人魚の言い分

「また君か」
「またあんた?」
 互いに似たようなことを言って、互いに、似たように顔をしかめる。
 片方は王立博物館の腕章をした二十代後半くらいの青年で、片方は下半身が魚のようになった少女だった。
「他に人いないの? 見飽きちゃったわよ」
「それについては、俺も同意見だよ。毎回毎回、保護区を抜け出してこんなところに売り払われてなかったら、顔を合わせる機会もないだろうのにね。何を考えてるんだ一体」
「うるさいわね。ちょっと、じろじろ見ないでよ、変態!」
「へんた・・・。――連れて行っていいですか?」
「ああ、頼むよ。いつもゴクローさん」
「仕事ですから。失礼します」
 煩雑に出入りする警吏たちに軽く頭を下げて、青年は、大きな水槽を押していった。勿論、推進力には反重力を使っている。ほぼ成人した「人魚」が泳ぎ回る水槽は、自力で運ぶには大きすぎる。

 セリムは、王立博物館の研究員ということになっている。専門は、古文書解読。あらゆる言語に通じ、セリムが現代語に訳した文章が、各分野へと受け渡され、そこで更に研究されていくことになる。
 近頃では、そうそう新しい文書が発見されることもなく、細々とやっている。専任は、セリム一人だけだ。
 その仕事に関して、何ら文句はない。元々好きなことではあるし、唯一、実力で採用された貴重な職だ。
 不満は、「水棲生物対応」の仕事まで兼任させられてしまったことだろう。他には、定年間近の老人が一人。
 ちなみに、水棲生物対応の仕事は、時給だった。
『ああ、君、素潜り得意なんだってね? 人より肺が強いとか。うんうん、他の器官も全部健康だしねえ。水棲生物を扱うための知識も、ちゃんと詰まってるんだよねえ。うんうん。じゃあ、たのんだよ』
 何が、どこがどう繋がったら「じゃあ」になるのか、とっくりと聞かせてもらいたいところだが、そのときのセリムは、ただただ呆気にとられて、気付けば決定事項となっていたのだった。
 おかげで、珍しい水棲生物に関することは、ほとんどがセリムに回ってくる。老人がやってくれるのは、書類関係のみだ。
「これ、やけに体の線見えない? わざわざこんなの選ぶなんて、やっぱり変態よね」
「それは俺の普段着。気に入らないなら、今から買えばいいだろう。服代くらい出す。大体、恥じらいもなかった奴に言われたくないよ」
 早くも気疲れして、セリムは、ぐったりとなった。この人魚を保護地区に返すときには、精魂果てているかも知れない。やはりやめておけばよかったか。
 本当に、はじめは、さらされた体に目を逸らしたセリムを、訝しげに見返していたというのに。
 今、セリムの隣で不審そうに服を掴んでいる少女は、保護地区として手出しを禁じている区画を抜け出した、所謂「人魚」だ。
 だが、気付く者はまずないだろう。何しろ、すらりとした二本の足で、しっかりと立っている。
 セリムよりも頭一つ分くらいは低いが、十代半ばくらいの年齢と推測すると、低い方でもない。
「それで、何企んでるの?」
「企むなんて、人聞きの悪い」
「企んでるんでしょう。いつもは、池堀にそのまま連れ戻すくせに。何の魂胆があるのよ。足をつくらせて服まで着せて」
 「人魚」の尾は、十分に乾かせば人の足と全く同じになる。そして、水をかければ元に戻るらしい。それも、古書から仕入れた知識だった。セリムの知識の大半は、それらから得ている。
 ただ、その際に呼吸困難のような苦痛を伴うことまでは知らず、正直、少女に提案したことを悔いてもいた。それを誤魔化すように、挑発するように視線を向ける。
「疑っている割には、随分と素直に案に乗ったようだけど」
「・・・色々あるのよ。さあ、言いなさい。一体何を企んでるの」
 あまりに真っ直ぐな少女に、馬鹿馬鹿しくなる。嘘やお為ごかしを言って、何になるだろう。
「ただ、何度も何度も抜け出すから、見物させてやろうと思っただけだよ。それで満足したら、少しは大人しくしていてくれるか? この頃じゃあ、俺と君が共犯で、博物館から給料を余分にかすめ取るために狂言でやってるんじゃないかって疑いまで浮上する始末だ。企んでいると言えば、そのくらいのことだよ。どうだ、些細なものだろう」
 言っているうちに少し腹が立って、些か語調を強める。声を荒げないのは、押さえているからではなく、単に、それ自体が苦手なだけのことだった。怒鳴り散らされるのは嫌いだ。
 人魚の少女は、はじめきょとんとして、ふうん、と、挑戦するようにセリムを見上げた。
「見張りがなければ、きっと満足するわよ」
「それは駄目だ。いくらなんでもね」
「だからって、あんたみたいなぬぼっとしたのにつきまとわれてたら、楽しめるはずがないでしょ」
「身分証もないのに、何かに巻き込まれたら事だろう。うっかり水でもかぶったときには、どうやって移動するんだ? 俺を相手にデートを楽しめとは言わないけど、付き人とでも思って我慢するんだね」
「デート?」
「わからないならいいよ。ここまで素直に従っておいて、今更厭もないだろう」
「そうね」
 渋っていたわりには、意外にもあっさりと肯く。
 それじゃあと、セリムは、引き出しを探って腕輪を取りだした。銀色の、二つに割れる様式のものだ。それを、少女に見せる。
「これをつけてもらう。迷子防止だ」
「・・・何が仕込まれてるの」
「心配しなくていい。ただの発信器だ。いいね、嵌めるよ?」
「どうぞ」
 強がっているが、不安が見て取れる少女の手首に、腕輪をつけた。何だか、手錠でもかけている気分だった。
 そんな妄想を振り払って、部屋のドアを開けようと手をかざす。ここの鍵は、個人の指紋なのだ。
 そして、ふと気付いて振り返る。
「名前は、まだ教えてもらえないのかな?」
 はじめて出会ったときに、セリムは名乗り、少女にも名を尋ねた。それは、きっぱりと無視されてしまったのだが。
 少女は、怒ったように顔を背けた。
「メーシャよ。邪魔なんだから、とっとと行きなさい」
 やはりやめて、早く古書の山に戻ろうか、と思うセリムだった。

「ねえ、あれ何?」
「閣議場だ。『王』たちが会議をする場所」
「ふうん? 王って誰?」
「今は、ジャル・ポール、サガン・リグ・ムア、サロメ・ディーア、リシャス・テロメア、イヴ・ベントラッセ」
 足を止めて、メーシャは首を傾げた。腰まである長い髪が揺れて、ぱさりと音を立てた。
 考えてみれば、セリムは、水中で海藻のように揺らぐそれしか見たことはなく、こうやって見てみると、重そうだ。
 セリムは、何とはなしに、少しだけ下がっている眼鏡を押し上げて、王立博物館の隣に立つ、堂々とした尖塔の建物を見上げた。
 閣議場と、その左右にそびえる王立博物館と王立図書館は、この世界の知識の粋とされている。地上で育てば子供でも知っていることだが、人魚のメーシャは、見るのも初めてだろう。
「今、五人の名前言った? どうしてそんなにいるの?」
「え――」
 あまりに基本の情報で、ぱちぱちと、意味もなくまばたきをする。
 しかし、考えてみれば当たり前のことだ。所謂「人魚」や「人馬」らとの交流を断ち切ってしまったのは、あまりにも前のことなのだ。この大陸が、一つの集団としてまとまっていることも、知らなくても不思議ではない。
 意識せず、眼鏡のつるを軽くつまむ。いつの頃かの、癖だった。
「今、この大陸は一つの機関が中心になって治めているんだ。それが、王府。五人の人物を最高責任者に据えての、議会と考えてもらって構わない。・・・と、わかるかな、俺の説明」
「あんた、馬鹿にしてる?」
 物凄い目つきで睨まれた。ただセリムは、いつも説明が固いと言われるから、それを心配しただけだったのだが。
 機嫌を悪くしたらしいメーシャは、つんと背を向けた。
「どこに行くつもりだ?」
「服。こんなださい格好の人、ほとんどいないじゃない」
「・・・俺の服なんだけどな、それ・・・」
 身成には構わないし、そもそもそういったセンスはない。自覚はあるが、なんとも虚しく、呟いてしまうセリムだった。
 しかしメーシャは気にもしてくれず。当たりをつけて店を覗き込む。
 どこか真剣に見える様子は微笑ましく、見ていてもなんとなく嬉しい。
 メーシャに気付いた店員が近付き、声をかける。いささか臆しながらも、メーシャは、ごく普通に会話をしている。そのやりとりを、ぼうっと聴くでもなしに聞きながら、セリムは、その店の縁石に腰掛けた。
 もしも事が露見したら――その可能性は、大いにある――大問題になるだろう。良くて降格減給、悪くて刑事裁判。その場合当然、研究員の職は失うことになるだろう。
 それなのに何故。
 改めて自問したところで、答は拍子抜けするほど簡単に返る。
 何度も、観賞用に密売されながらも、安全なはずの保護区を抜け出すのは、理由があるからだろう。それが、傍から見れば些細なものであったとしても、何らかの形で解消されなければ、いつまでも繰り返す。いい加減懲りる、ということは、これだけ顔を合わせれば考えにくい。
 今は、運良く業者が摘発されて助かっているが、そのうち、ひっそりと闇に消えていくかも知れない。
 それは、厭だ。何度も顔を合わせ、内容のない憎まれ口しか聞いていないが、見知った相手だ。
 知らなければ、水棲生物関係の仕事をやらされなければ、そんなことがあったと聞かされたところで、気にしない。速やかに、古書の世界に戻れる。昔の出来事や知識の中に、埋没できる。
 けれどセリムは、顔を合わせてしまった。
 そうして、後日、メーシャに何かあったと知ったときには、何かできたかも知れないのにと、悔やむ自分を容易に想像できた。そんな馬鹿げた後悔は、もうたくさんだ。
「ちょっと!」
「――? 呼んだ?」
「さっきから何回も! お金、払ってよ」
「ああ・・・いくら?」
 店員に言うと、笑顔で値段を告げる。高すぎる物ではないが、セリムの普段着に比べると高い。安物しか着ていないのだ。少々、痛い出費だ。
 代金を払ってお釣りをもらったときに、店員は、少し驚いた顔をした。
 栗色のセミロングの女性だが、何か驚かれるような要因があったかと、首を傾げる。その反応に気付いて、店員は、はっとして目を逸らした。メーシャに笑顔を向ける。
「お客さん、あちらで着替えて行きますか? 今着ている服は、袋にでも」
「ええ。そうさせてもらうわ」
 そう言って、店の奥の布で区切ったスペースへ移動するメーシャをぼうっと見送っていると、ねえ、と声をかけられた。
「あなた、イヴと付き合ってたでしょう? おぼえてない? 私、会ったことあるのよ」
「え――あ。芸術科の?」
「そう。今は、小さいながらも店持ちよ。あなたは、博物館に勤めてるんだった?」
「どうして知ってるの?」
「イヴとは、まだ会ってるから。ここのお得意さまよ。ねえ、今はあの子と付き合ってるの?」
「まさか。被保護者だよ。ああ、出て来――」
 仕切りの布の向こうから姿を現わしたメーシャは、夏仕様の海色のワンピースがよく似合っていた。セリムは、メーシャを十五・六と思っていたが、こうやってみると、もう少し大人かも知れない。
 元恋人の友人は、作品を眺める研究員のような目でメーシャを見て、満足そうに微笑んだ。セリムも、つられて見つめる。
「・・・何」
 じろりと、睨み付けるように見られて、悪いことはしてないよなと、自問自答する。しかし、体の線は先程よりも出ているような気がするのだが。敢えて、それには触れない。
「似合ってると思って。きれいな青だ。瞳によく合ってる。袋、持つよ。それじゃあ、ありがとう」
 最後は、店員の女性に向けたものだ。名前を聞いたかも知れないが、思い出せないのが申し訳ない。
 女性は、くすりと笑った。
「こちらこそ、ありがとう。折角近くにあるんだから、また寄ってくれると嬉しいわ」
「考えとく。服は、とてもきれいだと思うよ」
 ただ、それが自分に合うかは別問題で。
 そうして、二人は再び大広場に戻った。
 メーシャは、ひらりひらりと翻る裾が気になるのか、何度も、体を捻っていた。心なし、いくらか嬉しそうにも見える。
「さて。どこに行きたい?」
「何があるかも知らないわよ」
「ああ、そうか。それじゃあ、どんなところに行きたい?」
「・・・あんたのお薦めは?」
 何故か、探るような問いかけに、眼鏡のつるに手を伸ばす。
「俺のお薦めは、女の子には不好評甚だしくてね」
「いいわよ、それで。最初から期待してないし」
「・・・君、言葉で身を滅ぼさないように気をつけなよ」
 一言多い。
 さてそれじゃあ、と考えをめぐらせる。
 博物館――は、さすがに仕事場で、誰に見咎められるかわかったものではないから却下するとして、図書館も、調べ物がなければ退屈か。そもそも、セリムたちが使う文字は読めるのだろうか。そう言えば、近くの市立博物館の絵画スペースで、例年通り公募の絵画コンクールがあったはずだ。あれはどうだろう。あの博物館なら、王立には及ばないながら、各種資料も豊富だ。
 決めて、顔を上げると、広場中央の大時計が鳴った。反響する鉦の音に、鳥がばたばたと羽ばたく。正午になったようだ。
「とりあえず、ご飯でも食べようか。どんなのが食べたい?」
「なんでもいいわよ」
「そう言われると、逆に決めにくいよ。この辺りは、色々揃ってるから。好きなものや、嫌いなものは?」
「・・・できれば、生の方がいいわ」
「それじゃあ、あっちだ。サラダと鮮魚の店がある」
 一段ときれいになったメーシャを伴って、時計塔の西側に向かう。
 生の魚を捌いてそのまま出す店は珍しく、実は、先輩に連れられて行って、合わずに吐きかけたというのは、この際内緒だ。他のメニューもあるから、なんとかなるだろう。

 昼食後、訪れた私立博物館は、意外にもメーシャの好みに合ったらしい。様々に筆の躍る、コンクールに参加した絵を眺めている。その前の常設展示の絵画では、古人の描いた人魚が月夜に泳ぐ絵に興味を持っていたようだった。
 古い絵は、専門外のくせに保存具合などに目がいってしまうせいで、純粋に絵を楽しむなら、近年描かれた物がいい。セリムは、そんな自説を改めて実感しながら、メーシャから目を離さないようにて、絵を眺めていた。
 そして、ふと思い出す。
『その絵に、興味があるんですか?』
 服屋の、女性の声がよみがえる。もっとも、そのときには服屋ではなく、セリムの通う大学の、芸術科の学生だったはずだ。
『選外の参加作品でしょう? 熱心に見る価値がありますか?』
『いい評価は得られなかったようだけど、俺は、とても好きだね。絵の価値なんて、詰まるところは個々人の趣味の問題だよ。そんな風に言うものではないと、思うね』
 うっかりと、自分が言った台詞まで思い出してしまい、偉そうだなと、恥ずかしくなる。間違ったことを言ったつもりはないが、いささか偉ぶっている気がしないでもない。評論家が聞けば、怒られそうだ。それも、出会ったばかりの見ず知らずの相手に言ったのだから、もう。
 そのとき声をかけてきた彼女の名前は、確か――リズモア・ウェーデリル。
 出会ったときにセリムが眺めていた絵の作者と同じ名で、後で、恋人から友人だと紹介されて名前を聞いたときに、仰天したものだった。作者が、作品の熱心な見物人に、興味を持って話しかけてきたのだったのだ。
 嬉しかったと言ってくれたが、それにしても恥ずかしい出来事だった。それを忘れていたとは、我がことながら呆れてしまう。
「ねえ」
「――ん?」
 シャツの裾を引っ張って小声で呼びかけられ、セリムは、ウェーデリルとの出会いの記憶から、過去の恋人との思い出まで思い出しかけていたあたまを切り替えた。
 メーシャは、何故か、深刻そうな面もちをしている。
「話・・・聴いてもらえる?」
「話? うん、いいよ。喫茶室にでも行こうか?」
「・・・誰にも、聞かれない?」
「密談か」
「冗談じゃないのよ」
「冗談じゃないよ」
 怒ったように、思い詰めた目で睨み付けるメーシャの言葉をほとんどそのまま返して、考えをめぐらせる。
 内密に話をしたいというなら、密室か人の多いところの方が向いている。生憎と、ここの喫茶室はいつも閑散としており、他者の声に会話を紛れ込ませることも、誰もかもを閉め出してしまうこともできない。
 どこが最適だろう。
 どのくらい重要な話なのかは知らないが、ミーシャ重くみている以上、できる限りのことはするつもりでいる。保護区を繰り返し抜け出す理由でも教えてもらえるなら、上出来だ。
 幾つか案を思い浮かべて、消去法などで一つに絞る。
「――仕方ない。裏技を使おう」
「え?」
「ついてきて」
 博物館を出て、東に曲がる。海とは逆方向で、広場とも逆方向になる。
 少し歩くと、山裾に蹲るようにして、小さな建物がある。このあたりに来ると、人の姿も少なくなった。
「・・・何、ここ?」
「この山を登ったら、天文台があるんだ。ここは、その予備施設だか副施設だか。知り合いがいるから、部屋を貸してもらえる」
 知り合い。
 言葉にしてしまうと、薄っぺらいそんなものになってしまうのかと、いつも思う。本当は、家族とでも呼びたいところだ。幼い頃から避難所のように駆け込んでいた場所と人は、よほど血の繋がった家族よりも近しい。
 セリムは、続けて四回、ベルを鳴らした。一度置いて、再び鳴らす。しばらくして、音を立てて、重々しい扉が開いた。
「久しぶりねえ、忘れられたと思っていましたよ、セリムぼっちゃん。あら、恋人?」
「被保護者のメーシャ。ご無沙汰してました、リース」
 恰幅のいい中年女性の出現に、メーシャは目を丸くしていた。それに気付きながらも、懐かしさに、泣きたいような気持ちになる。しばらく、来ることをやめていた。
「本当にご無沙汰ですよ。挨拶まで仰々しくなっちゃって。さあ、とにかく上がってちょうだいな。暑いでしょう?」
 リースはそう言って、笑顔で、二人を迎え入れた。
 建物の中は、陰になっているからか山が近いからか、幾分空気が冷たく、思わず溜息が洩れた。冷房でない涼しさはかなり貴重で、セリムのお気に入りだった。
 先に立ったリースは、二人を食堂の大きなテーブルにつかせると、自分は、お茶の用意を始める。いいと言っても聞き入れず、鼻歌まで歌っている。
「本当に、いいのに。部屋を少し、借りたいだけだったから・・・」
「駄目ですよ。久しぶりに来てくれたんですから、たっぷりと相手をしてくれないと。堅苦しい挨拶に時間を費やしながら、お茶を飲む閑もないってことはないでしょう? セリムぽっちゃん、アイクを呼んでくださいな」
「わかったよ」
 諦めて、部屋の隅に垂れ下がった紐を引っ張った。
 紐の端が別の部屋に繋がっていて、そこにいるアイクに知らせるようになっている。ここでも独特の引っ張り方をして、セリムが来たことを報せる。
 不思議そうに見つめるメーシャに簡単に説明して、顔を近付けて小声で囁きかける。
「少し、待ってもらえる? 急いだ方がいいなら――」
「いいえ。多分、大差ないわ。大丈夫」
 首を振るメーシャは、随分と大人しい。今まで散々と悪態をつかれていたものだから、少々調子が狂ってしまい、セリムは視線を外した。
 元々、女の子の相手は得意ではない。いや、他者との付き合い自体がそうで、度々、失敗して怒らせてしまう。正直なところ、自分と付き合ってくれるのは奇特な人だけだと、本気で思うセリムだった。
 片足を引きずるような足音が聞こえて、扉が開かれた。
 開いた途端に、セリム目掛けて杖が飛んでくる。反射的に手で挟んで止めたものの、久々で手が痺れた。
 姿を見せた老人に、思わず苦笑を向ける。懐かしい挨拶だ。
「相変わらず手加減なしですね」
「ふん、なまってはいないようだな」
「・・・?!」
「ほらほら、お客様が驚いてるでしょう。それに、挨拶が済んだらお座りなさい。気にしないでね、いつものことなのよ」
 杖を近くの壁に立てかけるセリムと、「客がおったか」と呟く老人を、子供を叱るような目でたしなめて、スコーンのついたティーセットを運んでくるリース。
 リースに笑いかけられて、驚きを口の中に押し止めたメーシャは、老人に続いて入ってきた少年に気付いて、首を傾げた。
 今年で十七になる少年は、小柄な老人よりも少し高い程度の身長で、切り損ねたように伸びた不揃いの前髪の隙間から、冷たい一瞥を向けてきた。メーシャは、呆気にとられてそれを見つめていた。
 その視線を辿って、セリムが思わず腰を上げる。
「アダム、来てたのか!」
「それは僕の台詞。僕の仕事場は天文台だから、こっちに下りてきても何の不思議もないだろう」
「それはそうだけど。久しぶりだなあ」
「会う機会がなかったのは、そっちがここに来るのをやめたからだろう。来なくなったと思ったら、そんなちんちくりん連れてきて。趣味、悪くなった?」
「一日限りの被保護者だよ。メーシャ、こいつはアダム・ベントラッセ。この年で、天文台の栄えある研究員なんだ。口が悪いのは性格のせいだから、気にしなくていい」
「僕に言わせれば、セリムの方がずっと口が悪い」
 腕組みして、空いているセリムの向かいの椅子に座る。セリムも、応じて腰を下ろした。そんな二人を、リースたちが微笑するように見守る。
 アダムは、セリムよりも数歳年下だが、飛び級を重ね、働き始めたのはセリムよりも早かった。
 セリム同様に身成に構うことはない。顔の作りといい物言いといい、いささかきつい印象があるが、実際に付き合ってみるとそうでもない。
 誰かを親友と呼ぶとすれば、セリムには、アダムしか思い浮かばない。
 二人が始めて知り合ったのは、アダムが研修で天文台に来て、この建物に降りてきたときだった。天文台と建物は、直通の通路が繋がっている。
 楽しげな会話が弾み、おいしいお茶が振る舞われる中、メーシャは、一人居心地が悪そうにしている。
 会話の途中でそれに気づき、セリムは、話を他の三人に預け、メーシャに顔を近付けた。小さく声をかける。
「部屋、移ろうか」
「え?」
「話があるんだったね。ごめん、俺だけ楽しんでた。――リース、空いてる部屋を借りるよ」
 アダムだけが咎めるような視線を向けてきたが、それも強くはない。どうぞと促されて、適当な一室に移った。
 天文台で働く職員や研究者の仮眠室の役割もしており、空き部屋はいくらでもある。それでもさすがに、寝台のある部屋は避けて、雑誌や日持ちする菓子の置いてある休憩室を選ぶ。
「悪かった。俺は、リースに育ててもらったようなものだから・・・どうしても甘えてしまって。ああ、そこの菓子、適当につまんでいいよ」
 黒塗りの器に入った飴を絡めた干菓子を見つめるメーシャにそう言って、ひっそりと溜息をつく。
 リースは昔、セリムの家で家政婦をしていた。そこで、半ば乳母のような役割まで負って、辞めた後も、セリムは、次の勤め先のここに度々遊びに来ていた。
 距離を置いたのに、甘えは抜けなかった。
「別に。謝ること、ないわよ。・・・お茶、おいしかったし」
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
「・・・話って、いうのは・・・」
 躊躇うように言って、部屋のあちこちに視線をめぐらせる。やがて、意を決したように、セリムを正面から見つめる。
 青い、海を思わせる瞳に、吸い込まれるような気持ちになる。
「あなた、保護地区って呼んでるところのこと、どのくらい知ってる?」
「どのくらいって――」
 保護地区には、大まかに分けて三種類ある。主に、絶滅を危ぶまれる動植物を保護するためのもの、景観や自然体系を保護するためのもの、人魚や人馬など、人と近しいが違うものを保護するためのもの。
 どれも、立ち入りには制限が加えられ、入出は記録される。そして出る際には、不当な持ち出しがないか、検査を受けさせられるところもある。管理は、全て王府が直接に行なっていた。
 その程度の知識だと、正直に言うと、メーシャは怒るように唇を歪めた。
「それで、本当に保護されていると思っているの?」
「・・・違うのか?」
「ええ、保護してくれているわよ、種としてはね。絶やさないように気を配って、足りないとされるものは補ってくれる。ありがたい施しよね? いえ、飼育と言うべきかしら?」
 烈しい言い様に、言葉を失う。
 動植物についてはともかく、メーシャのような種族からそんな言葉を聞かされるとは思っていなかった。保護区では、食料に足る生態系を維持して、自然に暮らしているのではないのか。
「不自然なほどに整えられた環境で、数が増えたあたしたちを、どうしてると思う? 密猟者に目こぼしして、引き渡してるのよ。そうすれば、露見しても糾弾されるのは密猟者の方。問題はないものね。――皆、諦めてきているわ。数が減れば、強制的にでも子供を作らせようとする。同じ言葉を使っているはずなのに、会話の成立する相手なんていない。檻は強固で、逃げてもすぐに捕まる。この腕輪だって、初めてじゃないわ。いつも、あそこでつけられてる。それなら、もう、何も考えずにいた方がいいって、諦めてる。運が良ければ安穏と一生を終えられる、って」
 強い眼が、正面から睨み付けてくる。しかしそこに、うっすらと涙がにじんでいることにも、セリムは気付いていた。
「・・・捕まったのは、わざと?」
「ええ、そうよ。あいつらは、腕輪を外してくれるし監視もあそこほどはきつくない。あるはずもないけど、誰か、話を聞いてわかってくれる人がいれば何かできるかも知れないと思ったのよ」
「近くには、いなかったのか? 監視員あたりは」
「・・・一人だけ、いたわ。今はどこにいるのか、知らない」
 左遷されたのか、口を封じられたのか。
 しかし、だからこそ、外に探そうとも考えられたのだろう。誰一人として耳を傾ける「人」がいなければ、協力を頼もうなどと考えもしなかったかも知れない。
「俺に言ってくれたら――って言っても、無理か」
 セリムは、彼女たちを閉じ込めている側だ。少なくとも、メーシャにはそう映っていただろう。訴えることなど、考えられなかったに違いない。
 人魚と人が、距離を置きながらも共に生活していた時代からは、随分と離れたところに来てしまっているのだ。
「今回、ようやく信用できるかも知れないと考えてくれたわけか」
 そう嘆息すると、メーシャは視線を逸らした。
「はじめは、こんな機会は二度とないって、利用するつもりでいたのよ。思いがけず、陸を歩ける足まで手に入れたし。それなのに――あなた、無茶苦茶よ。何がしたいのか判らない。まるで、あたしの為みたいな行動して」
「そう言われると、いささか心苦しいな。俺は、飽くまで俺のためにしか動いてないから」
「どういうこと?」
「ああ、俺が誰かと取り引きしてるって事じゃないよ。警戒されるような裏はない。ただ、俺が、何度も話したことのある君が、死体になって発見されるのは厭だと思っただけのことで」
 信じられないと、信じたいと、それぞれに揺らぐ気持ちが、メーシャの目から見て取れる。溜息を一つついて、セリムは、眼鏡のつるを持った。
「俺はね、それはそれは家柄のいいところに生まれたんだ。伝統があってお金もあって、権力もある。そんなところにね。だけど、親はそれを維持して喧伝するのに夢中で、子供に構う閑なんてほとんどなかった。兄が二人いるけど、彼らとの接点もろくになかったな。つけられていた乳母は、世話はしてくれるけどなつけなかった。俺はね、さっきいたリースに、親しく声をかけてもらえるのだけが嬉しかった」
 思い出の過去を、そこにいる人たちを、恨むつもりはさらさらない。しかし、好きになれないのも事実だった。いや、正確には、関心がない。乳母も当時家で働いていた人たちも、顔も思い出せない。両親でさえ、いくらか曖昧だ。
 両親や兄たちに嫌われていた覚えはないのだが、なにしろ、彼らは忙しかった。ただそれだけのことだ。
「俺が学校に入る二年前の年、弟が生まれた。乳児に用はなかったし、すぐに学校の寮に入ったから、ほとんど興味もなかった。だけど、休みに家に戻ると、リースの側にいるのを見た。弟も、リースを頼りにしていたんだな。だけど俺は、取られたようで、邪険に扱っていた。リースに諫められても、聞くことはなかった。そんな状態だから、弟は、俺がいる間はリースには近付かないようになっていた。リースが笑いかけても、無理矢理逃げたりして」
 今考えると、あれは、セリムを気遣って、嫌われることを避けての行動だったのではないかと思う。セリムは、冷たい態度はとったが、暴力を振るったりはしなかった。
 どうせ冷たく接されるのなら、リースと一緒にいた方が良かったはずだ。
「ある年、俺は、リースをほとんど無理矢理旅行に連れ出して、一夏を過ごした。家に戻ってみたら、弟は、衰弱して死にかけていたよ。ほとんど、食事を摂っていなかった」
 小食なのだと、誰も気に留めなかったらしい。夏の暑さにやられたのだろうと。しかし小さな体は、大人よりもずっと近くに、限界があった。
 後で、そのことを知って、涙をにじませた女中もいたらしいのだが、彼女は、事前にそれを知る立場になかった。多少仕事の範囲を出ても、干渉が必要な事態だったとも知らずにいた。子供の好きな女だった。
「リースは、それに責任を感じて辞めた。俺は、少し気まずい思いもしたけど、ろくに考えもせずに、その後も普通に学校に通って、リースの次の勤め先にも遊びに行っていた」
 リースに責められたこともあった。しかしセリムは、それも適当に押しやってしまっていた。弟は、まるではじめからいなかったかのように、そう、捉えていた。
「大学に通うのに、家には戻らなかったけど、このあたりで暮らすようになって。それまでに、さっきの口の悪い奴、セリムにも会って、親しくなって。何かの用で、家に行って、どうしてだったか、用のない部屋を開けた。――そこが、弟の部屋だった。一瞬、何かわからなかったよ。だけど、思い出して。俺は、自分のしでかしたことを知った。自分と同じ立場にいた弟を、すぐ触れられるところにいたのに、追いやった。知らなかったわけじゃない。よく知ってたのに、そんなことをやったんだ。弟を、わざとじゃなくても殺そうとした。丁度アダムと同じくらいの年齢で、あいつを見てると、自分のやったことを思い知らされた。恐ろしかったよ」
 恐怖と呼べばいいのか、嫌悪と呼べばいいのか。己に向いているだけに、逃れようがなかった。
 あのときは、誰かの罰を、確かに望んだ。誰かが罰してくれれば、いくらかでも楽になれると思った。
 どこまでも甘えていた。
「と、まあ、説明が長くなったな。そんなわけで、俺は、助けられたはずのものを、むざむざと見捨てるのが厭で、こんなことになったわけだよ。納得してくれた?」
「なんだか――」 
 ぱりんと、窓の割れる音がした。見せかけは普通の建物だが、素材も造りも、かなり頑丈になっている。窓は、全て防弾ガラスだ。簡単に割れるものではない。
 それらは、大陸統一前の名残だが、だからといって古びてはいない。どうやってか、アイクが予算をもぎ取り、今も維持しているはずだった。
 音を立てずに立ち上がったセリムは、メーシャにじっとしているよう指示して、扉に手をかけた。耳を当てても物音はなく、ゆっくりと透き間を空けたところで、急激な眠気に襲われる。
 睡眠ガスかと気付き、急いで閉めようとするが、動きは弛緩し、かちりと音を立てて閉まったことを確認することもできず、内鍵をかける間もなく、重くなった体が床に着く。
「セリム!?」
 誰かの、名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

「・・・っ・・・?」
 鈍く痛むこめかみと、何故か床に丸まっている体。何故――と考えて、意識を手放すまでの記憶がよみがえる。
 部屋の中を見回すと、誰もいなかった。メーシャの姿が、ない。
 すぐに部屋を出ようとして、睡眠ガスを疑ったことを思い出す。対策としてはいささか心許ないが、数日、ポケットに入れたままになっていたハンカチを引っぱり出して鼻と口に当て、後頭部で結ぶ。
 リースたちは無事だろうか。
 呼びかけて、少しでも早く確認したいところだが、これが何らかの襲撃で、もしも襲撃者が残っていれば、厄介なことになるだけだ。
 できる限り足音を消して、三人がいるはずの部屋に向かった。
「リース!」
 姿を見ると、用心も吹き飛んで、思わず声が出てしまう。一見無事に見える三人の元に、急いで駆け寄った。
「リース、アイク。大丈夫か?」
 椅子やソファーで気絶するように眠る三人のうち、とりあえずアダムを後に回したのは、年齢からの配慮だった。今更ながら囁くような声で呼びかけ、とりあえず換気装置を動かす。
 確認した防犯装置には、ここにいる四人以外の体熱は感知されていない。キッチンの窓が割れ、床には丸い金属製のものが転がっている。これか。
「リース、アイク。・・・アダム、ごめん」
 聞こえないはずだが断わって、白い頬を何度も叩く。
「つ・・・ぅうー・・・?」
「アダム!」
「セリ、ム? 別の部屋行ったんじゃ・・・」
「睡眠ガスあたりを投げ込まれたらしい。メーシャがさらわれた。助けに行って来るから、リースとアイクを頼む」
「え? なんであの子が? 一人で行くつもりなのか?」 
 混乱気味のアダムに肯いて、ベルトに常備している電子帳を開いて、追跡モードを選択する。これで、メーシャの腕輪が外されていなければ、追うことができる。
 そんなセリムをぼんやりと見上げたアダムは、眠りの残滓を振り払うように、頭を振った。
「本気?」
「ああ。それと、イヴに会えるように話を通しておいてくれないか。王の力を借りたい」
「姉さんに?」
「そう。別れ方が別れ方だから、取り次いでもらえるか心許なくて。メーシャを助けたら、すぐに会いに行く」
 頼んで、背を向ける。しかしその腕を、アダムが掴んだ。
「姉さんは、歓迎はしなくても、セリムが来たならちゃんと会うと思う」
「俺も、そうだとは思うよ。だけど万が一ってものがあって、今回は、その万が一にも注意を払っておきたいから。ひょっとすると、保護を求めることになるかも知れない。頼むよ」
「――わかった」
「恩に着る」
 溜息と共に解放されて行きかけて、振り返る。何事かと構えるアダムに、口の端だけで笑みを浮かべる。
「伝言の伝言だけど、リースに言っておいて。メーシャが、お茶がおいしかったって」
 セリムは、建物を後にした。 

 自分でも、何をやっているのだろうと思う。
 動物よりは優秀、しかし人間よりも劣る、というのが一般区分の人魚が一人。――いや、その区分に倣うなら「一体」か。路頭に迷ったところで、セリムの人生には、何ら関わりがない。
 アサギマダラが根絶しようと、ユリカモメが絶滅しようと、ミノタウロスが断絶しようと、おそらくは関係がない。
 しかし、出会ってしまえば話は別で、見過ごせない。
 それは、人魚でも人でも雨蛙でも関係はなくて、そういうものなのだ。倫理や論理がどうといった問題ではなくて、これは、ただの自己満足だ。
「クビくらいじゃ済まないなぁこれは」
 不景気に呟きながらも、五人目になる見張りの男に拳をお見舞いする。きっちり急所に当てて気絶させると、起きたときに備えて、両手足を拘束して隅に転がしておく。
 全て、アイクから学んだものだ。地方で傭兵をやっていたという老人は、趣味だったのか思うところあってなのか、時間が空けば、セリムに色々と叩き込んでくれた。
「まさか、実践するときが来るとは思わなかった」
 溜息混じりに呟きながら、常備の針金で鍵をこじ開ける。開いたらすぐに、体を滑り込ませた。
「セ――セリム?!」
「やあ、お姫様。待たせて悪いね。ここから出るならお供するよ。白馬に乗った王子様じゃなくて悪いけど」
「何を、言って・・・本当に・・・無茶苦茶・・・」
 泣き笑いに顔を歪めるメーシャには、見られる範囲での怪我はなかった。そのことに安堵して、手を差し伸べる。見たところ、拘束もなく、閉じ込められているだけのようだった。
 それなのに、ゆるりと首を振る。
「ダメ。足が――戻ってる」
 下半身に、水の入った小さな水槽があてがわれている。服に隠れて、戻っていることまでは気付かなかった。
 通説のように、水から出せば魚同様窒息死する、ということはないが、乾かすには、時間がかかる。かといって、この状況では、苦痛を伴う状態で運ぶことも、水槽事運ぶことも困難だ。
 水に濡れて一層青みを増した海色のワンピースの下に覗く、青い尾に視線をやって、メーシャは、泣きそうに顔を歪めた。
 しかしセリムは、メーシャの浸かっている小さな水槽を見て、部屋の隅に立てかけられているカートを見て、それに手をかけた。運んだまま放置していたのだろうが、杜撰だ。
 それに気付いて、メーシャが慌てた声を上げる。
「だ、ダメだって! それ、物凄い音がするのよ! すぐに気付かれる!」
「平気平気。最短距離は判ってるから、突っ走ればいいだけ。さあ、行くよ」
 カートに水槽を乗せて、扉を出てすぐに思い切り加速する。
 メーシャの言った通りに凄い音で、雷のように人を呼び寄せるが、余りの光景に、見た瞬間は呆然とする。我に返ったときには目の前を通り過ぎてしまっている。
 慌てて飛び道具を探るが、セリムが、一風変わった同僚からもらったガスで、火器類の使用は不能にしてしまっている。刃物であれば使えたが、誰も、火器を投げ捨ててナイフを遣うなどと、思いつくことはないようだった。
 そうやって二人は、堂々と密輸業者のアジトを抜けて、そのまま、閣議場の近くの王たちの休息塔まで走り抜けた。
 途中、いくばくかの視線は浴びたが、本物の人魚と思うよりも何かの趣向だと思うものが多く、特に問題はなかった。平和惚けの功罪半ばといったところだろうか。
 厳めしい問の前でカートを止めて、弾む息を押さえて、できるかぎり堂々と、言葉を押し出した。
「セリム・リグ・ムアです。ベントラッセ王に取り次いでいただけますか」
 目を見開いて、仰天している門番に言う。
 その声で我に返ったのかセリムの存在に気付いたのか、青年は、疑うような視線を寄越した。
「何者だ」
「セリム・リグ・ムアです。これ、身分証。アダム・ベントラッセから話が通してあると思います」
 王立博物館学芸員の証明証を手渡すと、リーダーに通して確認する。情報は即座に読み取れ、長方形のカード状の証明証は、丁寧に返された。
「確認が撮れました。お進みください」
「ありがとう」
 促されて、カートを押して進む。何か言いたげにそれを見ているが、咎めないのは、アダムが手を回しておいてくれたのだろう。
 アダムは、王の一人のイヴ・ベントラッセの弟だ。
 そしてイヴは、セリムが以前付き合っていた相手でもある。正直、イヴと別れたときには、それが一方的なものだっただけに、アダムとの縁も切られるものと思っていたが、そんなこともなく今に至る。
 数度、警備の者に身元確認をされながら通されたイヴの部屋には、アダムも来ていた。メーシャの姿を見て、かすかに驚きの表情を見せたアダムに、セリムは肩をすくめて見せた。
 部屋の鍵を閉めて、ようやくカートから手を離すと、左側のソファーに座る金髪の女性に、軽くお辞儀をした。
「久しぶり、ベントラッセ嬢」
「どんな厄介事を持ってきたのかは知らないけど、はじめに一つだけ、質問させてもらっていいかしら」
 既に一つ質問してるよ、とは言わず、どうぞと短く答える。
 イヴは、深い緑の瞳で、ひたとセリムを見据えた。
「何故、あなたはお兄様のところへは行かないで、私のところに来たのかしら?」
 セリムの兄の一人は、サガン・リグ・ムア。これも王の一人で、ただ単に王に用があるのであれば、彼でも良かったはずだと無言の裡に言う。
 当然の質問に、肩をすくめる。
「残念ながら俺は、あの人が信用に足るかを知らないからね」
「それなら私は、信用してくれてありがとうと、お礼を言うべきかしら」
「会ってくれてありがとうと、俺の方が言うべきだね」
 皮肉に、本心を返す。わずかに、自嘲の色が混じっていた。
 イヴの顔は、仮面のように無表情になってしまった。
 今見ても、イヴ・ベントラッセは美人だと思う。綺麗で、とても魅力的な女性だ。大学で知り合って、アダムの姉と知り、頻繁に会うようになって、気付くと付き合っていた。
 一方的に、ほとんど強制的に別れを告げたのは、セリムの方だ。
「少し手順を無視したけれど、これは、訴えととってほしい。個人的なことで来たんじゃないんだ」
「そう」
「話を始める前に、タオルか何か、貸してもらえないか? この子の体を乾かしたい」
「乾かすって――人魚でしょう?」
 イヴの冷ややかな視線を不自然にならない程度に遮って、ああと肯く。
 道中、メーシャと話はしてあった。もう一度苦しむことになるが足を乾かすかという問いには、躊躇いもなく肯きが返された。足がなければ、地上では不利になる。
 座ったままのイヴの代わりにアダムが動いて、バスタオルを投げて寄越す。それをソファーに敷いてから、メーシャを抱き上げて座らせた。
「人魚の尾は、かなりの苦痛を伴うけど、乾かせば人と変わらない足になる。大昔、ここを収めていた王家に、人魚と結婚した人がいるという伝説も、あながち嘘ではないと思うよ」
「――」
「早速本題にはいるよ」
 そう言って、セリムは、一連のことをかいつまんで話した。凍り付いたような表情のままだったイヴは、吟味するように目線を向けていたが、セリムの出した大量のマイクロチップの中身を確認するに及んで、血の気を失って青ざめた。
 それは、セリムがメーシャを探している途中で回収したものだったのだが、密輸業者と役人との会話が収められていた。保険のつもりか、記録を残していたのだろう。
 押し黙ってしまったイヴとアダムと、ヒレが乾き始めたのか、声を押し殺して痛みを堪えるメーシャ。二人の視線は、メーシャにも向いていた。しかし、長くは見ていられず、すぐに逸らしてしまう。
「なかなかに大掛かりなことだ。その上、保護区は王府直属。王の誰かが、確実に関わっていると思う。もしかすると、一人じゃないかも知れない」
「――あなたは、どうして、私は違うと判断したの? それとも、本当は疑っていて、他に頼れるところもないから、来たの? 探るために?」
 取り乱した声に、静かに首を振る。
「違うよ。イヴ、君は、こういったことはやらないだろう? 少なくとも、俺の知ってるイヴ・ベントラッセはやらないしやれない。だから来たんだよ。もし変わってしまっているなら、そこまでだと思ってる」
 よく、人魚を題材にした絵を描いていたリズモア・ウェーデリル。人魚を美しい生き物だと評する彼女との友人付き合いを、金のためにみすみす殺しながら続けられるとは思えなかった。
 少なくとも、セリムの知っているイヴは。
 更に言えば、まだ裏はある。
 イヴは、王になってからまだ日が浅い。六年単位で継続か交替かを投票する時期が来るが、イヴはまだ、一年ほどしか勤めていない。だから、いずれ仲間に引き入れるつもりだったとしても、まだ声はかかっていないだろうと判断した。
 そうでなかったとしても、事態は悪い方向に転がるが、メーシャが足を取り戻すだけの時間が取れれば、とりあえず逃げ切ることも可能と踏んでいる。
 それらは、イヴには、決して告げることはできない考えだった。 
 イヴは、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「わた・・・私、あなたが・・・信じて、くれる・・・思って、なかった・・・」
「信用ないな。仕方ないけど」
「だって・・・私が、王になったから。別れる、なんて・・・言ったんでしょ・・・?」
 散々に、王を酷評していたと知っているからこその発想だろう。普通なら逆のところだ。セリムとしては、そう思われているならそれで良いと、心の中でうそぶく。違うとも言いきれない。
 気持ちがすれ違うことは確実で、王として働くことで抱えるストレスとまとめてしまうと、イヴが潰れるだろうことは目に見えていた。アダムは、そんなイヴの姿は見たくない。自分が、それらを受け容れるだけの器でないことも知っていた。
 頼られると判っているから余計に、別れようと思った。
「友人として、俺は、イヴを信頼してるよ」
「・・・そう」
 イヴは、深く目を閉じて、涙を拭い落とした。俯けていた顔を上げる。そこには、本来持っている冷静さが見られた。
 一層のこと、美しく見える。
「話はわかったわ。この件については、私の方で早急に手を打つようにします。それでいいかしら? その子も、こちらで保護するわ」
「いや、イヴ。メーシャには保護区に戻ってもらう。その上で、もらすことのないよう、速やかにかつ慎重に、調べて欲しい。急いで頭を潰し損なった、なんてことになったら目も当てられない」
「わかったわ」
「それと」
 笑みを閃かせて、言葉を継ぐ。
「これから言うことは、全て、聞かなかったものとしてくれるかい?」 


 夜の保護区に、月が昇る。
 月が昇り、歌声が上る。
 歌声が上り――ぼとりと、フェンスをよじ登っていた人影が落ちる。その隣の人影は黙々と登り続けたが、その頭上にふわりと何かが落ちかかり、結局は先の人影の後を追った。
「よし、かかったかかった」
「悪あがきの浅知恵、といったところか」
 月光の下で、フェンスを見上げる二つの人影があった。


「じゃあ、それぞれお疲れさまでした」
 せっつかれたセリムは、渋々と、そう言って乾杯の音頭をとった。
 王府と役所に大掛かりな捜査の手が入り、密輸業者も粗方押さえられた後の、一日のことだ。セリムたち四人は、ささやかながら慰労会を行なっていた。
 夜に、アダムの部屋でということになったのは、イヴの時間の都合と、人目を避けてのことだった。やはり「王」は忙しく、顔も知られているので、迂闊なところに姿を見せると騒がれてしまう。
「本当に。深夜の見張り、毎日だった? よく体が保ったわね」
「短期で済むだろうと思ったから。それに、完全に徹夜だったわけでもないし」
 並べられた、リースが作ってくれた料理に早速手を伸ばしながら、セリムは穏やかに言葉を返した。
 実際のところ、かなり大変ではあった。保護区自体の警備は装置などの機械に任せているが、それらを総合的に見張る人間はいる。そのあたりに気付かれないように身をひそめておき、人目の少ない夜を見張り、密輸業者がやってくれば捕獲して連行する。
 捕獲には、妙な発明の好きな奇矯な同僚にもらった、投げるだけで網に捕らえるという試作品が有効に働いてくれたのだが、眠気だけはどうしようもない。協力を申し出たアダムと共に、一応仮眠も取っていたが、微々たるものでしかなく、自然、仕事中の居眠りも増えてしまっていた。
 おかげでこのところ、ろくに古文書が読めていない。それでなくても、度々、水棲生物の方で駆り出されていたというのに。
 そういった不満はあるが、ただの愚痴でしかなく、言ったところでどうなる種類のものでもない。むしろ、迷惑をかけたかと気に病まれるくらいだろう。それなら、口にしない方がずっといい。
「イヴの方こそ、大変だっただろう。日常業務の片手間で住むことでもないし。ありがとう」
「どういたしまして。だけどそもそもが、王の果たすべきことでもあるのだしね。あれで、完全に潰せたのだったらいいのだけど」
「末端には多少逃げられるかも知れないけど、これで、いくらか改善はされるだろうと思うよ」
「代わりに、見せ物になったけど」
 並んで座るセリムとイヴの会話に、アダムと話していたメーシャが、言葉を挟み込む。内容の割に淡々としているのは、比較してましだと認めているからだろう。
「色々押し掛けてきたわよ、セイブツガクシャだとかイッパンシミンだとか」
「そのおかげで、昼間の拉致は心配しなくて良くなってたんだろう」
「代わりに、何回か水揚げされたわよ。無理矢理」
 すっかり仲良くなったらしいメーシャとアダムを眺めながら、思わず微笑が浮かぶ。どこか似ていて、微笑ましかった。
「そのあたりは、支援団体ができたから、改善されると思うよ。少なくとも幹部は、信用のおける人たちだ。最終的には、人権を認めさせて、差別もなくす方向で動いてる。そのうち、ごく自然に、好きなところで暮らせるようにしたいね」
「私も、議会で推すつもりよ。ごめんなさい、なんて言って足りるものじゃないけれど、この先、できる限りのことは助力するわ」
「べ・・・別に私、イヴさんを責めてるわけじゃなくて」
「俺が悪かったよ、全部」 
「そ、そういうつもりでも」
 気まずそうに目線を逸らすが、セリムは、言った言葉に嘘はないつもりだ。
 勿論、一番悪いのは、人魚で秘密裏に儲けようとした王の一人とそれに付随する人々ではある。しかし、セリムが手を打っていれば妨害できていたかも知れないことも事実だ。
「そうそう。乾かせば尾ひれが足になるのも、歌に催眠効果があるのも、忘れてぼけーっとしてたのはメーシャたちの側だし。僕も、セリムが責任を感じることじゃないと思うけど?」
「やっぱり性格が悪いわよ、こいつ」
 冗談半分に睨み合う二人を、微笑するイヴと揃って見守る。
 セリムは、イヴが内偵を進める間、手を出してくる業者を自らの手で捕まえるつもりでいた。それまで野放しにして置くわけにはいかないが、王府にも任せられない。自分でやれば、全体の逮捕まで身柄を拘束しておいて、情報の漏洩を避けることもできる。
 しかし、夜はそれでいいのだが、問題は、日中のことだった。
 保護区は立入禁止ではないが、見学するには手続きを踏む必要があり、そこまでして申し込む者もそうはいない。人のいない隙を狙って、係の者と計って拉致されれば防ぎようがない。短期で済むとの予測はあっても、どのくらいなのかが判らなければ、仕事を休み続けることも難しい。
 それでも一度は、免職覚悟で、長く仮病を煩うしかないかと考えた。
 ところが、メーシャと話をしていて気付いたことがあった。セリムが古文献で知り得ていた尾のことも、歌のことも、人魚たち自身が忘れ去ってしまっているらしい。その上で、保護区の設備から見ても、人の側もそのことを知らずにいるらしい。
 それなら、あの文献を生物学が専門の者に読むように仕向ければいい。以前回したのは、別の分野へのことだった。
 セリムにとっては常識だったせいで、そこに気付くまでに時間がかかってしまっていた。あの日の夜に、イヴとアダムの姉弟を前に、以後の計画を話した時点では、一日中貼り付いているつもりでいたのだ。寸前で気付いて、助かったと言うべきだろう。
 事を仕向けると、確認され、一般に向けても公表された。おかげで、保護区は日々賑わったということだ。メーシャの言った通りに見せ物ではあるが、見物人たちに害意はなく、有益な壁になった。
 その一方で、それが密輸業者や買い手側にも伝わり、急遽の拉致を謀りもしたのだが、そちらは、人魚の歌と小道具で阻止した。捜査の公開と同時に、捉えていた者たちの引き渡しも完了している。
「そう言えば気になってたんだけど、セリム。歌声、どうして平気なんだ?」
「そうなの?」
 姉弟にまじまじとみつめられるが、いつかは来るだろうと予想していた問いかけだ。すぐに、返答の推論が思い浮かぶ。
 ワインで、喉を潤した。
「コウモリが、仲間の超音波で狂わないのと同じ事だと思うよ」
「は?」
「二人とも、俺の先祖の逸話、知らない?」
「あ」
「なるほど」
「何のこと?」
 それぞれに納得したイヴとアダムに、今度はメーシャが疑問を抱く。メーシャは、セリムに歌ってみて、と言われて歌いはしたが、そのことでの説明などはされていない。
 そのときは、自分の歌声にそんな効果があるとは知らずにいたこともあり、その後で知っても、そんな人間もいる、程度にしか考えなかった。
 セリムは、にこやかに笑みを返した。
「俺の先祖は、この辺りを治めていたことがあったらしくてね。その中に、人魚を妻に迎えた人もいたんだよ。先祖返りとでも言うのか、俺は、他の人に比べて水中でもいくらか呼吸が長く保ってね。一緒に、歌の耐性もあったってことだ」
 おかげで、夜の見張りの時に耳栓をせずに済んだ。
 乗り込んできた者の中には、耳栓をする者としない者とで組んでいたところもあったが、耳を塞いでいなければ歌声で眠ってしまい、塞いでいれば物音にも気付かずと、かなり捉えやすかった。
 セリムたちが似たような失態をせずに済んだのは、この体質のおかげだった。もっとも、無理であれば、人魚たちに歌の助勢は頼まずに済ませていたのだろうが。
「だから、リグ・ムア家は、人魚の自立に手を貸すはずだよ。ここまで注目されたら、そうしないわけにはいかないだろう。お伽話と、笑い飛ばせなくなったわけだし」
 唆すような笑顔だった。
 幼年時の恨みというわけではなく、利用できるものは、最大限に使うべきだという考えに基づいてのことだ。
「それで思い出したわ。セリム、あなたに、サガン・リグ・ムア王から伝言よ。次に王に直訴したいことがあったら、私のところに来い、ですって。弟なのに私の方に来たからって、外野の憶測がうるさかったらしいわ。昔付き合っていたから、ということで納得してくれようだけど」
「それは申し訳ない。それじゃあ、陰口をたたかれないように、そのうち訪ねるって伝えておいてくれないか」
「連絡方法くらいあるでしょう、家族なんだから。私は伝言板じゃないわよ」
 呆れたように言って、肩をすくめる。
 イヴは、友人としてのセリムを認めてくれるようになっていた。それが、思っていたよりも嬉しかった。しかしそうなると、身勝手な自分に付き合わせていることが、申し訳なくもある。
「ああ、そうか。そうだね、調べてみる。判ったら、メーシャにも言うよ」
「え?」
「だから、使えるものは使えばいいんだよ」
 そういってもピンときていない様子のメーシャに、向き直って言葉を重ねる。
「俺という実証もいることだし、おそらく、リグ・ムアの祖先には、人魚がいる。伝説として有名だった話だから、これは、隠しようもない。代わってくるのは周りの反応で、ここで、人魚を下等と捉えるなら、リグ・ムアの家もそうだと、見なす奴らが出てくるということだよ。それなら、人魚の地位上昇に手を貸すことは損にはならない。人と人魚は同等と見る人たちの、支持も取り付けられるだろうしね。方向は同じだから、そこに乗って、有利に話を進めていけばいい。そこで、現時点で、家系の中で最大の権力を持っているサガン王との直通手段は、知っていて損にはならないと思うよ」
 リグ・ムアが味方につくということは、その敵対者を敵に回すことにもなるが、伝説から、手を組もうと組むまいと敵視されることになるのだろうから、協力しないのも馬鹿らしい。
 メーシャは、考え込むように、まばたきを繰り返していた。

 イヴはそのまま泊まるということなので、セリムは、メーシャを送りながら帰途に着いた。一旦は保護地区に戻ったものの、宣伝も兼ねてこちらへと戻ったメーシャは、今はリースのところに居候している。
 はじめの頃は、王府の方で手配した宿泊施設で生活していたのだが、とりあえず、騒動に一段落つき、メーシャ本人はこの先も地上で暮らすことを望んだため、独り立ちへの援助として認められた。
 送っていくのは、頼りないながらも、護衛も兼ねてのことであった。人魚と知られているメーシャは、反発を受けることも多い。宣伝塔には、相当の覚悟が必要だった。
「セリム」
「うん?」
「いろいろと、ありがとう」
 正面切って礼を言われるのは初めてだと気付いて、意外に思った。既に、何度も言われたような気がしていた。
 海から吹く風に押されながら、軽く肩をすくめる。
「俺は、自分のためにやっただけだよ」
「突き詰めればそうでも、私達を救ってくれたのは、確かにあなたよ。・・・弟さんのこと、まだ、気にしてる?」
「それはね。忘れられるものでもないよ。忘れちゃ行けないことでもあるしね」
「だけど、悪意があったわけじゃないんでしょ?」
「いいかい、メーシャ。君たちをさらって売りさばいていた中にも、悪意だけじゃなかった奴もいるかも知れない。さらった先の方がいい生活だと考えていたかも知れない」
 驚いて、歩くことも忘れて見上げてくるメーシャを、そのまま見つめ返す。
「善意を持っているからいいことをしているとも、悪意を持っているから悪いことをしているとも限らない。幸い、最近ではないけど、戦争なんてその最たるものだね。あれは、極言すれば、善意と善意が戦っているようなものだ」
「だけど・・・」
「良かれと思って荷物を移動させたら、それにつまずいて大怪我をした人がいた。それはいいことか? 嫌いな奴が悪戯を仕掛けたから、成功させまいとして仕掛けを取り除くのは?」
「え・・・」
「意志と結果は関係ないよ。俺に感謝してくれるのは嬉しいけど、気にしなくてもいいんだよ」
 何故か泣きそうな表情に、少し困る。思っていることを言っただけでも、傷付けてしまうのだろうか。
「それに、俺がやったことはどう考えても酷いことなんだから、他に何をやったところで、相殺はできないよ。あれはあれで、これはこれ。別のものだから」
 あのときのことは、確かに後悔している。今の言動に結びつく多くのものは、あの失態を悔やんだことを素地に成り立っている。それは、間違いない。
「でも・・・弟さんが、そんな風に悔やまれることを望んでるとも限らない」
「まあそこは、色々とからかわれるところではあるけどね。ひねくれてるってことで納得してくれてるし」
「・・・え?」
「え?」
 訝しげに見上げたメーシャに、こちらは不思議そうに首を傾げる。
 ちょっと待って、と、セリムを押し止めるかのように、空中を掌で押さえる。 
「弟さん。いないのよね?」
「ああ。今は、俺が行ってたのと同じ学校に行ってる。そろそろ、長期休みで帰ってくると思うから――もしかして、死んだと思ってた?」
 言葉さえ読み取れそうなメーシャの表情の移り変わりに、推論を口にする。当たったらしく、怒ったような視線を寄越した。
「知らない」
 足早に去って行くメーシャを、こみ上げる笑いをこらえつつ、追いかけるセリムだった。


 後日、人魚への対応の改善に伴い、他の生物一般も見直されることとなった。また、仮措置として、知識の豊富な王立博物館に、それらに関する相談所を設置することとなった。
 そこに当然のように駆り出され、セリムが、古書の山から遠退いたことを嘆くのは、極小の悲劇であった。

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