車中にて / しんごう  / 墨の人 / そうめん



車中にて

 ごととん ごとん がたん

 少女は、小さく身じろぎした。ゆっくりと目を開き、少しの間、ここがどこかわからないように視線をさまよわせる。

 ごととん ごとん がたん

 視線は、隣と言えるほどに近い進行方向側の隣の車両との連絡口のドアと、逆に一車両分ほど遠い出発方向側の隣の車両とつなぐドアを認め、途中、車窓を流れる風景を認め、向かいに座る少年のところで止まった。

「目、覚めましたか?」
「はい。・・・・あの、あなたは・・・?」
「アラキといいます。あなたも探し物を?」
「・・・はい」

 少年に言われて、少女は自分がここにいる理由を思い出した。
 そう、探し物。
 そのために、無理にこの電車に乗り込んだのだ。

 ごととん ごとん がたん 

 少女は、網棚に目をやった。そこには、大きなスーツケース。どうやってのせたのか不思議で、落ちてこないかと不安になるところだが、少女は心底安堵した。
 よかった。あれまでなくしたら、もうどうしていいかわからないところだった。

「あなたも、探し物?」
「ええ。記憶を、なくしてしまって。名前しか、僕のものだと胸を張って言えるものはないんです」

 肩をすくめる仕草が、無理なく似合っている。
 二十二、三といったところだろうか。少女は、半ば無意識にその年齢を推測した。二十二、三くらいに見える、少年。本来そぐわない筈の表現だが、この空間ではあてはまる。

 ごととん ごとん がたん

「それは・・・大変ですね」
「まあ、なくてもそれなりにやってますけどね。あなたは? 何を探しているんですか?」
「まくらを」
「まくら?」

 少年は、興味を惹かれたように目を見開いた。そうすると、本当の少年のようにも見える。
 少女は、肯いて網棚のスーツケースに目をやった。

「生まれたときから毎年、父が買ってくれたんです。十二のときに亡くなるまで。零歳から始まって、誕生日には、歳よりひとつ多いまくらがありました」
「毎年買い換えていたというのではなくて、ずっととっておいたんですか?」
「はい。十三歳のときからは母が買ってくれて、大学を出たら自分で買おうと、思ってました」

 ごととん ごとん がたん

「買ってもらったんです、白いふわふわのまくら。でも、あの中には二十二個しかないんです」

 二十二歳の誕生日に、二十三個。確かにあるはずなのに、どこにもなくて。

 ごととん ごとん がたん

 電車の外を、だだっ広い草原が流れていく。消失点の在処(ありか)を求める術(すべ)もなく、ただただ地平線が広がる。
 花でも咲けばいいのに、と思った次の瞬間に、少女は草原がただの草ではなく秋桜(コスモス)で埋まっていることに気づいた。

 ごととん ごとん がたん

「枕消失事件、ですか。それとも、紛失事件?」
「消失、です。私がどこかにやってしまったはず、ないんです。確かに持ってたんだから」

 うーん、と、あごに手を当てて、少年は呟いた。そうすると、老齢の知恵深い人に見える。
 視線は、窓の外を消失点を探すかのように遠くをさまよっている。

 ごととん ごとん がたん

「なくなったのは、新しいまくらですか?」
「え?」

 ごととん ごとん がたん

 少女は、驚くほど動揺していた。
 どのまくらがなくなったかなどと、考えてもみなかった。二十三個あるはずが一つない、二十二個しかない。それしか認識していなかった。
 少女は、立ち上がって手を伸ばした。

 ごととん ごとん がたん

「手伝います」

 ごととん ごとん がたん

 少年に下ろしてもらったスーツケースを開き、座席にまくらを引っ張り出す。
 よだれで汚れて黄ばんだまくら――二歳のときのもの。
 マジックで太陽と車の落書きかあるまくら――五歳のときのもの。
 ほとんど汚れていないいくつかのまくら――高校生以降のもの。
 人が見たらごみ箱へ直行させられそうなものからまだきれいなものまで、全部で二十二個。やはり、ないのは新しい「今年の」まくらだった。

 ごととん ごとん がたん

 まくらを全部詰めなおして、少女は溜息をついた。

「やっぱり、今年のです」
「そう。・・・それは?」
「――!」

 真っ白い、新品のまくら。
 ふわふわの、買ってもらったばかりの。二十三個目のまくら。

 ごととん ごとん がたん

「ありがとう」

 ごととん ごとん がたん

「・・・どういたしまして」

 ごととん ごとん がたん

 四人がけの向かい合わせの席に、少年はたった一人で座っていた。窓の外は、相(あい)も変わらず緑の草原が流れている。
 窓枠に肘をついて掌(てのひら)に頬をのせ、少年は変わることのない景色を眺めていた。

「僕って、謎の人物だなあ」

 力なく、だがふざけるように呟く。

 ごととん ごとん がたん

 何人も、この電車に乗り込んでは去っていった。
 今のところ、探し物が見つからずに居残っている人物を、少年は自分自身しか知らない。少年には、他の人の探し物は見えるのに、自分の探し物は見えない。
 もっとも、記憶などもとから見えるようなものではないのだが。

 ごととん ごとん がたん

 少年は、軽く目をつぶった。まあ、なるようになるだろう。

 ごととん ごとん かたん  

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しんごう

 それは、明らかに奇妙だった。
「・・・ここ、だよね?」
 扉がある。
 それは別段おかしいことではないだろう。建物だから、入り口の一つや二つあっておかしくない。むしろ、ない方が問題になるはずだ。そのうちの一つがドアでも引き戸でもなく観音開きになる扉であっても、不思議なことはない。
 だがしかし。そこに信号がついているとなれば、話は別だ。
「えーと。・・・赤ってことは、今は入っちゃいけないのかな?」
 あか、き、あおと並んだ三色信号を前に、なゆなはいくらか困惑気味に首を傾げた。
 肩から、くたびれた生成りの布のかばんを斜めにかけている。こざっぱりとしたズボンとシャツに、適当に切っただけの短めの髪。年齢よりも幼く見られる外見をしている。小柄な方だ。
 そんななゆなは、唐突に開けられた扉に、額を打ち付けて、軽く後ろへ飛ばされた。
「あうう〜?」
「ああ、こりゃ悪いな、嬢ちゃん。大丈夫か?」
 顔を上げると、屋根の上から姿を見せた太陽に逆光になった状態で、片眼がつぶれ、頬に深い傷のあるいかつい男が覗き込んでいた。小さな子が見れば、泣き出しそうな顔。しかも逆光だ。
 しかしなゆなは、転んで座り込んだまま、心配そうに男を見上げた。
「あの、私よりその傷・・・」
 男は、呆気に取られた。こんな反応ははじめてだ。
「血は出てないみたいだけど、まだちゃんとふさがってないんじゃないですか? 中で治療、受けてたんじゃ・・・」
「ハンさん! 何考えてるんですか、いい大人が。ここでしっかり治しておかないとどうなっても知らないって何回言えばわかるんです。もう一つの目も潰したいんですか。ほらもう、外にまで出て。見つかったら厄介なことに・・・あれ、君は?」
 男をハンと呼び、筋肉のついた腕を掴んだ青年は、長々と喋ってからようやく、なゆなの存在に気付いたようだった。なゆなが、慌てて立ち上がる。
「私! ゆなさんから紹介受けて来ました、なゆなです。お手伝いに来ました!」

 建物の中に入ってみると、内部は比較的普通だった。
 飽くまで、「比較的」ではあるが。
「あーのー・・・」
「何? あ、そこの取って」
「はい」
「ついでに、この人の傷の消毒してやって。さすがに今度は逃げませんよね、ハンさん?」
 何をどう使うのかよく判らない器具の中から、見慣れて・・・はいないが、どうにかそれと判別できる消毒液と脱脂綿を取って、なゆなはハンに近づいた。反射的に身を引いたいかつい男に、少女は笑いかけた。
「我慢、できますよね?」
「・・・・腹ァ、括るよ」
「そうしてください」
 にこりと笑って、なゆなは消毒を始めた。
 それを見て、器具を揃えていた青年が意地悪く笑う。さっきは、消毒液を含ませた脱脂綿を近付けた途端に、怖い顔を引きつらせて逃げたというのに。
 これはいい切り札を得たとばかりに、青年はさくさくと手当を始めたのだった。 
 それが終わると、じゃあまた抜糸しますから、それまで安静にしててくださいね。消毒には毎日来てください。と、青年が至って平和的に男を送りだし、男は、嬢ちゃんの顔見に、来てやるよ、と出て行った。
 そうして、青年は隣で男を見送っていたなゆなに、にっこりと笑いかけた。
「いやあ、随分と素直な子を寄越してくれたもんだね、あの人も。今度お礼を言わなくちゃな。それで、えーっと・・・」
「なゆな、です」
「そう、なゆなちゃん。家はどこ?」
「いえ、あの・・・泊まり込み、なんですけど」
「え?」
 申し訳なさそうに言うと、青年は一瞬硬直して、溜息をついた。
「前言撤回だ。礼なんてしてやるか」
「あのっ」
 慌てて、青年を見る。ここを出されると、行くところがないのだ。そうすれば、また、ただの家無しに、生きるためなら何だってするような家無しに戻ってしまう。
 必死な様子を見て取ったのか、青年は、いくらか穏やかな顔を向けた。
「僕のことはどのくらい聞いてる?」
「非合法の医者で、いけすかないけどいい奴だって聞きました」
「君・・・馬鹿だねえ」
 え、と驚いて言葉のないなゆなをよそに、青年はついておいでと言って、家の中に引き返した。なゆなを椅子に座らせて、自分もその向かいに座る。
「いけ好かないっていうのは、あの人なら言いそうだ。でも、君がそれを本人の前で言う必要はないんだよ」 
「あ・・・」
「愚直というのはこういう人物を言うのかと思ったね」
 すっかり落ち込んでしまったなゆなを見て、青年は、不意に微笑した。
「それで、君は? ここで働きたい?」
「え・・・はい!」
「非合法だから、おかしな奴や暴力を振るう奴も多い。それでも?」
「はい!」
「別の仕事を紹介することも出来るんだよ? もっと、まともなやつを」
 思いがけない言葉に、なゆなはしばし呆然とした。ここが最後の砦ではないのだと、この青年は言ったのだ。
「案外、あの人もそういうつもりで君をここに来させたのかもしれないね。こんなことやってるから、顔だけは広いんだよ。希望はあるかい?」
 でも――と、なゆなは思った。ちらりと、散らかり放題の部屋を見る。そして、なゆなの言葉を待っている、若い非合法医師を。――この人は、それで良いんだろうか。
 喜んで、くれたような気がしたのに。
「あの」
「なんだい?」
「・・・ここがいい、って言ったら・・・迷惑ですか?」
 青年は、驚いた顔をして、今度は心底、笑ったようだった。手を伸ばして、なゆなの頭を軽く撫でる。
「本当に、馬鹿だね。君は」
 そう言って、ぽんぽんとなゆなの頭を叩く。
「上に二部屋空いてるから、どっちでも好きに使って良いよ。手伝いをしてくれるなら、薬品や器具の名前と使い方も覚えてもらう。いいね?」
「――はい!」
 にこりと、笑う青年が嬉しかった。
 そうして、勢いで立ち上がってから、ふと周囲を見渡す。
「あの・・・先生、」
「待った。名前の方が好きなんだ。ソウってよんでくれないか?」
「はい。ソウ・・・さん。部屋の掃除とかも、して良いですか?」
「大歓迎」
 良かったと胸を撫で下ろして、椅子に座り直す。そうして、もう一度顔を上げた。
「あの、もう一つ」
「何?」
「入り口の信号、何なんですか? 赤は入るなってこととか?」
 少し考えるような顔をしてから、青年は、ああ、と大きく肯いた。
「あれか。そうか、そういう使い方もあるな」
「え?」
「いや、ただの飾りだったんだけどね。それ、いいね」
 にっこりと。青年は微笑むのだった。

 ――こうして、なゆなの新しい生活は始まった。

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墨の人

「おーい、総持。傘たのむ」
 通りの良い声に、縁側で半ば舟を漕いでいた総持は、目を開けた。次いで、両腕を突き上げて伸びをする。
 立ち上がると、額に落ちる前髪を鬱陶しげに払いのけながら、大またで声のした方へ向かう。足が庭に下りていたため、着物の裾が少し汚れている。
「亮太、お前また乱暴に――」
 馴染みの学生の横に立つ美人に、総持の動きが止まる。亮太が紹介するよりも早く、女が口を開いた。
「絵を・・死んだ眼をした、生きているような絵を、描いて下さい」
「慎之介、客だ」
 家の奥に向かって言うと、総持は無造作に手を伸ばした。呆気にとられている亮太の手から、大きく破れて傘を取り上げた。
 その間に、奥から洋装の男が出てくる。こちらは、髷こそ結っていないものの、適当に短く切っている総持と違って、見事に長い髪をしている。男は、亮太には目もくれずに、唇を強く結んで立ち尽くす女性に向けて微笑した。
「こちらへ」
 それを見送って、亮太は、平然と傘の具合を見ている総持に目を移す。
「便利屋って、絵も描くのか。しかし相変わらずだな。あんたの同居人」
 総持は、心中同意した。

 総持には、れっきとした人間の両親がいた。ついでに言えば、二人づついた祖父母も人間だった。
 現在彼の人々は、老衰やら病気やら火事やらで他界してしまっている。一番の長生きは、江戸幕府の瓦解と新政権の樹立をしっかりと見て逝った。その年、総持は数えで十四だった。
 総持の人外のものとしか思えない能力が発見されたのが五歳、封印を行ったのがその翌年。
 封じきれなかった能力は、政治体勢の混乱期を経て、今では副業として活用されていた。
「慎之介、墨が足りない」
「そうか。トラ、それ取ってくれ」
 小さな虎猫が、角の取れた固形の墨を前足で投げて寄越す。
 汚れないように着物をたすきで上げた状態で、総持は柱にもたれかかった。服の袖をまくって墨を摺る慎之介の横を擦り抜けて、虎猫が総持の膝に飛び乗る。
「都合良く雨なんて降るのかい?」
 子猫が口を利く。総持は、猫を抱くようにして自分の膝に覆い被さると、つまらなさそうに言った。
「風呂に入れば消えるだろ。風呂からなかなか上がらない嫁を身に行ってみたら、着物も荷物も残して、姿を消していた――怪談の出来あがり。新聞に載るかな」
「着物は?」
「あ、そうか。うーん、後で俺が・・・」
「僕が行く。総持じゃ危なっかしいし、下手したら犯人にされるだろう」
「実際、犯人なんだよなあ」
 総持が、力なく笑う。
 虎猫を手に掴んだまま体をずらして仰向けに寝転ぶ。落ちてくる前髪が鬱陶しい。
「出来たぞ」
「ありがとう」
 観念したように起き上がると、移動して筆を持つ。
 各種揃えられている筆が並んでいるが、そこから太めの一本を取る。墨を含ませる間に、総持は心中ぼやいていた。
 ――駆け落ちの手伝いだって? なんだって、恋人もいなくて男二人、猫と暮らしてる俺がそんな事やらにゃならんのだ。
 貧乏なんて嫌いだ、と月並みな結論の出たところで、総持は硯から筆を引き上げた。
 いつも、絵を描いている最中の意識はない。筆を紙にのせるまでは色々考えているし、描き終えてすぐの事も覚えている。筆をはしらせる感触も、どうやって描いたかも判るのに、その時に何を考えているのかだけは、全く認識されていない。
 総持は、幾度か筆をかえて描いた絵を前にして、一番細い筆をとった。右下の余白に、名を書き入れる。

『 祐子   沈光 画 』

 筆を置くより早く、絵が揺らいだ。
 ゆっくりと、絵の中から女が立ち上がる。完全に姿を現すと、その女は、亮太に連れられてきた女とうりふたつだった。
「やあ」
 総持は、静かに佇む女に声をかけた。さっきまでこの女が描かれていた紙は、真っ白に戻っていた。
「君には、代わりに婚儀の式に出てもらう。もうすぐ、依頼人が来るから。詳しい事はその人に聞くといい」
 女が頷く。心なし、その顔が強張っていた。

 総持と慎之介は道具を片付けて部屋を出ると、茶の入った湯呑を持って縁側に移動した。
 茶を飲む慎之介を見て、あの女は三三九度の酒で溶けるかも知れないなと思う。墨で描いただけあって、水には弱い。
 封印を外せば、水が弱点になるものは生まれない。成長しない点を除けば、本物の生物と変わらない。
 初めて描いたのは、猫。
 封印のために描いたのは、青年。
「慎之介。あの人に手出すなよ」
「何故?」
「金もらえなくなりそうだからな。女なら誰でもいいなんて、ばあちゃん死んでから人格変わったな」
「静は別格だ」
 父方の祖母の名は静といった。
「・・・若く描けって言った時点で、こんな事目論んでたのか・・・?」
 総持は、溜息をつく代わりに茶をすすった。

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そうめん

 それは、夏の暑い日だった。
 暑いと言うより、蒸し暑い。蒸し暑いというのは性質が悪く、満月の夜ではないが、殺人者も増加してるのではないかと思う。
 ちなみに、その日、夜までに僕の食べたものはといえば、アイスが六本とかき氷が二杯、だったりする。阿呆だ。いくら暑いからといってそれはないだろうに。夏ばてする柄でもあるまいし。
 付け加えるならば、かき氷は本当は三杯作った。しかし、何を思ったかしょうゆと鰹節をかけて・・・とても食える代物ではなかった。それも当然で、しょうゆを氷水で薄めた程度でしかないのだ。
 本格的に、暑さにやられていたのだろう。

 夜は相変わらずの熱帯夜だったが、それでも幾分理性が戻ったのか、各テレビ局がこぞって二度目のニュースラッシュに入った頃に、大鍋に水を張って火にかけた。
「らっき、残り三束」
 母親がいつもそうめんを入れている箱をあけて、思わず言葉を出す。確か一人分は二束と言っていた気もするが、まあいい、一日分だ。
 見るでもなくついているテレビを聞き流しながら、そうめんを沸騰した鍋に放り込んで、適当にタイマーをセットする。その間に、つゆの器とそうめん用の器を出して、冷蔵庫からガラスのボトルに入っためんつゆを出す。
 容器には、出荷時のままに趣向を凝らした宣伝文句のついた紙が巻き付けられているが、その上から更に紙を張って赤で「めんつゆ」「飲むな危険」「麦茶にあらず」「待て!」といった言葉が大きく書き連ねてある。
 これは、何を思ったか父親が、飲んで噴き出したことがあるためだった。少し酔っていたらしく、翌朝、「誰が片付けるのよ!?」と母に雷を落とされていた。
「あー・・・」
 めんは明らかに茹ですぎだった。
 しかし仕方がない。めんをざるにあげると、水にさらしてから器に入れ、氷を散らす。母親はいつも一掴みずつ一口ほどの塊にしているが、それは面倒だった。
 めんつゆを入れようとしたときに、電話が鳴った。どうせ母親からだろうなと思いながら、僕は立ち上がった。
「はい、もしもし?」
『あ。あたしだけど、そっち大丈夫?』
「大丈夫だいじょうぶ。何にもないってば」
『そう?』
「それより、えーっと・・・そっちこそ、どうなってんの? 大丈夫そう?」
『うーん、それがねえ。本人は元気だし、病院が介護もばっちりだから、やることないのよね。来て良かったと言えば、顔見て喜んでくれたくらいかしら。明日の昼には帰るわ』
「うん、わかった」
『ちゃんとご飯食べてる?』
「食べてるよ。あ、そうめんもうないからね。食べちゃった」
『あら、じゃあ買って帰ろうかしら。まあとにかく、じゃあね』
「うん。ばいばい」
 仲のいい従姉妹の祖父(母とは血はつながらない)が足を滑らせ、入院。手を離せない従姉妹に代わって僕の母親が駆けつけたのだが、父親の出張と重なって、僕は急遽束の間の一人暮し気分を楽しむことになった。
 もっとも、その結果がこれだから、到底一人暮しはできないだろうと思う。僕が一人暮しを始めたら、外食生活は確定だろう。
「あっ、のびちゃう」 
 氷を散らしたそうめんのことを思い出して、僕は急いだ。そう広くはない家なのだから、その必要はなかったのだが。
 僕が見たのは、ちょっと考えられない光景だった。
 白いそうめんが、氷を上に乗せて水をしたたらせながら、動いているのだ。どれが足でどれが胴体なのか知らないけど、一塊に、アメーバのように。
 僕に見られたと気付いたそうめん(のはず)は、意を決したように机を蹴り、呆然と見る僕の目の前で跳躍して、戸棚の隙間に素早く消えていった。水の跡と飛ばされた氷を残して。

 結局この日は、得体の知れない疲労感を抱えたまま、寝ることにした。
 翌朝になっても水の跡と溶けた氷の小規模な水溜りは残っていて、僕は力なくつゆのビンを冷蔵庫に戻して、食器は流しに運んだ。
 あまりにばかばかしい上に、熱帯夜の見せた夢とも限らないから、両親に言うことはなかった。寝ぼけるかなにかして、水を零しただけかもしれない。そう思いたがっているだけだろうとは、思ったが。
 今、僕は一人暮しをしている。
 無理だろうと思っていたのだけど、やってみると意外に、掃除や洗濯、料理も、やれないことはなかった。もっとも、夜はバイトのまかないを食べることの方が多いのだけど。
 そんな僕が、絶対に作らないメニューがある。言うまでもなくそうめんだ。
 実はあの後、視界の端を白い物体が何度か横切ったことがある。そしてそれは、どうにもここまでついてきてしまったようなのだ。今では、もう白いとは言えず、薄汚れて茶色っぽいし、すっかり干乾びている。
 まあ、色んな意味でそうめんが食べられない以外に害もないし、そのおかげかこの部屋だけゴキブリも出ないので、よしとしよう。

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