
「北の方と御子が――亡くなられました」
そう聞いた瞬間、確かに、尚良は思考を停止させた。思考どころか、呼気も、鼓動さえも。
気付けば尚良は、打ち据えて気を失った知己の貴族の胸ぐらを掴み、周りを検非違使や小者に取り囲まれていた。牢からどうやって抜け出したのかさえ、覚えていなかった。
「ああ――莫迦なことをした」
呟きをどう勘違いしたのか、耳に届いたらしい中には、訝しげに眉根を寄せる者や、冷笑めいたものを浮かべる者もいた。
駆けつけるべきは、あれの――常磐の元や、太郎丸の元であって、腐れ切った男の元ではない。
一息ついて、尚良は、短く呪を唱えた。それを恐れていたらしい包囲者たちは、びくりと身をすくませ、思い切って飛びかかろうとした。遅い。呼び寄せられた烏がそれらを襲い、その間に、囚人は姿を消した。
右京の端にある尚良の屋敷は、大いに荒れていた。
元々、湿気の多い土地で荒れやすくはあるが、それにしても早い。そして、人の手が加わっているのは明らかだった。そもそも少なかった使用人も、全て去ったようだ。
「短い――夢だったな」
「寝てらしたの? 呑気な方ね」
「と――きわ・・・?」
「何です、物の怪にでも会ったようなかおをして。珍しくもないでしょうに」
おっとりとした風情できっぱりと言ってのける様子は、間違いなく、十六の時以来十年以上も連れ添った妻だ。
子供を産んでさえ幼い女は、しかしそこで、困ったように笑った。
「そうは言っても、私もそのようなものだけれどね」
「――やはり、そう、なのか・・・?」
「ええ。ごめんなさい、あなたと最後まで一緒にいられなくて」
「ちがう。俺が――呪術なんて、学ばなければ良かったんだ」
何気ないものから変化を読み取り、変える法を学ぶのは、楽しかった。陰陽寮に入ってからは、生活を支えるためにも、はりきっていた。何を囁かれようと、蔑まれようと、関係がないと思っていた。
巫蠱の咎で、有力貴族を呪ったとされて牢に囚われても、ここで終わりかと、悔やむだけだった。
常磐や太郎丸が、先に死ぬなどと考えていなかった。それも、己の行ないによって。
「あなたは、呪ったの?」
「いいや」
「それならいいのよ。悔やまないで。あなたは、悪いことなんてしていない。どうか、生きることだけを考えて」
「俺に――お前たちがいなくなった後を、生きろと言うのか。できるはずがないだろう」
せめて二人の側で、死のうと思った。
反魂の術を使えるほどではないから、一緒に逝くことしかできない。だから、来たのに。死者は、怒ってまなじりを上げた。
「あなただって、同じことをしたでしょう。何、あの手紙。美濃へ帰れですって? そこで二人で生きていけなんて、よくも言えたものね? 処刑は逃れられないから、そうなっていよいよ風当たりが強くなる前に出立城ですって?」
「・・・お前たちが生き延びてくれるなら、こわいものなんてなかったんだ・・・」
思わず伸びた手は、常磐の温かな身体を掴めた。そっと、手が重ねられる。
「知ってる」
言って、笑うように唇を上げる。しかし、目の奥が泣き出しそうで、ちっとも成功していなかった。
「単純莫迦なのに、色々と勘違いされてることも、全部。あなた、何か企んでそうな顔をしてるのよ。裏で陰謀を企ててそうに。本当は、そんなこと何一つ考えてないのにね」
抱きしめると、あやすように背を叩く。仕方のない子ねと、太郎丸に言っていた声を思い出して、涙がこぼれそうになる。
ここにいるのに、もう、いない。
屋敷に火を放ち、背を向けた。本当なら完全に焼き落ちるまで見届けたいところだが、そんなことをすれば人が来てしまうだろう。
「さて、どうしたものか」
とりあえず、めぼしい金品は持ち出しているから、路銀に困ることはない。田舎へ帰れば知己もおり、住む家くらいは世話してくれるだろう。
しかしそれも、何か違う気がしてならない。
仏門も、違う。
「やはりここは、世捨て人か」
ぽかりとあいてしまった空洞が、埋まることはないのだろう。いくら他のものを詰め込んでも、穴は穴として、そこにあるような気がする。
それでも。尚良は、生きていく。そう、約束したのだから。
「死なせてくれないなんて、酷い女だ。普通、喜ぶものじゃないのか」
うそぶく声は、的の手前で落ちてしまう矢のように、とろりと重かった。