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プロローグ

 素っ気無い雑居ビルに、気の抜けるような歌声が響いている。しかも、童謡。子供の声に聞こえるそれは、さっきから延々と、童謡ばかりを歌い続けていた。
 今日は祝日だが、このあたりは休日の方が人通りが少なくなる。歌声を耳にしているのは、似たり寄ったりの雑居ビルで仕事をしている者がほとんどだった。
「・・・またか」
 葉山直樹は、自然と微笑していた。
 直樹は、自転車操業の探偵社で報告書を書いていた。数少ない同僚たちは、今は出払ってしまっている。

 おばけなんてないさ
 おばけなんてうそさ
 ねぼけた人が
 見まちがえたのさ
 だけどちょっと
 だけどちょっと
 ぼくだってこわいな
 おばけなんてないさ
 おばけなんて――

 不自然に切れた歌に、直樹は思わず窓の外を見た。もっとも、歌っている声の主がいるのは同じビルの一階下だから、見えるわけではないのだが。
「客でも来たか?」
 呟いて、首を傾げる。客だって?
 一度好奇心に駆られて入ろうとしたことがあるが、あまりに胡散臭そうでやめてしまった。
 少し待ってみたが、続きも別の歌も、聞こえてこない。
「・・・飽きたかな」
 それっきり、直樹は報告書に専念することにした。


 彰は、雑多な小物や置物の数々を見て溜息をついた。得体の知れない、どこか不気味な店内の品々も、見慣れてしまえば何ということもない。問題はそれではない。
 暇すぎる。 
「知ってる歌、歌いきっちゃったしなー」
 そう言って、雑巾を絞る。開店しているのだが、客が来ないものだから暇でしょうがない。つい、雑巾がけをしようかなどと考えるくらいに。大声で童謡を歌ってしまうくらいに。
 それが、なおのこと客の足を遠ざけているのだが。
「ねえ、ここら辺の捨てちゃ駄目?」
 並べてある紫の包みを指差し、肩越しに首だけ振り向いて言う。
 そこには、彰と同じ白いシャツに黒のズボン、黒のベストと黒のエプロンを着たロクダイがいた。小洒落たレストランの店員かのような格好は、一応この店の制服だ。
 ロクダイは、ネクタイを外した状態で店の椅子に腰掛け、文庫本を読んでいる。顔も上げず、一言。
「駄目じゃ」
「でもさあ、呪いのわら人形セットなんて、誰が買う? 置いてても不気味なだけだよ」
 言っていることは非難そのものなのだが、口調がそれを裏切っている。むしろ、楽しんでいるかのようだ。
「誰か物好きがおるじゃろう」
「ロクダイ並の物好きねえ・・・。まあ、いないとは言いきれないけどさ。望み薄だね。その人がこれを買うのと、猫屋がつぶれるのと、どっちが先かな」
「決まっとるじゃろ」
 やはり活字を追いながら、淡々と答える。
「あ、あの・・・」
「はい?」
 突然聞こえたか細い声に、彰が入口を見る。ロクダイと話しながら雑巾がけもしていたため、手にはまだ雑巾を持っている。
 恐る恐る、といった風に顔をのぞかせた少女は、彰の手元を見て、店内を見て、固まった。ロクダイは、素早く本を見えない位置に隠し、ネクタイも締めて立っているが、逆にそれが浮いてすらいる。
「あっ、ご、ごめんなさいっ」
 慌てた声でそれだけ言い、扉は無情にも閉められた。ロクダイと彰が、お互いを見て苦笑する。
「ごめんって?」
「何かされたかのう」
 雑巾のせいだとか、置物のせいだとかは言わない。言っても無駄というよりも、既にそれは前提になっているのだ。あって当然。喫茶店に花が飾ってあってもおかしくないだろう、といったところ。無論、それが一般的でないことは知っている。客で遊んでいるとも言えるかもしれない。
「これで今月、十四人目かぁ。まだ半月経ってないのに、来たお客さん、一桁だね」
 むしろ、こんな場所の喫茶店によくもそれだけ人が来たというべきだが、それには敢えて触れない。わざと、客を遠ざけている感もある。
 この「月夜の猫屋」が現在地に店開きをしたのは、桜の季節だった。それから、半年以上が経っている。入った当初から客の入りは悪いがつぶれる気配はなく、相も変わらず店員たちは呑気にしており、店内の飾りつけは不気味だ。
 そしてもう一つ、客足が遠のく原因がある。
「誰か来てたか?」
 調理場の戸を開けて、セイギが顔をのぞかせる。
 二人と同じ格好をしており、その上から、白いフリルのエプロン。恐ろしい事に、似合っていなくもない。
 見慣れている二人はなんの反応も返さないが、初めて見る客は仰天する。見られない姿でない分だけ、見てはいけないものを見たような気分にもなる。
 だが、それだけではない。
「・・・また、逃げていったのか?」
「人聞きが悪いなあ、セイギ。早々に帰られたんだよ」
 「られ」の用法が敬語か受身か、一瞬迷うところだ。
 ロクダイは、もう読書に戻っている。その姿を横目で見ながら、セイギが溜息をつく。
「あのなあ。客怯えさすなって言ってるだろ。誰も来なくなったらどうするんだよ?」
「ま、そのときはそのときってことで。で、何か用?」
「ん? ――新作! 新作できたんだよ。もうすぐ焼けるから、飲み物訊こうと思って。何にする?」
 一瞬、彰とロクダイが目を見交わす。
「何でも構わんよ」
「紅茶。新作って、今度は何?」
「みかんパイ。みかんをじっくり煮詰めてだなあ・・・」
「本当に食べられるんだろうね、それ?」
 疑わしそうに、彰が遮る。セイギは、怒ったように眉を跳ね上げた。
「当たり前だろ。俺が作ったんだぜ、俺が」
「だから信用でき無いんだよ。この前のみたらし団子パン、作ったの誰だったっけ?」
「あれは・・・醤油をちょっと入れ過ぎたんだ。それだけだって」
「どうかなあ」
 意地悪そうに笑む、彰。セイギがそれをむくれて見下ろすが、あれ以来、みたらし団子パンが作られていないのは事実だ。
 セイギの作る料理は、美味しいには美味しいのだが、趣味でもある創作料理は、約二分の一の確率で物凄い味になる。到底、食べれたものではない。下手をすれば、気絶者が出るかもしれない。
 それを、「試作品」と断りはするものの、客にも出すのだ。折角、店内の雰囲気や店員の様子にもめげずに注文した客が、この為に二度と来るもんか、と固く決心することも少なくない。
「しかし、エンゼル林檎はうまかったのう」
「だろ?」
「メロンドリームは? あの、甘ったるくてドクターストップかかりそうだったやつ」
「あっ、こげちまう!」 
 折良く鳴ったタイマーの音に、セイギが店の奥に姿を消す。残された二人は、揃って溜息をついた。だが、それすらも楽しんでいるかのようだ。
 そして、彰がバケツと雑巾を片付けようとしゃがみ込んだとき、「月夜の猫屋」に、今日はじめての「客」が入ってきた。 

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一章

 教室の中は、苦痛の場所でしかなかった。友達もいない。先生も好きになれない。同級生は、ただの他人どころか、いつ加害者になるか判らない、怪物のようなものだった。
「幽霊みたい」
「あ、言えてる。この前、後ろに立っててさあ。何にも喋らないで、立ってるだけ。ぞっとしたあ」
「怖いよね―」
 そんな事を言われたって、直し方なんて知らない。自分が変えられるなら、とっくにやってる。
 登校拒否になってもおかしくないのに、そうしないのは、ただ弱いからだ。学校に行くことをやめて、これ以上家族から疎んじられるのが厭だから。登校拒否をするにも、何かしらの力が要る。
 私には、それがなかった。
 ――誰か、私を見止めて下さい。
 ただ、それだけを望んで、生きていただけ。死ぬ事どころか、閉じ篭る事も選べないほどに、弱かっただけ。
 私には、何もなかった。

「いらっしゃいませ」
 二十歳くらいの、黒と白の服がよく似合った青年が、微笑み掛ける。対人恐怖症のきらいがあるゆかりは、思わずまたドアを閉めそうになった。さっき一度、そうやって逃げ出したばかりだというのに。
「いらっしゃい。どうぞ。お好きなところにお座りください」
 ゆかりよりも年下、小学生くらいに見える子が、そう言って店内を示す。青年と同じ服を来ているからには、ここの店員なのだろう。
 ――小学生が?
 だが、それで落ちつく事が出来た。近くの、古い、骨董品の部類に入りそうな椅子に座って店内を見る。
 どこから仕入れるのか見当もつかないような小物が、所狭しと並んでいる。勾玉や十字架はともかく、何時の、何処のものか判らないような地球儀や、写真でしか見た事のない昔の織機、その他名前も知らないものが山ほどある。値札が貼ってあるということは、まさか売り物なのだろうか。
 次に青年を見て、慌てて目を逸らした。ちょっとしたモデルや芸能人では太刀打ちできないだろう。ゆかりが今まで生きてきた中で、美形、という形容が唯一当て嵌まるかもしれない。
 もう一人いた店員は、どこかへ姿を消してしまった。小学生くらいに見えたが、ここで働いているらしい事からすると、実はゆかりよりも年上かもしれない。男の子だろうか、女の子だろうか。年齢は置いておくとしても、外見には、子供特有の中性さがあった。
 そこまで考えて、ゆかりは首を振った。そんな事を考えてる場合じゃない。水の入ったコップを持ってきた青年に、顔を見ないようにしながら、なんとか声を出す。
「あの・・・・・。私、その・・・・」
「はい?」
 優しい声で、訊き返す。この人は自分の言葉を待っているんだ、と思うと、余計に焦ってしまう。
「あの、ここ、月夜の猫屋・・ですよね。なんでも屋をしてるって・・・看板、書いてありましたよね・・・」
 言っているうちに、自信がなくなってくる。本当にそうだっただろうか。見間違えたり、店そのものを間違えてはいないだろうか。いや、何度も確かめた。しかし、こんな訊き方では相手も気味悪がるのではないか  。
 意を決して顔を上げるのと元気な声が飛び出すのは、ほぼ同時だった。
「はい。喫茶店兼雑貨屋及び何でも屋、『月夜の猫屋』略して『猫屋』は、世界中探してもここだけだと思います。何でも屋に御用ですか? 塵拾いから思い出探しに山狩り協力、なんでも承っております。あ。あたし、ウェイトレス兼店員及び所長の、彰っていいます。こっちは、ウェイター兼店長及び平所員のロクダイ」
「征[ススム]です」
「以後、お見知り置きを」
 呆気にとられて見つめるゆかりの目の前で、彰という少女が、綺麗にお辞儀をして見せた。淀み無い台詞と、きびきびとした動き。映画かドラマの撮影かと、そんな馬鹿なことを考えてしまう。
 頭を上げた彰は、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。ゆかりは、やはりそれをぼうっと見ていた。
「何かご質問でも?」
「どうして・・ロクダイ、さん、なんですか・・・・?」
 言って、我に返る。咄嗟に、自分が何を言ったのか思い出せない。そもそも、彰の言った事すべてを把握できてもいない。
 彰は、一瞬驚いたようなかおをして、やはり笑顔になった。ロクダイと呼ばれ、征と名乗った青年も、微笑を浮かべている。
「それは、どうしてロクダイが自分で名乗った名前と違うのか、ということ?」
「渾名[あだな]ですよ」
 ゆかりが頷いたか頷かないかのうちに、ロクダイが言った。優しい、微笑を含んだ声だ。二十歳くらいにしか見えないのに、もっと長い間生きているかのような。祖父の声に似ていると、ゆかりは何故か思った。
「今となっては、誰も本名で呼んでくれませんがね。ちゃんと覚えているかも怪しい」
「うん。忘れてた」
 間を置かず、あっさりと言い放つ。
 そんなやり取りが面白くて、ゆかりは少し笑った。その一方で、おかしなお店だとも思う。店内の装飾もだが、店員が。
 だが、厭ではない。
「はい、そこまで」
 そう言って、高校生くらいの青年が、片手にティーカップと湯気の上がるポットの載ったお盆、片手に飴色に光るパイを載せたお盆を載せて、彰とロクダイの間に割って入った。次いで、お盆を丁寧にゆかりのいるテーブルに載せる。
 美形ではないが、十分にもてるだろう青年は、ゆかりに人懐っこい笑顔を向けた。フリル付きエプロンをつけたままだが、ゆかりにはあまり気にならなかった。色々とあって、感覚が麻痺しているのかもしれない。それ以前に、似合っている。
「いらっしゃい。甘いものは平気?」
「・・・・え? あ、えっ、は、はい」
「それじゃあ、試作品だけどお茶請けに」
 丸いパイが切り分けられて、湯気を立てる。中身は、全体的にオレンジ色をしていた。
 不意に、彰が慌てたように声をあげる。
「あ。セイギ、それって・・・」
「長い話になるんだからさ。折角できたてなんだし。ちゃんと二人の分もあるって」
「そういう問題じゃないんだけどなあ・・・」
 深深と溜息をつき、彰がゆかりの向かいの椅子に座る。パイをそれぞれのお皿に載せて並べたセイギは、続いて紅茶を注ぎ始めた。
 それを、ゆかりはやはり呆然と見ていた。これは、自分の常識が通用しないというよりは、世間一般の常識から外れているのではないだろうか。
 選択を間違えた気がするが、少なくとも悪い人たちには見えないから、取り敢えずはこのままでもいいだろう。
「あ。そうだ。これはセイギ。コック兼店員及び平所員だよ。本名は・・・何だった?」
「正義[マサヨシ]! 勝手に渾名付けて、定着させるなよな。自分は変な渾名なんてないくせに」
「だって、そっちの方が呼びやすいんだもん。渾名だってことは覚えてたんだから、まだいいでしょ。それに、文句言うならセイギもあたしに渾名つければいいじゃない」
「お前、自分の名前が呼びやすいこと知っててそういうこと言ってるだろ」
「あはははは」
「あ、あの・・・」
「はい?」
 いい匂いの立ち込める店内で、話についていけずに声を出したゆかりを、二人が見る。ただそれだけなのだが、何を言えばいいのかが判らなくなってしまう。
 先が続かないでいると、二人が視線を見交わしたのが判った。呆れられる、変だと思われると思うと、益々言葉が出ない。
 だが、二人の反応は違った。いたずらが見つかったかのような、決まり悪そうなかおになる。
「ごめんごめん、話逸れちゃった」
「パイ、好きなだけ食べていいよ。紅茶も、おかわりあるから」
「いや、セイギ」
「なんだよ」 
「まず自分で毒見するべきだと思うんだけど」
「何ぃ? ――悪い、また脱線」
 しかられた子犬のように、うなだれる。その横で、彰が困惑したように頭を掻いていた。つい、かわいいなあと思ってしまったが、彰はともかく、おそらく年上で男であるセイギに対してかわいいは失礼かな、と少し反省する。
 いつの間にか、自己嫌悪の混ざった焦りは消えていた。
「ええと・・・あの、ロクダイさん、は・・・・?」
「あれ。ロクダイ?」
「俺が来たときはいたぜ?」
「うん。パイ切ってるときも」
 二人で首を傾げて、揃って手を叩く。
「着替えに行ったのか」
「だね」
「どういうことですか?」
「ほら、あれ」
 彰が指差したので振り返ると、白と黒の制服ではなく縦縞の着流しを着たロクダイが、店の扉を閉めるところだった。
「隣も、あたしたちが借りてるんだよ。そっちに着替えに行ってたんだ」
「じゃあ、俺もエプロン・・・」
「お前さんはまだ仕事中じゃろう」
「うわ、ずる」
「ずるいというのは、やるべき事をやらなかった場合じゃ。わしは、自分のやる事はやっておるよ」
「また、セイギの負けだね」
「ちぇっ」
 セイギが背もたれに体を預けて天井を仰ぎ見て、ロクダイが椅子に座る。彰は、それを楽しそうに見ていた。
 いつも、こんな風なのだろうか。
 三人のやり取りが心地いい。どういった関係にあるのか見当もつかないが、とても仲が良いということは判る。良いなあと、ゆかりは思った。自分にも、こんな友達がいれば  。  
「それで、話はもうきいておるのか?」
「あ」
「まだだよ。ロクダイが来るの待ってたから」
「ほう、そうか」
 笑みをやり取りする二人を、セイギが呆れたように眺める。
「性格悪・・・」
「何か言った?」
「何か言ったかのう?」
 小さな呟きにも拘わらず、二人はしっかりと聞いていた。笑っているのだが、何か言い知れぬ圧迫感がある。その為か、セイギは一生懸命に頭を振っている。
 そして不意に、ゆかりの方を向いた。
「何も言ってないよな、・・・えっと・・・」
「橘ゆかり、です」
「ゆかりちゃん。俺、何も言ってないよな?」
 親しげに名前を呼ばれたのが恥ずかしくて、だが、声が必死なために、小さく頷いて、そのまま俯いた。
 床は、土足で上がる割にはきれいだった。
「まあ、そういうことにしとこうか」
「話が進まんしのう」
「話を聞かせてもらえる?」
 彰の声の調子が、微妙に変わった。ゆっくりと顔を上げると、三人がゆかりを待っている。
 本当は、何も言わなくても全て知っているのではないかと、不意に思った。少なくとも、ちゃんと話を聞いてくれそうだ。
「あなたが、ここに来た理由を」
 彰が促す。ゆかりは、それに無意識のうちに頷いていた。
 ここに来た理由。
 ここに来なければならなかった理由。
 駅のホームに走り込んでくる電車が、頭をよぎる。
「私・・・」

 教室の中は、苦痛の場所でしかなかった。楽しい事なんてない。あるのは、見慣れた光景ばかり。何も考えていない人が多い事に、うんざりする。
 そして、自分もそんな存在であることが何よりも厭だった。  
「真理、買い物行こ」
「昨日も行ったでしょ」
「いいじゃん、暇なんだし。昨日買えなかったやつがあるの」
 聞き慣れた、どうやら「親友」らしい女の声にうんざりする。一度、その頭の中をのぞいてみたい。服や化粧品の事しか入ってないんじゃないだろうか。
「政経のレポートまだだから」
「レポート? あ! 写させてね、真理!」
 何の疑いもなく頼み込み、邪魔しちゃ駄目だよね―、と言って、去っていった。
 私は、何なんだろう。
 ずっと、今日は昨日と同じ。変わらない毎日が続くだけ。それが不文律。だから、何も期待してなんていない。期待なんて出来ない。

「いらっしゃいませ」
「失礼しました」
 間を置いて発された言葉に、更に間を置いて、真理は言った。
「わっ、なんで俺見て帰るんだよっ」
 はじめの言葉とともに立ちあがっていた男は、真っ白のフリルがたっぷりとついたエプロンをしていた。これを見て回れ右したっておかしくない。というよりも、しない方がおかしい。
 だが、真理が戸を閉めるよりも早く、男がその腕を捕まえていた。
「失礼だぞ、今の」
「・・・大声出すわよ」
 怯んで手が緩んだ。だが、振りきって行こうとしたら、今度は制服のスカートの裾を掴まれた。
「変態!」
「俺じゃない!」
「そうそう。セイギって、案外まともだから」
「案外って・・・」
 壁に寄りかかって落ち込む男。白いエプロンが異様だ。手は、真理から完全に離れている。  
 真理は、スカートを掴む子供を見やって溜息をついた。幼児よりはましとはいえ、どうにも子供は苦手だ。
「手、離してくれない?」
「でも、離したら帰っちゃうんでしょ? だったら離さない。外に出ると危ないよ」
「あのねえ・・・」
 これだから、子供は苦手なのだ。本人にだけしか解らない理屈を押し通して、話が通じない。
 それでもどうにか解らせようとして、何気なくその子供の眼を見た真理は、思わず息を呑んだ。何かを見透かされたような気がした。
 ここでようやく、店に二人の客と思しき人がいる事、スカートを掴んでいる子供が、白エプロンはしていないものの、男と同じ格好をしている事に気付いた。そして店内の飾りは、不気味なものばかりだ。
「何、ここ・・・」
「喫茶店兼雑貨屋及び何でも屋『月夜の猫屋』略して『猫屋』に、ようこそ。あたし、ウェイトレス兼店員及び所長の彰っていいます。どうぞ、店内へ」
 彰という少女は、そう言ってにっこりと笑った。
 真理は、一瞬浮かんできた「狐に騙される」という言葉を打ち消し、頭を抱えたくなった。どうやら、真っ当な客商売とは思えない、妙な店に踏み込んでしまったようだ。
 なんだか疲れて、どうでも良くなってしまった。促されるままに、椅子に座る。そこは、先客の隣のテーブルだった。
「セイギ。お茶追加」
 彰の呼びかけに応えて、フリルエプロンの男が店の奥に消える。彰は、ごゆっくりどうぞ、という、今の真理には嫌味にしか聞こえない言葉を残して、隣のテーブルに移った。
 隣のテーブルに座っているのは、滅多に見掛けない着物姿の若い男と、ぼんやりとした中学生くらいの少女だった。
 真理は、溜息をついてメニューを取った。見ると、サボテンドリンクや熊の手の蒸し焼きといった、珍妙なものが多い。本当に営業許可が取ってあるのかさえ疑わしい。
「どうして、こんなところに来たのかしら」
 己の不運を嘆く。まともな喫茶店なら、他にいくらでもあっただろうのに。何故自分は、こんないかにも怪しげな、探しながら歩いていても見落としてしまいそうなところにやって来たのか。
 そもそも、政経のレポートが悪いのだ。高校の授業で営業について書かせるなんて、どうかしている。
 そして真理は、深深と溜息をついた。
「お待ちどうさま」
 見ると、セイギとかいう男が、紅茶とパイを載せたお盆を手に立っていた。フリルエプロンはつけたままだ。
「・・・たのんでないわよ」 
「きいてないからな」
 どう頑張っても、相性の悪い相手というのはいる。もしかしてこれがそうだろうかと、真理は思った。
 男は、ふてくされたような顔をした。
「いいんだよ、これは。金取るわけじゃないから。安心して食べろ」
「安心して食べられるかは別だけど・・・まあ、お金取らないのは本当だよ」
「彰、どういう意味だ?」
「そのままの意味」
 じゃれ合う二人を見て、パイと紅茶を見る。二人分あるのは、男もここで食べるつもりだからだろうか。一体何がどうなっているのか、さっぱり解らない。
 だが、考えるのに疲れた真理は、紅茶のカップに手を伸ばした。もう、どうでもいい。喉も渇いている。
「・・・・・おいしい」
「だろ?」
 セイギが、真理を見て顔を輝かせる。今までの態度との落差と、セイギが人並み以上にかっこいいことに気付いてしまい、言葉に詰まる。不意打ちだ。
 だが、セイギはそんな事に気付きもせず、笑顔のまま真理の向かいの椅子に座った。
「パイの方も食べてみてくれよ。自信作なんだ、それ」
 尻尾があったら、間違いなく振っているだろう。期待の眼差しを向けられながら、真理は、フォークを口に運んだ。
「・・・不味い?」  
 パイを一口食べたまま何も言わない真理に、セイギが哀しそうに訊く。だが、真理はゆっくりとセイギを見ただけだった。
「これ、あなたが作ったの?」
「うん」
 不安そうに頷く。そうすると、真理と同年代に見えるのに、もっと幼いような気がする。更に言えば、子犬のようだ。
「美味しいわ」
「やった! 聞いたか!」
 セイギが勝ち誇って振り向くと、隣のテーブルでは、彰達が何食わぬかおでパイを食べている。真理が食べて何も言わなかった時点で、手が伸びていたようだ。
 散々味は大丈夫かと言われたセイギは、腑に落ちないながらも、嬉しそうだった。
「おかわり、あるからな。紅茶もパイも」
「・・ねえ、怒ってないの?」
「何を?」
「だって、さっき・・・」
「ああ、これ?」
 座ったまま、エプロンの裾を手にとって広げる。その様子は、やっぱり変だ。
 それを自覚しているのかいないのか、セイギは苦笑した。
「はじめに帰ろうとしたのって、これのせいだろ? まあ、慣れたし。彰、この格好どう思う?」
「ばっちり」
「ロクダイは?」
「似合っておるよ」
「ゆかりちゃんは?」
「かわいい、と思いますけど・・・」
「な?」
 再び唖然としている真理に目を戻して、セイギは言った。楽しそうなのだが、やけになっているようにもとれる。
「自分の意見が一般論とは限らないってこと、覚えておいた方が良いぜ。それに俺の場合、現に似合ってるんだから」
「・・・・本気?」
 もう馬鹿にする気はないが、それでも訊きたくなってしまう。本気だとすれば、真理の感覚では受け入れられない。
「まあ、半分。毎日似合ってるとか言われたら、そんな気にもなるって。俺も最初、これ見せられたときは逃げようかと思ったけど」
「どういうこと?」
「これはあいつらの手製で、折角作ったのにとか、苦労を無駄にしやがってとかずーっと言われてみろ」
 とすれば、元凶は隣のテーブルの人々のようだ。では、服装の違う二人も客ではないのだろうか。
 真理は、溜息をついた。考えることに疲れたのに、どうもこの店は、謎が多くてつい考えてしまう。そして、何故か居心地が良いとも思い始めているのだった。
「で、あんたは何の用でここに?」
「え?」
「違った?」
「・・・いえ、違ってないわ」
 目的を忘れていた。レポートのために来ていたはずなのに。メモ帳を取り出そうとして、真理は持ってきていないことに気付いた。
 それどころか、財布も鞄もない。部活で学校に行った帰りにここに寄ったのではなかったか。
「違う・・・」
 学校からも家からも離れた、こんなところに来る意味がない。喫茶店なら、家の近くにもある。
 何かがおかしい。こみ上げる不安を、どうすれば追い払えるだろう。理屈だった説明をするには、何かが欠けている。
「大丈夫か?」
 セイギが、こちらを見ている。心配しているようで、だが、どこか醒めている。
「焦らなくていいから」
 優しく、まるで小さい子にするかのように、真理の頭に手を置く。
「ほら、紅茶。温まるよ」
 渡されたカップを、抱えるように持つ。真理は、自分が混乱して、酷く怯えている事に気付いた。その反面、苛々してもいる。
 何かが、気にかかる。
「そっちからはじめよう」
 真理から目を転じて、セイギが言った。隣のテーブルで、彰と着物姿の男が頷くのが見えた。

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二章

 窓の外を、散った落ち葉が風に巻き上げられて飛んでいく。風は、それなりに冷たいようだ。
 「猫屋」の調理場の換気扇が、外から回される。だが、店内にその冷たさは無縁だった。
 紅茶の湯気に当たりながら、彰はセイギを見返した。その仕草は、小学生にしか見えない外見を裏切り、随分と大人びている。
「ゆかり。部屋を変えた方が良い?」
「え?」
 突然の展開に、何も考えずにみかんパイを食べていたゆかりは、ついていけなかった。自分が話しかけた途端に入ってきた真理に腹を立てることもなく、それどころか忘れ掛けてさえいた。
 癖のあるセミロングの髪を揺らして、首を傾げる。
「話ききたいから」
「あっ、そうでしたね」
 ようやく思い出したゆかりを見て、彰とロクダイが苦笑する。店に慣れたのか、初めはびくびくしていたゆかりも、本来の調子を取り戻したらしく、のんびりとしている。少し、呑気すぎる気もするが。
 ゆかりは、手を組んで少しの間考えた。傍から見ていると、祈っているかのようだ。
「ええと・・・どこでも良いです。話、ちゃんと聴いてもらえるなら。仕事、頼んだら・・・引き受けてくれますよね?」
「多分ね」
 彰とロクダイが頷く。セイギは、真理に気を遣ってか肯きはしないが、真っ直ぐにゆかりを見ていた。
 ゆかりは、もう一度思い出してみた。映画を見ているように、くっきりと思い出せる。
「私、死んだんです。電車に轢かれて。それなのにまだここにいるから・・・成仏、させて欲しいんです。お金は払えないけど・・・お皿洗いとか、成仏するまで働きます。だから・・・・」
「何言ってるの。ちょっと、大丈夫?」
 突然、真理が立ちあがる。混乱したままゆかりの話を聞くともなしに聞いていたのだが、つい声をあげてしまった。
 ゆかりがおかしくなっているのかと思ったのだ。
「幽霊なんていないわよ。判ってるでしょ?」
「います。私がここにいるんだから、いるんです」
「ちょっと・・・」
「わかりました。お引き受けします」 
 説得を期待したのに、彰があっさりと言ったことに、真理は呆気に取られた。見てみると、セイギもロクダイも、全く動揺していない。
 こういったことに慣れているのだろうかと、真理は取り敢えず黙ることにした。黙って座ると、苦笑したようなセイギと目が合った。 彰は、真理の行動を特に気にした様子もなかった。ゆかりに向けて、笑みを浮かべる。
「お金は要らないよ。まあ、そっちが本業みたいなものだからね」
「本業、ですか?」
「うん」
 頷いて、彰は椅子の上に立ち上がった。すかさず、ロクダイがテーブルを埃のかぶらないところに移動させる。
「ある時は怪しい喫茶店。またある時は不気味な雑貨屋。またまたある時は、謎の何でも屋。しかしてその実態は  」
「その名も虚しい、幽霊たちの迷子センター」
「決め台詞を! おまけに、虚しいって何、虚しいって!」
 普段とは逆に、彰が見下ろしてセイギにくいかかる。
 振りまでつけて熱弁した彰にとって、最後の台詞を、しかも淡々と言われては立場がない。慣れているロクダイは、一人悠々とお茶を飲んでいた。
 ゆかりが一人、慌てたように二人を見比べる。
「だって虚しいだろ。迷子センターだぜ。子供だけじゃないんだしさあ、もっとこう、『必殺! 仕事人!』とか」
「それ、意味違うし」
「でもさあ・・・」
「ちょっと! 何よそれ、なんなのよ、この店! ふざけるんじゃないわよ!」
「ふざけてないよ」
「どこがよ! こんな店、来るんじゃなかった!」
 何を怒ってるんだろうと、真理はどこかで思った。自分の冷静な部分が、どうしてこんな事で怒っているのかと、訝っている。ただ、喫茶店で近くに座っていただけの人だ。どうなろうと関係ないはずだ。それに対する店の反応も、気にすることはない。店を出れば、自分とは関係がなくなる。それなのに。
「帰るわ。いくら」
「金は取らないって言っただろ。それに財布持ってないだろ、どうやって払うんだよ」
 セイギの言葉に、激昂していた真理の顔色が変わる。財布がないという事を、話した覚えはない。真理は、怯えた瞳でセイギを見た。
 だがセイギは、冷静にそれを見返した。
「本当に覚えてないのか?」
 一歩、真理に近付く。真理は、あとずさろうとして椅子に躓いた。勢いで、倒れるように椅子に座る。
 明らかに怯える真理を見て、セイギは、一瞬淋しそうに笑った。 
「ここに来た理由は?」
「レポートで喫茶店経営について、調べなきゃいけなかったのよ。だから、たまたま入っただけ」
「・・・ここまで、どうやって来たか覚えてるか?」
「歩いてきたわ」
「そうじゃなくて、道。どの道を通って来たかとか、覚えてるか?」
 虚勢を張って答えていた真理は、この質問には答えられなかった。
 思い出そうとしても、思い出せない。いつものように、部活用の鞄を持って家を出たところまではちゃんと思い出せる。だが、その先がない。家を出て少し歩いたところから、猫屋の扉を開けるところまでが、直結でもしているかのようだ。
 そこまで思い出して、不意に気付く。レポートのためのメモなんて、鞄には入れていない。そもそも、レポートは既に提出したはずだ。だが、レポートのために・・・。
 突然、額に冷たい感触がした。セイギが、熱をみるように真理の額に手を乗せている。真理は反射的に振り払おうとしたが、出来なかった。
「目、閉じて」
「ちょっと・・」
「閉じて」
 有無を言わさぬ口調に、渋々眼を閉じる。部屋にいる全員が自分を見ているのを感じたが、真理は、不思議と何も感じなかった。いつもであれば、怒って席を立っていただろう。
 だがすぐに、そんな事を考える余裕はなくなった。鮮明な映像が、浮かびあがる。
 道。車。赤。
「――――――うそ」
 声がかすれた。それどころか、真理は自分が声を出した事にも気付いていなかった。
 蒼褪めて、膝のスカートを握り締める。
 冗談だと言い切れたら、どんなに良いか。嘘だと言って、このまま店を飛び出せたらどんなに良いか。だが、何故か真理は、それが事実だと確信していた。
 頭に浮かんだ映像は、思い出した自分の事故現場だった。
「何、やったの・・今」
 自分の手の甲を見ながら、真理はようやくそれだけを言った。喉が渇いているが、紅茶を飲む事も出来ない。
 セイギは、彰やロクダイと目を見交わして、小さく肩を竦めた。
「悪い。今のはちょっと荒療治だった。まだ・・・慣れてないんだ。ごめん」
 言葉を切って、セイギは自分の手を見た。
「あんたの・・・」
「清瀬真理」
「・・真理の、記憶を呼び起こした。忘れるために作ってた壁を、無理矢理壊したんだよ。機動隊が占領された銀行に、扉突き破って入るみたいなもんだ」
「何よ、それ」
 真理は、笑いたくなった。ついさっき自分が否定したものが、それ以上になって目の前にある。夏の怪奇特集みたいだ。嘘臭くて、笑える。
 だが、笑えなかった。
 顔が強張って、吐き捨てるような言葉しか出てこない。まあいつもこんなものだと、そんな事まで考える。
「えーっと、詳しく説明していこうか。セイギ、お茶」
 彰が言うと、セイギは、一旦全てのカップを片付けて、新しいカップに新しく紅茶を注いだ。また、湯気が上がる。ロクダイも、避難させたテーブルを真理とセイギの座っていたテーブルに近付ける。丸テーブルだから、雪だるまのようになっている。
 再び、全員が椅子に座った。その間、真理もゆかりも何も言わない。彰は、紅茶を一口飲んだ。
「折角だから、飲んだら? 冷めちゃうよ。今のところ、温度もちゃんと感じられるんだし。あ。猫舌とか? だったら、まあ好き好きだけどね」
「何よ・・・冗談じゃないわよ! 人事だからって、そんな風に言わないでよ!」
「そんな風にって?」
 カップを持ったまま、彰が小首を傾げる。ゆかりは、怯えたようにそんな二人を見ていた。ロクダイとセイギが何もしようとしないから、余計に体を縮めている。
「人事は人事だし、勝手に心境推測して、同情とかされて嬉しい? あたしは厭だからしない。どう思ったところで事実は変わらないし、説明する内容だって変わらないんだしね。ずっと緊張して聞くより、ちゃんと落ちついて聞いた方が聞きやすいだろうし、あたしも話しやすいってだけなんだけど」
 淡々と言って、彰はもう一口、紅茶を飲んだ。真理は、何も言わない。
 唐突に、真理は自分のカップを取って、それを飲み干した。そして、大きく息を吐く。ゆかりが、それを呆気にとられてみていた。すかさず、セイギが空のカップに新しいお茶を注ぐ。
「悪かったわ。もうちょっと、諦めが良いと思ってたんだけど。往生際が悪いわね、私も。それで?」
 何も言わずに、彰は苦笑した。ゆかりが安心したように息を吐いて、紅茶に口をつける。さっきとは違う種類らしく、さわやかな味がした。
「幽霊たちの迷子センターっていうのは、さっき言ったよね。で、仕事はその名の通り、道を見失ってさまよってる人たちを案内すること」
「道、ですか?」
「うん。大抵は、死んだ場所の近くに、それぞれ専用の道が開くんだよ。そこを通ってあの世にいけば問題なし。気付かなかったり無視したりした場合が、迷子」
「無視って・・・出来るんですか?」
「道そのものに強制力はないから」
 話を聞きながら、ゆかりは少し興奮していた。あの世とか幽霊が実際にいるとは思っていたが、まさかこんな風に詳しく知る事が出来るとは思っていなかった。
 自分が幽霊になっていると思うだけで、なんだか嬉しい。
「あの、・・・四十九日とかって、どうなってるんですか? あの世が死人を受け入れるまでの、準備期間だって言う・・・。私が死んだのは今日、ですけど」
「あー。えっとね。実は、あたしたちも死んでるんだ。あっちも人手不足だから、そうやって人を使っててね。第二の人生、みたいな」
 セイギが、呆れたかおをする。それを見て、真理は密かに胸を撫で下ろした。全員がそんな感覚でいるとしたら、実害はないにしても、何か厭だ。
「でも時間が経つにつれて徐々に人が増えるから、昔みたいに待ってもらわなくても良くなったんだよ。だから、四十九日の保留期間どころか、待ち時間も少なくなってきてる。えーっと、それでどこまで話したっけ?」
「あっ、ごめんなさい。私が・・・」
「彰が脱線するのはいつもとのことじゃ。気にせんで良いよ」
「そうそう。疑問とか出てくるのは仕方ないし。で、どこまで話した?」
 セイギとロクダイが視線を見交わして、お互いに首を振る。いつもの事だからと、半ば聞き流していた。次に彰の視線を受けて、ゆかりも慌てて首を振る。自然と、真理に視線が集まった。
 真理が、溜息をつく。
「専用の道があるとかってところ」
 ああ、と、彰が手を叩く。その様子は子供そのもので、説明を始める前の冷淡とさえ言える様子は想像もつかない。
「ねえ、今からお払いでもするの? この怪しい置物って、そのための道具?」
 真理が、適当に近くの錆びた小剣のようなものを取る。見た目以上に重さがあった。答えたのは、セイギだった。
「そんなもの必要ない。ただ道を見失っただけなんだから、それさえ通れば逝ける」
「うん。たまに道無き道を行っちゃう人もいるけどね。あ。それは、ロクダイの趣味」
「雑貨屋の商品じゃよ」
 間髪入れず訂正する。真理が掴んだものはいつのものかも忘れた文鎮だが、その事には触れない。
 真理は興味をなくしたように文鎮を元に戻したが、代わりにゆかりが口を開く。
「道無き道って、何ですか?」
「あっちの世界に行かないで、こっちの世界に無理矢理残る事だよ。あたしたちは『死者』って呼んでる」
「できるんですか?」
「したいの?」
 不思議な瞳で、彰が覗き込む。
 何も言えずにいると、隣でロクダイがカップを下ろした。
「長くこちらに留まれば、やがては理性を失う。そうして、誰かも判らずに人を襲うようになるだけじゃ。大切な人でさえ――むしろ、大切な人ほど、襲うことになる。わしは、そうなりたくは無い」
「・・・・ああ」
 穏やかに、だが断言するロクダイ。セイギは、心持ち俯いて肯いた。彰が、微笑する。
 微妙な空気に、ゆかりはうろたえた。不用意な事を言ってしまったらしいと気付き、慌てる。そして、咄嗟に口を開く。
「え、ええと・・あの、道って、どこにあるんですか?」
「あっち」
 あっさりと、彰が店の奥を指差す。そこは、セイギが出て来た扉だった。調理場にも繋がっているのだ。
「ず、随分近く、なんですね・・・・」
「あ。あれはあなたたち専用の道じゃないんだよ。さっき言ったけど、そっちは死んだ場所の近くにあるから。あれは、代わりの道。つまり、代理道だね」
 奇妙な響きに、漢字が浮かんでこない。
 そのとき、白いものが飛んできた。ついさっき彰が指差した扉を開けて、何かをくわえた真っ白な鳥が飛び込んでくる。
 鳩は、良くぞ落とさなかった、と言いたくなるような厚い白封筒をくわえたまま、セイギの頭にとまった。器用に、袋はロクダイの前に落とす。
「とりや。何だっていっつもいっつも、俺の頭にとまるんだ、痛いだろうが! 蒸し焼きにして食うぞ!   っっ!」  
 嘴で頭をつつかれ、声無き声を上げるセイギ。彰は、それを見てわざとらしく溜息をついて見せた。
「同僚にそんなこと言うからだよ。ほら、とりやさん、こっち来なよ」
 彰の台詞に鳩は首を振り、一声鳴いてから飛び立った。セイギが、反動に声を上げる。だが鳩は、気にせずに入ってきた扉から帰っていった。
「またね―、とりやさん!」
 一連の様子を、真理とゆかりは呆然と見ていた。扉は閉まっていたはずだが、どうやって入ってきたのか。鳩の体当たりぐらいで開くものなのだろうか。二人の頭を、そんな疑問が駆け回る。
 そして、二人の視線は、無意識のうちにロクダイの手元に移っていた。そこには、さっきの鳩が運んできた封筒の中身が、白紙の裏面をゆかりたちに向けて広げられている。 
 二人の視線に、彰が気付く。
「さっきのは、とりやさん。これは死者リストっていって、今日の時点で迷子になったり道無き道を行ってる人たちの名前とかが書いてあるんだ。たまに、まだ生きてるのに死んだつもりになってる人がいるから、最終的にはこれを見て判断するんだよ」
 そう言っている間に、一通り目を通したらしいロクダイが、紙を封筒にしまう。
 セイギは、まだ唸っている。
「最終的に、って・・・?」
「え?」
「さっき、最終的にって言いましたよね。それは、ある程度はあの紙を見なくても判るということですか?」
「ああ、――うん」
 彰は、セイギを見た。痛さに暴れていたセイギは、それを受けて、ようやく動きを止めた。だが、まだ頭をさすっている。よほど痛かったのだろう。
「俺が判るんだよ。時々、良く判らない人がいるけど、大体は。生まれつきだけど、死んでからはっきり判るようになった。彰やロクダイは判らない」
「それに、このリストは飽くまで目安でしかないんじゃよ。載ってなくても死ぬことも、その逆もあるからのう」
「役割が、ちょっと違うからね。――他に、何か訊きたいことはある?」
 これも、触れてはいけない話題だったのかもしれない。そう思いながら、ゆかりは首を振った。
 真理が、躊躇いながら口を開く。
「・・一つ、訊いていい?」
「駄目だ」
 驚いてセイギを見る。セイギは、さっきまでの醜態は忘れたかのような、真面目なかおをしていた。
「――って言ったらどうする?」
 冗談だとでも言うように、笑って、手を広げて見せる。
 真理は迷った。意図が掴めない。ただの冗談なのか、それとも何か警告でもしているのか。いい加減、質問に疲れただけかもしれない。だが、これからする質問は、多分彼らを傷付けるだろう。
 息を吸う。
「あなたたちって何者なの?」
「人間か、って?」
 口の端を上げて、笑む。真理には、それが自嘲のように見えた。
「まあ、一応は。前世は虫だった、って記憶も無いしな」
「前は、百パーセント人間だったんだしね。今は、正確には人間じゃないかもしれないけどさ。で、他は?」
 笑顔で、彰が言う。真理は、笑顔も一種の無表情だということを実感した。
 今度は、真理も首を振った。
「それじゃあ、代理道に行くよ。ところで、最後に、誰か会いたい人はいる?」
 ゆかりが不思議そうに、真理は怪訝そうに彰を見た。
「おまけみたいなものだよ。怪談とかであるでしょ。親しい人がお別れに来るっていうやつ」
 やはりあっさりと言い放った。
 ゆかりは、怪奇特集の真っ只中にいることを喜び、次いで、落胆した。別れを告げたい相手など、いない。家族には申し訳ないと思うが、それだけだ。恨みのために会いたいと思う人すら、いなかった。
「あたし着替えてくるよ。セイギどうする?」
「ああ、俺はこのままでいい」
 そう言って、セイギはエプロンを外して、座っていた椅子にかけた。彰が、からかうような声を出す。
「外しちゃうの? このままってことはエプロンもしてなきゃ」
 セイギが睨みつけると、そのまま部屋を出て行った。最後まで手を振って、扉を閉める。知らなければ、ぎりぎりまで振られている手が、怪奇現象のようにも見える。
 セイギは、椅子に座ってパイを口に運んだ。まだ食べていなかったのだ。
 真理は、それをぼんやりと見ていた。会いたい人。自分はもう死んでしまっているけど、せめて一目だけでも、会っていきたい人。
 突然死んでしまって、未練が無いわけではない。家族や友達と、もっと一緒にいたかった。繰り返しの毎日だと思っていたが、そうでなかった事に気付いた今は、痛切に思う。だが、それ以上に。
「会いに行きたい人が、いるの。・・いい?」
「ああ」
 黙って座っていたロクダイが、立ち上がる。ゆかりは、真理を絶望したような目で見ていた。だが、気付く者はいない。
「わしが案内しよう。行こうか」
 頷いて、二人は部屋を出て行った。

    
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三章

 桜が咲き乱れている。
 染井吉野、彼岸桜、八重桜、枝垂桜、大島桜・・・・。
 一度に咲くとは思えない様々な桜が、全て満開に咲き乱れている。見渡す限り桜が咲き、風に花弁が舞い散る。だが、どの木も満開だった。
 二人は、その光景に目を見張った。
 他の二人が、それを微笑して見ている。
「お弁当持って来れば良かったかな」
「作るの誰だと思ってるんだよ」
「もちろん、セイギ。良いじゃない、趣味と実益。便利だね―」
「遅いな」
 故意にか否か、彰の言葉を無視して、木々の向こうを眺めやった。どこまでも続く桜の木しか見えないが、その方向に進んでいけば、そのうち小屋が発見できる。
「お茶でも飲んでるんじゃない? トゥーヤン、料理上手だし」
 セイギと同じ方向を見て、彰が言う。そこは、ロクダイが歩いて行った方角だ。
 「月夜の猫屋」にいた面々は、彰の言う「代理道」にきていた。
 「お別れ」を言いに行った真理と、あの後も幾つかの質問をしていたゆかり。この二人と制服のままのセイギは店内からそのまま来たが、道路でスケボーでもしていそうな服装に着替えた彰と着流し姿のロクダイは、それぞれ手に蒼い棒を持っていた。
 セイギの身長ほどもある細い棒は、色が違えば孫悟空の持つ如意棒にも見える。この棒に関して、二人は「用心」との言葉しか聞いていない。
「茶なんか飲むか? こんなときに」
「わかんないよ。あ。来た来た。噂をすれば影が差すって、本当だね」
 こちらに歩いてくるロクダイに、元気に手を振る。
 ロクダイは、この空間の「管理人」に会いに行っていたのだ。通るのに許可は要らないが、言っておいた方が、何かあった時に便利なのだ。
「遅い。何してたんだよ」
「ああ・・・茶を、馳走になっておった」
 「ほらね」と言いたげに、彰がセイギを見る。セイギは、呆れたように溜息をついた。
「そんなの、後でいくらでも飲めるだろ。人を待たせるなよ」
「ああ、すまんかった。さて、行こうか」
「おーい、行くよ―っ、ゆかり、真理―っ」
 桜に見惚れていた二人が、はっとして彰を見る。セイギとロクダイの隣で彰が手招きをすると、ゆかりは頬を上気させて、真理は決まり悪げに駆け寄ってきた。
 彰の「それじゃ」という声をきっかけに、5人は歩き出した。
 咲き乱れる桜の木々の中を歩くのは、どこか現実場慣れしていて夢の中のピクニックを思わせる。ゆかりも真理も、つい今の状況を忘れそうになっていた。
「綺麗ですね―・・・」
「でしょ。年に一回開かれる花見が楽しみなんだよね」
「花見って・・・」
 真理が、呆れたように首を振る。その心情も解らないではないが、人の生死の場所では、あまりそういったことをしてほしくないと思う。
「他にも、竹ばっかりのところとかバラばっかりのところとかがあるんだよ。それぞれの場所で、年に一回はイベントがあるし。
「た、楽しそうですね」
 少しばかり、ゆかりの笑顔が引きつっている。それを見て、セイギは苦笑した。自分も、初めてそう聞いた時はのけぞったものだ。まさか死んでまで、年中行事をやるとは思いもしなかった。
「あの・・・・」
「何?」
 どこか思い詰めたように、ゆかりが一旦閉じた口を開く。前を行く彰が、後ろ向きに歩きながら首を傾げる。持っている棒は、アサリ売りの天秤のようにして持っている。ゆかりは、少しためらったが、恥ずかしげに彰を見た。
「空、飛べないんですね」
「空?」
 セイギや真理からも不思議そうに見つめられ、ゆかりは顔を赤くした。言葉がもつれる。
「いえ、あの、だって・・・、幽霊ってふわふわ浮かんでるイメージ、あるじゃないですか」
「そう? あんまりよく知らないけど・・・」
 真理が首を傾げる。怪談など、むしろ馬鹿にしていた方なので、何の考えも持っていなかった。性格が性格なので、ゆかりなど、生きていればほとんど相手にしなかったかもしれない。そうやって考えると、本当に不思議な状況だった。
「少しだけ、憧れてたんです。飛べたらいいなって。厭な事全部忘れて、空飛べたら気持ちいいだろうなあって」
「『翼をください』みたいだね」
「私、あの歌あんまり好きじゃないわ」
 翼を持つというのは、天使のような状態を指すのか、鳥になるのか。授業で習って以来、何か違和感を憶えていた。
「だって、翼があるからってどうなるの? 確かに、空を飛べたら気持ちいいかもしれない。でも、それだけでしょ? 飛べたからって、何も変わらないじゃない」
 ゆかりが、何かくちごもって俯く。
 何も、ゆかりに反発したいわけではない。ただ単に、疑問に思ったのだ。空を飛んで厭なことを忘れたところで、再び地に立てば思い出すだろう。では、ずっと飛び続けるというのか。そんなことができるとも思えない。
 少し飛ぶだけであれば、それは「逃げ」とどう違うのだろう。
「ねえねえ」
 不意に、彰が口を開く。歩き続けながら、四人がそちらを見る。
「こんな話知ってる?」
 あるところに、ある神様の熱心な信者がいました。ところがある日、その信者は山賊に襲われて、身包み剥がされてしまいました。ところがその人は、命からがら逃げ込んだ宿屋でこう言いました。
 ――「神様のおかげで命が助かった!」
「この話を聞いて、どう思う?」
 終始淡々と言葉を紡ぎ、口を閉じた。外見に似合わない大人びた笑みが、その口元に浮かぶ。
 不意に真理は、彰の年齢が気になった。この外見だが、実際に過ごしてきた年月はどれほどのものなのだろう。そして  死んだ自分たちは、彰のようにずっと留まるのだろうか。それは、辛くはないのだろうか  。 「神様を称えた話、ですか? 聖書みたいな・・・」
 自信なさげに、ゆかりが言う。その顔が、最後に別れを言った従兄妹に重なった。少し、辛い。
「そうか? 神様なんて出てきてないじゃないか」
「え? あ・・・」
「俺には、神なんていないんだって話に聞こえるなあ」
「私も」
 ゆかりが、怯えるように真理を見た。なにもゆかり自身が嫌いなわけでも、その考えを全否定するつもりでもないのだが、どうも、対立する位置にいるらしい。 
 真理は微苦笑した。
「神様がいるなら、そんなふうに考えられるくらいに熱心なんだから、始めから盗賊になんて遭遇させなかったんじゃないの? もし遭遇しても、何も盗らせないだろうし」
 そうかもしれない。でも、だったら。神様を信じる信者は、ただの愚者なのだろうか。信じる者が救われることは、ないのだろうか。
「仮にそれを試練だとかって言うなら、俺は要らないな、そんな神様。――で?」
 セイギが、彰を見る。彰は無言で、可愛らしく小首を傾げて見せた。無邪気な笑顔を浮かべる。
 逆にセイギは、深深と息を吐く。
「またかよ」
「また?」
「彰の悪い癖。何か意味ありげな話をして、考えさせて、で、答は言わない。なんかこう、ずーっと残って、気持ち悪いんだよなー。また引っかかっちまった」
 あーあ、と言って首を振るセイギを見ながら、ゆかりと真理は呆然としていた。何か、真剣に考えていたのが馬鹿らしいような、かといって、ただ冗談や気まぐれと言いきることはできないような。セイギが言うように、奇妙な居心地の悪さが残る。
「ロクダイは? どう思った?」
 彰が、ひとり前を行くロクダイに声をかける。ロクダイは、音もなく散る桜に目を細めた。
「・・・その信者は幸せじゃな」
 三人が、意表を突かれてどこか間抜けな表情になる。ロクダイは淡々と歩きながら、言葉を続けた。
「傍から見てどんな状態でも、例え神がおってもおらんでも、その時のそ奴は幸せじゃろうよ」
「・・うん」
 頷いた彰の表情は、陰になっていて見えなかった。

 随分歩いたが、満開の桜の木はどこまでも続いていた。
「いつになったら着くの」
 既に、時間感覚はなくなっている。真理には、一向に疲れた様子のない彰たちを不思議に思う余裕もなくなかった。疲れているというよりは、寝ぼけているような、多少のことでは動じない「鈍い」状態になっていた。
 だから、口にした台詞も問いかけではなく、ただ言っただけのようになっていた。
「うーん、人それぞれだからなあ。まあ、そのうち着くよ」
 そのうちっていつよ、と、少し前なら言い返していただろう。だが、二重の原因によって真理はそうしなかった。
 唐突に。真理は、歩みを止めた。何かが気になった。鈍化した感覚の中で、何かが反応する。
 ――噂をすれば影が差す、って本当だね。
 右斜めの方向を見て、その正体が判った。
 光色の扉。考えるまでもなく、それが何か判る。本能的な理解。
「真理さん? どうかしたんですか?」
「あれ」
「え?」
 ゆかりが、不思議そうな表情をする。一行は、すっかり足を止めていた。
「あれが・・・」
「真理さん?」
 魂が抜けたように何もないところへ歩き出す真理を、ゆかりは目を見張って見つめた。自分と違ってしっかりとした真理が、こんな風になっているのが信じられなかった。
 真理は、扉の前で足を止めて振り返った。そこには、四人がいる。短い間だったが、最後にいてくれたのがこの人たちで良かった、と思う。
「厭なこと沢山言ってごめんね。――ありがとう」
 一歩踏み出すと、真理の姿は消えた。最後に見えたのは、とびきりの笑顔だった。
「どうして・・・・?」
 ゆかりは、小さく呟いた。元気良く手を振っていた彰は、それには気付かなかった。
 同じはずなのに。同じ状況なのに。突然死んで、なのにこんなに違う。ゆかりには最後に会いたい人もいない。そして真理は、一人で先に逝ってしまった。死んでも、自分は落ち零れのままなのか。居場所もなくて、ずっとこのままだったら  。
「ゆかり? どうかしたの?」
「私・・・どうしてここにいるんですか」
「え?」
 彰とセイギが、顔を見合わせる。
「だって、真理さんはいったのに・・・どうして・・・」
「人それぞれだって言ったじゃない。ほら、行こう?」
「でも・・・私も彰さんみたいだってことはないですか? 成仏するんじゃなくて、特別にそのまま・・・」
「違うよ」
 彰は、冷めた眼でゆかりを見た。声の調子も何も、変わってはいない。ただ酷く、静かだった。
「そうだったら判る。あたしたちの仕事は、逃げ場なんかじゃない疲れたからって、少し休むためのところじゃないんだ。・・特別って、良いことじゃないよ」
「でも・・・・私・・・・わたし・・・」
 泣くゆかりを、彰はただ見ていた。セイギが、何も言わずにゆかりの肩を抱いて支える。だがその顔は、辛そうに俯けられていた。
 桜が舞い散る。音もなかった。 
 不意に、ロクダイが動いた。ゆかりに向かって、真っ直ぐに進む、その手には、青い棒が握られていた。
「ロクダイ!」
 同じく棒を手に、彰が割って入る。ロクダイの振りかざした棒は、もう一本に遮られた。
「ぼけるなら年齢順だよ、まだ早いんじゃない。――セイギ!」
 硬直していたセイギが、我に返る。一瞬彰と眼を見交わすと、ゆかりを連れて走って行く。彰は、それを横目で見送ってから、ロクダイを真っ向から見据えた。
 無表情で、呼吸をしているかも怪しい。「死者」の初期症状だった。
 力比べになると分が悪い。棒を傾けて力を凪ぐと、そのまま打ち下ろす。だがそれは、軽くいなされてしまう。十数度は打ち合っただろうか。
「ロクダイ、何か言ったら。まだ言えるんでしょ。――本当に、最期なんだから」
「・・・・すまん」
 隙を見てセイギたちを追ったロクダイを、彰は追い掛けた。

 ゆかりは、桜の木の根元に体をかがめた。座り込んでいると言ってもいいだろう。息が切れている。
「どう、なって・・・・・ロクダイ、さん、どうしたん、ですか・・・?」
 しばらく、セイギは黙ったままでいた。ゆかりほどではないにしても呼吸が乱れているが、それを整えているかのようでもあった。
 怒っているような、泣きそうな。――セイギは、静かに息を吐いた。
「彰が言ってた道無き道を行ったってやつが、あれ。あれが『死者』だ」
「そんな・・・でも、あなたたちは・・・・」
「特別だって?」
 唇を歪める。
「俺たちも死んでるって言っただろ。ただ、ちょっと他の奴等より意志が強いのを買われただけで、基本的な条件は『死者』と大差ないんだ」
 桜の幹に拠りかかると、再び口を開いた。自分に言い聞かせるかのように、その言葉は弱い。
「人は、平穏に一生を生きて行くこともできる。環境だとか状況だとかに、生きることを許されてるとも言えると思う。一見平和で、凄く長閑で。でも実は、いつ狂っても、いつそんな生活が壊れてもおかしくない。それは大体において些細なことがきっかけで、突然起こる。準備も心構えも出来ないまま、突然来るんだ。狂わない奴もいるのにな。――それと、同じ」
 セイギから、ゆかりは思わず目を逸らした。あんなに楽しそうで、色々と知っていて。だからつい、この三人には何の問題も無いのだと思い込んでいた。思い込もうとしていたのかもしれない。何度か気まずい質問もしていたのに、それさえも無視して。
「時々、『死者』が代理道にも入り込んでたりするから。彰とロクダイの持ってた棒は、その対策。あれ突き刺したら、滅びるからさ。映画のドラキュラが胸に杭突き刺されるみたいに」
 ゆっくりと、セイギは上を向いた。花びらが降り注ぐ。
「俺はまだ未熟だから、持たせてもらえてない。『死者』じゃなくても突き刺したら死ぬから、危ないって」
 本当は、今回のように仕事中に「死者」になることを恐れて、原則的に二人以上が一組で行動するようになっている。猫屋では実質無視されていた原則だから、今回は運が良かったというしかない。
 ゆかりは、下を向いて膝を抱えた。今になって、震えがくる。ロクダイは、自分を殺そうとしたのか。
 ゆかりは、あのとき棒が突き刺すのではなく殴るために使われようとしていたことには気付かなかった。
 セイギは、顔を臥せたゆかりを見下ろした。改めて見ても、よく判らない。でも。
「生きてる奴を食えば生き環れるって俗信があるんだ。そんなわけはないとおもうけど、『死者』が生きてる奴を襲うのも、それを本能的に知ってるからだって言う奴もいる」
「・・・どうして・・・今、そんなことを言うんですか・・・・?」
「他はともかくさ、代理道にいる『死者』ってほとんど仲間なんだよな。知ってる奴がいたりとか、俺もいつかはああなるのかなって考えたりとかしたら――やりきれない」
 感情を押し殺すように淡々と話すセイギに、ゆかりは膝を抱える手に力を込めていた。突き放したような、責めるような響きがあるのは気のせいだろうか。
 自分が何かとり返しのつかないことをやったのかもしれないと思うと、恐かった。
 セイギは、眼を細めた。桜の花びらの向こうに、人影が見える。彰かロクダイか――ロクダイだろうと、何の根拠もなく思った。
「ここから離れた所に行っててくれないか。行きすぎても危ないから、離れすぎじゃないところに」
 「危ない」の意味を悟って、ゆかりは息を呑んだ。ここにいると危ないと判るのだが、もし他の「死者」にも襲われたらどうなるだろうと考えてしまうと、足が竦んでなかなか動かなかった。
 その間にも、人影は大きくなっていく。判別できるほどになった人影に、セイギは口の端をわずかに持ち上げた。
「よお」
 声が出せることが、ちゃんと考えられることが、不思議だった。一言冗談だと言われれば信じたくなるくらいに、それほどに訪れてほしくなかった状況。
 真っ直ぐに突き出される棒を避けて、鳩尾を力いっぱい殴る。ためらいのない動きに、もう駄目だと確信する。棒を持つ手を狙って蹴り上げると、一瞬だけ手が緩んで、すぐに持ち直した。再び突き出される棒を寸前で逃れて、足払いをかける。
 倒れたが、セイギも動けなかった。
「全部お前に習ったんだぜ・・? なあ、なんでだよ・・・ロクダイ、なんでだよ・・・・っ」
 起きあがって自分に向けて棒を構えるのを、ただ見ていた。
「――セイギ!」
 強い声に、眼をつぶる。
 走ってきた彰は、二人の間に割って入った。眼だけは前に向けたまま、口からはしっかりとした言葉が出る。
「ばかセイギ、あたしがいないからってぼうっとしてるんじゃないよ」
「悪ィ・・・」
 いつもと変わらない声に、泣きたくなる。何も出来ない自分。解かっていて、割りきれない自分。なんて弱いんだろうと、強く思う。そして同じくらい、動じない彰に苛立ちを憶える。ついさっきまで一緒にいたのに。笑って、話してたのに。
 泣きそうになる。
「セイギ。これはロクダイじゃない」
 動かない二人を、改めてセイギは見た。彰は少し、怒ったような顔をしている。それは、誰に対してだろう。
「突っ立ってるだけなら、あっち行ってて。あたしだって守れるかわからないんだよ。それに、あっちで何かあっったとき、守るのも仕事だって判ってるよね。  これじゃなかったら、まだましに動けるでしょ」
「彰!」
 その言い方はないだろうと言うのを、辛うじて堪えた。少し考えれば判るはずだ。動じてない――誰が。
「だって、言ったんだよ。ああはなりたくないって、ロクダイが言ったんだ」
 反応のないそれを見据えて、彰が先に動いた。
 待っていたかのように突き出された棒を凪ぎ、棒ごと手首を掴んで足払いをかける。捉えていた手を足で押さえつけて、倒れた体に両手で棒を構える。
 自我を失えば、何も残らない。油断すれば、辛さに手を緩めてしまえば、被害が拡大するだけだ。それは、ロクダイの望んだことではない。
 何人目だろう。棒を握り締めて、彰は思った。今まで、何人こうやって仲間を葬ってきただろう。普段の仕事と大差ないはずなのに、何故知っているだけで、こんなにも辛いのだろう。
 重力のままに、棒を下ろす。
「――バイバイ。ロクダイ」
 涙も出なかった。

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四章

 とりやが月夜の猫屋の店内から死者リストを運んできたとき、三人は桜の中にいた。俯いたまま座り込んでいるゆかり。桜の木の根元に、背を向けて腰掛けているセイギ。彰は、木に寄りかかって舞う花びらを見ていた。
 とりやの姿に気付いた彰が、一度目を閉じる。開くと、微笑を浮かべた。
「ありがとう、とりやさん。ごめんね。手間かけさせちゃって」
 クー、と鳩特有の高い声を出して、器用に首を振る。そして、彰の手元にあるのとは別の、持ち主もなく木に立て掛けられた棒を見て、哀しげに泣いた。
 彰は、その頭を優しく撫でると、とりやを空に放った。ここに届けさせたことも、かなり無理をさせている。まだ仕事は終っていないはずだ。
「またね、とりやさん」
 そう声をかけた彰自身が、その言葉の不確かさをよく知っていた。約束が絶対だと信じていたのは、もうずっと前のことだ。
 白い鳩を見送ってから頭を降って考えを切り替えると、彰は死者リストを広げた。何度か念押しに繰り返し読むと、封筒に戻す。
 顔を上げると、少し赤いセイギの眼と視線が合った。静かに肯く。
「ゆかり、これからどうするか決めよう」
 彰の声に、無言で座り込んでいたゆかりが顔を上げる。自分よりも年少に見える少女は、最初と変わらず元気で優しそうに見えた。
「・・・どうって・・・」
「まず、謝らないといけない。あなたはまだ、完全には死んでない」
「・・・・え?」
「判断ミスだった。どこにいるとかどういう状態なのかとかは判らないけど、死んでないことは確かなんだ。ごめん」
「で・・も・・・でも、だって私は・・・確かに事故に遭って・・・それに、セイギさんだって・・見分けられるって・・・」  
 語尾の消える反論に肯いて、セイギを見る。だがセイギは首を振った。今口を開けば、何を言うか判らない。
「判り難いときもあるんだ。死んだのにまだ生きられる人とか――この生きられる人っていうのは、あたしたちみたいに中途半端にじゃなくてちゃんと百パーセント人間でってことだけど。そんな人とか、凄く死にたがってる人とか」
 ゆかりが、目を見開く。信じられない。だが一方では、酷く納得がいった。
「私・・・」
「泣きたいなら、後で好きなだけ泣けばいい。今は、生きるのか逝くのか決めるのが先」
「でも・・っ、今、生きてるって・・」
「うん、まだ死んでない。でもこのままここにいれば、遠くない未来に死ぬことになる」
 魂が長く肉体を離れると死ぬという話を、ゆかりは思い出していた。このままここにいれば、死ねるのだろうか。痛さもなく、もう辛さも感じなくてすむようになるのか。そしてそれは――翼を手に入れることになるだろうか。
 その考えに、真理の言葉が突き刺さった。
「どうする? 勝手な言い方で悪いけど、あたしたちにはあなたにどのくらいの時間が残されてるのか判らない。戻ることが出来なくて、でも生きたいと思いながらここを歩いてても、逝くことはできない」 
「それは、どういう・・・」
「生に執着してれば、『死者』になる」
 ロクダイの体が塵のように消えた場面を思い出す。ついさっきのことだ。
 ロクダイとセイギから遠ざかり、始めは目も耳も塞いでいた。だがそのうち、気になって恐る恐る様子を覗った。彰がロクダイを踏みつけ、棒を突き立てた全てを、ゆかりも見ていた。
「で、でも・・・本当に私、生きてるんですか・・・?」
 本当に死にたいと思っていたのか。「普通」であれば判る正義が、間違えるほどに。
 だが彰は、あっさりと肯いた。
「このリストに載ってないから、まだ死ぬ予定ではないよ」
 ひょっとしたら手遅れかもしれないけど、という言葉は飲み込む。
 あのときリストを見たのはロクダイだけだったから、確認するためにとりやに持ってきてもらった。リストを見た時点で何も言わなかったのは、あのとき既に思うところがあったからだろうか。
 それは、彰にとってもいつ訪れてもおかしくない感情だろう。
「どうする。生きる? 逝く?」
「でも私・・・逝けるの・・・・?」
「じゃ、戻る?」
「だけど・・・」
 彰は、溜息をついた。一度、深呼吸をする
「ねえ、一つ訊いていい? あなたは生きていたいの? 死にたいの?」
「え・・・」
「生きるのも死ぬのも嫌がって、あたしたちに滅ぼされるのを待つ? 厭なことから逃げて、後始末は全部他の人に任せるの? それって凄く、無責任だよ」
「そんなの、知らないから言えるのよ」
 俯いたまま、ゆかりは呟いていた。
「毎日毎日、自分がどうしてここにいるのかなんてわからなくて、誰も私のことなんて見てなくて。誰も私のことなんて、気付いてすらないかもしれない。居場所なんて、どこにもない。あなたたちみたいに、強くなんてなれない・・・」
 彰に解かるわけがない。明るくて、誰とだって話せる。仲間がいる。今日のようなことがあっても、立ち直れるだけの強さがある。こんな自分のことなんて、解かるわけがない。
「あのさ。あなたはそのために、何かした? 何もしないで悲嘆に暮れるだけなら、それは辛くて当然だよね。それに浸ってるんだから」
 ただ淡々と。無表情に。それなのに、怒っているのが判った。ゆかりは、何一つ言えなかった。
「そんなこと言われたら、あたしだって考えちゃうよ。あなたが来なかったら、すぐに気付いて戻ってくれたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって。ロクダイは、今もまだここにいたんだって。あなたさえ来なかったら、って。弱いね、あたしも」
 沈黙が降りた。桜だけが舞っている。
「こんなところに突っ立ってると危ないぞ」
「黄桜 [キオウ] 」
 見ると、ズボンにカッターシャツといった格好の男が立っていた。その両脇には、白と黒という髪の色だけが違う、紅い瞳の瓜二つの子供がいた。男の青い瞳が、眼鏡越しに三人に向けられている。
「そこの奴。あまり時間はない、あと三十分がいいところだ」
 ゆかりが、蒼褪めて俯く。黄桜は、それを冷めた眼で見ていた。
「何故あいつがお前を襲ったのか、判るか」
「・・・いえ」
「腹が立ったんだ」
 思わず、顔を上げた。黄桜が、冷静にそれを見返す。
「あんたは生きている。それなのにこんなところにいて、その上、何を言った?」
 死にたがって、それなのにこの世に留まって、彰達のように不安定な状態になれはしないかと。死ぬつもりも生きるつもりもない。そのことが、許せなかったのだろう。本人が真剣に考えていると思っているのが判る分だけ、余計に腹が立つ。
「セイギに判らなかった時点で、かなり強く死にたいと思っているということだろう。あいつにしたら、それだけでも辛かっただろうな」
「・・って・・私・・・」
「俺達の気持ちも、少しは察してくれ。一度死んで、生きるのを諦めて。それでもここに居るのが、いくら自分で選んだからといって、どんな気がするか。少しは考えてくれ」
 一度、死んだ。
 この人たちの残した未練は、何だったのだろう。皆、二十年も生きなかったのではないだろうか。執着と年月が単純に比例しないと判っていても、考えずにはいられない。幾つもあったはずの未来が、一瞬でゼロになる。
 私は、何をしていたのだろう。
「私・・・帰りたいです」
 下を向いてしまいそうになるのをどうにか堪えて、顔を上げる。声が、涙に揺れてしまう。
「帰り、たい・・・こんな、こと・・して・・・でも、私・・・私・・・」
「遅いよ」
 彰が言う。
「でも、気付いて良かったね」
 ゆかりの眼は見ないまま。これって偽善かな、と心中呟く。それでも。
「トゥーイン、トゥーヤン」
 ずっと冷めた眼で成り行きを見ていた二人の子供が、主の声に反応する。
 この代理道の管理をする黄桜の補佐をする二人だが、「人」が嫌いだ。憎んでいるといっても言い。だから二人は、他の誰よりもゆかりには厳しい感想を持っていた。
「送ってやってくれ」
「はい」
 この組み合わせはゆかりにとっても子供たちにとっても良いものだとは思えなかったが、黄桜はまだ二人に話があった。
 三人の後ろ姿が徐々に遠くなっていく。ごめんなさい、と、ゆかりは最後に言った。
 桜が、降る。
「厭なこと言わせてごめん。でもありがとう」
「気にするな。ここでのことは俺の担当だ。――あいつにも、頼まれてたしな」
「道理で、なかなか戻ってこなかったわけだ」
 一種の自殺だと、彰は思う。始末を他の人にさせるのは無責任だと言ったが、ロクダイのことを責める気にはなれなかった。いつ、自分もそうなるか判らない。身勝手だな、とも思う。
 黄桜は、ズボンのポケットから二通の白い封筒を取り出した。住んでいる小屋には、これと同じものがもう一通、残されている。何事もなく終ったら必ず焼き捨てておくれ、と、念を押して頼まれていた。その表情を思い出す。
 彰とセイギ、それぞれに表書きされた封筒を渡すと、黄桜は二人の髪を掻き回した。
「もうすぐ、杉の宴会だからな。竹葉が色々と企画を練っていた。ちゃんと来いよ。トゥーヤンにおいしいものでも作ってもらうから」
 休んだら許さないぞ、俺だって休みたいんだからな。
 軽口を叩いて去っていく黄桜を見送っても、セイギは立ち尽くしていた。見慣れた、それなのに懐かしい文字が書かれた封筒が、その手には握られている。
 ロクダイは、どんな気持ちでこれを書いたのだろう。黄桜は、どんな気持ちでこれを預かったのだろう。彰は、どんな気持ちでこれを読むのか。そして、自分は。
「・・・るい」
「え?」
「ずるい・・・。なんで。俺は死んでるのに、生きたかったのに、あの子は生きてるんだよ・・。ロクダイはいなくなったのに、あの子は戻るんだよ・・・俺は、ここにいるのに・・・っ」
 堪えていた分だけ、言葉にならない。
 悔しい。辛い、酷い。妬ましい。ずるい。  それは、ゆかりにだけ向けられたものではなかった。  
 背中を軽く叩かれた。手の部分だけ、熱を感じる。
「泣いていいよ。よく頑張ったね」
 優しい声に、視界がぼやけるのをどうしようもなかった。
 彰はセイギから眼を逸らした。泣きはしない。泣けやしない。
 こういう時、思い知らされる。自分は長い時を――少なくとも「人」としては長い時を過ごしてきたのだと。親しくなることを恐れはしないが、酷く辛い。それでも、泣かなくなったのはいつからだっただろう。
 ずるい、と彰は思う。生きている、ただそれだけのことがどんなに恵まれているか、どんなに危うい状態であるかを考えもしない。同じ生活をしていても、自分たちとは違う。自分たちは、見ているだけしか出来ない。
 それでも。もう少しだけ、ここでがんばってみようと思う。
 満開の桜が、綺麗だった。

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エピローグ

 街には、珍しく雪がちらついていた。
 葉山直樹は、それを見て今しがた帰っていった少女のことを思い浮かべた。マフラーとコートを着込んでいたから風邪をひく心配はないだろうが、少し心配だった。
 説得して依頼はやめさせたが、本当に良かったのだろうか。かといって、調査にかかる費用のことを一切考えておらず、払う当てもない依頼を受けるわけにも行かない。
「葉山、ぼっとしてるならこの前の報告書、書いとけよ」
「あー・・。わかってますって」
「さっきの子、どうした?」
「ちゃんと帰しましたよ」
「そうか、ならいい。お前のことだから、同情でもして引き受けるかと思ったぜ」
「しないっすよ、いくら俺でも」
 同じビル内の「月夜の猫屋」という店が引っ越したのを知ったのは、ついさっきのことだ。知ったというよりも、知らされたというべきか。
 慌てたように書け込んできた少女にどこに移ったのかと訊かれ、次いでどこに移ったか調べてもらえませんかと言われ、初めて知ったのだ。このところ調査にかかりきりで、全く気付かなかった。
 行ったこともない店だが、あの歌声がもう聞こえないと思うと、少し淋しかった。

「ゆかり、何か変われたかな」
 猫耳のついた帽子をかぶった彰は、雪の降るビルの屋上で隣を振り仰いだ。そこには、セイギが缶コーヒーをカイロ代わりに両手で抱え込みながら立っている。
 今や豆粒大でしかないゆかりを、二人は見送っていた。
 今日この場所に立ち寄ったのは偶然だが、あまりのタイミングの良さに、仕組まれていたような気すらする。彰が何か独自の情報網で知り、細工をしたのではないかと、つい勘繰ってしまうセイギだった。
「ところで、彰」
「何?」
「今回用があったのはこのビルだったよな?」
「そうだよ?」
「で、仕事はもう終ったよな?」
「うん。それがどうかした?」
 どうかしたか、だって?
 缶コーヒーを持つ手に、自然と力がこもった。分厚いコートが、冷たい風に音を立ててなびく。
「ここにいる必要ってあるのか?」
 先日まで自分たちが暮らしていたビルの向かい。二人の視力では、充分にゆかりの様子も見えた。だが、例えその後のゆかりの様子を知るためにここにいるのだとしても、セイギの足元から壁一枚隔てれば、大きく窓をとったエレベーターホールがある。そこには雪も風も、冷たい空気もない。
 セイギがじっとりとした眼で見ると、彰は天使のような笑顔を浮かべた。
「だって、雪降ってるんだよ? 外で見なきゃもったいないじゃない?」
 一瞬、本気で殺意に駆られた。脅威的な自制心で止めていなければ、この高いビルの屋上で、彰の背を押してしまいそうになる。
「お前、俺が寒いの駄目だって知っててやってるだろっ」
「あれ、そうだったの?」
 やはり、天使のような笑み。セイギは、低く唸っていた。
「わかったよ、帰ろう。早く帰って、何かあったかいものでも食べようか」
「・・どうせ作るの、俺なんだろ」
「当然」
 二人は、賑やかにビルを後にした。
 人の多い通りに出ると、仲の良い兄弟か何かがじゃれ合っているように見える二人に、周りの人の表情が和んでいた。だが本人たちは、そのことには気付いていない。
 店舗の入れ替わりの激しい辺りの一角で、二人は立ち止まった。「月夜の猫屋」と看板のかかった店の前で、彰が立ち止まる。
「ねえセイギ。お化けがいなかったら、あたしたちって何なんだろうね」
「はあ?」
 それより早く入れよ、と言いかけて、セイギは心中首を傾げた。これも例の問いなのか違うのか、判らなかった。
 彰は、無邪気そうに続けた。
「知らない? お化けなんてないさ、って歌」
「知ってるけど・・・幽霊じゃなかったのか、俺たち」
「ああ――そっか。そうだね」
 言い換えたら別のものにもなれるのか、と彰は呟いた。
 何一つ疑問の解決しないセイギだったが、訊いたところで答えてくれないような気がする。それなら、彰が納得しただけ良しとしようか。
「あのね、セイギ」
「ん?」
「セイギに会えてよかったよ、あたし」
 そりゃどうも、と苦笑する。
 きっと彰は、最後を迎えても後悔はしないんだろうと、セイギは思った。ロクダイのように。渡された手紙に残された言葉。それは、そう考えるのに充分だった。自分も、そうなれればいいと思う。
「早く入らないと、頭に雪積っちゃうよ?」
「わかってるよっ」
 気付くと店に入っていた彰を追って、扉を閉める。 
 空からの、灰色っぽく見える雪片。地面に降り立った途端に解けてしまう雪は、それでも降っていた。

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