
厭な奴と一緒になった、と、腹の中で己の不運を呪った。
――どうにも、こいつは苦手だ。
「これはこれは、未来の宰相候補殿。貴君がこんなところで食事をするとは珍しい」
「そちらこそ。左氏の弟君は、皇宮にはいらっしゃるはずなのに、一向にお会いできないと皇帝陛下がお悩みでしたのに」
表面だけは丁寧な言葉に、心の中でだけありったけの悪態をぶつける。
できるならば、このまま背を向けて去りたいところだ。しかし、既に料理を頼んでしまった手前、そうもできない。染みついた貧乏性が、このときほど恨めしいことはなかった。
――身分がばれて、身包み剥がされちまえ!
「ああ、兄ちゃんたち知り合いか? だったら相席で十分だな、奥の、ほれ、そこ。空いてるから行ってくれ」
「えっ、ちょっ・・・」
「待ってくれ、主人・・・」
しかし、待ってはくれなかった。
場所は、皇都の下層民向けの売春宿も兼ねたおんぼろ酒屋。それぞれ、相手に寒々しい笑顔を向けながら、実は内心で同じことを考えていた二人は、陰険漫才に足を掬われることとなった。
ちなみに、目が合っても無視しておけば良かったんだと、気付いたのは翌日の朝のことだった。
淋烈[リンレツ]と春望[シュンボウ]、良く似ていながら、もしかすると良く似ているからこそ、犬猿の仲の二人の、若き日の苦い思い出であった。
「・・・」
騒々しい酒屋の片隅で、そこだけが沈黙に支配されていた。何やら重い空気に、近くの客も、そう簡単にはちょっかいを出そうとはしない。
淋烈は、現帝の何人か目の弟に当たる。今の皇帝には兄弟が多く、逆に子供はたった一人しかいないというのは、良く知られた話だった。なんと、皇太子とほぼ同齢の弟さえもいる。そろそろ王に封じられる年齢だが、今のところは、母親が左氏の家の出だったために「左氏の皇弟」「左弟君」と呼ばれることが多い。
春望は、父親が宰相だった。そうは言っても今は亡く、望が自ら、か細い親戚のつてで官職に就いて今の皇帝の目にとまるまでは、貧しい暮らしをしていた。今では皇太子の学友として知られ、皇宮内でも、まだまだ弱くはあるがそれなりの勢力を持っている。
二人とも、まだ十代の半ばをどうにか越えたところだった。
「よーう、兄ちゃんたち。何しけた面してんだ? んん?」
突然声をかけてきた大男を、烈と望は、全く同時に睨みつけた。
薄汚れた格好をした、立つと天井に頭のつきそうな大男は、そんな反応に噴き出してから、一層険しくなった二人の表情に、慌ててそれを押し込めた。
「そんな顔して飯を食っちゃあ、失礼だろうがよ? 飯にも、作った奴にもよ」
にやにやと笑って、無造作に卓に置かれた酒に手を伸ばしながら、そっと小声を忍ばせた。
「塀の中の奴等だな? 悪いことは言わねえ、早いとこ、ここを出ろ」
ぎょっとして、二人は男を見た。塀の中とは、貴族や身分のある場所を指すこともある。先ほどのやりとりは、小声で他人に聞き取れたとは思わなかったのに。
男は、笑い顔の向こうに真剣な瞳を見せていた。懐から出した杯で、酒を呷る。
「いいか? 飲むにしても食うにしても、豪快にやれよ。――耳敏い奴は多いし、格好も中途半端だ」
烈と望は、慎重に目線を合わせて、軽く頷いた。
「今度からそうするよ。じゃあな、おじさん」
「おう」
ほとんど空になっていた皿を残して、二人は連れ立って立ち上がった。そうして店を出てすぐに遭遇した柄の悪い男たちに、烈は目を細めた。望が口の端を上げる。どちらも、薄笑いとも取れる表情だった。
「なんだよお前、ぼろぼろじゃねーか。みっともねー」
「そっちもそう変わらないだろう」
「・・・まあな」
にぎやかな通りの側を流れる川縁で、二人は満身創痍で座り込んでいた。
店を出たところで待ち受けていた男たちには、とりあえず反撃をしてきた。同じくらいか、それ以上の怪我を負わせた――といいたいところだが、逃れるために攻撃したのが手一杯というところだろうか。
いくら武術を学んでいても、暴力沙汰が日常の男たちに、日常に腕力の必要のない少年たちが勝てるわけもない。大きな怪我もなく、向こうにも手傷を負わせただけでも上出来だ。
「ところで、左弟君。今思い出した」
「何をだよ?」
「あの男。昔、父の部下だった男だ。諜報が得意だった」
ぽかんと、望を見て、烈は呻いた。
「つまり、聞きつけたんじゃなくって最初から知ってたってことか?」
「だろうな。しかし、忠告には変わりない」
「あーあ」
烈は、面白くなさそうに仰向けに倒れ込んで、そして唐突に起き上がった。目が据わっている。
「決めた。俺は、今から呑みに行く。お前どうする?」
「・・・付き合おう」
そうして二人は、今度は表通りの酒屋で閉門に近い刻限まで酒を飲み、翌日には二日酔いの頭を抱えることとなった。そして、結論は同じで。
――やっぱり、あいつに関わるとろくなことがない!
まだ若い二人の、八つ当たりだった。
「宗貴妃の三毛猫が行方不明だそうです。特徴は・・・」
「漢婦人の虎猫が溝の奥に・・・」
「王貴人が白猫をお探しです。全身真っ白で足だけが・・・」
「鄭丁氏の雉猫が病気のようで・・・」
「どうして僕のところに持ち込んでくるんですかッ!」・・・と、そう叫べたらどんなにいいだろう。少年は、溜息をどうにか呑み込んで、探し猫の特徴と事情を細かく訊くと、使いの者を下がらせた。
柳静[リュウセイ]が難関を突破して、珍しい十代半ばでの任官を果たした年。後宮は、いつにない猫ブームだった・・・。
「お疲れですかな」
「いえ・・・そちらもお忙しいようで」
手伝いもしない、一応の同僚に言葉を返して、断りを入れてから席を立った。このときに、しっかり先ほど書き留めた猫の特徴を持って立つ辺りが、どうしようもなく真面目だ。
そもそも、猫がいなくなっただの閉じ込められただの病気になっただのという話は、この部署全てに持ち込まれた相談事であって、静一人で受け持つことではないはずだ。
それを、何かと理由をつけて逃げを打つから、静一人が押し付けられている現状となっているのだ。今では、使いの者もはじめから静を探して話を持ってくる。
「なんだって僕が・・・」
これが、もう少し時代が違えば、猫探しは皆が我先に飛びつき、新入りの静に回ってくるのはさして重要でもない書類の整理や清書となっていたことだろう。それほどに、後宮の姫君が皇帝に及ぼす影響力は大きい。
しかし今では、皇帝が後宮にこもる数は減り、政治に口を挟めるとしたら皇后くらいのものだという事実は周知のものとなっている。見込みの無いおべっかを使うのは厭なのだろう。
かくして、静は一人、広い皇宮内を数匹の猫を探して駆け回ることとなった。
「この猫を王貴人の元へお届けしてくれ」
通りがかった小者に白猫を託して、その姿を見送ってから溜息をついた。ひっかかれて、服の袖はぼろぼろになっている。少し、血も滲んでいるようだ。
「あとは・・・三毛猫と虎猫か・・・」
とりあえず、行方の知れない三毛猫よりも、所在の知れている溝にはまった猫を先にしようと、使いの者の言っていた溝に向かおうとした。
「おや、静上掾。そんな格好でどうした?」
「・・・炎王。それとも、左将軍とお呼びした方がよろしいですか?」
「で、何してるんだ?」
声の主を疎ましげに振り返るが、相手は動じない。
母の名を取って左氏の皇弟、あるいは封じられた王の名で呼ばれることの多い、淋烈[リンレツ]だった。
静は、まだ皇宮に出入りできるようになって日が浅いが、その短い間にもこの男に関してが、いい記憶は全くと言って良いほどにない。むしろ、厭な記憶の方がある。例えば、裏路地での酒宴に放り出されたり。
「猫探しです。将軍は、何か?」
「へーっ、猫探しなあ。よし、俺も付き合おう。ついでに、甥っ子も連れて来ようか。ちょっと待ってな」
「いえ・・・・」
言っても無駄な言葉というものは、確かにあるらしい。身を翻した烈の後姿を見送って、静は呆然と立ち尽くした。
追いかけられて溝の奥まで入り込んでしまった虎猫は、すっぽりと溝に詰まって、動くこともできずにぎゃあぎゃあと凄い声を立てて鳴いていた。騒ぎに手を出した何人かは、身動きできないまま夢中で暴れる猫に、散々に引っかかれている。
「行け、気をつけろ! あっ、そこ、右! 左、爪が危ないぞ! 右だ右! こらー、手際が悪いぞー!」
「・・・うるさい」
「よっし、掴んで引っ張り上げろー!」
烈と戻、それに多数の観客に見られながらの猫救出劇の、主役は静だった。
烈の言った「甥っ子」が、昌でなく戻であったことには安心したが、だからといってわざわざ呼んできたことに感謝する気にはなれない。その上、この無責任な野次。
「あーっ、失敗した―っ! 不器用―!」
「そう言うならあなたがやってください!」
「えー? やだよ俺、生き物嫌いだもん。甥子殿は?」
「断る」
「だとよ」
けろりと、何の罪の意識もなさそうに静を見る。
ただでさえ、猫の鳴き声で人々の注意を集めているというのに、そこに烈の大声の野次が加わり、少しでも手の空いた者は、わざわざ様子を見に駆けつけてくる始末。
その上、猫は出てこない。
「餌を置いてみたらどうですか?」
「いっそ、痩せるまで何日か待ってみては?」
「溝を壊すなら手伝いますよ!」
出てくる案はありがたいが、使えそうにもない。
「自力で出られるくらいなら引っ張っても出る。痩せさせると漢婦人に怒られる。っ最後の人、自分がやりたいだけだろう! その後はどうするつもりだ?!」
居合わせたのが、下位の者と官位を気にしない烈と戻で良かったと言うべきだろう。いいかげんうんざりとした静は、冷静さをどこかに置いて来てしまっていた。
そこに、のんびりと声がかけられた。
「あのー」
「今度は何だ!」
「いやあ、そこで猫を見つけたものですから。猫は柳上掾が集めていると聞いて・・・今は、お邪魔ですかな?」
「あ・・・瞬様。失礼しました。少し、気が立っていたようで・・・」
戻の養父、舜采[シュンサイ]に、静は慌てて非礼を詫びた。もっとも、袖がぼろぼろで血が滲み、その上ほこりだらけの格好では、どうにも様にならなかった。
采は、穏やかな笑顔ででっぷりとした三毛猫を抱えて立っていた。その傍らに、戻が移動している。
「いいえ、私のことは気にせずに。それもお仕事ですか?」
「はあ・・・まあ・・・」
「僭越ながら、少しお手伝いしましょう。この子を預かっていてもらえませんか」
「・・・はい」
三毛猫を戻に渡し、集まっていた人たちが自然に空けた隙間を通って、采は静の傍らに立った。溝の中の虎猫を覗き込む。
「これはまた、ずいぶんとしっかり挟まって。しかし、このくらいであればなんとか・・・・・・ほら、抜けましたよ」
采が軽く地面から何かを取るような素振りをしたかと思うと、一瞬、溝の幅が広がった。その間に素早く猫を持ち上げた。猫は、突然押さえつけるものがなくなって驚いたのか、目を丸くして大人しくしている。
「どうも、ありがとうございます」
「いえいえ。・・・あなたには、戻もお世話になっているようですから」
小さく囁かれた言葉に、はっと顔を上げる。育てていた「我が子」が皇子と判り、取り上げられ、敬語さえも使うようになっても、そこには変わらない親心があるように思えた。
静が何かを言うより先に、采は虎猫を渡して背を向けてしまった。
二人はいい親子だったのだろうと思うと、何か無性に、それを呆気なく握りつぶしてしまった皇帝に使えている自分が、惨めに思えた。
「やー、役立たずだったなあ、上掾」
「そうですね。将軍並には、役立たずだったと思います」
「言うようになったなあ」
苦笑いする烈を置いて、虎猫と、戻から受け取った三毛猫を抱えて、後宮の入り口に向かう静だった。後宮内に男は入れないが、入り口には常に小者がいるから、託せば良い。
とりあえず、今日はこのくらいですむだろう。
ちなみに、こんな猫騒動は、その後約半年ほど続くこととなった・・・。
「今からでも遅くはありません、輿にお乗り下さい。どこに誰が潜んでいるかもわからないのですよ」
「へえ。可笑しなことを言うな。俺が輿に乗ったからって、危険が減るって言うのか?」
「少なくとも、今よりは安全です」
「どうだか。北の氷王は、特製の船の中で謎の死を遂げたと聞く。不審者の侵入も無く、乗っていたのは信用していた家臣ばかりだと言うじゃないか」
意地悪く笑い、烈
良いなあ、俺みたいだ。
淡く笑い、眼を細める。まだ瑞々しい新緑は、綺麗ではあるがどこか眼に痛い。直射日光が眩しいようなものだろうか。
「・・・聞いておられますか」
「あ? 悪い、聞いてなかった。何か言ったのか?」
烈の素直すぎる言葉に、蓮は脱力した。これに関しては悪気は無いのだろうが、日頃の行いが悪いだけに、どうも疑ってしまう。
色々と苦悶する蓮を無視して、烈は周囲の気配に集中した。どうにも、誰かに見られているような気がするのだ。現在烈が連れているのは、老齢とさえ言える文官の蓮と、二人の乗っている馬だけだ。団体の山賊でも出てこれば、些か不味いことになるだろう。
本来であれば、烈は行列を組む義務と権利があり、実際、その手はずも整えている。ただ、その一行が主無くして先行して犀樋へ向かっているというだけで。
「炎王
「蓮」
奇妙に凪いだ声で、呼ぶ。視線は変わらず前を向いている。蓮は、己の失態を悟った。
「俺は誰だ」
平坦な声。解かってはいるのだ。この国で、この身分で、名を呼べなどという事が受け入れ難いものであるという事くらい。
それでも。
問うてしまうのだ。
「申し訳ありません、烈様」
結局、自分は『身分の高い誰か』なのだ。十分すぎるほどに解かっているはずの事に引っかかるのは、あの頃から成長していないからだろうか。妹を失い、己の無力さを知ったあの頃から。
冷笑一つでそれらを押しやると、烈は明るい笑顔を見せた。その裏にある何かに確信を憶え、蓮の顔が強張る。程よく涼しい風も、今の蓮には届かない。
「なあ、やっぱり一人で適当に行くことにする。金だけ置いていって、もし合流するなら、他の奴等にもそう伝えてくれないか」
この場合、確信が当っていたところで嬉しくない。蓮は、輿と共に移動している一隊の幻を見た。あの一隊から離れるときもこんな調子だった。あのときはなんとか、自分だけでも付いて行くことを許可させたのだが。しかも、「金だけ置いて」などと、強盗のような事を。
「反対か?」
「当たり前です! 何を」
「じゃあ、こうしよう。これは命令だ。そうすれば、従わざるを得ないだろう?」
悪魔が微笑む。苦い沈黙の後、無言で路銀の入った袋を渡して一礼して去ろうとした。と、かなり軽くなった袋が投げ返される。
「追いつくまでに、お前も金が要るだろう。くれぐれも山賊に襲われるなよ。ああ、虎にも気をつけろ」
蓮は、馬の足を速めた。
「さあて・・・。金華
言いいながら鞍や手綱を外し、一緒に積んでいたわずかな荷物も下ろす。馬を送り出すと、烈は大きく伸びをした。間を置かず、その背後に人が立つ。そのまま、首筋にナイフをあてた。
「金を出せ、か?」
皮肉っぽく笑う。刃が更に強く押し当てられ、皮の一枚でも切れたかもしれない。それでも、笑みは消えなかった。
「それとも、お前は何者か、かなあ」
「黙れ!」
「怒鳴ると、図星みたいでカッコ悪いぜ? それにこれ、喋りにくいし」
自分が多少傷つくのも構わず、強引に腕を外し、ひねり上げる。落ちたナイフは踏みつけた。
「危ないしな」
腕をひねり上げたまま、烈は襲撃者の顔を見た。思わず、感嘆の声が洩れる。
印象的な瞳だった。青と赤の中間の、深いアメジスト色の瞳が烈をきつく睨む。砂埃で汚れてはいるが、とびきりの美人だ。だが、見た人の注意が行くのは、やはりこの瞳だろう。一瞬見ただけでは、顔など覚えていないに違いない。
「へえ。俺も二人ほど美人を知ってるけど、張るなあ」
不意に、烈は手を放した。それまでおさえつけられていた相手は、素早く距離をとったが、油断無く烈を睨んでいる。十代前半にも見えるが、成長が遅れているのかもしれない。
山猫みたいだと思いながら、烈は微笑した。視線の主はこの少女に間違い無いようだが、何とも可愛らしい襲撃者だ。
「警戒しなくたって、取って食いやしないって。ほら、これも返す」
ナイフを少女の方へ滑らせる。
少女は、ナイフを拾おうともせず、疑わしそうに烈を見た。
「何を考えている」
「んー・・・。さあ?」
「ふざけるな!」
「いやあ、真面目だぜ? しかも、大真面目」
どこがだ、と怒鳴る少女を軽くあしらって、烈は唐突に、木に身を寄せた。ついでに、十分に距離のあったはずの少女を引き寄せて、半ば抱きかかえるようにして幹に身を潜める。
「なっ・・・」
「ちょっと黙ってて」
硬直した少女と道をうかがう烈の目の前を、皇族縁のものである印章を旗にしてなびかせた馬が走り去る。方向は、烈が向かうのと同じだった。伝令か、珍しい。烈は、そう心中で呟いた。そして、その顔に見覚えがあることに気づく。どこで、いつ。
「は・・・離せっ」
「ん? ああ。悪い。ちょっと見つかりたくなかったもんだから。あ」
さっき別れたばかりの金華――馬がこちらに走ってくるのを見て、烈は苦笑した。置いて行ったりしないのに、心配性だなあ、信用ないのかなあ。人ならいざ知らず、それ以外の懐いている動物を置き去るつもりは、烈には全くなかった。
真っ直ぐに駆け込んできて、背を見せる馬に飛び乗ろうとした瞬間。烈は襟首を掴まれ、後ろに倒れた。
「のけ! 何で俺の上に倒れるんだ!」
「そっちが俺の服引っ張るからだろ? 自業自得って言うんだぜ、それ」
タイミングのせいで情けないことになったと思いながら、烈は起き上がり、下敷きになってしまった少女に手を差し伸べる。
頭に巻いていた布がほどけてしまったせいで表われた茶褐色の髪の間から、紫焔
「馬鹿にするな!」
「は?」
「俺が女だからって、そうやって手なんか貸すな! 一人で立てる!」
「ああ・・・・。それは悪かったな」
勢い良く立ち上がった少女を、烈は改めて見た。所々擦り切れた、ぼろぼろの衣服。今はほどけているが、頭に巻いた布。両手には、包帯のような布が巻かれている。それも、砂埃で汚れていた。十二、三といったところか。栄養状態のせいか、「こけた」とさえ形容できそうな頬は、今は怒りに上気していた。
群れをはぐれた山賊か、路銀の尽きた旅人に見えた。
「ちなみに、俺は今から南東の犀樋
「・・・何のつもりだ?」
「俺に同行するつもりなら、あんな止め方はしないでほしいし、じゃなきゃ、ここでお別れだ。それを確認したいだけだけど?」
「何者だ、おまえ?」
「ん? 烈って名だ。淋烈
乗るよう促す馬をなだめながら、烈は表面だけの笑顔を、少女に向けた。高々皮一枚。いつも、烈はそう思う。
少女は、睨み付けていた目を逸らし、落ちたままになっていた布を拾い上げた。そして、俯いたまま呟くように言う。
「――李明
道中の話によると、少女は漢稀の東南にある小国の出身だった。ほとんど漢稀
「烈、おまえ本当に、何者なんだ?」
「ああ? だから、淋烈って・・・」
「名前じゃなくて! やたら金回りいいし、関所の役人とかも、横暴だと思ったら、あんたが話しに行くと、急に大人しくなるだろ。何なんだよ」
金華とは別に、近くの村で譲ってもらった馬と二頭並んで道を行きながら、明は烈を射殺しかねない勢いで見つめた。最初こそ、よそ見は危ないと注意していた烈だが、明の乗馬技術はなかなかのものらしく、心配は要らなかった。
「あー、あれは。ちょっとばれちゃいけないようなことを俺が知ってるって事を知らせただけで。で、予想は?」
「・・・・金持ちの三男坊とか、そこらへん。それか、強請
「大雑把だな」
「うるさい!」
あはははは、と笑った。
烈は、酷く冷静に、そんな自分を見ていた。この少女との会話は楽しい。十歳以上離れているだろう少女は、素直ではないが、それが逆に、物凄く素直だった。もし本当のことを言えば、どうなるのだろう。
「そういえばさ、何で俺を狙ってたわけ? 俺が何者かも知らなかったんだろ?」
「別に・・・・あそこ、あんまり人通らないから・・・・・・・誰でもいいかな、って・・・」
真っ赤になった顔を俯かせる。烈は、何故あそこにいたのかということは別にして、至極正当な理由だと思ったのだが、明にとっては恥ずかしいものだったらしい。
「それより、おまえの正体は!」
「ちっ、忘れてなかったか」
「当たり前だ」
冗談に紛れ込ませながら、烈は右腕につけた、金の装飾品に手をやった。そこには、皇室の紋章である莉華
「一応、皇族ってやつだな。っていっても、俺の兄弟は三十人くらいいて、俺はその二十・・・何人目だったかな」
何ら変化の見られない、軽い声と表情。明は、冗談なのかと疑い、烈の昏
「・・・それで?」
「おう。邪魔だからって、こうして国の端にとばされるところだ」
そう言って、烈は、やはり笑みを浮かべた。
「だからまあ・・・こういうことも起こるわけで」
木陰からの襲撃者を眼の端に留め、烈はあっさりと言い放った。
「ろくでもないな・・・」
何度目かになる襲撃者を撃退した夜に、明は呆れた口調で言った。小枝を折って、焚き火に放り込む。烈は、火であぶった団子を明に差し出した。明が、そんな烈を睨み付ける。
「何を考えているんだ、お前も、周りの奴らも!」
「食べないと、冷めるぜ?」
「腹が立つとか何かないのか、お前は!」
飄然とした態度を一向に崩さない烈に、明はいきり立った。
自分の命が狙われているというのに、何の危機感も見せない。そのくせ、襲撃者は確実に止めを刺す。その度に明は、自分もそんな目に遭ったかもしれないと思い、どこかで恐怖を感じていることに気づく。
だが烈は、呑気に団子を咥えている。
「烈!」
怒った顔が、炎に照らされる。烈は、そんな明を微笑ましく思った。そして、まだ残っている団子を、再び火であぶる。
「明、どこまで俺と来る?」
明が、どこか拍子抜けしたように、驚いた目を向ける。紫焔の瞳は、炎のせいで赤みを帯びていた。
「あと一日、いや、二日かな。明後日の夜には、朱焔に着くと思う。で、俺の予想によると、その直前に大襲撃がある。今までの比じゃないやつがな」
十数日前に見かけた伝令は、慶栢
手筈としては、烈に何らかの書簡を渡し、同時に近衛兵の誰かにも、令書なり何なりを渡すことになっていたのではないだろうか。氷王のように部下たちを丹念に選んだりはしなかったから、そういった仕事を請け負った者が紛れるのは、簡単だったはずだ。
――蓮の奴、生きてりゃいいが。
下手に伝令に声をかけていれば、口封じをされていないとも限らない。ここまででそういった死体は見なかったが、近隣に済む者が死体から衣服などを剥ぎ取っていれば判らない。
「・・・逃げろって、言ってるのか」
強張った表情の少女に、烈は軽く肩をすくめて見せた。
「別に。好きなようにすればいいんじゃないか。ただ、黙ってるのも不公平かと思ってね」
十分に火の透った団子を齧る。もう一本を、明に勧めた。今度は素直に受け取り、だが、食べようとはしない。
烈は、無言で団子を食べている。
恐らく朱焔に入れば、大掛かりな襲撃はないだろう。彼の地には、この国の重鎮の一人の近しい親族が住んでいる。今は敵とは言えないが、何かの拍子に弱みでも握られればまずいことになる。
そもそも、支援者も少ない烈に対して、無理を通すこともないように思えた。今回の襲撃も、成功すれば良し、無理であれば仕方ないといった程度のものでしかないだろう。
「それはどのくらいになる?」
「――下手したら、二人揃って死ぬくらいかな」
間が空いたのは考え事をしていたせいだったが、明がそこまで気付いたかはわからない。烈は口を閉ざして、食べ終えた団子の串を、火にくべる。
慶栢が本気でなくても、命令を受けた方は烈を殺さなければ報酬はもらえない。それでも何もなく到着するという可能性もあったが、それは敢えて口にしなかった。
「烈。俺は・・・・役に立っているか・・・・?」
戦闘力がそれなりあるという自負があったのだが、烈はその上をいった。明は妖人
そのとき烈は、役には立っていないと、ただの荷物だと言い切ることもできた。事実はどうであれ、そう言えば明を遠ざけることができた。
「いないよりはな」
明が、安堵したのがわかる。烈は、苦笑を浮かべながら、心の内で自嘲する声を聞いた。
「仕方ないから、ついて行ってやる。・・・その方が、食事代が浮くからな」
ただの憎まれ口だというのがわかる。
烈は、ようやく団子を食べ始めた明を見ていた。その姿に、別の少女を思う。それは未だ、驚くほどに鮮明な痛みを伴っていた。
「ひとつ、約束しろ。もし敵わないようだったら、必ず逃げろ」
「な・・・・っ」
「侮ってるわけじゃない。ただ・・・俺が、目の前で死ぬのを見たくないだけだ。俺のわがままなんだから、気に病むことはない」
団子を咥えたまま目を見張る明。烈は、炎を見た。その鮮やかさに、少し、目が痛い。
「・・・・十年くらい前に、この国で貴族の暴動が起こった。凄かった。あの一件で、王宮は見るも無残になって、今あるのは立て直したやつだ。――そのとき、俺の妹が殺された。明と同じくらいの年だった。皇族だから、殺された。俺はただ、蓮って奴に守られて、それを見てただけだ」
血族の中で唯一、親しい存在だった。夕
皇族だったから。
確かに、烈も夕も、貧しい生活など知らない。他に比べたら、随分と贅沢をしているかもしれない。
しかしそれは、望む隙間も与えられなかったことだ。そしてあの年齢で、烈はまだしも夕は、全て捨ててでも逃れるほどの力はなかった。それとも、例えば明のように、外に出て行くべきだったのだろうか。だが何故、より贅を尽くしていた兄たちは守られ、夕が殺されたのか。弱い者だけが被害を受けるのか。
「俺は二度と、目の前で・・・明みたいな年の奴が殺されるのは見たくない」
言外に、それ以外であれば構わないと言い切って。自分の前でなければ、知らなければいいと言い切って。烈は、最大のわがままを口にした。
明が、気まずそうに目を逸らす。
木の、はぜる音がした。
朱焔は、すぐそこだった。木にでも上れば見えるだろうくらいの距離になっている。そこで、道が交わっていた。半ば獣道のようなものとの、十字路になっている。
明は、その先に目をやった。馬は足を止め、少し先を行く烈も、聞こえない足音を訝り、馬を止めていた。
「俺、あっちに行くよ」
「・・ああ。行くあては?」
「ない。けど、何とかする。俺は妖人だけど、この眼は、普通の奴でもいないこともないし。馬、もらってもいいか?」
「これも」
烈は、革袋を投げやった。まだいくらかは残っていた金が入っている。
「もう必要ないからな。ここまで手伝ってくれた礼に」
昨夜の襲撃は、烈の予想通りに大掛かりなものだった。だが、生き残ったのは烈と明の二人だった。
ありがとう、と言った明に、烈は左腕につけていた装身具も投げ渡した。 蓮には怒られるだろうが、惜しくはなかった。
「楓の紋章を掲げた店でそれを見せたら、いろいろと計らってくれるはずだ。俺の知人たちがやってる組合だ。どこかで売ってもいいけど、そのときは莉華と印を削っとけよ」
「いいのか?」
「好きに使ってくれ」
明は、ふわりとした笑みを浮かべた。会った当初は予想もできなかったような、優しいものだった。
「ありがとう。――妖人だからって、変に違った対応をしないでくれて」
そう言って、明は去っていった。烈は、それを最後までは見送らず、金華に進むよう促す。
「礼を言うのは俺の方だって」
呟く。
久しぶりに、自分の名を聞いた。尊称も敬称もつかない呼ばれ方をしたのは、久しぶりだった。度々町に遊びには行くが、なんとなく別の名を言っていた。
「烈様!」
町の入り口では、蓮が待っていた。どうやら、無事だったようだ。
誰が今回の件に協力したのか、調べる必要があるだろう。もしかすると、今回連れて来た大半がそうかもしれない。とりあえず暇つぶしにはなるだろうと、口の端を上げて笑う。
「よお、蓮。ちゃんと生きて着いたな、心配してたんだぜ」
「心配をしたのは私の方です!」
「何で。よっぽど、若い俺より年寄りのお前のほうが危ないだろ」
「・・・・!」
声をなくして怒る蓮。烈はそれに、意地悪げな笑顔で返した。
空を見上げると、あの少女の瞳を思わせるアメジスト色をしていた。