
夏と言えば、この空を思い出す。
人の手では出せっこない、深い深い澄んだ青と、まぶしいくらいの白の対比。窓の外に広がる、この空が頭に浮かぶ。
ところが、夏色といえば話は別だ。夏季の中でそれは、くすんだような、それでも鮮やかな蜜柑色・・橙系の色だ。それには、多分に夏蜜柑と『夏色』という歌を歌ったグループの名の影響があると思う。なんて安直な。
「夏なんて、全然キレイじゃないし、暑苦しいだけなのに。どうしてあんなに生き生きとしたイメージがあるのかしら?」
なんとか熱風を送り出す扇風機を軽く睨み、言う。それは確かに本心の一部だったのだけれど、微笑を浮かべる壱を見て、少し後悔した。
「夏が嫌いなの?」
「ううん。そんな事ないわよ。あたし、四季は平等に好きだもん」
「単にどの季節も完全には好きになれないだけだろ」
「てっちゃん?」
窓際で黙々と本を読んでいた哲也に、わざとらしい笑みを向ける。哲也は、言うだけ言ってまた本の世界に戻ってしまったらしく、特に反応を示さなかった。それも、たった一年ほどの差しかない従兄妹に敵わない点だ。
「まあ、テツの言う通りだろうね」
「いっちゃんまで」
なんとなくのけ者にされたようで、悔しい。この二人は、知らないうちに夏季を傷付けるのだ。夏季だけを置いて、肩を並べて歩いて行く。こちらから声をかけない限り夏季が送れている事にも気付かないのだから、余計に腹立たしい。
哲也や壱から見れば違う光景が映っている事を、夏季は知らない。
「夏季ちゃん。小学校の修学旅行、楽しかった?」
「え? うん。面白かったわよ。それがどうかした?」
「でも、早起きが辛くて移動中ほとんど寝てたから悔しかったとか、同じ部屋に嫌いな子がいたとか、先生がやたらと口うるさかったとか、文句も言ってたよね?」
「・・・そう、だった?」
言われてみれば、そんな事を言った気もする。たしか、言った当時は、そのことが本当に嫌だったはずだ。すっかり忘れていた。
「でも、楽しかったんだよね?」
「うん・・」
再生される印象は、「楽しい」の一言に集約される。今となっては、口うるさかった先生すら、かすかに懐かしい。そういえば、卒業してから会ってないなあ。
「それと同じだよ」
「え?」
「嫌な事の印象は薄れて、良かった事が強調される。人の記憶の書架は意外に狭いからね。代わりに、地下書庫が凄く広いんだけど」
楽しそうに、瞳が揺れている。
夏季が・・夏季と哲也が、壱と始めてあったのはいつだっただろう。確か、夏祭り・・そう、初めて子供だけで行かせてもらった、城山祭だった。三人とも、着慣れない浴衣を窮屈そうに着ていた。
そうか。夏と言えば縁日、ってのもあったんだわ。
「まあ、実際には嫌な事と良かった事というよりも、印象の差だと思うんだけどね。より大きな印象の方が強調されて、残っていく。時間が経ったら、それ自体への見方も変わるだろうしね。だから、夏季ちゃんが生き生きとしたイメージを持ってるのは、それが暑さなんかよりも印象深いからじゃないかな?」
「夏季は、都合の悪い事は全部水に流すって性格だしなあ」
「うるさいわよ、てっちゃん」
本から顔も上げずに言う哲也を睨みながら、頭の中をあの空が占領しているのに気付く。印象深いから。あたしにとって、印象深いから、縁日よりも先にあの空が浮かんでくる。なんだか・・・
「記憶を偽造してる気分だわ」
つい漏らしてしまった言葉に、壱が笑う。
「そんなものだよ。何もかも細かく覚えてたら、新しい物が入る余地がないんだからね。地下書庫は半無限でも、書庫は目に見えて有限なんだから」
「うーん」
きっと、この論にはまだまだ穴がある。でもそれがどこなのかがわからなかったら、きっと、ないのと同じなのだ。それに、そんな事を考える以前に納得してしまっている自分がいる。
「はい、休憩時間終り。勉強教えてもらうためにここに来てるんだろ。早くやらないと日が暮れるぞ」
読みかけの英語のペーパーバックから顔を上げ、お茶を飲む。
昔から語学関係だけは習得が早いのよね、てっちゃんって。絶対、アマゾンだかアフリカだかの原住民とも会話ができるようになるわ。ひょっとして、未解読の古代文字も読めるんじゃないの?
呆れつつ、羨望しつつ、英語のテキストに向かう。理解はできても人に教える事はできない哲也はあてにならないから、だから壱に勉強を教わりに来たのだ。
そのうち、この状況も懐かしい思い出にできるのかしら?
窓の外には相変わらずの青空が広がっていて、扇風機は生ぬるい湿った風を作り出す。夕暮れには、まだ時間がありそうだった。
その言葉を聞いて、哲也は首を垂れた。毎度のことながら、一気に疲れを感じる。
「あのなあ。何回それ言えば気がすむんだ?」
「何よ。これ言わないと、城山祭が終ったって気がしないじゃない」
「俺は、その台詞聞くたびに、五年二ヶ月分の疲れが一気に来るんだけど」
「あら、ご愁傷様」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「いい? 事実の前には、全てが無力なのよ」
話がつながらない。一つ下の従兄妹を前に、哲也は深深と溜息をつくのだった。それに気付いているのか・・・否、確実に知っているだろう・・・夏季は、とりあえずかわいいといえる顔に笑みを浮かべた。
「だって実際、この夏は二度と来ることはないのよ。どんなに似た状況にいようとも、絶対にこの夏とは違うんだから。それを――」
声に怒気がこもる。不味い、と思ったときには既に遅く、夏季は哲也の浴衣の胸倉を掴んだ。そこそこある身長差も、こうなっては役に立たない。
「来年になったら遊べるですってェ? でも、理系は忙しいですってェ? 悪かったわねっ、どうせ理系よっ、医者志望よっ、遊んでる暇なんてないわよっっ!」
周りが驚いて振り向くのも気にせず、夏季は哲也の胸倉を掴んだまま、手を乱暴に振り回す。沢山の屋台の並ぶ大通りから外れていたのが、せめてもの救いだ。今年高三の夏季は、受験のおかげでたまった鬱憤を晴らすべく言葉を吐き出す。
「なによてっちゃんなんて、もう大学生だし文系だしっ。時間有り余ってるって聞いたわよっ、ずるいずるいずるい―っっ」
「ずるいってなあ」
為すがままに振り回されながら、哲也がぼやく。
「医者になりたいって言ったのは夏季だろ? 叔父さんや叔母さんは、むしろ止めようとしてたくらいだしさ」
「そんなことわかってるわよっ、当然じゃない! 自分で選んだことの責任を人に押し付けるほど人間落ちてないわよっ、あたしっ。これはただのやつあたりっ! 最近の放火みたいな発散のし方じゃないんだから良いでしょっ。あーっ、勉強は自分のためにやってるんだからねっ、あんたたちのためにやってるんじゃないのよっ、やる気があるなら勝手にやるわっ。その気のないやつなんてほっとけば良いじゃないっ」
「な、夏季、夏季」
哲也が「あんたたち=先生たち」に見えてきたのか、とうとう首を締めだした夏樹に命の危険を感じ、肩を叩いて落ち着くよう促す。それが、十数年の間にできた二人の暗黙の了解だった。
家が近く、親同士の仲が良かったために、一人っ子の哲也と姉とは歳の離れた夏季は従兄妹というよりもきょうだいのように育ってきた。互いに、遠慮なく言葉を交わし、無駄な気遣いも要らない。逆に、それが親たちに「夏樹も哲也君離れをしなくちゃねえ」「哲也も夏樹ちゃん離れをしないとな」と言われる所以でもある。
ようやく平静になった夏季は、短く「ありがと」というと、襟を正す哲也の腕にしがみつき、笑顔で言った。
「さて、それじゃあ締めにいきましょうか」
「やっぱり、行くのか? 迷惑になるんじゃあ・・・」
「駄目よ。これやんなきゃ終わりじゃないわ。それにあたし、迷惑だなんて言われてないもん」
「まあ、それはそうだけど」
「でしょ?」
何かを含む、小悪魔めいた笑顔。黒い双眸が、生き生きとした光を放つ。ああ、こいつは受験なんてものにやられるほどやわじゃないな、と実感させられる。
「大丈夫。いっちゃんは、嫌なら嫌ってきっぱり言う人よ」
闇色の瞳が、奇妙に明るい空を反射してきらりと光った。
「やっぱり、幽霊なんていないよ。いたら大変なことになるだろう?」
「いた方が楽しいじゃない」
「そういう言い方をするってことは、夏季も信じてないってことだな」
「まあ・・・そうかもしれないわね。でもなんでよ、いっちゃん。居たって良いじゃない」
どこか矛盾したことを言いながら、壱に詰め寄る。揚げ足を取った哲也は、無言でお茶をすすっていた。その姿が板についているところが、なんだか哀しくもある。
壱は、悠然とお土産のカステーラ(大)をほおばると、夏季を見て完璧な微笑を浮かべた。どこから見ても、立派な美青年だ。
「いいかい? 死んで幽霊になるなら、今頃地球は幽霊だらけだよ。例え互いに物理的な干渉がないとしても、気分の良いものじゃないし、幽霊密度が高すぎて霊能者なんて倒れかねないね」
「でもそれは、成仏とかするし」
「千人に一人、否、一万人に一人くらいの割合で地球につなぎ止められているとしようか。今、地球上に何人の人がいて、どれだけの人がいたと思う? それにこれは、人間以外の動植物を除いてのことだね」
「う」
夏季が大袈裟に言葉に詰まってみせる。その様子を見て、哲也は相変わらずの年中行事を密かに楽しんでいた。
屋台のカステーラの一番大きい袋を手土産に壱の家に来て、幾つか怪談話をした後に、議論もどきが始まる。それは、幽霊自体についてだったり怪談のうちの一つについてだったりする。これは、哲也と夏季の二人だけで夜祭に行けるようになった頃から続く行動だった。
ちなみに、壱は一般的に哲也の友人と見られているが、哲也としては夏季の友人が自分にとっても友達になったという感覚だ。もっとも、今となっては大差ないのだが。
「あくまで主体的な考え方だな。どんなに多くいたところで、それが有り得ないとは言えないんだからな」
「あ、そうか。偉い、てっちゃん! やっぱりあたしの味方なのねっ」
「別にそういうわけじゃないって」
哲也が苦笑する。夏季は、かわいらしく頬を膨らませた。壱は、それらを見てさっきとは違った人懐っこい笑顔になる。
「テツの言う通り。反論の余地は沢山あるね。ただ僕は、見えないんだからその理屈で良いよ。幽霊密度が高いよりはね」
幽霊密度ねえ・・・。夏季は、しばらくその造語を繰り返した後、響きが気に入ったのか屈託のない笑顔を浮かべた。
「お茶、なくなっちゃったわね。淹れるわ。冷たいのと熱いの、どっちが良い?」
「熱い方が良いな」
「別に、飲めたら良い」
「誠意のない言い方ね。水道水入れて持ってくるわよ、てっちゃん」
「それは除外。白湯までがぎりぎりだな」
「はいはい」
身軽に立ち上がった夏季は、しかし台所に入って大声で叫んだ。実のところ、残され二人はその声の大きさに驚かされ、内容を理解したのは数瞬置いてからだった。
「火事、火事火事火事っ、燃えてるっっ! 電話しなきゃ、112番っ!」
「馬鹿、119だ」
言いながらも、即座に反応した壱に遅れずついて行く。そこで哲也が見たのは、堂々と存在を誇示する炎の姿だった。ステンレス製の流しから、天井まであと倍もあれば届く高さにそれがある。
「いやあ、これは・・・凄いね。映画みたいだ」
「何馬鹿いってんのよいっちゃんっ、消火器! 消化器っ!」
「生憎置いてないなあ。ここはただの民家だし」
「落ち着け、二人とも」
一人冷静だった哲也が、流しに濡れタオルを投げ込み、さらに洗面器に入れた水をかけた。あっけなく消えた炎を目にし、夏季は大きく息を吐いた。壱は、変わらずぼんやりと見ている。わかりにくいが、動転したときの壱は果てしなくテンポのずれた人となる。
幸い、古い造りの家にはこれといった被害もないようだ。調理場だけはと、壱の祖母が改装していたのが良かったらしい。
「自然発火じゃないな。大体、流しの中に燃えるものなんて置いてないだろう?」
先に騒がれ、動転する機会を失った哲也が言う。が、言った直後にそれは正しくないかもしれないことに気付いた。
「・・壱。お前、まだごみごと流しにおいてるのか?」
壱の食器もごみも、まとめて流しにおく癖を思い出したのだ。インスタントラーメンの袋となべ、牛肉が入っていたトレイと皿。そんなものを雑多において、何も入らなくなってなってようやく洗い出すのだ。それを知ったとき、哲也は呆れ、夏季がそれに大反対したのだ。
『ちょっと、何考えてるのよ! 汚いじゃないっ、虫だって沸くわよ。それに、せめてごみくらいごみ箱に捨てなさいよっ、二度手間じゃないっ。お皿だけ溜めてるとかごみ捨ててないとかならともかく、って、それも駄目だけどっ、こんなの全くばかげてるわよっ』
だが、それにしても勝手に火がつくわけがない。
「きっと」
哲也がそう言うと、不意に壱が喋った。ぼんやりとしていた眼の焦点があい、はっきりとしたものになる。
「窓ガラスがレンズになって、光の焦点になったんだよ。虫眼鏡で火を起こすのと同じ原理だね」
「・・・・・。いっちゃん、今、夜よ」
哲也と夏季が目を合わせ、溜息をつく。冗談なのか、本気なのか。指摘された壱は、笑顔で全てを誤魔化した。
後日、近所を騒がせていた放火犯は逮捕されたが、その犯行の中に壱の家は入っていなかった。
「はあぁ? 彼女の逆恨みぃ?」
「いや、元。今は付き合ってないよ」
相変わらず穏やかに、壱が言い返す。哲也は、今日は最中を食べている。いつも通りに、壱の家でのことだった。
「そう云う問題じゃないでしょ。一体どんな別れかたしたのよ」
「普通だよ」
「本当かしら」
そう云った経験のない夏季には、それ以上突っ込むことはできない。とにかく、ストーカーもどきであった事は確からしい。
いやあ、厄介な事になってるなあとは思ってたんだけどね。憎らしいくらい穏やかな壱を、夏季は無意識のうちに拳で殴っていた。哲也は、新しい最中に手を伸ばす。
「・・・・・・・痛いよ、夏季ちゃん」
「大馬鹿者っ! 下手したら新聞に載ってたのよっ!? わかってるの!? 勝手に死ぬなんて、あたしが許さないんだからねっ。いっちゃんは、あたしにいる病院で、交通事故で入院して退院間近に老衰で死ぬんだからっ。それ以外の死に方なんて認めないわよっ」
「夏季。それ無理がある」
「うるさいっ。いい? いっちゃんもてっちゃんも、あたしの大切な・・・・友達じゃなくて家族じゃなくて恋人なんて全然違くて、えっと、同士も違う、朋友、盟友、ああっ、こういう時のために言葉覚えてるんじゃないのっ! なんで出てこないのっ。・・とにかく、大切な人なんだからねっ。無断で死んだりしたら、幽霊になった後でも追い掛けていくからねっ」
「・・だから僕、幽霊いないっていったのに」
「あたしの中ではいるの」
ひとしきり言ってすっきりしたのか、ようやく最中に手を伸ばす。が、既にあらかたなくなっている事に気付き、首を傾げる。確か、店にあった一番多いものを買ってきたはずなのだが。そして、哲也の横に散らばる最中の包みを見て、硬直する。
「てっちゃん・・・?」
「何」
怒っている。自分のようにはっきりした表し方ではないが、哲也も怒っている。久々に哲也が怒っているのを見た夏季は、おとなしくする事にした。下手に手を出して、飛び火されてはたまらない。
「えーと・・テツも怒ってるの?」
「別に」
先が続かない。助けを求めるように夏季を見るが、夏季はゆっくりと首を振った。普段怒らないだけに、一旦怒ると誰にもなだめられない。壱と夏季が沈黙が続く事を覚悟し出した頃、哲也が唐突に笑い出した。呆気に取られた二人は、ただただそれを見ている。
「もっと人の言葉を信用しろって。本当に怒ってないんだから」
「でも、てっちゃん、それ・・・」
「ああ。これは暇だったから食べ過ぎたんだな。悪い、今度また買ってくる」
「いや、気にしなくて良いけど・・・」
困ったように、壱が言う。本心かどうか、とりかねているのだろう。
「だから、怒ってないって。でもまあ、俺もこの年でお前の死体を見るのはごめんだからな。出来るだけ生きてろ」
「・・・うん。ありがとう」
少しの間、沈黙が下りる。それは決して、居心地の悪いものではなかった。むしろ、その逆で。窓からは、夏特有の生ぬるい風が吹いてくる。
「嗚呼夏だ。夏なのね。――この夏はもう二度と巡ってこないのね」
「またそれか」
「だって、本当のことよ」
それぞれが、微妙に違う想いを抱きながら、黙って夏の風を受けていた。
「舌切り雀のつづらの中って、何が入ってたのかしら」
「はぁ?」
例によって壱の家での勉強中。家主が席を立ち、一人問題集に取り組んでいた夏季は、不意にそう言った。バイト帰りに立ち寄った哲也が、不信そうに夏季を見る。
読みかけの本は、小泉八雲の『怪談』だった。
「だって、大きいのと小さいの選ばせて、その上家に帰るまで開けるな、でしょ? 小さいのを選んだおじいさんは財宝を手に入れて、欲張りなおばあさんが選んだ大きいほうからはお化けが出てくる。でもそれって、家まで待てずに約束を破ったからでしょ」
善良だから小さい方を選んだっていうけど、善良でも大きいほうを選んだかもしれないじゃない。何にも考えないで。おばあさんだって、欲張りだからって大きい方を選んだとは限らない。てことは、どっちも中身は同じだったんじゃない?
完全に問題集から目を離し、夏季はそう続けた。
「じゃあ、財宝と妖怪が同じだっていうのか?」
話に興味を覚えた哲也が文庫本を閉じると、夏季は広げたままの問題集に肘を乗せて、頷いた。
外は、もう日が暮れている。今日は、哲也はバイト、夏季は体育祭の準備と、壱のところに勉強に来たのは、夕食時を過ぎてからだった。実のところ、哲也は帰りに夏季一人だと危ないからと壱に呼び出されたのだが、夏季がそのことに気づいた様子はなかった。
「そう、気にならない? それは、言い付けさえ守れば財宝になって、破るとお化けになるのよ。だからここで大切なのは、つづらの大きさなんかじゃなくて、約束ってことになるのよ」
「昔話はそういうの多いね。神様なんかも、ちゃんと決まりごとを守れば恩恵をくれるけど、破ると酷い目に遭わせるし」
「いっちゃん。いつから聞いてたの?」
「全部聞いてたよ。夏季ちゃんの声、良く通るから。ところで、休憩しよう。スイカ切ったよ」
「青ひげの花嫁だって、浦島太郎だって、約束を破ったから酷い目に遭ってるのよね。殺されるほど重い約束だったかとか、わざわざ煽るようなことを言ったとかあるけど、その意図を訊きもしないで、約束したのは自分なわけでしょ。浦島太郎がどう思ったかは知らないけど、少なくとも青ひげの花嫁は、約束破ってその上逆に殺すなんて、酷い奴なのよね」
「夏季だったら、大人しく殺されてたっていうのか?」
「まさか。絶対反撃したわよ。でもその前に、とことん話を聞いたわ。納得できない約束なんてできないもん。どうしても理由を話さなくても、真剣だったら守るって言ったかもしれない。じゃなかったら、守れない、破るかもしれないって言うわよ」
スイカの汁で汚れた手を拭きながら、夏季はきっぱりと言い切った。その口調に、向かい合った男二人は、彼女ならやるかもしれない、と半ば呆れながら思った。
納得のいかないことを受け流せない夏季は、今までに先生を始め、多くの人間に煙たがられている。
「で、何で舌切り雀のつづらからそこに行くんだ」
「ちょっとね。思っちゃったのよ、今の時期になって。こんなに必死に勉強して、本当にあたしはこれがしたいのかなって。もういい、医者になんてなりたくない、って言い出しちゃいそうで。だから自分に言い聞かせてるの。約束破ると酷いことになるわよ、って。つづら開けたらお化けが出るんだって」 一気に言って、夏季は麦茶の入ったグラスを傾けた。まるで飲み屋の一気飲みかのようで、哲也と壱が目線で苦笑する。
新学期が始まり、すぐに、最後の大行事の体育祭の準備が始まる。体育祭は、新学期が始まって三週間もしないうちにくる。その後は、細々とした遊びの予定や息抜きは入っても、このような行事はない。
追い立てられているようで、焦っているのか。
哲也は、去年の自分を思い出した。自分はいつも通りのつもりだったが、徐々に変わる周囲の空気に焦りを感じる。何もしていないことが、悪いような気にもなった。
「今日は、もうこれで終わりにしようか」
「ううん。あたし、何回も考えたもん。やっぱり、医大に行く。医者になりたい。でも、浪人して家に負担をかけるのは嫌」
「うん、頑張りたいのはわかるよ。でも、今の時期から気を張り詰めてたら、大変だよ。ちょっとくらいの無理は必要でも、無理のし過ぎはよくない」
夏季をなだめるように、しかしきっぱりと言う。
それでも幾分不満そうな夏季の頭に手を置いて、哲也は苦笑した。目線で、壱に感謝の意を伝える。去年も特に何もせず、そのままの学力でいける大学に行った哲也では、いまいち言葉に重みがない。
受験すらしていない壱だが、それも一つの選択だったことを、二人は知っている。
「ほら夏季、帰るぞ。荷物まとめろ。じゃあ、邪魔したな」
「いや、またいつでも。ああ、そうだ。夏季ちゃん、約束って誰としてたの?」
壱を上目遣いに見て、溜息をつく。無理やりにでも、二人は休養期間を作らせるようだ。
「自分との約束。一番破りやすいから、守りたいのよ。あ、体育祭、見に来てね。後輩にいっちゃん連れて行くって約束しちゃったのよ。てっちゃんも、柔道部の子達がてぐすね引いて待ってるわよ」
約束だからね。
そう言い残して、夏季は勉強道具を取りに行った。何か、「やられた」と思う二人だった。果たして夏季のつづらは、財宝になるのかお化けになるの。
「おはよう」
「・・・・おはよ」
まだ他には誰も来ていない教室で、夏季はぼうっとしたあいさつを返した。明日にでもなれば、この時間帯でも何人かは来ているだろう。受験直前ということもあって早朝に勉強をしている者がいるし、熱心な先生による補習も行われる。
だが、今日は三学期の始業日。補習はなく、休み気分を引き摺っているのか、早くに来る生徒は少ない。
夏季は、貧弱な学校の机に、伸ばした腕を置いてその上で顔を横向にしている。その顔は、机三筋分隔てた、中庭側の窓に向いていた。
「何やってるの」
夏季が見ているものが見えるように移動しても、どこまでも続くようなどんよりとした曇り空しか見えないことに頭をかしげ、弓鶴[ゆづる]は声をかけた。うぅーん、と、寝ぼけているかのような声が返る。
「空と、枯れ葉」
「はぁ?」
「あそこ。校舎の向こうの、ゴーテーの庭。一本だけ、木があるでしょ。葉っぱが落ちちゃって寒そうなやつ」
「ええ?」
あまり視力の良くない弓鶴は、一度自分の席に戻ってからメガネケースを手に、夏季の元に戻ってきた。
夏季の言う「豪邸」はちょっとした小山の上に一軒だけ立っており、校舎と同じ位の高さにあるのか、遠くではあるが、はっきりと見える。この高校では有名な一軒家だった。
「よく見えるね、あんなの。で、あれがどうしたの?」
「ん。枝が空に向かってるみたいでさ。空なんて、ただの空気の層なんだから何にもないんだけど、でもそれ目指してるみたいでさあ。行けっこないし、行っても何もないのに。って思って」
腕にほっぺたをくっつけて、どこか気の抜けたようになっている夏季は、その口調もいつものような覇気がなかった。先生が呑まれてしまうほどに勢いのある話し方の夏季に慣れている身としては、違和感をぬぐえない。
「・・・・疲れてる?」
「ちょっとねー。なんかこのごろ、焦っちゃってさ。それでも気分切り替えて学校行こうと思ったのに、こんな見事な曇天だし」
いっそ雪でも降れば気が晴れるのに。
滅多に雪が降らない地方だからこそ、そう思う。雪が降れば、あの枯葉はどうなるだろうか。
「学校、早く来すぎちゃって。ぼーっとしてたら、あの木が見えたの。こうやって見てると、『枯葉の望み』とでもつけたくなるような構図だなって思ってさ。あとあれ。O・ヘンリー」
「最後の一葉?」
「そう。あたし未だにそれ、ヒトハなのかイチヨウなのか判らないんだけど」
てっちゃんかいっちゃんに訊けば判るだろうのに、いつも忘れてるなあ。年上の友人たちのことを思い浮かべながら、やはり夏季はぼんやりしていた。
「いちようじゃないの?」
「でも、ヒトハって誰か言ってた」
葉が落ちて、まるでやせ細ったように見える枝だけの木に、枯れ葉が一枚。根性だけで残っているような気すらしてくる。まるで、儚い望みに縋るように。
見れば見るほど、額でも嵌めておいておきたいような、絵の構図に思えてくる。水彩画よりは油絵で、ごてごてと飾り付けて、尚且つ陰鬱に。
――ああ、なんだ。
「なんだ、そっか」
「何?」
唐突に呟いた夏季に、弓鶴が怪訝そうなかおを向ける。夏季は、ようやく体を起こすと、今度は頬杖をついた。
「どうして気になるのかわかった。ハマリ過ぎてたのよ、今の状況に。伸びたって届かないのに、もう枝を離れるしかないのに、ってところが」
「・・・相当、疲れてるね」
「うん。でも、自覚できたから」
自覚のあるなしは違う。自覚してしまえば、しないよりも大変な場合が多い。だが、自覚すれば正面から向かうことができる。その方が、打開策だって見える。
無自覚な据わりの悪さは、もうたくさんだ。
近くの椅子に座った弓鶴が、快復したらしい夏季を見て、小さく溜息をついた。この強さが、うらやましい。
「夏季は、ちゃんと目標あるもんね。あたしなんて、ないままなんとなくでここまで来てるもん。張り合いないよ」
「それはそれでいいじゃない。自分に見合ったところを選ぶのも手よ。限界まで挑戦してよりパワーアップ、なんて言うけど、実は限界なんて見なくて済むのが上手なやり方なのよ。勿論これは、楽なのばかり選ぶのとは違った次元でのことだけど」
調子が戻ってきたな、と、弓鶴は苦笑した。やはり夏季はこうでなければ。うらやましくは思うが、ねたましくはない。夏季にこの強さがないのは、自分が強くない以上に厭だ。勝手ではあるが。
「それが判らないから困るんだってば。逃げてるのか、ちょうどいいところにいるのか。どうやったら見分けられるの?」
「知らないわよ。自分で規準作って判断するしかないでしょ」
「あ、冷たい」
「冷たくない。物事の判断基準を人に任せるようになったら終わりよ? 自分の判断ができない人は、他人のことにまで自分の意見を押し付ける人と同じくらいみっともないわ」
「また難しい話してるの?」
「おはよー、久しぶりー」
一人二人と教室に入ってくると、続けてクラスメイトが入ってくる。まるで信号でも発しているかのように、生徒の登校が重なるのはなぜだろう。バスや電車通学の生徒だけならともかく、自転車通学の生徒もそれに連なるのが不思議だ。
「おはよう」
夏季と弓鶴は、久しぶりに会う友人たちに明るい声を返した。
窓の外には、一面の曇り空と、それに向かって伸びているかの様な木が一本。その木には一枚だけ、枯れ葉が残っている。けれどそれは、遠い。