
「山原!」
「うわっ・・・何するんだ、各務[かがみ]」
背後から体当たりを喰らわされて、柾木[まさき]はつんのめった。危うく顔からフェンスに激突するところを、右手を出して顔面強打だけは避ける。
「何、じゃない。さっきから手ふってただろ、反応なくて恥ずかしかったんだからな!」
「あー・・・悪い。気付かなかった」
「またかよ」
いかにも運動を得意としていそうな角刈り頭の各務は、わざとらしく溜息をついて見せた。
各務は、テニス部を途中で抜けてきたのか、いつものように大ホームランを打って球を拾いに来たのか、鮮やかな黄のリストバンドをして、左手にはラケットを握っていた。
さぼるにしても球探しにしても、ラケットは邪魔ではないかと、柾木は思った。
一方の柾木は、制服のままで手には画板と鉛筆その他。美術部員でもあるが、これは休んでいてできなかった授業の課題だ。
グラウンドの片隅で、各務は画板を覗き込んだ。見事に真っ白だ。
「今からか?」
「ああ。なかなか場所が決まらなくて。校舎でも描こうかと」
各務は首を捻った。この学校は山の中にあって、グラウンドも校舎へ通じる一辺を除いた三辺は、木が林立している。フェンス越しではあるが、絵に描くなら打ってつけのように思えた。
「お前、ちゃんと見えてるか?」
「見えてる」
「だけど、お前目悪いしなあ」
「一応は見えてる。さっさと部活に戻れよ」
柾木が、右手をはえを追い払うように払うと、各務はあからさまに顔をしかめた。
「お前なあ。もっと友人付き合いは大切にしろよ?」
「友人? 誰が?」
「ひどい!」
真顔で訊き返した柾木に、各務は「よよ」と泣き崩れて見せた。つくづく、見ていて飽きない。
柾木は、深々と溜息をついた。
「今度はなんだ?」
「生物のノート貸して」
「・・・美術室の鞄の中」
言い終えるよりも先に、「ありがとな!」と元気に言って、走り出していた。柾木は、それを見送るとまた、溜息を一つついて、校舎を描くべく場所を探して歩き始めた。
各務は、悪い男ではない。むしろ、自然とクラスのまとめ役になり、言葉が足りず付き合いの悪い柾木にも構ってくるほどには、いい奴だ。様々な意味であくが強く、ともすればうっとうしがられもするだろうが、善人には違いない。
生物のノートも、借りるあては他にも山ほどあったに違いなかった。
「また、あの騒々しいのか。、目が覚めてしもうたわ」
校舎に向かいながら、柾木はどこを描こうかと、視力の関係でぼんやりとしか見えない校舎に、適当に視線をはしらせる。
「一度、あ奴にはがつんと言ってやった方がよいぞ」
正面からか、それとも斜めからか。ひねくれて、見上げた図でもいい。束の間迷ってから、斜めから見上げたところにしようと決める。
「これ、柾木。何か言わぬか」
「少し黙っていてください、俺は課題があるんです」
「何?」
左耳に響く甲高い声は、実は柾木にしか聞こえない。しかし、幻聴でもない――はずだ。
「我に向こうてなんという口を利くか! 世が世なれば、八つ裂きじゃぞ!」
柾木の左肩の上で騒ぎ立てているのは、昔、山原家の奉っていた神であるらしい。柾木に言わせれば、既に零落しているのだから妖怪だ。どちらにしても、「この世ならざるもの」である。
山原の家系は、常に「見えぬもの」を見る目を持つ者を排出するが、柾木もその父も、例に漏れずで、おかげで日常生活では、大小様々な被害を被っていた。
不届き者と言われようとも、日々の目に見える生活こそが大切なのが現代である。一般に認められない能力は、害にしかならないものだ。
実際、視力が低下して以来、何故か「見る」能力も低下した柾木だが、そうでなければ、今以上に奇人扱いされていただろうことは想像に難くない。
「その世でなくて残念でしたね」
素っ気なく言い置いて、以降、一切取り合わない柾木だった。おかげで、課題の粗方終わった夕方には、耳鳴りがするかと思うほどだった。
基本的に、「見えざるもの」たちは、見えなければ声も聞こえない。それでも影響が及ぶことはあるが、それも見える者と見えない者とでは、影響力の差は段違いだ。
だから、今は見えていないため、声も聞こえないはずなのだが。波長が合うのかよほど力があるのか、奉っていた家柄か、聞こえてしまうのだ。
「柾木は、存外絵心があるな」
わめき疲れて少しの間黙っていた声が、今度は、思わず零れたような、ぽつりとした呟きを漏らす。
画板には、主線が掴めないほどに重なった線絵が張られている。鉛筆の線を残したまま水彩で着色するつもりなので、スケッチを終えるとすぐに、美術室に向かった。
校舎の中は薄暗く、視力が良くても下手をすると転びそうだが、慣れている柾木は、既に感覚だけで歩けるようになっていた。
「柾木」
「ええ」
いささか緊張した声に、柾木は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で応じると、前方を見据えたまま、美術室に入った。入り口の斜め向かいの窓際にある消火器には、一瞥も向けない。
教室に入ると、絵を描いているらしい二、三人と話をしていたらしい数人が一度、柾木に目を向けて、それぞれやっていたことに戻っていった。
柾木は、真っ直ぐに自分の鞄を置いていた机に向かうと、それを掴み取り、画板に絵を張り付けたまま、授業用の棚に戻した。着色は、明日の朝早めに来てやればいい。
翻した背中に、声がかかった。
「山原君、各務君が鞄いじってたよ?」
「ああ、知ってる」
「そうなんだ? 帰るの?」
「ああ」
準備室から出てきた少女は、制服の上から汚れよけに割烹着を着ていた。その割烹着も、無秩序な絵の具に彩られてしまっている。
じいっと柾木を見上げてから、年よりも幼く見える顔に笑みを咲かせた。
「学内展覧会、締め切り来週だからね? あのお社の絵でしょ、楽しみにしてるよ」
教室の片隅に立てかけられた絵は、二人の位置からは見えない。それは、昔はあったという山原の敷地内の社を、伝聞のみで想像して描いたものだった。完成には、もう少しかかる。
「成原」
「ん?」
「――いや、やっぱりいい。じゃあな」
途中でやめるな、気になるーッという元気な声を後にして、教室を出た。
できればすぐにでも帰った方がいいと、言ったところで従うとも思えない。ましてや、なるべく美術室には近付くなとでも言えば、どうなることか。
すぐ近くの渡り廊下まで行って、柾木は壁にもたれかかった。鞄を探って、紺の眼鏡ケースを取り出す。少し躊躇ってから、ケースを開けた。黒縁の、細いフレームの眼鏡だ。
「コト姫、いけますか?」
「分からん奴じゃな。さっきは無視しようとしたであろう?」
「気が変わったんです」
「まあ、我にはどうでも良いことよ」
くすりと笑った気配に、柾木は不服げに眉間にしわを寄せたものの、渋々と眼鏡をかけた。
授業中でさえ、頑固に最前列に陣取って使おうとしない眼鏡だ。眼鏡の役目はものを見やすくすること――視力強化だが、柾木の場合、それは見たくないものを見ることにも直結するのだ。
半透明の巨大アメーバやイクラほどの目玉の群、牙のある黒いもやなどが飛び交っていれば、授業どころではなくなる。眼鏡がなければ、気配程度で済むのだ。
はっきりと遠くまでピントのあった視界では、豪勢な和装の美人が立っていた。これが、山原家の祭神だ。
「なかなか喰いでがありそうじゃな。柾木、眼鏡をかけた方が男前じゃぞ」
「お褒めに預かり恐悦至極」
本来の姿に戻れて機嫌の良いコト姫に、柾木は素っ気なく肩をすくめる。見る者がいなければ、この姿を維持できないということだった。
コト姫に従って美術室の前まで戻り、消火器に視線を向ける。
黒い濡れたような、触れたら何か手にまとわりついてきそうな毛皮。紅い眼が、酔ったように濁っていた。強いて言うならば、ざんばらに毛を切られた大型の長毛種犬に似ている。それも、捨てられて人間に散々害を加えられた犬だ。
「見える」ときと見えないときとでは、その威圧感は比べようもないものだったが、柾木は眉をひそめるに留まった。
コト姫が近付くと、「犬」は毛を逆立てて、背筋の凍るような声を挙げて唸った。しかし、コト姫は口の端に笑みさえ浮かべている。
「主と我とでは、年期が違う、それさえもわからぬか?」
懼れげもなく手を伸ばすと、噛みつこうとするように一旦身を引いた「犬」に、無造作に触れた。ついで、雷のような鳴き声――悲鳴が長く続き、段々と弱くなっていく。
やがては、それも完全に消え去った。
「・・・これは?」
「可愛いじゃろう?」
無邪気に、柾木の足下にまとわりついてくる黒い子犬。やはり濡れたような毛皮だが、厭わしさはない。実際、可愛いとさえ言える。
柾木は、仏頂面でコト姫を見遣った。しかし、既に美人の姿はなく、代わりに日本人形のようなものが柾木の左肩に座っている。これも、コト姫には違いない。
「手を抜いたんですか?」
「何、害はない。只人には見えぬしな」
「・・・まあ、コト姫が言うならそうなんでしょうけど」
柾木は、少し困ったように呟いただけだった。
「あれー、まだ帰ってなかったの?」
明るい声に、柾木は慌てて顔を上げた。帰り支度を済ませた成原かすみが、出入り口からひょいと顔をのぞかせていた。
美術室からは、人の声が聞こえる。しかしそれは、現在の生徒のものではなく。美術室に鍵をかける成原を、柾木はぼんやりと見つめていた。
コト姫が元の姿に戻っているときは、別の位相の世界にいる。その間に、他の部員たちは帰ってしまったのだろう。
「あ! 眼鏡かけてる! 初めて見た!」
正面から柾木を見上げた成原は、無邪気に声を上げた。
「いつもかけてればいいのに」
「ああ・・・」
「似合うのに。かっこいいよ?」
「ま、俺には劣るけどな」
「・・・どこから湧いてでた、各務」
突然割り込んできた各務に、柾木は冷たい視線を向けた。相手は、ひでーっ、と言って明るくふてくされている。
成原は、そんな二人の様子に微笑した。そして突然、腕時計を見て慌てる。
「用事あるんだ、先帰るね、じゃあね、また明日!」
ぱたぱたと走り去っていく成原を見送って、柾木はようやく眼鏡を外した。かけ慣れていないのと、久々に色々と見たのとで、軽く眩暈がする。
「あれ、外すのか?」
「ああ」
「かけてた方が安全だぞ」
「俺にはこの方がいい。それより、どうしてここに?」
訝しんで見ると、各務はとりあえず帰ろうと言って、柾木を引っ張っていく。
「いやな。校舎に入るの見たから、丁度俺も終わったし、一緒に帰ろうと。途中でコピーとったら、すぐノート返せるしな。なのになかなか出てこないからさー」
ひらひらとさせる手には、外し忘れたのか、リストバンドがついたままだった。制服の袖から見えるのが、少し不似合いだった。
「あ、もしかして、俺邪魔した? えーっと、成原?あの子と帰りたかった?」
「別に」
「そ? なんだ、面白くない奴だなー。ところでお前、そんな子犬連れてた?」
思わず固まる柾木に気付かず、各務は、今の正木には何も映らない空間に手を伸ばした。耳元で、コト姫の「なんと・・・」という呟きが聞こえた。
「なあ、こいつって種類何?」
無邪気に訊いてくるが、見上げた柾木の左肩に、何かを見たような様子はない。そうすると、コト姫は見えていないのだろうが――「犬」には、どうにも触っているようだ。
「なあ?」
「――そこ、何もいないんだけど」
「え?」
きょとんと、不思議そうに見返された眼は、どこかあの「子犬」に似ていた。
そして、目を大きく見開く。
「えーっ? 何、嘘初めてだ、リストバンドしてるのに?!」
「――は?」
「何ナニ、なんで? やっぱ他に見える奴いると増幅されんの? なあ、お前は何ともないのか?」
ちょっと待て。
この反応はなんだ、もしかして、と、柾木はいやな想像をした。いや、違う、違うに決まっていると、首を振るが、呆気なくそれは無駄になった。
「だって、お前も見えるんだろ? 幽霊とか」
――仲間なんていらない、平穏な日常がほしいと、叶わない願いをかける柾木だった。
「じいちゃーん」
「おじいちゃーん」
昔ながらの日本家屋の中を、二人は走り回っていた。広い家ではあるが、走る必要はない。双子に父――二人から見れば、祖父にあたる――を探すよう頼んだ母親は、居間で頭を抱えている。
「いた?」
「いない。声、聞こえてないはずないよな?」
「これで聞こえてなかったら、よっぽどの難聴よ」
「ぼけてるってことは? じゃなきゃ、倒れてるとか」
「葵ちゃん。それ、そのままお父さんに言ってもいい?」
茜がそう言って微笑むと、葵は顔を引きつらせた。昔教え子だった父は、祖父に傾倒しているといってもいい。こんな台詞を聞かれたら、趣味のプロレスの技をかける実験体にでもされてしまう。
「あ、茜、それは卑怯すぎるだろ、って言うか、冗談だって」
「今度アイス、おごってね。サーティーワンのダブルがいいな」
「それってありか・・・・?」
「代わりにあたしが、シングルおごってあげるわよ。脅迫にしてはかわいいもんでしょ?」
葵は、肩を落とした。負けだ、白旗。そうぼやいて、溜息をつく。もしここに母がいれば、「やっぱり仲がいいわねえ、あんたたち」とでも苦笑して見せたことだろう。
実際、二人は仲がいい。この年齢で歳の近いきょうだい、特に異性となると普通は仲が悪いと、友人たちにも言われたことがある。しかしまあ、人それぞれだということだ。
「えーっと、それで? あと探してないのは?」
「なあ、やっぱダブルってのは・・・」
「葵。誰がそんなこと訊いてるのよ?」
半眼で睨みつける。顔を引きつらせてあとずさる葵には構わず、茜は右側は全部見て回ったし、と呟く。左は? と訊くと、まだ顔を引きつらせたまま葵が肯く。
そして、二人同時に。
「開かずの間」
葵が体勢を立て直して叫び、茜が首を傾げて言う。
「でも、あそこには入れないって言ったのはおじいちゃんでしょ?」
「入れない、だろ? かぎかかってたけど、それだってじいちゃんが持ってて、一人で入ってるんじゃないか?」
「何のために? ここ住んでるの、おじいちゃんだけだったじゃない」
今日二人がここに来たのは、この夏休み中に引っ越しの算段を立てるためだった。それまでは、正確には今も、祖父は一人暮らしなのだ。
「だからだろ。俺たちが来てるときは開かずの間だって言って入れないようにして、で、引っ越してくるとなるとそうもいかないから、見られても平気なように片付けでもしてんじゃない?」
「残念、ハズレ」
どこか楽しそうに、あっさりと却下する。
「それこそ、今じゃなくてもいいじゃない。なにも、今日明日に引っ越すわけじゃないのよ? 葵の言う通りだとしても、あたしたちが帰ってから、一人のときにすればいいことじゃない」
「あ、そっか」
「とりあえず、行ってみようか?」
「おう」
既に何度も訪れているので、どこをどう行けばいいのかは、ちゃんと判っている。二人は、最短距離と思われる行き方で、「開かずの間」の前にたどり着いた。
開かずの間といっても、他と特に変わっている様子はない。ただの板戸。ふすまでないところが不思議といえば不思議という、ただそれだけだった。そこを、祖父は「白蛇様が居られるから開けてはならん」と言っているのだ。
二人は、顔を見合わせた。少しして、葵が手を伸ばす。
「じいちゃん、いる?」
ノックにとどめて開けようとしないのは、小さい頃から「白蛇様の邪魔をしてはならん」と聞かされてきたせいかもしれない。
何の反応もなく、違うか、と二人が次の場所を考え始めたとき、部屋の中で音がした。思わず、体が強張る。引き摺るような、大蛇がいれば立てるような、足音。
息を呑んで硬直する二人に反して、板戸は軽い音を立てて開かれた。
「なんだ、そんなお化けでも見るような顔をして」
「じいちゃん・・・」
「おじいちゃん・・・」
揃って脱力する。常識的に考えてみれば、そのはずだった。祖父はこの開かずの間にいるかもしれない、とついさっきまで話していたにも関わらず、もしかしたらと思った自分達に、少し呆れる。
「なにやってんだよ、ここ開かずの間なんだろ? なんで、言った本人が入ってるんだよ。あー、びっくりした」
「おじいちゃん、足どうかした?」
「ああ、昨日ひねってな。そんなところに立ってないで、入るか?」
間髪入れずに頷いた二人のアタマからは、母が一人で居間で待っていることなど、とっくに消え去っていた。
中は、思っていたよりも狭かった。「白蛇様がいる」というくらいだから、広い、立派なものだと思い込んでいたのだ。ところが、ただの物置のような空間で、三畳もないかもしれない。
「なんだ。やっぱじいちゃんの作り話か」
「へーえ。さっきびびってしがみついてきたの、誰だった?」
じゃれ合う双子を見て、祖父は微笑んだ。こんな孫がいて、娘が無事に育って、素直な教え子は義息子になった。今はもういないが、妻にも出会えた。幸せだと思う。後悔などしようがないほどに。それでも、あれは正しかったのだろうかと、不意に考えてしまうのだった。
もう、五十年以上も前になる。裕福な家の、体裁ばかりを重んじた日々に反発して、この「開かずの間」に入ったのだ。当時は、「神依の間」と呼ばれていた。入る時には禊をしなければならない部屋に、そのまま入った。
『峰明さんは逝った』
ただ一言、それだけ。だがその時のことを、まだ覚えている。
白い着物に白い髪、濁った赤い瞳の女が、現れて淋しげに微笑んだのだ。そして、つぶやくように『ありがとう』と言って、消えてしまった。
その後、家は一気に傾いていった。経営の才能もろくになく、手に職があるわけでもない。傾き始めると、家を売り払うほどに落ちぶれるのはすぐだった。その中でどうにか教師の職につき、様々な教え子を見送って、妻に、義息子に会った。
そして――今に至る。
「でも、白蛇様がいないんだったら、どうしてここを開かずの間にしたの?」
なんかやばいもん隠してたんだって、と囁いた葵に拳骨をくらわせて、茜は祖父を見た。祖父は、優しく笑んでいる。
「昔は、本当にいたんだよ。恋人を、帰ってきたら結婚するという約束を交わした恋人を待っていた白蛇様がな」
「今は?」
「恋人と一緒に居るかもしれんな」
恋人は、仕事で出掛けた先で遺産に目がくらんだ親族に殺されていた。そしてそのことは、白蛇には知らされることはなく、逆に、恋人の帰りを待つ彼女を、家の守り役に仕立て上げた。そうして峰明の親族は、妖怪を妻に迎える非常識な親戚を持つこともなく、莫大な財産を手に入れたのだ。
買い戻すことのできた家に以前と同じく「開かずの間」を作ったのは、供養のつもりだったのかもしれない。小さなその一間は、広い家の中ではなくても、別段支障はなかった。――白蛇は、そんな小さな部屋で、長い間恋人を待っていたのだ。生来眼が見えず、闇の中で、ずっと。
「茜、葵! お父さん、見つかったの?」
「あ」
母の声に、ようやく当初の目的を思い出す。今行く、と応えて、三人は部屋を出た。
うららかな日中。半泣きの声が、城内をひそやかに走りまわっていた。
「サイ殿下! 殿下〜ッ、どこですかーっ」
「ここ」
「殿下ッ!」
一体何してるんですかこんなところでこんなところにいる場合じゃないでしょうあなたは本当に御自分の立場ってものを理解されているんですか言っておきますけど理解はしてるけど何もしないなんてくだらない言い訳は聞きませんよ大体あなたときたらいつも・・・云々。
滝のように続く随人の小言をあっさりと聞き流し、互いが豆粒ほどにしか見えなかった距離を全力疾走し、休む間もなく小言へと突入した彼がいいかげん息切れをして口を閉じるのを待ってようやく、花々へ向けていた視線を戻し、周囲に咲いているのに負けない花のような笑顔を向けた。
いい性格をしている。
「それで、何の用だ?」
幼い頃から子守りを任され――押し付けられている、王子よりも年長の随人は、息が切れていなければ、間違いなく大声で叱りつけただろう。しかし今はそれもならず、ただ一言。
「お戻り、ください」
「死んだか?」
白い大輪の花を掴んでの無造作な一言に、随人は息を呑んで青ざめた。
「――私を殺すおつもりですか」
「いやだなあ、どうしてそういうことになるんだ? 僕は、エーリクが死んだって嬉しくも悲しくもないし、第一、何の特にもならないじゃないか」
「そういうことは、口が裂けてもおっしゃらないようにと、何度も何度も何度も・・・ッ!申し上げたでしょう!」
「怒鳴らないでくれないか、難聴になる」
しらっと言ってのけて、王子は花々のあふれる庭園に分け入った。仕方なく、随人も後を追う。
何でもないような昼下がりだが、城内は緊張感の伴ったざわめきに包まれていた。今にも、この国の王が生を終えようとしているのだから、無理もない。
何人もの官位ある人々が傍室に控え、妻や子らが寝台を囲む。しかし、当然そこにいるはずの第一王位継承者は、こんな外れの庭にいる。
「殿下、どうか」
「エーリク、君に似合いの花をあげよう。これだ。意味は『忠義』、『誠心ゆえの盲目』。ぴったりだろう?」
「殿下・・・」
中心にだけ薄く黄色の入った、真っ白い花。薄い花弁が幾層にもなるそれを指し、王子はにっこりと笑う。隋人は、白皙の王子を不安そうに見守った。
淡い黄金色の髪が風にそよぎ、深い蒼の瞳がまぶしげに細められる。それは、一幅の絵のような光景だった。
そしてゆっくりと、王子は燃えるような花に手を伸ばした。細かな花弁に、愛しげに触れる。
「エーリク。僕は許していないんだ。人を殺して僕を手に入れようとしたあれをね。静かに死なせてやるんだ、少しくらいのわがままは聞いてくれてもいいだろう?」
王が戯れに手を出した旅芸人。男の子を産み、そして育ったのはその子だけだった。誰からも生まれることを望まれてなどいなかった筈の子供だった。
王子は、傷つけられ、火をつけられた仲間たちを見た。証拠を残さず口を封じるために、あの男は一座を焼いた。
何もできない僕を許してくれと言うのは容易く、子供であったことに甘えるのも容易い。王子が決めたのは、決して忘れぬということだけだった。
王子の触れた燃える花の意味は、「消えぬ罪」。
――鐘が、鳴り響いた。
「死んだか」
静かな呟き。
これで、街は喪に服すだろう。そして官位ある人々は、早急に継承者を王へと押し上げる。そうして、世界は変わらず回る。
王子は、鐘の音に深く頭を垂れた隋人の頭をはたき、にっこりと笑った。
「ところでエーリク。僕はこんな国なぞ姉君たちにくれてやるつもりなのだけど、君はどうする?」
「―――――!?」
言葉を失って立ち尽くす随人を、王子はくすくすと笑いながら真っ直ぐに見上げた。
「説得は無理だよ。さあどうする、力ずくで止めるか? 一度も剣術で勝ったことのない僕を。それとも、この報せを持っていって首をやるのか? 誰一人喜ばないだろうね。僕のお薦めは、一緒に来ることだ」
ただ目を見張る随人から目線を逸らして、王子は自然に葉々に手を伸ばした。この庭は、おそらく手入れの職人を除けば王子が一番詳しい。
「この間、知り合いを見かけてね。僕たちを売った男が、どうやら金をせびりに来たらしい。よくまあ生き延びていたものだよね。おまけに、また来るほど面の皮も厚い。いくらか老けていた。この男に、馬車を用意させた」
「殿下?!」
「脅して、報酬をちらつかせればすぐだったよ。さあ、決めたか? あまり時間はないぞ」
改めて王子の様子を見ると、彼の頭上にある木の幹には、枝や葉で判りにくいところに目立たない色の袋が結いつけられていた。
随人は、覚悟を決めた。
「殿下。今まで、随分迷惑をかけられて心配もさせられましたが・・・楽しかったです。どうぞ、よい旅を。そして生涯、安からんことを。・・・私は、誰に望まれなくとも罰を受けます。あなたが、それで悲しむことがないのがせめてもの・・・」
「はあ? 何を言ってるんだ?」
「だって、殿下・・・私が死んでも悲しくないと・・・」
「僕は、どうでもいい奴は誘わない。それに、エーリクがいないと悲しくはないが淋しいよ」
随人は、不意打ちを食らって呆然とした。王子が軽く、そしてどこか嬉しそうに溜息をつく。
「ちなみに、馬車を降りてすぐに男を撒かなければならない。どうせ、一旦逃がしてから通報して、両方から金をもらおうって魂胆だろうからな。それに、ごろつきやなんかと渡り合わなければならないと思うから、腕が立って信頼できる相棒がいてくれると随分と助かるんだが?」
「――。あなたよりも、腕が立たなくても良ければ」
「よし、決まりだ」
身軽に木に登り、袋を二つと目立たない色のフード付のマント、剣を一振り下ろしてくる。そのうちの袋とマントを一つずつ、随人に投げ渡した。袋が、ずしりと重い。腰の愛刀と合わせると、かなりな重さになるだろう。
王子は、楽しそうに先導した。抜け道を知ってるんだと言って、足取りも軽く歩いていく。
「そうだ、エーリク。さっきの言葉には異論があるからな。お前、いつも僕相手だと加減してただろう」
「いえ、そんな・・・」
「それと、外に出たら上下はなしだ。一度本気で手合わせしような、相棒」
そう言って笑うと、王子は土に埋もれた塀の一部を蹴りとばし、外へとつながる小さな通路を示した。
そうして、二人は外へ出た。
以後のサイとエーリクの行方は、吟遊詩人たちの語る通りである。