
その日は、何の変哲(へんてつ)もない平日だった。家を出るときにごみ捨てを頼まれた克也は、藍色のランドセルを背負ったまま、透明のごみ袋を担いで家を出た。
「おらよっと」
この辺り一帯のごみ捨て場にごみ袋を半ば投げ捨て、克也は手についているような気がするほこりを払った。
そして、学校に行くべく一歩踏み出したとき、それは目に入った。
『まくら、入れるべからず』
おろし立てのマジックで書いたような角張った字が、克也の頭上数センチのところに貼ってある。ごみ捨て場横の電柱に、いつ張られたのか、そんなことが書かれた紙があった。
電柱の前には、子猫でも捨ててありそうなダンボール箱。
「何だこれ?」
いぶかしげに首をかしげ、次いでまくらが落ちてないか探す。禁止されると、逆にやりたくなるのは何故だろう。
二分と数秒後、克也はぼろぼろになったクッションを手にしていた。捨てるつもりだったクッションがあったのを思い出して、わざわざ取りに戻ったのだ。まくらとして売られていたものではないが、ほとんどまくらとしてる使っていたのだから枕とも呼べるだろう。
「てい」
・・・投げ入れたが、何が起こるわけではない。ギャグ漫画のように、誰かが注意でもしに出てくるかと思ったが、そんな気配もなかった。
「あー・・・がっこ行こ」
少しふて腐れたように足を踏み出した次の瞬間、世界は一変した。
見慣れた街角が、一瞬にしてペパーミント色の壁に囲まれた大きな部屋に変わる。
「おめでとうございますっ、千飛んで二十三番目のお客様ですっ!」
突然、鼻がぶつかるほど間近に赤ん坊の顔が出現した。思わず、のけぞる。
「いやー、よくぞきてくれました、千飛んで二十三番目のお客様!」
「・・・すっげ半端じゃねえ、それ。ってかなんだよ、客って」
「あっ、珍しいですねー。大体のお客様は、放心してしばらく何も喋ってくれなかったり、かと思えば突然叫び出したりするんですよ。凄いですねー。ひょっとして、慣れてます、こういうの?」
「慣れるほど人外魔境じゃねえ」
克也が醒めた目で見ても、赤ん坊は一向に堪えた様子がなかった。むしろ、余計に嬉しそうなかおをする。
シーツに穴をあけただけのようなものを着た赤ん坊は、やたらと無邪気な笑顔を満面に浮かべ、地面から一メートルほど浮いていた。
「新鮮です、こういう反応」
「どうでもいいけどここ、どこ? どうやったら戻れるの? 俺がっこ行かなきゃ遅刻すんだけど」
「戻れませんよ」
数秒、あるいは十数秒、二人は笑顔のまま動きを止めていた。
「・・・なんだって?」
「だから、戻れないんですよ。あ。危ないですよ。次のお客様が着ます、のいてください」
赤ん坊に背中を押されながら、克也は頭の中をまとめるのに必死になっていた。
部屋の色や達者に喋って空に浮かぶ赤ん坊やと、あまりにうそ臭くて現実感がなくて取り乱さずにいたのだが、どうもそれもここまでのようだった。これが、もっと面白そうな世界ででもあれば、また反応は違ったのだろうが。
「待てこらッ」
思わず、赤ん坊の服のすそを掴む。赤ん坊は全くこっちを向かず、何か喋っているようだったがそれも耳に入らない。
「何がどうなってんのか今からゼンブ説明しろよそこの天使の出来損ない!」
「え、俺天使?」
「は?」
聞き覚えのある「大人」の声に、克也の頭は更に混乱した。見れば、赤ん坊は横にずれ、近所の大学生と正面から向かい合っていた。
「な・・・っ、なっ、なん・・・・・え?」
「俺、千飛んで二十四番目だって。お前が二十三番目?」
ジーンズにカッターシャツ姿のひょろりとした青年が、小首を傾(かし)げて立っている。毒気を抜かれたように、克也は唖然として立ち尽くしていた。
「いやー、こんなことなってたのな。俺、お前が消えるの見ちゃってさあ、すわ人体消失?!とかって慌てちゃったよ」
・・・今現在の状態は、慌てなくていいものなんだろうか。
呑気な性格のままに呑気なことを言う知人を前にして、克也は落ち着きを取り戻した。小学五年生の克也にとって、大学二年のこの青年は「大人」なのだが、よく克也たちでもやらないような間違いをやらかすのもよく見ている。
多分、冷静さを取り戻せたのはこいつの前で取り乱すのは嫌だ、という意地のようなもののおかげだろう。
そうは言っても、見下したり相手にしない他の「大人」一般よりよっぽど好きだし、落ち着いてみると一人だと心細い感もあった。この呑気な青年が巻き込まれてくれて良かった、と思うだけの余裕も出てきた。
「で、真兄ちゃん、ここからどうやったら帰れるか知ってる?」
「へ?」
思いがけないことを言われた、とありありと顔に書いて、真は固まった。その様子に、克也が溜息をつく。
「兄ちゃん使えねー」
「うう・・・」
「ま、しょうがないけど。それよりは、こいつ締め上げた方が早いかな、やっぱ。あーっ!」
克也の大声に驚いて真がその視線の先を見ると、中央に穴のあいたバンダナよりいくらか大きいくらいの白い布。
「あれ、あの赤ちゃんは?」
「・・・逃げられた・・・!」
怒りか絶望か知らないが、克也は力が萎えるのを感じた。どうしようどうしようと、そればかりが頭の中を駆け巡る。
それから救ったのは、真だった。
「おーい、克也。こっち、また変なのあるぞ」
克也の通う小学校の運動場くらいの広さがある部屋の、克也がいるのとは対角にあたるところで、真は右手で大きく手招きをしていた。その横には、何か書かれた白い紙のようなものが貼ってある。
手招きに引き寄せられるように歩き出し、次いで早足、駆け足、全力疾走とスピードを上げてたどり着く。思っていたよりも距離があった。
「元気だなー」
「うる、せえ」
息切れしながら、克也は壁に手をついた。ランドセルを背負って全力疾走なんてするものじゃない。
真はそんな克也の様子を、懐かしむようなどこか遠い目で見ていたが、克也はそれに気付かなかった。そんな余裕もなく、貼られた紙を食い入るようにして見る。
『灰皿、置くべからず』
電柱に貼ってあったのと同じマジックで書かれたような、同じ字体だった。まず間違いなく、同一人物が書いたものだろう。
だが、灰皿など持っていない。この部屋には、二人以外誰も、どころか何もない。この張り紙以外は。
だが真は、克也の途方にくれた眼と目が合うと、にっこりと微笑んだ。
「じゃーん、携帯灰皿」
どこかのみやげ物らしい絵と字の入った灰色の、ジッポに似た携帯灰皿。真が煙草を吸う様子など、克也には想像できなかった。だが、意外に似合っているかもしれないとも思う。
「ここ出たからって、どこに行くかわからないけど。行くか?」
「当たり前だろ。・・・でも、一個しかないじゃん」
「まくらって書いときながら、まくらに使えないこともない分厚く重ねたタオル縫っただけのやつ入れて、ここに出してくれた仕掛けだぞ? 二人でも何とかなるだろ。とりあえず、手でもつないどけばいいって」
明るく言って、克也に左手を差し出す。
「いいな?」
「おう」
真が、灰皿を地面に置いた。
蔵に箒を取りに行ったら、団扇を見つけた。
「うわ、年代物?」
つや光りする、竹の骨。
年月を経て黄ばんだ和紙には、どうやら魚が描いてあるらしい。
それでもこれは、まだ保存状態はいい方なのかも知れない。
この家――蔵があるからと言って、立派なわけでも金があるわけでもないのだが――の蔵には、果たして使えるのかどうか、怪しいような代物が山ほど転がっている。
一度、虫干しくらいした方がいいとは思うのだが、それにかかる手間と、どうせ出てくるだろうゴミの山を思うと、手を出さずにすまないものかと、つい思ってしまう。
言うなれば、この蔵は、そんな先人たちの思いが集約した場所だ。そしてついでに、不要物を押し込んでしまえという思惑も絡み、一層混沌としていく。
「あーっつー」
呟いて、何気なく仰あおぐ。思っていたよりも風が来て、これはいいやと、箒と一緒に外に出す。
現在この蔵は、ただの立派な物置だ。
「きゃーっ」
蔵を出た途端に聞こえた悲鳴に、一瞬だけびくりと身をすくませて、溜息をつく。どうせ、母に違いない。あの人は、やたらと叫ぶ。
声が少し遠いから、おそらくは家の中だろう。
頼まれたはき掃除は後にして、箒と団扇を持ったまま、勝手口に向かった。
「母さん? 今度は」
「きいっちゃん、助けて大変よ!」
「・・・何したの」
実年齢よりも、下手をしたら二十近くも若く見える母は、勝手口でしがみついてきたまま首を振った。
「何もしてないわよ、本当よ!」
「あー・・・わかった。じゃあ、何が起こったの? それととりあえず、中入れて」
「信じてないわね?」
「さすがは母さん、伊達に二十年近くも俺の母親してないね」
「そりゃあそうよ。きいっちゃんの考える事なんてお見通しなんだからね」
泣きそうだった顔からふくれっ面になって、得意気になって。二十年近くもこの人の子供をしていれば慣れるとはいえ、果たしてこれでいいのかと、少し思う。
どこをどうとっても、この人はこれが素なのだから余計に恐ろしい。
「・・・水だね」
「いきなり吹き出したの。ねえ、壊れちゃった?」
のいてくれない母をそっと押して家の中を覗き込むと、勝手口のすぐ近くの流し台の、蛇口から水が噴き出していた。思わず、声が漏れる。噴水ほどではないにしても、きらきらと飛ぶ水は、床をたっぷりと濡らしていた。
「ねえ、どうしよう。床上浸水とかしちゃわない?」
「・・・・・・」
この人は、これで昔は教師だったというのだから。
「とりあえず、雑巾持ってきて拭いて。何がどうなったのか知らないけど、パッキンが壊れただけみたい。交換すれば大丈夫」
蛇口をいじってそう告げる。
素直に母は、雑巾を取りに行った。その間に、吹き上がる水を、どうにか流し内に落ちるように手を加える。
しかし、今まで何の不具合もなかったパッキンがいきなり壊れるとは。一体何をしたんだあの人はと、密かに溜息をつく。
「母さん、パッキン買ってくる」
果たしてあれの正式名称はパッキンで良かったかな、売ってるのかなと思いつつ、財布を持って家を出る。
家を出て、直射日光の熱さに、せめて帽子くらいかぶれば良かったと軽く後悔する。そこでふと、ズボンに差し込んでいたらしい、ぼろ団扇に気付く。
「あれ」
いつの間に。
無意識の行動だろうと適当に納得して、一あおぎ。
「うわーっ!?」
「?」
公園の方から大きな声がして、高々と吹き上がった水が見えた。
公園には確か、蛇口の向きを変えられる水道があったが、あんなに高くまで吹き上がっただろうか。おそらくは、三階建て校舎に届くかと思うほどの勢いだ。
「・・・まさかなあ」
家で噴き出した水と、公園の噴き出した水と。その共通点を、あおいだ団扇に見出して、六割方冗談で考える。
この団扇をあおげば、水が噴き出すのか?
「まさか」
とりあえず団扇はズボンに差し込んで、道を歩く。
「おおい、お主。お主じゃよ、お主」
「――俺ですか?」
「そうじゃ。お主、良い物を持っておるな」
そう言って、老爺はにこにこと近付いてくる。変な爺だ、と思うが、祖父を思うとそう無下にも扱えない。
さてどうするか、と思ううちに、老爺は近付いたかと思うと、ひょいと団扇を取り上げた。
「これじゃ、これ。まさか、水団扇にお目にかかれるとは思わなんだなあ」
「水団扇?」
「知らんと使っておったのか? なんとまあ」
老爺は、驚いたように、目を見開いた。呆れているのかも知れない。
「お主、芭蕉扇は知っておるか? 西遊記という、小説にも書かれているが」
「ああ・・・火を起こす扇?」
読んだ覚えもないのに、いつの間にか記憶に定着している知識を呼び出し、そう言うと老爺は、目を細めて頷いた。
「て、え?」
「そう、これは、簡単に言えばその水版じゃな。もっともこれは、この国で作られたものだから、芭蕉扇と完全に対を成すわけではないがの」
「はあ・・・」
どう応えればいいのか、迷っている間に、老爺はゆたりと微笑んだ。
表現豊かな顔で、思えば、先程声をかけられてから、一度として同じ表情を見ていないような気がする。
「良い物を手に入れたな。大切にするのじゃぞ」
「・・・はぁ?」
団扇を渡されて、それに気を取られている一瞬の間に、老爺は姿を消していた。
「・・・日本昔話か?」
首を捻って、呟く。
とりあえずは団扇を元通りにズボンに差し込んで、パッキンを買おうと先を急いだ。
じりじりと太陽の熱に灼かれた髪は、触ると熱かった。
その森の奥には、一つの塔があった。
遠い昔に立てられたもので、今では住む者もない。ただ、領主から認められた老婆が一人、ひっそりと近くに居を構え、塔の掃除をしていた。村の者は皆、そんな老婆を魔女と呼んでいた。
時に、その塔をおとなう者がいた。
こっそりと、あるいは堂々と。男、あるいは女が。少年、または少女が。しかし、出てくるのを見た者はなかった。
ある日、そこを一人の老人がおとなった。
老人は、くたびれた旅装に身を包み、ひっそりと森に入り、塔の入り口に立った。
「おや、あんたか。また来たのかい?」
突然、背後から聞こえた声に驚くこともなく、老人は、ただ静かに振り返った。哀しそうな微笑を浮かべながら。
「私を覚えているのか」
「ああ、覚えてるよ。遠見をしたのは皆。どうした、あんたは。その姿になって、まだ望むのかい」
「・・・あのときは失礼をした。あなたは、随分と親切だったんだな」
「馬鹿をお言いでないよ」
白くなった長い髪をひっつめにした老婆は、そう言って怒ったように顔を背けた。そして、わずかに躊躇うように唇を結んでから、口を開いた。
「それで、奥方と子供は助かったんだろうね」
「ああ。助けたよ。――扉を、開けてくれないか」
言葉に振り返ると、老婆は、探るような耐えるような、不思議な色合いの瞳で老人の瞳を覗き込んだ。
一瞬か永遠か。
老女は、つと目を逸らすと、鍵を使って古くなった扉を押し開けた。
時間そのものを留めたかのような古い空気の中を、二人の老人は、天へと向かって伸びる螺旋階段をゆっくりと上っていく。
「ここには、よく戻ってくる者がいるのか?」
「いいや。――あんたが初めてだよ、あたしの知る限りは。何故だい」
「私が戻っても、驚かなかったからそうかと・・・」
螺旋の先には扉が立ちふさがっており、老女は、それにも鍵を差し込んだ。
音を立てて開いた扉の向こうには、大きな円い水鏡があった。立派な体格の青年が一人、寝そべっても十分に収まるだろう大きさだった。
「何を、願う?」
「ただの我が儘だ。妻たちの笑顔が、見たい」
水鏡の淵に手をかけて、しかし水面には背を向けたまま、苦く、老人は笑った。
「ここで妻と息子の命を救う手段を見せてもらって以来、城には戻っていない。願いと引き換えに、多く年をとったと言っても信じてもらえるだろうか? 信じてもらえたところで、困らせるだけだ。私は、旅に出たまま行方知れずになったのだと、それでいい。――あれから、色々なところを旅したよ。もう、終わりにしたいのだ」
一度は躊躇って、老人は、目をつぶったまま振り返った。そうして、ゆっくりと目を開く。
そこに何を見たのか、しばし水鏡に見入った老人は、目を開いたまま涙を流していた。
そして。
ゆっくりと、前のめりに倒れる。
水が穏やかに老いた体を受け止め、優しく中へと引き込んでいく。しばらくして、塔に一人残された老女は、短く息を吐き、水鏡を覗き込んだ。
水中から浮かび上がってくる幼子を、当然のように抱き上げる。
「気の毒にねえ。水鏡に気に入られちまったね」
ぽつりと呟いて、老女は赤ん坊を抱いて塔を降りていった。
これからしばらくは子育てが続き、その全てが終わると自分は解放されるのだと、老女は知っていた。それは、今まで過ごしたときに比べれば、ずっと短い時間だ。
「だーから知らないって。しっつこいなー」
リデイラは、両脇を体つきのしっかりとした男に挟まれ、尚且つ両手を紐で縛られたまま、平然と言ってのけた。森の洞窟の中でそれに相対する老人は、疑い深い目を向けた。
だがリデイラは一向に怯まず、それどころか睨み返しすらした。
「連れて行け」
静かな老人の声に、両脇の男たちが動く。
あっ、引っ張るなって、痛いじゃないか、自分で歩けるってのに。
元気のいい声を耳にしながら、老人は目をつぶった。
「・・・丁重にな」
それは、皮肉でしかなかった。
頑丈な扉を閉められて、リデイラはようやく口を閉じた。ため息をついてから、部屋を見回す。天然か新しく掘ったのか、洞窟に扉をつけただけの部屋だ。だが、それだけに逆に逃げにくい。入り口以外からの脱走は、まず無理だと考えたほうがいいだろう。
次に、壁に背をもたれかけさせて座っている男。顔が腫れ上がっている上に、暴行を加えられたせいで服もぼろぼろになっている。体中傷だらけだ。骨くらい折れているかもしれない。
年は四十半ばといったところだろうか。髪には、白いものが混じり始めている。この男が、リデイラがここにいる原因であり、「閂」の依頼者だった。
リデイラは、男の前にかがみこんだ。意識はないようだが、正常に呼吸はしている。
「ちょっと、誰か! 水と布、持って来て!」
扉に近づくと、リデイラは声を張り上げた。扉を隔てた向こう側で、わずかに呆れたような声が返ってくる。
「何言ってやがんだ、てめえ、自分の立場ってもんがわかってんのか?」
「わかってなきゃ、ここから出せって言ってるわよ。いいから水と布、持ってくるの、こないの? 言っとくけど、あそこの人、放っとくと炎症とかで死ぬかもしれないわよ?」
「そんなの知ったことか」
「あ、そう。かしらに聞いても、そんな返事が返ってくるの? あんたたち、あたしとあの男に訊きたいことがあるんじゃなかったの?」
「だからそれは・・・・」
「万が一あたしにその気が起きても、あの人が死んでたら何もできないわよ? しないんじゃなくて、できないんだからね。いいの、それで?」
扉の前の男は、しばらく考え込んでから、鍵がかかっていることを確認して、扉の前を離れたようだった。
たかだか番人程度が詳しくは知らさせていないかと思ったが、違ったようだ。それほどにこの山賊一団が情報を重視しているのか、リデイラたちにそれなりに地位のある者をつけたのか、どちらかだろうか。
まあどっちにしろ、ここでの会話はあのはげちゃびんに筒抜けなんだろうなあ。空調の穴かさっき扉の前にいた男が逐一伝えるかして、かしらは話を把握しているはずだ。
「う・・・・・」
「気がついた? うるさくしてごめん、頭がくらくらするとかはない?」
「あ・・・」
リデイラの顔を覚えていたのか、男は何かいいかけたが、痛みのせいで言うことはできなかった。リデイラは、父親ほども歳の離れた男を、やさしい眼で見た。
もともとはこの男は、この山賊たちの知恵袋、かしらの右腕的な役割をしていた。それが、古文書の解読をしていたときに理想郷とも言われる黄金郷の位置を知り、その地を単独で訪れ、そのままにしておくべきだと考えて、リデイラに記憶の封印を頼んだ。仲間に存在を知られている以上、普通に隠し通すのは無理だと考えたのだろう。
――そういう人は、嫌いじゃない。
「ちょっと待ってて、少ししたら手当てするから。ここ、治癒ができる魔道使いっていないの?」
「い、な・・・い・・・」
「そっか。じゃ、地道に手当てするしかないのか」
リデイラには、記憶を封印するという能力はあるが、それしかない。旅の必需品の薬草一式は持っているのだが、それも捕まったときに取り上げられてしまった。道具を持たせると何をするかわからないと思われたらしいが、あいにくそんな力は持ち合わせていない。だが、勘違いしているならさせておくほうが何かと役に立つだろう。
「あ。ちょっと応用」
そう言うと、リデイラは男の額に手を当てた。乾いた血の感触がする。
「痛みを封印するから。解除の言葉は・・『焔[ほむら]』。――どう?」
「あ・・・。痛くない・・」
「成功」
笑顔の少女に、男は腫れた顔で、感謝を込めた瞳を向けた。
男が感謝を言うよりも早く、扉が開いた。見ると、リデイラと同年代ほどの金髪の青年とこの部屋に入るときに見たスキンヘッドの男が立っていた。青年は、水桶と食べ物らしきものが入った木桶を持っている。
スキンヘッドの男は、リデイラたちをひと睨みすると青年に会釈をし、扉と鍵を閉めた。
「食べる?」
目の前に突き出された桶に、リデイラはわずかにあとずさった。青年は意に介さず、果物や握り飯の入った桶の中を見せる。
「ほら、おいしいよ? あ、長い時間親父と言い合って疲れたと思って、ワインも持ってきたんだけど。ねえねえ、君名前は? 俺はね、ハヤトって・・・・」
無言で水桶をひったくると、リデイラは布で男の顔をぬぐった。準備良く傷薬も入れられていたので、それも使う。男は、何度か自分でやるよ、と言ってはその度に、リデイラに却下されていた。
青年は、その間もいろいろと話し掛けていたが、リデイラは完全に無視を決め込んでいた。
「ねーってば。俺のとこくれば、こんな扱いさせないよ?」
「はい、水桶。用はないから、出ていってくれない」
「それはないんじゃない? 人を邪魔みたいにさ」
「居るだけでうっとうしいんだけど」
わざとらしく傷付いた振りをする青年を、リデイラは冷たく見返した。軽い、こういったタイプは嫌いなのだ。スキンヘッドのあの態度と[親父」と言ったことからして、あのかしらの息子といったところだろうか。
男は、裏切った形になったことが後ろめたいのか、青年からは決まり悪げに目を逸らしている。
――息子?
「あんた、あのかしらの息子? 若棟梁とか?」
「うん。だから、俺と一緒にいれば悪いようにはしな・・・」
にっこりと微笑むと、リデイラはハヤトと名乗った青年の首に手をかけ、靴に隠しておいたナイフをその喉元に突きつけた。男二人が目を見開いている中、リデイラは平然と二人に立ち上がるよう促した。
「ちょ、ちょっと、こんなことしなくたって出したげるって」
「黙ってて、人質。あ。いや、外の奴に呼びかけてくれる?」
「えー、それって俺、むちゃくちゃ情けなくない?」
この状況で、よくそんなことが言える。リデイラは、先刻の自分を棚に上げてそう思った。
無言でナイフに込めた力を強めると、ハヤトは観念したように、「わかったから、少しは緩めてくれないと喉切っちゃうって」と言った。そして溜息をつくと、おむろに悲壮な声を上げる。
「ジーン、鍵をあけて、外に出してくれ。聞こえてただろ、さっきまでの会話。開けてくれなきゃ、俺あの世に行っちゃうよ」
「ぼっちゃん・・・」
扉の向こうで、焦ったような、情けないような声がして、少しすると扉が開いた。ジーンという名のスキンヘッドが、リデイラを睨み付ける。それでも手出ししないのは、どうやら人質としての価値はあったようだ。
「じゃ、出口に案内してもらおうか。あ。その前に、私の荷物返してもらえる?」
森を抜けると、町までは短い一本道だった。
医者か魔導師のいるところまで男を送り届けるために、リデイラと男はその道を歩いていた。問題なのは、そこにハヤトもいることだった。おかげで、リデイラはさっきから顔つきが険悪になっている。
「帰らなくていいの、ぼっちゃん」
「え、何? 何で俺が帰るんだよ?」
「はっきり言ってなんでここまでついてくるのか、のほうが不思議なんだけど。この人の場所をお父さんに告げ口するつもりなら、諦めることね。その記憶は封印させてもらうから。わかったら帰ったら?」
「何言ってるんだよ。あんなところに誰が戻るかっての。俺、リディと一緒に行くことに決めたから」
「え、なっ・・・」
名前を教えた覚えも、誰かに呼ばれた覚えもない。それなのに何故、愛称を呼ばれるのか。リデイラは、道の真中で立ち止まった。ハヤトは、驚かせたことが満足なのか、満面の笑みを浮かべている。
「特殊技能を持ってるのは、リディだけじゃないってこと。いやあ、実は俺、この能力でディーンの記憶読めって言われたんだけどさあ、リディががっちり封印してるし。解除法、作ってなかっただろ? 作ってたら判ったんだけどさー」
またしても当てられて、つまらなそうに頷く。男は、二人を興味深そうに見ていた。
「で、親父にもいいかげんうんぞりしてたしね。そこにリディが来てさ、渡りに船って感じで」
脱出成功、と笑った。
「ま、いいじゃん。知り合いの千里眼のばーちゃんに聞いたら、俺の能力って他に持ってる奴いないらしいし。道具とか使った儀式形式なら判らないけど。だからさ、俺がリディにつけば、秘密だとかを封印する仕事の邪魔者がいなくなるってことだろ?」
お得だよ?
楽しそうに言うハヤトに断ったらどうするつもり、と言うと、やはり楽しそうに、リディの妨害をしまくるに決まってるじゃないか、と言う。
「・・・好きにして」
この一件、関わるんじゃなかった。そう思って、ディーンという名の男を恨めしく思うリデイラだった。
「死に急ぎたいなら、ご自由に。止めやしませんよ」
まだ幼い子供の声。
挑発ととれないこともないが、あまりに素っ気も感心もなく、エル・クライス=リッテンハイムは、逆に冷静さが戻った。腹立たしいことこの上ないが、実際、下手に動き回ると危険だとの判断がつくほどには、理性が戻った。
そこでエルは、くるりと振り返った。
そこには、入り口を塞いだ土砂と、その土砂で右足首を捻り、記憶までも失った十歳前後の少年がいる。
「なんとかならないのか、記憶は」
「なんとかって、何ですか。僕自身の意志で記憶の欠損がどうにかなれば、こんなところで貴方と二人きりで思案に暮れることなんてありません」
「・・・ッ」
そうだった。こんな調子だったから、思わず背を向けたのだった。
思い出して、エルは忌々しげに息を吐き出した。
地下迷宮に、こんな少年と閉じ込められるとは。おまけに、出口を知るのは、その記憶の失われた少年だというのだからどうしようもない。
「まあ、思い出すのが先か、召使い達が発見して土砂を取り除くのが先かと行ったところでしょう。いくらなんでも、主人がいないまま園遊会が終わるということは考え難いと思いますよ」
「主人? 君は、その年でこんな屋敷の主人なのか?」
「どうでもいいけど、突っ立っているだけなら、ハンカチでも貸してもらえませんか」
一瞬、驚き、大変だろうといささか同情したが、やはり腹が立つ。
しかし、だからといって断わるほど大人げのないこともなく、ポケットを探って渡す。何をするのかと見ていると、石を包んで、捻った右の足首に当てている。
「・・・それは、何をしているんだ?」
「冷やしてるんです」
冷やすなら水だろうと思ったが、口にはしなかった。ここに水はないのだし、そういう以上冷たいのだろうと思ったのだ。
天然石の壁により掛かって、エルはそっと溜息をついた。
目をつぶると、ひんやりとした石壁の感覚が際立った。ああ本当に、石は冷たいのだと、感じる。
「君は――」
「人声がする。誰か、気付いたようですね」
「・・・記憶がないのに、随分と落ち着いているんだな」
「全て忘れたわけではありませんから。むしろ、貴方の方がよほどおめでたい」
「何?」
くすりと笑った様が、やけに堂に入っている。妙に大人びていて、何か、怒り損ねた。
そこでふと、エルは、名前を聞いていなかったことに気付いた。そういえば――この子のことを、何も知らない。
急に、背筋が冷たくなった。
人の声は、次第にはっきりと聞こえるようになってきた。どうやら、土砂を取り崩すことに成功しているらしい。
「いくら暗くたって、光は射し込んでるんだから。こんなお屋敷の主人が着るには粗末な服だって、気付いてもよさそうなものなのに」
「それじゃあ――君は――」
「旦那様ァ!」
土砂の壁だったものには、穴が空いていた。それまでとは比べものにならない量の光が射し込む。下男の人影がそこに浮かび上がり、エルは呆然とした。
「僕は・・・」
「危ない!」
「少年」の声に反応することもできず、エルの意識は、深い闇へと沈んでいった。
意識が戻ってまず目に入ったのは、天上界の描かれた天蓋だった。
周囲を見回しても誰もおらず、エルは、頼りなくふらつく足と手当はされているが痛む頭を叱咤して、どうにか戸口に辿り着いた。壁にすがりついていなければ、倒れそうだった。
「おおい、誰か」
始めは掠れていた声も、繰り返すうちに段々と調子を取り戻す。一番に駆けつけてきたのは、幼年時から世話になっている家令だった。
「お呼びでございましょうか、旦那様」
「あの子はどこだ。すぐに連れてきてくれ。――いや、足を挫いていたな。僕が行こう。どこだ?」
「あの子と申しますと?」
しわとひげであまり表情の読み取れない老人を睨み付けて、エルは思わず怒鳴りつけた。
「僕の娘だ! 地下で一緒に閉じ込められていた! あの子をどこにやった!?」
気の立っているエルに、老人は、ちらと眉を上げた。
「ようやく関心を持たれましたか。サラ、カーター嬢をこちらへお連れしなさい。旦那様、どうぞ部屋の中でお待ちください」
「僕が行くと――」
「自力で立つこともできない、みっともない姿をさらしたいというのであれば、ご自由に。止めはしません」
「・・・あれはお前の影響か」
溜息をついて渋々と、エルは部屋に戻った。椅子を引いて、それに腰掛ける。
待たされたのはほんの数分で、エルの待たせた数日間よりも遙かに短いというのに、とてつもなく長く、もどかしかった。
そうして少女が姿を現わすと、エルは早々に、口うるさい家令たちを閉め出した。少女にも椅子を勧める。
「――すまなかった」
「記憶は戻ったんですね。それは良かった」
地下迷宮のときと変わらない、冷ややかな反応に、エルはうなだれて頭を下げた。
「怒るのはわかる。本当に、すまなかった。・・・キャシーは元気かい?」
母親譲りの蜜色の髪と、父親譲りの緑色の眼をした少女は、汚れた男装のままだった。冷たく見上げられて、エルは、もう少しで目を逸らすところだった。
十四歳のこの少女は見るからに自分とキャロライン・カーターの子供で、その二人を放置した責は、ほとんどが――父の無言の圧力に屈した自分にあるのだ。この数日、会いに来た娘を避けて、迷い込んだ地下迷宮で事故に巻き込んだものまで、全て。
いつまでも、その呪縛を断ち切れなかった自分に。
「元気ですよ。貴方と会ったときくらいには。そうでなければ、僕がここにいるはずがないでしょう。母は、僕を愛してくれています」
「母は」という言葉に胸を突かれたが、エルはすぐに、顔色を変えて立ち上がった。まだふらつきながらも戸を開けて、待ち構えていた家令たちに指示を出す。
エルが少女の母親と出会ったとき、キャロラインは身売りをしようとしていた。貴族に名を連ねてはいたものの、それほどに生活が逼迫していたのだ。酷く痩せて、辛そうだった。
指示を出してしまうと当面やることはなく、再び椅子に腰掛けたエルは、頭を抱え込んだ。
「ああ・・・本当に、僕はなんてバカだったんだろう」
「全くです」
冷たく言い切って、だが少女は、軽く肩をすくめた。
「だけど、母もバカです。未だに貴方を信じているんだから。馬鹿同士なら、どうにかなるでしょう」
「・・・君は、怒らないのか・・・?」
「諦めました。片親だけならともかく、両親ともにバカなら、これは仕方がないでしょう。それに、まあ――」
そこで、少女は照れたように口ごもった。
「貴方が記憶喪失になったのは、僕を庇ったからだから仕方ないかと・・・ああ、やっぱり僕もバカ――何するんですか!!」
思わず抱きしめると、少女は真っ赤になった。しかしエルは、幸せに笑って、絶対に手を離そうとはしなかった。
「過去が消せるとは思わない。僕は、君たちにどんなに謝っても償えないことをしてきた。でも、どうかお願いだ。一緒に、ここからやり直していってくれないか」
「――うん。・・・・・・お父さん・・・」