
そのとき劉貫詞は、蘇州にいた。
出身は洛陽なのだが、安史の乱に巻き込まれまいと故郷を後にし、鎮圧された今なお、ふらふらとしていた。日々というのは、案外それなりに生きていけるものだと思った。
「おっと、すみません。前をよく見ていなかった」
青年の涼やかな顔を、思わずぽかんと見上げる。鼻筋の通った美男子で、気品もあり、賢そうだ。これは人種が違うなと、ぶつかられた劉は、ほとほと感心した。
「何か?」
「え。あー、いや。こっちも悪かった。ちょっとぼーっとしてた」
小道で行き会った青年は、蔡霞といった。
そうして、どこをどう気に入られたものか、気付けば、酒食を馳走になっていた。
頭の回りが早いからか、蔡の話は実に面白く、ほろ酔い気分も手伝い、劉は、滅多になく楽しいひと時を過ごした。これは随分とついている日だと、満足げな息がこぼれる。
「ところで」
既に手酌になっている酒を注ぎ、蔡は首を傾げた。子供のような仕草だが、線の細いこの青年には、よく似合う。
「兄上は、広く世間を渡り歩いておいでのようですが、どのような目的からですか?」
「ただの物乞いだよ」
劉の方が年長だからと兄と呼ぶが、蔡のように、姿かたちも家柄もずっと優れた青年に言われると、こそばゆいものがある。
それにしても、俺が学者や学生みたいに大したことをしてるとも見えないだろうにと、少し呆れながら、劉は肩をすくめた。
霞は、わずかに微笑したようだった。
「何か目的があって、郡国を見聞しているのではないのですか?」
「金が溜まるまで、風の吹くままに行くだけだ」
「では、どのくらい手に入れれば止めるのです?」
「十万だな」
たった今思いついた金額だが、ただの戯れだ、大きく言ったってかまわないだろう。
そう思っていると、真に受けたのか、蔡は思案顔になった。
「あてもなく十万を求めるのは、翼がないのに飛ぼうとするようなものですよ。例えどうにか得られたとしても、数年を費やします」
「まあ、そうだなぁ」
「どうでしょう、兄上。私は、洛陽の辺りに住んでいました。事情があって故郷を避け、便りも久しく絶えていますが、懐かしむ気持ちはあります。兄上も洛陽のご出身ということですが、戻って言伝を頼めないでしょうか。私は貧しくはありませんし、洛陽への旅に時間を充てても、気ままな旅をするという望みは、そう年月をかけすとも実現します。如何でしょう?」
「言うまでもない」
書生というのは回りくどい言い方をするものだと感心しつつ、劉は、思いがけない話に同意した。いずれは戻るつもりでいたのだから、不都合もない。勢いというものは大切だ。
蔡は、秀麗な顔に淡い笑みを浮かべると、懐を探って小さな袋を取り出した。わけもわからず受け取って、重みに目を瞠る。のぞいてみると、相当の貨幣が納まっていた。
「これをどうしろって言うんだ?」
「路銀に使ってください。少々お待ちを。今、手紙を書きます」
「ちょっと待て!」
「はい、お待ちください」
にこやかだか喰えない笑顔で、平然と言葉を受け流す。いくら頼まれて行くからといっても、この額は多い。枚数を数えなくても、そのくらいは判った。
ところが蔡は、「貧乏ではないと言ったでしょう」「失礼とは承知ですが、今はこのくらいしか報いる術ができないのですよ」と、劉の言い分など聞こうともしない。
やがて、書き上げた手紙の墨を乾かすと、折り畳んで差し出した。
「突然のことで、ちゃんとした御礼もできません。ですから、誠意を示しましょう」
礼どころか、おつりが返る。そう言う劉を黙殺して、蔡は、心持俯かせていた顔を、すうと上げた。
「私の家長は、鱗のある動物です。渭水の橋の下に住んでいます」
突然の告白に度肝を抜かれたが、言われてみれば、青年のかもし出す雰囲気は、常人とは異なる。家柄のせいと思っていたが、あたらずとも遠からずといったところか。
それにしても、龍だとは。
信じきれず蔡をまじまじと見てしまうが、青年は、平然と言葉を続けている。
「目を閉じて橋の柱を叩けば、きっと応じる者があり、迎え入れて住まいにお連れするでしょう。母に会われるときは、妹に会いたいと頼んでください。わたしたちは兄弟の契りを交わしたのだから、いい加減な扱いはしないでしょう。手紙にも、妹に挨拶をするよう書きました。妹は若いけれど生まれつき頭の回転が早いから、妹に任せれば、十万の贈り物も、きっと承諾してくれるでしょう」
思いつきで口にした金額を、律儀に礼として与えようとしてくれている。いささか慌てて断ろうとするが果たせず、いつの間にか、蔡の言う条件で話はまとまってしまった。
どうしたものかと思ったが、相手が納得しているのだから問題はないのかもしれない。龍と人では感覚が違うということも考えられる。
そんな理屈をこねて、酒盛りの翌朝、早速、劉は旅路に着いた。
久方ぶりに帰り着いた郷里は、年月というよりも戦乱で大きく変わっていたが、劉は、昔我が家のあった場所に行くのも宿を取るのも後回しにして、渭水の橋のたもとに足を運んだ。
川は深く、流れも速い。さて、どうやって、おそらくは水の下にあるだろう蔡の実家にたどり着いたものか。
「まあ…龍神が、わざわざ俺なんかを騙すはずもないか」
呟いて、目を閉じて橋の柱を叩く。鈍い音がした。
「どちら様ですか」
返事があったが、近くには誰もいなかったはずと目をあけると、橋も川も消え、朱色の門の豪邸があった。門の向こうに、大小様々な楼閣が建ち並んでいる。
「うわ…」
これが、噂に聞く龍宮か。
唖然としてそんなことを考えていると、声の主らしい紫の着物の男が、両手を胸の前で重ねて組んで、敬礼をした。
「どのような御用でしょう?」
格式張った使用人に、咳払いをひとつ落とし、慌てるなよと、自分に言い聞かせる。
「呉郡から来ました。お宅の若君の手紙を持っています」
「お預かりしましょう。少々お待ちください」
「いえ、用事はそれで済ん…おーい」
予想以上の豪邸に、手紙を渡して帰ろうかと思ったのだが、使用人は、滑るようにして門の内に姿を消してしまった。
仕方なく、豪邸の様子を半ば呆れ、半ば感心して眺める。それにしても、ここは地上なのか、水中なのか。息はできるが、地上にこんなものがあれば誰もが知っているはずだ。
劉は、しばらくして戻ってきた使用人を、少しばかり意外に思った。金持ちの家の取次ぎは、長くかかると相場が決まっているというのに、随分と早い。これも龍だからか。関係ないか。
「大奥様がお呼びです」
「いや、俺はこれで」
「どうぞ、こちらです」
帰ろうにも、ついてきて当然とばかりに劉が動くのを待っている。ここで行かないのも失礼かと思い直すが、どうにも、龍というものは人の話を聞かないのかもしれないと、蔡の涼やかな顔を思い出して溜息をついた。あるいは、蔡一族の傾向か。
「そのー、大奥様は、どんなお人…って人じゃないのか。方ですか?」
「会われれば判ります」
そりゃそうだ、という言葉は腹の中だけに収めておくことにした。
案内された大広間では、その大奥様が待ち構えていた。四十歳ほどの年齢だが、美しい容姿をしている。服は全て、そろいも揃って豪奢な紫色だ。
お辞儀をすると、丁寧なお礼が返ってきた。そうして、じっと劉の顔を見つめる。
「息子は遠くに行ったまま、長く便りが途絶えておりました。数千里の距離を経て、手紙をお持ちくださったことに感謝します。あれは若い時分に上官の機嫌を損ね、その恨みが未だ消えていないのです。逃げ去ってから、何年もの間音信が途絶えておりました。あなたがおいでくださらなければ、心配は尽きなかったでしょう」
そうした長い礼を述べると、劉に座るように勧めた。そこでようやく、口を挟む余地が見出せた。
家に入る方法が言われた通りだったのだから、他の忠告にも従った方がいいのだろう。
「息子さんと、兄弟の契りを交わしました。彼の妹は、すなわち私の妹です。妹さんにも、お目にかかりたいものです」
「息子も、手紙にそう書いておりました。娘は、今、ちょうど身支度の整った頃でしょう。間もなく、出てきてお目にかかりますわ」
「お嬢様が参られます」
突然に、青い服の者が先触れに訪れ、足音のなかったことに驚いた劉は、しかし、すぐにそれどころではなくなった。
姿を見せたのは、十五、六の少女。皇帝さえ射止めそうなほどの美貌で、見るからに頭が良さそうだ。うっかりと、見とれてしまう。
少女は、挨拶を済ませると母親の側に座り、食事の用意をするよう命じた。あっさりとしたつれなさは、蔡に通じるものがある。さすがは、兄妹。
手が込んでいる食事を向かい合って食べていると、夫人は、劉をじっと見つめた。みるみる目が赤く染まる。龍にはよくあることなのだろうか、一体何事だろうと思っていると、少女が、慌てて母親に話しかけた。
「兄様が頼んで来て下さったのよ、しばらく礼を守ってくださいな。まして、愁いを解消してくださったのですよ。動揺させてはなりませんわ」
そうして、美しい笑顔を貫詞に向ける。
「兄の言いつけでは、十万の銭をお贈りするようにとのことですが、重くなりますので、軽く致しますわね。今、椀をひとつ差し上げます。その値が十万に相当します。如何でしょう?」
「既に、私達はきょうだいです。ただ手紙を持ってきただけのことで、どうして贈り物を受け取れるでしょう」
慣れない言い回しを口にしてはみたが、今度は夫人が口を開く。
「あなたが、手元不如意で各地を渡り歩かれていることを、息子は詳しく述べています。あれの言い分に沿いたいと思います。断ってはなりませんよ」
「はぁ…ありがとう、ございます」
気圧され、つい礼の言葉を口にしてしまう。
そうすると夫人は、使用人に命じて椀を持ってこさせた。やはり、龍は我を通す。それとも単に、俺が流されやすいのかと、疑いを抱く劉だった。
「どうぞ、召し上がってくださいませ」
「はい…いただきます」
そうは言ったものの、夫人は、またもや目を瞠ってじっと劉を見据え、目を赤く染め、口の両端から涎をこぼしている。劉が声をかけるよりも先に、娘が、慌てて母親の口元を袖で隠した。
「兄様は、心から信頼して手紙を人に託されたのですよ。このようなことをしてはなりませんわ」
少女は、母親に言い聞かせ、困ったように劉を見つめた。
「母は年で、気の狂う発作が起きて、きちんともてなすことができません。お兄様は、しばらく外でお待ちください」
そうして、心配そうにしながらも青い服の召し使いに椀を持ってこさせると、少女も劉について行き、椀を手渡した。
「これは、m賓国の椀です。m賓国ではこの椀で災厄を鎮めるのですが、唐の国の人がこれを得ても、使い道はありません。十万を得るために、これを売って下さい。それ以下では売らない方がいいでしょう。私は、母の病のために、いつも側にいます。申し訳ありませんが、最後まではお見送りできません」
そう告げて、お辞儀をして屋敷に戻っていく。
あっさりとした別れに未練がましく姿が消えるまで見送り、劉は、椀を持って外に出た。
ところが、数歩進んで何気なく振り返ると、豪邸と門は姿を消していた。深い川も高い橋も、一瞬たりとも姿をくらましたことはないと言わんばかりに、はじめに見たときと同じ姿で在った。
思わず、瞬きを繰り返す。
夢でも見たかと思うが、椀がある。もっとも、両掌に収まった椀を見てみると、ただの黄色い銅の椀だ。どうみても、三〜五銭がいいところだろう。
「うーん。あの子の思い込みなのかなぁ」
そうでなければ、価値観が違うのだろう。龍だからか、母親も少し様子がおかしいようだったから、何か気を患っているのかもしれない。
そうは思ったが、せっかく善意でくれたものだ。試しに、市に持っていってみることにしよう。もしかすると、本当に値がつくということもあるのかもしれない。何しろ、龍のくれたものだ。
市に持っていくと、七百や八百なら、あるいは五百なら、という者がいた。
蔡からもらった路銀はまだ手元にあり、劉は、その値段で手放してしまっても問題はない。だが、龍神は信義を尊び、人を欺くことはないという。十万以下で売るなとの言葉を無視してしまうのも、なんだか申し訳ない。
そんなこんなで劉は、毎日、椀を持って市に行くことになった。ついでだから、他にも細々としたものを売って、それでどうにか食べていけるくらいには稼げるようにもなった。
龍宮を訪れてから一年以上が経ったある日、店に西域地方の客がやってきた。それ自体は珍しくもないが、並べてある品物の中から椀を見つけると、やたらに喜んで値段を尋ねてくる。
「二十万でどうだい?」
高値で吹っかけるのは商売の基本で、あとは、客と店主がどれだけ値切るかにかかってくる。それにしても高すぎる値段だが、客は、平然と首を振った。
「品物ッてのは適正な値段でなくッちゃ。どうして、二十万なんて安値がつくンだ? だが、唐の宝じゃァない。これがあッたところで、何一つ利益はないね。せいぜい、場所を取るくらいだ。十万でどうだ?」
訛って少し聴き取りにくい言葉の内容に、呆気に取られる。こんな椀に十万の値をつけることもだが、それよりも高値だと言いつつ値切るとは、どんな考え方をしているのだろう。普通、ほしくない素振りでガラクタ扱いをして、安値を口にするものだ。
ここで強く出れば、もっと高値で買うのかもしれない。だが、龍たちと約束をしたのは十万だ。これ以上粘ることも、他の買い手に高く売ることも、約定とは外れる。
「ああ、いいよ。十万だ。今払ってくれるかい?」
「言ッたな。ちょっと待てよ」
ぽんと出された代金に、よくもそんな重いものを持ち歩いていたものだと、少し呆れる。
異国の客人は、劉の気が変わらないうちにとでも思ったのか、そそくさと椀に手を伸ばし、大事そうに懐に忍ばせ、満足げに息を吐いた。そうして、ちらりと劉に視線を向ける。
「これはな、m賓国の鎮国椀だ。m賓国にあッてこそ、人の病気や災難を払う。これがなくなッてからッてもの、国は大荒れ、戦争だッて盛ンだ。俺の聞いた話じゃァ、龍王の子に盗まれて四年近くが経つらしい。王は、国の半年の税収で取り戻そうとしてンだ。あんた、どうやッてこれを手に入れた?」
うまく品物を手に入れたら、来歴に興味が湧いたらしい。劉も、盗品だったと聞いて興味を覚え、事細かに事情を話した。
はァんと、客は鼻を鳴らした。
「m賓国の守護龍が天帝に上訴して、指名手配してた最中だ。これが、蔡が故郷を避けたッて理由だな。異界の役人は厳しいから、自首ができないンだ。あんたを使って、礼を口実に元に戻させたンだろう」
あの礼儀正しいく美しい青年と少女が、と思うが、客は、得意そうに頷いて一人で先に進める。
「丁寧な言葉で妹に会わせたのは、親しみからじゃァない。十万を渡すって聞いて機転を利かして椀を渡すだろうッてのと、老母の龍が浅ましく、あんたを食べようとするのを防がせたんだろう」
「しかし、それなら手紙にそう書いておけばいいだろう?」
「途中で、誰に読まれるか判ッたもンじゃァないだろ。あんたとか」
「俺は、頼まれた手紙を勝手に読んだりはしない」
「ああ、そうかもな。でも、うッかりと見えちまうッてことや、宿の同宿人が覗き見するッてこともあるだろ」
「でも…食べられそうになんてならなかったし」
そう言うと、それまでどこか小馬鹿にしたようなところのあった異国の客は、わずかに、哀れむような色を滲ませた視線を寄越した。
「気付かなかッたのか? あんたが飯食ッてたときに、涎こぼして、目を赤くしたんだろ。そりゃァ、今にも本性現して、ぱくりとやろうとしてたッてことだろうよ」
まさかと思うが、少女の慌てた様子も思い出され、夫人の目つきを思い出すにつれ、否定できなくなってしまった。
「だけど…それならそうで、危険がないように配慮してくれたってことだろう?」
「そりゃァ、気も配るだろうよ。死なれたら、折角の計画がパーだ」
「計画?」
男は、今度こそ呆れた目を向けた。
「これをあんたが売り払ッて、買ッた奴はm賓国に持ち帰る。十万も払うンだ、知ってる奴しか買わンだろ。盗品が戻れば、指名手配も解けるッて寸法だ」
客は、言いながら椀の入った胸元をそろりと撫でた。
「これが再び世に現れたら、蔡も戻ッてくるだろ。喜びいさンでな。五十日後、漕水や洛水の波が上がッて、太陽を隠して暗くするだろ。それが、霞が帰ッた日だ」
「何故、五十日後に帰るんだ?」
「俺が椀を持ッて山道を越えて、国に戻るからだ。じゃァ、邪魔したな」
話しきって満足したのか、どうやらm賓国出身だったらしい男は、あっという間に姿を消した。
なんとなく裏切られたような気分になったが、考えてみれば、劉は何一つ損はしていない。むしろ、得をしている。それなら、むしろ礼を言うべきなのだろうか。
首を傾げて、劉は立ち尽くしていた。美男の蔡と違って、劉がそんなことをしても、首筋を痛めたかのようだった。
「まあ…龍だしなぁ」
そういう問題だろうか。
五十日後、川まで行ってみると、たしかに大波が上がっていた。蔡は、故郷に帰れたようだ。
そのとき蔡霞は、蘇州にいた。
出身は洛陽なのだが、わけありで故郷にも実家にもいられず、この地に移ってきた。もう、数年になるか。
別段家族を大切に思っていたわけでもなく、これはこれで面白いと思っていた。――当初は。この頃ではいい加減、逃亡生活にも飽きてきた。妹あたりと、他愛ない無駄話をしたいとも思わないでもない。
「おっと、すみません。前をよく見ていなかった」
ぼうっとしていた蔡は、素直にそう言って謝った。小道の曲がり角でのことで、どっちもどっちといった状況だ。蔡は、そんなくだらないことでも因縁をつけて喧嘩を吹っかけてくる人間がいると知っていたが、今回は違ったようだ。
ぬぼっとした男は、二十を幾つか超えたところだろうか。蔡の外見よりは、幾つか年長か。
男は、蔡の顔を驚いたように見つめた。度々あることだが、あまりにあからさまだった。あからさま過ぎて、腹立ちよりも可笑しさがこみ上げてくる。
「何か?」
「え。あー、いや。こっちも悪かった。ちょっとぼーっとしてた」
そう言って、呑気に笑う。
その瞬間に、ひとつの策を思いついた。今の状況を、変える方法。人選を間違えなければ、上手くいくかもしれない。
「旅の途中ですか?」
「あー、まあそんなもんか。あちこち、歩き回ってはいる」
「では、色々とご存知でしょうね。私は、董家の書生の蔡霞と申します。よろしければ、お話などお聞かせ願えませんか?」
不思議そうに目をしばたかせた男は、劉貫詞と名乗った。
酒と食事を交えて話をするうちに、男が、経歴に似合わず呑気な性格だということがわかった。頭が悪いわけではないのだが、鈍さとお人よしが、利発さから遠ざけている。
ある種、人の上に立つ人間にとって、得がたい人材といえるかもしれない。この男の忠誠を得られれば、そこそこ使えて裏切りの心配のない部下ができる。
「ところで、兄上は広く世間を渡り歩いておいでのようですが、どのような目的からですか?」
「ただの物乞いだよ」
もちろん本当の兄というわけではなく、劉の方が年長ということにした方が無理がないからだ。
苦笑して肩をすくめた劉は、卑下するでもなく、苦笑いするようにして言った。楽なこととも思えないが、不満がなさそうなところが不思議だ。
まったく、いいところでいい人間にぶつかったものだ。
「何か目的があって、郡国を見聞しているのではないのですか?」
「金が溜まるまで、風の吹くままに行くだけだ」
「では、どのくらい手に入れれば止めるのです?」
「十万だな」
「あてもなく十万を求めるのは、翼がないのに飛ぼうとするようなものですよ。例えどうにか得られたとしても、数年を費やします」
「まあ、そうだなぁ」
そう言いながら、酒でほんのりと顔を染めた劉は、何一つ気負うものがない。いっそ、見ていて羨ましくなるほどだ。もっとも、蔡が心底立場を交換したいと思うことはないだろう。
蔡は、笑みを置いて劉を見つめた。
「どうでしょう、兄上。私は、洛陽の辺りに住んでいました。事情があって故郷を避け、便りも久しく絶えていますが、懐かしむ気持ちはあります。兄上も洛陽のご出身ということですが、戻って言伝を頼めないでしょうか。私は貧しくはありませんし、洛陽への旅に時間を充てても、気ままな旅をするという望みは、そう年月をかけすとも実現します。如何でしょう?」
「言うまでもない」
即座に話に乗ってきた。実際、滅多にない儲け話なのだから、のらない馬鹿はいないだろう。さして金銭に執着のなさそうな男ではあるが、必要なものくらいは判っているのだろう。
蔡は、懐を探って財布のひとつを引っ張り出すと、中身を確認することもなく劉に渡した。渡された方は、訝しげに中を覗き、驚いた顔をした。
「これをどうしろって言うんだ?」
「路銀に使ってください。少々お待ちを。今、手紙を書きます」
「ちょっと待て!」
「はい、お待ちください」
今更何を断る必要があるのかと思ったら、なんと、返そうとしてくる。知識と情報さえあれば人界で金を稼ぐくらい造作もないことなのだが、劉にとってはそうではないのだろう。
渋い顔で返そうとするのを、どうにか持たせる。
洛陽まで、まさかこの男は、ろくに金も持たずに行くつもりなのだろうか。折角の好意なのだから、素直に受け取ればいいものを。
書いた手紙の墨を乾かして渡すと、今度はあっさりと受け取った。「突然のことで、ちゃんとした御礼もできません。ですから、誠意を示しましょう」
さて、ここからが問題だ。
「私の家長は、鱗のある動物です。渭水の橋の下に住んでいます」
蔡が龍と聞いて、劉はわかりやすく目を向いた。信じ難い、と言うようにまじまじと見てくるが、負の感情や、嘘と笑い飛ばす素振りは見られない。
これなら大丈夫そうだと、蔡は先を続けた。
「目を閉じて橋の柱を叩けば、きっと応じる者があり、迎え入れて住まいにお連れするでしょう。母に会われるときは、妹に会いたいと頼んでください。わたしたちは兄弟の契りを交わしたのだから、いい加減な扱いはしないでしょう。手紙にも、妹に挨拶をするよう書きました。妹は若いけれど生まれつき頭の回転が早いから、妹に任せれば、十万の贈り物も、きっと承諾してくれるでしょう」
実際、妹なら、頼んだこともはっきりとは頼まなかったことも、しっかりと汲み取ってくれることだろう。
人のいい劉は、それからもしばらく話をした後、翌朝早くに旅立って行った。
「おかえりなさい」
久方ぶりに家に戻ると、家族や使用人が無駄なほど大々的に迎えてくれた。その間始終、にこやかに微笑んでいた蔡の妹は、母親が寝室に下がるとようやく、笑顔を脱ぎ去ってそう言った。
この妹は、よくよく猫を被っている。
「ああ、ただいま。色々とありがとう。助かったよ」
「そうね、大いに感謝してもらいたいわ。一角の人物ならともかく、ただの凡人を邸に入れるなんてって言われたり、お母さんを抑えたり、大変だったのよ。それでなくても、お兄さんの上官には色々と言われたし」
「悪かった。今度、何かしてやるよ。どこか連れて行こうか?」
「それじゃあ、どこに行くか考えさせてもらうわ」
つんと、素っ気無く応じる。しかし実際、迷惑をかけたには違いなく、蔡も文句は言えない。
それだけで自室に戻るかと思いきや、妹は、意外そうに首を傾けた。
「ところであの人。人間って、どれもあんなのなの?」
「いやいや、彼は、稀有な人材だよ。どうしたんだ、お前が興味を持つなんて珍しい」
箱入り娘で気軽な外出を禁じられているということもあるが、この妹は、機会があっても人界に出ようとはしなかった。
妹は、見かけだけは可憐な姿で、可愛らしく肩をすくめた。
「お兄さんが兄弟の契りなんて結ぶから、驚いたんじゃない」
「便宜上、そうなっただけだろう? もう二度と会うこともないんだ、どうということはないだろう?」
「…お兄さんって、やっぱりお兄さんよね」
「何のことだ?」
「少しは変わったかと思ったら、全然だもの。面白くない。あの人も、災難ね。お礼を言いに行くくらいしないの?」
妹の呆れたような発言に、蔡は、驚いて瞬きを繰り返した。一体、何を言い出すのだろう。
「礼なら、お前がやってくれただろう?」
「手紙のお礼じゃなかったの?」
「ああ、そうだ。ちゃんとしただろう?」
「椀を戻す手助けをしてくれたことに対しては?」
「何? 必要はないだろう?」
何故か妹は、深々と溜息をついた。
相応以上に報いているはずだ。路銀は渡し、ただ文を届けただけにしては法外な値の礼物も渡した。その礼物が戻るべきところに戻ることで、劉は望んでいた金を手に入れ、蔡は家で戻ることができるようになった。一挙両得だ。
どこに、礼など言う必要があるだろう。
「…あの人、一年以上も市場に立っていたわよ? その手間に、お礼を言う必要はないの?」
「金がほしかっただけだろう?」
あの椀は、みるべき者が見なければ、その価値には気付かない。その人物に出会うまでに、少々手間取っただけのことだろう。蔡には、感謝する必然性も、当然ながら文句を言われる心当たりもなかった。
だが妹は、呆れるように肩をすくめる。
「ちょっとないわよね、あそこまでの愚直さって。騙して悪いって思うものよ、まっとうな心を持つならね。もう自由の身なんだから、会いに行くくらいすればいいのに」
「気に入ったなら、お前が行けばいいだろう」
「厭よ。私が世話になったわけでもないのに、どうしてわざわざ」
お休みなさい、と告げ今度こそ自室へと去って行った。別に、劉に惹かれたとか人間に興味を持ったというわけでもないらしい。
ただの交換条件に拘るなんて妙な奴だと思いつつ、蔡も、数年ぶりの自分の部屋へと引き上げた。