花々の調べ / 仮面の調べ / 時間の調べ

花々の調べ

「ねえ。僕は何をすればいいの?」
 少年は、無邪気にそこにいる女たちを見遣った。
 女たちは、若い者もいればしわだらけの老婆、顔一面に醜い火傷の引きつれのある者、まだ幼い少女などがいたが、どれも、うっそりとした空気を持っていた。
「何をするのか、はっきり言ってくれなければわからないよ。ねえ、何をするの?」
 今年で六つになる少年、アーロンは、その空気に気付いていないはずもないのに、にこにこと笑顔で女たちに話しかける。
 アーロンにとって、重苦しい空気も不穏な空気も失望も、身近なものだった。
 だから今更、怯むものでもない。
「お前は」
 近くにいた少女が口を開き、自分が声を出したことにはっとしたかのように閉ざしてしまった少女に、アーロンは微笑み掛けた。急かすのではなく、先を促す。
 まだ、自身も幼いと言える年齢でここまでの対応ができるのは、育った環境による。
 周りにいるのはほとんどが大人で、そのうちのほとんどから疎まれ、あるいは利用物と見なされていれば、人の感情にも機敏になろうというものだ。相手が自分に害のある者かどうか、そこを見定めなければ、生きてはいけない。
 今のところ、アーロンが素直に感情を表わせるのは、兄と姉だけだ。その他には、とりあえず無邪気な笑顔を向けて、相手の出方を窺う。
 それが、身に付いた行ないだった。
「・・・お前は、我らを忌まぬのか」
「忌む? 何故?」
「・・・それなら、それでいい」
 そういったきり、口をつぐむ少女に首を傾げる。
「あなた達が、僕を呼んだのではなかったの? てっきりそうだと思ったのだけど。何か、して欲しいことがあるんでしょう? 違うの?」
「聞こえたのかい。声が」
 思っていたよりも近くで聞こえた老婆の声に驚きながら、うん、と、アーロンは頷いた。
 ――おね・・い・・・・ショ・・・・・・ワーを・・・パッショ・・・・・・・・・・を・・・・して・・・・・・
 途切れて聞こえる声に呼ばれて、アーロンはここにやってきた。庭内の一角の建物は、ひっそりとあり、多くの女たちがいた。
 人にはなるべく親切にしたい、というと、兄や姉に苦笑されるが、危害を加えるのでない人には、親切にしたい。――そうしていれば、自分はいい人だと思えるから。
「それなら、きっとあんたが助けてくれるのだろうねえ。頼むよ」
「頼むよって・・・だから、どうすればいいの?」
「あたしたちには、それは言えないのさ。あんたが自分で見つけるしかない」
「ええっ?」
 意地悪をしている、というのではないとは、女たちの顔を見ればわかる。
 女たちは、誰もが期待を込めて、その上できっと期待は裏切られるに違いないと思い込むような眼をしている。
 失望に慣れた眼だと、アーロンは思った。アーロンは、その眼を――よく知っている。 
「みつけられる、ものなんだよね?」
 そう訊くと、老婆は、哀れむように淡く笑った。
「ああ、そうさ。外の――。駄目だね、これ以上は言えやしない。とにかく、外だ。ここの中じゃなくて、外を探しておくれ」
「わかった!」
 頷いて、外に出る。
 外から建物を見上げると、陽光を入れる場所のない、やたらにしっかりとした造りだと気付く。そのくせ、外観は美しく、一体誰がこんなものを造らせたのだろうと、首を傾げる。
 探す外というのは、どこまでを示すのだろう。この建物の外装も、ひょっとしたら含まれるのだろうか。
「もうちょっとはなれ・・・うわあっ」
 もっとしっかりと全体が見えるようにと、後ずさっていたアーロンは、何かに足を取られて、後ろ向きに転んだ。
 咄嗟に頭を抱えて背を丸めたが、強く打ってしまった背が痛い。
「・・・・・・っぅ」
 痛さに、身動きすらできないアーロンは、それでも、少しすると回復した。
 まだじんじんとするものの、どうにか体を起こして、自分がつまずいたものを見回す。
 建物をぐるりと囲む花々は、来たときには気付かなかったものだった。色とりどりに咲き乱れ、綺麗だ。
「あっ」
 自分が、その上に思い切り座り込んでしまっていることに気付いて、子春は慌てて立ち上がった。
 服に花や葉の汁が滲んでしまったのも厄介だが、それよりも、無惨に潰れてしまった花が痛々しい。
「・・・ごめん・・・」
 そっと花に触れて、ふと気付く。
 赤や黄色、紫に白、青に黒。色は豊富だけれど、どれも同じ花だ。広がった大きな花弁を土台のようにして、細かい花弁。その中央から突き出るようにして、円を三分する区切りのようなものが出ている。
 綺麗なのだけど、何か、不気味にも見える。その花は、何かを思わせた。
 思いついて、アーロンは、ぐるりと建物の周りを回った。思った通りに、花は、建物を囲むようにして咲いていた。
「あ」
 そういえば、何から助けるのかも聞いていない。それが、何かの手助けになるかも知れない。
 訊くために一旦建物に戻ろうとして、アーロンは、思いついて花を振り返った。
 何の収穫もなく戻るのだから、このくらいの土産は持っていこうか。こんなに近くに咲いているのだから見慣れているかも知れないが、建物を出入りした子春は気付かなかったから、そうでもないかも知れない。
 花を手折ろうとして、自分が潰してしまった花を見て、掘る方に変える。
 何か道具はないかを見回すが見つからず、アーロンは、靴を片方脱いで、それで掘りはじめた。

「アーロン、入るわよ」
「ああ、姉上。わざわざ来て下さって、ありがとうございます」
「起きなくていいわ」
 姉のフェリシアは、部屋に入ると、寝台で横になるアーロンに近付いて、額にそっと手を置いた。
「熱は下がったのね。今、兄様がメロンを持ってきてくれるわ。元気があるようなら、少し食べなさい。あなた、食事を摂っていないのでしょう?」
「はい・・・ありがとうございます」
「まったく、崩れかけの建物で二日も寝てるなんて、何やってるのよ。心配したんだから」   
「・・・はい」
 ついでのように、さらりと言われた言葉に胸が熱くなる。
 アーロンには兄がおり、跡を継ぐのは兄とされている。だから、アーロンのことを心底心配してくれる者は、少ない。だからこそ、姉の言葉が心に沁みた。
 この人がいい加減なことを言わないのは、知っている。
「おおい、開けてくれ」
「やっと来たわね」
 アーロンにくすりと笑いかけて、フェリシアは声の主、兄のレナードのために扉を開けた。
 健康的に陽に灼けた兄は、左肩と左手で大きなメロンを抱え、右手には花の鉢を持っていた。
「ありがと、両手塞がってたんだ。アーロン、土産持ってきたぞ」
 礼も言えずに、アーロンは、兄の右手の青い花に視線を奪われていた。
 それは、あの、建物の回りにぐるりと咲いていた花。そんなものは咲いていないと、言われた、花。 
 二人の兄妹は、食い入るように花を見るアーロンに、訝しげな視線を向けた。
「この花が、どうかしたか?」
 とりあえずメロンと鉢を床に下ろし、鉢だけを、改めてアーロンの前に持ち上げて見せる。
 どうって――と、アーロンは自分が見聞きしたことを語った。
 それまでは、夢を見ていたのだと言われるのが厭で、誰にも話さずにいたものだ。
「そう言えばあそこは、代々、マジョの疑いを持たれた人たちが閉じ込められていたのではなかったかしら? よそに知られるとキケンだからと、身内でショリするために。だけど、どうしてブルークラウン?」
 ブルークラウン。それが花の名だと知って、アーロンはまばたきをした。そんな名をしているのかと、何故か意外に思った。
 するとレナードは、ふうん、成る程ねえと、呟いて鉢を下ろした。邪魔にならないように、部屋の隅に置く。
「なる程って?」
「古い呼び方をするからわかりにくいんだろう。最近じゃあ、もっぱらパッションフラワーって呼んでるんだぞ。ブルークラウンなんて、随分と昔の呼び名だ」
「・・・だから?」
 ほぼ同時に、アーロンとフェリシアが訊くと、わからないか、と、レナードは呟いた。
「建物を、ぐるりと取り囲んでいたんだろう? この花は、黒魔術になんて手を染めていない、女たちを閉じ込めていたんだろう。見当はずれの信仰心でな。それを、アーロンが掘り出して断ち切ったと、まあ、そういうことになるんじゃないかなあ」
「僕が・・・?」
「何よ、それ?」
「誰かがわざと、嫌みったらしく神を称えるこの花を植えたのか、弔いのつもりだったのかは知らないけど、そうなったんだろう。とりあえず、お前が掴んでたっていうから気になるかと持ってきたんだが・・・厭なら、持っていこうか?」
 明るいに、気遣うような調子の兄の声に、アーロンは慌てて首を振った。
 魔女と決めつけられて死んだ女たちと、裁く側に立った神を示す花と、それに心はざわめくけれど、見ていたかった。
「何にせよ、いいことをしたな」
 アーロンをどう思ったのかは判らないが、そう言って、レナードが笑いかけてくれたことが嬉しくて、あの女の人たちはもう暗い顔をしていないだろうかと思って、アーロンは、泣きそうになってしまった。
 ここにいてもいいのだと、そう言ってもらえるようで嬉しかった。
「・・・ねえ。ところでそのメロン、丸ごとだけどどうやって食べるの?」
「あ」
「もう。いいわ、切らせてくる」
「うん。ありがと」
「いいわよ。アーロン、少し待っててね」
「あ。はい」
 そうして、二人はフェリシアの背中を見送った。レナードが、失敗したなあと、照れ臭そうに苦笑いしている。
 少しして、レナードは、アーロンの頭を軽く撫でた。
「なあ、アーロン。公爵なんて奴の息子でいたら、いろんな醜いところを見て辛くて、それで怖がるのかも知れないけどな。自分のために動いてもいいんだぞ?」
 知られているのだと、そう思って、アーロンは先程とは違った感情で、また泣きそうになった。しかし、兄はやはり優しくて。
 悩み戸惑うアーロンの視線の先には、青く花を咲かせる、ブルークラウン――パッションフラワーがあった。  

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仮面の調べ

「あら、珍しい。来てくれたのね?」
 そう言って、一応の宴の主役であるはずの少女は微笑んだ。応えて、青年は苦笑した。
 もっとも、二人とも、顔を半分近く仮面で隠されているため、口元でそれと判る程度だが。
「だってお前、来なかったら怒るだろう? それに俺だって、妹の晴れの舞台くらい見守りたいさ」
「そんなこと言って、どうせ、仮面舞踏会でなければ来なかったのでしょう」
「厭に突っかかるなあ」
「私たちを置いて、勝手に出ていったのだもの。この程度のあしらいで済んだことに、感謝してほしいくらいだわ」
 青年、レナードは苦笑して、わかりやすく肩をすくめた。
 実際、どれだけ文句を言われても、どれだけの仕打ちを受けても、仕方がないかも知れないと思う。傍から見ればそれは逆で、感謝はされても怒られはしないだろうと思うのだろうが、レナードたちの間では、違う。
 レナードは、多くを保証されていた未来を投げ捨てて、町娘の元へと走った。
「感謝はしているよ。アーロンは跡を継いでくれたし、フェリシア、お前も婚約披露のパーティーに招待してくれた。わざわざ、仮面舞踏会にまでして」
「お礼ならアーロンに言って頂戴。あの子なのよ、お兄様を招待しようと言ったのは」
「・・・そうか」
 優しくて、臆病だった弟を思い出す。
 レナードが思っていたよりも早くに父は倒れ、家督は、出奔してしまったレナードのせいで唯一の跡継ぎとなったアーロンに譲られた。
 何の後ろ盾もない町娘と暮らし、商売をするレナードには途切れ途切れにしか届かない噂は、弟の無能ぶりを、愚者ぶりを伝えていた。正直、あの弟は耐えきれなかったのだろうかと、疑いもした。
 しかし、レナードをこのパーティーに招待したのがアーロンなら、そんなはずもない。
 ただ招くだけならともかく、わざわざ、レナードの正体が露見しないように、仮面舞踏会を用意したところも含め、あの弟は、強かになったのだと判る。
「・・・なあ。怒ったか、アーロンは」
 恨んでいるか、と言いかけて、まだしも表現のやわらかい方を選ぶ。
 今度は、フェリシアの方が肩をすくめた。
「大切な大切な姉の婚約発表の場を、わざわざこんなものにしたのよ。お兄様の衣装の手配も全部して。それでも、文句があるというの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな」
「それなら、ごちゃごちゃ言わないで直接言ってくれないかしら? どうせ、そのあたりで女の子相手に遊んでるわよ」
 そう言って、すっと、フェリシアは細い手を差し出した。
「だけどその前に、一曲くらい踊ってくれるわね?」
 そっと、レナードは手を受けた。アーロンが、衣装に手袋も用意してくれたことに感謝する。水を扱う仕事をこなすレナードの手は、昔の、剣の手習いでとは違った風に荒れている。
 恥ずかしくはないが、もしも、ひび割れがフェリシアの手を少しでも傷つけたらと思うと、厭になる。
 このパーティーは、おそらくはレナードのためのものだ。貴族と庶民では、滅多に出会うことがない。だからこそ、妹の祝い事に呼んでくれたのだろう。
 だが同時に、過去の栄光を思い出させようとしているなら、それはそれで成功だろうと、穿った考えに軽く自己嫌悪する。
 しかし、あんなにも信頼してくれた弟と妹を、何も告げずに放り出したのは自分なのだ。
「喜んで。――でも、婚約者は妬かないのか?」
「だって、あの人は知っているもの」
 そこで、二人は踊る仮面の群の中に混ざっていった。

「お久しぶりです、兄上」
 そう言って、宴の主催者は軽く一礼した。レナードは、ぎこちなく身じろぎした。
「・・・兄上なんて、呼ばれる資格は、俺にはない」
 壁際に寄りかかるように立っていたレナードに倣って、ピエロのような仮面を付けた青年は、壁に背を預けた。
「僕だって、公爵家を継ぐ資格はないはずでしたよ」
「・・・お前のそれは、正式なものだ」
「どんなに邪魔でも、必要としていなくても、ね。それなら、兄上が僕の兄上だということだってそうでしょう?」
 口調は飽くまで淡々としていて、むしろ、楽しそうな響きさえ感じられる。しかしそれでもレナードは警戒してしまい、そんな自分に嫌悪する。
 裏切ったのは自分で、弟ではない。
「兄上は、きっと警戒なさっているのでしょうね。恨まれているはずの相手から施しじみた扱いを受ければ、そうも思うでしょう」
 仮面の下の顔は、どんな表情だろうか。
「けれど、考えてもみてください。兄上が上等の道を逸脱したおかげで、本来ならうち捨てられるも同然の扱いのはずだった僕に、こんなにきらびやかな生活が回ってきたのですよ。王に近しい血筋。何かあれば、王位にさえ就けるかも知れない位置に、僕はいる。辛い労働もせずに、人に指示を出す立場で。素晴らしい生活ではありませんか?」
「――本当に、そう思うか」
「ええ」
 仮面の下で、今自分は、どんな表情をしているのだろう。
「やだなあ、眉間にしわ寄せて。その癖、まだなおってないんですね」
「え?」
 わずかに変化した調子に、レナードは、思わずまじまじとアーロンの顔を見てしまう。むろん、仮面で、何が判るはずもない。
 そんなレナードの反応に、くすくすと、ピエロの仮面を付けた青年は笑った。
「こう言えば、複雑ながらも兄上は安心するかも知れないけれど、残念ながら違いますよ。僕は、それはそれは悲しんだんです。そのことは、きっちり知って置いてもらわないと厭ですよ」 
「え。な。な――あ? だ、騙したのか、お前?!」
 叫びかけた声を慌てて押し殺して、レナードは目を剥いて弟を見つめた。ピエロ面の青年は、くすくすと、楽しそうに笑う。
「騙しただなんて人聞きの悪い」
「――忘れてた。お前は、仮病を使うのが、それはもう上手だったな」
「あはは、懐かしいなあ。だけど、いつも兄上には見破られてましたよ。鈍りましたね、兄上」
「・・・久しぶりだな、アーロン」
「本当に」
 にこりと、笑った気配がした。笑みで両端の上がった口は、ピエロの仮面に、実に良く合っていた。
「まさか、会った途端にペテンにかけられるとは思わなかった。お前、俺よりもずっといい性格になったな」
「誉め言葉と取っておきますよ。ありがとうございます」
 言って、アーロンは軽やかに一礼して見せた。
 そうして、ピエロは微笑む。
「兄上。兄上は昔、僕に、自分のために動いていいと言ってくれました。だから僕は、好きにやるつもりです。どうぞ、遠くで結果を見てください。その結果がどんなものであれ、できるなら、よくやったと誉めてください」
「何を――」
「兄上。もう、会えるのはこれが最後でしょう。僕たちを置いていったことを少しでも気に病むなら、どうか、この地を離れてください」
「お前は、何を――」
「お願いします」
 笑みを消したピエロは、夜中の置物のようだった。
 そのまま立ち去ろうとする弟に、最後の声をかける。
「なあ。俺を――恨んだか?」
「兄上。昔も今も、僕はあなたを兄上と呼べることが嬉しい。僕の家族は、兄上と姉上だけです。だから――とても悲しかったんですよ」
 背を向けた青年は、するりと踊る人々に紛れ、判らなくなってしまった。
 レナードは、しばらくの間だ呆然と立ち尽くしていたが、近くの扉から、外に出た。夜気に触れるのとほぼ同じくして、仮面を外す。
 吐息は、かすかに白かった。
「あれのどこが、愚かな若造だ。まったくあいつは、仮病が上手い」
 呟く声に、力はない。
 ただの、独り言だ。
 夜空に凍る月を見上げて、真実のピエロは――道化は、愚者は誰だったのかと、埒もない思いを馳せた。

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時間の調べ

「ただいまっ!」
「あら。お帰りなさい、今回はとりわけ短かったわね?」
 いつまでも、婚家から気軽に帰ってくる娘に、フェリシアは笑いを含んだ声を向けた。
 本当に、稚気ゆえのこの「帰宅」は、微笑ましい。
 そういったものを、多少はおおらかに見るこの地方の、国の空気も、フェリシアは好きだった。
「聴いてよ、お母様! あの人ったらひどいのよ」
 聞き慣れた言葉だ。
 微笑みながら、フェリシアは小さな編み棒を置いた。暇つぶしにと始めた編み物は、今ではすっかり癖のようになってしまった。冬なら毛糸で、夏の今は細かなレースを。
 今では、大作だ、と冗談半分に笑ってくれるあの人もいないのだけれど。
「今度は何があったの?」
「私の誕生日に、贈り物をくれると言ってくれたの」
「まあ」
「ね? 珍しいでしょう? まず覚えていてくれたという時点で驚くし、その上、贈り物だなんて気を回すところまでくると、もう、何があったの?!って訊きたくもなるってものだわ。それなのに、帰ってきたら、手に持ってたのは例によって、ネジだのモーターだのの部品ばっかり! その上、唖然としてる私を見てなんて言ったと思う? 『あ。ごめん。だけど、これは安売りだったんだし、君への贈り物はまた買えるから、良いよね?』ですって!」
 それに始まって、いつものように、夫を機械狂いだの変人だのとこき下ろす娘の言葉を笑って聞きながら、フェリシアは適当に相槌を打った。
 その間に、慣れた手つきでお茶も淹れる。
 既に、全てが慣れた手続きだった。勿論、だからと言って、ないがしろにしているわけではない。ただ、決まったように流れていくというだけのことだ。
「もう、やっぱり別の人にしておけば良かったわ」
 婚約前、そして婚約中でさえも、いや、言うなら今も、娘は男連中から憧れを持って見られていた。是非とも妻にと、望む相手は多かった。
 その中から選んだ相手を、相応しくないと糾弾する者も多い。
 いつもであれば、フェリシアは、ただ黙って、微笑を浮かべるだけだった。それが、いつもの「決まり事」だった。
 けれど。
「本当にそう思うのなら、離婚しても良いのよ?」
 絶句する娘に、にこりと微笑み掛ける。
「改宗するのが少しだけ手間だけれど、そうしたいのなら、手伝うわよ」
 この時代、国の根幹にも近い宗教は、大きな変化を見せていた。新しい風を求めた一派が、多少の変革を加え、少し違った教義で教えを広めているのだ。
 そのうちの一つに、離婚がある。
 生まれたときの洗礼や婚儀、葬儀など人生に関わる多くの儀式を取り仕切る彼の宗教は、一度結婚すると、死別する以外の離縁を認めずにいた。しかし、新しくできた一派は違い、認めているのだった。
「間違った人と一緒にいるのは、得策ではない、と思うのよ」
「や、やだ、お母様! 真剣にとらないでよ、違うの、私はただ」
「少し、愚痴を言いたかっただけでしょう? わかっているわよ」
「・・・もう、びっくりした」
 目に見えて安堵した娘に笑いかけて、しかし、真面目な目を向けた。
「あのね。あなたが何気なく口にする言葉も、人を経て伝われば、どこかで歪んでしまうかも知れないの。だから、口をつぐめとは言わないけれど、少しは気をつけた方がいいわよ。いつか、取り返しのつかないことが起きるかも知れない」
「お母様。・・・あの。訊いても、良いかしら・・・?」
「何かしら?」
 既に次の言葉を知っていながら、フェリシアは訊いた。
 語れるほどに時間が経ったのだと、そう、思わずにはいられなかった。
「それは、お父様とのことなの? ――お父様と結婚したことを、お母様は悔やんでいるの?」
 フェリシアは、微笑みを返した。

 フェリシアが祖国を出て、この国のこの地にやってきたのは、そろそろ二十歳にも手が届こうかという、今から二十年ほども前のことになる。丁度、今の娘と同じくらいの年頃だった。
「綺麗なところね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ここの取り柄は、景色と人柄くらいのものだからね」
 そう言ってやわらかく微笑むのは、フェリシアの夫。この小さな国の、田舎貴族だった。
 実のところ、当時のフェリシアは、夫を優しいだけが長所の、面白味のない人物だと見取っていた。弟が決めた相手でなければ、正直、伴侶に選んだかわからない。フェリシアも、若い頃は引く手数多だったのだ。
 フェリシアには、母の異なる兄と弟がいた。三度の結婚をして、三人の子どもを得た代わりに三人の妻を失った父は、冷たく、遠い印象しかなく、フェリシアにとっての家族は、兄と弟だけだった。
 その兄は、爵位を捨てて去り、フェリシアの婚約披露の時に会ったのが最後となった。
 そして、弟が王位転覆を企てて失敗し、追われる身となったのを知ったのは、娘を身ごもった後のことだった。
「つまり、あの子が彼を選んだのは、私を国から出すためだったというわけなのね。それなら、誰でも良かったのかしら。――でも、それは私も同じだものね。文句なんて、言えないわ」
 そう漏らしたのは、気心の知れた下女にだけだったはずだ。
 しかしそれは、気付くと尾鰭を伴って人々の間を泳ぎ回り、夫の耳にまで届いていた。そのくらいで態度を変える人ではなかったのだが、そうと信じ切れず、破綻をもたらしたのはフェリシアの方だった。
 気遣いを見せる夫を、何故自分を非難しないのかとなじり、酷い言葉をいくらでも投げかけた。
 はじめての妊娠と、国を出た不安、不確かな弟の安否。全てが重なり、不安定だったこともあったのだろう。
 けれどそれは、娘の誕生によって、全てとは言わないまでも収まり、平穏を得た。一時の、ではあるのだけれど。
「・・・ねえ。私は随分な荷物だったでしょうね。押しつけられて、邪魔よね!」
「フェリシア」
 哀しそうに呼ぶだけの声に、余計に怒りを煽られた。今にして思えば、反論せずに理解を待つ夫は、呆れるほどに辛抱強く、そして、本当に自分を愛してくれていたのだろう。
 当時のフェリシアは、簡単に他人の声に耳を貸し、疑ってはいけないものを疑っていた。言葉が変貌していく様は、既に知っていたはずだというのに。
 その愚かさに気付く前に、夫は逝ってしまった。
 寝不足で、階段から足を滑らせて、そのまま。
 あまりに呆気ない、容易い最期。フェリシアが呆然としている間に、葬儀や跡継ぎに分家から養子をもらって継がせることなど、様々なことが終わって、気付けば、フェリシアは家を移るために荷物をまとめているところだった。
 その荷物の中に、几帳面な夫のつけた日記が紛れ込んでいた。
『今日、美しい人を見かけた。僕よりは幾つか年下だろうか。花が咲くように、笑っていた』
『あの人に会った。フェリシア、幸福という名。緊張してしまっていて、無愛想ではなかったかと思う。後で、アーロンに笑われた』
 綴られた言葉の、合間合間に見られる自分への記述。他が、その日にこなした物事の覚え書きのようなものだけに、目をひいた。
『彼女との婚約が決まった。僕を好きだからではなく、アーロンが奨めたからだとは思うけれど、それでも嬉しいと思うのは、あまりに馬鹿げているだろうか』
『出奔したという兄君に会った後の彼女は、本当に嬉しそうだった。嬉しそうに、兄君のことを話してくれる。いつかは、僕もこんなように想われたら、嬉しい』
『この国に来てから、彼女は神経が過敏になっているようだ。やはり、家族と離れるのは寂しくて、僕ではその代わりにならないからだろうか』
『娘が生まれた。フェリシアに似て、とても美人だ。嫁にいくときは淋しいだろうと言うと、まだ先だと笑われた』
『厭な噂が、フェリシアの耳に入ったらしい。それは嘘だと、どう伝えればいいのだろう。愛していると言っても、彼女は僕を見てはくれない』
「・・・馬鹿だわ・・・」
 呟きと共に流れた涙は、考えてみれば、夫が死んで以来、はじめて流した涙だった。失ってから気付く、その愚かさに、フェリシアは心底嫌気がさしていた。絶望と、言い換えられたかも知れない。

「正直なところ、あなたがいなければ、立ち直れなかったかも知れないと思うわ。だから、あなたには幸せになってほしいのよ」
「・・・はい」
 かすかに肯く娘の肩を、フェリシアはそっと抱いた。
 昔は、二人きりだった大切な人。年を経て、その数は増えた。兄や弟には、おそらく、もう二度と会えないだろうと思う。そして、夫には、気付いた胸の内を告げることもできない。
 けれど、娘には。こうやって会える。手を伸ばせば、触れられる。
 だからこの手を、話すことは二度とないようにと、そう願う。  
「ねえ。私は確かに、悔やんでいるわ。あの人に、歪んだ言葉を届かせるきっかけを作って、そんな言葉を鵜呑みして。そうして、伝えられなくなってから気付いたの。私も、あの人がとても好きだったのだと――とても、愛していたのだと。私は、知らずにあの人に甘えていたのね」
「私・・・お母様。また明日、今度はあの人も連れて遊びに来てもいいかしら」
「ええ。このクッキーは、会心の出来なの。是非、持って帰って一緒に食べてね」
「ありがとう、お母様」
 抱擁を交わして、娘は去っていった。
 フェリシアは、それを見送ると、そっと窓を開けて、夏の柔らかい日差しを浴びる花々を見遣った。
「ねえ。もしもそっちで会えたら、おばあちゃんになったって笑って、それでも好きでいてくれるかしら」
 ふわりと、風が吹いた。 

    
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