さびれた田舎の村だった。覇気のない素朴な村の広場には、今や村中の人が押しかけていた。大人も子供も、誰もが異様に残忍な瞳を光らせている。だが、そのことに気付く者はほとんどいない。
 その例外のうちの一人が、人々が注視している、言わば主役の片割れだった。つややかな髪と瞳は、同世代の若者と比べてかなりほっそりとした体躯とあいまって、まるで都の女形のようだった。その、端正な顔が人々に向けられる。
「これですね?」
 彼の足元に転がされた、もう一人の主役を指し示す。それは、両手を後ろ手に縛られ、汚れ、くすんだ赤髪を直に地につけ、黄金色の双眸を大きく見開いていた。
 傷つけられ、熱い砂に焼かれた肌はかなりの苦痛を伴うはずだが、取り囲む人々の誰一人としてそのことを気にする者はいなかった。むしろ、細身の少年の言葉に乗じ、野次を飛ばす。
 彼は、赤毛のそれを退治するよう頼まれていた。「数年前に捕らえ、何も食べさせてもいないのに生きている」と、村長は気味悪げに言った。このあたりに役人などが来ることは滅多になく、嘆願状は簡単に無視されてしまう。だから、『誰か』を待っていた。
 どうやって生き永らえているのかは判らないが、殺せないほどに頑強というわけではない。現に、村の若者たちは幾度も暴行を加え、怪我を負わせている。ただ、止めを刺す勇気がないのだ。あるかもしれない『何か』を恐れ、手を下せずにいる。
 そこへ訪れた道士を、たとえ年少といえども彼らが見逃すはずがなかった。そして今、娯楽の少ない村人たちは、これから起こるだろうことに期待を寄せていた。その思いが、どれほど人としておぞましいかも知らずに。
 だが、それは裏切られた。
 黒髪の少年は、袂から取り出した金色の輪をくすんだ赤髪に嵌め、涼やかに人々を見た。
「これを私にくださいませんか。丁度、旅の護衛の者が欲しかったので」
「だめだ! そいつがここへ戻ってきたらどうする!」
「そうだ! この町は終りだ」
「あたしたちはあんたみたいに逃げればいいんじゃないんだよ!」
「早くそいつを殺せ!」
 延々と続くと思われたそれは、少年の凛とした声と咆哮めいた悲鳴に遮られた。少しして、誰もが凝視する中、少年が口を閉じる。と同時に、赤髪のそれがぐったりと身を横たえた。人々が視線を交錯させ、騒ぎ出す一歩手前で少年が総白髪の老人に声をかけた。
「あの輪を嵌めていれば、僕には逆らえません。獣は痛みに敏感ですからね。この村を襲うことはないと、僕が保証します」
 人々は、少年に威厳を感じた。誰一人として、その言に逆らえる者はいない。せいぜい十六、七の少年道士に、畏敬の念を抱く。
「是非、我が家においでください」
 村長が「化物」を連れて行くことを認めたばかりか、そんな言葉をもらしたのは、それへの本能的な絶対敬服のためだった。

「お前、何故あんなところにいたんだ」
  [レイ] は、闇に囲まれた森の中で、さほど関心がなさそうに尋ねた。
 尋ねられた方は、慌てて口の中のものを飲み込み、一瞬、何かを思い出すかのように目を伏せたが、すぐに少年の闇色の瞳を見た。その様子には、出会ったばかりの戻を警戒するような素振りはなかった。
 あの後二人は、遠慮なくもてなしを受けたものの、食事と少女の身支度を終えると、すぐに村を出た。だから今、村を見下ろす位置にあるこの森にいるのだ。焚火の周りにのみ光の存在するこの場所に。
「おっちゃんたちがいなくなって・・・だから、一人になっちゃったから、村に行ったんだ。でも、閉じ込められた。誰も、話もしてくれなかった。おっちゃんたちとは、全然違った」
「おっちゃん?」
「えっと・・・山賊、してた。みんな、いい人だよ。楽しかった。でも、きっと・・・もう会えない」
 少年は息を吐き、汚れが落ちて鮮やかになった火色の髪を見た。その頭には、まだ金輪が嵌められている。
「おい、お前。生きていたいならもう人のいるところに出てくるな。この山の奥ででも人目につかないようにして暮らせ」
 この時代、人々には恐れの対象が山ほどあった。何もかもを孕む夜が、闇が恐ろしい。獰猛な獣が恐ろしい。ろくに太刀打ちできない病気、災害が恐ろしい・・・・。妖人も、そんな恐怖のうちの一つだ。
 妖人とは、 [あやかし] と人間との血をひく人物をさす。彼らは、大抵が鮮やかな色彩の髪や瞳と常人よりも優れたちからを持つ。中には、妖をも凌駕する能力を持つ者もおり、各所で対妖のたのみとされ、また、人に近い分だけ、それらよりも疎み、忌まれる。その為、横暴を振るう者も現れ、「人間」と「妖人」との溝は埋め切れないのが現状だ。
「どうして?」
 よく磨かれた金貨のような――稀にある「人間」の金色の瞳とは比べ物にならないくらいに鮮やかな  瞳が、なんの躊躇いもなく真っ直ぐに少年レイに向けられる。
「ねえ、どうして?」
「人のいるところにいれば、この先も昨日のようなことが繰り返される。だから、人前に出ないほうが幸せだ」
 自分が信じてはいないことを、戻は口にした。それは、彼であれば絶対に選ばない選択肢。だが。何年もの間村人たちの仕打ちに甘んじていた者が、自分と同じ [みち] を選び、生きていけるとも思えなかった。ところが。
「いやだ」
 それは、瞳の光と同じ真っ直ぐな声。
「独りでいるのは嫌だ。おっちゃんたちがいてくれたから、ムカシには戻れないよ。それに」
 僅かに強張り、大人びていたかおが、何の打算もない無邪気なものに戻る。
「あたしをゴエイにしたいって言ったよ?」
「・・・・・・・は?」
「言ったよ。だから、どこかに出かけるんだと思ってた。違うの?」
 不思議そうに覗き込む少女・・・女の子に、戻は呆気にとられた。確かにあのとき、彼はこの子――そのときは、男だと思っていたのだが――を助けた。金輪を嵌めるときに声をかけ、呪文に合わせて苦しむという猿芝居をさせたのだ。それは、彼の気まぐれによるものだった。あまりに他人 [ヒト] に押し付けようとする村人の言う通りにするのが癪だったというためでもある。ただ、それだけだった。
 はじめから、彼女を伴って旅をするつもりなどなかった。持っている能力も使わない妖人は、人の目を集めるだけのお荷物でしかない。戻は、そう思っていた。
 だが、気が変わった。
 放っておけば「嘘をついちゃ駄目なんだよ」とでも言い出しそうな彼女に、気を削がれたのかもしれない。
「お前、名は?」
[クウ] だよ」
「空。俺は戻だ。瞬戻。姓が瞬、名が戻」
「シュンレイ・・・・レイ?」
「明日にはここを出る。ついて来れないようなら、置いて行くぞ」
「うん!」
「早く寝ろ」
 空の弾むような笑顔が、見なくても判った。戻は、術のために消えることのない炎を背に、目を瞑った。

 翌朝、手早く朝食を済ませると、すぐに歩き始めた。道すがら、何年もしゃべっていない反動なのか、空はひたすら話し続けていた。戻の荷物を細い肩に担ぎながらも、疲れている様子はない。
 そんな調子で半日近く歩き、森の中に入っていった。そこに朽ち果てた小屋を見つけ、空が駆けて行く。どうやらここが住家だったらしいと察し、戻も歩みを止める。だが、小屋に入ろうとはしなかった。
 他人の過去まで背負うつもりは、無い。
 例え、小屋の中がどんなに荒れていたとしても、逆に、変わらないように見えたとしても、それは彼女クウの問題でしかない。知ったかぶりをして口を挟み、相手も自分も傷付けるなど、馬鹿げている。
 しばらくして空が小屋から出て来ると、そこに戻の姿は無かった。荷物は全て自分が持っているのだから、一人で行ったはずはないとは、考え付かない。ただ、不安で。恐くて。
「レイ? レイっ、どこ・・・」
「呼んだか」
 小屋の近くの木陰から、戻が姿を現した。無愛想に、素っ気無い台詞を口にする。だが、空にはそれで十分だった。誰かが自分の声に返事を返してくれる。それだけで。
 あの村で過ごした数年は、自覚の無いままに、確実に跡を残していた。
「どこに行ってたの? ・・・置いてかれたかと、思った」
「慌てるな。とりあえず置いていくつもりは無い。それよりも、空、お前今元気か?」
「え? う、うん」
 きょとんとしたかおで見返す空に、戻はついて来るように言った。
「多分、見ておいた方が良いものだ」 
 それだけ言って踵を返す戻を、慌てて追う。木の無い、人が四・五人はくつろげる場所に出て、ようやく戻は立ち止まった。そこには、大きな獣の骨が散乱していた。
 空は、それに見覚えがあった。はっきりとではない。だが確実に、自分はこれを知っている。
「これ・・・?」
「ああ。これが、お前が今まで何も与えられずに生きてこられた理由だ」
 戻は、そこで言葉を切った。無表情ながらも、少しばかり迷っているようでもあった。じっと、空がその瞳を見つめる。
「・・・名は忘れたが、飲み食いがなくても生かせる術がある。誰にでも、呪文を唱えなくてもできるから、正確には術ではないのかも知れないがな。ただ、術をかける相手を強くおもい、その身に付けていた物を持って何かに自分を食わせれば良い」
 必要なのは、相手の身に付けていた物以外には、意思の強さと術者本人のみ。生きながら食われることに耐え、対象をおもいつづける強さ。並大抵のことではない。そして、あまりに凄絶だ。それ故、禁じる必要も無い「術」。
「有効期間は、一年。恐らく、一年ごとに行っていたんだろう。こいつらが自ら進んで、な」
 この術を強いることはできない。考えてみれば、当然のことだ。激しい苦痛の中でそれ以外のことを考えるなど、強要されたからといってできるものではない。
 空は、散らばった骨を凝視した。様々な種族が混ざっている。近くには、すっかり色褪せた自分の服の切れ端があった。昔、この森の動物と遊んでいて破られたものだった。
「どうして・・・? だって、あたしなんにもしてないのに。みんなの事だって、考えてなんて・・・・」
「それだけ、ここの奴等にとってお前が大切だったという事だろう」
 それだけ言って、戻はその場を離れた。
 空は、ここに残るかもしれない。膝を抱え、歩き出せないままに。または、残った動物立ちと過ごすために。そうなれば、戻は今まで通りに一人で旅を続ける。むしろ、双方にとってもその方が良いのかもしれない。  
 ひとをあまり近付けないのは、戻の弱さであり、防衛手段でもあった。
「全く、とんでもない奴だな」
 自分が度し難い事を知っている。それでも、変えるつもりは無かった。気まぐれに助けた少女に、少なからず執着している事までは意外だったが。
 今は、待つしかできない。

「戻、おなかすいたよ。御飯にしようよ」
 夕暮れになって戻ってきた空は、軽く目を瞑っていた戻を揺さ振った。戻が、不機嫌そうに目を開く。
「遅い。昼飯もまだなんだぞ」
「食べてれば良かったのに」
「食料は全部お前が持っていっただろう」
「あ。ほんとだ」
 空腹を感じるということは、骨を埋めて来たのだろう。埋葬してしまえば、術は解ける。だが、二人ともそのことは口にしなかった。
「ねえ、早く食べようよ」
「・・・うるさい」
 群青色の夏空の下で、荷を広げる二人。その向こうでは、動物達の哀しげな鳴き声が聞こえる。

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「ちょっとなによっ、なんでこんなに馬鹿強いのよっ!」
「煩い」
 凍てた炎の瞳が、一人高みの見物を決め込んでいる戻を睨んだ。それに気付いているはずだが、彼の態度に変化は無い。その事が、余計に彼女の怒りを煽る。
 それは、一瞬だった。
 視線を逸らした彼女の足を、遠慮の無い蹴りが掬う。息を呑むほどに綺麗な金の髪が、大きく広がる。無様に転んだ彼女の腕を、子供の手が捩じ上げる。彼女の完璧とも言える肢体は、今や力任せに押さえつけられ、自由を禁じられていた。
 その原因たる少女・空は、彼女を押さえつけたまま、小さく呟いた。
「つまんないの」
 その言葉に、逆上した。自分の命が、この小さな少女に握られているということさえ、忘れる。
「冗談じゃないわよ! つまらないならとっとと何処か行きなさいよ! 人をなんだと思ってるのよっ」
「そんなこと言われても。そっちから仕掛けて来たんだよ? それに、よそ見されたら、誰だって勝てるよ」
 嫌味や自慢ではなく、当然のように言われ、唖然とする。妖である自分よりも、野生に近い。まるで、野の獣そのものだ。今は見えない、妖と人との血が流れている証の瞳と髪を思い出す。
「大体、人じゃないだろう。空、もう良い。放してやれ」
「うん。立てる?」
 少女が体重を感じさせずに背から飛び退き、無邪気に顔を覗き込む。そして、呆気にとられている彼女の前で、その身体が傾いた。

 空が村で大人しくつながれていた理由を、深く考えてはいなかった。そもそも戻は、空が戦闘において役立つとは思っていなかったのだ。ここまで行動を共にした間に頑丈さや力があることは判っていたが、否、だからこそ、「人」を傷つけることはできないと、村で捕らえられていたときも抵抗する気がなかったのだと見なしていた。
 だが、実際は違った。襲って来た妖相手に、嬉々として戦っていたのだから。
「ねえ、この子どうしたの。さっきまであんなに元気だったじゃない」
「まだいたのか」
「何よそれ。誰がこの子をここに運んだと思って」
「空」
 意味のつながらない台詞に、思わず秀麗な顔を見返す。戻は、意識を失ったままの空から視線を転じ、繰り返した。
「空だ。名があるんだから、それで呼んでやれ」
「・・・・わかったわよ。それで、・・空、はどうなったの。何が起きたの」
 緩やかに波打つ金の髪と、凍った蒼の瞳。美麗な容貌と均整のとれた身体は、誰もの視線を集めるだろうと予想される。ただ、正体を知ってなお言い寄ってくる者が、果たして幾人いるのか。時には、人をも喰っているのだから。 
「ねえ、どうなったのよ。この子・・・空は、死ぬの?]
 打算よりも先に、感情がはたらいている。打ちのめされ、力の差を見せつけられたにも拘らず、何故か恨む気持ちは全くなかった。突然のことに、気持ちがついていっていないのかも知れない。
 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、戻が無表情な瞳を向ける。全てを見透かすような瞳だ、と思った。決まりが悪く、つい目を逸らす。
「この辺に唐草 [カラクサ] は生えているか」  
「何よそれ」
「丈の低い、根が赤色の植物だ。岩場によく生えている」
「ああ、あの白い花が咲くやつ?」
「それだ。取ってこい」
「はあ? あんた何様のつもりよ」
 更に言おうとする彼女を、戻が冷えた瞳で睨んだ。その横では、空が荒く息を吐いている。最初はただ気を失っただけだったのが、熱を持ち、徐々にひどくなっている。
「空の熱を下げるために要るんだ。早く取ってこい」
「・・・わかったわよ」
 威厳とでも言うべき迫力に押され、金の髪をなびかせながら駆けて行く。まだ名前も知らない少年が何をしようとしているのか、見当もつかない。何故、空がああなったのかも。それらを知ったのは、彼女が唐草を持って戻った後のことだった。
 赤い根の草を礼も言わずに受け取った戻は、それを噛み砕き、直に空に飲ませた。何度かそれを繰り返すと、徐々に空の容態が落ち着いていく。青く澄んでいた空が濃紺色に染まるころには、ただ寝ているだけに落ち着いていた。
 成り行き上、戻と一緒に焚き火を囲むことになった彼女は、ぼんやりと炎を見つめながら今日のあわただしい出来事を反芻していた。誰かとあれだけ話したのも久しぶりだし、こんな風に温かい夜を迎えるのも久しぶりだった。
『唐草は月割草の毒消しになる。月割草の花粉を乾燥させたものは神経に作用し、五感のすべてを鈍くする働きがあり、少々の使用では問題ないが、幾度も使うと後になってその反作用が来る。空の症状がそれだ』 
 戻にしつこく問い質し、得た断片をまとめるとこうなる。そのほかのことは解らなかったが、『誰が』空にその花粉を飲ませていたかは見当がついた。その目的も。
「だから人間って嫌いよ」
「同感だな」
「あんたも人間でしょ」
「だから言うんだ」
 何気なく言う戻に、そんな答えが返ってくるとは思っていなかったので、驚かされた。そして、次に聞こえた台詞に一番驚いたのも、彼女だった。
「あたしも、一緒に行っても良い?」
「好きにしろ」
 無意識のうちに零れ落ちた言葉を、戻ははじめから知っているかのようだった。慌てて取り消そうとするよりも先に、闇色の瞳がこちらを見ていることに気付いてしまい、更に慌てる。
「べ、別に、どうでもいいのよ、ただ、」
「名は?」
「え・・・・・? あたし・・・?」
「他に誰かいるのか」
 名前。
 呼ばれなくなって久しい。もともとは仲間と暮らしていたような気がするのだが、いつの間にか独りになっていた。忘れているのだ。何故こうもあっさりと忘れたのか、考えることもなかった。生きる為に必要がないからだ。自分の名前など、とっくの昔に忘れている。
 否。
 必要がないと思いながら、捨てられずにいた。
「幸よ。似合わない名前だけどね」
 熟睡する空と乾いた空気の横で、戻は短く呟いた。「そうか」と。ただ、それだけ。
 炎が、相変わらず小さな空間を照らしている。たった三人の、全く違う旅行者たちを。

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 犬猫が辺りを呑気に走り回っている。質の良い服に身を包んだ人々の表情が明るい。帝都ほどではないにしても、賑やかな町だ。そんな中を、炎色の頭がせわしなく動いていた。
 彼女がこんなに大人数を見るのは初めてかもしれない。一緒に暮らしていた山賊たちも大所帯ではあったが、それでもせいぜい一村程度だった。増して、今日は祭日だ。掃き捨てたくなる程の人が集まっている。
「これは、厄介なときに来たな」
「え? どうして? みんな、オマツリだって言ってるよ。オマツリって、楽しいんでしょ? みんなで騒いで、お菓子食べたりお酒飲んだりするって言ってたよ」
「ちょっと待ちなさいよ! あたしは荷物もってるんだからっ」
 立っているだけでも人目をひく三人が一箇所に集まった上に騒いでいれば、嫌でも人目を集める。ようやくそのことに気付いた戻が、舌打ちをして「人間の一般常識」の欠如している二人の連れを一睨みした。
「どうでもいいからとっとと歩け。俺は見世物になるのは御免だ」
「じゃあ荷物持ってよ。そしたら大人しくしてあげるから」
「じゃんけんに負けた奴が持つ、と決めたはずだが」
「だってこんなの初めてなのよ。手加減くらいしなさいよっ・・・って、聞いてるのっ?」
 真っ先に反応するはずの空が無言なのを訝しく思い、いるべき場所に目をやると、そこにはどこかから迷い込んだ小猿がいるだけだった。一瞬、空がそれに化けたかという馬鹿げたことを考えたが、そんな穏やかなものではなかった。
「そんなの知らないよ、そっちがぶつかってきたんじゃないか」
「なんだと!」
 威勢の良い声とドスのきいた声の方を見るまでもなく、ご丁寧にも事情説明を買って出た者がいた。下心とも言えない目論見を抱いて、安っぽい尊大さを撒き散らしながら。
「あちらは、あなたのお連れさんですよねぇ。人にぶつかっておきながら謝りもしないなんて、躾がなってないんじゃないですか?」
「あーあ、天を怒らしちまって。ほっとくと、大怪我をするぜ」
 近頃見なくなったような脅しに、戻は酷薄な笑みを浮かべた。幸は幸で、うんざりとした様子を隠そうともしない。
 だらしなく服を着崩した男たちは、思わしくない二人のすぐに上辺の仮面を脱ぎ捨てた。人の少なくなった通りを振り返り、天という男に叫ぶ。天は、緑の髪をした巨体の妖人だった。 
「おい天、やっちまえ。よく見とけよ。次はお前の番だからな」
「ねえちゃんは、こっちに来な。悪いようにはしねえよ」
 男が、下品な笑みを浮かべた。が。
「あんたたち、ばっかじゃない?」
 男たちの笑いが止んだ。人によれば、それだけで身動きが取れなくなるような凶悪なかおを向けても、幸は平然としている。
「あんな奴に空が負けるわけがないじゃない。知らないって、滑稽よね」
「なに・・・」
 いきり立った男たちは、ありきたりの台詞を最後まで言うこともなく、地に沈んだ。どうやったのかはわからないが、少し離れたところに立っている戻が、何かしたらしい。彼は、相変わらず悠然と立っている。
「あれくらい、あたしでも大丈夫だったのに」
「知るか。鬱陶しい戯言は聞き飽きた」
 幸は、無言で肩をすくめた。さっきの素早い攻撃に、もしかしたらあたしより強いのかもしれない、との念を抱く。その間に、空の方も決着がついていた。

「凄かったなあ、あのボウズたち」
「でも、赤い髪の奴は妖人だろ。だったら・・・」
「バカか。相手もだぞ」
「それもそうか。強いな、あいつ」
 書生風の若い二人組の男が、そんなことを話しながら歩いている。緑頭の天を筆頭に手に余る者達だっただけに、噂が広まるのも早かった。そして、そのほとんどが好意的なものだ。
 祭りの半ば開放的な空気のせいもあるが、元来大きな町というものは様様なものを受け入れる性質がある。妖人さえも、ここでは「居る」ことを許される。居心地がいいかどうかは別だが、場所によっては存在する事さえ認められないこともある。
 そんな町の中で、「危害を加える妖人」をのした三人組は、一応の居場所を得たことになる。
「で、連れていった奴は何者なんだ?」
 身なりの良い若者が恐れ気もなくあの三人組に近付いたときには、陰で成り行きを見ていた人々が、思わず息を呑んだ。緑髪の男のように、投げ飛ばされると思ったのだ。そうなれば、常人が、増してあんな痩せた色男が、生きている保証はない。だが、そうはならなかった。その顔を見て、幾人かが納得したような、感心したような声をも漏らした。
「やけに親しげに話していたな。知り合いなのかな?」
 突然話に割り込まれ、二人はぎょっとした。見れば、東方の商人が好む服を着た、三十くらいの男が立っている。その陽にやけた褐色の肌と飄々とした雰囲気から、二人は男を話好きな商人と判断し、安堵の息を吐いた。
「なんだ、驚かすなよ。軍の奴かと思ったじゃないか」
「悪ぃ悪ぃ。しっかし、なんだってこの町の奴らは、こんなにびくついてるんだ?」
 町中が浮かれているようでいて、その裏では何かに怯えている。そのことに、男は気付いているのだ。男の明るい茶の髪が、風に掻きまわされた。
 髪の短い男が、周りに目を配りながら言う。
「ここに来る途中に見なかったか? 今、ここら辺を国軍の奴等がうろついてるんだよ。何の説明もなしに、な。気にするなって言う方が無理ってもんだ」
「なに考えてんだか、俺らにゃさっぱりだ」
「ふうん。ひょっとして、王族の誰かがお忍びで来てるのかもな。で、そのままとんずらしたとか。あの三人組の金髪の女なんて、どうだ?」
「まさか。言っちゃなんだが、気品なんてなかったぜ。金持ちの妾がいいとこだ」
 そんなことを言う長い髪の男に一瞬だけ酷薄な視線が投げかけられたが、それは、気付かれることなく軽薄な笑みに打ち消された。
「話を戻すけど、あの三人を連れて行った男は何者なんだ? この辺りの奴か?」
「ああ、あいつか。あんた、この町初めてだろ」
「まあ、そうかな」
「だろうな。ここらじゃ有名だぜ。妖人の当主って言やな」 

「悪いな、 [カイ] 。こんなものまで連れて来て」
「構いませんよ。賑やかになりましたし」
「騒々しいの間違いだろう」
 あっさりと言い放った戻の横では、長い黒髪を束ねた青年が曖昧な笑顔で座っている。空と幸に、その言葉が聞こえなかったのは幸いだった。
 そんなことを言われているとは知らない二人は、部屋の中を物珍しげに見て回っていた。大きな商家である戒の屋敷には、今までに二人が見たことがないものが山程あるのだ。この部屋にあるものだけでも、見ていて飽きない。不意に、青い指輪の前で、二人は揃って首を傾げた。
「その指輪が気に入りましたか?」
 優しく問われ、二人が振り向く。二人とも、何かを思い出すような表情をしている。
「違うの。あたし、この指輪に見覚えがあるのよ。でも、どこで見たのか思い出せなくて・・・」
「あたしも。おっちゃんたちのとこは違うし。どこで見たんだろう」
「何処にでもあるものなのか?」
「さあ・・・。あれは、父の指輪です。母は、貰っただけですから」
 戒の父は、妖だった。高い知能と優れた変身能力を持っていたらしく、ほとんど人間と見分けがつかなかった。人の中での生活を好み、主に詐欺をして生活していたらしいのだが、それは、戒の母・ [レイ] と出会ってから一変する。
  [メイ] 家の入り婿となった彼は、舅・姑に認めさせるためにも、熱心に働いた。麗が戒を身ごもった頃には、店も大きくなり、麗の両親も彼を認めつつあった。
 そんな矢先に、一人の道士が店を訪れ、食べ物を乞うた。若い夫婦は、快くその道士に食事を与えた。そして道士はその礼に、彼の本性を暴き、「退治」してしまったのだ。
 麗は、ショックを受けながらも、一人の子供を産んだ。その子供の瞳は赤かった。麗の両親は執拗に戒を排除しようとしたが、彼は生き残り、たった一人の孫だったために、店を継いだ。
 戒にとって、味方は母しかいなかった。その母も今はおらず、祖父母は残った。だが、今は母以外の味方もいる。それが、戒を支えていた。
「そうか」
 幸のときと同じ応え。
 それに対して、戒はにこりと微笑んだ。聞いた事に詫びるような相手であれば、こんな話はしない。目を背けて欲しいわけではないのだから。
「食事にしましょうか。そうそう、会って欲しい人がいるんですよ」
 言いながら、三人を案内する。優しさと素っ気無さの対極ながらともに美形の二人と、直接的な美人の幸、少年のような空も含め、見栄えの良い四人を見た使用人達が、うっとりと溜息をつき、あるいは小声で歓声をあげる。慣れている戻や戒、幸は気にも止めないが、こんな反応は初めての空が不思議そうに彼女達を見ると、更に歓声が高まった。
 驚き、思わず身を引くと、丁度部屋から出てきた人にぶつかった。相手が、短く悲鳴をあげる。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
 慌てて、手をとって起き上がらせる。相手は、質の良い服を着た、十代後半くらいの少女だった。肩までの髪は、瞳と同じ亜麻色をしている。
「ありがとう、大丈夫よ。あなた、兄様のお客様?」
「え? えーと・・・・戻がそうなら、多分、そうだと思う」
「だったらこっちの部屋よ。みんなとはぐれたんでしょ?」
 気付けば、他の三人がいない。後ろにいたため、気付かれずに置いて行かれたらしい。部屋に行くと、丁度戒が空を探しに行くところだった。
「兄様、お客様をお連れしました」
「気付かずにいてすみません、空ちゃん」
「違うよ。あたしが遅れたんだから、だから、あたしこそごめん」
「無事だったんだから、どうでも良いじゃない」
「それでは、失礼します」
[リン] 、有難う御座います」
 その声に、鈴の優しげな顔にふわりとした笑みが浮かんだ。だが、そのまま何も言わずに、一礼して去って行く。
「お兄ちゃん?」
「え? ああ、鈴がそう言ってましたね。そうですよ。もっとも、正確には従妹なんですけどね」
 後半は、僅かに意外そうな表情をした戻に向けられたものだった。彼らの付き合いは、それなりに長い。
「それで、会わせたい奴というのは?」
「そろそろ来ると思いますよ。――ほら」
 大きな足音とともに、無愛想な少年が入ってくる。彼は、自分とほぼ同齢の戻を、紫の瞳で睨んだ。戻は静かに見返しただけだたが、それだけで十分に「睨み合い」の構図が出来上っている。
 似た者同士の二人を見て、戒が小さく笑った。それは、二人が全く同じタイミングで戒を睨みつける様を見て、おさまるどころか益々ひどくなってしまっている。 
「失礼しました。会って欲しかったのは、この人です。琉陸 [リュウリク] といいます。陸君、こちらが瞬戻さんです」
 戒は、まだ笑いの跡を残したままそう言うと、今度は真面目に二人を見た。すっかりかやの外に置かれた幸が、不満そうに、出されたお菓子をもてあそんでいる。
「なんで俺がこんな奴につきあわなきゃならねーんだ。世話になった礼は言うけど、こんなののお守は真っ平   何すんだよっ」  
 気付けば、空が陸の藍色の髪を引っ張っている。そして、睨む陸をものともせずに、もう一度引っ張る。
「痛ェだろうがっ!」
「ねえ、これって本物?」
「ああ? そうだよ、それが珍しいかよ」
 明らかに怒りをたぎらせている陸の目の前で、空は臆面もなく肯く。彼女は、自分が地雷を踏んだことに気付いていなかった。
 怒りに我を忘れた陸には、空の赤い髪も黄金の瞳も、見えていなかった。その色が示す意味にも気付かずに、加減のない蹴りを浴びせる。
 反射的に後ろに飛び退いた空は、自分のいた場所を薙いだ足を見て、慌てた。何故怒ったのかがよく解らず、懸命に考える。そして出た答えは。
「髪を引っ張って、ごめんっ。キレイな色だと思ったんだよ!」
「何が綺麗だ! これのせいでどれだけ蔑まれたか。気味悪がられたか! でたらめ言ってんじゃねえ!」
「違うよ、本当にキレイだよ」
 繰り出す拳の全てをぎりぎりで、しかし確実に避けながらも、空には何故陸がそんなことを言うのかが解らなかった。夜空のような髪は、キレイなのに。自分の髪が嫌いなわけではないが、羨ましくすらあるのに。
 気付けば、見世物として衆人に曝されていた陸に向けられる視線は、物珍しさか嘲りかがほとんどだった。藍も紫も、疎ましさの象徴にしかならない。
「なんで怒ってるんだよ。言ってくれなきゃわかんないよ」 
「うるせえ!」
「だから、言ってくれなきゃわかんないってば! 謝りようがないよ」
 どちらかがばてるまで続くかと思われた喧嘩は、意外な終幕を迎えることとなった。それは、まだ二人とも息も切らせていないときだった。戻が、変わらない冷静な目を向ける。
「空、理由を教えてやろうか。そいつの頭は鬘だから、引っ張られて怒ったんだ」       
「カツラ?」
「人工の髪の毛のことですよ」
「ええっ! それ、本物じゃないの?」
 戻と戒が茶々を入れ、空が生真面目にショックを受けるに至って、陸はがっくりと肩を落とした。もう、何に対して怒っていたのかも判らない。

    
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 その夜、寝静まった屋敷の中で、戻は庭に面した廊下に座り込んでいた。冷えるが、誰も通らないから邪魔にはならないだろう。
 晴れ渡った空には月はなく、濃い闇の中には虫の声が響いている。こうも暗くては、今日、空と陸が踏み荒らした庭の様子さえ判らない。そんな暗闇を、危なげなく歩いて来る者がいた。
 虫の声が、止む。
「今晩は。月見ですか?」
「何処に月が出ている。酔狂なことを言うな」
「貴方にそんなことを言われるとは思いませんでした。見えないものを見るのは、戻さんの十八番でしょう」
 にっこりと微笑んだ顔が見えるわけでもないのだが、半ば無意識に戒の顔から目を逸らした。
「何故あいつを俺に会わせたたんだ」
「言ったはずですよ。いくら貴方でも、一人で行くのは危険だから、と」
「違うな」
 憮然と言い捨てる戻に、戒は笑みを浮かべた。どこか、悪戯をする少年を思わせる。
「どうしてですか?」
「そんな心配をする奴が、あんな厄介な奴を寄越すものか。どうせ、拾ったものの、扱いにでも困ったんだろう」
「酷い言い様ですね」
「気にするな」
「そうもいきませんよ。これから、しばらくは一緒に行動するんですから。僕も、陸君も」
 思わず、見えもしない顔をまじまじと見てしまう。戒には、この店がある。ここにようやく、自分の居場所を造ったのではないか。
「・・・まだ、あの夢を見てるのか」
 溜息をつく。昔に言った約束を、戒はまだ覚えている。大抵は年月とともに失われるような、他愛もない約束を。
「勿論。空をどうしようかと思っていたんですけどね。考える必要はありませんでしたね」
「ただの偶然だ」
「かもしれませんね。それでも構いませんよ。偶然と必然の違いなんて、些細なものですから」 
 何年か前、まだ二人が十分に子供だった頃、戻は度々、養父である道士の瞬采 [シュンサイ] について、この店を訪れていた。采は、戒の祖父母には邪険にされ、母には目を背けられ、戒には憎まれていた。自身は、己の責に苛まれ、妖は全て「退治」するべきだと思っていた過去を悔やみながら。
 本当は、戻を連れて行く気などなかっただろう。戻が采から離れることを激しく拒まなければ、彼が己の罪の場所へ、大切にしていた戻を連れて行くはずはなかった。だが、そうなっていれば、戻と戒が深く関わることもなかっただろう。約束を交わすことも。
 出会った二人は、当初は酷く反発し、やがて、互いを認めた。特に戒が大きく変わり、戻に対して、到底年下相手とは思えないような扱いをするようになっていた。
 ある時二人は、「国を作る」という話をしていた。今の国が自分たちには住みにくい所だと、気付いていたのだ。傍から見ればただの子供の空想だが、多くの子供がそうであるように、二人は真剣だった。
「折角皇奏国 [コウソウコク] に行くんですから、それくらいやってみても良いでしょう?」
「目的が違うだろう。俺は、保身の為に行くんだからな」 
「余計な目的が幾つかあっても良いじゃないですか。大差はありませんよ」
 皇奏国。
 それは、太古の、伝説となっている国の名前だ。『璃桃書 [リトウショ] 』に拠れば、緑の溢れる、平和な国だったと言う。
 この国の太祖は、飛衝 [ヒショウ] という名の青年だという。彼は「陸・海・空」の全てを掌握し、それらの名の部下が、いつも側にいた。
 伝説と化した彼らを真似ようとした国は多い。例えば、瀬閾国 [セイキコク] 瓜閻国 [カエンコク] 笙嵐国 [ショウランコク] 。有名なのはこの三国だが、それだけではない。大抵の国が、大枠としては模倣しているとも言える。この漢稀国 [カラキコク] も例外ではない。
 戒は、それを行えと言っているのだ。一国の皇弟を目の前にして。媚びるでもなく、昔のままに。国取りを唆しているようにもとれる。
「余裕があればな」
「無ければつくればいいじゃないですか」
「それもあり、か・・・・」  
 ぼんやりと見上げる瞳には、暗い夜空の代わりに、昔の、自分が何に属するのかも知らなかった頃を映しているのかもしれない。
 それを知ったのは、今から約二年前、戻が十五の時だった。有希 [ユウキ] 十三年、棺桶に足を突っ込みかけていた漢稀の皇帝は、突如として子供探しを始めた。商人の娘との間にできたという子を探し、国中を兵士が駈け回った。
 そのかいあって、戻が発見され、同時に己の出自を知ったのは、捜索開始から二年後、有希十五年の事だった。早い話が、養父と貧しいながらも長閑に暮らしていたところに、土足で踏み込んで来たのだ。
 数日後、養父は殺された。
 理由は未だ明らかにされていない。采が、非の打ち所のない反論でも言ったのかもしれない。ただ、どんな理由であろうと、戻が許せるはずがないことだけは確かだ。 
 そもそも、皇帝には戻よりも年長の息子がおり、自身の兄弟も多いのだから、わざわざ戻を探す必要はなかったのだ。くたびれた良心故の出来事だったとしても、戻がそれに感謝をすることは無い。欲しくもない権力の渦に放り込まれたことだけで、充分以上に迷惑だ。
 前帝の喪があけるのを待って、今年、兄が王位を継いだ。戻としては、現帝の即位と同時に城を抜け出せ、寧ろ清々としていると言って良い。だが、完全に開放されたわけではない。
 まず、戻は無断で城を飛び出してきたことになっている。公にはそう公表し、内部では秘密裏の任命を受けているとされ、実際には罠の中に突き落とされたのだ。
 先帝があれだけはっきりと戻の存在を知らしめたために、現帝の弟は、確実に存在が知られてしまっている。城内で死ぬと外聞が悪く、同情は皇弟に集まる。おまけに、現帝に見切りをつけた者が、どういうかたちで戻を担ぎ出すか判らない。ただでさえ、現帝の人望は薄いのだ。
 そして、戻には養父の件がある。このまま、逃げるだけで良しとするわけにはいかなかった。だから城を抜け出す際にも、密かに幾つかの機密書類は持って出た。少しでも、この皇室の害になればいい。日々を真面目に暮らす民には悪いが、この国が滅びても構わない。それが戻の本音だった。
 どの道、対立は避けられない。避けたくはない。
 それでも筋書き通りに皇奏国に向かうのは、戻にも戒との会話が残っていたからだろうか。それに、采もよく彼の国の話をした――。
「それでは。おやすみなさい、戻さん」
「・・ああ」
 初冬の空は、深い闇色をしていた。

 遅くなった夜明けの少し前に、一行は発とうとしていた。町が動き出そうとしている時間だ。
「鈴、お店を頼みますね。わからないことがあれば、 [ハク] に聞いてください」
「ええ、わかっているわ。何度もそればかりよ、兄様。そんなに信用がないのかしら?」
「まさか。頼りにしていますよ」
 町の外れまで見送りに来てくれた鈴にしきりに言葉をかける戒の近くでは、戻が人の悪い笑みを浮かべて立っており、その後ろでは幸が興味深げに戒と鈴を見ている。少し離れたところでは、すっかりなついた空が、陸に何か話しかけている。
 なんとも、賑やかな一行だ。
「それでは、戒を借りていきます」
「はい。皆さん、無事に帰ってきてくださいね」
「大丈夫よ、強いもの。戒も強いんでしょ?」
「一応、武芸は一通りやっていますが・・・」
「そうね、兄様、強いものね」
 そう言って、鈴は少し淋しげに笑った。そして、戒や幸が言葉をかけるよりも先に、陸が怒鳴る。
「行くんだろ、早くしろよ」
「ああ、そうだな。行くか」
 戻の声に、早くも陸と幸が歩き出している。空は、何を思ったのか、鈴の所に戻ってきた。  
「ご飯、ありがとう。すっごくおいしかったよ」  
「有難う。次に来たときも、私が作るわね」
「うん!」
 本当に嬉しいらしく、今にも躍り出しそうだ。そんな様子を、幸が呆れるように見ている。彼女には、少し前まで一人きりだったのが嘘のように思えた。
「戒。先に行っているからな。行くぞ、空、幸」
「リョウカイ!」
「空、どこでそんな言葉覚えたのよ」
「瓦版屋さんが言ってた」
 相変わらず元気な空と幸とかすかに笑っている戻を見送り、ようやく戒は鈴を見た。
「いい加減な従兄ですみません。迷惑ばかりかけて」
「気にしてないわ。もう慣れたもの」
「そう言われると、返す言葉がありませんね」
「ねえ、兄様・・戒さん。絶対に帰って来てね。私、待ってるから。あなたの帰る所はここにあるのよ」 
「鈴・・・・」
「言いたかったのはそれだけ。良い? 帰って来なかったら許さないわよ」
「――はい。行って来ます」
「いってらっしゃい」
 そう離れていない一行に追いつくと、戻と幸がからかうように笑っているのが見えた。
「何か?」
「詐欺師みてー」
「聞こえてますよ、陸くん」
 小声で言ったか口に出したつもりはなかったのだろう陸が、ぎくりとして振り向く。そこには、にっこりと微笑む戒の姿があった。
「またねー」
 空が元気に叫ぶ声にかき消され、悲鳴が上がった。

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「やだっ、何なのよ、この蟻みたいな奴等っ!」
 わめく幸の指の先には、黒で統一された服を着た一団が立っていた。全員が銃や刀などの武器を持っており、一般的神経では、到底「蟻」などと言い表せる代物ではない。
「その例えは蟻に失礼ですよ」 
 そう、のんびりとたしなめる戒の近くでは、空が一生懸命にどこが蟻と似ているのかを考えている。
 だが、その緊張感のなさに呆れているのは、陸だけだった。戻は元からそんなことは気にしていないし、幸の言う「蟻軍団」は、戸惑っているか怒っているかのどちらかだった。熱い日差しの草原での出会いは、どちらにとってもあまり楽しいものではなさそうだ。 
 炎色の髪の空を筆頭に色とりどりの一行に比べ、「蟻軍団」は黒一色だった。御丁寧に、黒の帽子まで被っている。
「そ、そんなことを言っていられるのも今のうちだ。やれっ!」
「あ! わかった!」
 一団の指揮官らしい人物が後方で顔を朱に染めて叫んだのと同時に、空が声をあげた。
「真っ黒で群れてるから、『蟻軍団』なんだ。わかったよ、幸」
 嬉々として言う彼女には、現在の状況など眼中に無い。ただ素直に、疑問が解けたことを喜んでいる。その為、激怒している人物がいることにも全く気付いていなかった。
「なっ!」
「じゃあ、あれはタコ将軍だな。赤い茹で蛸だ」
「地上を闊歩するタコと人並みの大きさの蟻が相手なんて、嫌ね。同じ弱いなら、まだ人間相手の方がましだわ」
 開き直った陸の言葉を引き継ぎ、幸が嫌味たっぷりに言う。今や、五人を囲む一団は、明らかに殺気立っていた。
「いい加減にしろ! 後で後悔しても知らんからな!」
 その言葉をきっかけに、黒服の一団が五人に飛びかかる。それなりに洗練されてはいるのだが、一行の敵ではなかった。
 一人頭五人をのしながらも、会話は続く。
「ねえ、後悔って後にするから後悔なんじゃないの?」
「言われてみればそうねぇ」
「頭痛が痛い、と一緒ですね」
「魚類に人語を自在に操ることを求めても仕方ないだろう」
 戻が冷然と言い終える頃には、他称「タコ将軍」以外は地に伏していた。ようやく、形成不利になったことに気付いた彼が後ろを向くと、紫の瞳と目が合った。
「後ろにいりゃ安全だなんて、短絡なんだよ。バーカ」
 青ざめた顔を持つ巨体が、ゆっくりと傾いだ。

 ようやく見つけた洞窟をのぞき、陸は嫌そうな声を漏らした。陸が急に立ち止まった為にその背中に激突した空は、打った顔をおさえている。そこに、怪訝そうに幸が近付いてきた。
「何やってるのよ、とっとと入りなさいよ。暑いんだか・・・・・あ」
「入りたいなら行ってこいよ。俺はやめとく」
「あたしだって嫌よ。面倒じゃない」
「何が?」
「そうだ、空! あんた行きなさい! 好きでしょ、こういうの」
 そう言って、幸は陸の後ろにいた空を押し出した。
 洞窟の中では、明らかに傭兵と判る男たちが武器を手にしてこちらを睨んでいた。戦い慣れていると判る傭兵たちは、既に戦闘準備を整えている。洞窟は、思っていたよりも広いようだ。
 そこに放りこまれた空は、興味津々に軍人たちを見回すと、目のあった一人に無邪気に笑いかけた。
「おじさんたち、ここで何してるの?」
 その一言に、陸と幸を含む一同が絶句する。
「こんな子供を殺す為だけに、俺達は雇われたのか!」
「なめられたもんだな、ええ?」 
 怒気が渦巻く洞窟で、傭兵たちは怒りのままに武器空に向けた。それから行動に移るまで、ほとんど時差はなかった。
 だが、それらの銃弾、剣、棒などが空に――空達に当たることはなかった。空は、陸と幸を安全なところへ押しのけると、攻撃の全てをかわし、防ぐ。
「こう云う事なら、手加減なんて必要ないよね」
 弾むようなそれは、明るい宣戦布告だった。

 周りは、一面緑だった。明るい萌黄色、青磁色、くすんだ常葉色、海松色・・・。数え切れないほどの緑が、その覇を競い、また、引き立て合っている。
 それを、八つの瞳がみつめていた。六つまでが忌々しげに睨みつけ、残る二つが、冷たく刺すように。ただ、黄金色の瞳だけが、楽しそうにその中を行き交っていた。
「おい戻、どうやったらここから出れんだよ」
「何故俺に聞く」
「知らねェのか」
「さあな」
「・・二人とも、良く飽きないわよね。さっきから似たようなやりとりばっかり」
「同感です。よほど気が合うんでしょうね」
 幸と戒が溜息交じりに言葉を交わす間にも、陸と戻は益々険悪になっていた。しかし、さっきから何度も繰り返される光景の為、誰も止めようともしない。
「お前のせいでこんなことになってんだろ!」
「俺がやったことではない。何度もいったはずだが、覚えていないようだな」
「じゃあ、誰がやってんだよ」
「知るか」
 今にも掴みかかりそうな陸と冷ややかに見る戻の間に空が割って入ったところまで、同じだった。だが、台詞は違う。
「ねえ、お腹すいた」
 じいっと、黄金色の瞳が見上げる。それは、魔力を秘めているかのように妖しく、美しい。
「ごはんー」
 駄々をこねるような声に、二人ははっとした。こういう時、妖の性質を思い知らされる。妖の武器は、ちからだけではないのだ。
「そろそろ休みましょうか。もうすぐ日も暮れますし」
 戒の声をきっかけに、それぞれが、今や決まりきった役割を果たすべく動き出す。幸が寝る場所を作り、戻が焚き火を作り、陸と戒が料理をする。空は、料理が出来上がるまで周囲の散策に出かける。これは単にやることがないからなのだが、時々は何か食べ物を見つけて来たりもする。いつのまにか、そんな分担が出来ていた。
 気を削がれた陸は、空の赤い髪を軽くかき回すと、「お前、飯減らすぞ」と悔し紛れの一言を投げかけ、次いで、戻に視線を転じる。
「また、後で訊くからな」
「何度訊かれても、覚えのないものは答えようがない」
「それじゃねーよ。この旅のこと。あれだけのやつらが雇われてんだ、何かあるんだろ。いっつもはぐらかされてきたけど、今日こそ言ってもらうぜ」
「・・・ああ」
 素っ気無く言って、戒の集めた木切れに術で火を灯す。そして、いつもとは違って、空の後を追った。
「あいつ、何しに行ったんだ」
「得体の知れない森では、いくら空ちゃんでも危険かも知れませんから」
 悪戯をするかのように、戒が応える。陸は、一瞬表情に困った。
「ほんと、気遣ってはいるのよね。そういうのを表に出すのは苦手みたいだけど」
「昔からそういうところがありましたよ」
「でしょうね。あんなもの、一朝一夕でなるものじゃないわ。それにしてもここ、変なところね。緑はあるのに生き物は全然いないし」
「生えているものも無差別ですね。赤松、杉、桐、槐、竹・・・・」
 幸と戒の会話を聞きながら、陸はぼんやりと今の状況を考えていた。
 陸は、母に捨てられた。父のことは全く知らない。母のことにしても、空色の長い髪しか知らない。それも、陰口のようか会話を偶然耳にしただけだ。捨てらた時、陸は自分ではまともに歩けないほどに幼かった。
 あの時、母は泣いていただろうか。自分を、捨てたとき。
 その後旅団に拾われ、物心着いた時には雑用で走りまわっていた。やがて、先祖に水妖がいたのかある程度までなら水を操れることが判明してからは、見世物小屋に売られ、そこで生き延びてきた。物好きな金持ちにでも売られなかっただけ、ましと言えるかもしれない。
 いつまでも続くかに思えた生活は、戒に出会ってから一変した。きちんとした衣服、食事、人並みの扱い・・・・。あこがれることさえやめたそれを、与えてくれた。その際、色々と揉めはしたが、今思うと有り難かった。
 そして、彼らに出会う。
 変な奴らだ、と思う。どこがというわけではなくて、強いていうならば、『すべてが』。互いにそう気が合うわけでもないのに、側にいて邪魔にならない。そんな奴らの中に自分がいると思うと、妙に可笑しかった。同時に、恐くもある。この旅が始って、たった三月程だ。それなのに、ふとした瞬間に、居心地よく思っている自分に気付く。このまま、ここに居ることに慣れてしまったら。それが恐い。
 大切なものを造ってしまったら、そこから離れられなくなる。自分がそれを大切にしてもいいのか  ここにいてもいいのかと、怯えてしまう。陸にとってそれは、今よりも弱くなる事を指す。
「ちょっと、陸」
「・・・・ん?」
「鍋吹いてるわよ」
 幸の指摘に手元を見る。焦げてはいないようだから、出来上がっているのを確認して、鍋を火から下ろす。すると、タイミング良く空たちが帰ってきた。毎度の事ながら、これには感心する。
「ごはんだ!」
 小躍りせんばかりに喜ぶ空を無視して、戻は焚き火の近くに腰を下ろした。赤い炎が、秀麗な顔を照らしている。自分には無い物を沢山持っている戻を、陸は無言で見ていた。
 食事の後、戻は言った通りに説明を始めた。そのほとんどが、陸の質問に対しての返答だった。
 自分が漢稀の皇弟であること。公的、内的、実情と三重になった現状と、それでも、半ば宛てもなく皇奏国に行くのだということ。妨害は、「兄」の命によるものだろうということ。
 そのうち軍が出てくるかもな、と淡々と言い放つ。だが、采のことは口にしなかった。まだ言えない。まだ、言うことなんて出来ない。 
「何だよそれ。お前、ばかじゃねーの?」 
「そうかも知れないな」
「あれもやだこれもやだって、ガキみてー。そんなことに、俺達を巻き込むなよ」
「俺は誰にもついて来いなんて言ってない。お前が勝手についてきてるんだろう。帰りたいなら帰れば良い」
 陸は、帰るところもないのに、と言われたような気がして逆上した。それが思い込みであることをどこかで自覚しながらも、止めることは出来なかった。
「何なんだよ、お前は。必要ないなら最初から言えよ! なんでそんなに・・・っ!」
「陸君、落ち着きなさい。思いつきだけの軽率な発言では、何も得るものはありませんよ」
 戒のいつもと変わらない柔和な笑みの奥にある冷たい瞳に、寒気がした。
 ――結局、大切なのは戻なんだ。
 そんなことくらい、判っていた。判っていた。だけど。
 これ以上この場にいたくなくて踵を返した陸の服の袖が、小さく引かれた。下から、黄金の瞳がじっと見上げる。
「行っちゃ駄目だよ」
 空の台詞を待っていたかのようなタイミングで、黒っぽい布地に銀の刺繍のある軍服を着込んだ少年が現れた。服に合わせたかのように暗い、しかし澄んだ蒼の瞳が、一同を冷たく映し出す。
「お話中のところ、お邪魔します。貴方達は逃げることは出来ません。大人しく投降して下さい」
 何の感情も込められず、ただ告げられるだけの言葉。
 空の言葉とこの少年の出現に毒気を抜かれた陸は、憮然とその場に座り込んだ。それを視界の端に留めながら、幸が口を開く。
「あんた何? 突然出てきて、何言ってるのよ」
「将来有望な士官が、護衛も連れずにこんなところに来て良いのか」
 面白くもなさそうに、戻が言う。台詞を無視された幸は、戻を睨み、諦めたのか陸に倣って座り込んだ。
「貴方と違って、僕には幾らでも後方援護がいます。心配していただかなくても結構です。もう一度言いますが、貴方達に逃げ道はありません。怪我をしないうちに投降した方が身のためです。僕も、無駄な労力は使いたくありません」
「戻さん。これは漢稀の・・・・」
「ああ。閑な軍人のお出ましだ」
 戻が、口の端に冷笑を浮かべる。凍りついたかのような少年の表情が一瞬だけ揺らぎ、すぐに消えた。
「どこが逃げ道がないって? お前の味方なんか、すぐにのせるぜ」
 どの程度かは判らないものの、陸が言う。決して強がりではなかったし、陸としては少年も何もかも無視してここを立ち去りたかったのだが、今だ空に服の裾を強く握られているし、全てを捨てるには、まだ少し、未練があった。
「投降してください」
「って、無視かよ」
 少年の相手は、あくまで戻だった。
 戻は、更に機嫌を悪くした陸を視線の端に留めながら、少年を見返した。
「従う気はない。これで満足か?」
「・・・・判りました。これからも、その意志は変わりませんか」
「ああ」  
 疑問ではなく確認の台詞に、戻が苦笑をもらす。それを見た少年は、戻から顔を背け、静かに歩き出した。
「大口叩いといて、何もしないの?」
「貴方達がここを無事に出られたら、その時には容赦はしません。もう少し時間を与えます。その間に、よく考えておいてください。――無駄だとは思いますが」
 挑発する幸に目も向けずに、それだけ言って少年は立ち去った。最後の台詞だけが、わずかに感情を宿していた。後を追いかけた戒を、戻が眼で止める。
「折角時間をくれたんだ。ありがたく使わせてもらえば良い」
 戒が、目を伏せて座りなおす。
「あの人の言ったこと、本当だよ」
 不意に、誰にとも無く空が口を開いた。
「あたし達が簡単にはここから出られないように仕掛けをしてるし、もしここを出たら遠慮無く攻撃してくる。普通の人にしては、上出来の策」
「空?」
「ここは大きな檻だから。安全だけど、何も無い」
 口調は全く変わらないのに、違う。
「だから――早く別のとこに行こうよ。何にもなくてつまんないよ、ここ」
 唐突に、いつもの様子に戻った。明らかに行動と考えとが一致していて、「元気」な気を発している「いつも」に。今も、言いながら陸の服を適当に引っ張っている。
 四人ともが唖然としていることに、気付く様子もない。
「今夜くらいは我慢出来るだろう。明日の朝には出発する。今日は大人しく寝ろ」
「うん」
 ようやく発した戻の一言に、何の疑いも持たずに眠りにつく。
 顔を見合せた他の三人は、小さく息を吐いた。
「・・・僕達も、寝ますか」
「そうね・・」
「なんか疲れた、俺」
 呟き、各自適当に寝転ぶ。それを見た戻の顔に苦笑が浮かんだことを、誰一人として知るものはいなかった。

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 疲れた。
 ただ、戻と話をしただけだ。それだけなのにこんなに疲れるのは、きっと自分に負い目があるからだろうと、静は思った。  
 捕縛用に作り変えられた人工オアシス『翠』を後にして、静は仮説テントで一夜を過ごそうとしていた。兵士のものよりは幾分まし、という程度の士官用テントは、殺風景そのものだった。
「変わっていなかったな、戻は」
 苦い、自嘲じみた声が零れ落ちる。
 この年齢で軍中で出世しようとした静に、初めて出来た友人だった。互いに、良い所をみつけるよりも欠点を挙げる方が早い。それなのに、他の誰といるよりも居心地が良かった。それは、静だけの感情かもしれないのだけれど。
「累。いますか」
「はい、ここに」
 静かな声に、テントの外から元気な声が返る。外に出た静は、そこに立っている赤毛の少年に柔らかな視線を向けた。
 くせっ毛の赤毛に軽く手を乗せると、信頼のこもった緑の瞳が見上げる。せいぜい十代後半の静よりも、更に年若い少年だ。
「少し、外を散歩してきます。累は寝ていなさい」
 ついて行くと言いそうな少年に、釘をさす。何か言たげな、それでも自分の言葉に従おうとする累に言葉だけを残し、歩き去った。

 軍の野営地から少し離れたところに、浅黒く日焼けした男が立っていた。二十代後半のその男は、おもむろに自分の着ている、東方の商人が好む生地のたっぷりある服を脱ぐと、持っていた袋から今度は、体にぴったりとした、西方の商人が着ているような服を引っ張り出して着る。
 そうして一息ついたところで、近くの茂みが鳴った。それとなく警戒し、構える。出てきたのは、「散歩」に出かけた静だった。
「こんなところで何をしているのですか」
「静ちゃんか。驚かすなよ。俺、こう見えても気が小さいんだぜ」
「それは意外ですね」
「だろ?」
 冷ややかな静の言葉に動じることも無く、飄々と言葉を返す。表面はくつろいでいるのに、実際には、何が起きても対応できるように構えている。
「それで、どうしてここにいるのですか、炎王」
 辛辣に言った静の言葉に、烈が顔をしかめる。名前だけのこの位にはウンザリしている。
 先帝の弟であり、現皇帝の叔父にあたる烈は、不在と気紛れで有名だった。
「そんなつれない言い方をするなよ。俺と静ちゃんの仲だろう?」
「貴方と親しくした覚えはありません」
「また、そう言うことを言う。上官には媚びを売っとくもんだぜ」
「先のない上官に取り入ってどうするのですか」
「厳しいなあ」
 苦笑いをする。
 烈にしてみれば、表層だけのおべっかを言う者よりも、よっぽど静のような者の方が気が楽だ。その方が、信用も出来る。もっとも烈が、知られて困ることを誰かに言うことはまず無いのだが。
「話を戻します。どうして、こんなところにいるのですか。貴方は犀樋地区にいるはずでしょう」 
 東南の地域名を挙げる。そこは、安定した、今のところさしたる危険も重要性も無いところだった。
 きっと俺には、粛清の口実さえ望んでいないだろう。
 無気力に、ただ比較的少量の金を食い潰すだけの叔父よりもむしろ、弟や他の精力的な父親の兄弟に対抗意識を燃やしていることだろう。烈の兄弟は多く、彼より年少の者もいるために、現皇帝の昌と同じ年齢の兄弟もいる。
「あそこは退屈だから、蓮に任せて来た」
 気の毒な補佐官は、この頃諦めの境地に陥っている。それでも、烈の顔を見ると小言が尽きることなく溢れ出るのだった。烈はそんな蓮が、嫌いではない。ただ、苦労をかけないよう努力するほど「良い人」でもないだけで。
「わざわざ商人の振りをして、ですか」
「よく判ったな。と言いたいところだが、この格好を見りゃ分かるか」 
「町で貴方を見かけました。あの五人のことを探っていたでしょう」
「ああ。面白そうだったから」
 悪びれることなく言うと、静の肩に手を置いた。まるで親しい友人にするかのように、軽く叩く。
「もう寝る時間だ。俺なら気にするな。お前さんの邪魔はしないさ、柳静」
 立場上、呼び捨てにされても文句は言えない。不快げに眉をひそめた静を無視して、半ば強引に戻らせる。今夜は何も得られないと判断したのか、案外素直に去って行った。
「結果的に、昌の邪魔はするだろうがな」
 皇帝になったことで「琳輝鐘」となった皇帝の旧名を、増して呼び捨てにしたことで、不敬罪で捕らえられてもおかしくない。だが、人気の無い夜の森では、誰かに告げる者もいない。
「凝った王朝の血なんざ、途絶えれば良い。大切な者も護れない、こんな身分なんて。なあ、  」
 呟いた名が、空中に散る。
 ただ、闇の奥から星の燈だけが見つめていた。

「お帰り」
「・・・うるせェ」
 一人抜け出した陸を、焚き火から離れたところで幸が迎える。どうやっても森の外に出られなかった陸は、機嫌が悪かった。情けなくもある。
「あんた、一人で出て行くつもりだったんでしょ。馬鹿ねえ。空が言ってたじゃない。ここは檻だって」
「・・んだよ。ここでずっと暮らすのかよ。俺は嫌だぜ」
「あたしだって嫌よ。じゃなくて、あんた一人で出て行くなんて無理だって言ってるのよ。馬鹿なんだから」
 逆上して飛びかかる陸を、幸が軽くかわす。そのまま木に激突したのを、嘲るでも哀れむでもなく、碧眼が見つめる。
「ち・・くしょ・・・」
「そういうとこ、馬鹿だって言うのよ。わかってるんでしょ。ガラじゃないんだから、こんなことさせないでよね」
「頼んでねーよ」
 ふてくされた声に、幸は溜息をついた。まるで子供の相手をしているようだ。それが懐かしい気がするのは、何故だろう。
「いちいち戻に突っかかることないでしょ」
「悪かったよ、俺なんかが団欒ムード壊して。だから出てくって言ってんだろ」
 強く言った言葉が、幸の瞳に吸い込まれて消える。静かな空気の中で、幸の「馬鹿」という言葉が聞こえた。
「陸。あんた、戻と比べすぎよ。あたしたちは、戻がもう一人欲しいわけじゃないわよ。陸は陸で、いて欲しいのは、そんなことにも気付いてない、馬鹿なままのあんたなんだから」
 そして、二人同時に顔を背ける。暗いからそうはっきりと見えるわけではないのだが、向かい合っているのが気恥ずかしかった。
「あたし、寝るわ。あんたも早く寝なさいよ」
 幸が踵を返して、早足で焚き火へと去って行く。陸は、黙ってそれを見ていた。
「お節介、だよな・・」

 満天の星が広がっている。明け方になるまで月は出てこないので、星明りだけが頼りだ。その光と闇の下で、戻が一人、夜空を見上げていた。幼い頃から、気付けば空を見ていた気がする。空と采と、それだけを見ていても良かった頃。
 あの頃から自分に何か変化があったのか、よく判らない。外面だけは誤魔化せるようになっても、何も変わっていないとも思う。今も、全て投げ出して采のいる家に帰れたらどんなに良いかと。出来もしないことを考えてしまう。
「強くなる、か」
 誰にも言わず、だが、自分にだけは明言してきた約束。数少ない「護りたいもの」を、これ以上失わないように。
 一方、そこから少し離れたところでは、戒が焚き火を見つめている。幸がこの場を離れ、陸が森をさまよっていた頃だ。焚き火の近くには、戒だけしかいない。熟睡しているはずの空までもが、どこかへ行っている。
 だが、戒はその事を気にしてはいなかった。この「森」に危険があるとも思えなかったし、それよりも、昔の記憶が頭を占めていた。
「僕は、あの時誓ったから。僕が本当に生き始めたのは、あの時からなんですよ、戻さん・・・」
「戒」
「・・・空ちゃん? 何処に行ってたんですか?」
 闇の中に、黄金の瞳が光っている。それは、気紛れな猫を思わせた。その瞳の中で、反射した炎が踊る。
「戒は、本当に戻が好きなんだね」
「語弊が、あると思いますが・・・好きですよ。何しろ、僕に命をくれた人ですから」
 にっこりと、空が微笑む。それは、「いつも」の空ではなかった。落ち着いた、鋭い雰囲気を持っている。あの軍人が来たときと同じだが、あのときのように虚ろではない。
「よかったね、一緒にいられて」
「・・・・はい」
「あ!」
 不意に上を見上げ、声を上げた。つられて、戒も見上げる。その先には、幾筋もの光がはしっている。
「星が落ちていく・・・・」
「久しぶりだな、大きな流星群なんて。やっぱりキレイだな―」
 古来、流れ星は凶兆とされる。その象徴は様々であり、地震のような天災や飢餓、大火事などの誰もに影響のあるものから、王位交代といった一般人には実感し難いものまである。
「何か天災が、起こるのでしょうか」
 それとも。帝位交代の、兆しだろうか。
 そんなことを考えている戒の近くで、空がくすりと笑う。清らかな、巫女かのように。
「本来事象に意味はないよ。意味を持つのは、誰かがそれを認めるからだ。肯定にしろ否定にしろ、誰かが存在を認めてようやく、事象が意味を持つ。だからどうせなら、実現して欲しい方を認めたら良いよ。その通りになるとは限らないけどね」
「・・・・そうですね」
 嫌味ではなく自然に、空が笑う。
「キレイだね、流れ星」
「はい」

 途切れることなく描かれ続ける星の軌跡を、戻が、幸が、陸が、見つめている。あるいは黙然と、あるいは呆然と。そして、そこから離れた彼らに敵対する者たちも、流れる星を見上げていた。
 烈と別れて幕舎に戻った静が、まだ起きていた累と共にそれを目にし、わずかに眉をひそめる。草の上に寝転んだ烈が、そのままの体勢で口笛を吹く。彼らが空の言葉を聞いたならば、どう思っただろうか。
 そして、遠く離れた漢稀国帝都・央楼では、「皇帝」が空を見上げ、拳を握り締めていた。
「運命の通りになんて生きてやらない・・・・この国は。俺のものだ・・・! 誰にも、渡すものか・・・・」
 星は誰とも無関係に、ただ、流れている。

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 よく晴れ渡っていた。見事に雲一つ無い空は、何故か安っぽく見える。そんな事を考えながら、静は、無表情に地に臥している部下たちを見下ろした。
「こ、これは一体何が・・・」
「判りませんか?」
 短く返す声は、半ば反射的に発されたためにどこか遠く聞こえた。やはり、あの人は行ってしまった。『翠』ごときで止められるはずは無いとも思っていたが、全くその通りというのも虚しい。
 敵対するしかないのかと、既に決着のついていた自問が繰り返された。否、まだ可能性は残されている。明言はされていないが、与えられたのは国内のみの任務なのだから。だがそれは、更に酷い事ではないだろうか。
 昨夜『翠』の周囲の警備に当っていなかった兵士の声を聞き流しながら、静は広がる大地の向こうに、夜明けからさほど経っていない青空を見ていた。

 五人は、馬に乗っていた。戒と戻の手つきは大したものだが、陸はどう見ても素人、空に至っては、手綱を握ってもいない。それでも、他の馬と同じ方向に走っているのだから不思議だ。幸だけは、戒の後ろに相乗りしている。
 この馬は、偶然通りかかった夜盗から譲り受けたものだ。「親切にも」と、戒なら付け加えるところだろう。
「ねえ、どこまで乗せてもらうの?」
 その言い方に、ひょっとしてこの子は動物と会話が出来るのかしらと、幸は思った。森で動物に囲まれて暮らしていたというし、空なら不思議では無い気がする。やはり、あれは野生の産物だ。幸は、自分を棚に上げてそう考えていた。
「適当に、どこか町にでも着いたら馬を放す。距離が稼げれば良いからな」
「ああ、それならもう少し行けばありますよ。その町から見える山を越えれば、国境です」
「なんだ、国境って意外と近いのね」
 今までに歩いてきた距離をものともしていないからこそ、言える言葉である。
「あれって何だったんだろうね。緑消えちゃって、勿体無かったね」
 一瞬、四人が奇妙な表情で見交わした。やはり、自分の言ったことを覚えていない。あの時の空は、明らかに今の彼女ではなかった。
「ねえねえ戻、あれのやり方今度教えてね」
「・・・一朝一夕で出来るのものじゃない」
「イッチョウイッセキって?」
「すぐには覚えられないということですよ」
「時間かかってもいいから、やってみたい!」
 玩具を見つけた子供の眼だ。どうやら、戻の術は空の好奇心を刺激してしまったようだ。だが、始めに火をつけたときから未だ、術を教えた事はない。
 今朝、日の昇らないうちに起こされ、ここを抜けると告げられた。ぐるぐる回るだけだと、ふてくされたように陸が告げた。追求されるかとも思ったが、戻は一瞥しただけだった。変わらない、冷たい瞳に顔を背けると、そこでは幸が笑いを噛み殺していた。
 そうして、刀を手に戻が極符を踏んだのだ。それは、道士のごく一般的な結界破りだった。それで軍特製の捕縛具を破れるのだから、戻の能力もそれなりに高いのだろう。かけられた術を解かれた『翠』は、黒くなった符と小さな檻、植物の種子を残して消えた。外にいた者達は、一行の敵ではなかった。
「腐っても坊主か・・・」
「道士ですよ、陸君」
 また知らずに呟いていたらしく、陸の顔が強張る。戒の笑顔が怖いのは、被害妄想だろうか。空は見ても無駄なので他の二人を見てみると、幸は呆れ顔で、戻は珍しく、少し考える風だった。
「な、何か文句あるかっ?」
 つい焦って訊くと、やはりどこかぼんやりとした表情を向ける。実はこいつ、まだ寝てるんじゃないか?
「いや・・。お前は腐ったらただの使えない河童だと言ったらどうなるかと」
「ブッ殺ス」
 馬のついでに貰った刀に手をかける陸の前に、戒が自然に馬を割り込ませる。その背で、幸が呆れて首を振る。空が一人で、無邪気な笑みを浮かべていた。
「あ。雨だ」
 呟く声に呼応するかのように、大粒の雫が一行に降り注いだ。

 色の無い雫が、あちこちに溜まっていく。意外に近いところから、蛙のにぎやかな声が聞こえた。高らかに、雨の到来を伝えているのだろう。
「すみません、突然大人数で押しかけてしまって」
「旅の途中だろ。知り合いでもないところに、どうやって連絡を入れるんだ。突然以外に来ようも無いだろう」
「それもそうですね」
 精悍な顔立ちの青年に、戒が笑いかける。相手は素っ気無く、思い思いにくつろぐほかの面々に目をやった。
 空は落ち着き無く好奇心をあらわにして辺りを見回し、陸がそれを呆れたように見ている。また、幸はしきりに濡れてしまった髪を気にしている。一方戻は、方あぐらで静かに座っていた。
「たいした一行だな」
 人と妖人、それどころか、普通は判らないにしても 妖 さえもが一緒にいるのだ。嫌味や皮肉で済むなら良い方だ。
「済みません、本当に。雨が止めばすぐに出て行きますから」
「しばらくここの掃除をしていない。済まないと思うならそれをやってくれ」
 見るからに古びている堂を見て、言う。陸はいっそ堂をつぶせば早いのに、という不謹慎なことを考えていたが、そんな内心を知ってか知らずか、戒は堂の方を見てから、青年に目を戻した。
「どこをしましょうか」
「本堂の掃除とその辺の草むしりを。朝一番でな」
「・・・有難う御座います」
 間を置いた言葉に続き、ふわりと微笑む。今は、まだ昼を過ぎたばかりだった。無愛想ではあるが、怯えるでもなく、泊まって良いと言ってくれたことが嬉しかった。
「もっと判りやすく言や良いじゃねーか」
「布団は自分で出せ。要る物があれば取りに来い。大体はあの部屋にいる」
 陸の一言を無視して口早にそれだけ言うと、戸を閉めて出ていった。入口近くの自室に戻るのか、雨音に紛れて古い床板を踏む音だけが聞こえた。
 幸は、青年の出て行った戸と小さく笑っている戒を見比べ、呆れ顔を浮かべた。そして、憮然としている陸を見て溜息をつく。
「知らなかったわ。ひねくれた人間って実は多かったのね」
「何が言いたいんだ」
「別に。ただ、三人もそんなのがいたら疲れるなあって思っただけよ」
「誰のこと?」
 明るい声が、無邪気に割って入る。幸は、空の湿って深紅になっている髪を布で拭きながら、陸から目を逸らした。視線の先には戒がいる。
「いいかげん笑うのやめたら? 戒って、笑い上戸なの?」
「さあ、どうでしょう」
「ねえ、三人って誰と誰と誰?」
「少なくとも空は入ってないわよ」
「じゃあ幸は入ってるの?」
「どうしてあたしが入るのよ。一緒にしないでよね」
 賑やかに話す二人を見て陸が「うるせー奴等」と呟くと、戒が口の端に微笑を浮かべて振り向く。とりあえず、笑いはおさまったらしい。
「明るくて良いじゃないですか」
「こういうのはうるさいって言うんだよ。――ん?」
 幸と空の二人に向いていた視線が、うつむいたままの戻に向かう。反射的にからかいの言葉がでかけた陸だが、顔を伏せて身動きもしない様子に眉をひそめる。見てみれば、戻は濡れた服をしぼりもせず、この部屋に入ってから姿勢が全く変わっていない。
「おい、寝てるのか?」
 返事がない。荒い呼吸に肩が上下しているのが見える。異変に気付いた戒が、立ち上がる。陸が肩を叩くと、反応もなく体が傾いた。
「戻さん!」

「戻、起きないね」
 片膝を抱えて、空が言った。瞳が、不安に揺れている。
「心配要りませんよ、ただの風邪だそうですから」
 自分でさえ信じていない言葉を口にしながら、戒は空に見えない位置で拳を握りしめた。
 雨宿りをして、その礼をしたらすぐに立ち去るつもりだった。この山さえ越えれば国外だ。国を出れば、おそらく軍の手出しはなくなるだろう。そもそも、あの中途半端なやり方からして、軍を国外へ出るのを早めるために動かしたのかもしれない、とも思っている。そうであれば、国外へ出る邪魔をするよりも、残っている方が問題になるだろう。だが、戻がこの状態では、そうもいかない。幾分良くなりはしたものの、依然熱は高く、意識も戻っていないのだ。
「空ちゃん。ここは僕が見ていますから、幸ちゃんと一緒に町に行ってきたらどうですか? 今なら、追いかければ間に合いますよ」
 ここに幾日か泊まることは確実になったので、幸に必要なものを買いに行ってもらったのだ。陸は町に行くのを嫌がり、いつもなら真っ先に出掛けようとする空も戻の側を離れたがらない。幸は、愚痴を言いながらも仕方ないといった風一人でに出て行った。
 陸は、妖人であることから酷い扱いを受けている。空も似たようなものだが、それ以上に好奇心が勝っている。しかし、妖である幸の方が人間に見えるというのだから皮肉なものだ。今の状態で空を無理に町に連れ出すのは気がひけるが、このままにしておくわけにもいかない。戒は、自分のことは敢えて無視して、そう考えていた。
「二人とも、休んだ方がいい。この先も旅を続けるつもりならな」
 湯のみを手に、和尚が入ってきた。今朝になってみれば、昨日の青年は姿を消し、この中年の和尚がいた。
『話は聞いている。ここの掃除をしてもらえるなら、いくらいても構わん』
 そう言ってもらえたおかげで、とりあえずはゆっくりと留まれる場所が確保できたのだった。
「それに、揃って暗い顔をしていては、却って体調が悪くなる。なあ?」
「戻!」
 戻は、眼を開けると自分を凝視している二人の顔を眺め、溜息をついた。
「・・雁首そろえて何をやっているんだ」
「それはないでしょう、戻さん」
「ほら、わかっただろう。こいつは大丈夫だ。おまえたちは飯でも食って来い」
「でも・・・」
「・・うるさい。静かに、しろ。頭に響く」
 ゆっくりと、だるそうに言葉を紡ぐ戻を見て、一度は安堵した戒が再び心配そうな表情になる。素っ気無い台詞が、妙に懐かしい。昨日まではそれが普通だったのに。
「親とはぐれた子供でもあるまい。掃除だってまだだろう」
「・・誰だ・・・?」
 億劫そうに、力なく和尚を睨む。それを認めた和尚は、どこか狸を思わせる顔に、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「まだ会ったことはなかったか。だが、とりあえずお前さんのやることは、この薬茶を飲むことだ。熱で体力が落ちているんだからな」

 戻のもとを追い出された空の足は、自然と周りを囲む森へと向かっていた。樹々から零れ落ちる光や、密度の濃い空気は慣れ親しんだものだった。彼女の住みかは、常にこういった所だったのだから。・・いつからかもわからない、昔から。
 何かがよぎった。空ほどではないが、人としては珍しく鮮やかな赤毛。
「累」
 無意識の呟きが、一拍置いて驚き、そして喜びに変わる。それは、いるはずのない人だった。空が一時共に生活していた、官軍に壊滅させられた山賊達のうちの一人。家族も同然の少年だ。
「累!」
「空・・・?」
 喜んで駆け寄る空とは全く違い、その顔は驚愕にゆがんでいる。だが、会えたことで頭がいっぱいの空は、そのことには気付いていなかった。知らないのだ。累が今、誰のところにいるのか。彼女を見て、どう思ったのか。
「どうして」
「何が? どうしたの、累。なんだか変だよ」
「空。どうしてここに・・だって、他のみんなは・・・・」
「累?」
 ようやく気付き、青ざめている累の顔を覗き込む。心配そうなそれは、あの頃と変わらなかった。ひどく懐かしい、忘れたはずの記憶が呼び起こされてしまう。そして同時に、辛い記憶も。
「なんでいるんだよ! だって皆、皆俺のせいで死んだのに! 殺されたのに! 俺が・・・。だから、出てきたのか? 幽霊になって?」
「何言ってるの、累」
「そうだよ、全部俺のせいだよ。俺が捕まって、みんなの場所教えて、そのせいで、・・だから、みんな、俺を恨んでるんだろ・・・?」
 まだ声変わりもしていない少年は、そう言って泣いた。泣きたくなんてないのに、止まらないのだ。自分が捕まったせいでみんなを、仲間を、死なせてしまった。捕まりさえしなければ、場所を言いさえしなければ。そう悔やんで、自分だけが生き残ったことが悪いと思った。あの時静がいなければ自分も死ねたのにと、命の恩人を恨んだりもした。
 いつまでもくすぶっていた罪の意識が、溢れ出していた。
「あたしは生きてるよ。おっちゃん達は・・・どうなったか、あたしは知らない。でも、そんなこと言わなかった。・・笑ってたよ、みんな」
 官軍に襲撃され、捕らえられることもなく殺されてしまっただろうみんな。誰もが、笑っていた。きっと、最期まで。
『空。これはわがままだがな。生きろよ。俺達の分まで』
 そう言って、逃すために自分を谷に突き落としたときの顔を、今も覚えている。恨み言など言っていなかった。まるであらかじめ知っていたことが起こったかのように、ただ冷静に、したたかな反撃を行う。最後の打ち上げ花火だと、誰かが言っていた。
 空が恨むとすれば、怒るとすれば、自分を加えてくれなかったことに対して。自分だけを、生き延びさせたことに対して。でもその向こうに、戻達と会えたことがあるのなら。残るのは、『ありがとう』だけだ。
「楽しんでたんだよ。きっと」
 本当に笑っていられるのと、どうして笑っていられるのと、訊く機会は永遠に閉ざされてしまったけれど。これは、事実に近い確信。
「・・・・・」
「生きろってさ。あれはあたしだけの言葉じゃないよ。累が生きてるなら、きっとみんなそう言ってる」
「僕が、みんなを殺した軍にいるって聞いても、そう言えるのか?」
「うん」
 間髪いれずの応えに、目を見開く。そこに浮かぶのは、明らかな疑いと驚き、軽蔑。そして、わずかな感情の揺らぎ。空は、底抜けの笑顔で返した。
「累が選んだんだよ? 悪いわけないじゃない」
「違・・・」
 思い返してみる。あの時、静が用済みになった累を始末しようとした軍人達を止めたとき、彼は何と言ったか。したい事をすればいいと。起こった事を戻すことは出来ないけれど、出来ることはするからと。今すぐではなくてもいいから、行きたい道を選べばいい、と。――選んだのは、自分?
「どんなことをやっても、おっちゃん達は帰ってこないから。忘れないけど、大丈夫だって前を向いてる方がいいよ。でも――あたしの邪魔するなら、手加減はしないけどね」
 そう言った空の瞳は、真っ直ぐに累を射ていた。見慣れた、良く知っている眼だ。

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「ハイ、お待ちどうさま」
 明るい茶の髪で光をはじきながら、小さな丸椅子に座った幸に飴湯の杯を渡す。愛想を振り向く男に、女は微笑を返した。
 明るい日差しの下で、町はまどろみの中にいる。特に主要な場所でもないことから、客はなじみがほとんどだ。そのために、緩んだ気が辺りを覆っている。行き交う人々の会話も、どこかゆったりとしている。   あそこのうち、子供が生まれるってねえ。――これは、刻んで蜂蜜をかけるとおいしいんだよ。――おじさん、これとこれ、どっちの方がいっぱい入ってる?  国境は山であり、そのためか人々の危機感は薄い。
「やー、仕事の途中でこんな美人に会えるなんて僥倖ものだなあ」
「大袈裟ね」
 そう言いながらも、満更でもない。あの一行の中にいるとこういった扱いを受けることもないので、余計にそう感じる。古ぼけた茶屋というのが少しばかり不満だが、まあ仕方ないだろう。
「いや、ホントに。ここのところ、美人には会っても美女には縁がなかったからなあ。喰われるのはごめんだが、こうやって付き合ってもらう分にはありがたい」
 軽薄な笑顔に口調。そこに投げ込まれた爆弾に、幸は改めて男の様子を探った。良く陽にやけた、バランスのとれた体。明るい色をした、茶色と鳶色の髪と瞳。二十代か三十代か、きわどいところだ。格好は、至って平凡な自由商人の服装。どこにでもいるような、軽薄な商売人だと思っていた。今もその印象は裏切られていない。 だからこそ、誘いに乗ったのだ。さっきの台詞は、言葉通りではなく、ただの比喩だろうか。過剰反応であれば、それで良いのだが。
「ねえ、仕事って何を扱ってるの? その袋の中身、商品なんでしょう?」
「ああ。見るか? 大した物はないが、綺麗な髪飾りなんかは沢山あるぞ。ほら、これなんてどうだ。金色の髪に良く映える」
 店先で、商売を始めるかのように色々な物を並べる。緑色の宝石のついたピン、銀細工の髪飾り、紅い宝石の指輪、紋様の彫り込まれた藍い宝石、金細工の腕輪、宝冠、青い指輪・・・。やはり、ただの気のせいだろうか。ところが、何気なく品々を眺めていた幸に、男は次の爆弾を放り込んだ。
「この宝冠は? きっと、瞳とあいまって赤い髪に映えるだろう。まあ、もうつけてるみたいだがな」
 この男は、空のことを言っている。
 とっさに凝視してしまった幸に、男は相変わらず軽薄に笑いかける。傍から見れば、若い女を相手に口説いているようにしか見えないだろう。しかし幸は、とてもではないがそんな甘い気分にはなれそうもなかった。
「この石は、太陽の光に当たっていると緑だが、他の光では赤く見える。隠している紅い目に、そっくりじゃないか? これは、髪と同じ藍色だな。そしてこれは、血に染まって泣いている、皇子様にぴったりだ」
「あんた、何が目的?」
「怒っても綺麗だなあ。警戒しなくたって、別に何もしないさ。それよりも、聞きたくないか?」
 男は、幸に笑顔を見せた。ただ瞳だけが、危うげないろをしている。
「皇子様の昔話をさ」

 あまりの不味さに、布団を強く握る。大声を上げたりする醜態を演じずに済んでいるのは、和尚の存在のおかげだった。もっとも、感謝する気などあるはずもないのだが。
「良薬は口に苦し、だ」
 狸面の和尚は、戻の反応を見てとぼけた声で言った。味が凄まじいために、はっきり言って正真正銘の病人に飲ませて良い代物ではない。だが、効果は確かである。和尚は、律儀に飲み干された湯のみを受け取り、小さく笑った。
「気分はどうだ」
「悪くなった」
「よし、正常だな。これを美味いなんて言ったら、それこそ重症だ」
 笑ったまま、戻の頭を軽く叩く。子供にするようなそれに、戻があからさまに機嫌を悪くする。だが和尚は、それを無視して様子を覗った。寝汗でどこかやつれたような感じがあるが、熱は下がったらしく言葉もはっきりとしている。これなら、大丈夫だろう。
「今、水桶を持って来る。体を拭け」
「・・ありがとう」
「ああ、ちゃんと礼が言えるんだな。躾がいい。あとで話がある。着替えてから部屋に来い」
「金なら払えない」
「そうじゃない。それは、掃除をするってことで話がついているからな。話ってのは、妖人のことだ。まあ、この先他の連中と別れて行くなら聞かなくてもいい話かもしれんがな」
 しばらくして、戻は和尚と向かい合っていた。病み上がりとは思えない姿勢の良さに、和尚は苦笑した。表情が、意地っ張りめと言っている。だが、戻の姿勢は緩まない。おまけに、射殺しかねない様子で和尚を睨んでいる。
「そんなに睨まなくても良いだろう」
「用件は」
「焦るなって。ところでお前、戌虎[ウェンフー]の異種間論を知っているか?」
「一通りは」
 戌虎は、水嵐国の学者だった。彼は、様々な動物を使って異種間の交配についての実験を行った。結果は、種の近いものであれば子孫を残すことも可能であり、種の遠いものは一度の交配には成功しても、誕生する子には生殖能力はないというものだった。つまり、種が大きく違えば、二世代目はいても三世代目以降はいないということになる。
 だが、と、和尚は続けた。妖人は三代目以降もいる。
「それに、その数は少なくない。おれは、今妖人って呼ばれている連中の半分とはいかなくても三割くらいはそういった奴等じゃないかと思っている。現に、お前と一緒にいた、藍色の髪の奴は両親共に妖人だ二世代目と三世代目のな」
「・・・見ただけで、判るものなのか」
「いや。ただ俺は、あいつの母親の・・知り合いだ」
「証拠は」
「あいつの母親と知り合いだってことのか?」
「三代目以降がいるということの」
 一瞬、和尚の眼が遠くを映す。だがすぐにそれは、穏やかなものに変わる。相変わらずの、狸面だった。
「証拠も何も、おれがそれだ」
 戻は、完全な無表情で狸面を睨みつけた。

 空が、黄昏色に染まっていた。西の方はまだ青く、東側は徐々に闇が侵食している。星はまだ見えないが、爪で引っ掻いたような細い月は姿を見せている。黙々と堂の床を磨いていた戒は、差し込んだ影に顔を上げた。
「何一人でやってんだよ」
「陸君。お帰りなさい」
「バカじゃねーの」
 ぶっきらぼうに言って、無造作に雑巾をひったくる。隣で不器用に床を磨く陸に、戒は微笑を浮かべた。
「ありがとうございます」
「なんでお前が礼言うんだよ」
 その言葉に笑いつづける戒に陸が怒鳴って、二人は掃除を再開した。静かだ。空と幸はまだ帰っておらず、戻には一応休んでいるように言っている。ふと、こうやって陸といるのは久しぶりだということに気付いた。
 見世物小屋から陸を買い取ってしばらくは、二人で黙って一つの空間を占領していた。あの頃は、陸は今以上に不信感をあらわにしており、一人きりや他の者といっしょにはしておけなかったのだ。妖や妖人を忌み嫌っていた祖父母の近くなど、論外だ。そうなると、必然的に自分の目の届くところに居させるしかなかった。だが、それが不快でなかったことも事実だ。
「なあ。どうして俺を拾ったんだ」
 声に振り向いても、陸は背を向けたままだった。
「どうして、でしょうか」
「ただの気まぐれか」
「いえ。・・・そうかもしれませんね。眼が合ってしまいましたから」
「はあ?」
「覚えてませんか? 道で擦れ違った時に、眼が合ったんですよ。もっとも、陸君は僕のことなんて見てませんでしたけどね」
「それ、眼が合ったって言わないだろ」
「いえ、視線は合っていましたよ。君が、僕ではなくて僕が妖人だということを見ていただけで」
 妖人である戒が、質のいい服を着て堂々と道を歩いていることに対して。ひどく、傷付いた眼をしていた。それが、陸を引き取ったきっかけだった。一種の一目ボレですかね、と、戒は明るく付け加えた。
「どうしたんですか、突然。今まで一度も訊かなかったじゃないですか」
「いいだろ、どうでも」
 陸に応える気がないのを見取って、戒は掃除に専念することにした。訊くようになっただけでも、確実にあの頃よりも良くなっている。
 一方陸は、不必要に力を込めて床を磨きながらついさっき聞いたばかりの台詞が頭の中を駆け巡るのを自覚していた。
『僕の唯一の友人だから』
 言ったのは、静。漢稀の軍人で、おそらく戻や自分と同じくらいの年齢だ。ぶらついていた森の中で会ったのだ。誰かを探していたようで、何故か陸が戻と一緒にいたと判っていながら、何も仕掛けてこなかった。
 戻と知り合いなのか、と訊いた応えがそれだった。大切な人だ、と。
 そんな相手と敵対するよう命じられ、どんな気持ちなのか。そんなことを訊くことは出来なかったし、つもりもなかった。ただ、大切だと言い切れる事が不思議に思えた。
「戒は、あいつが一番大切なんだろう」
「今日は、何かあったんですか」
 無言の、肯定。何故かそれが悔しいと思いながら、ぼんやりと自分にはそう思える人が出来るだろうかと、考えてしまった。そのことに気付き、慌てて打ち消す。いつの間にこんな風になったのか。失うことが恐いものを作ってしまえば、絶対に弱くなるのに。
 聞く人によっては笑い飛ばしてしまうだろう論理が、彼にとっては真実だった。
「暗くなってるっていうのに。二人とも、こんなところで何やってるのよ」
 闇の浸食を受けた空の下で、見事な金髪が揺れる。買った大量の荷物を軽々と持ちながら、幸が堂に入って来た。それだけで、わだかまっていた空気が一掃される。
「お帰りなさい、幸ちゃん」
「掃除? そっか、そういう条件だったのよね」
 そうは言うものの、手伝う気配はない。わざとらしく、手や肩の筋肉を揉み解しているだけだ。陸は、それを無視することに決めたらしく更に力を込めて床を磨く。彼の持つ雑巾は、酷使されて短い間にぼろぼろになっていた。床も、陸の磨いた狭い範囲だけが、異様に光ってしまっている。
「ねえ。リンレツって名前知ってる?」
「・・・その人が、どうかしたんですか」
 思いがけない名前に、戒の視線が鋭くなる。それは、血縁上戻の叔父にあたる人物と同じ名だ。何故、それをここで聞くのか。少なくとも、彼が西端のこの地を治めているという話は聞いていない。
「町で聞いただけよ。誰なの?」
「戻さんの親戚ですよ」
「ってことは、王族?」
 幸が、呆れたような表情をした。それがなんだって、小さな町で飴湯を飲んでいるのか。自分達一行のことを知っているのか。即答で断らずに、少しくらいは話を聞けば良かったかもしれない。だが、
「怪しかったし・・・」
「何が?」
「あら、空。どこか行ってたの?」
「うん」
 笑顔で応える。その頭上には、すっかり闇色に染まっている空が広がっていた。空は、幸の荷物と雑巾を手に床に座り込んでいる二人を見て、小さく首を傾げた。
「ご飯まだなの?」
 三人が揃って苦笑して、その日の掃除は終った。

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 夜、寺から離れた軍の野営地に一人の使者がたどり着いた。急ぎ運んだ命書は無事に指揮官の手に渡り、現在、その使者はテントで休んでいる。渡す方の仕事はそれで一旦は終りだが、渡された方はそうもいかない。
「今度は何だって?」
「どうやってここに来たのですか」
「歩いて」
 無言で近くにあった銃を掴む静。対する烈は、大袈裟に手を振った。
「やめろって、そんな物騒な物。顔パスで入れたんだって。一応、有名人だからな」
 自嘲じみた声音に何かを感じ、本意を探ろうと表情を窺うが、笑みを貼り付けたかのようなそれからは、何も読み取れない。それでも、静の手が銃から離れることはなかった。
「まあ、物理的な話だったら忠実な従卒殿がいなかったからだ。あれは、なかなかに忠実だな。で、上官殿は何だって?」
「・・・央楼に戻るように、と」 
「ふうん。それで、静ちゃんはどうする?」
 からかうような口調だが、意外に瞳は冷めている。嘘や誤魔化しを許さない光が、静を捕らえる。疲れているようだからと累を休ませたことが、今更ながら悔やまれる。静は、烈から眼を逸らした。望んでもいない台詞が、意外にはっきりと口から零れ落ちる。
「従います。命令ですから」
「直接と間接、どっちが罪深いかって話だな」
「何を・・」
「お前さんは馬鹿正直だから、そうも思ったんだろう。ま、昌は始めからそのつもりだっただろうがな」
 本当は、気付いていた。自分達が、追放の為に使われている事を。戻達が目指す皇奏国は遠く、道は険しい。国外には、漢稀以上に妖がいる。法律が整っていない国も珍しくはないし、異民族と言葉が通じない場合もあるだろう。もし刺客が差し向けられないとしても、生きて帰ってくる確率は低い。
 では。
 直に手を下すか。そのまま見殺しにするか。大切な、友人を。――まだ望みのある方に、というのは、誤魔化しだろうか。
「とにかく、僕は帰朝します。貴方はどうするのですか」
「俺は誰の命令も受けていない。やりたいようにやるに決まってるだろう。今のところ、誰かに帰れとも言われてないしな」
 本来であれば、烈を咎めるべきだろう。だが、静はそれをしなかった。無言で、立ち去ろうとする後ろ姿を見送る。しかし、悠然と出て行こうとした烈は、困ったような笑顔で静を振り返った。
「静ちゃん、立派な犬がいるんだが、何とかしてくれないか? 飼い主の言うことしか聞かないんだろ?」
 テントの入口では、累が正確に銃口を向けていた。

 数日後、一行は寺を後にした。その日寺に居たのは、来た時と同じ青年だった。戻だけが、青年と和尚が同一人物だということをはっきりと知っている。それが、和尚の血の作用なのだという。妖人としての特徴的な色はないが、体が変化する。それが元々の性質を受け継いだものなのか、妖と人の血による作用なのか、あるいはただの突然変異なのかは判然としない。
『若返ったと思えば、悪いものでもない。調整が自分では出来ないところが少しばかり厄介だがな』
 そう言って、和尚は人を喰った笑みを浮かべた。案外、俺みたいな奴は沢山いて、何食わぬ顔で暮らしているのかもしれないぞ、と続けた。
『そこら辺を理解しておかんと、連中と付き合っていくのは少しばかり辛いかも知れんぞ』  
 微笑で返す戻に、和尚は最後に一言言い添えた。
『妖と人は、案外近いのかもしれんな』
 それは、願いのようにも聞こえた。
 戻は何も言わずにいたが、話を聞いた上で、それなりに考えはあった。だが、確証がない上に、まとまっていない。そもそも、必要とされていなかっただろう。言いたければ、今度言えばいい。
 何時のことになるかと考えて、戻は苦笑した。この山の国境を再び見るのは――。
「国境ってどれ?」
「もう通り過ぎてしまいましたよ」
「ええ、だって、ただ山があっただけだよ?」
「別に縄が張ってあるわけじゃね―んだよ」
「そうだったんだ」
 明らかにショックを受ける空と密かに驚いている幸の隣で、戒が苦笑し、陸が呆れた顔をする。そんな彼らを見て、戻は穏やかな微笑を浮かべたのだった。
「おい。馬鹿をやってないで、早く歩け。日が暮れる」
 それは、既に日常と化した光景だった。きっと、この先も。


 『後漢書』『六書』によると、輝鐘の治世は武将の陳衝によって覆される。しかし、短いその中断期を経ても国力が衰えることはなく、子の聯稟の再興した後期には豊かな貿易と広い領土、聖国と称された皇奏国を踏まえた政策により、むしろ栄えたほどだ。
 前期・後期に渡り四百年続いた漢稀国は、海宝十二年、烏戎族の侵入により滅ぶ。その漢稀に最後まで仕えた者には、妖人が多かったとも伝えられる。
 未だ、時の将軍・愁の支持者は多い。敵対者である烏戎族の者でさえ賛美し、その死を悼んだとも伝えられる。その先祖には前期末に皇奏国のあった地に赴いた者がいたとも言われるが、愁将軍が妖人であったということ同様に、詳しくは判らない。

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