夏山 /人形師 / 人魚の痕 / 人魚の声



人形師

 それは、ある夏の記憶。

 夜闇に沈んだ山は、ひどく恐ろしかった。
 得体の知れない音に、声。黒々とした闇の向こうには、よくわからない化け物が潜んでいるに違いなかった。
 そもそも、野山を歩き慣れていない。都会と言うには憚られても、田舎と言うのも違うような、そんなところで暮らしていたのだ。父の実家の、こちらは田舎と言って異論のなさそうなそんなところに行くのは、せいぜいが夏休み、祖父母に会いに行くためだった。
 そのときも、夏休みだった。
 だが、夏休みがあけても、都会とも田舎とも言えない我が家に帰るかどうかは、判らなかった。
 病を溜めに溜め込んだ父の療養のために訪れた田舎町に、しばらく住むことになるのか、それとも戻るのか。誰もが、その問題をぎりぎりまで棚上げしようとしていた。
「っ!」
 木の根なのか草の根なのか、それとも全く別物か、足を取られてこけかけた。咄嗟に伸ばされた手が、ざらりとした木肌を掴む。
「みっともないなぁ、何やってる」
 降ってきた声は、声変わりもきていないような、子供のもの。
 いくら山に慣れた地元の子供たちも、夜に山に踏み入ることはないと聞いていた。仲良くなった子供ら自身が言ったのだし、実際に登ってみて、当たり前だと実感した。
 夜の山なんて、歩けたものじゃない。それは、山に慣れていない負け惜しみではない。
「山は、夜は妖の、朝は神の、昼は獣の領域だ。ヒトの踏み入る余地なんてない。せいぜいが、昼に、獣たちにちょっと目こぼししてもらうくらいのものだ。知らないわけじゃぁないだろう?」
 この田舎町に来て気付いた月の明るさも、今は助けにはならない。木々が繁り、ひさしになってしまうのだ。おかげで、声の主の位置も、闇に溶け込んでよく判らない。声も、山と地面と空に拡散して標にはならない。
 そのときには、「彼」が人ではないと、どこかで確信していた。
「……まつりが、あると聞いたんだ。そこには、ときどきだけれどどんな病気もなおすくすりが売られている、って」
「トウセンが目当てかぁ。誰に聞いた?」
「…知らない」
 嘘ではなく、本当のことだった。
 仲良くなった近所の子供たちとかくれんぼをしていて、隠れていた繁みの中で、たまたま会話を聞いたのだ。姿かたちすら、目にしていない。
 声は、まぁいいや、と呟いた。
「人里に近付くとなれば、キリやホヅミ、ハナといったところか。それにしても、お前も、ちょっと聞いただけでよく来たよなぁ。知らないだろうが、妖の市って言ったら、ヒトの子なんて、見つかったらとっ?まって殺されても文句は言えないんだぞ?」
「知ってる」
 それも、話していた者たちは言っていた。だから、相応の覚悟はしていたつもりだ。
 だが声は、きっぱりと首を振った。
「いいや、知らない。なんとかなると思ってるんだろう? 無理だ。においで判る」
「…でも。オレは…」
 本当に効き目があるのなら、父に。
 こちらに住むかどうかの結論を皆がとおざけているのは、それだけ、父の寿命が尽きかけていると、誰もが感じていたからだった。急いで手続きをとって、夏休みが終わったときには、その必要はなくなっているかもしれない。また、転校しても、すぐに戻るかもしれない。
 父は元々、生まれたときから長くは生きられないだろうと、方々で言われていたらしい。
 床に伏しながらも、子供の顔が見られるなんて上出来じゃないかと、嬉しそうに、淋しそうに、申し訳なさそうに笑っていた。母は、その笑顔を見るたびに、そっと姿を消していた。
「ふぅん。おい、ヒトの子。名前は?」
「え」
「ないのか?」
「あ、ある。一郎」
「……そうか」
 何故か、急に声が大人びて聞こえた。しかし、そんなものは一瞬だった。
「一郎、ついて来い。トウセンがあるかどうかは判らないが、少しくらいなら見せてやる。ただし、絶対に声を出すな。手を離しても駄目だ。守れるか?」
 言いながら、手が握られた。夜とはいえ夏の盛りだというのに、ひやりと冷たい手だった。まだ小さくて、重ねられた掌の大きさは、そう変わらない。
 ごくりと、つばを飲み込む音が聞こえた気がした。心臓がうるさかった。
「きみは――アヤカシ、なのか?」
「妖であり、妖でなし。神であり、神でなし。人であり、人でなし。そんなことよりも、どうする、守れるか?」
「――守る」
「言ったな。では俺は、一郎が約束を守る間は、その身を妖から隠し、守ってやる。だが、声を出すか手を離せば、後は知らない。そこから先は、見つけた妖か、気まぐれな神の領分だ。――目をつぶってろ」
 半ば唐突な声は告げ、一郎の反応を待つことなく、動き出した。
「えっ、ちょっ」
「それと、もう口を利くな。俺がいいと言うまでは、黙っていろ」
 慌てて、空いている右の手で口を塞ぎ、しっかりと目をつぶった。
 「彼」の言うことを疑う気持ちなど、微塵もなかった。ただ、本当に目的のところに連れて行ってもらえるのかは、疑問だったのだが。
 風の音と、虫や獣の声、草や木々を駆け抜ける音。
 明らかなそれらの音に反して、山中を駆けているという感覚はなかった。ただ、目をつぶってできた一筋の光もない闇の中で、足踏みをするように、しかし確実に駆けていく。そのときは、握られた手だけが、世界と繋がっていた。
「――目を開けてもいいぞ。口は開くな」
 言われて目を開けると、そこは、ほのかに光っていた。
 光といっても、電灯のような攻撃的なものではない。闇に溶け込みながら、空間自体が白っぽさを持っているかのような、光。例えるなら、夜光虫や光苔の発するものに似ていたかもしれない。
 全てを見通すのに十分ではないが、先ほどまでの闇に比べると、ずっと明るく思えた。ものを見分けるのも、近付けば、そう苦労はしない。
 その、山の中にぽっかりと開いた広間のような場所に、何か奇妙なものたちが、思い思いに店を広げていた。
「おや、イチ。珍しいねぇ。お前、ここを嫌ってなかったかい?」
「あんまり好きじゃないだけだ。においがひどいからな。よく、平気でいられる」
「尖るのもいい加減におしよ。イチ、お前、ヒモロ神のご厚意に縋っていると判っているのかい」
「だから、大人しくしてるだろう?」
 光の中に浮かび上がった少年は、ナメクジとヒトに化けそこなったキツネが合わさったような女――に、見えた――の、いくらか意地悪げな調子にも、飄々と声を返していた。
 少年は、掌の大きさや声からも想像がついたように、年齢もあまり変わらないように見えた。十前後といったところだろう。
 キツネナメクジは、糸のような目を、更に横に引き伸ばした。
「まあいいさ。どうせ来たんだ、楽しんでいきな」
「ああ、そうさせてもらう」 
 そうして少年は、すたすたとキツネナメクジの元を離れた。
 ヒモロの神とは何のことだ、厚意に縋っているとは何なのか、君は何者なのかと、疑問は大いに膨れ上がったが、声は出せない。
 草地に直に座り、あるいは布か獣の皮のようなものを広げた「屋台」では、色々と奇妙なものが並べられていた。
 例えば、溶けかけたガラスのような丸い物体。二枚貝の下から、ぎょろりとカタツムリのつのを大きくしたような目をのぞかせる生き物。何の変哲もないような、小ぶりの切り株。見たこともない、りんごに似た果物のようなものもあった。
 少年は、それらを見るために立ち止まることも許さず、目的地があるかのように真っ直ぐに、人でない者たちの間を抜け、歩んでいく。
 やがて、広間をぐるりと取り囲む木の幹に背を預けた、顔面も白髪に覆われた老人のような者のところで立ち止まった。
「ハクジャク、トウセンはまだ扱ってるか?」
「おう、まだおったか」
 毛むくじゃらは少年の問いには答えず、にたりと笑った、ようだった。
 足元には、大人が丸ごと包めそうな絞り染めの風呂敷が広げられ、上にはちょこんと、得体の知れない粉末やら木の根やらが転がされている。
「トウセン、あるか?」
「ああ、あれか。お前、会うたときもそう言うていたなあ」
「昔話なんか訊いてない。あるのか、ないのか?」
「ああ。あるとも。ほしいか?」
「……ああ」
 話しながら、少年が緊張しているのが判った。握られた手が、ぎゅうと強く掴まれる。
 毛むくじゃらはまた、にたり、と笑った。
「では、代価にお前が右手に握っているものを寄越せ」
「なに――」
 少年は、凍りついたように息を飲んだ。 
「白を切るな、時間の無駄だ。見えずとも判るわ、どうせ、ヒトだろう。昔が懐かしいか。ヒトに関わるは、そのせいか。どうせ、トウセンもそのためであろう? なれば、引き換えだ。そうでなくてはやれん」
 毛むくじゃらは淡々と、悪意を込めて言い放った。決して大きな声ではなかったが、よく通った。いつの間にか、辺りにいたものたちは、面白がるようにこちらを見ていた。
 少年は、強く手を握りしめた。力を緩めれば、抜けていってしまうとでも言うように。
 だが、そんな心配はなかった。父の病が治るのと引き換えなら、母があんなかおをしなくていいのならと、考えないではなかったが、それよりも、恐怖が強かった。声を出すことも、手を離すことも、できそうにはなかった。
「ハクジャク」
「名を呼ぶな、ヒトの成れの果てが。お前など、ヒモロ様のきまぐれがなければ、疾うに一片も残さずに消え失せていたものを」
「――そうか。もういい。それほどに俺やヒトを嫌うなら、貴重な薬など分けたくはないだろうな。他を当たる。声をかけて悪かった」
 ぼんやりとした光があおみを帯びているせいか、少年の顔は、青ざめて見えた。押しつぶすような声を押し出すと、少年は、踵を返そうとした。
「お前、このままで無事に戻れると思うたか。お前はどう考えていたかは知らぬが、見方などおらん。お前は、我らの仲間ではないからな」
 妖であり、妖でなし。人であり、人でなし。
 少年の言っていた言葉は、本当だったのだろう。周りを取り囲む者たちは、あからさまな敵意を露にする者は少なくても、助けてくれそうな者も見当たらなかった。
 そのとき、少年は、呟くように声をかけてきた。
「守ると、約束したな」
 何のことかと思わず顔を見ると、凍りついた横顔は、笑うように口の端を引き上げた。
「ヒモロ神、眷属が危機に陥っているぞ! 見捨てるつもりか!?」
「…やれ。うるさいのを拾ってしまった」
 星明かりの闇空に向かって放たれた少年の声に応じるようにして、涼やかな声が降って来た。
 次いで、月光をまとったかのような男――多分――が姿を現す。
 取り囲んでいた者たちは、とりどりに声を漏らした。
「今宵は、市だったな。これが迷惑をかけたようで、申し訳なく思う」
「そう思われるなら、ヒモロの神。夜は、我らの時間。手出しは無用に願いたい」
 ずいと前に出たのは、毛むくじゃらだった。恭しく腰をかがめながらも、ぎらりとした瞳は、冷たい。
 だがヒモロ神は、穏やかに凄みのある笑みを浮かべた。
「そうしたいところだが、これは吾の眷属でな。捨て置くわけにもいかない」
「だが、それの連れているものは違うでしょう」
「ふむ」
 すっと、視線がこちらに向く。
 ぎくりと身を強張らせていると、少年が、手を握ったまま庇うように立ち塞がった。
 それを受けて、ヒモロ神は、優美に肩をすくめた。
「誓いを立てたようだな」
「ああ」
「では、彼も吾の領分だ。悪いな」  
 そうしてヒモロ神がほっそりとした手を上げると、景色は一変した。そのとき、「イチ、懲りるんじゃないよ」という声が聞こえたような気もした。キツネナメクジの声のようにも思えた。
「さて、イチ。釈明といこうか?」
 あの不思議な光が消え失せ、闇に戻った山の中で、先ほどよりも雰囲気の変わったヒモロ神は言った。面白がるような声だった。
 少年は、まだ手を離さずにいた。
「こいつが」
「イチ。君が律儀に誓いを守っているものだから、彼の姿が見えないよ」
「…こいつを、守るか?」
「そうか。彼が無事に家にたどり着くよう、配慮しよう。少なくとも今夜は、この山の者に危害を加えられることはないと約束しよう」
 その言葉を聞いて、少年はようやく手を離した。
「やあ、ようやく姿が見えた。はじめまして、少年。私は、この山にすむ者だ。名は聞いているだろう、ヒモロというのが、そのうちのひとつだ」
 穏やかにそう言って、声を転じる。
「イチ、それで君は、彼を巻き込んで何をしていたのかな?」
「俺は」
「オレが、頼んだんです! 悪いのはオレで、だから、怒るならオレにしてください」
 言ったものの、言わなければよかったという後悔が、口にしながらも湧いてきていた。そもそも山に入った目的も果たせず、ここでどうにかなるのは、厭だった。だからといって、少年を身代わりにすることもできない。
 ところが、ヒモロ神と少年は揃って、吹き出した。ひとしきり、遠慮なく笑う。
「俺がいなくなって困るのは、ヒモロの神の方だよな」
「おや? ろくに力もない、問題ばかり引き起こす眷族がいなくなっても、厄介ごとが減るくらいしか思い浮かばないが?」
「よく言う。俺が来るまで、枯れ藪に突っ込んでそのまま一日は身動き取れなかったような格好でいたくせに。あれに戻りたいなんて、変なことを言うもんだ」
 軽い調子で言い合う様子は、とても親しげだった。
 だがふと、少年は、調子を落とした。
「…ごめん、一郎。トウセン、無理だった」
「いや…ありがとう」
「さて、これが何か判るかな?」
 ふうと、甘いにおいがした。隣で、ぎょっとした声が上がる。
「トウセン! なんで!?」
「ふふふ、私を何だと思っているのかな。軽んじられるようなことを、ただで許すわけもないだろう?」
「そういや、そういう奴だったよな!」
「…イチ。それは、褒め言葉ととっていいのかな」
 そうして、甘いにおいの元を、手に押し付けられるようにして渡された。
「いいの?」
「ああ。俺が持っていても仕方がない」
「…どうして、君はそこまで手を貸してくれるの?」
 ヒモロの神は姿を消したのか、黙っているのだけなのか、よく判らなかった。
 少年は、濃い闇の向こうで、考えるような、悩むような間を置いていた。しかし、そこにはいるのだと感じられた。
「…もう一回、効き目があるかどうか判らないけど。次郎によろしくな」
「え」
 闇は姿を変え、いつの間にか、山は遠くにあった。
 ぽつねんと佇む切れかけの水銀灯は、果てしない闇の中で、薄っぺらそうな闇色の影を、地面に落としていた。 

 父は、それから十数年後にこの世を去った。
 延長された時間の初めに、父は、子供の頃に行方知れずになった――神隠しにあった兄のことを話してくれた。

目次一覧


人形師

 会いたい人が、いた。
 欲しいものが、あった。
 それだけなのに。ただ、それだけだったのに。

 ――どうして僕は、追いかけられてるんだろう。
 そもそもの望みは、ありきたりなものだったはずなのに、と、ヒィシは、走りながら溜息をついた。
「ねえ。何かまずいことになってるんじゃないの?」
「うん」
「・・・いいの?」
「何が?」
「そんなにのんびりしてて」
「ええ? 一生懸命力の限り走ってるのに」
「声がのんびりしてるのよ!」
 息だって切れてないじゃない本当に走ってるの?
 呆れ気味に、むしろ怒り気味に言われて、ヒィシは苦笑するしかなかった。走りながら苦笑というのも難しいものだが、ヒィシはやってのけた。
「まあ、安心して? ちゃんと君の体は作るからね」
「・・・本当でしょうね?」
「はいはい」
「胡散臭いわね!?」
 腰のベルトにくくりつけた小袋からの声に、いよいよ苦笑する。
「大丈夫。――しばらく、喋るの無理だからね」
「え?」
 返事は待たずに、傍目にはごく気軽に、城下町の外壁を跳び越えた。
 その外は、轟々たる川。ヒィシを追いかけていた面々は、息を呑んで、あるいは絶叫して、見る見る小さくなっていく青年の姿を目で追った。
 城と城下町は、崖の上にあったのだった。 
「何よそれどういうことよーっっ?!」
 少女の声が、尾を引いて消えた。

「うー。寒い・・・」
「当然よ。川を泳いだんでしょう? この季節に。むしろ、飛び降りて生きているだけ、化け物じみているわよ、あなた」
 川縁の、見知った小屋に身を寄せたものの、小さな暖炉程度では、芯から冷えた体は温もらない。濡れきった服は脱いで、乾いた大布にくるまってはいるが、歯の根も合わない。
 それなのに、小袋から聞こえる声は冷たい。
「風邪はひかないでよ? 手元が狂って失敗作なんて、厭ですからね」
「冷たい・・・」
「寒中水泳なんてするからよ」
 つんと、顔を背けて言い放つ。少女の仕草を思い出して、ヒィシは益々、冷たさが身に沁みた。
「また今度は、威勢のいい娘だな? ほれ、飲め」
「ありがとう〜っ! ああ、浸み入るーっ温もるーっ」
「・・・情けない男」
「あはは! 形無しだなあ、小僧」
 温めた酒を出した壮年の男は、豪快に笑ってヒィシのしめった頭をがしがしと撫でた。揺さぶられて酒をこぼしそうになったヒィシが、半ば必死で器の中身を守る。
 男は、それに気付いて手を止めた。
「悪い悪い。すぐに飯の用意するから、今日はもう、食って寝な」
「ありがとう。助かるよ」
「うん? お嬢ちゃん、騒がないのか? 俺はてっきり・・・」
「言ったでしょう。失敗作なんかに入れられるのは厭なのよ。早く体調整えて、私の体作りなさいよ」
「こりゃあいい。思ったよりもしっかりした娘だな」
 笑いを含んだ声で言って、男は立ち上がった。男の右目は白濁しており、右腕の動きはぎこちないが、危なげなく隣室へと去っていった。
 残された空間には、ヒィシが酒をすすり、「あー」や「うー」という声と、小枝のはぜる音がしている。その上、外では風が暴れているのか、そういった音も聞こえた。
 捜索の気配がないのは、あの高さから落ちては助からないと見なされたからだろうか。それとも、随分流されたせいで、まだここまでは至っていないのかも知れない。   
「・・・ねえ」
「んー?」
 ヒィシはゆったりと応えを返し、それに戸惑ったのか、次の言葉までは間があった。
「こういうこと、何度もしてるの?」
「こういうことって?」
「一年だけ、命を与えて。死ぬかあなたの助手をするか選ばせるのって・・・」
「ああ。うん」
 軽く、気負いも何もなく応えて、酒を名残惜しげに飲み干す。大分、体は温まった。少なくとも、芯の冷えは和らいだようだった。
「――それならどうして。あなたは、一人で旅をしているの?」
 少女に見えるはずもないのだが、ヒィシはゆたりと微笑んだ。笑顔は、本心を隠すのには便利な仮面だった。
「それは、そもそも残り続けることを選ぶ人が少なくて、その上、逃げたり、やっぱり死んどくって言い出す人が多いからだよ。因みに、逃げた人も、一月もすれば、やっぱり死ぬんだけどね」
「・・・それ、釘を刺してるつもり?」
「んー? 事実を言ってるだけだけど?」
 そう、事実。だからこそ、ヒィシは己の能力に失望したのだ。
 まだ会話は終わってはいなかったが、固いパンとチーズを持って男が入ってきたことで、断ち切られた。その日の晩餐は、その二つと、暖炉の上に掛けられていた具だくさんのシチューだった。

 翌朝から、ヒィシは山小屋の一室を借り受け、そこに籠もって人形作りを始めた。ヒィシの手はすらりと細く、見掛けに違わず細かい作業も、外見を裏切って力任せの作業も、得意だった。
 家主が、二度の食事を運ぶだけで、作業中、ヒィシは必要最小限しかそこを出なかった。
 寝不足と運動不足と、その上食事すらしっかりとは摂っていなかったせいで、どうにも貧相になったヒィシが姿を現わしたのは、半月ほどが経った後のことだった。
「よお、生きてたか、小僧」
「うん、おかげさまで。例によって、部屋は凄いことになってるけど。ごめん」
「気にするなって。いつものことだろ」
「あはは。さてと、シンシア?」
 薄汚れたヒィシは、机に上げてあった小袋を手にとって呼びかけた。紐をたぐって、袋の口を緩めると、そこからは、薄緑色の掌に収まるくらいの、球体が出て来る。
「待たせたね。君の体ができたよ」
「随分と待たせてくれたわね? 前の体の、倍くらいかかってない?」
 少女の声は、薄緑の球体から聞こえてくる。しかし、青年も男も、それを当然と受け止めていた。
 その上で、ヒィシはにこりと微笑む。
「そりゃあ、あれは一年保てば良かったから。こっちはとりあえず、長期用」
「・・・とりあえずって何よ」
「本当に長期使うかどうかは判らないからね」
「逃げないわよ、私は!」
「はいはい」
 ぴくりとも動かない球体を手に、ヒィシは作業に使っていた部屋に移った。男は、手をひらひらと振って見送り、別室へと移動した。
 ヒィシの入った部屋は、木の屑や作業道具が散らばっていたが、一番目をひくのは、壁に背を預けた、十前後の子どもくらいの人形だった。
 黒に近いダーク・ブラウンの髪は短く、瞳は閉じられている。少年とも少女ともとれる容姿だ。服は着せられておらず、それどころか、胸の辺りが戸棚のように開かれていた。
「最後の確認だけど、本当にいいんだね?」
「決まってるでしょ」
「君は一生、僕に付き従わなければならなくなる。体に不調が起こっても、僕が直さなければそのままだ。暑さも寒さも感じることはなくて、痛みもない。物だって食べる必要はない。眠ることもできない。当然、成長することもない。それなのに、死ぬときは、痛みはある。それでも?」
「・・・ええ」
「今なら、苦しむこともなく死ねるのになあ」
「ちょっと! やりたくないならそう言えば?! みっともないわよ、ぐだぐだと! 私はいいって言ってるじゃないの!」
 威勢のいい声に肩をすくめる。
「わかったよ」
 呟くように言って、人形に近付く。
 開かれた胸に、薄緑色の球体を入れる。その上から木屑を詰めて、閉じると、道具類を使って、丹念に扉を塞いで行く。
 それがすっかり終わると、人形に布をかけて、閉じられた瞼にそっと手を当てた。
「さあ、もういいよ。君の時間は動き出したよ、シンシア」
 ゆっくりと、手を離すと、やはりゆっくりと、瞼が開けられた。瞳の色は森を思わせる深い緑だった。
 そうして、ぎこちなく、人形の体が動く。
「・・・これで二度目だけど、やっぱり慣れないわ、これ」
「慣れない方がいいよ。服、そこに置いてあるから。僕は出てるね」
 返事を待たずに部屋を後にすると、早くも火を入れた暖炉の前で、男が待っていた。暖炉には熱いシチューが掛けられており、ふたり分の器と酒が用意してあった。
「飲むだろ?」
「ああ・・・ありがとう、カンザス」
 一瞬、不意をつかれて表情をつくろう間もなかったヒィシは、しかしすぐに、にこりと笑顔を向けた。
 ヒィシが隣に座るとすぐに、酒をつぐ。
「いい加減、やめたらどうだ?」
「何のこと? ――ひはい、ひはい・・・っ」
 左手で頬をつままれて、情けない声を上げる。じたばたと抗議してようやく手を離してもらうと、涙目になりながら、座っても頭の一つや二つくらいは大きい、男の顔を見上げた。
「何するんだよ」
「無理して笑うからだ、馬鹿小僧」
「別に無理なんて・・・。大体、小僧小僧って。ちょっと大きくなったからって、酷いよね。僕は、そんな子に育てた覚えはないのに」
「忘れてるだけだな、そりゃあきっと」
 軽口のように受け流すが、男の目はまったく笑っておらず、ヒィシは、このままではまずいなと、心中密かに呟いた。
 そこに人形――シンシアがやってきた。それは、先程まで壁により掛かっていた人形とは別物かと疑うほどに、人間のように動いていた。
 良かった助かったと、息をついたのも束の間。立ったままの少女に、胸ぐらを掴まれた。
「どういうつもりよ、これは!?」
「どういうって・・・?」
「何よ、このちんちくりんの髪! まるで男の子じゃない?!」
「だって、その方が何かと便利なんだよ」
「その上、どうしてこんなに小さいのよ! 私は十五なのよ! これじゃあ十歳くらいじゃないっ」

「そのくらいの方が、助手としては有用でね。小回りが利くから」
「小回りって・・・乗り物じゃないのよ?!」
 あはは、と笑うヒィシの頭をがしがしと揺する。カンザスは、それを見て笑ったようだった。
 それを受けて、シンシアが睨み付けると、大げさに肩をすくめた。
「あなた、人ごとだと思って」
「厭なら、やめてもいいよ。やっぱり死んでおく?」
「・・・卑怯よ」
「僕に従えと言っただろう? そういうことだよ」
 笑顔で告げる。シンシアは、口をつぐんで、手も離すと、部屋の片隅にひっそりと座った。
「聞き分けが良くて助かるよ」
 返事はない。
 そんな二人のやりとりを、カンザスは、くらいかおで見ていた。

「それじゃあ、またそのうち来るよ。それまで元気で」
「ああ。気をつけてな」
 ただそれだけの、短い別れ。
 簡単に背を向けたヒィシを追って、シンシアは、カンザスにぺこりと頭を下げてから、背を向けた。
 昨夜、食事の要らないシンシアを前に、競争するかのように飲んでいた二人は、先にヒィシの方が潰れた。
 そして、そんなヒィシに毛布を掛けて、カンザスはシンシアに話しかけた。
「嬢ちゃん、名前は?」
「・・・シンシア。シンシア・パドラックス」
「へえ、それはまた」
 河の上流一帯を治める領主の姓に、カンザスは感嘆めいた声を上げた。シンシアはそんな反応に目を背けそうになったが、思い切って見据えて、逆に質問をした。
「あなたは、あの人のことをどのくらい知っているの? 命を吹き込む人形師、というのは知ってるって言ってたけど」
「どのくらいってなあ。まあ、十何年かは一緒に暮らしたけど、未だによくわからんな」
「え?」
「俺は、ちっさいときに森で拾われたらしい。右目と右腕は、そのときにはもう駄目だったらしい。そのまま放置されてたら、死んでたな。だから、あいつは俺の親父だ」
 親父と呼ばれる方が、明らかに年若く見える。確かなことは判らないにしても、二人を比べて、逆に見ることはあっても、カンザスがヒィシに育てられたなどと思うものは、一人としていないだろう。
 シンシアの驚きははじめから予想済みだったらしく、カンザスは、微苦笑した。笑い方が、少しだけヒィシに似ていた。
「若作りってんじゃないぞ? あいつは、年をとらないからな。少なくとも、見た目は」
「それって・・・でも、食べてるし、寒いって・・・」
 一つの仮説を思いついて、慌てて打ち消すシンシアに、カンザスは、笑い掛けながらも真剣な眼差しを向けた。
「正直、どうするか迷ったけどな。あいつが、知られて喜ぶとも思えないし。だけど、知っておいた方がいいかと思ってな」
 怖いくらいに切羽詰まった、それなのに落ち着いた声音と瞳に、シンシアは呼吸を止めた。元々、必要はないのに、習慣でしていただけのことだ。そんな習慣は、一年くらいで治るものでもない。
「あいつの体も、人形だ」
「嘘!」
「寝るし食うし、って言うんだろ? あれは特製なんだと」
「特製って・・・」
「一世一代の珍品。もう一度作れっていわれても、出来やしない」
 ぐるぐると、疑問や妬みや、不満や。そんなものが渦巻くシンシアの心中を敢えて無視してか、カンザスは淡々と先を続けた。
「元々、名の知れな人形師ではあったらしい。それが、こんな外道に手を出したのは、妹の死だったらしい。それはかわいがってたらしくて、死んだときには、そりゃあ落ち込んだんだと。死んだ肉親に一目でも会いたいってのは、まあ、大切に思ってたなら、誰だって思うことだな。あいつが並外れてたのは、それを実現しちまったところだ」
 そこで、カンザスは酒を呷った。
「妹をよみがえらせて、成長に合わせて体も作り替えた。そうして大人の女になって、でも、どうしようもないだろ? 子供なんて作れるはずがない。それは、二人ともよく知ってたはずだった。だけど妹には、どうしても好きな奴ができたんだ。それは、実った。体のことも知ってて、それでもいいって言ってくれたんだと。いっそ、叶わなかったら良かったんだがな、そんな願い」
 酒を、飲み干す。
「二人は、出ていった。淋しかったけどほっとした、らしい。だけどな。一月後、あいつは死ぬほど後悔した。わかるか?」
「一月・・・」
 シンシアにも、判った。けれど、答を言うのは躊躇われて、また、カンザスも答を求めていたわけではなかったらしく、継ぎ足した酒を飲んで、自分から口を開いた。
「妹が、人形に戻ったと報された。駆けつけて、もう一度呼び戻せないかと試したが、無理だったらしい。あいつの妹は、完全に死んだ。それから、あいつは繰り返してあらゆる方法を試して、自分の限界は知ったけど、妹を取り戻すことはできなかった。――もう、そこらで狂ってきたんだろうなあ。元々狂ってたのかも知れないけど、徹底的に。望む結果に到達するには時間が足りないと思ったあいつは、賭けに出た。最後に、一体の人形を作った。二十歳くらいの、男の人形」
 シンシアは、泣きたくなった。けれど、人形の体からは、一滴たりとも涙は出ない。外に吐き出せる感情は、言葉しかなかった。
「・・・馬鹿みたい・・・」
「俺も、そう思う」
 そこで、カンザスはシンシアをまじまじと見つめた。シンシアが怯んで、わずかに身を引くと、「ああ、悪い」と呟いて、苦笑した。
「いや、そう思ってくれて良かったなと思って。話したのは、間違いじゃなかったかってさ。それで若い不老不死の体を得られたなら、いいじゃないかって言われたらどうしようかと、な。何しろ、あいつの体は、人より頑丈で生殖機能がない以外は人間とほとんど同じだからな」
 だけど、それは本当に手に入れたかったものではないはずだから。
「そんな、望んでもない体を引きずって、あいつはまだ、探してる。あいつの妹が、望んでるとも思えないのにな」
 そう言って笑った顔は、シンシアには、泣き顔のように見えた。思わず手を伸ばし掛けて、体温さえないことを思い出して、やめる。
「少しで良かったんだ。あいつにあれだけの技量がなかったら、妹が思いを告げなかったら、相手が受け容れなかったら、二人が近くで暮らしたら、最後の人形にあいつが移れなかったら。ほんの少し、失敗するだけで良かったはずなんだ。そうしたらあいつは、地獄なんて見なくて良かった」
「だけど」
 息子を語るようにして、養父を語るカンザスの言葉に、思わず、シンシアは言葉をこぼしていた。共に暮らした十数年の間に断片的に漏らしたのか、語ったのかは判らないが、ヒィシの生涯は、彼の養い子には、人ごとではないのだ。
「だけど、そのおかげであなたは生きていられるんでしょう? 私だってそうよ。死んだときは、呆気ないなあって思った。生き返らされて、一年間を元通りに過ごして、なんて狭い世界だったのかって気付かされた。私は、十五年も何をしてきたんだろうって、思った。気付かせてくれる人がいて、良かったって思った。もっと生きたいって、思ったのよ」
 涙が出なくても、眠れなくても。ただの木偶であろうとも、考え、感じることができるなら生きているはずだ。
 その奇跡に、感謝した。
「・・・転ぶのは構わないけど、人の背中に頭突き喰らわすのはやめてくれない?」
「わ、わざとじゃないわよ!」
 まだ慣れない体で、木の根につまずきヒィシもろとも倒れ込んだ。顔を打ったらしいヒィシは、言葉だけは冷静で、しかし呻いている。
「わざとなら殴るところだよ」
 呻きつつ、しかしどうにか立ち直って、ヒィシは、落としてしまった鞄を拾い上げた。
「今日中にここを抜けるからね。町に着いた頃には、その体にも慣れていると思うよ」
「こ、この森を一日で・・・?」
「遅れたら置いていくよ?」 
「この、悪魔ーっ!!」
 あはは、と笑う。
「それだけの元気があれば大丈夫。人形で便利なのはね、夜中話をしていても、疲れないってところだね」
 反射的に言い返そうとして、シンシアはぴたりと息を止めた。
 夜中の話。
 例えなのか、知っていての皮肉なのか。ヒィシは、やはり微笑んでいて、その真意が掴めない。
 ただ一つ、明らかなことは。
「・・・前途多難よね、これって・・・」
「さあ、行くよ?」
「ちょ、待ちなさいよ、置いていかないでッ!」
 易々と木々の間を歩いて行くヒィシを、シンシアは慌てて追った。

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人魚の痕

「こんなところにいたのね、レス」
「こんなところって・・・執務室だよ、奥さん」
 妻だけが呼ぶ愛称に、笑うように目を細める。見慣れた仕草だが、今日こそは切り出そうと、決心していた。
 これ以上ここにいれば、命が危うい。
「話があるの。いいかしら?」
「良くない報せのようだね。座って」
 執務室には、椅子はひとつしかない。それを勧められ、迷ったが、結局腰を落とした。
 窓からは、海が見える。昼の光を浴びて、深く青く、きらめいていた。高価なガラスのはめられた窓は申し訳程度に開けられており、潮の香りが忍び入った。
 それで、と、海の色に似た瞳が覗き込む。
「私、帰ろうと思うの」
 顔が固まり、はあとため息をつく。
「それは、俺が王なんてものになったから?」
「そうね」
「俺だって、なりたくてなったわけじゃないんだ。まさか、二人もいた兄が両方さっさとこの世から去るとは思わないだろう」
「それは知ってるわよ。あなたが、王様なんて柄じゃないと思ってることも、その割にはそつがないことも」
 王位が回ってきて、まったくの想定外だったとは思わないが、困惑したのは確かだろう。
「だけど、このままここに残れば、殺されると思うわ。私も、この子も。王妃に、私はふさわしくないのよ」
「それ、本気で言ってる?」
 ごく冷静な視線に、怒ろうかと動く感情を知る。怒られるのも、嫌われるのも、望んではいない。それでも、黙っているわけにもいかない。
「私が何度殺されかけたか、知りたい? 噂話や陰口なんて、どのくらいあるのか知りたいとも思わないわ」
「そのことは、もう少しだけ待ってほしい」
「どういうこと?」
「今、信頼のおける部下を探している。武芸のできる女官を探しているのだけど、さすがにそれは無理かもしれない」
 そうして、一呼吸置く。
「俺が訊きたいのは、王妃にふさわしくないなんて、本気で考えてるのかということだ」
「だって私は――ヒトじゃないもの」
「俺は、それを承知で君が好きなんだけど?」
「・・・でも、王になるはずじゃなかったでしょ」
「身分で、好きになる相手を変えろって? それは凄いな、王子は王女を好きになって、物乞いは物乞いを好きになるわけだ。富豪が落ちぶれたら、思いを寄せていた別の富豪の一人娘ではなくて、下女を好きになるとでも?」
「それとは話が違うわ!」
「いいや、君が言っているのはそういうことだ。俺が嫌になったなら、それでいい。だが、そんなことを気にして別れると言うなら、行かせない」
 種族の違いは、「そんなこと」などという言葉で収まるものではない。
 そのことは、よく知っているはずだった。いくら姿をそっくりにしても、違うものは違う。そう、知っているはずだった。
 それなのに。
「行かないでくれ」
 出会った頃と変わらない声が、言う。
「君も、君が一人で守ろうとしてる生まれてくる子供も、俺が守るから。守らせて、くれないか」
 ただひたすらに真っ直ぐな誓い。
 やはり残るのだと、ここで共に骨をうずめるだろうと、予感めいた確信を得る。窓に、視線を移す。あの海には、還らないのだ。

 リランティス二世の治世は、五十年近くに及んだ。
 その傍らに控えた王妃には、人魚だったという逸話も残る。

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人魚の声

 川釣りに行ったら、妙なものを拾ってしまった。
「なあ、さっちゃん」
「・・・次にそう呼んだら、コブシ覚悟しとけ」
「その子どうよ?」
 怒気を孕んだ返答にも動じず、祐輔は、インスタントのコーヒーに湯を入れて振り返った。俯せに寝転んだ少女と、不機嫌そうに困惑している男とが目にはいる。少女は、十代のせいぜい前半に見え、男は今年で三十になったはずだ。
 男は、少女をちらりと見て、さあと首を振った。
「俺には、寝てるようにしか見えない。もっとも、タヌキ寝入りでも死んでても、区別は付かないと思うがな」
「またそう、つれないことを言う。・・・で、サンガツ。その子は人魚だと思うけど、どう思う?」
 とりあえず、水中にいないと呼吸困難に陥るといった兆候も見られないので、寝そべった上に上着を掛けているが(なにしろ何も着ていない)、魚のような尾がはみ出ている。
 突然現われ、祐輔らの姿を見た途端に気を失ってしまった少女だが、人魚としか思えない。
「なんで海じゃなくて川にいるのか、っては大いに疑問なんだけどさ」
「・・・起きてから訊けばいいだろう」
「相変わらず慎重な奴。まあ、じゃあ、時間も時間だし飯でも食っとくか。ほれ」
 行きがけに、コンビニで買ったサンドウィッチと入れたてのコーヒーを渡すと、紅茶党の友人は顔をしかめた。
 それには構わず、自分の分の包装を開ける。
「こんな可愛い子を横にして言うのは気が退けるけど、日本で人魚って言ったらあれだよな、不老不死の肉」
「八百比丘尼か」
「そうそう。あれって、味には触れてないけどどうなんだろうな?」
「気になるなら、試してみたらどうだ」
「た、食べてもおいしくないですよっ!?」
 突然に、少女の体が跳ね上がる。祐輔たちは、視線を見交わした。お互い、気付いていたらしい。
「さすが探偵」
「万屋だ」
「似たようなものじゃないか」
 肩をすくめて、いまだ怯えている少女に、にこやかに笑いかける。
「冗談は措いといて、どこにも怪我はない? 物凄い勢いで流れてきたんだよね、君。溺れたの?」
「う」
 図星らしい。
 わかりやすくて、微笑ましい。
「こんなところで何してたの? 人魚って海じゃないの?」
「い、いろいろありまして・・・」
「色々?」
「うー・・・あの、協力してもらえませんか?」
「?」
 視界の端に映った友人は、一人さっさと食事を始めている。なんだか酷い。
「私、魔女のおばあさんに弟子入りしてるんです。それで、声の要素が少し、必要になって、人を捜してたんです。川沿いに、こう、ずずっと」
「はあ、それはまた大変だね」
 ここは、山の麓とも言えるようなところだ。海からは離れ、随分と遡ってきている。
 少女は、中途半端な祐輔の反応でも勇気づけられたのか、はいと、大きく頷いた。
「男の人ですよね?」
「うん」
「二十年は生きてますよね? 四十年は生きてませんよね?」
「うん、丁度中間」
「お願いします、一日分でいいんです。声をください!」
「――は?」
 あまりに唐突な申し出に、しばし言葉を失う。さて、どこから訊いたものか。
 ハムサンドを囓っていた友人が、ふいと少女を見た。
「声なんて、どうやって取るんだ?」
「触れさせてもらうだけです。一日、声が出なくなる以外に害はありません。本当です」
「何に使うつもりだ」
「鯨の治療薬に必要なんです。お願いします」
「それは、一人分で十分なのか?」
「はい」
「だ、そうだ。頑張れ」
「やっぱり俺かい!」
 質問したからといって、受けるとは限らない。自分に返されるだろうと、いい加減付き合いから判っていたが、思わず突っ込む。友人は無愛想に、ハムサンドの最後の一切れを呑み込んで手を叩いた。
「好きだろう、無料奉仕(ボランティア)」
「そんなこと、一度も言ったことないぞ俺は」
「態度と行動が、大声で主張している」
 疫病神、などというありがたくない呼び名をつけた友人は、憂さ晴らしとばかりに言い捨てる。
 肯定する気はないが、こんな少女を見捨てるのも気が退ける。ううと呻って、祐輔は、盛大な溜息を落とした。
「わかったよ。わかりました、さあどうぞ」
「えっ、いいんですか、本当に!? ありがとうございます!」
 言うが早いか、細い手を伸ばして、祐輔の喉に触れる。一瞬だけ冷たく感じたが、声を抜き取ったせいなのか、単に少女の手が冷たかったのか、判断がつかない。
「ありがとうございました! あ、私、ミルっていいます。海に来たときに、呼んでくださいね。お礼に、何か届けますから」
 はきはきと言って、上着を残して、川に飛び込む。帰りは、流れに従えばいいのだからいくらか楽だろう。
 しばしそれを見送って、祐輔は、友人と顔を見合わせた。
「・・・続けるか? 釣り」
 うん、と言おうとして、声が出ないことに気付く。首だけを縦に振ると、友人は、胡乱そうな視線を寄越した。
「本当に、出ないのか?」
 うん。
「・・・相変わらずお人好しだな」
 俺も思う。
 祐輔は手早く昼飯を詰め込み、釣り竿をさしたまま、その友人は濡れているジャケットを拾い上げた。乱雑に川の水で濯いで、近くにあった大きな岩にかける。
 春とはいえ、上着なしは少し寒くはないかと、祐輔は思った。

 その日、さして釣果もなく、二人は帰路に就いた。
「宗谷。お前、明日どうするつもりだ」
 不思議そうに、バックミラー越しに目の合った友人に、三月優介は、溜息をついた。
「明日もあるんだろう、大学の非常任講師」
 あ。
 声を聞くまでもなく、見開かれた目で驚きが伝わる。やはり、何も考えていなかったらしい。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、やはり、この友人は馬鹿らしい。
 もっとも、そのくらいの馬鹿でなければ、自分と友人付き合いをしようなどとは思わないだろう。三月は、人付き合いが悪いことでは定評がある。
「後で、電話かけといてやる。とっとと嫁でももらっとけ」
 むっとした視線が返るが、文句はない。声が出せないのだから当たり前だ。
 悠然と、煙草に火をつけた三月は、ふと、友人の額に汗が滲んでいることに気付いた。
「・・・まさかお前、まだ、あの体質治ってなかったのか?」
 こくり。
「阿呆かっ、車酔いする奴がハンドル握るな、早く止めろ!」
 怒鳴り声に押されて、止めても邪魔にならない場所を探して蛇行した。
 二度と、こいつとは出かけるものかと、毎回裏切られる決心をする三月だった。

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