば、こんな景色にもなるのかもしれない。
足りない色があることに、気付きまして?
寒色が少ないですね。青い薔薇は――紫がかったものは見かけますが、咲かせられない、ときいています。
言った後に、知らないふりをした方が良かっただろうかと思ったのだけれど、女性は、またもや穏やかに、口元に笑みを浮かべる。
青い薔薇を比喩して、ありえないことだと、表現することもあるそうです。でも、それを夢見るのがひと、なのですって。
くすくすと、薔薇たちに囲まれ、女性は、楽しそうに笑った。
私は、それ、とは、ありえないことなのか青い薔薇なのかと、無粋なことを訊こうとして、ふうっと、世界が立ち消えるのを感じた。
目を開けると、見慣れた薄汚れた天井。ソファーに座ったまま、仰向けにうたた寝していたことよりも、のどが痛いほどに乾いていることに、先に気付いた。
あら、と、頭の上で声がした。そのまま目線を向けると、母の顔があった。
起きちゃったのね。折角、頭にでも飾ってやろうと思ったのに。
残念残念と、子どものように繰り返す母の手には、ちいさな薔薇のつぼみが、いくつも転がっていた。
私の訝しげな様子に気付いたのか、母は、にこりと微笑んだ。
剪定して、捨てるからってもらってきたの。このまま乾燥させたら、何かに使えるかしらと思って。
見事な少数を咲かせるために、それ以外のものを取り除いてしまうという作業がどうにも好きになれず、植物そのものをいじる園芸にはあまり興味がないと言う、母は、しかし、その行為自体を否定はしない。再利用できないかと、わざわざもらってくるところが、母らしい。
冷蔵庫の麦茶を一口飲むと、それにしてもと、つぼみたちを机の上に置いて夕食の支度に取り掛かる母を、見遣る。
そろそろ四十にもなろうと云う息子に、そんな物を飾って、楽しいですか?
楽しいわよ、と云う返答は予想通りで、年齢よりも若く見える母は、微笑んだ。
父の葬儀以来、何とはなしに居ついてしまった、ろくでもない息子を小言ひとつなく受けていれてくれているところには感謝するべきなのだろうが、やはり母は、どこかずれている。
そしてふと、その微笑に見覚えのあるような気がした。
どこかで――
青薔薇。
唐突にこぼれ出た言葉に、母は、振り返って首を傾げた。
青い薔薇が、どうかしたの?
いや・・・。
そういえばわたし、お父さんからもらったことがあるわよ。
え、と絶句すると、ふふ、と笑う。父のことを語る母は、いつも幸せそうだ。だから私は、夫婦とはそういうものなのだと、思い込んでいた時期があった。
あのね、簡単よ。切った薔薇を、青く色をつけた水にさしておくの。
いたずらを告げるような母の言葉に、なんだと気落ちした。しかし、そこで終わりではなかった。
その薔薇をくれてね、お父さん、いつか僕が、本物の青薔薇をつくったら、君に一番にあげる、ですって。
そう言って、若々しい母は、嬉しそうに微笑んだ。
空が。赤かった。冗談みたいに。冗談であればいいと。これは間違いであればいいと。悪夢を見ていて、起きたら何事もなく失ったものが戻っていればどんなにいいかと。つい、願わずに入られないほどに。
空が、赤かった。
確かに、俺たちは異端だったかもしれない。でも、化け物は誰だ?
俺たちが何をした。誰も襲わなかった。家畜に手をかけたことも、地域の集会を休んだことも、その雑役をサボったこともなかった。それなのに、この仕打ちは何だ。
怪物は、誰だ?
「あ――――?」
寝台から体を起こして、レキサンドラは首を回した。どのくらい寝ていたのか知らないが、体が痛い。死後硬直を体験するとしたらこれか?と、ひどく勝手な想像を働かせる。
「う―――」
腹減ったなあ、と呟く元気もない。
だが、とにかく外に出なければ何もない。いや、何かはあるかもしれないが、レキサンドラの予想が外れていなければ、とても食べれた状態ではないはずだ。この部屋の状態から見て、前に起きたときから少なくとも数年、下手したら数十年は眠っていたはずだ。
ひとしきり体中の関節を回して体の調子をいくらか取り戻すと、地下階の井戸まで行く。水を汲み上げて顔を洗いかけて、面倒になってそのまま頭から無造作にかぶる。
「・・・っめてー・・・」
何度かそれを繰り返して埃を落とすと、用意していた布で適当に水気を取り、無事そうな服に着替える。
「うわ、これも虫に食われてんじゃねーか。畜生、天下の公爵さまは楽でいいよなーっ。何だって飯ひとつで、こんな苦労しにゃならんのだ」
いっそ、吸血鬼らしい吸血鬼なら、そこらで人襲や一発なのに。
不穏当な台詞だが、ここまで茶化したことが言えるようになるまでに、大分かかった。
レキサンドラは、自分が何という種族なのか知らない。だが少なくとも、人間ではないだろうと思う。普通の人間は何百年も生きないし、自分ほどの力もない。「吸血鬼」として認識しているのは、過去にそう呼ばれたことがあったからだ。
だがそれは、引き裂かれるような、辛い記憶を伴う。
「あれ、おまえこんなとこで何してんの? ひょっとしてねぐらにしてるのか? ん?」
人懐っこい笑みを浮かべた。その先には、一匹の野良と思しき子犬がいる。柔らかい茶色の毛をしたその犬は、警戒するでもなく、レキサンドラに首筋を撫でられ、うっとりと目を細めた。
自分の髪と似た色を持つ犬に、レキサンドラは親近感を覚えていた。この髪は、母から譲り受けたものだ。黒に近い茶の瞳は、父から。鏡を見る度に、両親の存在を思い出す。
「おまえの親は?」
「死んだわ」
一瞬、犬が返事をしたかと思った。だが首をめぐらすと、入り口の扉を背に、まだ幼いとも言える少女が立っていた。レキサンドラは知らないが、その背に背負っているのは、真っ赤なランドセルだった。
「ちょっとあなた、ここで何してるのよ。その子はあたしのよ。勝手に触らないで」
「いや、俺のやお前のって言う以前に、こいつはこいつのもんだと思うけど?」
互いに刺だった声をしている。話題に上がっている子犬は、レキサンドラに抱き上げられたまま、無邪気に尻尾を振っていた。
レキサンドラの両親を殺したのは、「人間」だった。レキサンドラの家族を化け物と罵り、そのくせ、自分たちの方が化け物のような形相をしていた。今でも、覚えている。忘れやしない。あのときの顔を。――化け物は誰だ?
「変質者って、警察に言うわよ」
「じゃあ俺は、不法侵入で訴えるか。ここの権利書を持ってるのは俺だ」
「うそ」
「何なら見せようか?」
両親が殺されて、屋敷に火をかけられて。その後レキサンドラは、中国に渡り、そして日本に来た。そのころ日本は鎖国を解いた直後で、異人というだけで避けられた。仲良くして裏切られるくらいなら、いっそその方が気分がいいと、レキサンドラは思っていた。
この屋敷は、中国――その頃は、まだ元や明という名だった気がする――で金を稼ぎ、買ったものだった。あまり人の来ない、変わった洋館。それであれば、いくらか寝て時を過ごしても、さして問題にはならないと考えたのだ。
「そんなの聞いてないよ・・・・。ここなら、お化け屋敷で誰もこないから、いいと思ったのに・・・」
泣きそうになっている少女に、レキサンドラは慌てた。大人なら男女関係なく放っておくが、子供となればそうも言ってられない。子供が泣くと、こっちが悪い事をしたような気分になってしまうのだ。
「おい、泣くなよ。いやその前に、何で泣くんだよ」
子犬を抱いたまま慌てるレキサンドラを見て、少女は笑った。
邪気のない笑みに、レキサンドラは過去の日を思い出した。その記憶に、赤い空が被さる。燃え上がった屋敷と、それを映して赤い――空。
「いいわ、あなたがここに住むの、許してあげる」
いや、許しなんていらないけど。泣かれても困るので、レキサンドラはその台詞をどうにか呑み込んだ。
「代わりに、その子を飼ってくれない? いいでしょ?」
「ああ。でもその前に、何か買ってきてくれないか。腹減ってんだけど」
その台詞にあわせたかのように、レキサンドラの腹が盛大に鳴る。少女は、今度こそ声を立てて笑った。
「凄い音。どれくらい食べてないの?」
「えーっと・・・・今、何年?」
「7年」
「・・・・それ、西暦?」
「西暦? うーん・・・・1995、だったかなあ」
「じゃあ、四、五十年食べてないな」
「見えないけど、ずいぶんおじいちゃんなのね」
少女は、冗談ととったらしく、明るく笑った。
その日の夜、レキサンドラは四十数年振りに食事をとって寝台についた。おざなりに埃を払っただけのベットのシーツの上では、茶色い子犬が、既に幸せそうな寝息を立てている。
レキサンドラは、それを見て微笑した。少なくとも、こいつが生きている間はここで生活をしよう。あの少女も、また来ると言っていた。
今でも、夢に見る。あの夜、イングランドの片田舎で起きた出来事を。手にたいまつや農具を持った村人たちが屋敷を囲み、両親を殺害し、火をつける様を。あの時父と母が自分を隠してくれなければ、そして、どうにか燃え盛る屋敷から逃げ出すことができなければ、その後の自分はなかった。
いっそ、あの時両親とともに死んでいればと思ったことも、数え切れないほどある。けれど、そうしていればこの呑気な子犬には会えなかった。親を保健所に連れて行かれたという、この子犬には。
「ま、いっか」
呟いて、寝台に横たわる。次に起きるのは、明日の朝。どうか、あの夢を見ないように。そして、あの日の空を思い出す朝日の昇るころには眼の覚めないように。そう強く願って、レキサンドラは眠りについた。
「ありがとうございました」
駄菓子屋「あめむら」の唯一の店員は、笑顔で釣銭を渡した。受け取った中年婦人が、嬉しそうに頬を染める。その傍らでは、待ちきれずにいる五・六歳くらいの子供が、買ったばかりのガムの包みを開けていた。
この店が子供ばかりかその親、はたまた女子学生にまで強い支持を受けているのは、この店主に負うところが大きかった。
少し長めの髪と、均整の取れた体。眼鏡の細い黒のフレームを上げる姿一つで、密かに歓声が上がる。まだ、二十代くらいに見えた。
そんなわけで、今日も「あめむら」は繁盛している。
「おに―さん、飴頂戴」
可乃子が「飴村」を訪れたのは、閉店間際だった。渋る客をようやく帰し、閉店時間を十分ほどすぎて、店主が片付けを始めた頃だった。だが店主は、嫌そうな顔どころか、嬉しそうに目を輝かせた。
「可乃ちゃん、来てくれたんだ!」
「面白そうな話聞いたからね。あ、これにしよ」
可乃子は、種類の豊富な飴の中から掌大の渦巻きキャンディーを取った。カウンターにおいて、高校の指定鞄の中から、財布を探る。
セミロングの髪を邪魔にならないようにくくっている。青と白の夏服が、目にも鮮やかだ。季節は、すっかり夏になっている。明日からは夏休みが始まる。
「お金はいいよ?」
「ちょっと、商売する気あるの? たかだか百二十円だけど、払うって言ってるんだからもらっときなさいよ」
でも、この店の飴は全部、可乃ちゃんのために用意したようなものだし。
可乃子は、その台詞には無視を決め込んで、百二十円をレジに直接突っ込んだ。良く見れば、その耳が少し赤くなっている。
「消費税、おまけしてもらうわね」
「うん。あ、今日のご飯何?」
「知らない。一体、いつまでうちにいるつもりよ?」
「え? ・・・・ずっと?」
渦巻き型の飴をくわえたまま、可乃子は店主の足を蹴り飛ばした。
現在、可乃子の家に居候している。生活費も振り込んでおり、従兄妹ということで、誰も反対はしないでいる。一応、そういうことになっている。
「で、時間大丈夫?」
「時間?」
「同級生が、あんたに決闘申し込んだって聞いたんだけど?」
「ああ。古風だよね」
男の目が、眼鏡の向こうで冷ややかに細められる。少し、背筋が冷たくなる。
「・・・どうするつもり?」
「行くだけ行くけど、鄭重にお帰り願うつもりだよ」
そう言って、眼鏡を外す。口端が笑うように持ち上げられているが、目は全く笑っていない。いや、笑ってはいるかもしれない。それは、悪気はなく昆虫のメス争いを笑うような、どこか見下したような笑いだった。
実際、事の発端は似たようなものかもしれない。この店主を好きになった女の子を好きになった男の子が、少々先走りして行動に出たのだ。
「約束、守ってるんだ」
「あ、酷いなあ。当然でしょ。可乃ちゃんとの約束なんだから」
今度はにっこりと、本当に笑う。
うちには悪魔がいますなんて言って、誰が信じるだろうと、可乃子は思った。本人曰く、悪魔という響きは嫌いで、デヴィルなんてもっと許せない、ということらしい。魔物なら及第点かな、と。
どういうわけか好かれてしまった可乃子について、今ではすっかりこちらの生活にもなれている。幾つもある能力のうち、眼による暗示が一番感情に左右されやすくコントロールしにくいので、普段は眼鏡を掛けて緩和している。何故かこの力は可乃子には効かない。そのため、基本的には、彼が眼鏡を外すのは可乃子の前だけだった。
周囲に不自然に影響を与えない、正答防衛しかしない、というのが可乃子との約束だった。過剰防衛も駄目だからね、と言った覚えがある。だが実際の所、その気になれば簡単にこの約束は破れる。可乃子には、対抗し得るような力はないのだから。
「さっさと片付けて、早く帰るよ。おばさんのご飯、食べ逃したくないからね」
「・・・うん」
大丈夫よね。約束、守るよね。
そう言うのは、ためらわれた。これまで、ちゃんと守ってくれた。信じられないのが、何か悪いことのような気がした。ごめん、と声には出さずにあやまる。
「じゃあ、先に帰るわね」
「あ、これお土産」
売り物の飴を一掴みして、可乃子に渡す。また怒られたが、笑顔でかわし、持って帰らせることに成功した。
「じゃあ、家で」
可乃子が出ていくと、眼鏡をポケットにしまいかけ、再びかける。呼び出された指定場所はここではないから、念の為、かけておいた方がいいだろう。
決闘の相手には、こっちが負けたと思わせて帰らせればいい。実際に負けて見せるというのもてだが、それは時間をとる。可乃子のいる家に、早く帰りたかった。
「本当なのになあ」
この店の飴は全て、可乃子のために。好きだといったから、こんなにも種類を集めたのに。
焦りはしないが、気長に待つのも考えものだ。人の人生は、意外に短い。もっとも、それは自分と比較するからかもしれないが。
「さて。時間か」
店内を確認すると、カギを閉めた。
(雨のせいだ。ぜんっぶ雨が悪いっ・・・)
路地裏で寒さと雨に震えながら、明里[アカリ]は今日何度目になるか判らない溜息をついた。
午前中よりも雨脚が強くなっている。夕方には止むとの予報だったが、本当だろうか。いや、例えそれが本当だったとしても、このままだと風邪を引いてしまう。鉛色よりも明るい空を、建物の隙間から見上げて、両腕で体を抱いたまままた溜息をつく。
全く今日は、朝からついていなかった。
朝、目が覚めてから起きるまでに二十分ほどの間があった。二度寝をしたというのではなく、寒くて布団から出られなかったのだ。
両親が旅行に出かけたために俄か一人暮しとなった身だが、たった数日で大きな変化があるわけもなく、明里の部屋は当然として、家の中は特に変化がない。ヒーターがあるわけではないので、暖まりたければ起きて石油ストーブに火を入れるしかなかった。
外からは、雨音が聞こえる。昨日から振り続く雨は天気予報が的中したことを知らせているが、これから出かける身としては全く嬉しくない。
(あー・・・ストーブに火入れても暖まんないよなー。電気ストーブのが早いか)
「うしっ」
ようやく布団を跳ね除けると、即座に身支度を整え、トースターで正月の残りの餅を焼く。電気ストーブのスイッチを入れ、醤油と黄粉を絡めて食べる傍ら、新聞を広げてテレビをつける。昼にも再放送のある、十五分しかないドラマを聞き流しながら、新聞を読む。
仕事の都合でほとんど帰ってこない姉には不評で、自分でも行儀が悪いとは思いつつ直らない習慣だ。そもそも、食べにくい。
ドラマが終わる五分前には餅を食べ終え、流しに皿を移動させてからテレビと電気ストーブ、電気を消して、ナイロン製の上着を羽織る。雨を考えて、この冬にいつも着ているコートはやめた。
「雨だー・・・」
鍵を閉めた玄関の戸を背に、傘を開く。明里の家は一戸建てで、別に車庫もある。そこに自転車を置いているのだ。駅まで、とばして三十分弱。雨となると、更にかかる上に服も濡れる。
わかってはいたが、気が重かった。
車庫で一旦傘を置き、かばんを袋に入れる。そうして出ようとして、空気が抜けていることに気づいた。何故か、穴もあいていないようなのに時々空気が抜ける自転車に溜息をつき、空気を入れた。
苦労して三十分近く自転車をこぎ、駐輪場に入ってから定期がないことに気付き、仕方なくお金を払ってこの家に戻ってきたのは、これから一時間ほど後のことである。
定期は、いつも着ているコ−トのポケットに入っていた。切符を買って大学まで行くというのも考えたが、定期があるのに、と思うと、貧乏性故にそれもできない。深深と溜息をついて引き返してきた。
(しゃーない。午後から行こう)
つい一時間ほど前に鍵を閉めたばかりの戸を開けて、家に入る。真っ先に行ったのは、ストーブに火を入れることだった。次いで、濡れた上着とズボン、靴下をその前に並べる。望みは薄いが、乾いてくれないかと。
それから適当に時間を過ごし、昼食を取ってからストーブを消す。ズボンはどうにかはける状態になったが、他は無理だったので、違う上着と靴下をはいて家を出る。
(あーあー。なんでよりにもよって、今日)
大学の講義は既に後期試験も終わり、自由登校とでもいうべきものになっている。最短で一時間、長くて数回の特別講義が行われるが、これは希望者のみなのだ。
ただ、今日の一限に明里が受けるはずだった講義は、三回連続の一回目で、しかも実技中心のため、今日を逃したら自動的に後の二回も出られなくなるという代物だった。
(・・・結構、楽しみにしてたんだけどなあ・・・・・)
車庫に行って、朝と同じようにかばんを袋に入れる。そして何気なく、タイヤの空気を確認した。朝に入れたばかりだから大丈夫だろう、と思ったのだが、後輪が・・・・見事に、空気が抜けている。
「嘘っ?!」
嘘でも冗談でもなく、抜けている。仕方なく空気を入れるが、嫌な予感がした。まさかこれ、原因不明の空気抜けじゃなくてパンクじゃなかろうかと、不吉な考えが頭を過る。
「こんにちは」
「・・・こんにちはー」
雨の中、配達にきた郵便局員と目が合い、少し引きつった笑顔で返す。多分、陰になってろくに見えてはいないだろうと思うが。
配達人が郵便受けに郵便物を入れに行っている間に空気を入れるが、やはりパンクしているようで、ある程度空気がたまると、入れた端から抜けていっている気がした。空気の抜ける音が聞こえるかと、タイヤに耳を近づけていると、局員が戻ってきた。
「空気入らないの?」
「はい、パンクしたみたいで」
「パンクしたのに乗ったらだめだよ。余計に穴があくから」
「はいー」
走り去る赤いバイクを見送って、明里は空気入れを片付けた。
(もう、いい)
自転車には乗れず、バスはいつ来るのか知らないが、多分間に合わないだろう。歩いたら、到底間に合うわけがない。
定期を忘れてなかったら、帰りが大変でも学校には行けたのに。多分そのときには雨は上がってただろうから、一時間かかろうと帰れたのに。そう考えて哀しくなるが、今更どうしようもない。溜息をついて、かばんを袋から出そうとして振り返り――動きを止めた。
(・・・今、何か変なもの、見えなかったか?)
一瞬視界に入っただだろうから、何かは判らなかった。ただ、強烈な印象がある。本の背表紙が並ぶ書架を歩いていて、見知った単語が目に飛び込んできたかのように。
そこで、周囲を見る。なるべくさっき見たところを見るようにして。
まず、車庫の中。単身赴任していた父の荷物が詰まれたそこは、車の入る余裕はなく、実際、車は車庫の外に置いていた。車庫の中は、いつものように雑然としてはいるが、特に引っかかるものはない。
ついで、雨の向こうに隣の家を透かし見て、いつもは父の車が置かれている路地。遠くにマンションとそのごみ置き場。向かいの家。その隣の草むらのような空き地。そして、明里の家。
「え」
一度首をぐるりと回してから、視線はごみ置き場、正確にはごみ置き場に立つ人とごみ袋に向かった。
傘ではなく半透明の合羽を着た人と、足元のごみ袋。ごみ袋からは、茶色っぽい髪と白い手が、出ていた。傍らに立つ人物は、どうにかそれを押し入れようとしているように見える。
「え・・・・?」
(あれって、あれって・・・人が入ってるみたいに見えるんだけど。いやでも。でもそんなことってある? 人? ごみ袋に?)
その瞬間、明里の脳裏を、今までに見たテレビドラマや推理小説の類が駆け抜けていった。そして、思わずあとずさりかけて、自転車に足をかけて、ひっくり返すとまではいかなくても、倒しかけて音を立ててしまった。
こっちを向くな、と思っても遅い。しっかりと、目が合った。
次の瞬間には、明里は走り出していた。ごみ捨て場とは逆方向に走り出し、自分が傘を持っていることに気付いたのはずいぶん後になってからだった。
そして今は、来たこともない路地裏の、どうにか雨をしのげる軒下に立っている。傘はたたんで隣に立てて。寒さに、両腕で自分を抱きしめる。いや、本当のところ、何か持っていなければ、震え出してしまうような気がするのだった。
(追いかけて、来たかな。どうなっただろう。・・・どうしよう。・・・・全部、雨のせいだ。雨さえ降らなかったら定期を忘れることはなくて、ちゃんと学校に行けたのに。雨さえ降らなかったら・・・)
落ち着こうと思うのだが、駄目だった。頭の中を、考えても仕方のないことばかりが回る。
「りゃ。和多[ワダ]さん?」
「・・・・え? あ」
明里より少し背が低く、長い癖っ毛を無理やり三編みにした少女が小首をかしげて目の前に立っていた。黄色の長靴に水色のレインコート、白い傘という格好は小学生のようだが、明里とは同い年で、確か誕生日もそう離れていなかったはずだ。中学を卒業して以来会っていなかったクラスメイトの、中原美空[ナカハラミソラ]だった。
「何してるの、こんなとこで?」
「中、原さん・・・?」
「うん。わっ、ど、どうした、何?」
こらえきれずに泣き出してしまった明里を前に、美空は大袈裟なほどに慌てた。レインコートの擦れる音と、美空が水溜りを踏み散らす音がする。
「うにゃー、泣かないでー、困るよー・・・」
心底困った声で言う。
だが、明里が落ち着いたころには、大きな目を更に大きく見開いて、驚いているようにも心配しているようにも見える不思議な表情で、明里を見上げた。頭の上では、白いかさがくるくると回されていた。
「今からお昼食べるんだけど、その間で良かったら話、聞くよ? 何にもならないかもしれないけど、話すだけでも、結構楽になれるもんだし」
「・・・いい?」
「うん。本当に、聞くだけになるかもしれないけどね」
美空が入ったのは、どこにでもあるファーストフード店だった。既に昼食を食べた明里はホットココアだけにした。
「髪と、手?」
「そう。ごみ袋から、見えてた」
セットメニューのハンバーガーをかじりながら、美空はまた、目を見開いた。それが癖なのだろうが、暗闇の中の瞳孔の広がった猫を連想させた。
「にゅー・・・・・。中原さん、まだ視力いいまま?」
「少しは落ちたけど、まだ両目1.0はある」
「いいなー、あたし、もう眼鏡いるんだよねー、実は」
コンタクトレンズもつけていないような眼で、美空はどこか遠くを見た。
真剣に怯えていたのだが、こうやっていると、気のせいだったような気もしてくる。美空の雰囲気というのではなく、暖房がかかった暖かい店内で、冷たい雨の降る外界と切り離されているような空間に落ち着いているせいだろう。
それでも、外に出た途端に恐れが襲ってくるのは目に見えていた。
「警察とか、行くべきかな・・・」
「んー。もう、ごみ持って行ってると思うよ?」
「え?」
「つまり、証拠がない」
ポテトを摘んで、それをぴしり、と擬音付でつきつける。
真剣に考えてくれているのだろうかと不安になるが、不思議と茶化しているような感じはしない。中学時代から、美空はどこか不思議な雰囲気があった。女子には珍しく、群れることはせず、かといって独りというわけでもなく。
「で、その人は見たことあったの? 近所の人?」
「・・・ううん、わからない。・・・近所の人の顔なんて知らないし、合羽のフード被ってたから、ちゃんと見えなかったし」
「にゅー。んじゃあ、三枝さんじゃなかった?とかって訊いても無駄だよねえ」
「サエグサ?」
紅茶とは別に注文したシェエイクのストローを咥えた格好で、まるでおもちゃの人形のように、美空は肯いた。
平日の昼とあって、店内は小学生未満の子供や主婦らしい女性客がほとんどだった。住宅街の中にあるということもあるだろう。他の店であれば、他に大学生や受験を控えてほとんど学校のない高校生もいただろう。
店内から浮くというほどではなく、他の客たちはそれぞれの会話に熱中しているようなので、明里は密かに安心した。
「学校の先輩なんだけど、確か中原さんの家の近くのマンションに住んでたと思うんだよね。大学からこっちに移ってきたんだけど」
ハンバーガーの、残りの一欠けらを口に放り込む。
「酔っ払うと、やたらいろんな物を持って帰っちゃうひとでねー。冗談じゃなくてほんとに、カーネルサンダーさんとかぺこちゃんとか、果ては背もたれに広告の載ったベンチとか、部屋にあるんだよ。で、時々こっそり捨ててるらしいからそれかな、って」
ハンバーガーの包みを丸めてポテトの入っていた空箱に放り込み、更に空になったシェイクのカップに入れる。紅茶も飲みほす。
「中原さん、一緒に来る? 今からサークルに行くんだけど、そこなら三枝さんに会えるよ。違ってたら、また別の方法考えよう」
トレイを一つにまとめて、二人は立ち上がった。
「もう、冗談じゃない。どうしてこんなに問題が多いのよ、ここは・・・」
そしてどうして、その受け付け先が教職員ではなく生徒会なのか。
そういうものなのだと、それが学校の方針なのだと判っていながらも、悠は何度目になるのか数える気にもならない呻き声をもらした。
「はい、お茶」
「ありが・・・先生・・・。どうしてお茶なんて淹れてるんですか・・・」
教育実習中の、(仮)教師を見て、悠は更にげんなりとして言った。
しかし、ありがたく湯のみは受け取る。梅雨が明けたか明けないかの蒸し暑い時分であり、中身は用務員室ででももらったのか、氷の浮かんだ麦茶だった。
教師の卵は、にっこりと微笑んで、生徒会室内を示した。
「だって皆、死んでるから」
「・・・勝手に殺さないでください、縁起でもない」
頭痛がするとでも言うように額を押さえるものの、実のところ、悠も似たような感想だ。
生徒会長の悠を筆頭に、副生徒会長、書記に議長、会計・・・と、運動部部長などどちらかといえば補佐のはずの面々も入れて、今部屋にいるのは全部で九人。全員が集合すれば、十七人になる。
全員、暴れ疲れた陸の魚のようにぐったりと、廃品利用のソファーやイス、あるいは床に体を投げ出している。一応の体裁を保っているのは、悠くらいのものだ。
比喩として、「屍累々」と言えなくもない。
何しろ、文化祭間近で問題の起こらない日はない。それでなくても、日頃、何かと騒動が持ち上がるというのに、だ。
部活間の揉め事は日常茶飯事(しかも、どこか楽しんでいる風もあるから厄介だ)で、部によっては「爆発しちゃいました〜」と言いに来りもする。商魂たくましく、過去の試験問題やノートをオークションを設けて売ろうとした者もいるし、学校黙認の便利屋までいる。
そしてその大半の処理が生徒会に一任されるのだ。教師陣が処理する場合にも、まずは生徒会のところに届き、無理だと判断してからになる。
発生した事件の数々は、全てが生徒会に届けられると言っても過言ではない。
卵教師は、近くの椅子を引っ張って来て悠のやや斜め横に座った。
「大変だね。どうしてこんなことやってるの?」
にこやかな笑顔でさらりと言われ、悠は言葉に詰まった。そういえば、どうしてだろう。
「・・・でも、先生も昔役員だったって聞きましたけど?」
「おれはね。一年のときに学校休みすぎた上にいたずらしまくってて、真面目に仕事したら進学させてやるけどどうだって持ちかけられたんだ。それに釣られて生徒会に入ったら、問題起こしても自分で全部何とかしなきゃいけなくなったから、いたずらもほとんどしなくなったよ。あれは、先生の作戦勝ちだね」
とんでもない経緯に、悠は「で、海原さんは?」と訊かれても、唖然と卵教師の穏やかな顔を眺めていた。
「おーい?」と青年が悠の目の前で手を上下に振ると、ようやく我に返った。しかし、その直後に近付いてくる騒がしい足音に、悠はうんざりとした、しかし引き締まった表情で開け放してある入り口に目を転じた。
「セートカイチョー、来て!」
はっきり言って、校内での悠の知名度(本名は知らなくても、顔と肩書きは知られている)は、軽く校長を上回る。
「その前に何があったのか言って」
「男子が教室で花火してるの!」
息を切らして駆け込み、とんでもないことを言った見知らぬ女子生徒をまじまじと見て、溜息をつく。本当に頭痛がしてきた。
「原君、安成君。それと美貴ちゃん」
窓際で床に直接伸びていた長身の男子生徒と、壁にもたれて軽く寝入っていた坊主頭の男子生徒とソファーに倒れ込んでいたつり目の女子生徒が、呻きとも返事ともつかない声をだして、疲れた目を悠に向けた。きっと自分もこんな眼をしているのだろうと、悠は軽く溜息をついた。
「溜息つくと、幸せが逃げるよ」
「知ってます。――行って頂戴」
「はーいー」
「教室どこ?」
「行って来まーす」
いざ行動となると素早い三人は、長身の男子が教室を訊いて、坊主頭と連れ立って一足先に走って行き、つり目の女子は報せに来た生徒と並んで足早に去っていく。
それらを見送って、悠は部屋の時計を見上げた。もうしばらくしたら、下校時刻だ。文化祭準備の過剰を避けるため、放送が流れたら悠たちは見回りに行かなければならない。残ろうとする生徒を、半強制的にでも帰らせるためだ。
厭な上に面倒な仕事だ。それは生徒会の仕事全てに言えることだが、少なくとも退屈だけはしないで済む。
ああ、と、悠は思った。卵青年を見る。
「先生、訊いていいですか?」
「それ、もう訊いてるよ」
もっともなことを言って、笑って先を促す。悠も微笑した。
「どうして、先生になろうと思ったんですか?」
卵の青年は、目を細めて笑った。苦笑したようだった。
気付くと、残っている他の役員たちが興味津々といった面持ちで二人を見ていた。青年も、そのことには気付いている。苦笑が深くなった。
「散々苦労させられたから、少しくらい、偉そうな立場になりたいと思ったんだったかな?」
「もっと遊びたがってるのかと思いました」
にやりと、卵教師は笑った。きっと、同類だと悠は確信する。
そして――悠にだけ聞き取れるくらいの声で、青年は呟いた。
「だから、息抜きに来たんだよ」
それから少ししてから、独特のノイズが先行して、下校を促す放送が流れた。